忘己利他(もうこりた) 忘己利他は、自分を捨てて、他に報いること です。これは天台宗宗祖伝教大師最澄 おのれ わす た り じ ひ きわ の 山 家 学 生 式 に「 己 を 忘 れ て 他 を 利 す る は 慈 悲 の 極 み な り 」か ら き て い ま す 。そ し て 、 その前に「好事を他に与え、悪事を己れに向え」とあります。これは、いいことは人 にあげ、悪いことはみんな自分に引き受け、自分の幸せは忘れ、人の幸福のため に尽 くすのが慈悲の最高のものだというのです。 伝 教 大 師 ・ 最 澄 は 日 本 天 台 宗 の 開 祖 で す 。 そ の 最 澄 が 、 い ま か ら 約 1200 年 前 に 、 小乗仏教の戒律を捨て、大乗仏教の戒律だけをとることを決意したときに、その理論 づけとして書きあらわしましたものが「山家学生式」です。 さが 人間は性として、どうしても自分中心に物事を考えてしまうことがあります。もっ が よ く さ き だ と欲しい、こうして欲しい、とまわりに望むことが多くなりがちで 、我欲が先立ちま す。自分のことは後にして、まず人に喜んでもらうことをする。そこに幸せがあるの だということは、口で言うのは簡単ですがそれを実践することは、相当に大変なこと です。しかし、この意味を十分に理解し実践出来たならば、本当の幸せをつかむこと が出来るかもしれません。 忘己利他は、読み方の区切りが悪いと 「もう、こりた」という読み方になってしま います。いくら自分が他者に尽くしても、それが相手に伝わらないとガッカリしてし まいます。それは自分の心の何処かに、相手に対し見返りを求めている心があるから です。また、親切の押し売りや相手の事を考えない行動は、自分が良かれと思っても 相手にとっては大迷惑なことになってしまいます。 これらを考えずに、自分勝手にも う懲りた、もうするものかと思ってしまうのが人間ですが、相手の事を考え「もう懲 りた」ではなく「忘己利他」を忘れないで行きたいものです。 さんげがくしょうしき 山家学生式 なにもの ゆえ 国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。 故に古人 いわ けいすん あら こ て つ い 言 く 、径 寸 十 枚 こ れ 国 宝 に 非 ず 、一 隅 を 照 ら す 、是 れ す な わ ち 国 宝 な り と 。古 哲 ま た 云 よ い よ い わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは国 の用なり。能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、ただ言うこと能わず、行うこ な すなわ ぶ し ぼ さ つ しょう と能わざるを国の賊と為すと。 乃 ち道心あるの仏子を、西には菩薩と 称 し、東には ごう おのれ むか こ う じ 君 子 と 号 す 。悪 事 を 己 に 向 え 、好 事 を 他 に 与 え 、己 を 忘 れ て 他 を 利 す る は 、慈 悲 の 極 みなり。 一隅を照らす運動「実践3つの柱」 1 生 命 ( い の ち ): あ ら ゆ る 命 に 感 謝 し よ う 2 奉 仕 ( ほ う し ): あ り が と う の 心 で 行 動 し よ う 3 共 生 ( き ょ う せ い ): 地 球 に 優 し い 生 活 を し よ う 『 山 家 学 生 式 』( さ ん げ が く し ょ う し き ) 『山家学生式』は、伝教大師最澄が『法華経』を基調とする日本天台宗を開かれる に当たり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという 熱い想いを著述され、桓武天皇に提出されたものです 国の宝とは何物(なにもの)ぞ、宝とは道心(どうしん)なり。道心ある人を名づ けて国宝と為(な)す。故(ゆえ)に古人(こじん)言わく、径寸十枚(けいすんじ ゅ う ま い )、是( こ )れ 国 宝 に あ ら ず 、一 隅( い ち ぐ う )を 照( て ら )す 、此( こ )れ 則(すなわ)ち国宝なりと。古哲(こてつ)また云(い)わく、能(よ)く言いて行 う こ と 能( あ た )わ ざ る は 国 の 師 な り 、能 く 行 い て 言 う こ と 能 わ ざ る は 国 の 用( ゆ う ) な り 、能 く 行 い 能 く 言 う は 国 の 宝 な り 。三 品( さ ん ぼ ん )の 内( う ち )、唯( た だ )言 うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊(ぞく)と為す。乃(すなわ)ち道心ある の 仏 子( ぶ っ し )、西 に は 菩 薩( ぼ さ つ )と 称 し 、東 に は 君 子( く ん し )と 号 す 。悪 事 ( あ く じ )を 己( お の れ )に 向( む か )え 、好 事( こ う じ )を 他 に 与 え 、己( お の れ ) を忘れて他を利(り)するは、慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。 口語訳 国の宝とは何なのでしょうか。国の宝とは正しい道を求める心です 。この道心ある 人 を 名 づ け て 国 の 宝 と 言 の で す 。ゆ え に 先 の 世 の 哲 人 が 言 う に は 、 「 3cm の 宝 石 1 0 個 、 これは国の宝ではありません。世の1隅を照らす人こそすなわち国の宝なのだ」と。 古代の哲人がまた言うには、 「 良 く 発 言 す る 事 は 出 来 る が 行 動 し な い の は 国 の 師 で 。良 く行動して発言しないのは国に有用な人だ。良く行動し良く発言する事は国の宝だ、 三種のうち、ただ発言もしない行動もしないのは国の賊である」と。すなわち道心あ る仏の弟子を、印度では菩薩と名づけるし、中国では君子と言います。悪い事は自己 に向け、好い事を他人に与へ、自己を忘れて他人に利益を与えるのは、慈悲深い事の 極みです。 道心とは道を修めようとする心、仏教においては仏道を究めようとする心です。こ の道心をもって生活することができる人が国の宝であると示されています。 例えば、自分の仕事を自己に与えられた天命と心得て、打ち込む人こそ道心の持ち 主でしょう。どんな仕事でも、このような人は限りない喜びを仕事の中に見いだし、 生き甲斐を仕事の中に感じることができるに違いありません。 「自分という人間はいか にあるべきか」を追究し、自己の理想や目標を定め、その実現に向かって努力するこ と、そのような人生の道を歩む心といえるでしょう。 このような人が国中に充満すれば、国は栄え、社会は浄化され、物も心も豊かにな る世界が実現します。したがって、伝教大師の御心は、一個人の完成 のみならず、道 心ある人々を育成し、国全体、ひいては世界中に及ぶことを願っているのです。 一無位真人(いちむいのしんにん) 赤肉團上有一無位眞人。常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。 しゃくにくだんじょう いち む い しんにん あ つね なんじ ら し ょ に ん めんもん しゅつにゅう いま しょう こ 赤 肉 団 上 に 一 無 位 の 真 人 有 り 。常 に 汝 等 諸 人 の 面 門 よ り 出 入 す 。未 だ 証 拠 せ ざ る もの み み 者は看よ看よ。 お互いのこの生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」 がいる。いつでもどこでも、お前たちの眼や耳や鼻などの全感覚器官を出たり入った りしている。まだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ 。 人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。 し か し 、さ ま ざ ま な 問 題 に 悩 み 、壁 に ぶ つ か っ て 、さ ら に 自 己 を 掘 り 下 げ て 見 つ め て い くと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の 自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。 臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。 「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれな いということです。「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性の ことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、 人間の五官を通して自由自在に出入りしています。 人 は さ ま ざ ま な 問 題 に 悩 み 、 壁 に ぶ つ か っ た と き に 、は じ め は 他 に 原 因 が あ る と 考 え、他を責めてしまいがちですが、それでは悩み苦しむ心は変わらず、心の平安はあ りません。なんとかその苦しみから逃れようと、さらに自己を掘り下げて見つめてい くと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気付くのです。 「ああ、これではいけない。自分はなんとつまらないことで思い悩んでいたのだろ う 。」 と 気 付 い た そ の 人 が 「 一 無 位 真 人 」。 つ ま り 、 な ん の 欲 望 も 無 く 、 貴 賎 、 貧 富 、 凡聖、男女、老若などの違いなど一切関係ない世界の中にある真実の人が「真人」で あり、誰も皆、一人ずつそういった自分を持っているのですよ、そのことに気付きな さい、という禅の教えです。 臨済宗の教義は、いうまでもなく宗祖・臨済禅師の挙揚した禅の宗旨を根本として おり、その教えは、「臨済録」に伝えられています。 「臨済録」にみられる特徴は、如来とか仏といった既成の仏教用語ではなく、宗教 的人格をあらわす「人」という言葉を使っていることです。如来とか仏というと、ど うしても人間よりも超越した存在のようにとらえてしまうことから、極力そうした用 語を避けています。 宗教的人格者とは、「人間とは何か」「人間はどうあるべきか」「どう生きるべき か」を自分自身に引き寄せて、その真理をうなずきとる自覚の経験をした人であり、 臨済禅師はこの宗教的人格者を「真人」、又はただの「人」と呼んでいます。 而二不二(ににふに) 「而二不二」は、後の半分だけをとって「不二」と呼ぶこともありますが、真言宗 の中では、最も大切な言葉の一つです。 「 而 二 不 二 」 と は 、「 而 二 」 と 「 不 二 」 の 二 つ の 言 葉 が く っ つ い た も の で 、 而 二 と は、一つのものを二つの面から見ることで、不二とは、二つの面があっても、その本 質は「一」である、ということです。 一 枚 の 紙 を 例 に と っ て 考 え て み ま し ょ う 。「 紙 に は 表 と 裏 が あ る 。」 と い う の が 「 而 二 」 に あ た り ま す 。 そ し て 、「 表 と 裏 が そ ろ っ て 初 め て 一 枚 の 紙 に な る 。」 と 言 う の が 「不二」にあたります。つまり、紙には表と裏という二つの面があり、その両方があ るからこそ紙が存在しているというわけです。 このような、表と裏のような、切っても切れない関係が「而二不二」です。世の中 には表ばかりのものや、裏ばかりのものはありません。また、表のないものには裏は なく、裏のないものには表はありません。裏は表があるから生まれ、表も裏があるか らこそ生まれてきたものです。 真言宗では、仏様の世界を大きく二つに分け、その二つの世界が「不二」であると 説 い て い ま す 。一 つ 目 の 世 界 は 、仏 様 の 持 つ「 知 恵 」の 徳 を 表 す「 金 剛 界 」、も う 一 つ は「慈悲」の徳を表す「胎蔵界」です。 「知恵」の世界と「慈悲」の世界、これら二つの世界は別々に描かれていますが、 実 際 に は 一 つ に 融 合 し て い る も の で す 。つ ま り 、だ れ か 救 い た い と い う 気 持 ち( 慈 悲 ) があっても救う方法(知恵)を知らなければ救うことはできませんし、救う方法を知 っていても、救いたいという気持ちがなければ、やはり救われません。 人間のお医者さんに例えると、病気の人を治したいという気持ちを持っていても、 医学の知識や技術が不足していれば、正しい治療を行うことができませんし、どんな に腕のいいお医者さんでも、人を助けようという気持ちに欠けていれば結果は同じで す。 「 慈 悲 」 を 離 れ て は 「 知 恵 」 の 徳 は な く 、「 知 恵 」 を 離 れ て は 「 慈 悲 」 の 徳 は 存 在 し ま せ ん 。 こ の よ う に 、 仏 様 の 世 界 で は 、「 知 恵 」 と 「 慈 悲 」 は 「 不 二 」 な の で す 。 私たちが仏様をお手本に、より良く生きていくためには「知恵」と「慈悲」どちら の心も併せ持ち精進していくことが大切です。しかしながら、現代社会 で問題となっ て い る 色 々 な 出 来 事 は 、「 知 恵 」 を 追 い 求 め る こ と を 優 先 し て 、「 慈 悲 」 を お ろ そ か に しているために起こっているものが多いように感じられます。 様々な情報や誘惑にふりまわされて自分を見失いそうになる世の中。合理的に効率 を追いかけるあまり、いろいろなものを切り捨ててしまう世の中。一番最初に切り捨 てられるのは、 「 ○ ○ の た め に 」と い う「 慈 悲 」の 心 な の か も し れ ま せ ん 。し か し な が ら、このような時代だからこそ「慈悲」の心を大切にしなくてはならないのではない でしょうか。 慈悲(四無量心) りゅうじゅ 仏教といえ ば、慈 悲の精神 です が、大 乗仏教の言う 慈悲と いうのは、 龍樹 の だ い ち ど ろ ん し むりょうしん 『大智度論』に説かれている四無量心のことではないでしょうか。 この四無量心というのは、悟りを開いた釈尊の心には、慈 無量心、悲無量心、喜無 量心、捨無量心という四つの無量な心があるというものです。これは大乗仏教以前か らある考え方で、伝統的な説明では、「慈」というのは楽を与える。「悲」というの は苦を抜く。そして楽を与えられて、苦が抜かれた姿を見て 「喜」び、あの人の苦を 私が抜いてやったのだ、あの人に私が楽を与えてやったのだという、そういう私とい う思いを「捨」てるというのが捨です。 ごうまん この「捨」は、上からの慈悲、エリート主義ではなく、傲慢ではない精神を説かれ ていますが、慈悲を行う人には、確かに、「捨」のない人、無我でない人がい ます。 また、慈、悲、喜、捨も、思想ではありません。思想としての理解ならば、何の社会 貢献もありません。ですから思想ではなく、慈悲は体得し、社会へ実現していくこと にあると言えます。 しかし、人は釈尊のように悟りを開くことのできない未熟者ですから、この慈悲喜 捨が体現できる者は少なく、特に「捨」を体得することが出来る人はまずいないでし ょう。私は、人は未熟で丁度よいと考えています。相手を思ってやったことに対し、 少しぐらいあの人の苦を私が抜いてやったのだ、あの人に私が楽を与えてやったのだ と思っても可愛いことのように感じます。それよりも、人に対し 少しの思いやりを持 ち、苦悩している人を見て自分の出来る範囲内で少しで も実行することの方が重要で あり、この少しの積み重ね、出来ることの積み重ねが、釈尊の説く慈悲に繋がって行 くのではないかと考えるのです。 りゅうじゅ なかがん 龍 樹 : 2 世 紀 中 ご ろ か ら 3 世 紀 中 ご ろ の イ ン ド 大 乗 仏 教 中 観 派 の 祖 。南 イ ン ド の バ ラ せんよう モンの出身。一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の注釈書を多数著して 宣揚し ちゅうろんじゅ だ い ち ど ろ ん じゅうじゅうびばしゃろん た 。 著 「 中 論 頌 」「 大 智 度 論 」「 十 住 毘 婆 沙 論 」 な ど が あ る 。 だ い ち ど ろ ん 大智度論:龍樹の著作とされる書で、『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)の百巻に しょうせつ 及 ぶ 注 釈 書 で あ る 。初 期 の 仏 教 か ら イ ン ド 中 期 仏 教 ま で の 術 語 を 詳 説 す る 形 式 に な っ ているので仏教百科事典的に扱われることが多い。 大乗仏教:ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひ とつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆 生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件 とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。 維摩の一黙、雷の如し(維摩の沈黙雷のごとし) ゆ い ま 「維摩の一黙、雷の如し 」は大乗仏教経典の一つ である維摩経にあります。内容は 中インド・バイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩)にまつわる物語で 、維 し ゃ り ほつ もくれん かしょう み ろ く 摩が病気なり、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも 見舞いを命じましたが。みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も見舞 に行こ もんじゅ うとしません。そこで、文殊菩薩が他の菩薩を引き連れ見舞いに行き、維摩と対等に 問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した のが「維摩の一黙、雷の 如し」です。 問答は、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか 説明を促し、これらを菩薩たちが、対立するものには、それぞれ実体が無く、無自性 であり、空であるとして、分別したいずれにもとらわれてはいけないと 、不二の法門 に入る事を説明。最後に文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もな く、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答 を離れ超えている。これ を不二法門に入るとなす」といい、我々は自分達の見解を説明したので、今度は維摩 の見解を説くように促しましたが、維摩は黙然として語りませんでした。文殊はこれ さんたん を見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と 讃嘆しました。 そして、このことは「維摩の一黙、雷の如し」と褒め称え、この問答にて、その場に むしょうぼうにん い た 並 み い る 五 千 も の 菩 薩 た ち は 、「 無 生 法 忍 」 の 境 地 に 至 っ た と い う こ と で す 。「 無 生法忍」とは、簡単に述べると「不生不滅」の空の真理に達したということです。 しかし、もしも、この問答でいきなり「沈黙」 であったら、その「沈黙」が「維摩 の 一 黙 」程 の 深 い 意 味 を 含 ま な い の は 明 白 で す 。そ れ は 、問 答 に 参 加 し た 菩 薩 た ち が 、 これでもか、これでもか、と「不二法門」を言葉で明らかにしていき、そして、もう 回 答 が 出 尽 く し た と こ ろ で 、文 殊 菩 薩 の 回 答 が あ り 、い よ い よ 、 「 こ こ ぞ 」と 言 う 時 に 「 維 摩 の 沈 黙 」 で あ っ た た め 、 大 い に 意 義 を 持 て た わ け で す 。「 単 な る 沈 黙 で は 無 い 、 ご ん ご 沈 黙 」、こ れ こ そ が 重 要 で あ り 、単 な る「 言 語 道 断 」 ・ 「無分別」 ・ 「 不 二 」・ 「 無 念 無 想 」・ 「 不 思 不 観 」で あ っ て は い け な い と 言 う こ と で す 。こ の「 単 な る 沈 黙 で は 無 い 、沈 黙 」 と は 、般 若 思 想 に お い て も 同 様 で 、実 体 の 否 定 は 、 「 単 な る 否 定 で は 無 い 、否 定 」と い うことです。 不二法門は維摩経の特徴的なものといわれます。不二法門とは互いに相反する二つ のものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いてい ます。例を挙げ あか じょう う ろ う む ろ う で せ け ん ると、生と滅、垢と 浄 、善と不善、罪と福、有漏と無漏、世間と出世間、我と無我、 しょうじ ね は ん 生死と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念ですが、それらはもともと二つに 分かれたものではなく、一つのものであるという。たとえば、生死と涅槃を分けたと しても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもな ければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るということです。 とうとうにんうん 騰々任運 騰々任運は、良寛が円通寺の国仙禅師の下で二十二歳の時から十数年間修業し、国 仙禅師からいただいた印可状の中にある言葉です。 騰々とはくよくよせず意気高らかに生きること。任運とは運命に任せること。まだ 起こりもしない先のことをあれこれ思い悩むより、 「 今 を 大 事 に 生 き な さ い 」と い う 教 えです。 人はとかくつまらないことに心を捕らわれがちになり、気にして心配して悩み、そ ん な こ と を 繰 り 返 し ま す 。し か し 、 「 な る よ う に な る さ 」と 運 を 天 に ま か せ て 大 手 を 振 って、いつもより少し大股で青空の下を歩いてみれば、きっと心も青空、元気が出て くるような気がします。 これ こ 良寛は、晩年の自画像に「是は此れ誰そ大日本国国仙の眞子良寛」と大書している ので、国仙禅師はさぞやすばらしい師匠だったのでしょう。良寛は印可を受け取りま すが印可を使うことはありませんでした。これは良寛が権威のようなそういうものか ら離れたところに生涯身を置いていたからだと思います。 国仙禅師の印可状 附良寛庵主 良也如愚道転寛 りょう か ん あ ん し ゅ ふ 良 寛庵主に附す りょう ぐ ごと う た た 良 や愚の如く道転 とうとうにんうん だれ み ひろ 寛し え 騰々任運得誰看 騰々任運 誰か看るを得ん 為附山形爛藤杖 為に附す ため ふ さんぎょう ら ん と う 到処壁間午睡閑 到る 処 いた ところ つえ 山形爛藤の杖 へきかん ご す い 壁間に午睡 のど 閑かなり たど 良 よ 、お ま え は 一 見 愚 か そ う に 見 え る が 、そ う で は な い 。辿 り つ い た 仏 道 は 既 に 広 々 とした所に出ている。あくせくせず、運を天に任せているが、そうしたことを誰がわ かっているだろうか。私は今印可の一本の杖を与えよう、この杖を持って旅に出よ、 どこに行こうと良し、ただこの杖を壁に立てかけておけ。昼寝をしていても良い。 印可(いんか) 印可とは、師がその道に熟達した弟子に与える許可のこと。その証として作成され る書面は印可状と呼ばれる。いわゆる“お墨付き”のこと。禅宗では、悟りを開いた と 認 め ら れ た 弟 子 の 僧 侶 が 、師 の 肖 像 を 絵 師 に 描 い て も ら い 、師 は そ の 肖 像 の 上 に「 偈 文」という漢詩の形を取った説法をしたため、これを一種の卒業証書とした。 六文銭=六道銭(冥銭:めいせん) 六文銭は、三途の川の渡し賃ともされる冥銭、地蔵菩薩信仰における六道にいると される六人の地蔵菩薩に渡す、六道銭のことです。また、これらを図案化した日本の 家紋「銭紋」の一種です。 銭紋は銭貨を図案化したもので、銭は富を象徴するものである一方、三途の川 の渡 し賃として死者とともに納棺するもので、この六道銭は地蔵信仰の影響と言われてい ます。また、真田幸村で有名は真田家の家紋として六文銭は有名ですが、六文銭は定 紋ではなく本来は戦時の旗に入れる旗紋など替紋として使用されていた と言われ、こ の六文銭は六紋連銭ともいわれます。 り ん ね 六 道 と は 、仏 教 に お い て 迷 い あ る も の が 輪 廻 す る と い う 、6 種 類 の 迷 い あ る 世 界 てんどう に んげ ん ど う し ゅ ら どう ちくしょう ど う が き どう じ ごくどう のことで、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を言います。仏教で おもむ は 、輪 廻 を 空 間 的 事 象 、あ る い は 死 後 に 趣 く 世 界 で は な く 、心 の 状 態 と し て 捉 え 。 たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣け ば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈されます。 天道は天人が住まう世界です。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非 常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされます。また、空を飛 きょうらく ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれます。しかしながら煩悩から解 き放たれていません。また、天人が死を迎えるときは 5 つの変化が現れ、これを あか 五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居 しぼ 場所を好まなくなり、頭の上の花が萎むと言われます。 人間道は人間が住む世界で、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界である が、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされます。また、仏になりうる という救いもあります。 修羅道は阿修羅の住まう世界で、修羅は終始戦い、争うとされます。苦しみや き け つ 怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが 大きい世界です。 畜生道は牛馬など畜生の世界で、ほとんど本能ばかりで生きており、使役され なされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救い の少ない世界とされます。 餓鬼道は餓鬼の世界で、餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようと すると火となってしまい餓えと渇きに悩まされます。他人を思わないために餓鬼 に な っ た 例 が あ り 、 旧 暦 7 月 15 日 の 施 餓 鬼 は こ の 餓 鬼 を 救 う た め に 行 わ れ ま す 。 地獄道は罪を償わせるための世界で、地獄のことです。 この六道世界より、観音菩薩の導きで救われるという観音信仰があり、その六 に ょ い りん じゅんてい つ の 世 界 に 応 じ た そ れ を 六 観 音 と よ び 真 言 宗 で は 、天 道:如 意 輪 観 音 、人 間 道:准 胝 しょう 観 音 、修 羅 道:十 一 面 観 音 、畜 生 道:馬 頭 観 音 、餓 鬼 道:千 手 観 音 、地 獄 道: 聖 観 音とされています。 阿修羅 そ ら す ら そ ら 阿修羅は八部衆に属する仏教の守護神。「阿素洛」「阿素羅」「阿蘇羅」とも呼ば し ゅ ら れたり、「修羅」とも呼ばれています。 ぼ ん ご 阿 修 羅 と い う 名 前 は 、 梵 語 で は 古 代 イ ン ド 語 の 「 ア ス ラ (A sura)」 の 音 写 と さ れ 、 「 生 命 (asu)を 与 え る (ra)者 」 を 意 味 し ま す が 、 そ の 一 方 で 「 非 (a)天 (sura)」 と も 解 釈され全然性格の異なる神を表しています。 またペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰される一方で、イン ド で は 熱 さ を 招 き 大 地 を 干 上 が ら せ る 太 陽 神 と し て 、 常 に 「 イ ン ド ラ (帝 釈 天 )」 と 戦 う悪の戦闘神とされています。 い つ わ 戦 闘 神 と さ れ る 阿 修 羅 、そ の 背 景 に は こ の よ う な 逸 話 が あ り ま す 。阿 修 羅 の 一 族 は 、 しゃ し 帝釈天が主である三十三天に住んでいました。阿修羅には「 舎脂」という美しい娘が いて、その美貌は神々の間でも評判でした。阿修羅は、いずれ舎脂を帝釈天に嫁がせ たいと思っていました。 しかし、帝釈天は舎脂を力ずくで奪い取ったのです。 それを怒った阿修羅が帝釈天 りょうじょく に戦いを挑むことになりました。 凌 辱 された後の舎脂は戦の最中であっても逆に帝 釈天を愛してしまったことに阿修羅はさらに怒り、争いは天界全部をも巻き こみ、阿 修羅は復讐に燃える悪鬼となってしまい、その戦いは常に帝釈天側が優勢でした。 しかしある時、阿修羅の軍が優勢となり帝釈天が後退していた最中、蟻の行列にさ しかかります。蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲の気持ちから、 軍を止めることに。そんな行動に阿修羅は「帝釈天の計略があるかもしれない」と疑 念を抱き、撤退していきました。その後も戦いましたが、力の神である帝釈天に勝て はず り て ん ぜ ん けんじょう る筈もなく敗れた阿修羅 はこれをきっかけに天 界である とう 利天 と善 見 城 から追放 されてしまうのです。 この逸話から、阿修羅にまつわるいくつかの説が生まれました。一説はこの話が天 部の中で広まり、追われることになったしまったという説。また一説では、阿修羅の 行動は確かに正義です。 しかし、舎脂はその後、帝釈天の正式な夫人となっていたにも関わらず、戦いを挑 ゆる むうちに赦す心を失ってしまった・・・。 つまりたとえ正義であっても、それに固執し続けると言うことは、善心を見失い もうしゅう 妄 執 の 悪 と な っ て し ま う 。こ の こ と か ら 、そ の 闘 争 的 な 性 格 か ら 五 趣 の 人 と 畜 生 の 間 に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となってしまったと言われて います。 日本では、争いの耐えない状況を修羅道に例えて修羅場(しゅらば)と呼ぶのも、 この逸話が元になっています。しかしその後、仏教に取り入れられてからは、釈迦を 守護する神と説かれるようになりました。 帝釈天 たいしゃくてん 帝釈天は、密教の守護神である天部の一つで、バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロア スター教の武神(天帝)で、インド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の中で最も 多くの賛歌を捧げられている軍神・武勇神インドラと呼ばれる重要な神さまで す。イ しゃく だ い か ん い ん ン ド ラ の 名 前 は 帝 と 意 訳 し て 冠 し た も の で 、漢 字 に 音 写 し て 釋 提 桓 因 と 呼 ば れ 、釋 は あざな しゃ し 字 。提 桓 因 は 天 主 の こ と で す 。妻 は 阿 修 羅 の 娘 で あ る 舎 脂 で 、こ の 親 の 阿 修 羅 と も 戦 せいどう 闘したという武勇の神でしたが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、また ちょうもん ご ほ う その説法を 聴 聞したことで仏陀に帰依し、梵天と共に護法の善神とされています。 し ゅ み せ ん き けんじょう とう り て ん 帝 釈 天 は 須 弥 山 の 頂 上 の 喜 見 城 に 住 ん で い て 、忉 利 天 に 住 む 神 々 の 統 率 者 で あ る と も う ご ため 同 時 に 四 天 王 を 統 率 し 、人 間 界 を も 監 視 し ま す 。即 ち 衆 生 が 殺 生 、盗 み 、妄 語 等 を 為 さ し ちょう ないか、父母に孝順であるか、師 長 を尊敬するか、貧しい人に施しをするかどうか、 つか 毎月八日、二三日には人間界に使者を遣わし、一四日、二九日には王子を遣わし、一 五日、三〇日には四天王が自ら姿を変えて人間界を巡歴し、衆生の善悪の事を監察す ろくさいじつ るといわれています。従って人々はこれらの日を 六斎日といって行いをつつしむので す。 き ょ う し か 帝釈天が、人間だった頃の名前は憍尸迦あると説かれています。かつて昔にマガダ ま か ふくとく だい ち え 国の中で名を摩伽、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧あるバラモンがいました。彼に おさ みょうじゅう は 知 人 友 人 が 32 人 い て 共 に 福 徳 を 修 め て 命 終 し 、 須 弥 山 の 頂 の 第 2 の 天 上 に 生 ま れ ほしょう ま し た 。 摩 伽 バ ラ モ ン は 天 主 と な り 、 32 人 は 輔 相 大 臣 と な っ た た め 、 彼 を 含 め た 33 人を三十三天といい、これゆえに釈迦仏は彼の本名である憍尸迦と呼ぶといいます。 また、このために彼の妻・舎脂を憍尸迦夫人と呼ぶこともあ ります。 ほうけい に ぴ ぞ う 日本では、頭上に宝髻を結び、中国式の礼服を着た二臂像として表現されることが ちゃくい かっちゅう こ ん ご う しょう れんこん と 多 く 。ま た 、着 衣 下 に 甲 冑 を つ け る こ と も あ り 、手 に は 金 剛 杵 や 蓮 茎 な ど を 執 る こ と があります。 梵天 ぼんてん 梵天は、仏教の守護神である天部の一柱。古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れ られたもので、十二天に含まれます。梵天は、帝釈天と一対として祀られることが多く、 両者を併せて「梵釈」と称することもあります。 古代インドのバラモン教の主たる神の 1 つであるブラフマーが仏教に取り入れられたも のです。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化 したもので、ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ(維持神) 、シヴァ(破壊神) と共に三大神の 1 人に数えられました。 この神が仏教に取り入れられ、仏法の守護神となり、梵天と称されるようになりました。 し ゃ か む に なお、釈迦牟尼が悟りを開いた後、その悟りを広めることをためらいましたが、その悟り ぼんてんかんじょう を広めるよう勧めたのが梵天と帝釈天とされ、この伝説は梵天 勧 請 と称されます。 また、天部(六道や十界の 1 つである天上界)は、さらに細かく分別されますが、色界 十八天のうち、初禅三天の最高位(第三天)である大梵天を指して「梵天」と言う場合も ぼん ほ て ん あります。神としての梵天はこの大梵天に住み、その下の第二天である梵輔天には、梵天 ほ そう ぼんしゅうてん の輔相(大臣)が住み、さらにその下の第三天である梵 衆 天 には、梵天の領する天衆がこ の天に住むとされます。 かんしつぞう 日本における梵天・帝釈天一対像としては、東大寺法華堂(三月堂)乾漆像、法隆寺旧 そ ぞう とうしょうだいじ さかのぼ 食堂塑像、唐招提寺金堂木像などが奈良時代に 遡 る遺例として知られ、奈良・興福寺には に ぴ 鎌倉時代作の像があります。これらの像はいずれも二臂の、普通の人間と同じ姿で表され、 ほう けい ほ っす え こ うろ 頭には宝髻を結って、手には払子や鏡、柄香炉を持つなど、唐時代の貴人の服装をしてい ます。 これらの梵天像と帝釈天像はほとんど同じ姿に表現され、見分けの付かない場合もあり よろい ますが、帝釈天像のみが、衣の下に皮製の 甲 を着けている場合もあります。 し ひ 密教における梵天像は四面四臂で表され、これはヒンドゥー教のブラフマー像の姿が取 り入れられたものです。6 世紀半ばから 8 世紀ごろのインドの様式が源流ではないかという 指摘があり、 エレファンタ石窟群にあるブラフマー像が例の 1 つとして挙げられています。 ちょうぞう ちょめい 彫 像 では京都・東寺講堂の木像が著名です(国宝)。東寺像は四面四臂の坐像で、4 羽の鵞 鳥(ハンサ鳥)の上の蓮華座に乗っています。 しょうかんのん 聖 観音を本尊とした梵天と帝釈天の三尊形式も見られ、平安時代に二間観音供のために まつ びゃくだんぞう 祀られたものである。この遺例としては、鎌倉時代後期の東寺の白 檀 像 、愛知県の瀧山寺 うんけい に見ることができます。瀧山寺像は、運慶の作とされています。 「万物の根源」という漠然としたものを造形化した神で、親しみが湧きにくいためか、 インドでも日本でも梵天に対する民衆の信仰はあまり高まらなかったようです。 十界(じっかい) 十 界 と は 、天 台 宗 の 教 義 に お い て 、人 間 の 心 の 全 て の 境 地 を 十 種 に 分 類 し た も の で 、 し しょう しょうもん か い えんがくかい 六 道 の 地 獄 界 ・ 餓 鬼 界 ・ 畜 生 界 ・ 修 羅 界 ・ 人 界 ・ 天 界 に 四 聖 の 声 聞 界 ・縁 覚 界 ・ 菩 薩 じっぽうかい 界・仏界を付加したものです。十界論、十方界あるいは十法界とも言われ、これらの 総称が十界です。 しばしば あるとき むさぼ しょう おろ 日 蓮 宗 の 日 蓮 聖 人 も「 数 他 面 を 見 る に 、或 時 は 貪 り 現 じ 、或 時 は 癡 か 現 じ 、或 時 てんごく いか むさぼ おろ は 諂 曲 な り 。瞋 る は 地 獄 、 貪 る は 餓 鬼 、癡 か は 畜 生 、諂 曲 な る は 修 羅 、喜 ぶ は 天 、平 めのまえ あに む こ らかなるは人なり。 ( 中 略 )世 間 の 無 常 は 眼 前 に あ り 。豈 人 界 に 二 乗 無 か ら ん や 。無 顧 なお さ い し ただし の 悪 人 も 猶 妻 子 を 慈 愛 す 、 菩 薩 界 の 一 分 な り 。 但 、 仏 界 ば か り 現 じ 難 し 。」 と 述 べ て います。この十界を簡単に述べると。 1 ぶっかい 仏 界 は 、仏 の い る 世 界 で 、崩 れ る こ と の な い 自 由 自 在 の 生 命 活 動( 常 )、生 き て い ふんどう く こ と 自 体 を 楽 し む 絶 対 の 幸 福 感 ( 楽 )、 何 物 に も 粉 動 さ れ な い 円 満 か つ 強 靱 な 主 体 性 ( 我 )、 何 物 に も 汚 染 さ れ な い 清 浄 な 生 命 ( 浄 )、 以 上 の 四 つ に 象 徴 さ れ る 最 高 きょうがい の境 涯とされています。 2 菩薩界は、思い遣りや優しさにあふれた世界で、自身のことよりも、他人の幸せ を願い、そのために尽くす状態です。 3 えんがく どっかく しょうもん 縁覚界は、達人の世界で、独覚ともいい、 声 聞 が先人の教えを求めるのに対し、 自然現象等を通じて自ら分々の悟りを得る状態です。 4 しょうもんかい 声 聞 界 は 、向 上 心 、学 び 訓 練 す る 世 界 で 、先 人 の 教 え を 学 ぶ 中 か ら 、無 常 観 な ど 、 分々の真理を会得していく状態です。 5 しょてん 天界は、諸天が住む世界、喜びの世界で、思うとおりになって、喜びを感じてい る 状 態 で す 。( 有 頂 天 は こ こ か ら き て い る 言 葉 ) 6 人 間 界 は 、通 常 の 世 界 、平 常 心 の 世 界 で 、人 間 ら し く 、平 常 で 穏 や か な 状 態 で す 。 7 修 羅 界 は 、争 い の 世 界 、競 争 心 の 世 界 で 、ひ ね く れ 曲 が っ て 、 勝 他 の 念 に 駆 ら れ しょう た か ている状態です。 8 ぐ ち 畜 生 界 は 、動 物 の 世 界 、浅 は か な で 愚 か な 世 界( 愚 癡 )で 、理 性 や 道 理 で は な く 、 目先のことにとらわれ、本能のおもむくままに行動する状態 です。 9 けんどん 餓鬼界は、飢餓に苦しむ世界、自分の事しか考えない世界( 慳貪)です。不足感 どんよく からくる貪欲にとらわれている状態です。 10 にく し ん い 地獄界は、様々な苦しみ憎しみにあふれた世界、怒りの世界(瞋恚)です。地は 低 下 を 意 味 し 、獄 は 拘 束 さ れ て 不 自 由 な こ と で 、苦 し み や 憎 し み に 囚 わ れ そ こ か ら いかり 抜け出すことが出来ず、 瞋 を感じ苦悶する状態です。 きょうがい 仏 法 で は 、私 達 の 生 命 が 内 よ り 実 感 す る 状 態 を 、こ う し た 十 種 類 の 境 涯 に 分 類 し て います。そして事実、我々の生活を委細に観察してみると、様々な縁に触れて悩んだ り喜んだりと、その時々に十種の境界のいずれかを感じて生きていることが分かりま す。ただし、三悪道・四悪趣といった低い境界の方が、たやすく現れ四聖等の勝れた 境界(就中最高の仏界)はなかなか現じがたいのが実際です。 三福田 きょう で ん おんでん ひ でん 供 養 す る こ と に よ っ て 福 徳 が 得 ら れ る 敬 田 ・恩 田 ・悲 田 の 三 称 。ま た は 、三 宝 の こ た ん ぼ し ゅ し ま とをいい、農夫が春、田圃に種子を蒔き、秋に収穫を得るように、徳を積んでその果 報を受けることが人間にとって真の幸福であり、それにはどういう田圃に種子蒔きを すればよいか。それが三福田の教えです。 うやま せ け ん こ け ゆいぶつ ぜ しん 第 一 は 敬 田 と い っ て 、 仏 法 僧 の 三 宝 を 敬 う こ と で す 。 「 世 間 虚 仮 。 唯 仏 是 真 」 (聖 徳 太 子 )と い う 。現 象 世 界 は 仮 り 物 で 、た だ 仏 の 世 界 の み が 真 実 で あ る と い う 。こ の 唯 むな 一 真 実 な る 仏 を 敬 い 、 そ の 教 え (法 )と 、 そ れ を 伝 え 導 い て く れ る 僧 に 、 己 れ を 空 し く しょうが た い が して絶対随順するとき、私達は小我から大我に生まれ変わることが出来るのです。何 一つ頼りにならない虚仮の日常生活において唯一真実なるも のを身につけるほど人間 として尊く幸せなことはありません。 おんほうしゃ 第二の恩田は、ご恩報謝の徳を積むことです。私達にとって父母祖先の恩ほど大き いものはありません。切り花はどんなに美しくとも根がないのですぐ枯れ ます。私達 せ ひ こ う じゅん し ん の 生 命 の 花 を 長 く 保 つ に は 、根 に 施 肥 し な く て は な り ま せ ん 。そ れ は 孝 順 心 、真 実 を ついぜん もって親に仕えることと亡き祖先に対しては追善のまことを捧げることです。 ほどこ 第 三 の 悲 田 は 、い つ く し み の 心 を も っ て 恵 ま れ な い 周 囲 の 人 々 施 し を す る こ と で す 。 む え ん さらには無縁の精霊に対しても供養のこころを忘れないことです。 三宝(十七条の憲法 第二条) 原文 二 曰 。篤 敬 三 寳 。三 寳 者 仏 法 僧 也 。則 四 生 之 終 帰 。萬 国 之 極 宗 。何 世 何 人 非 貴 是 法 。 人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉 読み下し あつ さんぼう うやま すなわ ししょう 二に曰わく、篤く三宝を 敬 え。三宝とは仏と法と僧となり、 則 ち四生の終帰、万 ごくしゅう いず とうと は な は あ すく 国の極 宗なり。何れの世、何れの人かこの法を 貴 ばざる。人尤だ悪しきもの鮮なし、 よ まが ただ 能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか 枉れるを直さん。 現代語訳 二 に い う 。 あ つ く 三 宝 (仏 教 )を 信 奉 し な さ い 。 3 つ の 宝 と は 仏 ・ 法 理 ・ 僧 侶 の こ と い の ち である。それは生命ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範であ る。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。 人で、はなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。た い き ょ だ 、そ れ に は 仏 の 教 え に 依 拠 し な け れ ば 、何 に よ っ て ま が っ た 心 を た だ せ る だ ろ う か 。 四苦八苦 し く は っ く 四 苦 八 苦 と は 、 仏 教 に お け る 苦 の 分 類 、 苦 と は 、「 苦 し み 」 の こ と で は な く 「 思 う ようにならない」ことを意味します。根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、この あい べ つ り く 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、愛別離苦(愛する者と別離するこ おんぞう え く ぐ ふ と く く と )。 怨 憎 会 苦 ( 怨 み 憎 ん で い る 者 に 会 う こ と )。 求 不 得 苦 ( 求 め る 物 が 得 ら れ な い こ ご う ん じょう く と )。 五 蘊 盛 苦 ( 人 間 の 肉 体 と 精 神 が 思 う が ま ま に な ら な い こ と ) の 四 つ の 苦 ( 思 う ようにならないこと)を合わせて八苦と呼びます。 ぶっぽうそう この八苦は、生きているかぎりついて廻り、この苦から逃れるには、 仏法僧の三法 き え はっしょうどう 印に帰依して、八正道を実践するしかないと仏教は教えています。 ね は ん じゃくじょう 三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃 寂 静 を指します。 諸行無常は、世の中のあらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けているとい う真理です。世の中の物事は常に変化を繰り返し、同じ状態のものは何一つありませ ん。それにも関らず、私たちはお金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至る まで、様々なことを「変わらない」と思い込み、このままであってほしいと願ったり もします。それが、「執着」へとつながるのです。このような苦しみにとらわれない ためには、ものごとは必ず変化するのだということ、全てが無常の存在であることを 理解することが大切です。 諸法無我は、全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、 他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。自分のいのちも、 自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。世の 中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。自然環境と 同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。こう考えると、自分と い う 存 在 す ら 主 体 的 な 自 己 と し て 存 在 す る も の で は な く 、互 い の 関 係 の な か で "生 か さ れ て い る "存 在 で あ る と 気 が つ き ま す 。 涅 槃 寂 静 は 、 こ れ は 、 仏 教 の 目 指 す 苦 の な い "さ と り "の 境 地 を 示 し て い ま す 。 し か し、世の中は自分の思い通りにならないことばかり。そんなとき、人は自分以外のも の に 原 因 を 求 め 、不 満 に な り 、怒 り を 抱 く も の で す 。仏 教 で は 、こ う し た 怒 り は 全 て 、 自分の心が生み出していると考えます。その原因となっているのが、疑い、誤ったも のの見方、プライドや誇り、欲望などの「煩悩」。こうした煩悩を消し去り、安らか な 心 を も っ て 生 き る こ と こ が "さ と り "の 境 地 な の で す 。 そ こ に 到 達 す る た め に は 、 先 に 挙 げ た "諸 行 無 常 ""諸 法 無 我 "を き ち ん と 理 解 す る こ と が 大 切 で す 。 八正道とは、お釈迦さまの最初の説法において説 かれたとされる、修行の基本とな る 八 種 の 実 践 徳 目 で す 。そ れ は 、正 見( 正 し い 見 方 )、正 思( 正 し い 考 え 方 )、正 語( 正 し い 言 葉 )、正 業( 正 し い 行 い )、正 命( 正 し い 生 活 )、正 精 進( 正 し い 努 力 )、正 念( 正 し い 意 識 )、 正 定 ( 正 し い 精 神 の 安 定 ) の 八 つ で す 。 人は「自分本意」の小我で、不平・不足・不満などの苦の種をつくりそれを大きく 育ててしまう愚かな、さとることが出来ない凡夫ですが、この三法印や八正道を理解 し少しでも実践出来たならば、安らかな人生を送ることが出来るかもしれません。 般若心経 皆 さ ん は 、孫 悟 空( そ ん ご く う )・猪 八 戒( ち ょ は っ か い )・沙 悟 浄( さ ご じ ょ う )の 三 人 が 三 蔵 法 師( さ ん ぞ う ほ う し )の お 伴 を し て 天 竺( て ん じ く ) ( 今 の イ ン ド )へ 仏 さ ま の 教( お し え )を 書 い た お 経 を 取 り に 行 く『 西 遊 記( さ い ゆ う き )』と い う 中 国 の 物語を知っていますか? そ の 物 語 の モ デ ル と な っ た 三 蔵 法 師 が 、こ の『 般 若 心 経( は ん に ゃ し ん ぎ ょ う )』と い う お 経 を 中 国 に 伝 え た 、玄 奘( げ ん じ ょ う ) ( 600 ま た は 602- 664)と い う お 坊 さ ん です。 玄 奘 が 活 躍 し た 時 代 は 、今 か ら 1300 年 以 上 も 前 の 中 国 唐( と う )時 代 で し た か ら 、 インドへ行こうにも飛行機や車などがあるはずがありません。そこで馬に乗ったり、 歩いたりしてインドへ行ったわけですが、途中にはゴビ砂漠やタクラマカン砂漠など という難所もあり、恐らくは死を覚悟しての旅だったと思います。中国の貞観(じょ う が ん )3 年( 629)に 都 で あ る 長 安( ち ょ う あ ん )を 発 ち 、三 年 余 の 旅 路 を 経 て イ ン ド に 到 達 し 、そ の 後 は 一 所 け ん め い に 仏 の 教 を 学 び 、16 年 後 の 貞 観 19 年( 645)に 多 くのお経や仏像などを持って中国に帰りました。中国に帰ってからの二十年余の間に 76 部 1347 巻 と い う も の す ご い 数 の お 経 を イ ン ド の 言 葉 か ら 中 国 の 言 葉 、 つ ま り 漢 字 に翻訳したのです。その中の一つがこの『般若心経』なのです。 このようにしてインドから中国へ伝えられたお経は奈良(なら)時代や平安(へい あ ん )時 代 の 入 唐 僧( に っ と う そ う ) ( 中 国 へ 渡 っ た お 坊 さ ん )な ど に よ っ て 海 を 渡 り 、 日本に伝えられたのでした。しかし、伝わったといっても、当時はまだ印刷技術が発 達していなかった時代ですから、お経は多くの人達の手によって紙・墨・筆を使って 書き写されたのです。 漢字ばかりで書いてあるので、ちょっと大へんかも知れませんが、最初に一 行あげ て「心経」と書いてあるのがお経の名前で『般若心経』を簡単にした呼び方です。次 の 行 の 「 観 自 在 菩 薩 ( か ん じ ざ い ぼ さ つ )( 観 音 ( か ん の ん ) さ ま の こ と )」 と い う と こ ろ か ら 、後 か ら 四 行 目 の「 菩 提 薩 婆 呵( ぼ だ い そ ば か )」ま で が お 経 の 本 文 で す 。お 経の本文は一行に書く字数が決まっています。ちょっと数えてみてください。一行十 七 字 に な っ て い ま せ ん か ? た だ 、後 か ら 四 行 目 の「 掲 諦 掲 諦( ぎ ゃ て い ぎ ゃ て い )」の 行は、呪文のような言葉なので字数に関係なく、一行に書かれています。また最後の 三 行 は 、 こ の お 経 を 読 ん だ 時 の 功 徳 ( く ど く )( ご 利 益 ( り や く )) が 書 か れ て い ま す が、多くはこの部分が書き写されていません。 この『般若心経』は、日本で最もよく知られ、親しまれているお経で、今もたくさ んの人達によって、このお経が書き写されています。 最後にかたちについて一つ。かたちは巻き物になっていますが、お経が書き写され ている所にはごくうすく界線(かいせん)という線が引かれています。もちろん、本 文が曲らないような働きをしていますが、これは昔、中国において紙が発明される以 前 に 書 物 を 木 簡( も っ か ん ) ( 木 を う す く 削 っ て 短 冊 状( た ん ざ く じ ょ う )に し た も の ) に書き写したなごりなのです。その-本-本の上下を紐(ひも)で編んだかたちが、 紙に書いたお経などのかたちになっていったものなのです。 宇宙論に対する仏教思想からの回答 宇宙原理において、なぜ宇宙は人類を創ったのかについて仏教思想からの考察 をし てみます。 釈迦の始めた原始仏教教団においては、初期には寺院僧院 といったものはなく、小 高い丘に弟子達・修行僧達が集まり釈迦の話を聞くという形態でした。それでは、仏 陀の話を聞いてみましょう。 あるとき仏陀は、弟子たちに尋ねた。「悟りに至る究極の知恵とはどのようなもの だろうか。」 更に問う「その大いなる知恵と、聖なる言葉の霊力によって悟りに導 いてくれる聖なる言葉、真言があるとすれば、それはどのようなものだろうか 。」 丘に集まり仏陀の教えを聴いていた、多くの弟子たちは口々に 言った。「仏様、こ れをぜひ教えて下さい。」 すると、慈悲の心により、様々な苦労や災難から多くの人々を救ってきた観自在菩 薩が静かに立ち上がりこう言った。「もしよろしければ、仏様に代ってこの私が、教 え申そうか。」修行僧たちは口々に言った。「是非是非、お願いいたします。」 観自在菩薩はおもむろに話し始めた。「悟りに至る知恵とはいったいどのようなも のかと、私は長年、深く考えてきました。そこでわかってきたのだが、この世は五つ の要素から成り立っているのです。この五つの要素のことを五蘊と呼ぶのだが、それ らはすべて“空”なのです。そして、すべてが空であると見極めるならば、一切の苦 悩や災難から万人は救われるのです。」 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 観自在菩薩は弟子たちの中でも知恵第一と皆から見られている人物 の舎利子に言 った。「舎利子よ、この世に存在する形あるものすべては、 “空”にほかならないの だよ。そして、空であるからこそ全てのものがこの世に生じてくるのだよ。」 あのう・・・舎利子は首を傾げながらいった。「空の意味が良くわからないのです が。」 観自在菩薩「よろしい、では、もっとわかりやすく説いてあげよう。」 舎利子 色不異空 空不異色 観自在菩薩は、話を続けた。「この世に存在する形あるものとは、たとえば、見な さい、あの大空に浮かんでいる雲のようなものなのだよ。雲は刻々とその姿を変えて いる。そして、いつの間にか消えて無くなってしまう。雲がいつまでも同じ形のまま 浮かんでいるなどと言う事が、あり得ないように、この世に存在する形あるもの全て に、永遠不変などということはあり得ないのだよ。全てが固定的ではなく、流動的な の だ よ 。自 分 だ け で 存 在 す る も の で は な く 、相 互 に 依 存 し て 、存 在 す る も の な の だ よ 。 絶対的ではなく相対的存在なのだよ。今、そこにあったとしても、瞬くうちに滅び去 ってしまうものなのだよ。み仏はすべては移ろいゆくもとおっしゃっている。そうで あるならば、そのようなつかの間の存在に対し、あれこれと、こだわったり悩んだり するのは、ばかばかしい事だとは思わないかね。」色即是空 観自在菩薩は更に話を続けて言った。「面白いことに、こうも言えるのだよ。この 世に存在する形あるもの全が、つかのまの存在であるからこそ、 ついさっきまで存在 し て い た も の が 滅 び 去 っ た 。次 の 瞬 間 、ま た 様 々 な も の が こ の 世 に 生 じ て く る の だ よ 。 あたかも何もなかったあの大空に、ふたたびさまざまな形を した雲が湧き出してくる ようにね。」空即是色 「しかし、それらは意味もなくこの世に生じてくる わけではないのだよ。 無数の原 因、因と条件、縁が結びついているのだよ。例えば、今貴方がたの前に一本の枝が落 ち て い る が 、も し 誰 か が そ の 小 枝 で 地 面 に 字 を 書 い た ら 、そ の 小 枝 は 筆 に な っ た の だ 、 或いは誰かがその小枝に火をつけたならば、小枝は灯りにもなり、人を暖める役割を はたすのだよ。このように同じものであっても、因と縁とが異なれば全く別なものが 生じてくることが、解っただろう。」 観自在菩薩は舎利子に言った「舎利子 よ」「はい、観自在菩薩様」「今度は貴方の 事だ、貴方もこの世に存在する形あるものの一つである。貴方も父の生を受け、母の 胎内で育まれ、この世に生まれてきた存在である。舎利子よ、考えて見よう。今、貴 方を取り巻いている花や鳥や馬や牛や虎や象や蝶や木や森や岩や月や星や太陽と同様 に 、こ の 世 に 生 ま れ て き た 貴 方 と は 一 体 ど ん な 存 在 な の だ ろ う か 、共 に 考 え て み よ う 。 貴方は今、私の前に存在しているが、しかし、あと何時間、何年生きられるか解らな い。つかの間の存在なのだよ。今生きているがあっという間に滅び去ってしまう陽炎 の様なはかない存在なのだよ。だがね、舎利子よつかの間の存在であるけれど、貴方 は意味もなく、この世に生まれてきたわけではありません。 無数の様々な原因と条件 とが寄り集まって、この世に生まれてきたのです。つまり貴方は生まれる意味があっ たからこそ、貴方は生まれてきたのです。そのように思うと、不思議な気持ちになる ね。 舎利子よ、生きている貴方は、奇跡の様な存在であると言っても過言ではないのだ よ。真に真に有難い存在であるのだよ。舎利子よ、共に考えてみよう。貴方の中には 無数の生が存在しているのだよ。貴方を生んでくれた父と母がいる。その父に も父と 母がいて、その母にも父と母がいる。貴方から十代前まで遡るならば、貴方に繋がる 父と母は千人以上になる。更に二十代前まで遡るならば父と母の数は百万人を超える のだ。このように無数の命が寄り集まって、貴方という命を成しているのだよ。その 中のどれか一つの命が欠けたとしても、貴方という命は 成り立たなかったのだよ。 さて、舎利子よ、そのような無数の命が寄り集まって、この世に生を受けた貴方が どのような場所にいるかわかるかね。」 舎利子 「わかりません。教えて下さい。」 観自在菩薩 「では、教えてあげよう。心の中で思い 描いてみなさい。宇宙全体を くまなくとうとうと流れ続ける、命の巨大な運動体である宇宙の大河。宇宙の大河は 無数の要素が寄り集まって成り立っているのだ。それ故にその中の一つの要素が欠け た と し て も 宇 宙 は 成 り 立 な い の だ よ 。」 宇宙論の研究において、現在の宇宙の成り立ちはその一要素としての太陽系の成因、 その第 3 惑 星で ある地 球の誕 生、そ の地 球に おける 生命 の誕 生、そ の生命 体系 にお け る高度の知的生命体である人類の誕生、その人類の一人としての自分の存在を考えて みると、実に実に無数の要素が寄り集まって、現在の自分がいることになります。 そ れゆえに、その中の一つの要素が欠けたとしても、宇宙は成り立ないのだ。一つの要 素は宇宙を構成し、宇宙は一滴の要素に依存しているのだ。 観自在菩薩 「舎利子よ、貴方の命とは、 宇宙の大河の一滴のことなのだよ。僅か 一滴であるが、その一滴がなければ、宇宙の大河は成り立たないのだ。 舎利子よ、貴 方の一滴は、宇宙の大河を成し、宇宙の大河は、貴方の命の一滴に依存しているのだ よ。どうかね、素晴らしいことだとは思わないかね。驚くべきことだとは思わないか ね。宇宙の大河の中をとうとうと流れていく貴方の命。貴方の命の中をとうとうと流 れ て い く 宇 宙 の 大 河 。 こ う し て 見 て く る と 貴 方 と は 宇 宙 そ の も の な の だ よ 。」 舎利子のまぶたから涙が後から後から溢れ出て、止めることが出来なかった。 観自在菩薩 「舎利子よ、陽炎の様なつかのまの命を生きている私達生き物とは、 なんとはかなく切ない存在だろうね。しかし、たとえつかの間であったとしても、そ のような命を頂いて生きている私達生き物とは、何とありがたく素晴らしい存在なの だろう。しかし、貴方は一人でこの世を生きているわけではないのです。貴方の周り にいる人達はもとより、あなたを取り巻いている花や鳥や馬や牛や虎や象や蝶や木や 森や岩や月や星や太陽とともに生きているのです。彼らと共に、貴方はこの世を成し ているのです。その中のたった一つの命が欠けたとしてもこの世は成り立たない ので す。あなたの周りにいる全ての命はあなたの父であり、母であり、兄弟であり、姉妹 であるのです。あなたの命は、あなたの周りの全ての命と深い絆で結ばれ、助けたり 助けられたりしながら、生きているのです。舎利子、貴方は貴方の絆を大切にしなさ い。貴方の命と貴方の周りにいる全ての命に感謝し敬いなさい。そして貴方がこの世 に生まれてきた意味を考えなさい。何故自分は生まれてきたのかを。舎利子よ何故貴 方はこの世に生まれてきたのか」舎利子は無言のまま答えられませんでした。 観自在菩薩 「では、教えてあげよう。貴方が生まれてきた意味と理由とは何なの か、それは役割を果たすためなのだよ。」 舎利子「役割・・・」 観自在菩薩「そう自分以外の人と人間以外の無数の命のために何が出来るか。貴方 でなければ果たせない、貴方だけの役割を果たすために貴方はこの世に生まれてきた のだ。そのことを決して忘れてはいけないのです。舎利子よ、もう一度言おう、こだ わりを捨てなさい。そして頂いた命に感謝しながら自分の役割を果たしなさい。」 舎利子は手で涙を拭くと大きくうなずいた。 宇宙原理からの問いかけに対する仏教思想からの回答は、宇宙の生命の大河の中に 自分の生命があり、自分の生命の中に宇宙の大河がとうとうと流れている。 そして貴 方が生まれてきた意味と理由は何か。それは役割を果たす為 であり、自分以外の人と 人間以外の無数の命のために何が出来るか。貴方でなければ果たせない、貴方だけの 役割を果たすために貴方はこの世に生まれてきたのだと自覚し、宇宙に生かされてい る自分の命に感謝しながら自分の役割を果たすことだと思います。 五蘊盛苦(ごうんじょうく) 五蘊盛苦とは、仏教の説く四苦八苦の一つ で、般若心経の最初にある「観自在菩薩 が 深 般 若 波 羅 蜜 多 を 行 ず る 時 、五 蘊 は 皆 空 な り と 照 見 し て 、一 切 の 苦 厄 を 度 し た も う 」 で す 。こ れ は 、 「観音さまが深い修行に入られ五蘊は皆空だと悟られたときに一切の苦 厄から解放された」という意味です。般若心経の主旨が初めに示されている言葉です が、同時にこれは仏教の基本理念でもあるのです。 「五蘊は皆空なり」と悟ってこそ一切の苦しみから解放されるというのです。では 五蘊とは何でしょう。 「蘊」 ( う ん )と は「 た く わ え 」と か「 集 ま り 」と か の 意 味 で す 。 仏 教 で は 世 界 は 五 つ の 集 ま り で 成 り 立 っ て い る と 考 え る の で す 。そ の 五 つ の 集 ま り が 、 色・受・想・行・識なのです。 「色」とは物質的存在という意味です。形あるものの全てです。あとの「受・想・ 行・識 」は「 心 」の 世 界 を 意 味 し ま す 。 「 受 」は 、感 覚 と か 知 覚 な ど の 感 受 作 用 を 意 味 し ま す 。暑 い と か 寒 い と か 、旨 い と か ま ず い と か の 五 感 に よ る 感 覚 で す 。 「 想 」は 、 「受」 で受けたものを心の中でイメージすることです。 「 行 」は 、イ メ ー ジ を 意 志 に 移 行 さ せ ることです。 「 識 」は 、判 断 す る こ と で す 。般 若 心 経 は こ の 五 蘊 が す べ て「 空 」で あ る と説いています。 こ の 世 の 一 切 は 物 体 と い う「 色 」と 心 で あ る「 受・想・行・識 」で 成 り 立 っ て お り 、 そ の 全 て の 実 体 は「 空 」で あ る と い う の で す 。そ れ を 悟 っ て こ そ「 一 切 苦 厄 」を「 度 」 せるのであり、本当の安楽が得られるというのです。 で は な ぜ 、「 空 」 を 悟 る こ と が 救 い に な る の で し ょ う か 。 人 の 苦 し み 悩 み の も と に なるのは、まず「肉体」にあると考えられます。肉体は物質ですから諸行無常の道理 に従って常に変化しています。病気や老化が無縁な人などいません。肉体の変化によ る悩みや苦しみは必ずやってきます。これは人としての宿命です。人にとって病気や 老化による悩みや苦しみはほんとうに辛いものです。それと同じようにあるのが心か らくる悩みや苦しみです。そのすべては渇愛によるものです。それが、嫉妬、憎悪、 貪欲を引き起こすのです。その苦しみ悩みのすべては「受・想・行・識」の中で生ま れるのです。 だとすると、人間生きている以上様々な苦しみから逃れることなどできないわけで す。その通りなのです。これこそ人間の人間たる宿命なのです。ただし、その現実の な か で お 釈 迦 さ ま は そ れ で も 救 わ れ る 道 を 発 見 さ れ た の で す 。そ れ が 、 「行深般若波羅 蜜多」での「悟り」なのです。その内容が明示されているのが般若心経であり、その 主旨は「五蘊は皆空なり」と悟ることであるのです。五蘊が空であることをしっかり 理解できれば、苦そのものの実体などどこにも無いということがわかるのです。 一切が空である以上そこには「苦」など存在しないということです。お釈迦さまは 人生は全て苦であるが、その四苦八苦つまり「五蘊盛苦」から救われるには「五蘊皆 空 」と 悟 る こ と に こ そ あ る と 説 か れ た の で す 。そ の た め に は た だ た だ「 般 若 波 羅 蜜 多 」 を「修行」することです。これが唯一救われる「法」なのです。 般若波羅蜜多 みん 般 若 波 羅 蜜 多 は 、『 般 若 心 経 』 の 前 文 に 出 て く る 言 葉 で す 。 こ の 経 典 は 明 代 の 小 説 げんじょう 『西遊記』で有名な 玄 奘 三蔵がインドから原典を持ち帰って漢訳したものです。 般若は、一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた 「さとり」の智慧を言います。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教 の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されて へん ち きました。同じ悟りの智慧をあらわす遍智とは区別されます。遍智とは文字通り「あ し た い む ろ まねく知る」ことで、四諦の道理を無漏の智によって知ることです。この遍智を小乗 のさとりを表すものとして、大乗の般若と区別するのも、般若を存在の当相をそのま まに自覚する実践智と考えるからです。 しき この般若の意味は、識とも区別されます。識とは、いわゆる知識であり、客観的に 物の何であるかを分析して知る分析智です。このような知識を克服して、それを実践 智に深め、物の真相に体達すること、そのような智をことに般若というのです。たと え ば 、「 生 活 の 智 慧 」 と い う が 生 活 の 知 識 と い わ ず 、「 科 学 の 知 識 」 と い っ て 科 学 の 智 慧といわないようなものです。 波 羅 蜜 多 は 、 仏 教 に お け る 菩 薩 の 基 本 的 な 実 践 徳 目 で す 。『 般 若 経 』 で は 般 若 波 羅 蜜 多 ほ か 全 6 種 ( 六 波 羅 蜜 ) を 、 あ る い は 『 華 厳 経 』 な ど で は こ れ に 4 種 を 加 え 10 種( 十 波 羅 蜜 )を 数 え ま す 。 『 摩 訶 般 若 波 羅 蜜 経 』は 九 十 一 波 羅 蜜 を 列 挙 し ま す が 、全 体としての徳目は六波羅蜜です。 波羅蜜とは、ブッダを目指す菩薩が修めなくてはならない、6 つの実践徳目のこと で 、「 六 度 」 と も 呼 ば れ ま す 。 1 だ ん な 布 施 波 羅 蜜 - 檀 那 は 、 分 け 与 え る こ と 。 具 体 的 に は 、 財 施 ( 喜 捨 を 行 な う )・ 無 畏施・法施(仏法について教える)などの布施である 2 じ か い し ら 持戒波羅蜜 - 尸羅は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、 出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。 にんにく せんだい 3 忍辱波羅蜜 - 羼提は、耐え忍ぶこと。 4 精進波羅蜜 - 毘梨耶は、努力すること。 5 び ぜんじょう り や ぜ ん な 禅 定 波羅蜜 - 禅那は、特定の対象に心を集中して、 散乱する心を安定させるこ と。段階としては四禅・四無色定・九次第定・百八三昧などがある。 6 ち え だんわくしょうり 智 慧 波 羅 蜜 - 般 若 は 、諸 法 に 通 達 す る 智 と 断 惑 証 理 す る 慧 。前 五 波 羅 蜜 は 、こ の 般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって じょうじゅ 成 就される。 「 般 若 波 羅 蜜 多 」 は 、「 智 慧 の 完 成 」 と 訳 し ま す 。 こ れ は 、 六 度 の 最 後 、 智 慧 波 羅 蜜で述べているように、智慧=般若を修めるには五波羅蜜を修めなければ完成にはな らないのです。 菩薩は仏教において、成仏を求める永遠の修行者です。そのため 六度を実践し、実 践を通して煩悩に苦しむ凡夫である人を導いて下さると考えるのです。また、凡夫も この六度を実践することにより菩薩に近づくことが出来ると思うのです。 仏教の教え(哲学者:中村 元) 仏教は、釈尊の時代から無理に暴力武力を用いて、それを強要すると言う事をしま せんでした。他の宗教では、昔は宗教が違うだけで、必ず武力による闘争が行われて いました。しかし、人類の歴史において多くの宗教が現れましたが、武力によらない で説得だけによって広まったのは仏教だけです。この考え方「相手に対する寛容とい う精神」が、我々の祖先の中でも生き、今でも続いていると思います。 人間の体は王様の飾り立てた車のように、やがては朽ちてしま いますが、人から人 まこと のり に 伝 え ら れ 真 の 法 は 、い つ ま で も 輝 き ま す 。そ の た め 人 か ら 人 に 真 理 が 伝 え ら れ る わ けです。それは永遠の価値を持っているという意味 なのです。 本当の自己というものはどのようなものか、誰でも人間はどこかの場所で、いつか の時点で生まれてきたわけです。そして必ず両親があったわけです。それから育てく れる人があった。助けてくれる人があった。その助けてくれた人の数は無数です。 ま た、ただ人間だけではなく、山川草木などまわりのものが、何か関係をもっている。 それによく考えると、宇宙の彼方から、例えば太陽が光線を送ってくれる。これは太 陽の恩恵も受けているわけです。宇宙にあるいかなるものも、孤立したものではない という思想、宇宙とつながっているという考えがあり、そのつながりがめいめい皆違 うわけです。だから個々の自己は非常に微々たるものと考えるかも知れません 。しか し、実はその内には偉大なものを秘めているわけです。 この偉大なものを受けること を自覚すれば、そこで自分の生きる道はどうかということが、おのずから明らかにな って実現されるということになると思うのです。 じつげつ 仏教の教えというものは、この地上に輝く日月のようなものである。太陽や月が、 あらゆる人を照らすように、仏教の教える真理というものは、あらゆる人に明らかで あり、あらゆる人を照らすというわけです。 続けて釈尊はこういわれました。もしも自分が人々を導くのであるとか、あるいは この修行者の仲間が私を頼っているとか思うならば、私が死ぬということは大変なこ とであろう。しかし私は自分がみんなを導くなんて思ったこともない。またみんなが 自分を頼りにしているなどとも思わなかった。自分はただ人々に真理、真の生き方と いうものを明らかにした、それだけなのだ。だからなにも自分が消えて亡くなったか らといって嘆き悲しむことはない。およそこの世のもので、いつまでも破れないで、 存続し続けるものは何もない。いつかは破れ消え失せるものである。その道理を私は 今 ま で お 前 達 に 説 い て き た で は な い か 、た だ 私 は そ こ に あ る 一 貫 し た 真 理 と い う も の 、 それを説きあかしてきた。だからそれに頼れ。 この変転、つれない世の中では、まず自分に頼るべきである。自分に頼るというこ とはどうであるか。自分はこの場所でどうすべきか、ということをその場所、その場 所で考えることでしょう。その場所で何を判断決定の基準にするかそれは「人間とし ての道」 「 法 」で す 。こ の 道・法 は イ ン ド の 言 葉 で い う と「 ダ ル マ 」と 呼 ば れ る も の で す。これは人間の法理というものです。この「自分に頼ること、法理に頼ること」こ れが釈尊の最後の教えであります。 五常の徳 五常の徳は、孔子、孟子が説いた、仁、義、礼、智の四端(生まれながらに人に具 わっている四つのもの)に、信を加えてまとめられたものである。 仁: 仁は人間が守るべき理想の姿である。自分の生きている役割を理解し、自分を 愛すること、そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することである。単 純 に 情 け 深 い の で は な く( 単 な る 同 情 で は な く )、自 分 に は 厳 し く 周 囲 に は 寛 容 に 、 かつ正義に基づいた慈愛を持って接することが大切である。 織 田 信 長 に は こ の 点 が 欠 け て お り 、敵 ば か り で な く 見 方 に も 非 情 で あ っ た 故 に 、 天下統一ができなかったと言われている。 義: 義とは、人の歩んでいく正しい道のこと。義をおろそかにすることは、道を踏 み外すことになる。仁を実践する基本として、義を貫くことが必要である。本当 に人を愛し思いやる生き方は、勇気を持って正義を貫いてこそ成り立つ。 上杉謙信が「川中島の合戦」のとき、今川・北条側に塩の供給を絶たれた武田 信玄に、塩を自国から供給し、義を貫いた話が有名である。 礼: 人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なことである。親や 目 上 の 人 に 儀 を 尽 く す こ と 、自 分 を 謙 遜 し 、相 手 に 敬 意 を 持 っ て 接 す る こ と が 礼 、 場合に応じて自分を律し、節度を持って行動することが節といえる。 優秀な軍師諸葛孔明を迎える際の「三顧の礼」は三国志の有名な故事である。 智: 智とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵である。さまざまな経験を積む うちに培った知識はやがて変容を遂げ、智となって正しい判断を支える。より智 を高めるには、偏りのない考え方や、物事との接し方に基づいた知識を蓄えるこ とが必要である。 儒教では「中庸」といって、よいバランスを保って生きることが大切とされて いる。 信: 信とは、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼である。嘘の ために損なわれた信頼を、取り戻すことは難しいことである。たとえ、仁なる生 き方を実践していても、人に信頼されないことには社会で生きてはいけない。信 頼は、全ての徳を支えるほどに大切である。 二 宮 尊 徳 は 、「 五 常 講 」 と い う 五 常 の 徳 を 実 践 す る 者 で あ れ ば 、 そ の 心 を 担 保 に 金 を貸す金融の仕組みを作った。この制度は、後の信用組合の原型となった。 人にとって大切なこと、それは自分という人間を追究することにあり、いったい自 分がどんな人間でどんな生き方をすればいいのかを考えることは、周りの人達にとっ ても、社会にとっても良い事だと思う。 この五常の徳の中には、人に対して持つ心と自分に対して持つ心と外面内面両方一 体になって人の心は完成するということが書いてあると思う。 ち な み に 、 南 総 里 見 八 犬 伝 で 有 名 は 「 八 徳 」 は 、 五 常 の 徳 に 、「 忠 」( ま ご こ ろ で 仕 てい え る 心 )、「 孝 」( 親 孝 行 、 先 祖 を 大 切 に す る 心 )、「 悌 」( 仲 良 く す る 心 ) を 加 え た も の で 、 さ ら に 「 胆 」( 動 じ な い 心 )、「 勇 」( や り 遂 げ よ う と す る 心 ) も 必 要 で あ る 。 和顔愛語(わげんあいご) だいむりょうじゅきょう 『大無量寿経』というお経の中に、「和顔愛語」という言葉があります。 「和顔愛語」とは、和やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することです。 せんいじょうもん この言葉は、さらにこう続きます。「先意承問」。これは相手の気持ちを先に察し て、その望みを受け取り、自分が満たしてあげるという意味です。つまり、「和顔愛 語 先意承問」とは、和やかな顔と思いやりの言葉で人に接して相手の気持ちをいた わり、先に相手の気持ちを察して、相手のために何ができるか自分自身に問いただす ということになります。 辛いときや嫌なことがあったとき、愚痴をこぼしたくなるとき、そんなときこそ、 まず自分から笑顔と優しい言葉で周りの人に接する姿勢、それが「和顔愛語」です。 しかし、自分自身が「和顔愛語」を実践するとなると、簡単ではありません。気分が 悪いときはなかなか笑顔になれないものです。愛情を感じていない相手に、思いやり のあるやさしい言葉をかけるのも、抵抗があるものです。そこで大切なのが「先意承 問」、つまり「相手のことを先に考えて、与えること」です。笑顔になってほしいの ならば、まずは相手に笑顔を見せることです。優しい言葉をかけてほしいのならば、 まずは相手に優しい言葉をかけてあげることです。幸せを求めるならば、まずは相手 に幸せを与えることです。自分から先に相手の気持ちを重んじて、相手の幸 せを考え るのです。大切なのは、思いやりです。その心を仏教では「慈悲」といいます。私た ちが穏やかに生きるためには、みんなが「慈悲」の心を持つことが大切です。自分も 相手も、ともに思いやることを心がけていれば、心がまぁるく穏やかになります。 な な せ たから 仏 道 修 行 の 中 に 、「 無 財 の 七 施 」と い う も の が あ り ま す 。こ れ は 、 財 が な く て も で き る 七 通 り の お 布 施 の 修 行 で す 。こ の 7 つ の 中 に 、「 和 顔 悦 色 施 」(わ げ ん え つ し き せ ) と 「 言 辞 施 」 (ご ん じ せ )と い う 、 和 や か な 顔 と 優 し い 言 葉 を 与 え る 修 行 が あ り ま す 。 こ れ と 同 じ よ う に 、「 和 顔 愛 語 」も 修 行 の 一 つ な の で す 。い つ も 穏 や か な 顔 で い れ ば 、 心も穏やかになります。周りにいたわりの言葉をかけていれば、自然と心が優しくな ります。 笑顔で相手に優しい言葉をかける。相手がその言葉によって心が明るくなり、幸せ を感じる。自分が幸せであるだけでなく、まわりの人も幸せにしていこうと感じる。 さ ら に そ の 行 動 や 言 葉 が 、ま た 自 然 と 周 囲 の 人 び と の 心 を 明 る く す る 。分 け 隔 て な く 、 優しく、平和な世の中になる。そんな世の中に生きる自分の心も幸せになる。いかが でしょうか。 みんなが「和顔愛語」を心がければ、みんなの心がまぁるくなり、笑顔が循環する 素敵な世の中になると思いませんか。まずは身近なところで実践してみましょう。家 庭から、職場から、学校から。親しい間柄ほど、なかなか実行できないということも あるでしょう。すぐに笑顔や優しい言葉かけが身につくというものではないかもしれ ません。しかし、その努力をするところにこそ、大きな意味 があります。それが一人 からでも始められる明るい世の中をつくる一歩であり、あなた自身の仏道修行なので すから。 無財の七施 ぞ う ほ う ぞ う きょう ち え ほどこ 雑 宝 蔵 経 と い う 経 の 中 で 、釈 尊 は「 財 力 や 智 慧 が 無 く て も 七 施 と し て 、七 つ の 施 し が出来る」ことを教え示されています。無財と云うのは、費用も資本もそして能力も 使わないで実行できる布施のことなのです。 その七つの布施とは。 じ げ ん せ 一、眼施(慈眼施) いつく まなこ 慈 しみの 眼 、優しい目つきですべてに接することである。 わ げ ん え つ し き せ 二、和顔施(和顔悦色施) いつも和やかに、おだやかな顔つきをもって人に対することである。 ご ん じ せ 三、愛語施(言辞施) ものやさしい言葉を使うことである。しかし叱るときは厳しく、愛情こもった厳 しさが必要である。思いやりのこもった態度と言葉を使うことを言うのである。 し ん せ し ゃ し せ 四、身施(捨身施) 自分の体で奉仕すること。模範的な行動を、身をもって実践することである。 人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。 し ん り ょ せ 五、心施(心慮施) 自分以外のものの為に心を配り、心底から、共に喜んであげられる、ともに悲し むことが出来る、他人が受けた心のキズを、自分のキズのいたみとして感じとれる ようになることである。 し ょ う ざ せ 六、床座施 ゆず わかり易く云えば、座席を譲ることである。疲れていても、電車の中ではよろこ んで席を譲ってあげることを言う。さらには、自分のライバルの為にさえも、自分 の地位をゆずっても悔いないでいられること等。 ぼ う じ ゃ せ 七、房舎施 雨や風をしのぐ所を与えること。たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブ濡 れになりながらも、相手に雨のかからないようにしてやること、思いやりの心を持 ってすべての行動をすることである。 以上が無財の七施であるが、すべて仏の立場に立っての慈悲の実践なのです。 お金が無くても、地位が無くても、何の持ち合わせが無くとも、簡単なようで難し いことではすが、いつでも、どこでも、誰に対してでもできることです。 また布施は、めぐむと考えることから、他のために一生懸命につくしても 「してや った」という気持ちが、心のすみのどこかについてしまうときがあります。これでは ほどこ せ っ か く の 布 施 の 行 も 、 施 し と は な ら な く な っ て し ま う の で す 。本 当 の 意 味 で 布 施 と いうのは、他のものの為につくしても、役立つことが出来たとすらも考えようとしな いことなのです。ですから布施という難しい仏教語を使うより「よろこんでもらうこ と」と言い換えたら分かりやすいのだとも思います。 人の喜び、悲しみを、我が喜び、我が悲 しみとする心こそが、人としての道が開か れ、人を喜ばすことを考えて、それを実践すること が布施と思うのです。 一生成香 こう 一 生 成 香 は 、 良 寛 さ ん の 座 右 の 銘 で 、 読 み は 、「 一 生 、 香 を 成 せ 」。 解 釈 は 、「 生 涯 かお かぐわ い い 香 り を 発 し な が ら 生 き よ 」。意 味 は 、 「 香 し い 風 と な り 、多 く の 人 々 の 心 を 喜 ば せ ること。その人が居るだけ、あるいは来ただけで、その場にいる人達が心なごむ、そ ん な 人 間 に な り な さ い 。」 だ そ う で す 。 じょひん も ん じ ゅ 出典は法華経の一番初めの序品にある文殊菩薩が「栴檀香風、悦可衆心」と読ん せんだん こうふう しゅう え つ か だ 詩 に ち な み ま す 。読 み は「 栴 檀 の 香 風 、 衆 の 心 を 悦 可 す 。」と い う も の で 、意 味 は 、 ほうこう 「どこからともなく神々しい芳香が風のように吹いてくる人は、大勢の人に深い愛情 よろこ を 抱 か せ 、人 々 の 心 を 自 然 に 悦 ば せ て く れ る 。」と い う 意 味 だ そ う で す 。良 寛 さ ん は 、 しんすい 道元に心酔し、さらに法華経を深く学んでいましたので、良寛さんらしい座右の銘だ と思います。 せんだん びゃくだん ま た 、 栴 檀 は 白 檀 の こ と を い い 、白 檀 は 香 木 で あ り 、双 葉 の と き か ら 非 常 に よ い 芳 ふ た ば かんば 香 を 放 つ と 言 わ れ て い ま す 。 そ の た め 、「 栴 檀 は 双 葉 よ り 芳 し 」 と い う 言 葉 も あ り 、 いっ すぐれた人物は幼少時代から他を逸したものを持っていると言われます。 香りには色も形もありませんが、人の心に影響を与えるものです。よい香りを嗅ぐ と心が落着き、気分もよくなります。悪い香りを嗅ぐと気分が悪くなってきます。 かおり さわ 一 人 一 人 が 、よ い 香 を 放 せ ば 、ま わ り の 人 を 爽 や か に し た り 、和 や か に し た り 、幸 せにしたりすることが出来、きっと穏やかな明るい世の中になると思うのです 。 燈燈無尽(とうとうむじん) こ の 言 葉 は 、「 維 魔 経 」( ゆ い ま き ょ う ) と い う 古 い 仏 教 の 経 典 に あ る 「 無 尽 燈 (む じ ん と う )」 と い う 言 葉 か ら 生 ま れ て い ま す 。 そ の 昔 ・・・・。 釈 尊 (ぶ っ た )( 釈 迦 牟 尼 世 尊 (し ゃ か む に そ ん )の 略 ) は 亡 く な ら れ る 前に、お弟子さんを伴って北へ北へと旅をしていました。その旅の途中に「ヴェーサ ー リ 」 と い う 美 し い 街 に 立 ち 寄 ら れ ま す 。 そ の 街 に 維 魔 (ゆ い ま )と い う 人 が 住 ん で い ま し た 。 維 魔 は 「 資 財 無 量 」( 裕 福 で 人 望 が あ る ) な 人 で 、 悟 り を ひ ら き 不 思 議 な 力 をもって、いつも苦しんでいる人や貧しい人たちを 助けていました。その維魔が病気 になって床に伏せた時、釈尊はお弟子さんたちを集めてこう言いました。 「誰か私の代わりに維魔を見舞ってはくれないか」 しかし、お弟子さんたちは、何でも良く分かる維魔に尻込みをして、誰も行こうと は し て く れ ま せ ん 。 釈 尊 が 、 お 弟 子 さ ん の 一 人 で あ る 持 世 菩 薩 (じ せ ぼ さ つ )に 見 舞 い に行くよう言いましたが、やはり見舞いには行けないと言います。どうして行けない のかと釈尊が尋ねると、持世菩薩は、昔維魔と出会った時の話をします。 あ る 日 ・・・。持 世 菩 薩 が 静 か な 部 屋 に 座 っ て い る と 、魔 波 旬 (ま は じ ゅ ん )( 正 し い 教 えを破壊する魔王。仏やその弟子たちに付きまとって仏道修行・解脱の妨げをする) が 、 た く さ ん の 天 女 を 従 え て 、 音 楽 を 奏 し な が ら 帝 釈 天 (た い し ゃ く て ん )の 格 好 を し てやってきました。帝釈天が魔波旬とは知らない持世菩薩は、帝釈天に説法をし始め たのです。 「いい話をしてくれた」 魔波旬はそう言って、私の天女を侍女としてさしあげようと言います。 「とんでもない」と押し問答が始まってしまいます。 そこへ維魔がやってきて「わたしがもらってあげよう」と言います。 神通力のある維魔の前にあっては、さすがの魔波旬も慌てふためいて、逃げようと しますが逃げることができません。 すると天上から「悪魔よ天女を維魔に与えるなら逃げることができるぞ」という声 が聞こえてきました。魔波旬は慌てて天女を維魔に与えて去ってしまいます。その時 維魔は残された天女たちに説法し、さとりに向かいたいという気持ちを起こさせまし た。天女たちは、皆魔波旬のところには帰りたくないと言い出してしまいました。困 ったのは魔波旬です。 「なんとかしてくれ」と維魔に助けを乞います。 そ こ で 、維 魔 が 天 女 た ち に 教 え た の が「 無 尽 燈 (む じ ん と う )」と い う 言 葉 な の で す 。 「た った一つの燈が、百千もの無数の燈に火を付けていく。そして、皆が明るくなり、そ の燈が絶えることがない。それが無尽燈という考え方だ。あなたたちも自分自身の心 の中にあるさとりの燈を、魔波旬のところにいる大勢の天子や天女たちの心の燈に火 をつけて歩くのだ。一人の人が百千の人々をさとりに向かわせたとすると、それが無 尽 燈 で あ る 。」 こ う し て 、 天 女 た ち は 新 し い 気 持 ち に な っ て 帰 っ て い く の で し た 。 ともしび運動 つきることのないともしびを人の心に点していこう。 この思いを形にする運動を起こそうと、昭和51年に当時の神奈川県 知事 長洲一二 が提唱した運動が「ともしび運動」です。 一燈をもちよろう ―と も し び 運 動 県 民 の み な さ ま へ ― 肩が触れあうような都会の中で、ひとり暮しのお年寄りがひっそりと果てて、何日 も発見されなかった-こんなニュースが繰り返されています。悲しいことです。 今 “物 ”の 面 だ け で い え ば 、 豊 か で 、 便 利 で 、 日 常 生 活 の す み ず み ま で 、 き め 細 か い 工夫が凝らされています。それに引きかえ、何か寒々と冷えきってしまったかに見え る “心 ”の 世 界 。 一見、自由に、合理的に生きているようで実は、ひとりひとりがバラバラで、寂し く味気なく感じられる世の中。 いや、私は固く信じます。私たちがもともと持っていた隣人へのあの何げなく温か い思いやりの心は、けっしてなくなったわけではない。人が人を求め、心が心を呼び あう人間本来の願いは、いまも私たちの胸の底深く、静かに燃えているはずだ。 その火を思いきって外に出しましょう。みんなで高々とかかげましょう。 人 生 と い う 長 い 旅 路 に は 、山 も あ り 、川 も あ り 、天 気 の 日 も あ ら し の 日 も あ り ま す 。 運悪く足を傷めることもあります。 人間はすべて、多かれ少なかれ重荷を背負って歩む、共に旅する仲間です。特別 重 い荷を負う疲れた仲間が身近かにいれば、声をかけ、励ましあい、肩をかして、いっ し ょ に 歩 い て い く ―こ れ が 人 生 の 生 き 方 で あ り ま し ょ う 。 私たちはだれでも例外なく老人になります。このひしめき合う現代、思いもよらぬ 事故に出合って、あすにも不自由な身になることもありえます。 お年寄りも若者も、健常者も障害者も、みんなが手を握り、肩を組みあって、生き が い を 見 い だ す 世 の 中 を つ く り た い ―そ ん な 願 い を こ め て 、 “と も し び 運 動 ”を 始 め ま した。 “と も し び ”―こ れ は 古 い 仏 典 の 一 句 “燈 々 無 尽 ”か ら お 借 り し た こ と ば で す 。ひ と り の 胸にともった小さなともしびも、それを次から次へと点じてゆけば、尽きることなく 広がって、太陽のように明るく暖かく、この神奈川を照らすことを、私は確信いたし ます。 県 は 、行 政 の 立 場 で 、全 力 を 傾 け て 努 力 い た し ま す 。ど う ぞ 、ご べ ん た つ く だ さ い 。 同時に、県民のみなさまにもお願いします。 み な さ ん そ れ ぞ れ 、ご 自 分 の お 考 え で 、お で き に な る 場 所 で 、お で き に な る と き に 、 お で き に な る こ と で 、 “と も し び 運 動 ”に ご 参 加 く だ さ い ま せ ん か 。 た と え ど ん な に 小 さ な 火 で も 、 ひ と り ひ と り 、 み ん な が 持 ち 寄 る “一 燈 運 動 ”を 、 お 考 え く だ さ い ま せ ん か。 ぼんのう そ く ぼ だ い 煩悩 即菩提 真の悟りとは煩悩を知ることによって得られるものだということ。 しんにょすなわち 煩 悩 に と ら わ れ て い る 姿 も 、 そ の 本 体 は 真 実 不 変 の 真 如 即 ち 菩 提 (悟 り ) であり、煩悩と菩提は別のものではないということ。 煩悩と悟りとは、ともに空(くう)なるもと、本来は不二(ふに)・相即(そうそく) していること。煩悩がそのまま悟りの縁となること。大乗仏教の用語で、積極的にはすべ ては真実不変の真如(しんにょ)の現れであり、悟りの実現をさまたげる煩悩も真如の現 れにほかならず、それを離れて別に悟りはないことをいう。 せ い し そくねはん 生死 即涅槃 ぶ っ ち しゅじょう 大乗仏教の空観(くうがん)に由来するもので、悟った 仏智 から見たならば、迷える 衆 生 しょうじょう ね は ん (現実)の生死の世界そのも のが不生不滅の 清 浄 な涅槃 の境地であるという意。煩悩即 はて 菩提と対句で用いられる。煩悩のために生死の果 (迷界の苦果)があり、菩提によって涅 槃の果(悟界の証果)があるというような、両者が互いに隔絶した位置関係にあるのは、 凡夫(ぼんぷ)が執着(しゅうじゃく)し迷っているからであり、ひとたび仏智見を得た ならば、煩悩には煩悩の相はなく、菩提には菩提の相はなくなっており、いとうべき生死 もなく、求むべき涅槃もない。積極的にいえば、煩悩と菩提、生死と涅槃は不二・相即し ている。こうして、生死即涅槃と煩悩即菩提の2句は連用される。 煩悩:(1)心身を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげる心のはたらき。貪(どん)・瞋(じ ん) ・痴(ち)のいわゆる三毒が煩悩の根源的なものであり、とくにその中の<痴> 、すな いんねん わち物事の正しい道理を知らないこと、すなわち十二 因縁 の<無明(むみょう)>に当た る状態が、もっとも根本的なものとされる。煩悩は、自己中心の考え、それにもとづく事 物への執着から生ずる。この意味で十二因縁中の<愛>は、ときに煩悩のうちでも根本的 なものとされる。(2)心 を 強 く ひ き つ け る 欲 望 、あ る い は 心 身 を 悩 ま し 苦 し め 、 煩わせてけがす精神的作用 [対 語 ] 悟り、正覚 菩提:サンスクリット語 bodhi の音写。仏陀の混ざり気のない正しい悟りの智。一切の煩 悩から解放された、迷いのない状態。涅槃(ねはん:すべての煩悩の火が消えてすがすが しい心身の状態になった境地)と同義。 真如:「あるがままであること」という意味があり、真理のことを指す。 ぶ っ ち 仏智 :仏の欠けたところのない智慧(ちえ)。 しゅじょう 衆 生 :心をもつすべての存在。苦のある世界である三界を輪廻(りんね)する。「人々」と いう意味で使われることが多い。時として、仏・菩薩をも含めることがある。 しょうじょう 清 浄 :(1)清らかでけがれのない・こと(さま)。せいじょう。(2)〔仏〕 煩悩(ぼんのう) や罪などがなく、清らかなこと。「六根―」 ね は ん 涅槃 :(1)あらゆる煩悩(ぼんのう)が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地。究極の理想 の境地。悟りの世界。(2)死ぬこと。また、死。入寂(にゆうじやく)。 ぼ ん ぷ 凡夫 :(1)平凡な普通の人。凡人。(2)〔仏〕 仏教の真理に目ざめることなく、欲望や執 着などの煩悩(ぼんのう)に支配されて生きている人間。異生(いしよう)。 ふ じ 不二 :(1)二つとないこと。無二。「この不同―の乾坤(けんこん)を建立し得るの点に於て /草枕(漱石)」(2)二つでなくて、同一であること。等しいこと。「塵体の―に達し、滴心 の如一を覚るは/性霊集」(3)手紙の末尾に記して、十分に意を尽くさないという意を表す 語。ふに。 そうそく 相即:華厳思想で、万物が互いに他の全事物を含みこんで、一体とし て存在していること。 ろ っ こ ん しょうじょう 六根 清 浄 仏法では、衆生の苦悩の原因を迷いの生命の根源である煩悩 (ぼん のう) から引き起こ されるものと解明しています。その衆生の迷いの生命を浄化し、悪い性 (さが) を断ち切 るという果報が、まさに「六根清浄」の功徳なのです。 六根の「根」とは、草木の根に譬 (たと) えられ、私たちの生命が周囲のものを取り入 れたり、認識する能力のことで、眼根 (げんこん)・耳根 (にこん)・鼻根 (びこん)・舌根 (ぜっこん)・身根 (しんこん)・意根 (いこん) の六つの器官をいいます。 眼根とは、視覚能力・視覚器官。耳根とは、聴覚能力とその器官。鼻根とは、嗅覚 (き ゅうか く) 能力とその器官。舌根とは、味覚能力とその器官。身根とは、触覚 ( しょっか く) 器官としての身体とその能力。意根とは、前の五根によって得られた内容を統合判断 する思惟 (しゆい) 能力、または知覚をいいます。 この六根が煩悩に覆(おお)われていると、外界の事象を正しく認識できないばかりか、 それにともなう行動も誤ったものとなり、苦しみの原因を作ることになるのです。 こうした業苦を消滅させるためには、六根そのものを清らかな状態にしていくことが必 要です。 『法師 (ほっし) 功徳品 (くどくほん) 第十九』には、「是 (こ) の法華経を受持し、若 (も) しは読み、若しは誦 (じゅ) し、若しは解説 (げせつ) し、若しは書写 (しょしゃ) せん。是の人は、当 ( まさ) に八百の眼 ( ま なこ) の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻 の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意 (こころ) の功徳を得べし。是 の功徳を以(もっ)て、六根を荘厳(しょうごん)して、皆清浄ならしめん」 (開結四七四) と説かれ、法華経受持の功徳によって、六根それぞれに多くの清浄の果報を得ることが明 かされています。これを概説 (がいせつ) すると、次のようになります。 眼根の功徳―すべての事象が明らかに見え、物事の因果を正確に知ることができる。 耳根の功徳―あらゆる音声から、実 (じつ)・不実を聞き分けることができる。 鼻根の功徳―あらゆる臭 (にお) いを嗅 (か) ぎ分け、分別 (ふんべつ) を誤ることがな くなる。 舌根の功徳―勝 (すぐ) れた味覚を持ち、さらにその声は深妙 (じんみょう) となり、聞 く者を喜ばせることができる。 身根の功徳―穏 (おだ) やかで健全な身体となり、外界の刺激に適合させ、自身を処す ることができる。 意根の功徳―心は清らかに、頭脳は明晰 (めいせき) となり、智慧が深くなる。 すなわち、六根清浄とは六根にそなわる煩悩の汚 (けが) れが払い落とされ、物事を正 ち え しく判断できる智慧 を得ることをいうのです。たとえば目が不自由であったとしても、妙 法受持の功徳によって、肉眼 (にくげん) 以上の慧眼 (えげん)・法眼・仏眼を得ることが できるのであり、このような功徳は他の五根にもつうじていえることなのです。 日蓮大聖人は、 「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今 (いま) 日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る 者は六根清浄なり」 (御義口伝 新編一七七五)と仰せられ、末法の法華経である南無妙法 蓮華経を信じ唱える者には、必ず六根清浄の功徳がそなわると教示されています。 禅の修行 雲水(うんすい) 禅の修行僧のことを「雲水」とよびます。『正法眼蔵隋聞記』には「雲の如く定まれる 住所もなく、水の如く流れゆきて、よる処もなきをこそ僧といふなり」とあるように、本 来、行雲流水のごとく諸国の師をたずね、道を求めて行脚する修行僧を「雲水」といいま す。転じて禅寺で修行生活を送る僧をもいうようになっています。 かいじょう 開静 《静睡(じょうすい)を開覚する意》1 禅宗寺院で、早朝、版をたたいて、起床を促すこ と。2 曹洞宗で、座禅をやめて座を離れること。 かいはん 開板 けやき 禅堂の前門の扉の脇に厚い 欅 の「木板」が吊り下げられています。時を知らせるために 1日に幾度か打ち鳴らされます。開静で堂内大衆が起きた後に、侍者(侍者寮子)はこの 時鐘とも言うべき「開板」を鳴らします。数々の「鳴らしもの」の合図によって修行道場 の1日は動いていきます。 き く 規矩 (規則) 修行道場では生活すべてを、百丈禅師という禅堂制度の創始者が定めたきまり「百丈清 規」を基盤にしています。難しい法式の類から箸の上げ下ろし、下駄の脱ぎ方まで出処進 退規則ずくめなのです。 この時代に僧堂ほど上下の関係が厳しいところもないと思います。古い先輩を「高単(こ うたん)」 「中単(なかたん)」 「末単(ばったん)」と分けています。10年、20年と修行 している超古参は「評席(ひょうせき)」とよばれて、僧堂の運営を行っています。この序 列はすべて年功で、年齢、学歴、出身は一切関係がありません。有能だとかそういうこと も関係ありません。1日早ければ1日の長として仕えねばなりません。 しゅっとう 出頭 ていしょう 「出頭」はお勤め、 提 唱 (老師の講義)、食事などに参集することです。全て鳴らしも ほうつづみ うんはん た く き のの合図によって動きます。本堂の行事は半鐘・ 法 鼓 、食事は雲板 、柝木 (拍子木)総茶 かんしょう たん 礼や入浴には柝木、参禅には 喚 鐘 といった鳴らしものが使われます。開静の後、自分の 単 け さ で ん し に戻り袈裟 を着けて出頭を待ちます。本堂では出頭準備の五声の「支度」が 殿司 によって ふきょう 必ず打たれます。禅堂では役位入堂の後、開山諷経 が行なわれ、終わりの三声(お経終了 れんじょう ちょくにち の合図)が鳴って、すぐに本堂から 連 声 の「出頭」が点打され始めます。この音と 直 日 の いんけい こ お う 引馨 が呼応 して一同は禅堂を出て本堂へと向かいます。前門(禅堂の正面の門)の出入り は出頭・参禅以外は許されず、当然規矩によって雲水の横行はみられません。歩く時は二 がんこう さしゅとうきょう 人以上は必ず雁行 し、叉手当胸 して一切無言です。偉そうに歩いたり、履物を引きずって しっせき 歩いたりすればたちまち古参の雲水に叱責 されます。 「鳴らしもの」によってのみ応じ、無 言のうちに行動をするのです。 ちょうか 朝課 朝のお勤めのことです。まだ暁の闇は深く、本堂内も薄暗いです。本堂に出頭してきた 雲水たちは「維那(いのう)」の読む経首にあわせて読経します。読経が終わると維那はそ は ん に ゃ しんぎょう しょうさいじゅ かんのんきょう の都度「回向文」を朗唱します。僧堂で読まれるお経は「 般若 心 経 」「消 災 呪 」「観 音 経 」 だ い ひ じゅ かんろもん そんしょう だ ら に りょうげんじゅ こんごうきょう ほつがんもん 「大悲 呪 」「甘露門 」「 尊 勝 陀羅尼 」「楞 厳 呪 」「金 剛 経 」「発願文 」などです。 は ん に ゃ しんぎょう 般若 心 経 :膨大な般若経の内容を簡潔に表した経典。1 巻。漢訳は鳩摩羅什 (くまらじゅう) 訳など 7 種あるが、日本では、「色即是空、空即是色」の句のある玄奘 (げんじょう ) 訳が読 経用に広く用いられる。般若波羅蜜多心経。心経。 しょうさいじゅ 消 災 呪 :わざわいを消す呪文。災厄を除く真言。 かんのんきょう 観 音 経 : 法華経第 25 品、観世音菩薩普門品 (ふ も ん ぼ ん )の通称。→普門品 だ い ひ じゅ 大悲 呪 :千手観音の功徳を説く 82 句の陀羅尼(だらに)。「千手観音大悲陀羅尼経」に記さ れる。 かんろもん 甘露門 :甘露ということばは、仏典などにもしばしば現れ、ありがたい如来の説法を「甘 露の法雨」と称したり、涅槃(ねはん)にいたる門のことを甘露門などといったりする。 そんしょう だ ら に 尊 勝 陀羅尼:尊勝仏頂の悟りや功徳(くどく)を説いた陀羅尼。読誦(どくじゅ)すると罪障 消滅や除災・延寿の功徳があるとされる。仏頂尊勝陀羅尼。 りょうげんじゅ 楞 厳 呪 :禅宗各派の様々な儀式で唱えられてきたお経(陀羅尼=ダラニ)のこと。 こんごうきょう 金 剛 経 :「金剛般若 (は ん に ゃ ) 経」の略。 ほつがんもん まくらきょう 発願文 :人が亡くなったときに最初に読まれる 枕 経 と呼ばれるもの。 まくらきょう 枕 経 :死者の枕元で読経 (どきよう) をすること。また、その経。特に、納棺に先立って行 われるものをいう。 どうないふきょう 堂内 諷経 しょうそう 朝課が終わると、本堂から引き揚げてきます。そしてすぐ禅堂の仏さま「 聖 僧 」さんに えこうもん お経(心経・消災呪)をとなえます。最後に直日が 回向文 をとなえ終わると、その引馨に 従って大衆は一斉に単布団の上に坐具を広げ、今日1日の無事を祈って五体投地の三拝を 行ないます。 じょうじゅう ふ き ょ う 常 住 諷経 堂内の大衆と共に朝課を終えた常住非番員は、「韋駄天」さまの前に移動してお経(心 かっちゅう 経、消災呪)をとなえます。世間では「韋駄天走り」などで意外と有名な 甲 冑 を身に着け く り まつ たこの仏さまは、仏法、建物を守護する天神で、どんなお寺にも 庫裏 には必ず祀 られてい しゅんそく ます。(禅宗しか知りませんが…)韋駄天諷経の時は、仏さまも 駿 足 で有名(韋駄天走り) ですが、お経も速く読むことになっています。殿司の振鈴の合図によってお経は読まれて いきます。 て ん ぞ 典座 開静と同時に常住では、まず「典座」が真っ先に朝食のお粥の準備にかかります。一般 的に「飯炊き」 「お勝手係」といえば「おさんどん」というイメージがあり、軽いポストと 思われていますが、僧堂では全くの正反対です。僧堂の役寮の中でも「典座」は重要なポ ストなのです。大勢の大衆の生命をあずかり、縁の下の力持ち的料理番の典座は、僧堂で だん し ん と く よ う 収穫された野菜や、檀 信徒 からの供養 の素材を心を込めて調理して一切無駄のないように 使うことに気を配っています。 《「ぞ(座)」は唐音》禅宗寺院で、大衆の炊飯などの食事をつかさどる役職。もとは床座・ 衣服などをつかさどった。六知事の一。 ろく ち じ 六 知事:禅宗寺院で、雑事や庶務をつかさどる六つの 役職。都寺(つうす)・監寺(かんす)・ 副寺(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)の総称。 どくさん 独参 堂内諷経(常住では韋駄天諷経)が終わり、袈裟をはずしてしばらく待ちます。程なく 朝の「独参」 (参禅)の喚鐘が鳴ります。すると雲水たちは一斉に単から降りて禅堂を飛び いんりょう りんざいしゅう 出し、長い渡り廊下を走り、老師の部屋がある 隠 寮 へと向かいます。臨 済 宗 には独特の試 験問題「公案」があります。老師の部屋に入り、その見解を述べる「入室」を普通は「独 参」といいます。その「公案」とは、禅宗史上数多い祖師、和尚たちの語録や行動の記録 を「課題」として修行者に示し、悟りに導くために工夫させるものです。その数は170 0あまりあるそうです。 はんだい み 飯台 看 飯器(はんき)、菜器(さいき)、湯器(とうき)、折水器(せっすいき)、生飯器(さば き)これらの器を使って給仕をする係りを「飯台看」といいます。この食事当番は堂内衆 と常住から1人ずつ出て、また交代制で廻ってきます。食堂(じきどう)では、大衆に給 仕するのですが食事中は読経以外一切無言なので、相手の合掌や手のサインで加減します 。 しゅくざ 粥座 「飯台看」の鳴らす雲板を合図に、大衆は直日に先導されて食堂へと向かいます。玄関 と本堂との間の畳敷きの廊下(?)が食堂です。着座して食事のためのいくつものお経を しょうめし となえ、各自持鉢を開いて飯台看から給仕してもらいます。生 飯 を箸でつまみだして餓鬼 た く き に供えます。「看頭(かんとう)」の柝木 一声で、一斉に低頭してはじめて箸をとって食べ ます。朝は「粥座」と称する薄い粥です。それと梅干と薄く切った沢庵がでます。もちろ ん一切無言です。粥のすする音も、漬物をかむ音も、器を置く時の音までも出すことは許 されません。こうした雰囲気の中で食事が終わり、持鉢の中に一杯のお茶を注いでもらい、 そのお茶にて洗鉢して、布巾で拭いて持鉢をしまいます。そしてまたお経をとなえてから、 退堂します。 はつあんぎゃ 初行脚 禅宗の僧となるには、たとえ専門の大学を卒業しても、一度は必ず専門道場に入門して、 修行僧として生活しなくてはなりません。僧堂の入門は掛塔(かとう)といいます。掛塔 志願者の多くは大学を卒業したての若者がほとんどです。 かしゃく 掛錫 《錫杖(しゃくじょう)を僧堂の壁に掛ける意》行脚の禅僧が、僧堂に滞在し修行すること。 転じて、僧堂に籍をおいて修行すること。掛搭(かた)。→飛錫(ひしゃく) にわづめ 庭詰 山門をくぐって玄関へと入り、式台に低頭して意を決して「ターノーミーマーショーウ」 と大声を出しました。すると中から「ドーレー」と応答があり取次ぎの雲水が現れます。 入門の許しを請うと「当道場はただいま満衆(満員)につき、庫下も廻りかねますので(お 寺の会計も苦しいので)お引取り下さい」と断られるのです。しかしいくら追い払われて も重ねて許しを請わねばならないのです。玄関先に斜めに腰をかけ、袈裟行李の上に頭を 乗せて低頭懇願するのです。用便に立つ以外はそこを動かずに座り込んで低頭を続けます。 受付の雲水に引きずり出されたりもしますが、それでも舞い戻って続けます。ここでは修 行に対する決意を試しているのです。 とうしゅく 投宿 3時ころと思われるころ、 「日も落ち、足元も暗くなりましたのでご投宿(とうしゅく)を わ ら じ お願いいたします」という声。勝手口から中に入り、 草鞋 を脱いで運ばれたバケツの水で 足をすすぎ、玄関脇の小部屋に上がり込み、袈裟文庫を自分の前に立てかけて対面して落 ち着くと少しほっとする思い。ようやく不自由な体勢から解放されたものの、身体のあち こちが痛く、また初めてのことばかりが続き、心も疲れた、そんな1日でした。 た ん が 旦過 旦過とは「夕刻来たり、翌朝(旦)過ぎ去る」いう意味だそうです。 たんがづめ 旦過詰 3日めの朝になると朝の追いたては無くなります。第一の関門を通過出来たのです。 ですが、さらに厳しい試練が待っています。「旦過詰(たんがづめ)」です。5日間、お勤 めと食事と用便以外は立つことも許されず、ひたすら壁に向かって坐禅に明け暮れるので す。このつらく厳しい期間を耐え抜いた者だけが晴れて僧堂へ知客(しか) 「知客(しか)」 は来客や修行僧に応接し、僧堂の綱紀を司り、僧堂全体を取り締まる役のことです。ちな みに現在では、「副司(ふうす)」が兼務することが多いそうです。副司とは会計を司る役 です。5日間の旦過詰が終わり、山門をくぐって8日目の朝に知客さんの前に連れて行か れ、教えられながら恐る恐る低頭すると「今まで随分お断りしてきましたが、あなた達は 願心も堅いようですし、それにただ今欠員も出来たので、僧堂入りを許可しましょう。」と の話。ようやく入門出来るのです。 さんどう 参堂 知客さんの話が終わり、禅堂へ向かいます。禅堂は庫裏から渡り廊下で結ばれている別 ず し かしょうそんしゃ 棟で、天井は高く中は一面の敷き瓦、正面の厨子 には「迦葉 尊者(聖僧)」が祀られ、左右 両側が一段高くなって畳敷きになっている大きな建物です。案内の「侍者(聖僧に仕え禅 堂、大衆の世話をする役)」さんの指示に従い、袈裟、足袋を着け、居並ぶ大衆(修行僧た ち)にひとりずつに低頭します。役位入堂のあと、まず聖僧さまにこれからの僧堂生活の 無事を祈る三拝をします。そして「直日(じきじつ)」さんという禅堂取締り役の前に行き、 お願い致しますの意味の低頭。それが終わり、自分の席となった場所に着き、座ったと同 時に侍者が「新到(しんとう)ぉ~参堂ぉ~」と大声で叫ばれます。すると座っていた先輩 達は一斉にその場で低頭をします。これで仲間入りとなります。 あんたん 安単 これでようやく落ち着きました。直日単とよばれると畳十畳くらいの場所の末席の畳一 枚がこれから自分の席となります。 「起きて半畳、寝て一畳」といわれるようにめいめいが 指定された畳一畳分のスペースで、坐禅したり、単の縁で食事したり、夜は布団に入って 寝たりするわけです。自席の後ろには身の回りの物を収める物入れなどがあり、袈裟、お 経の本、持鉢(食器)など各自の持ち物はすべて単の所定の場所に置く事になっています。 同じ時期に掛塔した仲間は「同夏(どうげ)」といって、これからずっとお互い励ましあい 助け合っていくことになります。 しょうけん 相見 た び 参堂してから1週間ほど経ったころ「老師相見」と告げられました。袈裟、 足袋 をつけ 同時期に参堂した同夏と共に隠寮(老師の部屋)へ行きます。緊張しながら副司さんに教 えられた作法どおりに、まず新到頭の「玄さん」が「相見香」を供え、そして全員で老師 に三拝し、低頭します。そして老師から修行についての訓戒を受けます。 だいにちにょらい 大日 如来 へんじょう に ょ ら い だいじょうぶっきょう 大日如来は、 遍 照 如来 ともいい、 大 乗 仏 教 における如来の一。宇宙と一体と考えられ はんしん ぶ っ だ だい び る し ゃ な じょうぶつ し ん ぺ ん か じ きょう る汎神 論的な真言宗などの密教の仏陀(法身仏)であり、大 毘盧 遮那 成 仏 神変 加持 経 (大 きょうしゅ び る し ゃ な にょらい あまね へんじょう 日経)の 教 主 毘盧 遮那 如来 である。その光明が 遍 く照らすところから 遍 照 、または大日 た い ぞ う ま ん だ ら ちゅうだい は ち よ う ん きゅうそん こんごうちょうきょう という。大日経の説く胎藏 曼荼羅 中 台 八葉院 九 尊 の主であり、 金 剛 頂 経 の説く金剛界曼 ご ち 荼羅五智 如来の中心。空海の開いた真言宗において、究極的には修行者自身と一体化すべ ある きものとして最も重要な仏陀である。不動明王は、密教の根本尊である大日如来の化身、或 いはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。 大日如来は、真言密教において一切諸仏諸尊の根本仏として帰依し観想されている本尊 ち え です。 大日如来の名前は、大日の智恵 の光が、昼と夜とで状態が変化する太陽の光とは比 較にならないほど大きく、この世の全てのものに智恵の光をおよぼして、あまねく一切を 照らし出し、また慈悲の活動が活発で不滅永遠であるところから、特に太陽である「日」 に「大」を加えて「大日」と名づけられています。 きょうてん しゅじょう 真言密教の根本 経 典 である『大日経』と『金剛頂経』には、衆 生 の救済者としてそれぞ れ異体的な性格をもち、特定の誓願をもった諸仏諸菩薩をはじめ諸神が説かれていますが、 しょそん これらの全ての諸尊 は、大日如来より出生し、大日如来の徳をそれぞれが分担し、また衆 けんげん 生救済にあてられている諸尊の働きも大日如来の徳の 顕現 であると説かれています。 根本経典である両経には、大日如来の徳の現れ方を、多くの諸尊との関係において説か れていますが、その関係を図示したものが胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅で、この両曼荼羅を 総称して両部(両界)曼荼羅と呼ばれています。 し ゃ か あ み だ この両部曼荼羅に描かれている大日如来の姿は、 釈迦 如来や阿弥陀 如来のような出家の ぼ さ つ 姿ではなく、うず高く髪を結(ゆ)うなど、一般に 菩薩 形と呼ばれる姿をされて他の如来 とは異なっている点が特徴といえます。菩薩形の姿である大日如来は、宇宙の神格化とも 考えられる密教観から、宇宙の真理そのものを現す絶対的中心の本尊として王者の姿をさ れているといわれています。その姿は帝王にふさわしく五仏を現した宝冠をつけ、菩薩よ りさらにきらびやかな装身具を身にまとわれています。背に負う光背は円く大きなもので 日輪を表し、諸仏諸尊を統一する最高の地位を象徴するにふさわしい威厳のある姿です。 不動明王 この仏はもうすでに十分悟りをひらいているのだけれど、元々もし悟りを開いても、決 して高い立場からものを言うのではなく、以前と同じように、大衆の中で親しく過ごして いきたいとの願いがあり、このような姿をとっておられる。そして実際に仏の仕事を、相 手の立場に応じて続けておられるのです。この尊は他の仏と違い、姿・顔に迫力が有りま な ん か ふ ん ど す。これは特に難化 の衆生を救うことを前面に出しているからです。 「外には忿怒 の姿を示 じゅう せども、内には深く慈悲に 住 す。」といわれますように、言うことを聞かない人々を、何 とかしてやりたいという、優しさの極致が、この忿怒の形相になっているのです。 真言宗 しんごんしゅう こうぼう だ い し 真 言 宗 の教えは、弘法 大師 によって完成されました。その教えは、自分自身が本来持っ ぶっしん そ く し ん じょうぶつ ている「仏心 」 「限りない人格」 「さとりの世界」を、 「今このとき」に呼び起こす 即身 成 仏 に求められます。それは、自分自身を深く見つめながら、「仏のような心で」「仏のように 語り」 「仏のように行う」という生き方です。この教えをもとに、人々がともに高めあって みつごん ふ っ こ く ど いくことで、世界の平和がもたらされ、理想のところとしての 密厳 仏国土 が完成するので す。 ほんぞん だいにちにょらい ち え じ ひ 真言宗のご本尊 は大日 如来 です。大いなる智慧 と慈悲 をもって、すべてのものを照らす こんぽん 根本 の仏さまです。私たちが手を合わせるさまざまな仏さまは、すべて大日如来の身を変 しんこう えた姿なのです。それぞれにご縁のある身近な仏さまへの 信仰 は、すべて大日如来につな がっているのです。 ま ん だ ら へんまん 曼荼羅 は、真言宗の教えをもとに、宇宙に遍満 する生きとしい生けるものの「いのち」 たい ぞうほ う ま ん だ ら を仏身の姿として、大日如来を中心に描き出したものです。 胎蔵 法 曼荼羅 には広くものを こんごうかい ま ん だ ら みて互いを認め合う慈悲の心、金剛界 曼荼羅 には人生を深める智慧の光があらわされてい ます。 開宗の背景 な ん と ろくしゅう ほっそうしゅう さんろんしゅう じょうじつしゅう くしゃしゅう りっしゅう けごんしゅう 南都 六 宗 [ 法 相 宗 、 三 論 宗 、 成 実 宗 、 倶舎宗 、 律 宗 、華厳宗 ]と呼ば れる奈良 仏教 か ん じ そ う に か ん り は、一口に国家仏教、学問仏教というべきものでした。寺院は 官寺 であり、僧尼 は官吏(国 家公務員)でした。そして律令体制のもとで主に呪術的な祈願にたずさわり、体制をささ える役割を果していました。僧侶たちも人々の苦しみを救うという仏教本来のつと めより も、むずかしい理論研究におちいりがちでした。しかしやがて本来の使命に目覚め、人々 く しゅうれんぎょう のために生きようとする僧侶たちにより、山林に 苦 修 練 行 して自らを磨き、世のため人 のために働こうとする民衆仏教が芽生えてきます。また平安遷都に伴い、新しい国づくり を目指す日本にとっては、その原動力となるような生命力に満ちあふれた、新しい教えの 出現が求められていました。このような時代的、社会的な課題を踏まえて、真言宗は開か れたのです。 開宗の意義 こうした背景の中で、人生の苦しみを本当に救う正しい仏教を求めて、その頃世界第一 せんせいしょう しょうりゅう の文明国であった唐の国へ留学した弘法大師は、その都長安(今の 陝 西 省 の西安)の 青 竜 け い か あ じ ゃ り 寺で、インド以来の密教の正統を伝える第一人者、 恵果 阿闍梨 にめぐり合い、その教えを 始めとして、儀礼、法具、経典類まで、あますところな く受け継いで、密教の正統な伝承 ふ ほ う で ん じ 者(付法 、伝持 の第八祖)となると共に、世界最新の知識や見聞を身につけて帰国されま ゆいかい した。そして恵果阿闍梨の遺誡 に従って、仏教の正しい伝統を踏まえた上で、広い視野と 的確な識見にもとづいて密教の教えを組織づけ体系づけて、真に生命力あふれた、時代即 応の真言宗として開宗されたのです。 か ん ろ 甘露 甘 露 と は 、中 華 世 界 古 代 の 伝 承 で 、天 地 陰 陽 の 気 が 調 和 す る と 天 か ら 降 る 甘 い 液 体 。 後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るとされた。転じて中華王朝の年 号にも用いられる。 たど ぼ ん ご 甘 露 、 そ の 語 源 を 辿 っ て み る と 、「 か ん ろ 」 は 梵 語 、 ア ム リ タ の 漢 語 訳 。 ア ム リ タ かくはん の 意 味 は「 不 死 」。イ ン ド ヒ ン ズ ー 教 の 神 話 で は 、神 々 が こ の 世 の は じ め に 大 海 を 撹 拌 して得た不死の霊液。これを飲むと、苦悩は去り、長寿、死者をよみがえらせる。こ れが中国にわたり、天子が仁政を行うめでたい前兆として、天から降ってくる霊液、 ぶっきょう 霊 酒 、 と い う 伝 説 と な る 。 佛 教 で は 、( ト ウ ) 利 天 か ら 降 る 甘 味 の あ る 霊 液 、 霊 酒 と いや じ み して、よく苦悩を癒し、不老不死、最高の滋味をもつものとされ、いろいろのお経、 ほとけ たと ほ け き ょ う か ん ぜ お ん ぼ さ つ 説話に引用され、 佛 の教えを 喩えて「甘露の法門」とさえいう。 法華経観世音 菩薩 ふ も ん ひ ん たた 普 門 品 、い わ ゆ る 観 音 経 で は 、観 音 さ ん の 加 護 の 力 を 讃 え 、 「甘露の法雨をそそぎて煩 めっ よ く ち 悩の炎を滅す」大無量寿経では、極楽浄土には数多くのすぐれた浴池があり、いずれ はち く ど く も「八功徳の水(・甘く・冷たく・やわらかく・軽く・澄みきり・臭みがなく・飲む たんぜん 時 の ど を 損 な わ ず・飲 み 終 わ っ て 腹 を 痛 め な い と い う 八 つ の 特 性 の 水 を さ す 。)、湛 然 と しょうじょう こ う け つ して満ち、 清 浄 香潔にして、味わい甘露の如し」と、まさに華麗、優美、神秘的な 甘美の世界である。 う じ しゅうい 鎌倉時代の説話集、宇治拾遺物語の一節。 「昔、唐の国の僧が印度に行き、あちこちを歩きまわっていました。ある山の片側に 大きな穴があり、この穴に牛が入っていきました。暗い穴の道をくぐりぬけると、急 に明るいところに出ました。見渡すと、この世にはないような別天地で、名も知らぬ 美しい花が咲き乱れています。牛がこの花を喰べているので、僧も「この花 を一房と って食いたりければ、うまきこと天の甘露もかくあらんとおぼえ」ついついお腹一ぱ い 食 べ ま し た の で 、肥 満 体 に な っ て し ま い ま し た 。あ ま り の 美 味 さ に 恐 ろ し く な っ て 、 今きたばかりの穴へ帰ろうとしましたが、入るときは容易に通った穴も、身体が太く なったため通りにくく、やっと穴の入口までたどりつきましたが、どうしても出るこ とができません。穴の前を通る人に助けを求めても、誰も聞き入れてくれません。僧 は数日後、とうとう死んでしまい、その後、石となって穴の口に頭をさし出したよう になっていました。 ご想像の通り、眼前の欲望に負けてはいけませんよ、という東洋のイソップ物語で す。現在にも通じるような話ではないでしょうか。 照顧脚下 禅 寺 の 玄 関 に は よ く 「 照 顧 脚 下 」 と 書 か れ た 札 が 下 が っ て い ま す 。「 履 物 を 揃 え て 脱 い で 下 さ い 。足 元 に 注 意 し て 、進 退 往 来 に 十 分 気 を 付 け て 下 さ い 。」と 言 う 意 味 で す 。 しかし、そこには「自分自身の足下、置かれた状況、自分自身をしっかりと見つめな さ い 。」と い う 別 の 意 味 が あ る の で す 。他 人 の 足 下 、つ ま り 他 人 の 長 所 や 短 所 、そ の 方 の立場などは見ていても、自分の足下、つまり自分自身のこととなると案外見ている ようでいて見ていないものです。 何 か 事 を 始 め る に 当 た っ て 、自 分 自 身 の 事 を 見 つ め る こ と が あ る で し ょ う 。し か し 、 それが順調に進み、うまくいくと視線が下から上に移り「もっと成功したい・もっと 幸せになりたい」と次から次へと“もっともっと”が増上し、欲望が増えつづけてい くのです。自分の置かれた状況を見つめ、足下を見ているときは良いのですが、初心 を忘れ、先ばかりを見ていると足下が疎かになり、気が付いたときには砂上の城に住 んでいたと言う事がよくあります。 大切なのは、自分自身をしっかりと見つめると言うこと。自分を見失わないと言う こ と で す 。そ こ で 、 「 今 自 分 が 為 す べ き 事 は 一 体 何 な の か 。何 を し な け れ ば な ら な い の か 。」 と 言 う こ と を 自 分 で し っ か り と 思 慮 せ ね ば な り ま せ ん 。 為 す べ き 事 が わ か れ ば 、 今度は迷わずそれを行動に移すのです。 「 勇 気 が な い か ら 自 分 に は で き な い 。失 敗 す る と 怖 い か ら 次 に 進 め な い 。自 分 に 自 信 が な い 。」と 泣 き 言 を 連 ね て も 何 も 始 ま り ま せ ん 。 頭ばかりで考えていてはいけないのです。実際に身体を動かし、目標に向かって一歩 一歩足を進める事が大事なのです。自分で考え、悩み、苦労しなければ本当の幸せは こないのです。自分で考え、悩み、苦労すれば、自信もつき勇気も備わるのです。 少しでも困難な事に突き当たればすぐに誰かが助けてくれるとか、親切にしても ら えることが当たり前だと思っておられる方が最近特に多いようですが、それは大変な 間違いです。まず自分で為すべき事を為してください。涙を流しながらでも、目前の 困難に立ち向かってください。何かを成し遂げたとき、何かを乗り越えたときに初め て、大きな幸せがあるのです。自分でやった方だけが、本当の他人の有り難みや感謝 の念を持つことができるのです。自分で頑張った方は決して足下を見誤ると言うこと はありません。 先 ず は 、 ご 自 分 の 足 下 を し っ か り と 見 つ め て く だ さ い 。「 脚 下 照 顧 」 で す 。 いっさい ゆいしんぞう 一切唯心造 いっさい (甘露門) た いっさいゆいしんぞう 「一切は唯だ心の造るものなり」と読まずに、 「一切唯心造」と読みます。 せ が き え しゃくそん ざ い せ あ なん じょうみょうつ 盆の季節になると各寺院では、施餓鬼会――釈 尊 在世当時、弟子の阿難尊者が、 「定 命 尽 き餓 だ らにき ょう 鬼道に堕ちるのを免れたくば、餓鬼に十分な食事の施しをせよ」と陀羅尼経を唱え供養する修法 じき を釈尊より伝授されたことより始まったといわれる、餓鬼、すなわちむさぼりの心を持つ者への食 の施しをする行事――が修行されます。その折り、大勢の僧が独特の節回しで唱和する経文に、 かんろもん 『施餓鬼―甘露門』というのがあります。その初めに、 じゃしんにゅーりょうしー 若人欲了知 も さんしーいしんふー いんかんはかいしん 三世一切仏 さんぜいっさい いっさいゆいしんぞう 応観法界性 一切唯心造・・・ りょうち まさ ほっかい しょう 若し人、三世一切の仏を了知せんと欲しなば、応に法界の 性 を観ずべし、一切唯心造なり、と。 しんぞう ―もし仏のこころを知ろうとするならば、宇宙一切の諸法の本性を唯だ心造なりと観ずべし。 ・・・・・・ ただ 「一切」とは、すべての現象、存在を意味します。 「唯」とは、た だ そ れ だ け のこと、私たち の周囲のすべての存在現象は「心」の働きであり、 「心」が造り出したものにすぎないというわけ です。すなわち、あらゆる存在は心より現出したものにほかならず、心のほかに何物も存在しな いのです。 はくいん いちべつ 白隠禅師はあるとき、一人の若侍から地獄の有無を問われます。白隠は若侍を一瞥して言いま す。 「貴公は見たところ立派な武士だが、いい年をして、まだ、地獄が有るのか無いのかとはあき れたことだ!」とくそみそに罵倒し、あげくの果てには、不忠の臣、不孝の子よ!腰抜け侍!と め んば 口を極めて面罵します。初めは有名な高僧の言うことだと歯をくいしばって耐えていた若侍も、 ついに我慢しきれなくなって、やにわに刀を抜いて白隠に斬り掛かります。白隠和尚は巧みに逃 せ つな げまわりますが、ついに追い詰められて一刀のもとに斬り伏せられようとする刹那、白隠は「そ しっせい こが地獄だ!」と鋭い叱声を飛ばします。」 その一語を聞いた若侍は正気を取り戻し、なるほどと合点します。さきほどの鬼面もどこへや ら、思わずそこに平伏して、笑みさえ浮かべて言います。 「わかりました。地獄の所在がしかとわ かりました」と。すると白隠もにっこり笑って、 「そこがまた極楽よ!」と事もなげに言い切りま す。 しょせん 地獄も極楽も所詮、心の中にあったわけです。心が造り出したものにほかならないのです。 びしゅう 有無・得失・善悪・美醜・愛憎など、一切の相対的差別の見方も、これすべて心の造り出した ものです。相対的世界があるからそこに争いがあり、悩みがあり、迷いがあるわけです。 たっかん みんぜん しんにょ 法界すべて一切唯心造と達観すれば、自然にそれらの対立が泯然と消えて、真如そのままの心 になることができるのです。まさに仏の心を知ったというべきです。 し どう けんじゃく た ぞうあい な どうねん 至道は無難なり、唯だ揀 択 を嫌う。但だ憎愛莫くんば、 洞然として明白なり と『信心銘』にある通りです。一切唯心造、この語を知的に理解することはやさしい、しかし、 とうぜん 一切唯心造を達観して、洞然として明白になることは難しいものです。 にちにちこれこうにち 日々 是 好日 (にちにちこれこうじつともいう) と う み しょう この語は中国の唐未 から五代にかけて活躍された大禅 匠 、雲門文偃(うんもんぶん ぜ ん じ えん)禅師 の言葉です。 まれ き ほう かんけつ たぐい希 な、鋭い機 峰 と、すぐれた禅的力量の持ち主であった禅師は、簡潔 な語句 かったつ を駆使して、自由闊達 に禅を説きました。 日々是好日は雲門禅師の悟りの境地を表した、最高の言葉であります。毎日いい日 が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味ではありません。一般に私達が、 今日はよい日だ悪い日だという場合、天気だけでなく、お金が儲かった・損をした、 よいことがあった・嫌なことがあったなど、そんなものさしで判断します。 ゆうれつ ぜ ひ しかし、これは優劣 ・損得・是非 にとらわれた考え方です。それではたとえ、ある おび 日幸運が訪ずれても、その後に来る不運に脅 えなければなりません。 日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日を すがすが ただありのままに生きる、清々 しい境地です。たとえば、嵐の日であろうと、何か大 切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日 (こうにち)なのです。 好日の好は好悪(こうお)の好ではありません。 「嵐か、よし、嵐なにするものぞ!」、 「失ってしまったか、よし、どうにかこれを改善しよう!」と、積極的に生きる決意 " よし" がこの "好" なのです。 りょうかん あ そうろう 良 寛 さんが、「災難に逢 う時節には災難に逢うがよく 候 、死ぬ時節には死ぬがよ く候」と言った境地こそ、この心境です。どんな災難が湧き起こっても素直に受け入 れられる心、たとえ、大病になっても、うろうろせずに静かに病人になっている心、 殺すと言われても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できないと、軽々しく 「日々是好日」などとは言えないと思います。 こ 禅では、過ぎてしまったことにいつまでもこだわったり、まだ来 ぬ明日に期待した りしません。目前の現実が喜びであろうと、悲しみであろうと、ただ今、この一瞬を 精一杯に生きる。その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素 晴らしい一日となるはずです。 早離・即離(苦しみを体験してわかる他者の痛み) 早離と即離は、幼い兄弟である。両親に早く死別したので毎日泣いていると、ある心の よくない男が、父母にあわせてやるからこの小舟に乗れと誘った。二人はだまされたとは はる 知らずにその言に従う。小舟は沖あい遥 かに浮かぶ名もない小島につけられて、幼児二人 こ をおろすと、その男は舟を漕 いでもとへ帰ってしまった。 二人の子は、狭い島の中をかけめぐって親を探すが、いるわけがない。ついに飢えと疲 りんじゅう はくめい なげ れでその島で果てるのである。 臨 終 にさいして弟の即離は、自分たち兄弟の薄命 を嘆 く。 黙って聞いていた兄の早離は弟をなだめていう。 のろ うら 「わたしもはじめは世を呪 い、人を怨 んだが、この離れ小島ではどうにもならぬ。ただ 身をもって学んだことは、親に早くわかれ、人にだまされることの悲しさと、飢えと疲れ えん の苦しさである。されば、つぎにこの世に生まれてくるときは、この苦悩の体験を縁 とし て、同じ悲運に泣く人たちを救ってゆこう。他をなぐさめることが、自分がなぐさめられ る道理であることを、われらは学んだではないか」と。 弟は、はじめて兄のことばを理解すると、はればれとした顔となり、互いに抱きあって、 びしょう かんぜおん ぼ さ つ せ い し 息絶えたが、二人の顔にはしずかな明るい微笑 が浮かんでいた。兄が観世音 菩薩 、弟が勢至 ポ ー タ ラ カ 菩薩であった。この島が補陀落山 (白華山・日光山と名づく)である。 せいてん な ん で ん だいぞうきょう セイロンからビルマ、タイヘ伝わったパーリ語の仏教 聖典 、いわゆる、『南伝 大 蔵 経 』 けごんきょう せ つ わ のシリーズの『華厳経 』に見る悲しくて美しい説話 です。古い物語ですが、近代人の思索 によびかける真理を持っています。 「早離」、「即離」とは、それぞれ「早くはなれる」「すぐに別れる」の意味を持ってい ます。生まれると間もなく、あるいは、ただちに親と別れる子どもは現在でも多い。それ あざむ はまた親子間とは限りません。 欺 かれて離れ小島につれられ、帰るに舟もないとは、生き ている現実の世界そのものです。この兄弟の名前は、やり直しのきかぬ、二度と返ってこ ない、かけがえのない人生を暗示しています。 と う ひ この逃避 できない人生という名の小島で出会う幾多の人生苦が、親を求めたり、飢えと 疲れで一生を終わる二人の兄弟の物語で代弁されています。弟は怨みと苦悩だけが、島の、 つまり人生のすベてのように思っていましたが、兄は苦悩を体験することによって、他者 の苦悩までもよく実感できたのです。他に奉仕することが自分の救いであること、自分の 不運を嘆くだけでは自分は、氷久にしあわせになれぬこと、他に奉仕して、はじめて自分 が浮きあがれる道理が見えてきたのです。経験できたのです。 人間は、追いつめられると、このように価値を創造しようとする意欲が、無意識のうち うず 自分の奥底に埋 みこまれていたことを、意識として実感できることをこの物語の作者は説 なんかん かれたのです。私たちは、難関 に当たったら勇気を持って生きていかねばなりません。し かし、苦しみを体験してはじめて、他の苦しみが理解できるのです。だから、どんなに自 分が苦しくても周囲の人によくしてあげ、ともに明るく生きてゆこうと努めることは、よ り大切なことです。 めぐ 私たちは、大きな眼をひらいてみると、自分のまわりの誰彼から、何らかの 恵 みを受け て生きているのです。ときには、自分に辛く、意地悪く当たる、という逆のかたちで表れ る冷たい恩恵もあります。それを、温かにして人々に返すところに、怨みが昇華(ある状 態から、さらに高度の状態へ飛躍すること)されて、すばらしい慈愛に変わります。かく て、自分も他人もともに救われるのです。それを仏教では「供養」といいます。 弘法大師 さ ぬ き びょうぶがうら ようみょう 弘法大師は、宝亀五年 (七七四)年六月十五日、讃岐 の国の屏風ケ浦 に生まれ、 幼 名 を ま お さ え き なお た こう 真魚 と言われました。父の名を佐伯 直 田 公 と言い、佐伯氏はこの地を治めた豪族でした。 たまより あ と う か ん む い よ しんのう し こ う 母親の玉依 は阿刀 氏の出であり、叔父の阿刀大足は桓武 天皇の皇子伊予 親王 の儒学の侍講 (師)でした。大師は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていました。 めいきょうか しゅんじゅう さ し 大師は十八歳のときに、大学の 明 経科 の試験に合格して大学博士岡田牛養 に 春 秋 左 氏 ちょくこう 伝等を、 直 講 味酒浄成に五経等を学んだのです。明経科は正統儒教を教える学科でした。 か ん り しかし、大学は若い大師を満足させませんでした。高級 官吏 として大師が立身出世するこ とを望んだ一門の人々の期待にそむくけれども、儒教や漢文学は大師の高遠な理想から離 れていたのです。大師の心は仏教に傾きます。しかし、官寺の僧としての学問を望まず、 人里を離れた山林に修行する道にひかれたのです。その時の大師の苦悩と決意が『三教指 ふくいくていけつ いんぎん こう かえり 帰』に書かれています。「夫れ父母覆育 提挈 すること慇懃 なり。その功 を 顧 みれば、高き ご が く なら こと五岳 に竝 び、其の恩を思へば、深きこと四涜に過ぎたり。」(大切に私を養育してくれ え さい た父母の苦労は五山のように高く、そのご恩は江・河・ 淮 ・済 の四河よりも深いのです。 骨身に刻みつけております。どうして忘れることができましょう。) しかし、両親への恩、 国王への恩よりも、ひろく人びとに慈愛を及ぼす大 きな孝行があると大師は考え、ついに ただし い ち ご おんとく お よ み 仏道修行の道を選ばれました。「世間の父母は 但 一期 の肉親を育ふ。国王の恩徳 は凡身 を も よ ね は ん きょう しょうこう 助く。若 し能 く生死の苦を断じ、涅槃 の楽を 興 ふるは三宝の徳。」「僕聞く、『 小 孝 は力を たいこう ぎ 用い、大孝 は匱 しからず』と。」(『小さい孝行は体を使ってするが、大きな孝行はひろく 人びとに慈愛を及ぼし、不足のないようにすることである』と聞いている。 ) ふところ 大師は大学を中途退学し、大自然の 懐 で修行をはじめました。そのきっかけは、一人 さ も ん こ く う ぞうぶんじほう の沙門 から虚空 蔵聞持法 を伝授されたことでした。 「時に一沙門有り。虚空蔵求聞持法を呈 よ これ 示す。其の経に説く。若し人法に依 りて此 真言一百萬遍を読めば、即ち一切経法の文義の ここ お たいせい せ いげ ん ひ えん さんすい あ わ こっだいりゅうのごく 暗記を得ん。是 に於 て大聖 の誠 言 を信じ、飛 焔 を鑽燧 に望み、阿波 國 大瀧之獄 にはんせい きんねん ゆうこく こえ し、土佐國室戸之崎に勤念 す。幽谷 は聲 に応じ、明星は影を来す。」 こ 山中に篭 もり、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボ リソワカ)を百万遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得るこ とがで たりゅう たけ きる。という教えを聞き、大師は太龍 の岳 や室戸岬に篭もりました。太龍の岳は四国の深 しゃしんだけ ど と う い山の中にあります。捨心岳 からは淡路島本州を望める高台であり、室戸岬は太平洋の 怒涛 ぜっしょう の激しい 絶 勝 の地です。 こ く う 大師は山岳で苦行練行する近士(ウバソク)として 虚空 蔵求聞持法を行い、自然の中に い わ れ わ れ い 宇宙の生命と交流し、大日如来と入我 我入 し、仏教の真髄を極めようとしたのでした。 その後大師は、奈良の諸寺院で仏教研鑽を積まれ 、唐に渡りました。大師が入唐し帰朝 しょうらい と らい 後に朝廷に提出した 請 来 目録に見える経論は新渡 来 書ばかりでした。それ以前に日本に伝 てんせき ち し つ わっていたものを含まないことから、大師が当時日本にあった仏教 典籍 を知悉 していたこ あ じ ゃ り とがわかります。古来日本からの入唐留学生は多かったが、インドの阿闍梨 に教をうけた のは大師だけです。 一隅を照らすもの、これ国宝なり さんげがくしょうしき 山家学生式 さいちょう 最 澄 (伝教大師)が日本天台宗を開かれるに当たり、人々を幸せへと導くために「一隅を照ら す国宝的人材」を養成したいと、熱意をこめて著述されたもの。 さんげがくしょうしき 山家学生式 なにもの ゆえ いわ けい すん 国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人言く、径寸十 あら こ てつ い よ 枚これ国宝に非ず、一隅を照らす、是れすなわち国宝なりと。古哲また云わく、能く言いて行う い よ い こと能わざるは国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは国の用なり。能く行い能く言うは国 な すなわ の宝なり。三品の内、ただ言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為すと。 乃 ち道心ある ぶ し ぼ さつ しょう ごう おのれ むか こ うじ の仏子を、西には菩薩と 称 し、東には君子と号す。悪事を 己 に向え、好事を他に与え、己を忘 れて他を利するは、慈悲の極みなり。 意訳 みほとけ 国宝とは何でしょうか?宝とは仏道を求める心で御仏におすがりし、御仏の教えを実行する心 せい い おう のことです。その心のある人を国宝と名付けます。ですから、斉の威王が言うように「径寸十枚 (直径が一寸もある宝石が十個)は国宝とはいえません。一隅を照らす人こそ国宝と言えるので む ゆう す」と。後漢の牟融がまたこう言っています。 「よく説くが、行動しない人は国の教師である。よ く行動して説くことの出来ない人は国の働き手である。よく行動し、よく説く人は国の宝である。 上中下、三品の中で説くこともできず、行うこともできないのを国の賊という」と。そこで、道 ぶ つ で し 心のある仏弟子を西(インド・西域)では菩薩といい、東(中国・日本)では君子といいます。 人のいやがる事は自分が引き受け、人の好むことは他人にゆずり、自己の利害(損得)を忘れて、 他人のために尽くすことは、この上ない慈悲(=見返りを求めない愛)なのです。 一隅を照らす 「一隅」とは、今あなたのいるその場所のことです。お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や地 域、職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人 こそが、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くす ことによって、社会全体が明るく照らされていく。 自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。 「人の心の痛みがわか る人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国 の宝であると。そうおっしゃっています あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らして下さい。あなたが 光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、 やがて地球全体を照らすのです。 陽明門(ようめいもん) 陽明門の名称は、宮中(現・京都御所 )十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名をいただ かざり か な ぐ いたと 伝えら れる 。江戸 時代初 期の彫 刻・ 錺 金具 ・彩色 といっ た工芸 ・装飾 技術 のすべ てが 陽明門に集約され、その出来栄えは一日中ながめていてもあきないので日暮らし門とも呼ばれ る。 とりわけ見事なのが、500を超える彫刻の数々だ。中央が盛り上がり、両端が反り返った だいごんげん 曲線を特徴とする唐破風 -か ら は ふ - の軒下に掲げられた「東照 大権現 」の額の下で2段に並んで いるのは、上が竜。下は ちょっとミステリアスな 「息」。「いき」と読むのか「そく」なのか、 その読み方すらいまだに不明という。上段の竜との違いは、牙があってひげがないことと、上 くちびるに鼻孔があることだ。 うろこ 額の両 横に ある彫 刻は 麒麟。ビ ール のラベ ルに 描かれた 麒麟 には体 に 鱗 があるが、 東照宮 かしらぬき め ぬ き の麒麟には鱗がない。中央部、白塗りの横木 ( 頭 貫 )に彫られた宙を舞う通称「 目貫 の竜」の左 ひづめ 右に勢ぞ ろい してい る の は竜馬。 足に 蹄 のある 竜だ 。麒麟に よく 似てい るが 、麒麟は 1角、 竜馬は2角、麒麟は牙を持っているが竜馬には牙がない。さらに、麒麟の蹄は先が2つに割れ ぐうてい た偶蹄 、竜馬の蹄は割れていない奇蹄。そして、竜馬が竜の一族である証拠に体に鱗が生えて いる。 東照 宮の 建物 に刻ま れ た彫刻 の総 数は 517 3 体。最 多は 本社 の24 6 8体 (本殿 143 からもん 9体、拝殿940体、石の間89体 )、次いで唐門 の611体(7センチ×9センチの小さな花の 彫刻が400体もある)、陽明門が3番目で508体。彫刻をテーマで分類 すると人 物、霊獣 ・ 動物、花鳥、地紋(一定の図形が 繰り返される文様)の4つになり、それらが使われている建物 や場所に、法則があると いう。例えば、人物の彫 刻があるのは陽明門と唐 門に限られている、 ばく 霊獣の唐獅子は陽明門に、獏 は本殿にそれぞれ集中している、といった具合である。 日光東照宮の建物を代表する陽明門は、高さ11.1メートルの2層造り、正面の長さが7 ご ふ ん メートル、奥行きが4.4メートル。 胡粉 (貝殻をすりつぶしてつくった白色の顔料 )を塗った もん 12本の柱には、グリ 紋 と呼ばれる渦巻状の地紋が彫られている。 ま よ さかさばしら 有名な「 魔除 けの 逆 柱 」は、門をくぐり終わる左側の柱。グリ紋の向きがこの柱だけ異な っている。 これと同じ逆柱が、本社の拝殿と本殿に1本ずつあることは一般に はあまり知られていない ようだ。 グリ紋それ自体に魔除 けの意味があるといわれ ているが、「家を建てる ときは瓦3枚残す」 という言葉があるように、建物は完成した瞬間から崩壊が始まる。それなら1か所だけ仕様を 違え、建物はまだ未完成であると見なし、建物が長持ちするよう願った、という推理もできる。 下種 げ し ゅ (仏語。信仰の種を人々にうえつけること。仏法にはじめて結縁 (けちえん) する段階をいう。) もんぽうげしゅ ほっしんげしゅ 聞法下種 と発心下種 しゅじゅくだつ さんえき げしゅえき 種 熟 脱 の三益 のうち、最も大切なのは下種益 です。この下種益には、聞法下種と発心下 種の二義があります。 みょうらく ほ っ け げ ん ぎ しゃく せ ん 妙 楽 大師の『法華 玄義 釈 籤 』に、「聞法を種と為し、発心を芽と為す」とあるように、 しゅじょう しんでん 聞法下種とは、仏が初めて 衆 生 の心田 に仏種を植えつけることで、根本の下種をいいます。 また、発心下種とは、植えられた仏種が、時至り縁に応じて発芽させることで、修行の始 めに当たります。したがって、同じ下種とはいえ、聞法と発心とでは、〝その衆生の機根 ほん み ほ ん い に、仏種を有するか否か〟〝本 未 有善と本已 有善〟という根本的な相違があるのです。端 的にいうと、本未有善の衆生に対する聞法下種を真の下種とするのに対し、本已有善の衆 せっ 生に対する発心下種は、その性質上、熟脱に摂 せられるのです。 に っ か ん しょうにん か ん じ ん ほ ん ぞ ん しょう も ん だ ん 日寛 上 人 は『観心 本尊 抄 文段 』に、聞法と発心の下種に三重の秘伝があることを説か れています。 も 第一には権実相対で、同文段に、 「最初聞法は必ず是れ円教、若 し発心を論ぜば大小定ま らず」(日寛上人文段集 しゃくそん けんきょう じつきょう 五二六頁)とあるように、 釈 尊 の説いた 権 経 と 実 経 を聞法・発 ほ っ け たね 心に立て分けて判釈します。最初の聞法は必ず法華 円教であり、他の教法は種 となりませ だいじょう しょうじょう ん。この法華円教が種となり、後に縁に従って発心せしめる教法は 大 乗 の場合も 小 乗 の 場合もあって定まらないということです。 ほんじゃく 第二には 本 迹 相対で、同文段に、「最初聞法、必ずこれ本門なり。若し発心を論ぜば権 迹不定なり」 (同)とあるように、本迹の筋目の上から立て分けた判釈です。最初の聞法は にんぜん く お ん ごひ ゃくじん てんこ う 必ず本門の教法であり、爾前 迹門は種となりません。本門に説かれている久遠 五百 塵点劫 の 本果釈尊の教法が種となり、この種を成熟せしめる発心の教法は、機縁に従って爾前経の 場合も法華迹門の場合もあり、一概でないということです。 第三には種脱相対で、同文段に、 「最初聞法は必ずこれ文底なり。若し発心を論ぜば迹本 不定なり」 (同)とあるように、種脱の筋目の上から立て分けた判釈で、大聖人の究極の決 判です。文底とは久遠元初自受用身の証得された本因下種の妙法をいい、迹本とは久遠元 初本仏の垂迹である熟脱の釈尊が説いた法華経の本迹二門です。在世の衆生は、久遠元初 に下種を受けながら退転して九界に流転しましたが、迹門や本門の教法を縁として久遠名 字の妙法の下種を覚知し、真の即身成仏を遂げたのです。つまり、第一の聞法下種の法華 円教は、第二の本果の本門の教法に摂せられ、第二の本果の本門の教法は、第三の久遠元 じゅりょう だいほう 初の本因の妙法に摂せられて、最終的には 寿 量 文底本因下種の大法 以外は根本の最初下種 の教法とならないのです。 みょうほう あら ゆえに、三種の相対によって仏法の根本である久遠元初の本因下種の 妙 法 が顕 われれば、 ことごと 釈尊の仏法に属する第一第二のすべての経々は、 悉 く発心下種であり即身成仏の種とは なりません。ただ、久遠元初の本因下種の妙法だけが一切衆生の成仏の仏種となるのです。 ひるがえ 翻 って、末法の衆生は一切が未だ根本の仏乗種を植えられていない本未有善の衆生で す。ゆえに、末法は、熟脱の教法である釈尊の仏法では なく、まさに大聖人の弘通された 文底本因下種の教法をもって、一切衆生に聞法下種の折伏を進めていくことが肝要なので す。 一口吸盡西江水(いっくに きゅうじんす せいこうの みず) へきがんろく 禅 語 「 法 演 禪 師 語 録 」 よ り 。『 碧 巌 録 』「 第 四 十 二 則 」 居士問馬大師。不與萬法為侶是什麼人。 大師云。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。 師云。一口吸盡西江水。洛陽牡丹新吐蘂。 [読 下 例 ] こ じ 居 士 馬 大 師 に 問 う 。「 万 法 と 侶 [と も ]た ら ざ る も の 是 れ な ん び と ぞ 。」 きゅじん 大 師 云 く 。「 汝 が 一 口 に 西 江 の 水 を 吸 盡 せ ん を 待 っ て 、 即 ち 汝 に 向 か っ て い わ ん 。」 ぼ た ん しべ 師 云 く 。「 西 江 の 水 を 一 口 に 吸 盡 す れ ば 、 洛 陽 の 牡 丹 ほう こ は 新 に 蘂 を 吐 く 。」 じ 『 龐 居 士 語 録 』に「 居 士 後 之 江 西 參 馬 祖 大 師 。問 曰 。不 與 萬 法 為 侶 者 是 什 麼 人 。祖 曰 。待 汝 一 口 吸 盡 西 江 水 即 向 汝 道 。士 於 言 下 頓 領 玄 旨 。遂 呈 偈 。有 心 空 及 第 句 。」 ( 居 士 、後 の 江 ば そ 西 、馬 祖 大 師 に 参 じ 、問 う て 曰 く 、万 法 と 侶( と も )と 為 ら ざ る 是 れ な ん び と ぞ 。祖 曰 く 、 お とみ 汝 の 一 口 に 西 江 の 水 を 吸 尽 す る を 待 ち て 、即 ち 汝 に 向 っ て い わ ん 。士 、言 下 に 於 い て 頓 し むね つい けい 領 玄 旨 を 領 す 。遂 に 偈 し て 、有 心 空 及 第 の 句 を 呈 す 。)と あ り 、『 法 演 禪 師 語 録 』に「 龐 居 士 問 馬 大 師 。不 與 萬 法 為 侶 是 什 麼 人 。大 師 云 。待 汝 一 口 吸 盡 西 江 水 。即 向 汝 道 。師 云 。一 口 吸 盡 西 江 水 。洛 陽 牡 丹 新 吐 蕊 。」( 龐 居 士 、馬 大 師 に 問 う 。万 法 と 侶( と も )と 為 ら ざ る 是 れ な ん び と ぞ 。大 師 云 く 、汝 の 一 口 に 西 江 の 水 を 吸 尽 す る を 待 ち て 、即 ち 汝 に 向 っ て い しべ わ ん 。 師 云 う 。 西 江 の 水 を 一 口 に 吸 尽 す れ ば 、 洛 陽 の 牡 丹 、 新 た に 蕊 を 吐 く 。) と あ り 、 『 碧 巌 録 』に「 不 與 萬 法 為 侶 。是 什 麼 人 。祖 云 。待 爾 一 口 吸 盡 西 江 水 。即 向 汝 道 。士 豁 然 大 悟 。作 頌 云 。十 方 同 聚 會 。箇 箇 學 無 為 。此 是 選 佛 場 。心 空 及 第 歸 。」( 万 法 と と も と 為 ら ざ る 是 れ な ん び と ぞ 。祖 云 く 。な ん じ が 一 口 に 西 江 の 水 を 吸 尽 せ ん を 待 っ て 、即 ち 汝 に 向 しかつぜん た い ご しょう じっぽうどうしゅえん か か が く む い かっていわん。士豁然として大悟し、 頌 を作って云く。十方同聚会。箇箇学無為。これ こ け い は 是 れ 選 仏 場 。 心 空 及 第 し て 帰 る と 。) と あ る 。 利 休 は 古 渓 和 尚 に 参 じ て 、 こ の 「 一 口 吸 しょうふういっせつにきょうす 盡西江水」の語によって悟りを開いたという。 「 松 風 供 一 啜 」 と同じ境地という。 私 の 解 釈 は こ う で す 。 人 と い う "部 分 "が 、 江 (自 然 の 代 表 )と い う "全 体 "と 一 体 に な こ け い おしょう った時、初めて真理が見える。また、利休は古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江 水」の語によって悟りを開いたといわれているそうです。 破草鞋(はそうあい) 「 草 鞋 」と は わ ら で あ ん だ 履 物 、わ ら じ の 事 で す 。 「 草 鞋 を 破 る 」と 読 め ば 草 鞋 を す り いわゆる あんぎゃ 切らして長旅をする意、所謂「行脚」の事で、名師を求めて諸方の禅寺を遍参して修 行する事です。 「 破 れ 草 鞋 」と 読 め ば 履 き 古 さ れ て す り 切 れ 、今 は 路 傍 の 片 す み に 打 ち 捨てられて誰一人として見向きもしない破れわらじの意となります。 禅の修行は一切の妄想執着を断ち切って、真の「無一物」の境涯になりますが、そ の妙境涯にもとどまる事なくそれを捨て去って、学んだ法や修した道を少しもちらつ かせることなく、悟りだの、仏だの、禅だの、その影さえ窺い見る事が出来ない、馬 鹿 な の か 利 巧 な の か 、偉 い の か 凡 夫 な の か さ っ ぱ り わ か ら な い 、長 屋 に 住 む 八 つ ぁ ん 、 熊さんの手合と同じく、人知れず平々凡々、一個の破れわらじのように、その存在す ら知られずに生きていく消息こそが、本当の禅僧の 境涯だというのです。他人から有 り難がられるようでは未だというわけです。 か ん こ す い きり は さ ぼ ん 「 破 草 鞋 」 が 、「 閑 古 錐 ――古 び た 錐 」「 破 沙 盆 ――こ わ れ た ス リ バ チ 」 等 々 と 共 に 禅 門で重用されるのはその辺の理由からです。 破草鞋のように生きた人を紹介します。 なんいん たんそう 近世の名僧、渡辺南隠禅師(一八三四~一九〇四)は、はじめ広瀬淡窓に就いて儒 はくさん 学を学び、後に出家して修行し、東京・白山道場を築いて多くの僧俗を教化された人 です。 こ の 南 隠 和 尚 が 遷 化( 死 亡 )さ れ た 後 、近 所 の お 婆 さ ん が い う に は 、 「老師ご存命中 は私達のいいお茶飲み友達だと思って、しょっちゅう参りましたが、おかくれになっ て か ら 聞 け ば 、 た い そ う 偉 い お 方 で あ っ た そ う で す ね ……」。 い ぶ か 妙心寺の関山国師は大灯国師の法を嗣ぐと、独り美濃の国 伊深の里に隠れ、村人達 に頼まれるにまかせて、田畑の耕作、牧牛、伐木に炭焼等々、手伝いの日々でした。 村人達にとっては誠に便利で重宝な老爺としかうつりませんでした。 ちょくし へきそん 優雅な勅使が山間の僻村、伊深の里に入ってくるのを見て、村人達はまさに青天の へきれき 霹靂でした。これまでは単なる老爺だと思っていた関山国師を花園法皇の命で迎えに 来たのですから、村人の驚きはひとしおでした。 ちょう で ん す 東 福 寺 の 画 聖 兆 殿 司 は 、破 草 鞋 の 如 く 生 き ん と 、自 ら「 破 草 鞋 」を も っ て 号 と し た と い わ れ て い ま す 。「 破 草 鞋 の よ う に 生 き る ! 」、 口 で 云 う は 易 し 、 実 行 す る 事 は な か なか難しいようです。 行 雲 流 水 ( こ う う ん -り ゅ う す い ) 意味 空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せて行 動するたとえ。また、一定の形をもたず、自然に移り変わってよどみがないことのた と え 。▽「 行 雲 」は 空 行 く 雲 。 「 流 水 」は 流 れ る 水 。諸 国 を 修 行 し て ま わ る 禅 僧 の た と え に も 用 い ら れ る こ と が あ る 。「 流 水 行 雲 り ゅ う す い こ う う ん 」 と も い う 。 しゅってん 出 典(蘇軾(そしょく)が友人の謝民師推官(しゃみんしすいかん)に宛てた書) おうさい じゅぶつどう ぶっきょう 蘇 軾 は 号 を 東 坡 (と う ば )と い い 、 博 学 宏 才 、 儒 佛 道 ( 儒 教 、 佛 教 、 道 教 ) の 三 教 に ほくそう 通 じ て お り 、詩 文 の 他 に 書 画 に も 優 れ 、北 宋 第 一 の 文 化 人 と い わ れ て い ま す 。 「行雲流 水」は、その蘇軾が友人の謝民師推官(しゃみんしすいかん)に宛てた書の中で、謝 し ふ 民 師 の 文 章 に 対 し て 、次 の よ う に 評 し た こ と に 由 来 し て い ま す 。 「あなたの 詩賦や文章 は、行雲流水のごとく、形式にとらわれず、流れるままに流れ、しかも止まるべきと ころにはきちんと止まっています。思想や言葉はまことに自然に表出され、その描写 は と て も 自 由 で 生 き 生 き と し て い ま す 。」行 雲・流 水 は 文 字 ど お り 空 行 く 雲 と 流 れ る 水 、 どちらも作為のない自然のままの流れを象徴しています。自然で伸びやかな文章のた とえ、あるがままの自然な生き方のたとえ。また何事にも執着せずに自然の成り行き に任せて行動することのたとえとして用いられます。さらに雲水と略して、諸国を行 脚して修行を積み重ねる禅僧のたとえとしても用いられています。 禅僧の雲水 ゆうぜん 雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、水はまた絶えることなくさらさ む げ らとして流れて、また一処にとどまることがない。この無心にして 無碍自在のありよ うが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。今も禅の修行 僧 を「 雲 水( う ん す い ) 」と 云 う の も 雲 が 悠 々 と 大 空 を 行 く 如 く 、ま た 流 れ る 水 の 如 く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したことから名づけられたこと ばです。 「行雲流水」は自然現象である。空を行く雲、川を流れる水は一時も同じ状態では ない。雲の表情は一瞬一瞬ごとに変わり、湧きては消え、消えてはまた生ず 、であり また流れる水も常に変化して様々な表情があるように、この行雲流水の語は世の無常 を表わした語でもあります。 それはそのままわれわれの人生にも通じることです。雲にはやさしい風ばかりでは せ ありません。吹きちぎり吹き飛ばす風もあります。水の流れにも瀬があり曲がりくね しか る淵があり一様な流ればかりではなく、長い人生もまた然りです。人生、順風満帆ば あいらく かりなんてありえません。どんなに障害があり、喜怒哀楽様々な出来事の連続の中に あっても、常に心はその一処にとどまらず、執着せず、雲の如く無心にして淡々と、 さわやかに生きるところにこの「行雲流水」の語が生きます。余談ですが、墨染めの あ じ ろ 衣にわらじ履き、網代笠を被った雲水の姿が自然の風光の中にあれば、ひとつの風景 い か 画に見えるかもしれません。ですが、雲水である当人は如何がな心境でしょうか。 因果応報(いんがおうほう) 因 果 応 報 と は 、 こ と わ ざ な ど に 含 ま れ る 用 語 で あ る 。「 善 い 行 い を す れ ば 、 感 謝 な ど の 善 い 行 い で 返 り 、悪 い 行 い を す れ ば 、懲 罰 な ど の 報 い で 返 る 」と 、主 に 後 者 の「 悪 行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多い。しかし実際の起源・意味とし ては間違っており、ただ単に「行動」と「結果」は結び付いているという意味でしか ない。 仏教的な解釈では、釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因) と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする ( 因 縁 果 )。そ こ で 、縁 起 と 呼 ぶ 法 に よ っ て す べ て の 事 象 が 生 じ て お り 、 「 結 果 」も「 原 因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立している とする。 仏教で通俗的に因果と言う場合には、 業(ごう)思想と結びつき、自己の存在のあ ぜんいん ら く か り方にかかわる因果性をいうことが多い。 「 善 因 楽 果 ・悪 因 苦 果 」と 言 う よ う に 、人 間 や天人として生まれる善の結果や、地獄・餓鬼・畜生として生まれる悪の結果を得る のは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、 方便(本来の教説に導く ための一種の方法)としてしばしば使われる。この因果は自然科学的法則ではなく、 われわれの行為に関するものである。すなわち、自分のやった善は善果を生み、また 悪を行えば悪果が返ってくる、と教える。因果応報とも言われ、人間の行為を倫理的 に規定する教説として言われたものであろう。 しかし、このような一般的考え方は、縁起説から考えられない俗説であり、仏教 本 来の考え方にはそぐわない。 仏 教 に お け る 縁 起 (え ん ぎ )は 、 仏 教 の 根 幹 を な す 思 想 の 一 つ で 、 世 界 の 一 切 は 直 接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って消滅変化しているという考え 方 を 指 す 。 縁 起 の 語 は 「 因 縁 生 起 」( い ん ね ん し ょ う き ) の 略 で 、「 因 」 は 原 因 、「 縁 」 は条件のことである。 経典によれば、釈迦は縁起について、 縁 起 は 、「 此 が あ れ ば 彼 が あ り 、」「 此 が な け れ ば 彼 が な い 。」 と い う 二 つ の 定 理 に よ しゅうじ っ て 、簡 潔 に 述 べ ら れ う る 。こ の よ う な 有 と 無 と 二 つ の 文 句 が 並 べ ら れ る の は 、修 辞 学 的 な 装 飾 や 、文 学 的 な 表 現 で は な く 、こ の 二 つ は 論 理 的 に 結 び 付 け ら れ て お り 、 「此が あ れ ば 彼 が あ る 」 と い う こ と の 証 明 が 、「 此 が な け れ ば 彼 が な い 。」 と い う こ と な の で あ る 。 具 体 的 な 例 と し て は 、「 生 が あ る 時 、 老 い と 死 が あ る 」「 生 が な い 時 、 老 い と 死 がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死 ぬ こ と も な い か ら で あ る 。こ の よ う に 後 者 の「 此 が な け れ ば 彼 が な い 。」は 、前 者 の「 此 があれば彼がある」ことを証明し、補完する、必要不可欠なものである。 明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり) りんざいしゅう へきがんろく この言葉は臨済宗でよく使われる公案書である「碧巌録」に収録されています。読 みは「みょうじゅたなごころにあり」です。明珠とは計りきれないほどの価値のある 「宝」のこと、それをあなたはすでに持っています、という意味です。 その宝は、遠くに探しに行かなくても、すぐそばにあるのと言います。それはあな た の 手 の 中 に 宝 物 が す で に あ る か ら で す 。し か し 、宝 は 目 に 見 え る 金 や ダ イ ヤ モ ン ド 、 地位や名誉などと思いがちになってしまいます。 禅の考えで意訳すると、「あなたはすでに充分に幸せですよ」となります。「私は す で に 充 分 に 幸 せ 。」な ん だ か 、改 め て 身 の 回 り と か 自 分 の 内 側 と か を 見 直 す き っ か けになりませんか。 「私はすでに充分に幸せ。」よくよく考えてみれば、自分って、本当に幸せなんだ なと思います。妻、かわいい子供たちに囲まれ、素敵な友達がいて、人に恵まれ、健 康に恵まれ、仕事に恵まれ、平和でご飯の美味い日本に生まれ、お笑い番組で笑い転 げて、好きなものをたらふく食べることができ、おまけに、無駄な脂肪までたくわえ て。そして、どんな宝物にも代えられる可能性を秘めた「未来」まで与えられている から、そう思うと、私は、すでに充分に幸せなんだな思います。 人は宝物がきっとどこかにあるはずだと、一生懸命外に探しにいきます。けれど、 掌(てのひら)を見れば、そこにあるかもしれません。『どこにいかずともみんな幸 せ を つ か ん で い る 。』も う 一 度 自 分 を 見 つ め 直 し て 、改 め て 身 の 回 り と か 自 分 の 内 側 とかを見直せば、今おかれている環境がどれだけすばらしいものか。 今ある環境に感謝して、感謝の気持ちを忘れずに今、自分ができることをやるべき ことを、一生懸命に全力で、自分らしく取り組んで行くことができれば、本当の幸せ 明珠に気づくことができるかも知れません。 一行三昧(いちぎょうざんまい) じょう ぼ ん ご と う じ 三 昧 と は 梵 語 の サ マ デ ィ ー( 三 摩 地 )を 音 訳 し た も の で 、 「定」 「 等 持 」の 意 が あ り 、 心を一境に専注することです。 いちじきしん この三昧と、 「 常 に 一 直 心 を 行 ず 」と い う 言 葉 が 合 体 し て 、何 時 と は な し に 一 行 三 昧 の言葉が生まれました。 「 常 に 一 直 心 を 行 ず 」の 語 意 が 理 解 で き れ ば 、自 ず か ら 一 行 三 うなず 昧の意も 頷 くことができると思います。 直 心 と は 、「 直 心 是 道 場 」 の 直 心 で 、 ま っ す ぐ な 心 、 混 じ り け の な い 純 一 無 雑 な 心 、 ど こ 分別執着のない心です。ゆえに、何時でも何処でも何事をなすにしても、そのことに 純一であれというわけです。 仕事をする時には仕事三昧、遊ぶ時には遊び三昧、食事の時には食事三昧、勉強の 時には勉強三昧、その間に一点の雑念妄想をはさむことなく、全身全霊をもって事に あたる、これがまた、一行三昧でもあるわけです。いってみれば「禅」の生命もその 一行三昧から始まり、一行三昧に終わると言っても過言ではありません。 一行三昧に徹した面白い話があります。 こと 漢の李将軍は音に聞こえた勇猛な武人で、殊にその弓術は天下無敵で並ぶ者なきと 称された人です。ある時、猟に出かけて山また山を踏み越えて進みます。と、突然一 はる か な た 匹の大きな虎に出会います。遙か彼方にうずくまっていたのです。将軍は急ぎ矢を番 ちが えて、力一杯、満月の如く引き絞りサッと切って放ちます。狙いは 違わず、矢は虎の は 体に立ちます。しめたと思い馳せよってよく見ると、虎ではなく、虎の形をした岩で した。岩に矢が立ったのです。将軍は得意になって、岩に矢が立った例は古今東西聞 いたことがない、もう一度やってみようとばかりに、再び射てみます。四たび、五た び、幾たび打っても矢はついに立ちませんでした。 最初虎と思った時には、一行三昧になることができたのです。射ようとする一念の しか 他 に 何 も な か っ た の で す 。然 る に 岩 と 知 っ て か ら は 、 「 俺 の 弓 術 は 岩 を も 通 す ぞ 、見 て おれ」という雑念妄想が入ったのです。一行三昧になり切れなか ったのです。 「 一 行 三 昧 」、 実 に 簡 単 な 言 葉 で す 。 し か し 、 行 じ 難 く 、 到 り 難 い 言 葉 で す 。 随処作主 (ずいしょにしゅとなる) <臨済録> 随処に主となる ぎ げ ん さと この語は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して諭された言葉で「随処 に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の一句である。いつどこにあっても、如何 なる場合でも何ものにも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行 動し、力の 限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を ほんろう 把握出来、いかなる外界の渦に巻き込まれたり、 翻弄されるようなことは無い。その みょうきょうがい と き 、そ の 場 に な り き っ て 余 念 な け れ ば 、そ の ま ま 真 実 の 妙 境 涯 で あ り 自 在 の 働 き が 出来るというものである。 法句経の「おのれこそおのれ自身の主 (あるじ)である。おのれこそ自身の拠りど ころである。おのれがよく制御されたならば、人は得がたき主を得る」と云う言葉に まんえん も通じることであるが、その主となっての自在の働きが 万縁万境の中で生き生きとし たつところ て輝いてこそ 立 処真なりといえることなのだ。 しゃくそん 釈 尊最後の説法の「自灯明 法灯明」として知られるが、汝らは自らを灯明とし、 法を灯明とし他を拠りどころとすること無くて修行するものこそ最高処にあり」とあ るように他により所を求めず、己れ自身の中に真実の自己を見いだすことが肝要であ る。即ち「随処に主」たれば如何なるマインドコントロールにも影響されることは無 いはずである。 ちょうしゅう 趙 州 和尚は修行僧の「一日二十四時間、どのように心を用いたらよいのか」と云 う問いに「汝(なんじ)は二十四時間に使われているようだが、この老僧は二十四時 間 を 使 い こ な し て お る ぞ 」と 答 え て い る 。人 は 皆 同 じ 二 十 四 時 間 を 与 え ら れ て い る が 、 時間に追われ時間に使われている人の方多いのではなかろうか。 現代においては、昼夜の隔てが薄く社会は二十四時間稼動して休みがなくなってき ている。そこにわれわれも、ついついその社会の流れに巻き込まれ、主体性も無く、 動かされ忙しい忙しいとあくせくさせられているこ とを反省させられる。すっかりゆ とりをなくし、時間を失ってきたようにも思える。なんだか知らぬ間に二十四時間に しっせい 使われていることにあらためて気づき、 「 随 処 に 主 と な る 」こ の 語 が 厳 し い 叱 声 と な っ て迫る。 随処に主となるとは、いつ如何なるところにあっても「ここが仏さまから私に与え られた処」として受け止め精一杯、力の限り生き抜くことであろう。 自明灯(じみょうとう) のぞ お釈迦さまが死に臨んだ際、弟子たちは、誰もたいへん嘆き悲しみました。 「お釈迦様が亡くなられたら、私たちはどうやって、いったい何にすがって生きて 行 け ば い い の で し ょ う ! ..」 集 ま っ た 暗 い 顔 の 弟 子 た ち に 、お 釈 迦 さ ま は 、 「 自 明 灯 、法 明 灯 」と い う「 自 ら を 灯 明とし、法を灯明とせよ」をお伝えになりました。 これは、明かりのない暗い道を、自ら照らす灯りとなれという意味で、意識して常 に自分の心に明かりを灯すように心がけなさい、自分の足できちんと歩き、自らの心 の中に灯を灯しなさいということです。 自分の心の中に灯がない人は、自分自身を照らせないことはもちろん、他の人を照 らすことはできません。人様の灯りに頼ろうとせず、自ら進んで灯してあげよう、と いう気持ちが大事だと思います。 心はどういうわけか放っておくと、暗い考えに偏ってしまいます。ですから、意識 して常に自分の心に明かりを灯すように心がけることが必要です。 そんな感動の灯が、次から次へと点火されて行くことを「灯々無尽」と言います。 これからの人生、周囲から多少の助けはあるかもしれないが、自ら歩む道は自分で 照らしていかなくてはならないと思います。 そんなに努力したわけでもないのに、何故かトントン拍子にうまく行く時がありま す。また逆に、必死に血の出るような努力をしても、全くうまく行かず、どんどん後 退してしまって、落ち込んでしまうような時期もあります。 その波は、ある時は大きく、またある時は小さく、振幅を繰り返し、全体として大 きくうねりながら、人生模様を刻み込んで行きます。たとえ失敗して過ぎ去った日々 があったとしても、それを後悔し悩んでみたところで、覆水は盆に返ることは決して あ り ま せ ん 。重 要 な こ と は 、過 去 に す が り 執 着 す る の で は な く 、こ れ か ら 先 、 「何をし よ う と し て い る の か ? 」、と い う こ と で は な い で し ょ う か 。失 敗 し た り 挫 折 し た と き に こそ、それをバネに変えれば良いのです。 シェークスピアの「過去のことはプロローグにすぎない」という言葉は、今日の、 想像を絶するような激変する時代には、とりわけ当てはまる言葉かも知れません。あ の 時 は 良 か っ た 。 あ の 頃 は 幸 せ だ っ た ..。 そ ん な こ と ば か り 思 っ て い る の は 、 現 在 の あ な た 自 身 が 、そ の 頃 に 比 べ て 、 「 充 実 し て い な い 」、 「 つ ま ら な い 」、 「 何 も な い 」等 々 と、現在の自分を否定的に見つめ、自分自身の心を閉ざしているからではないでしょ うか。過去の栄光にすがらなければいけないほど充実していない自分自身の「現在の 姿」こそが問題なのだと思います。もう一度、頑張って来た自分自身に、改めて暖か く 優 し い 眼 差 し を 向 け て み ま し ょ う 。せ め て 、 「 あ の 時 は 良 か っ た 」、け れ ど 、 「今の自 分 も 素 晴 ら し い ! 」。 「 あ の 頃 は 幸 せ だ っ た 」、で も 、 「 今 も 十 分 幸 せ な ん だ 」。そ う 心 か ら思える自分でありたいものです。 周利槃特(しゅりはんどく)愚路とも呼ばれた。 みょうが 茗荷の名前の元になったお坊さんは、周利槃特(しゅりはんどく)という。周利槃 特は、天竺(インド)の北部に生を受け、兄の摩河槃特(まかはんどく)と共にお釈 迦様に弟子入りした。兄は賢く、お釈迦様の教えをよく理解し、深く仏教に帰依した が、弟の周利槃特は物覚えが悪く、自分の名前すら覚えられなかった。そのため、托 鉢に出かけても、お釈迦様の弟子として認められず、乞食坊主扱いをされ、お布施を 貰 う こ と が 出 来 な い 。お 釈 迦 様 は こ れ を 憐 れ み 、 「 周 利 槃 特 」と 書 い た の ぼ り を こ し ら えて「明日からこれを背負って托鉢に行きなさい。もし名前をたずねられたら、これ で ご ざ い ま す と 、の ぼ り を 指 差 し な さ い 。」と い わ れ た 。次 の 日 か ら 托 鉢 の 時 に の ぼ り を背負っていくと、人々はお釈迦様の書かれたのぼりをありがたがり、たいそうなお 布施をいただくことができるようになったそうである。 さて、兄は、物覚えの悪い弟に、何とかお釈迦様の教えを覚えさせようと手を尽く してやるが、弟の方は、朝に覚えていたものを昼には忘れてしまう。周利槃特は、自 分のおろかさに涙を流して途方にくれた。それを見ていたお釈迦様は「自分が愚かで あると気づいている人は、知恵のある人です。自分の愚かさを気づかないのが、本当 の 愚 か 者 で す 。」と い わ れ 、ほ う き を 周 利 槃 特 に 渡 し て「 ご み を 払 お う 、あ か を 除 こ う 」 と唱えて掃除をしなさいと教えた。 その日から周利槃特は、雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も、毎日「ごみを 払 お う 、ち り を 除 こ う 」と 唱 え な が ら 掃 除 を し 続 け た 。や が て「 お ろ か 者 の 周 利 槃 特 」 と呼ぶ人はいなくなり、 「 ほ う き の 周 利 槃 特 」と 呼 ば れ る よ う に な っ た 。そ し て 数 十 年 経ち、周利槃特は自分の心のごみやあかを全て除き、阿羅漢と呼ばれる聖者の位にま で な っ た の で あ る 。お 釈 迦 様 は 、 「悟りを開くということは決してたくさんのことを覚 えることではない。わずかなことでも徹底すればよいのである。周利槃特は徹底して 掃 除 を す る こ と で つ い に 悟 り を 開 い た で は な い か 。」と 大 衆 の 前 で お っ し ゃ っ た 。そ の 後、周梨槃特が亡くなり、彼のお墓にあまり見たこともない草が生えてきた。彼が自 分の名を背に荷(にな)ってずっと努力し続けたことから、この草は「茗荷(みょう が )」 と 名 づ け ら れ た と い う こ と で あ る 。 生死事大(しょうじじだい) 生死事大とは、生き死の問題は重大であって、それをいかに超越するかが最大事で あることです。生死を繰り返す、この世の迷いを捨てて悟りを開くことは、いま生き ているこの時しかなくて、最も大切なことであるといいます。生死事大は仏教、特に 禅宗の語です。 禅宗の僧堂では、毎日欠かすことなく、朝夕の時を告げたり、法要の知らせとして 木板(もっぱん)と言う法具を撃ち鳴らします。この木板の表には「生死事大」の墨 書があり、仏教者としての真実を求める最重要課題である生死の問題を明らかにすべ き事を投げかけられています。 しょうぼうげんぞう しょうろく しゅうしょうぎ 道元禅師の主著「正法眼蔵」の抄録ともいえる「修証義」の最初に「生(しょう) いんねん を明らめ死を明むるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死 あ なし、ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣う(ね こ きゅう じ ん が う )べ き も な し 、是 の 時 初 め て 生 死 を 離 る る 分 あ り 、唯 一 大 事 の 因 縁 と 究 尽 す べ し 」 とあります。 生死の問題は人生そのものの一大の命題であり、生死を明らかにすることは、すな わち迷い、煩悩を超脱し悟りの境地そのものを築くことに他ならないのです。 い か 生とは何か、死とは何か、人間如何に生きるベきか、その究明こそ人として最も大 事な課題なのです。だからこそ、その究明に時間を惜しんで修行すべきだと言う激励 の 言 葉 と し て「 生 死 事 大 」の 語 が あ り 、そ の 語 に 続 く 言 葉 と し て「 光 陰 可 惜 」( こ う い ん お し む べ し )が あ り 、さ ら に「 無 常 迅 速 時人不待」 (むじょうじんそく ときひと をまたず)の語がつづくのです。 し ゅ き 朱子学で知られる朱喜の「少年易老学難成 一 寸 光 陰 不 可 軽 」( 少 年 、 老 い や す く 、 とうえんめい 学なり難し、一寸の光陰 軽んず可からず)の句は有名である。また詩聖・陶淵明の 「歳月不待人」 ( 歳 月 、人 を 待 た ず )の 語 が そ の 句 と 一 つ に 重 な り 、織 り な し て 、生 死 事大 光陰可惜無常迅速 時人不待の語となり、禅門では今も大事な言葉として、修 さくれい 行者を木板のコーン、コーンの響きを通して朝晩、策励し続けているのです。 生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか、それが仏法の根本問題です。長生きする ことが幸せでしょうか。そうでもありません。短命で死ぬのが不幸でしょうか。そう でもありません。問題はどう生きるかなのです。この世において、生まれたものは死 に会ったものは別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように 去っていきます。すべてが「無常」です。無常ならざるものはあるでしょうか。 一切皆苦(いっさいかいく) 一 切 皆 苦 と は 、仏 教 に お け る 四 法 印 の 一 つ で す 。初 期 の 経 典 に「 色 は 苦 な り 」 「受想 行 識 も 苦 な り 」と し ば し ば 説 か れ て い ま す 。こ れ を「 一 切 皆 苦 」と 言 い 、 「 苦 」の 原 語 は 、 パ ー リ 語 の ド ゥ ッ カ ( dukkha) で 、 こ れ は 単 に 、 日 本 語 の 「 苦 し い 」 と い う 意 味 だ け で は な く 、「 空 し い 、 不 満 、 不 安 定 ( 自 分 の 思 い 通 り に な ら な い )」 と い っ た 幅 広 い 語 義 を 持 ち ま す 。 そ れ ゆ え 、「 一 切 皆 苦 」 は 「 す べ て の 存 在 は 不 完 全 で あ り 、 不 満 足なものである」と言いかえることもできます。不完全であるがゆえに、常に変化し て 止 ま る こ と が な い 。永 遠 に 存 在 す る も の は な く 、た だ 変 化 の み が 続 く の で「 空 し い 」 と い う ふ う に 、「 苦 」 と い う 一 語 で 様 々 な 現 象 が 語 ら れ ま す 。 そのため、仏教では「苦」とは、解りやすく言うと「自分の思い通りにならない」 ということになります。 この「苦」とはまず、生まれてきたこと。これは選択の余地はありません。老いる こと。これもどうしようもありません。病むこと。好きで病気になる人はいないでし ょう。死ぬこと。すべての人に必ずおとずれます。以上の生老病死の四つの避けられ ないことを四苦といいます。 さ ら に 、 ど ん な に 愛 す る 人 と も 別 れ る 時 が 来 る こ と ( 愛 別 離 苦 -あ い べ つ り く )、 ど ん な に い や な 人 で も 顔 を あ わ せ な け れ ば な ら な い こ と ( 怨 憎 会 苦 -お ん ぞ う え く )、 求 め て も 思 い 通 り に な ら な い こ と ( 求 不 得 苦 -ぐ ふ と く く )、 人 と し て の 肉 体 ・ 精 神 が あ る た め に 生 ま れ る 苦 し み( 五 蘊 盛 苦 -ご う ん じ ょ う く )の 四 つ を 、生 老 病 死 の 四 苦 に 加 え 「 八 苦 」 と い い ま す 。「 四 苦 八 苦 」 と い う 言 葉 は こ こ か ら き て い ま す 。 [苦 ]を う け い れ る こ と なんだか悲観的な話しになってきてしまいましたが、上にあげた苦は自分ではどう にもならないことなのです。それなのに、どうにかしたい、どうにかしよう、と思う と文字通りの「苦」になってしまいます。それにしてもどうして世の中これほどまで に思い通りにならないことばかりなのでしょうか。 それは、すべてのものは移ろいゆく、諸行無常であるがゆえなのです。すべての存 在、あらゆる現象は生じ、そして滅する、私達もその流れのなかにあります。ですか ら 自 分 で は ど う し よ う も な い こ と ば か り な の で す 。「 諸 行 無 常 」 を 正 し く 認 識 し 、「 何 事も自分の思い通りにはならない」ということをうけいれることが大切です。すべて の も の は 生 じ 、変 化 し 、滅 す る と い う の に 、私 達 は 目 の 前 の も の に 執 着 し た り 、 「自 分」 にとらわれたりしてしまいがちです。 「人生をあきらめましょう」といっているようなニュアンスにとられるかもしれま せんが、 「 あ き ら め る 」と い う 言 葉 に は「 諦 め る 」の ほ か に「 明 ら め る 」と 書 い て「 物 事 の 事 情 ・ 理 由 を あ き ら か に す る 」と い う 意 味 も あ り ま す 。 「 人 生 を 諦 め る 」の で は な く 、仏 の 教 え を 正 し く 認 識 し「 人 生 を 明 ら め る 」 こ と に よ り 、自 由 に な る こ と が で き るのです。 諸行無常 しょぎょうむじょう 仏教の最も基本となる三法印の一つに「諸行無常」の教えがあります。これは「こ の世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえ ども存在は同一性を保持することができなく、この現象世界のすべてのものは生滅し て 、 と ど ま る こ と な く 常 に 変 移 し て い る と い う こ と で あ る 。」 と 言 い ま す 。 ぎおんしょうじゃ 諸行無常と言えば、 『 平 家 物 語 』の 冒 頭 の 一 節 と し て 広 く 知 ら れ た 言 葉 で「 祇 園 精 舎 さ ら そうじゅ しょうじゃひっすい おご の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れ ただはる たけ ひとえ る 者 も 久 し か ら ず 、唯 春 の 夜 の 夢 の ご と し 。猛 き 者 も つ い に は 滅 び ぬ 、 偏 に 風 の 前 の ちり 塵 に 同 じ 。」と 、滅 び ゆ く 姿 の は か な さ の 代 名 詞 の よ う に 使 わ れ て い ま す 。ま た 、日 本 人の美意識の代表とされるものに、桜の花や紅葉、雪などがありますが、これらはす べて、はかないから美しいのであり、そこにはこの仏教の無常観が流れているといわ れます。 こ の「 無 常 」。往 々 に し て 私 た ち は 一 面 だ け で と ら え が ち な の で す 。そ れ は 、雪 が 溶 けたり、紅葉や桜が散ったりといった、滅びの場面でだけ、無常観をいだきやすいと いうことです。 でも実は、これだけではないのです。もっと咲いていてほしいのに、いずれ散って しまうのはもちろん無常です。ところが、寒々とした木々の早春の枝先が、小さな蕾 を結ぶのも無常。蕾が少しずつふくらんでいくのも無常。そして誇らしげに花開くの も無常。 人間で言えば年老いるだけが無常ではなく、このまま、かわいいままでいてほしい と願うようなあどけない幼子が、成長して少年になり、やがて青年になっていく。こ れも無常。楽しいこと、いいことはいつまでも続かないけれど、逆に、どんなにつら く苦しいことも、ずっとそのままではいない、やがて必ず苦しみ悲しみから立ち直っ て い く 。こ れ も 無 常 。す べ て の も の は 変 化 し て や ま な い と い う 真 実 が 、 「 無 常 の 理 」な のです。そして、この諸行無常の世にありながら「いつまでも変わらない」ことにこ だわりすぎる私たちの心が「苦しみ」を生む一つの大きな原因だと、お釈迦さまは説 かれているのです。 諸々の事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成させなさい。 今から約2500年前、沙羅双樹の下でお釈迦さまはそう遺言され、無常の理を自 らの老いと死をもって示して、涅槃に入られました。 2月15日のことと伝えられています 三法印 三法印は、一切皆苦を加えて四法印とする場合もある 三 法 印 と は 、「 諸 行 無 常 印 」「 諸 法 無 我 印 」「 涅 槃 寂 静 印 」 の 三 つ を 言 い ま す 。( 時 に は こ れ ら を 略 称 し て「 無 常 印 」 「無我印」 「 涅 槃 印 」と い う こ と も あ り ま す 。)三 法 印 の 「 印 」と は 、印 章( し る し )と い う 意 味 で す 。従 っ て 、三 法 印( さ ん ぼ う い ん )と は 、 「三つの仏教を特徴づける真理」と言う意味です。この三法印の特徴を持っているも の が 仏 教 で あ り 、 無 け れ ば 仏 教 で は な い と い う こ と で す 。 こ の 三 法 印 に 、「 一 切 皆 苦 」 を 加 え て 四 法 印 (し ほ う い ん )と よ ぶ こ と も あ り ま す 。 【諸行無常】 (しょぎょうむじょう) この世に生起するあらゆる現象は、常に変化し、流転してやむことなく、刹那の単 位で移り変わっていくということ。 ( 行 と は 因 と 縁 に よ っ て つ く ら れ た も の 、現 象 し て いる一切のもの) 【 諸 法 無 我 】( し ょ ほ う む が ) い か な る 存 在 も 、永 遠 不 変 の 実 体 な ど は な い の だ と い う 意 味 。 (諸法とはここでは存 在、我とは恒常で変化しない実体の意) た と え は 、「 わ た し 」 と 思 い 込 ん で い る こ の わ た し も 、「 わ た し 」 と し て と ら え ら れ る ような実体は存在しない。この「わたし」を含め、世の中のすべてのものは、ただ一 つ で 存 在 す る も の は な く 、縁 に 依 っ て 仮 に 和 合 し た 姿 で あ り( 縁 起 )、実 体 を 伴 っ て あ るように見えるが、実際には一刹那ごとに生まれたり滅したりを繰り返していて(刹 那 無 常 )、我 が と か 我 が も の と い う け れ ど 、そ ん な も の は 何 一 つ な い と 教 え る の が「 諸 法 無 我 」。 【涅槃寂静】 (ねはんじゃくじょう)寂滅為楽(じゃくめついらく) 涅 槃 と は 煩 悩 の 炎 が 吹 き 消 さ れ た 状 態 、 安 ら ぎ 、 悟 り の 境 地 を い う 。「 諸 行 無 常 」、 「諸法無我」の教えによって、人間の心から貪りと怒りと愚痴がとり除かれた時、そ こに初めて涅槃寂静の状態が生まれるとし、仏教は涅槃寂静に到達することを目標と する。 H22.10.31 いろはにほへと いろは歌は、全ての仮名の音を使って作られている歌で、手習い歌の一つ。七五調 四 句 の 今 様( い ま よ う )形 式 に な っ て い ま す 。手 習 い 歌 と し て 最 も 著 名 な も の で あ り 、 近代に至るまで長く使われていました。そのため、全ての仮名を使って作る歌の総称 として使われる場合もあります。また、平安時代末期に流行した『涅槃経(ねはんき ょ う )』 の 「 諸 行 無 常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われています。 いろはにほへと ちりぬるを 色は匂へど 散りぬるを わかよたれそ つねならむ 我が世誰そ 常ならむ うゐのおくやま けふこえて 有為の奥山 今日越えて ゑひもせすん 浅き夢見じ 酔ひもせず さきゆめみし 色は匂へど 散りぬるを 諸行無常(しょぎょうむじょう) 花は爛漫と咲き乱れていてもやがて散ってしまうように、人にも寿命があり、すべ ての存在はうつりかわる。我が世と青春と肉体を謳歌していても、月日のたつのは実 に早いものであるという諸行無常を示します。 我が世誰そ 常ならむ 是生滅法(ぜしょうめっぽう) この世に存在するものは生滅する法(真理)です。釈尊は「一切のものは無常であ る。諸法は無我である。故にすべての存在しているものには永遠不滅なるものなどは 内在しない」と示されています。 有為の奥山 今日越えて 生滅滅己(しょうめつめつい) 「 有 為 」自 体 は「 形 あ る も の と 形 の な い も の 」、つ ま り「 愛 や 憎 し み と い っ た 形 の な い も の ま で 含 め て こ の 世 に 存 在 す る す べ て の も の 」 と い う 意 味 で す が 、「 有 為 の 奥 山 」 と い う と 、そ ん な い ろ い ろ な も の が 渦 巻 く 人 生 を 比 喩 す る 言 葉 に な り ま す 。 「そんな険 しい人生を、今日もまた 1 つ越えて」ともとれます。また、有為とは為す有りとも読 めます。人間のはからいとは「人生とはどうしたって有為なんだ」というのでしょう か。 浅き夢見じ 酔ひもせず 寂滅為楽(じゃくめついらく) 寂 滅 を も っ て 楽 と 為 す - - 有 為 の 奥 山 を 越 え て 見 た な ら ば「 浅 い 夢 の よ う な も の 」で あ り 「 酔 っ ぱ ら っ て い た 」 よ う な も の で あ る 。「 寂 滅 」 と は や す ら ぎ と い う こ と で す 。 我が滅しられ、煩悩の火が吹き消えた状態で、やすらぎ、悟りの境地をいいます。一 切のものごとへのこだわりや、とらわれの心がなくなった状態です 印可(いんか) 印可とは、師がその道に熟達した弟子に与える許可のこと。その証として作成され る書面は印可状と呼ばれる。いわゆる“お墨付き”のこと。禅宗では、悟りを開いた と 認 め ら れ た 弟 子 の 僧 侶 が 、師 の 肖 像 を 絵 師 に 描 い て も ら い 、師 は そ の 肖 像 の 上 に「 偈 文」という漢詩の形を取った説法をしたため、これを一種の卒業証書とした。 親鸞(浄土真宗の印可の考え) 他力本願の信心は、禅宗の悟りとは若干ニュアンスが異なります。禅宗の悟りは師 きょうげべつでん ふりゅう も ん じ い し ん で ん し ん 匠の印可をもって公に認められ、師匠から弟子へ「教外別伝・不立文字・以心伝心」 と 伝 え て 行 く も の で あ り ま す が 、そ こ に 師 匠 の 印 可 を 必 要 と し て い る よ う で あ り ま す 。 しかし、法然上人や親鸞聖人の教えは、やはり同じく「不立文字・以心伝心」ではあ り、人から人へと引き継がれて来たものであり、今後も引き継がれて行くものだと思 いますが、禅宗における印可と言うような約束も考え方もありません。 一休宗純の印可 一休宗純の印可について有名なエピソードがあります。二十七歳になった年の五月 二十日のこと、真夜中、闇夜に琵琶湖岸の舟の上で座禅をしていると、カラスの一声 だ い ご がありました。これを聞いて長年の疑問が突然とけて、大悟の境地に達したことを師 か そ う か そ う の華叟に告げ、これを聞いた華叟は一休に印可を与えましたが、一休宗純はこれを受 け取らなかったといいます。 良寛の印可 あんしゅ 良寛庵主に附す 良也愚の如く う た ひろ 道転た寛し とうとうにんうん 騰々任運 誰か看ることを得む ため さんぎょう ら ん ど う 為に附す山形爛藤の杖 いた ところ 到る 処 の へきかん 壁間 ご す い のど 午睡閑かなり 良 よ 、お ま え は 一 見 愚 か そ う に 見 え る が 、そ う で は な い 。 辿りついた仏道は既に広々とした所に出ている。 あくせくせず、運を天に任せているが そうしたことを誰がわかっているだろうか 私は今印可の一本の杖を与えよう この杖を持って旅に出よどこに行こうと良し ただこの杖を壁に立てかけておけ 昼寝をしていても良い これ こ 良寛の印可は、師の国仙和尚からいただき、晩年の自画像に「是は此れ誰そ大日本 国国仙の眞子良寛」と大書しているので、さぞやすばらしい師匠だったのでしょう。 一休は印可を受け取らず、師に対し無礼ではないかと心配しますが。良寛は印可を 受け取りますが印可を使うことはありませんでした。良寛も一休も権威のようなそう いうものから離れたところに生涯身を置いていたと思います。 高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう) 高 野 山 真 言 宗 は 、平 安 時 代 初 頭 に 弘 法 大 師( 空 海 )が 入 唐 し 、唐( 中 国 )・ 長 安( 西 け い か 安市)の青龍寺で恵果から密教を学び、日本に帰国後、開いた真言宗の一宗派。総本 山は高野山金剛峯寺。別称として、高野宗・高野派。寺号の金剛峯寺の金剛峯の名称 こんごう ぶ ろうかくいっさい ゆ が ゆ ぎ き ょ う は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経」の最初の 3 文字(金剛峯)を引用して、空海が名付 けました。 真言宗は、弘法大師空海が平安時代初期に大成した真言密教の教えを教義とする教 団です。真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味していますが、この 「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界やさまざまな事象の深い 意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにしています。弘法大師は、この隠され た深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であ ると述べています。それに対して、世界や現象の表面にあらわれている意味を真実と けんぎょう しょうもん えんがく 理 解 し て い る 教 え を 「 顕 教 」 と 呼 ん で い ま す 。「 顕 教 」 と は 、 声 聞 ・ 縁 覚 の 教 え ( 二 ほっそう さんろん け ご ん 乗)と法相宗、三論宗さらに天台宗、華厳宗などの大乗仏教を指しています。 密教と顕教の違いは、いくつか指摘できますが、もっとも根本的な違いは、この隠 しゅうほう さんみつ か じ さ れ た 秘 密 の 意 味 を 知 る 修 行 の あ り 方( 修 法 )に あ り ま す 。真 言 密 教 の 修 法 を 三 密 加 持 さんみつ ゆ が さ ん ま じ とか三密瑜伽などと言いますが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地)のことです。 特徴としては、仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき (三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊) と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。弘法大師は、この にゅうががにゅう あり方を仏が我に入り我が仏に入る、という意味で「入我我入」と呼んでいます。弘 法大師は、顕教にはこの入我我入とも言うべき瞑想が欠けていると述べています。も っとも、平安時代後期から鎌倉時代にかけて登場する新仏教については、真言密教の 教学や修法の影響を受けていると考えられますので、一概に顕教には瞑想が欠けてい るとは言えません。もう一つ顕教との違いをあげると、仏や菩薩についての理解があ ります。顕教の仏や菩薩などは、さとりを開いたり、さとりを求める「人」ですが、 密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。その「法」が身体 的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのです。密教の仏や菩薩たちを ほっしんぶつ 法身仏と呼ぶのはそのためです。 だ い び る ま た 、 真 言 宗 に お け る 、 中 心 と さ れ る 仏 様 は 、『 大 日 如 来 』 で 、 正 式 な 名 称 は 『 大 毘 盧 し ゃ な ぶ つ 遮 那 仏 』と い い ま す 。仏 教 と き い て ま ず 頂 点 に 思 い 浮 か べ る 仏 様 と い え ば「 お 釈 迦 様 」で す が 、真 言 宗 は お 釈 迦 様 を 中 心 と は し て い ま せ ん 。上 に も 書 き ま し た が 密 教 と 顕 教 に お け る違いがここに大きく現れています。 大 日 如 来 は 宇 宙 の 根 源 仏 、こ の 世 に 存 在 す る も の す べ て で も 言 い 切 れ な い『 全 て 』が こ の 大 日 如 来 と 繋 が っ て お り 、お 釈 迦 様 も こ の 世 で 仏 教 の 説 法 を 説 く た め に 大 日 如 来 が 姿 を おうじんぶつ 変えて現れた姿「応身物」とされています。 即身成仏(そくしんじょうぶつ) 即 身 成 仏 は 、仏 教 で 人 間 が こ の 肉 身 の ま ま で 究 極 の 悟 り を 開 き 、仏 に な る こ と で す 。 即 身 成 仏 の 思 想 は 、主 に 真 言 密 教 の 教 義 で あ り 、真 言 宗 に お い て 説 か れ る 。空 海 の『 即 身成仏義』により確立され、また天台宗・日蓮宗においても『法華経』に基づき説か れています。 即身仏(修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになること)と混同されが ちですが、即身仏と即身成仏は全く別物であり、違いは「成仏」は生きている状態で 悟る事です。 即身成仏を開くためには、日常生活の枠から逸する必要があり一定以上の修行が必 ほうぎょう 要とされ、時には比叡山の千日回 峰行のように限りなく死に近接することもあります。 これらの修行の面を重視したのが天台・真言など密教や山岳信仰の流れを汲む修験道 しろしょうぞく です。修験道では修験者(山伏)が白装束(古来の日本では死装束でもあった)を纏 って修行するなど死を前提とした点での即身仏と混同されやすい由縁もある。背景に こ は擬死再生の思想があり、山伏の籠もる深山は山中他界と観念されていたのです。 山伏は一種の他界から帰還する(=蘇る)ことによって超人的な力(法力)を獲得 い ふ すると考えられ、平地民の間では天狗のイメージのように畏怖の対象ともなっていま し か ん だ ざ した。禅宗の間でも只管打坐という修行が知られています。 仏教は、菩薩となる事、すなわち成仏を最終目標とし、修行を重ね、さまざまな事 象 に 関 す る 悟 り を 開 く 事 に よ っ て 、菩 薩 へ の 道 を 歩 み 続 け て 行 く 求 道 の 宗 教 で す 。 精 神の高揚を求めて荒行をする宗派もありますが、荒行は悟りを開く為の方法として、 それぞれの宗派で考え出された修行法の一種で、必ずしも必要な行というわけではな く、それをやったからと言って必ず悟りを開けるというものでもありません。 修行をするにあたっては、通常、出家して修行に専念します。それは、通常の日常 生活の中では、さまざまな邪念が存在したり、雑多な事に時間を取られたり、気に掛 け な れ ば な ら な い 事 が で き た り す る 為 、修 行 の 妨 げ に な る か ら で す 。し か し 、た ま に 、 高度な精神的志向性を持ち、日常の生活をしながら修行を積んでいる効果が在って、 それにより悟りを開き、そういった事を積み重ねているうちに、菩薩のレベルに達す る人が居ます。そういった、出家しないで普通の社会生活をしている中に居ながら、 菩薩となったケースを、 「 そ の ま ま の 生 活 を し な が ら の 成 仏 」と い う 事 で 、即 身 成 仏 と 表現する、という説もあります。 私は、人には皆、自分の中に仏心があると思います。この仏心が人に対する思いや り 、や さ し さ 、愛 、慈 悲 な ら ば 、そ れ は 仏 の 道 に 通 じ そ れ が 成 仏 で あ る と 思 う の で す 。 成仏の考えは、仏教の根底にある考え方です。その上に、弘法大師は『即身』とい う概念を加えます。はるか長い修行(菩薩行)を積み重ね、一歩でも仏に近づけたら という思いは、どなたもお持ちだと思います。でも、今の自分の中にあるのなら、近 づ く の で は な く『 目 覚 め る 』こ と が で き る な ら 、そ れ は す ば ら し い こ と だ と 思 い ま す 。 ぐ と く 号 (愚 禿 ・ 狂 雲 子 ・ 大 愚 ) 号(ごう)とは、名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号。例えば、李白は、名が たいはく い し そ と う ば そしょく 白、字が太白、別号が青蓮居士である。蘇東坡(蘇軾、別号:東坡居士)のように号 での方が有名な人物もいる。名や字と異なり、自身で名付けたり、他人によって名付 けられる。 ぐ と く 愚禿=親鸞(しんらん) 1173 年 5 月 14 日 生 れ ? じ ょ う ど しんしゅう しゅうそ 親鸞は、鎌倉時代初期の日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、法然を え し ん に 師と仰いだ。小豆が好きで、妻の恵信尼との間に 4 男 3 女の 7 子をもうけたという説 ぐ と く が あ る が 、す べ て が 恵 信 尼 の 子 で は な い と す る 説 も あ る 。親 鸞 は 自 己 を 愚 禿 と 号 し た 。 「すでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」といっている。承 元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあった。親鸞もそ の一人として僧侶の資格を奪われて越後の国府に流された。かくして、すでに僧にあ らず、しかしまた世の生業につかぬゆえ俗にあらず、かくして禿の字をもって姓とす ぐ ち る 親 鸞 で あ る 。し か も 彼 は こ れ に 愚 の 字 を 加 え て 自 己 の 号 と し た の で あ る 。愚 は 愚 癡 で ある。すでに禿の字はもと破戒を意味している。かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と けんそん 称したことは、彼の信仰の深い体験に基づくのであって、単に謙遜のごときものでは ない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。90歳で亡くなる。 狂雲子=一休宗純(いっきゅうそうじゅん) 1394 年 2 月 1 日 生 れ 狂 雲 子 以 外 に 瞎 驢 ( か つ ろ )、 夢 閨 ( む け い ) な ど と 号 し た 。 りんざいしゅう 室 町 中 期 の 臨 済 宗 の 僧 。一 休 さ ん 。諱 (い み な )は 宗 純 、号 は 狂 雲 。一 休 は 字 (あ ざ な )。 京 都 大 徳 寺 の 住 持 。自 ら を 狂 雲 子 と 称 し 、戦 乱 の 世 を 生 き た 狂 風・破 戒 の 僧 侶 で あ る 。 し ん じ し ゃ 男色はもとより仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い盲目の森侍者と ぎ お う じょうてい いう側女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。父は後小松天皇とも云われ、母は一休 が生まれる直前に天皇暗殺の疑いをかけられ宮中を追放された。以来、後小松天皇と 親子の名乗りを上げることは生涯無かったと伝えられている。88歳で亡くなる。 大愚=良寛(りょうかん) 1758 年 11 月 2 日 生 れ そうとうしゅう 良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵また ふみたか は文孝。号は大愚。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と 遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだという。名書家とし て知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供 達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』の字を書い た。また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と ていしん に 頻繁に杯を交わした。また弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれ ている。73歳で亡くなる。 天上天下 唯我独尊 (てんじょうてんげ お釈迦様の言葉に「天上天下 ゆいがどくそん) 唯我独尊」という言葉があります。 ふつう、唯我独尊というと‘世の中で自分ほどえらいものはいない’という意味で 使われますが、本来はそうではありません。 それでは、本当はどういう意味なのでしょうか。 お釈迦様のいう唯我独尊とは、この世の中で、みんなそれぞれにお互い自分という の は 、か け が え の な い 尊 い 存 在 で あ り 、か け が い の な い 尊 い 命 で あ る と い う こ と で す 。 ‘みんなちがって、みんないい’お互いにみんなそれぞれ尊い存在です。お互いの 違いを認め理解し合うことが大切ですね。 誰でも自分が一番大切です。だから、他人を押しのけてでも自分を主張し保とうと わ ず ら します。しかし、押しのけられた他人は、煩い・悩みが増すでしょう。これでは安ん ずることにはなりません。誰でも自分が一番大切なように、他人も自分が一番大切で す。自分が真実に成り立つことは、他人をペシャンコにして自分を主張することでは なく、他人を真に成り立たせることによって、自分が真に成り立つことです。叉、他 人を真に成り立たせることは、自分をペシャンコにして他人をたてまつることではな く、自分を真に成り立たせることによって、他人を真に成り立たせることです。この ような自分と他人のあり方を「自他不二」といいます。仏心とはまさに「自他不二」 であり、その境界こそ、あらゆるものを「安んずる」ことができるのです。即ちあら ゆるものを「安んずる」ことによって、仏は仏たり得るとといえましょう。 「 天 上 天 下 」と は 全 世 界 を 意 味 し ま す 。そ れ は 時 間 的 ・ 空 間 的 な 全 世 界 で 、 「イツデ モ、ドコデモ」ということです。仏心とは、いつでもどこでも自他不二の心が持ち続 け ら れ て あ る こ と で す 。そ の 全 世 界 の 中 心 と し て の 自 己 ─ 自 他 不 二 の 仏 心 ─ に お い て 、 「唯我独尊」と示されるのであります。つまり「いつでもどこでも」自分が大切なと 同じように、あらゆる生きとし生けるものを大切にする─それが「天上天下唯我独尊 さんがい か い く が とうあんしん 三 界 皆 苦 我 当 安 之 」の こ こ ろ で あ り ま す 。そ う い う「 私 」の 尊 さ は 私 1 人 だ け で な く 、 す べ て の 人 、一 人 ひ と り が そ う で あ り 、一 人 ひ と り が 尊 い の で す 。 『 阿 弥 陀 経 』に「 青 色青光 白色白光」と説かれているのも、このことを意味しています。 し か し 、「 私 に そ う 思 え と い わ れ て も ム リ だ 」 と 言 わ れ る か も し れ ま せ ん 。「 あ な た に、私に、そう思え」というのではなく、仏さまが、私を、あなたを、そのように思 っていて下さる─そういう仏心に包み込まれている私を知らされることであり、それ が「本願を聞く」ということです。そう思えぬままに「唯我独尊」とされている私で あります。
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