日本哲学会 第 75 回大会 2016 年 5 月 14 日 1 ウィトゲンシュタインの

日本哲学会 第 75 回大会 2016 年 5 月 14 日
ウィトゲンシュタインの「治療」における対話者の特徴付け
槇野 沙央理
(千葉大学大学院博士課程、[email protected])
1.
序論
後期ウィトゲンシュタインの代表的な遺稿として知られる『哲学探究』
(以下、
『探究』と呼ぶ)
は、特殊なスタイルで書かれており、一目見ただけでは、何を念頭に書かれたテキストであるの
か、ほとんどわからないものである。確実に言えることは、ウィトゲンシュタインが念頭に置い
ていた対象は、
『探究』に名前が挙げられている、過去のウィトゲンシュタイン自身やフレーゲ
等々の考えであるということである。
しかし、
『探究』が過去のウィトゲンシュタイン自身をはじめとする特定の哲学者の考えを取
り扱ったという回答は、
『探究』は何を取り扱ったのか? という問いに対する回答としては、
不十分である。その理由は、
『探究』が部分的に対話形式を採用しており、虚構の対話者を登場
させる点に関係する。この対話者が語る言葉が、どのような意味で、過去のウィトゲンシュタイ
ン自身をはじめとする哲学者の考えを反映しているのかが、今度は問題になるからである。
例えば、185 節から 242 節のあいだに登場する対話者は、これまで「プラトニスト」と呼ばれ
てきた1。例えば、後期ウィトゲンシュタインを純粋な規約主義者として解釈する M. ダメット2
(1978, c1959)に従えば、対話者は「プラトニズムの描像」
(Dummett 1978, p. 185)を反映した虚
構の存在である。その描像とは、
「数学的諸対象はわれわれから独立に存在し、それらは相互に
ある関係に立っている。そして、われわれの行っていることは、それらの諸対象と諸対象相互の
関係を発見することである」
(ibid., pp. 166-7)というものである。
だが、対話者をどのような名前で呼ぶかは、それほど重要な問題ではない。むしろ、どのよう
な背景のもと、対話者を「プラトニスト」と呼ぶのかが問題である。例えば、ダメットは、数学
の哲学という背景をもっていた。彼は、ウィトゲンシュタインの考察を利用して、数学の哲学に
おいて対立する二つの立場、すなわちプラトニズムと構成主義との間に、
「中間的な描像」
(ibid.,
p. 185)をさしはさもうとしていたのである。一方、同じく対話者をプラトニストと呼ぶ研究者
であっても、J. フロイド(1991)や D. フィンケルシュタイン(2000)は、異なる背景をもって
いる。すなわち、後期ウィトゲンシュタインの哲学的活動を、
「治療」の概念に着目して解明す
る研究である。
「治療 therapy」とは、
『探究』の活動を特徴づけるウィトゲンシュタイン自身の表現である(PU
§133)
。治療の概念に着目する研究者(C. ダイアモンド 1991;2004:G. ベイカー 2004:O. ク
ーセラ 2008:etc.)のあいだに、完全に一致した見解があるわけではないが、およそ治療とは、
哲学的な見方・問題・言葉使いに囚われた状態から解放されるためのヒントを考案する活動であ
ると言える。この「治療」概念に着目する研究者は、ウィトゲンシュタインの哲学的活動を明ら
かにすると同時に、ウィトゲンシュタインの哲学に対する姿勢から学ぶべき点を引き出そうとし
1
別の解釈としては、規則のパラドックスとその懐疑的解決を提示した S. クリプキ(1982)によって、対
話者は懐疑論者と呼ばれる。
2
ダメットの考察は、主として『数学の基礎』に対するものであるが、ダメット自身が『数学の基礎』と『探
究』との区別を気にしていないことから、
『探究』§§185-242 にも適応させることができると考えられる。
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ている。
治療の概念に着目して『探究』を検討する研究では、ウィトゲンシュタインは、新しい描像を
提示することによって、プラトニズムの描像を中和しようとしたのではなく、むしろ、プラトニ
ズムの描像に囚われている人を、そこから解放しようとしたと解釈される(Diamond 1989: Minar
2011)
。本発表も、大筋においてこの解釈に与するものである。しかし、これまでの研究では、
『探
究』の治療構造を際立たせるため、説明があまりにも図式的になり過ぎる傾向があった。よって
本発表では、こうした図式的説明に内実が伴うことを示し、その上で、
『探究』の対話者に関し
て、これまで見過ごされていた点を明るみに出したいと思う。
検討の順序は以下の通りである。次章では、
「治療」の概念に着目して、
『探究』§§185-242 の
対話者を特徴づけるフィンケルシュタイン(2000)“Wittgenstein on rules and platonism”を取り上げ、
その基本的な内容を確認する。三章では、治療の形成過程を検討することによって、フィンケル
シュタインの対話者の特徴づけに欠けている点を指摘する。その上で四章では、フィンケルシュ
タインの考察が見過ごしていた点を補完する考察を行う。
2.
フィンケルシュタインの「プラトニスト」
フィンケルシュタイン(2000)によれば、ウィトゲンシュタインの対話者は、
「プラトニスト」
と呼ばれる。
「ウィトゲンシュタインのプラトニストは、まず、いかなる規則とその適用のあい
だにも超えがたい隔たりが存在する、とよく考えずに認めてしまう人であり、そして、その隔た
りを架橋する不思議な力をもったものを想像してしまう人である」
(Finkelstein 2000, p. 67)
。フィ
ンケルシュタインによると、対話者は、規則を実際の言語活動から分離したものととらえ、その
あいだを架橋しなければならない、と考える人であることになる。
フィンケルシュタインの説明の背景には、
『探究』§§185-242 の治療活動に関する、次のような
考察がある。
『探究』185 節には、教師の「2 を加えよ」という命令に対し、1000 以上の数になる
と「1000,1004,1008,1012」と書いてしまう生徒が登場する。この 185 節の思考実験は、ある人が
意味したことを別の人はいかに理解するかという問題と、何が数列の規則に従った正しい行為で
あるかを決めるのかという問題を示唆している。プラトニストは、こうした二つの問題に対し、
「解釈 interpretation」という概念に訴えて解決しようとする。
「解釈」は、教師と生徒、あるいは
規則と行為のあいだの隔たりを架橋するものとして措定されている。だが「解釈」の概念は、そ
れだけではまだ、どの解釈が最終的な解釈であるかをわれわれに教えてくれない。この問題を解
決しない限り、
「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させ
ることができるから」
(PU §201)というパラドックスが生じてしまう。プラトニストは、パラ
ドックスを回避し、われわれの言語を無意味の脅威から守るため、われわれの言語活動の背後に、
これ以上解釈されない最終的なものを求めてしまう。
(ibid., pp. 54-5)
フィンケルシュタインの考察を整理するならば、
『探究』§§185-242 でウィトゲンシュタインが
示唆した事柄について、われわれは次のように理解することができる。すなわち、何が数列の規
則に従った正しい行為であるかを決めるのか、という問題に回答しようとする対話者は、
「いか
なる規則とその適用のあいだにも超えがたい隔たりが存在する」
(ibid., p. 67)という見方で世界
を眺めてしまっている。パラドックスをはじめとする諸困難も、すべてこの見方にとどまること
から生じるのである。
フィンケルシュタインの説明は、概略的に『探究』の対話者を特徴づけるものと評価できる。
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しかし、まったく疑問の余地を残さない説明とは言えない。というのも、一体どのような人が、
実際にプラトニストであるのかが、ほとんどわからないからである。もし対話者が、特定の哲学
的主張を行う人であれば、ある程度、対話者と呼ばれる人たちを限定することができるだろう。
しかし、フィンケルシュタインの説明では、対話者は、特定の哲学的主張を行う存在としては描
写されておらず、むしろ特定の見方をもつ虚構の存在として描かれている。よって、誰が「プラ
トニスト」と呼ばれるのかはほとんど明らかではないのである。
この疑問に対し、フィンケルシュタインの立場からは、対話者「プラトニスト」は、フレーゲ
や前期ウィトゲンシュタインの見方を反映した虚構の存在者であると回答できるだろう。だがこ
の回答は暫定的であり、新たな疑問のきっかけとなるものである。すなわち、仮にプラトニスト
がフレーゲ―前期ウィトゲンシュタインの見方を反映しているとしても、それらがどのような意
味で、プラトニストと呼ばれるのかについては、さらなる説明を必要とするのではないか、とい
う疑問や、もし対話者が虚構の存在者であるとすれば、いったいそれはわれわれにとって何の役
に立つのか、という疑問が生じうる。
このように、フィンケルシュタインによる対話者の特徴づけは、ひどく不適切なものとは言え
ないが、基本的な問いに対して十分に回答しておらず、疑問を残すものであると言える。
3.
治療の形成過程
フィンケルシュタインの特徴づけには、何が足りないのだろうか? 何が足りないから、先述
の二つの疑問が生じてしまうのだろうか? この問いに関係があると考えられるのは、フィンケ
ルシュタインが、暗に対話者を、治療すべき対象として、すなわち客観的に把握可能な他者と前
提する点である。
対話者を治療すべき他者とみなすことは、ある意味では至極もっともな考えであるように見え
る。というのも、
『探究』§§185-242 でウィトゲンシュタインは、明らかに対話者を治療している
ように見えるからである。だが、この考えは、それほど当たり前のものとも思われない。そもそ
も『探究』は、ウィトゲンシュタインが、自身の哲学的な見方・問題・言葉使いを治療する最中
に書かれた遺稿であり、はじめから客観的に把握可能な他者を治療するために書かれたものでは
ない。
『探究』§§185-242 における治療の形成過程を確認しておきたい。治療の背景になっているの
は、人が有意味な言語活動をしているときに何が起こっているのか、という問題意識である。こ
の問いは、前期の著作『論理哲学論考』
(以下、
『論考』と呼ぶ)に内在する図式から自然に生じ
る問いである。実際に、
『論考』の内容を確認してみよう。
命題のみが意義をもつ。命題という連関の中でのみ、名は意味をもつ。
(TLP §3.3)
命題の意義を特徴づける命題の各部分を、私は表現(シンボル)と名付けよう。
(命題自身が一つの表現である。
)
表現とは、命題の意義にとって本質的なもので、諸命題が相互に共有しうるもののすべてで
ある。
(TLP §3.31)
記号とはシンボルにおける感性的に知覚可能なものである。
(TLP §3.32)
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ここで命題の意義、シンボル、記号の、三者関係を次のように説明することができる。すなわち
命題 p は、そのまま p というシンボルであり、シンボル p は、命題 p の意義の本質を担う。一方、
記号は、シンボル p における知覚可能な側面のことであり、世界に存在する物体と同じように扱
われるシンボルのことである。つまりシンボル p は、一方で命題の意義を担いつつも、もう一方
では、知覚可能な物質世界に関わると言える。
命題の意義、シンボル、記号の三者関係は、一つの図式である。この図式を通じて言語活動を
眺める人は誰でも、人が言葉を用いることは、一方で、任意でない意味・規則・論理の領域に関
係することであり、もう一方では、任意である記号が属する物理的世界の領域に関係することだ、
とみなすことになる。
この図式は、言語活動だけを論理の領域と物理的世界へ分離するだけではなく、人間の行為を
も二つの領域に分離する。まず言語活動は、
「歩く、食べる、飲む、遊ぶことと同じように、私
たちの自然誌に属している」
(PU §25)ものとしてではなく、人が「精神的な能力」
(PU §25)
を用いて行う活動とみなされる。これに従い、人間の行為も、
「語る」行為と、その行為の背後
にある「意味する」活動に分けられるのである(cf. BB p. 35)
。
人間の行為が「語る」行為と「意味する」活動に分離されるとき、両者の関係は、並行であり、
互いに独立である。このことは、実質的に、
「意味する」活動を、
「何らかの心的行為 some mental
act」
(BB p. 142)とみなすことに等しい。
「何らかの心的行為」とは、例えば、自分が「1 を加え
よ」という規則を他人に与えた時点で、自分はかくかくのことをせよということを意味する行為
を行ったのだ、とみなす際に措定されるものである。
こうした眺望をもたらす図式の内側で、人が有意味な言語活動をしているときに何が起こって
いるのか、という問いが発生するのは極めて自然なことである。すなわち、人間が言葉を用いる
ことは、ある意味で、何か音声を発したり、何らかの形を描くことにすぎない。しかし、われわ
れは、人がただ単に音を発しているだけの場合と、人がコミュニケーションしている場合とを区
別することができる。そうである以上、人が有意味に言葉を用いている場合に特有の、何らかの
活動が存在するはずである。このように考えることは、あの図式の中では、自然なことに感じら
れる。
『探究』§§185-242 がもつ見方が成立する背景には、以上のような、
『論考』の図式から自然に
生ずる問いを背景にもつ。それゆえウィトゲンシュタインにとって、同箇所に登場する対話者は、
治療すべき対象というよりは、むしろ自身の問題意識を表現するための「口」だったと考えられ
る。フィンケルシュタインの考察は、対話者を、客観的に把握可能な他者と前提しており、この
点が、フィンケルシュタインによる対話者の特徴づけを不十分なものにしていると言えるだろう。
4.
対話者の語る言葉へ
フィンケルシュタインによる対話者の特徴づけに欠けていた点が、ウィトゲンシュタインにと
っての対話者は、自身の問題意識を表現するための「口」であった、という指摘が認められると
すれば、これに伴い、対話者の特徴づけの背景となっていた、フィンケルシュタインによる治療
活動に関する説明も、再検討されるべきものとなる。
すでに整理したところでは、フィンケルシュタインの考察は、次のようなものであった。すな
わち、
『探究』§§185-242 において、何が数列の規則に従った正しい行為であるかを決めるのか、
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という問題に回答しようとする対話者は、すでに「いかなる規則とその適用のあいだにも超えが
たい隔たりが存在する」
(Finkelstein 2000, p. 67)という見方で世界を眺めてしまっている。
ここでわれわれが注目すべき点は、フィンケルシュタインの考察においては、対話者の見方が
治療対象の核心とみなされている、ということである。しかも、フィンケルシュタインが「よく
考えずに unthinkingly」
(ibid., p. 67)という語を用いていることから、対話者は自身の見方にあま
り自覚的ではない存在だと考えられている。むしろ対話者は、自身の見方を自覚的に把握してい
ない状態で、自然とその見方に従った表現をしてしまうのである。
「ほとんどのプラトニストの
表現は、記号を[…]
、生きた人間が作り出す諸々の適用から引き離して考えようと努力しては
ない人によって、無邪気に innocently 発される」
(ibid., p. 67)
。
対話者が自身の見方を自覚的に把握しておらず、自然とその見方に沿った表現をしてしまう、
という点は、われわれが、フィンケルシュタインの説明を吟味するきっかけとなる。すでに確認
したように、フィンケルシュタインによる対話者の特徴づけは、一体どのような人が実際にプラ
トニストであるのかほとんどわからない、という疑念を引き起こすものであった。今この疑念が
生じた理由を説明するならば、人は、自分がプラトニスト的な見方をしているかどうかを自覚せ
ずにいられる以上、誰がプラトニストの見方をしているのかは、ただちに明らかではないからで
ある。
ある人がプラトニストの見方をしているかどうかは、その人の表現を吟味しなければ、明らか
にすることは難しい。例えば、
『茶色本』においてウィトゲンシュタインは、次のように対話者
の表現を吟味する。
この[数列の移行ステップを現実には行わなかったとしても、その規則を意味するという神
秘的行為の中でそのステップを行ったのだという]奇妙な考えは、
「意味する」という語の
独特な用法に関係がある。あの[指差しの方向とは反対の方向を向いてしまう]男が 100 ま
、、、、
できて次に 102 と続けたとする。われわれは「私は君が 101 を書くように意味したのだ」
、
と言うだろう。この「意味する」という語の過去形によって、ある一つの意味するという行
為がその規則を与えた時点においてなされた、と思い込ませるのである。だが実際には、こ
の表現はそのような行為に言及してはいないのである。この文を「私がこの段階で君に何を
することを求めているのか、と前もって君が尋ねたなら私は……と答えだろう」
、という形
に換えてこの過去形を説明することもできよう。ここで君が……と答えただろう、というこ
とは一つの仮説なのである。
(BB p. 142、
[]内は引用者補足)
ウィトゲンシュタインが着目する表現は、
「意味する」という語の過去形「意味した」である。
この表現は、日常的な文脈で用いられる語ではあるが、ここでは変わったイメージが込められて
いる。すなわち、
「私は君が 101 を書くように意味したのだ」と発言することによってわれわれ
は、あたかも、過去のある時点で、数列の先のステップを先取りしておいたかのように思わせる
ことができる。だが、実際に日常的な場面で「私は君が 101 を書くように意味したのだ」という
発言が用いられるのは、
「私がこの段階で君に何をすることを求めているのか、と前もって君が
尋ねたなら私は……と答えだろう」という説明を行う場合であると考えられる。もしわれわれが、
「私は君が 101 を書くように意味したのだ」
と発言することによって、
実際に過去のある時点で、
数列の先のステップを先取りしておいたということを言いたいのだとすれば、われわれは、われ
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われ自身でさえ気づかないうちに、実際に数列を書く行為とは別に、あらかじめ数列の移行をや
ってのける、心的行為を措定してしまっているのである。
このようにウィトゲンシュタインは、対話者の表現である「意味した」に着目し、この表現を
吟味することにより、対話者が自覚せず「心的行為」を措定してしまうことを示した。ある人が、
プラトニストの見方をしているかどうかは、当人にとってさえ、あらかじめ明らかではないが、
その人の表現を吟味することによって明らかになる。
以上の検討を踏まえ、
『探究』の治療対象について、フィンケルシュタインの考察が見過ごし
ていた点について述べるならば、ウィトゲンシュタインが直接的に取り扱った対象は、対話者の
見方というよりも、むしろ、対話者の表現である。対話者の見方は、対話者の表現を吟味する前
にあらかじめ知ることができるようなものではないため、治療においては、まず対話者の用いる
表現が検討される必要がある。
5.
おわりに
『探究』の治療活動は、
『論考』まで遡る形成過程をもつ。その形成過程を踏まえるならば、対
話者は、その見方を客観的に把握することができる他者というよりも、むしろあらかじめ明らか
でない自身の見方を突き止めるための、
「口」となり身代わりとなる存在であると言える。対話
者がウィトゲンシュタイン自身の言葉を代弁することで、ウィトゲンシュタイン本人は、その言
葉の吟味を通じて、自身の見方がどのようなものであるかを、理解することができるのである。
ウィトゲンシュタインの治療活動は、しばしば、哲学の発展を脅かす活動とみなされ、警戒さ
れることがある。しかし、治療の成立過程とその内実の詳細な検討が進めば、治療活動が、他の
哲学者を攻撃するために行われるのではなく、自己明晰化を試みる、絶えざる運動であったこと
が認められるだろう。本発表は、これまでの研究において見過ごされてきた対話者や治療対象の
特徴を指摘することにより、ウィトゲンシュタインの治療活動に対する表面的な誤解を取り除く
ことに寄与することができたのではないかと思われる。
凡例
BB: The Blue and Brown Books, 2nd ed., Blackwell, 1969.(大森荘蔵・杖下隆英訳、
『ウィトゲンシュ
タイン全集 6:青色本・茶色本/個人的経験および感覚与件について/フレーザー金枝篇への所
見』
、大修館書店、1975 年、pp. 1-297。
)
PU: Philosophische Untersuchungen = Philosophical investigations, translated by Anscombe, G. E. M.,
Hacker, P.M.S. and Schulte, J., Rev. 4th ed., Blackwell, 2009. (丘沢静也訳、
『哲学探究』
、岩波書店、
2013 年。藤本隆志訳、
『ウィトゲンシュタイン全集 8:哲学探究』
、大修館書店、1976 年。ただし
それぞれの翻訳は違う底本をもつ。
)
TLP: Tractatus logico-philosophicus, Suhrkamp, 2011.(野矢茂樹訳、
『論理哲学論考』
、岩波書店、2003
年。
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