これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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「見渡せば花ももみぢもなかりけり…」
アルトゥーロ・マルティーニの彫刻作品は、不在のものを連想させる。ローマの G N AM
に≪星≫(1932)と題された、寄り添いながら仰ぎ見る二人の人物像がある。この作
品はテラコッタによる大彫像であるが、同じタイトルのブロンズ彫刻が1920年にすで
に制作されている。ただ1920年のブロンズ作品がヴァローリ・プラスティチ的な香り
がするのに対して、1932年の大彫像は古代ギリシャの彫像を想起させる。また前者に
おいては仰向く二人の人物像が男女であるのに対して、後者は二人とも女性であることか
ら、一層神秘的な雰囲気を醸し出している。マルティーニはこの作品で、観者が自然に不
在のものを連想するようにトリックを仕掛けている。二人の人物像の見上げている視点、
眼差しによって、ここにはない何かが存在していること(不在していること)を知るので
ある。さらに特異なタイトルからそれが星であることを知らされる。タイトルが「星を見
ている人」ではなく単に「星」とされていることは注目の値する。まさしくこの作品が対
象にしているのは、目の前にある知覚できる二人の人物像ではなく、観念でしか把握不可
能な不在の星である。土着性の強い素材からなるこの彫刻から宇宙的なものを想起させる
という飛躍は、人間の認識を超えたところでおこっている。
さらに、マルティーニの有名な箱状空間の一連の作品にも、不在のものをテーマにした
作品が少なくない。代表作の一つでもある≪夢≫(1931)がそうであるし、他にも≪
期待≫、≪事件≫(1931)といった作品がそうであることは、同じように特徴的なタ
イトルからはっきりしている。マルティーニがこれらの作品で不在のものを想起させる意
図があったことは明白である。「星を見る人」ではなく「星」と題されたように、「夢を見て
いる人」ではなく「夢」である。≪期待≫はイタリア語の≪L attesa≫から訳されたものだが、
実は「attesa」には「(夫)を待つ」という意味もある。背景に実際に刳り貫かれた窓から
外を見ている人物がいることから、この作品は「夫の帰りを待つ」というタイトルに訳し
うる。≪事件≫では、三人の女性がいずれも腕をピンと伸ばし、同じ方向、つまり事件の
あった方向を指し示す。いうまでもなく、前者において不在のものは夫であり、後者にお
いては事件である。いずれの場合においても、タイトルにされているものが不在している
のである。現前に実在する彫刻作品は、不在のものへと誘うための一種の媒体となってい
る。
ミーメーシスではなくファンタシアーとして
さて、不在のものを想起させる媒体としての彫刻は、結果として目の前に実在する物
体としての彫刻の側面をいっそう強調する。見るものを不在のものへと誘う役目を持つこ
れらの彫刻は、その役目を終えた後もそこに或るわけで、むしろよりいっそう実在するの
である。
「ミーメーシスは、単にそれに見えるものだけを作るのに対して、ファンタシアーは、
それに見えないものまでも作ることができる。しかも、その際、実在するものを参照しな
がら、見えないものを想定するのである。」フィロストゥラトス『アポロニオス伝』(Vita
Apollonii,vi-19)
これは紀元後二世紀後半から三世紀前半にかけて活躍したギリシャの哲学者、フィロス
トゥラトスの言葉である。当時流行したファンタシアーについて述べたでものであるが、
これまで述べてきたような、不在のものを想起させるマルティーニの彫刻の世界と無関係
ではあるまい。フィロストゥラトスという人は生粋のプラトニストである筈なのだが、こ
こでの発言はその肩書きをはずしてしまっている。周知のようにプラトンは絵画を真実(イ
デア)から三番目の模倣として批判した。寝椅子を例に取り、思惟の対象であるところの
イデアと、それに基づいて作られた実際の寝椅子、そしてそれを描いた寝椅子という存在
論的階級に応じて、それぞれ制作者としての神、指物師、そして画家が挙げられた。
『国家』
第十巻におけるいわゆる「詩人追放論」において、詩人はまさにこの第三段階にあたる画
家にたとえられたゆえに追放されるのである。つまりここで語られているような、見えな
いものをあらわすことは、プラトンの唱える目に見える事物の模倣とは根本的に異なって
いる。見えないものをイデアといってしまえば、これはイデアの直接の模倣となり、模倣
の順番が三番目から二番目に繰り上げられていると捉えることができる。もちろんここで
の論に合致させ、見えないものを不在のものと言い換えることは可能である。そしてさら
に、フィロストゥラトスが、ギリシャの伝説的な彫刻家フェイディアスのゼウス像につい
て以下のように述べた時、マルティーニの彫刻の世界がいっそう浮かび上がるのである。
「もし、ゼウスの考えを教授したなら、かつてフェイディアスがそうしたように、彼を
天空や四季や星辰とともに見なければならない」
(Vita Apollonii,vi-19)
ここに、マルティーニの≪星≫を思い出したくなるのは私だけではなかろう。この作品
では、二人の人物像(の眼差し)が、まさに天空へと観者を誘ってくれるのではなかった
か。もはやマルティーニは人間中心的な彫刻の復権者ではない。なざなら、マルティーニ
の彫刻は、卑小な人間中心的模倣、つまりミメーシスではなく、それを不在のものへ誘う
媒体として、それによってすべてを見せることができるような、自然の象徴的把握を可能
にさせるものであるのだから。