名松線利用ファイルPDF

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伊勢八太駅周辺 青巌寺・小山城
伊勢八太駅から一志駅
一志駅から井関駅
井関駅周辺 長谷砦 誕生寺 大仰城
伊勢大井駅周辺亀が広の桜、白山比咩神社
伊勢川口駅から関ノ宮駅
家城駅周辺1 瀬戸ヶ淵 こぶ湯
家城駅周辺2 リバーパーク真見
伊勢竹原駅から伊勢鎌倉駅
伊勢鎌倉駅周辺 谷中平和の碑 不動寺
伊勢鎌倉駅から伊勢八知駅
比津駅周辺 霧山城 東平寺シイノキ
伊勢奥津駅周辺
三多気の桜
北畠神社
川上八幡宮
掲載の①~⑤一志町歴史語り部の会が案内します。 (津市一志総合支所 059-293-3008 へ申し込む)
⑥ ⑦⑧白山道しるべの会が案内します。
(津市白山町総合支所 059-262-7017 へ申し込む)
⑬
伊勢本街道美杉会が案内します。(奥津駅前観光案内交流施設「ひだまり」059-212-0611 へ申し込む)
名松線時刻表
① 伊勢八太駅周辺 青巌寺 小山城跡
清巌寺
小山城
土塁
おやま
小山城 一志町小山字二谷
築城時代
城 主
城の大きさ
永禄年間
大多和兵部少輔
東西90m×南北130m
城の歴史
北畠氏の臣の大多和兵部少輔の居城で永禄12 年(1569)8月織田信長軍と戦い落城し廃城となった。その後、嬉野町内にあった堀ノ内城主の舟
木正尚が晩年にこれを賜り、ここで隠棲したとされ、小山城の山麓にある青巌寺にはその墓所が残っている(『伊勢名勝志』・「舟木氏系図」
現
状
一志町と嬉野町の境あたりの標高180mの横山山頂にある。城跡は山深く、中腹からは急な斜面となって
いる。
青厳寺手前の池の東から林道を少し上り、山道に入る。沢かと思われる道をたどって山に登る。きつい
斜面を登ると山上に城跡がある。頂部はなだらかな起伏である。城の構造は大きく二つの郭に分かれ、
北の郭が主郭部らしく、高さ約2mの土塁を周囲にめぐらし、東側に虎口がある。南の郭は、山頂の端部
に所在する2 基の古墳をつないだ低い土塁の遺構らしきものが認められるが、雑然としている。両郭と
も東から南側に腰郭がみられる。
きんりゅうざんれいたいいん
せい が ん じ
金 龍 山 霊泰院
青巌寺
青巌寺は、古くから南勢地方に勢力を拡充していた国司北畠氏の祈願所であったが、その北畠氏が織田信長と戦
い滅亡(1576(天正 4)年)したとき焼失した。寛正の頃(1460 年頃)、真宗高田派の中興の祖真慧(しんね)上人が
北勢一帯を布教されたとき、一番弟子となられた了珍上人を開祖として、1617(元和 3)年に真宗の流れをくむ誓願寺
として再興された。その後、1739(元文 4)年に青巌寺と改められた。本堂の屋根瓦には、徳川家の家紋「葵の紋」が
入っており、徳川光友公は徳川家康公の孫、徳川御三家の尾張徳川二代藩主であるが、1651(慶安 4)年にその徳川光
<青巖寺・本堂>
友公の三男、従四位(じゅしい)下少将松平出雲守義昌公が、当山で誕生し成長された縁により、光友公から葵のご
紋の入った袈裟などを頂戴し、1692(元禄 5)年には本堂も寄進された。なお、義昌公が誕生されたときの産湯井が、本堂に向かって左手を登り、
納骨堂へ至る途中にある。徳川光友公建立の本堂は、建坪90坪余、総檜造り、内陣は豪華絢爛とした元禄時代の特色を示している。本尊は木
造 阿弥陀如来立像(鎌倉時代作 市指定有形文化財)。釈迦がなくなられるときの様子を描いた、悲嘆の状が劇的に描かれている室町時代前期の
仏涅槃図(市指定有形文化財)、あるいは小山の郷の安全を守るために出された 1584(天正 12)年の下知状や 1600(慶長 5)年の禁制状などの古文
書(こもんじょ)(市指定有形文化財)等、室町時代以降の寺宝が数多くある。
② 伊勢八太駅から一志駅
八太城跡
八太城
宝善寺
宝善寺
跡
八太城跡
白鳳寺院
八太宿
班光寺(ばんこうじ)跡(八太廃寺)
JR名松線伊勢八太駅西方の水田一帯には、軒丸瓦や軒平瓦、布目瓦等が散在していることから、ここは白鳳時代にあったと伝えられてい
る班光寺跡と推定されている。建物の礎石もいくつか残っていたが開墾時に各地に搬出され、近くの八太・波多神社の境内や民家の庭先等に
散在している。近くに中野山古窯址(こようし)があり、寺院の屋根を葺いた瓦はこの古窯址で焼いたと推定されている。
八太城跡
永禄年中(1558~1569)、国司北畠氏の侍大将であった田上玄蕃頭が八太西出山の山上に城を築いた。1576(天正 4)年、北畠具教(とものり)
が織田信長に滅ぼされた後、織田信雄(北畠信雄(のぶかつ))は日置大膳亮(へきだいぜんのすけ)にこの城を守らせた。また、織田信雄が
豊臣秀吉と対立後、秀吉が 1584(天正 12)年に蒲生氏郷の与力・生駒弥五左衛門にこれを守らせた。後、廃城。
八太城跡(行者山)には役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られている。
八太宿
初瀬街道は、近世後半に参宮ブームの波にのって宿場が栄えた。一志町内には大仰・田尻・八太の三ヶ所の宿場があった。
なかでも、田尻から波瀬川沿いに下った八太宿には、朝日屋・三木屋・丹波屋・角屋・西川屋・小田屋・丸屋・萬屋と八軒の
旅籠があった。街道の両側には、魚屋・酒屋・荒物屋など日常生活に必要なものを売る店が軒を並べ、ほかにも金魚屋・質屋
もあるなど八太宿は大変賑わったようだ。前班光寺(一志東小学校運動場付近)のあった辺りの「八太の七曲り」に昔の風情
をしのぶことができる。
当時の宿場は、大名行列など大勢の宿泊者があった際、人夫や馬が不足したら協力しなければならない助郷(すけごう)と
いう役があり、八太宿は亀山宿の助郷の役を負っていた。1868(慶応 4)年には助郷の大改革があり、田尻宿は垣内宿・大村宿
とともに、助郷からはずされた。しかし八太宿と半月交代で協力するように書かれた古い文書も残っている。その後、富山の
薬屋などの行商人が宿泊するなど、小田屋と丸屋は昭和の世まで商人宿となっていた。なお、「まるや」の看板は郷土資料館に展示されている。
1575(天正 3)年に薩摩の島津家久が上京のついでに参宮したときの『中書家久公御上京日記』をはじめ本居宣長の『菅笠日記』や伊能忠敬(い
のうただたか)が 1808(文化 5)年から 1809 年(文化 6)年にかけての『第6回測量調査日記』などに八太宿を利用した人々の記録を見ることがで
きる。
八太の七曲がり
八太宿の初瀬街道は東部で大きく曲がり「八太の七曲がり」といって角が七ヶ所もある。なぜこんなに曲がっているのか。その理由の手が
かりが「井の尻浦の戸遺跡」の発掘調査により解ってきた。
「八太の七曲がり」はこの遺跡のすぐ南にあり、近くには八太城跡もある。この遺
跡からは輸入品の青磁(せいじ)が出土していることから、この地にかなりの有力者が住んでいたと考えられる。これらのことから「八太の
七曲がり」は、館を護るための、例えば城下町ではよく見られる鉤(かぎ)型道路の名残のようなものではないかと考えられる。
街道の中の「八太の七曲がり」は遠回りなので、参宮道者がよく通るまっすぐの近道がいつしかできた。この近道を八太では「伊勢街道」
(現在のJA川合支店の北側の小道)と呼び、ここにも「さんぐうみち」と刻んだ1m程の道標を建て参宮道者を案内していた。
土塀のある家(八太宿大庄屋・田上家)
八太城を築いた田上玄蕃頭(たがみげんばのかみ)の子孫八太夫(六代光久)は、1653(承応 2)年津藩郡奉行山中兵助
為綱とともに高野井を築き、高野村外七ケ村に雲出川の水を灌漑し、旱害の憂いを断った事蹟が今に伝わっている。
伊能忠敬が測量の旅で 1808(文化 5)年 12 月 26 日に宿泊した。
法養山光教院
寶善寺(ほうぜんじ)
西来寺(せいらいじ)末 天台真盛宗。本尊 阿弥陀三尊立像。山門を入ると正面に本堂、左側に東向きに班
光寺、右側に観音堂が建っている。開基は天文年間(1532~1555)盛鏡法印(ほういん)と伝え、創建当初は草堂程度
のものであったが、1652(慶安 5)年に遷化(せんげ)した五世中興の盛什(せいじゅう)の時、今日のような寺院と
して完成したと歴代住職表から推定される。その後 1752(宝暦 2)年に焼失し、1760(宝暦 10)年に再建されたのが今
の本堂である。木像不動明王立像など大小多くの仏像が安置され、絹本着色涅槃図(1731(享保 17)年)など数多く
寶善寺 山門
の書画も所蔵されている。
地元外檀家のうち、約15戸は小山地内にある。もともと青巌寺の門徒であったが住職と不和となったとき、死亡者がでても葬ってもらえ
ず、縁故者約20戸全員が遺骸をかついで高田本山へ懇願したが、地元の末寺に頼めといわれるだけで取り合ってもらえず、途方にくれて遺
骸をかついだまま津の町をさまよっていた。それを大門辺りで西来寺山内東漸院の住職がみつけ憐れに思い、西来寺で弔った。それ以来その
約20戸は西来寺檀徒となり、末寺の関係で寶善寺の預かり檀徒となった。元禄(1688~1703)以前のことと伝わっている。
観音堂は、金比羅山の麓にあったものを 1923(大正 12)年に本堂左側に移築し、さらに 1989(平成元)年班光寺の移築により、本堂右側の現在の
位置に移された。本尊は、馬頭観世音菩薩で、八太全域で護持しており、初午には参拝者も多い。
<阿弥陀三尊立像>
<馬頭観世音菩薩>
③ 一志駅から井関駅
<江戸城西丸下上屋舗発見地>
田尻宿道標
谷度峠(ボタン峠)
江戸城上屋敷図面発見地
大平岩
延命寺
大平岩
田尻宿
田尻は、初瀬街道と波瀬からの多気街道が落ち合い、ここから八太・六軒へ出る道と、久居・津に通じる道の分岐点にあた
り昔から交通の要衝であった。特に近世後半、参宮ブームの波にのって大いに賑わい、問屋場(といやば)が置かれ弘法茶屋・
松屋・竹屋・朝日屋など旅籠、料理屋・菓子屋・質屋・芸妓置屋などがあり、明治の はじめ頃までは 宿場町として関西方
面からの参宮道者で賑わった。その後、周辺市町村との合併により 1889(明治 22)年に高岡村大字田尻、1955(昭和 30)年に一
志町大字田尻、2006(平成 18)年に津市一志町田尻となった。昭和 30 年の合併で田尻に一志町役場が置かれ、役場周辺に次々
と商店が建ち並び、再び活気を取り戻した。
しかし、今は宿場町としての面影はなく初瀬街道 田尻宿の東の端に立っていた「道標」のみが当時の賑わいを伝えている。
その「道標」も交通量の増加により、平成のはじめに倒壊して無残な姿で一志町高岡中央公民館(当時)横に保管されていた。
平成 22 年田尻地区及び風景街道「伊勢街道」連絡協議会の協力により復元した。
江戸城西丸下上屋舗(かみやしき)絵図の発見地
平成 10 年 5 月、築150年ほどの家屋を解体するため仏壇を移動したところ、仏壇底部から絵図を発見。絵図に
は「天保七丙申(ひのえさる)年(1836)2 月 29 日御普請奉行井上備前守より引渡しの節取次頭取の者へ相渡し候絵
図写」と記されていることから、1836(天保 7)年 2 月 16 日に西丸老中格に任じられた播磨国龍野藩(現兵庫県竜野
市)藩主脇坂淡路守安薫(やすただ)が役屋敷として与えられた上屋敷の絵図と判明した。江戸幕府の老中役屋敷の
絵図がなぜ田尻の民家に保管されていたのかについては、4代前の当主が「江戸政」と呼ばれ江戸に居たことがあ
り、おそらくそのとき絵図の保管を依頼されたのではないかといわれている。現在、この絵図は三重県に寄贈され
保管されている。このような役屋敷図は現在ほとんど残っていないのが現状で、この絵図には部屋の様子はもちろ
んのこと、上水道の配置なども描かれており、一般の大名屋敷とは性格を異にする構造などが明らかにできるたいへん貴重な資料である。
井関製糸跡
一志町は古くから養蚕が盛んで、昭和50年代ごろまでは大井・高岡地区の全戸数の約70%が養蚕農家であった。町内には大きな製糸工
場が2つ(井関製糸・高岡製糸)あった。
谷戸峠(ボタン峠)
井関の谷戸(たんど)には、初瀬街道が通っており、江戸時代には参宮道者でたいそう賑わっていたといわれている。町内では大仰の渡し
と谷戸峠は、大変な難所であったといわれている。この峠には「ボタン岩」という岩があった。これは堆積した岩がタマネギ状にかたまり、
岩肌が長い年月の間に雨や風にさらされ風化したもので、地層と球状の岩との風化度合いの違いで、ちょうどボタンの花が咲いたように見え
た。そのことから「ボタン岩」と言われるようになり、この峠のことを「ボタン峠」と呼んでいた。当時の宿場は、大仰・田尻・八太にはあ
ったが井関にはなく、この辺りは足休めの休憩地であった。そこには小さな茶店や露店が並び、一日中三味線の音が絶えなかったともいわれ
ており、中には次の宿場から宿の女中が迎えに来るまでこの地を動かなかった者もいたことから、「日暮らしのボタン峠」とも呼ばれていた。
いろんな茶店があって、中でも近くでとれた蟹を焼いて食べさせる「沢蟹焼」はとても有名で、次のような唄も残っている。
「八床伊勢(やあ
とこいせ) 谷戸名物 三つござる ぼたん峠に しだれ桜 蟹を食い食い 伊勢参り 次のわらじは どこでぬぐ」。このボタン峠の地名は、
関西方面はもとより関東にまで伝わり、知らないものがなかったとまでいわれているが、近年になって道路の拡幅や改良により、ボタン岩の
面影もなくなってしまった。
天福山
延命寺
<薬師如来坐像>
この寺は、1576(天正 4)年に北畠家が滅亡したとき、国司北畠家に仕えていた松本家の先祖が、多気にあった木造 薬師如来
坐像をこの地に持ち帰って安置し、その寺を薬師如来常楽寺と号したのが始まりである。その後、寺同行の寄進により 1857(安
政 4)年に、隣接する延命寺と常楽寺とを併せ大改築を行い天福山延命寺と号したと伝えられている。本尊は室町時代作とされ
る阿弥陀如来立像(58cm)。真宗高田派の寺であり、地元平岩・谷戸の菩提寺になっている。境内の薬師堂に安置されている。
薬師如来坐像(津市指定文化財)は、像高 108.4cm、後世の修理が全体に及んでいるが、頭部から両肩などに平安時代前期
の作風が残されている。
境内には、1955(昭和 30)年 4 月に三重県より考古資料として文化財指定された「くり抜き家形石棺(古墳時代)」が保存されている。この石
棺は幅 1.0m、長さ 2.1m、高さ 0.45mの井関石の内側を、幅 0.45m、長さ 1.6m、深さ 0.3mくり抜いた棺身に、長
さ 2.3m、幅 0.9mの家形をした蓋を組み合わせたもので、棺身、蓋共完全に揃っている同種の石棺としては、県下最
大といわれている。しかし、この石棺は元からここにあったものではなく、平岩の奥田家の宅地内から発見されたも
のを運んできたといわれている。
<くり抜き家形石棺>
大平岩
田んぼの一角にある東西 5.1m、南北 4.8mの大きな岩。地上に 1m程度露出したこの岩は人工的に加工されており、
上面や側面が平たく削られ、上面中央部には仏像が三体彫られていて、その南端に「1553(天文 22)年 6 月 28 日」とい
う文字が刻まれている。この大きな岩は、昔、雨が降らずに困ったときこの岩の上で村人が雨が降るように雨乞いのお
祈りをした場所だとか、武士の礼拝場で江戸時代まで続いていたとかの言い伝えが残っている。土地の人々はこの岩を
平岩大明神として崇め、特に牛を飼っている村人は、毎年 5 月 5 日に順番で幟を立て、赤飯を炊いてお参りをし、牛や
馬が病気にかからないよう、怪我をしないようにお祈りをする牛まつりを昭和 40 年頃まで続けていたが、牛や馬を飼
う農家もなくなり現在は行われていない。
④井関駅周辺
ながたに
長谷砦
長谷砦
井関駅から山頂まで120分
上水道配水池から登る。急斜面を東に200mほど登り稜線に出る。そこから稜線を
北に進む。200mほどで石段や人工的に積まれたような大きな自然石が周囲に散見
され、古代の祭祀空間を思わせる場所がある。「金鶏伝説」の場所とも言う。更に北
へ100mほど進むと第一のピークがあり、そのすぐ下を迂回し100m弱先の急峻
な第二ピークが長谷砦の主郭跡。ここは波瀬、井関、井生の3方面からの尾根が交わ
る地点に当たる。小さな砦だが、主郭の5mほど下部は帯曲輪がドーナツ状に取り巻
き、そこに縦堀が城跡遺構配置図のように数多くある。砦の規模のわりに執拗と思え
るほど縦堀が放射状に設けられた、三重県下でも特異な砦である。戦闘用として築か
れた可能性はもちろん否定できないが、戦闘に巻き込まれることを恐れた近隣村民が
最後の避難場所として築いた可能性もあるものと思われる。なお、帯曲輪付近の泥岩
からは貝の化石が発見されており、太古一帯は海底であったことがわかる。
登り口
④
井関駅周辺
亀ヶ広の桜へ
←
大仰の桜
軽便鉄道(中勢鉄道)跡
1908(明治 41)年大日本軌道会社が設立され、津(岩田橋)~久居間に軽便鉄道が開通。1920(大正 9)年中勢鉄道
株式会社が設立され、1921(大正 10)年には久居~大仰間を、1925(大正 14)年 7 月には大仰~二本木間を走るようにな
り、更に 11 月には、終点の伊勢川口駅まで全線開通した。総区間(岩田橋~伊勢川口駅)
20.64kmを1時間 38 分かけて走った。毎時1本運行され、駅の数は22駅。そのうち現在
の一志町に設置された駅は、其倉・石橋・片山・大仰・誕生寺であった。大仰駅は伊勢川口
駅まで延伸するまでは終着駅として構内は複線でポイントもあり、給水などの施設も整い、
駅員も2名おり主要駅であった。駅前には「うどん屋」「タバコ屋」などの商店、人力車が常駐し、材木など荷物の
ヨノミの木
積み下ろしもあり、大変賑やかであった。
石橋駅跡近くには樹齢約500年のヨノミの木(榎)が今も健在。軽便鉄道の線路跡は舗装され、今では一志町や白山町と久居などと結ぶ
重要な道として利用されている。
キ21号SL
華香寺(けこうじ)跡(現在の上出集会所の地)
真盛上人が伊賀にある西蓮寺(さいれんじ)で亡くなった 1495(明応 4)年、白山町成願寺の初代上人が、真盛上人の徳を
後世に残そうと建てた。 華香寺の名前の由来は、いつも華と香を捧げる寺として名付けられたとも、
上人の17代の祖、紀貫之の歌「人はいさ 心も知らず ふるさとは 華ぞむかしの 香ににほひける」の下の句からとっ
たものともいわれている。1872(明治 5)年 11 月に無壇無住のため廃寺となった 。
産湯山
誕生寺
華香寺が 1872(明治 5)年廃寺になったのを残念に思った伊賀・西蓮寺(さいれんじ)の山主
であった徳井隆道(りゅうどう)師が再興の許可を取り、1881(明治 14)年に華香寺の本堂を真
盛上人の実家小泉家のあった場所に移転増築し、浄土宗の開祖法然上人の先例にならって寺の
名前を誕生寺と改めたとされている。真盛上人の先祖が孝元天皇であることや、上人が宮中進
欄間の菊の御紋
講師として朝廷に貢献されたことなどにより、欄間には大きな菊の御紋(直径 48cm)が掲げら
産湯の井戸
れている。本尊は阿弥陀如来坐像(53cm)で、華香寺の本尊であった阿弥陀如来坐像(45cm)も祀られている。ま
た戦国時代の年号が刻まれた庚申塔が祀られており、砂岩に阿弥陀如来立像を半肉彫にあらわし、像の両側に「庚申待衆八人」
「天文十六丁未
(ひのとひつじ)十二月十三日」の刻銘がある。1547(天文 16)年に庚申待を行った8人が制作したことがわかる。もと近くの道端にあったと
伝えられ、屋外にあったためか上部にひびが入り、顔が一部欠落している。庚申塔のなかでも早い部類に属し、県内はもちろん、全国的にも
注目される例といえる。
境内一帯は、1938(昭和 13)年三重県史跡に指定され、その一角に真盛上人の誕生にあたって使われたといわれる「産湯の井戸」がある。石
碑には「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれている(上人の真筆の模刻)。「南」の一筆目が長いのが上人の文字の特徴という。宝珠丸(真盛上人
の幼名)像も建っている。寺宝には産湯の桶や家系図などがある。ここからは、中世の大仰城跡(城主:小泉藤能(ふじよし))に登ることが
できる。
大仰有料橋跡
初瀬街道は、大和の初瀬からお伊勢さんに向かう参宮街道であった。大和から伊勢に入り、青山峠を越えて二本木・大仰と
進んで来ると初めて雲出川という大川に出合う。古文書によると大仰の川に最初に橋が架けられたのは 1677(延宝 5)年頃で、
成福寺の西にある常夜灯(1783(天明 3)年建立)のあたりから対岸に架かっていたといわれている。最初の橋は、竹を並べて
<大仰有料橋跡>
編んだり丸太を並べたりして橋を架けていたが、洪水の度に流失してしまうことから、松の板の橋に架け替えた。その橋を上
ノ村(上出)・中ノ村(村出)
・片山村の者が管理し、橋を渡る人から料金を取っていた。1815(文化 12)年には津藩奉行所から
大仰村橋組百姓に「歳許(さいきょ)覚書」といういくつかの条件を付けた橋株の特権を永代許可する管理の免許状が発行さ
れた。村出には橋組という講が今も残っており、年番が会の世話をすると共に昔からの書類と祠に入った御神体を申し送って
いる。
医王山
結縁(けちえん)院 成福寺(じょうふくじ)
1452(享徳元)年真盛上人の叔母にあたる盛善尼により開創されたと伝えられており、境内の南東の位置には西を
向いて真盛上人の供養塔、ならびに上人の両親と盛善尼の墓がある。その後ろには年代不詳の六地蔵石幢(せきど
<お墓と供養塔>
う)がある。これらの墓石の背後には、樹齢約300年といわれる柞(イス)の木がある。町内ではここ以外では
見ることができず、地元の人から
は「ヒョンの木」と呼ばれている。また墓石のかたわらには、1577(天正 5)年と刻まれた井関石に彫られたお地蔵
さまが北側に向いて祀られている。このお地蔵さまは一志町の中では大きなお地蔵さまの一つとされている。
本尊は阿弥陀如来立像(36cm)で、寺伝によると「小泉家伝来の念持仏」とされているが「一志郡史」には江戸中期の作
品と記載されており真実は不明である。境内の南西にある薬師堂には、平安時代の作とされる本尊・薬師如来坐像(138 ㎝)
が祀られている。この薬師如来坐像は、もとは伊勢の国司・北畠氏の念持仏であったが、北畠滅亡のときに雲出川に投げ
込まれたものを、大仰上出の住人が拾い上げお祀りをしたという伝説がある。左脇壇に安置されている馬頭観世音菩薩(ば
とうかんぜおんぼさつ)立像(40cm)は、大仰村在住の観音信仰者がこの寺から京に転住した僧に頼んで買ってもらったと
ころ、他にもこの像が欲しいという者が現れ争論になったため、像の前でクジを引くこととなった。この寺が引き当てお
祀りをしているという因縁のある観音で、空也上人の作と伝えられている。右脇壇には不動明王像が安置されている。
薬師如来坐像
大仰城
城山の山頂にある。応永年間小泉藤能の居城で北畠氏に属していた(『勢陽五鈴遺響』)藤能は、紀氏の16世
の孫で小倭党の一族である。その子真盛は14歳で出家し、天台律宗を究め後の天台真盛宗を大成した。
大仰集落の西側、誕生寺の裏山にある。登り道も整備されていて登りやすい。一段高い山頂は平坦にされてお
り主郭と考えられ、明治初期の宝篋印塔や33観音が祀られている。観音石仏は劣化が激しく、配置も不順であ
るが、像種から見ると、西国三十三ヶ所と考えられる。山頂の周囲は崖状地になっている。北東側の尾根に金
比羅祠が祀られている。
尾根から少し降りたところに真盛上人の父が築城したとき、飲み水を確保するために造ったとされる「お城の井戸」が頂上から東側18m ほど下
った所にあり、昔村人が新年にこの水を神仏に供え無事を祈ったと伝えられている。
⑤ 伊勢大井駅周辺
亀ケ広の桜
白山比咩神社(川口)
笠着き地蔵
し ら や ま ひ め じんじゃ
白山比咩神社(井生)
明治時代まで井生の氏神は、川口との境にある白山比咩神社(川口)であった。1697(元禄 10)年の『勢列白子領神社御改
帳』には、井生村川口村持合いと記され、両村の庄屋の署名捺印がある。
1908(明治 41)年一村一社の定めとなったため、井生の氏子は大井村に属し、大井神社に氏子換えになった。井生の氏子に
とっては、長年にわたる氏神であった白山比咩神社(川口)から離れることは、骨身をけずられる思いであった。そこで氏子
換えにあたって、井生地区は現在地に白山比咩神社(川口)を分祀し、井生からの参道にあった石鳥居を移築した。石鳥居の
額束(がくづか)に「正白山(しょうはくさん)」と刻まれ、七白山(しちはくさん)の中の一つ、白山比咩神社(川口)を
表している。柱には 1749(寛延 2)年 12 月吉祥日建立の銘がある。
その後、1951(昭和 26)年 3 月 15 日井生の氏神設立が許されて、祭神に菊理姫(くくりひめ)命、大物主命、市杵島姫命を
いただいた。即ち、白山比咩神社(川口)の分祀と、金比羅神社(元字荘ノ谷、草深に鎮座)、市杵島姫神社(元字古門に鎮座)を合祀して現在
の白山比咩神社(井生)とした。
真長寺(しんちょうじ)
天台真盛宗。本尊の阿弥陀如来坐像(66cm)は鎌倉時代(1192~1333)後期の作とみられ、
定印を結んだ檜の寄木造りで、頭部を含む全身は内刳りされている。螺髪も細かく肉髺も割
に高く、全体の姿もよく釣り合いがとれていて立派な姿である。白毫、肉髺珠には水晶が入
っていたが今はない。由緒書によれば、本尊・阿弥陀如来坐像は 1630(寛永 7)年寺田喜右衛
門が寄付したものとある。また近くの寺屋敷とよばれる藪に成福寺という寺があったといわ
れている。織田勢侵攻(1567~1576)の時兵火のために廃滅し、その後本尊仏は農作業をして
<阿弥陀如来坐像>
いた人の鍬先にあたり埋没していたものが発見されたとの言い伝えがある。白毫のあたりに
ある傷はその時のものであろう。もしこれが事実とすれば、兵火の後本尊仏は寺田家で保持されており、それを寄進して真長寺が建立された
ようだ。その後、1801(享保元)年に住職性栄(しょうえい)の発願により、世話方寺田甚兵衛の尽力によって本堂・庫裏が再興された。保存さ
れている双盤鉦の銘によれば性栄は 1767(明和 4)年に在住していた。
<双盤鉦>
し ら や ま ひ め じんじゃ
白山比咩神社(鎮座地:川口)
県道久居美杉線を一志町からトンネルを抜け、白山町に入るとすぐ左側の山裾に大鳥居と社標が建っており、そこ
が参道の入り口です。急な坂道を登り詰めると駐車場があり、120 数段の石段を登ると神社に至ります。祭神は菊理
比咩命(くくりひめのみこと)を中央に伊弉諾命(いざなぎみこと)を右に、伊弉冊命(いざなみみこと)を左に配祀し、
外に 14 座が合祀されています。
平成 24 年秋には「本殿再建 350 年祭」が執り行われ、燈籠の寄進などで境内も整備され、「山雄田興廃記」に記された遺跡も数箇所確認でき、
織田軍勢の兵火にかかる前の想像絵図が描かれ、往古のロマンを散策できるところです。
三重県有形文化財(建築物)
昭和 31 年(1956)12 月 5 日指定
本殿は、一間社隅木入春日造、軒唐破風付屋根檜皮葺です。本殿最大の特色は、軒唐破風を設け豪華な彫刻
や極彩色を用いる桃山建築ですが、なかでも向拝の唐破風付の軒は桃山時代にあまり例をみない様式です。
石造灯篭: 三重県有形文化財
昭和 31 年(1956)12 月 5 日指定
元亀 4 年(1573)造立、
室町期から桃山時代へ移る過渡期の特徴を頂上の宝珠やその下の受け花の蓮
弁、笠の蕨手(わらびて)などによく表している。室町の重厚さと桃山の華麗さとを兼ねそろえています。
子
綬
岩
白山比咩神社が祀られている小高い山の頂上に着くと最初に真言院が見え、その前に案内板があり、脇の
小道を下ったところに「子授岩」があります。平成 24 年秋の「本殿再建 350 年祭」を期に、森の整備も進
められています。
亀が広の桜
白山町を流れる雲出川沿いに続く桜の名所。
その昔には伊勢街道のひとつ「長谷道」として、参宮客も行き来したという雲出川 沿いの道で、
左岸 500m に渡って150本のトンネルが鮮やかに辺りを彩ります。
広い川原があるので、花見の季節にはお弁当を広げたり、バーベキューなどを楽しむ人の姿も多い。
夜には提灯が点灯し幻想的な景色がお楽しみいただけます。
桜の開花は 4 月上旬~下旬。
⑥ 伊勢川口駅から関ノ宮駅
藤原千方の胴塚
廃高田寺
廃高田寺(瀬古区
瀬古集会所)
廃高田寺の「木造 十一面観音立像」国指定重要文化財)のことを「たかだちのかんのんさん」と呼び、毎年 1 月と 8 月の 17 日の夜ご開帳し、
お供えを上げ四国三十三ケ所のご詠歌を唱えてお祀されています。
木造 十一面観音立像(平成 3 年 6 月 21 日国指定重要文化財)
膝を曲げた右足を爪先立つようにして、かかとを高く浮かせ、まさに歩き出さんとする寸前の動きのある珍しい仏像です。カ
ヤの木の一木造りで平安初期の作といわれています。
木造薬師如来坐像(平成 3 年 3 月 26 日県指定有形文化財)
高田寺の本尊とされてきました。仏間の中央に安置されており、観音様と間違えられることがあります。かなり大きな像で、
緑青や金箔の名残を留めており、平安時代末から鎌倉時代初期の頃の作といわれています。
水晶製の舎利塔(昭和 31 年 12 月 5 日県指定有形文化財)
明治 40 年代まであった石造十三重塔の下から出土した高さ 4.1cm の鎌倉時代の水晶製の舎利塔です。
陶製壺(昭和 60 年 2 月 26 日県指定有形文化財)⇒
水晶製の舎利塔が納められていた壺。石造十三重塔に鎌倉時代の正応 5 年(1292)建立と記されており、壺が作られたの
もその頃と考えられています。色や形の特徴から常滑古窯の製品と言われています。
東光寺(医王山)川口村字野田。俗に野田の薬師という。本尊、薬師如来立像(1 メートル)。
東光寺本堂
『紀州領寺改帳』には西称寺の末寺と記されており、「惣庵弟子無御座候」とあるから、寛文
のころからすでに無住職であったのであろう。本尊薬師如来は室町以前の作と思われる。本尊
前の鰐口には「奉立願薬師如来、諸願成就難有者也。慶長四年(1599)閏三月吉日、願主嶋佐平
次」「江州栗太郡高野 国松源七」の銘があり、また伏鉦には「勢州一志郡川口郷野田東光山入
鰐口
誉代 施主 上野村中 寛政十戊午歳(1798)七月 西村和泉守作」の銘が刻んである。昭和 53 年本堂屋根葺き替えの際、鬼瓦を改めたら宝暦 3(1753)
年と記されているので、現在の本堂はこの年の建立であると推察される。
●本尊薬師如来立像
高さ約 1m、室町以前(1400 年代)の作といわれている。俗に野田の薬師として古来からの信仰が篤い。 毎月 12 日
が祭日で、特に 1 月・4 月・10 月の 12 日には、幔幕を掲げ幟を立てて今も変わらずお祭りをしている。古い昔には露店も出るほど参詣者でにぎ
わったという。又 17 年目毎に本尊を開帳して大々的にお祭りをする。※次回の開帳は平成 29 年 4 月に行われる。
聖武天皇の河口頓宮跡
JR 関の宮駅から南の信号のある交差点を直進して四つ角にでると、左側に「聖武天皇行宮跡」の石碑
が見えます。直進してすぐ左側の小高い丘の上に万葉歌稗と大きな石碑が建っています。ここが頓宮跡
とされ、昭和 6 年、三重県によって建立された「聖武天皇関宮宮跡」の石碑が木立の中にあります。 天
平 12 年(740 年)聖武天皇が藤原広嗣の乱を避け、都を離れ、伊勢の国に向かい、河口の頓宮に 10 日間
滞在されたことが続日本紀に見られます。即ち「革駕関宮二停御スルコト 10 箇間」との記録があります。
天皇に随行して来た大伴家持は
「河口の野辺に いほりて夜の更(ふ)れば妹(いも)が袂(たもと)し 思ほゆるかも」
(河口の野辺に仮寝して幾夜も経ったので、妻の手枕が恋しく思われることだ。)と詠み、これが万葉集にでてきます。
また、平安時代には斎王の帰任の通路となり、河口を通る斎王退下の道すじであったことも明らかになっています。
河口の関跡の位置、関跡と頓宮跡との関係、雲出川の渡河点などに諸説はありますが、川口という地が古代からの交通
の要衝であったことに変わりはありません。
宝蔵寺
本尊、観音菩薩立像が祀られ、本尊右側に薬師如来立像が安置されている。初午寺として信仰され、毎年初午例祭、
宝蔵寺観音法要が2月に小野連合区で執り行われている。境内に藤原千方の胴塚(石搭)がある。
藤原千方(ふじわらちかた)伝説・・・ 「太平記」の一説に、平安時代、時の豪族、藤原千方(ふじわらちかた)が
金鬼(きんき)・風鬼(ふうき)・水鬼(すいき)・隠形鬼(おんぎょうき)の四鬼を従えて時の帝(みかど)、天
智天皇に反逆し、伊勢・伊賀に大きな勢力をしめていたとあります。 千方は、四鬼を自由に使えたので、誰も彼に敵
対することはできませんでした。この力におごった千方は、高い位を朝廷に願い出ましたが聞き入れてもらえず、怒
宝蔵寺
った千方は人々に乱暴をするようになりました。 官軍も鎮圧ができず困っていた所、紀朝雄(きのともお)という将
軍が討伐をかってでました。朝雄はまず四鬼を改心させ、千方を孤立させて瀬戸ヶ淵に誘い出し、中央の岩の上で討ち取ったとされています。
その岩が将軍岩で、血のついた太刀を洗ったところが太刀洗の滝といわれています。千方の首は、川下に向かって流れましたが「千方ともあろ
う者が、同じように川下に流れるものか」というと、突然上流へのぼったといわれています。
林 光山
善 性寺
1796(寛政8)年 12 月 26 日~29 日に起こった津藩の大一揆で、一志郡の南西山間部(現津市白山町や榊
原町)の農民たちが蜂起し、そのうち、森宗左衛門の墓碑が川口の善性寺境内にある。天明の大飢饉の後、幕
府の「寛政の改革」を受け財政難に苦しんでいた藤堂藩が藩財政の立て直しをはかるために思い切った改革を
強行しょうとした事(「常廻り目付の設置」「均田制」等)が原因としてあげられます。現在の白山町や榊原
の小倭(おやまと)郷の農民たちは、この「均田制」の中止を願い出ましたが、藩側は強行しようとして、農
民一揆となりました。寛政 8 年(1796)12 月 26 日の夕刻、小倭郷の農民たちは、蓑笠を着け、竹槍を持ち、
近くの村々に参加を呼び掛けながら、二つの隊に分かれて津の城下をめざしました。また 27 日には、一志郡
の農民だけでなく安濃郡や鈴鹿郡の農民も津城下に押し掛け、一揆勢は 3 万人にもなったようです。 これに
対して、藩側では農民を説得しますが、騒ぎはなかなか収まりませんでした。28 日になって、藩の役人が津岩田の阿弥陀寺に農民を誘導し、願
いの趣旨は聞き届けるとの書付けを渡したことや、夜から降り始めた大雪によって農民たちはひとまず村に帰り、翌日藩側が「均田制」実施の
中止を決定したことで、騒ぎはようやく収まりました。しかし一揆の首謀者として、大村の大庄屋 池田佐助、八対野庄屋 多喜藤七郎、川口村
庄屋 森彦兵衛と子供宗左衛門、谷仙村庄屋 町井友之丞が捕らえられ、寛政 10 年 12 月 19 日には多喜藤七郎、森宗左衛門、町井友之丞の 3 人が
塔世河原で斬首の刑に処せられた。池田佐助、森彦兵衛は入牢させられたことに抗議して食事を取らなかったために獄死した。首謀者たちは後
に世直大明神としてたたえられ、その思いは今も地域に生きています。白山町の特産品「一揆味噌」は、寛政の一揆にちなんで名付けられまし
た。
⑦家城駅周辺1
こぶ湯
家城神社
瀬戸が淵
こぶ湯
瀬戸が淵
家城(いえき)神社
久居美杉線を美杉方面に向かい白山消防署前交差点を右折名松線の踏切を渡ると、こんもりとした森の入り口に鳥居が建ち、燈籠の並ぶ参道
を進むと、拝殿、奥に御本殿、祖霊殿等が祀られています。もともと諏訪神社と称していたが、明治末期、白山比咩神社を始め近隣の 16 社を合
祀して家城神社と改称されました。 氏子の中には昔を偲び「諏訪さん」と呼ばれる方もあります。
元白山比咩神社の木造の神社扉は、津市の有形文化財に指定されています。
裏手には「こぶ湯」と呼ぶ霊泉があります。
わずか 1 平方メートル程の岩のくぼみから湧出している泉で、かすかに硫黄の匂いと岩肌に白濁の痕が
ついています
古事記や日本書紀にも宮の裏手に冷泉が出ていることが記されています。
効用については、こぶが落ち、産婦の乳不足に霊験あらたかであると、毎日多くの方が汲みに来られて
います。
≪こぶ湯の秘話≫
日本書紀によると廬城部連枳莒喩(いほきべのむらじきこゆ)の子、武彦は湯人(ゆえ)の職についていた。阿閇(あへ)の臣国見(おみく
にみ)なる者が、武彦は斎宮にいる栲幡(たくはた)皇女を犯して妊娠させた、と言う流言をとばした。これを耳にした父は、災いがその身に
及ぶことを恐れ、武彦を廬城河に連れて行って、鵜飼のまねをさせて水中
で魚を捕らせ、その不意を襲って殺してしまった。一方雄略天皇は使者を遣わして皇女に真否をたださしめた。皇女は「身に覚えのないことで
す」とはっきり否定したばかりでなく、身の証を立てようと神鏡を抱いて出て、五十鈴川の川上で鏡を土に埋め、首をくくって自殺してしまっ
た。皇女の縊死体を見つけ、腹を割いて検分したところ、腹中に水がたまり石があるのみで、妊娠の様子はなく、流言であることが解った。
廬城部連枳莒喩は流言をとばした国見を打ち殺し大和の石上神宮にのがれた、という悲話である。
瀬戸ヶ淵(せとがふち)
白山町内を流れる雲出川(くもずがわ)の家城地区と川口地区の境にある「瀬戸
ヶ淵」は、白山七社の起源や白山町という町名の由来となった伝説の地といわれ
ています。
この地は伝説のメッカで「白鷺伝説」や「藤原千方伝説」「カネツケ池」「太刀
洗いの滝」があります。
<< 白鷺(しらさぎ)伝説 >>
白山町家城の出身で円乗坊珍徳上人(えんじょうぼう ちんとくしょうにん)という人がいました。
天文 22 年(1553)正月 24 日の夜、珍徳上人の夢に加賀の白山権現(はくさんごんげん)が現れ、「明年 2 月加賀の白山は焼失してしまうから、
それまでに天照大神のいます地に移りたい」という夢のお告げを、北斗七星か南方の空に点々と輝くのを見ました。
雪の少なくなった 3 月、夢のお告げにこたえ加賀へ行き、白山に詣でて七日七夜の祈願をこめると七日目の夜神のお告げがあり、翌朝見ると
笈(おい)の中に幣(ぬさ)が七本立っていました。
これを背負って帰国の途につき、家城の瀬戸ヶ淵まで帰ってきて岩の上に笈を下ろして一休みしていたところ、
にわかに笈が前後にゆれ動いて中から七羽の白鷺が飛び立ちました。
白鷺は神の使者であり、それが七羽というのは、まさに南方に輝く北斗七星と同じ意味と思い白鷺がおりたった
所、山田野(やまだの)・八対野(はったいの)・南出(倭-みなみで)・川口・北家城(きたいえき)・竹原(た
珍徳上人像
けはら 現美杉町)・飯福田(いぶた 松阪市)へ白山神社(しらやまじんじゃ)を創設したと伝えられています。
白山の町名はこの伝説から名づけられたものです。
⑧家城駅周辺2
二雲橋からの眺め
雲出川家城ライン
昭和6年9月、名松線が家城まで開通したことを記して、真見の瀧から瀬戸ヶ渕までの雲出川が家城ライ
ンと名付けられました。荒々しく削られた岩肌と新緑に水をたたえる淵との対比が、その美しさを際立たせ
ます。両岸の桜やもみじ、藤の花などが四季折々のいろどりを添えています。
かわぐち ゆ
川口井旧跡
寛文4年(1664)に瀬戸ヶ渕の用水開削と共に、津藩の郡奉行山中
為綱の指導によって開かれた川口井旧跡、いまも雲出川本流に沿って岩盤
を開削した井溝がその姿を留めています。
享保14年(1729)すでに文治2年(1190)に開かれていた南家城井と合併し、その後台風や大雨により
流失した頭首工や幹線導水路の改修を行い、現在も南家城川口井として維持管理組織が受け継がれています。
平成 28(2016)年 11 月 8 日世界かんがい施設遺産に登録されました。
現在の南家城川口井
平成18年に農林水産省の疎水百
選(そすいひゃくせん)に選ばれ
ています。
甌穴(おうけつ)
河床の岩石が、不均質な砂岩や礫岩で、しかも流水が渦巻く所にできる。河床の転石が、流水の渦でくぼみ
を削り取る。長年かかって形成されます。
有名な甌穴として寝覚ノ床や長瀞渓谷(ながとろけいこく)の岩畳があります。
二雲橋
昭和9年に掛けられた重厚な石造りの眼鏡橋。
四季を通じて、近くを走る名松線の橋梁と「カエデの森」とのコントラストは家城ライン一番の絶景ポイ
ントです。
4 月にはたもとの桜がみごとな彩りを添えます。(4 月 5 日撮影)
カエデの森
二雲橋を渡って左手、真見の集落への入口の小丘に「カエデの森」があり
ます。
磐座(いわくら)
「カエデの森」の頂上に大きな割れ目の入った巨石があります。古人が、太陽信仰のために配置したものと
思われます。この割れ目は正確に南北を指しているようです。古代、太陽礼拝の場所として、また神の宿る神
座として、「磐座」があります。有名な三輪明神の背後の三輪山山頂に巨石「磐座」があります。
ま
み
リバーパーク真見
雲出川上流部に位置し、下流には瀬戸が渕が
ある。白山町真見は農業が盛んな地域ではあ
るが、後継者不足などの課題があり、2001
年(平成 13 年)に真見地区の農家全戸と当
時の白山町が共同で設立した[1]。中心施設は
約 200m2 の農地とコテージからなる「クライ
ンガルテン」と呼ばれる滞在型農園であり、
年間契約のものと 6 月から 9 月の短期契約の
滞在型農園を用意している。ほかにコテージ
が含まれない貸し農園、バーベキュー施設、グラウンド・ゴルフ場がある。夏休み期間中は、流しそうめんを楽しむことができる。
名物の千方餅(ちかたもち)は県道側のアンテナショップで販売されています。
真見城跡とその周辺
南無大日如来の碑
建立は安政4年(1854)、人や家畜の安全を祈って建てられた、
宗国史(1751 年編集)によると、真見は戸数43、人口 189 人、馬 1、牛 7、となっている。
牛は、現在のトラクターに相当する大切なもの、現在は戸数21戸となっている。
[庚申像(こうしんぞう)]
真見城登り口の右手に三面六臂(さんめんろっぴ)の庚申像が祀られている。
三面六臂とは
・仏像などが、一体で三つの顔と六つのひじを備えていること。
・三つの顔と六つの腕をもつ意から、一人で何人分かの働きを
すること。また、一人で多方面にわたって活躍すること。
真見城
真見城は、中世、天正年間(1573~1592 年)の城で、北畠氏の
家臣、福田山帯刀の城でした。
城の構造は中世の山城に共通した造りで、主郭の東に郭、西側に
も郭がある。登り道以外はいずれも急斜面となっています。西と
東の郭は、南側の主郭の下を通って連絡路がついています。水場
は、北側の谷のようです。
西側の一番高い所(金毘羅大権現の祠)
登り口から主郭(江戸時代の手水鉢)
① 手水鉢
主郭に祀られている山ノ神
主郭から南側急斜面(眼下に雲出川)
⑨伊勢竹原駅から伊勢鎌倉駅
竹原神社
由緒書:当社はもと白山比咩神社と申し上げ加賀の国一宮白山比咩神社の御分霊で、第36代孝徳天皇(在位645~
654年)の御代の御鎮座と伝えられ、大正時代の記録によると、小倭、竹原、飯福田、川口、八対野、山田野、家
城の7社を7白山といい敬い巡拝するもの最も多しと記されている。
徳川南龍院頼宜候の尊崇殊に厚く、竹原750余石の中から社領として、年々1石6斗余を神社に寄進されているの
で、一般の崇敬も著しいものあり、明治41年に至って村内それぞれの字でおまつりしていた神社を合祀し、竹原
神社と申し上げ今日に及んでいる。
中でも八手俣大河内に鎮座の須賀神社は大河内天王と称し、昔伊勢の国司北畠氏の鬼門除けの神として奉斎されていたもので、厄病除けの神と
して多くの人の崇敬の的であった。正月の三が日と六月十四日の祇園祭には多数の参拝者が有ったと伝えられている。神社入り口に元村社を示
す石柱があり、鳥居の右に由緒書きと文化財指定の看板がある。数十段の石段を上がったところ、正面に拝殿がありその前に昭和13年奉納の狛
犬がある。本殿は一間社春日造りで正面に唐破風が付いています。津市指定文化財竹原神社本殿(彫刻)平成3年2月15日指定 本殿は明治29
年(1896)の棟札によれば、宝暦⒑年(1760)に焼失して、その直後の同14年に再建されています。銅板桧皮葺の一間社春日造で、正面には唐
破風が付いています。本殿は、向拝の蟇股には龍、正面の蟇股に波と鶴を浮き彫りにし、欄間には雲と龍を、身舎左右に麒麟、脇障子は向かっ
て右に松に滝、左には竹に虎、手挟みに菊が配されるなど各所に様々な彫刻が施されています。
君ヶ野ダム
昭和34年の伊勢湾台風をうけ、抜本的治水対策として県が計画。昭和47年3月、雲出川流域の治水、かんがい、
上水道(津市・松阪市)、工業用水を併せた多目ダムとして、支流八手俣川(はてまたがわ)の君ヶ野地区内の峡谷
に完成させた重力式コンクリートダム。総事業費約52億円。堤高73m、堤頂長323m。ダム湖畔の景観づく
りに約2000本の桜が植えられてから久しく、今では大木に育ち、春の花のシーズンは湖面に満開の桜が映えて
豪華。津市内の桜の名所の一つとなっている。湖畔沿い県道29号の随所に駐車場が設けられ、トイレ付きの所も
何カ所かある。またダム堰堤を渡った対岸の30mほど上の山腹にレストラン、展望風呂(日帰り入浴可)付き市
営宿泊施設『レークサイド君ヶ野』がある。四季を通じ絶好のビューポイントとなっているほか、ダム湖畔周遊道
や高束山(たかつかやま)の森林セラピーコースの拠点にもなっている。
中電竹原水力発電所
大正11年(1922)10月31日、開設され、津市内に現存する唯一の水力発電所。現在94年目(あと6年で1
00周年)。認可出力700kw(標準家庭1700世帯分)。八手俣川から取水するためのダムを約6㎞上流に建設し、
沈砂池~導水路(トンネル)~水槽(ゴミ取除、水量調整。)~水圧鉄管~水車(発電機)~放水路のシステムで発電
している。大正8年の着工時、導水トンネルの掘削は手掘りで行われ、1日1m程しか進まなかった。2年程して工事
用変電所を設置、亀山変電所から受電し、トンネルの両口から電動削岩機を入れた。水車、発電機、セメント等の重量
物は、阿漕から2頭立の牛車で運んだ。コンクリートの骨材には導水トンネルから出た砕石を使ったという。ちなみに
美杉町では、先行して大勢電気の八知発電所(水力、50kw)が大正7年頃から稼働し約250戸に送電していたが、
竹原発電所の稼働により停止した。隣の白山町では、城立地区(当時15軒程の集落)が大正中頃、住民たちが城立地
区共同自家用電気組合を設立し小規模水力発電所を開設、小杉地区(同20軒程)も城立地区を参考に小杉電気組合を
設立し、昭和6年頃に水力発電所が運転を開始しているという。(『三重の電気史 中南勢版』=中電津支店刊=より)
竹原水力発電所の新設時は、東邦電力株式会社。昭和13年、発電所自動化。昭和17年、東邦電力から中部配電株式会社に出資引継。昭和2
6年、中部配電が中部電力に社名変更。昭和47年、無人化(津変電所から遠隔制御)。昭和59年、老朽化により設備更新している。
大日塔
菅尾製茶から雲出川側へ100mほど下ったところにある自然石碑。明治7年(1874)の建立紀年がある。『大日塔』
は、弘法大師空海が宇宙の最高神にして太陽神とする大日如来を、農耕神として石刻して祀り、五穀豊穣・家内安全を祈願
する民間信仰の一つ。全国的には鎌倉時代から見られ、死者の供養碑としている所もある。津市内にも数多くあり、榊原地
区では農耕に従事した牛馬の供養碑として建てられたという。
三重梅花観音霊場25番札所・光明寺
曹洞宗開祖・道元禅師の言葉に「梅は寒苦を経て清香を発す」がある。これを人生にたとえると、
「苦節を経ては
じめて人間として成功が得られる」ということになる。この道元禅師の心を梅花観音のお姿として現し、昭和4
7年、三重の各地の曹洞宗寺院が、百願成就の『百観音』としておまつりしている。ちなみに津市美杉町地内の
他の梅花百観音霊場は、八知に67番・禅龍寺、12番・金剛寺、11番・長樂寺、奥津に70番・正念寺、太
郎生に14番・大禅寺、57番・西法寺がある。 万照山光明寺は江戸初期の寛文2年(1662)、悟渓養頓和
尚が創立。境内の地蔵堂には地蔵尊を祀っている。
六十六部供養塔
正徳5年(1715)11月建立の「奉供養六十六部諸願成就処」塔。 法華経を写し日本66ヶ国の霊場に1部ず
つ納経して巡礼する六十六部行者(六部行者、廻国聖)と、地元の人が結縁して江戸時代から各地で建立された『六十
六部廻国供養塔』の一種。 六十六部廻国供養は平安時代から始まるとされ、鎌倉末期から室町時代にかけては六十六
部行者により経筒が経蔵に奉納されたり、土中に埋納された。江戸時代には経筒奉納はほとんど見られず、それにかわ
って満願を果たした行者自身や、行者と結縁した各地の人が記念として石塔を建立することが行われた。
薄墨桜
竹原にある淡墨桜
茶畑の持ち主が岐阜県の根尾の薄墨桜の子孫を植えたもので、約20年経過した現在
密かなブームになっている木で、今日も数組の人達が、満開の桜を見に訪れます。
⑩ 伊勢鎌倉駅
徒歩40分
谷中平和の碑
不動寺
谷中平和の碑
「谷中」とは、この石碑からさらに伊賀市方面に進んだところにあった集落で、戦争中は 20 軒ほど
の家々があったといわれています。豊かな自然に包まれたこの静かな集落に、昭和 20 年 7 月 24 日、
アメリカの爆撃機 B29 から 1 発の爆弾が落とされました。この日、津市街を空襲するため百機を超え
る B29 が飛来しており、谷中に爆弾を落としたのはこの空襲から帰還中の 1 機だったといわれていま
す。谷中への爆弾投下は当初から計画されたものではなく、何らかの原因で投下できなかった爆弾を、
帰還の途中に処分したものではないかと考えられています。
この 1 発の爆弾で、薬草を採ったり川遊びをしたりしていた小学生と、その保護者の 7 人が犠牲に
なりました。終戦から 50 年が経過した平成 7 年、当時の八知小学校の児童が戦争について調べたこ
とをきっかけに、その翌年、この痛ましい出来事を後世に伝えようと「谷中の碑」が建立されました。
不動寺
慶長年間(1610)頃の草創。本堂江戸末期。本尊不動明王立像(91㎝)禅竜寺の境外仏堂。萱葺き。
不動寺の由来
ここの不動寺は遠く南北朝朝の草創と伝えられています。山岳信仰の修験道場として、往時は
深山幽谷文字通りの険しい別天地でありました。
おまつりするご本尊は不動明王立像であります。昔から効験あらたかな奥出の不動様と親しま
れ、遠近の信者多くご命日は毎月十八日です。創建以来幾度かの災害を受け(信長の天正の兵
火又つづら谷の山津波等)何度かの悲運に見舞われたが、幕末に至り、文政11戊子年第3回目
の本堂が建立され今日に至っています。
本堂裏山には伊勢国司北面の守りとして矢鉢城が昔の姿を残しています。矢鉢城勤番武士はこ
の不動寺を基地としており、寺域周辺には屯所跡遺構が数多く現存し昔を偲ぶよすがとなって
おります。
昭和58年12月
美杉村教育委員会
⑪伊勢鎌倉駅から伊勢八知駅
仲山神社(八知)美杉町の仲山神社といえば、奇祭「ごんぼ祭り」で知られる下之川の仲山神社が有名だが、『美杉村史』によれば、八
知と下之川と下多気の仲山神社3社で、北畠氏は三宮と崇めたという。下多気の社は明治末に多芸神社(現・北畠神
社境内社)に合祀されたが、いずれも祭神は金山彦命(金生大明神)。鉱山の神であり、武器や農具生産の神としても
崇められてきた神である。八知仲山神社は村上天皇の天徳3年(959)に美作国(岡山県)仲山郷より分霊、下之
川仲山神社はそれより少し遅れて、同じく村上天皇の康保2年(965)美作国一宮の中山神社から分霊を頂いたも
のとされる。八知仲山神社は美杉の代表的な古社であるが、魅力的な石造物の宝庫でもある。
六地蔵石幢(旧美杉村指定文化財)仲山神社正面石段の筋向かいには、向かって右脇に古い石の庚申像、
左脇に天保12年(1841)建立の大日塔を配した小さな地蔵堂がある。その中には10数基の石地蔵が祀られて
いるが、ひときわ眼を引くのが2基の六地蔵石幢(せきどう)。国立博物館の解説によれば、幢(とう、どう)とは仏
教寺院の堂内を飾る幡(はた、ばん)を、六角ないし八角形に組み合わせたもので、石製のものを石幢と呼ぶ。中国
髄・唐時代に流行し、日本では鎌倉頃から盛んになったという。一見、石灯籠に似ているが、笠の下、石灯籠では火
袋の部分にあたる龕(がん。ずし)部を六面とし、六地蔵を彫ったのが六地蔵石幢である。『美杉村史』によれば仲山
神社前地蔵堂の大きい方、総高88㎝の六地蔵石幢は室町中期の作、50㎝の石幢は室町後期の作という。
さざれ石の手水鉢
さざれ石と言えば、国歌「君が代」の歌詞に登場する石であることは日本人なら誰もが知っ
ているが、さてどんな石か、実際に見て知っている人はそれほど多くない。長い歳月をかけ炭酸カルシウムや水酸化鉄が
小石同士の隙間を埋めてつなぎ、一つの大きな岩の塊(石灰質角礫岩)に変化したものを指す。「君が代」は、小石が岩
になり、更にその上に苔が生えるという途方もなく永い年月をたとえている。
石造水舟(県指定文化財)仲山神社の社殿造営記録を裏付けるものに慶長15年(1605)9月に始まる古文書
棟札があるが、もう一つ、正殿玉垣内に置かれた大洞石製の石造水舟がある。上部に四角い穴があり、高さ45㎝。大きさ
は約10㎝角、深さ5㎝程度と小さく、これ自体で水舟(みずぶね。水槽、手水鉢)の機能を果たせるとは思えず、ほぞ穴
と見るべきで、全体は手水鉢の支柱の一つかと目される。かなり風化が進み文字は読みづらいが、「永享五年癸丑三月五日
八知郷金生大明神
水舟也願主道求」と側面に刻まれており、584年前の永享5年(1432)には社があったことを
裏付ける貴重な資料である。
籠
五神名地神塔(全国7番目の古碑)
仲山神社正殿玉垣内にある特異な農耕神碑。津観光ガイドネットに
よる今回の『各駅停車ええとこめぐり』コース設定の現地調査の過程で碑の素性が判明。三重県下の民俗研究から見落と
されてきたもの。方形の基壇2段に、六角形の1段、計3段の基壇の上に高さ55㎝の六角石柱が建てられている。六角
石柱の各面には時計回りで、「天照皇太神宮・大己貴命・少彦名命・天明八戊申□(1字判読不明。年か?)二月・埴安
媛命・倉稲魂命」と、農耕に関わる5神名と建立紀年が刻まれている。 これは大地震や火山噴火などの天変地異に見舞
われ飢饉が頻発した江戸中期、疲弊した農村の建て直しに、大地の神々の怒りを鎮め、五穀豊穣と天下泰平を招来する新
しい祭祀方法として、京都の民間啓蒙学者・大江匡弼(おおえ・ただすけ)が天明元年(1781)京都・大阪の本屋か
ら販売した『神仙霊章春秋社日醮儀(しょうぎ)』で提唱したことに基づくもの。 天明3年から7年まで続く飢饉が起
きる。東北地方を中心に大勢の餓死者がでた、天明の大飢饉。そうした中、五神名地神塔が建てられ始める。現在確認されている最古の事例は、
天明6年秋、神奈川県小田原市で建立された六角石柱のものと、自然石に五神名を刻んだものの2基。天明期のものは他に神奈川で4基、岡山
で1基、そして仲山神社の1基で、計8基しか確認されていない。仲山神社碑は全国で7番目に古く、中部・近畿では最古例である。
獅子・狛犬
獅子
狛犬
仲山神社正殿にはユニークな「こま犬」が鎮座している。像高約45㎝と小ぶりの石
像だが、正殿に向かって右が阿形の狛犬型で頭上には宝珠を乗せている。左が吽形の獅子型で頭に1本
の角がある。松岡清助が、明治に改元される直前の「慶応四年中秋」に奉納したもの。
古代インドでは獅子(ライオン)は仏法の守護獣とされ、日本には中国を経て伝来。頭上に宝珠を乗
せて表現されることもある。一方、狛犬(高麗犬)は朝鮮半島に由来するとされる霊獣で、頭に1本の
角が生えている形で表現されることもある。元々は別の霊獣だが、平安時代には共に魔除けの霊獣とし
て「獅子狛犬」と一対で寺社や宮殿の入り口に置かれるようになった。
津藩無足人が奉納した石灯籠
元禄13年の灯籠
仲山神社正殿玉垣内に高さ約220㎝の古い石灯籠1基と、大きく補修が施され
た対のもう1基がある。古い方の灯籠は、
「元禄13年(1700)九月吉祥日 山本重郎衛門景由」が奉納したもの。山
本重郎右衛門は『伊勢無足人(むそくにん)取調帳』によれば、8年後の宝永5年(1708)津藩の無足人に採用され
ている。無足人とは、正規の武士ではないが名字帯刀を許された、いわゆる郷士のことで、紀州藩では地士(ちし)と呼
んでいる。 もう1基の補修灯籠は子孫の山本仁平が大正8年(1918)に、修復再建したもの。地震などの天災で倒
壊し大きく破損していた灯籠を、祖先が200年前の元禄期に建立したオリジナルの部分をできるだけ生かしながら修復
し、祖先の思いを大切にしているのが大きな特色である。なお、山本仁平と山本やゑは大正15年に、鳥居から石段を登
った両脇に「獅子獅子型」の狛犬も奉納している。
大洞山金剛寺
三重梅花観音霊場12番札所。津市栄町の曹洞宗四天王寺15代住職・月海宗珠が江戸時代初期の寛永5年(1628)に
創建。本堂は5世石巌猷和の時に焼失したが、6世墨外祖準によって享和13年(1728)再建されたことが、棟札
の記述でわかる。本尊・阿弥陀如来坐像(平安後期の作、像高132㎝)は、大洞山の麓に祀られていたという。後に
阿弥陀屋敷の阿弥陀堂本尊として信仰されたが、明治のはじめ金剛寺に移され、後にそれまで本尊だった聖観音坐像に
かわって本尊となった。阿弥陀如来坐像は江戸期に桧材一木造漆箔背板を施されているが、
「量感に富み、全身に溢れる
ような力がこもり、均整も整い、顔もおおらかなうちに厳しさがある。膝張大きく堂々とした像である。撫で肩で、頭
の髪も衣のひだも簡略化され、ローカルカラーが濃いが、当村における優れた古像と思われる」と村史は記す。
⑫比津駅周辺
藤田コンニャク
県指定天然記念物 東平寺のシイノキ樹叢
渓谷を渡る風に木々の緑がそよぐこの季節、JR名松線の比津駅に降り立つと、雲出川の水のきらめきが
一層まぶしく目に飛び込んでくる。
駅から東に向けて多気地域へ抜ける比津峠への道を 300 メートルほど進むと、左手の山の中腹にある東平
寺の境内に、大きく枝葉を伸ばしたシイノキの巨木が目に入る。
県の天然記念物に指定されているこれらの木々は「スダジイ」と呼ばれる種類のシイノキで、新潟県以南
の列島に広く分布する、日本の暖帯性常緑広葉樹林を代表する種類の樹木である。東平寺の境内には、幹周
り4から6メートル、樹高 10 メートルを越える9本のシイノキが、大小の石仏や五輪塔を覆うように並ん
大きく枝葉を伸ばすスダジイの木々
でいる。6月には、杉や竹林に混じり、遠くからでも分かる薄黄色の花を一面に咲かせ、秋には大きな実(ド
ングリ)を付ける。ドングリは昔から貴重な栄養源で、人間だけでなく森に生きる多くの動物た
ちの貴重な食料であった。
スダジイの森林は、かつては美杉町川上付近まで雲出川沿いに広く分布していたといわれるが、
現在は植林や耕地となり、居住地化も進んだ影響で、この地域でも自然のままの状態で残ってい
る場所はほとんどなく、この樹叢が当時の自然の植生を知るうえで貴重な資料となっている。
木々の緑が一層濃くなるこれからの季節、太古の自然を感じながら木陰に涼を求めてはいかが
であろう。(「広報津」平成 19 年7月1日号)
霧山城
比津から多気に抜ける道を行くと途中に霧山城登山口の城へ霧山城へ460mの看板がある。ここから霧山城
に登り多気北畠神社に行けます。
城の歴史
標高約560mの山頂部に築かれている。康永元年(興国3年、1342)顕能が築城。この地は伊勢本街道に沿い吉野へ65km、神宮へ40km の地にある。
交通の要衝であり、また、物流の拠点で兵糧輸送の便を考えたものと思われる。
多気の里は、四方を高く険しい山々に囲まれた小盆地で、村里全体がいずれの方向からも高い7 つの峠を越えなければこの地に入ることができ
ない天険の地で一大城郭の様相を呈している。盆地中央の山麓には、現在北畠神社があり、その境内一帯が城館で、東南隅に館の庭園が残って
いる。
北畠氏は、村上源氏の名門で、京都の北畠というところに居住し、朝廷につかえた公家であった。その祖親房は南朝の重臣として天皇に奉侍し
ていた。後醍醐天皇が延元元年(建武3 年、1336)吉野山に遷幸の時、親房は京都から南伊勢に下り、度会郡玉城町田丸城を本拠に外宮の禰宜
度会氏をはじめ、愛洲氏・潮田氏・古和氏・木本氏などの各土豪を統率し、伊勢神宮のひざもとや、東国への海路の要所を押さえ、広大な南伊
勢平野の物資を掌中にして、吉野南朝の東方の基盤を築いていた。北畠氏の勢力は、南伊勢の5郡(一志・飯南・飯野・多気・度会)を中心とし、
西は伊賀の南半から大和宇陀郡、南は志摩・奥熊野にも及んだとされている。北畠家は、軍兵一万五千余を擁し、一族には、田丸御所・大河内
御所・坂内御所の兵一千の三大将、そして、一志波瀬・岩内・藤方・木造の兵五百人の大将があったという。
しかし、北朝方足利氏にたびたび攻められ、康永元年(興国3年、1342)頃、北畠親房の三男の顕能は多気に移り城館を築いたと言われ、顕泰・
満雅・教具・政郷・材親・晴具を経て、具教にいたる伊勢国司北畠家八代にわたる約240年間の本拠地となった。天正4年(1576)伊勢国司八代
北畠具教が三瀬谷館で殺害されるや信長の大軍が白口峠、桜峠を突破し、多気の城下から霧山城に登り押し寄せたという。城代北畠政成は城を枕
に討ち死にし、廃城となった。
⑬伊勢奥津駅周辺
かわせみ庵に設置された干支
い
せ おき つえき
JR伊勢奥津駅
おうしょうせん
名松線は、当初奈良県の桜井市と松阪市をつなぐ桜 松 線として計画されたが、名張松阪間を走ること
が決定し、その名がついた。昭和 30 年代は、材木や薪炭の積み出し駅として、最盛期を迎え駅構内には材木等が山積みさ
れた。始発と終着駅の機能が整備されいつも蒸気機関車が止まっていた。蒸気機関車には、貨車3両、客車4両(日中は
2両)で松阪まで約1時間 40 分で運行、買い物などの生活圏はもちろん教育や文化も松阪が中心であった。午前 5 時 15
分の始発列車には、通勤通学生、習い事や買い物客、魚屋さんや仕入れ業者が乗り合わせ賑やかであった。
奥津宿のれん街
大和と伊勢を結ぶ伊勢本街道が通る美杉町奥津は、お伊勢参りの宿場街として繁盛した。
昭和初期は材木の出荷で活気に満ち、30 年頃までは映画館、料理旅館、芝居小屋などが軒を並べていたが、時代の変
化の中で徐々になくなった。平成 13 年に街道の面影を色濃く残していることから、その家のおかみさんたちが、昔の商
売や屋号をパッチワーク技法などで手作りした暖簾を掛け「ようこそ、おこしなって!」と歓迎している。 暖簾には、
屋号や名字など入っており、形、大きさ、色など、デザインに思考を凝らしユニークなものばかり、藍染の古布、風呂
敷や袢纏など再利用したもので、微妙な色合が素晴らしい。当初は、24 軒で土日のみ軒先に掛けられていたが、今では
宿場街全体に広がり終日掛けて、訪れる人たちの目を楽しませている。
みやしろばし
宮城橋
旧稲森酒造の南に架かる橋は、八幡神社(北畠家累代の祈願所)と多気の霧山城を結ぶ橋であることから宮
城橋という。 「鏡山から月かげさせば、誰を呼ぶやら、雲出の河鹿、夢の宮城、恋の橋」とうたわれ男女の出会いの
やわたむら
場所であった。*この唄は、昭和 29 年、八幡村教育委員会が、村民から一般募集した中の一句。
この橋を渡ると、宿場街から職人町(須郷の郷)に入る。
す ご う
須郷のおんばさん
街道筋の畑道を入ったところに、「おんばさん」の愛称で知られる木像の地蔵菩薩がある。
流行病の百日咳のことをこの地では「うばぜき」といい、子供達を苦しめていた。このうばぜきに霊験あらたなおんば
さんこと延命地蔵菩薩が掛けている「よだれかけ」を借りてきて掛けてやると楽になったといわれ、お礼に新しいよだ
れかけを縫ってお返しすればよく、近郷近在はもとより遠くは大阪や兵庫の地名と名前を記したものもある。毎年 8 月
23日夜には、組内の人々が集まり子供達をまじえ数珠繰りが行われる。「山へ行け・川へ行け」と唱えながら無病息
災を祈る。土地の人たちは、信心深く毎年行っている。こうした数珠繰りは数少ない行事である。起源は不明だが、そ
のとき使う鉦の裏に宝永3年(1706)とある。境内には、おんばさんと呼ばれる地蔵尊をはじめ数体の石仏が祀られて
いる。むかし、わけあっておんばさんが遠く一身田に売られていった。ところが、うば咳が大流行して子供達が苦しんだ。大人
たちはおんばさんを売り飛ばしたことを悔いて迎えにいった。おりしもその頃、一身田にあったおんばさんが須郷に帰りたいと土地の人の夢枕に立たれ、そ
の人は頭を悩ませていたという伝説がある。
職人町
文政 13 年(1830)の「おかげ参り」は、全国民の 6 人に1人は神宮を目指したといわれる。
「抜参り」を起因とするおかげ参りは街道の人々のお世話(施行=粥・茶・銭・草鞋・籠・馬・宿などを無償に提供)
がなければ行き倒れてしまう危険なものであった。これを支えたのが街道の人々である。鍛冶屋 桶屋 駕籠屋 傘屋
飴屋 菓子屋 宿屋等があった。道幅が狭く当時のままであるが、昭和の中ごろまでは、大八車が通り、飼坂峠を越え
ていった。
札場跡
慶応年間、当時の渡会県太政官が伊勢参りの人々への通行手形を渡した場所跡である。神宮参拝に外の
信者でないかを確かめて身分証明書を発行したと伝えられている。明治維新になり諸制度が変わったことで、
『外国人
との付き合いや接し方、徒党を組んで願い出ること(強訴)、申し合わせて、自分の町や村から立ち退くこと(逃散)
を固く禁止する、右の様なことを見かけたら早々にその筋の役所に申し出ると、褒美が出る。』という内容の高札が立
てられたそうだ。 実物は、
「美杉ふるさと資料館」に展示されている。いずれも慶応 4 年(明治元年)に太政官(明
治初年にあった最高官庁)から発布されたものである。
谷口の常夜燈
飼坂峠の入口にある、文久 4(1864)年建立「太一」の銘がある。旅人の道中安全と道標の役割
を担ってきた。土地の住民は毎日夕方になると、交代で明かりを灯し拝礼した、明かりを灯すのを忘れると罰が当たる
といい自らが役目を果たした。
正念寺
曹洞宗
圓通山正念寺という。慶安 2(1649)2 年、和歌山県宇須町高松寺の三代目、月山専補大和尚
がこの地に曹洞宗の教えを広めに訪れた時、この教えに帰依した村人に請われて留まり本堂を建立した。本尊は木造
聖観音立像 60 ㎝ 慶安2(1649)年 弥勒堂は貞享 3(1686)年 庫裏は天保 2(1831)年、山門(鐘楼門)は明治
3(1870)年建立 梵鐘は同期の作であったが、戦時中に供出され破却された。平成 3 年 9 月新調され「長壽之鐘」
と彫ってある。 扁額「圓通」は、享保(1716-1736)年間に月舟という僧の作で、山門に掲げられている。
かわせみ庵
JR 伊勢奥津駅から西へ徒歩 2 分
美杉の商工会女性部の有志 8 人が民家を借りて土・日曜日に美杉に訪れるお客さんのおもてなしと特産物の販売を行
っている。
簡易な道の駅といえる。
⑭三多気の桜・真福院
約4K
三多気の桜 (昭和17年 国の名勝に指定)
美杉町三多気にある、主にヤマザクラが植えられている約400本の桜並木です。奈良地方とお
伊勢さんを結ぶ伊勢本街道からわかれて真福院にいたる約1.5kmの参道の両脇に植えられたも
のです。ヤマザクラは何百年も生きられる桜で、江戸時代後期にソメイヨシノが出てくるまでは、
ヤマザクラが代表的な桜でした。ソメイヨシノのような派手さはありませんが、楚々とした美しさ
は今も日本人に根強く好まれていますし、古い和歌や俳句に詠まれている桜のほとんどはヤマザク
ラです。
「三多気の桜」は、このヤマザクラの並木が見られると共に、参道ぞいにある棚田や茅ぶき屋根
の家、桜と同じころに咲く菜種の黄色い花、まわりをかこむ山々の緑などが織りなす風景と相まっ
て、日本の田舎の原風景として多くの人から愛されています。
「さくら名所百選」に選ばれています
し、「第9回美しい日本の村景観コンテスト」では農林大臣賞を受賞しています。
「三多気の桜」は、京都山科の醍醐寺を開いた理源大師・聖宝という有名なお坊さんが、平安時代のはじめごろに植えられたのが始まりと伝
えられています。
真福院のケヤキと杉
(ケヤキは昭和15年
県の天然記念物に指定)
「三多気の桜」がある参道のゴールが真福院という真言宗のお寺です。その山門につなが
る石段の下の左脇に、幹回り6.7m、高さ25m、樹齢が千年以上といわれている大きな
ケヤキがあります 。
大きく張り出した枝は、東西25m、南北20mもあります。まわりには杉の大木がたく
さんあるので、遠くからこの大ケヤキの全体を見通すことができないのが残念です。参道は
写真のように2本の大杉の間を通り、その先に石段が伸びていますが、その大杉の左側に大ケ
ヤキがあります。
ケヤキ
真福院
白鳳時代(670 頃)役行者がこの地へ蔵王権現を祀られたのが、当山の草創と伝えられている。平安末期か
ら室町末期(1180~1570 頃)までは蔵王権現の霊場として栄え、平清盛、北畠親房らも参篭したこともある
という。北畠氏の祖、中院通方卿は堂塔を建立されている。山門前には鎌倉期の石仏、石碑が群集してお
り、当時の隆盛が偲ばれる。正和元年(1312)失火により堂宇全焼し、一時衰退したが文保の頃(1317)滝覚
坊が再建復興させた。滝覚坊が完成させたという精進祭流鏑馬は、今も一月四日と五日に古式通り行われ
ている。国司北畠顕能は、信仰厚く念持仏不動尊を納め、一族の祈願所とした。また山門まで約八キロに
わたり桜並木を整備された。天正四年伊賀乱の兵火により本堂を残し焼失する。元和六年(1620)祐栄師は
地元の氏神(仏)として復興された。慶安三年(1650)榮秀が鐘楼門を造立。明治六年の神仏分離令により寺
院となったが、今なお「お宮さん」としての信仰も続いている。大正十四年護摩堂を再建。寺容は次第に
整備され今日に至っている。
⑮北畠神社 飼坂峠を越えると多気へ
〇北畠氏館跡
約6K
津市 美杉村下多気
北畠氏城館跡には北畠神社があります。北畠氏は、位の高い公家でした。北畠親房が南朝の正当性を書いた書物『神
皇正統記』は有名です。南北朝時代に、親房の長男顕家は奥州へ、3男顕能が初代伊勢国司につき美杉多気の地に
国司館・霧山城と城下町をつくり、以来240年この地を治めていました。
北畠氏が多気を本拠として勢力を伸ばしていたのは、多気が山間部でありながら吉野に近く大和と伊勢を結ぶ伊
勢本街道が通じ、米や海産物などを運ぶ交通の要衝となっていたからと言われています。当時の人口は約1万とも
いわれ、多くの店屋や宿屋が軒を並べ、賑わっていました。
南北朝が統一された後、伊勢国司として、旧一志郡以南の諸地域と、隣国である伊賀・大和の南部も支配下にお
花将軍 北 畠 顕 家 公
21 歳で阿倍野(大阪市)の
露と消えた 鎮守府将軍
さめていたといわれます。
このころ政情はめまぐるしく動き、延元元年(1336)親房は顕信、顕能とともに、みずから伊勢に入り南朝の砦
を作り出すと、北朝の足利尊氏の激しい攻撃を受け北畠軍の田丸・神山・一之瀬の各城は落城しました。
永禄 12 年(1569)には、織田信長の侵攻を受け、信長の次男・織田信雄を8代具教の娘・雪姫の婿に迎えるという織田家に有利な形で講和し
ました。
その後、具教は暗殺され北畠氏は滅亡しました。
北畠氏の滅亡後は静かな山村として文化的な遺産も栄光も埋もれてしまいましたが、伊勢への参宮路の宿場町
として発展しました。
北畠神社と霧山城跡、北畠氏館跡庭園(国名勝及び史跡)は文化遺産。庭園は近江の朽木、越前の朝倉と共に
戦国の 3 名園といわれ享禄元年(1528)の作庭です。庭園の作庭者は7代国司北畠晴具の夫人の父、細川高國と
言われています。
〇東御所(六田館)津市美杉町下多気
北畠神社の、八手俣川をへだてた字六田にある。一説には奥山信濃守がこの館で落城後遁世して菩提を祀
り、「東御所金吾城」と称したともいう。この城跡に雪姫桜があり、小祠に雪姫大明神と稲荷大明神が祀
られている。雪姫は北畠具教の第4女で、多気が焼き討ちされたとき、姫をこの桜にしばった。するとど
こからともなく一匹の狐が来て、姫を救け川上の地に逃れたという伝説がある。西に御所河原がありここ
から館へ通じていたという。今もこの周囲の田を掘田と言い、雪姫桜の古木は樹齢400年といい、「枝
は枯れても株は枯れず」と伝えている。(三重の中世城館より)
⑯川上若宮八幡宮
約6.4K
この地は、太古よ
り霊域とされてお
り、国津神、天津
神、八百萬神がこ
の山岳地帯に鎮座
されていると伝え
られています。
雲出川の水源地に
鎮座し、二つの渓
流が流れる境内は、
いたるところから
せせらぎの音が
聴こえてきます。緑したたるような鎮守の森も鮮やか。澄んだ森の香
気にいやされます。
川上神社を訪れると、神秘のパワー、霊験を感じます。
古来から、そうした神秘の力を求め、この地に修験道者が訪れたこと
と思います。
「川上神社」あるいは「川上さん」と親しまれて、仁徳天皇が崩御(一
説には、西暦427年)した後、天皇と皇后を慕うこの地の人民が、
この地に社を造ったのが、川上神社の起源と言われています。
仁徳天皇、磐之媛(いわのひめ)皇后を主神とし、西暦5世紀初に創
建されたと伝わる日本最古の若宮八幡宮。 中世は修験道の霊場とな
り、伊勢国司北畠氏や津藩主藤堂家も代々の祈願所としました。 長
寿や繁栄を願う庶民の信仰もあつく、全国に参拝者がいます。
奥津駅前でレンタサイクル(無料)が借りられます。