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カトリック司祭による
エル・グレコ展解説
*公式図録や他の資料を参考に作成した解説ですが、絵画に関しては素人ですし、キリスト教的知識に関して
も不足があると思います。間違いや誤解がありましたら、それはすべて作成者の責任です。
エル・グレコ本人について
1541 年ギリシアのクレタ島で生まれる。本名ドメニコス・テオトコプーロス。エル・グレコはスペイ
ン語で El Greco、つまり「ザ・ギリシア人」、
「あのギリシア人」という意味。恐らくトレドで一般的に
そう呼ばれていたのだろう。1567 年頃ヴェネツィアへ。1570 年ローマへ。1576 年頃トレド(スペイン)
へ。1614 年没する。
出身地から考えて、ギリシア正教徒であったと考えられる。聖ドメニコスは東方教会の聖人で、10 月
1 日が記念日であることから、彼が 10 月 1 日生まれだとする資料もある。ローマ・カトリックに改宗し
たかどうかの記録はないが、トレドの教会に埋葬されていることから、キリスト教徒として亡くなった
ことは確かだろう。
今回の出品は、描かれた順番に展示されているわけではないため、作成年に注意するべき。1576-77
年までに描かれたものは、当時の西欧絵画の影響を強く受けているが、それ以降のものには、徐々に彼独
特の画風が表れていく。
時代背景としては、ルターによる宗教改革(1517 年~)を受けてのトレント公会議(1545-1563 年)
が終了し、反プロテスタントの気運が高まっている時代である。
I-1 肖像画家エル・グレコ
1 芸術家の自画像
1595 年頃
作成年から言うと、本人 54 歳の時の姿。エル・グレコらしいタッチ。
2 聖母を描く聖ルカ
1563-65 年頃
ギリシア時代のテンペラ画。ルカが聖母の絵を描いたという伝説は各地にある。ルカの膝元の道
具箱の下に、彼の署名があると説明されているが、肉眼でははっきり見えない。同時期に描かれ
た絵(聖母の眠り)が現存している。
3 修道士オルテンシオ・フェリス.パラビシーノの肖像
1611 年
晩年の作品。完成されたエル・グレコ作品と言える。
4 燃え木で蝋燭を灯す少年
1571-72 年頃
絵としては非常に興味深いが、キリスト教的なモチーフは何もない。
5 白貂の毛皮をまとう貴婦人
1577-9O 年頃
エル・グレコの作かどうか、描かれた女性は誰か、毛皮は白貂ではなく安い山猫ではないか、ヴェー
ルからわずかに覗く赤いものは花なのか、右手の薬指と小指にルビーとダイヤモンドはどういう
意味か、など謎の多い絵。
6 ある若い騎士の肖像
1600 年頃
1
こちらは、本人の署名がはっきり過ぎるぐらいに判明する作品。グレコらしいタッチ。
7 ディエゴ・デ・コバルービアスの肖像
1586-1600 年頃
参考ディエゴ・デ・コバルービアスの肖像 1572-73 年頃
参考作品の方(陰影がはっきりしている方)を元にしてエル・グレコが描いた作品。当時の肖像
画にふつうであったような描き方ではなく、エル・グレコらしい粗いタッチが使われており、モ
デルに生命と感情を吹き込む効果が存分に発揮されている。ゴッホやモネといった印象派が登場
する 300 年前に、エル・グレコはすでにその境地に達していたと言える。
8 医師ロドリーゴ・デ・ラ・フエンテ、またはある法学者の肖像
1588 年頃
作者には疑いがないが、描かれた人物が誰であるかが論議のまとの作品。
9 フリアン・ロメロと守護聖人
1600 年頃
画面に描かれたスペイン語の説明から、白い服の人物が、サンティアゴ騎士団員のフリアン・ロ
メロであることは明らかだが、もう一人の人物が、ロメロの霊名の聖人、聖ユリウスなのか、別
の人なのかははっきりしていない。また、作風の違いから、エル・グレコ本人が描いたのではな
く、その工房、あるいは追随者によるものだとも言われている。
I-2 肖像画としての聖人像
10 聖ヒエロニムス
1600 年頃
340?~420 年。9 月 30 日が記念日。ユーゴスラビアのダルマチア出身で、ローマに出た後、隠
遁生活を送る。その後東方で司祭になり、ローマにもどって、聖ダマソ教皇のもと、聖書をギリ
シア語からラテン語に訳したブルガタ訳を完成させた。後、ベツレヘムに行き、死ぬまでに多く
の著作を残した。聖アンブロジオ・聖アウグスティヌス・聖グレゴリオと合わせて、西方四大教
父(全員教会博士)とされる。砂時計と髑髏は現世の空しさを、磔刑像は贖宥を、書物とペンと
インク壺は彼の研究を表している。固く握りしめている物が何か不明。
11 枢機卿としての聖ヒエロニムス
1600 年頃
今でいう枢機卿に任命されたことははっきりしていないが、それにあたる任務を果たしていたと
言える。トレント公会議においてブルガタ訳聖書が真正であると宣言され、1592 年に新版が発行
されたことが、このような絵を生んだ背景にあるだろう。
12 聖パウロ
1585 年頃
多くの書簡を書き残した聖人としてインク壺とペン、斬首刑で殉教した聖人として大ぶりの剣が
描かれている。1927 年に発見された絵。
13 ある枢機卿の肖像
1600 年頃
本来の絵から、大きく切断され、加筆修正が加えられた作品。にもかかわらず、エル・グレコの
タッチを感じさせる。
14 福音書記者聖ヨハネ 1607 年頃
この作品と以下の 2 作品は、いずれもエル・グレコ本人ではなく、その工房によるものと考えら
れている。なぜなら、キリストと十二使徒(実際にはイスカリオテのユダやマティアスの代わり
にルカやパウロが加えられることが多い)というこの連作が、1607-1614 年の間に少なくとも現
存する6点が描かれているから。これほどの短期間に(他の作品も含めて)すべてを本人が描く
2
ことは不可能なので、工房としての作品と考えられる。
ヨハネは若者らしい髪型で、手に竜の入った盃を持っている。これは、エフェソの神官アリスト
デムスとの論争で、死刑囚二人に飲ませて効き目を試した毒薬を飲んだが死ななかっただけでな
く、死んでいた二人の囚人を蘇らせたという、『黄金伝説』(ヤコブス・デ・ウォラギネ著)で紹
介される逸話が元。竜は、ヨハネが書いた黙示録に悪魔の象徴として 17 回登場している。
15 聖パウロ
1607 年頃
左手に持つ紙には、
「クレタ人の教会の最初の司教に任命されたテトスへ」と記されている。パウ
ロはこのテトスに手紙を書いており、新約聖書の一書。エル・グレコ自身がクレタ島の出身ゆえ
に、テトスには思い入れがあったと想像される。右手には、自身が斬首されたことに由来する剣
を持っている。剣の表面、つばのすぐ下に、彼自身の署名があるので、この作品は彼自身の手に
よるものかもしれない。確かに非常に素晴らしい出来栄えである。
16 聖ペテロ
1607 年頃
左手に二本の鍵を持つペトロ。ペトロの鍵に関しては、
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」
(マタイ 16,19)ではっきりと書かれているが、ここの鍵は確かに複数形。解説によっては、
「天
国の鍵と地獄の鍵を持つ」となっているものがあるが、聖書としてはあくまでも天国の鍵のみと
言えるだろう。ちなみに、地獄の鍵に関する言及は、黙示録。
「わたしは最初の者にして最後の者、
また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持って
いる。
(1,17-18)
」つまり、地獄の鍵はキリスト自身が持っているということになる。
I-3 見えるものと見えないもの
17 聖母の前に現れるキリスト
1585 年頃
イエスとマリアの表情や後光、イエスの手をとるマリアの手など、信心深い絵となっている。し
かしながら、エル・グレコ独特のタッチが表れているものではない。
18 聖アンナのいる聖家族
1590-95 年頃
聖母マリアの顔は、美しい女性像の頂点とも言われる美しいもの。また、イエスの人性が強調さ
れている。聖ヨセフが若々しく描かれているのが、ヴェツィア時代の作品(23 番)と比較して大
きく違う点。同時代のイエスの聖テレジア(1515-1582)の聖ヨセフへの深い信心が有名だが、彼
女からの直接の影響は考えられなくても、当時の民衆の信心の雰囲気を反映していると言えよう。
19 聖ラウレンティウスの前に現れる聖母 1578-81 年頃
聖ラウレンチオ(8 月 10 日記念日)助祭殉教者は、258 年に殉教。彼を助祭に叙階したシスト二
世教皇が殉教して四日後のことだったが、その四日間、教会の財産を貧しい人たちに分け与え、
教会財産を差し出せと命令した当局に「この人たちこそが教会の財産です」といって連れて行っ
たという。このエピソードは、ベネディクト十六世が最初の回勅『神は愛』
(23 番)の中で紹介さ
れている。この絵では、助祭が身につけるダルマチカ(司祭のカズラにあたる)が見事に描かれ
ている。右手に持っているのは、殉教の道具となった焼き網。
『黄金伝説』によると、焼かれてい
る際に彼は、「片方は十分に焼けましたから、もう片方を焼いてください」と言ったという。
20 悔悛するマグダラのマリア
1576 年頃
エル・グレコが描く女性はすべてヴェールなど被り物をかぶっているが、唯一ともいえる例外が
3
この絵のマグダラの聖マリア(7 月 22 日記念日)。
「罪深い女」(ルカ 7,37)と言われる女性の回
心がよく描かれている。
21 聖マルティヌスの夢 1576-77 年頃
ツールの聖マルチノ(397 年帰天、11 月 11 日記念日)。ハンガリーの兵士であった時、
「アミアン
の町の門のところで、マルチノは自分の外套の半分を貧しい男に与えました。その夜、その外套
をまとったイエスご自身が夢でマルチノに現れました」
(『神の愛』40 番)
。このエピソードは、出
品番号 44 番の絵に描かれている。このことをきっかけにキリスト信者となった彼は、司祭、司教
となり、宣教を繰り広げた。この絵は、横幅 10 センチに満たないミニチュアと呼べる大きさの絵。
展覧会会場では、双眼鏡を使わない限り、よく見えない。絵には、外套の半分をまとうキリスト
と、残りの半分を敷いて眠る兵士姿の聖マルチノが描かれている。
22 フェリペ 2 世の栄光 1579-82 年頃
「フェリペ二世の栄光」という名で出品されているが、より一般的には、レパントの海戦(1571
年)の勝利を受けての「神聖同盟の寓意」とか、
「フェリペ 2 世の夢」と呼ばれている。この絵の
中で、唯一栄光っぽくないのがフェリペ 2 世(笑)なので、この命名はどうかと思う。そう思っ
て見ていたら、ふと見ると額(出品元のエル・エスコリアル修道院からの持ち込みだと考えられ
る)の下部中央に、Adoración del Santo Nombre de Jesús「イエスの御名の礼拝」とあるので、
少なくとも現在絵が置かれているところでは、この名で通っているのだろう。その「御名」は「IHS」
これは、ギリシア語のイエスの最初の三文字(IH∑)をラテン文字に置き換えたもの。よく見ら
れる「JHS」も同意。絵の内容そのものは、最後の審判。右下の地獄は、海に住むレビアタン(イ
ザヤ 27,1 など)の口の中として描かれている。その上のものが煉獄と説明されているが、絵の様
子からはむしろ地獄に落とされているように見える。
II クレタからイタリア、そしてスペインヘ
23 羊飼いの礼拝
1568 一 69 年頃
ヴェネツィア時代の作品。同時代の別の画家の作品を参考にしており、それに画面右上の羊飼い
へのお告げと動物たちとを書き加えている。色合いは同時代の作品(例えば 26 番)と似ており、
羊飼いへのお告げのモチーフは 24 番にも用いられ、降誕の際に動物を登場させることは同場面の
他の作品にも必ず見られる。動物たちも、幼子イエスに暖かさを与えて貢献したという伝説によ
るものかもしれない。
24 羊飼いの礼拝
1600 年頃
エル・グレコらしい画風。幼子の足元に小羊が横たわるのは、イエス自身が新約のいけにえの小
羊となることを表しており、34 番などの他の絵にも見られる。聖ヨセフの姿は、34 番や 48 番と
とても似ている。それらの作品にも言えることだが、幼子から差し出る光と恵みが周囲を照らし
出している様子が見事に描かれている。
25 シナイ山の眺め
1570-72 年頃
モーセが十戒を授かったホレブ山を中心としたシナイ山。山腹に頂上へと続く 3000 段以上の階段
が見え、ふもとにある聖カタリナ修道院を目指して巡礼者がやってきている。
26 キリストの埋葬
1568 一 69 年頃
4
ヴェネツィア時代の作品。これも当時の他の画家の作品を参考にしている。悲しみに倒れそうに
なっている聖母と彼女を支えるマグダラのマリアらの婦人たち、見守る使徒聖ヨハネが見分けら
れる。
27 盲人を癒すキリスト 1571-72 年頃
複雑な群像構成を含むマニエリスム時代の典型的物語構造画の試みと言われる作品。癒されてい
る盲人は二人で、すでに癒された一人が天を指して目が見えるようになったことを示していると
言われるが、今癒されようとしている盲人の目にイエスが何かを塗ろうとしている様子は、唾で
土をこねて目に塗って盲人を癒したというヨハネ 9 章を想起させる。ヨハネ福音書のこの場面で
は、盲人は一人である。イエスの右側の人たちは奇跡に驚く弟子たち、あるいは疑い深いファリ
サイ人たち。画面左端でこちらに向かって目を向けている若者が、エル・グレコ自身だという説
もあるが、はっきりしていない。
28 神殿から商人を追い払うキリスト
1610 年頃
彼の多くの作品が残っている主題。左側に追い出される商人たちがややデフォルメされた形で、
その驚きや苦悩が表現されている。右側の弟子たちは驚き入っている。その中の若者は聖ヨハネ
であろう。もっとも近いところにいる金色のマントをまとったのは聖ペトロであろうか。背景の
門柱には、神の命令に対して逆らった者と従った者のそれぞれの典型として、左に楽園を追い出
されるアダムとエバ、右に我が子イサクを捧げるアブラハムが描かれている。
29 受胎告知
1576 年頃
この展覧会のチラシなどに使用されている絵であるが、ヴェネツィア時代のもので、エル・グレ
コ独特のものとは言えない。聖母の手や指は、後の彼の描き方とはずいぶんと異なる。ただ、鳩
を表す聖霊が巻き起こす雲と閃光、あおられるカーテン、天使の影が映る床などは、全盛期の作
風への過渡期とも言えるし、ノーマルなプロポーションで描かれている登場人物の曲線状の歪み
が後の作風の萌芽を感じさせる。
30 受胎告知
1600 年頃
エル・グレコの傑作の一つと言われる、ドニャ・マリア・デ・アラゴン学院付属聖堂主祭壇衝立
(鳴門市大塚国際美術館に復元実物大がある)の中核作品を、本人がもう少し小さくして描いた
ものと言われる。ドニャ・マリア・デ・アラゴンという女性は、フェリペ二世の馬丁頭の娘で、
修道者ではなかったが純潔の誓願を立てて生涯独身を貫いた女性。その女性が創立者である学院
の祭壇衝立に、終生処女である聖マリアの受胎告知が描かれているのは偶然ではないだろう。絵
では、今まさに聖母の胎内に下らんとしている聖霊を中心として、大天使と天上の天使の緑色の
服、聖母と天上の天使の赤色の服、顔天使(ちなみに顔天使は不完全な天使ではなく、体を持た
ない天使の実態をより表現している)の群れが点対称となっている。聖母マリアの指のそり方や、
大天使ガブリエルの足の指のそり具合は、彼の晩年の作品の特徴とも言える。聖母の足元には、
燃えてはいても燃え尽きることがなかったという燃える柴(出エジプト 3,2-3)があり、出産の前
も、出産の時も、出産の後も、終生処女であったという聖マリアの終生童貞性の教義のモチーフ
となっている。上部で楽器を鳴らしている天使たちがいるが、それらの楽器は通常合奏ができな
い組み合わせである上、中央にあるヴァージナルという女子修道会でよく使われていたという鍵
盤楽器に至っては、胴体の形が通常とは違い、鍵盤が異常に小さいものにデフォルメされている。
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これらのことも、聖マリアの処女性と天上性とを表すものだと言われている。
III トレドでの宗教画:説話と祈り
31 瞑想する聖フランチェスコと修道士レオ
1590-95 年頃
アシジの聖フランシスコ(1181-1226、10 月 4 日記念日)が描かれた絵は多いが、これはエル・
グレコらしいタッチ。着用している僧服は、フランシスコ会の中でも、創立時の精神に従ってよ
り厳しい戒律を生きるカプチン会(1528 年創立)のもの。(41 番の絵も同様)足元にいるのは、
聖フランシスコの忠実な弟子である修道士レオ。彼も骸骨を黙想しているようだが、敬愛する師
を眺めているようにも見える。修道士レオは、師の死後、師の幻を夢で見る機会に恵まれたとい
う。
32 聖ドミニクス
1605 年頃
反プロテスタントという時代を背景に、悔悛や瞑想を重視する当時の風潮を表現していると言わ
れる。
33 聖衣剥奪
1605 年頃
キリストの表情が非常に印象的な作品。トレド大聖堂にある最初の作品の、本人によるレプリカ
の一つ。聖衣剥奪の場面は、「イエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた」(マ
ルコ 15,20)。この主題が当時極めて珍しかったうえに、キリストよりも上側に人が描かれている
点や、聖書に記述がない聖母マリアたちが描かれている点などから、非難を浴びた。エル・グレ
コの意図としては、キリストを中心にして、後方から手前に向かっての構図で時間の経過も表そ
うとしたようである。後方は、ゲッセマネの園でキリストを捕縛した兵士たちとも理解できるし、
手間の人物たちや十字架は明らかにゴルゴタの丘の場面である。左手前の人物たちは、中央に聖
母マリア、左にマグダラのマリア、右に聖ヨハネ。
(このヨハネを小ヤコブの母マリアと解説して
いることがあるが、女性にはヴェールをかぶせるのを常としているし、他の作品での描き方に似
ているので、聖ヨハネだろうと推察される)
34 羊飼いの礼拝
1610 年頃
エル・グレコが多く書いたこの主題の中でも最晩年の作品。陰影が強調され、服の色彩も鮮やか。
天使や牛も含めて、すべての登場人物がキリストを中心に渦を巻いているようである。一番手前
中央でひざまずいている羊飼いは、エル・グレコ本人の自画像ではないかと言われている。
35 カマルドリ修道会の寓意
1600 年頃
隠遁修道会であるカルマドリ修道会に関する絵。二人の人物は、左にカルマドリ修道会創立者の
聖ロムアルド(1027 年帰天、6 月 19 日記念日)、右に修道会規則を最初にまとめたと言われる聖
ベネディクト(480-557、7 月 11 日記念日、全ヨーロッパの保護の聖人)。
36 オリーブ山のキリスト
1605 年頃
エル・グレコ本人ではなくて、その工房の作品と言われる。人物それぞれは彼風だが、タッチは
模倣的。中央にオリーブの木があり、右奥にはキリストを捕縛に来る兵士たちが見える。左上部
の天使は、盃を持っているが、これは、
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせ
てください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」
(マタイ 26,39)の場面。
37 十字架のキリスト
1610-14 年頃
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展覧会には、まったく同じ構図の絵が、37 番と 43 番の 2 枚出品されている。37 番は東京にある
国立西洋美術館所蔵のもので、書かれたのはこちらが後のよう。血なまぐさはあまり強調されず、
不思議な曲線状の体に、穏やかな視線を天に向けるキリストが描かれている。その頭上の札は、
聖書の記事(ヨハネ 19,20)通り、ヘブライ語(一番上の二行)、ギリシア語(真ん中の三行)
、ラ
テン語(下の二行)で、
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれている。右下の馬に乗った人
物たちと、たたんで持っている赤いものは、何かよく分からないが、刑吏らがくじを引いて取り
合ったイエスの上着かもしれない。
38 キリストの復活
1600 年頃
キリストの復活の主題は、多くの作家によって数多く描かれている。しかしながら、聖書の中に
は、この場面の記述は一切ない。マタイの福音書に「大きな地震が起こった。主の天使が天から
降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」とある。この絵も、ドニャ・マリ
ア・デ・アラゴン学院付属聖堂主祭壇衝立(鳴門市大塚国際美術館に復元実物大がある)の中核
作品の一つだと考えられている。
IV 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として
39 巡礼者としての聖ヤコブ
1585-1602 年頃
十二使徒のひとり、大ヤコボ。スペインに宣教に渡ったと言われ、スペインの保護の聖人。聖ヤ
コボがスペイン語で、サンティアゴ。スペイン西部の町、サンティアゴ・デ・コンポステラへの
巡礼や有名。巡礼者としての杖と、肩掛け鞄を下げている。左手に持つのは、書物のようである
が、新約聖書中のヤコボの手紙は、別のヤコボ(小ヤコボ、もしくは別の第三のヤコボ)の作。
40 聖アウグスティヌス 1585-1602 年頃
聖アウグスティヌス(354-430)。387 年(35 歳)で洗礼を受け、395 年(41 歳)にヒポナ(現在
の北アフリカ)の司教となった。絵では老司教として描かれている。
41 聖フランチェスコ
1585-1602 年頃
彼が特別に神から与えられたという、聖痕が描き込まれている。
42 洗礼者聖ヨハネ
1605 年頃
洗礼者ヨハネの足元には小羊がおり、「AGNUS DEI」(神の小羊)と文字で説明されている。新
約の新しい契約のためのいけにえとして自らを捧げるキリストの象徴。ヨハネの服装は、
「らくだ
の毛衣」(マタイ 3,4)
。
43 十字架のキリスト
1600-10 年頃
37 番と同じ構図。こちらの方が色彩ははっきりしている。
44 聖マルティヌスと乞食
1599 年頃
聖マルティヌスについては、21 番参照。ここでは、彼がまさに自分のマントを剣で切り取って乞
食にやるところが描かれている。背景はトレドの風景。
45 福音書記者聖ヨハネのいる無原罪のお宿り
1595 年頃
エル・グレコ独特の画風は見られるものの、1600 年代の作品と比較してやや「おとなしい」感を
受ける作品。天使の羽根などにも、後に見られる躍動感はまだない。聖ヨハネがパトモス島で体
験し、黙示録に書かれている幻視の絵とされるが、それにしてはヨハネが青年のままであるのは
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おかしく感じられる。聖マリアを主題にした他の作品にも見られるように、聖母のシンボルを自
然主義的な背景(画面下部)に組み込んでいる。中央の建物は、ヴェネツィア時代に学んだアウ
グストゥス神殿の模写をもとにしており、聖マリアの連願の中の「黄金の堂 Domus aurea」を表
現しているようである。(解説書に「『聖母マリアの連祷』中の聖母の隠喩の一つである『神の神
殿』」とあるが、これは不正確であろう。)木々は左から大きなオリーブ(シラ 24,14)とざくろ(聖
マリアに当てられる多くの呼称の元となっている雅歌の中に、ざくろは度々登場している。4,13、
6,7 など)、糸杉(雅歌 1,17)とナツメヤシ(雅歌 7,8)。右下には、エリコのバラ(シラ 24,14)
と後ろに茨の中のゆり(雅歌 2,2)
、その背景には、ダビデの塔(雅歌 4,4)
、空には太陽と月と明
星(シラ 50,6-7)。右下の端には、噴水のような泉(雅歌 4,12)。さらに、木々の中を恐れて逃げ
出している蛇も描かれている。
(「無原罪」の主題に関しては、50 番の解説参照)
46 受胎告知
1603-05 年
47 聖母戴冠 1603-05 年
キリスト降誕 1600-05 年
46,47,48 番は、トレドのイリェスカスにあるカリダード施療院の祭壇衝立画。出品されていない
「慈愛の聖母」を正面に、その上部に 47 番の「聖母戴冠」、天井の左右に 46 番の「受胎告知」と
48 番「キリスト降誕」が掲げられていた。見上げた時に通常のプロポーションで見えるために、
「聖母戴冠」は縦に圧縮されたように描かれている。御父の娘、御子の母、聖霊の花嫁として、
三位一体の神から天の元后として冠を受ける聖マリアの様子は傑出した出来。手足の指先がとて
もエル・グレコらしい。キリストと聖母の足の指先が似ているのが母子らしくて面白い。
「受胎告
知」では、聖母の驚きと謙遜、天使の自らは告げる側でありながらも聖母の威厳に打たれている
ような様子が見事に描かれている。活けられた一本のゆりは、
「世界のすべての花の中から、御自
分のため一本のゆりを選ばれました」
(エズラ続編 5,24)を想起させる。
「キリスト降誕」は 34 番
などを踏襲しているが、角の大きい牛がユーモラス。聖母の気品と誇り、聖ヨセフの驚きと神へ
の賛美が感じられる。
49 聖母戴冠
1603-05 年頃
47 番をもとに描いたレプリカだと考えられている。大きさは小さくなったものの、細部の完成度
が少しも見劣りしない。
50 無原罪のお宿り
1607-13 年
展覧会の最後を飾る 3.47 メートルの大作。「お宿り」と表記されているが、日本語では伝統的に
「御宿り(おんやどり)」
。51 番を天井画として、トレドのサン・ビセンテ聖堂内のオバーリェ礼
拝堂の正面画として描かれた作品。画面左下にトレドの街並み。その街を照らす満月は、雅歌の
一節を想起させる。
「曙のように姿を現すおとめは誰か。満月のように美しく、太陽のように輝き、
旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」
(雅歌 6,10)右下には聖母の隠喩。大きく描かれたばらとゆ
りは、この作品のすぐ下に本来置かれたはずの祭壇を飾る花のようになっている。その右側に、
泉(説明前述)と鏡が見られ、聖母マリアの連願の「正義の鑑 Speculum iustitiae」を想起させ
る。その奥には井戸が見られる。聖書の中で井戸は遊牧民であったイスラエルの民にとって貴重
なものとして度々登場する。新約聖書では、サマリアのヤコブの井戸において女性に向かって言
われた「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇か
ない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
(ヨハネ 4,13-14)
というキリストの言葉が思い出され、恵みの仲介者としての聖母マリアの象徴となっている。そ
8
のさらに奥には、黒い海面に浮かぶ帆船が見え、空の合間から星の光が挿しており、
「海の星 Stella
maris」を表しているのだろう。上部の天使たちは、30 番の楽器を持った天使たちとよく似てい
るが、この絵の方が聖母に近く、楽器を弾くのも忘れて聖母に見惚れているように見える。
絵としては、大天使の翼が極端な短縮法で描かれており、V 字型に開いた翼は常にその頂点を見
せ、天使がその軸を中心に回転しているかのような効果をもたらしているのが有名。エル・グレ
コの構図による「動く」絵画の頂点とも言えよう。
この絵の主題が無原罪の御宿りの教義であるなら、聖母の母である聖アンナの胎内に宿られたこ
とを描くはずなのに、なぜ聖母が中心なのかという質問をされた。同じ主題の絵としては、エル・
グレコが亡くなって数年後にセビリアで生まれるムリーリョの作品も有名だが、同じように聖母
が被昇天している姿に見える。答えは二つあるだろう。
1.
「聖母マリア」という代わりに、
「無原罪の御宿り」と言っている。つまり、
「長谷川平蔵様!」
と言う代わりに「お奉行様!」と呼ぶようなもの。現に、ルルドの聖母(1858 年ご出現)は「自
己紹介」で、「私は聖母マリアです」とは言わずに、
「無原罪の御宿りです」と言われている。
2.上記の1に関連するが、
「無原罪の御宿り論争」というのが背景にあるだろう。無原罪の御宿
りは、今ではカトリック教会の信じるべき教義だが、そうなったのは実に 1854 年のこと。それま
では、論争が繰り広げられてきた。何より、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクイナスが、人
類における原罪の例外を認めなかったので、間接的に聖母の無原罪を否定していたことが大きく、
ドミニコ会の神学者たちは(当時は)徹底してこの教義の成立に反対していた。さらに、ルター
の宗教改革、それを受けてのトレント公会議で、原罪について論議がなされた際、反プロテスタ
ントのひとつの象徴として、聖母の無原罪の御宿りの教義の決定を望む請願が多く出されたが、
トレント公会議では決定にいたらなかった。そういう歴史の中で描かれたエル・グレコのこの絵
を「無原罪の御宿り」と呼んだのには、それを主張する民衆や聖職者の意図、あるいは熱意があっ
たからだと想像できる。
絵の内容としては、むしろ「聖母の被昇天」のように思える。そうだとした方が、絵の中の黄色
い服を来た人物(天使の羽根があるような、ないような…)聖ヨハネが登場しているのも説明が
つく。構図や描かれ方も 33 番、45 番と合致する。私見としては、おそらくエル・グレコは聖母
の被昇天として描いたが、上記のような時代背景を受けて、無原罪の御宿りと呼ばれた、という
ことではないかと思う。実際、この絵を「聖母の被昇天」と紹介している資料もある。
51 聖母のエリザベツ訪問
1607-13 年
天井の目立たない場所のためということもあり、簡素な構図とタッチ。戸口に立っているのが聖
エリサベトで、聖母を迎えている。
2012 年 12 月 19 日
酒井俊弘(オプス・デイ属人区司祭)
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