1. - 長崎ウエスレヤン大学

$. 鎮西学院物語
〔1〕
東山手時代
鎮西学院は長崎の東山手で50年、
竹の久保で15年を
1936)
です。
鎮西学院物語をはじめるにあたりここでは、1.鎮西学
過ごし、諫早
(海軍病院跡から中井が原へ)
に移転して
院発祥の地 東山手 秋永
6
0年になります。東山手時代は、
初代校長は C.
S.
ロング
朗読劇「蝶々さん∼ある宣教師夫人の日記から∼」
公演
博士、
第2代校長 W.C.
キチン氏、
第3代校長チャール
にあたって、
3.鎮西学院中興の祖、
笹森卯一郎第1
0代
ス氏、
第4代校長 D.
S.
スペンサー氏、第5代館長 I.H.
院長、4.神を敬い人を愛する人材の輩出 !東山手時
コレル氏、第6代館長 H.
B.
ジョンソン氏、第7代・第9
代の思い出(カブリー英和学校・鎮西学館時代)
(吉岡誠
代館長 E.
R.
フルカーソン氏、第8代館長 H.B.
シュワル
明)、"父・中山福蔵の母校・創立11
0周年に寄せて
(中
ツ氏、
第10代院長笹森卯一郎氏(1
90
6∼1
9
1
1)
、第11代
山太郎)、#東山手・鎮西学院時代の回想(鹿島
院長 F.
H.
スミス氏、第1
2代院長 F.
N.
スコット氏、
第13代
掲載し、東山手時代がどんな時代であったかをご一緒に
院長鵜崎庚午郎氏(1
9
1
3∼1
9
19)
、
第1
4代院長田川精
考えたいと思います。
(注・・宣教師の就任年月日等はⅤ.
一郎氏
(1
9
19∼1
92
1)
、
第1
5代 院 長 川 崎 升 氏
(1921∼
鎮西学院に遣わされた宣教師たちに記載)
薫、2.創立125周年記念・
要)
を
1.
鎮西学院発祥の地 東山手
…東山手は鎮西学院の故郷であり、
私の故郷です…
私の故郷東山手−東山手3番地で生まれる−
秋永
薫
鎮西学院に関わることを少し記してみたい。
その頃ドンドン
古い卒業生は東山手を歩き、
いまなお残る赤レンガを手
坂と呼んでいた舗装された石だたみの急坂があったが6
でなで、
人通りの少ない苔むした石段を踏むのである。筆
番地の下、
亜米利加・コンシェル館と3番英 吉 利・コン
者も同じ気持ちで年に1、
2回訪れている。
というのは本
シェル館の間に引かれた道路がドンドン坂であつて、2番
籍地が東山手3番地であって幼年期から鎮西学院中学
から下方へ延びた道路と交わる点が、
現在の活水女子
部を卒業するまで16、
7年間大正の初めから昭和の初め
大学正門のある位置になる。
まで赤レンガ塀に囲まれた3番館、
白と緑のペンキ塗り洋
館の中で過ごしたからである。
それは、父が鎮西学院高
昭和の初め東山手には4つの私学があった
等部を卒業し、
1
907
(明治4
0)
年から教員として就任、校
−鎮西学院・活水学院・海星学園・東山学院−
宅を兼ねて寄宿舎の別室となっていた3番館に住むよう
になっていたからであった。
安政修好条約により日本国は
1925
(昭和はじめ)
年頃には次のようになっていた。
1、2
開国し、
外国人の入国が自由となった。
長崎では外国人
番は海星中学で7番はその寄宿舎、8、9、
10、
1
1番は
居留地として18
6
0
(万延元)
年までに大浦海岸一帯が広
東山学院(1933年廃校)、3、4、5、6番と1
1番の大部
く埋め立てられたが、
英国・米国・仏国などの領事団は東
分(英国教会礼拝堂跡、
1862年日本で最初に建てられ
山手と南山手の丘陵地帯に主居留地の設定を要求し、
たプロテスタント教会堂で、
歴史的教会であった)
が鎮西
1
8
6
1
(文久元)年に東山手の居留地造成計画と14に区
学院、
12、
13、
14番が活水女学校でした。
朝夕の登下校
画した地割り図面を長崎奉行所に提出したのである。
南
時には4校の男子学生、女学生が石橋の方から、十人町
山手の方は主として貿易商社関係、
東山手は宣教師館
の方から、
あるいは梅か崎、
切り通しの方から石だたみの
や領事館のためのようである。
オランダ坂を行き来したものであった。
昭和の初め頃まで少年期を過ごした東山手について
62
この居留地跡はそっくり、4つのミッションスクールがあり、
東山手の鎮西学院の誕生の由来はこうであった。
187
3
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
鎮
西
学
院
活
水
学
院
海
星
学
園
東
山
学
院
!
鎮
西
学
院
物
語
秋永寿一先生ご一家(東山手3番館)
左側より薫、父寿一、弟一柳繁、
妹久子、
母シゲヤ
(写真:長崎文献社提供)
(明治6)
年に長崎へ渡来した新教メソジスト派の宣教師
英語に興味を持つ数名の希望者を集めて家塾のような教
J.
C.
デビソンは本部を出島に置き、
18
7
5年に聖公会が建
育をデビソンと始めた。
これが鎮西学院の創立のきっかけ
てた出島教会とは別に、
メソジストの出島教会を1
876年に
となった。
「私どもは丁度、
カット
(切り通し)
の上手のウォル
建て、
宣教活動をしていたが、
教育関係にはその専門に
フハウスといって知られていたバンガローに住んでいまし
たずさわる宣教師の必要を感じて、
その派遣方を本部に
たが、事実そこに鎮西学院の端緒は開かれたのです。
最
要請していた。
初の教室となったのは私たちの書斎でした。……。」
これは
その結果、
ラッセル、
ギール2名の婦人宣教師が女子
1931
(昭和6)年に創立50周年を迎えた時に、
ロング博士
教育のために、
ロングは男子教育のために渡来するに至っ
の未亡人が寄せた書簡の一部である。
くしくも、
この16番
たのであった。
1
8
7
9
(明治1
2)
年1
1月に長崎に到着した
館は、活水、鎮西両校誕生の母胎となったところである。
ラッセルとギールは、
デビソンに迎えられて、
切り通しを上っ
以来隣接地にあった両校は密接な関係を保ち、
同じメソ
たすぐ左側の1
6番館に居住、
そこから活水女学校設立の
ジスト派のミッションスクールとして教育を男女それぞれ分
第一歩が初められた。
半年経って、
そこが手狭になったの
担し、日曜日はウエスレー教会でともに礼拝を守り、職員の
で、南山手4番オルト邸
(後のリンガー邸)
に移った。
そし
交流を行うなどして協力し合っていた。
ロングは校地として、
て、
その間に、
イギリス領事館予定地であつた東山手13
4、5、6番地を購入し、
4番地に木造洋風の2階建の
番地を購入し、
校舎の建築にかかり、
1
8
8
2
(明治1
5)年南
校舎を建てたが、
階下を大小の教室2階を遠来の学生
山手から引き揚げて東山手に移った。
のための寄宿舎とした。
床面積5
0坪のもので完成は18
81
(明治14)年10月、
16番館の塾生1
2名を連れて完成した
加伯利英和学校(鎮西学院の前身)の教育はじまる
校舎に入ったのは23日であった。
この日を創立記念日と
−最初の1
2人の生徒の中には倉場富三郎もいた−
定めた。
C.
S.
ロングは任命を受け、夫人を伴って、
1
8
80
(明治
カブリー・セミナリ
(加伯利英和学校)
:
この12名の生徒
1
4)
年4月4日に40日の長い船旅の後、
長崎に上陸、
デ
の中にはトーマス・グラバ一氏の第2子、日本名倉場富
ビソンの迎えを受け、活水が南山手に移って空家になって
三郎がいた。
ロングは校名をカブリー
(加伯利)
英和学校
いた1
6番館に入居した。
この16番館はダッチリフォームド教
と命名した。
それはロング博士夫妻が日本に向け使命を
会の所有する平屋建てで、
18
74年から東北の弘前から
おびて出発しようとしたとき、送別祈祷会が母校テネシー・
移って来た宣教師ウォルフ夫妻が住んでいたところで、
ウエスレヤン大学で開催され恩師カブリー氏未亡人が
ウォルフ邸と呼ばれていた。
ロングは間もなく自宅の1室に
「日本の若い人々に教育をする資金に加えてください」
と
63
!. 鎮西学院物語
いって最初の寄付金銀貨2枚を献げたからであった。心
星側の方に所在していた。
5番館記念碑の隣には鎮西
のこめられた献金に感動し大きな励ましを受け、
それを核
学院創立の記念碑
(198
1年10月2
3日建立)がある。
この
として資金を募り、
ついに開校までにこぎつけ得たからで
5番館の赤レンガを隔てた道の反対側に金海堂という文
あって
「カブリー夫人」
の名を記念したものであった。
5年
房具店があって鎮西、海星の生徒たちが買い物をしてい
後には拡張され、
更に2棟が北側と南側に増築されたが、
た。
さらに道を上ると大きな2階建の洋館、菅沼病院が
すべて2階建で階上は寄宿舎であった。九州各県から
あって奥さんはアメリカ人であった。
大正の初め頃に火災
入学してくる生徒も数多くいたからである。
を起こし灰塵に帰したが、
赤レンガ塀の直ぐ近くに建って
いた木造2階建ての鎮西の校舎と寄宿舎への類焼がお
校名「鎮西学館」
から
「鎮西学院」
となる
−日本人初代院長に笹森卯一郎氏が就任−
校名が鎮西学館と改められたのが1
88
9
(明治2
2)年、
64
おいに心配されたようであった。
かたわらに楠の大木が茂っていて火勢と降りかかる火
の粉を防いでくれたので難を免れた。
筆者は3番館にい
最初の日本人院長、
笹森卯一郎が就任した1
90
6
(明治
て火災を眺め、子供心に火事の恐ろしさを味わったのを忘
39)
年に学制を改め高等部と中学部とし、
5番地から6
れない。
その楠の枝も幹もほとんど焼けて黒く焦げ残った
番地にかけて、
赤いレンガ2階建の立派な校舎を建て、
が、
みずから盾となって類焼を防いでくれた。
この老楠の
校名を鎮西学院と改めた。
惜しいことにこの校舎は2回火
痛々しい姿に何卒生きていてくれよと祈る気持ちを抱いた
災に遭い、
1
9
2
4
(大正1
3)
年∼1
930
(昭和5)
年、
竹の久
のは寄宿舎生たちだけではなかった。
幸いに2年ほど
保に移るまでは、
応急修理の校舎のままで過ごした。
先に
経って新緑を見せ始めた時には歓声を上げんばかりの嬉
述べたドンドン坂を上りつめた正面、
6番地に東山手ウエ
しさでいっぱいになった。
(卒業生の手記・老楠:創立以来
スレー教会堂が建っていた。
1
922
(明治2
2)
年に長崎市
東山手で生徒たちを見守ってくれた楠です。
相当な年齢
内2か所にあったメソジスト教会が合併して銀屋町に中
でした。
その下で昼休み、
放課後のひとときを上級生やク
央教会をつくることになったとき、
出島にデビソンが建てた
ラスメートと語ったものです。
その老楠も校舎が竹の久保の
教会堂の建物を中央教会に移し、教会そのものは東山手
砲台跡に移るとき、新校舎のチャペルのテーブルと椅子に
に移すことになって6番地に建てられたものである。
それは
なりました。
)
出島教会の信者の大部分は活水、
鎮西、
十人女学校の
さらに上れば4番地と3番地の間に、
下の1
2番に通じ
職員や生徒たちであったからである。
日曜日毎に両校の
る石段の道があった。筆者が3番地にいた頃は、
3番館
生徒たちと職員やその家族がこの教会で礼拝を守った。
の裏門入口としてのみ使用されていて、一般に通り抜けは
そして平日には鎮西学院のチャペル行事が行われ、
講堂
できなかった。
3番館の玄関は7番館(当時海星中学寮
としても使用されていた。
この教会の牧師は1
2番地、
現在
が建っていた)
に面するベランダの中央付近にあったので
ラッセル館の所在地にあった旧宣教師館跡に居住してい
この家からは1
2番の方へ下りていくことができた。
あまり人
た。
1
9
3
0
(昭和5)
年に鎮西学院が竹の久保へ移ったとき、
が通らないため、
石段も敷きつめられていた石畳にも苔が
分離して城山教会となり、
活水は改めて東山手教会を構
生えていて、雨の日などは滑りやすかったのを覚えている。
内に置いた。現在ではウエスレー教会堂の跡に大学3号
道の片側には自然石をⅤ字形に組み立てた下水溝が取
館・4号館
(前:活水短大の寮)
が建っているが、
それを右
り付けてあった。
この石段を下りきった左角に洋館が一軒
に見ながら少し進むと十人町へ向かう道と海星高校へ向
あって、
ナパルコフという白系ロシア人が住んでいた。現在
かう道の分岐点にくる。
その少し手前赤レンガ塀に宣教師
左角石垣に碑が掲げてあって、
1
1番地英国教会堂の所
ウイリアムズ住居跡5番館の記念碑がある。
この5番館も
在地跡、9番アンデレ神学校、3番十人女学校の説明
1
8
9
9∼1
9
0
0
(明治32∼3
3)
年頃は鎮西学院の寄宿舎の
がなされている。
英国教会堂はシロアリの被害にあって倒
一部として使用されていた。5番館は記念碑よりももっと海
壊し、空地になっていたのを、
19
19
(大正8)年に鎮西学
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
あ じ さ い
きょう ちく とう
!
鎮
西
学
院
物
語
れ、庭には、
紫陽花・つつじ・椿・爽竹桃・山吹・そのほか
ひいらぎ び
わ
柊・枇杷・柿・杉・楠など奥の方の薮に生えていた。
この3番 地は1930
(昭 和5)年、鎮 西 が 竹の久 保に
移った時に海星中学校に売却したもので、
現在海星高校
の体育館が建てられている。
この3番館に居住した2人
の人物(フルベッキ、
エリザ・グッドール)
と5番館に住んで
いたウイルアムズについて少し記しておきたい。
東山手3番館に居住したフルベッキ
東山手・鎮西学院記念碑
−日本の文明開化に活躍した大隈重信・江藤新平・伊
藤博文らを育てる−
院が購入してテニスコートにしていた。
筆者もしばしばそこ
最初の人は、
ギドー・フリドリン・バーベック
(Vwebeck)、
へ通った。
1
1番と反対の右側石垣の上には鎮西学院歴
一般にフルベッキと発音されている。
彼は日本の幕末から
代の院長や宣教師が居住した6番館が初めの頃は2軒
明治初期にかけて日本の歴史の上で大きな活躍をし、伝
あったが、
赤レンガ校舎を建てたときに−軒は取り除いたの
道者である以上に教育者として日本の近代化のために明
であった。
治政府を援けて大きな功績を残したことでは世間に知ら
れている。
ここでは長崎滞在中のことを記したいのである。
東山手6番館はオペラ
「蝶々夫人」
の発祥の地
−作者の姉は第5代院長 I.
H.
コレル氏夫人−
長崎に到着したのは1859
(安政6)年11月7日で、米
国、
ダッチリフォームド教会宣教師(29歳)
としてやって来た。
第5代の院長 I.H.
コレルも、
この6番館に住み、
コレル
オランダ生まれ、
オランダ語、
ドイツ語は自由に話せたうえ
夫人は出入りの商人から聞いたアメリカ海軍士官の現地
に、
フランス語、英語も解り、工学をオランダで、禅学を米国
妻となり、
捨てられ自決した可哀相な乙女の実話を帰国
で学んだ。夫人は12月29日に到着している。
当時の日本
後、
米国に居た弟のルーサー・ロングに語った。
長崎の話
ではキリシタン邪宗門は厳禁であり、特に長崎では島原の
題をヒントに得て、彼は小説
「蝶々夫人」
を書き上げ、
後日
乱の影響で、
ヤソ教を嫌う風潮が一般に強かった。
市内
オペラとなったものである。蝶々夫人のゆかりの地は東山手
の崇福寺境内の広幅庵に住み、
のちに大徳寺に移り、
日
の6番館である。東山手に建てられた鎮西学院創立の記
本語の勉強にとりかかったが、熱心な数名の書生に英語
念碑にはこのことをも伝えている。
を教授し始めた。
1
9
0
6
(明治3
9)
年に鎮西が購入した3番地と洋館は4
高杉晋作が彼を訪問したのはこの頃であった。
英語の
番地にある寄宿舎と廊下で繋がれて、
そこは職員住宅と
授業と人物の評判が次第に高まり、長崎奉行は、
18
63年
舎生の部屋になっていた。
明治初期にフルベッキ
(後述)
(文久3)長崎英学所
(後の済美館)教師に招聘した。
当
が居住した後は十人女学校があった場所である。
この屋
時、長崎は日本における西洋文化の門戸であって天下の
敷は3
0
0坪位で、家は木造平屋建てで白ペンキ塗りの洋
有志たちの往来が盛んで、西郷吉之助、後藤象次郎など
館で5
0坪位の大きさ、
広い部屋が6つと隣接してメイドの
も訪ねた。
さらに、佐賀の鍋島侯も長崎に学校
「致遠館」
を
ための住宅などがあった。部屋には石炭をたく暖炉、
マント
開設し、彼を英語教師に嘱託した。
ここでも門下生ができ
ルピースがあり、
宣教師達が用いた大きなデ スク、丸い
て、
その中には、大隈重信、
江藤新平、
伊藤博文らがいた。
テーブルさまざまな形の籐椅子、
オルガンなどが残されて
彼らいずれも明治維新に活躍した人物である。
186
9
(明
いて、何かここで生活した人たちの香りが感じられる思い
治2)年に中央政府の招きに応じて彼は長崎を離れて東
がしたのである。建物の周囲は白い小形の玉砂利が敷か
京へ移り、
教育界のみならず国政に関わる多大の貢献を
65
!. 鎮西学院物語
は英語と聖書を教えた。
ホームの女子たちもこの学校で普
通科、英語、聖書の授業を受け、
3番館の中では、
音楽、
家事、洋裁、料理、礼儀作法などみずからの手をとって教
えたが、
服装はあくまで日本髪、和服しか許さなかった。
学
費一切を夫人の私財で賄い、
生徒が婚期に達すると嫁
入り支度までして送り出した。
生徒の収容数は、個人指導
の徹底を期して10人前後であった。
十人女学校と世間が
呼んだのは、
そんなことからであったようだ。
モンドレ師の夫
人が病床にあり、永眠する前の2か月間は彼女が1人で
東山手6番館
看護に当たったのである。彼女の深い信仰から出てくる生
活、高い教養は子女たちに大きな薫陶を与えずにはおか
したのである。彼が長崎へ着いた翌年、
長女が誕生、日
なかった。
1893
(明治26)年75歳で永眠、長崎市目覚町
本で生まれたクリスチャンの子供であるとしておおいに喜
の外人基地に眠っている。
彼女の後継者ハーグェー夫人、
び、
彼みずから洗礼を授け、
日本での最初の洗礼を記念
さらにグリフイン女史が遺志を継いだが、
1906
(明治39)
してその女児に、
エマ・ジャポニカ・フルベッキと命名した。
年に大阪プール女学校と合併した。
その後鎮西学院が入
悲しくも数日で召天した。
稲佐の異人墓地の一角、
オラン
手したのである。
ダ人墓地に眠っている。
その墓碑には
「1
8
60年2月2日
死す」
とある。
5番館に居住したウイリアムズ
−オランダ坂の石畳舗装と漢文で書かれた
東山手3番館に居住したエリザ・グッドール
−十人女学校を開校する−
66
西洋書の輸入−
最後に5番館に居住したウイリアムズについて記したい。
フルベッキの後に入居したのは、
エリザ・グッドール夫人
中国において学友のリギンスと一緒に宣教活動をしてい
(5
8歳)
で18
7
6
(明治9)
年であった。彼女は英国名門の
た C.M.
ウイリアムズは、
リギンスが病気療養のため長崎
出で、
有名な詩人テニソンの従姉妹(姪との説もある)
であ
に来たのに少しおくれて、任命により185
9
(安政6)年6月、
る。
夫君はインド駐屯の英国陸軍部隊の従軍牧師であっ
フルベッキより5か月早く長崎に渡来した。年齢3
0歳。最
たが現職で病没したために夫人は英国に引き揚げるとこ
初はリギンスとともに崇福寺の奥にある広徳院に居住し日
ろであった。船が日本に立ち寄り長崎に寄港した。
そのとき
本語の勉強を始めた。公然と布教することは許されない時
1年前から長崎に来て宣教活動をしていた、ハバート・モ
代であったが、
求める者には聖書を教えた。
日本語の上
ンドレル師に出会い、彼の抱いている宣教の夢を聞かされ
達につれ、
十戒、主祷文、
マタイ伝などの日本語訳などを
て、
非常な共鳴を覚えるとともに心を動かされ、
そのまま長
行い、長崎に在住する西洋人のための礼拝を大徳寺でと
崎に留まる決意をした。
り行ってもいた。
1862
(文久2)年9月に東山手1
1番に英
そして東山手3番地に居住することになった。
彼女はこ
国教会堂(聖公会)が建てられて、
ウイリアムズがそこでの
こで、
信仰篤く教養豊かな近代日本にふさわしい日本子
礼拝を司るようになった。
この教会堂の竣工に伴い、
礼拝
女の育成をめざし、
みずから生活をともにしながら全人教
に来る人たちのために、大浦石橋、切り通し、
梅か崎、十人
育を始めた。
1
8
79
(明治1
2)
年女子塾ガールズ・
トレイニン
町方面からのゆるやかな坂道を完全に石だたみで舗装し
グ・ホームを開設した。
スクールとしないで、
ホームとしたとこ
た。当時、長崎にいた新教徒の西洋人は200名近くにの
ろにその独自性があったのである。
モンドレール卿が1879
ぼっていたので、日曜日の朝ともなると多勢の西洋人が石
(明治1
2)
年に出島教会の隣に開設した長崎英和学校で
だたみの坂道を上り下りした。長崎人にとっては西洋人即
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
オランダ人と呼ぶような時代であったために西洋人が通る
!
鎮
西
学
院
物
語
昭和のはじめまでの東山手の光景を忘れず
これらの道をすべてオランダ坂と呼んだ。
大浦の人たちは
東山手の居留地から眺める長崎の街は、
ほんとうに異
石橋の方から上る坂道を、
切り通し付近の人たちは、
現在
国情緒を想わせる美しいロマンにあふれるものであった。
の活水付近の坂道をそう呼んだのである。
稲佐の山を背景に静かな海に浮かぶ大小さまざまな形の
ウイリアムズが残した大きな功績の一つは、漢文で書か
外国船、
時々姿を見せる外国の練習艦、
その間を縫って
れた西洋文明、
科学書、
キリスト教の書籍の中国からの輸
走る小型の蒸気船やはしけの姿、大浦海岸には電車どお
入であった。中国での宣教活動は日本においてよりも50年
りに面して建てられた米、
英、仏などの各国の領事館が国
も早くからなされていたので、宣教師達によって漢文に訳さ
旗をひるがえし、
その周囲には、商船会社や貿易商社など
れた書籍の出版も多かったのである。
日本へのこれらの
が建ち並び、
ジャパンホテル、
シーメンスハウスの付近には
書籍の輸入は、
リギンスが始めたが彼の帰国後はウイリア
様式の酒場倉庫があった。
夕暮れになり稲佐の山に陽が
ムズが引き受けた。
このことは当時の日本人の知識人が
おちて、美しい黄金の夕映えに薄紫の雲がたなびく頃とも
西洋の事情、
文化に飢え、
これを求める意欲の盛んな時
なれば、
海岸通りを葉巻をくわえた西洋人が犬を連れたり、
代であっただけに非常に喜ばれたことであり、
直接間接、
家族を伴って海の香りを感じながら散歩を楽しんでいた。
日本の近代化に大きく貫献したのである。
彼は長崎にある
見るものすべてが絵のようであった。
外国からの観光船や
こと7年、
1
8
6
6
(慶 応2)
年 米 国に帰り、
18
69
(明 治2)
軍艦が入港すると、人力車が案内を一手に引き受けて、
年に再び来日し、
大阪、
東京において宣教一筋に活躍し
アイ、
ゴウ、
ユー、
ゴウ、
スプテンブル、
テンセン、
ゴウ式の英
た。
彼の高潔な人格に接する者みな心ひかれない者はな
語でガイドを務め、入港した船の国旗を店頭に飾って客を
かったような人物であった。
東山手の狭い居住地に生きた
待つ大浦、能町、石灰町などの商店街を引き回していた。
人数名を紹介したわけですが、
このような日本の近代化の
これは昭和の初め頃までのこと。戦時中から大浦海岸に
時代に大きな貢献をさまざまな形でされ、
立派な足跡をの
日かくし用の倉庫ができ、夏の夕涼みができた海岸の良さ
こされたことを私たち長崎の者、
特に東山手の人たちはお
がまったくぶちこわされてしまった。
洋館も次々と姿を消し、
おいに誇りとすべきことで、忘れるべきでないのではなかろ
自然石の石だたみもアスファルトかコンクリートに変えられ
うか。
つつあるようだ。長崎は長崎たるゆえんは、長崎の歴史に
あり、居留地と繋がった異国情緒にあったのではないだろ
(付記)
新しい地番地の横に居留地の地番地を併記してほしい
今年の初め頃、久しぶりに故郷、
東山手を訪ねたところ、
うか。時代の流れはいかんともできないであろうけれど、何
か惜しいものを失くした思いがしてならない。
本稿は、郷土文芸誌ながさき
「ら・めえる」
1983年刊に特
いつの間にか地番が変更になつていて、
筆者の本籍地で
集10として鎮西学院建学1
03年東山手の追想
(198
4年)
ある3番地の赤レンガ塀に東山手4と表示してあった。
あ
−上‥鎮西学院長
ちらこちら居住地内を歩いてみるとほとんど変わってしまっ
秋永薫先生の了解を得て掲載したものです。
秋永
薫著をもとに編集したものを
ているのに気付いた。
ところが、
1
1番地英国教会堂跡の石
〔鎮西学院第2
2代院長・旧中3
8回卒〕
〔出典:郷土文芸誌ながさき
垣に碑があって、
礼拝堂、
アンドレ神学校、
十人女学校の
「らめいる」
〕
説明がなされているが、
その地番は昔のままの地番である。
観光客は事実と違った地番をその場所だと理解してしまう
ことになり、
歴史上の事実を誤り伝えることになってしまう。
新しい地番の横に居留地の地番地としてそれを併記す
べきではないかと感じた次第である。
67
!. 鎮西学院物語
2.
創立1
2
5周年記念・朗読劇
「蝶々さん∼ある宣教師夫人の日記から∼」
公演にあたって
鎮西学院は、
創立1
2
5周年を記念して市川森一作・朗
読劇
「蝶々さん∼ある宣教師夫人の日記から∼」
を2006
年1
0月21日"長崎市平和会館で公演します。
森
泰一郎
キスト」
をつくりました。
蝶々さんの役には、
オーデションで選ばれた鎮西学院高
校2年嶋田琴子さん、長崎ウエスレヤン大学1年内野絹
ご存知のようにプッチーニによる歌劇「蝶々夫人」
は、
ジョ
ン・ルーサー・ロングの小説「蝶々夫人」
を原作本にしてい
ます。
ロングは一度も日本に来たことはありませんでした。
すべての情報と物語のもととなった話を実姉サラ・コレル夫
人から得ていたのです。
このサラ・コレル夫人こそ鎮西学
院の第5代目館長アービン・コレル氏の夫人だったので
す。
「蝶々夫人」
の舞台は長崎東山手の鎮西学院だった
のです。
市川森一氏は、
こうした事実を踏まえて日本人として初
めて
「蝶々夫人」
の物語をサラ・コレル夫人の目線から展
開した戯曲
「蝶々さん∼ある宣教師夫人の日記から∼」
を
2
0
0
4年度に発表されました。
この戯曲は、
多くの市川作品
の中でも会心の作の一つとの評価を受けました。
年老いたコレル夫人の独白という方を取りながら長崎
東山手にあった鎮西学院宣教師館での蝶々さんとの出会
いから、
蝶々さんの米国海軍士官との結婚、出産そして
コレル館長夫妻
(写真提供:長崎文献社)
蝶
々
夫
人
:
古
崎
博
訳
蝶々さんの自死に至るまでが滔々と語られます。
劇中には
明治末期から大正初期の長崎の人情や風物が巧みに織
り込まれています。
当時の鎮西学院や活水学院の学生た
ちの生活も生き生きと表現されています。
なぜ蝶々さんが
自死を選んだのか、
その訳がコレル夫人の口を通して明
らかになります。
少し大きくいえば、日本人にとって歌劇
「蝶々夫人」
の真
の理解は、
市川作品の
「蝶々さん」
という眼鏡を通すことな
しにはできないのではないかとさえ思われます。
そういう意
味でも日本における画期的な作品といえましょう。
今回の公演では、
主役のコレル夫人の役には、銀幕の
大スター栗原小巻さんが出演します。
栗原さんも市川作
品のこの訳に惚れ込んでの出演です。栗原小巻さんとい
えば、
映画
「忍ぶ川」
の主演で一世を風靡し沢山の
「コマ
68
朗読劇
「蝶々さん」
公演チラシ
蝶々夫人:ロング作
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
子さんが起用されます。
栗原小巻さんとの舞台での掛け
ともあって活水学院も共催していただくことになりました。
こ
合いが見ものです。
の劇の高い芸術性を評価していただきイサハヤ電子株式
演出には、今最も活躍中の演出家高谷信之氏があたり
会社も協賛していただいております。
ます。
高谷さんは、
1
9
96年度文化庁主催の芸術祭でラジ
長崎県、
長崎県教育委員会、
長崎市、長崎市教育委
オドラマ
「枝の上の白色レグホン」
でグランプリを受賞され
員会、諫早市、諫早市教育委員会、長崎新聞社、
西日本
ています。高谷氏がどのような演出をするかも楽しみの一
新聞社、長崎国際テレビ、活水同窓会、
鎮西学院校友会
つです。
から後援いただいております。
長崎では、
本格的な朗読劇の公演です。
昼夜二回公
演となります。
市川森一氏による小説
「蝶々さん」が今年5月から長
崎新聞で毎週土曜日に連載がはじまっています。
連載は
昼の部:
1
4
:
0
0∼1
5
:
30、
夜の部:
1
8
:
0
0∼1
9
:
3
0
きわめて好評です。是非お読みください。
朗読劇をより楽し
入場料は3,
0
00円です。
入場券は、
長崎県内の各プレ
く見ることができると思います。
イガイドのほか鎮西学院校友会の県内各支部でも扱って
いただくことになっております。
この朗読劇には、活水学院の関係者が沢山出てくるこ
多くの皆さんのご来場をお待ちしております。
〔学校法人鎮西学院理事・長崎ウエスレヤン大学学長・新高1
5回
卒〕
〔鎮西学院便り2
0
0
6年5月号より〕
3.
鎮西学院中興の祖、
笹森卯一郎第1
0代院長
笹森勝之助
【鎮西学院生みの親】
鎮西学院は1
88
1年に長崎市東山
代にミッションボードの方では閉校すべしとの意見が出さ
手居留地の中に
「カブリフ学校」
として設立された。
若きロ
れ、一時休業を余儀なくされた。
デビソンらの尽力でようや
ング宣教師が当時のメソジスト長崎教区長デビソン博士
く再開継続が許された。
の協力を得て設立したものである。鎮西学院の生みの親
【卯一郎の経歴】第10代院長、笹森卯一郎(別名、
宇一
はロングとデビソンである。
郎)
は津軽に生まれた。弘前市の東奥義塾
(旧藩校、
のち
ロングはカブリフ学校長を2年勤めた後、
メソジスト長
にメソジスト系のミッションスクール)
を1885年に卒業後、
米
崎教区長
(全九州を管轄)
に転任し、
1
8
8
5年に帰米した。
国インディアナ州のデポー大学に留学、
7年間みっちり勉
ロング院長の後は、
代々米人宣教師が院長の職についた。
強し、哲学士、神学士、哲学博士の三つの学位を得て卒
当時は米国メソジスト教団ミッションボード
(外国宣教局)
業した。
帰国前に米国メソジスト宣教師の資格も与えられ
の全面的な援助下にあり、
校長(現在でいえば院長)
職は、
ている。8年ぶりに帰国し横浜に上陸した笹森卯一郎は、
すべて宣教師の仕事であった。
初代日本人院長が就任
一旦弘前へ戻り、
すぐに長崎へ向かった。出島メソジスト
するまで2
6年間に述べ9名の外国人宣教師が就任して
教会牧師兼鎮西学館教授を任ずる辞令を横浜で受け
いる。
平均して3年くらいで院長は交代している。
生徒数
取ったからである。
も最初は12名からスタートした。
徳川時代の塾とか寺小屋
みたいなものから始まったといってよいだろう。
!
鎮
西
学
院
物
語
明治後期の日本にとって洋行帰り、
ましてや Ph.D を携
えての帰国は大変なステータスであったに違いない。
しか
「カブリフ学校」
はその後「カブリ学校」、
ついで
「加伯利
し笹森卯一郎は栄華の道ではなく、
どうなるとも分からない
英和学校」
と改名、
そして18
8
9年に
「鎮西学館」
と改名し
田舎学校の教師の道を選んだ。
出島メソジスト教会牧会
た。
創立後8年間に3度も改名したことは学校の経営が
の仕事は1年半で他の牧師に譲り、
1895年から鎮西学館
困難を極めていたことを物語っている。事実、
カブリ学校時
の専任教授、
教頭となり、
神学、歴史、英語を教えることと
69
!. 鎮西学院物語
笹森卯一郎院長
2列目左より川!升、中山米蔵、W.L.
キングズベリー、笹森卯一 完成した長崎基督教青年会館
郎院長、F.N.
スコット、M.K.W.ハイカー、奥村福次郎、3列目左よ
り、秋永寿一(重吉)、長嶺弥十郎、古賀千里、上坂哲、田川精一郎、
梶原八郎、齋藤勝喜、佐多猛の各先生方
笹森卯一郎院長と生徒・先生方(旧中16回)
1908年(明治41年)
なった。
教鞭をとる傍ら笹森卯一郎は歴代の米国人院長
校経営者、教育者として優れていた。
しかしその真骨頂は
を教頭、
後に副館長としてよく補佐し、
鎮西学館の発展に
伝道者、教育者としての働きであった。院長として、
長崎キ
寄与するところ大であった。
リスト教青年会(YMCA)理事長として、
牧師として説教を
【訓令1
2号】
1
8
9
9年は全国のミッションスクールにとって大
きな試練の年となった。
その年私立学校管理のための学
熱涙の説教であって、
多くの人を動かしたと伝えられており、
校令が勅命として発布され、
あわせて文部省訓令1
2号な
様々の証言が残されている。
るものが公布されたからである。
これはミッションスクールの
全生徒皆親の如く慕ふ。先生と生徒とは普通の師弟の
根幹をなすキリスト教教育を禁止する内容であった。
建学
関係にあらず、宛然父子の間柄であった。
何か生徒側に
の精神を貫けば法令に基づく正規の学校とはみなされず、
落ち度でもあって先生に呼び寄せらるる様なこともあれば、
国からの便宜供与も受けられない。
上級学校への進学資
恰もお父様に呼ばれて注意深き親切な訓誡を受くる感じ
格や徴兵猶予の特権も得られない、
そうなれば生徒数の
が致して居った。
而して生徒が其非を悔ゐて泣く前に、
先
激減は目に見えている。
青山学院の本多庸一院長他の
生先づ泣いて居られたのであった。
(卒業生、
伊世知九郎、
粘り強い対政府折衝によりこの訓令は骨抜きとなった。
笹
原文のまま)
森卯一郎はこの騒動の中で米国人館長を助け、
私立学
先生は實に熱烈なる情の人なり、火焔の人物なり、先生
校令による学校設立の認可を取り付けた。
これによって鎮
一度壇上に立つや其熱烈なる辯、電火の如き気は聴者を
西学館は日本の教育系統の中に加わり、
今日まで続く学
焼き盡くさんずば止まざるの概きあり、故に満堂水を打ちた
院の歴史の基礎を固めることができた。
それがなければ
る如く、聴者等しく霊光に浴し、毅然として教に入るもの数
鎮西学院1
25年の歴史はありえなかったであろう。
十人。先生の説教中
「火焔の人物」
ほどよく人を感動せし
【中興の祖】
このような働きをした笹森卯一郎は1
906年に
はなしと…(中略)、此時此間先生自から火の焔となり、
霊
第1
0代院長に就任した。
設立も財政基盤もミッションボー
の光に満ち恍惚として吾れ我を忘れたるが如し、
故によく
ドに依存していた中で、
学校経営の最高責任を始めて日
人を感動し又よく鬼神をも泣かしむ。
(卒業生、
後に鎮西学院
本人館長が担うことになった。
笹森卯一郎は早速校名を
教師、
梶原八郎、
原文のまま)
「鎮西学院」
と改称し、制服制帽を定めた。
これらの事を見
君は諸所の集会に臨みて
「火焔の人物」
と題する説教
る時、
ロングやデビソンが生みの親とすれば、
笹森卯一郎
を為して、
盛に霊火に依りて燃ゆる信仰の熱烈なる聖徒の
は鎮西学院の育ての親、
あるいは中興の祖といえる。
輩出せんことを呼號したるが、君は實に其
「火焔の人物」
【火焔の人と呼ばれた伝道者】
笹森卯一郎は、
いわゆる学
70
数多く行っている。熱烈にして単純な信仰に立ち、
論理と
なりし。
(畏友、
菅沼元之助、
原文のまま)
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
鎮西学院の古い寮歌は佐野勝也(1
91
0年、
中学部卒、
後に九州大学教授)
の作詞による。家紋にちなんで
「桐葉
な旅行であった。
卯一郎はすでに病を抱えていた。
病身を
山人」
と号した恩師笹森卯一郎を佐野は寮歌の中で次の
押しての昼夜いとわずの募金行脚は辛い旅であったに違
ように唄いこんでいる。
いない。
しかし次のような感謝の手紙を盟友モットーに宛て
桐の一葉に残してしその露の玉光あり、
火焔の人の勲
を汲みて交わさん友と友(寮歌)
て書いている。
(前略)私がどれ程感謝しているか、
あなたには想像で
【笹 森 卯 一 郎とYMCA】笹 森 卯 一 郎 は、自ら 長 崎
きますまい。私はここ
(シアトル)
から日本へ帰ってしまいま
YMCA を設立したばかりではなく、
日本における初期の
す。
(中略)
あなたが私にして下さったすべてのことに対し
YMCA 活動に深くかかわっている。
て、
この深い感謝の気持ちを言い表す言葉がありません。
英国ロンドンで世界で最初の YMCA
(Young
!
鎮
西
学
院
物
語
代ではない。汽船、汽車そして多分馬車を使った不自由
Men’s
Christian Association;キリスト教青年会)
が結成されたの
は、
1
8
4
4年6月6日のことであった。
その後、
大西洋を越
えて米国に伝えられ、
大きく発展を遂げた。
北米 YMCA 学生部主事 J.R.
モットは、
全世界の学生
キリスト教運動を一つに結合しなければならないとの強い
使命感を抱いていた。
モットは、世界中を精力的に動き回り、
私は人々の救いのために全力を尽くします。
どうかあなたの
祈りの内に覚えてください。
募金目標12000
ドルには及ばなかったが、
卯 一 郎は
11005
ドルの募金を携えて、
11月7日に横浜に着いた。
各
地で報告会を催し、
11月1
8日に長崎駅
(今の浦上駅)
に
降り立った。
半年に及ぶ大旅行であった。
YMCA 会館の建設は11000
ドルではとても不足してい
WSCF
(The World’s Student Christian Federation;世界学
た。国内での募金計画が難航した。
日露戦争勃発の不
生キリスト者連盟)
の結成を成功させていた
(1
8
96年;明
安により、市民の財布の紐が固く閉じられる時代であった。
治2
9年)。
モットの来日を長崎で迎えた笹森卯一郎は、
1
結局、
「長崎基督教青年会館」
が袋町9番地
(現在栄町
週間にわたりモットと行動を共にし、
市内のミッションスクー
3番地)
に完成したのは1906年4月下旬であった。堂々
ルや教会に呼びかけてモットを囲む集会や YMCA 結成
たる洋風赤レンガ3階建ての建物であった。2、3階のほ
会議を次々と開催した。
この結果、鎮西学院を含む三つの
ぼ半分を占めていた大講堂は、
公会堂としての機能を備
学校で YMCA が結成された。
その後、
モットは山口、福
えていた。
事実、
その後、
音楽会や講演会には10
00名を
岡、
熊本、
京都を経て東京へ向かい、
日本学生基督教青
超える市民が押しかけることがしばしばであった。
卯一郎
年会同盟の発足(18
97年;明治3
0年)
に力を尽くし、直ち
自身もたびたびこの公会堂で講演をしている。有名なのは、
に1
5名の中央委員の1人に選ばれている。
「ハレー彗 星の研 究」
と題する講 演 会
(1910年5月)
で
卯 一 郎は、第5回 WSCF 総 会
(1
90
2年8月、
コペン
あった。
75年ぶりに地球に大接近するハレー彗星に人々の
ハーゲン近郊)
に、
第15回世界 YMCA 大会に、
同8月、
不安は掻き立てられていた。
卯一郎は留学時代から天文
オスローそれぞれ日本代表として出席している。卯一郎は
学に関心を持ち、
小型の天体望遠鏡を持ち帰ったほどで
大会出席を機会に、
長崎 YMCA
(1
9
0
2年2月 設 立)
の
あった。
「時は非常の場合とて聴衆は山の如く、
さしもの廣
会館建設を世界に向けてアピールしようという強い志を抱
き会館も入場謝絶の大盛況」
と
『鎮西の友12号』
は報じて
いていた。
1
9
0
2年5月2
8日に長崎を発ち、
東京、横浜、
シ
いる。
アトル、
グリーンキャッスル
(母校、
デポー大学)、
ロンドン、
卯一郎は長崎 YMCA のリーダとして活躍するとともに、
パリ、
ブリュッセル、
ベルリン、
コペンハーゲン、
オスロ、
学生 YMCA および都市 YMCA の両面において有力な
ニューヨーク、
ボルティモアを皮切りに米国東部の諸都市、
全 国 指 導 者 の1人 で あった。
たとえば、
当 時、
学生
ついでインディアナ州・イリノイ州の諸都市、最後に太平洋
YMCA の集会として毎年開かれた夏期学校は、
内村鑑
岸のポートランド、
シアトルとヨーロッパ・アメリカの各地をか
三や海老名弾正、
本多庸一など指導的なキリスト者が講
けめぐった。
今日のように航空路が縦横に開通している時
師を務めたが、卯一郎も講師の常連であった。
71
!. 鎮西学院物語
また、
学生 YMCAと都市 YMCAとが合同し、
一致と
べく伝道者・教育者として駆け抜けた。
その足跡のエッセ
協力を進める柱として創立された日本 YMCA 同盟の設
ンスをここにまとめた。筆者は卯一郎の孫であるが、直接に
立総会
(兵庫県有馬温泉、
1
9
03年)
に卯一郎は本多庸一
は祖父を知らない。祖父を知る父も叔父叔母たちもとっくに
らともに代表として出席している。
天に召されている。
また祖父の資料や遺品は2度の学院
【おわりに】
笹森卯一郎の長崎の生活は1
8年にも満たなかった。
し
の火災、
2度の世界大戦、原爆等の激動の20世紀を経
た今、
ほとんど何も残されていない。
かしその間の働きは目覚しかった。
低迷する学校を初代
元長崎 YMCA 総主事松本汎人氏が資料・文献を渉
日本人院長として立直し、
中興の祖たる働きをなし、今日
を著作された。
著
猟し、
「火焔の人・笹森卯一郎の生涯」
まで存続するミッションスクール
「鎮西学院」
に育て上げた。
者松本汎人、
発行鎮西学院という形で近々上梓される。
牧師として日本メソジスト教会の重鎮たる役目を果たした。
松本氏のご諒解を得てその草稿から相当部分を参照ま
次代を担う青少年の信仰形成と勉学の場を提供する
たは引用させていただいた。拙稿を本編のプレビューとい
YMCA 運動の先頭にたち。多くの若者たちに感化を与
う位置付けでごらんいただけると幸いである。
松本汎人氏
えた。
に厚く御礼を申し上げる。
愛唱聖句
“汝死に至るまで忠信なれ”
(ヨハネ黙示録2
教育者にして伝道者
〔学校法人鎮西学院理事・鎮西学院高等学校校長・新高6回卒〕
章1
0節)
の通り、
44歳の短い生涯を主への忠信を果たす
4.
神を敬い人を愛する人材の輩出
第1
4代・第16代院長田川精一郎氏は、
開校当時の鎮
西学院について次のように記しておられる。
「学院の創立
岡誠明氏、
中山福蔵氏
(子息中山太郎氏−外務大臣)
、
鹿島要氏の思い出の記を記します。
当時は、
キリスト教を理解する者はきわめてまれであった。
欧米の物質文明に対して驚異の目をもって眺め、
外国品
を手に入れては舶来品と言って誇っていたのであるがそ
1)東山手時代の思い出
〔カブリー英和学校・鎮西学館時代〕
吉岡 誠明
の文明の根元に精神文明があることを知らなかった。
かか
私は1889
(明治22)年1月初旬に鎮西学院の前々身
る世相の中に鎮西学院は産声をあげたのである。日本で
であったカブリー英和学校に入学した。
西洋人経営の学
は高く教育を施す学校が西の長崎に存在するとの評判が
校であるので普通の学校以上に万事が整備していると
広がったので、
北は青森、
南は鹿児島から新教育に触れ
思って入学してみますと、
それどころか、
不備でびっくりす
おい
んものと笈
(・
・書物などを入れて背に負う竹で作った箱)
るような寺小屋式の学校であった。
たとえば、服装のような、
を負って長崎に来る者がボツボツ現れたのである」
。
また
制帽もなければ制服もなく、制服らしいものは黒衣でこそな
創立5
0年記念誌には、学院で学び、伝道界・教育界・ま
けれまるでカトリックのお坊さん見たような細長い筒袖のよう
た社会奉仕事業・学会まで国際的地位に立ってわが国
な和服に袴をはき、
しかもその多数はあらずもがな
(・・いっ
の光輝を担える多くの人材を輩出し、
これを精神面の問題
そ無いほうがいい)
と思われたズボン下をはいていた。
これ
として見るときに学院はわが国霊界を牛耳獲る指導者を
は大腿や脚部などの露出しないためであったろうと思われ
多く送り出したと記されている。
伝道界には現在まで60数
る。
しかし学校の規定というのでなく、生徒が随意に着用し
名の伝道者を輩出している。
経済界・政界にも多くの同窓
たものであったようだ。
が活躍されている。東山手時代鎮西学院で学ばれた、
吉
72
体操のごときは珍無類で多くは草履をはき、中には下駄
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
を履いたものもあった。
またまれには靴を履いたものもあった。
!
鎮
西
学
院
物
語
精神的であった。
その一、二の例を挙げれば、
1889
(明治
ひな
そんな身なりで体操に出かけ、
先生はといえば米津佐太
22)年2月11日は憲法発布の当日で、
わが日本は都も鄙
郎という軍人上り、
何でも軍曹か曹長級の軍人さんであっ
(田舎)
も国を挙げてこの日を祝った。長崎においても当日
た。
先生が号令を下すと、生徒中にその号令がおかしいと
は諏訪公園において大祝賀会が催され、種々の催物が
か、
その腕付が変だとかいってクスクス吹き出す者があり、
出た。
当日は例のお諏訪の祭り以上の人出であった。
鎮
先生大喝一声
「笑うべからず」
と叱ってみても、
生徒の中
西の生徒も彼のグラント将軍が長崎を訪ねたとき植えられ
には先生と同級生もあれば、
先生より上級の者もありしこと
たと伝えられている桜樹の附近に陣取り即成演台をこしら
とて、
その威令がなかなか行われなかった。
え、数人の学生が祝賀演説を試みた。二、三弁士のあとに、
それから漢学先生ときたら、山本・田中・足立といって
筒井武二郎君が演台に現れ、演説半ばに至って、
着てい
崎陽三大家の一人、
しかも山本松次郎先生は蘭学にか
た羽織をバラリと脱ぎ捨て、着物も腰から上は脱ぎ捨てた
けてもその方の泰斗といわれなかなかおできになった人で
ので、現われた姿はハッピに胸当ての純然たる人夫姿、群
はあったが、
やはり漢学先生で講義最中3年も醤油で煮
衆たちまち拍手大喝采を博した。
また生徒某が一夜出雲
しめたようなハンケチをテーブルの上に置かれ、
時々その
町辺の怪しい巷を徘徊したということが誰れ言うとなく聞え
ハンケチの上を千手観音が御運動なさるという極めて超
た。
さあ、
そうなると生徒が聞かばこそ、
さっそく数人の者が
俗的の先生であった。
膝詰め談判をして遂に白状させ、学校当局の処分を待つ
数学の先生には慶応出身の優等生井上純三郎先生
までもなく遂に自決退学せしめた。
いま一つは生徒某は東
が御卒業後すぐに東京からお見えになった。
先生、数学に
京辺から来ていた。
この人毎朝洗面に石鹸を使用すると
かけては天才でおありであったが、何といってもまだお年
いう評判が高くなり、
二、三の荒武者がヨリヨリ耳打ちをし
が若かったので生徒中には先生より5つも6つも年上の
てぜひ袋叩きにするとさわいでいた。幸い上級生の某々等
者がいた。
がこれを聞きつけその非をさとしたので彼はようやく袋叩き
信仰方面からいえば、
生徒には十分宗教的の空気にし
の災難を逃れたが、間もなく学校を去った。
たらせ、禁酒禁煙はもとより学校の法度であった。先生の
鎮西学院中興の名校長と称せられた D.S.
スペンサー
中にはキリスト教でない方もあって休憩の時間などには
氏が新たに校長となられ、
カブリー英和学校第1回卒業
スッパスッパとふかしながら、
途上、
生徒に見つけられ、
な
生の光栄を担われた方は、
坂井伊之吉・遠山参良・森泰
んだか決まり悪そうな顔をなさる人もあった。中にはまた窓
次郎の3君で、
坂井・森両君は卒業の後実業方面に向
から顔だけさし出してシガーをふかし、
ここは校舎以外だと
かわれたが、
遠山君は母校に留まり渡米されるまで教鞭を
言い訳をなさる茶目式の先生もあった。
とられた。
礼拝における外来の監督、
伝道局長、
その他知
まず当時はそんな状態であったが、
しかし生徒は至って
吉岡誠明氏のころ
(後列中央笹森卯一郎先生)
名の方の英語演説はもっぱら同君が通訳せられた。
君に
吉岡誠明氏
73
!. 鎮西学院物語
は筒井君のごとき熱弁はなかった。
また田中君のような能
試験はきわめて寛大で、
なんら監視らしきものなく、受持
弁はなかったが、
言語の明晰なること論理の整然たること
ちの先生は任意幾つかの問題を黒板に掲示せられ、
その
になると当時第一流の雄弁家であった。
筒井君が実業界
中3題もしくは4題得意の答案を認め、規定の時間がく
よう せい
に去り、
田中君が夭逝せられたこと、
遠山君が鎮西を去ら
ればこれを教師の卓上に差し出すようにといってそのまゝ教
れたことなどは、
わがメソジスト教会のためことに九州にお
室を去られた。
さればカンニングなどしようと思えばいくらで
けるメソジスト運動のため、一大損失であった。
もできた。
たがいに読み合わすることもできれば、教科書より
1
8
9
0
・
1
8
9
1
(明治2
3・
24)
年頃には、学校生徒もややそ
書き抜くこともできた。
(教科書もそのまゝ机上にもっていた)
の数をまし、
かなり盛んであった。
そのせいか生徒の中より
けれど生徒はいっさいそんなことをあえてしなかった。
彼等
委員を挙げ、
制帽をつくり、
学校の徽章として巴という字を
はカンニングをしてどんなに立派な答案ができても、
それは
用いること。
また、
なるべく靴を用いることなど、
大方生徒の
神の前において大なる罪でありまた学生の恥辱だと思って
自発的申し合わせによって定められた。
文献としては未だ
いた。前に述べた井上先生
(数学教師)
の試験では、
ある
何ら見るものなく、
「文叢」
という月刊雑誌があったくらい、平
時は60点を筆頭に50・40・30とほとんど落第点が多かった
田・松田・永原なんぞという文章のできる同人たちがもっ
こともあった。
ぱら編集した。
印刷はしなかったが毎月予科生の中で皆
の文章を綴じ込んで一冊としたものもあった。
生徒の風紀はいわゆるピユリタン的であった。某教師が
生徒の気風があまり無趣無雅だと思われて、
一夕筑前琵
鎮西学館と改名したのは18
91
(明治2
2)
年のことであっ
琶会を発起された。中には反対派もあったけれどもともかく
たと思う。
これも生徒の中より議がまとまってこれを学校当
も講堂で催されることになった。
ところが琵琶法師があまり
局に進言し採用されたのであった。
調子に乗ったはずみに、
みだらな言葉をはさんだので、
た
英学の先生には斎藤秀三郎先生のような大家もあった。
化学の方面には、
麻生繁雄・渡邊勇太郎という方が1
893
ちまち大騒ぎとなり、琵琶法師に退席を迫まり、某教師おお
いに恐縮して釈明するという騒ぎもあった。
(明治2
6)年頃みえた。
麻生先生の地文学講義はなかな
当時の生徒は弁論が非常に好きで模擬会やら裁判所
か人気があった。
18
93
(明治2
6)
年9月からは、
笹森卯一
の真似やら時々催した。
模擬裁判のように広井君が編笠
郎・高杉栄次郎という新帰朝者がみえた。
双方とも哲学博
を被って法廷に出頭する役目であったが、
何思いけん、
い
士の肩書を有する方で、
前者はデポー大学出身、
後者は
よいよ今夜という間際になって、
どうしてもその役目はいや
ボストン大学出身の方であられた。
両者とも青森県弘前の
だと駄々をこねたため、
仕方なく急に雲仙の加藤君にその
へん けん
御出身で、
「わだくしは」、
「フエンケン」
「フェキセツ」
(偏見
代役を務めて頂いたこともあった。
へきせつ
僻説)
などお国なまりをよくきかされた。
先生方はこういう風になかなか揃っておられたが、
時勢
で、僕はアブラハムになった。爾来、僕はアブラハムのニック
は鎮西に幸いせず、思想界には
「日本主義」
の声高く、
「宗
ネームを頂いたことなどあった。
思えば早や40年も昔のこと
教と教育」
とは矛盾するものとしてキリスト教教育を非議す
となった。
る者あり、
そのために全国にあるキリスト教関係の諸学校
在学中一番困ったことは、
福岡から来ていた沢木君が
は、
少なからぬ打撃を蒙り、
わが鎮西のように、
1
8
94
(明治
米国外国伝道会社書記レナード博士を刺し殺すという騒
27)
年6月には全校生徒を合わせてなおかつ1
0
0名に達
ぎの顛末。簡単に言えば、
レナード博士が日本通信として
しないような不幸な境遇に陥った。
日本人の暗黒面を挙げられた、
沢木君の言分は、博士の
わたしはいつも母校の誇りとしてこれを語るものであるが、
通信は宗教家としてはなはだ不都合である、
というので
私はわが鎮西の生徒たりしこと5年有半、
その間、
学生の
あった。当時僕らは上級生であったので、
これはゆゆしき
癌ともいうべきカンニングなるものをほとんど見たことがな
(軽々しく扱うことができない)
こと、万一まかりちがえば 国
かった。
74
ある時アブラハムがイサクを献ぐる旧約物語を仕組ん
際事件を引き起こすかも知れなかったので、
一方ならず心
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
配した。
よって沢木君を極力諌めてことは穏便に済んだこ
ともあった。
帽・制靴がなかったことを記している。
鎮西学館時代の校長は、
スペンサー博士が最初で、
そ
氏は、
「時には自治というよりもむしろ放任といい得べきこ
の後任はジョンソン博士、
その後フルカーソン博士となって
ともあった。」
といい、
「いまから見れば無制限ともいい得る
いるが、
フルカーソン時代には僕は早や鎮西を去っていた。
ほど『自治』
の訓育方針を執られたもののようであるが」
と
宗教教育はなかなか行き届いたもので、
毎日の礼拝以
いっている。
しかし続けて
「このように任せきりにされると、
生
外に毎夕の祈祷会、
それに一週1回は活水女学校と連
徒の方ではかえって己が責任を強く感じ、
その信頼を裏
合の祈祷会、
また毎月1回、
外国伝導会の講演などあっ
切るものはなかったようである」
と述懐するのである。
て、
宗教的の雰囲気は非常に濃厚であった。
ゆえに鎮西
に3、
4年も在学すれば、
おおかた受洗して信者となった。
!
鎮
西
学
院
物
語
「想出づるまま」
を寄稿して、鎮西学館時代は、制服・制
〔出典:鎮西学院百年史・奥村孝亮短大教授編纂 1
9
8
1年1
0月
2
3日発行〕
私が在学中に、
いわゆるリバイバルが1回起った。
その結
果は非常に恩寵であったがまた悲しむべき結果も伴った。
2)父・中山!蔵の母校・創立110周年に寄せて
中山 太郎
それはほかでもないが、
筒井・広井・永原・青木の諸君が
その反動として自由思想にかぶれ、
ついにメソジストの圏
外に逸し去ったことである。
鎮西学館時代は補充科1年予科2年高等科4年通
計7年の制度であった。
鎮西の当時は、
外面から見れば、
前にも言ったように、
寺小屋式のところもあったが、
内面から
キリスト教を基盤的教育を行うべくアメリカ人宣教師 C.
S.
ロング博士により、
1881
(明治14)年に創立された鎮西
学院が本年1
0月2
3日に創立110周年を迎えられますこと
心からお祝い申し上げます。
この間、貴校がわが国近代化のため多大な貢献をされ、
見ればきわめて進歩的であった。
自由を重んじ理想を重
幾多の人材を各方面に送り出して来たことに、
まずもって
んじた。
また生徒の中には支那の留学生もあればポルトガ
敬意を表する次第であります。
ルあたりの子供も数人いた。
生徒はだいたい九州各地より
私の父中山福蔵は、
1903
(明治36)年春、
アメリカ留学
あつまっていた。
長崎市の人は、
いずれかといえば比較的
の夢を実現するため、英語を修得すべく鎮西学院に入学
少なく、
主として福岡・熊本・鹿児島の諸県下よりあつまっ
しました。
当時 E.R.
フルカーソン先生が院長であり建物
ていた。
これもまた鎮西の一特徴であった。
は1階が教室2階が寄宿舎という非常に簡素なもので
あったそうです。
そんな中で、父はいまでいうアルバイトとし
これはまことに生き生きと、
そして詳しく適確にかつ興味
深く
18
9
0
(明治2
0)
年代の学校の様子を伝えている。
吉岡
誠明氏は長崎県北高来郡真津山村大字久山に、
187
3
て牛乳配達や新開配達をして学資をかせぎながら勉学に
励んでおりました。
その仲間には西岡竹次郎氏
(長崎県知事)
、松永
東
(明治6)
年5月4日に生れている。
18
9
3
(明治2
6)年の
鎮西学院卒業である。
東京銀座教会の牧師を勤め、
19
33
(昭和8)
年4月から日本メソジスト教会の伝導局長であ
る
(在職2年)
。
1
9
4
0
(昭和1
5)
年1
0月1
9日に亡くなってい
る。
!
右の文章は5
0年史の追憶の部に収録されている吉
岡氏の
「鎮西学館思い出」
である。
!
吉岡誠明氏については、
1
96
6年6月1
6日に
「吉岡
誠明牧師追想」
が刊行されている
(三男嚢氏の刊行)
1
93
6
(昭 和1
1)
年1月2
5日 刊 鎮 西 第5
5号にT・M生は
中山福蔵氏のころ 鎮西学館の学生と教員
75
!. 鎮西学院物語
氏
(衆議院議員・文部大臣)
と後年、
結婚相手の紹介者
3)東山手・鎮西学院時代の回想
鹿島
となった川尻正修氏が居られました。
当時鎮西学院の隣りに活水女学校
(ミッションスク−ル)
要
石畳のオランダ坂を上って行くと間もなく左手に活水女
があり、
ここに2
0年後結婚することになる飯田マサがいるこ
学校の校門があり、
そこから、
さらに急な石畳の坂を登りつ
とはもちろん知る由もありませんでした。
しかし、
すでに長崎
めた右手に川崎升院長先生宅があった。
そこを右手に
出島の教会で顔を合わせていたにもかかわらず二人とも、
ちょっと下ったところ左手がわが母校の正門で、
美しい赤
そのことに気づいておりませんでした。
レンガ造りの校舎が長崎港を一望の下に眺められる高台
川尻氏は鎮西学院を卒業後ウエスレヤン大学に学ん
だ後、
ボストン神学校を卒業し、
帰朝後は青山学院に奉
職された人であります。
にそびえ立っていた。
思えば1923
(大正12)年4月今から数えて57年の昔、
100余名の紅顔の少年らが、
希望に燃え入学したのがこ
その後、
父が川尻氏の家に遊びに行ったおり「
、私の大
の懐かしい東山手の校舎だった。
あれから半世紀以上
学の後輩がいるよ」
と一枚の写真
(母がウエスレヤン大学
経った現在、
私も歳、
70を越え、
その間戦争といういまわし
構内で級友と一緒に撮ってもらったもの)
を見せられ、
ここ
い体験を味わったり、
永い人生の間、色々な問題の起伏を
で母を見染めたというわけです。
このとき何か神のご配慮
乗り越えて幸い健在で今日に至っている。
のようなものを感じたと後に父から聞きました。
そして1924
在学5年間の東山手時代を振り返ってみると色々な思
(大正1
3)年3月2
7日、
中山福蔵とマサは結婚。当時福
い出はあったものの、
何せ前述のように永い年月を経てい
蔵3
5歳、
マサ3
0歳でした。
熊本に生まれて、
5歳で父と死別。
鹿児島に移り、
青雲
るため記憶も薄らいでしまったので断片的にでも思いつく
まま書きとめてみたい。
の志を抱いて長崎を訪れ鎮西学院に入学、
上阪し富田
"学院の精神教育のこと
林中学から郡山中学、
第七高等学校卒業、
東京帝大に
我々全生徒は、
正門の左手にあったチャペルに集って
入学、
一時休学し東洋へ渡航、
帰国後卒業、
弁護士とな
毎朝2、
30分間聖書の話をきき神に祈る時間をもっていた。
り結婚。
中央政界をめざし、
衆議院選挙に立候補し当選。
低学年の頃は、正直なところ何だかよくのみこめず、
いやな
その後参議院に転進。一方母マサは衆議院に立候補、当
時間だという生徒も多かったが高学年になるにつれて先
選し日本で初めての婦人大臣となりました。父は政治が飯
生方のキリスト教の説教、聖書の意味などだんだんと理解
より好きであり、
その証拠に、
どんな清貧の中にあっても政
することができた。
治に対する情熱を失なわず、必らず立候補してきたのであ
り、
将に中山福蔵こそ、
選挙一代男でありました。
他の中学校には見られない人格主義の教育を受けて
いたことが、卒業後の実社会の生活に大なり小なり役立っ
生前、
母マサともども、国のため、人のため奉仕出来まし
ていたことを感謝している。現在の受験競争一辺倒の潤
たのもひとえに鎮西学院に籍をおいたおかげであり神のお
いのない中学生の生活で校内暴力、
親子間の暴力など
導きであったと心から感謝を致しておりました。
私と正暉も
いまわしい風潮をきくときいかに精神教育としての宗教教
現在そろって国政に参画しておりますのも父が鎮西学院
育が必要であるかを痛感する。
で学ばせて頂いたからこそと思っております。
結びに当り、
なお、
私が忘れることのない言葉として、
いまだに耳朶に
貴校の限りないご隆盛とご発展を衷心より祈ってやみませ
残っていることは、西郷南洲の
「敬天愛人」
という言葉すな
ん。
〔当時外務大臣〕
わち、神を敬う心は人を敬う心であって人を敬うゆえに人を
愛する心だということを、
川崎院長先生の修身の時間に
中山福蔵氏は、
鎮西学院校友会関西支部長として御尽
力頂きました。
〔出典:鎮西校友第30号・1991年9月10日発行、創立110周年祝辞〕
76
色々な宗教的の話のなかに教えられたことであった。
#校舎焼失のこと
忘れることのできない大きなショックは、
1924
(大正13)年
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
!
鎮
西
学
院
物
語
部活動
寄宿生活
バイブルクラス
(ホイラー先生、秋永寿一先生)
東山手校舎裏門
19
1
1年火災後改築された校舎
運動会
東山手校舎正門
鹿島要氏のころ ウエスレー教会前で
の寒い冬の2月6日の朝、私たち1年生も間もなく終らん
用したバラック教室が出来上ったので、
我々は卒業までの
とするとき、
当時私は長崎港外の深堀から汽船通学して
4年間をこの教室で授業を受けた。
この復興の機会に将
いたが、
学校に早朝登校してみたら赤レンガの校舎本館
来発展を期し、東山手から浦上竹の久保への移転計画
が見るかげもなく焼失しているではないか。
まったく茫然自
がすすめられた由である。
失してしまった。
!古賀“鬼”先生
その翌日だったか全校生徒が校庭の楠の木の下に
本名は古賀千里先生だが恐らく何代か前の先輩らが
集って学生大会を開き、
5年生の某先輩が立って
「学院
つけたニックネームを継承したものであろうが、
“鬼”先生は
の建物は焼失したが我々鎮西魂は亡びないぞ、
我々はお
旧式の学校教練の先生で顔は鬼どころか童顔で気性は
おいに立ち上って一致団結、
復興に努め学業に励もうで
さっぱりした先生であった。
生徒の躾にはじつに厳しく、悪
はないか」
という意味の声涙下る激励演説を行って、
我々
いことでもするとひどく叱られ拳固が見舞ってくるので、
この
一同ともども涙をのんで決心したことを思い出し、
昨日の
点で鬼のようにこわがられた。
できごとのように印象深いものがある。
教練の時間、
寒い冬など校庭の楠の木の下に整列さ
幸い雨天体操場や寄宿舎、
チャペルは残ったので応
せられ、
まず服装検査からはじまる。当時の海軍の水兵さ
急措置として雨天体操場や寄宿舎の一部を教室として
んが着けていたボタンをかける白いゲートルを我々も着け
授業ははじめられたが、
やがて本館焼跡の赤レンガを利
ていたが、
そのボタンがとれたり外れたりしていないか、制
77
!. 鎮西学院物語
服のポケットに煙草の粉が入っていないか、
(学校ではもち
1923
(大正12)年4月入学した100余名のクラスメイトも、
ろん禁煙だったが隠れて喫煙する生徒もいたので)
小銃
1928
(昭和3)年3月卒業の時は80余名になっていた。
の手入れは充分かなど厳しい検査が一通りすむと、
銃を
その後社会に出て50年余、
70歳を迎える現在、
今度の大
かついで長崎港口の戸町附近まで駆け足行軍をやらさ
戦で戦死したり病没したりで卒業時の半数の40名位が生
れよくアゴを出したものだが、
厳しかっただけに思い出もな
き残り健在である。
親しかった生存者、
物故者の2、
3名
つかしく残っている。
を挙げると、
$寄宿舎生活
"長崎高商を出た古賀武雄君は現在長崎に住み、
病後
私は卒業前の1か年間寄宿舎生活をした。
この建物は
ながらクラス会の世話人をやってくれている。
先年私は
1
9
1
0
(明治4
3)
年の本館火災の時に一部教室に使用され
嬉野温泉でのクラス会に、東京から参加し、
50年ぶりに
たそうで、それ以前に建てられたもので相当古い建物
旧交を温め楽しかった。
だった。
"東京には、8名のクラスメイトがいて、
東山手の楠の木
ちな
舎監は例の古賀
“鬼”
先生で同じ建物の一室に独りで
に因んで老楠会と名づけ、
私が世話人となり年1回集
住んで居られた。
起床、
点呼、
消灯など規律正しく行われ、
まっているが、
だんだん病人が出はじめ集まりも淋しく
夜必ず1回自習時間には各部屋を巡視して回り、
そのと
なった。
き友人と集って雑談でもしているとコッピドク叱られたもの
"東京外語を出た上戸昇君は北海道・札幌に在住、先
であるが、
“鬼”
先生の夜の顔は昼とちがって柔和な一面
年彼の地で会ったがクラスメイトが一人もいなくて淋し
があった。
いと言っていたが健在だった。
4年と5年生の両年、
我々のクラス主任で慈父の如く
面倒をみていただいた秋永寿一先生も寄宿舎の別棟に
所在不明で一時は死亡説も出ていたが病気勝ちなが
舎監長として御一家と住まわれていた。
時折、
バイブル研
ら諫早市に在住。
究の催しなどで、
先生宅を訪問して色々なお話をきく機会
"日大を出た末永達弥君は先年上京して再会したが、
があってなつかしい思い出である。
心の温かい親しみや
博多に在住し未だ髪も黒々として現役で活躍していて
すかった先生も我々卒業後間もない1
93
2
(昭和7)年に、
頼もしい。
(校友会福岡支部長でもあった。)
4
9歳の若さで急逝されたことはまことに惜しみてもあまりあ
"東山手の寄宿舎で一緒に生活し、
試験の前夜など消
ることで母校のため一生を捧げられた恩師を懐い、
改めて
灯後抜け出して遊びに行っていた豪傑大竹正巳君は
御冥福を祈る次第である。
五高、京大を出て戦後台湾から引き揚げ、
長崎で寿し
%その他の思い出
店を開き自らハチマキ姿で寿しを握っていた変り種、
私
イ 運動部には剣道・柔道・野球・庭球・陸上競技等
#
も一度訪ねて激励したが惜しくも先年病没。
の各部があってそれぞれ活躍していたが特に剣道・野球
"早大を出て長崎で活躍していた大野寅之助君は、
昔
などずばぬけて強かったように記憶している。当時は部費
から元気者で、
母校の校友会長をしていたが、
惜しくも
などほとんどなく体育後援会などもちろんなかったが、
よく
病没。
自力で練習を積み、
私も陸上部の選手として県下の中等
1928
(昭和3)年の卒業生鹿島
要氏
(在東京・元日
学校体育大会に出場したり、
また応援に若い血を燃やし
本曹達専務)
の回想は、東山手時代の終わりを知っておら
ていた。
れる卒業生でしたので東山手時代のみならず大正時代
ロ 冬の一日、
全校生徒で茂木あたりでの豚汁会、雲
#
仙での発火演習など若き日の楽しい思い出として残って
いる。
ハ クラスメイ
トの動静
#
78
"長崎薬専を出て満鉄勤務していた浜崎長太郎君は、
そして昭和にかかる頃の学院の状況をよく知ることができ
る内容でしたので引用しました。
〔元日本曹達専務・旧中3
7回卒〕
〔出典:鎮西学院百年史 1
9
8
1
年1
0月2
3日発行〕