ウクライナ人の歴史認識と縁故主義 - ウクライナ問題の真相‐「ウクライナ

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義
歴史認識問題は、当たり前のことだが、東アジア諸国の専売特許ではない。ウクライナ
も歴史認識をめぐってロシアと熱い論争を繰り広げている。自国をロシアと差別化したい
ウクライナの歴史認識は次のようなものだ。ウクライナは九世紀から十三世紀初めまで存
続したキエフを都とするルーシ国の正当な後継国家である。不幸にしてモンゴルに滅ぼさ
れてしまうのだが、それまでルーシ国は西欧と盛んに交流して密接な関係を結んだヨーロ
ッパの大国であった。その証拠に、ルーシ国の中興の祖で賢公と尊称されるヤロスラフ
(1054 年没)の娘はフランス王の妃になり、息子にフランスで初めてフィリップという先
祖(ヴァイキング)伝来の名前を付け、その名は今に至るもフランスで盛んに使われてい
るではないか。それに対し、「ロシア人を引っ搔けば(一皮剥けば)
、韃靼(タタール)人
くびき
が現われる」と言う通り、モンゴルに支配されていた「タタールの 軛 」の時代にロシア人
はモンゴル人やタタール人(チュルク系の民族一般を言う)と混血してしまった。モスカ
ーリ(ロシア人に対する蔑称で、
「モスクワ野郎」と言った語感がある)はタタールとの混
...
血なのだ。従って、ロシアは永遠に野蛮なアジアの専制体制から逃れられない。文明的で
民主的なヨーロッパに属するウクライナとは根本的に異なっているのだ。
日本では「植民地にして悪いことをした。しかし、日本も良いこともしているのだ」と
でも発言しようものなら、半島の方から、また、あろうことか国内からも「妄言だ!」と
非難の嵐が吹きつけ、せっかくの大臣の椅子を棒に振った政治家を何人も見てきた。かの
地でもこの種の妄言騒ぎは頻発するが、その場しのぎの事なかれ主義で大臣の首をすげ替
えてきた国とは、だいぶ様相を異にする。
2010 年 6 月と言えば、前回の 2004 年の大統領選挙では「きたない選挙」を糾弾されて
再選挙に持ち込まれ結局は敗北を喫した「親露派」のヤヌコヴィチが今回は見事「学習」
して、OSCE(欧州安全保障協力機構)初め西欧側の監視員がこぞって認めた「きれいな
選挙」の結果、ライヴァルのティモシェンコ首相を破ってウクライナ第四代大統領に当選
して、
「親欧米派」のユシチェンコから政権を引き継いで間もなくの頃である。当時も現在
(2015 年)も駐ウクライナのロシア大使はミハイル・ズラボフであるが、この役職は前年
まではエリツィン大統領の後継として一時はプーチンより有利な立場にいたチェルノムイ
ジン元首相という大物が務めていた。ズラボフも厚生大臣に就任したことのある、それな
りの経歴の持ち主である 1)。その大使の新聞に掲載されたインタヴュー記事が歴史認識に
関わる「妄言」に当たるとしてウクライナ社会に憤激の嵐を呼んだのである。大使はこう
発言したという。
私は信じて疑わないのだが、私たち(ロシア人とウクライナ人)はただ単に兄弟の民
族ではなく、同じ一つの民族なのだ。それぞれのニュアンス、それぞれの特徴があるも
1)
ズラボフ大使は、2014 年の内戦勃発後の和平会談であるミンスクでの「三者連絡グループ」会議の
ロシア代表を務めている。
1
のの、一つの民族なのだ。
この駐ウクライナ・ロシア大使は別の席でも同一民族説をぶっているから、これが元来
の持論なのである。大使はさらに次のように付言し、火に油を注ぐかのように「妄言」を
補強している。
大祖国戦争(第二次世界大戦)後にソヴィエト民族 2)は一つになった。共通の敵(ナ
チス・ドイツ)に対する戦いが住民を結束させて一つにしたのだ。従って、私たちは同
じ一つの民族なのだ。まあ、好きに取ってもらって構わないが。
これは典型的なソヴィエト時代の論拠の一つであり、現在でもこのような言説がロシア
国内の一部で大手を振ってまかり通っていることは事実である。しかし、このロシア・ウ
クライナ同一民族説はソ連時代においても正統から外れたもので、ロシア人・ウクライナ
人・白ロシア(ベラルーシ)人は同じ東スラヴ族に属している兄弟民族であるというのが、
いわば常識化していた公式の見解だったはずである。それであればなおのこと、れっきと
した独立国家となって二十数年を経ている赴任先のウクライナにおいて大使が発言する言
葉では絶対にない。
ここでロシア国内の最近の傾向についてあらかじめ断わっておく必要があると思うのだ
が、最近の世論調査をみると、大変意外なことに、ロシア・ウクライナ同一民族説どころ
か兄弟民族説も次第に数を減らしているのが現状らしい。
下に全ロシア世論研究センター(WCIOM)が 2014 年 5 月 22 日に発表した世論調査結
果 3)を示す。
ロシア人には「兄弟民族」が有ると思いますか?(%、単数回答)
有る
「兄弟民族」
なんて無い
分からない
全世代
18~24 歳
25~34 歳
35~44 歳
45~59 歳
60 歳以上
75
67
74
75
77
79
18
24
20
18
16
15
7
10
6
7
8
6
たしかに「ロシア人には『兄弟民族』が有る」と思っている人が絶対的多数を占めてい
2)
民族と訳した原語は народ(ナロード)で、英語の people とほぼ同じ用法。従って、ソヴィエト人
ともソヴィエト人民ともソヴィエト民族とも読める。ソヴィエト民族などありはしなかったのだが、未
だにあるかのような幻想を抱いている者もいるのだ。このソヴィエト民族という概念は、中国の習近平
が近ごろ頻繁に言っている中華民族なるものと瓜二つである。ソヴィエト民族にせよ中華民族にせよ、
この言葉自体の虚妄性を明確に即座に理解できるのは、民族という言葉を発明し使いこなしている日本
人以外には無いであろう。逆に言うなら、日本語の影響を受けた国以外では、中華民族なる言葉は翻訳
不能、意味不明、従って理解不能なのである。
3)
http://wciom.ru/index.php?id=268&uid=114833
2
るものの、私のようにソヴィエト時代の常識に慣れ親しんできた世代の者には少々驚きの
結果である。
「兄弟民族」であると考えている人が、全体で四分の三、若者の間で三分の二
しかいないのであるから。ソヴィエト時代にはほぼ全員が「有る」と答えたであろうし、
そのように教育されていたはずである。そもそも当時はこんな質問すら、ありえなかった
であろう。それにロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人が同じ東スラヴ族に属し近親の
関係にあることは色々と学問的に立証されている。となると、回答者の中にはそのような
学説は承認するとしても、ソヴィエト臭の強い「兄弟民族」という言い方に反発を持つ人
も一定数存在するであろうし、また最近の事件を見るにつけ「ウクライナ人なんか兄弟民
族であるものか」と反発している人がいるのかもしれない。とにもかくにも、ソヴィエト
時代は「今は昔」なのである。
次の設問はより具体的である。
具体的にどの民族を「兄弟民族」であると考えていますか?(5 つま
での複数回答可、前の質問で「有る」と答えた人を 100 とした場合)
ベラルーシ人
79
ウクライナ人
66
カザフ人
14
8
ロシア連邦に住む民族全部
(以下略)
「ロシア人には『兄弟民族』が有る」と思っている人でも、
「ウクライナ人は『兄弟民族』
である」と考える人は、その内の約三分の二なのであるから、全体のおよそ半分しか「ウ
クライナ人は『兄弟民族』である」と思っていないことになる。国境を隔てること二十数
年を経れば、意識は確実に変わるのである。兄弟民族説ですらこの通りであるのだから、
ズラボフ大使の同一民族説はロシアの中でももはや絶対的な少数派となっているのが実情
である。
さて、先ほどのロシア大使の「妄言」に対するウクライナ側の反応であるが、当然のこ
とながらウクライナ各界から猛反撃の火の手が上がった。まず反論の音頭を取ったのは、
当時は親欧米派のティモシェンコ・ブロックに属して最高会議副議長を務めていたミコ
ラ・トメンコ(1964 年生)で、下記のように反駁している 4)。ちなみに当時は大統領と首
相が親露派であったのに対し、議会の多数派は親欧米派が制していて、複雑なねじれ現象
が起こっていた時代である。この二年後の 2012 年の議会選挙で大統領派が勝利し、ここ
からヤヌコヴィチ本来のファミリー利権政治に余計歯止めが利かなくなるのである。
政権が(ユシチェンコ大統領からヤヌコヴィチ大統領へと)替わってから、ウクライ
4)
https://focus.ua/country/125562/
3
ナに対するロシアの政治エリートの態度は激変し、今やウクライナ国家の存在の根幹に
疑問を呈し始めている。彼らは連邦制を導入し、二つの言語・二つの文化の国家を建設
せんとする反憲法的動きを主導している 5)。いや、ズラボフの発言は、単に反憲法的で
あるに留まらず、どんなに控えめに言ってもウクライナ人の民族的尊厳に対する侮辱で
ある。きっと次にはこう言い出すに違いない。
「ウクライナ人とロシア人は同じ民族なの
だから、二つの国家は必要ない。一つあれば十分だ。なにせ、一つのソヴィエト民族を
擁したソヴィエト連邦もこの原則に則っていたのだから」と。このような発言をする外
交官は、最小限、我が外務省に招聘し、啓蒙的再教育を受けてもらう必要がある。
もう一人、ソヴィエト時代からの筋金入りの民族主義運動の長老ステパン・フマラ(1937
年生)の反論を聴いてみよう。6)
シ ョ ー ヴ ィ ス ト
ロシア大使は典型的なロシアの超愛国主義者としてウクライナの言語・文化・民族の
存在を否定している。ウクライナ民族の存在すら認めようとしないのだ。彼の言明は、
ウクライナ各人の名誉と尊厳を侮辱する常套の反ウクライナ的挑発行為である。大統領
は即座にクレムリンに大使の更迭を要求し、もしロシア政府がこのスキャンダルの火を
......
文明的な方法(傍点は筆者)で消そうとしないなら、ウクライナ保安庁はズラボフを
ペ ル ソ ナ ・ ノ ン ・ グ ラ ー タ
好ましからざる人物と宣告し、直ちにモスクワに送還すべきである。
これらは、ウクライナの世論の支持を背景とした親欧米派の典型的な主張である。たし
かにこの種のソヴィエト時代の言説に基づく放言を平然とする人物は大使として不適切で
あろう。従って、ウクライナ側がこのように警戒的な、少々被害妄想的で大げさな反論を
するのも分からぬではない。しかし、ロシアは日本と違って「妄言」の主の首をすぐにす
げ替えるようなヤワな国ではない。
当時と今とではウクライナの国内状況は一変してしまっている。しかし、考え方の基本
は当時も今もまったく変わっていない。
さらにズボロフの「妄言」発言の数日後に『新地域』という通信社の記者が何人かの人
民代議員(最高会議と称するウクライナの一院制議会の議員は、ソヴィエト時代と変わら
5)
トメンコは憲法学者を称している。憲法では「ウクライナは単一制(unitary)国家である」
(非連邦
制)、「ウクライナ語が国家語である」と規定されている。この二年後の 2012 年にヤヌコヴィチ政権は
「地域語(具体的にはロシア語)を母語とする住民が 10%以上を占める地域においては、その地域語に
国家語であるウクライナ語と同等の地位を認める」とする言語基本法をすったもんだの末に最高会議で
成立させた(ただし、ぐちゃぐちゃドロドロのウクライナのことであるから、この種の法律が成立して
も、早急にそれに伴う具体的な施策が効果的に実施されることはまずない)。2014 年 2 月の政変直後に
最高会議はこの殆ど有名無実の法律を廃案とする決定をあまりにも性急に採択した(ただし発効はして
いない)。これを東部の「分離主義者」は自分たちへの宣戦布告と解釈したのであった。
トメンコは、ユーロマイダン後にはポロシェンコ・ブロックに属して大統領補佐官に就任するも一年
ほどで辞任し、現在は大統領与党クからも離脱している。
6) http://rus.newsru.ua/ukraine/17jun2010/xmara.html?page=0.
4
ず未だにこう呼ばれている)の反駁をまとめて掲載している 7)。
まずは後にユーロマイダン(EU との連合協定調印を棚上げしたヤヌコヴィチ大統領に
反対する調印支持派の大衆運動。キエフの独立広場で展開された。マイダンはウクライナ
語で広場の意味)の立役者の一人となるアンドリー・パルビー(1971 年生)の所説から。
若き日に右翼過激派の現自由党首チャグニボクと共にウクライナ社会民族党を創設した経
歴の持ち主であるパルビーは、当時はユシチェンコの「我らのウクライナ」党の人民代議
員だった。のち、2012 年の議会選挙では今度はティモシェンコ・ブロックから選出の人民
代議員。2013 年秋からのユーロマイダンでは自衛団の司令官として大活躍した。このユー
ロマイダンの輝ける司令官が、元々どういう考えの人間であるか、興味津々!
ウクライナとロシアとの相違点を挙げれば、第一に歴史である。ウクライナの方がは
るかに古い歴史を持っている。キエフ・ルーシがヨーロッパ大陸の大国の一つであった
時代に、モスクワ公国の領地には森と沼しかなかった。
第二は文明の違いである。
ウクライナはスラヴ国家であるが、一方のロシアとなると、
これは雑多な民族と文化のごた混ぜである。ロシア連邦の大部分がアジアの地にあるで
はないか。
第三は、ウクライナが単一制国家であるのに対し、ロシアは連邦制を採っている。つ
まり、両国民は異なる原理に基づいて暮らしているのだ。
第四は、言語が違う。たとえば、英語のワイフに当たる言葉は、ウクライナ語では
ド
ル
ジ
ー
ナ
ドルーク
ス プ ル ー ガ
дружина で、друг (友の意味)に由来する。一方ロシア語のсупруга という言葉は
ザ プ リ ャ ガ ー チ
запрягать(馬車に馬を繋ぐ)に由来する。これは両国民のメンタリティーの違い、女
性への態度の違いを反映しているのだ。
ウクライナは領土も生活様式もヨーロッパであるが、ロシアはアジアである。これは
政治面にも反映し、我々がヨーロッパ的国民主権に惹かれるのに対し、ロシア人は権威
主義に慣れ親しんでいる。従って、我々は事を平和的に進めることができるが、ロシア
人にはそれが不可能なのだ。我が国のマスコミは自由だが、ロシアには公的な立場しか
ない。と言ったわけで、全ての指標において両国民は別人なのである。
なるほどと思う。群衆を前にしたアジ演説がいかにも得意そうで、大衆運動の指導者に
はぴったりなのだろう。確かにロシアは昔も今も権威主義の横溢する国であり続けている
ものの、その由来は専らロシアがアジアの国であるからとまで言われると、アジアの東の
端に住む我々としては鼻白まざるを得ない。その他の所説も、ここでは一々コメントしな
いが、ロシア憎しの気分が漲った勝手な屁理屈に近い。しかしながら、現在ではこのよう
な吾が仏尊しの雑駁な主張がウクライナの当局者にも大多数の国民にも蔓延し、東部地域
を除きほぼ全国を覆いつくしてしまった感がある。
7)
http://newsland.com/news/detail/id/521249/
5
繰り返しになるが、
「ヨーロッパは文明国であるが、アジアは野蛮国である。ロシア人が
アジア人であるのに対して、ウクライナ人はヨーロッパ人である。ウクライナはその野蛮
なロシアに長年に亘って抑圧され、ひどい目に遭ってきた」というのが、ウクライナに広
く流布した「公式」の歴史認識なのである。ヤヌコヴィチ政権に対する反政府運動が親欧
州のユーロマイダンと名づけられ、
反露を叫んで盛り上がった理由もここにある。
これを、
尊王攘夷ならぬ尊欧攘露運動とでも名付けることができるかもしれない。
ここで「ウクライナはヨーロッパの大国であったキエフ・ルーシの正統なる後継国家で
ある」、
「ウクライナは文明的なヨーロッパの国であったのに対し、ロシアは野蛮なアジア
の国である」というウクライナ人の主張する二大公理について簡単に検討してみたい。
ルーシ国の歴史を少し調べてみれば、専らウクライナだけがその正当な後継者であると
いう主張は極めて不利であることが一目瞭然である。モンゴルに攻め滅ぼされるかなり前
からルーシ国は内部抗争や遊牧民の襲来で国が乱れ、支配者が頻繁に交代するキエフは荒
廃し首都の機能を果たせず、すでに国の中心は東北のモスクワ地方に移っていた。現在モ
スクワに行くと「黄金の環」と称する近郊都市をめぐる観光ルートがあるが、そのロスト
フ、スーズダリ、ウラジーミルという古都が当時の中心地だったのである。モンゴル軍の
侵攻の経緯をみると、モスクワ地方の攻略には本格的な征討軍を派遣しているが、キエフ
やガリツィアの攻略は欧州遠征途次の行き掛けの駄賃といった印象が濃い。
ルーシ国の支配者は大公位から小さな分領国の公に至るまで開祖リューリクの血縁の一
門に独占されていた(チンギス統原理ならぬリューリク統原理が貫徹されていた)。キプチ
ャク汗国の隷属下でもモスクワ地方ではそのような支配体制が維持されたのに対し、現在
のウクライナ地方ではモンゴル襲来後も命脈を保っていたガリツィヤ・ヴォルイニ公国も
早くも十四世紀初めにはリューリクの血筋が絶え、公国も間もなく消滅してしまい、長年
に亘ってリトアニア、次いでポーランドの支配下に入るのである。一方、東北地方ではリ
ューリク一門を支配者とする公国はいくつも存続し、
その中でモスクワが頭角をあらわし、
徐々に「タタールの軛」を脱して自立しつつ、モスクワ大公国として他の公国を圧倒して、
十六世紀末までにはほぼ統一を成し遂げ、リューリク朝はかのイワン雷帝の子の時代で断
絶するまで続く(オペラで知られるボリス・ゴドゥノフの時代を経て十七世紀初頭から帝
位を襲うロマノフ朝の初代ミハイル帝の父フィラレト総主教は雷帝の子と従兄弟の関係に
あるからリューリク朝と全く無縁ではない)。
「アジア的変質」の経緯は別として、正統性
を問うなら、
「いくら美しい伝説で潤色しようと、どこの馬の骨とも分からぬザポロージ
ェ・コサックを民族の中核に据えざるをえないウクライナと比べ、ロシアこそがルーシ国
の由緒正しい後継国家に相応しい」という主張の方がはるかに分がある。
ロシアがキプチャク汗国の支配下にあった「タタールの軛」の時代、史上最大の版図を
誇った広大なモンゴル帝国の地域をヨーロッパ人は大タルタリア(Tartaria Magna)と呼
んだ。西征のモンゴル軍は陣営に多くのチュルク系の兵士を抱えており、それがタタール
6
人と呼ばれていて、その名に由来する国名である。ところがこのタルタリアによく似た言
葉にギリシャ神話のタルタロスがあり、タルタロスは冥界よりなお下にある暗黒界のこと
で、日本でなら地獄の中の地獄といった感じであるから、タルタリアという言葉にはおど
ろおどろしいイメージが纏いつくこととなった(例えばフランス語ではタタール人もタル
タロスもどちらもタルタル Tartare。タルタルソースの語源でもある)。
一方古くから西欧と交流の深いカトリックのポーランドは西欧と共通の文化を持つ文明
圏の中に組み入れられ、その東端が文化果つる文明圏の最前線であり、その向こうが野蛮
圏であるというのが中世ヨーロッパの共通理解であった。そもそもギリシャ・ローマ以来
の文明・野蛮の世界二分法に端を発し、キリスト教の天使と悪魔の善悪二元論に馴染んだ
ヨーロッパ人には極めて据わりのよい考え方に見合っていたのである。
ポーランドの版図の東端に位置するウクライナはヨーロッパのフロンティアという理解
であるから、具体的なウクライナの地図上の位置・範囲はその時代時代の近隣諸国の勢力
図によって可変的であり伸縮自在であったが、文明圏の最先端であるというウクライナの
イメージは不変だった。
そのポーランドの東端の辺境ウクライナの地に西欧からの旅行者・外交官・学者が頻繁
に行き来するようになったのは十六世紀末から十七世紀にかけてであるが、ウクライナが
文明圏のフロンティアに位置するという見方は改変を受けるどころか、かえって補強され
ることになった。当時このポーランドの辺境の最前線で対峙していたのはクリミア汗国の
タタール人であり、ポーランド王国はこの強悍なクリミア・タタール人の襲撃に備えるた
め土着のザポロージェ(ウクライナ)
・コサックを傭兵として用いていた。時あたかも最盛
期にあったオスマン・トルコはこのクリミア汗国を属国化し、自らも軍を派遣して黒海北
岸地方を侵食し、直接ポーランドと争っていた。ウクライナが野蛮圏と境を接する文明圏
の最果てであるというイメージは増幅されこそすれ、減じることはなかったのである。例
えば、かなりの星霜を経てポーランドの国威衰え亡国の瀬戸際にあった 1788 年にドイツ
生まれのフランスの外交官シェレール(Jean-Benoît Schérer)はパリで出した『小ロシア
年代記(Annales de la Petite Russie)』という本の中で「小ロシア(ウクライナ)はトル
コ人、ロシア人、タタール人に対する防壁である」と書いている。また、現在のスロヴァ
キア出身でオーストリア帝国の役人だったエンゲル(Johann Christian von Engel)は
1796 年に出版した『ウクライナとウクライナ・コサックの歴史(Geschichte der Ukraine
und der ukrainischen Kosaken)』と題する著作の中で「ポーランドの穀倉と牧場である
ウクライナは文化的なヨーロッパと野蛮なアジアを隔てている」と、そのものずばりの書
き方をしている。
この十八世紀末と言えば、ロマン主義がヨーロッパを覆い、各国の国民の自覚を促し、
民族意識を覚醒させた。ウクライナのインテリたちもその潮流に沿ってウクライナ民族主
義運動を発動させる(ウクライナ語が文章語として成立するのもこの頃のことである)。当
時ウクライナはロシアの支配下にあったから、自己を規定するにはロシアとの差別化を図
7
るにしくはない。それにはヨーロッパの先輩たちの既成の概念を借用するのが手っ取り早
い。というわけで「ウクライナはヨーロッパの大国であったキエフ・ルーシの正統なる後
継国家である」、
「ウクライナは文明的なヨーロッパの国であるのに対し、ロシアは野蛮な
アジアの国である」という二大看板を掲げることになるのである。
かくして二十一世紀の今日に至っても上述のユーロマイダンの輝ける自衛団司令官パル
ビーの主張はウクライナ民族運動黎明期の思潮と軌を一にして寸分の違いもない。中世以
来の文明圏・野蛮圏、いや、古代からの文明・野蛮の世界二分論という固定観念と偏見に
どっぷり浸かっているのである。
そこで思うのだが、EU・ウクライナ連合協定の前文に謳われている「ウクライナは EU
諸国と価値観を共有している」という文言は、古くからの通念に従ったまでなのかもしれ
ない。ウクライナ・EU 双方の気脈の合った合作で、歴史的な文脈で解釈すべきなのか?
話を元に戻すと、尊欧攘露的アジ演説の名手パルビーは親露派政権打倒の闘争が開始さ
れるやマイダン自衛団の司令官に任じられて、デモ隊を「百人隊」
(実際には各隊 70~300
名)に編成して疑似軍隊に組織化する非凡な手腕を発揮し、当初は 17、最終的には 39 の
「百人隊」(参加人数はそれぞれ約 5,000 名と約 1 万 2,000 名)を結成し支配下に置いた
(デモ隊と治安部隊の衝突時に殆どが銃撃で死亡した百人ほどの犠牲者は、これに因んで
「天国の百人隊」と呼ばれている)。政変直後、このユーロマイダンの立役者は第一の勲功
行賞に与り、国の安全保障政策を取り仕切るウクライナ国家安全保障国防会議書記という
首相、最高会議議長に次ぐ要職に任命される(2014 年 2 月 27 日)
。しかし、枢要な地位
に就いたものの、色々問題となる言動をとり、新大統領ポロシェンコとも衝突し解任され
る(8 月 7 日)が、十月の最高会議議員選挙ではヤツェニューク首相率いる暫定政府仲間
の国民戦線党の比例全国区拘束名簿第四位の候補者となって当選し、現在(2015 年末)は
議会の第一副議長を務めている。
さらにもう一人、
「ロシア人・ウクライナ人同一民族説」に反対する論客である歴史学者
でティモシェンコ派の長老議員士ヴォロディーミル・ポロハロ(1949~2011)は下記のよ
うに主張している。重なる点が多いがウクライナの親欧米派と言われる人たちに共通した
考え方を窺い知ることができる。
歴史的真理は否定のしようがない。ウクライナ人とロシア人は異なる民族であり、こ
れは明々白々なことである。
ウクライナ民族の発展には法則性があるのだ。両民族の主な相違点は、言語、領土、
文化である。ウクライナは長年に亘って諸々の帝国、すなわち、ロシア帝国、オースト
リア・ハンガリー帝国、ジェチポスポリタ 8)の一部であったにもかかわらず、誰も我々
8)
ジェチポスポリタはポーランド語で「共和国」の意味で、ポーランド・リトアニア複合君主制国家(1569
~1795 年)を言う。「共和国」と称するのは、地主貴族(シュラフタ)が国政の主導権を握り、シュラ
フタ民主制を謳っていたからである。現在のウクライナの大半はこの国の版図内にあった。
8
のアイデンティティーを否定しさることはできなかった。ズラボフ大使は民族問題のプ
ロではない。従って、このような放言は我々に対する挑発行為であり、ロシアが我々に
押し付けようとする意図的な神話である。現在ロシアは帝国ではないのだが、ロシア人
には帝国へのノスタルジアがあるのだ。従って、ズラボフの放言は我々がそれにどう反
応するかを見る小手調べなのである。
ウクライナ人とロシア人はあらゆる点で異なっている。ウクライナ語はロシア語とは
絶対的に異なっている。むしろポーランド語の方に似ている。文化も我々独自のもので、
教会を見れば分かる。ウクライナの正教はロシアとは違っていて、それ故にウクライナ
には多くの宗派がある。メンタリティーの点ではウクライナ人は個人主義であるのに対
オ ブ シ チ ャ ー ク
し、ロシア人は共産主義的心理の持ち主である。彼らには(泥棒仲間の)共同隠し金庫が
あるが、我々は集団主義者ではない。従って、メンタリティーの点で我々はヨーロッパ
人に近いのに対し、彼らはアジア人に近い。それゆえ、我が国にはギリシャ・カトリッ
ユニエート
ク教会(帰 一 教会と称する、ポーランド治下で成立した東西教会の折衷的教会)の信者
が大勢いる。我々はどちらかと言えば自分自身を頼りとして、父なるツァーリや国家に
パ タ ー ナ リ ズ ム
頼ろうとはしない。つまり、ロシア人は家父長主義に動かされている。残念ながら、こ
の現象は私たちの間にも存在する。しかし、ロシア人とは程度が違うのだ。ウクライナ
では、それはソヴィエト時代の残り火のようなものだ。ウクライナ人はこの悪弊を断ち
切ろうとしていた。それで、ソヴィエト時代にウクライナ人、すなわち、個人主義者の
農民が狙われて皆殺しの憂き目に遭ったのだ。ここにスターリンのホロドモール(農業
集団化の過程で起こったウクライナ農民の大量餓死)の本質がある。
この老学者はすでに亡くなっているのだが、これまた年功を感じさせない未熟な青年の
アジ演説めいた独善的で荒っぽいまさに尊欧攘露の論理である。普遍性を欠く内向きの論
理で一貫しているが、これがウクライナでは一番評判の良い理屈で、一つ一つの論点はそ
れなりの背景を持ちそれなりに正当化されているが、今はそれにいちいち立ち入る余裕は
パ タ ー ナ リ ズ ム
ない。今ここで注目したいのは、「ロシア人は家父長主義に動かされている。残念ながら、
この現象は私たちの間にも存在する。しかし、ロシア人とは程度が違う」という言葉であ
る。
パ タ ー ナ リ ズ ム
ここで言う家父長主義とは温情を交えた親分子分関係、具体的には庶民の日常生活から
は び こ
政財界の人間関係に至るまでロシアやウクライナの社会に蔓延る縁故主義のことで、社会
的地位を利用した汚職の温床であるが、社会の潤滑油といった一面もある。このパターナ
リズム(paternalism)と類縁の言葉の一つに、ロシア語で кумовство、ウクライナ語で
кумівство という究極の縁故主義を意味する極めて生々しい感じのする言葉がある
9)。英
語にもそれに相当する compaternity という言葉があったようだが、死語となって久しい
9)
この言葉はギリシャ正教の国一般に存在し、この特有の縁故主義は例えばセルビアやギリシャでも問
題視されることがあるが、ここでの記述はロシアとウクライナに限ることにする。
9
らしく、今は余ほど大きな辞書でないと載っていない。それに反し、ロシア語やウクライ
ナ語の相当語は今なお活力旺盛な言葉なのである。このウクライナの老尊欧攘露主義者は、
この言葉においても、憎っくきロシアと差別化を図りたいようだが、実情ははたしてどう
なのであろうか?
この言葉の元になったのはロシア語でもウクライナ語でも男性 кум(クム)
、女性 кума
(クマー)という語で、英語に訳せばゴッドファーザー、ゴッドマザーである(辞書には
そのように出ている)
。もちろんこの場合はマーロン・ブランド扮する映画のゴッドファー
ザーではなく、元の意味の代父(母)、教父(母)などと訳される洗礼親のことである。
しかし、西欧のゴッドファーザー、ゴッドマザーとロシアやウクライナのクム、クマー
とは同じ洗礼の秘跡(機密)に関係していても、実態には雲泥の差がある。むしろ全く別
の概念であると考えた方が理解が早いかもしれない。
ゴッドファーザーは洗礼に立ち会った子供(以後「代子」と呼ぶ)に対する代父として
の役目が主流で、以後代子の後見人の立場になるというのが一般的な理解であろう。とこ
ろが、このような場合、ロシアやウクライナでは代子にとって代父はクムではない。後見
人の役割を果たす代父は別の言葉で呼ばれる(取上げ人または洗礼父)。
このクム、クマーについて日本の露和辞典の中で『岩波ロシア語辞典』が次のように一
番懇切丁寧な説明をしている。
кум:(自分の子供・自分がその洗礼に立ち会って代母となった子供の)代父、教父、
名親;
(自分がその洗礼に立ち会って代父母となった子供の)父。
кума:
(自分の子供・自分がその洗礼に立ち会って代父となった子供の)代母、教母、
名親;
(自分がその洗礼に立ち会って代父母となった子供の)母。
当然であるが、正しい説明ではある。しかし、謎々みたいで理解するのは容易でないで
あろう。この岩波書店の初代の露和辞典である八杉貞利編纂の『岩波版露和辭典』
(昭和
10 年刊)では次のようになっていた。
кум:
(親同士の關係で)名付け親、教父。
元来ギリシャ正教では子供の名前は教会暦に基づいて名づけることになっていたので、
もともと「名付け親」とか「名親」とかの観念そのものがない。それは別として、この場
合のキーポイントは「親同士の関係」である。これを念頭にして前の説明をもう一度読め
ば、もしかして理解できるかもしれない。
つまりは、代子から見て、クム(クマー)とはその親同士の関係である。A(男)と B
(女)という夫婦に子が生まれ、その子の洗礼に C(男)と D(女)を代父、代母として
立ち会ってもらった時、(A または B)と(C または D)の間に生じるのがクム(クマー)
の関係である(お互いにそう呼び合う)
。さらには C と D の間にもその関係は成立する(記
10
憶されたし!)。
そもそも洗礼を施された子には「肉の親」
(代子の肉親の親)と「霊の親」(代子の洗礼
親、すなわち、洗礼という聖なる儀式に立ち会うことによって成立する霊的関係で結ばれ
た親)があり、その親同士がクム(クマー)と呼び合う権利を有することになる(従って、
繰り返すが、洗礼親と代子はクムの関係にはない!)。もちろん、クムは代子の後見人の立
場になるものの、それ以上に子供よりも親同士の関係で、以後両家は「霊的な親戚関係」
を結び、深い付き合いをすることになる。この特殊な関係は、政財界の人々の間で成立す
れば、不謹慎とも取られかねない言い方をあえてするなら、日本のやくざの世界で親分と
子分が杯を取り交わした関係を連想させなくもない。でも、やくざは杯を返すことができ
るが、クムとなると神様が取り持つのだから、一生もの、いや、あの世でも関係を断ち切
ることはできない!
代父の方のクムになるのは、なかなかの物入りである。洗礼式の費用一切を負担し、大
きな祭日や代子の誕生日などにはプレゼントを欠かしてはならない。社会的地位のある大
物ともなると洗礼式は格式ある大寺院で執り行わねばならず、また、安物のプレゼントで
お茶を濁すなど、とんでもない話である。同じクムの名で呼び合っても、当然代父の方が
親分、代子の親が子分の関係となる。代子の親も代父の誕生日などには色々と贈り物をし
なければならない。特に、親は子の代父になって貰って初めての代父の誕生日には頭を悩
ますらしい。現に今も、その商機を逃すまいと、ロシアでもウクライナでもネットの e コ
マース花盛りである。さほど遠くない昔、日本の新婚夫婦が仲人になって貰った人のお歳
暮などに腐心した姿と重なる。
一見は百聞に如かずと分かり易い例を引こう。ウクライナのクム関係に基づく政界人脈
図を次頁に示す(2012 年 5 月 5 日付『セヴォードニャ(今日)
』紙電子版)
。
この VIP クム相関図には色々と見知った人物が登場し、同時に 2012 年 5 月当時の役職
が示されている。一番上がユシチェンコ前大統領(任期 2005~2010 年)で、十七人もの
VIP クムを従えている(そのうち十四名の名前と役職が示されている)。二段目が左から
クチマ元大統領(任期 1994~2005 年)、真中が美人宰相として世界中でもてはやされた祖
国党党首のティモシェンコ前首相(哀れ!当時は獄舎の人となっていた)
、右側がクチマ時
代の大統領府長官だったメドヴェチューク、三段目が当時は権勢の極みにあって豪奢な御
殿の住人だった現職のヤヌコヴィチ大統領、真中が何と現在の大統領のポロシェンコで、
当時はヤヌコヴィチ政権の経済発展通商大臣という要職に就いていた。
イケメンの大統領候補が毒を盛られて一夜にして醜メンと変じたのにもめげずに大統領
選挙に勝ち抜いたことで日本も含め西側世界がこぞって称賛したオレンジ革命のヒーロー
で、反露・親欧米のチャンピオンだったユシチェンコ元大統領は、ご覧のように、まるで
蜘蛛の巣を張り巡らしているかのようにして十七人もの VIP のクムを抱えている。これだ
けでもウクライナに咲き誇る利益供与、縁故採用・縁故登用等々の汚職の臭い芬々ではな
11
ウクライナのクム関係に基づく政界 VIP 人脈図
(2012 年 5 月 5 日付『セヴォードニャ(今日)』紙電子版 10))
10)
http://www.segodnya.ua/politics/power/kumovctvo-vo-vlacti-u-jushchenko-17-krectnikov-u-
janukovicha-odin-kum-%E2%80%94levochkin-a-camyj-shchedryj-papa-%E2%80%94-shufrich.html
12
いか。このクム集団の中には当時現職だったグルジア大統領のサアカシュヴィリも含まれ
ている。共にバラ革命とオレンジ革命というカラー革命の立役者だった二人は、それはそ
れは深い「霊的親類関係」で強く結ばれていたのである(ウクライナ大統領がグルジア大
統領の次男の代父になっている)。
自国グルジアで味噌をつけ亡命生活を余儀なくされてい
るサアカシュヴィリは活動の場をウクライナに移し、ポロシェンコの下で大統領補佐官の
地位を手中にした後、2015 年 6 月からは大統領の任命するオデッサ州の知事職を得てい
る。これも元はと言えば全てユシチェンコとのクム関係のおかげなのであろう。
ちなみに現大統領のポロシェンコも元大統領ユシチェンコとは、相関図に示されている
ようにクム同士である。ユシチェンコは 2000 年に生まれたポロシェンコの双子の娘の代
父となり、親同士がクムとなっているのである。ユシチェンコの方は金銭的な支援を期待
して張り巡らした蜘蛛の巣の糸の一本にポロシェンコを引っ掛けたのであろうし、一方、
究極の風見鶏であるポロシェンコの方は、国立銀行総裁としての手腕を買われクチマによ
って首相に引き上げられたユシチェンコに大好きな権力の匂いを嗅ぎつけたのであろう。
オレンジ革命後にユシチェンコ政権が発足したときポロシェンコは首相の座を不倶戴天の
仇敵ティモシェンコと争って一敗地に塗れ、その時にはユシチェンコのクムとなったのを
後悔しているかのような言を吐いたものの、そこは機会主義者らしくユシチェンコ政権下
でちゃっかりと国家安全保障国防会議書記や国立銀行総裁の要職に就き、政権最末期には
外務大臣に登用されている。この時にも国立銀行総裁の地位は保ち続け、次のヤヌコヴィ
チ政権時代にまで及んでいる(在職期間は 2005~2012 年)。とにもかくにもウクライナの
三人目と五人目の大統領はクム同士で、他の諸国には見られない独特の関係で結ばれてい
て、叩けば大ボコリが舞い上がること間違いなしの元大統領は引退生活を送る現在も枕を
高くして眠ることができるのである。
今や落魄の前大統領ヤヌコヴィチ(現在は前大統領という称号も剥奪されてしまったよ
うだ)には、クムが一人しか表示されていない(もう一人、政変前まで検事総長だったプ
ションカという有力なクムがいたことが知られている)
。オトモダチが少ないから、哀れ!
政権から追われたのだ! たしかに、そう言えなくもない。ユシチェンコが開放的外向的
であったのに対し、ヤヌコヴィチは閉鎖的内向的だった。ヤヌコヴィチの場合は、同じ縁
故主義でも、クム中心のユシチェンコと異なり、典型的な内集団偏向型で、「ファミリー」
重視のネポティズムだったのである。
今や極悪の親露派というレッテルの貼られているヤヌコヴィチは 2010 年 2 月の大統領
選挙の決戦投票で現職の首相ティモシェンコを約 3.5 ポイント上回るほぼ 49%の得票を得
て大統領に当選し、見事五年前の雪辱を果たしている。地盤の東部・南部で圧倒的な得票
を得たのは当然として、その他の地域でもそれなりの得票を得て、圧勝ではないものの、
不正選挙で苦杯をなめた前回と違って文句のつけようのない当選だった。その二年後の
2012 年の議会選挙においてもヤヌコヴィチ与党の地域党は議席数を増やして勝利してい
る。政権を追われるわずか一年四ヶ月前のことであった。
13
天下を取ったヤヌコヴィチのモットーは「味方には愛を、敵には法律を!」だったと言
われる通り、最大の政敵ティモシェンコに対して法律を厳格かつ拡大的に適用し、鈴木ム
ネオの「疑惑のデパート」など物の数ではない、殺人に関与したとされるおどろおどろし
い疑惑までも含む数々の訴追事件 11)の被告席に追いやり、ついにはロシア側カウンターパ
ートナーのプーチン首相とのガス価格交渉において欧州向けよりも高くつく値段で独断的
に契約を結んだ「犯罪」を決定打として仇敵を獄舎に繋いでしまった。この不当に高いガ
ス価格がヤヌコヴィチ政権の経済政策の足かせとなったことは事実であったが。
ヤヌコヴィチの政治の要諦は、ボスのクチマ元大統領に倣ってロシアと EU を両天秤に
かけ、両者の間を巧みの渡り歩き、時を稼ぐことだった。しかし、ティモシェンコに対し
ては迫害の度が過ぎたようで、人権重視の EU の禁忌に触れ、連合協定調印の前提条件と
してティモシェンコの釈放を要求されることとなる(ユーロマイダンの切っ掛けとなった
のはヤヌコヴィチによる連合協定交渉の打ち切り宣告だったが、この交渉には長い前史が
あり、そもそもヤヌコヴィチ自身が EU との連合協定の調印を選挙公約にしていた)
。
EU 側も大きな誤算を犯した。EU の要求通りティモシェンコが出獄することができた
ら、南アフリカのネルソン・マンデラの如く国民が歓呼の声を挙げて彼女の政界復帰を祝
福し、次期大統領間違いなしというのが EU の思惑だったようだが、時すでにティモシェ
ンコは大多数の国民に愛想を尽かされていて、ユーロマイダンの最中も EU が期待するほ
どはティモシェンコ待望の世論は起こらず、政変直後に釈放はされたものの一部の熱狂的
支持者以外には大した歓迎もされず、欧米側は急遽大統領候補にポロシェンコを担ぎ出す
始末となったのは周知の通りである。
ヤヌコヴィチのモットーの前半は「味方には愛を!」であったが、内集団偏向型のヤヌ
コヴィチの味方の範囲は狭かった。愛人は一人限定であった。長男のアレクサンドルを偏
愛し、国のオリガルヒの中のオリガルヒに仕立て上げようとして、その実現に邁進してい
た。その無理が過ぎて、大統領当選時には実業界では九つの大きな企業家グループがヤヌ
コヴィチを支持していたとされるが、ユーロマイダン運動が始まる頃にはたったの二つに
まで減らしてしまっていた。当初は大部分のオリガルヒを味方につけていたのだが、その
オリガルヒを敵に回してしまったのが、ヤヌコヴィチ没落の背景だったのである。
落陽のヤヌコヴィチにとって最大の痛手は、大統領府長官に任じていたクムのセルゲ
イ・リョーヴォチキン(上の VIP クム相関図に登場するヤヌコヴィチ唯一のクム)に沈没
船から逃げ出す鼠のようにして政権から離脱されたことであろう。両者の縁は、大統領が
若き日に破廉恥罪によって獄に下っていたとき 12)、セルゲイの父親が未来の大統領の牢番
だったことに由来すると伝えられている。この牢番は後にヤヌコヴィチによって中央(内
務省)の役人に引き立てられ、将軍クラスにまで出世し、
「ウクライナ随一の牢番」と称せ
11)
京都議定書の排出量取引により日本から受け取った資金の流用事件も含まれる。
ロシア大統領プーチンは隣国の大統領をこの前歴ゆえに当初から軽蔑しきっていたフシがある。事の
成り行き上、政変後ロシアに亡命させ庇護してはいるが。
12)
14
られた。1972 年生まれのその息子は、時勢に副った実践的な経済学を大学で修め、銀行で
働いていたところをドネツク州知事時代のヤヌコヴィチによって時の大統領クチマに推輓
されたのが出世の糸口となり(父親がクチマとクムの関係にあったとも言われている)、政
財界で急速にのし上がり、2010 年にヤヌコヴィチが大統領に就任すると同時に当然の如く
にして大統領府長官に収まった。若いに似あわず口八丁手八丁で、政財界に顔が広くて顔
が利く、味方にしておくと大変に便利なやり手の男だった。しかし、ユーロマイダンが勃
発する発火点となった学生デモ隊弾圧事件への対応を巡って両者は衝突し、目端の利くリ
ョーヴォチキンは早々に辞表を叩きつけたが、優柔不断なヤヌコヴィチはそれを受け入れ
ることができず、日本の官房長官に等しい政権のキーマンである大統領府長官を欠いたま
ま、大統領にとって貴重な二ヵ月近くを空費し、その間に事態は悪化の一途をたどり、つ
いには落日を迎えることになったのだった。
反政府運動は EU との連合協定拒否がきっかけとなったにせよ、頂点に登りつめた権力
者が自分個人の保身とファミリー・ビジネスの育成・温存を主目的に国家の私物化を図っ
た挙句、有力な支持者に次々と去られて、ユーロマイダンの渦中ではすでに裸の王様状態
だった。最高会議の議員に関しても、2012 年には大統領与党の地域党は 187 名を当選さ
せたが、ユーロマイダンが始まると脱落者が後を絶たず、政変時には 88 人まで目減りし
てしまっていたのである。
オレンジ革命が「十億長者に対する百万長者の革命」と言われる一方、ユーロマイダン
は「ファミリーに対するオリガルヒの革命」と言われている。 オレンジ革命ではクチマ時
代の大オリガルヒに替わって立役者ユシチェンコとティモシェンコの身の丈に合った中小
オリガルヒを支持基盤としたのだが、ユーロマイダンではヤヌコヴィチのファミリー政治
に代わり、本物のオリガルヒが国のトップに登場したのである。
キエフから逃げ出したヤヌコヴィチが最後に頼りにした地域党幹部でハリコフ州知事の
ドプキンは凋落の大統領に引導を渡す役割を担うことになるのだが、彼は「リーダーがリ
ーダーでなくなると、取り巻き一同は踵を接して逃げ出す。それが定則というものだ。こ
れは裏切りではなく、先見の明と言うべきだ」という名言(?)を残している。この言葉
が一番当てはまるのはリョーヴォチキンかもしれない。自身れっきとしたオリガルヒでも
あるリョーヴォチキンは、現在も、圧倒的な逆風の中で反政権側の人民代議員として議会
に留まり、陰で勢力を養い、人脈を保ち、隠忍自重して政情の潮目が変わるのを待ってい
る 13)。
ウクライナの歴代大統領のクム関係についておさらいすると、上掲の VIP クム相関図に
示されているように、ヤヌコヴィチとリョーヴォチキンはクム同士であり、そのリョーヴ
ォチキンは第二代大統領クチマの貴重なクムであり、そのクチマのもう一人の貴重なクム
13)
ポロシェンコが大統領選への出馬を正式に表明したのは 2014 年 3 月 29 日であったが、その直前の 3
月 25 日にポロシェンコ、クリチコ、リョーヴォチキンはウィーンに赴き、当地で公判中のオリガルヒ
のフィルタシュを交えた四者でポロシェンコ擁立の秘密会談を行なっている。
15
が 1975 年生まれのユーリー・パヴレンコ。ユシチェンコ政権時代に三十歳になるかなら
ずで家族青年スポーツ大臣に抜擢され、特にオリンピック北京大会でのウクライナ選手の
好成績、
ポーランドと共同開催したサーカーのユーロ 2012 誘致の成功で高い評価を得た。
ヤヌコヴィチ大統領時代にも子供の権利問題に関するウクライナ大統領全権代表を務めた。
現在は反政権派のただの人民代議員であるが、長男の代父がクチマ、次男の代母がユシチ
ェンコ第三代大統領夫人エカテリーナという堂々たるクム閥の人物である。最後に、既述
のようにユシチェンコと現大統領ポロシェンコはクム同士である。かくてヤヌコヴィチか
らポロシェンコに至る四人のウクライナ大統領を数珠繋ぎにするクム閥系統図は完結する。
ついでに、この大統領クム閥系統図の初めと終わりに登場するヤヌコヴィチとポロシェ
ンコの因縁話を一つ。
ポロシェンコはオリガルヒとして順調に事業を展開するかたわら、第二代大統領クチマ
の慫慂によって政界入りし、地域党の結党にも一枚噛んでいるから、元々ヤヌコヴィチと
の関係も悪くなかった。政界を遊弋し、ユシチェンコ時代の末期にはティモシェンコ首相
の下で外務大臣を務め、ヤヌコヴィチ時代には重要な経済閣僚ポストの経済発展通商相に
就任している(2012 年)
。事業の方も、ヤヌコヴィチが大統領になってから彼の企業群は
国家からの受注を急激に増やして大発展を遂げ、長者番付で念願のトップテン入りを果た
した(ウクライナで第六位)
。というわけで、今やウクライナを代表する「親欧米派」の最
右翼の政治家として大統領に上り詰めたポロシェンコと片や「親露派」の落ちた偶像であ
るヤヌコヴィチとは因縁浅からぬ仲であったが、二人の運命の岐路となって袂を分かつこ
とになった、こんなエピソードが知られている。
ロシアでは 2012 年 9 月から輸入車を購入する場合に相当な金額の自動車リサイクル税
(手持ち自動車廃車税)を支払わなければならなくなった。つまり、手持ちの国産車を外
車と買い替えるには余分な税金を支払わねばならない、国内の自動車産業保護の施策であ
った。この直後、隣国のウクライナでは、ポロシェンコ経済発展通商相は閣僚と経済界の
幹部の居並ぶある会合でヤヌコヴィチ大統領に同様のリサイクル税をウクライナにも早く
導入するよう促し、大向こう受けのするもっともらしい演説をぶった。それに対し不快感
をあらわにしたヤヌコヴィチは「何かが踊りの下手な奴の邪魔をするものだ」と言ったと
か。これはロシアの諺の婉曲表現で、
「何かが」のところには上品な場合には「足でさえも」
が入り、下品な場合には「睾丸でさえも」が入る。もともと、ダンスパーティーで初心者
が不器用に踊っているさまを囃す言葉であって、兄弟民族(!)ウクライナでも当然よく
知られた表現である(ポーランドでは「スカートの裾でさえ」と言うようだ)
。ここではヤ
ヌコヴィチはポロシェンコに「政治のど素人が今さら何をぬかすか!」というような意味
合いで言ったのであろう。すでに大統領初めその場に居並ぶ閣僚たちはリサイクル税の導
入を決定していて、自動車輸入業者との調整を図りながら、それをどのような形で実施す
るかに頭を絞っていたのである。この言葉の後、腹の虫の収まらないヤヌコヴィチはポロ
シェンコのことを悪しざまにののしり、
「お前なんか、すぐ首にしてやる!」と癇癪を爆発
16
させた。ポロシェンコは今では権利を売却してしまったが、当時はウクライナ有数の自動
車メーカー「ボグダン」のオーナーであったのだから、ヤヌコヴィチは「国内産業の保護
を理由に自分の懐の利益を図ろうとしやがって」と思ったとしても当然である。大統領と
なって得意の絶頂に達し、やりたい放題が過ぎて、次第に墓穴を掘りはじめていたヤヌコ
ヴィチはその後まもなくこの経済閣僚の首を切り、ポロシェンコはその後再び人民代議員
になったものの、権威もあれば旨みもある地位への執着心をもてあまし、キエフ市長への
立候補を検討していたが、世論調査では有力候補だったクリチコ・パンチ党党首(現キエ
フ市長)の後塵を拝しているありさまだった。ところが、ユーロマイダンが始まると無役
のポロシェンコは時流に便乗してデモ隊の支援に回り、それが幸いして欧米の当局者の目
にとまって、すでに賞味期限の切れていたティモシェンコになり代わり、親欧米派の切り
札として大統領に推戴されたのでありました、とさ。
先ほどのクムの説明で書き忘れていたが、洗礼に立ち会うと代父母は代子およびその両
親と霊的な親戚関係を結ぶことになる。素朴な霊肉二元論が信じられていた東スラヴ世界
においては霊的関係と肉的関係は峻別されていて 14)、俚諺に言うように「霊的な親戚関係
は肉的なそれよりも強い」のである。従って、霊的親類縁者が肉的関係に入ること、例え
ば代父が女の代子と結婚することは許されるわけがなかった。現在の教会では範囲が緩和
されているが、この霊的関係は一代だけでなく、末代まで及ぶこととされていた(かつて
は、例えば七親等まで教会法で結婚が禁止されていた時代もあった)
。
興味深いことに、霊的親類縁者とクム関係者とは一致しない。上述のように代父母と代
子はクム関係にはないが、深い霊的関係で結ばれることになる。その点では西側のゴッド
ファーザー、ゴッドマザーと同様で、生涯の後見人となる。代父母とは、まさかのときに
は、実の親の代わりになると言う文字通りの意味である。
その一方、代父母と代子の両親との間には霊的関係もクム関係も結ばれる。さらに、代
父(クム)と代母(クマー)の間にもクム関係が結ばれる。上に引用した『岩波ロシア語
ク ム
ク マ ー
辞典』のкумの語義の「(自分がその洗礼に立ち会って代母となった子供の)代父」
(кума
の場合は父と母が反対)という説明は、まだるっこくて分かりにくいが、同じ代子に対し
て代父母となったクムとクマーは互いにクム関係になることを言っているのである。前の
AB(肉親の両親)と CD(代父母)の説明における C と D の関係である。
洗礼に男女のペアが代父母として立ち会う風習は西欧から伝えられたものらしいが、東
スラヴ人の素朴な霊肉二元論からすれば、罰当たりな西欧と違って肉的関係にある夫婦が
同時に代父母を務めることはありえないことだった。これが、夫婦で洗礼に立ち会い代父
母となるのが恒例の西側との大きな相違点である。
この霊肉二元論の素朴な庶民感情と教会法の規定との間には微妙なずれが生じる。すな
わち、クムとクマーはクム関係を結ぶこととなるが、この男女のペアが霊的関係者である
14)
トルストイが『クロイツェル・ソナタ』のような作品を書く背景はここにあるのである。
17
かどうかは微妙な問題になるのである。庶民感情からすれば、二人は立派な霊的関係者で
あるし、またそうであるべきと見なされるのだが、教理で明示的に規定できない。考えて
みれば、しごく当然のことで、そもそもイエス自身が洗者ヨハネから単独で洗礼を受けて
いるではないか。それに、初期の頃のキリスト教では、大部分が成年洗礼であったはずで
あるから、素っ裸の受洗者に男女がペアで立ち会えば、立派なセクハラと言うものだ。同
性の者が立ち会ったに決まっているではないか。同性の者一人で可であったものが、男女
二人になったとしても、その二人の間の関係をどうして規定できようぞ!
従って、教会法ではっきりと規定できることではない(過去に短期間ある地方の教会が
夫婦で代父母を務めることを禁じた例があるらしいが、これはあくまで例外的な場合であ
ろう)。しかし、実態としては霊肉二元論の庶民感情から当然のごとく代父母は夫婦でない
(肉的関係のない)他人同士が務めることが慣習となっている。
惑いの多いは世の常、ここから色々と問題が生じる。偶然に代父母となった男女は狭い
地域社会のこと、それまでも顔見知りではあったろうが、共通の代子の家庭の色々な行事
に代父母として招かれ同席することが多くなり、急速に親しくなる。結句、いつの間にや
ら道ならぬ恋仲に! 挙句の果て、クムとクマーは一緒にいるだけで関係を疑われ、はやし
立てるような大量の俚諺が生まれている。
「余計なお世話」
のことを
「Кому какое дело, что
кума с кумом сидела.クムとクマーが一緒に居たって、誰に何の関係があろう」と言って、
居直るのである。また、「Поехала кума неведомо куда.クマーがどこに行ったのか、知
るものか」としらばくれ、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだつもりだろうが、顔にちゃんと
書いてある。
「無駄口を叩く」ことをこう言う。「転ばぬ先の杖」とか「君子危うきに近寄
らず」なら「Дальше кумы — меньше греха. クマーから遠ざかれば遠ざかるほど、罪
作りは少なくなる」と、これは露骨な言い方。語呂合わせをした似た言い方に「Водиться
ス
マ
ー
с кумою — волочиться с сумою.クマーと懇ろになると、頭陀袋を下げて歩くことになる」
。
いずれも桑原桑原なのだ。
クムとクマーの関係に対する一般庶民の見方は二十一世紀の現在も十九世紀の農民と大
した違いはないようだ。今でも家庭生活の手引きのようなインターネットのサイトには、
ごく普通に「子供が生まれて洗礼を受けさせる際の代父母には夫婦でなく他人同士を選び
なさい」と書かれている。代父、代母、代子は霊的な関係で結ばれた「聖家族」に譬えら
れ、従って代父と代母が肉的関係にある夫婦であるのは論外であるという観点が現在も維
持されているのである。また、人生相談や身の上相談で「私たちは偶然代父母になってか
ら親しく付き合うようになったのですが、結婚して良いのでしょうか?」とか、「代父母
として初めて知り合って、その後結婚したのですが、私たちは教会に対して罰当たりなこ
とをしているのでしょうか?」とか、「私たちは代父母として知り合って、その後不倫関
係になってしまったのですが、神様から罰せられやしないでしょうか?」という類の質問
を見かけることがある。前の二つの質問に対する答えは「教会法で禁じられていません」
というものだし、三つ目に対する答えは「普通の男女間の不倫と少しも変わりません」。
18
東スラヴ世界では未だに霊肉二元論は根強く、代父母となったのを切っ掛けとして結ばれ
た夫婦は世間で後ろ指をさされる存在なのである。教会は夫婦で代父母となるのを断るこ
とはできないにせよ、今でも夫婦で代父母となるのは例外的で稀なケースであるのに変わ
りはない。
上掲の VIP クム相関図に今一度注目すると、クチマ時代の大統領府長官だったヴィクト
ル・メドヴェチューク(1954 年生)のクムの中に、何とロシア大統領プーチン(当時は首
相)の名がある! 2004 年にこのメドヴェチュークとテレビキャスターだった三度目の妻
との間の娘ダリアの洗礼式がサンクト・ペテルブルクの壮麗・壮大なカザン大聖堂(ソ連
時代は無神論博物館だった)で執り行われたとき現職のロシア大統領プーチンは代父役と
して立会人となり、隣国の大統領府長官とクムの関係になったのだった。
2012 年 7 月にロシア大統領がヤヌコヴィチと首脳会談するためクリミアを訪れたとき
15)、プーチンはメドヴェチュークの別荘をわざわざ訪問している。そのときの映像を見る
と、クム関係とは「かくや!」と思わせる。プーチンとメドヴェチューク夫妻とはいかに
も親しげに談笑しているし、代子の幼女がプーチンに驚くほどなついていて、プーチンも
幼女を抱き上げたり膝に乗せたりしている。コワもてプーチンの意外な素顔である。16)
さらにもう一度 VIP クム相関図に注目すると、メドヴェチュークのクムの中にプーチン
のつなぎ役の大統領となった現首相メドヴェージェフの夫人スヴェトラーナの名がある。
とすると、
メドヴェチュークの娘の洗礼に代母としてプーチンと共に立ち会っているのだ。
事の成り行き上、誤解を招きかねない書き方をしてしまったが、プーチンとメドヴェージ
ェフ夫人はクムとクマーとして立派なクム関係にあるものの、二人の間には浮いた話は一
切ございません!
とにもかくにも、現職の大統領と隣国の大統領府長官とがクム同士であるのだから、何
と言おうと、やっぱり君たちは兄弟民族なのだ!
もしかして、ロシアとの関係が極度に悪化している現在、にっくきプーチンのクムであ
るメドヴェチュークは迫害を恐れ、身を潜めていると思うかもしれないが、そんなことは
ない。クチマの強力な庇護下にあって、ボスに影のように寄り添い、プーチンとのパイプ
を武器として、マスコミの注目する活躍をしている。彼の身の上を含め、このような事情
は第二代大統領クチマのウクライナにおける位置を知らないと理解できないかもしれない。
ゴッドファーザー・クチマ第二代大統領
ユシチェンコがクム関係、ヤヌコヴィチがファミリー重視であったのに対し、その前の
第二代大統領こそはオリガルヒ国家ウクライナの創設者にして、映画ゴッドファーザーの
15)
このときプーチンは道草を食っていて(バイク愛好者と長々と会っていて)会談に遅れ、四時間以上
もヤヌコヴィチを待たせた。プーチンは気の食わない相手であると、平気で遅刻し相手に待ちぼうけを
食わせるのである。
16) 2015 年末現在 http://lifenews.ru/news/97046 または https://www.youtube.com/watch?v=sn-kUHTBPb0 で
視聴できる。
19
イメージの如くウクライナ政界に屹立する大ボスなのである。かつて歴代の自民党の領袖
が吉田学校の生徒と言われたことに倣うなら、クチマ以後のウクライナの政治指導者の主
たるプレーヤーであるユシチェンコ、ヤヌコヴィチ、ティモシェンコ、そして現大統領ポ
ロシェンコの全員が、クチマ学校の生徒、クチマ・チルドレンなのである。
具体的には二期に亘るクチマの大統領時代(1994~2005 年)の後期にユシチェンコ
(1999~2001 年)とヤヌコヴィチ(2002~2004 年)が首相を務めている。この二人が次
の大統領位を争い、オレンジ革命を経て欧米派のユシチェンコが勝利し、クチマが支持し
たヤヌコヴィチが破れるのであるが、この当初クチマはまだ政治に未練タラタラで、憲法
が大統領の権力を弱め議会の権力を強めるように(いわゆる「二〇〇四年憲法」へと)改
定されたのを幸い、次の議会選に打って出て最高会議の議長となり政界を牛耳ろうとして
いたのではないかと言われている。ヤヌコヴィチが破れてこの望みは絶たれるのであるが。
ティモシェンコ女史に関しては、「エネルギー担当の副首相に引き立ててやったのに
(1999 年)、私に逆らい口が過ぎるから(ティモシェンコは 2001 年の「クチマ抜きのウ
クライナ」運動を扇動)、拘置所送りにしてやった(42 日間ぶち込まれた)。あの女、危う
い道を通って、のしてきたのだから、理由なら山ほどある。懲りたかと思ったが、それ以
来私に事ごとに盾ついて、うるっさいたらない(ティモシェンコは 2002 年に反政権の「起
ちあがれ、ウクライナ!」運動を主導)
。でも、なかなか気骨のある女だ。いや、ウクライ
ナの政界では、たった一人の男だ」と大ボス・クチマは呟いたとか。たしかに良きにつけ
悪しきにつけ勇猛果断すぎるティモシェンコに比べ、ユシチェンコもヤヌコヴィチもポロ
シェンコも女々しい感じがする。
独立したウクライナの市場経済化の申し子のようにして実業界で成功しオリガルヒの仲
間入りをしていた愚図の癖に野心満々のポロシェンコが政界に進出したのは弱冠 32 歳の
1998 年のことで、クチマ与党の社会民主党(統一派)から議会選挙に出て当選している(同
時にメドヴェチュークをトップに戴く党政治局の委員となっている)17)。2001 年にはクチ
マに忠実でヤヌコヴィチ時代には政権を担うことになる「地域党」の結党に参加している
が、日和見のポロシェンコはすぐに豹変し、ヤヌコヴィチの敵手ユシチェンコの政権与党
になる「我らのウクライナ」党に鞍替えしている。その間もその後もクチマがポロシェン
コの後見人的存在であることに変わりはなかった。
2014 年 2 月にヤヌコヴィチ政権崩壊・親欧米政権誕生、3 月にロシアのクリミア併合、
4 月に東部で事実上の内戦勃発という激動の中で 5 月には国内外の欧米派の輿望を一身に
集めた形でポロシェンコが空位だった大統領に当選した。国政を担う者としては当然であ
るが、まずは東部での戦争の終結を急ぐことになる。しかし、二度三度と和平工作に失敗
した最中の 7 月にはマレーシア機が撃墜され、親露派への国際的な非難が高まる中で、8
月にウクライナ軍は一気に決着をつけようと攻勢に出たところ、ロシア軍がテコ入れして
17)
当時は不逮捕特権等の旨みのある議員特権を獲得せんとオルガルヒどもが先を争って議員資格(全国
区比例代表制の政党の拘束名簿の上位)を大金で買い取っていた。
20
形勢逆転し 18)、話合いの機運が高まり、8 月下旬にはベラルーシのミンスクでプーチンと
ポロシェンコの首脳会談が行なわれ、それを受けて、9 月早々にやはりミンスクで和平の
コンタクト
ための実務会談である「連 絡 グループ」の会合が持たれることとなった。国際的な注目を
集める中で、何と、この時ウクライナの全権代表として現われたが、とっくに過去の人だ
とばかり思われていた元大統領クチマその人だった。まさにゾンビの登場である。ぐちゃ
ぐちゃドロドロの国ウクライナならではの人選であった。
政変後の親欧米派政権が東部での戦闘に突入したのは 2014 年 4 月 7 日の正式の大統領
不在の時であり、従って開戦の責任はトゥルチコフ大統領代行とヤツェニューク内閣にあ
るのだが、この開戦の法的根拠は 9・11 テロのあと各国で雨後の筍の如く制定された反テ
ロ法であった。この法律に基づく反テロ作戦を発動する形で戦闘開始に踏み切ったのであ
る。テロリストならば殲滅あるのみで取引や妥協の余地はない。従って、ウクライナ政府
(内閣)は東部の自称共和国の代表と話し合うのを拒否してきた。ところがこの時世界の
マスコミの注目を浴びてミンスクに集まり協議し一応の合意(9 月 5 日のミンスク合意)
に達したのはウクライナ代表のクチマ元大統領、
ロシア代表の駐ウクライナ大使ズラボフ、
OSCE 代表に加え、ドネツクとルガンスクの自称共和国の代表であった。いわば内閣の頭
越しに大統領が自分の特権によって「テロリスト」を話し合いに参加させ、協定の当事者
として合意書に署名させたのである。
コンタクト
コンタクト
このとき脚光を浴びて交渉の当事者となった「連 絡 グループ」は正式には「三者連 絡 グ
ループ」と言い、ポロシェンコが大統領になった時から実現を目指した和平プランの中核
を占めるものであった。ポロシェンコは、6 月 6 日にノルマンディー上陸作戦の記念日に
世界の首脳が集まったチャンスにプーチンの同意を得て、6 月 8 日に早速キエフで第一回
の会合にこぎつけている。ウクライナ代表が当時ドイツ大使だったクリムキン(直後の 6
月 19 日からポロシェンコによって外務大臣に起用されている 19))、ロシア代表が我々には
すでに馴染みのズラボフ駐ウクライナ大使、立会人としての OSCE 代表がタリアヴィーニ
女史(スイス人)の三者会談である(後者の二人はその後も代表を継続)
。しかし、この時
は予備会談のごときものであり、まだ国際的な注目を浴びることはなかった。
コンタクト
この「三者連 絡 グループ」は次の 6 月 23 日の会合でヴェールを脱ぎ、ポロシェンコの
真の意図が明らかになる。ウクライナ代表がクチマ元大統領に替わったのである。ポロシ
ェンコによる大ボス・クチマの起用は余人をもって代え難がたかったのである。ゴッドフ
18)
ロシアの正規兵がウクライナ軍に捕虜になったのに対しプーチンがすっとぼけて「彼らは道に迷った
のだろう」と嘯いた頃のことで、ロシア当局は親露派武装勢力首脳部を制御し易い人物に入れ替えた。
ウクライナ軍はドネツク近郊のイロワイスクで敵に包囲され大損害を被った(人的被害は千人ほどだっ
たとされる)。
19) 2 月の政変後のヤツェニューク内閣では外務大臣と国防大臣が代行だった。憲法ではこの二職は大統
領が指名することになっているから(その他の閣僚は首相が指名。ただし、全員が議会の承認を受けな
ければならない)、正大統領が不在で大統領代行のトゥルチノフが指名したので、この二職も代行であっ
たという語呂合わせみたいな事情なのだが、正大統領に就任したポロシェンコはチャンスを捉えて代行
職の二人の閣僚の首をすげ替えている。
21
ァーザーのクチマからすれば、ヤツェニューク首相、大統領代行を務めていたトゥルチノ
フ最高会議議長、アヴァコフ内相といった新政権の主要メンバーは、クチマ・チルドレン
よりも下位に位置するいわばチンピラ同然の存在である。チンピラがゴッドファーザーに
表立って逆らえるわけがない。心中穏やかならざるも、ここは新大統領の顔を立て、面従
腹背するほかない。ましてスポンサーの欧米諸国がそれを望んでいるのだから。
このとき会合の場所として選ばれたのが、
紛争の中心地ドネツク市の
「テロリストたち」
の占拠しているドネツク州国家行政府庁舎であった。そこへわざわざ出向いて、
「テロリス
コンタクト
トたち」の代表と会うのである(この「三者 連 絡 グループ」の会談は以後も継続されるの
だが、
「三者」と銘打ちながら、実質的には「テロリスト」を加えた「四者会談」になって
いる。いや、テロリストの代表として必ずドネツクとルガンスクの自称共和国の代表の二
者が参加するのが恒例となった)。さらにクチマは、何と、プーチンのクムであるメドヴェ
チュークをはじめ親露派の大物と見なされている何人もの政治家を引き連れて行った。キ
エフからドネツクに出発するウクライナ代表団を前にしてポロシェンコ大統領は「レオニ
ード・クチマの参加がこのミッションに対するウクライナ大統領の高い関心を物語るもの
である」と演説して、代表団に箔を付け、全面的にゴッドファーザー・クチマに頼ってい
ることを告白している。
ユーロマイダンの輝ける司令官で、当時は国家安全保障国防会議書記の要職にあったパ
ルビーもクチマから見ればやはりチンピラ同然で、不満たらたらながらクチマには指一本
触れられない。代わりにメドヴェチュークの資格を大声で問題にした。
「彼はテロリストど
もの支持者で、しかも奴らの資金源ではないか」と。しかし、ポロシェンコの応答は「メ
ドヴェチュークの起用はドイツのメルケル首相じきじきの指名であった」という殺し文句
だった。
真相は分からないが、
東国の細かな事情によく通じたメルケルのことであるから、
大いにありうることである。因みに、これだけが理由ではないにせよ、パルビーはポロシ
ェンコによって 8 月 7 日に要職から罷免されてしまっている。
コンタクト
このドネツクでの「三者連 絡 グループ」の会合の開始に際してロシア側では大統領報道
官ペスコフが「ロシア大統領はドネツクとルガンスクでヴィクトル・メドヴェチュークが
予備折衝を開始したとの報道を歓迎している」とわざわざコメントしているから、
「知らぬ
はウクライナ政府(内閣)だけ」のポロシェンコ、プーチン、メルケルのできレースだっ
たのかもしれない。
このときの「テロリストたち」の代表との直接の交渉の成果としてポロシェンコの提唱
した一方的な一週間の停戦は実現はしたものの、双方の実戦部隊ともやる気満々で、一週
間が過ぎたら再び戦闘が始まってしまった。ポロシェンコは自国政府も戦闘部隊も掌握し
きれていず、停戦期間中もなすすべがなく、やむなく時間切れとなってしまうのだが、一
方のプーチンも自称共和国の頭目どもとの直接のパイプがなく、上述の報道官の発言が物
語るように、自分のクム・メドヴェチュークの現地での「予備折衝」に期待するところ大
だったのである。
22
因みに、クチマとメドヴェチュークの代表資格はその後もたびたび問題視された。2015
年 2 月 12~13 日に 16 時間以上に亘って行なわれた独仏露ウクライナ首脳の和平会談とし
コンタクト
て記憶されるミンスク会議の前段階となった「三者連 絡 グループ」の実務会議が始まる前
コンタクト
の 1 月 31 日にウクライナ大統領府は「三者 連 絡 グループ」にウクライナを代表して参加
しているレオニード・クチマとヴィクトル・メドヴェチュークの資格に関する国民の問い
合わせに対する回答として、元大統領については「2014 年 7 月 8 日付大統領令に基づい
ている」と後付のような理屈を付け、プーチンのクムについては「ウクライナ保安庁が東
部の人道問題に関する特別代表として任命したものである」と苦しげに弁明している。こ
の言葉に続けて大統領府は、
「この二人が交渉に参加するのに国家の資金は提供されていな
い。彼らは無給で働いている」と仰々しく断っている。ということは、彼らは現在ウクラ
イナで流行のヴォランティア活動をしているとでも言いたいのであろうか。ウクライナの
ように摩訶不思議な国はそうざらにあるものではない。国の運命を決するかもしれない内
戦の調停交渉のために隣国に赴く国の代表が手弁当で行くらしい。日本でも戦争中は「勤
労奉仕」を強いられたが、内戦中のウクライナも無報酬のヴォランティア活動が花盛りで
ある。政府が反テロ作戦の号令をかけても、独立以来一貫して戦闘能力は二の次、三の次
で将軍たちの利権の草刈場と化していた国軍は頼りにならず、戦闘はヴォランティアから
成る義勇軍が頼りなのだが、
その資金はヴォランティアの義捐金に基づくと言われている。
それだけで軍隊が賄いきれるはずがないから、誰もそんなことは信じていない。主たる金
主は言わずと知れたオリガルヒに決まっている。万事オルガリヒ頼りなのだ。因みに、ク
チマは女婿(ピンチューク)がウクライナ有数のオリガルヒであるし、メドヴェチューク
自身もウクライナではオリガルヒ扱いされる資産の持ち主なのである。
しかし、ベラルーシのルカチェンコ大統領が取り持ったプーチンとポロシェンコの首脳
会談の後を受けて 2014 年 9 月初めに同じくミンスクで行なわれた和平の実務会談という
OSCE の代表も参加する国際的な脚光を浴びる場所にクチマのような古狸が引っ張り出さ
れるとは予想だにできないことだった。まさにドロドロぐちゃぐちゃのウクライナならで
はの起用である。なぜなら、欧米の大好きな法の支配を初めとするグローバル・スタンダ
ードからするなら、クチマはいわば潜在的な刑事被告人の身の上なのである。
少し過去を振り返ると、クチマ大統領二期目の 2000 年 9 月に反体制派ジャーナリスト
のゴンガーゼが行方不明になり、一ヵ月半後に森の中で彼の首なし死体が発見された。捜
査の最中の 11 月 28 日に、ウクライナ最高会議の議場で野党(社会党)党首モローズが爆
弾発言を行なって世間を驚倒させた。大統領警護庁所属のメリニチェンコ少佐が大統領執
務室で政府首脳(クチマ大統領、リトヴィン大統領府長官、クラフチェンコ内相、デルカ
ーチ保安庁長官)の交わした会話を密かに録音したカセットテープが存在し、その会話の
内容はゴンガーゼ謀殺の共同謀議であった……。世に言うカセット・スキャンダルまたは
クチマ・ゲート事件の勃発である。クチマ・ゲートとは言うまでもなくニクソン米国大統
23
領のウォーターゲートからの連想であるが、同じように録音テープに関わりがあるとはい
え、こちらは殺人事件である 20)。もちろんクチマはその録音テープが本物であることを強
く否定した 21)が、これを契機にクチマ政権反対運動が盛り上がり、それは 2004 年のオレ
ンジ革命の魁となるものだった。
ゴンガーゼ事件はスキャンダラスな話題を色々と提供したものの、核心に迫るような捜
査が一向に進展を見せない内にオレンジ革命の騒動が巻き起こった。その成果として、日
本を含む西側世界から拍手喝采、賞賛の雨あられの中でバラ色の未来を約束されて政権の
座に就いたユシチェンコ大統領は、二つの大事件を見事解決することを大向こうから期待
された。
一つはこのゴンガーゼ殺人事件であり、二つ目は、言わずと知れた、イケメンが一夜に
して醜面と化した大統領自身に対する毒殺未遂事件である。結論を先回りして言えば、さ
すがぐちゃぐちゃドロドロのウクライナの面目躍如たるところか、この二つとも期待外れ
も甚だしい消化不良の散々な結果に終わってしまった、嗚呼!
政権発足後二日目の 2005 年 1 月 25 日に新大統領ユシチェンコは自信たっぷりに「ゴン
ガーゼ殺人事件は二ヶ月以内に解決できる」と豪語し、3 月 1 日には意気揚々と「ゴンガ
ーゼ殺人事件の実行犯として内務省の職員(警官)が逮捕された」と公表したが、その矢
先に突発事が発生した。3 月 4 日に、その日の朝ゴンガーゼ事件の参考人として最高検察
庁から召喚命令の出ていた元内務大臣クラフチェンコの自殺死体が発見されたと報道され
たのである。クラフチェンコはカセット・スキャンダルの声の主の一人で、クチマからゴ
ンガーゼを「処分する」指示を直接受けたとされる人物である。
衆目の見るところ、これによって事件の決着を図るためにどのような構図が描かれてい
るかが明らかとなったのである。例によって例の如しで、実行犯は逮捕され裁判を受ける
が、黒幕は謎のまま幕引きとなるのであろう。
しかし、この「自殺」はあまりにも乱暴すぎる。遺体に貫通銃創が二つ残っているクラ
フチェンコの自殺をマスコミは「二重自殺」と称したが、剛毅な男もいたもので、喉めが
けて一発放ったあと、二発目をこめかみに撃ち込んだのだそうな。つまり、一発目は喉の
右側から上に向かって撃ち抜かれていて、下と上の顎が砕かれ、歯が八本折れ、舌と鼻軟
骨が損傷していた。しかし、死に切れずに二発目をこめかみに……22)。しかし、捜査当局
は早々に自殺と断定した 23)。
20)
情報通信技師のメリニチェンコは、当時は、大統領と最高会議に直属する国家警護局の大統領警護部
技術課長(階級は少佐)で、皮肉なことに、大統領執務室に盗聴器が仕掛けられていないことを確認す
る責任者を務めていた。モローズの爆弾発言の直前に示し合わせたようにメリニチェンコは国外に出て
アメリカに政治亡命を求め認められている。
21) 後にクチマは「録音された声は自分であるが、テープは恣意的に編集されている」と弁明している。
22) このサイト http://for-ua.com/ukraine/2007/04/23/112635.html に無残な死体の写真が載っている
(2015 年末現在)。発見時「自殺者」は不自然な姿勢で椅子に掛けていた。
23) 即時に自殺と断定した最高責任者は当時保安庁長官の地位にあったトゥルチノフである。トゥルチノ
フは 2014 年 2 月の政変後最高会議議長兼職のまま大統領代行を務め、現在は安全保障国防会議書記の
要職にあるが、クチマが大統領になる前のロケット製造大企業「ユジマシ」社長時代からクチマに仕え
24
そのうえ早くも当時からクチマとユシチェンコの密約説が囁かれていた。既述のように
クチマの女婿にヴィクトル・ピンチュークというウクライナ有数のオリガルヒがいる
(2002 年に大統領の娘と正式に再婚。ユシチェンコ時代の 2008 年にはウクライナの長者
番付第一位。ヤヌコヴィチ時代の 2013 年には第六位に後退)。ピンチュークとユシチェン
コは毎週月曜日の朝食を一緒に摂ると噂された仲であり、このピンチュークが仲介してク
チマ一家を犯罪捜査の対象にしないとする身分保障をユシチェンコから取り付けたという。
後の展開を考え合わせると十分説得力のある説である。
ユシチェンコの発表通り 2005 年 3 月に逮捕されたのは実行犯四人のうち主犯を欠く従
犯の三人。その取調と裁判は三年を要した後、2008 年 3 月に実行従犯三人に自由剥奪 12
~13 年の判決があり、同年 6 月に最高裁がその判決を支持してようやく結審した。その過
程で拉致・殺害の細部は小出しにされながら明らかにされていった。従犯三人は、主犯が
被害者から抜き取ったバンドで首を絞めてゴンガーゼを殺害し、死骸に石油をかけて半焼
きにしたあと地中に埋めるまでの犯行には係わったが、遺体に首のなかった件については
一切関知せず、主犯と目される内務省の警察幹部 24)オレクシー・プカチの後の単独の凶行
と判断された。その実行主犯は 2003 年に一旦逮捕されたがクチマの直接の介入で釈放さ
れ、当時は逃亡中のままだった。
国内潜伏中のこのプカチ将軍が逮捕されたのは、ユシチェンコ大統領の任期が半年余す
だけとなった 2009 年 7 月のことだった(逮捕直後に供述通りゴンガーゼの頭部も発見さ
れた)。オレンジ革命随一のヒーローとして記憶されるユシチェンコは、当時、二期目の大
統領選挙に挑戦することを公言していたが、ぐちゃぐちゃドロドロの内輪揉めの政局続き
のうえリーマン・ショックの KO パンチまで浴びて、すでに人気も声望も地に落ち、世論
調査でトップを走るヤヌコヴィチとそれを追うティモシェンコのはるか後塵を拝する泡沫
候補と化していた。
プカチ将軍の取調・裁判には長時間を要するのは必定。大統領は密約どおりボス・クチ
マを任期中は守り通すことができたのだ! ユシチェンコはクチマを「父親のような存在」
と言って憚らなかったのだから、万が一にも縄付きにするなんて滅相もない。保険まで掛
けてあって、そもそも黒幕と実行犯を繋ぐ最有力の証人はすでにこの世の人ではなかった。
この実行主犯プカチの遅々とした取調べ中に大統領位はユシチェンコからヤヌコヴィチ
に移った(2010 年 2 月)
。ゴンガーゼの尾行・拉致・殺害は上司の内相クラフチェンコか
ら指示されたことを自白したとするプカチの取調べが終了したのは 2010 年 9 月で、奇し
くもゴンガーゼが殺害されてから丁度十年を経過していた。このプカチに対する裁判が始
24)
ていた、いわばクチマ子飼の人物である。
ミリツィア
ポリツィア
当時「警察」はソ連以来の「 民 警 」を称していた。ロシアでは 2011 年に「 警 察 」と改称されたが、
ウクライナの方が脱ソ連度において遅れを取り、ごく最近の 2015 年 11 月にようやく改称された。ロ
シアやウクライナの警察(民警)の階級は山下清流の「兵隊の位」が採用されていて、プカチは「民警
中将」の位にあった(従って「将軍」と呼称される)。日本の階級であると警視長あたりに相当するで
あろうから相当の高官である。事件当時の職責は犯罪捜査部長(極秘監視情報収集部長兼任)。
25
まったのはさらに半年以上のちの 2011 年 4 月からで、審理は非公開で行われた。
それより少し前の 2011 年 3 月 21 日、元大統領クチマは突如最高検察庁からゴンガーゼ
殺害教唆容疑で訴追され、国外禁足令を科された。
2004 年の大統領選挙の際にはヤヌコヴィチはクチマから正式の指名を受けた後継候補
者であり、ユシチェンコは形の上では彼らの政敵であった。クチマはそのユシチェンコ時
代を無事にやり過ごし、ヤヌコヴィチ時代になってからの訴追であったから、世評的には
意外な感があった。しかし、
「元大統領、訴追される!」の報は大したセンセーションも呼
ばず、社会の反応は意外に冷めていた。自分の後継者のヤヌコヴィチが大統領の権力で影
響力を行使する間に、裁判沙汰に決着をつけ、日本で言う一種の禊を終えてしまおうと意
図していたのだと取りざたされた。事態はそのような予測どおりに進展する。
クチマの取調べはウクライナでは異例の速さで進み、数日後の 3 月 24 日には実行主犯
プカチとの対審、4 月 4 日には録音テープの仕掛け人である元大統領警護庁所属のメリニ
....
チェンコ少佐との対審が最高検察庁において仰々しく非公開で執り行なわれが、詳細が公
表されることはなかった。4 月 26 日には取調べ終了が宣告された。
そこで事件の審理は裁判所に移されることになったが、10 月 21 日に憲法裁判所がまず
援軍を買って出て、
「犯罪容疑は、不法な手段で獲得された情報に基づくものであってはな
らない」という決定を下した。メリニチェンコが大統領執務室のソファの下に「不法に」
隠した録音機で「不法に」記録したテープには証拠能力がないというわけである。24)
続いて同年 12 月 14 日にキエフの所轄の地方裁判所はクチマに対する最高検察庁の起訴
は不法であるから無効であるとの判断を下し、さらに翌年の 1 月 20 日に控訴審が、6 月
26 日に最高裁がその判断を是認して結審した。ウクライナの司法は起訴内容の審理に入る
暇も与えず、
門前払いを食わせたのである。
かくてクチマ訴追事件は無事一件落着となり、
その時点では禊が完了したものと見なされた。
...
その間も実行主犯プカチの裁判は粛々と非公開で行なわれ、ようやく 2013 年 1 月に第
一審の判決が言い渡されることになった。その日だけは公判は公開され、予想通り上司の
内相クラフチェンコの指示によりゴンガーゼの尾行・拉致・殺害を実行した罪により最高
刑の終身刑 25)が言い渡された。判決を受け入れるか否かを問われるとプカチは被告席であ
る鉄格子付きのオリの中から「クチマやリトヴィンと一緒に同じオリに入るのだったら、
この判決を喜んで受け入れる」と発言したことが世界のマスコミで大々的に報道され、欧
米では官民が挙げて「実行犯の断罪は一応のケリがついたが、今後はゴンガーゼ殺しの黒
幕を究明し、殺人を命じた真の犯人をひっ捕らえて罰せよ」と大合唱で応えた。明らかに
24)
ウクライナのロシア語作家アンドレイ・クルコフの『大統領の最後の恋』(邦訳は前田和泉訳、新潮
社、2006 年)に、かつて録音機が下に隠されていた「伝説的なメリニチェンコ少佐のソファ」が登場す
る。本人にその気がないのに国の元首に祭り上げられたこの大統領の執務室から件のソファは何者かに
よって盗まれ、行方は杳として知れないのだが、最後の最後でこのソファはニューヨークのサザビーズ
のオークションに掛けられていることが判明する。この大統領の心臓は移植手術を受けているのだが、
念の入ったことに、そこには盗聴器が埋め込まれていた……。
25) ウクライナは欧州評議会加盟条件を守って死刑制度を廃止している。
26
元大統領を殺人罪の潜在的な刑事被告人として認定したのである。
一年半もすれば健忘症が蔓延し、舌の根は乾き切るものらしい。2014 年 9 月にウクラ
イナ政府を代表してミンスクの和平会談にクチマ元大統領がまさにゾンビのごとく現われ
た。内戦の和平を話し合う場であるから内輪のものであるかもしれないが、国際的な脚光
を浴びる談合の場に刑事被告人の資格十分な人物が登場したのである。しかし、その資格
を問う声は欧米側官民のどこからも聞こえてこなかった。
奇怪で面妖で摩訶不思議なことがあるものだ! クチマ政権から現在の政権までは、
2004 年末のオレンジ革命、2014 年 2 月の尊厳の革命(ウクライナではユーロマイダンを
こう呼んでいる)という欧米が官民挙げて歓迎した二つの革命を経たはずである。ところ
が驚くべきことに、二度の革命によって打倒されたはずの旧政権の親玉中の親玉で、しか
も西欧の基準からするならジャーナリスト謀殺事件の黒幕として刑事被告人の有資格者が、
国家を代表して和平会談に参加している!
大げさで奇矯な譬えのようだが、日清戦争の講和会議である下関会談に日本政府全権代
表として徳川慶喜が登場してきたようなものではないか! ウクライナのぐちゃぐちゃド
ロドロ病は、ポロシェンコ政権を支持する欧米諸国に伝染し蔓延しているのだろうか?
EU・ウクライナ連合協定の前文に謳われている「ウクライナは EU 諸国と価値観を共有
している」という文言は正確ではなく、実は「EU 諸国がウクライナと価値観を共有して
いる」のが正解なのであろうか?
クチマ支配体制をクチミズムと称していたが、これは過去の遺物ではなく、どうやら現
在まで生き残り、なおも威力を失っていないようである。親露派とか親欧米派とかいう代
物も所詮は浮き草のような流行の産物であって、土台として不易なるクチミズムは健在な
のであろう。ウクライナ東部の内戦も所詮はコップの中の嵐か、米露対決のとばっちりに
しか過ぎないのではないか。そもそもオレンジ革命とは何であったのか、ユーロマイダン
とは何であるのか、頭を冷やして一考の要ありではないか。
コンタクト
再びクチマがウクライナ代表として参加した 2014 年 9 月のミンスクでの「三者連 絡 グ
ループ」の実務会談に話を戻すと、既述のように、
「三者」とはクチマの他にロシア代表が
駐ウクライナ大使ズラボフ、OSCE 代表がタリアヴィーニという顔ぶれである。このハイ
ディ・タリアヴィーニ女史は名前が「アルプスの少女」と同じイタリア系スイス人のベテ
ラン外交官で、2008 年のグルジア紛争後に EU が送った調査団を率い、
「紛争の発端とな
ったのはグルジア側が先制攻撃を仕掛けたためで、これは明確に国際法違反であるが、ロ
シア軍も防衛の限度をはるかに超えて反撃に転じ、グルジア領内に深く侵攻したのも国際
法違反である」と裁定したことで国際的によく知られた存在で、これによって欧米の一部
強硬派からはプーチン寄りと見られて忌避の動きもある人物である。特にグルジア前大統
領サアカシュヴィリはこの報告を契機として冒険主義者の烙印を押されて実権を失い、大
統領退任後には数多の訴追を受けて祖国に帰るに帰れなくなり、ユーロマイダンを奇貨と
27
して活躍の場をウクライナに移していたが、OSCE 代表として憎っくきタリアヴィーニが
ババ
起用されたのを知って「ウクライナは豚を掴まされた」のに対しロシアは「水中から濡れ
ずに出てくるだろう(悪事を働きながらも刑罰を巧みに逃れることの譬え)」と諷した 26)。
このようなメンバーに「テロリスト」の代表を加えた会談に、ポロシェンコ大統領直々
の指名によってウクライナ代表となったクチマはプーチンのクムのメドヴェチュークを引
き連れてミンスクにやってきたのであるが、当時こんなことを平然とうそぶいていた。
「和
平は誰がもたらすのかね? 二人の意向次第だ。その二人とは、神様とプーチン。神様は存
在しないのだから、すべてはプーチンの胸先三寸なのだ」と 27)。ミンスクでの実務的な和
平会談の実態を言い当てたウクライナのゴッドファーザーにしか言えない言葉である。こ
んなことを並みの政治家が放言したなら、ウクライナはもちろん欧米のマスコミからも顰
蹙を買って、交渉役は即解任に決まっているのだが、腰の引けた欧米諸国、右往左往する
ウクライナのチンピラ内閣を見据えた、このシニックで冷厳なるリアリストぶりを見よ!
ここで 9 月 5 日に署名されたミンスク合意書(正式には「ウクライナ大統領ポロシェン
コの和平プランとロシア大統領プーチンのイニシアティヴの実現のための共同歩調に関す
コンタクト
る三者連 絡 グループの協議結果に関する議定書」と呼ばれる)の本文をみると、何とも奇
コンタクト
妙な文書である。ロシア・ウクライナ・OSCE の代表から成る三者連 絡 グループの協議結
果として、即時停戦、捕虜交換、国境監視等のほか、権力の脱中央集権化(地方分権)と
地方選挙について規定したドンバス(ドネツク州・ルガンスク州)の特定地域(自称共和
国占領地域)に特別の地位を付与する法律(特別地位法)の採択を含む十二項目の合意事
項を羅列し、署名欄には OSCE 代表タリアヴィーニ、第二代ウクライナ大統領クチマ、ロ
シア駐ウクライナ大使ズラボフの下に一行空けてザハルチェンコとプロトニツキーという
肩書き無しの人名が記載され、それぞれの署名がある。
「即時停戦」の双方の当事者は誰と
誰なのか、ザハルチェンコとプロトニツキーというのは、そも何者なのか、一向に要領を
得ない。
この停戦合意にはウクライナ国内から批判があり、ウクライナ安全保障国防会議の報道
官はそれに応えるように、
「この停戦は、諜報活動を行ない、敵軍の配置を知り、自軍の兵
力の再編を図るために必要なものである」と弁明すると、自称共和国側はそれ見たことか
コンタクト
とばかり「ドネツク国民共和国とルガンスク国民共和国は三者連 絡 グループの協議に、決
定を下す権限を持ちそれに責任を負うことのできる最高位の人物を代表として参加させた
が、ウクライナ側を代表したのは、何らの権限も付与されていず、決定に何らの責任を負
フ
ァ
ル
ス
わないウクライナ元大統領クチマであった。この事実は、ウクライナ側が本会談をお笑い劇、
26)
2015 年 5 月 30 日、同胞よりも外国人頼りのウクライナ大統領ポロシェンコはサアカシュヴィリにウ
クライナ国籍を与えオデッサ州国家行政府長官(実質は国選のオデッサ州知事職)に任命した。その直
後の 6 月 7 日にタリアヴィーニは「三者連絡グループ」OSCE 代表を辞任した。この辞任を誰よりも喜
んだのはサアカシュヴィリであったと伝えられている。
27) http://interfax.com.ua/news/political/223351.html#at_pco=smlwn-1.0&at_si=5417f5e488337832
&at_ab=per-2&at_pos=0&at_tot=1
28
空疎な見せ掛けと化してしまって、本議定書の条項の違反に対するあらゆる責任を回避し
てしまうことの証拠である。何故なら本議定書には適切な権限を付与されたウクライナの
一人の公職者の署名も無いからである」という声明を出し、
「キエフ討伐軍」の停戦違反の
砲撃の継続は協定を初めから守る気はないからであると決めつけている。
これに対しウクライナ外務省が声明を出し、クチマの資格に関して「第二代ウクライナ
大統領は国の指導部からの委任状を持参していて、
ウクライナを代表している」と弁明し、
さらに続けて「ウクライナは LNR と DNR28)とは話合いを行なっていない。我々は停戦の
指示を与えることのできる相手、捕虜交換の交渉のできる相手と話合っているのである」
と苦し紛れに笑止千万なことを言っている。
クチマさんはどうやらウクライナ元大統領という顔パスでウクライナを代表して会議に
やってきたようだ。署名欄の肩書も「第二代ウクライナ大統領」とあるきり!
コンタクト
三者連 絡 グループの面々はさらに集まって上記の 9 月 5 日の議定書の細目を詰めて、9
月 19 日に「議定書条項履行に関する覚書」を締結した。ここで初めて「ロシア・ウクラ
コンタクト
イナ・OSCE の代表から成る三者連 絡 グループの参加者とドネツク州およびルガンスク州
の特定地域の代表者」が一堂に集まって会談し合意に達したと記されたが、署名欄は 9 月
5 日付の文書と同じで、ザハルチェンコとプロトニツキーには肩書が無い。しかし、この
文書を素直に読めば、この両人が「ドネツク州およびルガンスク州の特定地域の代表者」
であることが分かり、このような形で初めて自称共和国はウクライナ政府筋から認知され
たことになる。このようにして結ばれたミンスク合意は曲がりなりにも翌年の一月半ばま
で守られることになる(後の 2015 年 2 月の四ヵ国首脳会談の結果を第二次ミンスク合意
と呼ぶのに対し、こちらは第一次ミンスク合意と呼ばれる)
。
ウクライナ東部での事実上の内戦は、戦闘停止を求める国際世論を背景にポロシェンコ
→クチマ→メドヴェチューク→プーチンという既成政治家のコネとクチマの国内での威信
によって一応の停戦にこぎつけ、さらに第二次ミンスク合意によって本格的な戦闘は止ん
ではいるものの、紛争が解決できる見込みは皆無である。たとえまかり間違って「テロリ
スト」とロシア側が合意事項を全て履行したとしても、古だぬきクチマの神通力にも限り
があり、ウクライナ側の展望は真っ暗闇。最大のネックは、
「テロリスト」占領地域の特別
地位法の制定である。第二次ミンスク合意では、それには「地方分権のための憲法改正」
が必要なことが謳われている。憲法改正には、議会で三分の二の賛成を要する関門を越え
なければならないが、その可能性はゼロに近い。ウクライナは何事によらず、自分では何
一つ決められないのだから、そのうち他国が決めてくれることだろう(決して冗談ではな
く、ウクライナ国内でも、最近は、
「ウクライナ疲れ」した西側諸国がロシアと裏取引して
しまうのではないかと本気で心配している事情通も存在する)。
相も変わらず太平楽のウク
ライナの大勢は、地方分権(ウクライナ語でも英語と同じように「権力の脱中央集権化」
28)
LNR と DNR はそれぞれルガンスク国民共和国、ドネツク国民共和国の略語であるが、わざとフルネ
ームでは呼ばない。イスラム国のことを近頃日本で IS と言っているのと同じ理屈なのであろう。
29
と表現する)を伴う憲法改正を行なったら、ウクライナは単一制国家ではなく連邦制国家
になってしまうと空騒ぎ。ウクライナらしく堂々巡りになるのだが、本稿の冒頭でロシア・
ウクライナ同一民族説に反撥するウクライナ本流の論客たちは口を揃えて「ウクライナは、
連邦制のロシアと異なり、単一制国家なのだ」という手前味噌の「国是」を自慢げに主張
していた。「国是」は侵してはならないのだ。
そもそも地方分権とは地方自治の本質に関わることだが、ロシアやウクライナにおいて
地方自治がどの程度実現されているものやら。ここではロシアのことは措くとして(一言
だけ言っておけば、事情はウクライナと大して変りはない)
、ウクライナにおいては早い話、
肝心かなめの日本の知事職に当たる「国家州行政府長官」が大統領の任命制ではないか(日
本の市町村に当たる行政区画の首長は住民の直接選挙
29))
。最近ではオデッサ州の「国家
州行政府長官」30)にグルジア前大統領のサアカシュヴィリをポロシェンコ大統領が任命し
て話題となっているが、このウクライナの枢要な州にそれまで縁もゆかりもない人物が州
あま
の最高権力者の地位に文字通り天下ってきても、それに文句をつけたのは「親露派」だけ
で、他はむしろ有難がって、こぞって大歓迎の有様。いやはや!
29)
キエフ市は州に準ずる別格の扱いを受けているが、市長は民選。2014 年政変直後に当選した元ボクサ
ーのパンチ党党首クリチコ市長は盟友のポロシェンコ大統領によって「キエフ市国家行政府長官」にも
任命され、
「チャンピオン・ベルトを二つ取った」と得意の絶頂。せっかく地方自治を体現したような地
位を獲得したのに、自ら進んで大統領に首輪を付けてもらったようなものではないか。どこかの国の府
と市の主張みたいに二重行政の弊害を除くことはできるかもしれないが。ウクライナの不思議なところ
は、簡単に公職が兼務できること。政変直後には立法の長のトゥルチノフ最高会議議長が現職のまま行
政の長の大統領代行に就任している。三権分立を国の基本に据えているはずの西側諸国が何故文句ひと
つい言わなかったのだろう?!
30) ポロシェンコはどさくさまぎれに「国家州行政府長官」に代えて権限のより大きい「プレフェクト(フ
ランス語で知事)」制度の導入を画策しているが、やはりこれも例によって例の如くデットロック状態。
30
ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語
(http://cherepakha.jp)
目次
ウクライナの実状(http://cherepakha.jp/ukr-real.pdf)
冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(http://cherepakha.jp/ukr-ecom.pdf)
1.冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較
2.冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較
冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態
「ポーランド的秩序」の伝染?
宿命の東西対立
オリガルヒとソヴィエト的悪平等
ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(http://cherepakha.jp/ukr-h-kum.pdf)
他立国ウクライナ(http://cherepakha.jp/ukr-depend.pdf)
ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か?(http://cherepakha.jp/ukr-v-or-na.pdf)
ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格、あるいはアンチ品格
国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋
プーチン憎しの卑語歌
ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家
DNA 鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う?
拾遺
グルジアとコーカサスについて
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