2007年度 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部・情報文化課程
文化コミュニケーション履修コース
2007 年度
卒業論文概要
安尻 優
大島弓子論
1
石川 智佳子
村上春樹研究――初期三部作における音楽の役割
2
伊藤 加奈子
『ブラック・ジャック』の女たち
――手塚漫画における女性性とメタモルフォーゼ
3
犬石 綾子
メディアにおける妖怪の再生産
4
上野 隆
宮藤官九郎論
5
大橋 優登
〈キャラクター〉論――萌えの生成と論理
6
小笠原 志帆
いしいしんじ論――疎外される身体・受け入れられる身体
7
澤潟 佳奈子
J.D.サリンジャー作品研究
8
組頭 志織
リリー・フランキー論――幻視される〈東京〉
9
齊藤 康成
今日の音楽・映像経験の起源
――今日的ミュージックビデオの理解へ向けて
10
佐藤 彩
矢沢あい作品における街の描写
11
佐藤 圭
後期溝口作品における映像と音響
――『西鶴一代女』、
『雨月物語』、『山椒大夫』を中心に
12
柴田 睦
四谷怪談論――その怪奇性をめぐって
13
田中 麻美
シンディ・シャーマンにおける自己像のゆらぎ
14
田村 翔
『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の作中描写について
15
土田 恵理子
ラウシェンバーグ論――都市文化と視覚経験
16
戸柱 有利
ティツィアーノ論――画中の人物の視線についての考察
17
永岡 陽助
メディアにおける〈甲子園〉表象の変容
18
南部 恵美
現代日本映画における主題歌――物語と歌詞の関係をめぐって
19
長谷川 健太
プロデューサー・鈴木敏夫論
20
藤村 薫
ギイ・ブルダンにおける身体の表象
21
皆澤 里美
斉藤洋作品における「もうひとつの世界」
22
望月 友里江
ヘンリー・ダーガー論
23
茂木 みずほ
美術館における身体――見世物への回帰
24
森
麻衣
一条ゆかり論―― 一条作品における性愛表現の変遷
25
谷地畝 万里絵 矢沢あい論
26
山上 貴子
ジェームズ・タレル作品における光と身体
27
遊佐 水亜
現代アートとコミュニケーション
28
渡部 敏喜
伊坂幸太郎論
29
小柳 慶子
ファッション雑誌における女性の表象――消費・眼差し・個性
30
佐藤 南
R.シューマン論
31
高橋 諒
ミケランジェロ・アントニオーニ作品における物語とリアリズム
について
32
星野 優
ウォーカー・エヴァンズ――アートとドキュメンタリーのあいだ
33
宮野 典子
乙一作品における死の表象
34
山田 幸恵
エンターテイメントとしての「ヴィジュアル系」
35
大島弓子論
安尻 優
大島弓子は 1968 年にデビューした少女マンガ家である。彼女は、昭和 24 年前後に生ま
れたことから萩尾望都や竹宮恵子ら他の少女マンガ家たちと一緒に「24 年組」と呼ばれて
いる。大島弓子は、少女マンガの描写に多大な影響を与えた人物であり、彼女の作品には
登場人物の自意識や内面性を深く掘り下げたものが多い。どの作品にも共通しているのは、
「目の前の世界と、今ここにいる自分との違和」である。彼女の作品は、デビューからテ
ーマは変化せず一貫している。しかし描写は年々変化し、その変化にはある特長を見るこ
とが可能だ。この変化と特徴が大島弓子の作品世界を生み出す重要な要素だと考えられる。
本論文では、大島弓子の作品を年代順に追い、そこに現れている描写の変化と特徴を分析
した。そして、そこから彼女の作品がどのような世界観を持つのかについて考察した。
第 1 章では、大島の内面描写について触れる前に、少女マンガの内面描写について分析
した。少女マンガの複雑な内面描写を生み出したのは、大島ら「24 年組」と言われている。
一般的な少女マンガの内面描写がどのようなものか、少年マンガと比較し特長をあげた。
第 2 章では、大島弓子独自の内面描写が生まれる過程をみた。大島は、
『誕生』という
作品を境に、それまで平面的だった内面描写に深みを与えることを可能にした。その後、
大島は『F(フロイト)式蘭丸』で環境に適応できない少女を自己分裂させることで、内
面と肉体の乖離を描き始めた。
この作品以降、
何らかの形で現実世界に内面世界が登場し、
主人公の苦痛が描かれることとなる。
第 3 章では、代表作『綿の国星』が、それまでの作品と大きく異なる点について指摘し
た。この作品で大島は、少女の内面性を子猫のデフォルメを用いて描き上げるという新し
い手法を見せた。このデフォルメは、彼女のその後の作品に大きな影響を与えたと考えら
れる。
第 4 章では、
『秋日子かく語りき』
『つるばらつるばら』
『夏の夜の貘』
『サマタイム』に
ついて触れ、徐々に内面世界が肥大化していることについて指摘した。
『つるばらつるばら』
以降、肉体は内面に覆われていき、その結果、
『サマタイム』で大島は、肉体を消滅させて
内面(意識)のみの世界を描いた。
第 5 章では、第 1 章から第 4 章を踏まえ、大島の「無意識の一人言」という考えから、
彼女の世界観について考察した。大島の人称の使い方やイラストタッチに触れ、彼女の作
品の曖昧さや不鮮明さ、そして作品内に点在する大島の無意識の言葉が彼女の世界観を作
り上げていると考えた。
「無意識の一人言」によって描かれた内面世界や妄想は、大島の作
品の特徴である。大島弓子は内面世界や妄想を、内面世界らしく、妄想らしく描いたとい
う点で内面世界におけるリアリティを描いたマンガ家なのではないだろうか。
1
村上春樹研究―初期三部作における音楽の役割―
石川 智佳子
村上春樹の小説には、どの作品にも多くの音楽や音楽家の名前が出てくる。また、タイ
トルが音楽の曲名になっていることも多い。そこで本論文では、村上春樹の小説の中でも、
初期三部作と言われている、『風の歌を聴け』
『1973 年のピンボール』『羊をめぐる冒険』
の三作品に焦点を当て、その中で音楽がどのような意味を持っているのかを考察した。
第 1 章では、
『風の歌を聴け』で使われているビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・
ガールズ」について分析した。ここでは、
「カリフォルニア・ガールズ」という曲の明るさ
と、それを作曲したビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの内向的性格という、陽
と陰の関係が、
『風の歌を聴け』における文体の軽快さと内容の陰鬱さと対照性があること
を提示した。
第 2 章では、
『1973 年のピンボール』における音楽について分析した。この作品に出て
くる音楽は、主人公の「僕」や「鼠」にとって、思い出深い 60 年代という一つの時代を
浮かび上がらせる効果を出している。それと同時に、70 年代という時代を生きていること
に違和感を持ち、60 年代から抜け出せないでいる「僕」や「鼠」の心情を表している。そ
して、
『ノルウェイの森』に出てくる「ラバー・ソウル」の曲を分析することで、その青春
の感受性をより深く思い起こさせる「ラバー・ソウル」というアルバムが、60 年代という
時代から抜け出し、1973 年現在に前進していくための、60 年代の「僕」の過去に対する
鎮魂歌であることを明らかにした。
第 3 章では『羊をめぐる冒険』で使われている音楽の役割について考えた。この作品に
は、前の 2 作品のように全体的に作品の内容と関わっている音楽がないように思われる。
しかし、具体的な音楽名や音楽家の名前を正確に描いていることから、固有名詞としての
音楽のあり方という視点から音楽の役割を考えた。そこから、村上春樹は固有名詞として
音楽を使うことで、小説にリアリティを持たせていることを明らかにした。
以上のことから、ジャズ喫茶を経営しながら執筆し、デタッチメントを意識して書かれ
た『風の歌を聴け』と『1973 年のピンボール』では、主要な音楽の使われ方が類似し、と
もに「僕」の、周りの人や物に対するデタッチメントの姿勢を読み取る道具として使われ
ていることが明らかになった。一方で『羊をめぐる冒険』はテーマがストーリー性へと変
わったと同時に、音楽の使われ方も、固有名詞の羅列によってよりリアリティを出し、物
語の内容からはみ出さないようにさりげなく使われている。この三部作から、村上春樹の
小説では、テーマに合わせて音楽の使われ方も変化しているということが明らかになった。
村上春樹にとって小説と音楽の使われ方は常に密接な関係にあり、ともに変化し続けてい
ると言えるのではないか。
2
『ブラック・ジャック』の女たち――手塚漫画における女性性とメタモルフォーゼ――
伊藤 加奈子
手塚治虫の代表作のひとつである『ブラック・ジャック』は、ヒューマニズムの物語と
見える。しかし、それは主人公ブラック・ジャックが行う人命救助行為を狭い意味で見た
時に解釈される一面に過ぎない。実際に彼が行う救助行為はヒューマニズムの領域を超え
ているのである。本論では『ブラック・ジャック』において起こる女性のメタモルフォー
ゼに焦点を当て、手塚漫画における女性性のあり方を明らかにしてゆくことを目的とした。
第1章では、死んだ家族の内臓や身体の部位を移植されることで命を救われ、体内で家
族の命を育みながらひとり生きるラブロの娘ほか4人の女性を中心に、メタモルフォーゼ
と、その過程において発生する手塚独特のエロティシズムやグロテスクについて考察した。
ブラック・ジャックが医療倫理を逸脱するときにグロテスクが生じ、どんな手段を用いて
も人の命を救おうと行動するときにエロティシズムが生じる。そして、そこには必ず生き
残って命を繋ぐという強い力を持った女性性が現われ、結果として女性がメタモルフォー
ゼに至るという、重なり合う層構造が『ブラック・ジャック』において明確に現れている
ことを示した。
第2章では、翼を与えられた鳥人間・成田以香留、死んだ女の声を与えられた雌犬・ヌ
ーピーという視覚的によりわかりやすいメタモルフォーゼの例を中心に、グロテスクやエ
ロティシズムの描かれ方をより詳しく考察した。グロテスクの発生には、人々、ひいては
世界からの疎外が関わってくることについてもここで言及している。結果として、彼女ら
を含む手塚漫画における異形の女性たちは、男に対して異性というよりもむしろ異生物的
な存在であるという見解を示した。
第3章では、ブラック・ジャックが畸形嚢腫から作り出した半人造人間・幼女ピノコに
ついて考察を行った。当初女性型アンドロイドとしてデザインされたという鉄腕アトムと
ピノコとの間にいくつかの共通点を見出し、かつ手塚自身の女性観には昆虫の雌のイメー
ジが大きく影響していることを指摘することで、ピノコもまた人間よりも異生物に近い存
在として描かれた女性であることを明らかにした。また、女の畸形嚢腫であるピノコと、
男の畸形嚢腫の描かれ方とを比較することで、女性とはメタモルフォーゼに至ることでそ
の命を永らえていく性の謂であり、男性とはメタモルフォーゼに至ることなく命尽きる性
の謂なのではないかという考えに至った。
手塚漫画における女性は、整形手術や移植手術によって姿形を何度も変えつつ命を永ら
えている。命の限りを尽くしてなんとしてでも生き、時を越え、男女の別を超えてでもそ
の命を繋ぐという、言わば命の根源としての性、それが彼女たちの核たる女性性であると
言えるのではないだろうか。
3
メディアにおける妖怪の再生産
犬石 綾子
近年、妖怪を扱うメディア作品が増えてきている。また、妖怪についての研究も見直さ
れつつあり、それに興味を持つ人も増えてきた。しかしそれらの研究は過去の妖怪を扱う
場合が多く、現代における妖怪についての言及は少ない。
妖怪とは怪異を説明するための言葉の一つであるが、怪異を起こすものの代表は現代で
は幽霊であり、かつては狐狸であった。その狭間で、特に名前をつけられた怪異が妖怪の
正体の一部であると言えるだろう。また、これまでの妖怪研究を参照し、その内外で妖怪
がどのような存在として扱われてきたのかを見てみると、妖怪が創作と密接な関係がある
のがわかる。江戸時代には、妖怪はノンフィクションとして恐れられると共にフィクショ
ンのキャラクターとして、娯楽の対象になった。鳥山石燕を始めとした絵師の描いた妖怪
は、後に水木しげるなどに影響を与え、現代の妖怪イメージの大部分を支えている。そし
てその描かれたものの中には、本当に存在するとして語られた妖怪と、全くの創作妖怪が
混在している。しかし現代では過去の妖怪においてのノンフィクションとフィクションの
区別は難しく、むしろ時代による区別がある。古い時代に語られ作られた妖怪が本当の妖
怪であり、近代以降のものはフィクションにおけるものだけで、妖怪という存在ではなく
妖怪というジャンルのキャラクターであるという認識である。これは柳田國男などの妖怪
研究が広く人に知られるようになった結果であろう。つまりその研究の対象になったもの
が正当な妖怪とされているということだ。
現代の漫画や小説などのメディアにおいては、妖怪は水木しげるの印象が強いが、少し
ずつその記号としての役割を変容させつつある。妖怪は、設定であり、民俗学の対象であ
り、面白おかしい身近な存在であり、人の心の闇の部分である。こうしたことから言える
のは、暫く子供向けに描かれてきた妖怪が、大人にとっても面白いものとして扱われるよ
うになってきているということだ。
ノンフィクションとして語られる場合の妖怪は、これらフィクションで描かれるものの
影響を多大に受けている。漫画のキャラクターとして知名度が高い妖怪の名前は、純粋に
怪異を語る際には使用を避けられることがそれをよく示している。また、都市伝説の中に
は妖怪の特徴をもつものが見受けられる。妖怪とも幽霊とも言いがたい存在もしばしば語
られ、それらは狐狸と幽霊の狭間にあった妖怪と似た立場にある。一方、そうしてノンフ
ィクションとして語られているものが、漫画などのメディアの題材になりフィクションに
昇華されているという状況がある。
現代のメディアは、ノンフィクションとフィクションの間に妖怪の還元のらせんを作り
出した。このらせんが新たに妖怪を生産するのではないだろうか。
4
宮藤官九郎論
上野 隆
松尾スズキの主宰する劇団「大人計画」に所属する俳優、宮藤官九郎は、歌手や演出家
としても活動を行っており、紅白歌合戦出場や平成 15 年度の第 41 回ゴールデン・アロー
賞特別賞受賞など幅広い分野で活躍をしている。しかし彼の活動で最も注目を集めている
ものは脚本家としての活動である。彼の脚本家としての活動は舞台や映画などでも行われ
ており、2003 年の日本アカデミー賞最優秀脚本賞や 2005 年の岸田國士戯曲賞を受賞して
いる。これらだけでも宮藤官九郎の活躍が伺われるが、彼の名が世の中に広く知らしめら
れたのはテレビドラマの脚本を手がけてからではないかと私は考えた。このため本論文で
は彼のテレビドラマの脚本を分析の対象とした。
また、彼の脚本には多くの「笑い」の仕掛けが含まれている。このことは宮藤官九郎自
身もインタビューで述べている。そのため本論文では宮藤官九郎のテレビドラマの脚本の
「笑い」という点を中心に論じる。
第一章では、パロディを中心に考察した。宮藤官九郎の脚本には、落語、テレビ番組、
CM などを題材としたさまざまなパロディが含まれていた。
第二章では「構成」による「笑い」を中心に考察した。宮藤官九郎のドラマの脚本には
他のテレビドラマでは見られない物語の展開がたびたび見られる。第一節では『木更津キ
ャッツアイ』での「表裏の構成」
、第二節では『マンハッタンラブストーリー』で見られた、
アルファベット順での恋愛の連鎖、第三節では二つの違う場所での会話が、互いに「シン
クロ」していくという技法がいくつかの作品で見られるということをそれぞれ考察した。
第三章では「攻撃的な笑い」を中心に考察した。宮藤官九郎の脚本では他人を侮辱する
ような台詞や、自分を卑下している台詞などが多く見られる。それらが「笑い」につなが
ることは少なくない。この章では「攻撃的な笑い」を細分し、宮藤官九郎自身の嘆きをド
ラマに描く「自虐的な笑い」
、言いたいことを我慢せずにストレートに表現してしまう「解
放の笑い」、
日常の生活が一般の人とは過度に違う人物の挿入によって起こる「奇怪の笑い」
という 3 つのテーマで、
「笑い」について考察した。
現在テレビドラマはめまぐるしく次々と制作され、連日放送されている。そして、日常
の生活で「ベタなドラマ」や「ドラマみたいな話」などの言葉に表れているように、テレ
ビドラマに対してある程度の流れや展開の予想をしながら見ている視聴者が存在するよう
にもなってきている。宮藤官九郎脚本のテレビドラマでは、そのような予想している視聴
者を裏切る展開が、上記した仕掛けにより作られていく。そして、この点が宮藤官九郎脚
本のテレビドラマの「笑い」の特徴の一つと考えられる。
5
〈キャラクター論〉――萌えの生成と論理
大橋 優登
本稿はアニメやマンガやゲーム等の〈キャラクター〉が最も盛んに作られ、消費されて
いるオタク系文化の構造を明らかにすることを主な目的とした。さらに、
〈キャラクター〉
に対する萌えに注目し、
〈キャラクター〉と人間との関係性についても考察した。
第 1 章では、
〈キャラクター〉はイメージ(図像)それ自体で存在するものではなく、
イメージと人間との関係性のなかから生じてくる「シミュラークル」であると定義した。
第 2 章では、第 1 章で定義した〈キャラクター〉がテクスト内で成立するプロセスを考
察し、どのようなプロセスを経て一種のリアリティを持った「人物」として認識されるに
至るのかを議論した。本稿は〈キャラクター〉が表象されるテクストの物語によってキャ
ラクター性が作られるものと、あらかじめ何らかの意味を持ったパーツの組み合わせによ
ってキャラクター性が作られるものの二つに〈キャラクター〉
の成立プロセスを大分した。
第 3 章では、
〈キャラクター〉と人との関係性から生じる萌えについて考察した。主に
美少女〈キャラクター〉に対して性的な欲望を抱かせる萌えの機能に着目した。美少女〈キ
ャラクター〉の表象される多くのテクストには、美少女に対する萌えを喚起する描写や物
語構造があり、テクストを読む人間の欲望をテクスト内部に描かれる欲望に同化させ、強
化し、
〈キャラクター〉
への消費を促す装置として萌えが機能していることを明らかにした。
第 4 章では、オタク系文化における萌えの機能について考察した。本稿は萌えが単なる
感情移入ではなく、オタク系文化全体から生成される一種のイデオロギーであることを明
らかにした。萌えは〈キャラクター〉に記号的な価値や意味を与える装置として機能して
いる。そして、萌えによって〈キャラクター〉を際限なく生み出し、消費していくオタク
系文化の消費構造にオタクたちが無意識的に加担していることを本稿は明らかにした。
第 5 章では、1~4 章の議論を踏まえて〈キャラクター〉を消費する経験について考察し
た。本稿は〈キャラクター〉がそれと向き合う人間の持つ「個」の経験との係わり合いに
よって生まれる他人とは共有不可能な経験を生み出すことを明らかにした。そして、第 2
章で明らかにした二つの成立プロセスの議論を踏まえ、オタクたちは〈キャラクター〉を
誰にとっても均一な存在である典型として認識する一方で、個別性を持った自分にとって
唯一の「人物」としても認識するという態度の二重性を本稿は明らかにした。
終章では、現代の高度メディア社会において引き起こされる人々の「個」の喪失につい
て議論した。
〈キャラクター〉に対するオタクたちの態度の二重性を通じて、人々がメディ
アのコントロールに屈服する一方で、自らの感性によってメディアを読み解くというメデ
ィアに対する態度の二重性がありうることを示した。つまり、人々はメディアが大量に流
す均一化された情報をそのまま受け取る没個性化した主体となりうる一方で、均一な情報
を自らの感性と想像力によって読み解く主体にもなりうるのである。
6
いしいしんじ論~疎外される身体・受け入れられる身体~
小笠原 志帆
いしいしんじは、2000 年に『ぶらんこ乗り』で本格的に作家デビューし、2003 年には
『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞を受賞した。その後は、『プラネタリウムのふたご』
(2004)を始め3作品が三島由紀夫賞候補作となっている。
いしいしんじの作品には、常にその中心に極めて印象的な身体イメージが描かれている。
本論文では、それらの身体イメージこそ作品のテーマに深く関わるものであると考え、身
体を中心にいしいしんじ作品を分析した。その際、いしいしんじによっても「『ぶらんこ乗
り』から直接『麦ふみクーツェ』に自分ではつながってる」と言われるように、通底する
テーマを持つ初期の 2 作品を取り上げた。
第 1 章では、
『ぶらんこ乗り』を取り扱った。
『ぶらんこ乗り』の中心的人物である「弟」
は、自分が住む「この世」と、その外側に広がる得体の知れない世界である「あっち側」
の間を揺れ動く存在として描かれる。まずは「この世」と「あっち側」に関する描写を拾
って分析していくことで、
「この世」と「あっち側」が、社会的空間と個人的空間と言い換
え得る世界であることを明らかにした。そして次に、この二つの空間の境界であり、また
媒体でもある身体について考察した。
『ぶらんこ乗り』においては、純粋に媒体として機能
する理想的な身体像と、媒介機能を喪失した不自然な身体像が同時に描かれる。そこから、
人間の身体はその二つの間で揺れ動く不安定なものである、というテーマを見出すことが
できた。その身体が不安定なままに受け入れられるとき、物語は終わりを迎える。
第 2 章では『麦ふみクーツェ』を分析した。
『麦ふみクーツェ』は、混沌と秩序という
対立をもとにして進んでいく物語である。混沌とした現実世界に、世界を整然とさせる秩
序そのものとしての音楽が鳴り響き、それが人々の救いになる。繰り返されるこの図式を
分析することによって、混沌が孤独を、秩序がつながりを意味することが明らかになった。
それを前提として、次は『麦ふみクーツェ』における身体について考察した。主人公であ
る「ぼく」の障害を持つ身体は、他者に疎外され、自己によっても疎外され、
〈異物〉とし
て強調される。
〈異物〉と化した身体は混乱してノイズをあげる、孤独な身体である。しか
し、物語の最後に「ぼく」自身によって身体が受け入れられると、
「ぼく」の身体は秩序そ
のものとしての音楽を奏で、世界とのつながりを回復する。
『ぶらんこ乗り』と『麦ふみクーツェ』はともに、自己と世界の間にある身体の揺らめ
きを描いた作品だと言えるだろう。その身体は生き生きとして世界と触れ合い、語り合っ
たかと思えば、次の瞬間にはノイズをあげて狂い始め、自己と世界の間に壁のように立ち
はだかる。しかしどちらの作品も、最後にはその不安定な身体がありのままに受け入れら
れ、祝福される。そこには、人間が身体を介して世界とつながるという一見あたりまえの
ことの困難さと、それゆえの素晴らしさが表現されているのではないだろうか。
7
J.D.サリンジャー作品研究
澤潟 佳奈子
J.D.サリンジャーは、20 世紀後半のアメリカで、非常に高い人気を得た作家のひとりで
ある。
1940 年代から短編を発表し、
1951 年に発表された初の長編小説
『The Catcher in the
Rye』で作家としての地位を確立した。そんなサリンジャーの小説の多くは青年をテーマ
としている。サリンジャー自身も青年を主にテーマにしていることを認めており、そこに
はサリンジャー文学の本質が潜んでいることは間違いない。そこで本論文では、サリンジ
ャー作品における青年たちの描写、及び行動を見ることにより、青年が大人へと移行する
プロセスを分析し、具体的にサリンジャーが小説に描く「成長」とは何か、それを作品中
で描くことにより何を伝えたかったのかを明らかにしていくことを目的とした。
第 1 章では、サリンジャーの生い立ち、社会背景を考察することにより、作品の中の青
年とサリンジャーの密接な結びつきを明示し、それらが青年小説を書く原点になっている
とまとめた。
第 2 章では、初期の短編と全盛期の作品における青年の成長過程を分析した。その際、
『The Catcher in the Rye』は日本において野崎訳と村上訳が出されていることから、2
つの描写の違いにも触れながら考察した。作品に描かれる青年は共通して、外見や行動は
大人と言えるほど成長しているにも関わらず、それに見合うほど精神が追いついていない、
つまり何かが足りず大人になりきれていない。しかし、初期の短編に描かれる青年は、最
後にはあるきっかけで突如何かを悟り成長するのに対し、全盛期の作品に描かれる青年は、
死もしくは現状維持にとどまっているという違いが見られた。
両者には成長の描かれ方に違いが見られるため、続く第 3 章において、初期の短編と全
盛期の作品に込めるサリンジャーの想いを考察し、全盛期の作品にこそ作者が込めた特別
な意思を持った青年描写があることを明らかにした。
サリンジャーは青年をテーマにすることで、社会のはみ出し者のように扱われてきた青
年が、社会の中で葛藤や悩みをどのように解決し、結果として何を学ぶのか、その成長の
過程を描いた。そして、青年が苦悩や葛藤を経験する中で、必ずしも誰かが救ってくれる
わけではなく、現実はもっと厳しいということを訴えている。それらを乗り越える機会は
誰かから与えてもらうものではなく、あくまで自分自身で切り開いていくことがサリンジ
ャーの思い描く「成長」なのである。また、作品に込められた意図とは、作品に投影され
ているサリンジャー自身の経験を通じて、世の中の青年達に同じ思春期の悩みを共有でき
る居場所と未来への希望を与えることであった。サリンジャーは、小説を書くことによっ
て青年特有の「悩みについての記録」を残した。読者に決して孤独ではないことを示し、
悩んでいるのは一人じゃない、と小説を通して教えてくれる。これこそサリンジャーが成
し遂げたことなのである。
8
リリー・フランキー論 幻視される<東京>
組頭 志織
リリー・フランキーはイラストレーター、作家、構成作家、絵本作家、ミュージシャン
など、そのジャンルを限定しない活躍から「マルチアーティスト」とも称される人物であ
る。その幅広いジャンルの中から生み出される多数の作品において、一貫性を持って表れ
ているのが、
「東京」というキーワードである。彼が生み出す東京は、東京が舞台でありな
がら現実の東京ではなく、いわば幻想の東京である。本論文は、いくつかの作品をジャン
ルに関わらず緻密に分析していくことによって、地方出身の人間の視点から描いた、彼の
「東京的」とも言える作品世界から生み出されるものが何なのかを考えるものである。
第一章では、リリー・フランキーの作品には頻繁に東京タワー、または間接的に東京タ
ワーを連想させる言葉(「巨大」「細長い」「空にのびる」といった特徴をもつ別の何か)が
登場するのだが、それに対し彼が上京したと考えられる 1980 年代に東京タワーという場
所は若者を魅了するような場ではなかったことを見た。ここで、東京タワーとは、抑圧さ
れた東京のシンボルなのではないかということを考察した。さらに、彼の作品の中に共通
して繰り返し表れるイメージとして「選別」と「死」があることを説明し、短編小説集『ボ
ロボロになった人へ』の中の「大麻農家の花嫁」を分析することで示した。
第二章では、彼の児童向け絵本作品『おでんくん』の作品構造を分析し、
「あんしんキャ
ラ」と呼ばれ、癒しを提供しながらもヒーローとしての存在する特異性を述べ、それにも
関らず「おでん屋」という基本的な物語の設定は、
「癒し」とは対極にあるように思われる
「選別」と「死」のイメージをより露骨に導いていることを見ている。そして、この物語
においてもやはり東京タワーが欠かせないものであることは、その登場するシーンをパタ
ーン別に分析することでそれぞれの東京タワーが示す意味の違いを示すことで説明した。
ここまででリリー・フランキー作品にとって「東京タワー」
「選別」「死」といったもの
がいかに重要であるかを述べたが、
第三章でばらばらだったこれらの繋がりを長編小説
『東
京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』を分析しながら考察する。物語の主人公、
ボクの人生の中に、巨大な細長い建物が繰り返し登場し、最後に行き着いたのが東京タワ
ーであることを述べた。その特徴ある建物はボクを選別する装置であり、繰り返し登場す
ることで、自身の母の死、そこから己の死をも連想させる記号としての役割を担っている
ことを見出すことができた。しかしその装置は同時に孤独な都会の人々を結びつけるとい
う働きも持っており、これこそが 80 年代に抑圧された東京タワーが現代に再び表れる存
在意味となったのではないかと筆者は分析した。
終章ではこれらをまとめ、リリー・フランキーの示す東京は現実の東京以上に東京の残
酷さを示すが、同時にその歪んだ世界に見出される希望も表現しているということを結び
として主張する。
9
今日の音楽・映像経験の起源――今日的ミュージックビデオの理解へ向けて――
齊藤 康成
今日において多様化する映像と音楽の融合の中で、本論で取り上げたのはミュージック
ビデオ(以下 MV と記す)という形態である。MV は 1981 年にアメリカで MTV が開局
されてからその制作数は飛躍的に増加し、その映像表現自体も多様化していった。本論で
はこの今日的な MV をいくつか取り上げそれらを分析し、多様化する映像と音楽の関係性
の一端を明らかにすることを目的とする。またその際 MV の原型を作ったとされるビート
ルズの作品をその映像的起源として設定し、ビートルズの作品から翻って今日的な MV の
理解を試みるという分析手法をとった。
第二章から第五章にかけてはまずロックの歴史を振り返ると共に、ロックの本質に存在
するビートがどのように視覚化されていったのかを考察した。第二章においてはロックの
起源とされるブルースの特徴について言及した後、そこにロックに受け継がれる強力なビ
ートが存在し、そのビートが演奏者の身体によって視覚化されていたことを明らかにした。
続く三章ではブルースの後に登場したロックンロールについてまとめると共に、当時登場
した新しいメディアであるテレビにおけるビートの視覚化の可能性を考察した。第四章で
はロック音楽が生み出されるきっかけとなったバンドであるビートルズについて言及し、
ビートルズによる最初の MV である「ア・ハード・デイズ・ナイト」における従来の映像
表現との差異について取り上げた。この MV には従来的な演奏する身体は映し出されてお
らず、身体によるロックのビートの視覚化の可能性が完全に排除されている。だがそのか
わりこの MV ではロックのビートはカットの切り替え、つまりモンタージュによって視覚
化されている。第五章においてはその後ビートルズによって制作された MV「アイ・アム・
ザ・ウォラス」を取り上げ、完全にリズムのためだけにモンタージュを用いるという MV
独自の表現形式の確立を明らかにするとともに、
それを今日的な MV に結びつけて論じた。
続く六章と七章では MV における歌詞と映像の関係性を考察した。まず六章において前
期と後期のビートルズ(1966 年のライブ活動停止を境に分岐)の歌詞の差異について論じ
た論文を取り上げ、前期歌詞に見られる「即時的で親密な会話のやりとり」、後期歌詞の「個
別具体的な登場人物の物語」という特徴を明らかにした。またその際ビートルズの歌詞に
影響を与えた人物としてボブ・ディランを取り上げ、ビートルズそして当時の聴衆に対す
る影響を考察した。七章においては六章で提示した歌詞の特徴を基に実際の MV の分析を
行った。その結果ビートルズの MV には歌詞との結びつきがなくパフォーマンスだけで構
成されたもの、歌詞の中に忠実な他者の物語が与えられており映像がそれをある程度忠実
になぞっているもの、そして一人称の「アイ」によって語られる抽象的な歌詞世界が映像
と緩く結びついているものの三つのパターンがあることを明らかにした。そして今日的な
MV への繋がりとして、今日的な MV のなかで同様の構造をもつものも紹介した。
10
矢沢あい作品における街の描写
佐藤 彩
矢沢あい(1964~)は兵庫県尼崎市出身の現在最も人気の高い少女マンガ家の一人であ
る。現在連載中の『NANA』
(1999~)をはじめとして、矢沢の最近の作品はみな東京の街
を作品の舞台としている。矢沢は作品の舞台となる街を風景や背景として描写する際、実
際の街並みを写した写真をコンピューター処理した画像を多用する。本論文ではこの実際
の写真を用いた風景・背景描写によって、矢沢作品の舞台となる街がどのように描写され
ているか、また描写された街が作品の舞台としてどのような意味を持っていかを分析する
ことで、街を舞台とする矢沢の作品世界がどのように作り上げられているかを考察した。
第 1 章では、まず矢沢の風景・背景の描写方法の特異性を分析した。写真を用いた風景・
背景描写によって、矢沢はより現実に近い作品世界を手に入れたと考えられる。また絵で
描かれた背景と比べて人物と背景のタッチに差異が生まれ画面が立体的に見え、写真その
ものが持つ空間の奥行きも背景に利用することができるため、立体的な作品空間を作り上
げることが可能である。矢沢の写真を用いた風景・背景描写は実在する場所を描写するう
えで、最も現実に近いかたちでその場所を作品世界に取り込むことが可能だと考えられる。
第 2 章では実際の街を舞台とする最初の作品である『下弦の月』(1998~1999)と
『Paradise Kiss』
(1999~2003)の二作品を分析した。両作品は 1 章で論じた風景・背景
描写を用いることにより東京の街を作品世界に写し取っている。そしてただ街の外観を写
し取るだけではなく、その街に根づく若者の文化も物語に反映させて作品を作り上げてい
ることがわかった。しかし両作品で大きく異なるのは『下弦の月』で描写される渋谷が主
人公の身体を記号化させる空間としてネガティブに描かれているのに対し、『Paradise
Kiss』で描写される原宿は若者が夢を実現させる空間として街がポジティブに描かれてい
る点である。
第 3 章では現在も連載中の作品『NANA』について分析した。『NANA』は渋谷や表参
道など、シーンの舞台となる街をそれぞれ先に述べた風景・背景描写によって精密に描写
することで「東京」全体を作品世界に写し取っている。こうして写し取られた「東京」と
作品独自の空間が結びつき、若者が憧れるような空間作りがなされていたが、物語が後半
にさしかかってくると「東京」はそれまでの憧れよりも、むしろ主人公たちを翻弄する消
費社会としてのネガティブな面が強く描かれるようになっていく。
このように矢沢は写真を用いて街を現実に近いかたちで写し取り、その街に根づく文化
も物語に反映して作品世界を作り上げている。実際の街を基調とした矢沢の作品世界はお
しゃれであり、多くの者を魅了するものである。しかし矢沢の描く街はただ明るいだけで
はなく、消費社会として人々を翻弄する暗い側面も持っている。特に『NANA』は街の持
つ二面性が一つの作品の中で同時に描かれており、
「東京」全体を舞台としていることから
も、現実の街を舞台としてきた矢沢作品の集大成といえるのではないだろうか。
11
後期溝口作品における映像と音響―『西鶴一代女』
、『雨月物語』、
『山椒大夫』を中心に
佐藤 圭
本稿は後期溝口健二の三本のフィルム、
『西鶴一代女』(52)、
『雨月物語』(53)、
『山椒大
夫』(54)の構造的特性と意味生成の過程を論じたものである。これらフィルムは、ヴェネ
チア国際映画祭で三年連続の受賞を果たすなど、今日では溝口の代表作として広く知られ、
国際的な評価も高い。
しかしその一方で、日本映画の研究で知られるノエル・バーチは、戦前に溝口は小津と
共に、
「完全に非ハリウッド的な物語映画の伝統を発展させ維持」させながらも、戦後は「彼
は西欧の再現モードに屈した」と、後期の溝口健二と彼の作品を批判している。
この背景には、ハリウッドの規範からの乖離のみに溝口作品の本質を見出す姿勢が存在
する。長回しのみを溝口作品の特質であるとし、ハリウッド的映画技法の使用を不純であ
るとする素朴な溝口理解という点に関して、バーチもまた例外ではない。
そこで本稿では、代表的なハリウッド的映画技法であり、観客への感情移入をうながす
「切り返しショット」に注目し、三作品に対するテクスト分析を行った。長回しの意味作
用に関しては、
「切り返し」との相互の関係性ないしは作品全体の構成から読解を試みた。
そして、映像だけでなく、フィルムの音響にも着目し、映像と音響の関係についても論及
した。
各章の内容は次のとおりである。
第一章では、『西鶴一代女』の映像に限ってテクスト分析を試みた。切り返しと長回し
による視線の表象に着目し、その構造と意味作用について論じた。そして、『西鶴一代女』
には峻厳とした視線の構造が存在し、明確に切り返しと長回しが意味の分節化に関わって
いることを明らかにした。
第二章では、
『雨月物語』について、切り返しによる視線の集中と、そのシークェンスに
おける映像と音響の関係、また、長回しの意味作用について論じた。
『雨月物語』における
視線の集中は、物語上の結節点となっていた。また、右近、若狭、宮木という三人の女性
の声と映像との結びつきが、そのシークェンス内で重要な役割を果たしていることを明ら
かにした。
第三章では、
『山椒大夫』における映像と、主に玉木の声と歌などの音響との関係が生み
出す意味作用について論じた。音響は様々に変容しながら、そのつど映像と結託し、多様
な意味の生成に加担していた。また、音響は玉木の声や歌だけではなく、横笛、三味線、
雁木など様々な音が、人物の状況と運命を雄弁に語っていることを明らかにした。
これらの分析を通して、本稿では、「切り返し」と「長回し」の相互の密接な関係性に
よる、精緻な意味の分節化が溝口作品の特質であると結論した。併せて、音響が映像に劣
らぬ重要な働きを示すことも指摘した。
12
四谷怪談論~その怪奇性をめぐって~
柴田 睦
四谷怪談は鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』が有名で、怪談の定番とされている。
四谷怪談はおりに触れ舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在
している。芝居や映画、漫画とさまざまな媒体があるが、最近では京極夏彦の『嗤う伊右
衛門』が第 25 回泉鏡花文学賞を受賞して、新しい四谷怪談の形として注目をあびた。四谷
怪談を創作の対象とした近現代の文学作品では、四谷怪談がどのように伝えられ、怪奇性
はどういった形で表現されているかを分析していき、文字テキストによる四谷怪談の恐怖
について考えていく。
第一章では、
『東海道四谷怪談』の起源といわれる『四谷雑談集』について触れ、そのあ
らすじからお岩の怪異が生まれた経緯を考えた。また、文学作品以外のメディアによる四
谷怪談を紹介し、特に映画作品については戦前にも数多く作られ、四谷怪談が格好の素材
であったことが分かった。
第二章では、
『東海道四谷怪談』について分析した。『東海道四谷怪談』の全体は膨大な
量で、登場人物も多く、その人間関係は綿密に計算されたように描かれている。複雑な人
間関係の裏側には、忠臣蔵の存在があり、それが物語全体に大きな影響を及ぼしているこ
とが分かる。そして、
『東海道四谷怪談』におけるお岩の怪異を取り上げ、お岩がどのよう
な怪異を引き起こし、それを観客に伝えるためにどういった表現がなされているのかを考
察した。
怨霊となったお岩の怪奇性を表現している部分は多く読み取れたが、生前のお岩の耐え
忍ぶ性格もまた、お岩が怨霊と化した後の復讐の念の強さを際立たせていた。
第三章では、四谷怪談を創作の対象としている小説を挙げ、
『東海道四谷怪談』と比較し
た場合の違いや、独特の表現、人物設定などを読み取り、怪奇性がどういった形で表れて
いるのかを分析した。
第四章では、第三章に挙げた作品の特徴をまとめ、小説となったことで表れる四谷怪談
の恐怖について言及した。
分析した文学作品では、
『東海道四谷怪談』と比較すると、お岩の怪奇性は軽減されてい
たように思われる。小説として描かれることによって、心理描写などから、登場人物の心
情や性格が芝居より具体的に読者に伝えられやすくなる。そのため作品の多くは、幽霊と
なったお岩よりも生きている登場人物たちの心情に焦点を当て、怨霊ではなく人間の持つ
心の狂気の怖さを表している。また逆に心情を描かないことで、登場人物の行動や考えを
不可解なものにし、それを恐怖と結びつけている。このように考察した文学作品では、お
岩の怪奇性よりも身近に感じる、生きている人間というものの恐怖を多く表現しているこ
とが分かり、そのことが小説として四谷怪談を描くことの特徴であると考えられる。
13
シンディ・シャーマンにおける自己像のゆらぎ
田中 麻美
シンディ・シャーマン(1954~)の写真は、自分自身を撮影するセルフ・ポートレイト
という形式を取りながら、彼女自身を表現する要素は画面にまったく感じられない。そこ
に登場するのは髪型や化粧を変え、作品ごとに別の人物になりきっているシャーマンの姿
である。自分を対象にした写真でありながら、なぜ特定の存在ではなく、不特定多数の姿
へと変化させたのだろうか。本論文では彼女の作品において変化し続けた「自己」の姿に
ついて考察した。
まず、第一章ではシャーマンが表現に用いている写真について取り上げ、そこで特徴的
である視線とその時間性・身体性・ジェンダー性について考察した。写真行為とはこれら
の要素において絶えず「分裂」を強いるものであり、中でも男性と女性という性別の間に
は大きな隔たりがあることを明らかにした。さらに、セルフ・ポートレイトにおける自己
を見る視線について考察し、その起源とも言える自画像の変遷とともに、自分自身を「見
る」行為による身体性の「回復」という特異な構造について論じた。
続く第二章では実際にシャーマンの作品について取り上げ、セルフ・ポートレイトとい
う観点から考察した後、その作品群を時系列に沿って分析した。彼女は初期の作品におい
て自らの身体を用いることで、既存のイメージを模倣しながらその虚構性を露呈させた上
で、その後の画面には少しずつ「負」の要素が見られるようになる。そして、それらが頂
点に達したとき彼女の身体は画面から消え、生身の身体とは異なる新たな「身体」を用い
て再構築していると結論づけた。
最後に第三章では、このような彼女の作品群における変遷において共通している点であ
る「内」と「外」という概念について取り上げ、それらが「見る」
「見られる」という構造
を突き詰めた結果表れたものであると導き出した。さらに女性としての自己像を含めて考
えるならば、「外」とは「見られる」ことを意識した「性」であり、「内」とはそれに対す
る自分自身を回復しようとする「生」への方向性であると考えられる。このような結果か
ら最後に、同じく「生」および「性」への探求を続けたマリリン・モンローとマドンナを
取り上げ、比較した。その結果、シャーマンは時代において両者の要素を強く併せ持ち、
前後の文脈を総合する縮図のような変遷をたどっており、またそれらを最も直接的に高密
度で表現した人物であると位置づけた。彼女の姿は「生」を伴わない「性」でありつつも、
「負」や「死」の要素を持つことで逆説的に「生」へと積極的に関わった結果だと言える
だろう。
14
『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の作中描写について
田村 翔
ミニ四駆は、もともとは子供でも簡単に手に入れられ、作って遊べる廉価版ラジコンの
ようなものとして登場した。そのため、レーサーミニ四駆と分類される車種には田宮模型
が出していた RC カーを原型に持つマシン(○○Jr.とつくもの)が多く存在する。その
RC カーとの接点を離れ、90 年代に誕生して『ダッシュ四駆郎』以来のミニ四駆ブームを
引き起こしたのが論文で扱った『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』だ。ストーリーは主人公の
烈と豪(もしくは豪樹と烈矢)が愛機ソニックとマグナムを駆り、次々と現れる強豪レー
サーに立ち向かっていくという簡単なものだが、人気を集め、3 度のアニメ化、1 度の劇
場作品化、7 回のゲーム化をされた。劇場公開にあわせて劇場版の主役とも言える‘ガン
ブラスターXTO’の 1/1 サイズを作るくらいだから、その人気はかなりのものだったこと
が伺える。そんな作品の描写と、描写を無に帰すような DVD にかけられた残像問題(と
小プロの愛のなさ)について言及したのがこの論文だ。
第一章では、描写の中でもマシンを破壊する描写(特に修理不可能なまでのもの)の徹
底さを紹介する。そして、壊れたとしたら壊れた(車でたとえるならば別の車に衝突され
てさらに崖から落ちたような廃車同然状態になった)ミニ四駆のかわりに簡単に(気楽に)
次のキットを買って組み立てるのが普通だが、すぐに新型をつかおうとせず、ワンクッシ
ョンおいて(前に使っていたマシンのパーツを使うなどの魂伝達)があってはじめて新型
へ変化するという描写は、今日の大量消費社会に一石を投じるものがあるのではないかと
いう論を出し、次の段落で作中のミニ四駆とはなんなのかの結論を自分なりに出した。
第二章では DVD の残像問題(癲癇対策の結果らしい)について、一消費者として、一
レツゴーヲタとしての憤りをつづった、完全な個人の愚痴としかいえないものになってい
る。DVD を売り出した小プロの欠点を重箱の隅をつくようにねちねちと突っついた。文
章を通して小プロの用いた間違った標記(光過敏症)を使い、発売前までに公開された情
報量の圧倒的少なさを突くために消費者基本法を持ち出し、光の点滅が現在の民放連が決
めた基準を超えているとかどうとかいう問題は、民放連が決めるガイドラインは TV 放送
にのみ適応されるということを言い、光の点滅を抑えなければならないのならこれはどう
なんだという例に『機動戦士 SD ガンダム』を取り上げ、サラリーマンの平均小遣い、商
品の値段などから購買層を推定、癲癇発症の年齢の描かれたグラフなどから、子供が目に
する機会、発作が起きる可能性の低さを論じた。さらに公式サイトという割には捏造の多
いストーリー紹介の間違い箇所を多く取り上げ、小プロの『レッツ&ゴー!!』という作
品に対する愛のなさを証明した。おそらくこれがメインコンテンツである。
特にこれといった大きな結論がない論文です。
15
ラウシェンバーグ論――都市文化と視覚経験
土田 恵理子
ロバート・ラウシェンバーグはアメリカ現代美術の代表的な画家である。ラウシェンバ
ーグは抽象表現主義とポップ・アートのまさに転換期の画家として位置づけられてきたが、
この評価に収めるためには鑑賞者の視点を絵画の外へ押し出していくようなオブジェの効
果を強調する必要があった。しかし、ラウシェンバーグの多彩な作品群を眺めていると、
意外にも、そのオブジェの衝撃力以上に、非常に印象的な表面を発見したのである。ラウ
シェンバーグの、多種の媒体が混在する絵画が何を表現するのかという問いを突き詰めて
いくこと、またひとつの論点に固執することなく多様な解釈を生み出すことが本論文の目
的である。
第一章では、まずラウシェンバーグの経歴をふまえたうえで、一般的な美術史上の位置
付けを確認した。そして従来の研究においては、絵画にオブジェが侵入していき、イマー
ジュの世界を解体していくことの発端としてラウシェンバーグの作品を解釈する方法が主
流であることをまとめることができた。そのうえで、先行研究でよく問題にされる物体性
のコンバイン・ペインティングという見方ではなく、ラウシェンバーグの絵画の特異な平
面性に着目することについて言及した。
第二章では、まずレオ・スタインバーグの先行研究で平面性に着目する観点においては、
ラウシェンバーグの絵画平面を情報社会と結びつけて語られていることを確認した。さら
にそのことの拡張として都市文化とラウシェンバーグの絵画を類推していった。ラウシェ
ンバーグの絵画を見るときの、鑑賞者の視線の重層的な構造が都市文化と深い関連を持つ
という仮説のもと、個々の作品分析を行なった。
第三章では、ラウシェンバーグが絵画に写真という媒体をはじめて導入したことの意義
やその効果をまとめた。また写真の導入と関連づけて、第二章で言及したラウシェンバー
グの作品における視線の重層化を検証していくことを目的として考察を行なった。そして
写真の特徴である等価性こそがラウシェンバーグの絵画における錯綜する視線を生み出す
という可能性を示すことができた。
ラウシェンバーグの独特な平面性に着目したのはレオ・スタインバーグであったが、「絵
画に導入されるオブジェの特質」から「異種のオブジェをすべて飲み込むような平面」へ
と視点を変えていくことで、非常に多様な解釈の方法が生まれることがわかった。そして
スタインバーグの重要な視点を受け継ぎ、考察を進めることで見えてきたのは、ラウシェ
ンバーグの最大の特徴は情報を収集する面という概念にとどまらず、完全に異種の要素を
統合していく受容体や支持体としての在り方である。そのような観点で作品を眺めるとき、
現代の都市の空間もまた、ラウシェンバーグの絵画と相応するものとして見えてくるので
ある。
16
ティツィアーノ論――画中の人物の視線についての考察――
戸柱 有利
ティツィアーノはヴェネツィア派最大の画家の一人である。彼は人物の表情やまなざし
を写実的に描き、画中の人物たちのあいだに心理的な関係性を作り出すことにかけて天才
的であった。ジャン・パリスは『空間と視線』において、視線によって絵画全体の構成が
変わる例を三つ挙げており、この三つの例を基にティツィアーノの絵画における画中の人
物の視線について考察するのが本論文のねらいである。また、ティツィアーノの作品にお
いて、群衆の中からただ一人の人物がこちらを見つめているものが何度も登場し、独特の
雰囲気を持つものであると感じたため、この視線についても一緒に考察した。
第 1 章では、
ティツィアーノの生涯と、絵画全体を構成する三つの視線について述べた。
三つの作品の例では、それぞれ第一の作品においては直接の、第二の場合は二重の、第三
の作品では三重の視線があらわれる。そしてそれらは人物の外観だけではなく、それぞれ
の空間の創造をも支配していた。
第 2 章では、視線・まなざしについて定義したあと、芸術作品を眺める側のまなざし、
さらに作品中の人物のまなざしとそれを観る者の視線について述べ、私たちの視線は他の
人物の視線によって誘導されるということを改めて確認した。
第 3 章ではティツィアーノの作品の視線による分類とその考察を行なった。ただ一人の
人物がこちらを見つめる視線では、描かれた人物と観者の間に揺らぐことのない垂直な視
線が生まれ、私たちはその絶対的な視線の背後に神々しさを感じとる。しかしティツィア
ーノの場合、人物は完全な真正面ではなく、
少し身体を傾けているものがほとんどであり、
それによって彼の描く人物には、科学的表情のイコンとは異なり人間性が感じられる。
二人の人物がお互いに見つめあう視線では、私たちの視線は二人の視線の上を往復し、
それによって画面は平面に落ち着き、人物は画面に吸収される。平面的な見つめあう視線
は、絵画に第三者の視線の介入を許さない閉ざされた空間を作り出す。
鏡に映った自分を見つめる視線・それを盗み見る視線では、どの視線も出会うことがな
く、私たちの視線は鏡の中に吸い込まれていく。鏡は、平面で見えないはずのものを覗き
込もうとする第三者の視線を想定して描かれたものであり、それによって私たちの視線は
画面とは垂直に鏡の中へと誘導される。
群衆の中からただ一人の人物がこちらを見つめる視線では、人物の視線は平面である絵
画に外部への広がりをもたらし、絵画をより現実に引き寄せる。また、第三者の視線の介
入を許さない平面部分と、こちらを見つめる垂直な視線によって二つの空間が作り出され、
私たちの視線は引き裂かれる。さらにティツィアーノの作品には視線以外にも色や明暗な
どによる「視線の分裂」がたびたびみられる。このことから、
「視線の分裂」はティツィア
ーノの本質をあらわす重要なキーワードといえるのではないだろうか。
17
メディアにおける〈甲子園〉表象の変容
永岡 陽助
本稿は〈甲子園〉がメディアを通してどのように表象されているか、その特徴を明らか
にすることを目的とした。甲子園大会がナショナリズム・郷土アイデンティティと深く結
びついた大会であることはしばしば指摘されてきた。また、われわれはメディアによって
ナショナリズム・郷土アイデンティティを意識するように操作されているとの指摘もある。
第 1 章ではまず、甲子園大会がナショナリズム・郷土アイデンティティと結びついた大
会であるという前提から、いかにしてナショナリズム・郷土アイデンティティと結びつく
こととなったのかを、甲子園大会の歴史をみることで確認した。同時に、小椋博は甲子園
が「日本人」を再生産する一大文化装置であると主張し、そのなかで「多くの甲子園ファ
ンが魅力を感じるところのものは、真剣なプレイやゲームの緊張感ばかりでなく、日本人
として親しみと愛情を感じる心情と文化が、ゲームのまわりにふんだんに散りばめられて
いるから」と指摘するが、それをもとに「日本人として親しみと愛情を感じる心情と文化」
とはどのようなものなのかを明らかにした。それは明治以来の「精神」「理想の日本人像」
であることがわかった。
続く、第 2 章では具体的に新聞記事を分析し、メディアにおいてナショナリズム・郷土
アイデンティティの強調が行われていることを確認した。それは佐賀北高校の優勝を「が
ばい、すごか」と表現したり、沖縄県代表を「島人」と繰り返し、どこか本土に対するイ
メージを与えたりというものが存在する。しかしながら、そうした表象は確実に変容して
きているのではないかと考えた。
そして第 3 章では、多様化する〈甲子園〉の表象を考えた。ここで分析したのは①キャ
ラクター化②ドラマ化③ヒーローの存在しないドラマ・複数のヒーローによるドラマであ
る。①では「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹投手、
「怪物」田中将大投手らの記事から、いか
に選手のスター性を強調したり、
「ハンカチ王子」などというキャラクターへと変えていっ
たりするのかを分析した。また②では斎藤、田中を何度も繰り返し並べて示すことで、ラ
イバル対決というドラマの強調が行われていたことを示した。③では監督同士の対戦、不
祥事を乗り越えたドラマ、
「ふつうの子」の優勝のドラマなど様々なドラマが様々な形で語
られていることを分析した。
以上から、甲子園大会では依然として明治以来の「精神」や「理想の日本人像」が語ら
れているが、それは確実に変容してきている。もはや〈甲子園〉の表象はナショナリズム・
郷土アイデンティティを強調するだけではなくなっていることがわかる。しかしながら、
そこで表象されるのは、メディアによって様々に意味づけされたものである。そこには〈甲
子園〉のフィクションを理解しつつも、そのなかにのみ込んでいくような巧妙な仕掛けが
存在するのである。
18
現代日本映画における主題歌~物語と歌詞の関係をめぐって~
南部 恵美
CM、ドラマ、映画等に使用されている歌が人気を得ることが多いように思われる。曲を
聴けば、それが主題歌、挿入歌として使用されている作品が思い出されたり、逆に映画の
作品名を耳にすると、その主題歌が浮かんだりと、作品と主題歌は密接な関係にあると思
う。今やタイアップソングが人気を集めるといっても過言ではないだろう。
昨年のオリコン年間トップ 100 のうち、映画に使用された曲は 19 曲、内主題歌は 12 曲
だった。しかし、それというのは、タイアップという戦略によって、映画がヒットすれば、
自動的にそのタイアップソングもヒットするということだけが、原因ではないように感じ
られる。そして私は、その映画のストーリーつまり物語の細部と歌詞の間に、何かしらの
リンクするものがあり、それが人々の心を捉えているのではないだろうか、という仮説を
立てた。
今回は 12 曲の主題歌(劇中歌、挿入歌等は除く)に焦点を絞って、その作品ごとに考察
していき、共通点を探った。
第一章では、タイアップソングとはどういったものを指すのか、ということを示し、今
回分析対象に選んだ 12 の作品を提示した。
第二章では、まず、映画の物語と歌詞の内容を提示し、そして、独立した作品としての
楽曲の歌詞の解釈、分析を行った。そのうえで、映画の内容とそれが、どのようにリンク
しているのか、ということを考察した。
第三章では、二章でおこなった分析を基に、12 の作品を特徴別に分類し、まとめ、自分
の立てた仮説を実証することに成功した。
今回分析対象となった 12 作品において、大塚愛の『ただ、君を愛してる』を筆頭に、ス
ピッツの『魔法のコトバ』
、スキマスイッチの『ガラナ』
、木更津キャッツアイ feat. MCU
の『シーサイド・ばいばい』、Aqua Timez の『決意の朝に』、伊藤由奈の『Precious』、NEWS
の『サヤエンドウ』
、YUI for 雨音薫の『Good-bye days』の 8 曲は、それぞれの映画の物
語内容と、リンクしているところが非常に多いと考えることが出来る。このグループに入
っている曲のほとんどは、この 12 曲の中では、オリコンランキングで、上位を占めるもの
が多い。また、レミオロメンの『太陽の下』を筆頭に、aiko の『スター』
、スキマスイッ
チの『ボクノート』
、B'z の『ゆるぎないものひとつ』の 4 曲は、物語内容にリンクさせて
いるというより、テーマが近いと感じられるものである。歌詞の一部が物語とうまく結び
つき、
“こういった捉え方も出来る”と考えさせられるものであった。
一見、関係がないように思われる歌詞が、実は深いところで繋がっていたりするのだと
いうことを今回学んだ。そのことに気づかない人が大半であると思われるかもしれないが、
そのつながりは指摘できたと考えている。
19
プロデューサー・鈴木敏夫論
長谷川 健太
映画監督・宮崎駿(以下 宮崎)の作品は幅広い層の人々に認知され、受け入れられて
いる。本論文においては、宮崎の作品を中心に考察の対象とするが、宮崎本人に関して論
じたわけではない。本論文は、宮崎作品のプロデューサーを務めるプロデューサー・鈴木
敏夫(以下 鈴木)に焦点を当てた。鈴木はプロデューサーとして、いかに宮崎の作品と
関わり、世に送り出しているのか。プロデューサーである鈴木が監督である宮崎とどのよ
うな関係を築き上げてきたのか。この 2 点を中心に考察を進めた。
第 1 章では、『風の谷のナウシカ』(1984)、
『天空の城ラピュタ』
(1986)
、
『となりのト
トロ』
(1988)
、『魔女の宅急便』(1989)の 4 作品に鈴木がどのように関わったのかを考
察した。この 4 作品の段階では鈴木は編集者という立場であったためもあり、際立った活
躍はなかった。しかし、周囲の人間から様々な影響を受け、プロデューサーとしての基盤
を作っていった時期であったと考えられる。そして、
『魔女の宅急便』では実質的なプロデ
ューサーを務めるようになり、それまで以前の作品より宣伝に鈴木が関わったこともあり、
本作は大成功を収めた。本作が鈴木にとっての大きな転換点であったと考えられる。
第 2 章では、『紅の豚』(1992)、『もののけ姫』
(1997)、
『千と千尋の神隠し』(2001)
、
『ハウルの動く城』
(2004)について第 1 章と同じ観点から考察を行った。これらの作品
には鈴木はプロデューサーとして製作に関わっている。鈴木は精力的に作品の宣伝を行い、
さらに映画の企画段階や絵コンテにおいても関わっていた。映画製作だけでなく、制作に
関しても鈴木はその影響力を強めていった。宮崎の創造性と、鈴木のプロデュース能力が
相乗的に合わさり、
これら 4 作品は興行的に大成功を収めたことを確認することができた。
第 3 章では、宮崎以外が監督した作品を鈴木がプロデュースした例として、宮崎吾朗監
督作品『ゲド戦記』(2006)を考察の対象とした。この作品を分析することによって、鈴
木の宣伝能力も宮崎駿の創造性溢れる作品があってこそ始めて発揮されることを確認する
ことができた。
こうした考察から、鈴木の作品をプロデュースするという「製作」においては、作品が
進むにつれてその存在感は増し、さらに最新作である『ゲド戦記』からは、プロデューサ
ー兼監督とも言える存在になっていることがわかった。そして、監督である宮崎との関係
については、二人は日常的に会話し、お互いの日常を共有しあう関係であるということが
わかった。こうした日常という私的な関係が、作品という公的な存在へと繋がっていると
いう過程を特定の作品の制作過程で確認することができた。こうしたことから、プロデュ
ーサー・鈴木と映画監督・宮崎の関係は鈴木本人が言い慣わしている表現を使えば、
「公私
混同」の関係と言える。日本を代表する映画監督である宮崎と「公私混同」の関係を長い
時間をかけて築きあげたのが、プロデューサー・鈴木の特質である。
20
ギイ・ブルダンにおける身体の表象
藤村 薫
ギイ・ブルダン(Guy Bourdin:1928-91、仏)は、60-70 年代にかけて仏『ヴォーグ』
をはじめとするファッション誌やファッション・ブランドの広告写真で活躍したファッシ
ョン写真家である。彼の写真における女性たちは、多くの場合において、性的側面ばかり
が強調されて表象されている。それゆえ彼のファッション写真と他のファッション写真と
の間には大きなズレがあるといえるが、こうした点にこそ彼の写真の魅惑があるように思
われた。そこで本論文では、被写体の身体性に着目し分析を試みた。
第1章では、ブルダンの写真において、女性の身体がどのように表象される傾向にある
かを検討した。まず彼の写真の特徴として、モデルの顔を隠蔽するという行為を挙げた。
それは被写体のステレオタイプ化に寄与するものと、そうではないものの二つに大別され
る。後者をさらにみていくと、それらは女性を性器としてモノ化しているように思われた。
女性身体を性器の象徴と併置し、あたかもモノのように扱う彼の撮影行為は、男性の性的
欲望充足に加担するものではなく、性にまつわる現象そのものをテーマ化しており、それ
に対する鑑賞者の感覚を撹乱させるものであると考えた。
第2章は、他のファッション写真との比較を通じてブルダンの独自性を明確なものにす
るという試みであった。それまでのファッション写真に、あからさまな性的表現はタブー
とされてきたが、ヘルムート・ニュートンとギイ・ブルダンがその慣習を壊したとされる。
こうした共通点を持つニュートンとの差異をここで確認した。ニュートンによって演出さ
れるたくましい女性像は、性革命という時代の雰囲気に呼応したものであり、女性消費者
の理想像となりうるものであった。一方、性器としての存在にすぎぬようなブルダンの女
性像それ自体は、女性消費者の憧れの対象にはなり難いものであった。また、ハイヒール
にまつわるファッション写真の潮流を概観したところ、余計な装飾物を廃し、女性をとこ
とん性器として扱うブルダンの撮影行為がきわめて異質であることが明らかになった。
それでは女性消費者はこうした広告写真をどのように消費するのだろうか。第3章で、
まず女性消費者の自己同一性という観点から検討したところ、身体をモノとして断片化し
性器化するブルダンの撮影行為と、ファッション雑誌等の視覚経験を通じて自己の身体像
を強化しようとする女性消費者の行為との間には類似性がみられるように思われた。さら
に、ファッション写真という制度それ自体に女性身体を断片化・モノ化する契機が内在し
ていることから、あからさまに女性をモノ化する行為それ自体が、ファッション写真の制
度を表面化し問題化する行為となっているとも考えられた。したがってブルダンのこうし
たファッション写真において女性消費者は、あらかじめ定められたファンタジックな女性
像に自己を投影するといった従来の態度ではなく、自らの行為に対してより自覚的になる
ことを要請されるといえるのである。
21
斉藤洋作品における「もうひとつの世界」
皆澤 里美
斉藤洋(1952-)は子ども向けの文学作品を書き続けている、現代の児童文学作家の一
人である。本論文では、児童文学やファンタジー文学などに広く用いられる、主人公が日
常の世界と非日常の世界を往復するという構造に焦点を当て、この構造をもつ斉藤の作品
を中心に取り上げた。非日常の世界を構成する要素や、非日常の世界と日常の世界との関
わりを分析していくことによって、斉藤の作品における非日常の世界、すなわち「もうひ
とつの世界」とはいかなる世界であるか、それが主人公や私たち読者に何をもたらすのか
を論じることを目的とした。
第一章では『アブさんとゴンザレス』をはじめとして、作中によく見られることば遊び
に注目し、そのことば遊びが繰り広げられる場をもうひとつの世界的な場としてとらえ論
じた。ここから、もうひとつの世界と距離をおく感覚が得られることで、逆説的に主人公
や読者がもうひとつの世界に安心して夢中になれることを提示した。
第二章ではまず、もうひとつの世界に存在感、リアリティーが与えられることもまた、
もうひとつの世界に主人公や読者が夢中になれるという点で重要であることと、斉藤の作
品にはどのようにそれらがもたらされているかを考察した。斉藤の作品に共通する一人称
の語りがもうひとつの世界に存在感を与えるひとつの要素であることを確認した。
そして、もうひとつの世界に対して距離を置くということと存在感が与えられるという
こと、この相反する働き、運動性の発見を通して、斉藤作品におけるもうひとつの世界が
日常の世界に接点をもち、つながっているものとして描かれていると考察した。さらにそ
れがさまざまなモチーフに象徴的に現れているということが分析から証明される。
第三章ではもうひとつの世界と日常の世界をつなぐものとして機能するひとつに欠かせ
ない、案内人という存在に注目し、論じた。もうひとつの世界を主人公に案内する案内人
たちは、向こう側の存在ではあるが、物語上の事実においても、彼らに見出される象徴的
意味においても、二重性を備えた、ふたつの世界をつなぐ中間的存在だといえる。そして
また、
『黄色いポストの郵便配達』の分析を通じて、主人公もまた、私たち読者をもうひと
つの世界を案内するもうひとりの案内人であったことを論じた。
斉藤の描くもうひとつの世界は、日常や現実の世界から完全に切り離され、独立し、閉
じられたような世界ではない。ふたつの世界はどこかでつながっているという感覚をもた
らしてくれる世界である。いつでも帰って来られる、いつでもまた行くことができる、ふ
たつの世界間の往復が保証されるうちに、いつのまにか、私たち読者はもうひとつの世界
に引き込まれてしまっているのかもしれない。
22
ヘンリー・ダーガー論
望月 友里江
美術教育とは無縁の人々が、芸術家としての名声を得るためでなく、あくまでも自発的
に行った行為の結果として生まれた作品「アウトサイダー・アート」の代表的な人物とし
て紹介されるアーティストにヘンリー・ダーガーがいる。彼は、他者との満足な交流もない、
仕事場と家との往復を繰り返すだけの単調な毎日の中で 50 年以上もの歳月を費やし、15 冊、
1 万 5145 ページを数える壮大な物語『非現実の王国で』と、それにまつわる数百枚の絵画
を描いた。それは、7人姉妹のプリンセスたちヴィヴィアン・ガールズが、子供奴隷制を
強いる邪悪な大人の男たちに、子供たちの解放を求めて挑む戦いの物語と、コラージュや
トレースの組み合わせによって描かれた、ポップアートのような軽いタッチと鮮やかな色
彩が特徴的な絵画作品である。本論文では、まさに、ダーガーのライフワークであったそ
の創作活動について、「自己救済」という観点を軸に考察した。
第一章では、彼の生涯と創作の過程について順を追って辿ると共に、その作品『非現実
の王国で』の概要を記した。ここでは、ダーガーの生涯が、
「幸福」と呼べる出来事の欠落
した非常に不遇なものであったこと、またその生涯と表現は密接に絡んだものであったこ
とがわかった。
第二章では、物語に焦点を当て、表現と物語内容にそれぞれ固有の特徴を明らかにして
いく中で、そこに重層的に見られるヘンリー・ダーガーの姿を確認した。普遍的な様式に
則った物語でありながら、彼の私的な感情や経験の入り乱れた物語は、フィクションであ
りながらも、自身の思いや姿が断片的に投影される、ダーガーにとって現実世界からの避
難所としての役割を果たすものでもあった。
第三章では、焦点を挿画へと移し、まずはその制作方法を、続いて特徴的な色彩や構成
について、そしてヴィヴィアン・ガールズをはじめとする、物語中の特徴的なキャラクタ
ーや描写について言及した。既存のイメージの継ぎはぎによって生み出されたその作品の
色彩や構成からは、彼のトラウマを暗示するものが多々見られる一方で、社会的弱者が、
そしてダーガー自身が、悪に立ち向かい正当な世界を取り戻す、という前向きな心理も存在して
おり、現実の生では得られなかった、ダーガーの望む経験や生が、その中には存在していた。
以上のことから、『非現実の王国で』には、ダーガーの中に潜む善と悪の拮抗を軸としつつ、そ
の生の抱える様々な葛藤が表れていることがわかった。現実世界でそれを解消する術を持たなか
った彼は、酷な現実から逃れるように、その脳内で、自然と、自分が全能者たり得るもう一つの世
界を創出したのである。そして同時に、そこには非常に重層的且つ複雑に、ダーガーの意識的、
無意識的な欲望の存在も確認できた。「非現実の王国」という語が物語るように、ダーガーは、そ
こが現実の世界とは異なることを承知しながら、それでも、現実の生と同じだけの価値を持つもの
として、その中で自分自身の生を解放し、もう一つの生として、その中を生きたのである。
23
美術館における身体――見世物への回帰
茂木 みずほ
東京都品川区にある原美術館で体験した「日常から非日常へと導かれる不思議な感覚」
を契機に、美術館という空間と人間の身体の関係性を考えるようになった。これまで様々
な視点から美術館は論じられてきたが、歴史的、経営学的、カタログ的な視点などが多く、
美術館における身体性は論じられることがあまりないように思われる。そこで、本論文で
は、美術館と美術館以外の視覚経験を比較、検討することから、美術館における身体性を
考察していった。
第 1 章では、美術館が成立する以前に、日本で大衆娯楽となっていた見世物について述
べた。見世物には、美術館と類似性がある一方で、口上という見世物を説明するための話
芸がつけられていたことが美術館とは異なる点だということを指摘した。口上は身体性で
いえば、聴覚と関連するものである。また、原美術館の分析から、見世物と美術館は類似
性を持ちながら、「美術」という概念で分断されていることがわかった。
第 2 章では、見世物と美術館を分断する「美術」という概念と美術館について考察する
ために、西洋と日本における美術館の成立を確認した。西洋では、市民革命により封建社
会が崩壊したことから美術館が成立し、日本では、西洋から取り入れた博覧会が美術館の
成立と関連している。どちらも「美術」という概念と近代化によって美術館が成立してい
ることを明らかにした。
第 3 章では、美術館と同様、近代に成立した視覚経験である博覧会と百貨店から美術館
の身体性を考えた。近代では、視覚という身体性が「権力」や「国家」と切り離せないも
のであり、美術館もその一つであることを確認した。また、美術館が「美術」という「価
値」を認定する空間となっていることを指摘した。
美術館を含め、近代の視覚経験が失ってしまったものが、前近代の見世物にはある。そ
れは、視覚以外の身体性と混沌の空間である。見世物は、近代のように視覚だけに特化せ
ずに、聴覚も重要な身体性であった。そして、
「美術」という概念から分断されてしまった
ことで、百科全書的にものが分類されず、整理されることのない混沌の空間を作り出して
いたのだ。原美術館は、見世物とも類似性をもった、極めて特異な美術館といえる。
原美術館のように、新潟市にある砂丘館も見世物的な空間である。砂丘館では「家の中
をたずね歩く」という感覚に近い。これは、原美術館とも類似している。昔の日本にあっ
たように、床の間に作品が置かれ、どの部屋に作品が展示されているのかを探す。歩いて
作品を探すことの楽しさは、大きな美術館を歩く疲労の中では忘れていた身体性である。
美術館のあり方について考えるとき、見世物への回帰が今、美術館には必要なのではな
いだろうか。美術館が失ってしまったものが見世物にはあるのだ。
24
一条ゆかり論-一条作品における性愛表現の変遷-
森
麻衣
少女マンガにおいて、
「男性に必要とされ愛されること」と「幸せ」は強く結びついてい
る。しかし、この結びつきの強さは、社会的・経済的にも自立しているはずの女性が男性
からの自己肯定、すなわち愛されることでしか女性としての自己を確立できないという側
面を持つ。藤本由香里・上野千鶴子らはこれを「対幻想の罠」という言葉で表している。
本稿では、一条ゆかりの作品における男女の性愛を分析対象とし、彼女の作中の女性は、
時代が現在に近づくにつれ「対幻想の罠」から脱却しつつあるのではないかという見解に
たって作品を分析した。
第一章では、少女マンガの性愛のパターンを参考にしながら一条ゆかりの性愛表現を時
代ごとに分析した。また、少女マンガの性愛表現に対し批判的な立場をとっていた竹宮惠
子の作品『風と木の詩』も参考にした。その結果、確かに一条ゆかりは時代ごとに受身の
恋愛から女性を脱却させていたが、その根底は「男性から愛されることでの自己肯定」の
欲求が強く残っているということが分かった。
つづいて第二章では、前章で挙げた性愛表現の枠にはまらない一条の作品を分析するこ
とで、一条がどのように従来とは異なる性愛表現を描いたかを考察した。まず、
『デザイナ
ー』では朱鷺という男性が性愛に組み込まれていくときの葛藤を描き出した。
このことは、
少年愛が対等な恋愛を表現したのと同様に、男女間の恋愛においても男性が「対」の相補
性の片割れであることをはっきりと示したものだと考えられる。一方で一条は、亜美や麗
香という社会的にある程度の力を持つが、恋愛面においては従属的な立場にいる女性を描
く。その理由として「女の幸せは結婚すること」という考えを内面化しているからだと結
論付けた。次に『正しい恋愛のススメ』では、社会面でも恋愛面でも主導権を持つ玲子と
何に対しても受身の博明の性愛関係が描かれている。さらに、玲子以外の女性たちも社会
的な立場はそれぞれだが、いずれも一人の男性にとらわれないようになってきた。これら
のことは、女性の縛られた対からの解放、そして男性の性愛における主体性の希薄化とい
う一面を映し出していると考えた。
第三章では、これまで分析してきた女性の立ち位置について社会性(女性が社会へ参加
しているかしていないか)と性愛(セックスに対し能動的かそうでないか)の二項対立軸
を用いて整理した。その結果、一条作品における女性は社会的にはもちろん、性愛におい
ても徐々に解放へと向かっていっていることが分かった。これまでの女性の立ち位置が、
社会的にも性愛的にもマイナス方向にあった「家庭」という空間であるとすれば、一条の
漫画は、もはや「家庭」に閉じ込めておくことができない性愛の世界を描くことに突き進
んでおり、それが一条の女性たちの性愛の幅を広げたと結論付けることができる。
25
「矢沢あい」論
谷地畝 万里絵
矢沢あいは、今一番注目されているマンガ家の一人である。『ご近所物語』、『Paradise
Kiss』など多くの人気作品を描き、現在映画化、アニメ化、またメディアミックスされ社
会現象と言われる『NANA―ナナ―』を『Cookie』で連載中である。本論文では彼女の作
品が社会現象にまでなった要因、小学生から主婦層までという幅広いファンをもつ読者に
受け入れられる要因を探っていく。まず第1章では、少女マンガの礎を築いたと言えるい
わゆる「24 年組」についてまとめ、現在の少女マンガに影響を与えた面を論じた。
第2章では、「24 年組」の大きな特徴と考えられた「少女の性」、
「少女の自己実現」に
ついて、矢沢がそのテーマを引き継ぎながら、どのように描いたかを論じるため、主に
『Paradise kiss』をとりあげながら考察した。
「少女の性」について矢沢あいが新しく描
いたものとして、不思議ちゃんというコギャル的な性からの退却と同時に、セックスを現
実のものとし、恋愛の終着点としなかったことがある。また、
「少女の自己実現」は、男性
の承認に依ったものではなく、また「恋愛か自己実現か=結婚か仕事か」という二者択一
的な選択からも解放されていて、自己決定とそれに付随して発生する自己責任を同時に抱
えることを示していた。
次に第3章では『NANA-ナナ-』以前の矢沢あい作品の特徴と変化について、絵柄の
大きな変化や、魅力的な主人公を描くようになったことを挙げ、支持層をひきつける重要
な鍵になっていることを考察した。
第 4 章では矢沢あいの代表作となった『NANA-ナナ-』
についての作品分析を行った。
この作品で主人公の2人の「ナナ」は、藤本由香里の指摘する少女マンガでの双子の「
『ア
イデンティティ』を問い直す装置、他者への融合と、そして自立とを往復する装置」を互
いに果たしていると考えられる。また描かれる恋愛における自己肯定、自己愛、変化する
葛藤など、『NANA-ナナ-』が描いているものは現代の若者が多様な価値観を前に不安
を抱いている姿にシンクロしている。
近年『NANA-ナナ―』が大ヒットし、若者に受け入れられる要因として、そのまま
彼らの価値観や不安感、アイデンティティなどを写す鏡なのではないかと考察した。この
作品が現在も連載中であり、完結していないということで扱うのは難儀であったが、しか
し矢沢あいの描く作品は少女の内面の不安や願望の救済のみならず、現実と結びつき、複
雑な現実を複雑なままに受け入れていることがわかった。これは現実を等身大のものとし
て捉え、それと向き合っていける世代が育っていることを示しているのではないか。今後
も、『NANA-ナナ―』やそれ以降の彼女の作品には注目していきたい。
26
ジェームズ・タレルの作品における光と身体
山上 貴子
アメリカの現代芸術家ジェームズ・タレル(James Turrell:1943~、米)は、人間の知覚について
の研究を、インスタレーション作品という形にして私たちに提示する。その作品において光は、作
品を構成するマテリアルであり、物質として扱われる。本論ではその作品において重要である
「光」と「身体」の扱われ方を、代表的ないくつかの作品を分析することによって、あるいはそれを
絵画史の中に位置づけることを通して、現代美術の中でジェームズ・タレルの作品をいかに評価
するのかを考えていく。
本論は第一に、タレルの作品を概観し、その特徴と本論が注目する点を明らかにするとともに、
タレルがアートと科学の両軸による作家活動を行ってきたということを踏まえる。多くの先行研究は、
このことを評価し注目しているが、空間を満たす物質としての光によって作品空間を構成し、光を
知覚する者としてその内部に存在する鑑賞者の視覚作用を計算しつくすことにより、タレルは、見
ることそのものについて、鑑賞者自身が見ることのできる作品を成立させた。
さらに本論は、具体的作品、『アフラム(Afrum)』(1966~)、『オープン・スカイ(Open Sky)』
(2004)、『オープン・フィールド(Open Field)』(2000)の分析を通して、タレルの用いる光が、触れ
られるもの、あるいはその中に鑑賞者を包み込むものであるという点に注目する。その過程で、同
じく光を空間の中に表現した印象派の光とタレルの光の比較によって、光の絵画史の統合者とし
て、あるいは継承者としてのジェームズ・タレルを明らかにする。
そして、タレルの光は鑑賞者の身体や感情に影響を及ぼす。このことは、見るものと見られるも
のという主体-客体の関係のモデルを破壊することであり、主体と客体の対応関係にあってこそ理
性的行為であった見る行為を超えた人間の知覚の行為のあり方を提示することにつながる。第三
章では、タレルが空間とそれに関わる鑑賞者の視覚作用を計算し尽くしてはいるものの、身体作
用が空間の中で限定されることにより、身体の枠をはみ出す鑑賞者の内面と、それが獲得する新
しい空間把握のリアリティに、多様な可能性を見ていることを指摘したい。ここで、先行研究があま
り触れない、目と光が触りあう感覚に伴う官能性について『バックサイド・オブ・ザ・ムーン(Backside
Of The Moon)』(1999~)を例に挙げ考察する。光に触れる視覚の官能性は、主体-客体モデル
のように対象を冷たく切り離してしまうことを回避し、身体の変化をもたらす。タレルの作品が行お
うとしているのはこの状況を探し、経験しているが意識されることのないこれらの体験を、作品空間
を構成することで、鑑賞者の内面と多様な形で触れ合わせることである。それは、作品空間と鑑賞
者、見られるものと見るもの、環境と自分の存在が触れ合う悦びをわれわれにもたらす。光を追求
してきた芸術は、なによりもこの悦びのために変容してきたといえるのではないだろうか。現代美術
におけるジェームズ・タレルを最も評価したい点は、「知覚の喜び」の体験を提供することによって、
人間の身体と芸術との関係が官能的で濃密なものであるということを示すとともに、その知覚がタ
レルの意図を超えた個人的な体験として可能性をもつことを提示した点であると本論は結論づけ
る。
27
現代アートとコミュニケーション
遊佐 水亜
現在世界中で、従来のただ「モノを見せる美術館」とは少し趣の異なる、新たな美術空
間が作られ始めている。特に「現代アート」といわれる分野においては、さまざまな特徴
を持った美術館が存在している。これらの空間において、芸術と人との関係は以前と異な
ってきており、人々の芸術に対する認識も変化してきていると言える。美術館という「ハ
コ」や作品が中心にあってそれを人々が享受するというより、人がその空間において何か
を感じ、吸収するということが重要になってくる。これが「コミュニケーション」として
の現代アートの形態である。
本論において、第1章では現代アートの定義づけからはじめ、国内外における現代アー
トを取り巻く環境について、実際にいくつか美術館や展覧会を取り上げながら、その動向
を探った。またここで、日本の美術館がその歴史的経緯から抱えることとなった諸問題を
取り上げ、考察した。
第2章では、第1章で挙げた問題を考えるにあたって重要なキーワードである「コミュ
ニケーション」に特化した美術館として、石川県の金沢 21 世紀美術館を取り上げた。環
境、建築、常設作品、試み、経営といったさまざまな面から、この美術館が、従来の日本
の美術館が抱える問題を解決するために取り入れている、
「コミュニケーション」の方法を
分析した。
第3章では、金沢 21 世紀美術館の例をふまえたうえで、日本におけるこれからの美術
館の在るべき姿について考察してきた。美術館ブームと言われていても、
日本においては、
現代アートの認知度はまだまだ低い。現代アートの浸透しにくい日本において求められる、
新しい芸術空間の在り方、また人々がこれから現代アートとどのように関わっていけばい
いのかという問題に対しては、
「アート」という情報を発信する側と受け取る側の両方の立
場から考える必要があるということが分かった。
日本でさかんになってきている現代アートの空間においては、人と芸術との関係が密接
であり、作品や作家は、ただ眺めるだけであったり、学んだりするだけの難しいものでは
ないことが必要条件であると思われる。その空間は、芸術作品に直接触れることができ、
時には交流の場となるなど、
「人」と「コミュニケーション」を主体にした空間である。特
に地域において、近代化によって希薄になった地域への愛着を取り戻すため、また人々が
つながるための場となり得る、美術館の重要性が、改めて認識されはじめている。金沢 21
世紀美術館をはじめ、本文で取り上げたいくつかの美術館も、
「人」のための美術空間を目
指していると言えるだろう。
「美術館」というひとつのメディアを媒介として、発信者と受
信者の間での双方向的なコミュニケーションがとれてはじめて、美術館はその役割を果た
すことができるのではないだろうか。
28
伊坂幸太郎論
渡部 敏喜
伊坂幸太郎は 2000 年に『オーデュボンの祈り』でデビューし、最近は作品のいくつか
が漫画や映画等に原作として取り上げられ注目を集めている。
伊坂幸太郎の小説には、いくつかの作品に共通して見られる表現や、共通して見られる
描き方の特徴といったものが存在する。本論文では、その表現や特徴に焦点を当て、どの
ような意図をもってそのような表現が使用されているのかを考察した。それにより伊坂の
作品を、ひいては作家伊坂幸太郎の独自性を読み解くことになるのではないだろうか。
第 1 章では、視点(語り手)に注目して分析した。伊坂の作品は、一人の視点から描い
ているものと、複数の視点から描いているものがある。前者の場合は、その視点となる語
り手に、特異な物語内容を読者が受容するためのガイドとしての役割が与えられている。
後者の場合は、複数の視点を置くことによって、様々な角度から作品を読むことができ、
物語を全体として把握できるという点と、ミステリーの仕掛けとして、視点をずらすこと
で物語の核心となる部分に触れるのを避けるという伊坂の意図があると考えられる。
第 2 章では、『オーデュボンの祈り』の「優午」を中心に扱い、伊坂が描く神様のよう
な登場人物について考察した。まず、
「神様のレシピ」という言葉を取り上げ、伊坂が描く
「神様」の「未来が見える」という能力について言及した。そして、
「優午」に加え、同じ
く「未来が見える」能力をもった登場人物、
『ラッシュライフ』の「高橋」、
『陽気なギャン
グが地球を回す』の「タダシ」を取り上げ、伊坂の描く「神様」は一般にイメージされる
ような全知全能な存在ではなく、無能さをもった人間的な存在であることについて述べた。
第 3 章では、伊坂作品における舞台設定、特に「仙台」を舞台にして作品を描いている
理由を探った。そのために伊坂の作品のなかでも「東京」を小説の舞台として描いている
作品と比較した。伊坂が描く「仙台」と「東京」の違いは、その都市イメージの違いであ
り、『グラスホッパー』のような殺人事件が多発する物語において、「東京」が舞台となっ
ている。都会につきまとう喧騒や暴力といったイメージに対して、地方都市には都市性と
自然を併せ持っているというイメージが少なからずある。伊坂はこの良い意味での中途半
端さを利用しているのではないかと思われる。
第 4 章では、主に伊坂の作品で扱われるテーマについて追求した。ここでは齋藤孝の「ア
イデンティティ」の考え方を借りて、伊坂の作品は、その登場人物たちが喪失もしくは欠
如した自らの「アイデンティティ」を獲得する物語なのだということについて述べた。伊
坂作品の登場人物達にとって、この「アイデンティティ」が張りをもって生きる力の源と
なっていると考えられる。
これで伊坂幸太郎作品の全てを読み解くことができたとは到底思えないが、本論文で述
べたことが伊坂幸太郎の作品の独自性を構成する一要素となっていることは間違いない。
29
ファッション雑誌における女性の表象―消費・眼差し・個性
小柳 慶子
多くの女性たちは、自分のファッションスタイルを決定する時、ファッション雑誌を見
る。本屋の店頭には、多くのファッション雑誌が並べられ、それらを立ち読みする女性た
ちが多く見られる。このように女性たちがファッション雑誌に惹き付けられるには、何か
理由があると思われる。本稿では、ファッション雑誌が女性たちをいかに惹きつけている
のかについて考察した。
まず、第一章では、日本において女性誌が誕生したと言われる明治時代から、どのよう
に女性誌が変遷していったのかを考察した。本章では、今日の女性誌が持っている商業主
義的な性質を解読するために、商業誌の変遷に注目した。今日の商業誌は、
「美」の基準を
提示する傾向が強まっており、結果として、女性を消費へと向かわせている。ゆえに、消
費には女性誌が大きく関わっていると考えられる。そこで、女性誌の変遷に伴う女性像の
変化を見ることによって、女性がいかに消費社会の中に存在しているのかが見えてくるの
である。よって、女性誌は、消費社会を表象していると言えるだろう。
第二章では、女性誌の中でも、主にファッションを取り扱うファッション雑誌を取り上
げ、女性たちがどのようにファッション雑誌を眺めるのかについて考察した。それにあた
り、その構造を分析し、それがいかに細分化されたものであるのかについて明示した。細
分化されたイメージは、一見何の関係も持たずに、女性たちに提示し続けるように思われ
るが、見る者の視線の力によって、自然な繋がりを持たせ、物語のように私たちに語りか
けてくるのである。その中から、自分にピッタリのファッションを選ぶことは、自分のア
イデンティティを選ぶことと関係しているだろう。そのことを示すために、ファッション
雑誌を見る眼差しを、ウィンドーショッピングをする時の眼差しや選びとったイメージと
同一化する眼差しを用いて考察した。
第三章においては、多数に存在するファッションイメージから自分にピッタリのイメー
ジを取捨選択することにどのような意味が見出されるかについて考察した。取捨選択する
ことは、必ずしも主体的な行為とは言えず、
結果としては客体的な行為として捉えられる。
しかし、ファッション雑誌が提供するのは、無限であるかのような選択肢であり、その中
から多様に組み合わせることによって、多様な個性がつくりだされるという幻想である。
ファッション雑誌を見る女性は、その多様な選択肢の中から、少なくとも自分らしさの個
性を表現することが可能であると考えられるのだ。
このように、ファッション雑誌は、女性たちに消費を迫ると同時に、個性の選択をも強
いるのである。そこには多数の選択肢があり、女性たちに無限の個性を表現できるかのよ
うに感じさせる。多くの女性たちを惹き付けるものは、自分の選択によって如何様にも変
化させることのできる一貫性を持たない個性であると考えられる。
30
R.シューマン論
佐藤 南
ドイツ・ロマン派の代表的作曲家である R.シューマン(1810-1856)は、音楽で現実を超
えた言葉では表現できない詩(ポエジー)を表現することを目指していた。そのため、既
存の論では、彼の音楽は精神的で内省的な作風だという見解が多い。しかし、本論ではあ
えて、シューマンの音楽が、身体的活動の活発な、外に向けられた音楽であるということ
を主張する。シューマン作品は、性格のめまぐるしい変化や、演奏のしにくさが特徴的で
あるといわれている。特に、ピアニストの妻クララとの結婚以前に作曲された初期ピアノ
作品は、古典的音楽形式を重んじるクララの影響が少なく、シューマンの独創性が強い自
由な作風となっている。彼が影響を受けたとされるドイツの後期ロマン主義の作家 E.T.A.
ホフマンの文学や、シューマンが書いた評論を通して、シューマンの初期ピアノ作品にお
ける身体性を見出すことを本論の目的とした。
第一章では、E.T.A.ホフマン(1776-1822)の作品に頻繁に登場する人物ヨハネス・ク
ライスラーの道化性について論じた。彼の気紛れな性格は、イタリアの即興喜劇コメディ
ア・デラルテにおける道化役者アルレッキーノに類似している。具体的には、アルレッキ
ーノの日常世界の破壊者としての役割、日常性と非日常性との狭間にある中間者としての
役割が、クライスラーの登場する『クライスレリアーナ』や『牡猫ムルの人生観』からも
読みとれることを、参考文献を通して導き出した。また、アルレッキーノがギリシャの神
ヘルメスと類似しているという民俗学的見解があることも示唆した。
第二章では、シューマンが自身の頭の中で作った想像上の同盟であるダヴィット同盟の
道化性について論じた。そこで、シューマンの批評からは、俗物的な現実世界と芸術の理
想世界との中間者としての役割、音楽作品からは、旋律の情感を破壊し、無意味化する作
品の支配者としての役割を見出せることが分かった。つまり、クライスラーに見られた道
化性は、シューマンにも共通したものだったのである。
第三章では、シューマンの道化性が、身体性にまで繋がることを論じた。彼の音楽作品
を、同時代のヴィルトゥオーソ作曲家であるショパンと比較すると、シューマンの作品に
必要な演奏技巧が手の機構に合っていなく、音楽の性格も気紛れで聴衆には理解しにくい
ものだということが分かる。それは、無秩序で、多動性のあるヘルメスの性質と類似して
いる。よって、シューマンの音楽作品は、ヘルメスが狡智を働かせているかのように、気
まぐれで流動的な身体性を求めるものとなっているのである。
シューマンは、ピアノという楽器を熟知していたわけではない。しかし、そうであるが
ゆえに、彼の初期ピアノ作品には、弾きにくい独特の運指、演奏時に抱く分裂したかのよ
うなリズムが生じているのであり、私たちは彼の作品に触れる際に特異な身体性があると
実感するのである。
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ミケランジェロ・アントニオーニ作品における物語とリアリズムについて
高橋 諒
本稿では、ミケランジェロ・アントニオーニの映画作品を分析し、アントニオーニがい
かにして映画とリアリズムの問題に取り組み、またそのことによってどのような語りが可
能になったかについて論じる。
ミケランジェロ・アントニオーニ(1912 年 9 月 29 日~2007 年 7 月 30 日)はイタリアの
映画監督である。彼が活躍したのは、映画史において不滅の足跡を残すネオレアリズモが
登場して以降のイタリア映画界である。ネオレアリズモは、第二次世界大戦後のイタリア
で起こった映画運動で、劣悪な製作状況を反映するかのようなドキュメンタリー的手法を
取り入れることで、新しいリアリズムを生み出し、一躍脚光を浴びた。アントニオーニも
初期はネオレアリズモ的なドキュメンタリー製作を中心に活動していたが、その後はネオ
レアリズモ的な主題から離れ、富裕層の男女の恋愛をテーマにした長編作品を次々と世に
送り出していくことになる。
アントニオーニは物語世界やドラマの「本当らしさ」から離れ、ひたすら形態的な探求
を行なうことで、
「何も起こらない」映画を物語ることを可能にした。それらはストーリー
の中に主題を織り交ぜるのではなく、外見上の形式が主題そのものとなるような映画であ
る。例えば 1957 年公開の『さすらい』では、常に画面内を横切る人物の移動、そして殺伐
とした風景が、登場人物の茫漠とした感情を抽象的に表すことに成功している。最もアン
トニオーニが活躍した 60 年代におけるモノクロ作品では、メロドラマ的設定を採用しなが
らも、プロット、フレーミング、モンタージュのそれぞれについてハリウッドの古典的メ
ロドラマに相反するやり方が採用され、全く独自の恋愛像を作り上げた。
彼の『さすらい』以降の作品は批評家から「内的リアリズム」と名付けられたが、それ
はアントニオーニが古典的ハリウッド映画の「本当らしさ」に警鐘を鳴らし、新たな内的
表現を獲得したことを示している。ジル・ドゥルーズはアントニオーニの映画について、
映画における「行動=イメージ」の図式が「時間=イメージ」に取って代わられている点
で、十全にネオレアリズモに属するものである、と指摘する。アントニオーニにとっての
リアリズムは、非現実的な説話を現実であるかのように見せるものではなく、物語世界の
現実を、平面的で、中身のない、虚構的なものとして見せることによって生み出される逆
説的なものなのである。
彼の映画は、何本かのロード・ムーヴィー、またアンドレイ・タルコフスキーやテオ・
アンゲロプロスなどの重要な映画監督に影響を与えたことが指摘されている。それはアン
トニオーニの生み出したリアリズムが今も世界中のあらゆる映画に根付いていることを証
明している。すなわち、アントニオーニの映画はネオレアリズモがそうした様に、映画史
における新たなリアリズムを構築したと言えるのである。
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ウォーカー・エヴァンズ――アートとドキュメンタリーのあいだ
星野 優
ウォーカー・エヴァンズの写真には、写真の自己批評、自己反省が見て取れる。自己批
評、自己反省が写真に見て取れるのは、アメリカの写真史において、芸術とドキュメンタ
リーというジャンルが確立しつつある状況で、エヴァンズが、そのどちらのジャンルに対
しても懐疑的な意思を持ち、写真とはどのようなものか、どのようにあるべきかを考えた
結果なのではないかということについて考えた。
第一章では、
『アメリカン・フォトグラフス』を取り上げ、アルフレッド・スティーグリ
ッツの芸術至上主義の写真への反抗としてのエヴァンズの写真、ルイス・ハインの政治や
社会変革の活動とともにあるドキュメンタリーの写真とは違う、エヴァンズの FSA のド
キュメンタリーの写真について考えた。そして、エヴァンズの写真に大きな影響を与えた
ウジェーヌ・アジェと比較して考えた。エヴァンズの芸術とドキュメンタリーの両義的な
写真は、アジェの写真にも見られた特徴であり、エヴァンズが、芸術やドキュメンタリー
としての写真のそれぞれの枠組みを越えようとする試みであることがわかった。
第二章では、
『多くの人が呼ばれている』を取り上げて考え、近代の都市のまなざしをゲ
オルク・ジンメルとリチャード・セネットを参照することで、エヴァンズのまなざしが、
近代の都市の経験からのまなざしであることを明らかにした。また、被写体に向ける写真
家のまなざしと被写体の自己演出について考え、エヴァンズが影響を受けたと言われるザ
ンダーとの比較を行った。エヴァンズは『多くの人が呼ばれている』で、地下鉄という公
の場でありながら、私的な空間が混在する特殊な空間において、自己演出が解除されてい
る人間の姿を写し、自己演出が解除された状態でもにじみ出てくる、人間の人格的アイデ
ンティティを捉えていた。そして、警察の監視のまなざしと写真家のまなざしの類似点、
わたしたちのまなざしとの類似点についても考えた。警察の監視まなざしが、わたしたち
の視線と非常に似ていることを、フィルムによって視線を固定することで明らかにしてい
ることがわかった。その結果、わたしたちの見る行為に対する自己反省を促したことがわ
かった。
第三章では、エヴァンズの写真のスタイルについて考えた。エヴァンズが写真家として
の長い経歴において、一貫して看板や標識や広告を撮影していたのは、自分の写真のスタ
イルを探求し、文字表象を表象することで、表象することの意味を問い直していたのでは
ないかと結論付けた。
以上を踏まえ、最終節では、エヴァンズの写真に見られる自己反省、自己批評について
再考した。エヴァンズがこのような試みをしてきたのは、写真が押し込められていた芸術
という枠組みやドキュメンタリーという枠組みから、写真を開放するとともに、写真の新
しい可能性を模索していたからではないだろうか。
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乙一作品における死の表象
宮野 典子
乙一の作品は、残酷さやグロテスクな表現を基調とした作品と、切なさや繊細さを基調
とした作品といった 2 つの傾向が存在している。前者の例としては、
『GOTH 僕の章・夜
の章』が挙げられ、後者の例としては『暗いところで待ち合わせ』が挙げられる。しかし、
最近は、あまりどちらかに偏った作品はなくなってきている。
乙一の作品は“死”について扱うものが大半であり、ほとんどが一人称で書かれている。
普通ストーリーが進行する上で“死んだ人”(=こちらの世界から切り離されてしまった
人)の視点は排除されるが、乙一作品の中では普段我々の知りえない、死んだ人間の視点
でストーリーが展開しているものや、外部から閉ざされて、生きているとは言いがたい状
態の主人公の視点で描かれているものもある。乙一作品は“死とは一体どのようなもので
あるか?”という問題を我々に問いかける。主人公や登場人物の名前の表記の仕方、視点
の問題、反復される単語などに注意をはらい、乙一作品が我々読者に対し、どのようなメ
ッセージ性を孕んでいるのかについて明らかにしたいと考えた。
乙一の作品の基盤となっているのがライトノベルである。第一章ではライトノベルとは
どのようなものであるのかについて触れている。
第二章では作家性の排除について扱っている。乙一は、自分自身はエンジニアであり、
職人であると述べている。特に短編集である『ZOO1・2』は極力作家性というものを排
除し、芸や技術でどれほどの物語が書けるのかについて挑戦した作品であると乙一は述べ
ている。ここでは『ZOO1・2』を中心に分析し、カタカナ表記の登場人物の名前やエン
ディングの法則性、人称の問題、不自然な登場人物の会話について考察している。
第三章では死の表象について考察している。乙一作品の中では“白”“犬”“食べる”と
いった単語や行為が繰り返し反復される。作品を分析し、これらの単語や行為にはどのよ
うな意味を持つのかについて分析した。また、あの世とこの世との境は何なのか、死とい
うものに対してどのような考えを持っているのかについても考察した。
以上のことから乙一の考える、こちらの世界とあちらの世界とはきわめて曖昧なもので
あると言え、痛みを排除し一歩距離を置いて接することで、登場人物は“死とはどのよう
なものであるのか?”を読者になげかけ、その投げかけに対し、読者は死という問題につ
いて改めて考えさせられていると確認した。死について考えさせながらも、リアルな死と
は距離をとるという手法は、死というものに親しまない私達にとって“死”を考える上で
のとっかかりとなると言える。
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エンターテイメントとしての「ヴィジュアル系」
山田 幸恵
90 年代の音楽業界において、一大ムーヴメントを起こしたとされる「ヴィジュアル系」
が、近年再び注目を浴び始めている。様々なメディアが少しずつではあるが「ヴィジュア
ル系」を取り上げ始めた 2007 年は、
「ヴィジュアル系」ブームの復活を予感させる年であ
った。
そんな「ヴィジュアル系」とは一体どういったものであるのかということを、第1章、
2章で、過去の「ヴィジュアル系」と比較しながら検証した。
また、
「ヴィジュアル系」を享受する側のファン(ここでは主に 10~20 代の女性ファ
ンを対象とする)には、
「ヴィジュアル系」
バンドのメンバーのコスプレをして楽しむ者や、
バンドのメンバー同士が恋愛関係にあると仮定した物語を作り楽しんでいる、いわゆる腐
女子と呼ばれる者も多数存在する。それらを始めとした、
「ヴィジュアル系」という閉ざさ
れた世界のなかで行なわれている、独特なコミュニケーションも存在する。これについて
は、
「ヴィジュアル系」を取り巻く環境として、ファンの特性についてを第3章で、ファン
とアーティストの相互関係を4章で分析した。
さらに、
「ヴィジュアル系」は、その境界の曖昧さから、日本のポピュラー音楽の1ジャ
ンルでありながら、サブカルチャーの寄せ集めのような現象であるといえる。
その例を挙げればキリがないが、バンド毎、公演毎に凝ったセットを作り、その世界観
に合うように衣装やメイクを考えて行われるライヴは、演劇やオペラなどの要素を持って
いるといえるし、特撮ヒーローの変身が、メイクという形になっただけで、彼らの作る虚
構の世界は仮面ライダーやウルトラマンという虚構とそう変わりない。それについて、
「フ
ァッション」、「お笑い」、
「アニメ」、
「マンガ」等の観点から、第5章で検証した。
このような、サブカルチャーの寄せ集めといえる、
「ヴィジュアル系」を、エンターテイ
メントの視点から考え、
「ネオヴィジュアル系」を含めた、現在の「ヴィジュアル系」とは
何であるのかということを、
「ヴィジュアル系」を享受するファンとの関係がどのようなも
のであるのかを交え、明らかにしていくことを目指した。
結論としては、
「ヴィジュアル系」とは、音楽に根ざしたサブカルチャーのコンビニエン
スストアのようなものであることがわかった。音楽の持つ手軽さという特性を活かしなが
ら、そこに、ファッション性や笑い、アイドル性といった要素を練りこんで作られたもの
が「ヴィジュアル系」である。つまり、ファンを楽しませる、という視点から、様々な要
素を駆使し、自らを表現している「ヴィジュアル系」とは、究極のエンターテイメントの
形であるといえる。
そして、そのような「ヴィジュアル系」は、もはや音楽の1ジャンルではなく、サブカ
ルチャーの1ジャンルと言っても過言ではない、独特の文化形態であるといえるのである。
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