種別 建造物 名称 岩瀬家住宅 建造物 白山宮本殿 建造物 村上家住宅 建造物 建造物 彫刻 羽馬家住宅 説明 所在地 この住宅はもと五箇山における塩硝の上煮屋であった長右衛門の家で、建築年代は明らかでないが、氷 見の又三郎大工が建てたものと伝える。 加賀藩の役人が宿泊したといわれる座敷には、土間および式台の椽を付属させてあり、総体に木割が太 く、材料の仕上げが精良であることなど、五箇山地方の格式ある民家として、かつ合掌造りの最も発達し 南砺市西赤尾町 た例として貴重である。 大正14年(1925)に向かって左側のニワに当たる箇所を約2間切り取ったが、現在でも庄川流域で最大の 民家であるといわれている。 祭神は、白山菊理媛命で、十一面観世音菩薩妙理大権現の御神体を安置し、現在は33年ごとに開帳され る。 本殿の様式は、一間社流見世棚造板葺と称する形で、飾りも少なく簡素である。身舎は丸柱で、舟肘木を のせ前側は、入側に板唐戸を建てて別木の定規橡を上下に、差し込んで施錠するようになっている。妻飾 りは杈首組とし、角虹梁の上には秀麗な形のすかし蟇股を篏める。この時代は、まだ木梚技術が幼稚で あったようで、木割は半分ほど挽いて割ったもの、また挽いた上をちょうなで削ったものなど、随分苦心の 跡が見受けられる。これに反して蟇股、手梜、木鼻などは実に優秀である。また軒棰の出だけで順に反ら 南砺市上梨654 せて軒反りを造るなど、小建築ながらまことに要領を得た作品である。 造建年代は、棟札より文亀2年(1502)ということが明らかである。 由緒によれば、元正天皇の時代に、越の泰澄大師が越中、飛騨国境の人形山頂に創建したと伝え、後に 兵火のため堂塔が焼失し、小祠を建てて安置していたという。その後、平安末期の天治2年(1125)3月26 日、集落の市郎右衛門先祖に神託があったので現在地に移遷した。 さらに村へ遁入した吉野朝の遺臣達の勧請によって、宗良親王、新田一族の霊も祭神としてあわせ祀った という。 昭和29年(1954)に解体修理を行った。 五箇山地方民家のうち、基本的な形式をもつ最もすぐれた建造物である。 合掌造りと呼ばれる家屋の中でも大規模の農家で、1重4階、切妻造り茅葺、戸口は妻入り、間口35尺2 寸、奥行67尺5寸ある。合掌部分はカスガイなど金物を一切使わず、縄とネソ木で結束し、壁はすべて板 壁である。柱間が7尺、8尺などと大きく、この地方の有力な生産農家の構えを備えている。 石山合戦(天正年間)のころは建築中だったと伝える。建築手法からみると、江戸中期をさかのぼらないと いわれる。しかし、戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様子を示し、多くの古風・古式 の遺構がそのまま残っている。 南砺市上梨 主な特徴は、書院造りの遺構といわれる家長寝室の「帳台構え」があること、加賀藩の定書によって、百姓 家に禁止された「長押」を取りはずした跡があること、中の出居に面して初期書院造り床棚の「一文字棚」 を設けてあること、大家族の次男以下および使用人の寝室に「中2階」をあてていること、加賀藩へ納めた 火薬の原料「塩硝製造まや」が残っていることなどである。 昭和45年(1970)に解体修理を行った。 この住宅は、明和6年(1769)に、田向集落の大半が焼失したので、4キロ下流の大島集落にあった古い合 掌造りを買い求めて移築したと伝えている。 住宅は、オエ、デイ、ネマ、オマエの4室からなるが、ネマおよびオマエの部分の桁行が、わずか1間で非常 に小規模な建築である。 これは五箇山地方民家としては、もっとも初期的な合掌造りの段階を示しており、かつ後世の改造も少なく 当初の姿を最もよく残している。全体に木割りが細く、ネマがほとんど周囲を閉鎖され、唯一の出入口とし 南砺市田向 て帳台構を設けてあること、内法寸法が5尺6寸であること、部材はちょうな・やりかんな仕上であることなど が古い様式を示している。合掌造りの部分的資料などに比較して、江戸の寛文年間(1661~1672)ごろの 建築とされている。 昭和38年(1963)、解体修理を行った。 礪波市太田出身の大工棟梁藤井助之丞の設計施工で、明治36年5月に竣工した。木造2階建、建築面積 100坪の横長の建物で、屋根は寄棟造、桟瓦葺である。外壁を下見板張りとし、窓を縦長の上下窓とする。 旧富山県立農学校本館(福野高 正面中央屋根にドーマー風の破風飾りをつくる等装飾を集中させ意を凝らしている。本館は、富山県の農 南砺市苗島433 校厳浄閣) 業の近代化に貢献した学校施設であり、簡素ながら充実した意匠でまとめられた県内に現存する数少な い明治期の洋風建築である。地方の大工が現在地へ移築保存された際、「巌浄閣」と名づけられた。 木造聖観音立像 木造聖観音立像は、真言宗の古寺、安居寺の本尊で、インドから渡来した善無畏三蔵が携えてきた仏像 と伝えられている。 カヤ材を用いた一木造りで、像の高さは97cm、上体をやや前かがみにし、右足を踏み出した立ち姿で、宝 冠・腕輪などの装身具や天衣・裳・下裳のヒダまで量感豊かに表現されている。また、顔の形や耳はやや 南砺市安居4921 長く、眼は切れ長、口元は小さく、総体的に温和な顔立ちで、眼は左手に持つ蓮華のつぼみを見つめ、耳 には全国でも珍しい耳礑という「イヤリング」状のものをつけている。 平安時代初期の作といわれ、素朴ななかに神秘性を湛えており、長く秘仏として信仰を集めている。 旧 指定年月日 員数 所有者 ふりがな 上平 昭和33年5月14日 1棟 個人所有 いわせけじゅうたく 平 昭和33年5月14日 1棟 白山宮 はくさんぐうほんでん 平 昭和33年5月14日 1棟 個人所有 むらかみけじゅうたく 平 昭和33年5月14日 1棟 個人所有 はばけじゅうたく 福野 平成9年5月29日 1棟 富山県 きゅうとやまけんりつのうがっこうほ んかん ふくのこうこうがんじょうかく 福野 大正15年4月19日 1躯 安居寺 もくぞうしょうかんのんりゅうぞう 書跡 書跡 この勧進状は、明徳元年(1390)に沙門堯雲(綽如)が、井波に瑞泉寺を建てる旨をしたためたものであ る。 「井波は、自然に恵まれ、静かに学ぶにはよい所で、寺を建てるのにはふさわしいところである。ひとりでも 多くの人が力を合わせて、立派な寺を建てたい。」という意味のことも書かれている。 紙本墨書綽如上人勘進状 南砺市井波3050 砂金の切金箔が散りばめられた雲上紙に、堂々とした筆法で書かれ、勧進の趣旨が格調高い漢文で述べ られている。 しかし、この勧進状は長年の月日を経て摩滅がひどく、判読できない箇所があり、これまでのいくつかの写 本も少しずつ読み方が異なる。 この宸翰は、後花園天皇が父の貞成親王にあてて、1434年ごろに書かれたものである。 手紙は、大変きれいな仮名まじりのやわらかな書体で、見た目にも美しいように散らして書かれている。 手紙の内容は、「父貞成親王が紀伊国粉河寺の縁起を見たいと言われたので、まず3巻をお貸しします。 紙本墨書後花園天皇宸翰御消 これは、室町幕府の足利義教将軍からきたものですから、ご覧になったらお返しください。残りはまたお渡 南砺市井波3050 息 しいたします。また、お届けいただいたこの絵巻物5巻は、大変結構なものであります。見た後にはお返し いたします。」というものである。 この宸翰からは当時の宮廷の様子を知ることができる。 無形民俗文化 財 城端神明宮祭の曳山行事 史跡 越中五箇山相倉集落 史跡 越中五箇山菅沼集落 史跡 天然記念物 高瀬遺跡(石仏地区) 脇谷のトチノキ 城端神明宮は天正2年(1574)年に現在地へ遷宮し、貞享2年(1685)に社殿が再建され、享保2年(1717) に神輿ができあがったのを機に同4年(1719)から曳山が作られ、同9年(1724)から神輿の巡行に供奉し た。当時の経済不況による沈滞心の打開、招福除災、町内繁栄を祈願する町民の信仰が成立の背景に あったと考えられる。 城端曳山祭の特色は神輿渡御の行列に、獅子舞、剣鉾、それに8本の傘鉾などが3基の神輿(春日・八 幡・神明)を先導し、6台の庵屋台と曳山が続くという古い江戸時代からの形式を、現在も保持していること である。 祭は5月14日の宵祭に始まり、神輿が御旅所に移る。そして曳山と屋台を組立て、山宿の家には御神像を 飾る。6か町の若連中は御旅所で庵唄を奉納し、翌日の祭礼の晴天と無事を祈願する。5月15日の祭礼に 南砺市城端 は、3基の神輿を先導し南町の獅子舞、新町の剣鉾、氏子各町の傘鉾などが行列する。 行列の順序は、獅子→剣鉾→傘鉾八本→四神旗→神輿三基→宮司→敬神会→庵屋台・曳山(各6台)。 行列で目を引くのは傘鉾の存在で、中世の祭礼絵巻にでてくる古い形式のもので、成立以前から神事の 移動神座としての象徴である。曳山はこの傘鉾の粧物にちなんで作られた。 庵屋台には、若連中が笛・太鼓・三味線の囃子にのせ、所望した家で庵唄を披露する。 夜には提灯が吊られ、金箔に映えて美しい。また「ギュウ山」ともいわれるように、曳山のきしる音が屋台 の囃子と重なり、見る人の胸中につきせぬ情趣を覚えさせる。 曳山は享保年間の頃から作られ、いくたびか改修されてきたが、ほとんど城端の名工の手によって作られ 越中五箇山相倉集落は平地区のほぼ中心に位置し、北東にゆるく傾斜する細長い台地に広がっている。 その北西はブナ、トチ、ミズナラなどの大木が茂る急傾斜地となり、南東は深い谷へ落ちる崖となってい る。「クラ」は岩壁を意味するので、集落の名称となっている相倉は「クラのある土地」を指していると解釈さ れている。 集落内の相念寺の沿革によると、相倉は約450年前に創始されたとある。また、下梨瑞願寺所蔵の古文書 によると天文21年(1552)1月27日付で相倉村九郎三郎先祖、図書了観なるもの道場を防守したとある。 江戸時代は加賀藩に属し、元和5年(1619)の検地では村高は121石余とされた。塩硝製造、和紙製造、養 南砺市相倉 蚕製糸が主な生産品であり、さらに薙畑と呼ばれる焼畑農業(稗、粟、そばなど)で自給自足が行われて いた。 戸数は寛文年間(1661~1672)15戸、天保年間(1830~1843)42戸、明治8年(1875)47戸という記録があ る。 集落には、現在約30戸が一段丘に位置し、20戸の合掌造り建築が残っており、約80名が生活をしている。 相倉集落に現存する合掌造り家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたものであるが、最 も古いものは17世紀にさかのぼると推察される。 菅沼に現存する合掌家屋は9棟ある。このうち2棟は江戸時代末期に建てられたものである。これらの合掌 造り家屋が周囲の環境とともに、この地方独特の歴史的風致を現在まで良好に伝えている。昭和45年 南砺市菅沼 (1970)に国の史跡に指定され、平成7年(1995)には世界遺産に登録された。 この遺跡は昭和45年(1970)の秋、辺り一帯の水田の区画整理をしたとき、発見された。 中央部には、直径20~30センチの柱根を残す3つの建物の跡があり、最も東側の南北に長い建物跡が、 この遺跡の中心の建物であったと考えられている。主殿の後方には、南北に柵が作られていた。また、主 殿の西側の小さな広場をはさんで、南北2つの建物跡がある。いずれも東大寺荘園の管理所であったと想 像される。さらに、主殿の南側には、幅約3メートル、深さ約1メートルの蛇行した小川が発見された。また、 南砺市高瀬736 1994年の調査では、石仏地区の隣接地から、「南万呂」と書かれた墨書土器も出土している。この小川の 中からは、この川を利用して運んだと思われる木材などが見つかっている。また役所で使われたと思われ る須恵器や土師器、北陸地方で初めての木簡が出土している。 井波 明治38年4月4日 1 瑞泉寺 しほんぼくしょしゃくのしょうにんかん じんちょう 井波 昭和13年7月4日 1 瑞泉寺 しほんぼくしょごはなぞのてんのうし んかんごしょうそく 城端 平成14年2月12日 城端曳山祭保存会 じょうはなしんめいぐうさいのひきや まぎょうじ 平 南砺市 えっちゅうごかやまあいのくらしゅうら く 上平 昭和45年12月4日 菅沼 えっちゅうごかやますがぬましゅうら く 井波 昭和47年3月22日 南砺市 たかせいせき いしぼとけちく 南砺市 わきだにのとちのき 昭和45年12月4日 このトチの木は、立派な枝を張り出し、幹囲り11.89メートルの巨木として知られる。地表から6メートル余り のところで上で2本の太い枝に分かれていたが、幹の内部が空洞で、昭和56年の豪雪の際に、片方が裂 けてしまった。 南砺市利賀村栗当字 大正15年10月20 利賀 トチの老木は普通、こぶが多いものだが、この木の表面は割合に滑らかであり、珍しい。 脇谷244 日 この木は毎年、2本の枝が交互に花を咲かせていたことから、両方が同時に花を咲かせると、不吉なこと が起こるとされていた。
© Copyright 2024 Paperzz