元禄快挙録(下) 福本日南著 下篇 目 次

元禄快挙録(下)
下篇
目
福本日南著
次
二〇八 主従の訣別 左六、幸七の帰郷
二〇九
二一〇
二一一
二一二
二一三
二一四
二一五
二一六
二一七
内蔵助の書 忠光、良雪らに与えたもの
同 同
同 丹女に与えた書
泉岳寺への参詣 討入りの協議
一党の出発 堀部弥兵衛宅の祝杯
同 堀部弥兵衛の俳句、村松喜兵衛の辞世
同 大高源五のうどん屋の俳句
同 富森助右衛門の母の衣、磯貝十郎左衛門の決心、寺坂吉右衛門の遅参
一党の武器
二一八
二一九
二二〇
二二一
二二二
二二三
二二四
二二五
二二六
一党の年令
一党の行装(いでたち) 各自の佩刀(はいとう)
同 大石内蔵助の行装、吉田忠左衛門の辞世
同 小野寺十内、間喜兵衛および神崎与五郎の辞世
同 木村岡右衛門の辞世、岡野金右衛門、矢頭右衛門七の孝行
一党の進軍
一党の配置 吉良邸の状況
東部隊の討入り
東部隊の戦闘
二二七
二二八
二二九
二三〇
二三一
二三二
二三三
二三四
同
同
西部隊の討入り
西部隊の戦闘
同
上野介の発見
上野介の最後
一党の凱旋 土屋邸への通告
二三五 吉良邸前の休憩 大高子葉と富森春帆の唱句
二三六 一党の引揚げ 回向院前の集合、引揚げの順路
二三七 仙台邸前の誰何(すいか)
二三八
二三九
二四〇
二四一
二四二
二四三
二四四
義徒と細井広沢
磯貝十郎左衛門の言動
泉岳寺への到着
復讐の奉告祭
泉岳寺の一日
同 主税の見識 内蔵助の思慮
同 高田郡兵衛への嘲笑
二四五
二四六
二四七
二四八
二四九
二五〇
二五一
二五二
二五三
公金の処分 瑶泉院への報告 寺坂吉右衛門の役目
仙石邸への自首 吉田忠左衛門と富森助右衛門の役目
検分使の派遣
吉良邸の検分 同家の申立て
同 死傷者の人名
隣邸の検問 三家の申立て 室鳩巣と新井白石
其角の手紙 討入り当夜の光景
同 本人の偽書 頼山陽の訳詩
上杉家の躊躇(ちゅうちょ)
二五四
二五五
二五六
二五七
二五八
二五九
二六〇
二六一
二六二
幕廷の同情
四家へのお預け
久松邸の一英物 波賀清太夫
一党の移動
お頂けの宣告
仙石邸の問答
四家の受領 内蔵助父子の訣別
細川家の歓待 越中守の懇願
同 歓待と謙譲
二六三
二六四
二六五
二六六
二六七
二六八
二六九
二七〇
討入り覚書 原惣右衛門の手記
同 同
細川邸における内蔵助
細川邸における義徒 その淡泊さ 越中守の誠意
同 富森助右衛門 堀部弥兵衛 潮田又之丞 間喜兵衛
同 寺井玄渓に与える書 大石、原、富森の歌と句
同 天野弥五右衛門の感賞 内蔵助の謙辞 細川家士の誠意
久松家の待遇 同家からの伺いと指示
二七一 同 隠岐守の会見遅れ
二七二 久松邸における主税
二七三 同 彼の警句
二七四
二七五
二七六
二七七
二七八
二七九
二八〇
毛利家および水野家の待遇
小山田一閑、岡林杢之助の自刃
上野介の首級(しるし)
上野介の法号 大石には懲り懲り 吉良四世の墳墓
天下の世論 室鳩巣の書 諸家の同情
一党処分の議 林鳳岡の名経論 荻生徂徠の法政論
日光宮の大慈悲 法親王と将軍家
二八一
二八二
二八三
二八四
二八五
二八六
二八七
二八八
二八九
一党最後の準備 同葬の希望 永別の杯
同 寺井玄渓への最後の書
同 小野寺十内が妻の丹女に与えた書
同 同
四家への内示 細川侯の暗示 壮年義徒の隠し芸
同 松平家の暗示 義徒の覚悟 波賀清太夫の慨言
吉良左兵衛の配流 上杉家の遠慮 吉良家臣の処分
検使の任命 四家の準備
一党切腹の宣告
二九〇
二九一
二九二
二九三
二九四
二九五
二九六
二九七
二九八
細川邸における一党の訣別
細川邸における一党の遺言
同
細川邸における一党の切腹
久松邸における一党の切腹
毛利邸における一党の切腹
水野邸における一党の切腹 一党の葬儀 細川越中守の名言
遺子の処分
同 矢田作十郎の振舞い
二九九
三〇〇
三〇一
三〇二
三〇三
三〇四
三〇五
三〇六
同 四人の配流
世情の沸騰 制札の破棄 鳳岡の挽歌
事後の寺坂吉右衛門
事後の寺井父子および内海道億
丹女の自尽
妙海尼
遺子の赦免 その栄達 浅野家の存祀
四十六士の墓碑
三〇七 寺坂の二基の碑 その一は刃道(にんどう)喜剣
三〇八 義土の遺蹟 京都、山科、近江、赤穂、東京
三〇九 棺を覆って事大いに定まる 名家の断案および名著
三一〇 同 史伝の続出 勅語
附 録
下
篇
上篇においては、事変の発生から、一挙が切迫するまでを述べ、中篇においては、
その間に生じた誠偽(せいぎ)、忠姦(ちゅうかん)、勇怯(ゆうきょう)、義不義、個々人
の行動を概見した。下篇においては、上篇を追い、一挙の決行から、義徒の処分まで
の経緯を記し、この快挙録を完結する。
二〇八
主従の訣別
左六、幸七の帰郷
快挙の時期がいよいよ確定したので、義徒はいずれも討入りから死後までの準備
に従事した。縁のある人々に遺書を贈る。一挙に関する書類を焼き棄てる。要は遺憾
と後累がないようにと心掛けた。その用意もまた到れり尽くせりであった。しかし我々快
挙録を記す者にあっては、焼き棄てられたその書類が惜しかった。それが今日まで存
在していたなら、義徒の面目を一層明らかにすることが出来たであろう。しかしこれは
私一個の愚痴。さて義徒の中で家僕のある人々は、これと同時に、暇を与えることにな
った。中でも二百余年の今なお同情に耐えないのは、大石内蔵助の若党の左六、幸
七の両人と、近松勘六の僕(しもべ)甚三郎である。
内蔵助の若党の室井(むろい)左六と加瀬村(かせむら)幸七は、いずれも忠実な
人物であった。幸七は主税に従い、左六は内蔵助の供をして、江戸に下り、石町二丁
目の寓居まで随い、両主人のために誠意をつくして働いた。彼らは瀬尾孫左衛門と違
い、どこまでも主人に殉(じゅん)ずる積りである。が主人には主人の思慮がある。十二
月十三日のことであった。内蔵助は両人を呼んで、
「火急な用事が出来たから、国許まで書状を遣わさねばならない。苦労ながらその
方ら両人で行ってくれ」
と命じた。一挙の切迫は、昨今諸士の動きで知れている。さてはそれとなく暇(ひま)を
出されるのであろうと、両人は胸を塞(ふさ)ぎ、
「いかような御用か存じませんが、年内は余り日もありませんので、来春にされては
いかがなものでございましょう」
といううちにも、両人は涙に暮れた。だが、
「それが延ばせない大切な用事じゃ。この際急いで行ってくれ」
と内蔵助はどこまでも真面目である。両人は聴いて迷った。さては一挙に関する至急
の御用でもあろうか。それなら、往って帰るまで、まだ討入りの間はあろう」と。進まずな
がら観念し、
「さほど大切な御用でありますなら、両人気を付けまして、これから出発いたします。
さりながら………」
といいかけて、再び声を飲んだ。内蔵助はこれを見て「従僕にもこんな忠義なものがあ
る。不憫(ふびん)な奴よ」と心中に嗟嘆しつつ、
「その方らの心入れ、嬉しく思うぞ。危険はないから安心して行け。書状は伏見まで
届けてくればよろしい」
と命じ、父子はこもごも多くの金、その他を与えて見送った。伏見とは義徒のために書
状往復の仲介を引受けた大塚屋とみえる。内蔵助は両人に渡した書中に、この際の
心情を記した。書状には、頼朝の本営に討入った曾我兄弟がその郎党両人を帰郷さ
せた当時のことを想い出し「家来両人を京に上らせ、昔の鬼王、竜三郎もこうであった
かと、涙に一笑したことであった」とあった。内蔵助の有情、また真にここに表われてい
る。
附言 近松勘六の僕甚三郎の忠節は、さきに述べたから、ここには省略した。
二〇九
内蔵助の書
恵光、良雪らに与えたもの
さて内蔵助が左六、幸七に持参させた書面は次のとおりである。
家来の左六、幸七を遣わし一筆啓上。甚寒の候、各々様いよいよ御堅固のことと
存じお喜び申し上げます。ご城主も従来どおりの処遇をされるとのこと、まことに
目出たいことです。前々と相違なく、寺社領も遣わされたことかと心にかかってお
ります。
在京の内は何かと心忙しく、書状をさしあげて御意を得ることができず、ご無沙汰
いたしました。かねてお聞きおよびと存じますが、十月初め京都を出、異儀なく父
子とも下り着き、今日まで両人とも無病にて誠に神仏の加護とありがたく喜んでお
ります。在京の内は公儀より拙者へ付人があり、一足も踏み出せない旨、確かな
筋より聞いているなどと、岡本や糟谷がかれこれ申しておりましたが、不確かなう
え、もしそうであればと、その節の対応を用意しておりました。しかし道中、関所も
滞りなく、少しも心懸りなく下着しました。打合せのため鎌倉へ立ち寄り五、六日
滞留、それより川崎近辺の平間村と申すところに在宅し、その後石町へ借宅し、
父子、十内、又之丞、勘六、瀬左衛門、金助、半之丞、三村次郎左衛門、家来三
人で住んでおります。孫左衛門と為助は村に残して置きました。同志の者は麹町
に四軒、湊町、源助町、石町、本庄に二軒、都合十軒余りに五十人余が借宅中
です。浪人どもが追々下着、拙者どもが下ったとの噂もあり、老中方もご存知と思
われますが、何の沙汰もなく、討ち入りまではそのままにおかれるのではないかと
察せられます。亡君のための忠死を感じ入る道理か、何の滞りもなく安堵しており
ます。折々上野介殿が他に移ると聞き、昼夜心をくだき、途中で待ち受けました
が、幸いそれもなく、屋敷へも二、三度間者を入れたところ変わりはなく、これによ
って近々打ち込みする運びになりました。このうえは首尾よくかねての本望が達
せるよう願っております。間もなく、その節の状況をお聞き及びになることと存じま
す。
これによって第一に見ることの出来るのは、内蔵助が京都出発の際、岡本、糟谷ら
の腰抜け連が、この挙を思いとどまらせようと試みた一事である。これはよくある手段で
ある。自分らの逃脱の真意を押し隠すために「政府の探偵は実に危険である。今足を
揚げれば、ただただ大事を誤るばかりである」などと分別らしく申し立て、「それでも強
いて一挙に出るなら、左様な無謀な企てには、自分らは応じられない」というのである。
しかしこれらの恫喝(どうかつ)にも心を変えず、大義に断じ決然として京都を発足した
ところに、内蔵助の斤量が見える。むしろ反対に、幕府は内蔵助らをして「遣るだけ遣
らせて見よう」としたことが、この書によって推察される。幕廷にもまた人ありというべきだ。
この書は次いで変心脱盟の者どもの身上に言及した。
上方で追々変心した者どものこと、お聞き及びでしょう。江戸からそちらへ帰って
いる者も多いでしょう。佐々小左衛門父子には何も言うことなく、上方の岡本次郎
左衛門、糟屋勘左衛門、小山源五左衛門、進藤源四郎のやり方は論外で、人並
外れた事ども、その他様々の事ども、申すも恥ずかしく、奥野将監、河村伝兵衛の
存外の儀も同様です。今になっては岡林杢之助、外村源左衛門、八島惣左衛門
の了簡の方がましであったと思われる。当地に下った者の中では中田理平次、中
村清右衛門、鈴田重八、家来瀬尾孫左衛門、矢野為助(いすけ)、江戸在勤者で
は、田中貞四郎、小山田庄左衛門が立ち退いた。古今珍らしくないことではある
が、ここまで来ながら逃げるとは驚き入る。孫左衛門儀は、山科ではたって差し留
めながら、かえって腹を立てて江戸に下り、事急に立ち去った。当然大石家の外
聞も悪くなり、死後の評判を汚してしまうのが残念だが、やむをえないことです。以
上、言う必要のないことかもしれないが、書き付けておきます。
二一〇
同
同
内蔵助の書は佳境に進んだ。
このたび暇を出した二人の家来は、このところ相宿者も多く、昼夜骨を惜しまず勤
めてくれ、不憫(ふびん)ではあったが、急なことになったので暇を出した。私の命
が二つあれば、両人をどなたかに無理をいって使ってもらうのだが、今はそれが
出来ない。役に立つ者だからもし相応の思召しがあれば、お言葉をかけてやって
ください。
このたび申し合わせた者は四十八人、かように志を合せることができたのも、冷光
院殿にはこのうえない喜びとなりましょう。死後ご見分のため残す口上書一通、写
しを進呈しておきます。いずれも忠信の者たちです、回向をしてやってください。
その場で生き残ったとしても、引き出されてお仕置されることは必定です。それも
皆覚悟しておりますので、ご安心ください。なお様子を聞きたいときは、京都の寺
井玄渓へお尋ねください。よく知っているはずです。
ここに四十八人とあり、本書が書かれた時点では、毛利小平太がなおいたことが分
る。内蔵助はいう。「かように志を合せることができたのも、冷光院殿にはこの上ない喜
びとなりましょう」と。彼の志は、一つには、臣子の本分から亡君の鬱憤を散ずることで
あるが、また二つには、遺臣らが身を棄てて君恩に報ずるのは、内匠頭が日頃行なっ
た一藩の訓練撫育(ぶいく)の結果であるということを実地に立証し、君徳つまり亡君の
名誉を広く伝えようとしたのである。
終りに彼は自家の上に言及した。
また私の妻のこと、ご存じのとおり京で離別し、縁者の方へ返しました。伜、娘は
どのようになってもそれまでのことです。しかし聞くところでは、次男の吉之進は出
家し、何方かへ移り住んだとのこと。以後万々一別条なく世間に出ても良い事情
になれば、吉之進にもう一度武名の家をおこしてもらいたいと、少しは心に懸けて
おります。とても出来ないこととは思いますが、凡夫の人情として、お恥かしい次
第であります。しかしこれが一事の邪魔になるのであれば、お気遣いされる必要
はまったくありません。
彼の親戚は、彼が一挙後に累を受けさせまいと、主税の弟吉之進を得度させたもの
と見える。内蔵助がこれを聞いて、歴世武門の名家が出家禅門に下されるのを遺憾と
するのは、無理もない。しかしこの恩愛の情のために「一挙の邪魔になる所存は毛頭
ないので、お気遣い下されるな」という。大丈夫の精神は金鉄のごとく、百世の下なお
賢儒を奮い起こす。最後に、
良雪様、去年以来の物語を忘れず、日々思い出しながらこの度当然の覚悟を固
めた次第であります。日ごろ心易く御意を得ておりましたので、別してお名残り多
く、お暇乞いかたがた記しました。死人に口なし。死後色々の批判がとりどりにあ
ると察します。知貞(ちじょう)御坊へも同様に願いたく、遠林寺、神宮寺にも、噂
があればよろしくお伝えくださるようお願い申し上げます。恐惶(きょうこう)謹言。
十二月十三日
大石内蔵助華押
恵光様
良雪様
神護寺様
なおなおこの書状、家来に持たせますが、もし道中で滞ってはと思い、写しを取
っております。死後大津よりそちらに着くように頼んであります。家来の両人が着
きましたら、昔の鬼王、童三郎もこうであったかと涙で一笑するでしょう。以上。
恵光は赤穂華岳寺の第四世滅伝恵光。良雪はかつて久しく徒弟として華岳寺にあ
り。当時同新浜の正福寺の住持であった。それから神護寺は周世(すせ)村にある大
石家の持仏堂ともいう寺で、良雄の祖父内蔵助良款(よしすけ)が持仏の観世音を安
置するために建立した寺である。全体に内蔵助には方外の交わりが多い。良雪もその
一人で、方外から一挙を賛し、神機をふるって内蔵助を応援したものとみえる。「この
たび当然の覚悟を固めた次第」というのは、これに対していったのであろう。死生の際
に処して、なお益友の高義を思い、かねて知已の情誼に答える。この人の襟度(きん
ど)はますます大きく見える。
附言 大阪の人大江東陽が「思出草」に、殿中凶変の注進が始めて内蔵助の許に
達した時、内蔵助は華岳寺の住持と囲碁を闘わしていたことを伝えてから、後の
作者はただちにその住持を良雪と断定し、「思出草」にある囲碁上の話をこの内
蔵助の手紙の末文に対照し、実(まこと)しやかに述べたてている。しかし早水、萱
野が最初に注進をもたらしたのは、三月十八日の亥(い)の刻つまり夜半であり、
内蔵助が華岳寺で碁盤を囲んでいたというのは少々変である。その上「思出草」
は「城中より早々に登城されたい、といって来た」という。仮にこれを事実とすれば、
諸士は内蔵助より早く事変の注進に接して、夜半に城中にあつまっている訳にな
る。いよいよおかしいではないか。いわんや内蔵助が狼狽して飛び出すところを、
住持が引き留めて、更に一局を囲み、あわせて訓戒を加えたというもの、どこまで
も市井人の臆測から割り出した根なし草、内蔵助を知らないもはなはだしい。あま
り馬鹿馬鹿しいから自分はとらない。
二一一
同
丹女に与えた書
内蔵助はまた別に小野寺十内の妻の丹女に一書を認め、両人に渡した。
家来左六と幸七に暇(いとま)を出し、上方に登らせたので、一筆申しあげます。
けしからぬ寒さとなりましたが、いよいよ息災のよし、おりおり十内殿からお聞きし、
結構なことと存じます。こちらでは十内殿は一だんとご無事、私も相宿して昼夜心
易くしております。少しもわずらわしいことはないので、気遣いをなさらないように。
さぞかくべつの心配をしておられるのではないかと、二人で噂しております。江戸
に来て以来思いのほか永滞留となり、こまっておりますが、この方のしゅび、一だ
んとよろしく、かねてそちらでかんがえていたこととは、かくべつちがい、大慶なこ
とです。やがてしゅびよくらちが明くものと、先ずは今までの準備はのこるところな
くできているので、ごあんしんください。もはや時間はありません。前々から申すと
おり、十内殿の御家方は人勢がそろい、忠志のお志、誠にしんせつの志、後代ま
での名声と、うらやましく存じます。私の一家どもは大こしぬけどもばかりで、のこり
留まっているのはわれら父子と、同名では瀬左衛門ばかりです。めんぼくないこと
です。家来の孫左衛門も、去る六日に立ちのきました。元来軽いものではあった
が、我らの名誉と存じ、よろこんでおりましたが、不屈き至極です。しかし高い者も
賤しい者も、めずらしくないのはこのことです。幸右衛門殿、源五殿、そのほかも
無事、随分すこやかでおりますから、心配はありません。次第におしつまってきま
したが、いつの年の暮も、来る春も一向にわきまえず、うかうかと年月を送り、この
ほどは鳥追いなどに行き、はや年のくれかとおどろいたほどです。さてもおかしい
われわれの身のさまと、十内殿とわらいました。在京の節はたびたび参り、お目に
かかり、ごちそうになりました。何も何もむかしがたり、夢のここちです。よほどのな
じみのせいか、ともすれば、都のことのみ思い出し、なつかしく、のこり多く、うち寄
り、一笑することです。このたびいとまをだした二人のものは、むかしのおにおう、
どう三郎と同じことにおもわれ、笑っていることです。両人はこのところつつがなく、
昼夜身をおしまずはたらいてくれました。心ざしが深く、過分のことでした。軽い者
ではありますが、用に立つ者なので、一しお不憫におもいます。左六がお宅に立
ちより、十内どののご無事を申し上げ、またおいとまごいをお伝えします。以上で
ございます。もはやご返事はご無用にぞんじます。かしこ。
大いしくらの助
十内殿御内儀さま 参る
何と落ち着いて堂々とした手紙ではないか。「道理心は肝を貫き、忠義は骨髄に徹し、
すべからく死生の間に談笑する」とは、このことを言うのであろう。
二一二
泉岳寺への参詣
討入りの協議
一党の義徒四十七士が待ちに待った十二月十四日は回(めぐ)って来た。あたかも
今日は故内匠頭の命日である。彼らは大いに勇み立った。「亡君の尊霊は我々の忠
志をご覧になり、一挙を成功に導かれる。敵を討ち取ること疑いない。では名残りの暇
請(いとまご)いに、これから泉岳寺に詣り、一つには御霊前に参拝し、また一つには
同寺において今宵の手筈を定めよう」と、大石内蔵助を初めとし、重立つ同志十余名
は互いに約束して、冷光院殿の霊前に集まった。いずれも丹誠を凝(こ)らし、今宵の
勝利を黙祷することしばらく、やがて方丈に移った。「今日は亡主の命日ゆえ参詣いた
しましたが、我々旧同僚の者ども、いずれも近々四方に離散するので、再会のほども
覚束ない。それでここに永の別離を惜しみたく、ついてはお室にてお斎(とき)にも預り、
ゆるゆると物語など致したい。どうかお許し下さい」と言いながら、白銀三枚を包んで差
し出した。「それは心易いこと、さあお通りなされ」とて、客殿に請じ、時を移さず膳は供
された。人々はこれをしたため終り、命じて膳台を去らせながら「これより寛(くつろ)い
で話しながら一睡したいので、間の襖(ふすま)をしめてください」と、衆僧を謝絶し、こ
こに方略の協議に入った。
内蔵助は諸士に向い
「一般の方略は前に決定した起請文の前書および人々心得の覚え書に尽している。
今は討入りの手立てを確認しておこう。一党四十七人を甲乙の二隊に分け、拙者は
その甲隊をもって東面の表門から攻め入る。方々のお勧めにまかせ、伜の主税は
乙隊と共に西面の裏門から討ち入る。主税はご覧のとおりの若輩であるから、その
方面は吉田殿と小野寺殿二老の後見をお頼みする。総じて三人一組となり、進退を
共にされたい。目ざすは上州一人でござるぞ。爾余の敵に関わって遅れを取っては
ならない。手強(ごわ)い輩が支えれば取り囲んで討ち取れ。その他の衆は一人一
体で当れ。役の軽重、功の高下はこの場合論ずるところではない。室内の闘いが苦
手な老功の者は、すべて室外にあって出入り口を固め、敵の逃亡に備えよ。かねて
壮年の者を激励されたい。人々の進退は合図の笛を用いる。室内が暗くて見分け
がつかない時は互いに合い言葉を交わせ。味方が出会って「山」かと問えば、「川」
と答え、同志討ちを避けよ。もし言葉をかけて返答に遅れる者は、会釈もなく討って
しまえ。その他は予定のとおりと心得給え。今夜丑の上刻(午前二時)までに必ず例
の三か所に参集されたい。各人このことを一党の衆に伝え、それぞれ用意されよ」
と、残るところなく訓示した。一坐は皆眉を上げ、口を揃えて「承知しました」と答えつつ、
さらば準備に取掛ろうと、日が正午に近づく頃、各々泉岳寺の門を出た。
附言 俗人はややもすれば義徒が使った金額を言いたがる。この日泉岳寺へ差し出
した回向料のこともその一つである。鳩巣翁までが誤って白金三百両などという。
しかしその実は白銀三枚である。それは、当時の事情で推知することが出来るの
で、私は「義臣伝」の所伝を正しいと信ずる。
二一三
一党の出発
堀部弥兵衛宅の祝杯
かねて配られた特別方略「覚書」の第一条には、三か所の集合地が指定された。そ
の一は本庄林町の堀部安兵衛の家、その二は本庄三ッ目横町の杉野十平次の家で
ある。いずれも剣客の浪人と触れ込んで借り受けた住居だから、一党多数の集合には
好都合である。その三は本庄二ッ目相生町三丁目の神崎与五郎と前原伊助が開いた
小豆屋米屋の合名店。この最後の集合点はもっとも讐家の吉良邸に近い。それでい
えば堀部の宅は本隊の舎営、杉野の宅は前衛の舎営、合名店は前哨のそれに当る
のである。さてその参集時刻は「覚書」の第二条により、丑(うし)の上刻つまり午前二
時と定められた。これはいうまでもなく、吉良家の茶会が夜であるから、一つには客が
帰り、一家の寝静まるのを待ち、また二つには市内の通行が絶えるのを待ち、なるだけ
人に見とがめられまいとの用意である。それで一党は約束の時間を違えず、三々五々
定刻に各自の集合点に集まって来た。その状況の一斑を回顧しよう。
* * * * *
一党の中で家族と同居しない人々は、数日前から本国に帰ると称してそれぞれ家主
に家を返し、各自の家具荷物などの処分をした。時の到るのを待ち受けて、いよいよこ
の時が来たと、雀躍(じゃくやく)して立ち出る。なかでも一党の総統領大石内蔵助は
人々を出しやった後、小野寺十内らと駕籠を雇って、宵に石町の寓居を出た。道すが
ら両国矢の倉米沢町の堀部弥兵衛老人宅に立ち寄った。老人は聞えた武辺の古兵
(ふるつわもの)、一家の妻子もまた家風を守る人々である。それで昼の間から討入り
の門出の祝いの準備が整えられた。出陣の吉例により、戦いには勝栗、勝ちてはよろ
昆布などの取肴に、なお敵の首級(しるし)を挙げて名を後世まで残すとて、寒鴨(か
んがも)を調理して、菜鳥の吸物さえ用意された。そればかりか甥の佐藤条六衛門と堀
部九十郎は、間接に今夜の快挙を助けるとて、宵からここに連なった。義徒は追々こ
の家に訪れる。そのうち総統領も入って来る。一家でこれらを歓迎し、祝いの酒宴はこ
こに開かれた。「丈夫は涙がないではないが、別離の際には注(そそ)がない。剣を杖
に樽酒に対すれば、遊子の顔(かんばせ)を恥じる。蝮蛇(ふくだ)一たび手を噛めば、
壮士ただちに腕を奮(ふる)う。志すところは功名にあり。別離なんぞ恐れるものか」と、
主客は共に眉を開いて、盛んに盃を回らした。そのうち早くも子(ね)の刻(夜の十二
時)に達したので、内蔵助は十内をうながし「我らは一党への指図があるので、一足お
先に」と別れを告げ、次いで堀部安兵衛の林町の宅の集合所へ向かった。
附言 諸説ふんぷんとしてとどまるところがないのは、討ち入り前の諸士の行動であ
る。まず当日十四日午前の泉岳寺参集を一党の総員会議のように伝えるものが、
その一つ。「義人録」および「義臣伝」の作者はこれによった。しかしこの参集が十
余名に過ぎなかったことは「寺坂談」で知れる。それから内蔵助が故主の未亡人
瑶泉院の前に伺候して、帰国のお暇請いをしたというのが、その二つ。これは全く
虚伝であったと、鳩巣翁も打ち消した。次には今夜堀部弥兵術宅に立ち寄る前に、
内蔵助が主税を伴って、南部阪の浅野土佐守邸の辺りに行き、よそながらのお暇
請いをしたという、講談や浪花節にいう「南部阪雪の別れ」の一段がその三。これ
もまた痕跡のない捏造(ねつぞう)説である。次に当夜弥兵衛宅を出た後、うどん
屋久兵衛の店での総会食というのが、その四。これは当時から伝わった説と見え、
鳩巣翁は「義人録」に詳しく記した。だがまた事実を誤っている。それは「寺坂談」
に「本庄のうどん屋久兵衛へよったというのは虚説である。上野介殿の近所でかよ
うな軽率なことをするはずがない」とある。ただし義徒の三人や五人が立ち寄って、
一杯引っ掛けたぐらいなことはあっただろう。それは後に講ずるところがあろう。ま
だあるが、余りうるさいから。この辺で止めておく。
二一四
同
堀部弥兵衛の俳句 村松喜兵衛の辞世
世にも豪放な人は堀部弥兵衛老人である。彼は討入りの時日が確定してから、意気
衝天(しょうてん)である。「我ら今は年こそ老いたが、その場に臨んでは、若者どもに
は遅れを取らない」と勇み立った。十三日から大雪となったので、気をあせり「この分で
は明晩の乗込みは容易でない。門の扉を打ち破るべきか。それとも長屋の屋根に乗る
べきか」など、苦心しつつ、その夜は枕についた。心神の結ぼれるところは、不思議に
も夢となるものである。うとうととする間に、たちまち彼は夢中に一首の俳句を得た。
雪晴れて心にかなう朝(あした)かな
彼は夢から覚め、おのれに帰ったが、その句はまざまざ記憶にある。二、三度自ら
暗誦した。そして今十四日の朝起きてみれば、地面こそ銀世界となったが、空は追々
に晴れて来た。
「さては霊夢をいただいたか。今宵の勝算疑いなし」と同志に告げれば、人々の勇気
はますます倍加した。けだし彼は老練の古兵、霊夢を借りて、衆を励ます挙に出たの
思われる。夢の中で句を得た例は、古今に少なくない。精誠が凝結するところに、これ
を得ないとも限らない。
それで彼は今暁から祝いの酒を酌(く)んだ。宵は宵とて同志の饗応にまたまた杯を
重ねたので、頻りに睡気を催した。「ここから集合所までは近い。討入り時刻までには、
まだ間がある。今のうちに一睡しよう。時刻が迫ったら、起してくれ」といいながら、内室
と令嬢に介抱させて、肘(ひじ)を曲げたが、鼾(いびき)声たちまち雷のように、心地良
く眠りの世界に入った。ああこの余裕しゃくしゃく、もって大事を託すべしだ。刻々と漏
斗(ろうと)は移る。佐藤条右衛門と堀部九十郎は言い合せ、「伯父上、もうお目覚めに
なってもよろしい頃です」と揺り起せば、「アァ元気が回復した。ではただちに出発しよ
う」と支度を整え、得意の長槍を突いて立ち上った。この時安兵衛の許嫁(いいなずけ)
の幸女は十七であったが、老父を呼びとめ「父上、今夕のお働きには短槍の方が便利
と伺っておりましたが……」と注意した。「さようさよう、さすがに我が娘、よく気が付いた」
と大機嫌。その場に槍の柄を数尺切って捨て、「それにしても鏝(いしづき)がなくては
かなうまい」と、条右衛門に命じて槍の根元に取り付けさせた。二、三度これを突きなら
し、「アア心地よい心地よい」と笑って、家人に別れを告げ、二人の甥に助けられなが
ら、神崎、前原の合名店へと向かった。
* * * * *
同じく老人の中では、村松喜兵衛は親友に宛てて一書を記した。
このたびの大義、老の身ではかばかしい働きも出来ないと思うが、息子の三太夫
の所存にまかせ参加する
と記しながら、その奥に、
命にも易えぬ一つを失えば 逃げ隠れてもここを逃れん
と一首の辞世を留めつつ、予定の場所へと馳せ向った。「生はわれの欲するところで
ある。義もまたわれの欲するところだ。二つのものを兼ねることはできないので、生を棄
てて義を取る」と詠んだのである。そのすずしさ。従容さ。それにしてもこの大義、自ら
つとに思い立ったにもかかわらず「息三太夫の所存に任せて加わった」といい、同じ死
出の旅路につく三太夫に花を持たせた父子の情、涙がこぼれるではないか。この歌は
兜頭巾の裏にも書きつけた。
二一五
同
大高源五のうどん屋の俳句
この十四日夜の吉良邸の茶会の事実を確かめ、快挙の決行に大きく貢献した大高
源五は、同じく参集の定刻に遅れまいと、同志数人と連れだって、本庄を指して急い
だ。寒さは寒し腹は減る。と見れば、路傍に一軒のうどん屋がある。「ヤアこれは妙でご
ざる。一杯傾けて、暖を取って参ろうではないか」といえば、いずれも「そうだそうだ」と
同意する。豪傑連は店に入って「熱いところを」と注文し、手に手にどんぶりをもって「う
まい、うまい」と食べているうちに、ふと耳に入ったのは、店主の言葉である。主は最前
から給仕をしながら、しきりに何やら考えては「エー何のその! 何のその!」と独り言
をいう。さすがはこの道で子葉と称する大高源五、早くもこれを聴きとがめ、「主!そち
は先ほどからたびたび何のその何のそのと言い続けているが、俳句のたしなみでもあ
るのか」と問うた。
「これは恐れ入りました。実はこの頃お聴きの通りの冠付(かむりつけ)が出ましたの
で、一番、点になるような名句をと、ついい口癖に出ましたので……」
と額をなでた。
「それは話せる。その方の名は何と申す」
「ヘエ私はうどん屋久兵衛」
「ムムそれは面白い。私が付けて進じよう」
といいながら、
「何のその巌(いわお)も倒す桑の弓」
と口を衝いて即吟した。
「これはご名吟」
とは亭主の感声。
「いかにも名吟」
とは同志の歓語。
「何のその巌も倒す桑の弓」
「さらば参ろう」
と小銭を投げ出し、参集所へと赴いた。
附言 多少の事実が一つあれば、付会して百出するのが、風説子の常套である。た
だこの一つの話については所説実に紛々である。現にこの夜、一党が本庄のある
茶屋に集合するために、薄暮に堀部弥兵衛老人が茶屋に来て、金三両を投じ、
六十人前の酒食の注文をして立ち去った。夜半になって、一党の義徒すべてが
ここに集まり、その時亭主と前の談話の結果、義徒の一人某が「何のその」の句を
吟出したと記したのは「義人録」である。それが「一夕話」にはたちまち楠屋十兵
衛の店となり、蕎麦(そば)の注文が五十人前、注文主は大高源五、句の吟出も
同人となった。それが「赤穂記」には更にうどん屋久兵衛の店となり、うどんの注文
が五十人前、注文主は奥田孫太夫、句の詠み手は武林唯七となった。
百家百説とはこれをいうのであろう。かつ以上の諸書は、その前に一同が弥兵
衛宅に一度総集し、その後この店に勢揃いして、そのまま敵営に向ったというかと
思えば、また三か所にも参集したという。一党に取ってもっとも多忙な討入り前の
半夜を、あちらこちらで、飲むこと、食うこと、集まることに、ほとんど浮身をやつし
ている。彼らがこのような間抜けな義徒でないことは、寺坂吉右衛門の話でも知れ
る。彼は現にこれを打ち消し「本庄のうどん屋久兵衛へ集まったというのは虚説で
ある。上野介殿の近所でもあり、そんなことをするはずがない。弥兵衛は神崎の店
へ参り、支度した」というのが証拠である。しかし句の吟出だけは、いずれも一致
する。これは事実の一つであろう。それからその店がうどん屋久兵衛であったと伝
えられたのは、この「寺坂談」で分る。それで店はここと知れる。彼とこれとを合わ
せ考えれば、この店に義徒の数名が立ち寄った事実から、たちまち一党総打寄り
などと誇張して言い触らしたものとみえる。そして彼のように豪放な句を吐く者は、
恐らく子葉のほかにはあるまい。これは「一夕話」の説を取りたいと思う。これらの
理由によって、私は本文に講じただけの事実を実在させる。
二一六
同
富森助右衛門の母の衣、磯貝十郎左衛門の決心 寺坂吉右衛
門の遅参
富森助右衛門は日頃から覚悟のある侍であった。出仕の日は何時でも二十金を懐
にして、急場に備えていた。彼はあらかじめ今日あるを思い、自ら位牌を作り法名を記
して、菩提寺に送っておいたほどだから、時到ると喜んで、家を出ようとした。さて国難
以来のことを回想すれば、当初自分を励まして義党に入らせたのは母である。それで
この際母の志を合わせて表じたい。彼は意を決し、
「母上、いよいよ時節到来しまして、これから討ち入ることになりました。が、何分に
もこの寒さ。何でもよろしいが、下着に母上の召物をください」
と申し出た。母は喜んで、
「よく言ってくれた。何ぞ餞(はなむけ)に進じましょう」
と取り出したのは、白無垢の小袖であった。
「これを着て寒さを凌(しの)ぎ、天晴(あっぱれ)の働きをし、潔くその場に討ち死に
なされ。決してこの母のことなど思い、人に遅れを取らないよう、それのみお頼みしま
す」
と立派に諭(さと)した。助右衛門は悲喜胸を衝く。
「決して心配されるな。明朝の吉報を楽しんで待ってください。ではご気嫌よろしゅう」
と言いすて、母の下衣を身に着け、決然として家を出た。
* * * * *
磯貝十郎左衛門は鉄砲洲邸退転以来、老母を芝の将監橋付近に住む兄の内藤
万右衛門に托し、自分は同区源助町に借家して、同志と同宿したが、折も折とてこの
冬に入ってから、母は病の床につき、容態は日々に悪くなった。それで十郎左衛門は
一党と共に偵察巡警の激務に従事するうちにも、朝夕母を見舞っては、その看護を怠
らなかったが、いよいよ今夜討入りというとき、母は危篤に陥った。天性孝行な十郎左
衛門はいても起(た)ってもおれない。討ち入れば慈母の今わに遭うことが出来ない。
躊躇すれば亡君の怨讐(おんしゅう)に報ずる機会を誤る。彼はどちらを取るか悩んだ。
だが猛然として意を決し「大義、親を忘れるとはこの時である」と、後を顧みず、参集所
を指して路を急いだ。
* * * * *
最後に寺坂吉右衛門は、吉田忠左衛門の命をうけ、出発後の始末に時を費したの
で、息を切って両国矢野倉の堀部弥兵衛の宅に駆け着けて見れば、義徒は皆参集所
へと赴いた後であった。彼は遅れたと思い、そのまま転じて本庄に向おうとすると、堀
部の家族に引き留められた。「あなただけが門出の祝いに漏れては縁起が悪い。サア
ー献の立ち土器(かわらけ)」と杯を勧められた。「それはかたじけない。さらば頂戴す
る」と三杯を傾け、一党すでに勢揃いして、これから押し出そうとするところに追い着い
た。
* * * * *
このほか同志の六、七人は、参集所へ行く途中、両国の向う河岸にある亀田屋に立
ち寄り、これが最後の酒宴だと、たがいに杯を酌み交わし、時刻を見計らって銭を払い、
元気よく出発した。
二一七
一党の武器
一党は約束を違えず、丑の上刻から下刻、午前二時から三時にかけ、全員三か所
の参集所に集まった。各人の腰に帯びた両刀のほか、攻撃用の武器その他は、大張
籠(おおはりかご)二つに入れ、第一の集合所堀部安兵衛の家へあらかじめ廻してあ
った。その品目は、
槍
十二筋
長刀(なぎなた) 二振
野太刀
二振
弓
四(内半弓二) 鉞(まさかり)
二挺
大槌
六挺
竹梯子 二挺(大小) 大鋸(のこぎり) 二枚
木梃子(きでこ) 二挺
鉄梃子(かなでこ)二挺 源翁(げんのう)(攻め石綿)二挺 鉄鎚(かなづち)二挺
鎹(かすがい) 六十本 取鈎(長細引付) 十余筋 龕燈(がんとう) 一個
小笛
数十個 銅羅(どら)
一個
玉火松明
数十個
以上のうち、槍はおおむね九尺柄に切り縮められてあった。これは今夜の戦いが室
内戦であることを予見してである。弓のうちに二張の半弓を加えたのも同じ。大工道具
は言うまでもなく門その他の破壊用。鎹は敵の邸にはかねて夜襲を受けた際の逃げ路
として、処々に小門やくぐり戸を作っているとの評判があり、これで戸が開かないように
する用意であった。それから長細引付きの取鈎は、これを下から投げ掛けて長屋の屋
根を乗り越えるため。龕燈一個は目指す敵の首級を挙げた時、照らして確かめるため。
小笛はつまり呼子。最後の銅羅は一党引揚げの合図に準備したのである。そもそも鼓
を打って兵を進め、鐘を打って兵を収めるのは、兵家の法である。しかし今は小勢の
討入り。おまけに音を立てたくない夜襲であるから、陣大鼓はやめたが、引揚げの際
の銅羅は必要である。統領内蔵助が素行に学んだ山鹿流を用いたのが、この辺に見
える。
附言 私はここまで述べてきて、義士伝を書いた古人の不用意に呆れる。というのは
以上の武器道具を並べ立てれば、いかにも沢山あるように見えるので、内蔵助は
同夜多くの人夫を傭い、以上の諸具を担(かつ)がせて、敵邸に赴いたと取り沙
汰した。それを真に受けて、市井の作者どもは、皆これを受け売りした。ただ鳩巣
翁はこれを疑って「傭夫を用いることは容易ではない」と排した。しかし、「おそらく
は良雄らの家僕に運ばせたのだろう」といい、ついに「義人録」の本文に「卆に鉄
挺(てつてい)、竹梯(ちくてい)、斧釿(ふきん)の類を担いで従わせた」と書いた。
翁もやはり並べ立てた品書に浮かうかと吊り込まれた一人に近い。
試みにその品目を仔細に吟味すれば、数は多いが、そのうちの鎹、源翁、鉄槌な
どは、小風呂敷に包めば腰にも着く。取鈎や、小笛は銘々分けて、襟や帯に着け
られる。龕燈一個も大したことはない。これらを除けば、槍十二筋に十二人、長刀
および野太刀各二振に四人、弓四張にまた四人、鉞一挺に一人、槌六挺、竹梯
一挺、大鋸二枚、木梃子、鉄梃子各二挺、銅羅一個を合せてすべて十七個、つ
まり十七人役、これを総計して三十七人あれば皆運べる。ましてそのうちの二十
個までは戦士の戦い道具である。かつ堀部の家から吉良邸までは、道程僅か十
二、三町、何を苦しんで市中の人夫を傭うことがあろう。まして従僕はすでにことご
とく暇を取らせた後だから、鳩巣の推測も当たらない。作者に多少の批判心があ
れば、こんな愚説は出ないはずである。さりとは太平の天下である。むしろこれら
の愚説によって文強武弱の当時の様が追想される。
二一八
一党の年令
一党はこれからまさに打ち立つ場合となった。この機会に人々の年令を一顧する必
要を感ずる。老壮の順序により列挙すれば、次のとおりである。
堀部弥兵衛金丸
七十六歳
間 喜兵衛光延
吉田忠左衛門兼亮 六十二歳
間瀬久太大正明
村松喜兵衛秀直
六十ー歳
小野寺十内秀和
奥田孫太夫重盛
五十六歳
原 惣右衛門元辰
貝賀弥左衛門友信 五十三歳
千馬三郎兵衛光忠
木村岡右衛門貞行 四十五歳
大石内蔵助良雄
中村勘助正辰
早水藤左衛門満尭
寺坂吉右衛門信行
神崎与五郎則休
片岡源五右衛門高房
三村次郎左衛門包常
赤垣源蔵重賢
不破数右衛門正種
富森助右衛門正因
四十四歳
三十九歳
三十八歳
三十七歳
三十六歳
三十六歳
三十四歳
三十三歳
三十三歳
武林唯七隆重
吉田沢右衛門兼貞
小野寺幸右衛門秀富
大石瀬左衛門信清
奥田貞右衛門行高
磯貝十郎左衛門正久
間 新六光風
間瀬孫九耶正辰
大石主税良金
三十一歳
二十八歳
二十七歳
二十六歳
二十五歳
二十四歳
二十三歳
二十二歳
十五歳
菅谷半之丞政利
前原伊助宗房
岡島八十右衛門常樹
茅野和助常成
横川勘平宗利
潮田又之丞高教
堀部安兵衛武庸
近松勘六行重
倉橋伝介武幸
六十八歳
六十二歳
六十歳
五十五歳
五十歳
四十四歳
四十一歳
三十九歳
三十七歳
三十六歳
三十六歳
三十四歳
三十三歳
三十三歳
三十三歳
大高源五忠雄
三十一歳
矢田五郎右衛門助武 二十八歳
杉野十平次次房
二十七歳
村松三太夫高直
二十六歳
間 十次郎光興
二十五歳
岡野金右衛門包秀 二十三歳
勝田新左衛門武尭 二十三歳
矢頭右衛門七教兼
十七歳
以上、七十歳代が一人、六十歳代が五人、五十歳代と四十歳代とが各四人、三十
歳代に至って十八人、二十歳代が十三人、十歳代が二人である。ここに至ってまさに
見るべきだ。名節を励み、志気を振えば、八旬に垂れようとする老翁も義に赴き、僅か
に成童に達した少年も殉難した。世に老人だからとて事をせず、少年だからとて自ら
放棄するのは、自分が駄目人間であることを証するものだ。人々が深く考えなくてはな
らないことが、ここにある。それにしても人生三十、血気まさに旺盛である。一党中に八
人までが三十歳代の侍で持ち切ったことを見ても、知るべきである。そして思慮老熟の
境は、自から四十歳以上に求めねばならない。大石、原、小野寺、吉田など、その年
齢はおのずから棟梁の地位の幾分かを説明するものがある。
二ー九
一党の行装(いでたち)
各自の佩刀(はいとう)
一党の人々は手に手に携えて来た風呂敷包を解いて、戦衣を取出し、各々結束に
取り掛った。若者たちは多く緋紗綾(ひさや)の褌(したおび)、老輩はおおむね白紗
綾(しろさや)のそれを首から紐で吊り、白無垢(むく)、黄無垢、浅葱無垢、取りどりの
羽二重襯衣(したぎ)の上に、あるいは繻子(しゅす)、あるいは繻珍(しゅちん)、あるい
は緞子包(どんすつつみ)の着込みを重ね、腰から下には膝甲(わいだて)を回(めぐ)
らした。世に鎖帷子(くさりかたびら)というのは、この着込みのことである。両肘(ひじ)
には籠手(こて)を付けたが、それには甲のあるのもあれば、ないのもある。そして着込
みの上には更に紅色さては桃色の絹裏をした定紋着(じょうもんつき)の黒小袖を重ね、
股引(ももひき)にもまた鎖を包み、浮紋などの伊賀袴、俗にいう截着(たっつけ)をそ
の上に穿(は)き、帯の上にも更に鎖入りの上帯をして、脛(すね)には脛当、脚には陣
草鞋(じんわらじ)、または陣足袋を履(ふ)みしめた。こうして黒羅紗の羽織を最後に
着て、夜目にもそれと分るように、両襟と両袖の端に白布を縫い着け、身方同志の合
符とした。そして白布の端を後ろに回わして、これに「浅野内匠頭家来何の某」と、
一々姓名を記しつけた。が、中には金冊に姓名を書いて、別に後ろに着けた者もあっ
た。以上結束したうえ、同じく鎖入り縮緬しごきなどの襷(たすき)を掛けて、働きを便宜
にし、多くは黒革包みに、八幡座(頭頂)から白皮の筋を入れ、思い思いに好みの錣
(しころ)を閉じた兜頭巾(かぶとずきん)に、あるいは緋縮緬(ひちりめん)、あるいは調
皮(しらべかわ)、あるいは真田打(さなだうち)などの忍びの緒を着け、これに名香を
薫(た)き込んで、頭上に戴(いだ)いた。ただし以上はむしろ領袖らもしくは上士の行
装で、さまで精巧ではない物具衣裳もあったのは、遺物に徴して知ることが出来る。か
くて一党討入りの上、甲乙両隊の同士討ちを避けるため、甲隊は平仮名の「い」の字
から「さ」の字までを、左文字にして丸い前立て上に張りつけ、乙隊は同じ仮名の「り」
から「よ」の宇までを、右文字にして表わし、戦友ごとに同字を用い、一目の下に各自
の部隊別、ないし戦友別をはっきりさせた。
この際においても統領内蔵助の用意が周到であったのを知る。浅野家四代の君侯
中、長矩朝臣(あそん)の祖父長直朝臣は世に聞えた刀剣好きの殿であった。したが
って君家には多くの名刀を蓄えていた。咋年赤穂退散の際、内蔵助はあらかじめ今日
の場合を慮(おもんばか)り、これらの刀剣を、自家の手許に収めておき、同盟の人々
に分与した。それで十石二十石のちんちく侍から、五両三人扶持の歩行横目(かちよ
こめ)まで、一挙に身分不相当の名刀を持つことができたのである。そもそもその時代
にあっては、佩刀の利鈍は、その人の栄辱の分れるところである。名刀を使える諸士
の満足はいかばかりであったろう。一党は実用の心掛けに遺算がない。いずれもこれ
ら大小の両刀の柄(つか)を平打(ひらうち)の木綿糸に巻き替え、巻切柄とした。いか
にこれを取って闘うとも、手の平からの滑脱を防いだのである。それで四家へお頂けの
後まで、佩刀の鋭利と、用意の周到とは、二つながら評判になって、一層義徒の名声
を高めた。
さて一党はこれらの物の具、兵杖(へいじょう)に身を固めた後、各々呼子の小笛を
襟に着け、一封の金子、気付薬、当座の行糧としては数個の餅などを懐にし、手に手
に利器(えもの)を引提(ひっさ)げて、出発令が出るのを待ち受けた。
附言 当夜の扮装が火事装束と聞えたから、兜頭巾に革羽織などと、世は一挙の際
から言い触らした。それで鳩巣翁までが「韋(なめしがわ)の短服を着た」と伝えた。
しかし寺坂吉右衛門が書き残した「信行筆記」によれば、革羽織とは見えない。本
文は主としてこの「筆記」によった。
二二〇
同
大石内蔵助の行装 吉田忠左衛門の辞世
この夜大石内蔵助の行装は殊に勝(すぐ)れて爽(さわ)やかに見えた。彼は瑠璃紺
緞子(るりこんどんす)の着込みの上に、家の定紋を付けた黒小袖を着、黒羅紗の羽
織を重ねて、精巧な兜頭巾をかぶり、黄金作りの両刀を差し、軍扇を腰に挟(はさ)ん
で、優然として押し出したところ、さすがは一党の総統領、その意気早くも吉良父子を
飲んだ。ことに彼が帯した小刀は祖父からの相伝で、常日頃愛撫し、いかなる場合に
も、いまだかって腰間から離さなかったということである。その刀は黒檀の柄でその上
に
万山不重君恩重
万山重からず君恩重し
一髪不軽我命軽
一髪軽からず我が命軽し
という二句を刻んであった。ああ万山は重くないが君恩は重い。一髪は軽くないが我
が命は軽い。大石の一統が父祖以来忠義に徹した家であったことは、これによって想
見できる。家訓は後世の子孫に欠くことができないものと深く感ずる。
附言 後日内蔵助以下十七人の細川邸にお預けの日、接伴者の一人であった熊本
の名士堀内伝右衛門は、内蔵助の両刀を見て、この句を発見した時、小刀の柄
には古い忠義の語が彫ってあるが、我ら文盲には読めないのでここに書き付けて
おく、として写し留めた。この率直さ、無飾。私はただこの一語によって、「堀内聞
書」の深い信者となった。「知らないことをを知らないとする。これは知っているとい
うことである。」 古聖は実に人をあざむかない。
* * * * *
内蔵助と並んで扮装が目覚ましかったのは、一党の副統領吉田忠左衛門であった。
彼もまた軍扇を準備して身に着け、一党討入りの宣言書である「浅野内匠頭家来口上
書」を懐(ふところ)にした。これは一党の統領、副統領は全隊ないし部隊を指揮する
必要からである。思うに小大石および原の二士も、またまたこれに倣(なら)ったであろ
う。かくて忠左衛門はいざ出発というとき、次の一首を詠み辞世の記念にした。
君がため思いぞ積る白雪を、散らすは今朝の嶺の松風
眼前の景色を借りて胸中の無念の塊を披歴(ひれき)し、一挙に讐の首級を取って、
日頃の鬱憤を眼前の積雪とともに消散するとの意気込みは、実に飛動している。
附言 従来の漢学者は往々国風を解し得ず、鳩巣翁のような大家ですら、この歌の
本質を捉えていない。辞世とあるところから切腹の際の感慨と即断し、「終りに臨
みて和歌あり」としてこの歌を載せた。おまけに末句の「峰の松風」を「峰の春風」
と伝えている。私はつとにこれをおかしいと思っていたが「寺坂筆記」を見れば、
彼は確かに討入りの際の詠だと書きつけている。とすればなおさら朧月の天に
「峰の春風」などと吟ずるはずがない。恐らく誰かの小細工であろう。このところ
少々生兵法、地下の吉田に聞かせたら、覚えず苦笑を催すであろう。余人はとも
かくも、彼のようなこの道の能力者を後世からわずらわすのが気の毒だから、一言
弁じておく。
二二一
同
小野寺十内、間喜兵衛および神崎与五郎の辞世
一党の参謀長小野寺十内秀和が思慮熟考し、理義から断じて、この一挙に尽した
ことは、すでに述べたとおりである。彼が去年籠城を志して、赤穂に赴き、同地から京
都にある同族小野寺十兵衛に宛てた手紙で、内蔵助との面談を記して「我ら小身では
あるが、長年当家の御恩になった者である。今後思し召し詰められることあれば、はば
かりながら何なりと申付けくだされ」とあった。同じ時細君の丹女に贈った書中には、さ
らに自分の衷情を明らかにした。「今の内匠殿には格別の御なさけに預らなかったが、
代々の御主人引きくるめて百年の報恩、身は不肖だが小野寺氏の嫡孫である」と書い
たことがある。彼の報恩は実にこの見地から発したのである。こうして今や討入りという
場合になった。彼はやがて筆を取り出し、
忘れめや百(もも)に余れる年をへて、仕えし世々の君がなさけを
と一首の辞世を袖符(そでじるし)の上に書きつけた。彼の一貫した主張はこのうちに
隠れている。
* * * * *
間喜兵衛は春秋積って六十八歳、堀部弥兵衛と並んで、党の二老と称されたが、
矍鑠(かくしゃく)としたこの老人は、早くもその身を結束し、短槍(みじかやり)を提げて、
凛然として陣頭に立った。その槍の柄に、
都鳥いざ言とわん武士(もののふ)の恥ある世とは知るや知らずや
との一首を書きつけた短冊を結び着け、朝風に翻えした。雄心は落々と敵営を圧する。
* * * * *
最後の集合所に当てられた合名店の主人神崎与五郎は、一党中、小野寺、吉田に
ゆずらぬ詩想家である。彼は今夜、一面には前衛前哨の集合を引き受け、一面には
全隊前進の先導役に当りながら、眼前に真白な積雪を見れば、直ちに連想は鎌倉の
右大臣の「那須の篠原」に馳せたのであろう。彼は、
梓弓(あずさゆみ)春ちかければ小手の上の雪をも花のふぶきとも見ん
とその興趣を詠じた。槊(ほこ)を横たえて詩を賦すとは、これらの人をいうのであろう。
風流千古、その人の風貌がはっきり目に写る心地がする。
附言 漢学者が国風を解しないのは、鳩巣翁のみでない。青山伯卿(はくけい)が
「四十七士伝」および「義人遺草」に二つながらこの首の末句を「花のふしき」と誤
った。これは原本にふゝきとあった「ゝ」を「し」と速断したから起ったものとみえる。
これ以後の市井の作者は誰もが「ふしきふしき」と虚に吠えた。しかしふしきでは
何の意義もなさない。あたら詞章も滅茶滅茶になる。与五郎にこれを聞かせたら、
眉をひそめて「これはふしき」と戯れたであろう。
二二二
同
木村岡右衛門の辞世 岡野金右衛門、矢頭右衛門七の孝行
木村岡右衛門はさすがに陽明学者である。彼は一篇の詩を賦して、平生の志を述
べたが、その序論において一挙のやむをえないゆえんを詳説した。その全文は次のと
おりである。
君子の疾悪の心と、小人の矯横の行いは、二者を卒直に談笑の間に論ずれば、
必ず互いに害し、互いに相容れないだろう。先君が卑夫に逢い身を没したのも、
やむをえなかった。惜しくも殿中に事有るの日、一撃の間に快を得ず、しかも身は
独り法網に触れて失い、卑夫を家に全うせしめた。よって臣らに無窮の恨みを残
した。臣ら憤激し、身を顧みず、必ず卑夫を刺して君仇を報ぜんとする。なお謀
(はかりごと)を忍び志を押え、忌年に至るも発しないのは、遅れたのではない。時
が未だ熟さなかったからである。ああ、吾が祖父吉兵衛、始めて霜台の君に仕え、
公の子の采女の君の遇を受く。これより、吾が父総兵衛、前の内匠の君に仕え、
甚だ親近せられた。よって不肖ながら自分は継いで先君に仕えて年を経た。改め
て寵をうけることはなかったが、父祖の功績により、厚い世禄を荷い、もって妻子
を養い、婢僕を蓄え、その君恩に浴すること莫大であった。今や義士の同志に従
い、ともに白刃を踏み、必死を決し、上は君主の恩に報い、下は人臣の義を全う
する。これは臣の大幸ではないか。願わくは先君の霊に頼み、義央(よしなか)父
子の首を得、これを墓前に献じよう。臣らの祈る所ここに在るのみ。欣躍の極みに
たえず、野詩一篇を綴って志を述べた。
身寄浮雲滄海東
身は浮雲に寄す青海原の東
久浴恩義世塵中
看花対月無窮恨
散作暁天草木風
久しく恩義に浴す世塵の中
花を見、月に対して無窮の恨み
散じて暁天草木の風となる
彼はこの詩を細書し、兜頭巾(かぶとずきん)のうちに収めて出発した。後に鳩巣が
これを読んで感嘆し「心口相応じ、一気呵成し、勇猛の志、自から言外に溢れる、文は
気をもって主となすというもの、指摘する点は一つもない」と激賞した。
* * * * *
一党中最初から同盟に連なり、一挙実行に先だって死去したのは、岡野金右衛門
と矢頭長助であったが、金右衛門の一子九十郎と長助の嫡男右衛門七はいずれも亡
父の遺志を継ぎ、君父の讐を返そうと競い起った。それで九十郎は亡父の通称を継ぎ、
岡野金右衛門と墨黒に袖符の上に自署しつつ、得意の十文字槍を提げて、陣頭に進
み立った。
附言 討入り前までなお九十郎と呼ばれていたことは、大高源五が母に贈った書中
に「私三十一、幸右衛門二十七、九十郎二十三」というので知れる。
* * * * *
矢頭右衛門七は生年僅かに十七歳、今や身を結束して打ち立とうとする時、何やら
一紙を懐中から取り出して、恭しくこれを兜頭巾に納れる。と見れば、父の戒名を書い
た紙片であった。すなわち少年の心頭に、この行は我が独行ではない。さばかり君恩
に報いようと腐心した亡父とともに、敵に向かおうと思ったのである。傍にいた同志の
人々はこれを祝い、いずれも孝子の志に感じ、そぞろ暗涙を催した。
* * * * *
このようにして一党討入りの準備はことごとく整った。今ならば暁々一声、進軍喇叭
(らっぱ)の響くところである。
二二三
一党の進軍
一党の士はすべて出立の準備を終え、第一第二の営舎を出て、第三の営舎である
神崎、前原の合名店に集合した。見れば兜頭巾に黒装束、まるで火消しの消防隊、
火事は上野か浅草かと問いたいようである。そもそもこの一党の義徒がかくも堅固に、
かくも爽やかに行装(いでた)ったのは、一つには一をもって十に当り、いずれも最後
の悪戦をしようとの覚悟から出たのであるが、二つには武士の面目、みすぼらしい服
装をして、彼ら浪人生活の苦し紛れにここに出たなどの悪評を、屍の上に受けまいと
の用意によったのである。こうして華奢風流な時代の影響も自からその武衣に見える。
時代の力の洪大なことが、この一端で察せられるであろう。
とこうする間に予定の討入り時間である寅の上刻、午前の四時となった。全員これ
から出発である。神崎与五郎を先頭に、「浅野内匠頭家来口上書」と文箱(ふばこ)の
上に題した宣言書を結い着けた長竿を捧げた者が、これに次いだ。一党は銘々に弓、
矢、槍、長刀(なぎなた)、さては大槌(かけや)、竹梯子などを担ぎ、またその後へと従
った。もとより夜襲のことであるから、一張の騎馬提灯、一把(わ)の松明も点じないが、
昨夜の大雪はなお道を埋め、見渡す限り白い。そのうえに暁の霜が降りて、雪を凍ら
せたから、進軍にはもってこいである。折から有明の月は皓々(こうこう)と白雪に反映
し、天下は銀世界、家々は水晶宮のごとく、遠近ありありと昼のように見え透いた。一党
はこれを見て、先君の尊霊が冥助(めいじょ)し給うところであろうと、いずれも心中に勇
み立ち、膚を裂く寒風をものともせずず、粛々と進んで行った。
附言 この間においても一言弁じておかねばならない。一党の今夜の行装(いでた
ち)が火事装束と伝えられたから、たちまち兜頭巾に皮羽織ともてはやし、鳩巣翁
までが「韋(なめしがわ)の短服を着て」などと誤った。しかしその外套が革羽織で
なかったことは、前に詳説したとおりである。
それからその討入り時間である。これを午前二時という説が出たのは、観瀾の
「報讐録」に「神崎先導して、夜四更至る」というものがその一つ。深淵子の「義臣
伝」に丑の刻というものがその二つ。其角の手紙というものに丑満つ頃というものが
その三つ。これらが権威となったとみえ、後世の義士伝という義士伝は、おおむね
丑の上刻つまり午前二時と書いている。しかし小野寺秀和が丹女に与えた手紙に
は「七ッ過ぎに打ち立つ」といい、原元辰が寺井玄渓に贈った書にも「寅の上刻吉
良殿屋敷へ罷り越し」と見え、寺坂信行の筆記にも「十四日夜七ッ時分……上野
介殿御屋鋪へ取り掛り」とあるところから、寅の上刻つまり午前四時であったことが
明瞭である。
のみならず未明に敵を襲うのは、夜襲の定法である。時と場合によって、必ずし
もこだわるべきではないが、一党には大石、吉川等の兵家がいる。この平時の夜
襲は、必ず未明を掛けて実行したことと思われる。
二二四
一党の配置
吉良邸の状況
義徒らが進み、吉良邸の近傍に達するや否や、たちまち「止れ!」の号令が掛けら
れた。内蔵助は一党を顧み、
「方々かねての約束に従い、ここを最後の場として、いずれも奮闘されたい。万が一
にも敵を討ち漏らすことがあれば、一党の武運もこれ限り、一時に火を邸に放ち、猛
火のうちに腹を掻き切って、亡君に泉下で迫付くまででござる。各人その覚悟にて、
銘々の忠志を励まれよ。いざいざ組々に分れ、前後東西一斉に敵の邸に取り掛か
られい」
と励声一番、衆に宣示した。
一同誰も躊躇する者はいない。ソレッという間に一党は直ちに甲乙の両隊に分れ、
甲隊の東部隊は大石内蔵助自から指揮して、東面の表門に肉薄し、乙隊の西部隊は
吉田忠左衛門を先頭に、西面の裏門から押し寄せた。
この時に至るまで吉良家においてもできる限りの警戒はした。上杉家から付人とし
ておびただしい藩士を吉良邸に集め、吉良家自身もまた多くの武人剣客を召し抱え、
万一の変に備えていた。今月限りで上野介がここを引き払い、麻布の上杉邸内に移る
ことになっていたのもこのためである。しかし内蔵助の苦肉の策に欺かれて以来、吉良
家ではもはや内蔵助は深く意とするに足らない。もしその他の浪人中に多少の復讐を
企てる者があるとしても、高が二人か三人か、通行の途中に攻撃を試みるくらいが関
の山であろうと、高を括ったのが、そもそも上野介の運が尽きるところであった。それで
今夕という今夕、義徒の一党が本庄に集結し、時刻の到るのを待ちつつあるとは、夢
にも知らず、旧同僚の大友近江守らを茶会に招待し、夜更けまで笑いどよめき、客の
散じた後、一邸の上下は饗応に疲れ、今や白河夜舟に入って、正体もない最中であ
った。
この際百忙中に一閑を盗んで、吉良邸の有様を一顧しておく必要がある。同邸は
本庄松坂町二丁目において、東西三十間、南北二十間、東面は一帯に長屋であって、
表門はここにある。往来を隔てて、その対面は旗本牧野長門の邸。西面もまた一帯に
長屋、裏門はここにあってその向うは回向院。南面は高塀を築き上げて、相生町の大
道に臨んでいる。北隣は東から数えて、松平兵部太輔の家老本多孫太郎の邸と、旗
本土屋主税の邸に接している。さて表門から入れば、玄関、書院、納戸、居間、この居
間は左兵衛の室である。それから中庭を隔て、奥廊下を伝って行けば、ここに隠居上
野介の居間がある。それでこの隠居の居間は回向院の方面に極々近いので、上野介
およびその左右の者は常に裏門から出入りした。もしも今夜一党が単に表門の一面の
みから討ち入つたなら、いち早く裏門の血路から長蛇を逸したであろう。
附言 「義人録」に一党が両国橋に勢揃いして、それから討ち入ったと伝えてから、
一般の作者はおおむね両国橋という。しかし一党は林町、相生町の衆を合せて
来たのだから、再び両国橋に出るはずがない。小野寺、原らの手紙にいずれも吉
良邸の近傍で部署を分けたというのが、何よりの証拠である。
二二五
東部隊の討入り
敵邸東面の表門は、さすがに大手の本門だけに、構造は極めて堅牢であり、容易
に破壊されそうもないことを、一党は日頃から看取していた。それで東部隊はここに肉
薄するや「それ乗り越せ」との号令のもとに、二挺の竹梯子をただちに投げ掛けた。声
の下から大高源五、小野寺幸右衛門、吉田沢右衛門らが、当夜の一番乗りを期して、
白雪を戴いた屋根へと駆け登る。これを手初めとして、若手の面々我劣らじと、梯子に
取りすがれば、老功の人々もその後に続き、八旬に垂(なんなん)たる堀部老人まで
鋭々と声を出してよじ登る。それで一時長屋の屋根の雪には、無数の烏が群れたよう
に、黒みがかって異色を呈した。気早の若殿らはしばしも躊躇(ため)らわない。ひらり
ひらりと身を躍らせて、そのまま内庭に飛び下りる。この間に梯子はこちらに移される。
本隊の二十三人は瞬く間に早くも大手の木門(きど)を乗り越えた。
この時方面の部隊長原惣右衛門は屋根上に立って、一党を指揮し、かつは邸内
の光景を展望しつつあるうちに、脛を没する積雪に足を滑らせ、大地の上にがばっと
落ちて、手足を痛く擦(す)り剥(む)いた。
神崎与五郎もまたその一人で、勇みに勇んで屋根の背を内方に越える時、これも
同じく踏み外し、地上に転り落ちて、思わず身に打撲を受けた。しかしいずれも豪気の
人々、何のこれしきのことがという面持して、そのまま戦闘に入り込んだ。
この際本隊の配置はと顧みれば、
片岡源五右衛門高房 富森助右衛門正因
武林唯七隆重
奥田孫太夫重盛
矢田五郎右衛門助武 勝田新左衛門武尭
吉田沢右衛門兼貞
岡島八十右衛門常樹 小野寺幸右衛門秀富
平押しに進めば、
早水藤左衛門満尭
神崎与五郎則休
矢頭右衛門七教兼
大高源五忠雄
近松勘六行重
間 十次郎光興
は側面から前進する。
大石内蔵助良雄
原 惣右衛門元辰
間瀬久太夫正明
は司令部を形づくって、表門内に屹立する。
堀部弥兵衛金丸
村松喜兵衛秀直
岡野金右衛門包秀
横川勘平宗利
貝賀弥左衛門友信
は東面の小さい新門を守って、外に逃れようとする奴ばらに備えた。
* * * * *
折から普通の行装(いでたち)をした三人の武士が一隊の後に引き添った。内蔵助
早くもこれを見とがめ、誰であるかと目を止めると、一人は我が同族で党外の同志大石
三平、他の二人は堀部弥兵衛老人の甥の同九十郎と佐藤条右衛門である。なかでも
三平は今夕の茶会を探り得て、一党の討入りを決定させたほどであるから、その結果
如何を気遣い、また九十郎と条右衛門は伯父の老人を送りながら、そのままここまで尾
行して来たのである。が、三人ともに一隊の討入りを見て、気は昂ぶり、腕は鳴って、
痛快にたえない。それで銘々言い合わせたように続いて切り入ろうとする。内蔵助さて
はと感じて、直ちに声を掛けた。「方々の御芳志は千万かたじけないが、われわれ亡
君の讐を復するのに、方々の加勢を受けたとあっては、上に対しても名分が立たない。
この場に限り、お手出しだけは固くお断りする」と謝絶した。言われて見れば理の当然、
それでもという訳には行かない。「されば後刻再びお目に掛りましょう」と言い棄て、元
来た門外へ出ていった。
附言 この攻め口について深淵子の「義臣伝」にいざ討入りという場合に、表門が容
易に破り難いのを見て、内蔵助が急に西部隊をここに回し、自身は東部隊を率い
て裏門に出て、攻め口を交換したと、まことしやかに書き載せた。が、これは兵学
者に不似合な、しかも間違った説である。甲乙両隊の攻め口が最初から予定の
通りに実行されたことは上にも挙げた原、小野寺らの手紙の中に明白である。攻
戦に臨み、その手が難しいから、攻め易い手と交換するなど、左様な馬鹿な大将
があるものか。これは好奇者のために誤られて、こんな空談を伝えたものとみえる。
二二六
東部隊の戦闘
大門の内に詰めていた番足軽三人は、異常な物音人声に、何事が起ったかと寝惚
眼(ねぼけまなこ)を開いて出て来た。隊員は番士三人を、ソレという間に引き捕え、高
手小手に縛りあげ、門内担当の監視役に渡した。
この時遅し、かの時早し、一党の宣言書に四十七人が連署した「浅野内匠頭家来
口上書」を結び付けた一竿は玄関の真正面に立てられた。これは言うまでもなく、事後
に公儀の検視がある時、一党夜襲の素志本懐を明らかにする用意である。これと同時
に喊声(かんせい)は一度にドッと霜冴(さ)え返る朧月の寒天に響き渡り「浅野内匠頭
の旧臣ども、上野介殿の首級(しるし)を申し受けて、亡主の鬱憤を散ずるために、推
参した。早々ここに出会いなされ」と呼ばわった。寝耳に水とはこのことである。「すわこ
そ赤穂浪人が討ち入った。何としたらよかろうか」と邸内長屋いずれも色を失った。
内蔵助は隙もなく「出会う者は撃って棄てよ。逃れる者は見逃して、無益の殺生し
給うな。目指すは上野介殿一人だ。その他の敵に拘わって、時の移らぬよう心掛けら
れい。戦友互いに助けあい、一人が敵に当られたら、左右から取り込み、即時に討ち
斬って進み給え」と、その声はあたかも雷鳴のごとく、満邸を圧して鳴り渡る。「さては
飛び出したらこの世の最後だ」と夜具を引っ被って竦(すく)む者もあれば、納戸に隠れ
て震える者もある。
* * * * *
正面の戦士は得たりと玄関に懸り、その戸を蹴破り、打ち破り、ばらばらと走り入る。
この時広間に宿直していた三人の侍は、いずれも吉艮方に名のある武士と見え、追っ
取り刀で出て来た。今しも攻め入る一党の前に立ち塞がる。一党の甲乙は「御参なれ」
と踏み込んで、互いに太刀を合わせると見えたが、小野寺幸右衛門はそのうちの一人
に渡り合い、えいと一声切り込んだ。その刀で、敵の高股を斬り落したので、敵は尻を
ついてどうと倒れた。幸右衛門はそのまま奥へと走り入りさまに、と見れば、広間の床
の間に幾張かの弓が立て並べてある。幸右衛門は独りうなずき「敵には弓があるから、
各々その心得すべしと、かねて聞いていたのはこれであろう。味方を奥へ遣り過ごし、
背後から矢を射る用意と見えた。よしよし我にも考えがある」と、刀を揮って一掃い、ば
らばらとその弓弦を切って行き過ぎた。時にとっての当意即妙と、後々までも感称され
た。
* * * * *
同時に正面の敵二人を討ち取って、一斉に奥へと走り入る。これらの物音に吉良
家の侍もあちこちから起きて来た。勝手慣れた館の上、不意に現われては、身方を撃
とうとする。室内戦は次第に激しくなる。戸障子の砕ける音、婦女子の泣き叫ぶ声、太
刀打の響、震動の鳴り、四街の夢を驚かせた。
二二七
同
矢田五郎右衛門らの戦士一団は、既に広間を駆け破り、二人は先に、五郎右衛門
はこれにつぎ、書院を目指して廊下を進む時、傍に身を隠した敵の一人が不意に飛
び出て、背後からただ真二つと斬り着けた。この際もし五郎右衛門が素肌であったなら、
刃下に伏したであろうが、着込みのお蔭で身に達しなかった。彼は怒って「おのれ卑
怯者」と叫びつつ、振り返りざまに横薙(な)ぎに払えば、敵はアッと悲鳴をあげ、脚下
にある火鉢の上に倒れ伏した。それとも知らず、精神こめてエイと二の太刀を振り下せ
ば、斬りも斬った。敵の胴を二つにして、下にある火鉢に斬り着けたからたまらない。刀
は切先下り五、六寸のところからポキッと折れた。「ああやむをえん」と独語(ひとりご)ち、
相手の刀を拾い取り、ただちに書院に馳せ入った。後に彼は細川邸にお預けとなった
時、このことを聞かれたのに対し「新刀の上に傷でもあったのか、もろくも中から折れま
したので、敵の差添えを申し受け、これと取り易えて参った」と平然と語った。
* * * * *
義徒中幸運児の一人は武林唯七であった。彼は玄関から、広間、書院と真一文字
に駆け通って、それとは知らずに当家の当主左兵衛の居間へと迫った。左兵衛時に
十九歳。事急なりと見て取ったか、薙刀(なぎなた)を提げて出迎えた。勇猛の唯七最
前から相手欲しやと求めるところ、「優しい若殿御参なれ」とそのままこれに懸け合った。
太刀撃(うち)わずか一、二合、唯七の振りおろす太刀の先が、僅かに敵の額を掠(か
す)めるか掠めないうちに、敵はもろくも薙刀を投げ棄て、ほうぼうの体で逃げ出した。
唯七なおも追撃し背後から一刀を浴びせたが、吉良家代々の古例か、これも少々か
すったまで。その時敵の傍から今一人唯七に向って打ち懸った。唯七怒って「小癪な」
と転じて彼を撃とうとすれば、これも同じく逃げ走る。今一息これを追えば、討ち取るの
は容易であったが「出会う者は撃って棄てよ。逃れる者は見逃せ」とは、内蔵助の今夜
の軍令である。こんな弱虫どもを倒したとて無益の殺生だと、そのままに追い棄てて、
更に他の方面へと志した。夜明けて人々室内を点検し、前の薙刀を拾い挙げれば、そ
の金具には吉良家の定紋五七の桐をちりばめ、いかにも美麗な拵えである。さてはか
の少年が左兵衛であったか。そうと知ったら、逃がすところではなかったのに」とは、そ
の時唯七の悔恨であった。
* * * * *
このほか片岡、富森、奥田、勝田、吉田、岡島等の諸勇士もここかしこで敵と渡り合
う。中でも奥田孫太夫は堀内源太左衛門の門下であり、堀部安兵衛と並んで、聞えた
剣客の一人である。彼はこの日一尺七寸の樫の木柄(きづか)に、鉄鍔(てつつば)を
はめ、刀身二尺有余の大太刀を振い、当るを幸いに薙(な)ぎ回った。その猛烈な勢
いは大鬼神も避ける有様であった。
二二八
同
同じ東部隊中で側面から進んだ戦士二団も、また正面の同志とともに、同時に本
玄関から討ち入った。その一人大高源五の当夜の行装(いでたち)こそ目覚ましかっ
た。彼は裏表ともに紅色(もみいろ)絹の小袖を下着にし、両面黒色の羽織を重ね、精
巧な兜頭巾を戴いて、薙刀を欺(あざむ)くばかりの太刀を提(さ)げ、表の門を一番乗
りして、面もふらず切り入った武者振り、水際立って衆中に見えたが、たちまち一人の
敵に出会うや否や、見る見るその敵をものの見事に討ち取った。
* * * * *
その側面隊は開戦の当初、正面の闖入(ちんにゅう)になるだけ便宜を与えるという
計画であったが、早水藤左衛門、神崎与五郎は、各々弓を取り、敵の現われる者を見
掛けては、矢頃を計って射出した。ことに藤左衛門は日頃から精兵の射手と聞えたが、
その射出す弦音、矢鳴りは、四辺を驚かし、敵の心胆を寒からしめた。
* * * * *
以上は初戦であり、時を移さず、いずれも皆奥へ奥へと討ち入った。中にも近松勘
六はたちまち一人と渡り合い、早くも一太刀を浴(あび)せ掛けたので、敵はかなわな
いと思ったのか、一歩一歩退きかけた。勘六これを見て、踏み込み踏み込み泉水の傍
まで追い寄せた時、なぜか縁を踏み外し、ザンブと水中に落ちた。これを見ながら、敵
は返し合わせようともせず、身を転じて逃げ去った。後に勘六は細川邸にお預けの身
となった時、ある日これを語り出し、「この時敵にかかられたなら、危いところであった」
と一笑した。が、その際彼は手を地に衝いて、負傷した。
* * * * *
一党には実に遺算がない。東部隊中の老堀部、老村松、岡野、横川、貝賀の五士
は、大手の表門より北の方、隣家の本多邸に近い小さい新門の辺にあって、一つには
敵の逃散を防ぎ、二つには長屋の押えに備えたが、果せるかな、戦闘すでにたけなわ
な頃、敵はこの血路から突出を企てたとみえ、相ついでこの方面に現れた。この方面
の味方はおおむね槍、ことに老人堀部弥兵衛は槍の達人、若手では岡野金右衛門
は十文字槍の妙手と聞えた。いずれも敵に渡り合い、金右衛門早くも一人を突き伏せ
れば、弥兵衛もまた当の敵に一槍をくらわした。この間横川勘平は太刀を振い、数人
の間に懸け入り数々に敵を切りさばいた。だがその身にもまた刀創をこうむった。こうし
て五士は敵を追い討ったから、残りは再び館内に逃げ込んだ。
その後五士は交る交る長屋の前を巡羅して「出合う者は早く出合え」と声を掛け、
出る者は一突き、一撃と待ち構えたから、吉良の家老用人を始め、多くは身の毛をす
くませ、息を殺して、屏息(へいそく)した。敵邸の上下百数十人、その割合に闘う者の
少なかったのは、彼らの牽制(けんせい)が預って効が多かったものと思われる。
二二九
西部隊の討入り
ついで西部隊の戦闘情況を見てみよう。こちらもまた予定の方略に従い、吉田忠左
衛門は大石主税を後見し、今や東部隊が表門に肉薄する瞬間、本隊はひしひしと裏
門の方に取り掛った。この方面の南角にある吉良邸の辻番所に詰め合わせた番足軽
はこれを見て、棒をおっ取って出てきた。それという間に一党の若殿原は立ち懸って、
高手小手に縛りあげた。「声を立てればこれであるぞ」と白刃を差しかざしながら、その
まま引いて門前に立ち向う。この門が堅牢でないことは、日頃から見定めてあった。鍼
(まさかり)、大槌(かけや)を準備して来たのは、主としてここを破壊するためである。こ
の瞬間に「東組に遅れるな。それ打ち破れ」との号令が掛けられた。声の下から杉野
十平次、三村次郎左衛門が「承知した」と応じながら、大槌を振るってえいやえいやと
各々が三、四度戸を撃てば、大力の勇士らが精神凝らして下した槌に、扉はたちまち
打ちくだかれた。得たりと一党は潮が寄せるように、一斉に邸内に踏み入って、それぞ
れ各自の部署についた。すなわち
磯貝十郎左衛門正久
堀部安兵衛武庸
倉橋伝介武幸
杉野十平次次房
赤垣源蔵重賢
菅谷半之丞政利
大石瀬左衛門信情
村松三太夫高直
三村次郎左衛門包常
寺坂吉右衛門信行
は一部隊。
大石主税良金
潮田又之丞高教
中村勘助平辰
奥田貞右衛門行高
間瀬孫九郎正辰
千馬三郎兵衛光忠
茅野和助常成
間 新六光風
木付岡右衛門貞行
不破数右衛門正種
前原伊助宗房
もまた一部隊。
吉田忠左衛門兼亮
小野寺十内秀和
間 喜兵衛光延
は司令部を形づくり、かねて方面長屋の監視と裏門からの逃散とに備えた。
附言 以上の東西両部隊別および両部隊中の部署と人名は、中村勘助の手記によ
った。ただしこの隊別部署は、討入り前に決定され、それにしたがって書きつけた
ものとみえる。東部隊の中に三村次郎左衛門を列し、西部隊の中に毛利小平太
を収めてある。しかるに前一日に小平太は逃げた。そして次郎左衛門が裏門を打
ち破った事実も明確である。かれこれを合せ考えれば、小平太が逃げたために、
東部隊から次郎左衛門を西部隊に入れたものとみえる。それでここには毛利を省
き、三村を西部隊員に入れた。それから『義臣伝』にも両部隊の戦友別を掲げる。
その人名を見れば、あるいは合い、あるいは合わないところがあるので、これは棄
てた。
* * * * *
第一部隊はただちにこの方面の玄関を蹴破り打ち破って、そのまま邸内へと乱入し
た。中にも磯貝十郎左衛門は年こそ若いが、天性機敏の士である。玄関より駆け上り、
部屋ごと部屋ごとを窺うが、何処も真っ暗で暗中摸索の闘いに苦しんだ。これでは駄
目だと思った十郎左衛門は、台所と覚しいところに回り込み、その場から逃げ出そうと
する吉良家の家人をムンズと引っ捕えた。家人はアッと震えあがり「何とぞお許し下さ
いませ」と手を合せる。「そちは蝋燭のありかを知っているであろう。それを知らせたら
許す」。「はい、それならここに」と一束の蝋燭を取り出した。「よしよし、許してやる。早く
逃げよ」と言い棄てて、手早くそれからそれへと火を点じ、走り回って各室に立て連ね
た。館内は、白昼のように明るくなった。翌日吉田忠左衛門、富森助右衛門の両士は、
仙石伯耆守邸に出頭し、この夜の始末を自訴した時、伯耆守は早くもこのことを聞知し
「若い者の沈着な働き、伯耆守近頃感じ入る」と激賞した。
二三〇
西部隊の戦闘
磯貝十郎左衛門の働きによって、室内は隈なく明るくなった。この機に進退駆引き
の足場を自在にしようにと、戦士は互に言い合せたように、時に戸、障子、唐紙を打ち
壊す。その響きを聞くだけでも、敵の上下は戦慄(せんりつ)した。たちまち邸内は幾百
畳敷の大広間のように見え透いて来た。一党はいずれも今宵を限りと奮戦する。中に
も堀部安兵衛は関東猛進派の首領として、武勇絶倫、一党から敬重され、この一日を
千秋と待ち焦れただけ、その働きは実に目覚ましい。手に大太刀を提げて、当るを幸
いに薙ぎ回し、一党の苦戦と見て取れば、直ちに駆け寄ってこれを助け、端から端か
ら片付ける。およそこの人の前に対しては、どんな天魔といえども、顔をそむけたであ
ろう。
* * * * *
第二部隊もまた第一部隊と同時に西口の玄関から駆け入った。この手の隊員十一
人、大石主税自からこれを率いて討ち入ったのである。ここにおいて東西の両部隊は
ことごとく邸内に相合した。今や戦闘はまさにたけなわとなった。小大石の部隊の諸士
も皆死を覚悟して接戦する、中でもっとも人目を驚かしたのは、不破数右衛門である。
彼は一党中にあっても、他の諸士と事情を異にし、数年浪人の身でいたのを、統領内
蔵助の特別な取りなしによって、このたびの一党に入ったのである。それで今夜の襲
撃に当り、あらかじめ深く期する所があったか、一たび邸内に駆け入るや否や身を挺し
て突進し、当るを幸いに切りまくり、出会う敵ごとに斬りつけて、早くも庭上で二人を切り
伏せ、屋内に入って、またまた二人を切り倒し、なおも進んで、奥へ奥へと踏み込んだ。
この時、敵方から二人の豪傑が現われた。けだし数右衛門の余りに勇猛な働きを見て、
心憎く思い、これに当る者は我よりほかになしと、自ら奮って出たのであろう。恐らくこ
れ吉良家随一の勇士とみえた。両士はたちまち駆けあった。いずれも必死の戦いが始
まった。双方が激して打ち出す太刀は往々にして相合し、がんとして食い合った。見る
見る敵の刀尖(きっさき)のために、数右衛門の小手から羽織小袖の布帛(ちぎれ)が
風に破れた芭蕉のようにばらばらに切り裂かれた。しかし着込みが裏にある。小手にも
甲を施したから、身には微傷だに負わなかった。同時に数右衛門の太刀の冴(さえ)に、
素肌の敵は大小数か所の創を被りながら、なおも太刀打ちを続けたが、最後に数右衛
門が大喝一声躍り込んで打つた太刀を、さすがの難敵も避け損じ、頂天から顎下まで
割り付けられたので、そのままガバと地上に伏した。数右衛門は刀を拭って、その刃を
見れば、欠損して鋸のようになっていた。ああこれ今夕第一の健闘ものであった。
後に原惣右衛門が戦闘状況を親友に報ずるとき、まず間十次郎、武林唯七が上野
介の首級を揚げたことをいい、その次に
この働きよりも大いに働いたのは、不破数右衛門である。勝負した相手も名だたる
手ききであった。数右衛門も数か所切り付けられたが、着込みを着けていたので
疵(きず)はなかった。小手と着物は悉く切りさかれ、刀身の刃は著しくこぼれてい
た。四、五人は切ったのではないかと思われる。
と記した。健闘の実況はこれで察せられる。
二三一
同
西部隊の戦士らはいずれも邸内へ乱れ入った。隙をうかがってか、敵二人が長屋の
前に現れた。「御参なれ」と小野寺十内は先に進んだ一人と渡り合い、間喜兵衛は続
く他の一人に駆け合い、各々槍をひねって戦うこと一、二合、いずれもたちまち敵を突
き伏せた。この際忠左衛門が意見を述べた。「一体隠居という者は家の奥に住まうもの
である。上野介の居間もこの寸法を離れまい。彼はこの方面から逃れ出るかも知れな
い。お互いに意を止めて、これを監視いたそうではないか」と、やがて間喜兵衛に裏門
を守らせ、忠左衛門と十内は左右に別れて、館の周囲を巡るうち、忠左衛門は再び一
人の敵に出合い、これまたその場で突き止めた。
十内はやがて裏門内の北方すなわち左手から館の裏口へと回った。この方面は隣
家の土屋邸と接する。土屋の家士らが自邸の万一の変に備えて、高提灯を連ね、厳
重に固めているさまが、塀越しに見える。世故に老練な十内はこちらから声を掛け
「我々は赤穂浅野家の浪人にて、亡主の鬱憤を散ずるために、今夕当邸に推参して
おる。決して御館に迷惑は掛けない。我々の衷情を察して下され、お見逃しのほどを
願う」と会釈して、よたよた警戒を継続した。するとこの方面二か所でまたまた敵に出会
った。老人は毎回これに勝って、二人とも突き伏せた。気丈の老人は敵三人までをそ
の場に遣りつけたのだ。この時東西の両部隊はすでに合流し、注意深い同志は、同じ
思いに館外に下り立って、捜索する。十内が最後の敵を突き止めた際には、彼の同隊
大石瀬左衛門が敵の背後から馳せ出たが、敵は倒れながら「南無阿弥陀仏」と悲叫し
たのを聴き取った。また十内が前敵を倒した際には、東部隊の片岡源五右衛門がそ
の場を通り過ぎ「ヤア十内殿遊ばした」と称讃した。およそこの夜の戦いに、不破数右
衛門についで多くの敵を打ち取ったのは、この十内であった。それで後に彼は家族に
文通して「三人ながら証拠を残した」と言った。
* * * * *
一党はこうして善戦した。しかし志すところは上野介一人である。それでいずれも邸
の内外にわたり、かつ戦いかつ捜索した。この間に一人が一つの大穴を見出した。
「ヤアここに穴がある」と呼ばわるやいなや、三、四人が寄って来た「これこそ日頃聞い
ていた抜け穴の地道であろう」と、そのうちを覗き込んだが、黒い闇で何物が潜み、い
かなる装置があるか測れない。折から当年十五歳の大石主税が駆け寄って来た。これ
を見るやいなや「かような場合こそ我ら少年に相応の役回り」と言いながら、身を躍らせ
て飛び込んだ。けだし彼はこれをもって衆を率いようと考えたのであろう。人々これに
励まされ、続いて後から飛び込んで、暗中模索を試みたが何物もないので、舌打ちし
ながら這い登る。
後に主税以下松山邸にお頂けとなった時、そのうちの一人木村岡右衛門はこの際
のことを語り出て「我ら一党いずれも死を決した仲間であるから、命の惜しかろう訳もな
いのに、何であの際躊躇したかと思えば、裏恥かしい。これによって人には勇怯の別
があるばかりか、同じ勇にも優劣の差があることを覚り得た。主税殿の勇猛実に感服の
ほかない」と嘆賞した。
二三二
上野介の発見
一党は防ぎ闘う吉良の家士らをあるいは倒し、あるいは走らせ、片端から片付けて、
ついに上野介の居間へと乱れ入った。今は一槍一刀にと競い入った甲斐もなく、夜具
のうちはもぬけの殼で、室内に人の気配も無く、太刀もその脇に棄ておかれ、枕許に
立てられた行燈(あんどん)が眠たげに光を残すのみである「さてはここを脱け出たか」
と、党中の甲乙は手を夜具の中に差し入れてみれば、ホコホコとしてなお微温がある。
「これではまだ遠くへ逃げてはいない。銘々手を分け、隈なく館内を捜索して見よう」と、
更に八方に分散して、あるいは物置、台所、あるいは雪隠、湯殿を探し、あるいは天井、
袋棚、あるいは戸板、土壁を壊して探した。たとえ彼が天に翔(かけ)り、地に潜るとも、
探し出さずにおくものかと、百方手を尽したが、掻き暮れ影も形も見えない。時に空は
まさに明けようとする。一党はいずれも尋ねあぐみ、期せずしておおむね一箇所に集
合した。悲憤の雲が人々の面上に架(かか)り、光景は実に惨憺(さんたん)を極めた。
「これほどまでに詮索(せんさく)しても見出せない以上は、取り逃したに相違ない。
我々の武運もこれまでと存ずる。事すでにここに至っては、かねての約束に従って、一
邸に火を取り掛け、腹掻き切って相果てるほかない」と投げ出すように言い放つ。人事
はまさに去らんとする。
兵機に老錬な吉田忠左衛門これを見て「言い甲斐ないことをいわれるな。夜はまだ
明けはなれてはいないぞ。また明けはなれたとて、何事であろうぞ。敵は確かにこの邸
内に潜んでいる。今二応も三応も探した上の相談にしよう。まだまだ早まる場合ではな
い」と声を激しくして激励した。ああ戦闘の妙機は実にここにある。衆心は再び奮い起
った。「左様左様、いかにも左様。さらば今一度」と人々はまたまた手を分けて、大捜索
に従事した。
この時までに敵の勇者はおおむね死傷し、残るは長屋その他に隠れて、もはや出
会う者もない。あたかも大暴風が過ぎた後に近い。それで今回は捜索の方法を変え、
何れも声を呑み、足音を盗み、館の内外を巡察した。そのうち吉田忠右衛門は台所に
出て、ここを行き過ぎようとする時、ふとその耳を掠(かす)めたのは、この側の物置部
屋と覚しいうちに密々(ひそひそ)と私語(ささ)めく人声である。敵は一時に外部が鎮
静した様子を察し「も早浪人どもも退出したらしい」などと語り合うところであったろう。我
が戦士はこれを聴きとがめ、ハテおかしいなとその方を見れば、外部から錠を施し、い
かにも最初から人がいないように装ってある。これこそいよいよ曲物(くせもの)に極っ
たと見て取って、忠左衛門は「人々お出会いなされお出会いなされ、このうちに人声が
いたす」と高声に呼ばわった。「何!人声が」と四方から駆け寄り、ソレといいざま、一
人が斧を振るい、とっさにその戸を打ち破った。
二三三
上野介の最後
物置部屋の前後を取り囲み、一方の戸を打ち破って中を覗くと、真っ暗で何がある
かわからない。だが、人影らしいものが三つほど動き出した。「奥に敵らしい者がいる。
ソレ討ち留めよ。しかし罠(わな)があるかも知れない。気をつけて討ち入れ」といいさま、
前に進んだ二人、槍の先にて大地を突きながら進み入ろうとする。その瞬間、奥より茶
碗さては木炭の類を散々に投げ出し、我が戦士が少し躊躇する隙に、闇中から突然
一人が打って出た。「御参なれ」と三村次郎左衛門が駆け合せ、激しく闘い、ついにこ
れを討ち取った。その間にまたまた一人が切って出た。これまた死物狂いとなって防
戦したが、我が衆は「面倒な!」とて、追っ取り囲んで討ち果す。後に吉田忠左衛門が
細川邸にお預けとなった時、談この際のことにおよび「この敵は両人ともに殊のほか働
いた」と称揚した。
今は最後の一人も絶体絶命の場合となり、腰の小刀を引き抜いて、身構えするところ
を、今夕第一の幸運児間十次郎、槍提げて走り寄り、グサと突いた。その時早し、この
時遅し、武林唯七が躍りかかり肩先からまた一太刀斬り下げる。二つの痛手に敵は堪
り得ず、ウンと一声悲鳴をあげた。
一同は口々に「この敵は普通の侍ではないらしい。いざ引き出して取りただそう」と、
取り巻いて、広場のところまで引き吊って来た。敵は気息奄々(きそくえんえん)ながら、
なお生きている。「貴殿は何と仰せられる……。どなたであるか」と問うたが、彼は唖(お
し)のように一向答えない。ただこの人、一個の老体で身には白無垢の小袖を着けて
いる。吉田忠右衛門はこれを見て「普通の者が白無垢の襯衣(したぎ)を着ているはず
がない。年配といい、風体といい、上野介殿に相違あるまい」というに、いずれも「至極」
と同意する。用意の小笛は同時にここかしこに吹き継がれた。一党は悉く集合した。
「さらばこれから検査しよう」と、まずその額上の創跡を調べたが、いかにも当時浅手で
あったと見え、これぞという曇りもない。「それでは肩を」と小袖を脱がせ、一同立ち会っ
て吟味すれば、さても見紛う方ない刀痕は歴々として、斜に一の字を留めた。「ああこ
れが亡君のお斬り着けなされた太刀の痕(あと)か」と、口々に言い出る。一同は今さら
悲喜胸に満ち、すすりあげて号泣する声は隣家の土屋邸まで聞えた。
この時一党の総統領大石内蔵助は猛然として体を起し、佩刀すらりと引き抜いて、
まだ息のある上州の前に進み寄り、拳も通れと渾身の力をこめて、止めの一刀を喉許
(のどもと)から大地にかけて突き貫(ぬ)いた。そして静かにその太刀を収めて、間十
次郎をさし招き「上野殿に初槍を着けたのは貴殿である。貴殿その首級をあげられい」
と指名した。十次郎は面目身に余って、ハッと答え、即時に義央の首を討ち落し、その
ままこれを捧げて、内蔵助の実見に入れた。内蔵助は欣然として軍扇を取り出し、三
度これを振って戦勝の式を挙げれば、同時に起る鬨(とき)の声、四隣の邸々まで反響
した。一党の満悦は如何であったろう。
すると一党の中から「この上は生捕りの者を呼び出して、今一応これを確かめよう」と
て、やがて前後の両門内に捕らえておいた番卒を引き出し「いかにこの人は当家の御
隠居に相違ないか」と訊問すれば、いずれも恐る恐るこれを見て、色を失い「全く相違
ござりません」と証言した。「さらばその方どもは免じてつかわす」と、各々縄を解いて放
免した。
附言 上野介討取りに関しては、衆説噴出して止まるところがない。第一に上州の左
右の二人、一人は戦死し、一人は逃げたというのが「義人録」。しかしここは一党
に取って、目的を達するか達しないかの場合、鼠一匹とて逃がしてはならない。
「堀内覚書」にある副統領吉田の談が何よりの証拠である。
第二に同じ「義人録」は上野介が最後に残って、一縮みになり、道具の間に隠れ
ているのを、一党が引き出し、いかに訊問を加えても、とぼけて応じないところから、
間が怒って一槍突き、肩の傷を調べて、いよいよ上州に相違ないと決し、武林が
その首を討ち落したなどと書いた。この辺鳩巣翁は風説に誤まった。
これらが後の似而非(えせ)作者の手品の種となり、今度は突かれかつ斬られた
老爺を物置部屋から引き出した内蔵助がその前に平伏し、亡主の自殺した懐剣
を把って、これで自害をと勧める隙に、ごそごそ這いながら、逃げようとする。それ
で内蔵助は飛び懸り、その懐剣で止めを刺したというのが第三である。だが、六
十台の老翁が二人の豪傑から太腿を突き貫かれ、肩先を斬り下げられながら、な
おこんな働きが出来るものか。
ただし懐剣は嘘であるが、内蔵助が止めの一刀を加えたのは真実である。人を倒
して止めを刺すのは武士の作法、この点を鳩巣、伯卿らの諸大家が皆落して、一
党の総統領たる者が部下の一戦士に敵の首級を揚げさせたというのは、気の毒
である。これだけは「赤穂実録」が実を得た。これを証するのは「堀内覚書」である。
覚書の筆者堀内伝右衛門は内蔵助の刀を検して、「彼の大小は相州物と見えた。
大乱(おおみだれ)焼なり。刀の先一尺ばかりに、のりが付いていた。定めて上野
介殿の留めを刺したものと思われる。松葉先はかなりこぼれていた」とある。彼が
手を下した状況ヲ想い見るべしだ。なお後段に宇治の茶商の談を挙げる時、この
章を合わせ見ていただきたい。
二三四
一党の凱旋
土屋邸への通告
上野介の首級(しるし)は揚げられた。「この上は左兵衛を討ち取るばかりである」と
一党は今一度邸内を隈なく探したが、掻き暮れ影も形も見えない。そのうちに武林唯
七が追って走らせた一少年の薙刀を拾ったので、その少年が当主の左兵衛であると
分明する。「さては左兵衛は取り逃した。しかしわれわれが目指すところは上野介一人
である。今はその首級を揚げたから、息子までも追究するには及ぶまい」とて、内蔵助
はやがて引揚げを命令した。「集まれ!」の銅羅は東雲(しののめ)の空に響き渡る。
一党は裏門のうちに集合して、各自の部隊に整列する。
当夜の軍監ともいうべき堀部安兵衛は命を奉じて、一党の名簿を取り出し、東西両
部隊にわたって、一々指名点呼を行い、死傷を点検したが、神明の加護とも言おうか、
四十七士中一人の欠けるところもなく、ただ僅かに原、神崎、近松の三人が打撲傷を
受けたのと、横川が刀創をこうむったのみである。それすら歩行出来ない者は一人も
なかった。
東西両部隊は合体した。またも一回(めぐ)り館の内外を巡検して、点じ列ねた蝋燭
を消し、炉や火鉢に水をかけ、退去後の火災を予防した。この間に原惣右衛門、小野
寺十内、片岡源五右衛門は塀越しに隣家の土屋邸の衆に向い、銘々の姓名を名乗り
「ただいま上野介殿の首級を揚げ、これより引き取るところでござる。お屋敷にまで多く
ご配慮を掛け、恐縮千万でござる。失礼ながらここから一言ご挨拶を申しあげる」と陳
謝した。用意の周到、いよいよ出て、いよいよ妙といわねばならない。
が、中には余憤のいまだ散じない者もある。これは余り容易に敵を討ち取ったので、
ちと物足らない心地がするからである。その一人早水藤左衛門は一党とともに裏門長
屋から表門長屋を見廻りながら、吉良家の衆が潜伏していそうな家ごとに、ポスポスと
弓矢を突き込んでは、そのうちを掻き廻し「われらはただいま上野介殿を討ち取って、
立退くところであるぞ。主人を討たれて遺憾に思う輩(やから)は、疾(と)く疾く出合え、
出合え」と大声に呼ばわって、戦いを挑んだ。その権幕に辟易(へきえき)してか、一人
も出てこない。やがて彼は家老の住宅と覚しい長屋の前に差しかかる。と見れば、平
戸の上から蝋燭の光が透いて中に人気がありそうに見える。彼はこれを見るや否や、
例の強弓に征矢をつがい「早水藤左衛門一矢を参らせる」と名乗りかけ、矢次早やに
二矢ほど射込んだ。勢いは、もしもその前に立つ者があれば、筑紫の八郎為朝の矢表
に向った伊藤五、伊藤六の二の舞であろうと思わせた。
こうして一党は内蔵助指揮の下に、一巡邸内を押したが、満邸寂々として空屋のご
とく、残衆はどこに潜伏したのか、今は人の気配もない。「それではこのまま引き揚げよ
う」と全隊挙(こぞ)って整々と裏門から退出した。およそこの夜の戦闘、寅の上刻から
起って、下刻前までに終了した。つまり午前四時から同六時前、今の二時間足らずで
あった。門を出れば、東天紅を潮(うしお)し、天も凱旋を祝するかの観があった。
附言 およそ当夜の快挙に関し、紛々たる俗説のうちで聞き棄てならないのは、義徒
の妻女七人が探偵のために吉良邸の召使いとなり、一党討入りの際手引をし、か
ついずれも打物取って働いたという話である。もとより嘘であるが、これくらいに止
めておくならまだしも、一歩を進めて、山岡覚兵衛の娘で、大石主税と許嫁の阿
浪(十八歳)と菅野三平の未亡人(二十五歳)とが、一人は吉良左兵衛の妾となり、
一人は上野介の側室となって、枕席を払い、その内通によって討入りと復讐の素
志を遂げたと、まことしやかに「一夕話」などに書き立てた一事である。もしこれが
事実なら、それこそ内蔵助は由良助、いや下等な愚羅助、自家の子女までを敵
の妾にして.その力で復讐するくらいなら、むしろ最初から身を山林に晦まして、
藤房卿などの跡を追う方が、はるかに人間らしい。江戸の市井児(しせいじ)がや
やもすれば、明白な一党の義徒を、下劣な俗情をもって侮辱するのを私が憎む
のはここである。おまけに最初から山岡覚兵衛という者もいなければ、その妻や女
のあるべきはずもなく、また十五歳の主税に十八歳の許嫁がすでにおかしい上に、
妻女の名阿浪(おなみ)に至ってはますます抱腹(ほうふく)ものである。これぐら
い大胆に出鱈目をやるのなら、いっそのこと父は加古川本蔵、娘の名は小浪と呼
んだと伝えればいいのに。
二三五
吉良邸前の休憩
大高子葉と富森春帆の唱句
一党は続々吉良邸の裏門から出て来た。ここに待ち受けた大石三平、佐藤条右衛
門、堀部九十郎らは先を争って出迎え、
「これはお目出とう」
と祝するものあれば、
「いかにもお手柄」
と称賛するものもある。この間にしばしの休憩は与えられた。近松の忠僕甚三郎は餅と
蜜柑を一党に配る。
「ヤアこの辺で一杯祝杯を挙げようではないか」
とは、一党の望むところ。「さらば」と気早の上戸連はただちに近傍の酒屋に入った。
折から酒屋は今しも戸を開けたばかりのところ、客は「酒をくれい」と殺到する。酒屋の
主人は魂を失った。それもそのはず、一同は手に手に槍、薙刀を提げ、全身には紅に
染まった血痕を印している。主人はこれに酒を売れば、いかなる後難に会うかも知れ
ないと恐れて、
「あいにく居酒は市中の法度でございますので、何とぞご免下され」
と泣くような声で陳謝する。大高源五聴きもあえず、
「われわれは天下の御法度さえ破って来た者だぞ。市中の法度ぐらいが何であろう」
と、呵々と笑いつつ懐を探って、金子二両の一封を投げ出せば、上に
元禄十五年午十二月十四日浅野内匠頭家来大高源五忠雄討死す。死骸取捨て
る方へ酒代
と題してある。
「かような大金を」
と主人がいうのを、耳にも留めず、
「ソレ運び出せ」
この言葉に、反対する者はいない。店の丁稚らは力に任せ一樽の菰被(こもかぶり)
を往来へかつぎ出す。待ちかねたと言わんばかり、義徒の一人が槍の尻で鏡板を突き
破れば、一同は樽を取り囲んで、引き掛け引き掛け舌鼓を打つ。
「甘露、甘露」
一杯、二杯、三杯、四杯、傾けるにつれ、その意気は虹のように高く、大高子葉は口
を開いて、
日の恩やたちまちくだくあつ氷
と朗吟すれば、富森春帆ただちにこれに和し、
飛びこんで手にもたまらぬ霰(あられ)かな
と続けた。この意気が、よく敵を取り得たのである。人々の快感如何であったろう。が、
凱歌(がいか)は奏する、微薫(びくん)は催(もよお)す、子葉は再び、
山を抜く力も折れて松の雪
と詠み出した。句は手もなく「敵に勝ったので、がっかりした」というのである。子葉のこ
のうまい句に、奇警の春帆が黙っているはずがない。またまたこれを引きとって、
寒鳥の身はむしらるる行くえかな
と詠(うた)ってのけた。死生の間に談笑するとは、これをいうのであろう。真の風流はこ
の中にある。とかくする間に卯の上刻、午前六時となった。「集まれ!」の合図に、一党
は再び隊列を整え、予定の駐屯地、回向院へと押して行く。
附言 俗書には、討入り当夜百数十人の浪士らが応援として吉良邸の周囲に集まり、
終夜周辺を徘徊(はいかい)していたといい、はなはだしいのは各種の武器を浪
人の手で運んだなどと伝えている。これがまた例の巷談街説である。ただし大石
三平ら三士のほかに日頃義士らと深い交渉のある堀内源太左衛門の門下の豪
傑や、その他の勇士幾人かは、同じく吉良邸外に徹夜して、よそながら誠意を寄
せたらしい。俗説はこれを誇張して言い触らしたものと見える。
次に一党が引揚げる途上で祝杯を挙げた事実は、後日細川邸にお預けとなっ
た義徒の談に「いずれも上野介殿の首を討ち取るという大きな働きの後、祝儀の
酒などを酒屋から取って町中で呑み、かれこれするうち、明六ツ時過ぎになった
ので、無縁寺へ立ち越し」と「堀内覚書」に載せたので明瞭である。しかるに従来
の作者はおおむねこれに気がつかない。それで風聞子に従って、単に大高源五
ら数人のことにしてしまった。それでヤレ大高、富森は遅れて酒屋の前に来ただ
の、ヤレ詩酒に時を移したので、後から一党に追いついただのという。無縁寺に
入って、なお後敵を待とうという一隊が、こんな無節制で何とする。
それからささいなことながら、風聞子は一切を大高の挙とするから、可笑しいこと
が続出する。彼らは菰被(こもかぶ)りの鏡を槍の尻で突き破ったのも大高である
という。が、野刀を振るって邸内に闘った者が、どうしてここに槍を携える。野太刀
と槍との早変り、このところ帰天斎正一もよろしくか。呵々大笑い。
次の噴飯ものは、大高が身に痛手を負っていたために、渇いて酒を求めたとい
う説である。これは「山を抜く力も折れて……」の句から着想した捏造(ねつぞう)
である。子葉の時を得た英華な洒落も、これでは気息奄々(えんえん)の虫語とな
る。これを察せずに「義人録」に「一人あり、創を負った者のようだ。主人を呼んで
曰く、われ渇いた。我がために酒を持ってこい……創を病める人、筆硯を請い…
…」と記したのを見れば、このところさすがの鳩巣もうかうかと俗説に吊り込まれた
ものとみえる。
二三六
一党の引揚げ
回向院前の集合 引揚げの順路
一挙の目的はすでに達したが、敵には名に負う上杉家の後援がある。今にも同家
から大軍をよせて来くるかもしれない。その際にはこれを迎えて火の出るほど戦い、浅
野家の名誉をこの世に留めて討死しようとは、一党の最初からの覚悟である。それで
彼らは予定の集合点である無縁寺の回向院の門前に集まった。が、寺はまだ起きてい
ない。一党は激しく門を叩いて、
「我ら浅野家の浪人ども、ただいま亡主の讐(あだ)吉良殿を討ち取つて引き揚げる
ところでござる。しばしお寺の内を拝借して休息したいので、何とぞご許し下され」
と申し入れた。この時住僧が義気を奮ってそのまま一時収容していたならば、回向院
の名誉は国技館の角力場ばかりではなかったろう。俗僧の浅ましさはこれを聴いて震
えあがり、門番に命じて
「折角のお申し出ながら、お貸しする訳には参りません」
と謝絶して、固く門を鎖したまま、開(あ)けない。
「それなら仕方がない」
と門前にたたずんで、しばらく敵が寄せるのを待ち受けたが、上杉勢も来ないし、吉良
家からの追撃もない。
「敵はもう出て来ないようだ。それではここに長居する必要もない。いざ泉岳寺まで引
き揚げよう」
と内蔵助は命令した。
再び隊別は整えられた。真先には槍を提(ひっさ)げた義徒二人、前衛として先駆
する。次に上野介の白無垢槻衣(したぎ)の片袖に包んだ首級を槍の柄に結い着けて、
高く中天にかかげ、数人の義徒が護衛した。次には大石内蔵助良雄ただ一人、優然
として歩行する。次には一党、負傷者と老人を中にしてこれに続き、途上にて迫々に
駕籠を雇い、負傷者や老人を乗せた。粛々として進み行く。最後に磯貝十郎左衛門、
倉橋伝介らが後衛となって殿(しんがり)についた。
義声が広がるのは、郵便で伝えるより早い。「赤穂の浪人が亡君の讐(あだ)吉良殿
を討ち取って、今泉岳寺へ引き揚げるとのことよ」との噂は、それからそれへと伝わって、
我も我もと道中に集まる。そうして今日はまさに月の十五日、大小名の登城日である。
それで成るだけ大小名の通行が少なく、人目に触れない道筋を選び、回向院前から
南へと向った。本庄一ツ目の河岸から深川に入り、御船蔵の裏通りを過ぎ、隅田の流
れに沿ってやがて永代橋を渡り、霊岸島から稲荷橋、築地鉄砲洲に出た。ことさらに
浅野家旧邸の前を通り、これが今生の見納めかと、そぞろに懐旧の涙をそそいだ。汐
留橋を渡って、芝区に入り、日比谷三町目裏町(今の愛宕町三丁目)の仙台邸、さては
会津邸の前を横切って金杉橋から、将監橋を越え、無事に高輪の泉岳寺に到着した。
附言 この間においてもうるさいほど作者の小細工が多い。敵の首級を万一途上で
奪われては遺憾であると、間十次郎に武林、若堀部、小村松、岡島、小奥田を添
え、六人で首を守り、本庄河岸から船に乗って、一党より先に泉岳寺に廻らせたと
いうのが「義臣伝」。それから寺坂吉右衛門が弟の定右衛門に命じ、あらかじめ小
舟を両国橋の下に待たせ、上野介の首を討ち取るや否や、片岡と武林がこれを守
護して、三人その舟にて泉岳寺に送ったとまことしやかに書いたのが「一夕話」。そ
れで公然と槍先に吊るして行った首は、上野介の左右に仕え、健闘して最後を遂
げた一少年の首であったなどと、首尾を合せた。ただしこれらはその当時からすで
に言い触らされていたものと見え、鳩巣も「一夕話」の説を「義人録」の細註に書き
入れた。しかしさすがは鳩巣だけに「これはおそらく伝聞の誤りであろう」といった。
これらは義徒の堂々とした意気を知らないからである。彼らが討入り「心得覚書」
の第三条に「もし上使などが馳け着けたなら、この首を泉岳寺へ持参したい。し
かし駄目な場合は仕方がない。お歴々の首、むざむざ打ち捨てておくわけにはい
かないので、どうすればよいのか指図次第による。また勝手次第と言われた場合
は、泉岳寺へ持参し、墓所へ供える。」とあるのを知らないための捏造と思われる。
すなわち一党の意気は明白である。公儀から首を徴せられれば、是非なく上命に
服従しよう。敵衆が奪回に来たなら死力を尽して血戦し、これをどこまでも保護す
る。万一それを失う時は、すなわち一党が一人残らず討死した時である。それで
堂々と持ち行けるところまで持ち行こう、というのであるから、小説家的な小細工を
誰がしよう。いわんや寺坂定右衛門など義盟にも列しない者に、何で首を託しよう。
次に挫造子は、引き揚げて行く道筋までも製造する。そのもっとも有名なのが、講
談や浪花節で聴く両国橋上で旗本の某と内蔵助との問答である。これまた痕跡も
ない空想談。その次には新大橋を渡ったという説、これは両国橋を渡らなかった
と聞いて、それならその次の橋は新大橋であるから、当てずっぽうにそれと速断し
たのであろう。私が今本篇に述べた道筋は、一々義徒の直話や、手紙や、その他
の証拠に徴したのであるから、これが本当の正道である。
二三七
仙台邸前の誰何(すいか)
一党は無事に泉岳寺まで引き揚げて来た。この途上においても多少の言うべきこと
がある。というのは前にも一言したように、毎月の御礼日とて、月の一日と十五日は大
小名が将軍家の御機嫌を伺うために登城する例日である。それで一党は今朝成るだ
けその登城の一列に出会わないよう道筋に注意した。しかしながら諸侯の邸宅は諸方
に散在するので、一切これを避ける訳にはゆかない。果して途上にて三、四の大名の
あるいは駕籠、あるいは騎馬に所々で出会った。そのうちには一党の光景を怪しんで、
行列を止め「そこに通られるのはいずれの衆、また何の出来事があって、さようなに行
装(いでたち)をされるか」などと問いかける向きもある。内蔵助は一々これに対し「ご不
審はごもっともの次第、われわれは故浅野内匠頭の家来、亡主の意趣を達するために、
ただいま吉良上野介殿の首級を揚げ、菩提院まで引き揚げ、公儀の沙汰を待ち受け
ようとする者である」と答えれば、いずれも深く感嘆して立ち去る。中にはわざとそ知ら
ぬ風をして行き過ぎる方々もあった。
この間やや手間取ったのは、芝区に入って、日比谷三丁目の仙台邸前に差し掛っ
た時であった。仙台といえば東奥の雄藩、伊達政宗以来武威を輝やかした家だけに、
上下ともに気を配った。同邸辻番所の番足軽どもは、今しも一党の進み来るのに向い、
何事かと手に手に棒を持って立ち塞がり、遮二無二一党を押し止めた。豪傑連はムッ
として何これしきの番卒ども。蹴散らして押し通れといわぬばかりに気色張ったが、内
蔵助は静かにこれを制し、さきに諸侯のお訊ねに対したように、丁寧に事由を述べ「す
でに大目付の仙石殿までは、同僚をもって届け出ているので、決してご迷惑はかけな
い。そのままお通し下され」と申し入れた。そうとすれば事態は容易でない。番足軽ぐら
いでは判断がつかない。 「さらばしばらくお待ち下され」と言い棄てて、門内に駆け入
り、つぶさにこれを重役に報告した。多少の相談があったのであろう。しばらくすると、
肩衣を着けた気品ある一人の侍が立ち出でて、丁寧に一礼し「御一挙の趣(おもむき)
ただいま承り、忠義の段深く感じ入っております。ただ公儀御法令の手前、一通りお止
め申した次第で悪しからずご了承されたい。疾(と)く疾くお通りなされ」と挨拶した。「さ
らば御免」と会釈して行き過ぎた。
やがて会津邸の前へ来ると、またまた同邸の辻番は誰何(すいか)する。「仙台邸で
はただいましかじかであった」と述べれば、ここも無事に通過できた。
附言 俗説の常套として、何かといえば何物かを食わせたがる。この場合にも俗書は、
仙台邸では一党に粥を振舞う一節を載せる。既に交渉に手間取った上に、さらに
三時間ぐらいは一邸の前で費えてしまう。引揚げを急ぐ一党がどうしてそんなこと
で時間を無駄にしよう。
二三八
義徒と細井広沢
この間にあって、一党中二、三の個人の言行を挙げよう。その一人は関東急進派の
領袖(りょうしゅう)堀部安兵衛と細井次郎太夫知慎(ちしん)との出合である。この両人
が堀内源太左衛門の門下で、深交があったことは、先に述べたとおりであるが、討入り
の前夜、一代の名士は堀部の宅に集まった。大石内蔵助も会すれば、堀内源太左衛
門も来る。知慎の広沢(こうたく)もまた列席した。もとより秘密の会合であるから、いず
れも単身で出掛けて来た。その際広沢は土産に鶏卵を持参した。やがて永訣の酒宴
は開かれる。主も客も天下の英傑、一点の離言も痴態もない。夜が更けるまでかつ飲
みかつ談ずれば、意気は上って大空に横たわる。主人の安兵衛は杯を引受け引受け、
客のもたらした鶏卵を取って、カチリカチリと打ち割りつつ「ご覧なされ、明晩敵を打ち
砕くのも、これこのとおりでござる」と笑えば、一座はますます興に入る。広沢ただちに
一絶を吟した。
結髪為奇子
千金那足言
離別情無尽
結髪奇子たり
千金なんぞ言うに足らん
離別の情尽くるなし
胆心一剣存
胆心一剣存す
と歌い終れば、さすがの安兵衛、知已の至誠に感じ入り、嬉し涙を催(もよお)した。
そして十四日夕の討入りとなった。その夜内蔵助が「万一敵を取り逃せば、一邸に
火を付け、猛火のうちに腹掻き切って先君の後を追うばかり」と訓令したのは、これまた
かねての約束の一つと見えた。広沢はつとにこれを聞いていた。それで今夕広沢は居
ても立ってもおれない。彼の家は吉良邸とその距離余り遠くない深川にあるから、火の
手が上れば、眼前である。時刻を測って、彼は屋根へよじ登り、寒風に身をさらし、雪
の降り積る屋上に立ちながら下を見ていた。展望することやや久しく「火の手が上らな
い。幸いに目的を達したか」と、一たびは下におりたが「いやいやそれとも今に炎が立
つとも限らない」と、またまたこそこそ這い登る。こうして幾たびか、夜を徹してまんじりと
もしなかった。そのうちやがて夜は明ける。吉報如何と待ち受ける矢先、大勢の足音が
どしどしと聞える。間もなく門の戸を忙しく叩き、堀部安兵衛の声が「細井殿お喜び下
され。思うがままに讐(あだ)の首級(しるし)を揚げ、ただいま泉岳寺へ引き揚げるとこ
ろでござる。日頃のご芳情は死後までも忘れない。これが今生のお別れ、さらばご気
嫌よう」と、彼の快活な平生の意気そのまま、大喝しつつ行き過ぎる。「さては志を達し
たか」と言いながら、広沢は身に袴を着けるいとまもない。おっ取刀で裸足(はだし)の
まま表に駆け出し、折しも一党が永代橋の真中に差し掛かるところで追い着いた。一
党中には堀部安兵衛を始めとして、大石内蔵助、奥田孫太夫、間十次郎など知った
顔が多い。広沢は進んで一々これに永別の意を表し、一行が去り行くのを見送った。
これより先、安兵衛は主家凶変以来の出来事、さては自身が大石内蔵助らと往復し
た書簡の全文を筆記しておいた「覚書」一巻を広沢に与え、平生の深交の記念とした
が、後に一党切腹の際、彼は遺言して討入り当夜に用いた小手一双を、同じく広沢に
寄贈した。二人の交情は深かった。間十次郎も同じように遺品として兜頭巾をこの人に
と残した。
附言 広沢の子孫は世々黒田家の藩士として仕えた。維新の際には細井昌太郎と
いう人がいた。その後は東京に住み、依然堀部の小手と間の兜頭巾を保存して
いる。ついでにいう。この広沢と堀部安兵衛との交際を、「続奇人伝」が広沢と大
高源五とのことと間違えて伝えてから、世にそうと誤信する人が多い。佩弦斎(は
いげんさい)の「四十七士伝」はこれを指摘し、「二巻略伝」によって是正した。こ
れを「先哲叢談」と合せ考えれば、その人が大高でなくて、堀部であったことがま
すます明確になる。
またその覚書は「堀部覚書」あるいは「武庸(たけつね)筆記」と称し、広沢の嗣
子知文の跋を加えて、世に伝えている。これについては多少議論が必要な部分
もあるが、しかしとにかく義士史料の一として貴重なものである。
二三九
磯貝十郎左衛門の言動
同じ義徒の中で、磯貝十郎左衛門正久の老母が重病となり、今にも危ないというの
を後に残し、憤然として意を決し、一党と共に讐家に討ち入ったことは、前にも述べた
とおりである。その母は芝区将監橋の近傍にある旗本松平氏の長屋に住む兄内藤万
右衛門に養われていた。あたかもよし。一党が泉岳寺へ引き揚げる途上、金杉橋から
この将監橋へは一走りである。有情の統領大石内蔵助は殿(しんがり)に進む十郎左
衛門を呼び、
「貴殿の兄の住居はつい近所ではないか。走って行き母上の容態を見舞うて参られ
い」
と注意した。十郎左衛門はこれを辞謝し、
「ご親切の段千万かたじけないが、一且志を決した上は、もはや親を省みるところで
はありません」
といい切った。堀部弥兵衛老人なども、また傍から目を添えたが、固くこれを聴かず、
そのまま一同と共に泉岳寺へと赴いた。
後に細川邸にお預けの日、弥兵衛老人はこのことを挙げて、同邸の藩士堀内伝右
衛門に語った。伝右衛門は感嘆し、更に十郎左衛門に向い、ひたすらその心掛けを
称揚した。すると十郎左衛門はこれに答え、
「いかにも同志の人々から、一目老母に会って参れと勧められたが、第一異様な扮
装で、たとえ小身の旗本とはいえ、兄が奉公し、したがって老母もおります邸内に立
ち入ることは、その家に対し無躾と思い、第二にはもし暫時としても、いかようの変事
が起こるかもしれず、その際に居合せなければば一期の不覚とも存じ、ついに見合
わせた次第です」
と語りながら
「しかしただいまとなって考えますれば、あのように無事に引揚げが出来たくらいなら、
人々の勧めに任せ、一目老母に逢ってくれば好かったなど、ちと慾が出て、少々後
悔の気味もあります」
と言いさして、後は笑いに紛らした。
ああ彼は年僅かに二十四歳、公には義に勇をふるって武士の両目を汚損しまいと
競い、私には念々母を憂い、人の子の本懐をついに遂げなかったことを悲しんだ。
かくて一党は一人も隊列を離れず、始終一団となって行軍の法により、整々として
沿道を押し通し、主家の香華院泉岳寺へと入ったのは、辰の上刻、午前八時過ぎであ
った。
二四〇
泉岳寺への到着
さて一党は一人の犠牲者もなく、無事に揃って泉岳寺に達し、山門内に入った。多
くは槍、薙刀さては弓、野太刀などを提げ、常ならぬ行装の上に、衣裳の処々には
点々と血痕を留め、意気軒昂当るところがなかった。一山の僧徒ははっと驚き、何事が
起ったかと怖れ戦(おのの)いた。途上から次第に加わって付き隨って来た多くの見物
人は、一党の後ろから門内に混み入ろうとする。内蔵助は一僧に向い、
「拙者どもは昨夜来亡君の讐吉良上野介殿を邸に取り掛け、今朝その首級を申し受
け、これを亡君の墓前に供え、遺恨を慰めるために、ここまで引き揚げてきた。決し
てご迷惑は懸けない。ついては奉告を終るまで、何とぞ山門を閉じ、外来の人々を
お止め下され」
と依頼した。
僧は駆け入って、方丈へ告げた。当時の方丈は当山第九世酬山長恩とて平凡な
俗和尚、これを聴いて大いに当惑し、これを断ろうとする。時に役僧に承天則知という
一英僧がいた。傍から方丈に向い、
「当山は浅野家御一門の菩提所ではありませんか。その浅野家の遺臣の方々が亡
君の讐を返し、冷光院殿の霊前に奉告申し上げようとされるのを、断るという法があ
りましょうか。早く承知の旨をお答えなされ」
と進言した。理義に責められて、長恩は不承不承、
「それでは良いように取り計られい」
と言い棄てて奥に入った。則知は引き取って自から立ち出で、
「方々のご忠義、古今にその例を承りません。亡君の尊霊もさこそご満悦でありましょ
う。山門の閉鎖は委細心得ました。どうか長閑(ゆるり)とご奉告なされ」
と会釈しつつ、たちまち一山の衆徒を駆って、混み入った見物を端から追い出して、
早くも門の扉を閉じ、何人が来てもにわかここを開くなと、うちから厳重に守衛した。そ
のうえ承天則知は本堂から香炉を運ばせ、掃除を手伝わせるなど、まめまめしく一党
を助けた。
附言 この酬山長恩は至極の俗僧と見え、一党の切腹後、四家から泉岳寺に納めた
義徒の遺物を、時を経ておおむね売り飛ばした。もしも一党引揚げの当時、承天
則知が居合せなかったなら、大失態を演出し、泉岳寺今日の名誉と繁昌とを留め
なかったかも知れない。それから承天則知は隣の寺広岳院の住持で、たまたまこ
こに来合せていたとの説もある。世上にこの承天が書いたという「義士夜討高名
咄」と題する刊本がある。一時俗間にもて囃されたらしい。これによれば、この承
天則知は米沢佐仲(さちゅう)という一浪士と二人で、義徒の接待一切を弁じたと
ある。しかし書中に記すところの義徒の談話というものを見れば、それこそ実に有
る限りのでたらめを極め、一つも信じられるものがない。これは則知の名に仮托し
て、俗作者と投機書店とが大謀し偽造したのである。世に厭うべきは、これらの輩
(やから)ではないか。
二四一
復讐の奉告祭
泉岳寺の門内はたちまちに静粛になった。内蔵助は命じて、竿頭に吊した上野介
の首級の包を解かせ、先ずその首を真水で洗い清め、一党いずれも手を洗い口を漱
(そそ)ぎ、亡君の墓前へと赴いた。見渡せば雪空晴れた朝とて、天色はあたかも碧瑠
璃(あおるり)のように輝き、大地には残りの雪なお丘を覆い、旭日を迎えてこうこうと輝
く。丘上に南面して立つ「冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士神儀」の墓前に
は、一台の三宝に吉良上野介義央の首級を載せ、恭しく供えられた。墓前の香炉から
は一柱の香煙が一筋の綾のように青空に立ち登る。一党はその前に整列し、息を飲
み気を退(しりぞ)け、積雪の上に脆(ひざまづ)く。まさにこれ神を祭れば、神その前に
いますがごとくであった。しばらくして内蔵助は身を起し、静々と御前に進み、焼香して
一拝し、更に階一段を進み、おもむろに懐から短刀を取り出した。すらりとその鞘を払
い、束を神位の方にして、鋒刃(ほさき)を首級の方に向け、台石の上に載せた。これ
は問うまでもなく「亡君の神霊自らこの年月の鬱憤を晴らせ給え」というのである。こうし
て内蔵助は数歩を退き、神儀の御前に額(ぬか)ずいた。けだし彼はその間において
一党に代り、一つには家系の断絶を未然に防ぎ得なかった不敏の罪を深謝し、二つ
には一党が家を棄て身を忘れ、今朝讐の首級を揚げ、君恩の万一に答える旨を報告
したのである。一党はソレと覚り、いずれも首を垂れて地に伏した。今更のように胸ふさ
がり、暗涙に咽(むせ)んで打ちそそる声、自から空林の静寂を破った。
ややあって内蔵助は再び身を起し、神前の短刀をとって、上野介の首級に睨(にら)
みかかり、刀を揮って三たび讐の首上に加えた。これは亡君に代って痛撃の意を表し
たのである。しかる後彼は一個の大石内蔵助良雄に返り、焼香して退けば、今朝敵讐
を討取る時の一番鎗、二番太刀という廉(かど)により、本人再三の辞退にも関わらず、
衆に推されて、第二に間十次郎光興、第三に武林唯七隆良と名乗って焼香する。こ
れより順次に四十余人交る交る焼香して、ここに報告の祭式を終えた。精誠の感応す
るところ、墓上の碑もそのために動くよう思われた。
附言 この間についても捏造子が捏造をもっともたくましくしたところである。中でも
大胆で悪むべき捏造は、一党の墓前の祭文である。「義臣伝」にも載るし、「介石
記」 にもある。それ以後の伝記は套襲されること百回、あたかも赤埴源蔵が赤垣
源蔵で通用するようになったと同じで、ほとんど一般に知らず識らずこれを真誠の
祭文かと誤り知らせる結果になった。それもそのはず、野次馬の無名子などは、
現にその場に居合せて、内蔵助が懐中から料紙を取り出してその文を草し、かつ
読み上げるところまでを目撃したなどと書く。そうかと思えば、その偽文中に「ただ
いま面々名乗り申すとおり、大石内蔵助を始め、足軽寺坂吉右衛門まで都合四
十七人」とあるに窮し、これは前日から草して懐にしていたのであるから、この時こ
こに居合せなかった寺坂吉右衛門の名まで載せたのだともいう。辻捷の合わぬこ
とおびただしい。ただしこの偽文は快挙後間もなく出来て流布されたので、さすが
の鳩巣までがうかうかと欺され、「義人録」中に訳載した。そのため妄信は一層の
激しくなったものと見える。これにつき訳文のみを見れば、鳩巣の手になっただけ、
その意を迎えて意訳に出たから、至極結構のようであるが、一たび原文を読めば、
いやに漢語などを加えて、支離滅裂、とても仙石伯耆守に差し出した「浅野内匠
頭家来口上書」などの足下にも寄り付けない。それで偽書ということは第一に分る。
のみならず、義士伝の著者中でもっとも歴史家の斤量があり、かつ寺井玄渓、大
石無人父子らと親交があって、これらの関係から事実を確めて、「報讐録」を草し
た三宅観瀾が、その書中に「私は江戸に行き、諸人から事情を聞いて回ったが、
ある日ある人から、二冊の覚書を示された。つまびらかに事実を記録し、餅店の
談話や義士の俳歌、長矩の墓を祭る文が記してあった。一時はこれを信じたが、
「報讐録」訂正の際、これらの話は皆、市井の好事家の偽作と分った。以後見る所
の諸記は往々にして付会の説」といった。もって証とすべきである。
もしそれこれより小さい小細工に至っては、たとえば、内蔵助は首の台にすると
て、引揚げの途上本庄から白木の三宝一台を銀一朱にて買い調えて来たという
ように、銀一朱に至るまで精細を極める。江戸っ子のもっとも得意の作である。
それから祭場に到って、内蔵助が亡主に代って始めて不破数右衛門の帰参を
許したり、寺坂吉右衛門を新地百石に取り立てたり、間十次郎と武林唯七に殊勲
によって俸禄の加増を申し付けたり、これらを挙げれば、それこそ枚挙にいとまが
ない。ついに堂々たる大丈夫の良雄を小礼曲謹の小人物にしてしまう。私がかの
俗作者を悪むのは、実にこの点である。
二四二
泉岳寺の一日
焼香を終えて、墓前から退けば、則知はこちらへと案内して、一党を寺の中堂に請じ
た。
内蔵助は重ねて則知に向い、
「亡君の讐を復し、御霊前へも報告したので、われらはもはや何の心残りもない。この
上は謹んで公儀の沙汰を仰ぐのみである。それにつき先刻引揚げ途中から、同僚
吉田忠左衛門、富森助右衛門の両人を大目付仙石伯耆守殿のお邸へ遣わし、昨
夜の始末を上申させているので、暫時ここで御指示を待ち受けとう存ずる。何とぞ許
容下されたい」
と申し入れた。則知は引き取り、
「少しも遠慮には及びません。ゆるゆるご休息なされましょう」
と挨拶しつつ、
「方々にはさぞ空腹でおわしましょう」
と何時の間に炊(た)かせたか、やがて白粥を運び出して、一党に振舞った。
「これはこれは、土中の白骨、ご法会に預りますか」
とは内蔵助の挨拶。
「それにしてもこの寒さ、葷酒(くんしゅ)は宗規の禁ではござりますが、今日は特別の
場合、拘わることではないから、般若湯を差し上げましょう」
と則知の気転。三斗の酒を端から端から暖めながら席上に配置した。
「これはかたじけない……」
「これは結構……」
「イヤ何よりのお振舞い」
と下戸は椀を引き寄せる。上戸は盃を取り上げる。たちまちにして腹はふくれ、たちま
ちにして顔は丹に染まる。一同の勇気は再び十倍して来た。内蔵助はやや微薫を催
し、
「万一上杉殿からの討手が寄せた時、ここで闘っては、第一お寺の迷惑、その際はこ
れより出て迎え、往還での一決戦。われらの一命を差し上げようではないか。も早山
門を固めて下さる必要はないので、開かれてもよろしかろう」
と微笑めば、一党はいずれもこれに和し、
「さよう、はやく山門をお開きなされ。この勢いをもって戦えば、上杉勢何ぞ言うに足
らん」
と打ちどよめく。中には、
「昨夜の戦いは余りに雑作なく、ちと物足らない心地がする。敵勢が寄せれば好いが」
と希望する者もある。
盃の数重なれば、興味はいよいよ加わった。内蔵助は筆を取って、一首の述懐を書
きつけた。
あら楽し思いは晴れる身は捨つる 浮夜の月にかかる雲なし
良雄の意は実にこの一首に尽きた。「孔はいわく仁を取る。孟は曰く義をなすと。た
だその義が尽き、仁の至るゆえん。聖賢の書を読んで学ぶところは何事ぞ。今より後、
恥ずるところはまったくない」と文々山は歌ったが、これと比べて内蔵助の歌は少しも
遜色がない。彼の心奥もここにあったのであろうと推しやられる。
人々は感吟しつつ、自ら所懐を詠出す者も少なくない。岡野金右衛門はその一人で
ある。彼は「羽林(うりん)の首級(しるし)を亡君の御墓に供えて」と題して、
その匂い雪の浅茅の野梅かな
と歌った。一党の意気はあたかも死がその後に控えているのを知らないかのような有
様であった。
附言 鳩巣翁は往々国風を解せず、良雄の歌を「あら楽や………」と「義人録」に読
ませたのが先例となり、以後の諸書はおおむねこれを踏襲した。そのため壁上に
一つの瑕(きず)を加えた。今は詠者の原意によって「あら楽し………」に改めて
おく。
二四三
同
主税の見識
内蔵助の思慮
白粥に続いて、般若湯の饗応に、人々は打ち寛(くつろ)ぎ、三々五々火鉢を取り囲
んで、今日までの苦辛談にふける者もあれば、昨夜の高名咄に興ずる者もある。日は
まさに正午となった。たちまち風聞が伝わって来た。
「上杉邸から家中の衆を挙げて押し寄せる。その衆すでに出発したとのことだ」
と一僧があわただしく注進して来た。
「いよいよ出たか。さらば一当て当ててやろう」
と若殿連は勇み起つ。時に生年十五歳の主税良金これを聞いて、騒ぐ色もなく、
「なあにそれは必ず浮言であろう。上杉殿がまことに寄せようと思うなら、この日中ま
で躊躇するはずがない」
と打ち消した。さすがは良雄の嫡男である。騏麟児つとに兵機を知っていた。内蔵助
の心中はさぞ嬉しかろうが、将帥にはまた自から将帥の思慮がある。
「自分の見るところも左様である。しかし万一の変もまた用意しておかねばならない。
方々用意されたい」
と言い渡した。
「不慮に備えすれば、軍(戦)は不要である」との金言は、彼の頭脳を支配する。さらば
と人々は各々刀の寝刃(ねたば)を合わせる。主税も佩刀を取って、その刃を研ぎ出し
た。折から傍らに二、三人の小僧が侍坐していた。主税はこれを顧みて、
「御坊らは堺町の人形芝居で、人形の斬り合いを見物されたことはあろうが、活きた
人形の斬り合いはまだ見たことがあるまい。今にも上杉勢が押し寄せたら、我ら力戦
してご覧に入れよう。それはそれは面白い。なかなか人形の働きのようなものではな
いぞ」
と戯れた。が、上杉氏の討手は結局来なかったので、人々はいずれもこの少年の識力
と勇武に感服した。
* * * * *
寺の方丈酬山長恩は最初一党の受入れをためらったが、承天則知に説き伏せられ、
渋々承諾した。万事は則知に一任しておいて、早々に寺社奉行の官邸に赴き、事の
大要を届け出た。だが、奉行の意向といい、一般の評判といい、一党を収容しておい
ても、後難の恐れがないと安心したらしい。それで山門に帰り、始めて座敷に出、内蔵
助以下に面接した。それからは一層鄭重に人々をねぎらった。原惣右衛門が寺井玄
渓に贈った書中に、
泉岳寺へ参り、ただちに亡君の墓前に参詣、上野介殿の印を手向け焼香した。
住持より命じられた出僧が客室へ入るよう伝えたので、寺内へ移った。住持は早
速寺社奉行へお断りに出かけ、帰寺の後対面した。寺では早速我らを認め、終
日馳走してもてなしてくれた。
という。後に室鳩巣は寺僧について、当日の諸士の現況を聞いた時、一人の僧は、
「大石、原、小野寺ら年長の方々は、いずれも多く口数を利かず、上野介殿の最後
はいかがでござったかと問えば、定めて殊勝でござったと申され、家中の働きはと問
い返すと、出合う人々も多く、かつ健(けな)げに闘い、善く人臣の分を尽されたと称
揚するのみで、多くを語らなかった。その態度は威厳に満ちていた。だが若手の
人々は遠慮なく、精しく当夜の光景を話した」
と答えた。人はその立場によって言動が異なるものである。
* * * * *
この間のことである。義徒の一人で、当年十七歳の矢頭右衛門七は同じ二、三の若
者たちと火に当り、互いに指角力などをして戯れていた。すると時代は時代である。一
党第一の美少年を見ようとして、衆僧が言い合せたように、その周囲に集まって来た。
交る交る夜来の戦状などを尋ねながら、一僧は右衛門七を盗み見て「唐の薛調(せっ
ちょう)の再来か」と傍の僧に私語(ささや)けば、「イヤ衛玠(えいかい)の後身であろう」
と答えて、袖を引きあった。右衛門七は聞いてポッと顔色を赤らめ、
「我らの耳に慣れないお言葉、これは昨夜来寒さに凍えたところに御酒を少々頂戴
し、その上火に当ったので、この顔の真赤になったのをお笑いなさるのでありましょう。
アア熱い!」
といいながら、ツィとその座を立った稚(あど)けなさ。衆僧はまた何時となく右衛門七
の方へと集まった。
附言 「薛調(せっちょう)の容貌美麗なり。人号して生菩薩という」という。また「衛玠
(えいかい)の儀容秀麗なり。予章より都下に来たとき、人聞き及び、観者路に充
ち、塞(ふさが)って笠の如し。彼が病死すると、都下の人は皆、衛玠を見殺したと
噂した」という。薛調衛玠とはこのことである。この談は当てにはならないが、若衆
好みの時代の坊主が言いそうな噂であるから、「後鑑録或説(わくせつ)」にしたが
って伝えておく。
二四四
同
高田郡兵衛への嘲笑
内蔵助は亡君への奉告祭の後、もう山門を開いてもよろしいと断ったが、迫々に泉
岳寺に駆け着けた諸山の僧徒は、一党の忠義に感激し「もし山門を開放して、万一上
杉勢に踏み込まれ、不覚をとるようなことでもあっては、山の恥辱、同宗の面汚し。厳
重な上にも厳重に守れ」とひしめき合い、坊主頭を振り立てて、門を固める。その状況
はあたかも昔の南都の東大寺さては三井の園城寺などの法師軍かと思わせた。
ここに現われ来たのが、背盟者の一人高田郡兵衛であった。そもそも彼が当初堀
部安兵衛らと共に盛んに正義を唱えながら、春以来臆病風に誘われ、退引(のっぴ)
きならない義理に迫られて、やむをえず引き下るなどと、苦しい口実の下に同盟を抜
けたことは、すでに述べたとおりである。
それで一党の人々は大いに憤り、あるいはこれを面責しよう、あるいはこれを討ち果
そうとまで息まいた連中もあったが、大事の前の小事である。それがために大望の妨
げとなってはならないと、胸をさすって堪忍した。すると今朝引揚げの際、一党はゆくり
なく三田八幡宮の辺で彼に巡りあった。
「これはこれは」
と彼は挨拶しかけたが、見るも汚らわしいと、いずれも面を背けて行き過ぎる。そのうち
堀部弥兵衛は元同じ定府でもあり、かつは老人のこととて、
「ご覧のとおり、我ら四十余人は今朝本望を達し、上野介殿の首級を揚げ、ただいま
泉岳寺へ持参するところでござる」
と告げ、品好く彼を辱しめた。恥を知る者ならば、これを聴いて、消えも入りたい場合で
あるが、郡兵衛は恥じる色もなく、
「それはいずれもさぞご安堵されたでござろう。拙者も一別の後はこの八幡宮に日参
し、ご一党が本意を遂げられるよう、それのみ祈願いたし、今も今とて参礼の帰りでご
ざった。念願が届き千万にお祝い申し上げる」
などと追従した。老人は聞くも胸悪く、足を早めて立ち去った。これにも懲(こ)りず、や
がて一樽の酒を携えて泉岳寺に来て、山門を固めた衆に向い、
「拙者は高田郡兵衛と申し、一党の人々に深い縁故があるものだ。今日の目出たい
勝利を祝いに一樽持参した。何とぞこれを取次ぎの上、委細は諸士に拝眉を得て申
し述べたいのでこの旨合わせてお通じ下され」
と申し出た。衆徒は彼の如何を知らぬから、そのままに取り次いだ。壮年の連中はこれ
を聞き、
「かの人非人、どの面提げてここに参った。しかしながら好い機会じゃ、門内に呼び
入れて、首を刎ねてつかわそう」
と、ばらばらと立ちあがる。内蔵助は急にこれを制し、
「さてさて方々は無益の殺生を好まれるものか。あのような者の首を刎ねるのは刀の
穢れ、刎ねて何の益があろう。呼び入れて言葉を交すも無用、ただその酒を御返し
なされ」
と命じた。腹は立つが統領の一言、従わざるをえない。さらばと大高源五は樽を提げて
山門に出て来て、郡兵衛を見ながら、
「ソレ持ち返れ!」
と投げ出せば、樽は見る見る微塵に砕けた。いかに厚顔の痴物も再び言い寄る言葉も
なく、こそこそと逃げ去った。後に義徒らは細川邸でたまたまこのことを語り出て「あのう
つけ者めが」と、大笑いした。
附言 この日中村清右衛門、鈴田重八、中田理平次、田中貞四郎の四人が揃って
泉岳寺に来て「昨夜我らも吉良邸に駆け着けたが、ご一党既に引揚げの後で、
間に合わず、残念千万でござる」などと申し入れた。すると内蔵助は取次ぎに命じ
「実は夜来の大働きのために腰が抜けて、お目に掛かることが出来ない」と辱しめ
て追い返したとの談がある。これは畢竟高田のことから思い付いて製造したものと
見える。のみならず、四人打ち揃って来たといい、咋夜駆け着けたということに、
捏造の痕跡は歴々と見える。というのは、九月以来前後に逃散した奴が揃って来
るはずもなければ、時期をも予告されぬ輩が、十四日の夜と知って参る訳がない。
かつ同じく背盟者であるが、高田は口実だけでも作って退いたから、まだしも一党
の前に出てみようとの動機がある。四人に至っては夜逃げも同様、いかに鉄面皮
でも、この日に出て来ようがない。嘘の皮と化の皮は尻から剥げる。よせば良いの
に。
二四五
公金の処分
瑶泉院への報告 寺坂吉右衛門の役目
最初赤穂退去の際、内蔵助は藩庫の残金を処分して、一部は藩の上下の士に分配
し、一部はお家再興の準備金と称して、自身で預った。その金額は約一万両であった。
大野九郎兵衛らの俗論党がやかましく騒いだのは、このためであった。すでに内蔵助
は山科に隠栖し、贅沢もすれば、放蕩もする。またそのかたわら子孫の計もする。それ
で後には俗論党でなくても彼を疑う者多く、ひそかに指弾する人さえ少なくなかった。
だがその実彼はこの一万両をもってこれまで一切の軍費を支弁して来た。そうしてつ
いにこの十五日となったのである。
今朝のことであった。故内匠頭の未亡人瑶泉院殿が住む浅野土佐守長澄の邸に一
人の飛脚体の男が来た。彼は大封の一書を取り出し、
「私は京都紫野の瑞光院から参った飛脚の者です。このご書状を瑶泉院様のお手
許まで差し上げて参るようにとの言いつけでございます」
といいながら、その書を差し出した。取次ぎはこれを受け取って入ろうとする。飛脚は
更に、
「それでは確かにお受け取り下さい。ただ差し上げてさえ参ればよろしいとのことです
から、私はこれでおいとま申し上げます」
と言い棄てて足早に立ち去った。気の早い男もあればあるものよと取次ぎは思ったで
あろうが、そのまま奥へと進達した。瑶泉院は何事であろうと、これを開いてみると、何
ぞ図らん、それは内蔵助の手で一挙の顛末に添え、一冊の帳簿に一万両の用途を
区々詳細に明記し、少額の残金さえ封入してあった。これを見た時の未亡人の感想は
如何であったろう。私はここまで述べてきて、拝首して額(ひたい)が畳に届くのを覚え
ずにいられない。およそ血誠ある者、志気ある者に取り、報復の一挙ぐらいは、さまで
困難とも思わないであろうが、繁忙、錯雑の間にあって、一分一朱一銭一厘まで一々
公金の用途を細註し、これを会計して残金を照合し、公家に報告してことを終了するに
至っては、大人君子でなければ、とても出来ない事業である。私はここにおいて、ます
ます内蔵助が君子であり英雄であることを賛仰する。ああ彼に及ぶものは誰もいない。
そして泉岳寺においては今朝ここまで一党とともに引き揚げ来た寺坂吉右衛門がたち
まち消えた。彼は内蔵助から特別任務を命ぜられ、一人同志から離れたのである。彼
の任務の一つが璃泉院殿の許への使命であったことを疑わない。
附言 この帳簿の呈上を鳩巣の「義人録」は十三日のこととし、観瀾の「報讐録」は十
五日の朝のこととした。私は後者をもって事実をとする。何となれば、一党を統率
する内蔵助にあっては、たとえ復讐をし得ても、一党の落着を見届けるまでは、そ
れを給養する責任がある。いわんや討入りまで店賃、食料、その他の諸払いなど、
支払いを待つものは多かったであろう。それで今朝泉岳寺に達し、我が事終るの
を待って、残金を合せ、これを返納したものと思うからである。
それから当時早く伝称した談に、瑶泉院から老女戸田某を使として泉岳寺に遣わ
し、内蔵助に会って一党を慰問し、かつ上野介の首を実検させられたとの説があ
って、講釈などでは得意のところであるが、鳩巣翁は小谷勉善を使って浅野家に
確かめ、この談が事実でないことを明記した。私もこれを取らない。
二四六
仙石邸への自首
吉田忠左衛門、富森助右衛門の役目
そもそもこの快挙は、失敗すれば、吉良邸に火を放ち、猛火のうちに腹掻き切って、
そのまま先君の後を追う、成功すれば、公儀に訴え出て、謹んで公裁を仰ごうとは、日
頃からの一党の約束であった。それで泉岳寺へ引揚げの途中から、内蔵助は吉田忠
左衛門と富森助右衛門の二人を大目付仙石伯耆守の邸に遣(つか)わした。それもそ
のはず、赤穂の一藩中で、言語明晰にして、四方に使いして君命を辱かしめない者は、
先輩で吉田、後輩で富森と称せられていた。特に吉田は一党の副統領であるから、内
蔵助は自分の名代に立て、富森をこれに差し添えたのである。これによって忠左衛門
が討入りの時から「浅野内匠頭家来口上書」の一通を懐中していたのが知れる。
両人は即刻一党と別れ、各々手槍を杖つきながら、愛宕下の仙石邸へと赴き、槍
を門前に立て掛け、つと入って案内を請うた。
「われわれは赤穂の浪人吉田忠左衛門、富森助右衛門と申す者、同僚四十余名とと
もに昨夜吉良家に討ち入り、亡主の讐上野介殿の首級を申し受けて、ただいま高
輪泉岳寺まで引き揚げ、公裁を仰ぎ奉るために、われら両人参上いたしてござる。
委細のことは伯耆守殿に拝謁を願い、直接申し上げとう存じます。この旨何とぞご進
達くだされ」
と申し入れた。
と見れば両人ともに武装のままである。これは容易ならぬ事件が起ったと、同家の士
は急いで伯耆守に取り次いだ。
「如何いたしましょうか」
と伺うと、さてはと伯耆守は首肯(うなず)き、
「直々(じきじき)会うから、広間へ通せ」
と指図した。この旨を両人に伝える。両人は、
「ありがたく存じます」
と一礼し、いずれも両刀を脱して前の士に渡し、案内に連れて広間に通った。貴人に
対する両人の動作に、侍者はまず感動した。間もなく伯耆守は出て来た。忠左衛門は
謹んで亡主の鬱憤を散ずるためにこの挙に出た顛末を述べ、
「本懐を達した上は、一同切腹し、相果てる義ではありますが、将軍のお膝下の土地
と申し、かつは高家のお歴々の方を、私に討ち取りましたこと、公儀に対し恐れ入っ
た次第でありますから、一同亡君の墓前に集まり、ご公裁を仰ぐために、自訴いたし
ました。委細はこの口上書にてご賢察を願い上げます」
と、かの連名の上書を差し出した。趣意はいかにも明白である。陳述もまた瞭然である。
伯耆守は心中に感嘆しながら、
「一党の人数はこれ限りに止まるか」
「御意のとおり、それ限りでござります」
「これらの衆は皆泉岳寺に集っているか」
「御意にござります。一人も離散せず、控えております」
「それは関心。これより登城して逐一言上する。その間寛々(ゆるゆる)休息して、沙
汰を待たれい」
と申しつけ、その座を立とうとされる。忠右衛門は重ねて、
「お手厚い御意、あり難う存じます。ただ一同の者ご沙汰如何と待ち詫びていようと
存じますれば、われら両名の中、一名だけ泉岳寺までお返し下されとう願い上げま
す」
「いやまだ訊ねたいこともある。が、ただいまは登城を急ぐから、両人とも、自分が退
出するまでここに控えられい」
と言いながら、家人を呼び。
「両人ともさぞ空腹であろう。湯漬を参れ」
と命じて、奥へと入った。ああ侍は万事に誠実でなければならない。義徒らが亡君の
讐を返したとはいえ、国法の上からみれば、立派な罪人である。大目付たる者はこれ
に対し「それ繩をうて」と言わなければならない立場である。しかし義士に対する優待
ぶりはこのとおりであった。「誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動
かないものは、いまだ存在したことがない」という。古聖は人を欺かない。
仙石家の家人はこもごも出て両士を歓待した。両士は会釈して膳に向いながら「恐
縮ではございますが、先刻手槍を門前に残しております。何とぞお取り入れ下さるよう」
と申し出た。礼儀をおろそかにせず。それかといってまた武道を忘れず。両士は使者と
なって先ず一党の名誉を発揮した。
二四七
検分使の派遣
仙石伯耆守は急ぎ登城して、事の概要を申達したので、太平無事の幕廷は驚いた。
奉書はただちに老中および若年寄の許へと飛んだ。時を移さず老中阿部豊後守正武、
土屋相模守正直、稲葉丹後守正通らを初めとし、続々として登城する。中にも若年寄
稲垣対馬守重富は、馬を躍らせて馳けつけた。やがて閣議の前に伯耆守は召し出さ
れ、逐一事情を報告した。老中稲葉丹後守は、最初から抜き出て内匠頭の処分を主
張したほどであるから、このような出来事が発生するのは当然と、思惟されたであろう。
閣員は手から手に一党の口上書を渡して通読した。いずれも感嘆の色を禁じ得ない。
中には感涙を湛えた方さえあった。
このような場面で、寺社奉行阿部飛騨守は泉岳寺住持の訴え出によって登閣する。
老中稲葉守の許には吉良左兵衛からの届出が達する。さらば今一応伯耆守を派遣し
て、浪人どもに訊問を加え、吉良の邸へは目付を遣わして、その口書を取り、その上
にて決裁を仰ごうと一決した。一方では仙石伯耆守が旨を承って、早速帰邸し、更に
両人を前の広間に呼び出して再び一挙の顛末を訊きただした。さすがは大目付中の
傑物だけに抜目がない。自身登城の間に、家人の筆頭、並びに御徒歩目付を立ち合
わせ、事情を詳しく聞いていた。伯耆守はこれらを取り合せ、再度これを上申した。ま
た一方では御目付阿部式部、杉田五左衛門に、御徒歩目付四人、御小人(おこびと)
目付六人を付し、吉良邸へと遣わした。
* * * * *
この間に吉良邸の状況を一言しなければならない。同邸は咋夜から今暁までの闘
いで、浪人党から滅茶苦茶に蹂躙(じゅうりん)され、満邸の上下はどこに逃れたか、一
党が引揚げの際には影も形も見えなくなった。敵が遠ざかると、危害の恐れが去った
ので、ここの木陰、かしこの床下。さては長屋の隅などから、一人出、二人出て、やが
ては全部現れて来た。器量の悪さもおびただしい。いずれもただ茫然としてなすところ
を知らず、主従首をひそめて青息斗息。やや暫くしておのれに返り「このままでもいら
れまい。とにもかくにも公儀へは届け、上杉家その他御一門へ知らせねばなるまい」と、
かすかすながら糟谷平馬という男をもって老中稲葉丹後守の許に報告させた。すると
同邸の取次ぎの士が出て接し、一通りその申出を聴き取った後、吉良家の奴原の卑
怯さ加減を私に指弾し「それはさぞ難儀でござったろう。さほどの闘いでは、貴殿にも
定めて敵と手合いなされたのでござりましょう」と品好く揶揄(からか)った。かの男はさ
っと顔をあからめ「それがあいにく昨夜は非番でござったので、手合い申さず、残念至
極でござります」と言い棄てて逃げるように立ち去った。後には稲葉家の家臣の詰所に
ドッと時ならぬ笑声がした。
二四八
吉良邸の検分
同家の申立て
吉良邸では御目付の臨検と聞いて、家老の斎藤宮内(くない)、左右田(そうだ)孫
兵衛、岩瀬舎人(とねり)らが恐る恐る出迎えた。と見れば、いずれも負傷の体である。
目付はまず上野介の死骸の検視を求めたので、家老らはじくじとしてその場に案内し
た。死骸は横たわったままで、無論その首はない。創は左右の掌に各々一か所、これ
は間十次郎が着いた槍の穂を両手で防いだからであろう。次に左の股に一か所、これ
は十次郎が繰り出した槍創と思われる。次に右の膝頭に二か所、最後に腓(こむら)に
一か所ある。これこそ武林唯七が躍り掛って斬った太刀痕(あと)に相違ない。そしてそ
の傍には二尺三寸の無銘の刀が血に染まって落ちていて、柄に一か所斬り込みがあ
る。よほど劇しく闘ったように見せかけたが、これは父なり主君なりの屍の恥を繕うため
の細工であったことは、義徒の話に照らして明らかである。そればかりで脇差はかえっ
てその場に見えなかった。
それから当代の左兵衛義周の検分となった。これまた面目なげに出て来た。見れば
額を大袈裟に巻き立て、脊中にも太刀創を負っている。自らは額上の創は三寸、背後
のそれは七寸、それで気絶して不覚を取ったと申し立てたが、それほどの重傷とも受
けとれない。そしてその際用いた薙刀はこのとおりであると取り出すのを見れば、また
その柄に一か所斬り込んだ痕がある。その激戦想うべしと褒めたいが、その実もしも薙
刀が物言うものなら、咋夜自分は投げ棄てられ、騒動の過ぎた後に罪もないのにこれ
このとおり切り刻まれたと呟(つぶや)いたであろう。とにかく口上書をと御目付から徴さ
れたので、次のとおり書上げた。
咋十四日夜八ッ半過ぎ上野介ならびに拙者のところへ、浅野内匠頭家来と名乗り、
大勢火事装束の体で押し込んできた。表長屋の方は二か所に梯子を掛け、裏門
は打ち破って乱入した。その上弓、箭(や)、槍、長刀など持参、所々で切り込ん
だ。家来ども防ぎはしたが、かの者どもは兵具に身を固めており、当方の家来は
死人、手負い人多く乱入者へは手を負わせたばかりで討ち留めることは出来なか
った。拙者の方へ切り込んだ者には、傍に臥していた当番の家来とともに防いだ。
拙者は長刀にて防いだが、二か所に手を負い、眼に血が入り気遠くなった。しば
らくして正気付き、上野介がどうなったか心配になり居間へ行ったが見えず、すで
に討取られていた。その後狼藉(ろうぜき)者どもは引揚げ、いなくなった。
十二月十五日
吉良左兵衛
とは随分苦しい申立てであった。
附言 上野介の戦死を装(よそお)うために、後から処々に創を付けたという説は、当
時から流行した。はなはだしいものは、血のにじまない打創を見出して、検使から
一本突き込まれ、左兵衛主従はぐうの音も出なかったなどと伝えた。しかしその創
を按ずれば、必らずしもそうとも思えない。いかに吉良の上下が破廉恥(はれんち)
であるとしても、君父の遺骸に太刀を当ててまで、その場を繕おうとはしまい。これ
は彼らが憎いところから、醜の上にも醜辱しようとの意から、言い出したことと察しら
れる。左兵衛の額創を、剃刀で自ら傷つけたという説も同様であろう。これだけは
吉良父子のために弁護の労を取っておく。
二四九
同
死傷者の人名
吉良父子の検分についで、家臣らの死傷の取調べに移った。その結果は次のとお
りであった。
戦死者
小林平八郎
用人
鳥井理右衛門 用人
須藤与一右衛門 用人
大須賀次郎右衛門 中小姓 清水一学
中小姓
斎藤清右衛門 中小姓
新美弥七郎
中小姓 小塚源次郎 中小姓
左右田孫八郎 中小姓
鈴木元右衛門
祐筆
小笠原長太郎 役人
榊原平右衛門 役人
鈴木松竹
坊主
牧野春斎
坊主
森半左衛門
足軽
某
中間
都合十六人
以上の死骸は座敷、中庭、玄関、台所、門下にわたり、なかでも東西長屋の出口か
ら、その前にかけてもっとも多かった。次に
重傷者
宮石所右衛門
用人
斎藤十郎兵衛 執事役
清水団右衛門 執事役
宮石新兵衛
中小姓
山吉新八郎 中小姓
天野貞之丞
中小姓
伊藤喜左衛門 中小姓
石川彦右衛門 中小姓
都合十人
ここまではなお吉良家名誉の士とも言うべきである。次に
軽傷者
斎藤宮内
家老
左右田孫兵衛
家老
松原多仲
家老
加藤太左衛門
役人
堀江勘左衛門 中小姓
八太夫
中間
都合十二人
船松九兵衛
中小姓
松山与五右衛門 中小姓
岩瀬舎人
家老
杉山三左衛門 中小姓
大河内六郎左衛門 足軽小頭 岩田弥兵衛
足軽
兵左衛門
駕籠かき
吉右衛門 馬口取り
この辺からそろそろおかしくなった。ことに家老の斎藤宮内、左右田孫兵衛、岩瀬舎
人は三人ともに揃いも揃って「戸を開け覗いて、かすり疵を負ったので、控えていた。
その後出て見れば、上野介は討たれ、左兵衛は手負いしていた。」と、口上書により申
し立てた。これだけでもその傷が贋物らしいことは、何人にも想像されるであろう。それ
でこの三人だけは、検使から負傷者と認められなかったなどと、その当時から噂された。
もっとも面白いのは、最初三人は大変と見てとるや否や、下水口から邸外に這い出し、
事静まって、同じ口から再び邸内に這い込んだので、いわゆる京童は「このところ家老
のほか出入すべからず」とそこに貼紙したとの風説である。このところ家老のほか出入
りすべからずなどは、振っている。が、ともかく上野介父子を含めて、戦死十七人、負
傷二十三人、都合四十人の死傷者を出した。次にもっとも卑怯を極めたのは、その場
からの
遁走者
杉山甚五左衛門 石原弥右衛門 榊原五郎右衛門 古沢善左衛門
都合四人
であった。最後に
無傷者
糟谷早馬以下徒歩、足軽、中間、小者ども都合百四人
これらはいずれも首を縮め尾を巻いて、当初から出合わなかった奴原であった。
かくて吉良家上下の検分は済んだ。ついでに侵入者が棄てて行った兵器什具が
調べられた。すると討入りの際に必要にして、引揚げの時に無用となった梯子、大槌、
鉞(まさかり)や、その他の付属兵器として、弦の切れた弓、尖先もしくは柄の折れた槍、
射掛けた矢、折れた太刀、姓名を記した竹札などの類で、緊要の打物などは、一振も
残してない。そして一党討入りの趣旨を草した「浅野内匠頭家来口上書」は文箱に納
めて竹竿に結い着けたまま、厳然として玄関の前に現存したので、検使はこれを押収
して帰城の上、吉良家上下の口上書と共に、老中の手許に差し出した。
附言 世におかしいのは風説子の説である。その説に従えば、討入り当夜義徒が討
ち取った敵の数は百人以上にも上っている。その説に慣れた耳や目には、私が
さきに述べた実戦状況を物足らぬように感じたであろうが、ここに至って氷解(ひょ
うかい)したはずだ。吉良家の戦死者十七人、これが何よりの証拠である。それか
ら従来の俗書は盛んに誰と誰が闘ったなど、敵味方両方の人名を挙げて、目に
見たように説き立てる。なるほど面白いは面白い。しかしその実義徒自身は格闘
した相手が何という者であったかは知らないのである。義徒が確かに知っていた
のは、武林唯七が走らせた左兵衛ただ一人で、それとて翌朝薙刀を拾って、さて
はと覚ったくらいであるから、その余は推して知るべしだ。俗書の製造子は吉良家
届出の死傷者名によって、後から様々に組み合せたのである。
要するに高が旗本の一高家で、婦女子を除いて上下百四十八名の多数を一邸
に集めていたのは、上杉家の後援に頼っていたからと察する。義徒の三倍以上
の衆を擁しながら、一人の義徒をも倒せず、おめおめ上野介の首を渡したのは、
武門にあるまじき恥辱であった。「天その魂を奪う」とは、このことであろうか。
吉良家死傷者の姓名には異同が非常に多い。
鳥井理右衛門を…………利右衛門
大須賀次郎右衛門を……治郎右衛門
斎藤清右衛門を………清左衛門
左右田孫八郎を………源五郎
小笠原長太郎を………笠原
鈴木松竹を……………鱸松竹または正竹
に作る。どれが正しいかは不明である。ただし最後の正竹は誤り。それから
新見弥七郎を…………新谷
小塚源次郎を…………小塩または小鏡
榊原平右衛門を………柳原平左衛門
に作る。これは確かに下方が間違い。ただし最後の右と左は不明。次に
宮石所右衛門を………所左衛門
山吉新八郎を…………山好
天野貞之丞を…………貞之進
糟谷平馬を……………粕谷
杉山甚五右衛門を……村山勘左衛門
に作る。これまたいずれが正しいか不明である。
二五〇
隣邸の検問
三家の申立て 室鳩巣と新井白石
吉良邸の検分が終わると、次に近隣について取調べた。東表門の対面にある旗本
邸の主人牧野長門(一学)は当時駿府在番中のため、家臣から次の口上書を提出し
た。
昨夜七ッ時前、火事というような人声が聞こえたので、出て見ると、吉良左兵衛殿
の屋敷の内で、大声が聞えた。様子がわからないので、門外に控えていたところ、
その後何の騒がしいことも起こらなかったのでそのままにしておいた。
午十二月十九日
牧野一学内
茂木藤太夫
次に北隣の北東角邸の主人本多孫太郎も、また在国中であったので、留守居の家
来から左のとおり申し立てた。
咋夜七ッ時前、そとで騒がしかったので出てみたところ、吉良左兵衛殿屋敷でお
びただしく騒ぎ、火事のようにみえたが、様子は一切わからなかった。その内鳴り
も静まった。
午十二月十五日
松平兵部大輔内本多孫太郎家来
真柄勘太夫
いずれもうまく責任を逃れた。それから土屋邸の調べとなった。この邸の主人土屋主
税は昨夜義徒からの内談を受けたのだ。彼は心から一党の目的を遂げさせたいと考
えた。それで急に邸内を固めよと号令し、南境の塀際に高張提灯を立て連ね、自身は
その下に床几(しょうぎ)を据えさせて座り、家臣を指揮し夜の明けるまで厳重に讐戒し、
もしも吉良父子以下が塀でも乗り越えて逃げ込もうとしたら、狼籍者との口実の下に、
射て落そう、討って取ろうと待ち構えた。これは一党のためには思いがけない利益であ
ったろう。取調べに対して、主税は次の口上書を提出した。
昨夜七ッ時前、吉良屋敷が騒がしくなり、火事かと思い外に出てみれば、喧嘩の
ように聞こえたので、家来どもを召し連れ、境口まで出て固めていたところ、塀越
しに声を掛けられた。「浅野内匠頭の家来片岡源五右衛門、原惣右衛門、小野
寺十内と申す者にて候、ただいま主人の敵上野介殿を討ち取り、本望を達した」
と呼ばわっていた。夜明け時分裏門より人数五十人ほどが出てきたように見えた。
もっとも火事装束の体に見えたが、まだ暗くて、確とは認めることができなかった。
午十二月十五日
土屋主税
と申し立てた。さても不用意な申立てである。果してこのとおりに申し立てたとすれば、
同じ旗本でいながら、いわば狼籍者が吉良家に押し込んで、おまけに名乗りまで揚げ
るのを聞きながら、隣保を救わず、かつそれを取り押えようともしなかったのに対し、怠
慢の責は免がれない。今これを牧野、本多両家からの口上書と対照して見れば、恐ら
く後人の加筆があると思われる。とにもかくにも怠慢は怠慢、これが普通の場合なら、重
いお咎めを被(こうむ)ったに相違ない。それが幕廷から問おうともされなかったのは、
幕廷自身が義徒の一挙に内々同情していたからと思われる。
この日新井白石はわざわざ土屋家を見舞い、以上の始末を詳細に聴き取った。後に
室鳩巣はこのことを伝え聞き、白石の許を訪れて、
「このたびの一挙を見ると、義徒の行為は一点の遺憾もないが、土屋の挙動をいか
が思われる。同じ公儀の旗本であり、かつは同町の隣組と申し、手を空しうしてはい
られぬはずではござらぬか。それをそのまま見逃したのは、如何かと思われる。ご高
見を伺いたいものでござる」
と質問した。すると同じ学者でも、さすがは政治家の白石である。
「いや武士は互いに、君父の讐は格別でござる。折角討たせてくれよと頼まれた場合
には、手を出さず傍観しているものでござる。ただし一党が引き取る際に、その三人
を留め置かなかったのは失策であった。もしそれを留め置いていたら、立派に士道
は立つところであったのに」
と答えた。情理の際(きわ)をよく考えた議論と思う。
二五一
其角の手紙
討入り当夜の光景
百忙中に一閑を盗んで、討入り当夜の光景を知友に報じた文士の記録を一読しよう。
それは世に聞えた蕉門の奇才宝井其角が、同じ俳友で文憐と号した佐竹藩士の梅津
半右衛門に贈った手紙で、全篇は次のとおりである。
年の暮の寿(ことほぎ)として、例年のとおり遠方から、酒料一封、蕗の塩漬一樽、
お贈り下され、ご厚志のほど幾久しく受納致しました。ついでにご家内初め、御社
中へもよろしく伝言下さい。去る十四日本所の都文公(とぶんこう)において、歳忘
れの催しがあり、嵐雪(らんせつ)、杉風(さんぷう)、我らも出席し、折から雪面白く
降り出し、風情手に取るように、庭中の松杉は雪をいただき、雲間の月は晴間を照
らし、風興捨て難く、夜はただ更け行くまま、丑満(うしみつ)頃となり行き、犬さえ
吠えず、打ち静まり、文台料紙も片付け、四、五人集って蒲団をかつぎ、夢のうき
世という間もあらず、けわしく門を叩く者が二人。玄関に案内すると、「我らは浅野
家の浪人堀部弥兵衛、大高源五。今夕隣家の吉良上野介殿屋敷へ押し寄せて、
亡君年来の遺恨を果すため、大石内蔵助を始め四十七人が門前に集まり、ただ
いま吉良氏を討ち果たすところ。近隣のよしみ、武士の情、万一加勢されるなら、
末代の不覚と存ずる。願わくは門戸を厳しく防ぎ、火の元用心下されば、かたじけ
なく存ずる」と、いい果てず立ち出る。その勢いは神妙なこというべくもない。今は
俳友もこれまでとて、其角幸いにここにあり、生涯の名残りを見るとて、門前に走り
出て、おのおの吉良家へ忍び入り、
我が雪とおもえば軽し笠のうへ
と高々と一声呼ばわり、門戸を閉じて内を守り、塀越しに提灯を立て、始終を窺(う
かが)った。女の叫び童子の泣き声、風颯々(さつさつ)と吹きさそう、その哀れさ
は骨身にしみ入った。暁天に至れば、本懐すでに達したとて、大石主税、大高源
吾が穏便に謝儀を述べたこと、武士の誉(ほまれ)というべきなり。
日の恩やたちまち砕く厚氷
と申し捨てた源吾の精神は、いまだ眼前に忘れがたい。貴公年来の人魂(じっこ
ん)ゆえ、つぶさにお知らせ申す。早春までにかれこれお差し繰りのうえご出府さ
れるなら、この事件が落着し、余儀なく死罪となれば、ひそかに追善の法要を営み
たい。十分な日時もなく、書き落したこともあるので、貴殿とお会いする時に詳しく
お話ししましょう。
十二月二十日
文璘 様
月雪の中や命のおきどころ(一説に、つけどころ)
其角
寒菊や古風の残る硯箱
其角と子葉の際会、目に見るようである。この両人がその前日両国橋上で出会った
話や、その際の会話などは、皆これから出て製造子の手になったのである。が、この其
角の書それ自身についても、考えて見ることがある。
二五二
同
本人の偽書 頼山陽の訳詩
その百数十年後、其角のこの手紙は佐倉藩の大夫紀氏(たゆうきし)の手に入った。
紀氏はたいそう歓び、頼山陽に頼んで、詩にしてもらった。その詩は次のとおりである。
赤穂義士の事禄を記した其角山人の手紙を見て、紀倹卿の為に作る。
元禄壬午十二月 元禄壬午(じんご)年十二月
維十四日夜大雪 この十四日、夜大雪が降った
排雪四十六条鉄 雪を排する四十六条の鉄
研仇家門門関折 仇家の門を打ち、門関を折る
白雪化為模糊血 白雪は化して模糊とした血となり
血戦何覚手皹裂 血戦は手のひび割れを覚えず
唯恐隣並認盗窃
遣使致辞謝唐突
隣方会客賞玉屑
炉炭半燼燭見跋
忽聞剥啄共驚但
敢為纓冠与披髪
客中其角風流傑
嘗与使者素交結
曰吾在此欲一訣
ただ隣家に盗みに入ると思われることを恐れる。
使を遣(や)って、辞を送り唐突を謝る
隣家では客を招いて玉石を賞(め)で
炉の炭は半ば燃え尽き、蝋燭は根元で消える
たちまち剣音を聞き共に驚愕する
あえて冠をつけ髪をくくる
客中の其角は風流の傑物
かつて使者と素交を結ぶ
吾ここにあり、別れを述べようと思い
出観群剣扶虎穴
凍月在空光下徹
剣華和雪眼欲纈
寄書社友報顛末
縷叙義挙語勃々
野乗伝述競啁唽
親睹執如一片札
故紙堆裡字未滅
家を出て群剣が虎穴をえぐるのを見る
凍月空に在り、光は地に徹する
剣華は雪に和して、眼はかすむ
書を社友に寄せ、顛末を報じ
義挙を詳しく述べ、語は踊る
野の歴史家は説を競うが
親しく見れば、どれを取るか決まる
紙は古くなっても、字は残る
廿行亦可代碑碣
紀君獲之如玉玦
佩服不釈時展閲
二十行の字は石碑に刻まれる
紀君この碑を得て玉のように磨き
敬(うやま)い捨てず、時に広げて精読し
為愛書詞伝芳烈
況渠義気亦可説
出門嘗学軻離別
又擬欒布哭彭越
当時同僚血曾歠
変志鼠竄草間活
若聞渠風当面熱
書詞を愛(め)で、その芳烈を伝える
義気を説くところは、一層強烈に訴える
門を出れば、かつての軻(か)と離(り)の別れを知る
また欒布(らんぷ)が彭越(ほうえつ)に涙したように
当時の同僚はかつて血をすすり
志を変え、鼠のように草間に生きた
もしあの風音を聞けば顔は熱くなろう
読之猶聳懦夫骨 これを読めばなお懦夫(だふ)の骨を驚かす
流伝一入権家闑 流伝して一たび権家の敷居に入っても
精光依旧未嘗欠 精光は旧に変らず、いまだ欠けず
晋唐蹟遭賈位褻 晋唐の蹟は商人の侮りに遭っても
秋壑印記不可割 書かれた字句は割くことができない
何如此札無点衊 なぜかこの書には欠落無く、
長比当時雪月潔 当時の潔い雪月のように、長く存在を続ける
この詩が発表されると、其角の名はますます高くなり、今に至るまで討入り当夜の史
実を決める一権威に数えられている。
だが、仔細に其角の書を読めば、合点のゆかないことが多い。彼は「折から雪面白く
降り出し」というが、雪の降ったのは前日のことで、討入り当夜は月明らかに、進軍の途
上を照らしたのは、老小野寺の手紙で証せられる。私はここに少々不安の意があって
「雲間の月は晴間を照し」とお茶を濁した気味はないのか。それから「もはや丑みつ頃
となり行き……」の一段がいかようにも意味の取れる狡い用筆である。丑みつの頃から
戦闘が始まったようでもあれば、「夢のうき世という間もあらせず」で、熟睡を覚まされた
から、丑みつ頃よりよほど時間の経過した後とも抜けられる。しかし文勢から推せば、
丑みつ少し過ぎからの開戦というように聞える。ところでその頃は、一党が事実いまだ
吉良邸に取り掛っていない時であるから、「女の叫び。童子の泣き声」など聞えようは
ずがない。もし聞えたら、夫婦喧嘩か、添乳を求める泣き声かのそれであったろう。そ
して翌日新井白石が土屋主税から直接に聴き取ったところでは、開戦の際に密使を
遣って内願させたのは、吉田忠左衛門であったとのこと、その吉田は西部隊の隊長で
ある。それが特に東部隊に属した老堀部や大高を使い得られようか、得られないか。
それから土屋からの届書によれば、暁方の引揚げ前に挨拶をしたのは、片岡、原、老
小野寺とあるに、其角宗匠はこの度は小大石と大高という。ちとおかしいではござらぬ
か。
ではあるが手紙の全篇から見れば、才気のほとばしるところは、自から紙上に横溢
する。いかにも其角その人の手紙らしい。よって思うに、彼は嵐雪、杉風らと、あるいは
宵の間ぐらいは俳句をして土屋邸にいたかも知れない。討入りの際には確かにいなか
った。ところが子葉は日頃の俳友である。その子葉が一党中に交っていると聞き、また
その人の途上の口吟をも伝聞したから、江戸の市井文学にありがちの衒気(げんき)が
からからと発し、聞いたところの事実風説をつなぎ合わせ、自身親しくその時に会し、
その場にあって、句を交わしたしたかのように書きたて、これを田舎の俳友に寄せて、
ちょっと嚇(おど)かして見たものと思われる。それで自分はこの書をもって本人の偽書
と見るのである。其角に対してはちと気の毒であるが、史実の防衛には代えられないか
ら、故人に対して失敬する。悪気はないよ。
二五三
上杉家の躊躇(ちゅうちょ)
同じ十五日の朝であった。義徒復讐の報告が諸司から幕廷に達すると、幕廷にお
いて第一に懸念されたのは、上杉家の出方である。万一同家から人数を繰り出し、一
党追撃の挙にでも出られたら、それこそ一大事であるから、閣議は直ちに吉良邸に検
使を向けると同時に、上杉邸へも上使を差し向けることに決定した。
さて上杉家は今朝早く吉良家からの急報に接し「さては敵に出し抜かれ、不覚を取
ったか」と、一邸挙って足ずりして悔恨した。それもそのはず、弾正大弼(だんじょうの
だいひつ)綱憲(つなのり)朝臣は上野介の生子であり、民部大輔(たゆう)吉憲(よしの
り)朝臣は左兵衛の実兄だからである。時に綱憲朝臣は久しく心地不例のため登城も
せず引き籠っていたが、噂によれば、変報に接するや否や、病床に起き直り、
「父を討たせて、そのままにさしおいては、武門の面目が立たない。民部大輔は在府
の人数を引率し、ただちに泉岳寺へ馳せ向い、狼藉(ろうぜき)者どもを討ち取って
参れ」
と命じた。すると家老の色部又四郎が進み出て、
「仰せではござりますが、たとえ吉良殿と御当家とは親子兄弟の間柄とはいえ、上杉
家には上杉家の御家法があります。かつこの太平の御代に、ところも将軍家のお膝
下の地で、私に干戈(かんか)を動かせば、不識庵公以来の名家ももはやこれまで
でござります。かつ鳥井理右衛門、須藤与一右衛門らは当家の出には相違ありませ
んが、すでに左兵衛殿の御用人となっております。新主人のために討死したまで。
我ら当家重代の臣として、出兵の沙汰に限り、お受け申し上げることはなりません」
と諌(いさ)めたとのことである。果してそうであるか、どうか。上野介の生子、左兵衛の
家兄であるこの父子に、出兵追撃までの勇気があったかどうか。とにかく老臣の意見と
して、出兵不可論を唱えたに相違ない。それでこのことが後に米沢に聞え、在国の藩
士らは定府の意見を余りに不甲斐ないと憤慨し、本国と江戸との藩士中に久しく確執
を生じたという。さもあったであろう。
それは自から後のこと、出兵不出兵の評議の最中に、姻戚である紀伊中納言綱教
(つなのり)卿の名代水野土佐守と同族佐竹修理太夫が駆け着けた。一つには綱憲朝
臣父子を慰問し、また一つには上杉家の収拾策について、忠告をすすめた。とこうす
るうちに已の上刻、午前十時に、畠山式部大輔が幕命を奉じてやって来た
「吉良家不慮の変につき、当家の家中は万一の心得違いのないように、よくよく申し
付ける」
と暗に示唆されたから、もはや仕方がない。「ご上意のほどお受けします」といい、つい
にそのまま閉息した。
ここに至って謙信以来の名誉の武門も、一朝にしてあたら武名を失墜した。もし後年
に治憲朝臣の鷹山(ようざん)公が出て、文教武備を振わなかったなら、東北の一雄藩
も永く雌伏したままであったろう。天の配剤もまた妙であった。
二五四
幕廷の同情
目付の阿部式部、杉山五左衛門の一行は、吉良家の検分、隣家の取調べを終え
て帰城し、つぶさに閣老に報告した。ここにおいて老中は打ち揃って、将軍の御前に
伺候し、昨夜以来の顛末を言上し、あわせて一切の書類を台覧に供え、将軍の親裁
をと申請した。将軍は天性英明、かねて有情の君である。昨年三月殿中凶変の際こそ
内匠頭の妄動を激怒して、大不敬の罪に問うたが、今は一党の復讐の顛末を聞き、彼
らが自から人義を宣明した口上書を取り挙げて閲覧しつつ、同情の色を禁じることなく、
「彼ら内匠の遺臣ども、二年にわたるその間、さぞ辛苦したであろう」
と申された。その尾に付いて閣老は、
「珍しい忠義の者どもですから、一時大名中にお預けの上、十分の詮議を遂げ、処
分するのがよいと存じます」
と申し出た。将軍はうなずき、
「よきに計らえ」
と沙汰されたので、即刻大名四家へお預けが決定した。
この日は前にも述べたとおり、月の十五日、将軍家へ月次(つきなみ)の御礼日で
あるから、在府の大小名はすべて登城して、殿中に伺候していた。やがて老中の取計
らいであったろう、一件書類は大小名に示された。譜代外様の大名小名は手から手に
一党の口上書を渡し読んで、いずれもその節義に感嘆し、中には感極まって落涙する
方々もあった。閣老中の英物阿部豊後守正武は、やがて並いる諸侯に向い、
「当代に至り、かかる忠義の士を出したのは、ますます天下泰平の吉徴と存じます」
と揚言すれば、いずれも
「御意のとおりにござります」
と答えた。将軍に感ぜられ、閣老に称せられ、諸侯に讃美されれば、義徒たる者もって
死すべしだ。
時を移さず、閣老から一党四十七人の内、
十七人を……細川越中守綱利(肥後熊本城主)
十人を………久松隠岐守定直(伊予松山城主)
十人を………毛利甲斐守綱元(長門調布城主)
十人を………水野監物忠之(三河岡崎城主)
へ当分お頂けにするので、泉岳寺においてそれぞれ受け取るようにと口達された。折
節細川、毛利、水野の三侯は登城して殿中にいたので、その席で受け、家臣を藩邸に
帰して準備にかからせた。久松侯のみは当日病気不参であったため、閣老から奉書に
より伝えた。
議は少しく進み、閣老列坐の席に目付の水野小左衛門と鈴木源五右衛門を呼び出
し、
「浅野家浪人四十七人の者どもへ、詮議により四家へお預けの旨、泉岳寺へ出向い
て申し渡した上、一同を仙石伯耆守役宅へ護送し、同所において名簿に照し、それ
ぞれへ引渡せ」
と申し付けた。同時に御徒歩目付、御小人目付十余人を差し添える旨を、あわせて命
じられた両人は、ハッと受けて、詰所まで退いたが、泰平の御世に、これは懸命の使命
である。両人は相談した。
「浅野家浪人どもが吉良殿を討ち取って退いたことは、もはや市中に隠れもない。上
杉家がいかに上命を受けても、武門の家筋、一党を泉岳寺から仙石家に護送の間
に襲い撃とうとするかもしれない。その際上意のあるところを懇々申し諭(さと)しはい
たそうが、聴かなければ、それまででござる。浪人らとともに上杉勢に駆け向い、花々
しく戦って討死し、公儀の面目を辱しめないよう心掛けるよりほかない。同僚の方々
にもこの議お含みおきされたい」
と申し述べた。
やがてこのことは閣老に聞える。
「もっともの注意、万一左様の変あれば、忌々しい大事、これはむしろ一党の者ども
を伯耆守の役宅まで自ら行かせる方が得策である」
と、議は即座にまた変った。水野、鈴木の一行はただちに仙石家に行き、泉岳寺へは
単に通知のために、御徒歩目付石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三下
僚のみを行かせた。
この時準備の早い水野、久松両家の受取人は、すでに泉岳寺へと向っていた。
二五五
四家へのお預け
幕廷は諸策を処理決定したので、今は一党を仙石家に召喚して、これを四侯家に引
き渡すばかりとなった。この四侯家のうちでも、細川家は五十四万石の大々名だけに、
お預けの人員も十七人、他に比べて非常に多い。だが越中守綱利朝臣は殿中にお
いてその沙汰に接するや、むしろ細川家の名誉として大いに喜んだ。これと同時に侯
の胸に浮んだのは、例の上杉家のことである。「もしも今夕一党を引き取る途中で、不
慮の襲撃を掛けられ、万一の不覚を取るなら、公儀に申訳ないのみならず、それこそ
細川の武名に関する。好し好しこれは自身で当ろう」と、その席において閣老に向い、
「御沙汰の趣き、謹んでお受けする。それにつき拙者が受取りのために出馬いたした
いので、この議お聞き済み願いたい」と申し出た。さすがは関西雄藩の太守と、閣老の
面々も心中には感じたが、評議の上、「ご奉公の心掛けはまことに至極ではありますが、
他の釣合いもあるので、それほどには及びますまい。しかるべき家臣を名代として遣わ
されれば、それでよろしかろう」と告げられた。「閣老の意見がそうであれば、強いて望
むのも物好きらしい」さらばと左右の者を自邸に帰らせ「堂々とやれ」と命令した。勇将
の下に弱卒なしか。君意がそうであれば、一邸誰も躊躇しない。出たわ出たわ。明智
左馬助光春の後裔で三千石を領する家老の三宅藤兵衛を隊長として、鎌田軍之助、
堀内平八、平野九郎右衛門らがこれに続き、格式ある侍はことごとく騎馬にて打たせ、
迎えの駕籠十七挺のほかに、用意の駕籠五挺をかかせ、上下七百五十余人、愛宕下
の仙石邸に馳せ着けた。
* * * * *
石高こそ細川侯に及ばないが、伊予において十五万石を領する松山の城主久松
隠岐守定直朝臣、当時の松平隠岐守は、久しい所労のために、当日も欠席していた
ので、閣老から奉書が廻された。一邸は突然の奉書に驚いたが、幸いに家中に一人
の英物がいて、一邸を激励したので、準備は意外に早く整った。人々の見るところは
皆同じで、ここでも懸念は上杉勢の横撃にある。それで同じく一邸の精鋭を集め、番
頭(ばんがしら)奥平次郎太夫、佃九兵衛を始めとし、上士は騎馬、下士は徒歩立ちと
なり、予備の分ともに十二挺の駕籠をかかせた。その勢三百有余人、第二の奉書がま
だ届かない前に、泉岳寺へと駆け着けた。
* * * * *
出兵がもっとも神速であったのは、三河において五万石を領する岡崎の城主水野
監物忠之朝臣の一手であった。これも最初の沙汰を奉じ、その兵上下二百余人を山
田大右衛門と山内九郎右衛門が引率し、真先に泉岳寺に到着した。山門前の広場を
占めて、一党の引渡しを今か今かと待ち受けていた。
そこに馳せ着いたのが、前の久松家の一隊であった。水野の勢はこれを見ながら、
自家の占めた勝地を守って、一寸の地も譲ろうとしない。時に久松勢中にあって、今
日の軍(いくさ)奉行である波賀清太夫朝栄(ともひさ)が進み出で「御沙汰を承わり、
赤穂の衆をお預りするのは、御藩も我が藩も同様でござる。かつ御藩とは日頃から格
別の間柄、たといこの場所の半分を譲って下されても、御用に差支えはおわすまい。
この義何とぞ許容されたい」と申し入れた。礼恭(うやうや)しいが色激しい。道理に詰
められて、水野の一隊はその一半を譲った。時に取っての好事例と、この頃士人間の
話題となった。
ついで第二の沙汰が各自の藩邸に達したので、藩邸からはそれぞれ急使を馳せて、
受取り場所の変更を受取り隊に通報する。時はかれこれ酉の下刻、夜の七時であった
ろう。さては場所が変更されたのかと、降りしきる豪雨の中を両勢ともに揉(も)みに揉
んで、さらに仙石邸へと赴いた。
* * * * *
ご多分に漏れないのは、五万石長府の城主毛利甲斐守綱元朝臣の一家、これもそ
の衆二百余人、田代要人(かなめ)と原田将監(しょうげん)がこれを率(ひき)い、泉岳
寺へ向ったが、さらに第二の命令に接したので、愛宕下へと馳け着ける。仙石邸の門
前にはおよそ一千五百余の受取り勢がひしひしと詰め掛けた。
附言 この夜の豪雨は諸書に見えない。ただ一つ「波賀清太夫覚書」によって、始め
てこれを知ることができた。狭穂(さほ)の方から来た雨を狭穂の雨という例からい
えば、清太夫のお蔭で世に伝わったこの雨は、波賀の雨とでも名づけようか。
二五六
久松邸の一英物
波賀清太夫
ここに当時の光景を目に見るように書かれた一書がある。それは久松家の家臣に波
賀清太夫朝栄(ともひさ)という、身分こそ小身の徒歩目付に過ぎないが、つとに兵法
を小幡氏に学び、武道の心得がある侍がいた。文強武弱の時代とて、倒竜の術も施
すところなく、たまたま武を論ずれば、清太夫の十八番と冷笑されるくらいであった。と
ころに十五日の朝、久松邸の台所に出入の商人が「何でも浅野内匠頭様浪人衆が身
には甲冑を着け、手に手に血に染まった槍、薙刀をひっ提げ、あるいは弓矢を手挟
(たばさ)んで、同勢およそよそ二百人ばかり、中には首一級(ひとつ)を結び付けた槍
を押し立て、ただいま松平陸奥守様御屋敷にかかり、芝の方角に向っています」と目
を丸くして申し出た。
聞くより清太夫は重役の詰所に至り、「およそ天下の兵乱は、間々こんな糸口から
発するものでござる。話半分、三分の一と見積っても決して聞き棄てにできません。油
断は大敵、ともかくも諸方に物見を出し、かつお邸の警戒を加えてしかるべきと存じま
す」と、意見を述べた。が、「例のご用心でござるかナ」などと冷かして、いずれも真面
目に取りあわない。「ああ俗吏ともに談ずるに足らず」と一人長嘆し、自分一人で内々
出陣の用意をし、部下の足軽を偵察に出し、様子如何と待っていた。そこへ幕廷の御
小人(おこひと)目付黒川小左衛門は閣老連書の奉書を届けて来た。「赤穂浪人の中
十人、当家にお預けになるにつき、即刻泉岳寺まで受取りの人数を差し出せ」との命
を伝えた。「それ御奉書の到来!」と、にわかに一邸は動(どよ)めき出し、間近に敵で
も押し寄せたかの大騒ぎ。上下ともに持って起つ。清太夫はおらぬか……清太夫を呼
べ」との声は、家老、番頭などのところにしきりに湧く。清太夫は静かに進み出て「この
御用について、第一に分別すべきは、上杉家からの討手でござる。ことに細川家と当
家へお預けの人名中には大石親子が見えます。場合によりますと、細川家の一手に
は、弾正大弼殿が御自身で向われ、御当家の手には、民部大輔殿が討って懸られる
やも測られません。その手配が専要かと存じます」と申し述べた。「至極の気着き、その
積りで用意せよ」と、一同に命ぜられ、清太夫には特に「今夕の場合は格式にこだわら
ない。番頭、物頭から足軽、中間に至るまで、その方見つけたところがあれば、遠慮な
く指図し、当家の不覚にならぬよう粉骨せよ」と内命された。ここにおいて清太夫は今
一人の英物宮原久太夫と戦闘準備に力を尽したので、この邸の衆のみは徒歩立ちの
侍まで伊賀袴に武者草鞋、いかにも凛々しく、勇ましく見えた。そうして清太夫は久太
夫と始終別働隊として、軍奉行となり、一党の受取りから、途中の護送まで万事を指揮
した。彼の得意も想うべきであるが、同時に時代の有様をも察すべきだ。それにしても
いずれの時、いずれの世でも、侍の素養がなくてはならないこと、これによって明らか
である。
二五七
一党の移動
義徒の一党は終日泉岳寺にあって、公儀の沙汰を待ち暮らしていた。すると夜に
入って、公儀の御徒歩目付石川弥三右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三人が御
小人目付以下を従えて、山門へ入って来た。一党を広間に集め「大目付仙石伯耆守
殿の御役宅において、御目付水野小左衛門殿、鈴木源五右衛門殿がお立会いの上、
仰せ渡される件があるので、早速同邸に罷り出るように」と口達した。内蔵助は畏まり、
受書を書いて目付に差し出し、一党に向って、早々支度を命じた。
* * * * *
一党はもとより昨夜敵邸に討入ったそのままである。が、この時夜はまさに酉の下刻、
午後の七時であった。幕府に対しては如何であれ、夕方から降りしきる豪雨といい、闇
に乗じて上杉勢の襲撃を受けないとも限らない。剣戟を執って、将軍のお膝下すら顧
みず、昨夜の始末に及んだ連中、言葉こそいかにも恭順であるが、衷心には天下に
恐れる者はいない。たとえ大目付の官邸へ移るにせよ、途上で不覚を取ってはならぬ
と、着込みの上帯、さては兜頭巾の忍びの緒を緊(し)め、いずれも鎗、薙刀の鞘を外
し、弓手は靫(ゆき)を負い、半弓を手挟み、老人さては負傷の輩は駕籠に乗せて、一
隊の中央に護衛し、高輪海岸、三田通、西久保から愛宕(あたご)下へと粛々として行
進した。
* * * * *
当時の幕政は天網に似ていた。疎にして漏らさないところがあった。一党が仙石邸
に達するまで、彼らの自由にまかせてはおくが、沿道には内々御家人を配り、諸侯の
家の辻番などにも早く内意が下っている。今夕に限り、お呼出しの一党を除くほかは、
およそ馬上に跨る者、鎗薙刀類を持つ者、そのほか異様異態の徒、さては見物の群
衆など、皆制して寄せつけなかった。そしてその筋に当った大小名は、おおむね門前
に高張りを掲げ、その路上を輝かした。
* * * * *
やがて仙石邸に近づけば、細川、久松、水野、毛利の受取勢は、その衆約千五百
余、家々の定紋を付けた高張りさては騎馬提灯を幾百となく点(とも)し連ね、大路を埋
めて屯(たむろ)す。一党はそれを見向きせず、いわば千里独行の体。ただちに門前
に進み寄るままに、今朝の吉田、富森と同様、各種の獲物を門の側に立て掛け、兜頭
巾を脱いで、当門の侍に一礼し「御沙汰に従い、一同まだいま到着してござる」と申し
出た。時はまさに戌の上刻、夜の八時であった。
* * * * *
大石内蔵助を筆頭に、四十余人の姓名を一人一人、当門の士は読み上げる。オオ
と応えて順々に門内に入れば、御徒歩目付は皆玄関にあって、一党が差し出す佩刀、
懐剣から、各自の兜頭巾に至るまで、一々受け取って札を付けた。一党の希望にした
がって、門外に置いた槍、薙刀類も、ことごとく取り入れた。一党は洗足して玄関へと登
り、案内に導かれて、広間へと通る。お預けの区別と順序によって、各自の座位が決め
られた。大石内蔵助、吉田忠左衛門は前方に、その他は後ろに居流れた。いずれもじ
っと堅睡(かたず)を呑み、沙汰の下るのを待ち受ける。
二五八
お預けの宣告
正面の上座には大目付仙石伯耆守、その右前には御目付鈴木源五右衛門と水野
小左衛門、これより下がって御徒歩目付らが儀を正して列坐する。御徒歩目付はまず
一党に向い、各自の姓名、年齢から、藩籍にあっての知行、勤務、さてはその宗族、親
類まで詳細に訊問し、一々それを筆記し終わった。伯耆守は厳かに「公儀において詮
議の結果、その方どもはそれぞれ四家にお預けとなった。神妙に御沙汰を待つように」
と口達された。一党は再びお受けする。続いてお預け別書が取り上げられる。
大石内蔵助
吉田忠左衛門
原惣右衛門
片岡源五右衛門
間瀬久太夫
小野寺十内
間 喜兵衛
磯貝十郎左衛門
堀部弥兵衛
近松勘六
富森助右衛門 潮田又之丞
早水藤左衛門 赤垣源蔵
奥田孫太夫
矢田五郎右衛門
大石瀬左衛門
上記十七人は細川越中守へお頂け。
大石主税
堀部安兵衛
中村勘助
菅谷半之丞
不破数右衛門 千馬三郎兵衛
貝賀弥左衛門 大高源五
上記十人は松平隠岐守へ御預け。
木村岡右衛門
岡野金右衛門
岡島八十右衛門 吉田沢右衛門
武林唯七
倉橋伝介
村松喜兵衛
杉野十平次
勝田新左衛門 前原伊助
間 新六
小野寺幸右衛門
上記十人は毛利甲斐守へ御預け。
間 十次郎
奥田貞右衛門
矢頭右衛門七 村松三太夫
間瀬孫九郎
茅野和助
神崎与五郎
横川勘平
三村次郎左衛門 寺坂吉右衛門
上記十人は水野監物へ御預け。
ここまで読んだ時、伯耆守は「このうちに寺坂吉右衛門がいないのは、なぜか」と訊
ねる。内蔵助は引き取って「かの者、一同と吉良殿御屋敷へ討ち入り、今朝まではい
ましたが、泉岳寺へ引き揚げて点検いたしますれば、その姿が見えません。軽い身分
の者にて、詮方もない義であります」と応答した。伯耆守は諒察するところがあったか、
重ねて調べようともせず、お頂けの宣告はこれで終った。
* * * * *
ああこの四十有余人、この二年間辛酸(しんさん)を共にし、もって今夕に至ったの
であるが、今夕ここで別れれば、生前に再び相見ることはできない。そのうちには父子
もあれば、兄弟もある。心中の感懐はいかがであろう。寛大な大目付および目付は、な
るだけ名残りを惜しませてやろうとの芳志とみえ、宣告は終ったが容易にその座を立と
うともせず、打ち寛いで一党に向い、これへと促して、一段内蔵助を引き寄せた。幕府
の三百年間にわたり、仁人義士が刑に問われ、生命を失った者はなかなか多いが、い
まだこの四十六人ほど名誉の囚人として、始終優待された者はなかった。忠義の存在
するところも、まことに偉大ではないか。
二五九
仙石邸の問答
伯耆守は内蔵助に向い、
「これは職務以外の話であるが、このたびの一挙については、一同いかにも沈着な
振舞い、よく本望を達せられたのも道理である。伯耆実に感じ入る」
と述べた。内蔵助、
「まことに畏(おそ)れ入ったお言葉、一同の面目(めんぼく)この上もござりません」
と挨拶する。これから昨夜の討入り、一党の働き、さては吉良邸の光景、引揚げの道
筋など、順を追って問いが出た。内蔵助、忠左衛門はこもごも応答する。弁論実に流
れるがごとく、さすがに一党の統領と、列坐の官憲も敬意を表した。伯耆守は進んで、
「上野介は老人であるが、左兵衛は壮年のこと、いかなる働きをされたかな」
と尋ねる。ここに至って内蔵助も忠左衛門もやや返答に困ったが、互いに顔を見合せ
て、にこっと笑い、
「御意(ぎょい)にござります。エーよく……相応に闘われましてござります」
と言えば、官憲の一面にも、一党の方面にも、一度にホホと笑声が湧き出た。
* * * * *
水野小左衛門は一党の姓名簿を調べながらやがて一同を見回して、
「主税は何処におられるか」
声に応じて、身の丈(たけ)五尺七寸の好漢は、
「ここに控えております」
「ああそなたが主税か。当年十五歳とあるが左様かな」
「御意のとおり、生年十五歳でござります」
と答えれば、御目付の一列は、
「あの言葉つきの優(みやび)やかさ。これまでご当地にでも出ていられたか」
と問われた。内蔵助は引き取って、
「いえ、このたび私が出府するにつき、始めて御当地へ下りました」
と答えた。前の小左衛門は重ねて、
「なかなか大兵であるから、見たところでは弱年とは思われない。だが声を聴けば、い
かにも若い。内蔵助! その方は良い子息を持たれて、さぞ嬉しかろう」
と陳べる。満坐は今さらのように父子の情を思いやり、そぞろ暗涙を催した。
* * * * *
伯耆守はさらに、
「咋夜吉良の家人を捕えて、室内の案内をさせ、蝋燭まで取り出させて、処々に点
(とも)し連ねたという磯貝十郎左衛門はどの人か」
統領らは後ろを指さし、
「あれに控えますのが、十郎左衛門にござります」
「さては左様かな。若い人にして、まことに落ち着いた働き」
とまたまた感称される。
* * * * *
小左衛門は最後に、
「ああ内匠頭殿は良い家来を多く抱えられた。かかる衆を持たれた上は、いかなる御
用をも勤めることができるのに、今更ながら遺憾の次第である」
と長嘆された。嬉し泣きの声はまたまた後方に聞えた。ああこれこそ総評の言葉。その
語は決してへつらいの言葉ではなかった。
二六〇
四家の受領
内蔵助父子の訣別
夜は既に亥(い)の下刻、十一時となった。伯耆守は改めて内蔵助に向い、
「今夕一同を乗物にて送るのを、あるいは異様にも感ぜられようか。しかし一同の中
には手負いの者もあれば、老人もあり、かつは警固の都合もあるので、そのように
取り決めた。それにて遠慮なく参るように」
と申し渡しながら、細川家の家老をと召された。声に応じて三宅藤兵衛以下三人が進
み出た。伯耆守はまた更に、
「これは並々の御預け人と違うので、万事いたわり、召し置かれよ。一同のうちには手
負の者もあるから、途中もなるだけおもむろに、もしその間に乗物の戸を開けたいと
望む者があれば、望みに委せても苦しうない。左様心得よ」
と訓令した。重大な罪人に対しては、駕籠の引戸に錠を鎖し、その上から網を掛けるの
が定法である。現に昨年三月には、一党の主君内匠頭ですらこの運命を免れなかった
のである。しかるに一党に対してはこのとおりである。これによっても一党がいかに幕府
から優待されたかが知れる。
さて内蔵助は一同を代表し
「重ね重ね有り難いお取り扱い、一同に代りまして、深くお礼を申し上げます」
と会釈して座を立てば、十六人の衆もその後ろに従った。
* * * * *
内蔵助は広間を出ようとして、目くばせしながら主税を側に呼び、
「そなたを見るのもこれ限り、かねがね申し付けておいたこと、忘れてはなりませんぞ」
と戒めた。主税は言葉に力を込めて、
「父上、ご心配されますな。決して忘却はいたしません」
と断言すれば、父はにっこり、
「左様なら……」
との一語。
「それでは……」
とこれも一語。
父は内玄関の方へと出て行く。ああその「かねがね申し付けておいたこと」。問わずし
て知ることが出来る。「大臣(だいしん)は国に殉ず。大臣の子もまた節に死し、もって
家声を落すことなかれ」というのである。
内蔵助は一人内玄関から、その余の十六人は玄関から、差し回された駕龍に乗り移
った。警固の士は同邸から一党の佩刀その他を受け取って、門外へと立ち出た。
* * * * *
続いて久松、毛利、水野の家老もしくは家老代をこもごも召しては、伯耆守の訓諭が
あった。いずれも形のとおり、一党を駕龍に受け取り、門外に出て行列を整え、それぞ
れの邸へと護送した。
その行列は家々によって多少の相違はあるが、細川家では義徒を乗せた駕龍一挺
ごとに、侯家の定紋を着けた高張提灯二張を真先に押し立て、次に箱提灯二張、次
に上士二人騎馬にて打たせ、次に駕籠、次に使番の侍または小姓衆一人、その他は
護衛の足軽若干が引き添い、先駆(せんく)、後殿(こうでん)がこのほかにあった。
また久松家においても、同じく高張提灯二張、箱提灯二張を先に立て、次に乗馬の
侍が一騎。次に義徒の駕籠を進め、その左右には徒歩の侍各々一人に、足軽十人を
引き添えて、道路を打たせた。その他の二家もまたこれに準じた。
かくて仙石邸ともっとも近い久松家の上屋敷は、同じ愛宕下にある。それで同家の衆
は子の上刻、夜半十二時前に邸に着いた。また仙石邸からもっとも遠い高輪の細川邸
に着いたのは、丑の刻に近い午前の二時前であった。
二六一
細川家の歓待
越中守の懇願
義徒を預けられた四侯家の中で、もっとも彼らに同情を寄せたのは、細川家であっ
た。同家の一隊は内蔵助ら十七人を受取って、極めて懇切に労(いたわ)り、手負いの
面々になるだけ苦痛を与えまいと、駕龍の動揺を制しつつ、静かにその路次を打たせ、
戸を開けたいと希望する者のためには、特にその意に委せ、万事に注意して、丑の上
刻前、午前二時近くに、ようやく高輪の邸に着いた。
大守越中守綱利朝臣は今朝殿中で命を受けた際、自身が受取りのために出馬しよ
うと申出ただけ、なかなかの熱心であった。下城後高輪邸に入って、この時分まで一
睡もせず、今か今かと待ち受けた。それで一党が到着するや否や、朝から用意させて
おいた清潔な広間に案内し、一党が着席するや早くも自身がその場に臨んだ。一方
には同家の家臣ら数十人、席次を正して伺候する。一方義徒の一党は二列に並び平
伏した。越中守は義徒に向い、
「このたびの一挙、まことに神妙であった。実はそち達にかように多くの侍どもを付け
おくこと。何やらおこがましく思われようが、これは公儀に対し、疎略ない意を表する
ものだから、さように諒承されたい。諸事遠慮なく皆の者どもに申し付けられよ」
と挨拶し、続いて、
「さぞ空腹であったろう。早く膳部を敷け」
と家臣に命じながら、
「寛々(ゆるゆる)と休息されい」
と言い残して奥へ入った。それで十七人の面々は深く感激しておくところを知らず、死
に至るまで筆に言葉にしばしばこれを繰り返しては、あり難く思った。それもそのはず、
今夕他の三家では、単に家老が出て、挨拶したのみに止まった。
かくてこの夜は一党を以上の一間に置かれたが、翌日からこれを分けて座敷続きの
二間に移した。越中守はまた家臣に命を下し、
「現在の部屋は、暗くもあれば眺めもない。一同さぞ憂鬱であろう。役者の間は明るく
もあれば、庭も広い。そこをしつらえて移らせよ」
と命じた。それで早速にここを準備して、同じく二間に分置した。上の間には、
大石内蔵助
吉田忠左衛門 原 惣右衛門 片岡源五右衛門
間瀬久太夫
小野寺十内
堀部弥兵衛
間 喜兵衛
早水藤左衛門
いわばこれは元老室。下の間には、
磯貝十郎左衛門 近松勘六
富森助右衛門
潮田又之丞
赤垣源蔵
奥田孫太夫
矢田五郎右衛門 大石瀬左衛門
こちらは壮年室ともいうべきであった。そしてこの十七人のために新調された小袖三
襲(かさね)から、上帯、下帯。それも時々取り代えられる。必需品としては用紙、硯箱、
随意に音信を発するに任せた。膳部は何時も二汁五菜の盛菜を極め、昼餐と晩餐に
は御酒さえ添えられ、お八ッには結構なお菓子が出る。夜は夜とてその徒然を思い遣
られ、薬酒と名づけて、またまた御酒を下される。上戸の喜び如何であったろう。時は
真冬から春寒にわたる。金網を掛けたいくつかの火鉢と錠前付の炬燵(こたつ)が、上
室と下室に据え着けられた。夜の物にも心を用い、広間のことなればとて、銘々の枕許
には衝立まで立てられる。この間僅かに一つ欠けた物は、掟(おきて)をはばかって、
小刀を許さなかったばかりである。
二六二
同
歓待と謙譲
細川侯は家臣のうちにも名誉ある十九人を選び、それぞれ分担して義徒の接待を命
じた。
三宅藤兵衛 明智左馬之助光春の後裔
鎌田軍之助
平野九郎右衛門 平野権平長泰の支流
横山五郎太夫
堀内平八
向坂平兵衛
堀内伝右衛門 重勝
林 兵助
村井源兵衛
八木市太夫
吉弘嘉左衛門 大友の勇将吉弘喜兵衛の子孫
長瀬助之進
坂崎忠左衛門 宇喜多の重臣坂崎出羽守の子孫
宮村団之進
松野亀右衛門 豊後の大友義統の血統
藤崎作右衛門
堀尾万右衛門 堀尾帯刀吉春の子孫
中瀬助五郎豊長
堀 七郎兵衛
中でも中瀬助五郎は、十余歳にして父の讐を復した侍であった。そしてこれらの
人々は皆無刀となって、一党の起き臥しする二間に出入りする。この他になお許多の
小坊主なども給仕にあたった。尊敬は実に頂点に達していた。のみならず以上の諸士
は主命以外に、個々にも心を尽し、茶受けを寄せる人もあれば、煙草を贈る人もある。
いかにもして一党の無聊を慰めようとして、誰は「平家物語」、彼は「太平記」また某は
「三国志」などの書物を持ち寄った。すると老人らはまた眼鏡を欲しがる。さらば眼鏡を
と用立てる。元老室では吉田、原、壮年室では磯貝などは、朝夕これらの読書にふけ
った。
これら公私の接待については、接伴係の間で時に議論を起した。現にその一人で、
もっとも一党と親しんだ堀内伝右衛門の発議で衝立を多く取り出し、一党の夜の枕許
に立て回すこととなった時、用心深い係の一人は「鄭重にもほどがある。小屏風を立て
回しては、裏の人数を見ることが出来ない。要らないことをしたものよ」と呟(つぶや)い
た。すると伝右衛門は腹を立て「あの衆のことである。その寝姿が見ないとて、何の気
遣いがあろうぞ。言われる人こそ、要らざることを……」とやり返したので、その人もつい
に閉口した。
* * * * *
あちらの歓待はこのとおりであるが、こちらの謙遜もまた尋常でない。最初一党がお
預けとなった当夜から、日々水風呂を沸かして、しかも一人一人に沸かし代えては入
浴させた。一党はこれを見て、しきりに辞退したが、主人方では、「決してご遠慮には
及ばない」と承知しない。すると機敏な富森助右衛門は一計を案じ出し「一人一人に
湯を代えては、却って迷惑いたします。実は多勢で混み入った湯の方が、湯加減が練
れて和(やわら)かになりますので、体によろしうござる」と申し出た。それで一党の心を
汲み、その後は二、三人ごとに汲み代えることになった。
* * * * *
また一党の面々が便所に行くたびに、接伴の小姓がそのあとにつき、手杓を取って
その人の手に水をかけた。それで一党はそのつど片手を衝いては礼をする。したがっ
て「手洗いの水を給わるのも勿体ない。どうかご免をこうむりたい」と願い出た。これを
聴いて主人方でも、余りに拘わるのも窮屈であろうと、それからはついて立たないこと
にした。
瑣事ではあるが、これらの間に当時の美しい士風が見える。
二六三
討入り覚書
原惣右衛門の手記
細川邸にお預けとなった翌晩、原惣右衛門は「覚」と題して、次の一書を作った。そ
の内容は、これまで述べて来た事実と同じだが、証拠として全文をここに掲げよう。
覚
一 十二月十四日の夜、総人数四十六人本所へ集まり、堀部安兵衛、杉野十平次
の借宅で仕度し、寅(とら)の上刻吉良上野介殿の屋敷へ向かった。屋敷脇で二
手に分かれ、表門では梯子(はしご)を掛け、屋根を乗り越えて入った。裏門は大
槌で打ち破り押し入った。表の玄関、隠居の玄関を打ち破り、出合った者は突き
伏せ、あるいは討捨て、上野介殿の寝間へ乱れ入ったところ、上野介殿はどこか
へ隠れたあとだった。表裏より押し入った者ども、家の内戸、はめを打ち破り、残
るところなく探した。番人そのほか近習勝手回りの付属の者と見える者などと出合
った者はおおかた討ち捨てた。その内には手負い半死の者もあったかもしれない。
台所辺にては雑人もいた。しかし敵対して勝負する者はほんの三、四人ばかり、
残りの者は立ち合いもしなかったので、通り合せに打ち捨て、雑人とたしかに見え
る者は、形のとおり捨てて、逃げ失せ次第にした。表門裏門から押し入った時、番
人のうち出合った者二人を討ち捨てた。番人の内で立ち合わない者は助けてお
いた。表門裏門ともに二、三人で固め、屋敷の内まわりをひたと声をかけて、出合
う者あるかと心懸けたが、長屋の侍どもは出てこない。ようやく二、三人出てきたの
で突き留めたと覚えたが、その者どもも未明のこととて上野介の生死は知らない。
家内隈なく尋ね探したが見つからなかった。そのとき勝手の内、炭部屋とみえると
ころに戸が閉まっており、探し残りの所を見つけて、戸を打ち破ったところ、内に
人が二、三人いるようであった。内よりむさとした物を投げてきたので、それを防ぎ、
きびしくせり詰めた。二人が二度ほど切り出てきたので応戦し、討ち留めた。残り
の者を間十次郎が槍で一突きしたところ、脇差を抜きあわせてきた。これが年来
の上野介殿であるかと心付き、その装束を見ると、下着は白小袖であった。しから
ば顔の内、身の内に古疵があるかとしらべたところ、顔の疵は当坐の疵ともみえ
不分明であったが、背の疵は確かにあったので、首を十次郎に揚げさせて、白小
袖につつみ、表門の内へ出、その前案内として捕えておいた表門の番足軽に見
せたところ、紛れなき上野介殿のしるしと答えた。これを討ち留める時、懐中に守
り袋があり、これも証拠にとその場所にあった物など取り添え、持参した。右の後
いよいよ出会う者は一人もなく、長屋の前にて上野介殿を討ち留めたと、声をた
てて触れまわったが、誰も出てくる者がなかった。上野介を討ち留めた上は、ほか
に存念なく、裏門の内へ総員を呼び集め、名前書の帳面どおり人別に呼び出し
た。死者はなく、討ち入った人数は全員集まり、裏門より退出した。人数の内、深
手を負った者は一人もなかった。かす手を負った者が一、二人あったのみである。
一 私どもが立上った趣旨を述べた口上書一通を持参した。始め本門より乗り入れた
者が、玄関前へ立てて置いた。これが早速検分されるように、全員の名前も載せ
た。
一 引き払った時、まだすっきり夜が明けはなれていなかった。かねての存念、本意
を遂げたので、上野介殿のしるしは泉岳寺へ持参し、亡君の墳墓に手向ける覚
悟であったが、距離も遠く、途中で襲われることもあるので、思ったとおりに到着で
きるかわからない。まず近所の無縁寺まで行き、その時次第で対応しようと申し合
せてあった。しかし無縁寺へ行ったところ、まだ門を開けず、再度申し入れたが門
内へは入れないと、門番に断られた。しばらく門前に待機していたが、邪魔する
者もないようなので、泉岳寺へ向った。道筋は、人通りの多い町筋は御礼日ゆえ
差し控え、御船蔵のうしろを通り、永代橋より、鉄砲洲へ出て、汐留橋筋、金杉より
芝をへて、泉岳寺へ行った。手疵を受けた者、怪我の者は御船蔵の先で駕籠を
雇った。そのほか老人も途中より駕籠に乗った。途中では上の検分がなかったの
で、経過を申し上げるため途中より吉田忠左衛門、富森助右衛門両人が、仙石
伯耆守様へ参上、お断り申し上げた。内蔵助がいくべきであったが、上野介殿の
しるしを持参していたので、両人が参上した。
一 泉岳寺に着き、ただちに亡君の墓前に参詣、上野介殿のしるしを手向け、焼香し
た。住持より出僧をもって、客間へ入るよう案内されたので、寺内へ入った。住持
は早速寺社奉行様へお断りにと外出され、帰寺の後対面した。寺より指示を仰い
だものか、終日馳走があった。
二六四
同
同
一 忠左衛門と助右衛門は、伯耆守様へ参上しご案内を願ったところ、ただちに聞
こうということになり、玄関へ召し寄せられた。伯耆守が早速出てこられて、様子を
お尋ねになったので、今暁の次第をあらまし申し上げ、かつまた委細は口上書に
認め上野介殿屋敷に立てたが、その控を懐中から取り出しご覧に入れた。守はと
くとご覧になり、種々質問の後、神妙の仕方と称美された。追って登城され、老中
様へ披露するといわれた。そのうち内玄関へ上るようにいわれた。休息せよとの御
意であった。井上万右衛門と申す侍に、今暁の次第をすべて語るようにと仰せら
れた。両人は覚えているとおりを申しあげ、物書衆が書き記した。話のなかばで書
付を受け取りなされ、ただちに登城されたようだ。追って御徒目付が出てこられ、
つづけてお尋ねがあった。両人はそのまま伯耆守邸に止めおかれた。
一 晩刻泉岳寺へ御徒目付の石川弥一右衛門殿、市野新八郎殿、小四郎殿(苗字
失念,松野様とも言ったか)、いずれも麻上下にて参られた。私どもを残らず呼び
出し、申し渡されたことは、仙石伯耆守様、鈴木弥五右衛門様、水野小左衛門様
の命により、追付け伯耆守様のお屋敷へ参れとの由。畏(かしこま)りましたと申し
たところ、請書を内蔵助が認めて差し出すようにとの命であった。伯耆守様に御屋
敷へ参上の儀畏りましたとの趣旨を記して渡した。その後住持へ頼み、右の御徒
目付に伺い、上野介殿のしるしをここへ持出した。これはどうしたらよいか聞いたと
ころ、それは差図し難い。もっとも伯耆守様には持参するな、ということで、住持へ
預けてはどうかと申された。そこで首級に守袋を添えて、住持へ渡しておいた。戌
(いぬ)の上刻に寺を出て、伯耆守様へ移った。いずれも着用の衣服を改めようも
ないので、お断り申し、今日の装束のまま、武具もそのまま持参した。道筋は高輪
より、三田通り、西ノ久保へ出た。町では警固の様子が見えた。お屋敷方も門前
に提灯、出張番などが少々見えた。伯耆守様の玄関では御徒歩目付が兵具、懐
中の物などを改め受け取った。槍、長刀などは門前に置いて好いか尋ねたところ、
持参したのはもっともであり、請け取っておくとのことであった。いずれも玄関の上
ノ間へあがり、御徒目付の命で姓名を書き付け、その身の年令ならびに直参の親
類従弟までの者があれば書き付け、また亡主の家の勤役、今暁の手負い怪我の
者を調べ、書き留めおかれた。
一 その後この十七人の者を、三人の前に召し出し、伯耆守様が言われたのは、皆
どもは細川越中守様へ御預けになるので心得よ。各々の家来衆が同道すると言
い渡された。その上内蔵助を傍近く召し寄せ、このたび本意を遂げた次第、おち
ついた仕方、残る所なく思し召すと称讃された。次に今暁の次第のあらまし、かつ
また泉岳寺への道筋などお尋ねになった。その次第を請けて、内蔵助から返答
申しあげた。内蔵助が申しおとしたことは、外の者も申しあげた。そのほかにも、各
人にかれこれとお尋ねがあった。その後仰せられたことは、このお尋ねは、公式の
訊問ではないので、自由に話したらよいとのことであった。泉岳寺へ向う時、駕籠
に乗った者もあったようだが、手負い、けが人はどれほどあったかも聞かれた。ま
た上野介宅で火をともして探した時、家人を召し取り、案内させ、蝋燭を取りださ
せて明るくしたことは、沈着な行いであったと、三人から褒められた。その上、越中
守邸へ参上の折、駕籠で行くようにいわれた。道筋に問題は無いが、老人、手負
い、けが人もあり、かつまた受取りに参られた衆の警固のために使うから、乗り捨
てても良いと言われた。
細川越中守様へ十七人(姓名省略)
追って十五日暁、上野介殿北隣の土屋主税様御屋敷との境目に、家来衆が高提
灯を出し、警固する体に見えたので、垣越に当方の意趣を断り申しておいた。そ
の後上野介殿のしるしを取って引き退く時、ただいま本望を遂げ引き取る旨を、断
り申した。この件は主税様より報告があったと、仙石伯耆守様は納得された。
一 私どもほか二十九人は、松平隠岐守様、毛利甲斐守様、水野監物様へお預けと、
追って知らされた。一同の覚えていることは他にもあると思うが、一か所に集まっ
て記したものではないので、吟味してはいない。この書付も大概のところを記した
もので、全員が寄り集って、人別に勝負の結果まで吟味したものではない。一読
されるときは、この点ご了解いただきたい。
松平隠岐守様ヘ十人(姓名省略)
毛利甲斐守様へ十人(姓名省略)
水野監物様へ 九人(姓名省略)
追って、間十次郎と武林唯七の働きは、主目的のことだから、名前まで出した。
かねての申し合わせにしたがって、討ち入りした以上、上野介殿を討った者も、門、
戸びらを押えて警固した者も、功績に軽重はないと申し合せていたので、誰の働
きも同じではあるが、上野介殿の首に紛れはないというために、この両人の名を書
き出した。二人の働きより大いに働いた者は、不破数右衛門である。勝負した相手
も難敵で、数右衛門は数か所切り付けられたが、着込みの上に受けたので傷はな
かった。しかし小手、着物はことごとく切り裂かれ、刃身は皆無のようになった。四、
五人も切りとめたであろう。そのほか少々手合する者もあったが、少しばかりの太
刀合までであった。以上。
これは一つには知友に寄せ、二つには人の問いに答えるために記したものである。
後世の義士伝の偽作者という偽作者は、これを読めば面色ないであろう。
二六五
細川邸における内蔵助
大石内蔵助はさすがに棟梁の器を具え、悠揚として余りに物に拘わらないところが
あった。彼ら十七人が細川家にお預けとなった翌日であった。衣服こそ侯家からの恩
賜によって改めたが、頭髪などはいずれも一昨夜来の戦闘のままでいた。一党は皆謹
慎して控えていたところに、内蔵助はいかにも無意に「どうか拙者の髪を結わせて下さ
れたい」と申し出た。「お易い御用」と早速接伴係は結い直してやった。それで心づい
て係の者はその他の者にも勧めたが、一党は固辞して容易に依頼しない。それから数
日立つうちに内蔵助の態度を真似て、ぼつぼつ申し出るようになった。
* * * * *
内蔵助はある日接伴係に向い、
「拙者らの今般の一挙については、定めて方々の批判もあることと存ずる。実はここ
に列席の者はおおむね小身者ばかりで、当初には奥野将監などと申す者が、何か
と共に相談し、赤穂においては両人の名前にて、御目付衆に書面をも差し上げ、そ
の後両人宛の御書さえ下され、打ち連れて当地へお礼に参上したほどだから、御
老中方にまで名を知られたものでござる。その他進藤源四郎、河村伝兵衛、小山源
五左衛門などと申す者も、ここにいる原惣右衛門より上席であり、佐々小左衛門と申
す者も、この吉田忠左衛門より上位にいたが、一挙が近づいて皆料簡を変え申した。
そのうちには拙者の親族さえ交っており、まことにお恥かしい次第である。」
と憮然とした思いを洩らした。
* * * * *
彼の気風からいえば、むしろ平民主義であるにもかかわらず、そのうちに心底から発
する威厳を備えていた。これを証する一事がある。上の間、下の間と分れたうち、下の
間は壮年室だけに、何時も陽気である。ある日堀内伝右衛門が当直で、下の間の方
は例によって盛んに話が起った。上の間にいた吉田忠左衛門はこれを聞きつけ、
「伝右衛門殿には何時も若い者とばかり話が合うと見えますナ。こちらにもちとお入
りを願いとう存じます」
と言いながら這入って来た。
「いや左様ではござらぬ。ただいまそちらへ伺おうとする途中で止められたところで
ござる」
と答えれば、
「何、今のは冗談でござる。全体内蔵助は我らがみだりにこの間へ立ち入るのを好
まれないが、貴殿のお話とあれば、内蔵助自身ここに参られもするから、このままお
話下されたい。お蔭で気も晴ればれいたす」
と微笑した。
吉田の老功をもってしても、なおかつ大石の手前を憚ったのだ。彼の威厳と斤量は
これによっても想い見ることができる。
* * * * *
内蔵助は年配にも似ず、ことのほか寒がりであった。それで彼は枕につく時分、四辺
の寝静まるのを待ち、茶縮緬のくくり頭巾を取り出してそっとかぶり、そのまま寝た。ま
た非常に寒い晩には炬燵蒲団を引っ被って寝ることもあった。これによって想い当る
のは、彼が前年の十一月出府して瑶泉院殿の許を伺った時、未亡人が特に縮緬の頭
巾を贈られた一事である。彼がここにお預けの際まで所持していたのは、恐らくこの頭
巾であったろう。けだし当時太夫と未亡人が会見の日、賢明な未亡人は言わず語らず
の間に「おん身は寒がりのことゆえに、これを被って幸いに自愛し、機会の到来を待ち、
ご雪辱の一挙を深く深く頼み入る」との意を寓せられ、太夫もまたこれを黙契し、つい
にここまで携えたのであろう。
* * * * *
一挙の成功までに、彼の苦心は常人の思うところでなかった。いまや彼は大責任を
果ししたので楽々とした。それは彼が泉岳寺に引き上げた朝「あら楽し思いは晴るる身
は棄つる、うきよの月にかかる雲なし」と詠んだのでも知れる。したがって彼は細川邸に
お預けとなってからは一層洒々落々であった。ある晩彼は例の薬酒で晩酌をやりなが
ら、給仕の小坊主に向い「自分もそのうちにお目出たくなるよ。その時にはお精進をし
て、その上南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と回向を頼むよ」と言いながらからからと大笑
した。小坊主は打つ伏してこれを聴いていたが、目には一杯涙を湛えていた。ああ、
内蔵助の死を見ることはこのとおり間違いないであろう。それを何処かの斉東野人が
「内蔵助は切腹の場に臨んだ態度はとても見にくいものだったげな」などという。馬鹿
に付ける薬がないとは、こんな奴をいうのであろう。
二六六
細川邸における義徒
その淡泊さ 越中守の誠意
細川邸での饗応は実に見事であった。二汁五菜のご馳走が取り代え引き代え出て
来るので、一党は余りの濃味に厭きを生じ、折々この意を接伴係に遠回しに言ってみ
たが、御預り人大事と思うので、誰もそれを取りついでくれない。一党は大いに飽きて
「この上は太夫の力を借り、太夫の口から申し出てもらうほかあるまい」と相談して、内
蔵助に申し出た。すると内蔵助は「自分も実は同様である。よしよし早速言ってみよう」
と承諾して待つところに、例の堀内伝右衛門が出てきた。内蔵助はフフフと微笑しなが
ら、
「伝右衛門殿には好いところにお出なされた。この間から皆の者どもがたびたび申し
出ましたとおり、実は我々同志一党は、長い間の浪人暮らしのために、これまでまず
い物のみを食べていたのでござる。しかるに貴邸にお預けとなって以来、日々結構
な料理のみを頂戴(ちょうだい)しているので、いずれも大滞(もた)れの気味で閉口
しております。ちと昔の玄米飯に塩鰯が恋しうなっております。どうか今少し雑な物を
戴けますよう、お取り計らい下されまいか」
と申し出た。当世風の侍なら、伝右衛門「いや、御辞退には及びません」などと言うとこ
ろであるが、彼も一箇の素朴な古武士である。内蔵助の話を聞いて、
「いかにもごもっとも千万の申し出、拙者も当直の節お相伴いたし、仰せのとおり滞
(もた)れ気味でござる。早速この件は善処しましょう」
と答えながら、
「しかし汁数菜数ともに主人の指図ですから、その数を減らす訳にはなりません」
と言えば、日頃から懇意の壮年連はその側から、
「それなら数はただいま頂戴のままとし、ちと糠(ぬか)味噌汁などの類は戴けません
か」
と臆面もなく注文した。それで伝右衛門は早速このことを料理人の方に申し込んでみ
たが、例によって下僚の常、
「これはお上からの申付けですので、粗末にすることは相なりません」
と承知しない。とうとう一党の連中のご馳走の重食いは、あの世までもたれ込んだ。
* * * * *
全体にかようなご馳走であるにも関わらず、お預けとなった第四日目、この月の十八
日のことであった。「今日は主人が少々思い寄ることがあって、精進をされますから、御
一同にも精進料理を差し上げます」とのことであった。これは越中守自から潔斎(けっ
さい)して、一党が助命になるようにと、神明に祈願を込めたので、その誠意が貫徹す
るようにと、一党も菜食となったのであった。主君がそうであれば、家中は黙止できない。
堀内伝右衛門などは、祭日ごとに愛宕の社に参詣して、これまた一党の助命祈願に
丹誠をこらした。これを漏れ聞いて、一党はひたすら感泣の涙に暮れた。
越中守の心情は、これほどの忠義の士、できれば一命を救いたい。万一助命の恩
典が出たなら、十七人ともに厚禄をもって家中に抱え入れたいとの希望であった。これ
によっても当時の細川家がいかに名節を尊んだかが察せられる。
二六七
同
富森助右衛門、堀部弥兵術、潮田叉之丞、間喜兵衛
細川邸へお預けの中で、才気、弁説が起臥談笑の間に見えるのは、上の間で吉田
忠左衛門、下の間で富森助右衛門であった。したがって両人の行状は比較的に多く
伝わった。
ある晩のことであった。助右衛門は傍の衝立小屏風にある親鶏が雛を育ている絵を
熟々(つくづく)見ながら、接伴の士に向って、
「一家のこと、一身のことなどは、疾(と)っくに断念しながら、ただいま屏風の画を拝
見すれば、我知らず当年二歳になる伜のことを思い出し、何やら不憫(ふびん)の情
がする。凡夫の浅ましさ、我ながら口惜しく心外に存ずる」
と言い出した。「旅人の宿りせん野に霜ふらば、我が児羽ぐくめ天の田鶴むら」と古人
は歌った。ただこの温い愛情があってこそ、その後君に忠となり、また国に報ずるので
ある。
* * * * *
堀部弥兵衛は高齢だけに、大概のことはものういという様子で、多くは物語を読むか、
昼寝をして日を過ごしたが、時々夜半に夢を見て「えい! えい!」とうめき声を発して、
傍の人々の夢を驚かせた。些細(ささい)なことと笑う者は笑え。ナポレオンがセント・ヘ
レナの孤島で危篤に陥った時、なお夢中にオーステルリッツの血戦を夢み「マッセナ
進め!」と大声に号令していたではないか。「老体地に伏すも、志は千里にあり。烈士
の暮年、壮心止まず」 弥兵衛老人においてまたこれを見ると、私は言いたい。
* * * * *
潮田又之丞は夢の中で歯軋(ぎし)りをする癖がある。ややもすると夜半にギリギリと
音をさせるので、同志や接伴係からしばしば揺り起された。すると叉之丞「皆様のご迷
惑は誠にお気の毒ですが、折角熟睡したところを揺り起されるのも、また少々閉口でご
ざる」とは、何という淡泊さよ。
* * * * *
資性謹厚(きんこう)にして、いつ見ても沈黙していたのは、間喜兵衛老人であった。
一日例の堀内伝右衛門が上の間を訪(おと)なうと、下の間から壮年の人々も集って、
「ご覧なされ、喜兵衛老人ほど律義な仁が世間にあろうか。いつの時でも話もせず、
人の後ろにばかり引っ込んで、あのとおりにしておられる」
と笑い興ずれば、伝右衛門は引き取って、
「いかにも左様でござりましょう。その律義さが今般の御一挙に顕われたのではござり
ませんか」
といえば、
「それはまたどういう訳で」
と問い反す。伝右衛門重ねて、
「このたびの御一挙、方々の忠義に優(まさ)り劣りのあろうはずはないが、上野介殿
の首級を、十次郎殿の手で挙げられたのは、武士の冥加にかなった事と存じまする。
これと申すのもご老人の平生の律義の致すところ、ご老人にはさぞさぞ満足でござり
ましょう」
と称揚した。いずれも聞いて、
「さよう、さよう、いかにも仰せのとおりでござる」
と言いながら、老人は何と答えるかと、その面を見れば、ただ莞爾(にこっ)として一語
も発せず、伝右衛門に向い、丁寧に一礼したばかりであった。いよいよ出でて、いよい
よ謹厚な人は、恐らくこの老人であったろう。
二六八
同
寺井玄渓に与える書 大石、原、富森の歌と句
十二月二十四日大石、原、小野寺の三士は連名で、次の一書を京都にある寺井
玄渓へ寄せた。
一筆啓上。かねて我々思い立ったとおり、今月十四日の夜、同志揃って吉良上野
介殿の屋敷へ押し入り、屋敷に居合せた家来中出合いの者を、薙(な)で切りに
討ち捨て、本意のとおり上野介殿を討ち取り、印を泉岳寺へ持参、亡君の御影前
に供え、去春以来の鬱憤を散じたこと、大慶お察し下さい。貴殿にもご満足と存じ
ます。定めて事件の経過はほぼお聞き及びと推察いたします。玄達老も上京し報
告されるとは思いますが、討ち入りの様子は、玄達老も委細お聞き届けではあるま
いと思われますので、あらましの義と心、書き付けて進じます。一同お預けになり、
ここ暫くの余命と存じます。生涯覚えのないほどの、他にも聞いたことのないような
ご馳走ども、誠にもって冥加至極、筆紙に尽し難い仕合せです。追付け罪の科(と
が)を言い渡されるものと待っております。これまでのところ武運にかない、本望こ
の上ありません。以上御意を得るため、余命ある内にこのとおり認めおきます。恐
惶謹言。
十二月二十四日
小野寺十内
原惣右衛門
華押
華押
大石内蔵助
華押
寺井玄渓様 人々御中
追伸、この書付の内容は、同志の内で、お仕置の後残る者があれば、聞かせてや
ってください。播州亀山、赤穂にいる者には、和田喜六より伝えるよう喜六に言っ
てやってください。また寺坂吉右衛門は、十四日の晩までここにいたが、お預け
の屋敷へは来ていない。軽い者ゆえ是非もないことです。以上。
追って一札のこと、相違なく、時節をもってあみ立て、所広く希うほかない。そのた
めにこの書付を送った次第であります。以上。
また、この状をそれぞれに届けると、その筋より疑惑を受けることもあるので、面々
に注意するよう仰せつけてください。以上。
ここに「一札のこと相違なく、時節をもってあみ立てを希う」とあるその一札とは、前に
原惣右衛門が手記した「討入り覚書」である。これを本書と共に玄溪に贈り後日一挙の
顛末を記述する時の資料に供するということで、あみ立てとはその編述をいうのである。
最後にその筋の疑惑云々と記したのは、これらの書信は例の堀内伝右衛門の好意
により、その手から届けられたので、内蔵助は累をこの人に及ぼすまいと注意したので
あった。それで後日伝右衛門が西下したとき、玄渓の許に立ち寄って、この書を読み、
深くその用意に感激して、このことを子孫にまで言い残した。
* * * * *
この年の歴史もようやく尽きて、巻末に近づいた。今日は立春と人々が言うのを聞き、
原惣右衛門は筆を把って、
思いきや今朝立つ春に存(ながら)えて、羊の歩みなお待たんとは
と詠んだ。来たる元禄十六年は癸未(みずのとひつじ)である。それで羊の歩みという
のである。彼の心情にはさこそ想われたのであろう。
* * * * *
それも昨日、一昨日(おとつい)と送って、ここにこの年の除夜となった。大石内蔵助
の心琴は歳暮の感に払われた。内蔵助は天を仰ぎ
ながらえて花を待つべき身ならねど、なお惜しまるる年の暮かな
と唱い出た。心意は悠々。感慨は浩々。一点の苦悶の状もない。
附言 「義人遺草」などは「身ならねば」と作るが、「ば」では意義をなさない。ついで
ながら一言しておく。
* * * * *
こうして元禄十六年の正月元且は来た。お預け詮議中の身分とはいえ、儀式の物は
一党にも出される。富森助右衛門は三杯の屠蘇に陶然として、平生の詩想が心頭を
打った。
今日も春恥かしからぬ寝武士かな
と吟(ぎん)じた。既に仁をなし、また義を取る。冴えわたる心胸は、春の光を浴びて満
足この上ない。諧謔を交えて、所懐を吐露したところに、春帆の面目は躍如としている。
二六九
同
天野五右衛門の感賞 内蔵助の謙辞 細川家士の誠意
上野介に烏帽子を取り出させて、狸老爺に向い「これが本当の烏帽子親だ」とから
かって、侮辱した旗本の英物、天野弥五右衛門は、一日細川邸を訪れ、越中守の許
しを得て、一党を見舞った。彼は内蔵助に会い崇敬の念で、
「世間には随分勇士の聞えある者も少なくない。しかし多くは客気の勇である。貴殿
の今回の一挙は、いかにも落ち着いた働きで、少しも軽躁なところがない。沈勇の
人でなければ、なかなかかようには参らぬもの、ただ感服のほかない」
と激賞した。
* * * * *
越中守の世継ぎである内記吉利(よしとし)もまた一日一党の居室を訪れ、種々懇篤
な慰問を加えた。翌日、接伴係の堀内伝右衛門が当番となり、居室に宿直すると、内
蔵助は、
「昨日は吉利公が特においで下され、重ね重ねあり難い仕合せに存じます」
と、手を衝(つ)いて丁寧に挨拶した。普通の者ならば「お目見え仰せ付けられ」などと
いうところを、どこまでも自身を罪囚の地位に置き、「おいで下され」とはいかにも神妙、
一言一句もおろそかにしないのは感嘆のほかない、と藩士は讃賞した。「かの人もの
言わず。言えば必ず中(あた)ることあり」。
* * * * *
彼のような忠烈の士を死なせたくないのは、一般の人情。民間はもちろん、幕廷にも
なかなか赦免論者が多い。それで四十六人に限り、特典によって赦免になるそうなと
の風評がしきりに流行する。お預りの四家もこれに動かされた。なかでも細川家の上下
は特に勇み立った。ある日家老の三宅藤兵衛を初めとし、要職の人々は政務所に集
まった。藤兵衛は面々に向い、
「一党の衆、幸いに赦免となれば、いずれも両刀に多少の損じがあるから、全員に大
小刀を下されるかもしれない。現に他の御三家でも内々御用意があるやに聞く。今
からそろそろ刀屋どもに申し付け、金二、三枚ぐらいの標準の物を取り寄せておくよ
うに」
と内示した。その時御聞番(おききばん)で接伴係の一人である堀内平八が進み出で、
「仰せではありますが、その議は如何でござろうか。ほかの御三家は小身(しょうしん)
のことゆえ、それでよろしかろうが、大身(たいしん)の当家が十七振ずつぐらいの大
小刀の備えがなくて、にわかに買入れたと評判になっては、お家の面目に関わると
存じます。小分ながらこの平八、同苗の五郎兵衛、伝右衛門および弟の氏家平古
から差替を提出しても、四人分はあります。ことに伝右衛門などは日頃から道具好
きで、相応の物を所持するので、各々方にも一振ずつ差しあげれば、左様なことを
なされずとも、立ちどころに調いましょう」
と提議した。
「それもごもっとも、なおよく詮議を遂げた上で」
ということになった。やがて平八はこのことを挙げて伝右衛門に語れば、
「良いところに気が付いた。幸い拙者は正利の刀をこの頃入念に拵えあげところでご
ざる。あれなら内蔵助の差料にされても、恥ずかしくはあるまい。何時でもご用に立
てましょう」
と承諾した。一方には君家の名誉を思い、他方には義士への寄贈を喜び、自家の什
宝を割愛しようと進み立つ。武士の神髄はここにある。惜しいかなこれらの義心も、一朝
義徒の刑死に会して、ついに実現しなかった。
二七〇
久松家の待遇
同家からの伺いと指令
細川家の歓待と同家お預けの義徒十七人の実況は、このとおりである。これから久
松家と同家お預けの義徒十人の待遇を一顧しよう。
久松家ではお預けの命を受けると、愛宕下の上邸の長屋十戸を開けて、一党の居
間に充てた。大切なお預け人とて、各人各個に隔離して分置することとし、一戸一人ご
とに馬廻ないし大小姓格の上士四人、持筒二人、足軽四人、中間二人、都合十二人
を二組に分け、これを接伴係として、六人が隔日に交代して、接伴させることとした。そ
の日の夜半に、同家の受取り勢二百余人は十挺の駕籠を護衛して、本邸に帰って来
た。時に太守隠岐守定直朝臣は病気と称して引籠り中であったから、即夜一党を召見
(しょうけん)することは、公儀に対してできないことである。しかし細川越中守と同様、
隠岐守もまた義徒に同情を寄せたので、居間に端坐して、今か今かと到着を待ち受け
た。それで今しも到着と聞くや否や、自身玄関まで出て、一党が長屋に入るまで見送
られたが、ただちに家老の遠山三郎右衛門、服部源左衛門に申し付け、一党をねぎら
わせた。
すぐに湯は沸(た)つ。衣服は取り換えられる。ここでも二汁五菜の料理が出る。即時
に各人銘々のために支給されたのは、
小袖 三枚 上帯 一筋
下帯 一筋 夜着 一枚 蒲団 二枚
枕緞子 一個 白浄衣 二枚 風呂敷一枚 手拭 二筋
であった。そして料理はその後もこの格を追い、夕食だけは一汁三菜を充てた。午前と
午後には薄茶または煎茶にお菓子が添って出た。が、小藩は小藩だけに細心である。
即夜接待上の細目を箇条書にして次のように老中まで伺い出た。
浅野内匠頭家来お預けについての伺い書
一 お預け者十人、今夜は屋敷内長屋囲いに一人ずつ差しおく。もっとも番人をそ
れぞれに付けおく。明日は三田屋敷へ移す。
一 もし気分の悪い者が出たとき、軽体であれば手医者の薬を用いる。
一 上帯、下帯、常の通り支給する。
一 櫛道具、毛ぬき、はさみ、扇子を望むときはどうするか。
一 楊枝を望むとき、渡してよいか。箸は短くするのがよいか。
一 硯、紙等望むとき、渡してよいか。
一 行水を望むとき、どうしたらよいか。
一 自然火事などの節は、下屋敷へ移してよいか。
十二月十五日
松平隠岐守
というのであった。老中はこれを見て、さても事々しい伺書と感じたらしい。翌日用人を
呼び出し、ロ頭で、
「内匠頭家来の者は長く御預けになる訳でもなく、その上彼らは公儀に対し、悪事
を働いたのでもないから、心づき次第よく取り扱うように」
と申し達し、伺書はそのまま下げられた。それで久松家では始めて安心し、以上の品
はもちろん、その翌日からは火鉢を銘々の居間に据え付けることにした。
二七一
同
隠岐守の会見遅れ
さて久松家では、いったん一党を上邸に入れたが、ここでは万一火災などの際に、
いかにも不用心というので、お預けの翌十六日に三田の中邸に移した。移動時の護衛
はと見れば、例の波賀清太夫が足軽二十人を率(ひき)い、先発として先ず中邸を固
める。次に士分二十人が前衛となり、次に駕籠一挺ごとに馬上の士二騎、歩行二人、
足軽十人が護衛した。最後に家老遠山三郎右衛門が一隊を率い、後衛として途上を
打たせた。到着後ここでも昨夜来準備させた長屋十戸に別々に収容した。
このことはやがて幕廷に聞えた。幕廷の当路者は、これでは一党がいかにも窮屈に、
いかにも退屈であろうと推察し、御目付をもって「一党を二組に分ち、各五人ずつをそ
れぞれ二間に同居させるように」と訓令した。前の指令といい、今またこの訓令といい、
時の当路者が一党に対し、いかに同情を寄せていたかが伺われる。
鶴の一声に同家は早速用意を整え、同月二十五日から一党を一番二番の二長屋に
集めた。一番の長屋には、
大石主税 堀部安兵衛 中村勘助 貝賀弥左衛門 不破数右衛門
二番の長屋には、
岡野金右衛門 大高源五 菅谷半之丞 千馬三郎兵衛 本村岡右衛門
を入れた。このたびは、前と同格の上士二十四人を接伴係とし、これに持筒二十四人、
先筒三十人、中間十二人を附し、都合九十人を二組に分け、警固の任までを兼ねさ
せて、交る交る詰めさせた。そして邸内には別に新たに二か所に番所を設け、番頭奥
平次郎左衛門、佃九兵衛を初めとし、物頭目付、徒歩目付などが昼夜に見廻り、それ
はそれは厳重に警戒した。
* * * * *
隠岐守は一党受取りの夜、一同に会わなかったのを、気にしていたところに、細川
越中守の振舞いなどを聞かれたのであろう。二十七日には家老遠山三郎右衛門、服
部源左右衛門を中邸に一党を見舞わせ「隠岐守が早速対面すべきところ、病気引籠
り中で出仕もしないでいたので、意に任せなかった。定めて万端不自由であろう」との
口上を伝達した。
* * * * *
追々快気に向かい、正月の御礼も近づいたので、幕府に全快届が出る。やがて元
禄十六年の正月となった。将軍家への御礼を済ました上は、早速会おうと、四日には
一党へさらに小袖を下賜され、翌五日には多くの侍を従えて中邸に出向いた。大書院
に入り、その中央の閾(しきい)内に着坐し、これより下がって、家老番頭以下が列を正
して伺候する。やがて一党は差し廻された服紗(ふくさ)小袖に麻の裃(かみしも)を着
用し、番頭の案内につれ、大石主税以下五人が先ず下の閾内に着坐する。家老服部
源左右衛門は一々その姓名を呼んだ。隠岐守は五人に向い、
「このたびの一挙、本望を達し、いずれも定めて満足であろう。心事のほど深く感じ入
る。図らずも当家に各々を預かることとなり、自分も本懐に思う。早速対面すべきとこ
ろ、不快のために登城もいたさず、それゆえ今日まで延引した。実は馳走の仕様もあ
るが、公儀に対して憚るところもあれば、とかく心底にもまかせない。しかし不自由の
ないようには申し付けておいた。何でも所望があれば、家来どもまで申し出るように」
と述べた。一党は家老の方に向い、
「ご懇命のほどあり難く存じます」
と一礼して引き下がる。代って木村岡右衛門以下の五人をも引見され、またまた同一
の懇命を寄せた。
* * * * *
隠岐守の同情もおさおさ越中守に譲らない。一日は一党の打物さては着込み、兜な
どを書院の前に陳列させて、仔細に展覧され、また万一今後お預け易え等の場合な
しとも限らないとて、別に衣服を新調させ、その節所持の金子がなくては不自由であろ
うとて、その用意まで命じた。
二七二
久松邸における主税
家によって、待遇に多少の厚薄はあれ、今回の一挙を快(かい)とし偉(い)とする人
情は、いずれも同一である。したがって家々の家臣らがお預かりの一党を大事にした
のも、また非常である。大石主税の一行が愛宕下の久松邸の長屋に着いた際であっ
た。人々はいずれも足を洗って、室に上りかけた。今しも護送して来た一人は、主税に
向い「サアおみ足を洗って進ぜましょう」と盥(たらい)をすえた。主税は一応辞退した
が、その人は聞かない。「ではお頼み申す」と両脚を伸べ、悠々と洗わせて、座敷へと
通った、思うにその足を洗ってやった男は、徒歩か、足軽か、身分の軽い者ではあっ
ただろうが、それにしても「お頼み申す」と両脚を突き出し、悠然としてそれを洗わせ、
悠揚として小節にこだわらない。これこそ大石家の家風と見える。
* * * * *
隠岐守が一党と会見した時であった。隠州は一同に対して会釈した後、同情を湛え
て主税に向い、
「そなたの母御はいかにされた」
と尋ねた。
「昨年以来里方に引き取り、但馬の豊岡におります」
と答えれば、
「さらば兄弟はあるかナ」
との再問に、
「弟が二人おります。が、いずれも母の許に参っております」
と言いさして、
「昨年京都を発足し、ご当地に参って以来、一図に復讐のみを存じ詰め、母のことな
どは、思い出す暇もなくておりましたが、ただいま懇切なご下問を蒙り、何やら懐か
しい気もいたします」
と言葉も曇って、うち湿(し)める。隠岐守を始め、満座の人々いずれもそぞろに暗涙を
催した。これから隠州は一層主税を不憫がり、何とかして助けてやりたいものと、心が
けるに至った。
* * * * *
あの討入り当夜、吉良家の玄関に一通を残した吉田忠左衛門は、翌朝さらに仙石伯
耆守に「浅野内匠頭家来口上書」一通を差し出した。領袖の各人はそれぞれ一通を
所持し、後日の用意をしておいたものと見え、久松邸にお預けとなった時、主税もまた
一通を懐中していた。
* * * * *
当時市中では、義徒の評判は実に盛んであった。なかでも主税について、「彼は
生年十五歳にして、身の丈六尺にも近い大兵の豪傑、討入りの当夜、大長刀を振って、
片っ端から薙ぎたてたその働き、昔の武蔵坊弁慶もこれには及ぶまいとのことよ」など
取り沙汰した。
義士贔屓(ひいき)の細川家の連中は、噂を聞いて来ては、一々これを内蔵助に報
告した。内蔵助の衷心の愉快は如何であったろう。
そのうち主税は暫く強い風邪にかかって臥した。久松家の侍医は隠岐守の意を受け、
注意して湯薬を勧めたので 間もなく平癒した。例の細川家の堀内平八、同伝右衛門
は早速これを聞き出し、内蔵助を喜ばせようと、そのことを注進すると、内蔵助は「毎度
のお気付け、かたじけのう存じます」と一礼したまま、その後を問おうともしなかった。
二七三
同
彼の警句
ある日接伴係の一人であったか、主税に向い、
「内匠頭殿の御家中もなかなか大勢であろうに、貴殿方四十余人の衆ばかり、御一
挙に出られたのは、どのような次第でござりますか」
と問うた。まことに無遠慮な問である。主税は多少ムッとしたであろうが、彼はさりげなく、
「いかにもかなり大勢おりましたが、お国ではどうか、私の国では、近ごろ俳諧が大流
行し、酒を好む者が次第に減り、誹諧を好む者が非常に増えました。そのためでも
ありましょうか」
と答えた。思うに、これは相手が文弱な高襟者(ハイカラ)流であったか何かで、こんな
奇答を与えたものであろうか。しかしその中に一種の妙味を含蓄する。私の老友小山
米峰は日に酒をあおり、口から出放題に出鱈目を吐(は)く裏に、往々他人の思い得な
い、また言い及ばないことを道破(どうは)する。これもその一つであるが、ある日酒間に
彼は天を仰ぎ「この頃は古池やの大流行で、子規などが神明視される。子規のお国は
愛媛であったろう。愛媛と高知は粟津ヶ原、木曾殿と背中合せの寒さかなじゃ。この頃
こそちとさびれたが、男性の高知は、あれでも、維新には大政奉還を唱え出す。明治と
なっても自由民権の張本となった。聞きたまえ……土佐は好い国、南を受けて、自由
嵐がそよそよと………ネー君、よさ来いよさ来いじゃないか。ところが女性の愛媛は、こ
れらの男仕事に劣敗した。その劣敗の声がつまり古池や蛙飛び込む水の音だよ。・・・・
しかしそれも善い、チッとやソッとはやるもよいが、一代の好漢、未来の大国民がこれに
浮身をやつしては、あたら東方の日出ずる国が、挙って女性に墜落してしまうぞ」と言
いながら、また盃を引き寄せた。この語、もって主税の奇答の註釈にあてるに足るかどう
か。
附言 隠岐守が一党を引見された際、主税は四人の後にあって、隠州から声がかか
っても、モジモジしておった。そして退出後に人に向い「自分は父の子というので、
今日も筆頭に呼び出されたが、その実自分は亡主の在世にまだ親しく奉公して
いない。多年亡主に忠勤を励んで来た人々の先に立つべきではない。それで遠
慮したのであった」と語ったというのが「赤穂実録」。
それから、お預け中に彼が病気した時、隠岐守から見舞として結構な盛餐(せい
さん)を下されると、彼は辞退して、どうしても箸を取らない。そのゆえを問われると
「父から申し付けられた訓戒があり、それに違背してはなりません。介錯の太刀が
もはや首の上にある今日、養生の沙汰でもござるまい。かつ余り美味を頂戴する
と、身体が肥満して、死体の上に醜(みにくう)ござる。よって辞退申す次第です」
といったというのが「江戸人話(えどじんわ)」。
これは義徒一般がお預けとなって以来、言い合せたように精進し、一切魚肉を口
にしなかったというのと同様、例の亜流作者の小刀細工に過ぎないから、私は取
らない。
二七四
毛利家および水野家の待遇
細川、久松両家の待遇とここに預けられた義徒の言行の概要は、以上のとおりであ
る。次に毛利甲斐守にお預けとなったのは、
岡島八十右衛門
吉田沢右衛門
武林唯七
倉橋伝介
村松喜兵衛
杉野十平次
勝田新左衛門 前原伊助
間 新六
小野寺幸右衛門
毛利家の家衆は当夜この十人を受け取り、麻布日ヶ窪(ひがくぼ)の上邸(かみやし
き)に入れた。この家は上下ともに俗物の集まりであったとみえ、後生大事にお預けの
一連を保監すれば、それでこの藩の能事は終ると心得、護送の途上も駕籠の戸に錠
を下し、おまけに青網までも掛けたということである。したがってお預け後もとかく囚人
の取扱いを離れず、一党を収容した長屋の往来に向いた方面の窓は、すべて板を打
ち付けて、外を見えないようにするなど、ただ厳重な上にも厳重に警固した。気速の武
林唯七などはさぞ心外に思ったであろう。
しかし幕廷の義徒に対する同情は感ずる。細川家などの厚い待遇は見聞する。さて
は趣意を取り違えたと、にわかに二汁五菜も出る。衣服その他の必要物を支給する。
にわかに接伴の方法を改め、甲斐守自身もまた始めて諸士に会見した。侠熱な江戸
っ児はこれにに反撥し、市中では事実以上に冷酷な取り扱いを非難した。
* * * * *
次に水野監物にお預けとなったのは、
間 十次郎
奥田貞右衛門 矢頭右衛門七 村松三太夫
間瀬孫九郎
茅野和助
神崎与五郎
横川勘平
三村次郎左衛門
の九人である。この水野家は小藩ながら、日頃から武備をもって聞えた家であっただ
け、お預けの命に接するや否や、他の三家に先だって、第一番に一家の人数を泉岳
寺へと馳せつけるなどは、太平の世にはなかなかの手際であった。が、惜しいかな変
通の道を知らない。それで一党引取りの途上でも、駕籠の戸を鎖(とざ)したので、世
上の物議をかもした。こうして一党を金地院前の中邸まで護送し、これも長屋に収容し
た。爾後この邸の侍は、ほとんど戦時同様に小具足に身を固め、いかにも厳重に内外
を警固した。
しかしながら君侯監物は一党を預ってから一週間を出ず、同月二十一日に間十次
郎以下九人を召して対面し、鄭重な慰籍を加えた。それで一党の一人神崎与五郎は
これを徳とし、一詩を賦して感懐を述べたが、その詩の引に「尊顔を拝し奉れば、御感
を蒙り、しばらく心を慰めた」といった。これによって同家の待遇が疎かでなかったこと
が察せられる。
要するに義徒の待遇は、細川家出格、第二久松家、第三水野家で、毛利家がにれ
につぐと聞えた。四家の家風もこれで分る。
二七五
小山田一閑、岡林杢之助の自刃
義徒に関係があって、一挙の後、節に死んだ者が二人ある。これに言及する必要
があろう。
その一人は小山田一閑と称する八十一歳の老人である。彼は初め十兵衛と称し、浅
野家に仕えて百石を食し、まことに律義な江戸詰めの侍であった。が、老年に及んで、
家督をその子庄左衛門に譲り、一閑と号して隠居した。一家の凶変となったので、一
旦町屋に退いたが、さすがは一閑、平生の教訓があるので、庄左衛門は義盟中の一
人となり、当初は熱心に復讐の議に参与していた。一閑はこれを見て心から喜び、そ
の身を娘の方に寄せて、僅かにその日を送りながらも、何時かは本望が成就するよう
にと祈っていた。折から一党の復讐の快挙は発し、その評判は八百八街に広まった。
誠忠な一閑はホクホクと打ち笑み、「さては亡君の鬱憤を散じたか。ヤレヤレ嬉しい。
伜も必ず一党の中にいるはずでござる」と、疑いもせず、人にも語った。すると一党の
人名録が読売りとなって、市中に散布される。一閑これを手に取って、打ち返し打ち返
し見たが、伜の名が見えない。いかなる訳ぞと疑い惑い、段々これを探って見れば、あ
るべきことか、同僚片岡源五右衛門の金品までも盗み、一挙に先だって早くもその姿
を隠したとのこと。彼は胸を打って痛恨し「この年までも生き永らえて、こんな恥辱に会
うことか」と、一間にジッと閉じ籠り、壁にその身を寄せ掛けながら、脇差を把って胸許
から後ろの壁まで突き貫き、そのままにしてこと切れていた。ああ庄左の陋劣(ろうれつ)
は悪(にく)みてもなお憎むべきである。一閑の義烈は永く四十六人とその誉れを同じ
くすべきである。
* * * * *
もう一人は岡林杢之助(もくのすけ)である。彼は幕府の旗本で小十人頭(こじゅうに
んがしら)として禄千石を食する松平孫左衛門の弟であった。つとに岡林家の養子とな
り、赤穂において千石を食し、番頭(ばんがしら)を勤めていた。番頭といえば、一方の
軍隊長、戦時には一方を担当して討って出る職務であるから、その地位は家老につぐ。
岡林家の禄高は、むしろ仕置家老の上にあった。そもそも浅野家の軍制として、番頭
は共に協議して、進退を共にし、単独随意の行動を許さなかった。これはいかにも美
法であって、戦国の時代には英物が多い。ややもすれば抜駆けの功名に夜討ち朝駆
けなどを試みたがる。そのため全軍の策応を誤る恐れがあるからである。ただしこれは
戦時の遺制で、太平の時代には時に変化を要するのである。とくに主家の興廃の際な
どにおいてをやだ。ところが杢之助は性質純良な上に、坊ちゃん育ちで、これらの理
義に不明であった。同列の腰抜け連はそこに付け込み、彼を籠城論に加担させなか
ったのである。それで彼は近藤源八らと行動を共にし「私は籠城の評議は至極もっとも
と思うが、番頭としては個人の随意の去就を許さない家法であるから、賛成できません」
と会釈して、俗論党とともに退去した。
その後一藩は解散したので、杢之助は江戸の実家に帰り、兄の許に寄食した。義徒
側からみても、彼を憎むほどではかったろうが、肉食の輩(やから)は共に議(はか)る
に足らずとして、その後の密議に加えようとはせず、結局は度外視したのである。それ
で彼は暗然として無意識に暮らしていた。すると今回の一挙は発した。「君父の讐は共
に天を戴かず」と公表して、四十七人は敵営を破り、目ざす上野介の首級を挙げた。
見れば大石内蔵助のほかは、皆自分より下格の士、中には五両三人扶持の徒横日
(かちよこめ)列まで混っている。「これは相済まない。このままではいられない。と深く
自分の放漫を悔み、十二月二十八日見事自裁して死んだ。当時の噂では親族が迫っ
て詰腹を切らせたとの説もあった。私はこの死が自裁であると詰腹であるとを問わず、
注目すべき一つの出来事であると思う。というのはかつて政事的責任のピラミッド論に
おいて論じたように、かの快挙の時代までは、君国のためには一命を棄てて報いなけ
ればならないという責任を、比較的上流の士が負った。つまり武士道はなお当時の中
流以上の侍の中に生きていた。岡林の自殺はもっともよくこれを証明する。それで私は
彼の自殺をもって、決して徒死ではないと称揚する。
二七六
上野介の首級(しるし)
吉良上野介の首級がどう処分されたか一言しよう。
一党が十五日の朝、上野介の首級を亡君の墓前に供えた後、全員が泉岳寺の書院
へ入った時であった。内蔵助は接伴僧に向い「上野介殿の首級、亡君の墓前に手向
け奉った以上は、もはや我々には、入用がない。と申して高貴の首級、おろそかなこと
も出来ない。御方丈にしばらく預って下さるよう願います」と申し入れた。寺僧は受け取
って、三宝にのせたまま本堂の仏前に置いた。夜に入って、幕府の御徒目付石川弥
一右衛門以下三人が来臨し、一党に対し、仙石邸へ移るようにと口達した。内蔵助は
これの受書を差し出しながら、住持を介して「ここまで持参した上野介殿の首級は如何
しましょうか」と伺わせた。これには目付も困ったとみえ「それはただいま指図し難い。し
かし仙石邸に持参するには及ぶまい。住持に相談して預けておかれたらよかろう」と答
え、かつその旨を住持にも含ませた。それで内蔵助は首と、同時に証拠のために取っ
て来た守袋を、寺に托して立ち去った。
さすがは慈悲を主とする仏門の習い、棄ててはおけないと、即夜この旨を寺社奉行
阿部飛騨守へさらに届け出、翌日首を駕籠に乗せ、石獅(せきし)、一呑(いちどん)の
両僧に守護させて、本庄の吉良邸に送り込んだ。これについては同邸でも昨日以来
大苦心の体、首のない遺骸を葬るも異なものであり、それかといって、おめおめいまさ
ら首級の返却を申込む面目もない。どうするか、こうするかと、青息斗息のところに、送
り付けられたので、ホッと一安堵した。が、こうなるとまたその上の面目を維持したいか
ら、臆病家老の左右田孫兵衛、斎藤宮内は使僧に面接し「たしかに受け取り申した」と
言い切り、そのまま追い返そうとする。しかし使僧は作日来一党の人々と気心を通じて
いたので、気分堂々である。「お首級をお渡しした以上は、受取書を頂戴いたさねば、
使僧の役が立ちません。それを頂戴した上引き取りましょう」と昂然として申し述べ、な
かなかその場を動こうとしない。臆病家老らは大いに閉口し、奥に入ってしばらく内議
をこらしたが、使僧の気炎は収まらないので、渋々次の一書を与えた。器量の悪さもま
たおびただしい。
覚(おぼえ)
一 首
一ツ
一 紙包
一ツ
右のとおり確かに請け取り申した。念のためかくのごとく記す。以上。
午十二月十六日
吉良左兵衛
左右田孫兵衛
斎藤宮内
泉岳寺御使僧
石獅 僧
一呑 僧
世に珍らしい受取証書であった。両僧がこれを携えて泉岳寺に帰った時は、第二の
義徒が入って来たかの面持であったろう。この書は今も同寺に保存されている。
二七七
上野介の法号
大石には懲り懲り 吉良四世の墳墓
十二月十九日吉良家の香花院(こうげいん)である牛込築土(つくど)の万昌院(諸
書には盤松院と作るがこれが正しい)に上野介を葬り、「霊性寺殿円山成公(えんざん
じょうこう)大居士」と法号をつけた。これが偶然にも上野介五世の祖である左兵衛佐
(すけ)義安(よしやす)の号と同一であったので、後に下の方を「実山相公(じつざんし
ょうこう)」と改めたということである。
これについて奇異な話がある。最初円山成公と法号して、位牌にも左様彫り着けて
あったところに、吉良家の領地三河吉良に住む家人が万昌院に参詣し、上野介の位
牌を見て「これは不都合、義安公の法号と同じである」と申し出た。それから段々取り
調べて見ると、いかにも不思議、義安は今川義元に属して十二月十四日に討死し、お
まけに首まで敵に取られて、そのままこの家は一旦断絶したのであった。今の吉良家
は最初に述べたとおり、名家の後というので、家康公の代に再興されて上野介まで至
ったが、今またこのように同月同日に落命した上に、同じく首まで失い、法号までが同
一であるというのは、吉良家滅亡の時節到来かと取り囃したとのことである。ちと受け取
れぬ話ではあるが、「後鑑録」の著者小川恒充(つねみつ)は、万昌院の和尚につい
て質(ただ)したとまで書いているから、当てにはならないが紹介しておく。
附言 上野介を葬った後、上杉家から大石を運んで、立派な石碑を建てると、どうい
う事か、たちまちに大塔が倒れた。また建て直す。また倒れる。再三に及ぶと、一
夜上野介の幽霊が血塗(まみ)れになって現われ、「モー大石には懲り懲りした」
と万昌院の方丈の枕上に告げたとは、軽快な江戸っ児の落語。江戸っ児はさす
がに罪がない。同じ根なし草を作るなら、これぐらいのところにしてほしい。
* * * * *
同日戦死の家臣八人の遺骸もここに葬った。小林平八郎は良翁元心、清水一学は
端翁元的、斎藤清右衛門は本翁元来、新見弥七郎は罷翁元休、牧野春斎は心翁元
無、大河内六郎左衛門は剣室宗寒と戒名を付けた。その他の二人は伝わらない。
附言 以上のうち大河内六郎左衛門は吉良家からの届出には浅手と見えた。それが
ここの埋葬者中にあるところから推せば、その傷は急所にあたり、負傷後死亡した
のであろう。
* * * * *
築土八幡の裏にある万昌院に上って見れば、石を数重に畳み上げ、上部には各々
蓮花を彫り、塔形をなし、地、水、火、風の四字を分けて、処々に表わし、一目してそ
れとおぼしい四基の墓石が、行儀よく並んでいる。
元禄十五壬午十二月十五日
霊性寺殿実山相公大居士
従四位上左近衛少将吉良前上野介源義央朝臣
―――――
寛永二十癸未少春二十四日
後華厳寺殿法山猷公大居士
為頓証菩提也孝子敬白
―――――
寛永四年九月十二日
長松寺殿興山中公大居士
為頓証菩提也孝子敬白
―――――
寛文八戊申三月二十五日
大雄寺殿要山玄公大居士尊儀
従四位上左近衛少将吉良若狭守源義冬朝臣
以上の四基のうち、左方から第二基の長松寺殿が、従五位下上野介義定で、義央
(よしなか)の曾祖父吉良家中興後の第一世である。
次に左方から第三基の後華蔵寺殿が、従四位下左近衛少将義弥(よしひろ)で、義
央の祖父、つまり忠興第二世。
次に左方の極端にある大雄寺殿が、義央の父、つまり第三世。
次に右方の極端にある霊性寺殿が、首を取られた義央である。これが第四世。
以上四代は実際ここに葬ったのである。ああ彼上野介一たび貪婪(どんらん)をほし
いままにしたため、身首を異にして、あたら名家の祖宗まで、その面目を失わせた。た
またまここに来てその墓石の前に立てば、覚えず悄然となる。
二七八
天下の世論
室鳩巣の書 諸家の同情
さて一党がお預けとなって以来、八百八街は寄ると触ると、義徒の噂で持ち切った。
「何でも近々諸大名方へ別々にお預け替えとなり、そのまま一生永(なが)のお預けに
なるそうだ」というもあれば、「あの四侯へお預けのままで、四侯から助命の嘆願が上っ
ているというから、一党は四侯家にお渡しになるのだろう」ともいい、「いや一且流罪と
なり、三、四年のうちに特赦が出るとのことよ」など、種々様々に取り沙汰された。それ
でついに町奉行から「赤穂浪人のことにつき、噂話はならない」と厳達まで出したが、
そうなると実際の評判はますます高まった。
これらは下流社会の世論であるが、士道を重んずる中流以上の社会では、義徒の評
論が盛んになった。いわば一世の視線を一党の身辺に集中した有様であった。ことに
節義を重んずる士太夫の間では、その尊崇もまた非常であった。一代の儒学者室鳩
巣は、正月中から早くも「義人録」の著述に着手した。天下の公論が確定するのに先
だって、独り断じて「義人」と名付けたのでも、感嘆者の一人であることは十分に知れる。
同月二十五日付で彼と同じく、当時加賀の前田侯に仕えていた有名な学者稲生若水
に寄せた彼の手紙がある。
江戸で年末の十四日夜、浅野氏の旧臣どもが、君の仇吉良上野介殿を討ち取
った。前代未聞、忠義の気みなぎり、名教の助けと思う。
赤穂の厚い士風が、これにて知れ、ひとえに内匠頭殿が人才を養った功が顕わ
れたものと思う。
当地ではこのことのみを話題にしているが、貴地の世論は如何でしょう。長(東涯
伊藤長胤)、民(天民並河亮)、象水(梁田鼎)などの豪士は、如何評しておられよう
か。
四十六人のうち、かねて御存知の者もあるでしょう、誠にもって斉の田横(でんおう)
が部下の五百人と共に海島(かいとう)で自殺した、あの英気を思い出す。
伊蒿(いこう)老人はさぞ大喜びのことと推察され、その様子が見えるようです。
元禄十六年正月二十五日
室 新助
稲 若水 老
書もまた凛(りん)として一党のために気を吐くに足るものがある。ちなみに言おう。書
中に挙げる人物は、いずれも一世の文豪碩学(せきがく)である。先ずその書を寄せら
れた稲生若水は、鳩巣と同じく木下順庵の門下から起り、本草学の大家として推され
た。「年いまだ五十に満たずして、千巻の著があるのは、稀に見るところ」と白石が賛美
したのはこの人である。
伊藤東涯は仁斎の長子で、篤学篤行、小野寺十内と親しく、萱野三平のためにその
伝を書いたのは、この東涯であった。
並河天民は仁斎門下から出て、その学識はむしろ東涯を抜き、つとに経世の才を
抱き、みずから天民の先覚をもっていた。
以上東涯はもちろん、その他の二氏も皆京都にいたから、義徒中の甲乙とは、必ず
交りがあったろう。
最後に梁田象水(やなだしょうすい)は蛻巌(ぜいがん)の子で、文武の誉れがあった。
同じ播州の明石に住んだから、これまた義徒には縁故があったろう。
義徒の存在が名家に知れたのはこのとおりである。名家が義を見て躊躇せず、節を
守って変らないのも、偶然ではない。
二七九
一党処分の議
林鳳岡の名経論 荻生徂徠の法制論
ともかくも一党の今回の挙は、古今未曾有(みぞう)の出来事である。節義からいえば、
誠忠日月を貫(つらぬ)くともいえ、法政から見れば、公然兇行をたくましゅうしたともい
える。情に問えば、いかにも許してやりたいが、掟(おきて)に断ずれば、このままにす
ることも出来ない。さすがに英明自から用いる大将軍綱吉公も、この裁断には大いに
苦心した。その結果、一方には問題を閣老以下芙蓉の間の者以上に投票で可否を表
明させ、また一方では儒官に意見を献上させた。
問題は言うまでもなく、処刑か宥恕(ゆうじょ)かの二つである。諸大名の大半は、宥
恕、宥恕と投票したが、一半は意見の表明にすこぶる逡巡した。というのは、上杉家は
家の名誉を没却されたので、一党の処刑を内願し、それによって世上に対する面目を
維持しようと期待する。その上杉家は紀州公の近親で、おまけに当時第一の権勢家で
ある柳沢の松平美濃守は、日頃から吉良贔屓(ひいき)である。もしもその意に逆らっ
たら、後難測るべからずと、棄権する向きも少なくはなかった。
儒官の方では、大学頭林鳳岡(ほうこう)信篤(のぶあつ)は当時の先ず文部大臣であ
る。つとに綱吉公に任用されて、大学頭に至り、諮問に応じて幕府の政道に貢献する
こと久しく、林家中興の英物であった。当年すでに六十歳に達しながら、英気はいまだ
衰えていない。今回一党の快挙発するに及んで、衷心から喜び、目に権貴も好悪もな
い。閣老の人々には、
「こんな忠義の者どもを出すというのも、上の治教が海内に普及した結果である。もし
これらの者どもを一概にお仕置にすれば、今後いかにして天下の忠義を奨励する
か。このたびのことは是非とも寛大な御詮議があってほしい」
と、熱心に節義論を主張したので、一時廷議これに傾いた。
時に荻生徂徠茂卿は彼の抜群の経術により、松平美濃守に大いに信任され、また
知遇を将軍家に得て、しばしば経書を進講していた。彼は有名な法政論者だけに、鳳
岡の議を聞いて反対し「法は天下の大綱である。天下一日法を廃すれば、国家の政
道は立たない」と、やがて次の書を提出した。
義は已を潔(いさぎよく)する道であり、法は天下の規矩(きく)である。かの四十六
士がその主のために仇を報ずるは、臣たる者の恥を知るなり。已を潔くする道であ
る。そのことは義といえるが、その党に限ることであるから、当然私の論である。そ
の理由は、長矩が殿中をも憚らず、その罪に処せられたものを、吉良氏に負いか
ぶせ、公儀の免許もないのに、みだりに騒動を企てた。これは法において許され
ないところである。今四十六士の罪を決め、士の礼をもって切腹に処すれば、上
杉家の願いもむなしからず、かれらが忠義を軽んじなかった道理も公論といえる。
もし私論をもって公論を害せば、これ以後天下の法は立てることが出来ない。
荻生総右衛門 議
というのであった。堂々たる治道の大議論であり、再び大いに廷議を動かした。
閣老はやがてこれらの議を具して、将軍家の直裁を請うた。将軍は生来多情の君で
はあるが、また理義に明らかな人主である。再思また三考の上、ついに涙を揮って「切
腹申し付けよ」と裁決した。
* * * * *
こうなると幕廷内外の節議論派が黙ってはいない。「御政道の上から、浪人どもの切
腹はやむをえまいが、吉良左兵衛をどうする。人の子として父を討たれながら、当夜の
体たらくは如何でござる。かような卑怯未練な者を、旗本に差し置いても、一且緩急の
場合に、何の役に立ちましょう。のみならず、もしこのままに召し置くなら、公儀のご威
勢にも関わる」と突っ込む。閣老のうちにもたしかに熱心な同論者もあった。
閣老は再び将軍の直裁を仰いだ。紀州家の内縁があっても、美濃守の後援があっ
ても、将軍の前には抗することが出来ない。「その家を取り潰し、左兵衛は配流申し付
けよ」と沙汰された。ここに至って幕臣も評論好きな連中も、だらしなく引下った。
二八〇
日光宮の大慈悲
法親王と将軍家
幕府の内議はこれで決定した。それで正月二十二日閣老稲葉丹後守は一党お預
けの四家の留守居を召し「さらに一同の親類書を詳細に書き出させるように」と伝えた。
四家は命を受けて、早速これを差し出させた。「各人の生年月日を記入し、かつ華押
を着けよ」と再び下げられる。同月二十六日までに、すべて出揃った。由来御仕置に
決定すれば、それ以前に親類書を提出させるのが当時の恒例であるから、幕府の意
向は、四家にも、一党にも、早くもこの時に知れた。
ただ正月は吉月で祝日も多く、それから二月一日は日光の鏡開きであるので、処刑
はその以後になるものと察せられた。
* * * * *
二月一日、日光の門主の公弁法親王は、年始のお礼に登城した。将軍綱吉公は彼
を招いて、四方山の物語をしながら、
「政治を執り行う身ほど、世にも苦しいことはない。故浅野内匠の家来のことを追々
お聞き及びでしょうが、その忠誠義烈、近世にたぐいない者どもだから、何とかして
助けてやりたいとは思うが、そうすれば政道が立たず、何とも詮方ないことであった」
と心ありげに嘆いた。法親王はこれを聞いて、
「ご苦心のほどさこそとお察し申し上げます」
と会釈したのみで、そのまま退出した。このことは何時か世上に漏れ聞える。一般は大
不満、「法親王はかねがね英明と聞いていたが、将軍の切ない気持が分らないようで
は、英明でも何でもない」など非難した。するとこの非難がやがて法親王の耳に入った。
親王は左右に向かって、
「自分の一生で将軍からあの話をうかがった時ほど、心苦しい思いをしたことはない。
人もあろう、この法体にあの話、将軍家にも処分に余り、それとなく助命をしてやりた
いとの気持は、歴々と読めた。自分もいかにも不憫、この墨染の袖の下に隠してや
りたいのは山々であったが、何を申すも四十余人、そのうちには血気のいまだ定ま
らぬ壮年の者も少なくない。それらが生きながらえて、万一晩節を誤ることがあれば、
惜しいかな英名に傷つかないとも限らない。ここは弥陀の大慈悲を奮い、王法のま
まに委せおけと決心し、ついに将軍家の迷いを解かず、そのまま退出した」
と述べた。善いかな宮の大慈悲、大猛断ではないか。これにより四十六士の名節、万
古にわたってますます光り輝く。見よ、生き残った寺坂吉右衛門、彼がその後どんなに
苦しんだか。そのうち一点、天下の人心を満たさなかったものがあることを。
二八一
一党最後の準備
同葬の希望 永別の杯
一党は処刑の近づいたのを知って、各々心の準備に取りかかった。ことにお預け人
にもっとも同情ある細川邸にいる連中は、それとなく遺書などを書いて、接伴係の甲乙
に委託した。しかし一党は平気である。
ある日富森助右衛門は一党の希望を代表して、例の堀内伝右衛門に向い、
「いずれもこの度の行動については、斬罪と覚悟しておりましたところ、世上の批判な
ど追々に伺うと、近頃はちと驕(おご)りがつき、切腹など結構な沙汰を仰せ付けら
れることもあるかと、またそうなればこのお邸においてではあるまいかなどとも思われ
ます。万一にもそうなれば、死後に親類・縁者・さては沙門などがいかに申し出ても、
十七人の遺骸は、泉岳寺内の一つ穴に埋めて下さるよう、お取りなしを願います」
と申し出た。
伝右衛門は慰籍しながら、承諾して早速藩の大目付長瀬助之進に相談すると、「も
っとも千万の希望」とて、感嘆を湛えて君侯に上進し、早くもその内諾を得た。これは
他の三家へのお預け連もあらかじめ同じ希望を申し出ておいたものと見える。(堀内覚
書)
* * * * *
その翌日か。吉田忠左衛門は伝右衛門を見て、
「前日は助右衛門をもって、一同の希望を申し上げたところ、早速お受け下されか
たじけない。それにつき、これは拙者一個のことにて、甚だおかしなお願いでござる
が、拙者はお見掛けとおりの図体(ずうたい)、年寄の大きい死骸などは一入(ひと
しお)見苦しかろうと存じまする。幸いここに少々金子を持参しておりますので、これ
で白布を買い取り、二重の大風呂敷にして、四方に鉤を付け、大骸(おおむくろ)が
見えないよう包んで、括(くく)って下さるよう、ご懇意にまかせ、お頼み申し上げます」
と言いながら、からからと大笑した。(堀内覚書)
* * * * *
二月朔(ついたち)も昨日と過ぎて、二日の夜のことであった。下戸の吉田忠左衛
門・間瀬久太夫・小野寺十内・堀部弥兵衛は甘酒を酌み、上戸の大石内蔵助・原惣
右衛門・磯貝十郎左衛門は酒を飲んでいるところに、例の伝右衛門が来かかった。内
蔵助は声を掛け、
「これは好いところに来られた。十郎左衛門、その盃を伝右衛門殿へ」
という。
「さらば御免」
と十郎左衛門が献(さ)す盃を、伝右衛門が飲み乾せば、内蔵助、
「これへこれへ」
と手を出した。
「拙者こそお盃を戴き申すべきところに………」
「いや是非に」
と内蔵助は盃を招き、グッと傾けて、
「ご返盃」
とまた返す。
「かたじけのう」
と伝右衛門、飲むか飲まないかに、惣右衛門、
「拙者にもどうぞ」
と手を出す。
「これははしたり」
と伝右衛門が回す盃を、惣右衛門は受けて、一息に呑み、そのまま返せば、内蔵助が
傍から
「その盃、今一度十郎左衛門へ賜わりたい。あれはなかなかな口でござる」
「いかにも」
と伝右衛門、自ら乾して、十郎左衛門に盃を渡した。
「オットトトトトト」
と十郎左衛門がやっと飲み終わるのも待たせず、内蔵助、
「そのまま、いま一つ重ねさせていただきたい」
と笑いながら勧めれば、十郎左衛門、
「これは堪(たま)らない。もうご免を……」
といいながら下の間へ逃げ込んだ。
一座はドッと興に入る。誰が知るだろうか。これは内蔵助がよそながら堀内伝右衛門
と酌んだ生別の盃であったとは。 (堀内覚書)
二八二
同
寺井玄渓への最後の書
細川邸に預けられた一党の領袖連は、日頃草しておいた書類をまとめて寺井玄渓
に送ることになり、その末尾に追い書を付けた。
追啓、かねて認(したた)めた書付は、いよいよ末期を迎えたので、役人に頼み入
り、まとめて玄溪殿に送ることになりました。ただ今まで命を長らえていること、 不
思議なことです。正月中はお仕置を命じられることはないが、当月に入れば、一
両日中とも限りません。ここの役人衆の中に、際立って同情をかけてくれる方があ
り、内々書通を許してくれたのです。このたびの四十六人残らず無事でおります。
玄達老は無事御出発と聞いております。早速にも出発すべきところ、二十六日ま
で延引したのは、定めて様子を聞き合わせたためと推量します。そのお心、深く
感じております。
一 手負いを受けた者は、近松勘六と横川勘平の二人で、傷は僅かです。勘六は誤
って泉水に落ちたところに、敵が出会ったので、数か所かすり傷を負い、今は回
復しております。勘平はわずかの傷で、本庄より泉岳寺まで、泉岳寺より仙石様ま
でも、歩いて行ったほどです。
一 怪我人は表より入った者の内、屋根を越えたとき、積もった雪ですべり、足手をく
じいたのです。その当座は働き、間に合せたものの、暫らくして腫れて痛みだした
ものです。早速治療を受けたので、大方快復しました。与五郎もそのとおりでした。
この際治療には及ばない理屈ですが、末期に及び、不自由見苦しさもいかがと思
い、医者衆の差図にまかせて、養生しております。
一 主税は風邪をひいたので、玄達老に診てもらい、すっきり回復し、ただ今はつつ
がなく過ごしております。毎度診察を受けましたので、よろしくお伝えください。
一 越中守様へ来た者は皆、丁寧かつ結構の扱いを受けております。最初は急なこ
とで、御書院の次、玄関の上の間に、九人と八人に分けて入れおかれたが、その
後は今の部屋に囲いをつけるなど、先月二十日頃にしつらいが出来ました。越中
守様もわざわざこの部屋へ来て検分され、またお好みの指示があり、二十六日に
移りました。衣服はその当座より、段々と役人様より与えられ、そのほか何の不自
由もありません。もっとも旧冬十五日の夜、この屋敷に着いたとき、越中守様が出
て来られて、隨分の御称讃と懇慰の御意を示され、結構至極でした。この屋敷に
お預りとなって満足との御意でした。その後は、内記様がおいでになり、お目見え
し、昨日は同姓の采女様、主税様もここに出てこられてお目見えいたし、生涯の
面目でした。十五日以来料理などまでご丁寧で、二汁五菜、昼夜三度の御馳走
に、毎度同様のご挨拶があります。 窮屈なことと思われるでしょうが、このとおりの
待遇を受けております。
一 この中の八幡大西坊への手紙。届けてやってください。そして、この十五日の書
付けも見せてやって下さい。別紙には認めておりませんので。大西坊より豊岡へ
も伝えてくれるものと思います。
一 そちらの了簡違いの衆、かれこれ、江戸に下ってくるとのこと。何の目的があって
出てくるのか。岡林杢(もく)は旧冬二十八日に自滅の由、兄弟衆の意見と聞いて
一
一
一
一
おります。
惣右衛門が言っております。本書に喜六方へお知らせ下さいと書いておりますが、
ほかに使いをする者があったので、その必要がなくなったとのこと。そちらに行け
ないので、この手紙でお断り申し上げるとのことです。
伏見筋にご存知の者か、また大塚屋などへついでがあれば、伏見にいる片岡源
五右衛門の妻子に、源五右衛門は無事と、お伝え下さい。
十内の妻にもこちらの様子をつたえ、またこのこの状をお届け下さい。
お仕置の後のことは、ほかより申し伝えがあろう。夏になれば、越中守の帰国の
時、このたび皆を介抱してくれた衆もお供に付くでしょう。この衆に貴殿のことをつ
たえておくので、尋ねて来る衆があるかもしれません。その節いろいろお聞き届け
下さい。
一 この度のこと首尾よい噂のみ聞いております。悪い噂もあるとは思いますが、ここ
では聞く人もありません。ただ仕損じたと思うこともないので、侍の法外のお仕置
にはなるまいと、たのもしく思っております。旧冬よりただ今まで、栄耀最後の楽は
これ以上にありません。恐惶謹言。
二月三日
原惣右衛門
小野寺十内
大石内蔵助
寺井玄渓様
ただいま聞いたところでは、同志の妻子どもや親類が、老中の家にいても苦しくな
いとのことで、御屋敷へ引き取ることも出来るとのことです。したがって妻子まで詮
索されることはないと、いよいよ安堵しております。
この書は原惣右衛門が執筆した。書中記すところ、前の討入り覚書の補遺に充てる
ものがある。
二八三
同
小野寺十内が妻の丹女に与えた書
小野寺十内はさすがに理義明晰であり、かねて思うところ瓢逸(ひょういつ)な侍で
あるだけに、お預け以来風詠を事として、時には京都に残して来た妻女と和歌を贈答
し、いかにも従容として日を送っていたが、今際(いまわ)となって、これまでの一挙の
経過から、自家の現状、ないし決心のあるところを草し、また永訣の意を述べた長文の
一書を妻女に寄せた。この書は大高源五が母に贈った書とともに、義徒の遺墨中双
璧として伝えられる。その全文は次のとおりであった。
寺井までひそかに通じ終えて
一筆残しておきたい。古主の仇を打ち取り、本望を達し、うれしさにことばも出ない。
そちらへも、二十日二十一日頃には噂が届くであろう。おなじ心でたがいによろこ
ぶことが出来る。その後おいおいに、とりどりの噂を聞くであろう。先だっても、正
月はじめには届くだろうと、風の便りに聞いたので、この手紙でそちらのあまたの
噂が確かになり、うれしいだろうと思う。
一 冬年十五日の夜、細川様へ参り、その夜にもお仕置きにあうと思っていたところ、
おもいのほかに、そのまま年が暮れ、正月さえすぎて、きさらぎの今日まで、まだ
この世の酒をなぶること、ふしぎというもおろかである。いかにも、このうえのゆとり
はあるまい、今日のうちにも事きわまるかもしれないと、宣告を待っている次第で
す。誠にこのたびの首尾、十分にしおおせたこと、武運の至極にかない、八幡の
加護のお蔭と思う。世間の貴賤共に、昔から日本にも例のないほどの忠義のこと
と、ほめてくれる。死んでからの思い出もこれいじょうはあるまいとおもう。
一 越中守様もその夜、みながまだ着込みも脱がないうちに御出なされ、ちかぢかと
御すわりなされ、みなのもののこの度の忠義、ことにおちついた仕方、感じ入った
と言われた。重い大主様のこのことば、まことに武士の本望と、かたじけなく、大慶
に覚える。さて御ちそう人、守護人、そのほか歴々が夜昼入れかわりたちかえりも
てなされ、料理、小袖をはじめて、人の身にいるものは、端物のほかは、すべて用
意され、ありがたき御なさけにて、この世より極楽にいると思うばかりである。幸右
衛門、源五、金右衛門なども、越中様のおもてなしに預かっている。
一 我らお仕置きにあって死んだときは、かねて申しふくめたように、あなたも安穏で
はあるまいから、かねての覚悟のこと、驚くこともなく、取り乱さないように。もう何事
もない身となって、都のかたわらに住めば、貞立(ていりゅう)様をよびむかえて共
にうきを慰み語って、久しくもない一期を見とどけるよう、頼みおくことです。あなた
が頼りない身となるのも、かねて覚悟のうえだから、私も思いおくことはない。いか
ばかりおもいのこしても、かいもないことです。とうもこうもして、一生をかすかに送
ることを、たのしみとあきらめ、この世をわすれることです。
一 幸右衛門のこと、なるほどけなげにはたらいた。金右衛門、源五もおなじである。
大ていのことはきこえても、個々人の手柄まではきこえまい。人のことはともかく、
親子のことはさぞ聞きたいと思いであろう。彼らのことを話しておこう。
十四日の日ぐれに、くら殿と二人、駕籠にのって宿を出て、堀部弥兵衛方へ行っ
た。九ッごろまで呑み食いし、語って、それから林町の堀部安兵衛の宿へ行き、こ
こでせいぞろいした。七ッ過ぎに連れ立って、かたきの屋敷におしかけた。その間
の道は十二、三町。きのう降った雪の上に、あかつきの霜をおき、いてこおって、
足もともよく、火のあかりは世けんをはばかって、提灯も、たいまつも、ともさず、有
明の月さえて、道もまどうことなく、かたきの屋敷の辻までつめた。ここより東西へ二
十三人ずつ二手に別れて取りかけ、東おもては、長屋にはしごをかけて、屋根より
のりこんだ。親子一方へは向かわず、我らは西へかかり、幸右衛門は東へむかっ
た。源五、幸右衛門そのほか二、三人、かれこれ四、五人、一度に屋根を一ばん
にのり、屋根の上よりとびおりざまに、高声で名乗り、すぐに玄関へかかり、戸を蹴
破り、おしこんだ。番人三人広間に寝ていた者が、おきて立ちむかう。一人を幸右
衛門がたかももを斬りおとして、切りふせ、すぐにおくへ切り入った。そこに弓がた
てならべてあるのを、幸右衛門おくへ切り入りさまに、弓のつるをはらはらときりはら
って、通った。これはかねてかたきの方に弓のやり手が多いと聞いていたゆえ、さ
だめて内、外ともに、弓で防ぐだろうと、内々言い合わせていたからだ。かたきはど
こからか、起き出て、うしろより射ると心得て、つるを切りはなして通ったものと、よく
気が付いた。かるいことながら、そのみぎり、人々感心した。これほどの間をあわせ
たこと、おや心のうれしさ、あなたも共に喜んでいいよ。金右衛門は十文字をよく使
うゆえ、広場にて多勢をあしらい勝負するとて、屋の内へ斬り入る人数に入らなか
った。新門という小門を守らせておいた。案の定、ここに出合う者を、突きふせた。
源五は大だちというなぎなたのようなものを持ち、下にくれないの両めんの小袖を
着て、上に両めんの黒いひろそでの小袖を着た。出立(いでた)ちはきわめていさ
ぎよく見えた。これも敵をうちとった。わかい者ども、応分の働きをして、おなじく本
意をとげたこと、さてさてうれしや。ともに喜ぼうではないか。(続く)
二八四
同
同
さて若い者と年寄は、争うものではない。若い者をさしずして、老人はただ守りをよ
くすべきである。かたきの家の内へおし入るのに、一人も生きて出ない決心をした
以上、みな同じこころざしである。たがいにあらそいも優劣もなしと、打ち立つまえ
に、みなで神文を書いたほどである。西の手は大石ちからをともない、かいぞえに
忠左衛門と我らが加わった。この手はかけ矢をもち、先頭の三村次郎左衛門が三
ッ四ッ戸びらを叩き、打ちやぶり、どっと、おしこみ、すぐに上野殿隠居のげんかん
へ、おし入った。そのいきおい、いかなる天魔も、正面から向かうことは出来ないと
思われた。おし入って、門の右の長屋前で、二人のおとこに出会った。先に出た
相手を、我らは一ヤりに突き殺し、あとより出た者を間喜兵衛が突き伏せた。喜兵
衛は門をまもり、我らは北の方のうら口へ回ると、隣の土屋ちから殿の衆が、垣ごし
にやしきの内を見守っていた。こちらより言葉をつげ、その方をまもり、出あう者、
二か所に二人突き伏せた。一人は片岡源五右衛門が見ていて、「十内殿やりまし
たね」とほめてくれた。一人は大石瀬左衛門が見ていて、「そのおとこのたおれさ
まに念仏申したるまで聞えました」といった。三人ながらしょうこがあるのだよ。老人
のつみつくりであった。やり身のことだから、刀には手もかけなかった。
一 親類書を出すようにとのことで、書いて提出した。主人のかたきを打って、死んで、
先祖の名を天下へあらわし、これまた本望の一であります。おやの位牌の前に、こ
の書付をそなえてほしい。
一 そなた無事のよし、きょう吉田忠左衛門のさる方の伝手(つて)でききました。結構
なことです。こころかわらず、話してよいかたへは、よいように話してやってください。
一 日永く、することもなく、心のままに居つつ起きつつ、すきな昼酒も寝酒も呑んで、
十七人の同志、夜まで、こしかたをかたり、ちそう人衆もこころやすくあいさつして、
さびしくもない。きょうすでに五十日になる。れいの歌を詠んで同僚に聞かせれば、
みな袖をしぼりかんじ入っている。おおきなことをいってよみすてている。そちらで
欲しいなら、あとで一筆書いて送ろう。幸右衛門のことも、安心してください。私の
この歌でよくわかるでしょう。
まよわじな 子とともにゆく後の世は 心のやみも春の夜の月
死ぬ運命だから、古里をわすれたのではないかと、思うでしょう。この歌はこの頃
思いつづけたことをそのまま表したものです。お膳にいろいろな野菜を出されるの
を見て、
むさし野の雪間も見えつ ふるさとのいもがかきねの草ももゆらん
一 越中守様は御大家で人も多いから 歌人もあると、慶安がききつたえて、くどくた
ずねると、われら、ご一同も歌をよむと聞いたとて、歌を聞かせてほしいという人も
ある。歌の道の名前までうわさがあるようで、はずかしくも、おかしくも覚えた。
一 同名の十兵衛、かね沢どのの家内、藤介、おろく、助(すけ)くらをはじめ、仲良く
つきあってほしい。浅田瀬兵衛方、この正月より、つめにて京にのぼるときいてお
ります。もしお越しあれば、かくすこともないので、よいようにお話ください。
一 同志の妻子のこと、いままでは何の詮議もなく、老中の秋元但馬守様の御内に、
奥田孫太夫の舅(しゅうと)があり、但馬様より御さしずにより、孫太夫の妻子は、
舅のかたへ引き取った。また田村右京様は、とみのもり助右衛門の女房のおじで
あり、これもお屋敷に引き取られた。吉田忠左衛門の妻子も、ちゅうしょ様から、む
この十郎太夫に引きとれといわれた。家々かようのいきおいで、妻子まで、お大名
がたのこころにかけられたこと、おのおの本望かたじけなく思っている。そなたは、
ひきとる身よりもなく気の毒だが、回向院どのへお心得頼み申しておく。いかほど
書いても尽きることがないので、ここで筆を置く。親子ともに腹を切ったという噂が
ほどなく聞えるであろう。何事も人界のつねなきをさとるほかないと思う。かしこ
二月三日
十内
おたん どの
なおなお玄渓かたへくわしく書いているので、聞いてください。以上。
血あり、情あり、仁あり、義あり、真誠の日本人である者は、よろしくこの書を三誦すべ
しと、私はいいたい。
二八五
四家への内示
細川侯の暗示 壮年義徒の隠し芸
二月三日、幕廷はいよいよ明四日をもって、吉良家および浅野家浪人らの処分を
することに決定し、大目付、目付および御使番(おつかいばん)以下当日の担当者を
任命し、さらに閣老から四家に向け、「明日一党の者どもへ切腹を命じる予定につき、
あらかじめその用意をされたい」と内示した。
四家の落胆、なかでも細川侯の失望は、実に大きかった。だが、大命の上にはもは
や何ともしようがない。夜に入って侯は侍臣に対し、
「明朝は二つの花瓶に花を活け、一党がいる上下の居間に、一つずつ飾り付けよ」
と命じた。侯の意は、あまりに突然に一同を驚かせたくない、それかといってあらかじめ
切腹を告げるにも忍びない。それでよそながら処分の時が到来したことを暗示しようと
いうのであった。まことに優しい太守である。
夜はすでに十時の頃、当夜の宿直吉弘嘉左衛門、堀内伝右衛門が詰所にいると、
これも接伴係の一人である藩の大目付長瀬助之進が入って来た。
「ただいま上屋敷から通知状が来て、明朝両側に花を飾るようとのこと。御茶道衆が
持参されるのでどこに置くか二人で相談してほしい」
という声は、一党の下の間にまで漏れ聞えた。
「さては……」と一党は早くも気づいたであろうが、何の頓着もない様子で、小坊主を
使って伝右衛門をその間に招いた。伝右衛門はハッと応じて、何気なく入って来た。さ
すがにここは衆議院いや壮年室だけに、富森助右衛門、大石瀬左衛門を初めとして
磯貝十郎左衛門、矢田五郎右衛門、近松勘六、赤垣源蔵など、火鉢を囲んで談話は
まさに真最中。
助右衛門と瀬左衛門は口を揃え、
「我々もいよいよ山が見えた。今夜は一つお別れに銘々の芸尽しをご覧に入れよう」
と笑いながら「ほかの御番衆のお目に止まると大変」と、例の衝立屏風を外面(そと
づら)に立てて、その陰に集まり、声こそ潜めたが、境町さては木挽町の踊り狂言物
真似を代わりがわりに演ずる。上手もあれば下手もある。最初のほどこそクスクスと
忍び笑いを漏らしたが、興がいよいよ加われば、いずれも耐え切れず「うまいうまい」
と大声に喝采する者もあれば、ワッハッハ……と大口開いて快笑する者もあり、下
院の裏には何事が発生したかと驚かれるほどの大賑い。
武骨一辺の奥田孫太夫、潮田又之丞は先程から「ご免」といいながら、傍に転がって
臥していたが、余りの賑いに、又之丞は鎌首をもたげて、伝右衛門に向い、
「この悪たれ者ばかりは、どうにもこうにも仕方がない。今は止めようもないが、明朝
は内蔵助にいいつけて、手錠をかけてやらねばならん」
と言いつつ、これもまた腹を抱えて大笑い。
いかなる同情の伝右衛門も多少は目付の手前がある。「夜も大分更けましたので…
……」とこそこそと座を起ったが、連中はなお暫くどよめきを止めなかった。
ああこの二十四時間のうちには、刑場の露と消えて行く命、「死を視ること帰するが如
し」とは、真に愉快な連中ではないか。
二八六
同
松平家の暗示 義徒の覚悟 波賀清太夫の慨言
松平家でも、閣老からの内々の注意によって、それぞれ明日の手配をし、晩餐には
ことに念入りの馳走を出した。が、あらかじめ切腹の事実を一党に聞かせるも忍び難い。
さりとて聞かせないのも、何となく安心できない。夜に入って藩の大目付某は、一党の
長屋を見舞い、
「先刻老中から、内意をもって、明日公儀の御目付衆が当邸へ来て、上意の趣きを
申し渡すとのことでござる。定めて御一党の働きを、お上にも御感の上、明日は目
出たい仰せ出されもありましょうか。お心得にもと、一寸お耳に入れます」
と告げた。先の細川侯の暗示とは、大いに趣きを異にした。一党は好言(こうげん)を
聴いて、喜びもしなければ驚きもしない。いずれも慇懃に手を突いて、これを聴くより、
早くも処刑が決定したのを了知した。大石主税と堀部安兵衛はその座から進み出て、
「内意のほどあり難く存じます。実は夕方からお屋敷の模様、よほど繁忙に見えます
ので、今夕もしくは明日までには、お仕置のことと、一同覚悟しております。長らく上
のご厄介になり、また方々にご苦労をおかけし、何とお礼申し上げてよいか、ただた
だかたじけなく存じます」
と挨拶した。
両人の言語といい、動作といい、一点も平生に異なるところなく、その他の人々もまた
やがて普通の談話に入り、死という神をどこから招くか、ほとんど知らない有様であった。
接伴係も、目付の人々も、今更ならず痛切に感動した。いかに内蔵助の平素の訓練
が行き届いていたかが、これによってよくわかる。(波賀覚書)
* * * * *
この際に一つの小話がある。世はあたかも文強武弱の真最中だけに、切腹・介錯・
首実検などの法も、そろそろ忘れかけていた。それで幕府の御目付某は、注意のため
に、御小人目付池田仁兵衛という古兵(ふるつわもの)を、久松邸に派遣した。彼は接
伴の上席三浦次郎右衛門に向い、盛んに東照公以来の切腹の実例、さては首実検
の法式などを講釈し、
「明日真先に大石主税の介錯をするのは、誰か。その人に先ず御伝授いたそう。そ
うすれば、その次からはこれに見習えば、御用は勤まる」
と大得意の体。
時に同じ接伴の下席にいたのが、例の波賀清太夫。
「当家は権現様以来の旧家で、いま勤めている者どもも多くは当時武功を励んだ侍
の末孫ですから、介錯や首実検には精通しております。当家ではかくかくいたしま
す。かように申し上げる不肖の清太夫は、主税の介錯を申し付かっております。た
だしお心添えの段は主人へも申し伝えますので、定めて満足に存ずることでござい
ましょう」
と挨拶したので、前の古兵は顔色なく、やがて話を余談に転じ、手持ち無沙汰に帰っ
て行った。この夜隠岐守はこれを聞き
「清太夫のことだから、それぐらいのことは言いかねまい」
と笑った。
豪傑は往々下僚中に隠れる。
二八七
吉良左兵衛の配流
上杉侯の遠慮 吉良家臣の処分
元禄十六年二月四日、幕廷では諸老中を初めとし、諸若年寄まで、いずれも登城
して、吉良左兵衛および赤穂浪人処分に関し、諸般の裁断を下した。
まず第一は左兵衛の処分申渡しの係官である仙石伯耆守以下を山吹の間に召集し、
老中・若年寄列坐の前で、若年寄の一人加藤越中守から訓令の趣旨を言い渡した。
いずれも旨を受けて、それぞれの方面へと向った。
時を移さず吉良左兵衛を評定所へ呼び出す。朝から命を受けて吉良家に関係ある
寄合衆荒川丹波守、御鉄砲頭猪子左太夫は左兵衛を召し連れて出頭すれば、大目
付仙石伯耆守を上坐に、町奉行丹羽遠江守・御目付長田喜左衛門これにつぎ、御徒
目付・御小人目付等は左右に列して威儀を整えた。
左兵衛は時に年十八歳、悄然としてその前に伺候すれば、伯耆守は厳かに
吉良左兵衛
浅野内匠頭家来ども、上野介を討ち候節、その方の仕方不届に付き、領地を召上
げ諏訪安芸守へお預けを命ずる。
と宣告文を読み上げ、即座に安芸守家来に引き渡された。「死ぬべき時に死ななけれ
ば、死に勝る恥」という格言は、端的に義周父子の上に立証された。諏訪安芸守忠虎
の家来らは前刻から彼を待ち受けて門外にいたので、直ちに駕籠を差し寄せて乗り移
らせ、戸には錠をさし、上には青網を掛け、騎馬・徒歩など多くの者が護送して、一旦
安芸守の邸に入れた。(徳川御日記、徳川御実紀、赤穂鍾秀記)
* * * * *
事のついでに吉良一家の始末を付けよう。この月十一日左兵衛は再び網乗物に揺
られ揺られて、安芸守の領地信州高島に送られた。これに付き随った旧臣は、臆病家
老の左右田孫兵衛と戦闘当夜に手傷を負った山吉新八郎のただ二人。かくて左兵衛
はかの地に到り、淋しい配所の月を見ること三年、宝永三年正月二十日、痩死(そうし)
した。諏訪家からこれを幕府に届け出たので、幕廷から御書院番石谷(いしがや)七之
助を派遣して検死させたが痩死に違いないので、死骸はそのまま掘り埋められた。ここ
に至って室町以来の一名家も、全く断絶した。
さてその本庄邸は領地とともに召上げられ、一時松平日向守に預けられたが、何人
もこれを不祥不浄の地として望む人がない。それでいわゆる棄地として民間に払い下
げられたので、やがて建物を解体して、材木として売り出したが、これまた誰も買う者が
ない。のみならず、この評判が市中に伝わると、滅多な物を買って、吉良家のたたりに
とりつかれたら災難だというので、当時の旧材木屋は、皆多少の損をしたということであ
る。
* * * * *
それから上杉家はともかくも不面目、いかに紀州公の縁家でも、柳沢家と昵懇(じっ
こん)でも、平気な顔をしている訳に行かない。それで左兵衛処分の時、上杉家は役
目の遠慮を伺い出た。翌五日弾正大弼(だんじょうのたいひつ)に限り遠慮せよと命じ
られ、翌三月二十五日免職となった。
このために業(ごう)を煮やした訳でもなかろうが、吉良家の家来どもは、上杉家に引き
取り、片を付けよと命じられたのを幸いに、上杉家では、浪人討入りの当夜卑怯の振
舞いをした輩に対し、あるいは首を刎(は)ね、あるいは双刀を取り上げて、武士の身
分から追放したとのことである。
附言 弾正大弼職の遠慮について、「後鑑録」を始め、諸書に大譴責(けんせき)の
命令書を載せるが、これは例の製造である。いかに父子の縁故があればとて、全
然他家の上杉家にまで譴責処分がされるはずがない。
二八八
検使の任命
四家の準備
同じ二月四日の午前中、次の奉書が義徒お預けの細川家に向けて発せられた。
預けおかれた浅野内匠の家来にお仕置の命が出たので、追って御目付荒木十右
衛門、御使番久永内記を派遣する。その節はご自分で会う必要はなく、家来が対
応すればよろしい。以上。
二月四日
稲葉丹後守
秋元但馬守
小笠原佐渡守
土屋相模守
阿部豊後守
細川越中守殿
この書は巳の上刻、午前十時に細川家に届いた。続いて巳の中刻、十一時前後に、
同文で、ただ臨検の日付と御使番の姓名だけ変った奉書が、松平隠岐守、毛利甲斐
守、水野監物の三家にも届いた。
同時に老中、若年寄列席のうえ、老中の一人秋元但馬守から次の人々に対し、四家
お預けの者どもへの切腹の宣告兼検視として差し遣わす旨を口達した。
細川家へは、
御目付 荒木十右衛門
御使番 久永内記
久松家へは、
御目付 杉田五左衛門
御使番 駒木根長三郎
毛利家へは、
御目付 鈴木次郎左衛門 御使番 斎藤治左衛門
水野家へは、
御目付 久留十左衛門
御使番 赤井平右衛門
なおこの四検使に各々御徒歩目付五人ないし七人、御小人目付五人ないし七人。
ほかに御使衆としてまた六、七人を差し添えた。そして幕廷は最初から一党に浅くな
い同情を寄せただけに「切腹までに十分支度の時間を与えるよう。また死骸その他本
人の双刀などは、御構いないので、勝手に処分してよい」と、若年寄加藤越中守から
内諭された。
検使たちはいずれも四家準備の時刻を測り、未の刻、午後の二時から各邸へと臨ん
だ。
附言 荒木十右衛門は内匠頭の領地召上げの際、受城副使として赤穂に臨んだ人。
当時は十左衛門と称したが。この頃は十右衛門と改めていた。
* * * * *
前日からの内示で、四家ともに昼夜にかけ、準備はことごとく整えた。そのうち久松
家ではかねて今日の場合に備え、仮屋を建てる必要があればとっさに組み立てるよう、
材木の切組までもしてあった。またもし遠島流罪となれば、金子(きんす)、衣類、夜具、
糧米など、一切の手当まで終えていたが、これらは皆不用となった。思うにこれは久松
家のみならず、他の三家でも、それぞれ用意したことであろう。
さて切腹の支度としては、
白紋付裃(かみしも) 一具
小袖(白紋羽二重 下着桑染) 一重
上帯
一筋
下帯
一筋
足袋
一足
小脇差
一振
白三宝(前の縁を欠く) 一個
扇子
一本
そして小脇差の短刀は、切っ先を五分ほど現わして、以下はすべて観世よりで巻いて
ある。これは久松家の用意であるが、他の三家でも大同小異であったろう。それは現
に細川家でも浅葱(あさぎ)無垢(むく)麻裃、黒羽二重小袖、上帯、下帯、足袋など用
意したことでも察せられる。
二八九
一党切腹の宣告
高輪邸における一党の居室二間には、この朝果して二個の活花が飾り着けられた。
朝からことに念入りな御馳走、やがて一党へ入浴をとのこと。それが終れば、今日は越
中守殿来臨というので、ことごとく衣服を変えられた。昼食が終わる頃から、邸内は何と
なく物々しい。一党はもとより覚悟しているが、談笑は少しも平生に異ならない。時刻
やや移り、何時になく、極めて早い夕食となった。一党はそれと察して、手早く済ます。
時を図って接伴係の八木市太夫が室内に入って来た。「先刻から御上使が来臨され
ているので、お召物を改めなさるよう」と述べ、小坊主に浅葱無垢の黒羽二重の小袖、
麻の裃などを、それぞれの前へ取り出させた。「畏ってござる」とは一同の挨拶。やがて
一体に整々として上の間に集まり、内蔵助を上坐に一列となって、いずれも厳然として
着坐した。この時内蔵助は活花まで室内に飾ってあることが、余りに場違いと思ったか、
接伴係に向い「お花はもはやお取り除けされたい」と求めたので、早速その意にそわ
れた。
やがて上使の来臨が報ぜられた。御目付荒木十右衛門、御使番久永内記が役者の
間へと入り、細川侯の近習がその後ろに引き添った。一党はいずれも拝伏する。四辺
には咳さえ聞えず、ひたすら屏息(へいそく)して宣告を待ち受ける。十右衛門は一党
に向い「御上意!」と声を掛け、
浅野内匠は、勅使御馳走の御用を命じられ、その上、時節柄殿中をはばからず、
不屈の仕方に付き、御仕置を命じられた。吉良上野は御構なく差しおかれたとこ
ろ、主人の仇を報ずると申し立て、内匠頭家来四十六人徒党を組み、上野宅へ
押し込み、飛道具など持参、上野を討ち取ったことは、公儀を恐れず、重々不届
きである。これによって切腹を命ずるものである。
と宣告し、内蔵助初め十七人の姓名を一々読み上げた。一党はハッとかしこまる。やや
あって内蔵助は少し頭をあげ、
「いかようの重科にも処せられるところを、切腹を命じられ、あり難い仕合せであります」
と受けた。この時御目付は公務すでに終るという態度で、
「内蔵助とは昨年赤穂にて面談以来、変ったところで対面いたすな」
とは、なんと有情の言であろうか。
「そのとおりでございます」
と内蔵助が答えれば、十右衛門は重ねて、
「これは自分の一存で話しておく。吉良左兵衛は、このたびの仕方不届に思(おぼ)
し召され、領地召上げの上、諏訪安芸守へ永のお預けとなった。左様含みおかれ
るように」
と告げた。この時の内蔵助の満足はいかがであったろう。
「さてはさては、まことに本懐の至りでございます」
と述べるのを聞き、上使はうなずいて、その場を起ちあがった。
思うに幕廷が四家への検使を決めた内に、特に荒木氏を細川邸に向わせたのは、
彼が昨年以来内蔵助の嘆願を取りついで周旋したことなどが思い合わされたからであ
ろう。そして十右衛門は吉良左兵衛の配流を、自分の一存で話すと告げたが、他の三
家へ臨んだ御目付もまた同様な発言をしたので、各々内意を得てあったものと見える。
二九〇
細川邸における一党の訣別
両使が座を起った後、細川家の接伴係宮村団之進と長瀬助之進は、越中守の内
意をもって入って来た。これらの人々はいずれも大落胆の体。団之進は内蔵助の側に
進み、
「このたび当家に方々をお預りして以来、主人は、何とか御一同へ良い知らせをお
聞かせしたいと、種々に心を砕いておりましたが、その甲斐(かい)もなく、残念至極
であります。事今日に至っては、もはや詮方もないので、お心静かに支度されるよう、
主人も申しております。」
と告げた。
内蔵助は感涙をたたえ、
「昨年以来今日に至るまで、何から何まで手厚いお取扱い、まことに言葉では言い
尽し切れません。ひたすらあり難くお礼申し上げる旨、何とぞ御前へお伝えされるよ
う心からお願い申し上げます」
と一礼し、
「ことに今日の切腹の命令は、武士の冥加にかなった次第、面目この上はございま
せん。ただこのたびの一挙は、いずれも内匠頭から扶持を受けました同家中、主人
の鬱憤を散じたいとの一図に出たのみで、一人もよその者を加えておりません。そ
れを「徒党いたし」と言われては、心外に存じます」
と言い終って、微笑をもらした。
このとき長瀬助之進は堀部弥兵衛老人へ何やら話しかけた。これも恐らく同じ意味
であったろう。
内蔵助はやがて人々を集め、越中守の内諭を一党に伝えた。一党もまた感激し、接
伴の諸士に向って、深々と頭を下げた。こうしていずれもその座を立ち、思い思いに手
洗い、口そそぎをして、最後の一令を待ち受けた。
* * * * *
「それでは土器(かわらけ)を参らせよう」とただちに銚子が取り出された。烈士の最
後の盃にあやかろうと、接伴係の人々は、我も我もと盃を所望(しょもう)する。その
間に堀内平八、堀七郎兵衛は一党に向い、
「方々の御遺書もあろうと存じ、御目付まで伺い出ましたところ、宛名があれば、それ
ぞれへ届けてやるようにとのこと。遠慮なく、書き置きなされますようよう」
と伝えた。そして堀内伝右衛門を呼び、
「幸い貴殿は方々とお心易い。銘々にお聞きしなさい」
と、料紙さては硯箱を、小坊主に持ち出させた。
伝右衛門は心得て、先ず内蔵助へ勧めれば、彼は一党を顧みて、
「種々のご配慮、千万かたじけなくは存じますが、この期に及んで何の申し残すこと
がありましょう」
と筆を取ろうともしない。
内蔵助に続いて、一党もまた同様であった。ああ、今日あるを期することすでに久し
い。今また何をか言わんやとの気概、一層涼しく見受けられた。
二九一
細川邸における一党の遺言
一党はいずれも筆を取ろうとしない。堀内伝右衛門は何か心に首肯(うなず)いた。
ではといって、個別談判に入った。先ず彼は内蔵助の側に寄り、
「何なりと言い置くことがあれば、一身に引き受けて、お通じ申そう」
といえば、内蔵助、
「さほどまでに仰せられるなら、拙者の従弟に大西坊と申す者が、山城の八幡に住
んでおります。ついでの時に、今日命の下ったこと、また晴れ晴れした天気のこと、
快く死についたことをお伝えください。また次男の許にも伝言を……」
とただこれのみ。
次に吉田忠左衛門、同じ意味を、
「縁者の伊藤十郎太夫へお話し下さるよう」
といった。
原惣右衛門の母が惣右衛門の忠義を激励するため、自害したことは、先に述べたと
おりである。彼は今わの際までこれを思い、今朝一首の辞世を詠んだ。
かねてより君と母とに知らせんと、人より急ぐ死出の山路
それで今また言い残すことはないという顔色。だが、彼は何時も内蔵助の書記官長
だけに、内蔵助の名をもって、同志の内海道億に宛てた大封の書を委托した。
次に片岡源五右衛門は、
「かねてお話し申したように、拙者の祖先、備前以来の伝来の朱柄(しゅえ)の槍(や
り)を、泉岳寺へ残しておおりますので、遺族の者へ渡したく、何分よろしく……」
と頼んだ。(以上堀内覚書)
次に間瀬久太夫は恐縮の体で、
「まことに尾籠(びろう)なお話ながら、この頃少々腹を下し、朝からやや快方ではあり
ますが、万一切腹の場で粗相すると……」
と言い掛けた。
「それは念の入ったこと。お気使い無用になされよ。委細心得ました」と伝右衛門が
言えば、彼は満足の体。
次に小野寺十内は最初から笑いかけ。
「愚妻の和歌を惣右衛門に書かせて御覧になった由。今日の始末を京都の弓削太
郎右衛門までお伝え下され、妻の許にも通じてくれますよう」
との依頼。
次に間喜兵衛を叩けば、この場に及んでも黙っている。ただ満面に微笑を浮べて、
懐中から辞世の一首を探って差し出した。
草枕むすぶ仮寝の夢さめて、常世に帰る春の曙
次に磯貝十郎左衛門、
「拙者には別けてご懇意をたまわり、かたじけなく存じます。この上ながら老母のこと、
何とぞお心付け下されるよう」
という。伝右衛門引き取り、
「お袋様のことは、拙者の母とも思い、気を付けますので、ご安心くだされ」
と答えた。十郎左衛門はそぞろ涙を催した。孝子の心情察するべしだ。
次に堀部弥兵衛老人である。この老人は平生から下戸であったが、かねて伝右衛門
に向い、「人はどうも飲む方が好いようでござる。私の縁者の堀部甚之允(じんのじょう)
と申す者、肥後におります。彼にお会いの節、この意をお伝え下されたい」と言ってい
た。が、今また伝右衛門から遺言を求められ、何を言い出すかと思えば、
「かねて申し上げたように、甚之允へ飲めとお伝え願いたい」
とほほ笑みながら言い残す。何という淡泊な遺言であろう。
次に近松勘六、
「拙者は例の負傷にて、この手が痛んでおりましたが、お厚いご療治にて、昨日ま
でに全快いたしました。今日のこと、勘六喜んで身罷(みまか)ったと、長福寺の文
良へお伝え下さい」
という。
次は富森助右衛門、伝右衛門を傍に招き、「内蔵助は耳が遠いので、先刻の話は
聴取れなかったでござろうが、御目付からの御意はかくかくでござる」と語りつつ、
「思い残すところもないが、老母のことのみは、何分にもお心付けを願います」
という。これに対して伝右衛門が「お心安く思し召せ」との快諾を大いに喜び、取り出し
たは辞世の一首。
春帆独賛
四日は姉の忌日なれば
先立ちし人もありけり今日の日を、ついの旅路の思い出にして
下に自家の法号まで記しつけた。さすがは風流な春帆の末期。(以上、堀内覚書)
二九二
同
次に潮田又之丞、
「お序(ついで)があれば、播州北条の遺族どもへこれをお示し下されたい」
と辞世の歌を差し出した。
武士(もののふ)の道とばかりを一筋に、思ひ立ちぬる死出の旅路に
勇往直前この間(かん)に見える。
次は早水藤左衛門、これまた一首の辞世を留めて、
地水火風空のうちより出でし身の、たどりて帰る元のすみかに
これは大悟徹底の意(こころ)。
次は赤垣源蔵の木訥漢(ぼくとつかん)、珍らしく口を開き、
「この間(あいだ)中は出来物のためにちと閉口いたしたが、親切な療治により昨日来
全快いたし、今日は御上使からの切腹の御沙汰、本望このことにござりまする。御老
中土屋相模守殿の内に、拙者の縁者本間安兵衛という者がおりますので、今日のこ
とをどうか伝言下されたい」
と申し出た。
次に奥田孫太夫は莞爾(にこっ)として、
「拙者はこの歳になるまで、切腹の稽古をしたことがない。いかようにすればばよい
か、ご指南いただきたい」
とは何という率直さ。老実の伝右衛門は、どこまでも老実。
「拙者も見たことはないが、小脇差を載せた三宝を前に置かれた時、それを引き寄せ
て、肩衣をお脱ぎなされ……」
などいう傍(かたわら)から、富森助右衛門、磯貝十郎左衛門らが口々に、
「稽古はいらない、ただ顎(あご)を突き出してさえいれば、ご多分には漏れませんぞ」
と一度にドッと笑い出す。その人々の気嫌良さ。
次に矢田五郎右衛門、
「お聞き及びのとおり、拙者は吉良邸にて刀を折ってしまい、相手の刀を奪い取り、
そのままになっております。死後お渡しの節、遺族の者どもが惑いましょう。どうかそ
の訳をお伝え下さい」
といい、そのほかはない。
最後に大石瀬左衛門
「今日の首尾。大石無人、郷右衛門、三平の三人へおついでに聞かせてやって下さ
い」
とまたこれのみであった。
この間一つの感ずべきことは、右の遺言を受けた堀内伝右衛門その人である。彼は
その後道の遠近を問わず、自身で一々一党の遺族を訪れて、人々の希望を満たし、
その上孤独な遺族のために、有る限りの力を尽した。そして事件落着の後、自分が親
しく談話した事実を極めて真摯(しんし)に筆記して子孫に残した。世に「重勝筆記」あ
るいは「堀内覚書」というのは、この書である。一挙の一面と一党中十七人の性格を察
する上に、これに勝る史料はない。真の日本人たる者は、お互いにこうありたいもので
ある。
* * * * *
こうしたうちにも壮年の無遠慮連は、
「今日は別して御馳走を戴きました。それにしては、何時ものお茶が出ませんがな」
と笑いながら促(うなが)した。
「これは誰も気落ちし、つい失念して相済みません」
と、そこにおろおろする小坊主に命じ、急いでお茶さては煙草を出す。一党はそれを
喫しながら、何時でも首をと言わぬばかり。(堀内覚書)
二九三
細川邸における一党の切腹
さて高輪の細川邸における切腹の場所は、大書院前の広庭と定められた。大書院
の中には、屏風を背負って、御目付荒木十右衛門、御使番久永内記が検使として着
坐し、屏風を隔(へだ)て、少し下がって、細川家の家老三宅藤兵衛以下君側の人々
が並ぶ。次に縁側一帯には公儀の御徒歩目付七人、次に縁先の白砂の上には薄縁
(うすべり)一流れを敷き連ね、同じく公儀の御小人(おこびと)目付、それに続いて、細
川家の御小姓頭、御留守居らが列坐する。次に大書院から前の右の方、袖垣の外に
は、公儀の御使衆ならびに細川家の諸下役が控え、次に大書院から左方に袖形(そ
でなり)に出た役者の間には、前に塀を隔てて、義徒の一党が呼出しを待ち構える。そ
のまた廊下には介錯(かいしゃく)人の一列が肩を並べて詰めている。以上は諸下役
を除くほか、検使を始めとして、刑者被刑者皆裃の礼服着用、いかにも威儀堂々であ
る。そして検使の座から真正面の庭に畳三畳を敷き並べ、その上に白布の蒲団を敷
いて、切腹の場所とし、畳も蒲団も一人ごとに改めることになっている。そしてその背後
から両脇にかけ、三面に白布の幔幕を打ち回して、その場を囲ってある。ここで切腹
および介錯の人々を示すと、
切腹義徒
介錯人
大石内蔵助……安場一平
原 惣右衛門…増田貞右衛門
間瀬久太夫……本庄喜助
間 喜兵衛……粟屋平右衛門
堀部弥兵衛……米良市右衛門
富森助右衛門…氏家平吉
早水藤左衛門…魚住惣右衛門
切腹義徒
介錯人
吉田忠左衛門……雨森清太夫
片岡源五右衛門…二宮新右衛門
小野寺十内………横井儀右衛門
磯貝十郎左衛門…吉富五左衛門
近松勘六…………横山作之丞
潮田又之丞………一宮源四郎
赤垣源蔵…………中村角太夫
奥田孫太夫……藤崎長左衛門 矢田五郎右衛門…竹田平太夫
大石瀬左衛門…吉田孫四郎
つまり切腹の侍十七人に、介錯人も十七人と定められた。
この日越中守は早くからこの中邸に臨み、何くれと指揮したが、閣老から奉書の旨も
あったので、公然と切腹の場には立ち会わなかった。大小書院中間の襖を立て切り、
小書院のうちから内覧された。
* * * * *
時刻を計った検使荒木十右衛門は、
「大石内蔵助!」
と宣した。
役者の間の口に詰める接伴係の御小姓吉弘嘉左衛門と八木市太夫は旨を受け、
「大右内蔵助殿、お出(い)でなされ」
と高らかに呼ばわった。
「かしこまった」
と答えて、内蔵助は座を起ち、廊下の方へ出ようとする。
日頃彼ともっとも親密な潮田又之丞が後ろから、
「いずれも追っつけお後から」
と声を掛ければ、内蔵肋は振り返り、
「お先に……」
とただ一言、莞爾と笑み、出て行く。
御小姓の先導、介錯人の後従にて、彼は静々として設けの席につけば、小脇差を載
せた三宝が、その前に据えられた。後ろには藩中の物頭にその人ありと知られた勇士
安場一平が介錯の太刀を取って立つ。内蔵助は端然として、検使の方にー礼し、おも
むろに双(ふたつ)の肩衣を刎(は)ね、肌を押し脱いで、三方引き寄せ、やおら小刀を
腹へと刺したその瞬間。
「えい」
と一声頭上に響けば、絶世の烈士大石内蔵助良雄の英魂は、髣髴(ほうふつ)として
碧落(へきらく)に帰した。一平はただちにその首を揚げて面を検使の方へ向け、実検
に供した。切腹の式はここに終り、介錯人は退(しりぞ)く。死骸はそのまま蒲団に包み、
式場外に出して納棺する。畳は替えられる。蒲団は改められる。同じ手順は繰り返され
た。ただ首実検の式だけは、四家ともに最初の一人に止められた。
* * * * *
役者の間の入口では、前の二人の御小姓の声で、
「ただいま内蔵助殿のご切腹首尾よく相済みました。次は吉田忠左衛門殿お出でな
され」
と呼ばわった。第三番になって、
「ただいま忠左衛門殿のご切腹首尾よく……」
と呼びかけた時、どこまでも武士気質の堀内伝右衛門はたまりかね、
「一党の方々の切腹に不首尾のあろうはずがない。「首尾よく」だけはどうかはぶいて
おくれ」
と直言した。道理に打たれて、それから以後は単に「某殿のご切腹相済みました」との
み読み上げられた。
こうして十七士の切腹がすべて終わったのは、酉(とり)の上刻前、かれこれ暮六つの
鐘が入相を告げる頃であった。
二九四
久松邸における一党の切腹
久松家においても、隠岐守自から三田一丁目の中屋敷に入った。ここに来た御目
付の杉田五左衛門、御使番の駒木根長三郎の二人を出迎えて会釈し、準備はそれ
ぞれ整えられた。一党の切腹場はここも同じく大書院前、臨検の一行から、藩士の配
置に至るまで、大略細川家のとおりであった。強いてその違いを言えば、ここでは一党
を長屋に置いたので、今日は駕籠で本邸に移し、玄関から登って、次の座敷に控えさ
せた。そして切腹場の三面を花色の幕で囲み、二畳の畳の上に浅葱(あさぎ)木綿の
蒲団を敷いたことなどが、少しく違って見えた。隠岐守は奉書の内容に照らし、これを
別座から内覧し、一門の人々も内々このうちに従った。恐らくこれは他家でも同様であ
ったろう。さてその切腹人と介錯人は、
切腹義徒
介錯人
切腹義徒
介錯人
大石主税…………波賀清太夫
堀部安兵衛………荒川十太夫
中村勘助…………大島半平
菅谷半之丞………加藤斧右衛門
不破数右衛門……荒川十太夫
千馬三郎兵衛……波賀清太夫
木村岡右衛門……宮原久太夫
岡野金右衛門……加藤斧右衛門
貝賀弥左衛門……大島半平
大高源五…………宮原久太夫
ここでは切腹の侍十人に、介錯人五人と定められた。中でも清、十、久の三太夫は
徒(かち)目付、半平と斧右衛門は徒行(かち)である。彼らは身分の如何にかかわら
ず、剣法に達した者を人選の結果、この五人を得たのである。それで徒行も今日だけ
は徒目付格ということで触れ出された。思うに前の細川家では十七人の介錯に、立派
な侍十七人を挙げたのに、この家では十人のそれに対し、徒行まで加えて僅かに五
人であった。この点において久松家の武は、細川家に比して、遜色があった。
*
* * * *
未(ひつじ)の刻、午後二時過ぎに検使が来臨してから間もなかった。義徒一同を大
書院に呼び出して、検使杉田五左衛門は処分の沙汰書を読み上げた。大石主税、堀
部安兵衛は一党を代表し、
「私ども一同本意を達した上に、切腹仰せ付けられること、まことにあり難く存じます」
と受ければ、両検使は言葉を和らげ、これまた自分らの一存と称し、幕廷での申し合せ
のとおり、「ゆるゆる支度をされよ」と、温言(おんげん)を加えた。
一党は退席して元の溜(たま)りに入る。ここでも勧められた茶などを喫し、いずれも談
笑常のように、やがて手拭い鼻紙などを取り出し、顔から襟の辺を拭(ぬぐ)い、心用意
して待った。
この間に一つの出来事が舞い込んだ。それは平田黄軒(こうけん)という儒者が邸に
帰って来て、「一党は今日一且切腹の座まで進み、その座で赦免となるとの説が頻り
でござる」と告げた。「さては左様のこともあろうか、早まっては当家の不覚」と、延ばす
だけ時間を引き延ばした。だが、それも一党を殺したくない世論が生み出した一時の
風説に止まった。
* * * * *
時は申(さる)の中刻、午後五時頃となった。検使はいざと促(うなが)す。今は躊躇
すべきでない。
「大石主税殿お出でなされ」
の呼声は掛かった。
「かしこまった」
と立とうとする時、堀部安兵衛はその座から、
「拙者もただいま……」
と呼ばわった。主税顧みて顔見合せ、莞爾と笑って立ち出(い)でる。
やがて主税は設けの場に上り、検使を望んでその座を正し、一礼の後、お預け以来
厚意を寄せ、今日自分の介錯として背後に臨む波賀清太夫を顧みながら、微笑を湛
えて目礼した。形のとおり三宝を引き寄せ小刀を腹に当てた時、清太夫の手中の鋭利
な刀は大空を切った。十六歳の忠義の花は、その太刀風に飛び散った。清太夫は進
んで弓手を伸ばし、その髻(もとどり)を提げて前に向け、左の脚を折り敷いて、検使の
実検に供えれば、切られるも武士、切るも武士と、感称の色は式場に充ちた。こうして
ここでも首実検はこれで止められた。
付言 この日隠岐守は一党を召して、訣別の意を通じ、殊に主税の死を惜しんで遺
言を聴き取ったとの談は、当時から流行して『義人録』にまで書かれたが、実際は
一つの風説に過ぎない。
それから切腹前に内蔵助が小時間を得て、最後の決心を指示する手紙を主税に
送り、主税はこの書を小刀の柄に巻き、それを握って切腹したとの説がまた一つ。
おまけにこれには内蔵助の手紙までもつける。製造もここまですれば滑稽に落ち
る。あたら烈士の面目を毀損する市井文学の浅ましさ。
二九五
毛利邸における一党の切腹
第一番には大石主税、第二番には堀部安兵衛と、次第に切腹して、第十番大高源
五の順番になった。彼は呼び出されて、その場につき、微笑を漏らして、左右を顧み、
「この場に臨みながら、一句浮んだので、筆を拝借したい」
と申し出た。それというので傍から矢立を差し出すと、悠々として鼻紙を取り出し、
梅で呑む茶屋もあるべし死出の山
と一首の俳句を書き、さらばと従容その首を授けた。その洒脱さは、さすが真に風流な
大高子葉の最後であった。
附言 この間において、非常に世人の妄信を引いた一話がある。大高源五は久松家
へ御預け以来、接伴係の一人波賀清太夫と親しんだ。が、清太夫の身分がいか
にも低い、それを平生気の毒に思っていた。すると幸いに清太夫が源五の介錯
人に当った。やがて源五は一策を案出し、切腹の場に坐りながら「武士の介錯は
相当の武士によってされるのが大法でござる。それでお尋ね申したい。貴殿のご
身分はいかがでござる」と問うた。清太夫はたと行き詰ったが、彼も英物「ご懸念
には及びません。拙者は藩中では上士の格でござる」と答えたので、源五はその
ままに首を討たせた。このことは無断に棄てておく訳にも行かない。清太夫はや
がてこれを届け出ると、藩庁でも棄てておけず、ついに上士の格に昇ったというの
である。
ところが清太夫昇進のことは『久松家日誌』にも見えず、「清太夫覚書」にもない。
のみならず太高源五の介錯人は宮原久太夫であって、波賀清太夫ではない。余
りおかしいから、松山の士内藤嗚雪氏に依頼し、清太夫の子孫小田資治(すけは
る)氏に聞いたところ、同家の家記にはそのことは載っていないという。そのうえ清
太夫は後久松家を去り、京阪から江戸に出て、浪人して兵学を教授し、元文三年
八月十六日芝宇田川町で歿したということまで知れた。ああこの一英物、ついに
松山藩の知るところとならず、太平の天地は空しくこの人を埋没してしまった。そ
の跡を回顧すれば「義臣伝」の作者片島武矩(たけのり)の深淵子に似たところが
ある。これを思うと、同情にたえない。
それからある者はまたこの談を大石内蔵助と安場一平とに当てはめる。だが、あ
いにく一平は当時すでに立派な物頭、そうであれば問うまでもない。世説の当て
にならないこと、おおむね皆こんなものだ。
* * * * *
本問題に帰って、麻布日ヶ窪の毛利邸に臨んだのは、御目付の鈴木次郎左衛門と
御使番の斎藤治左衛門の一行であった。この邸でも毛利甲斐守および子息の右京太
夫があらかじめ待ち受けて挨拶し、やがて久松家と同じく、一党を大書院に呼び出し
て沙汰書により切腹を宣告した。ここでは岡島八十右衛門と村松喜兵衛の両人がお
受けした。その言葉の涼しさ、あたかも一口に出るようである。平素の訓練はますます
この辺に見える。さてその諸設備から、諸配置まで、久松家とさして違いはない、そのう
ち一寸目に立ったのは、切腹式場の後面に引き回されたのが、家の定紋を着けた幔
幕であった。この邸では義徒に対し、次のとおり介錯人を選定した。
切腹義徒
介錯人
切腹義徒
介錯人
岡島八十右衛門……近藤為右衛門 吉田沢右衛門……鵜飼惣右衛門
武林唯七……………榊 正右衛門 倉橋伝介…………田上五左衛門
村松喜兵衛…………江良清吉
杉野十平次………近藤為右衛門
勝田新左衛門………鵜飼惣右衛門 前原伊助…………榊 正右衛門
小野寺幸右衛門……江良清吉
間 新六…………田上五左衛門
十人の義徒に、五人の介錯人、毛利家の武もまた知るべしだ。さてこの家でも形のよ
うに、岡島八十右衛門から吉田沢右衛門と、順序を追って第三番目に武林唯七となっ
た。彼は端然としてその座につき、三宝を引き寄せ、短刀を取り上げて、腹に当てると
ころを、介錯人の榊正右衛門が「えい!」と声を掛け、後ろからその太刀を振り下した
が、心臆したか、手元が狂ったか、頸の半分まで切り込んで、打ち損じたので、唯七は
どうと前へ倒れたが、さすがは勇士、痛手に屈せず、その身を起して、姿勢を正し、
「静かにお討ちなされ」
と声をかけた。正右衛門も気丈の武士、これはと太刀を取り直し、
「承(うけたまわ)る」
と答えながら、声もろともに打ち下せば、身と首はそのまま二つとなった。検使を始め
満場の役人、唯七が最後の際まで一糸乱れず、従容自若の態度と、正右衛門が最初
に失錯しながら、精力を一倍して、前失を取り返したのを感嘆した。
唯七は文学の才があった。彼は歿前一絶を賦して、これを辞世として残した。
三十年来一夢中
三十年来一夢の中
捨生取義幾人同
生を捨て義を取る幾人か同じや
家郷臥病双親在
家郷病に臥す双親あり
膝下奉歓恨不終
膝下歓を奉じ、恨むらくは終らざることを
こうして段々に介錯を進め、この邸における十人の切腹もすべて終了した。
二九六
水野邸における一党の切腹
一党の葬儀 細川越中守の
名言
三田の水野邸でも、主人監物は御目付の久留(くる)十左衛門と御使番の赤井平
右衛門らの検使の一行を出迎え、式場へと誘った。この邸はさすがに世々武備を専ら
として来ただけ、細川家と同様、介錯人も一人に一人を当てた。その人々は、
切腹義徒
介錯人
切腹義徒
介錯人
間 十次郎………青山武助
奥田貞右衛門……横山笹右衛門
矢頭右衛門七……杉 源助
村松三太夫………広瀬半助
間瀬孫九郎………小池権六 茅野和助…………値賀(ちが)又蔵
横川勘平…………山中団六 神崎与五郎………田口安右衛門
三村次郎左衛門…稲垣佐助
以上の義徒は壮年揃い、いずれも死を視ること帰するがごとく、続いて切腹を遂げた。
ここにおいて四十六人一時にことごとく刀に伏した。ああ天は粟を雨ふらし、鬼は夜に
涙するのではなかろうか。
* * * * *
一党の希望はいずれも同じく、遺言はあたかも一口に出たような内容であったので、
四家はあらかじめ打ち合せ、今夕その遺骸を挙げて、泉岳寺へ送った。ただ看る、こ
の夜義徒の死骸(しがい)を収め棺を載せた駕籠一挺ごとに、高張提灯、箱提灯、
各々一対を先に立て、棒突きの足軽六、七人がこれに付き添い、騎馬徒歩立(かちだ
ち)の侍を合せ、多いものは数百、少ないものでも百余、前後を警固し、粛々として各
邸の裏門を出た。やがて泉岳寺本堂の縁側には四十六個の白棺が据えられた。大読
経、大引導(いんどう)、その後冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の墓の横、
南面する小丘の上に、各々三尺の地を占めた四十六個の土墳が起された。
翌日法事料として、
金五十両……細川越中守より
銀五十枚……松平隠岐守より
銀二十枚……毛利甲斐守より
銀二十枚……水野監物より
が泉岳寺へと寄進され、同時に義徒の武器、什具もすべて同寺に納められた。
* * * * *
処分は終了した。久松、毛利、水野の三邸、ことに仙石邸までも、一党の坐した畳を
すべて新たに取り換え、はなはだしい家は襖まで張り替えた。が、細川邸のみはその
ことなく、依然元のままに置かれた。のみならず「一党切腹の場を浄めるところは、貞蔵
院に命じ、祈祷いたさせましょうか」と家臣が申し出ると、「それには及ばない」と斥(しり
ぞ)けられた。「それはどういう理由だろうか」と俗吏どもが疑い惑うのを耳にした越中守
は、左右に向い、
「十七人の勇士は当邸の守護神じゃ。それを祓(はら)い浄める法があるか」 と答え
た。後に懇意な大名が来訪された時にも、一党切腹の跡を指さして、
「あれは我が庭の名所でござる」
と話した。
越中守が一党に対し心を用いられたことは善かった。一党切腹の翌々日、侯は在府
の藩士をことごとく上邸に召集し、
「このたびは、いずれもお預け一党の接伴に骨折り、苦労であった。御処分は権現
様以来の掟に基いたことであるから、力に及ばなかった。とにかく一党揃いも揃った
勇士ども、その間に優劣のあろうはずはない。毀誉褒貶(きよほうへん)の噂にもよく
よく判断して対応するように」
と説諭した。大人は義に暁(さと)り、また大いに暁る。すでに大節を全うすれば「小徳
は、問題にしない」と古聖も言った。天下後世義徒を品評する者は、越中守に学ばね
ばならない。
二九七
遺子の処分
およそ酷烈悛厳なのは当時の法制である。父が罪を犯せば、その子もまた免がれな
い。したがって幕廷は一党に尋常でない同情を寄せたにもかかわらず、切腹を申し付け
た以上はその子を不問に付する訳には行かない。それでかねて提出させておいた親族
書により、一党の処分と同日に、その遺子十九人に欠席裁判を宣告した。その申渡しは
次のとおりである。
父どもは、主君の仇を報じるためと申し立て、四十六人が徒党し、吉良上野介宅へ
押し込み、飛道具など持参、上野介を討ちとったことは、公儀を恐れない不届に付
き、切腹を命じた。
これによって伜どもは遠島を申し付ける。
未二月四日
というものであった。この宣告は老中秋元但馬守から町奉行保田(ほだ)越前守に渡さ
れ、越中守に執行を命じられた。江戸に住む者は即日町奉行所に呼び出して申し渡
し、京都大阪にいる者には、その地の町奉行から、また国々にいる者へは、そこの国
主城主から申し渡したうえ、江戸に護送し、伊豆の大島に配流された。ただし九十年
来の太平に、治教はようやく人心に入り、人道はそろそろ頭をもたげて来た。第一に三
族連坐が引き込み、第二に妻と女子までには及ぼさず、今は第三の男子のみを問う
程度であったが、それも十五歳以上に限り、それ以下の者は、同年に達するまで執行
を猶予され、その間に法師に帰る者は遠島御免と宣せられた。名誉の犯罪者の子供
に対する特別の寛典であった。とにかく宣告を受けたのは、
大石吉千代 十三歳。内蔵助の二男。
大石大三郎 二歳。内蔵助の三男。
両人は母に従って、母の生家但馬(たじま)豊岡の石束家にいた。
片岡新六
十二歳。源五右衛門の嫡子。
片岡六之助 九歳。源五右衛門の二男。
両人は母とともに山城の伏見の両替町筋銀座二丁目に寓居していた。
間瀬定八 二十歳。久太夫の二男。
吉田伝内 二十五歳。忠左衛門の二男。
この内伝内は播州姫路の城主本多中務大輔忠国の家士で、親族伊藤十郎太夫の
許に、また定八も同家士某に引き取られていた。
原 十次郎 五歳。惣右衛門の一子。
大阪天満九丁目和田喜六の家に預けられていた。
富森長太郎 二歳。助右衛門の一子。
江戸の芝愛宕下田村右京太夫建顕(たてあき)の邸内で、同藩士菅(すが)治左衛門
の許にいた。
不破大五郎 六歳。数右衛門の一子。
在江戸の松平紀伊守の邸内で、太田半兵衛の許にいた。
中村忠三郎 十五歳。勘助の長男。
中村勘次
五歳。勘助の二男。
両人は奥州白川の城主松平大和守基忠(もとただ)の家士で、勘助の甥三田村十郎
太夫の許に預けられていた。
木村惣十郎 九歳。岡右衛門の長男。
江戸霊巌(れいがん)寺内の長昌院に托されていた。
大岡次郎四郎 八歳。岡右衛門の二男。
これは旧赤穂の同藩士大岡藤左衛門の養子となっていた。
茅野猪之助
四歳。和助の一子。
奥田清十郎
二歳。貞右衛門の一子。
老中秋元但馬守の家来寺田九兵衛に引き取られて、同藩の江戸邸内にいた。
村松政右衛門 二十三歳。喜兵衛の二男。
幕府の御小姓番頭小笠原長門守長定の家に、玉井政右衛門と称して仕えていた。
矢田作十郎 九歳。五郎右衛門の一子。
江戸八町堀の旗本岡部駿河守の家に托されていた。
岡島藤松
十歳。八十右衛門の長男。
岡島五郎助 七歳。八十右衛門の二男。
両人はいずれも母と郷里にいた。
以上十九人のうち、十五歳以上の者は吉田伝内、村松政右衛門、間瀬定八、中村
忠三郎の四人である。このうち村松を除く三人は皆地方にいたので、江戸に護送する
ようにと、それぞれに指令が出された。
附言 従来の諸書には以上の者の通称および年齢を区々に記し、一致するところが
ない。それで「幕府記録」、「久松家日誌」、「烈士報讐録」、「赤穂義人録」、「後
鑑録」、「赤城義臣伝」、「赤城義士年鑑」等を比較し、一方「堀内覚書」等に散見
するものを参考して、従来の誤謬を正し、その結果をここに載せた。自分ではこれ
が一番確かな積りである。
二九八
同
矢田作十郎の振舞い
二月六日町奉行の保田越前守は江戸にいる一党の子供を町奉行所に呼び出した。
個別に申渡し、村松政右衛門は直ちに遠島、その他は親類縁者に責任を持って扶養
し、縁者のない者は、十五歳に達するまで、町内で保育するようにと命じた。そのうち
で人々の注目を引いたのは、矢田五郎右衛門の子で、当年九歳の作十郎であった。
彼は八町堀に住む幕府の旗本岡部駿河守の許に預けられていたが、その人となり鋭
敏な児であるから、主人夫婦は我が子のように愛していた。一党がお仕置となって、主
人はこのことを彼が聞いたら、さぞ嘆き悲しむであろうと、知らせないようにしていたが、
何さま評判が高いので、何時か小耳にはさみ、半信半疑でいるところに、町奉行所か
らの召喚が来た。今はどうすることも出来ない。主人夫婦は髪を結い直させ、衣服を取
り替えさせ、
「今日は町奉行様がその方のお行儀をご覧になるとのことゆえ、多勢の中に出たら、
よく気を付けねばなりませんぞ」
と言付けた。
作十郎はそれを聞いて、
「いえ、そうではないのでしょう。父は切腹されたということですから、今日は私の命を
お取りなさるのでござりましょう。私、とうから覚悟しております。本当のことを聴かせ
て下さいませ」
と問い返す。
主人夫婦の胸は一杯。
「いえ、そうでない」
「いえ、そうでござります」
夫婦は持て余し、
「ともかくも行って、御用のほどを聞いたら、悪いことではあるまい」
とやっとすかして出してやった。夫婦は共に涙に暮れ、
「こんなことになるなら、あんな利発な可愛いい児を預るのではなかったのに」
と鼻をつまらせた。
作十郎はやがて駕籠に乗り、主人の家来に送られて、奉行所に行った。
奉行所の役人はこれを見て、
「幼少ではあるが、法は法。刀を外しなさい」
と命じた。
作十郎は「ハッ」と答え、ちょっと小首を傾けたが、
「家来に持たせても、法には背きませんか」
と問うた。
「それで差し支えない……」
「では……」
と供待に戻って、佩刀を取って家来に渡し、大人しく進んで、申渡しを聞き、かしこまっ
て引き退った。役人はこれを見て「さすがは義人の子であるナ」と嘆称した。(以上、赤
穂義人録、赤穂鍾秀記により、矢田親類書を参照した)
* * * * *
なお義徒の子で、以上十九人の内に漏れた者が一人ある。それは岡島八十右衛門
の三男である。これは父が切腹後の同月十五日郷里にて出生したので、当時の赤穂
城主永井伊賀守から幕府に届け出て、「いかが処分すべきか」伺った。すると幕廷はと
ても寛大で「先ずそのまま養育させよ」と申し渡した。
二九九
同
四人の配流
憐れな者は、吉田伝内、間瀬定八、中村忠三郎、村松政右衛門の四人である。こ
れらは一挙の際いずれも母への孝養を命じられ、父兄に引き離されて、後に留まった
者である。四人は年齢十五歳以上というので、四人共に一旦江戸に呼び出され、ここ
に置かれること三か月、この年四月二十七日伊豆の代官小笠原彦太夫に引き渡され、
伊豆の大島へ送られた。
当時の法制として遠島に配流される者は、金二十両、米二十俵以上を配所に持参
することが出来なかった。それで吉田伝内および間瀬定八が仕えた姫路の城主本多
中務大輔、ならびに中村忠三郎がいた白川の城主松平大和守は、いずれも深くその
境遇を不憫(ふびん)に思い、各人に金十九両と白米十九俵を支給した。ただ村松政
右衛門が仕えた旗本小笠原長門守は小身であったから、支給したのは僅か金四両で
あった。
それで多いというではないが、前の三人はとにかく当分の支度はできたが、後の一人
はそれが手薄いのである。さすがに義徒の子は子である。船に乗り込んでから、三人
は言葉を揃え
「我々は領主のお恵みで、当分事は欠かないが、政右衛門殿にはお支度不足の様
子、さぞ心細いことでしょう。お互いの父兄既に一処に死に、今またお互いに一処
に流人となれば、何時召し帰される当てもなく、同じ辺土に朽ちる身である。衣類金
穀に自他の別を立つべきではない。一様に分けて、食いもし、使いもいたしましょう。
決して遠慮されるな」
と慰めた。政右衛門はこれを深謝し
「ご芳志のほどは千万かたじけないが、結局は用意の手薄いのがましかも知れない。
今日の境遇では、ただ飢えるか凍えるかして、死を待つよりほかはござらぬ」
と冷やかに一笑した。
日頃貪慾な船頭・水手(かこ)は、流人の財貨を見ると、多くはこれを奪い取り、配所
に達する頃までには、いくらも残さないのが常であるが、世間には良心のある人間も何
人かはいる。彼らはこれを聞いて、感涙を催し、人をも物をも大切に保護して、やがて
大島まで送り届けた。
一党の忠節の噂は早くも孤島にまで伝わっていたので「それ義士の子供が送られて
来るそうな。お互いに目を掛けてやれ」と粗雑ではあるが、小屋を建て、四人の来着を
歓迎した。
しかし永い年月のこと。当初の蓄えは何処までも続かない。四人は蓆(むしろ)を打ち、
蓬(とま)を編んで、生計を助けていたが、江戸を発してから丸二年、宝永二年の四月
二十七日、間瀬定八は生年二十二歳を一期としてこの地に痩死し、長く不還の客とな
った。ただし不幸中にも、世には往々有心の人を欠かない。江戸の商人戸屋三右衛
門は、かつて政右衛門と交友があったので、配所の辛苦を想いやり、遥かに金三両を
贈って、薪水の費(ついえ)を助けた。それで残る三人は宝永六年まで都合七年間、
苦労して風雨と闘い抜いた。
三〇〇
世論の沸騰
制札の破棄 鳳岡の挽歌
二月四日の午後、一党処分の報は、紫電のように市中に伝わった。気早な江戸っ
子はこれを聞いて、悲しみかつ怒った。「ヘンあんな忠義な士に腹を切らせるようでは、
忠も孝もあるものか」と罵(ののし)る声。到るところに轟々(ごうごう)であったが、たちま
ちその夜から、所々に命がけのいたずらを押っ始めた。
全国里程の中心地日本橋の橋頭に掛けられた制札の第一条には「一つ、忠孝を励
むべきこと」と掲げられ、東照公以来言わば国家の大憲章として、万民が尊敬して来た
ものであったが、何者かが、この夜墨黒々とこの第一条を塗り消した。幕廷ではこれを
聞き「天下の制札を汚すとは、不届至極の大罪人、早く搦(から)め取って成敗(せい
ばい)せよ」と、町奉行・盗賊改に命を下し、厳重に穿鑿(せんさく)したが、容易に見つ
からない。それで取りあえず制札だけは新たに取り換えた。するとその夜、今回は忠孝
の条にべたべたと泥を塗り付け、文字が見えないようにした。「これは公儀を馬鹿にし
た不埓な奴ばら」と一層探偵を尽したが、皆目(かいもく)知れない。その間にも制札を
そのままにしておく訳には行かないので、三たびこれを改めた。すると今度はついに
制札を抜いて、川の中に投げ込んだ。これは独り日本橋のみでなく、南は品川、北は
千住、西は四谷の制札場でも、同様の珍事が頻々として起きた。人心が激昂したこと
は、明らかである。幕廷でも持て余し、後には制札の第一条を改め「親子兄弟睦まじく
すべきこと」と書き変えられた。(元正聞記)
* * * * *
これらは下層の世情の表れといえるが、士太夫の間にも一党の死を痛惜する声が上
がった。当時幕廷の文部大臣ともいえる林大学頭信篤は、さきに躍気となって、一党
宥恕論を廷内で主張したが、ついに容れられず、この始末となったので憤慨にたえず、
次の挽歌を賦して、一党を弔(とむら)った。
挽 歌
去年の冬十五日、故少府監(しょうふかん)赤穂城主浅野長矩の旧臣大石内蔵
助ら四十六人、異体同志、讐(あだ)を報(むく)い義に赴(おもむ)く。今ここに仲
春初四日、官は裁令を下し、各々死刑に処す。志は遂げたが、その生は全(まっ
た)からず。天か命か、果して時運か。哀情に堪えず、涙をぬぐって作る。
曾聞壮士無還去
易水風寒連袂行
炭唖変形追予譲
かつて聞く壮士の帰って来ないことを
易水は風寒く袂(たもと)を連(つら)ねて行く
予譲は炭を呑んで唖(おし)になり主の仇を追った
薤歌滴涙挽田横 葬送の歌は涙を滴(したたら)して田野を流れる
精誠石砕死何悔 精誠の石は砕けても、死を悔いることはない
義気氷清生太軽 義気は氷のように清く、生はただ軽い
四十六人斉伏刃 四十六人斉(ひと)しく刃(じん)に伏し、
上天猶未察忠情 上天なおいまだ忠情を察せず
その末句「四十六人斉しく刃に伏す。上天なおいまだ忠情を察せず」の上天とは、明
らかに幕府を指したのである。これが普通の儒生なら、それこそ「公儀の処分を非難し、
不屈き至極につき、三都から追放の上、何の某守にお預けを命ず」ぐらいの価値はあ
る。しかしそのまま不問にされたのは、林鳳岡が当時幕廷における、その位地あたかも
ロシアにおける近時のトルストイ伯と同様、自在な言論の特権を有していたことによろう。
閣老にも内実は少なからず同論者があって、彼を如何ともすることが出来なかったので
あろう。節義の勢力もまた大きかったと言わねばならない。(忠誠後鑑録、赤城士話、義
人遺草、近世叢譜、明良洪範続編)
三〇一
事後の寺坂吉右衛門
ここにきて四十七士中の一人寺坂吉右衛門のことを記さねばならない。
彼が一党と共に吉良邸に討ち入り、衆と同じく泉岳寺まで引き上げて来た時、内蔵
助から特別任務を命ぜられて、一党の列を離れたことは、さきに述べたとおりである。
彼の任務の第一は内蔵助が預った金の使途報告書とその残金とを瑶泉院殿の手許
に返すのが主眼であったろう。そして内蔵助の寛大な、士分でもなかった彼までを、強
いて一党と同じく死につかせるに忍びない。それで彼に使命を命ずるとともに、それを
達した以上は、彼の自由行動にまかせることを、固く言い付けたものとみえる。
彼はその使命を達した上(?)数日江戸の市中に隠れ、一党の処分を窺ったが、同
志は仙石邸で宣告を受けた後、四侯家にお預けとなったので、ともかくこれを家族の
人々に知らせようと志したのであろう。彼は京伏見を経て、はるばる播州に赴き、亀山
に立ち寄って、一党の家族に消息を伝えた。その足で姫路に出て、これまで彼が主人
のように仕えた吉田忠左衛門の婿の伊藤十郎太夫を訪ずれた。十郎太夫は同地の城
主本多中務大輔に仕え、二百五十石を食し、本人は当時江戸に在番していたが、姫
路の宅には忠左衛門の妻子を引き取っていたから、彼はこれを見舞い、一々これまで
の成行きを報告したのである。
さてこの報告を終れば、江戸のことが心にかかる。それで直ちに取って返し、一党の
処分がまだ終わらないうちに江戸にもどった。伊藤、吉田両家の様子などを十郎太夫
に伝え、自身は隠れてその後の結果を待っている間に、一党は切腹の命を受けて、一
朝草上の露と消えたから、彼は我がこと終ると観じた。この上は我が任務として吉田家
の未亡人さてはその子息を見取ろうとてか、再び姫路に戻り、伊藤家に着いた。
さてその伊藤の主家である本多侯は、中務大輔忠国が卒去し、嫡子吉十郎君の世
となったが、後さらに越後の村上に転封され、幾程もなく吉十郎君は早世してしまった。
そのため一旦十五万石を召し上げられたが、その後同族をもってその家を立て、中務
大輔忠良に五万石を賜わって、宝永七年に再び三河の刈谷に移封された。正徳二年
に三たび下総の古河に転封された。主家の領地が三分の一まで減った上に、相次ぐ
転封のため、伊藤家なども小禄に落され、一家は非常に窮乏したが、吉右衛門は村
上から刈谷、刈谷から古河へと追随し、あらゆる困苦をなめながら、十二年間の久しき
にわたり、窮苦の色を見せず、伊藤家のためにまめまめしく家事を手伝った。
伊藤家もこれを深く気の毒に思ったが、一家の窮乏は彼に報いようもない。それでそ
の頃江戸麻布の曹渓寺に寓する相馬某に書を寄せて、深く吉右衛門のことを頼み入
れた。相馬某はこの寺の方丈梁州禅師に相談すると禅師も大いに同情を表わし、つ
いに曹渓寺に呼び取った。
当時吉右衛門はすでに五十一歳であったが、いかにも律義で、親しみがあり、さす
がに義徒の一人として恥じないので、禅師はやがて彼を土佐の山内侯の分家で、当
時旗本の上位にあった山内主膳豊清に勧めた。豊清またその忠実を喜び、その家に
扶持して、すこぶる優遇したので、彼は始めて老妻を郷里から迎え、終身同家に仕え、
延享四年十月六日、八十三歳で歿した。彼ら夫婦の墓は曹渓寺内にある。
彼は生前、吉田忠左衛門の親族である羽田伝左衛門、柘植六郎左衛門のために、
自分も忠左衛門に従って江戸に下り、討入りに至るまでの顛末を記して、両氏に寄せ
た。世に『信行筆記』あるいは『寺坂覚書』というのはこれである。一挙の事実をよく窺う
に足るものがある。それから伊藤十郎太夫の嫡子(同名)の手になった「寺坂談」は、こ
れまた参考の資料に値する。彼の歿後二年に、養子信保の要望により、伊藤仁斎の
息子で五蔵の一人平蔵長準(ながのり)、つまり竹里(ちくり)の撰になった「寺坂信行
碑」もまた同寺に建った。これよりまたまた四十余年の後、寛政四年に内田叔明(しゅく
めい)撰の「寺坂信行逸事碑」が建った。これに「不肖孫信成建」とあるので、子孫が永
く続いたことが分る。
附言 寺坂吉右衛門に関しては、諸書に衆説紛々である。
第一に内蔵助の命を受けて、芸州広島にある浅野大学の許へ赴いたというのが、
伊藤竹里の「碑文」、室鳩巣の「義人録」を初めとして、その後の諸書はおおむね
これを踏襲(とうしゅう)した。しかしこれが事実でないのは、大学の家来田中武兵
衛が後に断言したと「翁草」に載せるので分る。
次に「碑文」殊に「義人録」に、彼は大学の許に抑留され、翌年四月に逃れ帰っ
て、江戸に来て見れば、すでに一党の切腹後であったという。しかし信頼できる
堀内伝右衛門が義徒お預り中、吉田忠左衛門のために伊藤十郎太夫を訪れた
際「昨日吉右衛姫路から舞い戻った」との直話があり、前説の誤りが知れる。
したがって仙石伯耆守の公庁に駆け込んだとか、御構いなしとかの説は成立しな
い。
次に内田叔明の「碑文」から「四十七士伝」までを合せ、吉右衛門が、伊藤家を訪
うて姫路に来た時、本多侯から扶持するとて抑留されたという説があるが、公儀お
目こぼしの逃亡者を、余塵の覚めない今、召し抱えるはずもない。これは大学氏
の許での抑留説と同一種の作り話である。
では「報讐録」や「義臣伝」が言うように「十四日の夜に至り、行くところを知らず」
としようか。それなら翌朝の吉田、宮森の届出に対し、幕廷が三侯家へ各十人。
細川家へ十七人と割り振ってお預け沙汰を下すはずがない。
それでは大石、吉田、原などが申し立て、談話や手紙などに公言し、明記した
ように、まったく吉良家からの引揚げ途中に駆落ちしたか。事実それに違いがな
ければ、本多の藩中に聞えた剛直家の伊藤十郎太夫が家にかくまう道理がない。
この間において内蔵助の用意の存あるところが見える。表に見えぬ事実が認めら
れる。
それから叔明が「吉右衛門が伊藤家にあること二十二年」という説および「四十
七士伝」への受売りは、年表の尺度を当てて見ない誤りである。
次に、三河に吉右衛門の墓があるとか、やれ奥州宮城郡にその碑があるなどとい
う説は、弁ずるにも足らない。あれば、皆好事者の馬鹿いたずらである。
要するに、彼は微々たる一歩卒として浅野侯在世の日に遇せられながら、家を
棄て、家族を忘れ、一党とともに千辛万苦をなめ、敵営にまで討ち入った点にお
いて、私は彼の節義を多とする。それで不備なことを彼に求めるに忍びない。した
がってこれまでの虚説は虚説として排除するが、義士は義士として、四十七士の
中に加える。そこまでやってご覧といっても、重野先生などに出来るか、出来ない
か。
三〇二
事後の寺井父子および内海道億
およそ今回の一挙に関し、赤穂籠城論の際から、はるばる江戸まで来て準備工作
にしたがい、その後京都に帰っても、常に内蔵助の計画に参与し、一党の同志として、
外から挙を助けたのは、寺井玄渓の右に出る者がない。彼は内蔵助の京都出発の際
にも同行を求めたが、一党から強い反対を受けたので、別に密かにその子玄達を江
戸に遣わしたことは、すでに述べたとおりである。当時玄達は江戸に下り、本町一丁目
七文字屋に宿を取って、何くれと尽力したが、一党がいよいよ一挙を断行し、四家に
お預けとなったのを見届けて、十二月二十六日に江戸を発して帰京し、父玄渓に報
告した。玄渓の誠実さはこのとおりである。大石・原・小野寺は東下以降も絶えず彼と
文通し、一挙の前から一挙後にわたり、死を賜う前日までも書を寄せて、これまでの経
過を知らせ、かつ後事を託した。一党の歿後彼は、義挙の顕彰、さては一党遺族の世
話などにその心を尽したのである。その一端は、宝永六年将軍綱吉公の逝去によって
大赦令が出され、義徒の遺児の遠島処分が免じられた際、玄渓は熊本の堀内伝右衛
門に向け、内蔵助の三男大三郎を細川家に召し抱えられるよう懇願してやった書面で
も見える。
当時の諸侯は彼の名声を伝え聞き、方々より高禄をもって招かれたが、一切辞して
応じなかった。そして正徳元年京都で病歿した。まことに古高の士の風格があった。も
しその品流を論ずれば、はるかに寺坂吉右衛門などの上にある。一代の名家三宅観
瀾は彼と深い仲の親友であった。ただこの一事のみをみても、彼の人格を想見するに
足るものがある。観瀾は「烈士報讐録」を著すに当り「京師および赤穂のことは寺井玄
渓に質(ただ)した」と自記している。義徒に関する著作は汗牛充棟(かんぎゅうじゅうと
う)であるが、一挙の神髄を発揮した著作の一つは、たしかにこの「報讐録」である。思
うに観瀾が史実を玄渓に問うた際、玄渓はこの一代の歴史家に対し、誠意を込めて回
答したのであろう。(以上、大石内蔵助書簡、堀内覚書、烈士報讐録、近世畸人伝)
附言 片島深淵(しんえん)の「赤城義臣伝」も玄渓の内意を受けて著わしたものと、
神沢貞幹(かみざわさだもと)の「翁草」にある。しかし深淵が「義臣伝」を著わした
とき「今年の己亥(きがい)の年は義人の十七回忌に当ると聞く。ここにおいて俄
然志を起して、この書を編す」と自序にいう。已亥は享保四年であり、玄渓の歿後
早くも八年を経ているので、「翁草」の説は信用が出来ない。
* * * * *
寺井玄渓と並んで、列外義徒の一人といえるのは、内海道億である。これについても
先にほぼ述べておいた。彼は今でも東京の丸の内に道三橋の称を留める有名な幕府
の御典医曲直瀬道三(まなせどうさん)の門下で、つとに医術を善くし、内匠頭に仕えて
いたが、主家の滅亡後は医業を廃して、京橋の山王町(今の日吉町)に隠れ、浪人し
た。一党のためには、玄渓と東西応じて情報を通じ、一挙に加わりたいと希望した。し
かし内蔵助の強い懇諭に、それだけは思い止まったが、一党の治療から、讐家の偵察、
東西の策応にも力を尽し、一党の歿後、世に隠れて節を貫いた。これまた玄渓とあわ
せ称賛しなければならない。彼がいかに一党に信頼されたかは、一党お預けの際、吉
田忠左衛門がしばしば彼のことを接伴係に語り、その人物を称揚し、その最後の日に
も内蔵助の名で書いた大封の書束を原惣右衛門から托されたのでも知れる。彼の高
節もまた想い見るべきではないか。
三〇三
丹女の自尽
小野寺十内秀和の妻丹女は、同じ赤穂の藩士灰方(はいかた)藤兵衛の妹で、天
性温順にして節操高く、その上和歌の嗜(たしなみ)さえあり、十内とは揃いも揃った好
夫婦であった。この婦人がいかに歌道に堪能であったかは、「春風」という題で、
咲きそめる外山の桜匂い来て、人驚かす春の朝風
また「磐瀬」という題で、
暮れてゆく秋といわせの山風に、紅葉かつ散る音のさびしさ
などと詠んだのでも知れる。したがって夫婦の交情極めて濃(こまや)かに、花に吟じ、
月に歌い、当時浅野家京都御留守居の宅には、夫唱婦和の天楽を載せた。しかるに
一朝君国の大変となり、小野寺方の一家親族はことごとく大義に従い同盟に加わった。
しかし灰方藤兵衛は最初同意しながら、中頃から変節したので、十内は怒って藤兵衛
と絶交した。それで丹女もまた兄と音信を断った。こうして流離・艱難の間にも、丹女は
夫を助けて、これに従ったので、十内もまた疑わず、一党の秘密会合なども、多く十内
の宅で催された。十五年の九月には十内の老母を見送った。この際のことでもあろうか。
「なき人の墓に詣でて」と端書して、
昨日まで問えば答えし言の葉に、聞きこそかぶれ松の下風
と詠んだ。そしてその翌十月には夫を始め一家の義徒は、相ついで江戸へと下向した
この時にも十内は明らさまにそのことを語り、後事を託して、京都を出発した。彼がその
途中から寄せた手紙の歌に、二人の至情は流露する。
快挙が発し、夫は細川家へ、子は毛利家へ御預けとなり、追々夫から密々の消息が
達した。丹女はこれを見て胸塞(ふさ)がり、
筆の跡見るに涙のしぐれ来て、いい返すべき言の葉もなし
と懐(おも)いを述べ、人に托して夫の許に言い贈った。この歌は当時細川家の一邸に
聞えて、人々に伝唱された。年が明けて十六年、二月三日付で、十内が同邸から寄せ
た一書を、この世の記念として、一家親族義烈の人々はことごとく切腹し、いずれも黄
泉の客となった。丹女の悲しみは如何(いかが)であったろう。実家に帰れば、兄は不
義にして残生を貪る人、止まれば、世にまた何の頼みもない。彼女はつくづく世の果
敢なさを観じ、心ばかり亡き人の法事を営み、それぞれ家事を処理した後、「今は心に
懸かることもない。夫や子の後を追おう」と覚悟し、フッツと断食して、六月十八日眠る
ように大往生を遂げた。その傍に辞世の一首を留めた。
夫(つま)や子の待つらんものを急がまし、何かこの世に思いおくべき
聞く者はみな袂を濡らした。懇意の人々が彼女を葬った。その墓は今も本国寺の塔
中了覚院にある。法名は梅心院妙薫日性信女。元禄十六癸未(みずのとひつじ)六月
十八日と刻んである。(以上 近世畸人伝、堀内覚書)
附言 「介石記」、「忠誠後鑑録」、「赤城士話」には六月を七月に、梅心を赤心に誤
る。
三〇四
妙海尼
もう一人貞烈な女流のことを伝えねばならない。それは堀部弥兵衛の娘で、安兵衛
と許嫁(いいなずけ)の幸子である。主家凶変の際、彼女はまだ十六歳であったので、
結婚の式を挙げなかった。そして弥兵衛も安兵衛も一朝復讐の企てに入り込んだので、
彼女は永く童貞の人となった。一党討入りの日から夜にかけて、両国矢の倉の弥兵衛
宅は、多くの同志の人々を饗応したので、幸子は母と共に甲斐甲斐しく働いて、お取
持ちをし、やがて父を送り出した。
父も夫も復讐の目的を達し、父は細川家に、夫は久松家に御預けとなり、家には母
子二人が寂しく残った。親しい人々がこれを気遣い、見舞いに来た。すると調度、什器
などを奇麗に取り片づけ、親子ともに衣裳を着替え、髪を結い上げ、身じまいして、愛
想好く人々を迎えたので、いずれもその心情を察し「さぞ力を落されたでしょう」と挨拶
すれば、「父や夫が年月の苦心空しからず、冷光院様の御欝憤を晴らしましたこと、こ
の上の慶(よろこび)びはございません。それにしても、御法度に背き、お膝下を騒が
せました者どもの妻子、定めてお召捕りになろうかと存じ、覚悟いたしております」とて、
少しも取り乱した様子はなかった。
そして官裁を経、お頂けのまま、老父も意中の人も、ついに隔世の人となった。それ
で彼女は黒髪を切って仏門に帰し、それより修業を積むこと三年、名を妙海尼と改め、
諸国の霊場に巡礼した。老後には清浄庵というささやかな一庵を泉岳寺内に結び、ひ
たすら亡君ならびに義徒の冥福を念じた。非常に長命して、安永七年二月二十五日、
この庵で入寂した。九十三歳であった。墓は義徒の墓域の入口の右側にある。法号は
清浄庵宝山妙海尼。
彼女はさすがに弥兵衛の娘だけに、気丈な尼であった。彼女は常に浅野家の断絶
を嘆き、閣老の登城を途中に見掛けては、たびたび駕訴(かごそ)に出掛けた。女では
あり、尼ではあるので、諭旨のみとされたが、なかなかこれをやめないので、後には遠
島処分の動きもあったが、有力家のとりなしによって幸いに免がれた。
彼女は義徒の子というので、多く諸侯の後庭にも召されたが、ともすると主家再興を
申し出て、後庭を動かしては、君侯にまでこれを取りつがせたということである。ある日
水戸中納言は彼女を召して、弥兵衛らのことを問い、その妻のことにまで及ぶと「父が
歿した際、母は涙を落さず、一党の妻女ともあろう者が、この場合に泣き悲しむようなこ
とがあれば、小刀で目を抉(えぐ)って進ぜると申しておりました」と答えて一笑した。感
慨激烈なのは、堀部一家の家風と見えた。
附言 妙海尼に関しては、極めて奇談が多い。佐治為綱が物した「妙海物語」など、
尼の直話(じきわ)として一部の人士に受け取られている。「四十七士伝」の著者
すら多少この種の妄談にかつがれている気味があるが、私は話中の多くを信用し
ない。それにはその理由がある。それでここには一切これらの奇談を載せない。
(注 日南は後の書で、この項を削除した)
三〇五
遺子の赦免
その栄達 浅野家の存祀
一党の自尽から六年を経て、宝永六年正月十日には、五代将軍綱吉公の死去とな
り、同年五月一日、家宣公に将軍宣下があって、ここに六代将軍が誕生した。同月二
十三日大赦令が発せられた。この特赦により、この年七月十六日義徒の遺児で現に
大島へ配流中の四人は、帰参を許され、その他執行猶予中の者は、免除を申し渡さ
れた。もっとも最初遠島宣告の当時には、十五歳未満であった者も、この時には十五
歳以上に達していた者も少なくない。大石吉千代(きちちよ)は十九歳、片岡新六は十
八歳、岡島藤松は十六歳、片岡六之助、木村惣十郎、矢田作十郎は十五歳となって
いた。が、義徒に対して寛大な幕廷は、遠島処分をしなかったのである。ここに至って
いずれも始めて青天白日の身となった。
この令が一たび下ると、諸侯伯は争って、これらの子弟を引き取って扶持した。この
機会に十九人の行く末を語ろう。
大石吉千代 内蔵助在世の時から、石束家にてその運命を慮(おもんばか)り、早く
沙門の弟子にしたらしい。彼は豊岡の興国寺に入り、名を祖練(それん)と改めて、
学業に怠りなく、彼の詩は早くから注目されていた。だが、惜しいかな、彼は大赦
令の発する数か月前、この年三月、十九歳で病歿した。これまで彼が配流に遭
(あ)わなかったのは、無論仏門に入っていたからであろう。三男大三郎良恭(よし
やす)は大赦の際まだ八歳であったが、当時外祖父の石束源五兵衛は、去年皇
居焼失の後を受け、主人京極甲斐守から御所造営係を命じられたので、工事の
奉行として京都に滞在していた。それで一党赦免の通知も、源五兵衛に達せら
れた。源五兵衛は深くこれを喜び、早速礼服を着けて、瑞光院に詣で、その通知
書を一党の霊前に読み上げた。そして寺井玄渓らと共に、何とぞ大三郎を再び
武士にして、内蔵助の遺志を実現したいと尽力した。その希望は空しからず、浅
野の宗家松平安芸守吉重朝臣は深く内蔵助の忠烈を追思し、正徳三年わざわ
ざ重臣を遣わして、大三郎を広島に迎え取り、父の秩禄千五百石を与え番頭に
就けた。
原十次郎辰正(ときまさ) 時に十一歳、これまた正徳三年広島に扶持され、二百五
十石を賜い、長じて槍奉行に挙げられた。
富森長太郎 この時なお八歳であった。若年寄加藤越中守明英は、養育料として早
くこれに十人扶持を給した(堀内覚書)。彼は才覚父に似て、英性を隠さず十一歳
となった時、下僕が彼の幼年を侮り、無法を働いたのを憤り、即座にこれを斬って
棄て、平然として慌てた色もなかった。聞く人皆舌を巻いた。彼は長じて父の名を
襲って助右衛門と称し、抜擢(ばってき)されて近侍となった。
矢田作十郎 遠島の刑を受けた時は、九歳の小童であったが、その振舞が目覚まし
かったことはすでに述べた。当時彼は水谷出羽守に引き取られたので、その家で
身を立てたのであろうか。「新刀弁疑」に、尾張の矢田作十郎助直(すけなお)は
好んで刀剣の目利きをしたが、彼は自家の刀に「神竜」という銘を打たせてこれを
佩(お)びたとある。この助直はおそらく五郎右衛門の後嗣の作十郎であろうと、青
山延光(のぶみつ)はいう。そうかもしれない。
茅野猪之助 赦免の日、まだ十歳であった。父和助はかつて森家に仕えていた縁故
もあり、かつ森和泉守長直は現に赤穂の城主となっていたので、猪之助を引き取
り、その後近侍に挙げた。
不破大五郎 松平紀伊守の家臣吉田半兵衛に引き取られていたから、松平家に仕
えたであろう。
奥田清十郎 老中秋元但馬守喬朝(たかとも)の家臣寺川九兵衛に訓育されたから、
これまた多分秋元家に召し抱えられたであろう。
木村惣十郎 霊巌寺の長昌院に托されていたから、僧となったか。弟の大岡次郎四
郎は赤穂で大岡藤左衛門の養子に貰われた。森家にでも仕えたか。
岡島藤松、同五郎助 いずれも僧になったという。詳細不明。
片岡新六 同六之助 新六は京都大雲院の徒弟となり、六之助は伏見本教寺の弟
子となっていたが、その後のことは不明。
最後に大島に流されていた間瀬定八、吉田伝内、中村忠三郎、村松政右衛門は、
大島から帰参を命ぜられた。彼らについては、
間瀬定八 四年前、島にて客死した。
吉田伝内 早速本多家に引き取られ、父の秩禄以上を受けて仕えた。
中村忠三郎 配流の際、既に松平大和守から扶助されたくらいであるから、その家に
扶持されたか。ついでにその弟の中村勘次は白川に残って保育されていたので
あるから、兄と同じく召し抱えられたであろう
村松政右衛門 帰参後、再び小笠原長門守の家に出仕したか。不詳。
以上十九人のほか、岡島八十右衛門の忘れがたみの三男はどうしたか。不明。
* * * * *
同じ年、浅野内匠頭の弟の大学氏も江戸への帰府御免となったが、名家の後をその
まま断絶させるのも本意なく思われたか、翌宝永七年九月安房に新地五百石の領地
を充てられ、邸を青山に得て長く旗本寄合に列せられた。
三〇六
四十六士の墓碑
一党切腹の後、幾ほどもなく、四侯家から埋骨の地上に四十六基の墓石が建てら
れた。
忠誠院刃空浄剣(にんくうじょうけん)居士(こじ)大石内蔵助良雄
刃仲光剣(にんちゅうこうけん)信士(しんし)
吉田忠左衛門兼亮
刃峰毛剣(にんぽうもうけん)信士
刃勘要剣(にんかんようけん)信士
刃誉道剣(にんよどうけん)信士
刃以串剣(にんいかんけん)信士
刃泉如剣(にんせんじょけん)信士
刃周求剣(にんしゅうぐけん)信士
刃毛知剣(にんもうちけん)信士
刃随露剣(にんずいろけん)信士
刃勇相剣(にんゆうそうけん)信士
以上十一基は北方から南面し、
刃牕空剣(にんそうくうけん)信士
刃破了剣(にんはりょうけん)信士
刃広忠剣(にんこうちゅうけん)信士
刃察周剣(にんさつしゅうけん)信士
刃法参剣(にんぽうさんけん)信士
刃寛徳剣(にんかんとくけん)信士
原 惣右衛門元辰
片岡源五右衛門高房
間瀬久太夫正明
小野寺十内秀和
間 喜兵衛光延
磯貝十郎左衛門正久
堀部弥兵衛金丸
近松勘六行重
富森助右衛門正因
潮田又之丞高教
早水藤左衛門満尭
赤垣源蔵重賢
奥田孫太夫重盛
矢田五郎右衛門助武
大石瀬左衛門信清
以上六基は東方から四面する。上の前後十七基は、細川邸で切腹の諸士。
刃上樹剣(にんじょうじゅけん)信士
大石主税良金
刃雲輝剣(にんうんきけん)信士
堀部安兵衛武庸
刃露白剣(にんろはっけん)信士
中村勘助正辰
刃水流剣(にんすいりゅうけん)信士
菅谷半之丞正利
刃観祖剣(にんかんそけん)信士
不破数右衛門正種
刃通普剣(にんつうふけん)信士
木村岡右衛門貞行
刃道互剣(にんどうごけん)信士
千馬三郎兵衛光忠
刃回逸剣(にんかいいっけん)信士
岡野金右衛門包秀
刃電石剣(にんでんせっけん)信士
貝賀弥左衛門友信
刃無一剣(にんむいっけん)信士
大高源五忠雄
以上十基は西方から東面する。これは久松邸にて切腹の諸士。
刃袖払剣(にんしゅうふっけん)信士
岡島八十右衛門常樹
刃当掛剣(にんとうけけん)信士
吉田沢右衛門兼貞
刃性春剣(にんしょうしゅうけん)信士
武林唯七隆重
刃鍛錬剣(にんたんれんけん)信士
倉橋伝介武幸
刃模唯剣(にんもゆいけん)信士
間 新六光風
以上五基は中央にあって東面し、
刃有梅剣(にんうばいけん)信士
刃可仁剣(にんかにんけん)信士
村松喜兵衛秀直
杉野十平次次房
刃量霞剣(にんりょうかけん)信士
勝田新左衛門武尭
刃補天剣(にんほてんけん)信士
前原伊助宗房
刃風颯剣(にんふうさっけん)信士
小野寺幸右衛門秀富
以上五基は同じく中央にあって同じく東面し、各々五基相対する。これは毛利邸に
て自尽の諸士。
刃沢蔵剣(にんたくぞうけん)信士
間 十次郎光興
刃湫跳剣(にんしゅうちようけん)信士
奥田貞右衛門行高
刃擲振剣(にんてきしんけん)信士
矢頭右衛門七教兼
刃清元剣(にんせいがんけん)信士
村松三太夫高直
刃太及剣(にんたきゅうけん)信士
間瀬孫九耶正辰
刃響機剣(にんきょうきけん)信士
茅野和助常成
刃常水剣(にんじようすいけん)信士
横川勘平宗利
刃珊瑚剣(にんさんごけん)信士
三村次郎右衛門包常
刃利教剣(にんりきょうけん)信士
神崎与五郎則休
以上の九基は南方から北面する。これは水野邸にて切腹の諸士。
これら四十六基の墓は、大石内蔵助を第一とし、いずれも亡君冷光院殿の方を上と
し、四家お預けの順序により、秩序整然として建てられた。
三〇七
寺坂の二基の碑
その一は刃道(にんどう)喜剣
四侯家によって四十六士の墓碑が泉岳寺の岡の上に建てられてから六十四年を経
て、
刃道喜剣信士……
と題された一基の墓が、大高源五の墓の次、一域の入口から取付きのところに立てら
れた。この碑面の右には「薩州産宇都宮成高寺(じょうこうじ)現住岱潤(たいじゅん)建
焉(これを建つ」と刻し、左には「明和四丁亥(ひのとい)九月十六日」と彫りつけてある。
それからまた多年にして、
遂道退身(すいどうたいしん)信士
寺坂吉右衛門信行
と題する墓一基が、間十次郎の墓石の東隣に並んで、何人かによって建てられた。こ
れで一域中に四十八基の石碑を数えるに至った。さてこの前碑の主人刃道喜剣信士
は誰であろう。
江戸時代から伝わる話では、薩州の剣客某という義侠の士は誰か。一年京都に遊び、
京洛の巷(ちまた)を徘徊する折から、路傍に泥のようになって酔い倒れた武士風の男
がある。往来の者が問うと、これがこの頃祇園、島原、撞木(しゅもく)町にかけ、傾城狂
いに正体ない前赤穂の城代家老大石内蔵助であるというので、問うた者はかっと憤
(おこ)り、城代家老もした者が、亡主の讐を復しようとはせず、この有様は何事だ。人
非人な犬士(いぬざむらい)!と散々に罵った上、面に唾して立ち去った。その年十二
月十五日の朝、犬士と目された内蔵助は一党を率いて見事に讐を復し、やがて官裁
によって名誉の最後を遂げ、ついに泉岳寺中に新たな一基の墓の主人となった。これ
を見聞して、問者は深く悔恨し、一日その墓前に詣で、生きた人に言うように、幾度か
先の無礼を謝し、腹掻き切ってその場に果てた。それでその侠烈を哀しみ、ために一
基を義士の家域に起したのがこの墓であるという。この伝説をそのまま深く詮議もせず、
林鶴梁(はやしかくりょう)は名文を揮(ふる)って「烈士喜剣伝」を草したので、この談は
一層有名となった。
ところがその実この喜剣は、泉岳寺の過去帳にもなければ、いずれの信頼できる書
史にも見当らない。墓が建ったのも六十四年後。言い伝えになったのもそれから後。
いかにも不思議と、私は久しく疑っていた。しかるに手掛りを得たのは、明和時代の神
沢貞幹(さだもと)(「翁草」の編者其蜩庵(きちゅうあん))が「参考義士篇」中に寺坂吉右
衛門のことを記し、一説として「吉右衛門は日本を遍歴した後、三河の某寺に止まり、
ここで明和四年亥九月十六日歿す。行年八十七歳、法名刃道喜剣信士」と伝えた。そ
もそも吉右衛門が江戸に歿して、麻布の曹渓(そうけい)寺に葬られたことは、前に述
べたとおりであるから、三河の死が実跡でないことはもちろんではあるが、明和時代の
其蜩庵が以上のことを書きつけたところを見れば、一種の好事者が既に三河にこの碑
を建てていたには相違なかろう。その碑の法名から年号月日まで泉岳寺にあるそれと
一切一致するのが面白い。ここにおいて始めて読めた。薩州の僧岱潤(たいじゅん)坊
は吉右衛門の志業を悲しみ、三河にある碑を正しいものと信じ、そのままその法号と年
月日を彫りつけさせて、新しく碑を義徒の墓域に立てたものと見える。
それから考えれば、この法師、三河の偽碑をうかうかと信じ、そのまま同じ碑を造った
のは、ちと軽卒であったけれど、この碑を建てる頃までは、当年四侯家が相議して、四
十六基の位次を正し、その墓を起した原意もなお伝わっていたと見え、吉右衛門のそ
れを久松家にて切腹の一番最後、大高源五の碑の後に建て、かつ吉右衛門は官裁
を経て切腹した者でなく、いわば亡命のままの一人であるから、他の人々の碑のように、
法名の下に実名を題することを避け、単に法名のみに止めたものと見える。この辺は
中々厳格であった。それで刃道喜剣信士の一碑は、寺坂吉右衛門信行のために築か
れたものであるということが分るであろう。
しかるにその厳正さがかえって仇となり、再び年月のたつに従い、誰の墓とも知れな
くなったところから、その墓はたちまち例の捏造子の得意の虚談に脚色され、ここに一
個薩州の剣客某という者が幻映されたのである。さりながら捏造の痕跡は歴々とかの
話中に認めることが出来る。というのは、墓の建立者が薩州の産岱潤であるところから、
まず薩州の侍を探し出し、次に刃道喜剣の法名から、それを剣客としてしまったのであ
る。されどさすがに姓名までは捏造しかねたと見え、これだけは某とし、ついに薩州の
侠士剣客某まで漕ぎつけたのである。捏造子もなかなかやることはやるテ。
その後三たび年月を経て、刃道喜剣はあいまいなりに、いよいよ一般の誤信のうち
に薩州の士となり済ました。それでまたまた岱潤もどきの有心者が出て、遂道退身信
士……寺坂吉右衛門信行」と題した一基の新墓が造られた。ここに至ってご丁寧に吉
右衛門の墓だけは都合二基、義士の墓域中に並立した。しかもこの最後の建立者は
よほど無知の徒と見え、やり方は杜撰(ずさん)もはなはだしい。全体四十六士の墓は、
冷光院殿のお墓の方すなわち北東の方を上位として、序列を決めたものである。それ
は大石内蔵助の墓を北東の隅に、子息主税の墓を北端に置いたのでも知れる。それ
で水野家における切腹連は東端に間十次郎の墓を先頭に、左から右へと配列された。
しかるに吉右衛門の碑の建立者はこれらのことを知らなかったとみえ、人もあろう、上
野介を討ち取って、第二の焼香まで許されたその間十次郎光興の上位のところに建
てた。吉右衛門が霊にして知ることがあれば、恐縮極まって、終古安んじないであろう。
今でもよろしい。これだけはその位置を変えたいものである。
三〇八
義士の遺蹟
京都、山科、近江、赤穂、東京
一党の快挙に国民は皆感嘆した。それで義徒に縁故ある地には、到るところに記念
の碑などが建てられた。
紫野大徳寺内の瑞光院は、浅野家の京都の菩提寺(ぼだいじ)である。内蔵助は山
科隠栖中に冷光院の墓を建立し、いよいよ京都を去る時にも永代祭祀料を納めること
まで約し、かつ後事を委嘱した。それだけ院主の海(かい)百座(すそ)とは親密であっ
たから、和尚は悲願を発し、一党の歿後十七回忌にあたり、ここにも一党四十六士の
墓碑を興した。
* * * * *
内蔵助が隠栖した山科の西之山村の邸跡では、後人また大竹林に護られた一碑を
建て、長く太夫の遺徳を追慕する。
* * * * *
これのみではない。大石家のよって興った近江の栗太郡大石荘には、同族の人が
内蔵助討入りの際の武具を埋め、碑をその上に建てた。准后の近衛家煕(いえひろ)
公は碑に「忠義碑」の三大字を題し、水戸の文学者栗山潜鋒は一代の名筆を揮って、
碑文を草した。この文は簡潔に義徒の所伝を綴った名文であったが、惜しいかなその
碑は現存しない。
* * * * *
赤穂はとみれば、浅野家世々の菩提寺である華岳寺においても、冷光院殿の墓を
中心として、左右には大石父子、周囲には四十余士の墓を建て、かつ墓域の入口に
は「忠義塚」の一大碑を築き、義徒の遺徳を顕彰した。
* * * * *
そして赤穂城内の太夫の邸址も意を用いて保護された。太夫遺愛のしだれ桜が絢
爛(けんらん)と咲き誇り、元禄から元治、慶応まで一世紀半以上にわたる世々の名家
の詩章に入り、ついには集めて「忠芬義(ちゅうふんぎ)芳詩巻」となった。
* * * * *
これらの記念の地には、常に参詣者が跡を絶たず、ことに泉岳寺の墳墓の辺には、
一党埋葬の当時から明治聖代の今日まで、都鄙(とひ)の士女が打ち群れて参詣し、
墓前に供える幾多の薫物に、岡上一帯はいつでも香煙に込められている。
* * * * *
最後に内蔵助らが切腹した細川邸は、帝室の所有となり、今の高輪御殿となった。こ
こが御殿となる当初のこと、宮廷の官僚から、
「庭のうちには六石内蔵助らが切腹した跡があり、遺骸を送り出した不浄門も残って
おります。それをどうしたものでございましょうか」
と陛下に伺った。すると聖旨として、
「そのまま永く保存するように」
との命であったという。義徒在天の霊がこれを知れば、思わず感泣(かんきゅう)するで
あろう。そして細川越中守綱利の神霊も、その志が空しくなかったと狂喜するであろう。
節義の心が人間に欠ぐべからざることを、いまさらながら知る。
三〇九
棺を覆って事大いに定まる
名家の断案および名著
思うに由来思想の簡単な我々の祖先が、一個の理義の問題として、割合に広い範
囲にわたり、大いに議論を深めたのは、恐らくこの挙についての論難からであろう。
一党の処分について、幕府内部において、大学頭の鳳岡(ほうこう)林信篤(のぶあ
つ)と徂徠荻生茂卿(もけい)との対立は、すでに述べたとおりである。が、処分後にな
っても、棺を覆って事は定まらなかった。一挙を義挙、一党を義士として論断した両泰
斗は、順庵学系の鳩巣室直清(なおきよ)と、闇斎学統の綗斎(けいさい)浅見安正で
ある。そして綗斎の門下から出た観瀾三宅緝明(ゆうめい)もまた同じ説を立てた。とこ
ろがこれと全然反対に、一挙を非挙、一党を非徒として排斥してかかった論者が二人
出た。徂徠学派の春台太宰純と、同じ闇斎門下から出た、剛斎(ごうさい)佐藤直方で
あった。
前者の主張は「法と義とは並び行われて、矛盾しない。一挙は未曾有の義挙であり、
一党は絶世の義士である」というにある。これに反して、後者の主張は「法を犯せば、
義は立たない。一党は法を犯した以上、その挙は非挙であり、その徒は非徒だ」という
にあった。したがって「四十六士論」は双方から強い主張が続出し、その論戦は夜討ち
についでの見物であった。しかしながら後者の論は、余りといえば、拘泥(こうでい)に
過ぎた。論が激するに従って、横道にそれ、「一党は食えぬところからこの挙に出た」と
か、「美名の下に仕途にありつこうとした」だの、「命欲しさに自訴して出た」とまで排斥
したので、一党を攻撃するより、むしろ大いに論者自身の人格を傷つけることになった。
そして天性正義を尊び、献身を貴っとぶ国民の多数は、後者の議論に耳を貸さない。
年を重ねるに従って、鳩巣のいわゆる義人、綗斎のいわゆる義士、観瀾のいわゆる烈
士という断案は、ついに大いに天下の世論を制するに至った。義士に私淑する者は、
この三君子に向って、深く感謝を表しなければならない。
鳩巣は一党が切腹した元禄十六年の春から筆を執り始め、この年の冬に有名な「赤
穂義人録」を脱稿した。それからまた六年、一党の遺児の流罪赦免の年、宝永六年に
は初稿の脱漏を補い、誤謬を正して、これを完稿とした。それでこの著は義土伝中の
権威として、永く後世から重宝された。
これと並んで権威を有するのは、三宅観瀾の「烈士報讐(ほうしゅう)録」である。これ
も義徒の切腹後、まだ数年を出ないうちに脱稿された。観瀾は一党の同志と深い交友
があったので、京都から赤穂のことは、寺井玄渓に問い、江戸での出来事は、大石良
丸(無人の子)に質し、持って生まれた頭脳と名文によって、今に至るまで評判を失わ
ない。要するに、天下の人に先だって、鳩巣は義人と断定し、観瀾は烈士と明言した。
ただこれだけでも二人の主張の奥にあるものが知れるのである。
以上は立派な学者の手になった著述であるが、事実をありのままに書きつけたもの
には、一党の一人神崎与五郎則休の手になった「絶纓自解(ぜつえいじげ)」、同じく
寺坂吉右衛門信行が出府以来の出来事を筆にした「寺坂覚書」、細川の家士堀内伝
右衛門重勝がお預け十七士の言行を書きとめた「堀内覚書」、久松の家士波賀清太
夫朝栄(ともひで)がこれもお預け十人のことに関した手記の「波賀覚書」などがある。
これらは皆信頼のおけるものである。その他吉田忠右衛門の親族で、二代目の伊藤
十郎太夫が聞書した「寺坂談」なども参考に値する。
それから普通の編述でもっとも早く出来たもの三、四をあげると、当時の閣老阿部豊
後守正武の家士、村治弥十郎の手になった「介石記(かいせきき)」、旗本某が物した
「易水連袂(えきすいれんぺい)録」、一挙から六年目、宝永五年に書き終えた作州津
山の藩士小川忠右衛門恒充(つねみつ)の「忠誠後鑑録」。これらはその当時に出来
たものだけに、見るべきものがある。ただし「後鑑録或説」になると大分虚談が交って来
る。
三一〇
同
史伝の続出、勅語
幕政の窮屈さは、今日から考え及ぶところではない。元禄当時の幕廷は、義徒には
異例の同情を示したから、事件の顛末を叙述して、これを世間に公けにしたとて、それ
が治安妨害になるのでもなかろうに、お仕置になった者のことを世に持て囃してはなら
ないと、一切これを公許しなかった。それで鳩巣や観瀾の名著を始めとして、すべての
義士伝はそれからそれへと写し伝えるのみで、写本以外には世に出なかったが、一党
の歿後、十七回忌の年享保四年に、深淵(しんえん)片島武矩(たけのり)が編述した
「赤城義臣伝」が突然刊本となって、社会に現われた。恐らくこれがこの種の刊行本の
元祖であろう。
これについて面白い話がある。兵学者で義士贔屓(ひいき)の深淵は、江戸はもちろ
ん、京都・伏見・大阪・赤穂と駆け廻って材料を拾い、この書を著(しる)した。これの出
版を書林に持ちかけると、書林は寄って相談した。「義士の一挙は誰でも渇仰する。こ
の本を出版したなら、大売れは受合いだが、また品切れも確実だ。出来るだけ沢山摺
り溜めておき、一度にドッと売り出そう」と約束し、やがて沢山な部数を積んで、三都は
もちろん、諸州にまで配りつけ、都鄙(とひ)同時に発売したので、品切れの災厄は免
がれなかった。同時に、莫大な利益を得た。それでこの「義臣伝」が後世まで比較的に
多く流通し、またもっとも多く読まれもした。
この書はもっぱら小説風に綴られた。それだけに多少やさしく表現した文字や、たと
えを多用したところもあるが、この種の書物では、名作と称せられた。そして着眼点が
また多く、しかも誤りが少ない。この後に出来た数十百の演義的義士伝は、おおむね
この書を骨子として、これに種々な雑説を付会したものといえる。が、その後出ること出
ること、明治の今日までに、続出した伝記をすべて集めたら、一つの図書室を満たす
であろう。ただしその中で、全く俗見を離れ、良著といえる書は、天保五年に公けにさ
れた水戸の文学者の佩弦斎(はいげんさい)青山延光(のぶみつ)の「赤穂四十七士
伝」である。この著は鳩巣の「義人録」、観瀾の「報讐録」に次ぐ名著であろう。
日本始まって以来、この快挙ほど国民の大歓迎を受けた出来事はない。それだけに、
歌舞伎にも脚色されれば、悲劇にも、講談にも、浪花節にも取り上げられ、興行すれ
ば、聴衆観客は山のように集まる。そして浄瑠璃の「忠臣蔵」は早く大陸にも流れ、乾
隆五十九年に鴻濛子(こうもうし)によって翻訳され、「海外奇談」の一書となって、東洋
諸国に広まった。また近くは一挙の事実が欧米に伝わり、「ローニン」といえば、赤穂の
義徒を連想するようになった。忠義の感応また実に偉大である。
* * * * *
明治天皇が東京に行幸された明治元年の十一月、行列が高輪にさし掛った時、特
に勅使を泉岳寺に派遣され、次のような勅語を賜わった。
大石良雄
汝良雄ら、固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。百世の下、人をして感奮興
起せしむ。朕深くこれを嘉賞す。今東京に幸(こう)す。因って権弁事藤原献(けん)
を遣使(けんし)し、汝らの墓を弔(ちょう)し、かつ金幣を賜う。
宣
明治元年戊辰(ぼしん)十一月五日
義徒の英霊これを拝受し、定めて地下で感泣(かんきゅう)したであろうが、忠愛の
国民もこれを拝聴し、いずれも衷心から歓喜の声を発した。ここに恭(うやうや)しく宣
辞を奉読して、元禄快挙の講を終了する。
元禄快挙録終
附録
ここで一言お詫びをしなければならない。それは義徒がお頂けになった四侯家中の
毛利家に関する事実である。当時毛利家で義徒を取り扱った件は、同家にも記録があ
るということをかねてから聞知していたので、百方その記録を探したが見つからない。
それでやむをえず信用の出来る範囲で、他の書を基に本文を執筆した。ところが後に
なって、ふと多年渇望していたその毛利家記録が手に入った。そこで従来の諸書と比
較すると、諸書に誤り伝える事柄が非常に多い。なかでも介錯の一段に誤りが多い。
毛利家記録によれば、同家御預り義徒の介錯人は次のとおりであった。
岡島八十右衛門……榊 庄右衛門
吉田沢右衛門……進藤為右衛門
武林唯七……………鵜飼宗右衛門
倉橋伝介…………江良清吉
村松喜兵衛…………田上五左衛門
杉野十平次………榊 庄右衛門
勝田新左衛門………進藤為右衛門
前原伊助…………鵜飼宗右衛門
間 新六……………江良清吉
小野寺幸右衛門…田上五左衛門
これを同日同家に臨検した幕府の御目付鈴木次郎左衛門、御使番斎藤治左衛門両
名連署の復命届書と対照すると、すべて符合する。ここに至って「忠誠後鑑録」、「介石
記」、「赤城義臣伝」、「後彫録」の記載は皆誤りであったことが明瞭になった。
これが誤りと決まれば、鳩巣の「義人録」を始めとして、佩弦斎の「四十七士伝」まで
踏襲したかの榊庄左衛門が武林唯七の介錯に臨み、初太刀を仕損じて二つの太刀
で首を討ち、武林唯七が一たび倒れてまた起き直り、お静かにと声をかけたとの談は、
成立しないことになる。美談を打ち消すのはいかにも遺憾であるが、武林の介錯人が
鵜飼宗右衛門である以上、武林対榊の談は消える。
代わりに、この毛利家記の発見によって、従来世人の多くが知らない美談快話を紹
介する喜びに接した。それはお預けの一人で当年六十二歳の老人村松喜兵衛である。
彼は自家の姓名を呼び出されて、静かに切腹の席に付き介錯人に向って「貴殿の御
姓名は何と仰せられますか」と問うた。「拙者は田上五右衛門と申します」と答えれば、
「左様にておわしますか。今日は御手を汚し、まことに痛み入ります。お見掛けのとおり
拙者は年寄でござれば、介錯にも、自然不調法をおかけしましょうが、死後のところよ
ろしくお頼み申し上げます」と会釈して、肌を広げた。検使の御目付がこれを見聞し
「いかにも美事」と称揚した。
また間新六の壮烈な最後もその一つである。全体に切腹の作法として、その席につ
き、肩衣をはねて、肌を脱ぎ、その後で前にある三宝を推し戴き、短刀を取って、腹に
当てるその刹那に、介錯人が後から首を討ち落すのが定例である。ところが間は最初
から深く心に期したところがあったので、切腹の席に座るや否やまず三宝を推し戴い
た。さては壮年のこととて儀礼を知らないので、あわててこうするのかと、一同注視する
間に、彼はその肌を脱ぐやいなや短刀を取って腹に突き立て、横一文宇に引き切った。
遅れを取ったと介錯人が太刀を取り直し、その首を落し、そのまま屏風を陰にして、死
骸を棺に取り収めた。するとこの壮観に打たれた検使の両人は「ただいまの切腹人、よ
く見とどけてくるように」と御小人目付に命じた。すでに棺に収めた間の死骸を、また取
り出して改めると、その腹は七寸ばかり物の美事に掻き切ってあったので、人々は顔を
見合せて、その壮烈に感嘆した。この真実を紹介する栄誉を得たので、私はいたずら
に抹殺博士、いや抹殺論者となることを免がれた。なお間の遺骸のみは、彼が脱藩以
来身を寄せた秋元但馬守の家臣中堂又助が引き取って、築地本願寺の塔中に葬っ
たので、泉岳寺にはその墓石のみが建てられた。
この他になおいうべきことがあるが、本文の印刷がすでに出来上がった後であるから
ここにはこのことのみを一言して、本文誤伝の一つを正しておく。
附録おわり
初出 明治 41年から 42年にわたって日刊紙「九州日報」に連載された。
底本 元禄快挙録 〔全3冊〕
1983 年 12 月 16 日 第 3 刷改版発行
岩波書店刊
参考 国会図書館アーカイヴ