アマチュアのラジオ技術史

アマチュアのラジオ技術史
岡本次雄著
2
i
はしがき
わたくしは,かつてある雑誌から,“私の履歴書” という一文を求められたとき、
つぎのように書いた。
“大正 12 年のことだったと思う。わたくしは,始めて高周波インダクタンス・
コイルなるものを見せてもらった。まだ,小学校の 2 年生だったわたくしにとっ
て,なんとそれが奇妙に見えたろう。下谷に住んでいたその先輩なかりせば,わ
たくしの半生は今と全く違った道を歩んでいたであろう。……”
春風秋雨,いまは五十路に近くなったとはいえ,このような書を著すに適した
先輩の数は決して少なくない。わたくしの如き若輩が,技術史など称するのは,
僣越至極のことである。
むしろ,本書は重要資料を後世に QSP(中継)せんとする文献抜萃の書という
のが適当であろう。わたくしは,ここでは単なるナレーターにすぎないのである。
いずれ何人かがしなければならない作業を,行なったまでである。しかも,こ
の作業たるや,一日遅れればそれだけ困難が増加する性質のものである。実は,
取りかかってみて,もっと早く手をつけるべきであったことを痛感したのである。
東京地方についてみても, 1923 年の大震災と今次の大戦による資料の消滅は想
像以上に甚だしいものがあり,心おぼえがありながらみすみす発見できなかった
資料は枚挙にいとまがないほどである。
わたくしは,幸にもわが国の大部分を旅行する機会があったので,戦災を受け
ない地方都市で,しばしば重要な資料を発見することができた。加えるに戦後鎌
倉に転任しており,同市在住の有坂磐雄(元 J1CV,J2KR)
,中川国之助(元 J1EE,
J2HI)両長老の知遇を受け,莫大な資料の貸与を受けた。両長老のご好意なかり
せば,本書の出版は不可能であったといって差支えない。
本書の記述に当っては,年代の古いほど詳細に,近代になるにしたがって簡略
化した。また第2次大戦以後は,概略のみに止めた。なお,引用文献はできる限
り原文に忠実にするよう心がけたが,旧漢字は現在の印刷事情では如何ともなし
がたきものがあり,一部当用漢字に改めたところがある。仮名使いは原文どおり
としたが,明らかなミスプリントは訂正を行なった。図版はすべて原典より複写
をしたものである。
ii
引用文献の筆者各位には,できる限りご承だくを求めたが,なに分にも古いこ
とであり,また匿名の方もあるので,いかんとも連絡のつきかねる方もあった。
何分のご認容をお願いする次第である。
なお,本書の出版に際し,次の諸氏に資料その他でお世話になった。厚くお礼
を申しあげる次第である。
白井 剛 (JA1AJH),福士 実 (JA1KM),原 昌三 (JA1AN),大塚政量 (JA5AF),
上野富男 (JA4IF),竹井 良 (JA4RT),相沢治郎 (JA1BNK),CQ 出版株式会社,
JARL 事務局,NHK 放送博物館
本書は 1961 年 12 月に脱稿したのであるが,今回誠文堂新光社創立 50 周年,ま
た「無線と実験」創刊 40 周年を記念して出版されるとのことで,同誌創刊号か
らの読者として誠に光栄である。
1963 年 10 月
鎌倉にて
著 者 し る す
目次
はしがき
i
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
1
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
20
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
42
れいめい
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
62
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
80
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
89
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
102
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
121
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
128
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
141
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
152
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
167
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
182
iii
第 1 章 ラジオ放送開始まで
(1923∼1925 年)
わが国で最初にラジオ放送が行なわれたのは 1921 年(大正
10 年)9 月 1 日,本堂平四郎氏によって東京麹町の白粋堂か
らであった 1) ,その後 1925 年(大正 14 年)3 月,正式にラ
ジオ放送が開始されるまでに有力新聞社で放送の実験を行な
うものが続出したが,個人の研究家も多数あった。
一例として『無線と実験』1955 年(昭和 30 年)5 月号に掲載されている “30 年
前のラジオを語る” という座談会記事によれば,
日本で最初の民間ラジオ放送
原田三夫氏……震災後,日本橋の伴伝(フトン商)の二階から『科学画
報』の主催で送信し,両国と日比谷公園にスピーカーをつけて聞かせました
が,これはわが国の放送の最初でしょう。たしか大正 13 年 4 月でした。…
(中略)…
矢崎氏 いや,それなら私の方が先です。大正 11 年でしたね。名古屋と
京都,京都では高工の校内で理科実験室と講堂との間で送受実験をしまし
た。…(後略)…
この他にも東京市内でしばしば個人の研究と思われる電話の電波を聞くことが
あったし,送信とまではいかなくとも銚子や船橋の電信を聞いているアマチュア
は相当数あった。
1922∼3 年(大正 11∼12 年)頃は大衆科学雑誌も少なく,もちろんラジオ専門
誌などは発刊されていなかった。1923 年(大正 12 年)4 月に創刊された『科学画
報』は当時としては珍しい雑誌であった。
まだいつ放送がはじまるか見当も付かない時代であったが, 1923 年(大正 12 年)
7 月号にはつぎのような記事が掲載されている。筆者は柴田守周氏である。以下
引用文献はすべて原文のままであるが,原書はもちろん縦書のルビ付きである。
1) 『日本無線史』による。
2
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
無線電信電話の真空球受信装置の造り方
製作法(図面と照り合せて下さい)
インダクタンス・コイル(受信
用捲線 1) )は種々な方式があつて,
従つて其の型及び使用法も種々と
異なつているが,最も簡明に誰に
でも造れるのは,テスラ型の円筒
捲線である。この捲線にも又種々
あつて,二個の捲線を内外に重ね
て調度を採る方法もあるが,それ
等は製作が少しく複雑になるから
ここ
この次に述べることにして,茲で
は一個のものを用ひることにする。
先づ図に示してある通り直径三
寸長サ五寸の円筒を作るのである。
材料はエボナイト,ファイバー等
を用ひるのであるが,厚紙(ボー
ル紙)を二,三枚重ねて造つたも
のでも充分使用される。円筒が出
第 1 図 来たならば,これに BS 三〇番(線
ね
の太サ)被覆絹捲線を二百十回捲き, 十五回目毎に線を捻じて,五寸程の長
さにターン(導線)を出して図の如くターンの先端は切り換えることが出来
る為に,スヰッチを設けるのである。線は重ならぬよう一重に線と線を密着
させて捲かねばならぬ。捲き終つたならば絶縁と線がはづれぬ為に,ニス又
はラックを塗るのである。
2.バリヤブル・コンデンサー(変化蓄電器)にも様々な種類があるが現
在最も多く使用されてゐるのは,空気式の変化蓄電器である。このコンデン
サーの電極は真鍮板又はアルミニウム板等を用ひ,僅少の空間に両極板を相
互に重ね一極を回転せしめて其の電気容量を変化せしむるのである。このコ
ンデンサ一は素人が造ることは甚だ困難なことと思ふから製作法は略するこ
1) 著者注 原文には(かいせん)とルビがふってある
3
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
とにするが,コンデンサーの蓄電容量は〇・〇〇〇五マイクロファラードの
ものを使用する。
3.オージョン・バルブ(三極真空球)
にも又種類があるが要は高度真空のも
の程成績が良いのである。真空球は其
の名の如く三極の電極があつて,一極
をプレート(陽極)と云ひ,他の一極を
グリッド(中極)と云ひ,他の一極をフ
ヰラメント(白熱線条負極)と云ふ。こ
の真空球は素人が製作することは難か
しいから,製作法は略する。購入の際
は受信用六ボルト三極真空球と指定す
るがよい。
4.グリッド・コンデンサー(中極用
蓄電器)は,質の良い,マイカ(雲母板)
を横七分,長さ二寸に切り,其の裏表に
横五分,長さ一寸五分の錫箔を,ニス又
第 2 図 はゴムノリで張り付け,図の如く表裏の錫箔の上に導線を輪にして付け,其
の上を厚紙で挟んで両極の導線が抜け出さぬ様に造るのである。錫箔は一貫
目と称するものを用ひれば申分ないが煙草等に付いてゐる錫箔でも利用され
はがき
る。マイカの厚さは端書位の厚みのものを用ゐれば適当である。このコンデ
ンサーの電気容量は〇・〇〇〇一マイクロファラード以下のものでなければ
ならぬ。
5.レオスタット(抵抗器)は三極真空球の,フヰラメント点火に用ひる抵
抗器であつて,其の電気抵抗は約一〇オームのものでなければならぬ。これ
を造るには,プラチノイドと称する抵抗の多い線を用ひるが,この線の三〇
番線(線の太サ)を,約六尺位ひ用ひれば,丁度一〇オーム位の抵抗器が造
しこう
れる。先づプラチノド線を筆か鉛筆の軸に捲いて捲線のものとする。 而 し
て線を図の如く半円形に曲げて,木又はセト〔瀬戸物〕の上に取り付け,其
の半円の中心に切接のスヰッチを設けて,加減せしめるのである。
6.プレート・バッテリー(真空球陽極電池)は三極真空球のプレート(陽
4
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
極)に用ひる電源で,電圧は四十五ボルトから九十ボルト位のものを使用す
る。乾電池と蓄電池との二種あるが,いづれも素人が作ることは出来難い。
7.フヰラメント・バッテリー(真空球点火電池)は三極真空球のフヰラメ
ント点火電源で,電圧は六ボルトのものを使用する。其の使用電流は一アン
ペア以内であるが,必要に応じて,前に述べたレオスタットで加減するので
ある。これは懐中電燈用の三ボルト電池を二個直結して用ゆることが出来る。
8.レシイバー(受話器)は,受話装置の生命ともなる部分で,全部装置
が出来たにしろ,このレシイバーがなければ聞くことが出来ぬ。このレシイ
バーにも種類が多々あるが無線電信電話用のレシイバーで,電気抵抗二〇〇
しか
〇オーム位のものが良い。然し普通の有線電話の受話器でも用ひられますが,
受聴音はずっと小さくなる。レシイバーは,全然素人に造れぬから製作法は
略することにする。購入の際は無線用受話器二〇〇〇オームのものと指定を
要す。
アンテナ(空中線)とアース(地中線)
アンテナ(空中線)は人の手の様
な働きをするもので,大空に大手を
拡げて飛走する電波を,第一に受取
る役目をする。海軍省や逓信省に立
そ
ててある高い柱が夫れである。之に
も様々の方式があるが,要は高い程
成績がよいのである。先づ簡単に造
るには図〔第 3 図〕の如き長サ三十
五尺位のサヲ〔竿〕竹を二本用い,三
十尺位の間をとつて両方に立て,長
第 3 図 さ二尺位の棒に絶縁物(セト〔瀬戸物〕,又はエボナイト)を六寸位の間に
おのおの
三個づつ付け,これに十八番線(線の太サ)の長サ三十尺の銅線を己々結び
付け,他の一端は必ず三本を一とまとめにして受信回路に接続するのである。
其の他アンテナは天井裏に張つても有効である。
アース(地中線)は一尺四方位の銅板又はブリキ板に導線を付け井戸の中
に入れるか,又は水分の多い土地を選んで地中二,三尺の深さに埋ずめるの
ガ
ス
であるが,其外水道口か瓦斯口に導線を捲き付けて用ひても良い結果が得ら
5
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
れる。
配 線
法
配線法にも種々な方式があるが簡単
にして使用の容易な方法を用ひること
にする。図〔第 4 図〕に示せる如く,先
づアンテナをインダクタンス・コイルの
一端に接続し,コイルのスヰッチの中心
からはアースに接続する。アンテナとコ
イルの接続部から一方はグリッド・コン
デンサーを通じて,三極真空球のグリッ
ド G に接続し,一方はバリヤブル・コ
第 4 図 ンデンサーを通じてスヰッチとアースの接続点につなぐ,この接続点からレ
シーバーを通じてプレート・バッテリーの (−) 負極へ接続し,バッテリーの
(+) 陽極は真空球のプレート P(陽極)へ接続する。フヰラメント・バッテ
リーの (+) 陽極はレオスタットを通り真空球のフヰラメントを通してバッテ
しこう
リーの (−) 負極に接続する。 而 してバッテリー (+) 陽極からはアース,レ
シーバー回路に接続するのである。
使用法
しこう
先づレシーバーを耳に当て,三極真空球に点火する。 而 して点火の調度
を探るのであるが,フヰラメントは余り強く輝やかさぬ為レオスタットで加
減する。調度が探れたならばインダクタンス・コイルのスヰッチを静かに回
しこう
転して見る。 而 してバリヤブル・コンデンサーも静かに回転してコイルと
相互に調度を探つてジット受話器に起る音響に注意する。電信なり電話なり
の音が聞えたならば,其の音をはつきりさせる為に受信波長の同調点をコイ
ルとコンデンサーを回転しながら探るのである。同調すると音が明瞭に聞え
る。其の時が即ち LC 法則に依つて,インダクタンス・コイルとコンデンサ
とが揃つて受信波長に同調した時である。
実 用
マイル
マイル
この受信装置の有効 哩 数は約五百 哩 位であるが,小汽船及天文台等で使
用するに適当であり,娯楽としては無線講演或は無線音楽等を受聴するに最
かよう
も適合してゐる。現に欧米諸国で使用してゐる受信装置は斯様な方式が主に
6
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
使用されてゐるのである。
配線図に記号を用いず実体図であるのはおもしろい。当時の三極管で非再生式
では 500 マイルの受信は無理であったと思われる。グリッドコンデンサにリーク
がないのは,ソフトバルブ 1) を使用し電離による作用を利用したのであろうか。
電信は相手がスパーク式が多かったからヘテロダインを必要としなかったのであ
ろう。
昭和初期の記事がほとんど翻訳で,図面,写真などは丸写しのものが多かった
のにくらべて,種本のありなしは別としてとに角よく書かれている。
この記事にあるように当時はすべて部分品は自作するのが当り前であり,製作
困難なものだけを買うという意気があった。
同誌8月号には送信機の製作記事が掲載された。筆者はやはり柴田守周氏で
ある。
簡易送話装置の造りかた
製作法
先づ今度の送話装置に必要な材料と器具とを左に数へて見よう。
1. インダクタンス・コイル(自己誘導捲線)
2. バリヤブル・コンデンサー(加減蓄電器)
3. 五ワット三極真空球
4. プレート用電池(二二五ボルト)
1) 著者注。真空度の比較的低い真空管,たとえば 200 型または 200A 型で, 200A 型はアルカリ蒸気を少量封入してあった。
µ は 20 程度で(当時としては大きな値)であり,グリッドの励振によってプレート電流が変化すれば,ガス分子の電離
の量も変化しプレート電流の変化を一層大きくする。昔は検波管としてよく用いられたが,動作はきわめて不安定であっ
た。もちろん現在ではぜんぜん作られていない。後日のため当時の国産ソフトバルブの表をつぎに示す
フィラメント
電
圧
フィラメント
電
流
プレート電圧
サイモトロン
200
5V
1.0A
20∼30V
日本無線
C2
C7
4∼6V
4∼6V
0.8A
0.8A
40∼80V
40∼80V
東京無線
TV–1
TV–4
TV–6
6V
6V
6V
1.0A
1.0A
1.0A
40V
40V
40V
日本真空管
NVV–1
NVV–4
NVV–5
6V
6V
6V
0.9A
0.9A
1.0A
45∼100V
30∼70V
30∼70V
メーカー
名
東京電気
称
7
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
5. フヰラメント用電池(六ボルト)
6. ソリードバック式送話器
7. 振動電流計 1)
ちょっと
右の材料を使用するのであるが,前に一寸注意して置くことは,プレート
用電池の電圧は二二五ボルトを使用するから,実験の時は接続を間違へぬよ
うに,充分注意してかからぬと,うつかり間違へて接続すると,パチパチッ
しま
と青い火花を放つて真空球を破損したり,配線の導線を切断して了ふことが
あるから,この点を特に御注意して置く。しかし普通諸工場で使用してゐる
動力用の電気等とはその性質(電流及び容量)が違ふから,人体に及ぼす危
そ
険は無いが,夫れでも電路に直接手を触れるとピリピリッと強く感じるから
注意せねばならぬ。
それから,配線に用ゆる電線
は全部ゴム捲被覆線を用ひる事
と,空中線から垂れた引込線は,
木の枝や,窓や,戸に触れると送
話の成績が悪くなるからこの点
も注意を要する。もし引込線が
がいし
窓等に触れる場合は絶縁の碍子
を必ず使用することにする。
インダクタンス・コイル(自己
誘導捲線) インダクタンス・コ
イルは,前号の受話装置で再々
造つたから大分諸君は造り馴れ
たことと思ふ。先づ第一は直径
三寸長さ二寸五分の円筒を造る
のである。この円筒は木筒かエ
ボナイト筒か,ファイバー筒を
使用すれば申分はないが,例の
第 5 図 通りボール紙を三,四枚重ねて
造つても充分使用される。ボール紙で造つた円筒はどうしても弱くて,円
1) 著者注 熱線型高周波電流計のことである。
8
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
じょうぶ
がゆがむ気味があるから,少し位押してもゆがまぬ様丈夫に造つて戴きたい。
円筒が出来上つたならば薬屋さんへ行ってラックかニスを十銭位買つて来て
円筒の外側や内側へ何度も塗つて,よく吸ひ込ませると,絶縁もよくなると
じょうぶ
同時に丈夫になるから一挙両得になる。円筒が乾いたならば,図〔第 5 図〕
の如く円筒の一端から線を捲くのであるが,今度のインダクタンス・コイル
には二十一番被覆線を用ひる。捲線は線と線を密着させて互に線が重なり合
しこう
はぬ様注意して捲く。 而 して四十五回捲いたならば図〔第 5 図〕の如く線
を捻じて,1 本のターン(導線)を出して置く。其の後は五回目に一本づつ
ターンを出して捲き止める。捲き上つたならば,もう一度線の上ヘラックか
ニスを塗つて置く。そして乾いたならば,図〔第 5 図〕の様に五本のターン
の先に切換の出来得る様,スヰッチを設けるのである。
バリヤブル・コンデンサー(加減蓄電器) 次はバリヤブル・コンデンサー
であるが,これは素人が造ることは至難のことであるから,其の構造だけ述
ここ
べて置く。茲で使用するコンデンサーは空気式の加減蓄電器で,其の電極は
半円形の真鍮板か,アルミニューム板等を用い,僅少の空間に両極板を相互
に重ねて,一極を回転せしめて其の蓄電容量を加減せしむるのである。使用
するコンデンサーの蓄電容量は〇・〇〇〇五マイクロファラード位のものを
用ひる。
五ワット三極真空球 三極真空球は,其の名の如く三極の電極があつて外
側の極を (P) プレート(陽極)と云ひ,中程にある極を(G)グリッド(中
極)と云ひ,中心の点火線を(F)フヰラメント(白熱線負極)と云ふ。こ
の真空球は,高度真空のもの程成績がよいのである。これは素人が造る訳に
行かぬから製作法は略するが購入の際は,送話用五ワット真空球と指定する
のがよい。
プレート用電池(陽極用電源) プレート用電池は三極真空球の (P) プレー
ト(陽極)に用ひる電源であつて,其の電圧は二二五ボルトを使用する。こ
れには乾電池と蓄電池との二種あるが,いづれも同様に使用される。
フヰラメント用電池(真空球点火電源) この電池は三極真空球の点火に
用ゆる電源で其の電圧は六ボルトの電池を使用する。之にも乾電池と蓄電池
との二種があるが,いづれも同様に使用される。これは懐中電燈用の三ボル
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第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
ト電池を二個連結して用ひることが出来る。
ソリードバック式送話器 この送話器は普通の有線電話用の送話器と同様
のものであるが,デルビル式の送話器よりもソリードバック式の送話器が無
線用としては成績が良い。これは素人につくれないから製作法は述べぬが,
送話器にはよく不良品が多いから注意を要する。
振動電流計 この振動電流計も素人
には造れぬから製作法は略して其の構
造と作用とを簡単に説明して置く。振
動電流計は主に熱線式のものが用ひら
ここ
や は
れる。茲でも矢張り熱線式の振動電流
計を使用するから,ハートマン・エン
ド・ブラウンの標準電流計を話題にし
て説明しやう。図〔第 6 図〕に於て AB
間に毛の様に細いプラチナム・シルバー
線を張る。そうして AB 中間の C 点か
ら D に燐銅線を張る。
この燐銅線の CD 間の中点から F へ
糸を結付けて,この糸の G 点には滑車
を設けてこれに指針を付ける。それか
バ ネ
ら糸の F 点に近い処には弾条をつけて
第 6 図 置く。今 AE 線に電流を通ずると AB 線は伸長して C 点が弛むから,従って
バ ネ
CD 間にも弛みが出来る。そうなると EF 間の H弾条が縮んで糸を引くから,
G 滑車が回転して指針が動くことになる。今度の送話装置には電流計は三〇
〇ミリアンペアのを使用するのである。
アンテナ(空中線)とアース(地中線) アンテナとアースとは今度新し
く申述べる迄もないが,アースはさておきアンテナは五ワット送話の実験上,
ちょっと
その長さを固定する必要があるから一寸説明して置く。先づ長さ三十尺位の
竹竿か木柱の先端に長さ二尺の棒を取付け,この棒に六寸づつの間隔をとつ
がいし
て三個の絶縁碍子を付け,これに長さ三十七尺の銅線(十八番線)を各々結
付けて両方に立てるのである。そうしてこの三本の銅線からは各々一本の線
を垂れて,これを一本にまとめて送話回路に引込むのである。空中線は高い
10
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
程通達距離が増すから,出来るだけ高くするがよい。アースは例の通り,一
ないし
尺四方乃至二尺四方位の鋼板か,ブリキ板に導線を結付けて,これを井戸の
ガ
ス
中に入れるか,水分の多い土地を選んで埋めるかする。亦瓦斯口か水道口ヘ
接続して用ひると良い成績が得られる。
いよいよ
配線法(線の接続) 全部出来上つたならば,今度は愈々配線即ち線の張
りまはしである。先づ第一に空中線を振動電流計の一端につなぎ,電流計の
他端はインダクタンス・コイルの一端につなぐ。そして,インダクタンス・
コイルの他端は送話器の一端につなぎ,送話器の他端は地中線へ接続する。
それからインダクタンス・コイルの五本のターンを切換へるスヰッチからは,
三極真空球の中極即ち (G) グリッドにつなぎ,このグリッド回路からは線を
出してコンデンサーの一端につなぐ。コンデンサーの他端は,インダクタン
ス・コイルと送話器のつなぎ目に接続する。その次は三極真空球の (F) フヰ
ラメントから導線を出してフヰラメント用六ボルト電池の (+) 陽極へつなぎ,
電池の (−) 負極を (F) の一方へつないで,其のつなぎ箇所から導線をインダ
クタンス・コイルの四十五回捲目のターンに接続するのである。次は三極真
空球の (P) プレート(陽極)から導線を出して,プレート用電池の (+) 陽極
につなぎ,電池の負極からの導線はインダクタンス・コイルと送話器のつな
ぎ目へ接続するのである。これで配線も出来た。
使用法 さて配線が出来たな
らば今度は実験をして見やう。先
づ真空球に点火して,インダク
タンス・コイルのスヰッチとコ
ンデンサーとを逐次に回転して
見ると,振動電流計の針が零か
ら上つて或る点を指示するから,
そうしたならば,送話器に向つ
てアーモシモシ本日は晴天なり
(これは専門家が使ふ一種の熟
第 7 図 語)をやるなり歌を唄ふなりすると,振動電流計の針が音につれて盛んに微
こ
動する。斯うなれば,立派に空中線から空中に向つて電波,即ち話の波が放
送されるのである。この場合振動電流計の指針が高い点を指す程成積が良い
11
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
のである。此の送話装置は,本式の空中線と地中線を用ひて送話すると,約
マイル
一 哩 の距離まで通達させることが出来るが,素人実験では,十町内外〔約
1km〕であらう(諸君の実験した成績は御手数でも本社内柴田宛に御通知な
すつて下さい。
前記の受信機の記事でも感じるのであるが,
これほど部分品の自作をすすめた筆者がソ
ケットに言及しないのはどうしたわけであ
ろうか。バルブ〔真空管〕の足に直接ハンダ
付けをしたのであろうか。電源スイッチのな
いのはまとまったセットとしてではなく,物
理の実験のように随時組み立てたものらしい。
送受信波長を示していないのもおもしろい。
さらに同誌の 1923 年(大正 12 年)9 月号
には,同じ筆者の「わずか 5 円でできる無線
の発信装置,ブザー送信器の造り方」が掲載
されている。以下はその一部分である。
第 8 図 材料 先づ今度のブザー送信器に必要な材料の価格を積つて見ませう。
一,ブザー(発振器) 約三円
二,電 池
約一円
三,被覆線
約三十銭
四,電 鍵
約三十銭
五,マイカ(雲母)
約三十銭
六,錫 箔
約五銭
七,ボール紙
全部でザット五円位で出来ます。
約五銭
このあと,コイル・コンデンサ,電鍵などの製作法を述べたあと,
使用法 配線が出来ましたならば,今度は実験をして見ませう。電鍵のブ
リキ板を押して釘に板をつけますと,電池から電流はブザーに振動を起して,
ピーピーと鳴ります。こうして電鍵を押したり放したりして思ひ通りの符号
を送るのであります。普通電信の通信符号は長点を――,句点を・で,これ
12
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
しか
を綴り合して文字にするモールス式符号です。併し皆さんは自己流の符号を
作つて実験なさい。
このモールス式符号はなかなか覚えにくいもので自己流の符号を作って云々は,
誠におもしろい。
それにしてもボール紙のボビンはなかなかうまくできなくて,製作は大いに苦
心したものである。前掲 30 年前のラジオを語る座談会に
矢崎氏…放送のはじまる前のころはコイルも売ってはいましたが,とても高
いので,当時のアマチュアはボール紙を巻いて筒を作り,これにニスを塗っ
てボビンを作りコイルを巻いていました。それでボール紙を持って歩いてい
る人を見ると,ラヂオのアマチュアだなと思ったこともありましたね。そう
やって苦心して作ってもまだ放送がないので,銚子の 600m でやっている気
象報通と時報を受信するか,トンツーを受けるくらいでしたが,とても楽し
みでした。検波器はもちろんさぐり式の鉱石でした。そうこうするうちに官
練 1) の放送がはじまったのでそれを聞きましたが,何しろそういうものを聞
く,つまり受信施設があることすら違法でしたから……
と語っている。さて,このようにしだいに上がりかけてきたラジオ熱を一挙にさ
ましたのは, 1923 年(大正 12 年)9 月 1 日 11 時 58 分突如として関東地方を襲っ
た大地震であった。写真研究家として著名な故・吉川達男氏は写真書『アルバム
の纏め方』
(1938 年 11 月,玄光社版)において,当時の状況をつぎのようにのべ
ている。
ふすま
……壁は脱落し,大型の壁鏡は板の間に墜落して倒れ微塵に砕け,障子, 襖
は其の上に横たはり,本箱も倒れて書物の一切は足を踏込む隙さへない。数
年前から自作研究中であつたラヂオ(此の時分放送局など未だなかつた)は
机上に壁土を被って破壊して居る……
このような状況で,関東地方に住んでいたアマチュアの大部分は当分ラジオど
ころではなくなったのである。しかし,当時の国力では災害の回復も思ったより
早く進んだのである。『科学画報』代理部はつぎのようなあいさつ文を大震災号
(10 月か?)に掲載した。
1) 著者注。逓信官吏練習所。東京・芝にあった。
13
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
無線研究者諸氏に謹告
たま
ありがた
研究者諸氏より御親切なる御見舞を給はり有難く厚く御礼申上ます。当代
理部も震災の厄にあひ焼失致しましたが,部員一同無事で居りますから以前
より以上の努力を以つて器機器具の製作に着手致して居ります。……(後略)
この代理部について小川菊松氏は,
『無線と実験』1934 年(昭和 9 年)5 月号に掲
載された「無線と実験創刊満十周年を迎えて」においてつぎのようにのべている。
…(前略)…自分が始めて経営する第一回の代理部は,其の名も「科学画報
代理部」として,一時神田駅前京浜ビルの三階全室を賃借して華々しく開業
し,力強く野望の過程第一歩を踏出すに至つたが,これぞ実にわが国に於け
こうし
るラヂオ材料専門店の嚆矢であつて,当時の最尖端を走つた存在であつた。
果たせるかな材料入手難を告ぐるラヂオ黎明の時代,即ちこれに当る絶
好の機会であつたに因して,この代理部は売れる! 売れる! 比較的現在よ
り高価であつた各種のものが,真に一瞬の間に余さず売り盡されてしまふ
のではないかと疑ぐる程,日夜註文殺到して大成功を納めたのであつた。…
(後略)…
第 9 図は『科学画報』1923 年(大正 12 年)9 月号に掲載された広告である。
一方,逓信省は同年 12 月 19 日放送無線電話に関する規則を公布した。
『科学画
第 9 図 14
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
報』1924 年(大正 13 年)2 月号にはこれに関する記事が掲載された。
いよいよラディオ時代が来ました
しばしば『科学画報』が欧米における進歩状態について報告して来た無線
放送(ブロードキャスティング)が,わが国においても許可されることにな
り,去年の十二月十九日を以てこれに関する規則が発布され,直に実施され
ることになりました。その大要を左に掲げます。この規則の内容は放送用と
聴取用の両施設に分かれ,先づ放送施設においては,
マイル
一、放送地域は長距離用のものは約百 哩 を最高限とし,短距離用のものは
マイル
約二十 哩 以下で,その電力は前者は一キロ半以内,後者は二百五十ワッ
ト以下。
一、放送事項は時事,相場,気象,時刻,講演,音楽等にして公秩良俗に反
しないものはこれを認むるものであるが,営業広告は絶対に許されぬ方
針である。
一、放送時間は音楽等娯楽事項は夜間を原則とし,其他は昼夜共に放送し得
おそれ
るのであるが,軍用其他公用通信に支障を及ぼす 虞 ある場合は制限又
もちろん
は停止せらるゝこと勿論である。
一、放送事業の経営者は認可を受け聴取料金を徴し得るのであるが,元来公
かつ
共的性質の事業であるから,営利を本位とせず,且永続して経営し得る
おのずか
ことを必要とする。又無線通信の性質上放送局数は 自 ら制限される。
次に聴取装置に就ては
一、施設者は必ず所轄逓信局長の認可を受けねばならぬ。無許可の施設に対
しては無線電信法に厳重なる制裁を定めてあるので,無線装置の性質上
厳格なる取締を必要とするものである。
一、聴収用機器は電気試験所の型式証明を受けたものを使用するを原則とす
る。之は監督上の必要にも依るが,一面甚だしき粗製濫造的な機器に依
て購買者の蒙るべき不利益を防止し,かつ許可の手続を簡略ならしめ得
るわけだ。
一、聴取装置を施設せむとする者は先づその地点を放送区域とする放送施設
者と連絡を採りて出願することが必要である。しかしてその装置は相手
放送局の電波長に対応調整して固定せねばならぬ。
15
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
なお
といふので,尚,無線放送局は東京において二十ケ所,大阪において十ケ所
いず
許可されることになりました。これらは,何れも新聞,雑誌社,取引所等公
共事業を行つてゐるものに限られ,営利事業には一切利用させない方針であ
ります。
丁度本稿〆切前後は放送局認可の審議中で,まだ決定するに至りませんで
した。
『科学画報』は去年創刊号において,来るべきラヂオ時代について逓信
省横山技師の懇切なる説明と意見をかゝげたるを始めとして,殆ど毎号,無
線電話に関する有益なる記事を掲げ…(中略)…
今度の規則を見ますと受信機は一々届けた上に,波長は一定のに合せたま
ま,固定しなくてはならず,話し相手もちやんときめる必要がある様ですが,
今まで通に実験としてやるのなら,なにも一々この規則どほりにしなくても
差しつかへないのです。
逓信省もおどろくべき実行不可能な規則をこしらえたものであるが,「実験と
してやるのなら,なにもいちいちこの規則どおりにしなくても‥…」は『科学画
報』もずいぶん強引なはなしであった。
この「放送」という言葉について奥中垣一氏は著書『無線電話受信機の製作及
製置』(1925 年 6 月,弘文社刊)においてつぎのようにのべている。
放送に就て
放送の言葉は英語の (Broad-Cast) から来たもので,英語そのまゝの意味で
は広い範囲に綱を打つと云ふ意味である。或る一ケ所で電波を発射すれば四
ど
かつ
方八方に拡がつて,何んな所でも受信が出来,且相手に反信を要せず,送り
放しにするのである。従つて一ケ所よりの発振は受信機さへ備へ付けてある
者には,誰にでも聞えられるのである。現在では毎日,新聞の記事の重要な
記事を無線電信局から航海中の船舶に向つて通信せられて居る。航海者も陸
地の出来事を聞知ることが出来るのである。これ等は政府が行つて居るので
あるが,民間私設の無電放送が許可されたから,無電を利用し時々刻々に起
る重なる社会上の出来事を通知したり,或は名士の演説,さては音楽と云つ
た様に無電放送をなす放送局が出来る。従つて受信機さへ装置してあればど
ちょうほう
んな田舎や山間僻地でも居ながら聞くことが出来, 重 宝 この上もない。
米国ではこんな放送局を無制限に許可したので, 今では其の数は数百とな
16
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
かくらん
つて居る。従つてこれ等無数の放送局から発する電波のため空中が撹乱され,
公衆通信を妨害することが少くない。一方受信者側にあつても遠距離からの
電波を受話したいので,誰でも受信装置を再生式のものを用ひる。これがた
めに自分の空中線にも振動を発生して付近の放送無線電話を楽しむ人々を
妨害すること甚だしくなる。我国ではこんな自己空中線に振動を発するやう
かつ
な受信装置で受話することは禁じられてゐる。放送局の設備も制限し,且つ
放送電力も比較的小容量のものとされて居る。受信者側にあつても受信機を
素人が勝手に造つても許可を得なければ使用出来ず,又無電受信機製造販売
にも許可証明せられた機械及び,其の付属品でないと不可ないことになつて
居る。
もちろん
次に放送順序の慣例となつて居るやうなものを述べる。放送時間は勿論正
確にしないと受信者に不安を与へるから,定められた時間は厳守するのであ
る。先づ音楽なりを放送する前に放送局の局名符号を数分間発信する。この
符号発信は減幅振動受信機にも聴へ得るやうな電波で発信する。それで聴取
者の注意を喚起すると共に受信機の調整をする時間を与へるのである。この
符号を受くる電波に自己受信機を調整して置けば良いのである。次は符号で
なく音声で放送局名とプログラムを繰返した後で音楽なれば曲名と演奏者の
しこう
名を告げる。 而 して後に音楽なり演説なりの放送を始める。終了すれば最
後に自局の符号を送るのが規定となつて居る。音声で局名やプログラムを発
する役目をする者をアナウンサーと云ふ。要するに説明者である。此の人達
の音声はその放送局の評判を左右するのであるから,米国などでは最も声の
良い人を雇つて,其の局の名声を博することに務めて居る。
この記事はアメリカの文献を参考にしてのべたものと思われるが,アメリカで
は放送の初期には A2 の電信でコールサインを出したのであろうか,文中の意味
はそのように取れるのであるが……。
『科学画報』1924 年(大正 13 年)3 月号には、バリオメーターを使用した受信
機の製作記事が掲載された。筆者は柴田守周氏であるが表題もラジオ放送開始を
うたっている。
ラヂオ黎明期 無線網は遂に全国を覆ふ 1)
1) 著者注 実際に JOAK が放送を開始したのは一年後であった
17
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
放送無線電話を聴取するに適当した簡単な受話装置
いよいよ
延び延びになつていた無線放送局の私設も愈々具体化されて,今春の四五
月頃からは,定めて,諸君の受話装置を賑はすことでありませう。今月号に
は誰にでも造れる至極簡単なヴァリオメーターを用ひて,放送局で送る短
波長 1) の電話を聴取するに適当した受話装置の造り方を御紹介します。…
(中略)…
ヴァリオメーターの造り方 ヴァリオメーター
には種々形体が異なつたものがありまして,その
作用及び使用の方法も幾分違つた点がありますが,
ここ
茲に御紹介するヴァリオメーターはその内最も簡
単に造れるものを用ひませう。
ど こ
先づ何処の家庭にもある蓄音機の古レコードを
応用して,第 10 図に示してある様な,一見丸扇
に似ているヴァリオメーターを造ります。レコー
ドにも大小がありますが,普通のレコード板を図
の様に切り抜き,その内外の板に二十一箇所切り
第 10 図 込んで,これに二十番の二重絹巻線を互い違いに捲いて行きます。
捲き方は外部も内部も同方向に捲て下
さい。捲き終つたならば,適当な心棒を
付けて内部の捲線が回転する様に装置し
ます。外部のコイルは,これにあてはま
る枠を作つて固定して下さい。枠の上部
には心棒の上部へ矢を付けて,その下へ〇
度から百八〇度の角度を目盛つたスケー
ル板をつけて置けば,内部のコイルをど
の位の角度に回転したかゞ分ります。心
棒は絶縁してあれば金属でもかまいませ
んが,なるたけ金属でない方がよろしい。
外部と内部の線の接続は,外部のコイル
しま
の捲き了ひを内部のコイルの捲き始めに
第 11 図 1) 著者注 現在の放送波長のこと, 600m(500kc)以上の電信波に対して短波長といっているのである。
18
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
つなぎます。そうして内部のコイルが回転しても差支へのない程度に線をの
ばして置くことは最も必要のことであります。それから内部のコイルの捲き
しま
了ひは,外部のコイルの捲き始めと同じ様に,線を少し長めに出して置きま
す。…(中略)…
取扱ひ方 毎度前号でのべた受話装置にはインダクタンス・コイルを用ひ
ました。そうしてこのインダクタンスからは若干のタップを出して調節する
様にしましたが,今度のヴァリオメーターは内部のコイルを回転して調節す
るのであります。…(中略)…
先づ取扱ひ方は,受話器を耳にしてフヰラメントの輝きをレオスタットで
加減しつゝ受話器に起る音響に注意します。この時フヰラメントの輝きを強
せっかく
くするとキューと云ふ様な雑音を起します。亦余り暗くすると折角電話が到
よろし
来しても無駄になります。この点は宜敷くレオスタットで加減を要します 次はヴァリオメーターを回転しつゝ外来電話波長に同調する様に調度をとり
こ
ますと,電波が到来していれば必ず気持ち良く聞えます。斯うした調度のと
よろし
り方は宜敷く念入りに御研究下さい。或る人は造るのよりも,オペレート取
こと
扱ひ方がむづかしいと云ひますが,実際或る点に於てそう思ひます。殊に自
こ
分で造つた装置には時々不備な点があるものです。しかし斯うした苦心があ
ればこそ,その次に嬉びが待つてゐるのでありませう。鉱石検波の場合は鉱
石の感度を探ることが一番困難であり,亦一番痛快のことであります。ヴァ
リオメーターで調度を採ることは前の場合と同様であります。
鉱石の感度を探ることはいちばん
痛快とはいみじくも喝破したもので
ある。第 11 図のようなスプリング
の先を鉱石(方鉛鉱が多かった。あ
ちこち当てて,感度のよいところを
見付けると,お金でも拾ったような
感じがしたものである。今の若い人
には想像もできないことであろう。
ゲルマニューム・ダイオードなど,は
るか水平線のそのまた彼方の時代の
第 12 図 19
第 1 章 ラジオ放送開始まで(1923∼1925 年)
第 13 図
第 14 図
はなしである。
なお後日のため 1925 年頃のサグリ式鉱石の商品名を記せば
ニウトロン
ニュー A1
アイテイアトム
オリジン(松下,現在のナショナル)
ドォフォレーガレナ
日本無線
他があった。
著者は主としてニウトロンを使用したが,薬のような黄色いカン入の包装で
あった。
第 2 章 型式証明問題
(1924∼1925 年)
さて, 1924 年(大正 13 年)2 月 26 日,前より一層具体的
な放送用私設無線電信電話監督事務細則が制定された。そ
れは
1. 型式証明を受けた受信機を使用するときは,特に必要ある場合のほか書類
により許否を決定し差支えなきこと。
2. 型式証明を受けざる受信機の使用を許可するは,だいたい
(イ) 施設者自己の考案にかかる特殊の方式で,学術上有効と認められる
もの。
(ロ) 商品として輸入したものでなく機能優秀な外国製機器をたまたま入手
したときに限ること。
というものであった。なお受信波長は 200∼250m,350∼400m の 2 バンド切換え
が条件となっていた。実に 2 バンド受信機はこの時にはじまっているのである。
また振動電流を発生しないこと(非再生式であること)も条件となっていた。一
方,アマチュアには学術上有効なものなどはできるわけがないから,実際にはこ
の規則(細則)はアマチュアのラジオを禁止するに等しかったのであった。それ
にしてもたまたま入手した機能優秀なる外国製品のいかに氾濫したことよ。もち
ろん,われわれはこのような不合理な規則は頭から問題にせずアンカバーの受信
をつづけたのであった。
当時の事情を国米藤吉氏(当時,東京逓信局監督課無線係長)は『無線と実験』
1934 年(昭和 9 年)5 月号に掲載された「ラヂオの昔を語る」で,つぎのように
述べている。
…(前略)…其の頃無線電信の器機製作会社ではラヂオの器機も作り始め出
したが,何分売つても放送が始まつていないので,聴えるものは無線電信の
通信だけだし,殆んど許可を得ないものばかり故,売つても尻が来ては大変
しろうと
しか
であるから,素人には売付ける訳に行かず傍観の態度であつた。然し熱心な
者は外国雑誌を読んでは自ら作つて見て,船橋無線局の通信が聞えて来るの
21
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
を楽しんで居た。物珍らしいものであるから人に話をする。又自慢でもある
ので新聞記者に発表する,新聞記者はトク種の積りで書きたてる。逓信局で
い
はそれ来たと取締に出掛ると謂ふ具合であつた。…(後略)…
また『無線と実験』1937 年(昭和 12 年)7 月号の「全波受信機の解放を叫ぶ」
という巻頭言はつぎのように述べている。署名はないが古沢氏であろう。
往年,関東大震災の直後,記者は当時赤門前のラヂオ電気商会に在りて,本
かたわ
誌の創刊の事務に関係し, 傍 ら,今から顧みると玩具同やうなるクリスタ
ル・セットなどを販売していた。そのクリスタル・セットは,インダクタン
かろう
スもいい加減なもので, 辛 じて銚子無線局の夜の時報などが聞える程度で
あつた。其の後,芝の官吏練習所で無線電話の試験放送を開始するや,この
ごと
玩具に等しいクリスタル・セットも飛ぶが如く売れたのである。この試験放
送に前後して “無線電信法に関し,出頭ありたし” といふ呼出状を,逓信省
から戴いたのである。出頭すると “横山さんは今お忙がしいから私から申し
ます” といつて調べて下さつたのが,今の日本放送協会の設計課長土岐重助
氏であつた。
今から 10 数年昔のことで,対話の細々したことは忘れてしまつたが,要
もら
するに無線電信法を知つてゐて貰はぬと困る。売ることを禁止する法律は無
いが,売つてもそれを買つたものが使へば無線電信法に抵触するから,まア
売らぬ方が良いと思ふ――といふやうな注意を聞いて帰つたのであった。…
(後略)…
一方,この規則に挑戦するかのように『科学画報』同年 5 月号は再生式受信機
の製作記事を発表した。この頃になってもまだ配線記号が用いられず実体配線図
である。筆者はやはり柴田守周氏であった。
極く簡単に仕組んだヘテロダイン受話装置の造り方
ここ
素晴しいその偉力 今茲に述べようとするヘテロダイン受話装置は,千葉
県に在る船橋無線局の発する通信を,遠く南支那沿岸にあつて受信すること
すこぶ
が可能であると云はれてゐる程,頗 る優秀な装置であります。此の装置を本
しろうと
ここ
式に造ることは,到底素人諸君には至難なことでありませうから,茲では最
やす
もちろん
も造り易いやうに,出来るだけ砕いた方法を以て仕組むことにします。勿論,
22
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
間単に仕組めば多少成績が落ちることはまぬがれませんが,それでも他の受
話装置に比較して見ますと,たつた一個の真空球を用ひるのみであるにも係
らず,はるかに勝れて居ります。
従つて,この装置はこれまでに述べた受諸装置とは少しく毛色が違つて居
りまして,三つのコイルを使う様になつてゐます。三つのコイルを用ひる理
由は,普通の受信機のやうに,先方から送つて来た振動電流を受け入れるの
みで無く,三つのコイルの働きを借りて,こちらでも振動電流を発生せしめ,
これをウマク先方から来た振動電流に交ぜ込んで,一種の拡大作用を起さし
つい
めるのであります。これに就てはナカナカ面白い原理を含んで居りますが,
それは,少しく混み入つて来ますから,後日稿を改めて述べることに致しま
し
せう。ドウモこの無線なるものは,百聞一見に如かずで,下手な理窟をコネ
ま
そ
廻すよりか,先づ実際に当つて実験研究をして見,夫れから原理を噛み分け
る方が,ハハア成る程と合点がゆくのであります。
一個の真空球を使用する受話装置は,これまでに何度か述べましたから,
今度はこのヘテロダイン受話装置を述べて,一とまず切り上げませう。これ
しばら
からの号には,拡大「アムプリファイヤー」装置を 暫 く述べることにしま
よろし
なごり
すから,宜敷く名残の成績を挙げて戴きたい。
三段コイルの製法 今度のコ
イルは本式に造るとなると,三
つのコイルを三段に重ね,互に
か
引出しあつて調整を計るよう,且
つ亦個個のコイルにタップ(端
線)を設けて切換の出来るやう
ちょっと
に造るのでありますから,一寸
しろうと
素人には造りにくい。そこで筆
者は,読者の肩が張らぬやうに,
至極簡単な方法で,しかも立派
第 15 図 に作用する三段コイルの造り方を,御教へ致します。…(中略)…
注意したい配線法 今度の装置は,これまでと違つて少しばかり混み入つ
ま
てゐますから,配線を間違はぬよう念入りに接続して下さい。先づ空中線を,
中段のコイルに設けてある切換用のタップの一番外れの一つにつなぎまして,
23
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
次には,そのタップを切換へる役目をする金具(スヰッチレバー)に線をつ
けて,地中線に接続します。其の次は,下段コイルに設けてあるタップの一
番外れに二本の線をつけて,一本はバリヤブル・コンデンサーの一端に,一
本はグリッド・コンデンサーの一端につなぎ,グリッド・コンデンサーの他
端は真空球の G グリッドに接続します。そうして切換へのスヰッチレバー
にも二本の線をつないで,一本は真空球の F フヰラメントを点火する電池の
一方につなぎ,一本はバリヤブル・コンデンサの他端につなぎます。またこ
の線を通り越す線を設けて,受話機の一端に接続するやうにします。それか
ら上段コイルの外れのタップから,線を出して真空球の P プレートにつなぎ,
そのスヰッチレバーからの線はプレート電池の陽極 + につなぎ,電池の陰
極 − は,受話機の一方に接続するのであります。真空球を点火するフヰラメ
ント電池のつなぎ方は,今までの号で再々述べて来た通り,レオスタットを
挾むやうな具合にして線をつなぐのです。取扱ひ方はこれまで毎度説明して
ばか
ありますから,今はもう,諸君の御熟練を待つ許りでありますが,唯だ三つ
のコイルの使ひ分けは,中段コイルを切換へることを主にして,次は下段上
段と互ひ違ひに変化をさせるやうにします。それからバリヤブル・コンデン
サーの容量を変化させる事やレオスタットで真空球の点火の工合を計ること
よろし
は,宜敷く手加減を要します。
この記事が出た月,すなわち 1924 年(大正 13 年)5 月「無線と実験」が創刊さ
れた。第 16 図は同年 6 月号の「科学画報」に掲載された広告である。この創刊
号の第 2 頁にはつぎのような “発刊の辞” が掲載されている。
発刊の辞 主幹 苫米地 貢
社会人類の文明尺度は,電気応用の状況に依りて,測定せられ,また電気
ラ ジ
オ
精髄は雷智雄によりて,代表せらるるとは,近時に於ける,学界の標語なる
にあらずや。
しか
いかん
然るに,我国,斯界の現況は如何。無線放送の法令発布せられてより,既
に半歳,今に至るも,一の放送局,設置あるを聞かず 実に目醒めざるも甚
だしからずや。
見よ,大震直後,機浜港内にありし,コレア丸より,発せる,電波は,更に,
原ノ町無線局を経て,惨絶の状況を全世界に報じ帝都の救援と復興の,第一
24
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
第 16 図
第 17 図
あら
線舞台に活動せるに非ずや。
かえりみ
むし
よわい
此活用機を,今にして, 顧 るなくば,寧ろ士人として, 齢 すべからず,
あえ
と云ふも敢て過言にあらず。
しぎょう
あら
されど人,各々職あり,故に必ずしも,直接に斯業に盡せと強要する非ず,
すくな
ただ, 尠 くとも理解と同情を以て接せられん事を望む。
今般,余輩等同人,相議し,無線科学普及の目的を以て本誌を創刊せり。
こ
愛国の至誠,憂国の熱血,凝つて,以て本誌或る。乞ふ,一片の赤心ある
を諒とせよ。
また,古沢匡市郎氏は,「無線と実験」1949 年(昭和 24 年)3 月号に掲載され
た “25 年前の「無線と実験」を回顧して” において,つぎのようにのべている。
…(前略)…創刊当時の無線と実験社は,伊藤賢治氏の住居でもあつた赤門
前の四階建の赤門ビルディング内にあり,四階の広い室で無線講習会を開い
たり,またラジオの部品も販売していた。ラジオ狂(ラジオ時報狂)の俳優
坂東彦三郎丈が,お伴に大きい時計を持たせて訪問して来たり,またラジオ
アマチェアは自慢のハモニカなどをマイクの前で吹奏して,自分の声が電波
に乗つて空をかけ廻るのを楽しみにやつて来た。
当時ビルディングの屋上に大アンテナを張つて,小放送機で送信していた
ものだ。その送信機の設計製作は今日の三田無線電話研究所長の茨木悟氏で
25
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
第 18 図
第 19 図
あり,茨木氏は当時伊藤氏の最もよき助手であり,大正 10 年アメリカでラ
ジオ技術を修得して来た新進の青年技術家であった。WD–11(ダブルエミッ
ター管)とか,それを使用したラジオラ・セニヤ(単球再生式,電池式セッ
ト),その他沢山の真空管や部品を持ち帰り,次々とそれの国産化を計画し
実現した。その頃よく売れた部品は,送信機に関するものが多かつた。とい
うのは,その頃は受信機を作つても夜の 9 時の時報がツー,ツーと規則的に
レシーバーに入るだけで,電話としては官練(官吏練習所,芝の大門にあつ
た)の大アンテナから時々漏れる本日は晴天なり,本日は晴天なり… の試験
放送が運よく聞かれれば,ファン同志は鬼の首でも取つたように近所へふれ
廻るという物珍しさ,従つてアマチェア同志が相呼応して盛んに送受信を交
し,アンテナが見つかるのを防ぐため,屋根うらに線を張り廻したり,或は
風呂屋の煙突の中ヘアンテナを張つたなどいう珍話もあった。…(後略)…
「無線と実験」の創刊に前後して「ラジオ」
「無線電話」
「ラジオファン」
「無線
之研究」が発刊された。さて前述のように放送用私設無線電話の規則ができても,
26
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
いっこうに放送がはじまりそうもないので,われわれは官練そのほかの実験を聞
くばかりであった。第 19 図は当時の官練の送信機で「科学画報」1924 年(大正
13 年)10 月号に掲載されたものである。また同号につぎのような記事がある。
日本現在 無線電話放送所一覧
逓信省官吏練習所
放送時間 夏は午前十一時半から零時まで,但九月中旬からはこの外に午
後三時から四時まで,
波長 目下の所三百七十メートル。
電力 一キロワット弱,定格は一キロワットだが目下二百ヴォルトの発電
機を無理をして二百八十ヴォルト 1) 位まで出して,発振球と変調球とのプ
レート電流の和三〇〇ミリアンペア位を使用。
機械製造所 ジェネラル・エレクトリック会社製,放送機,使用真空球,元
来ジェネラル・エレクトリック会社製を使ふべきたが,目下マルコニー会社
製を使用してゐる。
マイル
通達距離 鉱石検波器で二〇 哩 (以下これを A とする)
,真空球一箇を単
純な検波器として使用した場合(以下これを B とする)
,真空球一箇を検波
マイル
器としレゼネレーション〔再生〕を利用した場合…100 哩 (以下これを C と
マイル
する)
,高周波拡大附受信機を以てする場合には…二〇〇 哩 (この場合を D
とする。)
注意 通達距離は色々の外界の事情で一定しないけれど,上記の距離は最
も確実な所である。
備考 将来は官設放送局となつて官報的なことを放送するほか,無線電話
監督局となる筈である。
二,電気試験所
放送時間 不定
波長 250∼350 メートル
機械製造所 電気試験所で部分品を組み立て作つたものである。
使用真空球 電気試験所製
通達距離 (A) 10 マイル,(B) 25 マイル
1) 著者注 2800V
27
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
第 20 図
第 21 図
第 22 図
第 23 図
(C) 50 マイル,(D) 100 マイル
備考 放送用受信機及び部分品の検定は将来こゝでやる筈,検定料は一つ
五十円位らしい。
三,安藤研究所
放送時間 不定,放送開始には普通の言葉で名乗る以外に,鉄琴でホーム
スヰ−トホームを送つて局名を示す。
28
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
第 24 図
第 25 図
機械製造所 安藤研究所製
使用真空球 特許安藤式真空球
通達距離 (A) 20 マイル,(B) 50 マイル
(C) 100 マイル,(D) 200 マイル
備考 安藤式は世界的発明の一つで,電波の形が普通のと違ひ,他に混信
しないと同時に,他の混信を受けることも殆んどない。しかし普通の受信機
でも前記の距離位はハッキリ聞える。特殊の受信機を使用すると非常な遠距
離に達するらしい。同氏は四千マイル達したレコードを持つてゐると声明し
てゐるが,よくは知らない。
放送開始近しと見るや,メーカ,販売店も一斉に宣伝を開始した。第 20 図∼
第 23 図は当時の広告である。
また型式証明の問題は別として,アマチュア側がセツトを規則に合わせようと
する動きもあった。一例として第 24 図,第 25 図 1) に示すのは,浜地常康氏著
「無線電話の製作と其実験」(1924 年 7 月 14 日発行,ウシク書店刊)に掲載され
たものである。現在の 2 バンド受信機のように
250∼300 メートル
350∼400 メートル
の各バンドを切換えて受信するようになっている。
このような放送開始近しの情勢に,ラジオアマチュアの種類も一部特定の人達
から広い層にうつって来た。したがってラジオセットもいろいろコストダウンの
方法が考えられるようになった。第 26 図に示す(
「科学画報」1924 年8月号掲載)
1) 図は誤りで実際は受信波長範囲として 200∼250m,および 350∼400m が許可されることになっていた。なお 送信波
長は近距離用として 215∼235m,遠距離用として 360∼385m が許可される予定であった。
29
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
ような試験管のバリコンなど,当時のアマチュアは大いに愛用したものであった。
この機を逸せず無線実験社では 1924
年(大正 13 年)7 月 25 日,本郷,赤門
ビルにおいて “無線電話組立技術伝習
会” を開催した。
また「科学画報」は同年 10 月 15,16
両日午后 6 時より 9 時まで “無線放送
大会” を開催した。送信所は日本橋の
西川商店におき,受信所を日比谷公園
音楽堂,番町小学校,両国国技館(今
第 26 図 の日大講堂)において一般に公開した。日比谷会場においては 15 日に 8 千人,16
日には実に 1 万 1 千人の聴衆があったと記録されている。
第 27 図の右上は 15 日「航空文明の話」を放送中の坂谷男爵,右下は「無線と鶏
鳴」を放送中の堀内中将,左上は 15, 16 両日「地震学講話」を放送中の今村〔明
恒〕博士,左下は日比谷会場における受信装置である。
また第 28 図の上は番町会場における受信装置,下は西川ビルにおける送信装
第 27 図 第 28 図 30
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
置で波長 470m(640kc), 1kw でモニタしているのは牛込技師である。この写真は
「科学画報」1924 年(大正 13 年)12 月号に掲載されたものである。なお,前出座
談会の記事で原田氏の発言にある “伴伝” というのは西川商店のまちがいと思わ
れる。
この他 1924 年には,1 月 25,26 両日大阪朝日,4 月 13 日安藤無線研究所と東京
朝日,5 月 3∼15 日大阪毎日,5 月 17 日東京朝日の各社によって放送実験が行な
われた。
さらに同年 10 月 25 日より 16 日間,東京不忍池畔で開催された “無線電話普及
展覧会” においても会場の一隅にスタジオを設け,ウエスタン社の送信装置を使
用して実験が行なわれた。
この展覧会の出品件数は約 2 千点に及ぶ今日考えても堂々たるスケールのもの
であって,会場を一巡すると持ちきれない程カタログが貰えたのを記憶している。
一方,前掲の国米氏の話しにもあるように,逓信当局とアマチュア間のトラブ
ルも頻発する有様であった。「科学画報」もついに 1924 年(大正 13 年)12 月号
の編集後記において,つぎのような声明をするに至った。
創刊号以来,本誌が卒先提唱し
しろうと
た素人無線熱は,いよいよ一般的
時代の風潮となつて全国にみなぎ
り溢れました。同時に当局の施設
や規則も確定に近づいて,現在で
こしら
は,折角製作法を読んで 拵 へて
見ても,これを実験しようとすれ
ば,取締り規則に違反することに
なりました。当局が検定したもの
を使はなくてはならず,しかも現
第 29 図 在では一つも検定を受けた機械は
ないのです。製作法を御教へすることは規則違反をおすゝめするやうな嫌ひ
が生じました。日本無線界のためにかくの如き情勢は,果して喜ぶべきか悲
しむべきか。私には分りません。とまれ事実は事実で,何と動かすべきやう
もありません。
31
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
しんちょく
従つて本誌は,今後,当局の方針が決定し,検定事務が 進 捗 するまで当
分の間,重要な呼びものの一つだつた無線製作記事を休載します。営業政策
から言へば実に乱暴至極な態度ですが,営利を目的としない本誌は,断然読
あ
ないし
者諸君のために,諸君をして罰金の刑に遇はせないやうに,乃至は苦心して
作り得た愛機を没収されるやうなことのないやうに,不利益を覚悟の上で製
作記事をやめます。…(後略)…
1925 年(大正 14 年)春におけるこれら不法受信施設の数は東京市内において 3
万余と推定され,その大部分は学生であったといわれている。追掛けて同誌 1925
年(大正 14 年)1 月号は,つぎのように報じている。筆者は宮里良保氏である。
いよいよ
愈々確定した公衆無線電話
逓信省が,放送用私設無線電話規則といふものを出してから丸一年目の
へきとう
いよいよ
新春劈頭,愈々待ちあぐんだ公衆無電放送の紀元ともいふべき受話機の検定,
放送局の設置が実現された。やがて家庭にも学校にも,朗らかなラディオ・
コンサートが毎日催されるのも遠くはあるまい。
それで開始されたとはいへ,受話機の型式試験といふのはどんなものか,
又どんな受話機が検定に合格するかといふ事は,規則が発布されて以来等し
く興味をもつて注視されて居た問題である。それは規則中の第十四条,すな
はち
(一)空中線の固有電波長は百五十メートル以内。
ないし
ないし
もし
(二)二百乃至二百五十メートル,又は三百五十乃至四百メートル,若くは上
記二種の電波長に限り受信し得る装置なること。
(三)空中線に振動を生ぜざる接続を有すこと。
やたら
といふ。受信電波長を矢鱈に変更出来ない事と空中線電流の再生を防ぐ,こ
もちろん
の二つを主として居る。これに合致したものは勿論必ず合格するに決つて居
て,何にも珍らしくはないように思はれるが,実際問題になると仲々これは
種々の支障もあり,又不便も生じて来る。
第一にこの規則の適用によつて一番始めに困るのは,この規則が出来ない
前から研究に従事して居た全国一万余のアマチュアである。
我が国のラディオ界が主として米国の影響を受け,今日に到つた関係上,
それ等の人々の有する受話機の大多数はほとんどこの規則に適合しないも
32
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
のが多いに違いない。既製品を買つたものでも自分で組立たものでも,その
基本とする所は,米国の無制限の電波長に一致するやう,設計されたものが
多い。例へば用ひられたインダクタンス・コイルの如きもその捲数が細く分
けられ,又或る式に於ては受話をより有効にせんが為め,レ・ゼネレテーヴ
すくな
すで
〔再生〕のものが 尠 くない。この二つの点が己に,我が国の規則と相反する。
多くの製作者達は,どういふ風にしてこの規則に一致した受話機を作り出さ
うかと,大分苦しめられて居るらしい。
こと
殊に無線電話商の中には,流
行の目先を見て,電気の何物
しろうと
かも知らない素人が,開業し
たものも可成り居るので,波
む つ か し
長の測定等といふ六ケ敷い問
うろた
題にぶつかり,今更ら狼狽へ
のんき
たものもあり,或る呑気者は,
何に認可になつた機械を見て
作れますよ,といふて居るも
第 30 図 のもあるが,この型式の認定
といふものは,一種の専売特許の効力を発生するさうで,うつかり類似品も
いわゆる
たけのこ
ごと
作れないさうである。それであるから,所謂雨後の 筍 の如く,一時群生し
たラディオ商の中でも困る人が多いだろうと観測されて居る。そしてこれ等
の小さいラディオ商達は,結局信用ある製作者の製品を小売する事になるだ
らう。それと共に,輸入された莫大な外国品の中でも使用出来なくなるもの
ごと
が多数を占めるであらう。斯くの如くして,結局優秀なる日本特有の受話機
ここ
により全国が統一され,茲に初めて,逓信当局の永年の理想と努力が報ひら
しか
れる事に違ひない。然らば全国一万余のアマチェアの持つて居る区々別々の
型式の受話機はどうなるか,一々電気試験所の検定を受けなければならない
かどうか。或る当局者の確かな話によると,理論上は許されるかも知れない
が,あの検定規則の主意は,製造販売者を主眼としたものであるから,個人
個人のものが出願しても恐らく受付けないであらうと,けれ共特に研究上有
益な設計のものは,例外として検査をするかも知れないとの事である。
とに角この事に就いては,後日重大な問題となつて現れる事と思はれる。
33
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
第一回に型式検定に合格したものは安中電機製作所製のもので,第 30 図が
それであつて,安中でもこの規則による難問題を通過さす為に,一時は絶望
かと考へた時もあつたさうで,安中で一番初めに試作した AR 三五号型とい
ふものは,シングル・サーキュツトであるといふ理由から証明願は受理され
なかつた。その後に完成した AR 三六号及び三七号といふものが,今日初め
て逓信省型式証明第三号,第四号として合格した真空球一個のものである。
ごと
この型式の結線図を見ればすぐ分るやうに,従来の米国型の如く電波長が特
定以外に変更出来ないことで,例へば二百以上二百五十メートル以下に同
調する場合は転換器を S に置いて,アンテナ回路はアンテナ,インダクタン
ス・コイル,加減蓄電器によつて波長を決め,閉回路はインダクタンス・コ
イル,固定蓄電器,可変インダクタンスによつて波長が決まるやうになつて
居る。又転換器を L に置くと,アンテナ回路はアンテナ,インダクタンス・
コイル及び空気加減蓄電器により波長を決定し,閉回路は固定蓄電器,可変
インダクタンス(ヌ),インダクタンス(リとヌ)に依つて波長を決定,加
減蓄電器,インダクタンスを調整すれば,三百五十メートル以上四百メート
ル以下の任意の波長に同調せしむる事が出来る。この形式はつまり疎結合回
路式といふもので,これはチューニングをアキュートする必要から,この設
計に従つたものである。…(中略)…
いよいよ
次に愈々東京放送局も,去る〔1924 年〕十一月廿九日に許可されて設立し,
JOAK の記号を用ひ,電力 1 キロ半,電波長三百七十五メートル,放送通達
百六十キロメートル,即ち百マイルの間に来る四月頃から放送を開始する事
ないし
ないし
に決つた。それが開始された暁には午前九時乃至十一時,十一時十五分乃至
ないし
ないし
午後一時,一時半乃至三時,七時乃至九時の各時間に分けて,天気予報,時
間報知,音楽等を送つて,月二円の料金で誰でも聞けるやうになる。そして
ちょうど
加入者と加入して居ないものを区別する為めに,門か入口に,丁度有線電話
の番号札のやうなものを掛けて識別する事になるといふ。多分その敷地は東
京芝公園の愛宕山になるだらう。総裁は後藤新平子爵で,技術者として元東
京電話局長として令名の高かった新名氏が入局された。
東京が開始すれば続いて大阪,名古屋にも放送局が設立されるだらうし,
すで
仙台に於ては己に十万円の寄附金さへ集つて,着々準備を急いで居るさうで
ある。放送用の機械は,過般上野不忍池畔に開催された,無線電話普及展覧
34
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
会に使用した,日本電気株式会社所有の送話機が用ひられるとの話もあるが,
多分新しく米国のゼネラル・エレクトリック製のものを,取寄せて設備され
る筈である。とに角,放送局の建物の建設や,送話機の到着等の準備が,陽
いよいよ
春四月頃は,今度こそ間違なく出来上るさうであるから,愈々皆様の家庭に
楽しいラディオ・コンサートが催されて,賑はす事であらう。
「科学画報」1925 年 1 月号に掲載された安中電
機(今の安立電気株式会社の前身)の広告を第 31
図に示す 1) 。このように放送開始近しの報にメー
カーは一斉に PR を開始した この号には安中電
機の他に宮田無線商会,内外工業社,東邦無線電
気製作所,汎電社,金子電気商会,和田電気商会
無線部,田辺商店,西都貿易商会,旭無線電機商
会,大和無線電機商会,徳田商店,高砂工業株式
会社,日米ラディオ商会,大星商会,渡辺商店,東
洋蓄電池工業株式会社,等の広告が掲載されてい
る。無線専門誌でないこの雑誌に当時としてこれ
だけラジオ関係の広告が出ていることからも,い
第 31 図 第 32 図
1) 著者注 型式試験の第 1 号は田辺商店である。
第 33 図
35
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
第 34 図
第 35 図
かに放送開始に世間がわき立っていたかをうかがい知ることができよう。第 32
図∼第 35 図にこれらの数例を示す。
その後数か月の間に多数のメーカーが検
定に合格した。第 36 図にその内の一例を
示す。これらのセットの価格は鉱石式 45
円,単球式 120 円,3 球スピーカ式 250 円
程度であった。市電(都電)が片道 7 銭で
乗換え切符があり,東京のはじからはじま
で行けたころの値段である。
しかもこの型式証明機は非再生式であっ
たから,聴取可能距離はきわめて短かいも
のであった。
さてこのように大さわぎをして証明を受
けたメーカーも, 1925 年 4 月 18 日公布さ
れた規則をみて唖然とせざるを得なかった。
それは事実上この制度の廃止である。ラジ
オ放送が始まってわずか 1 か月にもならな
いうちにである。
第 36 図 36
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
この間の事情は「無線と実験」同年 6 月号に掲載された「受信機型式試験の意
義」という一文がよく物語っている。筆者は当時の逓信省電気試験所第四部長横
山英太郎氏である。
去る四月十八日の官報で逓信省令第二十三号を以て,放送用私設無線電話
つい
規則中一部の改正が公布された。今聴収用受信機に就て新旧の条項を挙ぐれ
ば左の通りである。
旧第十四条 聴取無線電話の機器及び其の装置は左の各号に適合すること
を要す。但し所轄逓信局長の許可を受けたる場合に限り,第一号及び第三号
に依らざることを得。
一,受信機は電気試験所の型式試験により其の型式の証明を受けたるものな
ること。
二,空中線の固有電波長は百五十「メートル」以内なること。
ないし
ないし
もし
三,二百乃至二百五十「メートル」又は三百五十乃至四百「メートル」若く
は上記二種の電波長に限り受信し得る装置なること。
四,空中線に振動を生ぜざる接続を有すること。
五,空中線は電灯電信電話用の線路に接近せざること。
ガ ス
おそれ
六,接地用金属は瓦斯管の如き引火の 虞 あるものを使用せざること。
新第十四条 聴取用無線電話の受信機は,電気試験所の型式試験に依り聴
取無線電話用受信機として其の型式の証明を受けたもの,又は左の各号に適
合するものなることを要す。但し所轄逓信局長の許可を受けたる場合に限り
第一号に依らざることを得。
一,四百「メートル」以下の電波長に限り受信し得ること。
二,空中線より電波を発射せざること。
かつ
聴収用無線電話の空中線に電灯,電信,電話等の線路が接近せず,且其接
おそれ
地は引火の 虞 なきことを要す。
其改正の要点は
ないし
一,聴収用受信機の電波長は従来二百乃至二百五十「メートル」,及び三百
ないし
五十乃至四百「メートル」の二種に限られ,許可を得たる場合に限つて
37
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
他の電波長を有するものを使用し得ることゝなつてゐたのを,今回一般
的に四百「メートル」以下の受信機を使用し得ることに改められたので
ある。従つて受信機の製作組立が簡易に為つたから,価格の低下も期待
し得るであらう。
しか
二,電気試験所の型式証明は今回推挙の意味となつた。併し今後も型式証明
を受けたものは,電波長の範囲再生作用の制限等に関する規則に合致し
しろうと
た構造であるから,一般の使用に好適であるが,素人の組立てたるもの
其他のものにても規定に従ふもの,即ち電波長四百「メートル」以下で
あつて,空中線より電波を発射せざるものならば之を使用し得ることに
なつたのである。
電気試験所が依頼書の希望によつて引続き型式試験を行ふことは在来と少
しも変らないが,証明が推挙的になつた以上,これからは今迄より一層機器
の品質に重きを置き,推挙の価値ある優良品に就きて証明を与ふる事とした
いたず
いと思ふ。品質に重きを置くと云ふのは無用な個所に 徒 らに高価な材料を
使用するものを推奨するのではない。
むし
寧ろ適当な材料を適所に使用して動作を良好ならしむると同時に,価格を
低廉ならしめたものを推奨したいと云ふのである。
かく
ごと
斯の如く短日月の間に放送用受信機の取締方針に変化を来したのは,時勢
もちろん
に順応せしめんとする趣旨に外ならない事は勿論であるが,一面今迄強制的
であつた型式試験に依つて製作業者の技術向上の跡が顕著なることが,本試
あずか
験を推挙的たらしめたのに 与 つて力があったものであると思ふ。…(後略)
かくして,世上第 1 回の 2 バンド受信機ははかなくも消えて行ったのであった。
当時の事情を苫米地貢氏は「無線と実験」1934 年(昭和 9 年)5 月号に掲載さ
まま
れた「ラヂオ界想ひ出す儘の記」において,つぎのようにのべている。
しか
…(前略)…然し,此の政策はラヂオ発達に最大の障害を為すものと認め,私
は「無線と実験」誌上に於て毎月痛烈な論陣を張つて,逓信省に放送局に巨
弾を送つたものである。幸ひにして当時の当局者は一野人たる私の言を容れ
て,此の制度は間もなく解消せられた。従つて一般ラヂオ商は安心して,製
作販売に従事出来,其の普及速度は諸外国に決して劣らぬ成績を示した次第
ここ
である。唯茲に御気の毒に感ずるのは,既設大無線会社が大資本を下して型
38
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
式証明機の製作に当られたが為,非常な大打撃を蒙むられた事である。此の
なお
点は尚,心から御気の毒に思つてゐる次第ではあるが…(後略)…
このように多数のメーカーが検定に合格し,その効果がまったくなかったとい
うことは型式証明史上に特記さるべきであろう。
「科学画報」1925 年(大正 14 年)3 月号に「放送無線を聞く人の為に」という
一文がある。筆者は新名直和氏(当時,東京放送局理事)である。
今か今かと皆様の多大なる希望と期待の中に待ちあぐまれた無線電話の放
いよいよ
送も,愈々開始する事になりました。何にしろ日本で始めての放送である為
に,その準備が仲々完成しないので,遅れがちになつたのであります。それ
で東京放送局としての本当の準備は,目下米国のウェスターン会社に注文し
てある送信機械が,五月中旬頃到着した後でなければならぬし,又建物等も
出来てからの事であります。
非常な熱望の下に迎えられて居る放送無線電話を五月の機械到着まで待
つてもらふのも本意でないから,それまでの期間仮放送を始める積りであり
ます。
その事を目下逓信省の方に出願してあつて,建物は東京芝浦の東京高等工
芸学校の一室を借受,放送機械は東京市電気試験所のものを借りる積りであ
ります。機械も放送室も借りられて,逓信省の許可あり次第,三月頃には是
非始めたいと思つて居ります。
放送無線電話を聴取するにはどんな手続をすればよいかと云ふと,逓信局
長宛に,放送局の承諾書を添へて許可の申請書を出願すると,適当と認めた
人に許可される。そしたら逓信省検定済みの機械を設けて工事落成届を提出
し,検査を受けて始めて許可されます。
おさ
料金は納入告知書といふものが逓信省から来た時に納めればよい。放送局
おさ
おさ
に納める聴受料金は,集金郵便で通知された時,納めてもらいたい。とに角
日本で初めてのものであるから,聴取される時は,よく規則をわきまえて,違
のぞ
反のないやうに心掛てもらひたいと希みます。
逓信当局より示された免許申請(当時は願といった)の書式はつぎに示すよう
な面倒なもので,実に今日のアマチュア無線局免許申請以上のものであった。新
名氏の記事にある工事落成届は必要としなかったように記憶するし,もちろん落
39
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
成検査はなかった。
1925 年(大正 14 年)3 月 22 日,東京放送局はわが国最初のラジオ放送を開始
した。実は 3 月 1 日に開局するはずであったが,検査不合格になり,この日まで
は試験電波であったのである。
放送局が検査不合格になるなどということはたいへんな問題で,当時の逓信省
には型式証明問題のような無定見さもあったか,見識のある士もいたのであった。
放送用無線電話規則
放送用私設無線電信規則ニヨル聴取無線電話ノ施設ニ関シ差出スヘキ書類ハ左
の様式ニ準シ記載スヘシ
大正十四年二月二十六日
逓信大臣 犬 養 毅 第一 電気試験所ノ型式証明ヲ受ケタル受信機ヲ使用スル場合
無線電話施設願
あいなりたく
左記(別紙)ノ通私設無線電話施設方御許可相成度候
年 月 日 住所
氏 名 印 何逓信局長 何 某殿
記
一、施 設 ノ 目 的 放送用私設無線電話規則ニヨリ放送事項ノ聴取
あざ
二、機器装置場所 府県市区町村字番地(何方又ハ何建物第何号室等)船舶ナル
時ハ其ノ名称
三、工 事 設 計 受 信 機 型式証明番号(何)号
空 中 線 大サ水平部(何)米 垂直部(何)米
(注意) 枠型空中線ナル時ハ其旨ヲ表示スル事但シ大サハ記載スルヲ要セス
四、相手放送無線電話 何放送局
五、落 成 期 間 (許可ノ日)(許可ノ日ヨリ何日)
(注意) 機器装置場所カ船舶ナル時ハ左ノ事項ヲモ記載スルコト
トン
船舶ノ種類 総 噸 数
所 有 者 航 路
40
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
定繋港(内地ニ於ケル主ナル碇泊地)
第二 受信電波長四百米以下ノ受信機ヲ使用スル場合
無線電話施設願
とおり
あいなりたく
左記(別紙)ノ 通 私設無線電話施設方御許可相成度侯追テ受信機ハ拙者ニ於
これなく
テ製作(組立又ハ改造)セルモノニ相違無之
年 月 日 住所
氏 名 印
何逓信局長 何 某殿
記
(工事設計ノ外ハ記載方法第一ノ場合ニ同シ)
(イ)工事設計接続方式(何)
〔増幅装置を使用スル場合ハ其種類及増幅段数
を附記スルコト〕
(ロ)検波器ノ種類(何)
(ハ)最大受信電波(何)メートル
(ニ)空中線ニ振動電流ヲ発生セス
(備考)
一、接続方式ノ略図を添附スル事
二、研究ノ為接続方式ヲ変更スル必要アル者ハ其旨並基本トスル方式ヲ
記載スル必要アル者ハ其旨並基本トスル方式ヲ記載スル事但接続方
式ヲ変更スルモ(ハ)及(ニ)ニ違反スヘカラス
三、空中線ノ大サニ関スル記載方ハ第一ノ場合ニ同シ
第三 受信電波長四百(米)ヲ超ユル受信機を使用スル場合
無線電話施設願
あいなりたく
左記(別紙)ノ通私設無線電話施設方御許可相成度候追テ受信機(何年月日附
何第何号ニヨリ実験用トして許可ヲ受ケタルモノ又ハ無線科学ニ関シ何々ヲ
もしく
研究スル為拙者ニ於テ組立製作スルモノ 若 ハ拙者ニ於テ組立製作シタルモノ
あらざ
ニ 非 ルモ何々ノ事情ニヨリ特ニ之ヲ使用セストスルモノ等使用ヲ必要トスル
これなく
事項を詳記スル事)ニ相違無之(無線科学ニ関スル研究ニ使用スル場合ハ出
願者ノ略歴及研究題目を此処ニ附記スル事)
年 月 日 住所
氏 名 印
第 2 章 型式証明問題(1924∼1925 年)
41
記
(工事設計ノ外ハ記載方第一ノ場合ニ同シ)
(イ)接続方式(何)
〔増幅装置ヲ使用スル場合ハ其種類及増幅段数ヲ附記
スルコト〕
(ロ)検波器ノ種類(何)
(ハ)最大受信電波長(何)メートル
(ニ)空中線ニ振動電流ヲ発生セス
(備考)
一、詳細ナル受信接続図を添附スル事但シ接続方式公知ノモノハ之ヲ
省略スル事ヲ得
二、研究ノ為接続方式ヲ変更スル必要アル者ハ其旨並ニ基本トスル方
式ヲ記載スル事但シ接続方式ヲ変更スルモ(ハ)及(ニ)ニ違反
スヘカラス
三、空中線ノ大サニ関スル記載方ハ第一ノ場合ニ同シ
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる
(1925 年)
1925 年(大正 14 年)3 月 22 日,東京放送局仮放送開始当
日の放送で後藤総裁は次のように演説した。
…(前略)…現に新電気の利用は刻々に進歩を告げて居ります。故に当局の取
締の余りに苛烈なるは甚だ望ましからぬことであるが,之と同時に政府をし
て其の監督に奔命せしめるといふことは,一層好ましからざる話である。又
いわゆる
しろうと
吾々は電気知識の普及上所謂アマチュアーの増加を大いに歓迎します。素人
くろうと
か
製の機械が,往々玄人の製品よりも佳良且つ安価なる事実をも見落してはな
しか
らない。従つて機械及其材料製作並に之を設備する者の親切を主とし,而も
こと
是等の場合に於ても深く心を用ゆべきは各人の倫理的自覚であります。殊に
電力の利用は経済と保安,即ち社会共同の安寧福祉を妨害してはならないと
いふ点であります。無論当業者は商業道徳を厳守して益々製品の精良さと低
廉とに努力すべきであり,アマチュアー諸君も亦取締の寛大なるに乗じて混
乱の弊を醸してはならない。…(後略)…
雑誌に出るラジオ閣係の記事も,放送開始により新し
いファンがふえたため再出発の状態となった。
今まではよほどの物好きでないといじらなかったラジ
オも,小中学生のファンまで持つに至ったのであった。
「日本少年」
「伸びて行く」などの少年雑誌が毎号ラジ
オ記事を掲載していたのもこの項である。科学雑誌とし
では,前年(大正 13 年)10 月創刊された「子供の科学|
に毎号原田〔三夫〕先生が執筆されていた。また婦人雑
誌の「主婦の友」にもラジオ部ができ,今井紀氏がしば
らくの間製作記事を連載された。つぎに示すのは「科学
第 37 図 画報」1925 年(大正 14 年)8月号に掲載されたもので,筆者は宮里良保氏である。
面白いコイルを使った鉱石検波受信機の作り方(第 38 図)
43
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 38 図
第 39 図
鉱石検波受信機にいろいろの作り方や配線の仕方があつて,一番どの方式
を採つて作つた方がより有効に受信出来るかといふ問題は,大分熱心なアマ
チュアを悩ましている。こゝに述べる鉱石検波受信機は,各捲数の異なつた
三つのコイルを組合せて力強く受信出来るものである。…(中略)…
しか
インチ
インチ
インチ
然る後,厚さ五分の一 吋 ,幅八分の五 吋 の真鍮板を一方の長さ七 吋 の
所で直角に曲げ,写真(第 38 図)のやうにその一方は床板へ,他の一方は
ね じ
パネルヘ螺子で止める。
インチ
上の方のコイルは直径四 吋 のファイバー(厚紙に加工したもの)か,蓄
インチ
音器の四 吋 半の古レコードかを十三個の放射状型に切り抜き,それへ二重
インチ
綿巻二十二番銅線を六十回捲く。捲く時に捲き始めは七,八 吋 余しておい
て,内側から各割目の上と下へ交互に組むやうにして捲き上げて行き,一番
捲終りは小さい錐で孔をあけて通し,そこへ固く止める。
やすり
そして図の如く,どつちかの腕(割目の突出した所)の所だけ, 鑢 をか
けて被覆をはいで裸にして置く。
ね
じ
この出来上つたコイルを真鍮板の上へ小さい真鍮螺子で止める。この止め
ね じ
る時にコイルと真鍮板との間と,螺子の上側には,ファイバーかエボナイト
44
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
の坐金を入れた方がよい。このコイルの裸にした所は,普通の円筒コイルに
しゅうどう
於ける耳と同じ作用をするもので,普通スヰッチ・レバーを 摺 動 する代りに,
ワイバー・アームといふものを用ゐる。このワイバー・アームといふのは長
インチ
インチ
さ三 吋 四分の一,幅十六分の三 吋 の尖の方を次第に細く作り,そのアーム
ね
じ
の一端は真鍮板の上に螺子止めする。
そしてアームに穴をあけ,十八番の二重綿巻線にゴム管をかぶせてアー
ムの孔に通し,線の先端は裸にして曲げる。その線の他端は空中線のバイ
ンディング・ポストの後方ヘハンダでつける。このアームの先の裸の部分を,
コイルの裸線になつた部分の一本一本の上に接触させて置きかえる事によつ
て,波長を合す事になる。下の方のコイルは,ミシンに使ふやうな大型の絲
捲きを二つに切つて,その凸縁のぐるりに十九個の孔をあけ,その孔へ太い
釘を差込んで,二重綿捲二十二番線をこの枠の釘と釘の間に一つ置き又は二
インチ
つ置きに編むやうにして捲く。捲き始めは五,六 吋 残しておいて,十回捲い
インチ
たらその端を八,九 吋 残して線を切る。そして別の捲き口の針金で六十回
インチ
捲きのコイルを捲き始め,矢張り線端は数 吋 余してやり,六十回捲き終つ
よゆう
たなら緩まぬやうに止めてから一尺ばかり餘猶をとつて切り取る。このやう
にして十回捲きコイルと,下側の六十回捲きコイルとは一つの型の中に出来
て,そして次に縫い針に丈夫な木綿を通して,コイルの各網目の間を縫ひ止
め,堅固に縛つて置いてからテーブルの上にコイルを静かに置いて,釘を一
本づつ抜き去る。出来ることならば,この出来上つたコイルをラックの中に
つけて乾かしてから用ゐた方がよい。この出来上つたコイルを,写真に示す
やうに床板の上に立てゝ取付る。この取付る時は細い丈夫な竹針を床板に二
三本立てて,これにコイルを差せばよい。受話器コンデンサー(容量〇・〇
〇〇二五 MFD)はフォーン・バインディングポストの後にすぐ取付る。上の
方のコイルの捲き始めの線端は下の十回捲きコイルの捲き始めの線端と継ぎ,
十回捲きコイルの捲き終りの線は,接地のバインディング・ポストの所へ結
んでハンダをつける。下の方の六十回捲きコイルの捲き始めは,ヴァレーブ
ル・コンデンサーの固定部の極を経て受話器のポストに到り,他端,即ち捲
き終りはヴァレーブル・コンデンサーの回転部極の鉱石検波器の対極(針)の
方へ継ぎ,検波器の鉱石の方の極は残つた方の受話器のポストヘつなぎ,こ
れで配線を終る。
45
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
この記事は翻訳のように思われるのがよく消化してあり,回路も合理的である。
ローデングコイルを入れたことは 1 次インピーダンスが下がり,ステップアップ
に有利である。著者も当時製作したが非常によく聞こえたことを記憶している。
当時はスピーカが高価で手が出なかったのでいろいろな代用方法が考えられた。
これは「科学画報」同年 7 月号に掲載されたもので,筆者は同じく宮里良保氏で
ある。
誰にも出来る拡声器の作り方
受話器を耳に当てると両耳用であれ
も
ば最大二人がせいぜいで,若し四五人
も家族が居る所では受話器の奪い合い
がないとも限らぬ。さうかといふて拡
声器を買入るとなると,増幅装置や何
にかで百円近くも費用がかさむやうに
なつて,失礼だが貧棒〔貧乏〕人には
到底出来ない。そこで増幅装置もやら
ずに又拡声器も買はずに,家族四五人
は裕に聞こえる拡声器の作り方が二三
ある。
受話器四個の取付け方 拡声器を用
ひないで,一台の受信機で四人位の人
が受話器を各々耳に当てて聞くには,中
図に示すやうに,エボナイトの細いパ
第 40 図 ネルにビハインドポストを四個取付け,各極へ各々受話器を継ぎ,真中の二
極即ち右側の受話器 + 極と左側の受話器 − 極とを連結する。そして両端の
極を受信機のビハインドポストの各極に継げばよい。両耳のもの二組取付け
しか
れば四人までは仲よく聞く事が出来る。然し幾分声量がおちる事は止む得な
いだろう。
一文も要せぬ茶碗の拡声器 大きなドンブリでもよいし,又コーヒー茶碗
べ
の大型(紅茶用)のものでもよいから,成る可く底のまるくなつたものを選
び,底の方へ箸を切つて井型に棚を作つて,その上に図で示すやうに受話器
46
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
を一個伏せて置くと,これで立派な拡声器の働きをするから面白い。この装
置を座敷の真中に置いて受話して見ると,鉱石検波受信機であれば確にその
周囲で四・五人は完全に聞く事が出来るし,また単球式受信機であれば,祐
に六・七人は満足に聞く事が出来る。試に低周波二段,高周波一段拡大装置
のもので実験して見たら,六畳座敷一ぱいに聞えて,隣室の人々にまで明瞭
に聞こえて居た。音の反響を巧に利用したに過ぎない。
蓄音器廃物利用の拡声器 一個五十円だの百円だ
のと云ふ高価な拡声器の内部の構造はどんなものか
といふと,片耳の受話器と蓄音器の針を差す所の音響
板とを組合せた誠に簡単な仕掛けになつて居る。だ
から今ある受話器と蓄音器の音響板さへあれば,訳
なく誰にでも作る事が出来る。先づ受話器の音響板
の中央に,鋼鉄針金をリベットし,今一つ蓄音器の音
しゅうどうし
響板の針を差す所に,図に示すやうに横桿と摺動子
ちょうつがい
を取付て,この二つを思い思いの方法で 蝶 番 仕掛
第 41 図 けにする。そしてこの二つが今の方法で組合されたら,これを木の小箱かブ
リキ函の中に固定して封じ込み,上の方へ蓄音器のラッパか,手製のボール
紙のラッパを取付ければ,これで完全に立派な拡声器が出来上つて高価なも
のと同じやうな働きをする。この二つを組合せば何故拡声されるかと云へ
ちょうつがい
て
こ
ば,受話器の音響板の振動数が 蝶 番 の所を支点として働く挺子作用によつ
て,蓄音器のサウンド・ボックスの音響板の振動を増大せしめ,その結果発
生音は大きく聞こえるやうになる。
また前記の浜田氏著「無線電話の製作と其実験」p.137 には「音声発音器」と題
して,第 41 図のように受話器にホラ貝をマウントする方法が示されている。一
方,第 42 図に示すように,受話器に聴診器のようなゴム管を取り付けて多人数
で聞く方法も考案され,商品が現われた。
鉱石受信機はアマチュアに手頃であったから,つぎからつぎへと種々な回路が
発表された。バイアス電圧を加える方法もその一つであった。
つぎに示すのは「科学画報」1925 年(大正 14 年)10 月号に掲載されたもので,
筆者は宮里良保氏である。
47
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 42 図
第 43 図
クリストダイン受信機の作り方(第 43 図)
異なりたる鉱石を組合せば高周波電流を可聴周波電流に整流する事が出来
る。即ち検波作用をする。それならば鉱石のみを以て受信周波を増幅する事
は出来ないだらうか,といふ問題は久しく議論され,又実験もされて居るが,
今日の所それに成功したものはないらしい。それで鉱石検波受信機そのまゝ
の受信音を拡大する方法は,検波する鉱石に局部的電圧を加へる方が一番有
効である。
このやうに局部的電圧を加へた鉱石検波受信機の事をクリストダインの受
信機といひ,こゝにそのもっとも能率のよいものを二種掲げた。上図は単コ
イルの例,下図はヴァリオカップラーを使用した例。鉱石に加へられる電圧
はポテンションメーターで加減される。これに用ひられる鉱石は,一般に愛
用されるギャレナやシリコンでもよいが,比較的高い電圧に耐ゆるものは,紅
亜鉛鉱と斑銅鉱を組合せたものが結果の上によいやうである。…(後略)…
48
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
受信音を増大する……とあるのは
もちろん誤りで,鉱石の動作点を変
えるにすぎないものである。著者も
試みたがあまり効果がなかったよう
に記憶している。400Ω のポテンショ
ンメーターを入手するのに苦心した
ことと,電池が早く消耗して困ったこ
とを覚えている。なおこの他に,第
第 44 図 44 図のような超簡単な鉱石セツトの
製作記事もあった。
「科学画報」同年 11 月号に掲載されたものである。
当時の鉱石セツトは,放送局が 1 地区 1
局であったから,混信分離などを考える
必要はなく,いかにして受信音を大きく
するかが問題であった。
第 45 図は「科学画報」1925 年(大正 14
年)9 月号に掲載されたものである。
一方,真空管式としては部分品の少なく
てすむウルトラ・オーヂオン式がよろこ
ばれた。ただしこの回路は,バリコンが
ショートすると B 電池がショートすると
いう欠点があり,配線によっては球を切
るおそれがあった。再生はフィラメント
の電圧で調整した。つぎに示すのは「無
線と実験」1925 年(大正 14 年)10 月号に
第 45 図 掲載されたもので,筆者は無線実験社研究部となっている。
僅か五円の材料で出来る単球携帯受信機
○簡単な携帯用の受信機 製作が簡単であることは,極く初歩の製作者が
等しく希望する所であります。能率から申しますと,ローロス型で三回路の
単球受信機の方が府下で,アンテナ無しで,小声ではあるがラッパが嗚る位
ですからローロス型にしたいが,ここでは製作の簡単,費用の僅少といふこ
49
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 46 図
第 47 図
とを基礎として,ウルトラオーヂオンの単球受信機を申述べます。
○ウルトラオーヂオンの能率…(中略)…本研究部で子供用として組立ま
した小型ウルトラオーヂオン単球は,僅か一九九型の小球一個で,アンテナ
もっと
無しでも十分レシーバーに聞かれます。 尤 もこの時のはボルドウインのレ
シーバーですが,アンテナを僅か五,六尺か十尺位にすれば,大抵のレシー
バーで十分府下ですが聞こえます。又再生式ではありますが,ヒラメントを
暗くして使つて居れば,決してビートの起る心配はありません。ビートの起
るのは皆余りにヒラメントを明るくし過ぎるからであります。
○配線図と部分品 配線は第 46 図の通りで,是に必要な部分品は
一,SWC,スパイダコイル 八十回巻,取付台付一個 枠だけならば二十銭
二,VC,ヴァリヤブル・コンデンサー 小型 一円四十銭位
三,GC,グリッド・コンデンサー〇・〇〇〇一,六十銭
四,ソケット 一九九型 五十銭よりあり
五,ターミナル 六個 六十銭
六,ダイヤルコンデンサー用 八十銭位
七,パネル三寸四分と六寸 九十銭位
50
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
合計五円八十銭也 1)
○組立及び調整 配電盤の配置及部分品の配置は第 47 図を見て下さい。配
ど
線をする前に線を何う張つたら最も短く張れるかをよく考へて,次に配線に
移ります。ターミナルは左方に A 及び B をつけ,右方には上からレシーバー
の −,レシーバーの + と B の +,第三番は B− と A+,第四番は A の − と
いふやうに接続致します。一九九のソケットは,普通のソケットと PGFF の
順が違つてゐますから,間違はぬやうにすることが大切です。接続が間違は
ぬやう出来ましたら先づ A 電池だけ接続して,フィラメントがよく点火す
るかどうか見ます。次に B 電池も接続して,レシーバーを耳にしてソケット
の F 及び G に交互に指を触れて見ます。接続が完全で球が働いてゐれば,指
を触れる毎にレシーバーに音が感じます,そしたらアンテナを接続して放送
を受けます。先づフィラメントを余り明るくせずにヴァリヤブル・コンデン
も
サーを静かに回転します。若し此時ビートが起るやうでしたら,フィラメン
トをもつと暗くするか,又は電圧を低くします。ヴァリコンを静かに回転す
ると,放送時間ならきつと音声なり楽音なりが入って来ます。そこで一層静
か
かにヴァリコンを調整し,又フィラメントを適当に調整して,音が明瞭で且
つ大きくなるやうに調整します。…(後略)…
このようにアマチュア間で,ラジオの製作が盛んに行なわれるようになってき
たが,一般にはまだ物珍らしい機械であり,ハレ物にさわるような有様であった。
つぎに示すのは前記奥中氏著書のうちの「受信機取扱上の注意」という一章で
ある。
受信機は多く極めて狭い容積の箱に収められて居るから,故障が起ると其
の修理に手数を要することが多いから,常々より其の取扱に就て相当の注意
を怠つてはならない。又受信の電流と云ふのは極めて微弱なものであるから,
各部分の接触点を充分にして置かないと,僅かの事で受信機全部を分解せね
ばならぬ様な事があるから,組立や取扱に充分の注意を要するものである。
(一) 一般事項
⑴ 断線――多くはハンダ付けをしてある部分に生ずるが,取扱が粗雑で,
線が被覆中で切断されることもある。
1) 著者注。真空管,レシーバー,電池をぬかして五円というのは少しおかしい。
51
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
⑵ 接触不完全――可動接触子やペツクの如く調整のとき,常に動かすも
ねぢ
ねじ
のは捻の緩みが生じて接触が不完全となる。其他接続点でも捻付け方が緩か
つたり,或は接触面が錆びて居つたりすることもある。取付の時は接触面を
良く磨いて捻も確実に締付て置かねばならん。
しゅうどう
⑶ 短絡―― 摺 動 する部分が磨滅したり,或は其他の被覆が破れて互に
接触せるため短絡を起す,特に蓄電器板が接触することが多いものである。
⑷ 接続違ひ――修理や手入のため分解組立つ時に配線の接続を誤まるか
ら注意して組立ねばならん。
⑸ 漏電――到来電波の強烈なもののために或る局部が炭素化した場合や,
湿気のため起る事が多いから,湿気に就ては注意し,雨季等には特に注意せ
ねばならん。
⑹ 混触――加減蓄電器の可動板が反曲して居る原因が多い。
⑺ 調整――凡て調整は徐にして急激に行はないこと。
(二) 真 空 管
⑴ 初め点火する前には必ずレオスト抵抗を最大とし,アノード(プレー
ト)電圧を零として置く。レオスト抵抗を最小として点火すると,フィラメ
おそ
ントを焼き切る虞れがある。又アノード電圧を過大にするとグローを生ずる。
フィラメントを焼き切れば高価な真空管はそれで使用出来なくなり,又新品
たとい
を買入れなければならない。又仮令フィラメントを焼き切ら無くとも,真空
管の生命を短くするのである。
おもむろ
⑵ フィラメントの光度やアノード電圧の増加も 徐 に行ひ,決して急激
にせないこと。
⑶ 感度の欲望を余りに大きくせぬこと。感度は極限に達するまでは,フィ
ラメントの光度やアノード電圧を増すと共に増大するが,極限に達すると最
しか
かかはらず
早や増加せない。然し遠距離受信の場合にこの極限に達して居るに 不 拘 ,通
しらずしらず
信は困難になると小知小識の間にアノード電圧を上げたり,又はフィラメン
トの光度を上げたりすることがある。そのためにグローを出したりフィラメ
ントを焼切る場合が多い。
⑷ 真空管を取り代へるときは,必ずレオスト抵抗を最大にアノード電圧
を最小にして置くを要する。
⑸ 受話器用の電池は,電圧が大きいから誤つてフィラメント点火に入る
52
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
れば,一時にフィラメントを焼き切るから決してこんな接統誤りをしてはな
らん。
⑹ 一回の受信の終了せば必ずフィラメント抵抗を最大にし,アノード電
圧を最小にして置くべし,……(後略)
まるで 10kw ぐらいの送信機でも運転するようなさわぎである。文中グロー云々
とあるが,これは前述のソフトバルブを使っていたからで,ハードバルブ(現在
のような高真空管)ではこれほどでもなかったのである。
1925 年(大正 14 年)6 月 1 日に大阪放送局 (JOBK),同 7 月 1 日に名古屋放送
局 (JOCK) が開局した。
名古屋,大阪と放送局ができるにおよんでアマチュアが DX 受信を試みるよう
になったのは当然のことである。DX に関する記事として「科学画報」1925 年(大
正 14 年)10 月号にはつぎのような記事が掲載された。筆者名は記してない。
東京―大阪―名古屋,長距離受信に成功するには
い か
名古屋放送局の放送を東京地方又は同等の距離の所で受信するには,如何
なる受信機を用ひればよいかといふと,この事は一概にはいひかねる問題で
あり,種々の複雑なる事柄のある事は避けられない。それで総べての方面か
ら考へ計算等は避けて,これまでの実地経験から割出したいと思ふ。特別の
回路でない単球式を以つて,JOCK の放送を東京で諸君は受信出来ると思ひ
しか
ますか,と問はれたら,大多数は出来ないといはれるでせう。然らば JOAK
いかが
じゅうう
じゅう
の放送中には如何ですかと問ふたら, 拾 人が 拾 人まで無論受けられない
たとい
と又いはれる事でせう。私にいはすれば仮令JOAK の放送中にても,単球再
しか
生式(普通)で JOCK が東京で完全に受信出来ると思ひます。然し,これ
は少し無理な問題かも知れない。それで諸君が熱心な研究的態度でやられた
もちろん
も
ら,JOCK は勿論,JOBK 大阪の受信もきつと成功する。若し出来なかつた
節は, JOAK が休止して居る時に受信して見ればよい。それで次に受信注意
を二,三掲げると,
(イ) 各部分品は不良品を使用せざる事。
(ロ) 空中線は特別大きくなくともよいから接地及絶縁を完全にする事。
受信不能の場合は次の様な時と思ふ.
マイル
(イ) JOAK 又は他の放送局より余りに近い場合(二 哩 以内)。
53
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
(ロ) 市内で特別混雑して居る処。
(ハ) 地勢の悪い場合。
(ニ) 受信機設計の悪い場合。
それで単球でも特別回路,即ちアームストロング,スーパー・リゼネレー
ごと
チブ回路やフィローリンク回路,又はウルトラ・オーデヨン回路の如き場合
もちろん
は勿論受信出来ます。二球即ち高周波一段の場合は高周波さへ良く働いて居
る受信機なら,JOCK 及び JOBK 両方とも東京で受信出来ます。但し JOAK
の放送中には受信出来ないけれ共,これに再生線輪を附加すれば放送中にて
しか
いかん
も受けられる。然しこれも受信機の良否如何によるもので,最も安全な処は
高周波一段で,JOAK 放送休止の場合である。それに低周波を増せばラウド
スピーカーが働く。その他五球式のもの即ち低周波,高周波各二段のものな
らば問題はない。
昼間の受信法 今述べた受信は夜間の中の話であって,昼間の場合には余
り確実にはいはれないが,五球式ニュートロダインや五球式のチューンド・
ラヂオ二段,オーディオ二段のもの,又はスーパーヘテロダインであれば確
実に受信出来ると信ずる。
その他昼夜とも外国から輸入された三球式又は二球で,種々の状態のもと
に受信出来るかも知れない。それで結局,単球でも二球でも大概の場合夜間
なら受信出来る。それで比較的楽々と受信出来るのは高周波一段の二球式だ
な
らう。それに再生線輪を入れたら尚ほ結構である。先づ最初に早く単球で聞
マイル
く事を試み,その内に鉱石で二三百 哩 平気で受けられる時代が来るものと
思つて努力下さい。今の所では
⑴ 鉱石検波受信機……20 マイル
⑵ 検波真空管一個の場合……50 マイル
⑶ 検波真空管再生式……100 マイル
⑷ 高周波増幅の場合…‥ 200 マイル
このように DX 受信に関心が持たれてきたから,メーカ品も当然広告にキャッ
チフレーズとして使用するようになった。第 48 図,第 49 図は当時の新聞紙広告
の一例である。
54
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 48 図 第 49 図 「無線実験社」ではこの機をいっせず,外
遊帰朝中の苫米地貢氏が 1925 年 12 月 19 日
上海 KRC 局よりする放送のリスナーを求め
た。第 50 図の広告中イーサー波とあるのは
エーテル波(すなわち電波)のことで,ア
インシュタイン先生以前のはなしである。
放送開始の第 1 年はすべてが初めてのこと
で,当局も見当の付かないことばかりだっ
たらしい。したがって,放送もお正月は当
第 50 図 然休むものと考えても少しも不思議はなかったのである。
「ラヂオ新聞」1925 年
(大正 14 年)12 月 5 日付けはつぎのように報じている。
大晦日は年忘れ会 元日は昼間だけの放送
東京放送局の迎春準備成る
東京放送局に於ては去る三日理事会を開催し,今月末並に来春の休送 1) 問
いこう
題について凝議するところがあつた。右に依ると東京放送局の意嚮としては,
本月二十九,三十の両日を時報,天気予報(ニュースのある時は之を含む)
とど
だけに止め,他は休送することゝなし,大晦日は年忘れに軽い演芸物を放送
し,一月元日は昼間放送だけに打止め夜は休送し,二日より平常通り放送す
る方針を樹て居れり。但し右は三府放送局の打合せにより多少変更するやも
知れずと。
また同紙 12 月 25 日付けには,
1) 著者注。放送を休むこと
55
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
暮から元日へも平常通りの放送
静養中の服部部長が帰京し改めて会議の上決定
JOAK の年末年始の休送に就いては,既報の通り放送部員凝議の結果,年
末二十九,三十両日は童話講演だけで演芸放送は休むことゝなし,大晦日は
寄席の夕式のもので賑やかに忘年放送をなし,元日は夜間休送と決定し,既
にそのプログラム編成中であつたが,二十三日に至り突如監督局たる逓信局
より休送反対の通告を受け,此処に於て放送部再度の休送会議を催したる結
果,目下地方に静養中の服部部長の帰京と同時に其の善後策を講ずることに
決したが,どうやら年末年始無休送となりさうな形勢である。
とある。こんにちの大みそかのバカさわぎにくらべると感無量のはなしである。
「科学画報」1926 年(大正 15 年)7 月号にはつぎに示すように超再生が登場し
ている。サブパネルを使用してだいぶ近代の型に近くなっている。筆者はやはり
宮里良保氏である。
超再生式受信機の作り方
起再生式受信機の単球のものは,三つの異なつた役目を有する真空管が組
合はされたと等しい働きをなす。即ち
⑴ 空中線に感受された高周波入力電流を再生増幅するものと
⑵ 振動電流を発生する二番目の真空管,即ちそれによつて発生した振動
電圧が,一番目の再生増幅真空管のプレート電圧を変化せしめる。
⑶ は以上の電流を検波して可聴電流となすもの。
この別々の働きをなす三種の真空管を,実際の場合は一つの真空管を用ひ
て行はしめる。それでこの方式の受信機は少数の真空管で大きな受信音が得
られ,普通二球でなければ高声器が働かなかった所でも単球で働き,又三球
乃至四球でなければならなかつた所でも,低周波変圧器増幅一段附加の二球
マイル
で立派に高声器がなる。先づ放送局から百 哩 以内ならば,二球で間違ない
ことを保証する。これに就いての理論は,又の機会に述べることとなし,こ
こではその作り方を主として述べやう。
同調コイル L1 ,L2 ,L3 はローロースチューナーを用ひた方が能率がよく,
も
インチ
若しライナルツ・コイルを自分で捲いて用ひる場合は,直径三 吋 の円筒を
三段に分けて捲く。L1 は十五回捲きとなし,それを一,四,十,十五,の各
56
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 51 図
第 52 図
捲きの所からタップを出して,レバースヰッチの所へは空中線をつなぐ。L2
インチ
は五十回捲き,L3 は三十回捲きで,各コイル間は四分の一 吋 の間隙をあけ
る。捲線は何れも二十四番組捲線を用ひる。
このコイルの場合はチックラー L1 は固定されて居るから,それの結合度
を加減するために,固定コンデンサー C3 を〇・〇〇〇五 MFD の可変コンデ
ンサーにかへねばならぬ。しかし私はローロスチューナーを用ひたので,C3
は固定コンデンサーを用ひた。発振用コイル L4 ,L5 は何れも蜂の巣コイル 1)
を用ひ,L4 は千五百回捲き,L5 は千二百五十回捲きである。この両コイル
と並列に容量〇・〇〇〇五 MFD の可変コンデンサー C2 を入れる。
インチ
高周波チョークコイル L6 は, 直径二 吋 の円筒に二十八番二重絹巻線で二
百五十回捲いたものであるが,当研究室で正確に測定した後作らせた蜂の巣
コイルを使った方が便利であらう。単球の場合はチョークコイル L6 の所へ
受話器 H1 の − 極をつなぎ,その + 極は B 電池の + へつなぐ。
増幅用の低周波トランス・フォーマーは三・五対一の比率のものを用ひ,増
幅真空管のグリッド極へは点線で示すやうに C 電池を入れた方が,声は大
きい。
1) 著者注。ハネカムコイルのことである
57
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
フィラメント抵抗器は検波球と増幅球と各々別個に取付けた方がよく,真
空管の種類によつて抵抗は異なるが二十オームのものがよいだらう(一九九
型ならば三十オーム)。
普通の再生二球式受信機よりも高周波コイルをよけい用ひてある為め,各
か
コイルの配列は注意を要し出来るだけ間隔を保たしめ,且つ位置も各々影響
しない方向に置かなければならぬ。余り大きな容積やパネルを用ひるのも実
用上困るので,図の如く各部分品を配置して見た。其の結果何等コイル間の
悪影響もなく極めて順調の成績を挙げる事が出来た。
インチ
インチ
インチ
これに用ひたパネルは高さ七 吋 半,横十五 吋 ,エボナイト床はタテ七 吋
インチ
インチ
に横十 吋 のものである。床板は下から二 吋 半の所へ L 型の金具二個でパ
ネルに取付け,各コイル・ソケット等は床の上に,低周波トランス・フォー
マーは床の下へ点線で示すやうに取付けてある。そして配線は全部床の下で
ね
じ
インチ
行ふ事にし,その為に真空管ソケットの各ターミナル螺子は長さ一 吋 の真
ね
じ
鍮螺子と取かへ,今までとは反対に上から下の方へ差込んで,ターミナルを
下へ出し,そして床板に孔をあけて取付ける。…(中略)…
同調は主として可変コンデンサー C1 で行ひ,チックラーコイル L3 を次第
に密に結合して,音声の大きい所でとめ,即ち再生増幅効果の大なる所をえ
らぶ。このやうにして完全に同調せしめた後,振動コイル L4 ,L5 の調整を
C2 で行ひ,丁度ビートを起さうとする点の少し前の所で止めると一番有効
に働いて居る。L4 ,L5 の振動コイルを取付ける場合は,受信しながらその
間隙を定めてからにする。
この方式の受信機は声が大きいとか,真空管を少く出来るとか,いろいろ
の特徴があるけれども,たゞ惜しい事には撰択性が劣つて鋭敏に働かない。
例へば昼間東京の放送中,他の関西局の受信を分離して行ふ事がややともす
れば出来なくなる。しかしこの欠点はトラップを用ひて補ふことが出来る.
△材料表(「科学画報」代理部代価表による)
⑴ ローロス・チューナー 三円五〇銭
⑵ 可変コンデンサー(十七枚のもの)二個 七円
⑶ 蜂の巣コイル(千五百回まき) 五円五十銭
⑷ 〃
(千二百五十回まき) 三円十五銭
⑸ 同チョークコイル 一円
58
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
⑹ 真空管ソケット(練物)二個 五十銭
⑺ 低周波トランス・フォーマー A 二型 六円五十銭
⑻ 可変抵抗器(二〇オーム)二個 七十銭
インチ
インチ
⑼ エボナイト・パネル(十五 吋 に七 吋 半) 二円八二銭
インチ
インチ
⑽ エボナイト床板(七 吋 に十 吋 ) 一円七五銭
⑾ 同上取付用アングル二個 五十銭
⑿ 二極ジャック 四十銭
⒀ グリッドリーク(二メグオーム) 三十銭
⒁ グリッドコンデンサー(〇・〇〇〇二五 MFD) 二五銭
⒂ 固定コンデンサー(○・〇〇〇二五 MFD)
(マイカドン) 一円二十銭
⒃ 配線用ワイヤー(二十尺) 二十銭
計 金 三十五円二十七銭(ダイヤル其他小物を略す) というようなものである。L4 と L5 の極性についてぜんぜんふれていないので,初
めての人には発振しなくって困ったと思われる。しかし発振しなくっても,通常
の再生式としては動作するから,スーパーリゼ〔超再生〕ならぬスーパーリゼが
相当あつたものである。クェンチング回路を CR としたビジョツプ氏の,ウルト
ラ・リゼネーターというのも盛んに使用された。これは高価な 1250T と 1500T の
ハネカムコイルを使用しないですんだから,プロファンには大いに歓迎されたも
のである。
超再生とともにレフレツクス方式も使用された。つぎに示すのは「科学画報」
1926 年(大正 15 年)10 月号に掲載されたもので,筆者はやはり宮里氏である。
山岳地方に適せる二球受信機の作り方
きんきん
た
甲府市へ行って見て驚いた事は,東京近くでありながら僅々三十足らずの
聴取者しかない事であつた。この聴取者が少ないといふ事は,受信能率が悪
く,高級な受信機を用ひなければ聴取出来ないのに原因するらしい。東京放
キロ
送局から百粁(約二十〔五〕里)の地点にある所から考へると,再生高周波
一段と検波の二球式位で完全に受信出来なければならないし,又事実同じ等
位線上にある宇都宮や房州館山等は一球式で満足して居る。しかるに甲府市
では最小限度四球でなければ拡声器が働かないと云ふし普通五球か六球が使
キロ
はれて居る。百粁の地点が五球か六球でなければ拡声器を働かす受信が出来
59
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
いにょう
ないといふ事は,甲府盆地の地勢的関係,即ちこの地方を囲繞する山岳に電
もちろん
波が防止,または吸収されるのに原因するのは勿論であるが…(中略)…
先づ始めに回路の解説を簡単に述
べよう。空中線に感受されてコイル
L1 に流れた受信電流は,これと電磁
結合に置かれた二次コイル L2 に感
応し,可変コンデンサー VC1 によつ
て同調され,真空管 VT1 のグリッド
ヘ供給される。それと同時に増幅さ
れた電流がプレートからコイル L1
第 53 図 に流れ,それと結合された検波真空
管のグリッド回路のコイル L4 に一層増大された電流が流れ,検波球のグリッ
ドヘ供給される。この VT2 真空管によつて可聴周波に検波された低周波電
流は,反作用コイル L5 を経て低周波変圧器の一次線に流れると共に,L5 か
ら L4 に感応した再生電流は VT1 真空管のグリッドを強め,一層検波球のプ
レート電流を増大せしめる。一方低周波変圧器の一次線に流れた電流は,二
次線に感応して低周波増幅が行なはれ,再び L2 に逆流して増幅管 VT1 のグ
リッド・プレート・コイル L3 を経て有勢なる受信電流が受話器,又は拡声
器の方へ供給されるのである。つまり増幅真空管 VT1 は高周波と低周波の
増幅に二度使用されるので,この受信機は三球と同様の働きをなす事になる。
インチ
空中線回路のコイルは直径五 吋 のファイバー製水車型スパイダー枠に,始
め BS 二十八番二重絹巻線を二十二回捲いて一次コイル L1 となし,同枠上に
同番号の線で L1 に重ねて二次コイル L2 を五十三回同方向に捲く。一次線 L1
の捲き始めは空中線ターミナルヘ,同捲き終りはアース・ターミナルヘつな
ぐ。…(中略)…
しゅうどう
再生コイル L3 ,L4 ,L5 は幣社代理部発売の “HHH” 印 摺 動 式三回路スパイ
ダー・ウエブ・コイル枠を用ひ,何れもベークライト材料を用ひた三つ組みの
らせん
もので,チックラー L5 は螺旋上を移動する装置になっている。…(中略)…
低周波トランスフォーマーの良否はレフレックス作用をなさしめるに非
なるべ
常な影響を与へるものであるから,成可く精選したものを使ふ必要がある…
60
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 54 図
第 55 図
(中略)…
同調方法は極めて簡単である。先づ可変コンデンサー VC1 ,VC2 及びチッ
クラーコイル L5 を各零に置き,フィラメントを僅かに点じてから可変コン
デンサーを徐々に廻して波長を合し,次に再生コイルの二次線 L4 を可変コ
ンデンサー VC2 で同調する。最後にチックラーコイル L5 を再生コイルの二
次線 L4 に近づけつつ再生の具合を加減すればよい。プレート電圧即ち B 電
圧の電池の加減によって再生の工合が種々に変化して来るから,注意しなけ
ればならない。
再生をコントロールする方法として,初期
には第 54 図のようなハネカムコイルが使
用された。しかしハネカムコイルは自作が
きわめて困難であるので,しだいにスパイ
ダ(クモの巣)コイルに代っていった。第
55 図は前掲記事のスパイダ枠摺動装置で
ある。
一方,受信機が交流で動作するようになっ
たのは後年のことであるから,一般家庭で
は第 56 図のように A は乾電池,または蓄
電池,B,C は乾電池を使用するのがふつ
うであった。
したがって充電器が盛んに使用されたが,
第 57 図に示すような振動式はノイズを発
第 56 図 61
第 3 章 ラジオ・アマチュアの層拡がる(1925 年)
第 57 図
第 58 図
生して DX リスナーを困らせたものである。つぎに示すのは「無線と実験」1929
年(昭和 4 年)1 月号に掲載された読者の投稿である。
二,三ケ月前からウルトラオウヂヨンの連続的ピーピーに悩まされ,又毎
晩きまつて十時過には振動式充電器のバリバリの為,DX を全く駄目にさせ
られて居る。
或日ピーピー君に会つた。昨年春頃の無線雑誌を見せ,本セットは最簡単
しか
DX,然も電波を発射せぬ各長所を備へ……大自慢で御座る。…(中略)…
次にバリバリ氏に苦情を申越んだ所,反作用は作用の立方位に比例した。曰
く,ラヂオ屋に充電させれば高い金を取つて二,三日はかかるから内でやる
んだ。放送が済めば邪魔には成らず何の文句も無い筈だときつい御宣託,一
応御もつともな御話だ。側ではミーターの指針を 1AMP 程フラつかせて,い
うな
やな唸りを六 V 四十 AH に伝へて居た。此ではラヂオ屋もオイソレと充電は
ことわり
出来まいし,毎晩の充電も必要になる 理 だ。…(後略)…
(山ロ MH 生氏) 第 58 図に示すような妨害のないタンガーバルブを用いた充電器もあつたが,当
時の値で 18 円は高価であった。
れいめい
第 4 章 短波の黎明
(1925∼1927 年)
1925 年(大正 14 年)4 月 17 日,パリにおいて 23 か国
により国際アマチュア無線連合(IARU)が組織された。
この年わが国においては梶井謙一氏と笠原功一氏がスケ
ジュールを組み,初のアマチュア無線としての交信を行
なった。梶井氏の使用したコールサインは JAZZ,笠原氏は JFMT であった。も
ちろん当時は日本においてはアマチュア無線の制度はなかったから,いわゆるア
ンカバーであったわけである。正式局としては J1AA の岩槻無線局が 1 局あるの
みであった(実はこれも合法的な施設ではなかったようである)
。
同年秋の「無線と実験」にはこの局の訪問記として「短波長でアメリカと通信
している J1AA を見る」という記事が掲載された。筆者は古沢恭一郎氏であった。
◇ 大宮から岩槻まで
世界中のアマチュアを相手に,日本唯一の短波長として送信受信を試みて
こと
ゐる岩槻無線電信局 J1AA 局は,海外のアマチュア,殊にアメリカのアマチュ
アが其の詳細を知らんと欲して,未だ知り得ざる神秘の殿堂其のものである。
埼玉県岩槻町,旅行案内で見ると大宮の隣りの蓮田から私設線があること
が分つてゐるが,逓信省の荒川技師から,大宮で下車して自動車で行くので
あるといふことを注意せられてあるといふ苦米地主幹の助言に,行く道程は
なが
分らぬ乍ら,上野から大宮までの切符を買つて汽車に乗つた。
ど こ
が,心配なのは大宮から何方へ行くのか,自動車が運んでくれるにしても
ちょっと
自動車が無線局の前まで行くであらうとは思はれぬ。一寸東京の郊外に出る
にも地図を持たぬと気の済まぬ私は,大宮へ着くと直ぐ岩槻行きの自動車を
ようや
見捨てゝ本屋を探して歩いた。 漸 く大きな本屋を探し当てゝ参謀本部の五
万分の一の地図 1) ,大宮,幸手,粕壁〔現:春日部〕の三枚を手に入れた時
はもう岩槻へ着いてしまつたやうな心安さであつた。
しか
大宮駅の自動車発着所へ来て見ると,一台は今出たばかり,然し,乗合客
1) 〔編者註〕陸軍参謀本部が作成した地形図。現在の国土地理院発行の地形図の前身。
れいめい
63
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
が四人ばかり集まつたので更に一台仕立てゝくれた。行手は一本道,赤塗の
辻馬車を追ひ越し,追ひ越し,遂に先発の自動車に一つの停留所で追ひ着い
た。田舎の一本道で通る人も少ないのだからスピードを出すのが当然なので
あらう。五十分かゝると聞いてゐたのに,道が急に曲つて,急カーブを通り
遇ぎるともう、岩槻町,大宮にも劣らぬ大きな町通り,発着所へ着いたのが
大宮を出てから僅かに四十六分。
なお
発着所から尚も今来た道を進むと左手に箕輪に通ずる道がある。此の道を
スタコラと暑い日盛りに進んで行くと右も左も広い広い畑,道端の立木もな
くなると赤瓦の文化住宅 1) みたいな小ぢんまりした局舎が見える。官舎はま
だ普請中であった。
門を入つて見ても玄関もない。受付らしい所もない。田舎の無線局はのん
ようや
きでいゝだらうなアと思つて見た。 漸 く素足で歩いて来た小使のお神さん
らしい女に名刺を出して「河原さんはお出ですか」と聞くと,「ハイ居りま
しばら
す」といふので 暫 く待つてゐる。
◇ アメリカを受けて居る二球式の受信機
なが
「やァ,私が河原です」と今迄受信してゐたらしい印字紙を巻き乍ら応待
ひそ
される方は,私が秘かに予想してゐた通りの新進の若手,これだから短波長
ドイツ
に興味を持ち,人の寝静まつた真夜中に独逸や濠洲の信号を聞出して人知れ
ぬ苦心と,それに伴ふ痛快味を楽しんでゐられるのであらうと思つた。「矢
張り短波長の問題でせうなァ」と,此方の言ひ出さぬ中に問題を決定された。
ど
こ
が問題の短波長受信機,それから発信機,そんなものは何処に据付てあるの
であらう。好奇の眼を見張つてもそれらしい機械は見えぬではないか。
「これが二十米の受信機ですよ」と,室の一隅のテーブルの上にあるビール
ダース
の半 打 入箱に装置してあるのを示された時,其の余りに簡単なのに驚かな
しか
む つ か し
い訳には行かなかつた。然し仔細に観察すると之は中々六ケ敷いものだなァ
と感じられた。といふのは,コイルは裸銅線の十二番か十四番位のを三回捲
いて作つたものだが,コンデンサー(五枚もの)のハンドルは一尺二,三寸
もある長いエボナイト棒の先端に取付られてあり,それを又微細に調節出来
るやうに作つてあるのだ。
「材料も道具もあり合せの品でホームメードですから,十分なものではあ
1) 〔編者註〕大正後半期から昭和前半期にかけて建てられた生活に便利な新しい形式の住宅。
れいめい
64
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
りませんがネ」と説明されたが,どうしてどうしてこれだけの細工をするの
は,ガタガタコンデンサーなどばかり作つてゐる専門の職工さんだつて出来
ることではない。ビール箱かと思つたのもよく見るとウェスターンエレクト
リック CO. の焼印があるから,これは器械でも入れて送つて来た箱であら
かなり
う。真空管は二個用ひられてあり,共にラヂオトロンの一九九,可成大型の
ソケットに入つてゐた。 「配線は之です」と示されたのは第一図(第 59 図)
に示した如きもので,レオスタットもヂャックも, コンデンサーのハンド
ルと同じく,コイルやコンデンサーの位置からずつと離れてゐる。
ど
「之れで何れ位迄聞こえるので
せう」と愚問を提出すると,
「アメ
リカのアマチュアの二十米バンド
もちろん
ドイツ
のものは勿論,独逸のナウエン(二
十六米)
,濠洲の通信なども時々聞
こえます」「日中でも聞こえるの
ですか」「いやこの成績表にある
通りの夜の十一時から聞こえ始め
第 59 図
て,朝の六時頃にはもう聞こえな
くなるのです」とグラフを示され
る。これによると三時四時頃が最
も感度がよいやうである。「ナウ
ど
エンから電波が,何の方向から来
るかとループで郊外へ出掛て試験
ど
したが,何の方向へ廻しても聞こ
第 60 図
えます。まァ器機を扱ふ者が受信アンテナになつてゐるのでせうねェ」と。
い か
如何に短波長が遠距離まで強く感応するものであるかは,此の一例でも分る
ではないか。その傍に,矢張り同じやうな装置が並べてあつたが,「是が四
十米の受信装置で,現在はアメリカとの通信に用ひてゐるものです。配線図
は此の通り第三図(第 60 図)で,レーナツ氏のショートウヱーブサーキッ
トです」
L1 ,L2 は裸線十四番位のを線間二分位にして三本の木柱に巻いた直径三
インチ
ばか
吋 半位のソレノイドコイルで,L1 は十四回, L2 は十二回許りある。アン
れいめい
65
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
テナからのワイヤも,プレート,フィラメントヘ行くワイヤも,タップやス
イッチで回数を加減するのではなく,小さなクリップで止めてあるだけ,又
がいかん
インチばか
RF のチョークコイルは陶器製の碍管(径一 吋 許りの)に細い絹巻線を巻い
てあつた。球は二個共東京電気の大陸型であつた。コンデンサーのハンドル
の長いことや,レオ〔スタット〕やヂャックの位置など,二十米のと同様の
注意のもとに出来てあつた。
◇ 発信機の前に立ちて
此の四十米の受信機の右手に
は,上部に大きく J1AA と墨太
に書いた局名を頂いて四十米の
発信機がある。球は二百五十ワ
ット四個が並んでゐたが,後で
配線図第四図(第 62 図)を見
せて頂いて,二個は整流球で二
個だけが発振球であることが分
つた。此の機械は毎週土曜日に
アメリカの KGO と通信の試験
をするそうで,それがアメリカ
の素人局に聞え,彼地アマチュ
アが,発信機の写真を送つてく
れとか,詳細を発表してくれと
か,外の信号が分らない位強く
J1AA が入るが一体どんな装置
で誰が扱つてゐるかなど,アマ
第 61 図 チュア間の評判になつてゐるの
だそうである。
アンテナは七十尺の高さの所から斜に引いたものを一本,アースは用ひな
いがカウンターポイスを用ひてゐる由。
次に二階のループ室(対外長波長受信用の)に導かれる。ループは都合四
基あり,何れも二米角の大型なもの,現在使用してゐるのは対濠用のものと
対南洋用のものと二臺で,ループの回転は階下の受信室でハンドルを動かす
れいめい
66
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
やうになつてゐる。
此室の一隅に仮装置らしい二十米の発信機があるのである(第二図〔第 63
図〕が其の配線である)。発信球はマルコニー會社製の一五キロの大型のも
の一球,アンテナは固有波長約百米のもの(高さ七十尺,水平部二十三尺)。
矢張りアースは用ひないで,カウンターポイスを用ひてゐる。
此処にはいろいろの大きさのコ
イル(といつても二回,三回捲から
六,七回位が関の山)や,短波長用
の波長計,及びそれをカリブレー
ばか
トするのに必要な三尺許りの板片
の先に取り付けたアンメーターな
ど,とてもお役目だけでは出来る
仕事でなく,氏の熱烈さ,氏の意
第 62 図
志が短波長に集中されてゐて始め
て出来るのであることを感じた。
「――水平に二本の針金を張つ
た所をこんな棒片の先へ大きな
メーターなどをつけ,それを高く
なが
捧げ乍ら畑の中を進んで行くとい
ふのは,全く外目には気狂に見え
るでせう」と氏も笑つて居られた。
第 63 図
「短波長の将来――ですか,分り
ませんね,何十キロ,何百キロなどといふ大無線局は今後出来ないでせうね。
東京では先頃,練習所で短波長の送話を試みたそうですが,鹿児島で十分聞
しか
こえたそうです、然し今の所,外国の短波長の無線電話は入りません。例へ
ば濠洲と通信の試験をした時も CW で呼んで置いて QSY にかへて貰ふと少
もっと
しも感じて来ない。 尤 も之は二十米ですがね。アメリカはアマチュアに電
話を許可してないから,やつて居ないだけの事です」「日本では海軍でも四
もちろん
十米とか,五十米とかで,試験してゐるそうですが,成績は勿論発表されな
いでせう」
こ こ
「陸軍では目下仏独へ研究に行つて居るそうですがネ」「此処ですか。短
れいめい
67
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
波長は片手間にやつてゐる仕事です。本職の仕事の方が大切ですからネ。そ
たびたび
れに夜中ですからそう度々そればかりやつてゐては身体がたまりませんや」
「いや,私などは短波長が成功せざらんことを望みますね。第一既設の大無
線局はどうするんです」と傍で一所に参観(?)してゐた佐々木さんとかい
う御仁。「今にだんだん短かい波長が発振され,熱線や光線が無線機で発射
されるとなると問題ぢやありませんか。光線をデテクトし熱線をデテクトす
る。我々の目的とするワイヤレスとは非常に異なったものになりはしないで
せうか」
◇ 短波長の種類
一口に短波長といつても何米から何米迄が短波長などと確然たる区別のな
もちろん
いことは勿論で,現在アメリカのアマチュアが使用してゐる波長は元米
CW の時
一五〇――三〇〇米
七五――八五・七米
三七・五――四二・八米 一八・七――二一・四米
四・六九――五・三五米
の五種であつたが,最近此の外に四分の三米といふ超短波長を許可された由。
又 ICW 或はスパークは一七〇―― 一八〇米だけしか許可せられてゐない由
である。…(後略)…
岩槻の J1AA は電信のみであったが,ともに実験を行なっていた逓信官吏練習
所の J1PP は電話で送信した。「ラヂオ新聞」1925 年(大正 14 年)12 月 24 日付
けはつぎのように報じている。
本邦の短波長無線電話,南米と北米に達す――通達距離未曽有の記録
逓信省逓信官吏練習所内に於て,目下仮に設備せる三五米短波長無線電話
ぎ て
ぎ
て
は小野技師,河原技手1) 及佐々木技手により本月上旬より試験中の処,其の
もちろん
成績極めて良好にて本邦内は勿論西貢(サイゴン)にも到達せり。更に本邦
標準時にて本月十九日午後五時半,英語を以て JIPP(練習所の仮呼出符号)
により送話試験をなす旨を一般的に放送し,蓄音器レコードによる音楽等を
放送せるに,南米ブラジル BZIC 局より短波長無線電話にて右短波長無線電
話聞ゆとの報あり,更に当方よりも是に答へ連絡を取りたり,次いで同午後
七時二十分米国カンサス州ローレンス町(カンサス市の西方,トベッカ市の
1) 〔編者註〕技師と区別するための呼び方。
れいめい
68
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
東方)在住のヘルグスマッキーパー氏より,同様日本 JIPP の電話聞ゆとの
通報ありしを以て当方は電話にて先方は電信にて連絡の上,同所に於ける電
話電波の強勢なるを確証せり。右送話装置は入力僅か一〇〇〇ワットの小電
力に過ぎざるものにして,無線電話通達距離の記録として未曽有の事に属す
(逓信省工務局発表)。
このような情勢下に「無線と実験」1925 年(大正 14 年)12 月号社説は,アマ
チュアに短波を開放せよとさけんだ。筆者は古沢氏であった。
しか
ごと
…(前略)…然れ共,電波科学は電波の速度の如く早く速かに進展し来り,現
在の我国に於ても実験用として短波長を使用すれば公衆通信,軍事通信其他
政府の管掌する通信と混信することなく行はれ得る現状であり,又第二の問
題たる通信の秘密云々も,混信又は近似波長を使用せざる限り,決して心配
する程度のものではないと考へられる。…(中略)…
星移り霜再び来りて,放送用私設無線電話規則発布以来既に二星霜〔二年〕
,
とく
電信電話に関する国民知識の発達は疾に昔日の旧衣を脱し,溌剌として向上
の一途あるのみである秋,当局に於いても,願はくば簡単にアマチュアの実
験用として短波発信を許可し得るよう規則の制定を望み,又吾人は,当局が
時勢を察知して既に草案のあるべきを信じ…(後略)…
しかし当時は送信こそ許可されなかったが,波長 400 メートル以下の受信機な
ら使用してもさしつかえないことになっていた。短波受信は太平洋戦争後解禁に
なったのではなく,大正および昭和初期の短かい期間,法的に合法の時代があっ
たのである。つぎに示すのは「科学画報」1926 年(大正 15 年)5 月号に掲載され
た記事で,筆者名は科学画報ラヂオ研究室となっている。
超短波長(シューパー・ショート・ウェーブ)受信機の作り方 1)
超矩波長,即ち百メートル以下の送受信の研究が盛んになつて来た。逓信
すで
官吏練習所の JIPP 送信装置の如きは僅かの入力を以て,已に南米ブラジル
や北米カンサス等で受信されて,世界的小電力送信の記録を作つて居る。こ
れの研究の一番盛んな所は何んと云つても北米で,アマチュア間に組織され
ないし
た ARRL(American Radio Relay League) では,百メートル乃至三,四十メー
1) 著者注。今の短波のこと,この時分は中波という術語がなく,放送波を短波といったから,100m 以下は超短波となる。
れいめい
69
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
トルの通信を会員相互間で盛んに行つて居るといふ。又岩槻無線局ではドイ
ツのナウエン局の二十六―― 四十メートルのものを受信することに成功して
居る。「世界のラヂオ界の傾向はこんな風だから,皆さんもまけずに御研究
ちょっと
下さい」と,テーブルを一つたゝいて見栄をきる場面ではあるが,まあ一寸
待つて下さい。第一に米国のやうにアマチュア送信がやすやすと許されつこ
はなし,又受信の研究といつた所が,送信相手がなにしろ少なくて,受信相
手がなにしろ少なくて,受信するのに戸まどひする現状にある,といふ気持
は何んとなく五,六年前のラヂオ界に似て居るではないか。
ではあるが,手を組んでぼん
やり形勢観望とのんきな事もい
つて居られないから,そろそろ
科学画報研究室も,来るべき時
代の為に研究の歩を進めなくて
よろん
はならない。御熱心な読者の輿論
によつて遠からず本誌独特の超
短波送信を行ひうる時もあらう。
・・・・・・・・・・・・・・
とに角無線法にふれない程度に,
・・・・・・・・・・・1)
まづ受信回路の研究から 着手
しやうではないか。
短波長受信機といふた所で,特
別な製置が必要といふわけでな
く,これに対していろいろの理
論はあるけれども,おなじみの
四百メートル内外の電波長が,百
メートル以下に短縮されたに過
ぎない。それの性質上,次のこ
第 64 図 とに注意せねばならぬ。
㈠ 振動回路を出来るだけ短くすること。
㈡ 固定した配線を行ひ,セットに外部からの振動を与へぬ事。
㈢ 空中線は風等で動揺せぬ事。
1) 圏点著者
れいめい
70
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
㈣ 誘導コイル,可変コンデンサー等は,人体容量の影響を受けない程度
の距離で調整出来るやうにすること。
第 1 図〔第 64 図〕は百メートル以下の受信に用ひられる二球超短波受信
機の回路を示し,これはライナルツ同調回路と低周波 1 段増幅を組合せたも
のである。L1 は空中線回路のインダクタンス・コイル,L2 ,L3 は L1 に結合
された閉回路コイル,L4 はプレート回路に入れられた高周波チョーク・コ
イル,VC1 は七枚(〇・〇〇〇一 MFD 容量)
,VC2 は十一枚(〇・〇〇〇二
五 MFD 容量)の可変コンデンサー,R1 は三十オームの可変抵抗器,R2 は
四メグオームのグリッドリーク,S1 は検波,S2 は増幅用真空管,J はフィラ
メント・コントロールジャック 1) ,AFT は比率三・五対一の低周波トランス
フォーマー,C1 はグリッド・コンデンサー,J2 ,J3 ,J4 はコイル L2 ,L3 を
取付けるターミナルであつて,差込みジャック式にした方が一番便利ではあ
るが,仲々小型のジャック・プラグが手に入らないので,普通のバインディ
ング・ポストをエボナイト板に取付け,それを横に立て,コイルの端を差込
むことにした方がよい。
波長によつて種々の捲数のコイルが必要であるから,二,三種捲数の異な
つたものを用意して置く方がよい。空中線回路のコイル L1 ,及び閉回路の
コイル L2 ,L3 はいづれも空心型のバスケット・コイルを用ひ,閉回路の L2 ,
L3 は続けて捲き,途中からタップを出して L2 と L3 を分ける。空中線回路
の L1 は五十メートル以下の受信に三回捲き,六十メートル位の受信に五回,
それ以上のものに十回の捲数のコイルを用意する。
ないし
閉回路の L2 ,L3 コイルは大中小の三種に分け,最小の十二メートル乃至
三十メートルの波長用に五回捲き,二回目の所からタップ J3 を出す。中間
の六十メートル位のものに九回捲きのコイルを用ひ,三回目の所からタップ
J3 を出す。それ以上九十メートル位までの受信用には十八回捲きコイルを
用ひ,タップ J3 は六回の所から出す。この三種のコイルをそれぞれ取換へ
て使用すれば,十二メートル以上九十メートルまでの受信に間に合ふ。この
インチ
L1 ,L2 ,L3 の各コイルはいづれも十六番二重綿捲線を用ひて,直径三 吋 の
バスケット型に編んだものである。
1) 著者注。当時はスイッチを節約してレシーバ-のプラグを入れると,フィラメントが点火するジャックがあった。B 電圧
はセットが動作しない場合もかかったままであった。
れいめい
71
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
インチ
バスケット・コイルは,第四図のやうな厚い板に,直径三 吋 の円を描き,
その円の周囲に十三個の孔をあけて,その孔に十三本の竹柱を立てる。そし
てこの枠の柱二本とびに線をかけつゝ,第 65 図のやうに編んで行くと,の
ぞみの捲数のコイルが出来る。次にプレート回路に入れるチョーク・コイル
インチ
インチ
L4 は,直径一 吋 四分の一,長さ四 吋 の円筒に,二十八番二重絹巻線で二
百回捲いたものである。これを捲く筒はファイバーやエボナイトの円筒より
インチ
は直径一 吋 四分の一の八角型の小さい板を上下に置き,その二つを長さ四
インチ
吋 の細い竹柱四本でつないで組立てた枠に捲いた方がよい。以上の部品を
第 66 図のやうに配置して,配線図の通り結線を行ふ。
ヴェリアブル・コンデンサー VC1
5
は同調用に用ひられ,プレート回路
に入れられた VC2 は,再生用に用ひ
られる。短波長受信機は非常に人身
容量(ボデイ・キャパシチー)の影
響を受けるものであるから,調整の
場合は受信機から調整者の身体を出
来るだけ離さなければならぬ。その
為に直接手で各ヴェリアブル・コン
デンサーを廻さずに,長さ三尺位の
第 65 図 エボナイト棒の先きに絶縁用のテー
プを捲いて,それとコンデンサーのダイヤルのふちとをまさつさせて,遠く
の方から同調出来るやうにすればよい。このエボナイト棒は万年筆製作に用
ひる棒が一番よいやうである。
VC で同調を行つて電波を
感受したら,VC で再生度を
加減し,丁度自己発振を発生
しやうとする点の近くまで
か
調整を行ひ,且つそれ以上
はフィラメントを加減して
ビートを発生したい程度ま
で進める。適当の再生効果
第 66 図 れいめい
72
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
の点までよく調整すると,此受信機は極めて選択性に富み,感度鋭敏であ
る。空中線は普通のでは大き過ぎるから,最大五十尺以下のものを一本張つ
ただけで充分であり,その代りアースを完全に埋設しなければならぬ。本誌
研究室の実験は三月十九日 1) 以来この受信機で行ひ,主として逓信官吏練習
所の JIPP 局と春洋丸との試験通信を聴取して居る。時間は午前九時十五分,
同零時十五分,午後七時十五分の三回にわたり,波長二十二メートル…(以
下略)…
一方,1926 年(大正 15 年)には東京放送局(JOAK)においても短波長の実験
を始めた。これについて「無線と実験」は
日本では JOAK が朝から短波長の試験をやつているが,アマチュアに聞か
た
せ度くないとあつて,波長も時間も決して公表せぬ。
所が,クリスタルセットで愛宕山近くで開いてゐる者には,普通の放送受
信機に「こちらは雨が降つてゐます。毎度受信して頂いて有難う。受信成績
は電信で報告して下さい。本日は晴天なり,本日は晴天なり」などといふの
が遠慮なく入る。朝九時前のことであつた。
第 67 図に示すのは「科学画報」1926 年(大正 15 年)6 月号に掲載されたこの
JOAK 実験局で波長 30m,電力 500W とされている。
この年の 6 月 12 日,日本アマチュア無線連盟が設立された。笠原功一氏の JARL
今昔譚(CQ Ham Radio 第 3 巻,第 7 号)によれば,
第 67 図 1) 筆者注。1926 年
れいめい
73
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
第 68 図 …(前略)…最初の予定では日本アマチュア無線聯合 Japan Amateur Radio
Union と称することとしていたが,当時「無線と実験」社がラヂオ・ファンの
集合団体を提唱し,これに同じ名を付したので,われわれは発表の数日前に
ごと
無線による打合せでユニオンをリーグと改めることとし,現在の如く JARL
の名が定まつたのである。…(後略)…
無線による打合せとなっているが前述のように当時は正式局は 1 局もなく,い
わゆるアンカバーであったわけである。設立当時の盟員は 30 人であったといわ
れている。
かくして翌 1927 年(昭和 2 年)3
月 1 日,日本最初のアマチュア無線
局(当時は私設無線電信電話実験局
であったが,以後アマチュア無線局
とぶ)2 局が免許された。すなわち,
JLYB 有坂磐雄氏
JLZB1) 楠本哲秀氏
である。
第 68 図,第 69 図は有坂氏所蔵の
当時の免許状と QSL カードである。
第 69 図 1) 著者注。JLZB 局の許可年月日は不明である。当時は官設,私設を問わず実験局のコールサインは JHBB,JMPB のよ
うに末尾に B が付いていた。
れいめい
74
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
一方,アンカバーの続発に手をやいた逓信者は 1927 年(昭和 2 年)3 月 29 日電
業 579 号をもって「短波長無線電信電話実験施設に関する件」という通達をする
と共に,一般に対し次のような電務局発表を行った。
長波長なると短波長たるを問はず,私設の無線電信又は無線電話を施設
すべ
せんとする者は,凡て,無線電信法第二条に依り逓信大臣の許可を受けなけ
も
ればならない。若し許可を受けずして施設した時は,一年以下の懲役又は千
円以下の罰金に処せられるのである。又許可を受けて、施設した無線電信電
話といへども,之を許可せられている施設の目的以外に使用することが出来
ない。
も
若し施設の目的外に乱用したる時は千円以下の罰金に処せられるのである。
最近短波長無線電話の発達に伴い実験を為さんとする者やうやく多からん
もちろん
とする傾向にあり,勿論科学の進歩発達を助長すべき事は必要なりといへど
も,一面許可を受けずして施設するもの及び許可事項以外に乱用する者の取
締を励行せざれば,公衆通信に対して妨害及び公安の維持上 1) 重大なる影響
を及ぼすものなるを以て,逓信省に於ては,従来慎重考究中なりしが最近其
それぞれ
ちな
の取締方針を決定し其の励行方に関し夫々逓信局長へ通達した。因みに該方
針の概要を挙ぐれば左の通りである。
一、各逓信局に於て監督用受信機を設備して絶へず逓信大臣の許可を受け
ずして,無線電信電話を施設したる者無きか、及び無線電信電話を許可され
た目的以外に乱用する者無きかを厳重に監視するの外,一般無線電信局に於
いやしく
ても其の監視を励行し 苟 も法規違反者を発見したる場合は厳重処罰して寸
かしゃく
毫も仮借せざること。
しか
二,然れども真面目に無線科学の研究実験を為さんとする者の出願に対し
ては実験設備,実験方法,実験者の履歴及び通信技術の修得程度等を調査し
たる上支障なしと認めたる者に限り許可する事とし,許可の際使用電波長,
実験時刻,及び受信感度の照合等特に許されたる事項以外は絶対に他の無線
電信電話との交信を禁止すること。
三,単に受信機のみを装置して実験せんとするものゝ出願に付ては成規の
放送無線電話の聴取者にして相当の技術を有し真面目に科学の研究を為さん
1) 著者注。1925 年(大正 14 年)4 月治安維持法が公布された。
れいめい
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第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
とする者ならば一定条件の下に之を許可すること。
この通達によりついに 200 メートル以下の受信は非
合法となってしまったのであった。つづいて同年 9 月
7 日には,JXAX(草間貫吉氏)など 10 局が免許され
た。第 70 図は蜆貝介氏(後年の小説家,海野十三氏)
の作である。
その頃のアマチュア無線とはどんなものであったか。
以下は「無線と実験」1928 年(昭和 3 年)2 月号に掲
つい
載の記事「短波長無線の素人実験局に就て」東京逓
第 70 図 信局電信係長国米藤吉氏との一問一答である。
(問)実験の許可を得たる「アーマチュア」が会合して其研究の結果や実
さしつか
験に依つて得たる成績等を相互に発表し,或は意見の交換を為すことは差支
へはありませんか。
(答)実験研究の経過及結果並交信の顛末等は所轄逓信局を経由して逓信
大臣に詳細に報告せねばならぬし,又施設に依つて受信したる事項は総べて
所轄逓信局長の許可を得ずしては他人に漏洩,又は公表が出来ぬことに成つ
たとい
てゐるから,仮令許可を受けたる「アーマチュア」のみの会合の席であつて
も,其の事柄に依つては逓信局長の許可を得ずして,又逓信局へ報告前に発
ま
かよう
つい
あらかじ
表することは面白くありませんから,先づ斯様な事に就て談合したいと 予
め逓信局に申出で了解を得たる後のこととし,違反行為とならぬ様にするが
よろしからん。
(問)実験の許可を得たる日本の「アーマチュア」が米国の「ラヂオ・リ
レー・リーグ」に入会する事を認めますか。
い
か
(答)日本の法令に違反する行為さへなければ如何なる会に入会するも可
ならん。従つて,米国其他海外の「ラヂオ・リレー・リーグ」の一員と成る
しか
そ
ことは自由とも謂へませう。然し夫れ等の会則を見まするに日本の現行法令
すくな
上,日本人としては,日本在住の者としては出来難い事柄が 尠 くありませ
いかが
ぬが,之れを如何する積りでありませうか。会則に従ふことの出来ぬ会員が
い
お
か
と
かく
あると謂ふも可笑し,除外例が設けられて条件付会員となるとすれば兎も角,
現在一般の会員を見るとき,日本の「アーマチュア」は紳士的に会員たり得
れいめい
76
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
も
しか
ないと思ふ。若し然らば,日本の法令に依つて許可せられ運用せんとする我
が「アーマチュア」は日本独特の会を組織し,命令の許す範囲内に於て大い
に活躍すればよろしからんと思ふ。
(問)受信実験中海外短波長実験等の試験通信に「キュウ・エス・エル・
カード」を要求するものあるを聴取したる場合,之れに応じて「キュウ・エ
さしつか
ス・エル・カード」を送ることは差支へありませんか。
さしつか
(答)差支へありますまい。
(問)実験通信の際「次回は何日,何時,何米にて発振す。感度等報告あ
りたし」等の意味の送信は認められますか。
さしつか
(答)差支へはありますまい。
(問)装置工事は殆んど落成し検査を受けむとするに先立ち,装置の送信
いかん
電波長の正確と能率如何を試験する為,一応発振するの必要を感じまするが,
い
未だ使用開始にも至らぬに之を使用して発振すると謂ふことはどうかと思ひ
さしつか
まするが,差支へはありませんか。
さしつか
しか
ま
(答)差支へはありません。然し其の仕方に注意せねばなりません。先づ
発振せむとする電波長に従つて一応聴取し,他の通信に支障なきを確めたる
上自己の呼出符号を三回送信し,後発振し,終りに終信符号及自己の呼出符
なお
号を送るのでありますが,尚此の発振は発振開始後五分を超えてはならない
のであります。
い か
さしょう
いえど
(問)施設後は如何に些少軽易の事項と 雖 も規則上変更出願を為し,許
可を受くべきものとせるものに対しては,絶対的に成規の手続をせねばなり
ませんか。
(答)設計等変更の場合に出願し許可を受くべきものと規定せられあるも
しか
のは総て成規の手続を必要とします。然らずして極く軽易なる事項等にして
さしつか
所轄逓信局に於て別に支障なしと認めらるものに付ては差支へありませんか
つ ど
うがが
ら,必要の都度一応逓信局へ申出て意向を 伺 って見るがよろしからんと思ふ。
あいて
よろしく
よろしき
(問)実験通信中対手局より「誰々に宜敷,何々を送れ,御気嫌宜敷や,手
紙受取りしか」等明らかに命令に違反するものと認めらる通信のありたる場
いかが
合,当方は何んと答へ如何すればよろしいのですか。
(答)此の様な違反のものに対しては何等答ふることなく,先方の送信事
れいめい
77
第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
も
かくのごとき
項を詳細に日記に書き置き後報告すること。若し内国のものが 如 斯 言辞を
為したる場合は直に所轄逓信局へ通報すること。
(問)一般に海外の「アーマチュア」が常用している略写を使用し,次の
程度の交信は差文へなきものですか。
○○○ NUAJ1) ○○○ R OK
UR SIGS IS QSB QSSS QRK R3
HR QRA……QRK? QSS? QSB? PL QSL
さしつか
(答)差支へありますまい。
つい
(問)主として各種方式に就て比較研究するの必要と一時的に随時方式の
た
い
か
変更をなし発振し度き場合,如何なる手続を要しますか。又許して貰へるで
せうか。
あらかじ
(答) 予 め変更することあるべき各工事設計,即ち変更の範囲を詳細に
記載し其事由を附記して逓信大臣の許可を受けて置く事です。必要を認めら
かつ
れ且支障なき場合は許可せられませう。…(後略)…
今日のアマチュア無線とくらべれば,まさに天国と地獄のちがいである。
素人局(アマチュア局)が許可になる以前に,すでに送信機の製作記事は各無線
雑誌に多数掲載されていた。交信した結果を書くとたちまち問題になったが,製
作記事だけならば別にどうということはなかったのである。
以下は「無線と実験」に掲載された一例である。
つい
201A 型真空管用発振装置に就て ムラダイン生
私は現在東京に住んで居りますが三年前は満洲に住居して居りました。そ
の時少しばかり科学に興味を持つて居りましたので,最初は上海より部分品
を買求めて短波長受信機を作つて米国及カナダ,上海,ロシヤ及欧州各国の
OM の発する電信を聴いて居りましたが,電信の符号及び色々な短波長の事
情も段々解つて来たので,遂に発振装置の製作を思ひ立つたのでありました。
御承知の通り当地は部分品を求めるにも非常に不便を感じ,特に発振用の
パーツなどは求めることは不可能でありました。それで全部受信機に用ひる
パーツにて組立ました。…(中略)…
1) 著者注。NU は当時の北米のプリフィックス,AJ は日本,この方式は IARU 制定で NU1AA を AJ1CA がよぶ場合は,
1AA NUAJ 1CA とやり,DE は使用しなかった。
れいめい
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第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
第 71 図
第 72 図
第一図〔第 71 図〕が発振装置の全体の配線図で,第二図が発振用のアン
テナであります。第三図は豆球が点火した時を表はした図で,第四図〔第 72
図〕はセットだけの写真であります。…(中略)…
部分品のデータ説明
インチ
L 十六回 BS 六番銅線,直径は四 吋 半,板に穴を明けて通してこの板を
ホルダーにしました。
C1 〇・〇〇〇三五 MFD(十七枚)旧式なエボナイト絶縁のアルミニュー
ム・プレートのバリコンであります。
C2 〇・〇〇一 MFD 固定コンデンサー
C3 〇. 〇〇〇二五 MFD 固定コンデンサー
RFCh チョークコイル一〇〇回ハネカムコイル
K 電鍵で大陸型であります。ホルダーはセトモノでありました。
A 六ボルト,六〇アンペア時の蓄電池
B 九〇ボルト電圧,四五ボルト乾電池二個使用,電池は内国製品が一番
長持する様であります。
ないし
R1 バリアブル・グリッドリーク,〇・一メグ乃至五メグオームで加減
れいめい
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第 4 章 短波の黎明(1925∼1927 年)
出来るもの
R2 十二オーム抵抗器
アンテナ及アース
ごと
空中線は第二図〔第 71 図〕の如く屋外に八メートルの単線アンテナであ
がいし
ります。碍子は上下共二個づつ付けました。アースはセットの真下に約三尺
掘下げて銅板(三尺平方)を埋めたのであります。空中線はもう少し高く張
りたかつたのですが,風があまり強いときはアンテナポールが倒れることが
しばしばあるので,八メートルにて止めておきました。
つい
テストに就て
テストに先立ち,B 電圧を九〇ボルト位にしてバルブを点火後グリッドレ
タン及びフィラメント回路より出ているタップを適当に加減し,バリコンを
いず
静かに回して豆球のスイッチを開けて,K の電鍵をショートさせて置く。何
れかの点にて必ず豆球が明るく光を発する処があるから,ゆつくり急がずに
チュニングする。豆球には抵抗の多いアンペアの極く流れないもので,二ボ
ルト位の豆球であらねばなりません。ダイヤルは少しでも度盛を変へると
明るく光を放つていた豆球がパット消えることがありますから,注意してや
るのであります。二ボルト位の豆球にて明るく光れば,アンテナ電流は完全
かくのごと
に一五〇ミリ位は流れて居ります。 斯 如 く豆球が光つたらば,次は豆球を
ショートして電鍵を開閉するのであります。これで完全に発振できるので,
バリコン及びコイルのタップはそのままにして置きます。波長を知りたい場
合は波長計のコイルをこの発振コイルに近づけ,カップルさせて受話器を入
れて見れば解ります。
もちろん
この UX201A にて支那は勿論U*や O**,J と QSO は楽でした。QSO の内
容はこの 1MM が日本政府の許可を受けて居りませんから,内国での発表は
見合せて置きませう。このセットが再び渡満した時は,必ずや前に倍した活
動を続けるでせう事を予言して筆をおく事に致します。
筆者の QTH は「新義州より鳳城まで至らぬ途中の野猪園という町」と記され
ている。当時国内において,単球受信機で S6 で入感したとのことである。
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる
(1926∼1927 年)
DX に興味が集まる一方,世間では音質に対
してもようやく関心が深まってきた。
「無線と
実験」1927 年(昭和 2 年)3 月号は「クリヤト
ン」特集号となっている。クリヤトン,すなわ
ち今日でいうハイファイ 1) である。同号には
「抵抗拡大器の作り方」という記事が掲載されている。筆者名は衆立無線研究所
試験室となっている。
抵抗拡大器の作り方
つい
…(前略)…之を将来に就て考ふるも,近く大電力放送設備成り遥かなる津々
うんぬん
浦々まで強力なウェーヴが達する時,誰か遠距離受信を云々し,音量の小な
るをかこたんや,その時こそは一にも音色,二にも音色で,受信機選択の標
準が音色の良否で定められるであらうこと,欧米現在の傾向と同じ行き方で
あらう。されば吾人は,将来の実用受信機は,先づ音色を第一標準に置くも
い か
のと考定し,以下,如何にしてヂストウション〔歪〕の無きクリーヤトンの
拡大器を得んかについて少しく記述しやう。
◇ 可聴周波の拡大器
高周波拡大・即ち遠距離受信については,今後余り重大視する必要もない
ここ
と思ふから,茲には省略し,又再生受信機等に作る検波球のヂストウション
いかん
こ
こ
も,調整の如何によって殆んどクリーヤトンを出し得るから,此処では主と
して低周波(可聴周波)拡大の方法に就いてのみ考へを進めて行く。
検波球又は鉱石検波器で検波した可聴周波の電流を大きくラウドスピー
カーに出すために,従来用ひられてゐる方法は三つある。
それは
一,トランス拡大法(低周波トランス使用)
二,インピーダンス拡大法(低周波チョークコイルを使用)
1) 〔編者註〕High Fidelity(高忠実度)の略。だいたい 50 c/sから 18,000 ないし 20,000 c/sまでを再生できるオーディオ
機器に対して言われた。
81
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
三,レヂスタンス拡大法(無誘導の高抵抗を用ひる)
である。そして,第一の方法は,拡大率が大きいから音量は十分過ぎる程出
るが,低音(バスやドラムの音調)の拡大が弱くなり,ヂストウションを起
やす
し易い。第二の方法は第一に比較すると,割合に高低各音の拡大が均等に出
来るがまだ完全ではない。第三の方法は,拡大の各定数が真空管の内部抵抗
とか,抵抗拡大に用ゆる外部抵抗,真空管の増幅率等によって定まるのであ
るから,高低各音調の周波に対して殆んど一様に拡大し得るので,従って決
してヂストウションが起きない。只,此拡大法の欠点は拡大率が他の方式に
比較して非常に小さいので,従来余り我国では歓迎されなかつたのであるが,
大電力実施の暁は必ずや大流行を来すべく,本式の研究は是非只今から始め
て行かねばならぬものと思ふのである。
◇ 理論は何うでもよいといふ人々よ!
「僕は放送開始前から無線を
実地にやつてゐるので,理論は
少しも分らぬが,実地だけは日
本一だ」と自慢してゐる人があ
つた。抵抗拡大法の配線図によ
り一機を手際よく組立てたまで
は良かつたが,日本一の実地先
第 73 図 生,どうしても思ふ様にクリヤ
いわゆる
トン拡声装置が働かず,否,真のクリーヤで,寂として少しも声が無い,所謂
無声装置が出来上つてしまつた。その友人が見兼ねて予の試験室を訪れたの
りょうあん
は, 諒 闇 1) の春まだ寒き正月の半頃であつた。以下はその時の対話の大要
である。
○「私は友人の無線大家に依頼して『無線と実験』の附録の配線図にある
もら
レヂスタンスアンプリファイヤーを一台造つて貰つたのですが,どうも成績
が思はしくないのです。あの配線図又はデータが間違ってゐないでせうか」
△「左様ですナ,ハハア第九のこれですね。〔第 73 図〕R1 が十万オーム,
R2 が二十五万オーム,球が二〇一 A だから,是れでよいでせう。コンデン
サーが〇・〇五と,まアこんなものでせうな」
1) 著者注。大正天皇の崩御〔1926 年(大正 15 年)12 月 25 日〕のこと。
82
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
○「配線図が違つてはゐないでせうか」
△「左様……別に違つてはゐませんな」
○「実はニウトロダインの再生検波に,このレヂスタンスアンプリファイ
もら
アーを附けて貰つて六球にしたのですが,二〇一 A 六個も使つて,今迄使つ
ていた一九九の四球よりも悪いのです」
△「成程,どの様に悪いのですか」
○「どうといつて,殆んど聞こえないのです」
△「それはどうも,球は何です」
○「球は○○○○です」
△「一番終の球は」
○「それも○○○○の二〇一 A を使ひました」
△「抵抗値はどうしましたか」
もら
○「ブリッチで測つて貰つて,配線図のデータ通りのものを買つて来たの
です」
△「そうですか。いや分りました。それでは聞こえぬのが当然でせう」
◇ 抵抗拡大のデータ
トランス拡大の場合には,指定以外の真空管を使つたからと云つて一々ト
ランスを変へる程のことも無いが,抵抗拡大では,抵抗と球の内部抵抗との
関係は重大な意味を持つている。一体,抵抗拡大には抵抗拡大用として専用
のヴァルブがあるので,それは特に内部抵抗が少く,増幅率を非常に高く設
たと
計してあるものである。此の様な特殊な球,例へばマルコニーの DE5B だと
ごと
かえ
か,フツトの LE351 の如きを用ひた場合は,B 電圧を相当に用ひれば,却つ
しか
てトランス拡大よりも優秀な拡大率が得られるものである。然し,普通の二
〇一 A 型を抵抗拡大に用ひた場合は,どうしてもトランス拡大の二球に対
さ
し,三球は必要であるが第一の欠点である。扨て,それでは二〇一 A 又は其
い か
他の球に対し,R1 や,R2 ,又 C2 ,R3 は如何様に設定すれば良いのであらう
か。固苦しい数式を抜きにて要点のみを述べて見ると,
一,R1 の決定,抵抗拡大に於いて,その拡大率を用ふる球の拡大率(増幅
度 µ)に等しくするためには,R1 は球の内部抵抗 r に比し出来るだけ大であ
も
らねばならぬ。若し R1 が r より少であるならば,R1 の両端に於ける電圧効
果はずつと落ちるのである。故に R1 を大とするか,或は r を少とすること
83
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
が必要である。それではと云つて R1 をあまり過大に設計すると,B 電圧を
それに応じて高くして行かねば,能率はずつと下る。所が真空管の内郎抵抗
r と云ふものは,ブレート電圧が高くなると次第に減じて来るので,抵抗拡
大に於いて,B 電圧を高くするといふことは非常に有意義なこととなるので
ある。
○「ああ,そうですか。よく分りました。実は B 電池は九十ボルトを使つ
たので……」
△「成程,九十ボルトしか使はなかつたのですか,それでは球が働きたく
つい
てさぞムズムズしてゐたことでせうが,遂に働くにも働けなかったのでせう」
普通の真空管を用ひる場合,R1 は通例 r の四倍か五倍を用ひる。普通の
二
二〇一 A は内部抵抗(r = プレートインピーダンス)が一万乃至万オーム程
ないし
度であるから,R1 は五万乃至十万オームの程度でよいが,和製のものには
一万オーム以下のが多いから,その場合はもつと低い値でよい。
二,R2 の決定 R2 はグリッド抵抗である。是は通常 R1 の五倍以上を用
ないし
ひるので,二〇一 A の場合は二十五万オーム乃至五十万程度のものがよいの
である。但し C 電池を用ひぬ場合は十倍位が適当である。
三,C2 の決定 此のコンデンサーは拡大する可聴周波の最低の振動数の
通過に際しても,なるべく低い抵抗しか与へぬやう,なるべく容量の大なる
ものがよいのであるが,そのインピーダンスは少く共 R2 の十分の一以下で
あらねばならぬ。即ち C2 が少であると低音の通過に際しヂストウションの
やす
ないし
原因となり易いのである。一般には〇・〇五乃至〇・五マイクロファラド位
のものを用ひてゐる。
四,R3 は何故低値にしたか。これは最終の球に一一二を使ったからで,UX
一一二の r は五,六千オーム程度のものであるから,図の R3 は五万オーム
なお
でも尚多過ぎる観がある位なのである。
◇ 真空管は何がよいか
前記の DE5B や LE351 等は抵抗拡大用として誠に理想的の球であるが,抵
抗拡大にはトランス拡大の場合よりも球が多く必要であるのに,更にこんな
高価な球を使はねばならぬといふのは,誠に国家経済の上より見ても面白く
ない。所が,幸なるかな,和製の球の多くは,プレート抵抗 r が低いのである。
故に和製の球の中よりなるべく拡大率の多い球を選んで抵抗拡大用とすれば,
84
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
真空管がハードである限りは,完全に抵抗拡大用として良結果を与へるので
ある。当所では NVV6B を用ひて非常な良成績を得てゐる。…(後略)…
アマチュアやプロが暗中模索
していた当時の状況が,この記
事からよくわかると思う。
一方,既製品の抵抗拡大器も市
場に現われた。第 74 図は当時の
新聞紙上の広告である。
抵抗拡大には 10∼500kΩ の抵
抗が必要なことは今日でも同じ
であるが,当時はなかなか入手
第 74 図 困難であった。MΩ 単位のもの
はグリッドリークとして多用されたから容易に入手できた,
つぎに示すのは原田三夫氏著「誰にも出来る高級受信機の作り方」
(誠文堂 1926
年 4 月版)の中の一節である。
鉛筆を用ひる抵抗増幅器の造り方
抵抗増幅器に用ひる抵抗は,〇・一メガ 1) と四分の一メガとが用ひてある。
しか
然るにかういふ抵抗は,わが国ではまだ売られていない。随分ラヂオ商を尋
ねまはつたがない、これは恐らく実験家が少ないためとラヂオ商に知識がな
いからであらう。
私は止むを得ず鉛筆を用ひてやつて
見たが,可なりうまく行つた。その方
法を次に述べやう。
この増幅器は,前に述べた再生式受
信器につけるもので,右に述べたもの
に一個のトランスを用ひたもので,そ
れを用ひないに比して少し高価である
もっと
が,それだけ増幅率が大きい。 尤 も
くら
そんなのを作る位ひなら,トランスの
1) 著者注。0.1MΩ のこと。
第 75 図 85
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
みを用ひる二段増幅の方が,真空管が一つ減るから結局同じくらいの費用と
なるやうに思はれるが,トランスを用ひるものは,トランスも球もよいのを
選ぶ必要があり,随つて高価になる。この増幅ではそんなによい球を用ひる
やはり
必要はなく,球は近来随分安いのがあるから,矢張遥かに費用が安い。そこ
で特に詳細に製作法を述べることにした。…(中略)…
底板にパネルを付ける前に,この増幅器の生命なる抵抗器をつくる準備を
ぶ
する。それは幅五分1) 長さ二寸ぐらいの,エボナイトの板五枚をつくる。
これはラヂオ屋で切れつぱしをわけてもらつてくればよろしいが,エボナ
イトでなくても例の木板にバラフィンをしませたものでもよい。この方が手
に入りやすく細工もしやすいだらう。
これ等の板が出来たらその両端に孔をあけ,板の大きさに切り,板の孔に
合せて画用紙に孔をあけ,その周囲に軟い鉛筆をごつてり塗りつけ,板の上
にあて裏から差したボルトナットで止める。この時ボルトはなるべく平面の
を用ひ,皿孔といって,その頭が,すつかり埋まるやうに孔のまはりをえぐ
り,普通の丸頭のボルトを用ひるのならば一層深くえぐつて,とに角その頭
もっと
が板の面から出ていないやうにする。 尤 も右の板を三四分の厚さとし,紙
を三分ぐらいのモクネジで,上から押さへつければ,右のやうな面倒なこと
はいらぬ。五つの板に皆こういふやうにして紙を当てる。これで抵抗器の台
が出来た。…(中略)…
かうしてから,真空管を点じ抵抗器を作つていくと,だんだん声が大きく
なつていつて,受話器を耳からはなして置いても室中にひびくほどの声にな
る。さて抵抗器をどうしてつくるかといふと,それは何でもないことで,軟
い鉛筆で抵抗器の台にはりつけた画用紙の上にすじを引き,両端のナットを
ごと
つなぐのである。本式につくるときは,この抵抗器を左の如き抵抗のものを
用ひるから,大体この心持ちで鉛筆のすじの太さを定めるのですが,始はな
るべく細くかき,少しづつ太くして行く方がよろしい。
⑴ 〇・一から一メガの間
⑵ 〇・一メガ
⑶ 一. 〇メガ
⑷ 〇・五メガ
1) 〔編者註〕長さの単位。1 尺(約 30cm)の 10 分の 1 が 1 寸。1 寸の 10 分の 1 が分。1 分の 10 分の 1 が厘。
86
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
⑸ 〇・一メガ
ぶ
りん
ぶ
私の作つたのでは⑵と⑸は幅二分ぐらい,⑷は五厘ぐらい,⑴は一分ぐら
いでうまく行つた。⑴は私はレオスタットのこはれたのを利用して変化ので
やはり
ぶ
きるやうにしたが,鉛筆ですじを引く場合には矢張り幅一,二分からだんだ
ん太くして見て下さい。
鉛筆のすじをだんだん太くして行つたり,或
はゴムで消して見たり,いろいろやつて,声が
ますます大きくなるといふことは,実に楽しみ
なものである。部分品のうちで,固定コンデン
サーは自分で作ることもできる。それは〇・〇
〇六マイクロフアラットであるが,正確に計つ
て売つているのは一個二,三円もする。しかし
もっと
安物でも多分よいだらう。 尤 も自分で作るの
もよい。材料はパラフィン紙と錫箔があればよ
い。錫箔は煙草や西洋菓子の包んであるので沢
山である。…(後略)…
第 76 図 当時の部分品のうち,トラブルの多かったのは低周波トランスと受話器であっ
た。トランスは断線も頻発したが,アマチュアを困らせたのはレヤーショート 1)
であった。テスターなどは考えもおよばない時代であったから,受話器と数 V の
乾電池をシリースにして,音響による導通試験の外はなかった。したがって,レ
ヤーショートの判定はきわめて困難であった。窮した方法としてトランスの 2 次
側を指をなめてさわり,1 次側で 4.5V ぐらいの乾電池を断続すると逆起電力でピ
リッと感電する。その強さで判定する方法が用いられた。
第 77 図 1) 〔編者註〕1ayer short =層間短絡。トランスにまかれたコイルの上の層と下の層がショートすること。
87
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
またこの受話器が難物で安物は年に 2 回ぐらい断線したもので,そのつどコイ
ル巻直し料として 2 円 50 銭ぐらい取られた。
受話器の断線試験法として,電池のない場合は銅貨と銀貨の間に吸収紙をぬら
してはさみ,この起電力によるクリックを利用したり,さらに応急の場合は受話
しゅうどう
器コードの両端子を土地の上で 摺 動 し,地電流によるクリックを利用したりし
たのであった。
この時代の製作記事に真空管名がぜんぜん書いてないのを疑問に思われるかも
知れないが,当時はいずれも三極管で,Gm 等三定数も似たりよったりであった
から別にその必要がなかったのである。フィラメント電圧はレオスタットによっ
て調整し,明るさで見当をつけた。たとえば 201A は 5V であり,蓄電池は 6V で
あるから,レオスタットを全部ぬけばたちまち過電圧になった。製品の不良率も
はなはだしく,これに関し「無線と実験」1927 年(昭和 2 年)3 月号に,今井紀
氏のつぎのような記事がある。
何といっても UX 二〇一 A1) がよい。
和製品にも可なりよいのがありますが,
同時に同数以上の悪い品質のものがあ
ることに御注意。ことにフィラメント
電力は極めてイカサマの事。FV 五 V,
FA 〇・二五 A,即ち内部抵抗二〇オー
ムの筈のものが一〇オームか一五オー
ム位よりなく,六ボルトのままかけて
輝かせ喜んでをると,〇・五も〇・六
めんくら
六も喰って大面喰ひする輩も少くない。
ことにプレートカーレント〔電流〕に
至っては実に千差万別。或る小さい球
などは PV 二〇より九〇とことはつて
あるのに,一方は九〇ボルトでも百ボ
ルトでも〇・八ミリ内外で飽和して働
第 78 図 かず,一つは PV 六〇ボルト強で C マ
イナス三ボルト内外で既にグローを生じて,プレート電流は〇から無限大
1) 著者注。ラジオトロン製をいう。
88
第 5 章 音質に関心深まり,抵抗拡大器使用さる(1926∼1927 年)
いわゆる
に向つて驀進するといふ大騒ぎ。それも所謂一流の人達の製作した球であり
ます。
じゅんぽう
次は B,C 電圧,これもまた指定を 遵 奉 してをつたのでは何もなりませ
ないし
ん。B は六○位から一六〇ボルトくらゐまで,C は一乃至四十五ボルトの範
囲でかへてみること。…(後略)…
なんとなく今日のトランジスタに似ているから妙である。…価格もかなり高い
ものであったから,第 78 図に示すように現在のブラウン管のようにフィラメン
トを取換える修理業があった。
また,201A,199,120,216B,210 のようなトリエッテッド・タングステンの
フィラメントを有するもので,エミッションが低下したものに対して過電圧を与
えて熱処理を行ない復活する方法があった。これは主として放送局の相談部にお
いてサービスされたが成功率は 80∼90%であった。
後日のため当時の受信管の規格表を示す。
種類
}
UV199
UX199 }
UV200
UX200
UX200A }
UV201A
UX201A
UX112
UX120
UX171
NVV6A
NVV6R
フィラメ
ント電圧
(V)
フィラメ
ント電流
(A)
プレート
電 圧
(V)
プレート
電 流
(A)
グリッド
バイアス
(V)
Rp
Gm
(Ω)
(µ℧)
3.0
0.06
45∼90
1.0∼2.5
−4.5
16,500
6.25
330
5.0
1.0
15∼25
1.0
―
―
―
―
―
5.0
0.25
45
1.5
―
―
―
―
―
検波
(ソフト管)
〃
5.0
0.25
90
2.0
−4.5
12,000
8
675
15
検波増幅
5.0
3.0
5.0
3.8
5.0
0.5
0.125
0.5
0.25
0.25
135
135
180
20∼40
20∼135
5.8
6.5
20.0
3.0
3.3
−9.0
−22.5
−40.5
―
―
5,500
6,000
2,000
9,400
8,000
7.9
3.3
3.0
6.3
8.6
1435
500
1500
660
1100
120
110
700
―
―
増 幅
増 幅
増 幅
検波増幅
(国 産)
無歪
出力
用途
検波増幅
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダ
イン
(1925 年頃)
ニュートロダインとスーパーヘテロダインは電池式時代の DX
用受信機の双壁であった。
三極管だけしかなかった当時の高周波増幅は内部容量を中和
しなければ発振してしまうし,コイルのカップルも考えなけれ
ばならないから,自然にニュートロダイン方式になってしまったのである。
一方,真空管の内部容量のあまり影響ない 50∼
200kc 付近に周波数を変換して,安定に利得を取
ろうとしたのがスーパーヘテロダインであった。
したがって原理はとにかく,セット設計に対
する考え方は今日の製品とはまったく別物とい
える。
ニュートロダインは特許問題で当時の新聞,雑
誌をさわがせたものであったが,われわれアマチ
ュアにはまったく関係のないことであった。セ
ットのメーカーとしてはギルフィラン社が有名
第 79 図 であった。第 79 図に広告を示す。
つぎに示す記事は「無線と実験」1925 年(大正 14 年)10 月号に掲載されたも
ので,筆者は茨木悟氏である。
ニュートロダイン装置は斯くの如く製作すべし
…(前略)…
一,ニュートロホーマーの作り方 電波長二百米より四百米(逓信省許可
範囲)のニュートロホーマーは,誰人の作り方でも殆んど同様であるが,自
た
分は特に逓信省の許可範囲で作り度ひと思つて,二百米より四百米と云ふ範
囲で使つた。こうすると東京と大阪の放送局が十度内外,大阪名古屋が二十
やす
度内外の違ひとなるから選波する事が非常に易いのみならず,波長帯が狭い
90
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
しか
ながら然も三百米から四百米の間が殊更能率がよいから,放送聴取用として
は米国のギルフィラン製より好成績である。
ニュートロホーマーはインダクタンス・
コイルとヴァリヤブル・コンデンサーを
組合せたもので(中略)あります。之を
作るにはニュートロホーマー用エボナイ
ト二重筒の上線を巻くのである。巻き方
は二重筒の内側の筒の溝の中に一次線と
して十三回の線を巻き,初め及終りは筒
に小穴をあけて電線の端を其の穴に通し
て,線のゆるむのを防ぐ。二次線は二重
筒の外側の筒に巻いて,一次線と同様に
線の両端は小穴を作つてゆるまぬ様にし
て置く。線の回数は六十二回,一次線も
二次線も SWG#26 二重絹巻線を用ひる。
捲線がすむと二次線と一次線との筒を組
合せて二重にし,各線の巻き初め終りは
第 80 図 びょう
ネジ 鋲 を用ひてターミナルを作る。即ち一次線のターミナル二個,二次線
のターミナル二個,合計四個のターミナルが出来る。次に捲き上つた二重筒
を七枚(〇・〇〇〇一五乃至〇・〇〇〇二位)のヴァリヤブル・コンデンサー
ごと
に,図に示す如き簡単な金物を作つてステーター(固定極)に取付ける。そ
してコイルの二次線の巻き始めの線を廻転極に,巻き終りの線を固定極に按
続する。之でニュートロホーマーは出来たのであるが,之は空中線回路に使
用するもので,二段目,三段目に使用する分には,二次線を巻く時巻き始め
から十五回目に一個のタップを作つて置く(図面参照)。其の他は前記と同
一で,空中線コイル,二段目,三段目と都合三個のニュートロホーマーを作
るのである。
二,ニュートロドンの構造 ニュートロドンには種々の構造のものがあり
ますが,之は要するに真空管内の容量を平均させる為に使用するものであり
ますから,どんなものでもいい様なものゝ,今市場で販売して居るドンには
91
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
どうも怪しいものが多い様であります。…(中略)…第四図〔第 81 図〕の
様なものを作つて使用して居ります。
三,低周波変圧器…(中略)…
配線方法はニュートロダインは皆殆んど同一でありますが,参考までに次
にかゝげて置きます。部分品の配置は器機の容積を小さくする為に次の第七
図の様に配置し取付は之を硬ゴムの上等を用ひて配線の線を全部底板の下部
にかくしてあります。こうすると外観上美麗であるのみならず,線と線と接
触する憂等は更にありません。
調整方法(ニュートロドンの合せ方)
ニュートロドンの調整法程難かしく
やさ
云はれて,其の実易しいものはありませ
ん。自分の常に行つて居る方法を御話
ししますと,次の様であります。ニュー
トロダイン装置はニュートロドンが調
整されて居ても,されて居なく共,実
に感度のよい装置でありますから,大
抵の場合日本国中何処に居つても東京,
大阪,名古屋の何れかの放送を聞く事
が出来ますから,ブザーで試験するよ
り放送を実際に受信しつゝ調整するに
しか
限ります。然し特別の遠距離の時には,
別に示すブザー発振器の配線によりて
第 81 図 発振し調節するとよいのであります。
ま
調整法は,先づ出来上つた装置に真空管,電池,受話器,或は高声器等を
ま
全部取付けて受信の用意をするのであります。先づダイヤルを今説明したる
ニュートロホーマーを使用したる時には七十度で東京,大阪は八十度,名古
屋は六十度に三個のダイヤルを希望の放送局に同調せしめて,最も感度のよ
いポイントを見出して置きます。
次には第二の真空管を取外して,其のフィラメントの極に紙を巻きて元の
む つ か し
通りにソケットに入れるのですが,中々真空管の足に紙を付けるのは六ケ敷
いものですから,紙片に少し糊を付けてはり付けるとよろしい。すると真空
92
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
もちろん
管には勿論フィラメントの点火を見ないことになります。即ちフィラメント
の切断された真空管を挿入したと同一の結果となります。そこでドンの容量
し
ま
を最も少ない位置に置く。棒型の分でしたら中の極を一方の端によせて仕舞
ふし,今説明した新式のドンでしたらネジを最上部まで抜いて置きます。そ
れから再びセットを調節して最もよく聞こえる位置にダイヤルを合せて,今
度は聞きとれる範囲までレオスタットで電圧を下げる。次はペン軸か鉛筆で
ドンの位置を静かに変更する。其の中に必ず全く聞こえぬポイントを発見す
も
る事が出来ます。若し出来ない時には,棒型のドンでありますと中央の極と
他の何れかの極とを線を以て連結して,改めて調節すると配線に誤りの無い
限りは必ず全然聞こえぬ点が出て参ります。此の点こそニュートロドンの正
確に合った位置でありますから,其のまゝ固定して動かぬ様にして置き,今度
は之れと同一の方法で第一球の調整を行ひます。第一球の調整が出来たなれ
ば,初めて完全なニュートロダイン装置が出来た訳であります。…(後略)…
ニュートロダインを組み立てる場合は,各
ニュートロホーマーを 54.7 度に傾斜させて
取り付けるのがきまりになっていた。実際
は付近に種々の部品があるから,各ホーマー
のカップルを防ぐ最適の角度があったはず
であった。
ニュートロダインの後期にはニュートロ
ホーマーのリーケージフラックスを少なく
する意味から,トロイダルコイルを使用し
たものが現われた。また,第 82 図に示すよ
うな参考書も出版された。
つぎに当時のスーパーヘテロダイン製作
記事の代表的なものとして,「無線と実験」
1927 年(昭和 2 年)3 月号に掲載されたもの
を示す。筆者は古沢恭一郎氏である。
実験用ループ式七球スーパー
◇将来の受信機は何式になるか?
第 82 図 93
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
現在は簡単なる鉱石式から八球九球と云ふ複雑なスーパーヘテロダイン
まで,各種の受信機が用ひられているが,今後数年間最も発達愛用せらるべ
き受信機は何であらうか。目下受信機として第一位を争つてゐるニュートロ
い か
ダインとスーパーヘテロダインとは,今後如何様に進歩発達するであらうか。
最近に於ける欧米の傾向を見るとニュートロダインも次第に改造されて,幾
多の変遷をしてはゐるが,スーパーヘテロダインに至つては甚だしく新しい
型を次々と出し,昨日の新型は今日は既に旧型として排せらるゝの勢である。
無論それは局部発振装置が主であるが,要するに容易に発振部の調節が出来,
雑音が少く,分離性の極度に良いものをと改良しつゝあるもので,次第に理
想に近づきつゝあるの感があるのは喜ぶべきことである。所がひるがへつ
て我国の現状を見ると,高価な舶来スーパーも多くは飾物となつてゐて,充
分に能率を発揮して居らず,只,僅かに近時アマチュアが熱心にスーパーや
しかい
ニュートロを研究して,相当の成績を挙げてゐるの外は,斯界の識者ですら,
ニュートロやスーパーの効果を疑つてゐて単に放送電力の増大によつて,全
おも
国の鉱石化を夢見てゐるなど,誠に世態様々ではある。惟ふに今後大電力放
送局が多数に出来れば鉱石機の聴取可能範囲は広くなるが,一局のみを聞い
て我々は満足してゐられぬのでどうしても分離聴取,遠距離受信機の必要を
一層感ずることであらう。されば是等将来の受信機に対する予備研究,又は
現在放送局所在地に於ける遠距離分離聴取を行はんとして,最近各所でスー
パーヘテロダインの実験や研究をしてゐる者の多くなつたのも当然で,今後
も益々各地で実験研究せられ,国産機として次第に優良品を出すに至るであ
よろこ
ろうことを楽しみにして待つことが出来るのを 欣 ぶものである。
◇スーパーを始めて製作する人々に
二球三球の再生式を組立てた位の初学者が,容易に八球のスーパーを組立
てゝ好成績を納めたかと思ふと,五球六球のニユートロを組立てたり,発振
器も製作したと自慢してゐるアマチュアが見事に七球に失敗したなどといふ
そもそ
なにゆえ
こと
のもある。之は 抑 も何故であらうか。殊に第一回はうまく成功したが,二
回目は全然不出来であつたなどといふスーパーの難所は一体何処にあるので
あらうか。
スーパーの組立は甚だ簡易である。即ち,組立だけに就いていへば,たし
しか
かにニュートロダインよりも容易に組立て得らるべき性質のものである。然
94
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
なが
し乍らその調整,最初のテストは往々にして失敗するのである。今,初学者
やす
の最も陥り易い失敗の原因を挙げて見やうなら,
⑴ A,B 電池の電力不足
⑵ C 電池の不適量
⑶ 図における C5 ,C6 ,C7 ,C8 ,C9 等の容量不適当,又は絶縁不良
⑷ T1 ,T2 ,T3 ,T4 の同調点の不明,又は過鋭敏
⑸ R5 の不適量
⑹ オッシレートカプラー 1) ,又は発振球の不良
⑺ 中間周波拡大球の不良
等種々ある。今一々説明して見ると,
〔A,B 電池の電力不足〕他の三球
四球に用ひて見るとまだ使用し得
る A 電池の電力でも,七球八球の
スーパーに用ひる時には従つてヒ
ラメント端電圧の不足を来し,十
分に真空球を働かし得ぬ場合が多
い。即ち七球八球に於て,普通の
三十アンペア時位の蓄電池を用ひ
る場合は十分電力のあるものを用
ふべきで,充電後十数日を経たも
の等は再充電して用ふべきである。
B 電池はなるべく蓄電池がよく,
も
第 83 図 若し乾電池を用ひる場合は各 B+
のターミナルから B− に各一マイクロのバイパスコンデンサーを入れて,出
来るだけ雑音の原因を除かねばならぬ。
〔C 電池の不適量〕中間周波拡大球の G には,ポテンショメーターで A−
もちろん
を加減して加へる場合と,C−,一ボルト半を加へる場合とある。之は勿論
使用真空管 B 電圧等によつても異なるのであるが,C−,一ボルト半以上は
不必要である。
オッシレーターヴァルブの G も A− 又は C−,一ボルト半を用ひ,時によ
1) 著者注。発振コイルのことである。
95
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
り,特に C+ を加へることもあるが,C− を三ボルト以上も用ひるのは良い
結果を与へない。スーパーの第一検波,第二検波は,往々グリコンやグリッ
ドリークを用ひない場合が多い。成績は其の方がよいのではあるが(C− を
G に加へて,B を相当高くして検波球を働かす方法)
,グリッドリークをヴァ
リオーム等を用ひて調整した程良い結果は与へない場合が多いので,予は常
に第二検波にはグリコン・リークを用ひてゐる。
〔コンデンサーの容量及び絶
縁抵抗〕不良な固定コンデンサー
は絶縁抵抗の極めて低いのが多
いが,此の絶縁抵抗の低いとい
ふことは容量の不正確以上に失
敗の原因となるから,十分注意
せねばならぬ。和製で容量も正
確,絶縁も相当完全なのはトン
第 84 図 ボ印(TKS)のマイカコンデン
サーである。
〔中間周波トランスの不良〕コアの入ってゐるものは殆んど不良は無いが
コアの無いトランス,即ちフィルターホーマーは往々にして不良がある。之
は P 又は S に用ひるコンデンサーによって或程度迄補正することが出来るが,
最初からコア入りのトランスによく同調し得るフヰルターを求めることが得
も
策である。若し之を自作するには別項部分品の製作の章を参照して,熱心に
研究すれば容易に完成しうるであらう。
〔R5 の適量〕第二検波のグリッドリークは,一メグ乃至二メグ位が適当で,
之はヴァリヤブルリークで容易に適量を求めることができるが,固定のリー
クを用ひる場合は,一メグ,一メグ半,二メグ位を用意して置くべきである。
〔オッシレーター球の選択〕発振球は往々にして其の良否が失敗の原因と
なることもあるが,二〇一 A 型の信用のあるヴァルブは,大概発振球として
用ひられるものである。私は常に NVV6 B を用ひてゐるが,充分発振する(B
しか
四十五乃至六十ボルト)。然るにアマチュアは往々にしてスーパーの第一球
(発振球)に一一二を用ひたりするが,多くは失敗する(B 電圧が低いから,
一一二では発振しないのである)。
96
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
〔中間周波拡大球〕一九九型はフヰラメント端電圧三ボルト,B 電圧四十
五乃至六十ボルトで良く働くが,時として C 電池の − を低くするか,又は
ただ
A− を G に与へて適当に働く場合もある。但し,信用の無い検波だけしか働
かぬやうな球は,到底中間周波拡大用として不適である。
◇最初のテストをする場合の注意
以上のやうな細心の注意を払つて調整を始めても,ともすると失敗に終る
ことがあるのは,最初のテストに当つての注意を忘れてゐるからである。そ
れは第一に発振波長の調整であるが,是れが非常にシャープであるだけに,最
初の調整に当つてよく同調点を逸する。組立てゝ少しも聞こへぬといふのが,
多くは発振波長の同調点を見出し兼ねてゐるのが多い。是はブザー発振器が
あれば,ループにブサー発振器のコイルをカップルせしめて,比較的容易に
やす
も
C1 ,C2 の同調点を見出し易い。若しブザーテスターの無い場合は,ループの
一端(図の L2 ,又は L3 )又は A− をアースすれば比較的容易に受信調整する
ことが出来るから,次第に各部の調整をやれば良いのである。…(中略)…
◇調整運用上の注意
ループは二尺角十二回又は十四回,中間からタップを出して造る。ヒラメ
ント電流の加減は主として R1 にて行ひ,R2 ,R4 は余り調整の必要がない。
R2 は余り抵抗を減じてはいけない。則ち此のレオスタットは一九九に対し
六ボルト電源から適当な電力を供給するための制限器であるから,三十オー
ムのレオを少くとも半分以上に保つて置くことが必要である。
R7 は必ずしも入用では無いが,R5 は必ず適当なヴァリヤブルリークが必
要である。C10 はスピーカーによつて適当の量を定めるのが最も軽便で,最
初から一定にして置くと後で取かへねばならぬ不便を生ずる。C7 は必ずし
も必要ではないが,調整の際必要があれば加へるので,SRL4001) には S に適
当なコンデンサーを既にケースに入れてあるので P には不必要なのである。
以上で大体説明し尽した積りであるが,要するに「どうしても聞こえぬ」
すべ
といふ素人の組立機も多くは A 電池の不足,真空管の不良等が原因の凡てゞ
あつたことを附記して,諸賢の熱心なる研究を望むものであります。
この記事でわかるように,当時は IFT の周波数などはメーカできめたっきりで
ユーザはなんら関知しなかったのである。鉄心入り(ダストコアなどはさきのは
1) 著者注。当時の IFT の商品名。
97
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
なしで,ふつうの鉄線である)が 50kc 位,空心で 200kc 内外であった。図より明
らかなように,まだ連結バリコンなどはなく、検波,発振を別々に同調していた
から,中問周波数がわからなくってもいっこうさしつかえなかったのである。イ
メージ利得はきわめて悪かったのであるが,前述のようにスーパーの目的が周波
数を下げて,三極管で十分利得を取ろうという主旨であったからまったく問題に
ならなかった。例えば「無線と実験」1929 年(昭和 4 年)1 月号の諸者欄に「六
球スーパーヘトロダインの感度と製作上の注意」(和歌山県,Y 生氏)という投
稿があるが,その一節に
では能率を申し上げて乱筆を止めませう。昼間当地にて名古屋,大阪,広
島は大声に出ます。夜間は日本内地,上海,大連,ウラジオはわけなしです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
分離は全部精実です。然しスーパーは二ケ所で出しうるから1) その良き方を
取られたし,安ていとボリウムがスーパーの特色です。フェージエングなん
かありません。
このように,スーパーは二所で放送が聞えるというのは当時の使用心得であっ
た。セットの型もきわめて大きく第 85 図に示すように送信機でも調整するよう
な具合であった。
第 85 図 第 86 図 前述の「無線と実験」1927 年 3 月号にインターメデエント・トランス製作法と
いう記事が掲載されているが,その一節はつぎのとおりである。
ボビンは木製又はファイバー製で,三段にコイルが捲けるやうになつてゐ
る。その各溝の大さは(第 86 図)で大要は知られるであらう。溝の中央はプ
1) 圏点筆者
98
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
ライマリー用,両端はセコンダリー用の溝である。
(第 86 図)のものゝデー
タは次の通りのものである(SRL–123 も殆んど同様)
。
P=500t #32 S.S.E(単重絹エナメル線)
S=1000t #36 S.S.(単重絹巻線)
Core=#36 Soft iron
又フィルタートランスのデータは(SRL–400 型)
P=250t #30 C.E.(エナメル綿捲線)
S=1500t #36 S.S.(単重絹捲線)
此のフィルターの方には,P 又は S
に適当の固定コンデンサーを入れて
同調式にするので,その波長は一二
三型のコアの量と重大な関係があり,
インターメデエントトランスの仕上
げに当り,最も苦心を要するところ
ただ
である。但し実験用としては一二三
第 87 図 型にコアを 3/8′′ × 1/2′′ 位の断面積に
なるやうに入れ,四〇〇型にはプライマリーに〇・〇二のヴァリコンを入れ
て,固定コンデンサーの適量を推知してもよいのである(又は〇・〇〇〇三位
のヴァリコンをセコンダリーに入れて加減して見てもよいのである)。SRL
いず
三〇〇及五〇〇は何れも鉄心を入れたいものである。
インターメデエントトランスの製作上注意すべきことは,なるべくハネカ
で た ら め
ム式にコイルを捲くか,それでなければ出鱈目にジグザグに捲くので,本ト
いかん
ランスの良否は,一に此の捲き方と最後の仕上の如何にあるのである。
テストオッシレータはまだ現われない時代であったが,ブザー発振器は使用さ
れていた。第 87 図に示すように IF 回路は非同調で増幅し,フィルタートランス
と称する検波コイルにシャープな特性をもたせていた。ちょうど現在の方式と逆
になっていたのである。
実例として IFT を 3 個同じケースに入れた SRL 製品を第 88 図に示す。また,
メーカー製スーパー受信機の広告の 1 例を第 89 図に示した。
1930 年頃,エリミネータに転換する直前には電池式スーパーにも大分高級品が
99
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
第 88 図 第 89 図 現われた。つぎに示すのは「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)1 月号掲載の「四
極管及び五極管を並用せる最新型スーパー八球の組立」という記事である。筆者
は北海道,M.N 生氏である。
スーパーの偉力,それは実験せるものならで知る事の出来ぬもの,昼間遠
よろ
距離用として,混信分離用として,其組立は部分品宜しきを得なければ成功
はなかなか困難である。初心者を最も苦しむるは中間周波トランスの可否と
分離法である。前者の不良は全然スーパーの働きをなさず,後者の完全を得
いかん
なければスーパーの偉力は望まれぬ。分離の如何はフィルタートランスのプ
べ
ライマリーに入れる〇・〇〇二の固定コン,及びセコンダリーに人る可き〇・
〇〇〇二五の固定コンの容量の正,不正及びセコンドデテクター〔第二検波〕
球の特性に依り,グリッド側に入れるグリコン及び抵抗の適,不適等である。
なお
もちろん
尚フィルター装置の影響は勿論である。…(中略)…
V1 , フィリップス A 四四二(四極管)
V2 , ラジオトロン二〇一 A
V3 , ラジオトロン二〇一 A
100
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
第 90 図 V4 , フィリップス A 四四二(四極管)
V5 ,V7 ,ラジオトロン二〇一 A
V6 , フィリップス A 四一五
V8 , フィリップス B 四四三(五極管)
六ボルト球と四ボルト球の並用は危険の様に思はれますが,四ボルト側に
二重に抵抗を入れてありますから安全です。L1 は最初バスケットコイルを
用ひ一次線を三〇回,二次線を六〇回巻きテストせるもあまり芳しくあり
ません。次にスパイダーコイルを用ひたるも思ふ様な結果を得ませんでし
た。…1) (中略)
R6 ,R7 は二〇〇〇から五〇〇〇位が非常に音が澄んで高くなります。RFC
は最初使用しなかったのですがテスト中に入れて好結果を得ました。V6 の
A 四一五にはグリコン〇・〇〇〇二 MFD に対し一∼三 MEG 迄テストして
見ましたが,三 MEG が検波力に於て最も優秀にセコンドデテクターを働か
せました。此の受信機の製作に際し注意を要するはフィルター装置です。ス
クリングリッド球の拡大率にフィルター装置が非常に影響するからです。低
周波の終段もシールドしたならばより良き成績を得られる事でせう。
テスト 球の高価であると云ふ事を念頭に置いて,配線に間違なきか否か
ごと
を充分調査しなければなりません。最初から高価球を入れず,次の如きテス
1) 著者注。ここで筆者は,ソレノイドのタップ付きコイルを使用して好結果であったことをのべている。結合係数が大きく
なって,ステップ・アップが大きくなった故と思う。
第 6 章 ニュートロダインとスーパーヘテロダイン(1925 年頃)
101
トを試みて後にした方が安全です。A 電池を接続し古い二〇一 A 球を高周波
側から順次に入れて行きます。此の際四ボルト球側の抵抗を抜かないと点火
状態は分りません。次にプレート側とフィラメント側との接触の有無を確む
る為に,B 電池を連結して更に此のテストを繰り返します。此のテストに成
功したならば後は絶対安全です。R2 の抵抗を入れて置いて規定球全部を入れ
いよいよ
ます。次は愈々受信に対する調整試験に移ります。オッシレートカプラーの
可動コイルを直角にして C1 を零にして置きます。C3 を調整してオッシレー
トしたならば C1 ,C2 を同調せしめ,C4 に依つて音量を加減します。受信状
態がよくなつたならば R6 ,R7 を変化して見ます。音は非常に澄んで聞こえ
ます。昼間,東京,大阪,仙台を完全に受信する事が出来ました。東京は四
球で IK を受信してスピーカーに入れて少し音を落した程度です。仙台は非
常に大きく,大阪は大分音が小さくなります。熊本はコンデションの良好な
場合スピーカーを一間位離れて聞き取れた事が五,六回ありましたが,入梅
期後は駄目です。此の昼間の受信成績は IK の中継用受信機を除いては恐ら
く北海道一だらうと思つて居ます。冬季間は国内全部の放送を昼間受信可能
と信じて居ります。…(後略)…
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る
(1929 年頃)
アメリカにおいてエリミネーターが市場に現われたのは
1922 年頃であった。当時の受信機は主として受話器使用の
単球再生式であり,放送局は小電力で数も少なかったから
受信機の感度を十分取る必要があり,エリミネーターの設計も困難であったら
しい。
サーキットは第 91 図に示すように冷陰
極の整流管を使用し,平滑コンデンサは
電解であったが,今日の電解コンデンサと
は月とスッポンほどの違いがあった。A
電源も B 電源より抵抗で落して使用した。
第 91 図
この A,B エリミネーターは故障続出
して実用には遠く,ジャンクの山をきず
いたという話が伝わつている。
第 92 図に示す広告は「AIEE」誌 1926
年 2 月号の裏表紙に掲載されたもので,当
時のエリミネーターの形状をよく現わし
ている 1) ,一方,日本においてエリミネー
ターが問題になり出したのは 1929 年頃か
らである。「無線と実験」1929 年(昭和 4
年)1 月号にはつぎのような記事が掲載
されている。筆者名は K 生となっている。
AC セットの将来
第 92 図
本誌が創刊号を出した大正十三年の五月頃,既に中野の陸軍通信学校では
1) この整流管はたとえば
レーセオン
B型
〃
BH 型
〃
BA 型
であった。
AC 入力
〃
〃
275V
350V
350V
DC 出力
〃
〃
130∼150V
150∼250V
150∼250V
60mA
125mA
350mA
103
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
すこぶ
AC を電源とする受信機を研究試作して居つた。今から考へると 頗 る容易な
事柄のやうに見えるが,当時放送局も無い日本の状態で,此の種の研究を進
やはり
めてゐたと云ふのは誠に奇とすべきである。矢張其の頃,今三田無線をやつ
てゐる茨木氏は,そのアメリカ帰りのフレッシュな頭で,DC 電源を交流か
ねつでんつい
ら得る方法として,熱電堆による熱電流の利用法を考案し,電灯線の AC で
ねつでんつい
あたか
ヒーターを熱して之で熱電堆を働かさうとしたが,当時和製の球は, 恰 も
ごと
ほと
くら
ねつでんつい
お
自動車のヘッドライトの如く殆んど一アンペアも喰ふので,熱電堆は惜しい
かな
哉不成功であつた。三田無線のバタリー〔バッテリー〕レスは其の頃から研
究を始めて居たものであつた。「無線と実験」に初めて AB 電池の代りに AC
電源を使用する方法を掲載されたのは,たしか谷村功氏のが最初であらうと
思ふ。同氏のは本誌第二巻の第三,四号,即ち大正十四年の一月号及二月号
に出ているが,当時余り世人が注意しなかつたのは不思議な事であつた。我
が国で A エリミネーター及び B エリミネーターを初めて売出したのは,多分
「ラジオバッター」といふ名称で,東京精電機が売出したのが最初であらう。
A も B も交流で働くといふので甚だ便利であつたが,地方へ持つて行くと雑
音がひどくて実用にならぬといふのが,当時の一大欠点であった…(中略)…
現在我国で実用している AC セット,
すべ
即ち AB エリミネーター付受信機は,凡
て交流音と訳されているハムを持つて
いて,吾人の耳には雑音に聞こえるが,
ラヂオ商では,雑音ではない,ハムであ
ると威張つている。そのゴーと聞こえ
第 93 図 るハムが,遠方の局を受ける場合は随
分邪魔になる。つまり現代に於ても AC セットは近い放送局,最大二,三百
マイル以下にのみ実用されるが,それ以上の遠方の局を受けるのには甚だそ
しか
ど
のハム公が邪魔になる。然らば将来の AC セットは何うなるか。之から本文
なのである。
RCA では二二六,二二七といふ交流専用の球を作つた。又最近は二二四
といふスクリンドヴァルブの交流用球を作つた。現時アメリカでは,ニュー
トロでもスーパーでも皆是等の交流球を用ひてゐる。
104
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
もっと
ねつでんつい
尤 もこのヒーター型の球の話は前に記した熱電堆応用の当時から,アメリ
カの各ラボラトリの噂話に聞かされてはあつたのであるが。…(中略)…故
い か
い
か
に将来の AC セットは如何なる土地に普及するか,放送局を中心として,如何
なる範囲に限定せられるかといふことも考慮の中に入れて置くことが必要で
すこぶ
ある。かう考へて来ると,将来の AC セットは, 頗 る高級のものに進んで行
く傾向があるので,現在クリスタルセットで聞いてゐる程度の処は,将来と
いへども現在の AC セット以上を望まぬであらう。将来の AC セットが,一
定範囲内のブル〔ジョア〕階級により多くの可能性があるといふことは,云ひ
かへれば将来の AC セットは,現在の高級セット六球以上の需要程度ではな
ただ
からうか。但し,現在 AC セットでハムを聞かされてゐる者も,三年も経て
ば大概はハムに聞き飽きるであらうから,其の後の AC セットは,相当高級
品でも需要が多くなるであらう。又其頃になれば,AC 用六球スーパー附属
品付で百円内外で出来る時代も出現するであらうから,さうなればスーパー
(ママ)
しか
様様も,付で,二球や三球のセットは,子供の玩具となることであらう。然
し,之がともすると現在でさヘセットは電池用の方へ大いに発展しやうとし
ごと
ている。それは四極管や五極管の出現であるが,他方又フヰリップスの如く
極少量の電流で働く球もあるので,今後の電池用セット発達の前途も大いに
有望なわけである。…(後略)…
当時第 94 図に示すように 201A の G と P を結んで整
流管に使用するという特許があり,メーカー間では大
さわぎを演じたが,われわれアマチュアにはまったく
無関係であった。しかし 201A の整流管は,ライフが短
かく内部抵抗も多く効率はきわめて不良であった。第
95 図は米国クロスレー(CROSLEY)会社の 5 球式直
流受信機に付加したエリミネーターである。
回路は第 91 図に似たもので,真空管のフィラメント
は直列にして加熱した。
一方,第 96 図に示すように 1928 年 12 月に 226 が売
り出されたが,227 は舶来品のみで価格も高くアマチュ
アには入手困難であった。窮した方法として 201A また
第 94 図 105
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
第 95 図
第 96 図
は 226 のプレート検波が試みられた。グリッドバイアスを深くして,フィラメン
トの交流点火の影響を少なくしようとしたのであるが,やはりハムは取り切れず
実用的でなかった。第 97 図,第 98 図は「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)1 月
号に掲載されたものである。
このような事情で 227 が十分市場に現われるまでは,201A または 226 の鉱石検
波 2 球レフレックスが全盛をきわめた。
第 97 図
第 98 図
106
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
ラジオといえば 2 球レフの時代がしばらくの間つづいたのであった。一例とし
て「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)2 月号につぎのような製作記事が掲載され
ている。筆者は丸山恭正氏である。
家庭向 交流受信機の作リ方
ばんきん
…前略…◇家庭向受信機の特徴 輓近,電燈設備は益々発達し全国津々浦々
いわ
の小村迄,光の恵みを与へて居るのであります。況んや昼夜電燈の用ひらる
ゝ各都市に於ては,ラヂオ受信機の A,B,C 電池の代用として之を用ふるは,
経済的見地より観て当然の帰結でありませう。又従来の電池を用ふる方法に
ま
すこぶ
於ては,先づ蓄電池の充電がかなり厄介であり,B 乾電池の消耗にも 頗 る弱
ばか
も
らせらるゝ許りでなく,若し稀硫酸を畳や衣服にこぼしますると,何時の間
にか大穴が出来ると云ふ様な蓄電池による損害も亦考へなければならないの
であります。更に B 乾電池に至つては製品の良否等外観ではなかなか判断し
難く,従つて甚だしい不良品になりますと,僅か半月位使用している内にガ
ラガラといふ雑音が遠慮なく拡声機より洩れて,素人の方には大故障が起っ
すく
あにはか
たのではあるまいかと尠なからず心配せらるゝ方もありますが,豈計らんや
かえすがえす
之は B 乾電池の急激に消耗しつゝある事が其の原因であつたなど, 却 々 一
かよう
通りの苦労ではありません。斯様に考へて参りますと,一般家庭用としては
さしつかえ
断然「エリミネーター式に限る」と断定して 差 支 へありますまい。
◇組立上の回路選定 「エリミネーター」受信機と云ひましても,其回路
に幾通りもありますが,今回述べまするのは始めて手を染めらるゝ方にでも
比較的容易に製作も出来,又相当遠距離用としての目的にも叶ひ,或は近距
第 99 図 第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
107
離の場合,小さいアンテナを用ひて聴取の出来る様な装置として最も代表的
な回路高周波一段,クリスタル検波,レフレックスによる低周波一段及低周
波二段増幅エリミネーターを推した次第であります。
◇使用部分品は良品を選べ 回路は決定しましたが,使用部分品が悪いも
のでありますと,折角の組立上の努力も水泡に帰する事がありますから充分
注意すべきであります。左に本機組立に要する全部の部分品及材料を示しま
せう。
木箱 一段箱の場合……奥行の深いもの
(イ) 二段箱の場合……下部電源の楽に這入るもの
(ロ) エボナイトパネル二枚(本機にはラクトロイドと称するものを用ひた
が絶縁も良く体裁も優美であった)
(ハ) 底板 二枚
インチ
(二) コイル 三 吋 半スパイダーコイル枠 二枚
インチ
二 吋 半スパイダーコイル枠 三枚
BS 二十四番二重絹巻線四〇米,立金具一個,
(ホ) バリコン 大型十三枚のもの二個
(へ) ダイヤル 二個
(ト) クリスタル 固定鉱石 一個
(チ) ソケット ベークライト製 UX ソケット 三個
(リ) トランス 一対五,一対三,オーデオトランス 各一個(ミツワ電気
ゴールウヰング)
(ヌ) チョークコイル 三十ヘンリー低周波チョークコイル 一個(屋井の
ブリウバンド)
(ル) ポテンションメーター 六オーム 一個
(ヲ) レオスタット 二十オーム抵抗器 一個
(ワ) 単式ジャック 一個
(カ) 電源変圧器 二二六用 一個(放電コンパニー製 TKS)
108
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
(ヨ) バイパスコンデンサー 二マイクロコンデンサー 二個(之は良品で
あること TKS)
(タ) 配線用銅線 若干
(レ) 電灯用コード 六尺,細コード 二尺,外にアダチン 一個,中間ス
ヰッチ 一個
(ツ) 外にコイル取付具,其他
◇組立上の注意 パネル面に出して調整
だけ
やす
する部分は出来得る丈,少なくして扱ひ易
く為すべきであります。一般に二個のダイ
ヤル,整流球のレオツマミ,ポテンショメー
ター,並に増幅用レオスタット等,全部で
五ツ程調整個所がありますが,之は外観は
立派であるが,実際上少し繁雑の嫌ひがあ
ります。依つてダイヤル二個,表示燈一個,
整流球のレオ〔スタット〕一個とをパネル
に出して六オームポテンショは内部に入れ,
増幅用レオ〔レオスタット〕は省略しても
よろ
宜しい。以上でパネルの配置を終り,次に
内部の配置に移りませう。図で見る様に第
一高周波コイルと第二高周波コイルは直角
か
だけ
第 100 図 に置き,且つ出来る丈,両側に離す方が結
果が良く,低周波トランスは接近して配置せねばならぬ場合は之れ亦,直角
の位置に置くべきであります 1) 。…(中略)…
ごと
◇セット及電源の接続及調節 上部の如く順序正しく,セットと電源部の
なお
製作を完了しましたなら,配線図に依つて尚一応間違なきやを調べました後,
二二六 F 用コードを PT の二次一・五 V へ,RF 管用のコードを PT 二次五 V
へ,三〇ヘンリーチョークコイルの他端 B+ を T2 の B へ,六オームポテ〔ン
ショ〕のスライダー金具を C+ に結んで箱に納めずに試験に取りかかります。
それぞれ
アンテナ,アース,高声器,真空管等々必要品を夫々接続又は挿入した後,
1) 著者注。本機は受信部と電源部が別々になっている。
109
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
いよいよ
電灯の中間スヰッチを入れ,愈々セットを動作状態とします。高声器より
ブーンと云ふ声が出ましたなら,電源部のポテンショメーターを徐々に移動
ほと
さして殆んど交流音の聞こえぬ様に致します。次にセットのチックラーコイ
ルを L1 に平行の状態に置き,C1 ,C2 を動かして放送波長に合せ,整流レオ
〔スタット〕を次第に入れて行けばブルブルと云ふ自己振動を発生し,受話
そ
こ
音が甚だしい不明瞭になります。其処で L3 コイルを L2 コイルに対して次第
すなわち
に直角になる様に左右何れかに回転して行きますと, 即 結合を減じて行き
ますと,V1 のグリッドに感ずる交流のハムを完全に消して,清澄な受話音が
そ
もちろん
高声器より流れ出す筈であります。夫の点で立金具の足を固定します。勿論
二つのバリコンを動かして自己振動を起す様でしたら,更に L3 コイルを調
整する必要があります。此の調整は極めて微細でありますが,ニュートロド
しか
よろ
ンの調整よりは容易で然も能率が宜しい。
◇実験と効果 此の受信機は交流によるハムは更にない。検波が鉱石であ
すこぶ
る為め音質が良く,本所国技館の附近横網町に於ては仙台と大阪は 頗 る明
なお
瞭に入り,尚浅草三筋町に於て実験の際は,アンテナを試験的に電灯線を利
用して見た結果はより以上の効果を得ましたが,我国に於てはアンテナを電
か
灯線より採る事は禁じられておりますから,御注意願ひたく,且つ本記事は
製作本位でありますから理論は省きました。…(後略)…
当時の電灯線アンテナというのは,セットのアンテナ端子と AC ラインとを
0.00025µF 位のコンデンサで接続することであった。アースをアンテナ端子に接
続してパワートランスの容量を利用する方法は,なんら問題なく行なわれていた。
このように 226 は世に出たが,227 についてはなお多くの問題があった。
つぎに示すのは「無線と実験」1929 年(昭和 4 年)7 月号の余白に掲載された
記事である。
音質問題と国産品 ダイナミックスピーカーやピックアップには,国産品で
も優良なものが次第に出来て来たが,肝心のヴァルブの方は一七一 A こそ相
ようや
当なものが 漸 く出来て来たが,二五〇,二八〇,二八一等はどうも怪しい
ど こ
もののみである。又二二七は市場にチョイチョイ見受けるが,何処の製品か
なさけな
明記なく,二〇一 A の箱へ入れて売出してゐるといふ情無い状態である。し
か
ごと
かも斯くの如き新しい球がどしどし和製品で得られるといふことは,我々の
110
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
ごと
もうけ
希望ではあるに違ひないが,現在の如く単に 儲 が多いからといふので怪し
げな球を売出されることは,誠に寒心に耐えない。
この頃より受信用パワー管のニュースが次第に海外より伝わってきた。すなわ
ち第 102 図のように UX112A,また UX171A についで,第 103 図に示すように
UX210(後の UX202A)が現われた。この球は送信用としては長期間使用された
第 101 図
第 103 図
第 104 図
第 102 図
第 105 図
111
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
が,受信用としては間もなくつぎに現われた UX245 に席をゆずったのであった。
1929 年(昭和 4 年)後期の「無線と実験」誌にはつぎのような紹介記事がある
(第 104 図,第 105 図)
。
最終段低周波増幅用 UX 二四五型の出現
ニューヨーク
在 紐 育 山本 仁
最近,ラヂオコーポレーション(RCA)で
は低周の最終段増幅用パワー球の出現を発表
した。この新球は同会社の技師の話によると
ほと
殆んど二一〇球に匹敵する程の出力電力であ
る。…(中略)…
しか
然しこの球は今日この記事を書いてゐるま
でには未だ販売されては居らないが,製造所
からの報によると三月十五日頃ひろく市場に
出るとのことである。日本内地の様に未だ一
般向セットの AC 化されてない所では,この
種の球の出現が余り重要視されないだらうが,
米国の様に AC セットの全盛時代にある所で
第 106 図 は誠に福音とされている。…(後略)…
一方,227 も第 106 図に示すように 1929 年 10 月になってようやく国産品が現
われた。かくして電気で働くラジオ,エリミネーターに移行し,電池とは戦後の
ポータブルまでの間お別れとなったのである。
以下に示す 227 使用の製作記事は「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)10 月号の
読者研究欄に掲載されたものである。筆者は神戸の高橋茂氏である。
交流用 二球セットの製作
か
な
従来可成りの出費に悩まされて来たラヂオセットもエリミネーターの発達
もはや
に依つて最早維持費は問題では無くなつた。受信機の感度やハムの問題も真
なかんずく
空管の改良に依つて解決されつゝ有る。 就 中 検波球として UY 二二七の出
あた
もちろん
現はラヂオセット交流化に一層の確実性を與へたと言つて良い。勿論交流を
以てグリッド検波を行ひ得る様になつた最初の歴史的バルブで有るし,かな
たと
り改良の余地も有る。例へば点火後一,二分もしなければ完全に働かない事,
112
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
しか
価格も国産品は比較的安くなつたが未だ一般的とは云へない事等。併し遠距
離受信も相当良くハムは適当の方法に依れば完全に除き得るから,実用価値
は充分有る。以下検波に二二七,増幅に UX 二二六を用ひた二球セットの実
験記ですが,初作者のヒントともなり得れば幸ひです。部分品はなるべく自
作すると言ふ私の主義? 実は財布の容量不足の為めも有りますが,是等自
作品にて充分能率良く安全に働いてゐる事も付言して置きます。主要部分品
と値段を記すと,…(中略)…
V1 UY 二二七
サイモトロン
V2
UX 二二六
V5 UX 二〇一 A
…(中略)…
二円九〇銭
同
一円八〇銭
同
九〇銭
◇整流回路 整流球として持合せ
の二〇一 A を使つてゐる。此のヒラ
メントに十二オームの抵抗を入れて
半分位抵抗を抜いた所で良く働く。二
〇一 A を整流に使用する事は寿命が
しか
短いと言はれてゐるが,併しレオ〔ス
さしつかえ
タット〕を入れて能率上 差 支 ない範
囲の最小輝度で働かせてゐれば,実
用にならぬ程短命でも無いと思ふの
こと
で有る。殊に値段は一一二 A の約半
分で有るから,二球程度なら之で充
ろ は
分である。此の整流回路及び濾波回
やす
路は故障が起り易く,特にシールド
板を張つたセットでは短絡の機会が
多いので,整流球のプレート回路中
にサーキットブレーカーとして豆球
を挿入して置けば短絡した場合,豆
第 107 図 球が切れて回路を断つから,チョー
ク及びパワートランスは安全である。
ろ は
ろ は
◇濾波回路 濾波用チョークは三〇ヘンリーで安全電流二〇ミリアンペア
113
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
のもので良い。一次線の断線した低周波トランスの二次線でも代用出来る
こと
が,二球以上の殊にパワー球を用ひたセットには使用出来ぬものが多い。こ
ろ は
のチョークと並用する濾波コンデンサーは二マイクロを二個用ひる。私はコ
ンドルチョークにウェゴー,二マイクロを二個用ひて良好な成績を得ている。
◇受信部 受信機の回路は容量再生の二球式で能率確実,失敗率の少い回
路である。レフレックスにするのも面白いと思ふが同一底板上に組立てる場
合ハム防止は一層困難になる。近頃はワンコントロールの流行であり,遠距
離受信もさほど悪くないから,此の回路は一般向でせう。
ま
インチ
◇自作部分品 先づチウニングコイル L1 は三 吋 ボビンに二十八番線を七
十回捲き,八回目と十五回目にアンテナタップを出す。八回目のタップは主
として内地局の分離受信に用ひ,十五回目のタップは遠距離受信用とした。
アンテナの大きさは六十尺位のなるべく屋外アンテナを使用する。電燈線を
アンテナに代用することは,処に依つて違ふが多くの場合余り成績は良くな
インチ
い。再生コイルは二 吋 半ボビンに同線三十回前後が適当である。
ハムバランサーは二二六に六オーム,二二七に三〇オームで不用レオ〔ス
タット〕が有れば少し作り変へれば代用出来る。作り方は抵抗線を捲いた
だ
ファイバー丈けを分解取出して,中間に弾力有る金属片を二つに折つてはさ
めば良い。又レオ〔スタット〕の無い時は二二六用として BS 三十番鉄線を三
センチ
分×一寸五分のファイバーに約三 糎 の間を置いて捲き,両端に L 型金具を
ボルトで締めて中央に金具を付ける。二二七用としては二寸の長さに三十三
番鉄線を前同様に捲いて作る、図は二二七用ハムバランサーをソケットに取
付けた図である。R2 ,R3 の各抵抗はいづれも鉛筆の心を電気抵抗として利
用したもので,簡単に自作使用できるから御実験下さい。R2 の抵抗は B 増幅
電圧から二二七の検波電圧四十五ボルト前後を得る為の電圧降下用として使
用します。鉛筆線の太さ二分位とし適当の長さは鉛筆の質(鉛含有量)に依
つて変るから,小型レバースイッチに依つて此の抵抗値を種々変化出来る様
ごと
なお
にしたのが図の如きものです。尚,此の抵抗をバリヤブルにしたのは,遠距
離受信の際に検波電圧を下げて,再生をなめらかに起させるためですが,此
の検波電圧はパネル面に出している整流球用のレオ〔スタット〕に依つても
ね
じ
相当加減出来るから,適当な抵抗値のものを固定してもよいし,又捻子の締
め加減に依つて抵抗値を変へることも出来る。諸君の便利な様工夫して下さ
114
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
い。次に R3 は C 電池の代用抵抗で約八百オーム,作り方は HB 位の鉛筆の
心約一寸位サンドペーパーで粉にして,之に五,六滴の極く薄いアラビヤゴ
ムの溶液を加へてよく練り,是を一寸五分×三寸位の画用紙の両面へまだら
ごと
にならぬ様よく塗つて乾かして置く。乾いてから図の如く横に五,六回折っ
て両端の適当の処をボールトで緊めれば良いので有る。之も鉛筆に依つて抵
抗値が変るから,一方の穴を空ける前に受信音を聞きながら導線を抵抗の処
にあてゝ見て,音質音量の最も良い処を選び固定すればよい。
◇組立 組立は図を見ていただけば説明する迄も無いと思ひますが,以下
二,三の事を注意して組立てる事は必要です。
一,二二六,二二七のヒラメント線は相当強電流が通る為,余り細い配線
では抵抗となり又熱を生じ配線の被覆を焼くから,十四番位の銅線に充分絶
縁率の高い被覆(エムパイヤチューブ等は最も良い)をかぶせ,又是をより
合せて配線することはハム防止の一助ともなります。私はパワートランスの
捲線の端を長く出し,之に綿被覆をしてそのまま配線しました。
ごと
二,右の如き交流の通ずる配線又は部分品等は,各段のグリッド側へは絶
たと
対に近づけぬ様にする事。例へば交流用配線がグリッド側配線に一寸以下で
並行してゐる時は甚だしいハム音を生じるから,この時は並行せぬ様にする
か,なるべくは二寸以上離す様にする。最も良いのはヒラメント配線はシー
ルドせる底板の下を通す事である。
も
三,若し相当広い底板を使用して居る場合には,電源変圧器又は交流回路
しか
インチ
よりの誘導に依るハムは余程少くなる。併し十五六 吋 以下の底板に組立様
とすれば,種々のハム防止法を行はなければ耳障りなハム音に悩まされる
事になる。で私は底板に一枚の銅板を張り,是で配線を楽にし,底板は十八
インチ
たと
吋 以上を用ひる様お勧めする。是なれば唯一般的な注意(例へばパワート
ランスとオーヂオトランスをなるべく離して直角に置くとか,各トランスの
カバーをアースするとか,又ハムバランサーの調整等でハム音を全然なくす
もっと
る事は容易で有る。 尤 もパワートランスの不良とかフィルター回路の不適
当,整流球の不良等,部分品の為に生じるハムは他を調整しても消えない事
もちろん
勿論で,ハム発生個所の見付方は本誌六月号石川氏の記事を御覧下さい。
もちろん
四,配線は勿論,各部分品の電気回路の露出した部分や短絡を起す危険の
有る処は充分絶縁して置く様にする。
115
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
五,シールド板に導線ハンダ付後,此の上へ更に薄いセルロイド板を一枚
置いて,此の上に組立てる様にすれば,シールドの効果に変りなく危険もな
く体裁も良いから一挙三得である。
六,此のセットでは二二六,二個用を一個で使用してゐるので,過電圧を
除く為に固定抵抗を入れて使用してゐる。…(中略)…
◇調整 全部の組立が終れば良く調べて回路の短絡した所や,配線の間違
ま
ひが無ければ先づ整流球のみをはめてスヰッチを入れて見ます。此の時パ
しばら
ワートランスが 暫 くすると熱くなつて来る時は,電源回路の短絡か,配線
たびたび
の間違ひかで無ければ,パワートランスの不良です。こんな事を度々繰り返
すとパワートランスの絶縁が駄目になりますから,直ぐスヰッチを切つて回
路を調べます。パワートランスは三,四時間位連続使用しても,極く僅か暖
まるか暖まらない位の程度で無ければ良品とは云へません。
さて配線に間違が無く整流球がレオ〔スタット〕に依つて輝度を加減し得れ
か
な
ば,次に二・五ボルト豆球を二二七のソケット F の両端につけて見る。可成
り明るくともれば良い。次に豆球を二二六のソケットに同様つけて見る。こ
やはり
の時はづつと暗いが矢張り点火する。此のテストは安心の為にやるので,線
間短絡によるボルトの狂い等は豆球の光り方で大体分る。ボルトメーターさ
へ有れば,自作パワートランスの各端子電圧をあらかじめ計つて置けば,こ
んな心配は要らない訳ですが。
いよいよ
さて以上のテストが終れば各バルブを全部ソケットに入れて愈々受信に移
る。パルブを入れる時は必ずスヰッチを切つて置く事。アンテナアースをつ
しばら
だ
けてスヰッチを入れ, 暫 くすると二二七のヒラメントの頭丈け点火しブー
ンと言ふ交流音が受話器に感じる。此の時二二六用六オームハムバランサー
の中間タップを左右に調整して見るとハム音はづつと減少する。同様にして
二二七の三十オームハムバランサーをも調整すれば,注意して組立てられた
ほと
セットなればハム音は殆んど,或は全然聞こえなくなるので有るが,此の時
未だ幾分ハムが残つてゐれば前記のハム防止法や,其の他種々の調整をやる
必要が有る。
ハムの原因を書いて見ると
一,パワートランスのカバーの無い時,又は鉄心をアースしてない時,是
の受信部への磁気誘導に依つて生ず。
116
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
二,パワートランスとフィルターチョーク,オーヂオトランス等が余り接
近している時,又捲線の角度不良の時。
三,各トランス又はチョークのカバーをアースしてない時。
四,フィルター回路のチョーク,コンデンサーの値が不適当な場合。
五,電圧ドロップ用ハイレジスタンス(R2 )の抵抗値不適当の場合,及び
之と併用するコンデンサーの容量不足。
六,C 電池代用抵抗値の不適当,及び是のバイパスコンの容量不足。
七,交流回路とアンテナ線又はグリッド回路等の接近。
八,アース不完全。
等が主なものである。
又電源部と受信部との間に銅板を立てゝ之をシールドすればハム防止に一
層の効果が有る。此の時はシールド板にヒラメント線及び B+ を通す三つの
あ
穴を空けて,線が銅板に触れる部分は特に良く絶縁する。声のふるへる時に
はグリッドリークの値を変へて,整流球のレオ〔スタット〕を調整して見る。
其の他 R2 ,R3 の抵抗値が余り不適な時や,二二六,二二七のヒラメント熱
こ
ほと
度の足らぬ時も声がふるへる。斯う云ふ状態では遠距離受信は殆んど不可能
である。…(後略)…
エリミネーター時代となるやアマチュア局の姿も大分変わってきた。当時の代
表的の一例として「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)2 月号に,アマチュアステー
ション巡礼其の二,J1DM 局見聞記が掲載されている。筆者は石井富好氏である。
…(前略)…実験台上に直ぐ見えるパネ
ルの白いセットは SG 球(サイモトロン
UX 二二二),及び UX 二〇一 A を使用
した三球受信機で非常に良く出来て居
か
る(且つて QST 誌に発表されたもので,
第 109 図が其れの大略の配線)
,パネル
はボディ・キャパシティを防ぐやうに厚
いニューム板で作られ,バーニヤダイヤ
第 108 図 ルは,米国のスカッシュ製を使用して居るので実に FB である。二二二は後
ごと
から附加されたもので御覧の如く明けつ放しである。此れをモット完全に組
117
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
替られたなら,現在よりモット DX が効く様になるであらうと思はれる。現
在南米チリ,ハワイ等と QSO して居る。
ごと
第三図(第 109 図)で御解りの如く
高周波一段,検波,低周波一段で,ア
ンテナ回路は一万オームのバリヤブル
レジスタンスでコントロールして居る
(第 108 図 SG 球の後ろに見えるのがそ
れ)
,セットの前に置いてあるのは,第
三図(第 109 図)中 L1 ,L2 用のコイル
(検波 P から出て居るのが L2 )
。…(中
略)…UX チューブの古ベースを利用
して各波長帯に応じて変更出来る様に
設計されてある。御参考までに其の回
数をお知らせすると一〇 m バンドの場
合 L1 三回,L2 五回,二〇 m バンドの
場合 L1 四回半,L2 五回,四〇 m バン
ドの場合 L1 一四回,L2 六回,八〇 m
の場合 L1 二八回 L2 八回で一〇,二〇,
四〇 m バンド用は各々二四番の DCC,
第 109 図 八〇 m バンド用は二八番 DCC を使用されて居る。其の後ろに,見える箱は
SW 用波長計でキャリブレートは側面に貼つてある。一寸写真が暗いので明
瞭に見えぬが,時計の右にアメリカン・タイプのキー(写真には逓信型が出
て居るが,実際使用されて居るのは前記のものです)及,氏独特の考案に依る
外的振動を除ける様設計されたホールダーを持ったマイクロホーン(ソリッ
トバック)が置かれてある。…(中略)…
写真第二はトランスミッターの主要部で,第四図(第 109 図)で御解りの
ごと
如く TGTP システムである。球はオッシレーターがサイモトロン UX 二〇
二,モヂューレーターにはラヂオトロン UX 二一〇を使用し,アンプリファ
イヤーにはフィリップス F 二一五(UY 型)を一本使用して居る。コイルに
インチ
インチ
は 1/4 吋 位の銅パイプを三 吋 半に八回に四回,プレートに四回捲いてある。
メーターは左アンテナミリメーター,右オッシレーターのアノードミリメー
118
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
ターである。コンデンサーはギルフランかゲーリストロングの様に見受けら
れる。セットの両側に見えるスタンド,オッフ,インシュレーターはラック
スの大型の方であらう。上には検定証が額縁の中に納つて居る。モジュレー
ター及アンプリファイヤーは写真第一の一番右側に見えるメーターの附い
たセットが其れで,メーターは UX 二一〇のアノードカーレントを見るミリ
メーターである。モヂュ〔レータ〕用のチョーク及アンプリファイヤー用の
トランスはテストラン・スペシャルを使用されて居る。
それ等の AB サープライは実験台(写真第一図)の下にキチント配置され
て居る。B は化学整流で一〇本程のガラス槽が並んで居る。其の前にネオン
ランプがあるが,此れはキークリックを防禦する為ヒルターチョークにパラ
レルに入れてある。又中央のコントロールパネルは左から AC,一〇〇 V 電
源用のボルトメーター,AC ラインスイッチ、AC 電源用アンメーター,両ヒ
ラメント用スイッチ,ヒラメント用ボルトメーターの順に配置され,各部に
供給遮断するのである。…(後略)…
10 ワット以上の電力は許可にならなかっ
たから,このような構成がだいだい当時の
標準型であった。水晶発振子が使用される
ようになったのはずっと後のことである。
もちろん中には検定用とは別に大電力機を
持っているものもあったことは今日と同様
であった。
当時はアマチュア無線局の数も少なく,
1931 年(昭和 6 年)2 月 28 日において 120
局であったが,「無線と実験」はしばしば
短波特輯を行なった。第 110 図は 1930 年
(昭和 5 年)1 月号の表紙である。
さて,エリミネーターの章をおわるに当っ
てつぎのような先覚者の文を示したい。
これは「無線と実験」1931 年(昭和 6 年)
第 110 図 8 月号掲載の「エリミネーターの或る考察」という題名のもので筆者は由馬麻児
119
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
人氏となっている。
発明待望の秋 尨大なキャビネット,そして A 蓄電池,B 乾電池群,充電
器,高声器,更にアンテナとそしてアース,これはかつてラヂオそのものゝ
もつてゐなければならない重要な資格であつた。果然エリミネーターが,抬
頭してラヂオの陣容は一変した。セット,そしてスピーカー,ただそれだけ。
否キャビネットたゞ一つ。それで完全なのである。従来重い AB 電池を持歩
いたポータブルでさへ,スマートなエリミネーターに変つた。いやそれのみ
ではない,場合によつてはそれが電気蓄音機をさへ兼ねるのである。かくて
交流用の各種真空管,部分品等は,めまぐるしい程多種多様に上り,ラヂオ
市場に満ち満ちて来たのである。
だが静かに考へてみるなれば,そこにどれだけの進歩があり,どのような
発見がある事か。それらは僅かに或る一点の周囲を廻転してゐるのみではな
いであらうか。たゞ単なる誤魔化しにすぎないのではないであらうか。自己
催眠的停滞ではないか。
ダイナミックコーンは一九二四年頃のものに比べて構造上どれだけ進歩し
ているか,フォノグラフピックアップは,当時コンデンサーマイクロホンの
原理を応用したものさへあつたではないか。AC 球,オキサイドフィラメン
もちろん
(ママ)
ト,勿論ウェスターンなどは発 信 球にさヘフンダンにオキサイドフィラメ
ントを使つてゐた。傍熱球もセコ 1) であつたか AC 球があつた。
SG 球などは,欧州ではテトロードの名の下に盛んに研究されてをつた。二
八○は二一三の変化だ。二八一は二一六 B の変つたものだ。ロフティンホワ
イトはダイレクトカップリング,又はバッテリーカップリングの名で研究さ
れていた。フィルムトーキーもあつた。無線操縦もあつた。テレビジョンも
あつた。そしてそれ等はその後どれだけ進歩しているといふのだ。
是等の例の一つ一つをとつてみてもわかるやうに,或るものが商品として,
精練さは加へられて来てゐるかも知れないけれども,原理として構造として
そこにどれだけの進歩をみる事が出来やう。
すばらしい変転だ,べらぼうな進歩だと思つてゐるのは自らを欺くもので
しか
ある。自己催眠である。盲目である。より以上の飛躍があつて然るべきでは
1) 著者注。CECO。アメリカの商品名。
120
第 7 章 エリミネーター(交流化)時代来る(1929 年頃)
ないか。真に素晴しい発明発見があるべきの時ではないか。ありふれた受信
機に千金の賞をかけてそれが何になる。せめて太平洋横断飛行 1) 程の少くも
それに近い程の大きい刺激を欲するのである。
しか
然らば自分はこゝにロケットで,月世界に行く程の発明でも発表しやうと
いふのか,と反問されるかも知れない。さうありたい。せめて半分でもさう
ふしょう
ありたいけれども,不肖浅学非才にしてとてもそんな野心は毛頭ない。
ねが
希はくば読者諸君,毎月の本誌にたとヘ一頁半頁づつでもよい,真に目の
ひょうせつ
覚めるやうな研究を発表して貰へないものであらうか。翻訳と 剽 窃 とのみ
で原稿料稼ぎを目的として来た読者諸君の先輩に非は充分にあらう。しか
し強いてそれを真似る必要は更に無いのである。進め,自由の旗の下に。…
(中略)…最後にもしもコールドカソード管が作られるとか,或ひは極めて
小型に何か知らエネルギーの蓄積製置が考出されたならば,恐らく現在の真
空管の用途が激減するであらう。そして AB 電池もエリミネーターも,或ひ
は真空管までが完全にエリミネート〔消去〕されて,ラヂオ戦線に異状の来
る日もさのみ遠くはあるまい。小型の置時計くらゐの中に,アンテナ相当物
から発声器まですつかり入ってゐるものが作られないとは誰が断言出来よう。
今の固定鉱石か水晶片くらゐのもので,強力発振装置が出来て,それらが
自動的に働いて幾多の月給浪費者達が失業する,そんな日がやがて我々の前
に展開されるであらう。
だが安心するがよい。代議士は我党のために日比谷座に乱闘し 2) ,市会
議員は大名旅行のために歳費を乱用し,学者は研究者の不足をかこつて自
殺する。かくて新しい発明も発見も何物も現はれては来ないのである。…
(後略)…
念のためにふたたびいう。これは 1961 年の論文ではないのである。1931 年に
書かれたものなのである。
1) 〔編者註〕1927 年のリンドバークによる大西洋無着陸横断飛行を念頭に置いた発言か。
2) 著者注。当時衆議院は日比谷にあった。
第 8 章 テスターと音響機器
(1930 年頃)
その頃の電圧測定は第 111 図のようなメーター
が使用された。可動鉄片型で内部抵抗はボルト当
たり 10Ω 程度で,動作電流は B 電圧を測ると 200mA
くらい流れたから,A,B ともに蓄電池のうちはよ
かったがエリミネーターとなるやまったく使用で
きなくなった。当時の読者投稿の中につぎのような記事がある。
……バイアスでも測定しやうと二五 V の直流電圧
計(時計型で卸値五十五銭でした)を買つて来まし
まさ
た。所がこの抵抗正に二〇〇オーム,電流計に使
用した方が良ささうですから校正表を作りました。
第五図(第 112 図)の様な素晴しい? カーブが出
来上りました。早速セットのマイナス側に入れて
測定しますと一五 V を指します。即ち七五 MA で
す。…(中略)…安メーターですから校正表無しで
は使用出来まいとは思つて居ましたが,電圧計が電
流計にならうとは思ひませんでした。…(後略)…
第 111 図 B 電源の良否はドライバーで出力側をショートし,“パ
チン” と音がして火花が出れば OK というのが当時の鑑
定法であった,また交流 100V 用のネオンランプも便利
であった。これは交流の場合はスパイラルの両側が点
火し,直流の場合は片側が点火した。なれれば光度か
ら大体の電圧を推定することもでき,導通テスターに
もなった。
つぎに示す記事は「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)
第 112 図 2 月号掲載の「B パワーサプライを設計する」の一部分で,筆者は柱白人氏である。
122
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
…(前略)…「えゝ,それはあります。がその通りに組立てるのが不安なの
です。真空管に一体何ボルトの電圧が加はつているのか判らないし――,何
でも B エリミ〔ネーター〕の電圧は特殊な高抵抗のボルトメーターでないと
測定出来なく,そのメーターは安くない上に,放送局の相談部にも無いとい
ふ話ではありませんか……」
これは技術者とアマチュアの対話である。また同記事のおわりに,
……出来上つたパワーサプライの電圧測定が出来るなら誠に申し分ないこと
ごと
です。前記一アマチュア氏も云はれた如く,B エリミ〔ネーター〕の電圧は
普通のボルトメーターで測定することは出来ません。一千オーム,パーヴォ
ルト〔Ω/V〕位の高抵抗を有する特殊のボルトメーターを必要といたします。
東京の方なれば,次のやうなところへお持ちになれば安価で測定して頂けま
せう。
無線と実験社研究部,屋井ラヂオ研究所
ブル〔ジョア〕の方で,B エリミ〔ネーター〕測定用ボルトメーターを一個
手もとに置かうと御考へのアマチュア氏の為,品名,価格を次に記しませう。
ウェストン・ジヴェルは輸入されてゐます。申すまでもなく内部抵抗は大
きいほどよろしいのです。
ウェストン四八九 DC
五〇/二五〇ボルト,二重 市価六十五円位(これでは電圧が低くてやゝ
物足りないと思ひます。UX 二八一型の B エリミには使へませんから)
七五〇/二五〇/一〇ボルト 三重 市価九十円位(これなれば申し分あり
ません)
ホイト B エリミ〔ネーター〕用ボルトメーター
ドル
一〇〇/五〇〇ボルト 二重 米定価 二十八弗(アマチュア用として手
頃でせう)
ジヴェル B エリミ〔ネーター〕テスター
五〇/二五〇ボルト 二重 市価 六十円位
二五〇/五〇〇ボルト 二重 市価 八十円位
ウェストン・ホイトは一ボルトにつき一千オーム,ジウェルは一ボルトに
つき八百オームの内部抵抗です。…(後略)…
123
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
果たして何人くらい「無線と実験」研究部に自作セットの B 電圧を測ってもら
いに訪れたであろうか。
つぎに示すのは初期のテスターの製作記事で,「無線と実験」1929 年(昭和 4
年)1 月号に掲載されたもので,筆者は近藤多喜氏である。
セット・テスターの戯作(第 113 図)
随分古くからこの様な記事はありました。古くは昭和二年二月号の「無線
電話」に井上氏,「無線と実験」には山本仁氏の二年八月号,三年八月号と
記憶出来ない位沢山あります。…(中略)…
R3 は十ミリ以上のカーレントを
たと
計るためで,その用法は,例へば十
ミリアンペア迄の目盛のあるもの
なら,八ミリアンペア位進んだら
シャントを応用した方が安全であ
る。シャントを電流計に結ぶ方法
ま
は,先づ十ミリアンペア総目盛の
あるものから五ミリアンペアのプ
レート電流が流れる様に C バイア
スの電圧を加減して,其の電流を一
第 113 図 定にして置いて,次いで抵抗器を並列に結合し電流計の指針が一ミリの目盛
に下るまで抵抗器を加減する。さうすれば今抵抗器を装置した電流計の指針
だ
は実際通じている電流の五分の一丈けの処を指示するから,電流計で読んだ
数字を五倍すれば其の実数が得られる(以上は本誌昭和二年八月号山本仁氏
より)。
な
尚ほ私の考へとしては,このシャントレオスタットは普通のものは時計の
針の進む方向に廻すと抵抗が次第に低くなるものですが,ここに用ひるには
反対廻りに改造した,即ち普通のレオ〔スタット〕の方向に廻したる時は段々
つい
と抵抗が高くなり,終にはオフとなる様に細工をした方が他の(大抵のレオ
〔スタット〕はシリースに入るゝも此処ではパラレルのため)レオ〔スタッ
ト〕との比較上便利な様です。
な
尚ほこのセットの欠点は
124
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
第 114 図
第 115 図
一,グリッドバイアスの七・五 V 以上が測れぬこと。
二,又 B も百五十以下なるため,パワーチューブ〔真空管〕の測定に応用さ
れざること。
三,AC バルブ〔真空管〕のフィラメントを測れず。
四,B エリミネーターはボルトメーターの抵抗(安物)のため測られず。
改良すべき点
ごと
一,C バイアスが + となりたる時も測れる如き装置を附加すること。
二,フィラメントカーレント〔電流〕測定のアンメーターを附加すること。
ただ
但しフィラメントカーレント〔電流〕は知れざるもボルトメーターのみ
にて我慢すべし。
三,グリッド電流測定用の一 MA 又は一・五 MA 位のミリアンメーターを用
ただ
ごと
ひること。但し,目下の処市場にメーター類払底にて,我々如きプロ〔レ
タリア〕ファンの手に入らず。前述の二個のメーターを買ひ入るゝに約
一ケ月の時日を空費したり(ボルトメータ二五円,アンメータ三〇円)。
な
尚ほ私は御承知の通り素人のファンに過ぎません。御遠慮なく御批評御教
導下さいまし。又こんな機械でも御入用の方がありましたらよろこんで御
125
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
もっと
貸し致します。 尤 も私の宅より持ち出すことは御断り致します。それは私
ごと
の如きプロ〔レタリア〕にとっては大問題ですから,そして御使用のお方は
時間の打ち合せのためあらかじめ御葉書下さいませ。B 二百五十ボルト,C
十ボルトは何時でも用意してあります。乱筆多謝(東京市外目黒九八七番地
にて)。
この記事は,ボルトメーターの内部抵抗が不明であるが,B エリミネーターは
測れないといっているから,動作電流は 20mA くらいではないであろうか。そ
れにしても筆者は何故シリース抵抗を増加してレンジを広げなかったのであろ
う。……同誌 1930 年(昭和 5 年)2 月号の記事はだいぶ進んで来ている。メー
ターはウェストン 506 型を使用したと記してある。筆者は大阪の T.K 生氏で,表
題は「バルブ及びセットテスター」となっている。ここには配線図(第 114 図)
と写真(第 115 図)のみを示す。セレンを使って交流電圧が測れるようになった
のは 1935 年頃である。
最後に 1934 年頃の高級テスターを第
116 図に示す。これは附属のプラグを
セットに差込み,テスター本体にバルブ
〔真空管〕をそう入すれば,Ep ,Ip 等が直
ちに測定できるものであった。メタル
チューブのソケットはまだ取り付けら
れていない。塚本電機の製品であった。
このあたりで音響機器をふりかえっ
て見よう。「ラヂオ新聞」1925 年(大正
14 年)12 月 21 日付けに,すでに今日
第 116 図 のステレオを暗示している記事があるのは誠に興味深い。
右左の耳へ違つた波長で一つの音楽を届かす放送
ベルリン
伯林のラ会社が成功した試み
ドイツ
いよいよ
二重放送は最近独逸ベルリン市ランドファンク会社の放送に依りて,愈々
成功確実となつた。同会社放送室には二個のマイクロホーンを装置し,各
別々の波長を以て放送せられた。所が受信者は一方の波長で受けた音楽は片
つ方の耳話器にて受信し,又一方の異なつた波長で発せられた分は他の一方
126
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
第 117 図
118 図
第 119 図
第 120 図
第 121 図
第 122 図
の耳話器に受けて,左右両耳別々の波長で聞く。すると其音楽は実に明瞭で
ほとん
細密で 殆 ど完全なものであつたと云ふ事である。
さらに下って,第 117 図は「無線と実験」1927 年(昭和 2 年)3 月号に掲載された
広告である。当時は一般にこのようなホーン型スピーカーが使用されたが,1929
∼30 年項にはマグネチックスピーカー,およびダイナミックスピーカーも続々
入って来るし,国産品も出回るようになった。第 118 図のマグナボックスおよび
RCA106 は,アマチュア・プロフェショナルともにずいぶん愛用したダイナミッ
第 8 章 テスターと音響機器(1930 年頃)
127
クスピーカーであった。これは「無線と実験」1931 年(昭和 6 年)11 月号に掲載
された広告である。
一方,ピックアップやフォノモーターもしだいに大衆のものとなって来たが,ま
だまだ高価なものであった。
アミコ再生器(ピックアップのこと)
,電動蓄音器……いずれも 1930 年(昭和
5 年)2 月号の「無線と実験」誌掲載された広告である。
また,1933 年には早くも 33 1/2回転のフォノモータが現われたが,これは今日の
Hi-Fi とはもちろん関係なく,語学練習のような目的に使用された単なる長時間
のものであった。第 121 図は「無線と実験」同年 5 月号に掲載された広告である。
いずれにしてもまだ歌謡曲を流行歌といったころのはなしで,このレコードの広
告は同年 3 月新聞紙上に掲載されたものである。
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録
(1930 年)
ここに示すのは「無線と実験」1931 年(昭和 6 年)6 月号に
掲載されたもので,題名は「ラヂオを作る話」となっている。
これは 1930 年頃のラジオ・アマチュアの姿と東京市内のラジ
オ商のようすをみごとに描いてあり,後世に残る記録である
と信ずる。筆者は赤木杢平 1) 氏となっているが,もちろん匿
名で,相当な大家であると思われる。が今となっては調査するすべもない。そう
入の漫画も同氏の作であるが,メーカーおよびラジオ商の広告写真は著者がそう
入したものである。
ラヂオを作る話
(1)
よ そ
ラヂオを急に他所へ持つて行かれた。昭和 5
ひる
年の都市対抗野球戦の初日の午頃だ。今迄置い
てあつた床の間が急にガランと物寂しくなつた。
楽しみにして居た野球の中継放送だ。何として
た
も聞き度い。学校が夏休みで所在のないター公
は「一つ買つたらどう? あつたものが無くなっ
たつて淋しいもんだわ」と言ふ。
急いで買つて後で後悔するのも嫌だし,と言
つて何の予備知識もなくラヂオ屋を探して歩い
しま
てる中には野球は済んで了ふ。仕方がないから
第 123 図 当座の間に合せに街のラヂオ屋さんから野球の間だけ機械を借りた。「この
さしあげ
機械はお貸しするので,まあ修繕の間代りに差上ると言つた極く粗末なもの
い か
ですが,如何様なものでも組立てますから是非一つ…」ラヂオ屋の主人が鼻
の頭の汗を拭き拭き口上を言ふ。五十そこそこの片眼のすがんだ見るからに
1) 〔編者註〕本名は櫛渕真澄。ペンネームは赤木杢平の他に赤木桁平も使った。京都高等蚕業学校本科へ進学、卒業後は助
教授。幼少の頃より絵が好きで、学生の頃より岡本一平氏に師事。「文藝春秋」
「毎日新聞」紙上などで活躍。昭和 8 年享
年 35 歳で死去。
129
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
慾の深さうな親爺だ。「ラヂオ修繕専門」と染抜いた赤い旗を立てた古びた
薄汚いその店が余の頭に浮んだ。どうしてもその店から機械を買ふ気になれ
ない。「まあその中古物でもいいから安いのがあつたらね」余の財布は貧し
す
かつた。
「と申しますとおいくら位で」親爺は直ぐ付いて来る。
「まあ三十円
位迄だらうな」親爺はニヤリと笑った。
なが
翌々日,余は猿又一つで籐椅子に寝ころび乍ら借物のラヂオで野球放送を
聴いてゐた。突然そこヘラヂオ屋の親爺が得々とラヂオを担いでやつて来た。
ふしょうぶしょう
もちろん
不性無性余は蓋をあけて見る。勿論内容は判らない。今考へると多分鉱石検
波二〇一の整流球共三球のエリミネーターだったらうと思ふ。小さな子供だ
ましの様なスピーカーをつけて二十七円迄にと言ふ。親爺大急ぎで組立てき
たらしい。「わたしや雑音が嫌いでして」とか「この頃の受信機はみんな体
なるほど
しか
裁ばかりで」とか,手前味噌を上げてゐる。成程ハムはなかつた様だ。然し
どうしてもこれを買ふ気になれなかつた。余は再び薄汚いホコリだらけの箱
ばか
許り並んで居る店を頭に描いた。
た
余は「嫌だ」と言ひ度かつた。ラヂオを借りたのは相当の損料を払つて借
りるのだ。その上無理に機械を買はねばならぬ義務はない。気の弱い余は
たま
さう言ふ代りに「まあ考へるから置いて行って呉れ給へ」と言つてしまつた。
裸の体中から汗が出た気の弱い余は買はなくては悪いだらうと言ふ考へと別
に,これと頼んだのでもなに構うものかと言ふ考へで一日考へ通した。
到頭決心して翌晩余は重いラヂオを持つて親爺の店へ行つた。丸三日間の
借料をと言つたら,片眼をすがめた親爺は「普通だと一日二円宛頂くのです
が特別皆で五円程にしときませうか」と言つて,注文品を返された程の不愛
想さに苦い顔をした。五円札を一枚出して余は解放された気持だつた。財布
から
は完全に空になつた。それから余のラヂオ道楽が始まつて少からぬ財をアチ
コチのラヂオ商君に奉納したが,この店からはネジ 1 本買はない。いつもこ
の店の前を通る時唾をしてやつてゐる。
(2)
しゃく
必要が研究心を生む, 癩 にさはるから一つ組立ててやらうかと言ふ考へ
が余を本屋へ走らせた。探し出して一冊参考書を買つた。電池式だと電池が
うるさい。エリミネーターにしやうと大体の方針が立つ。この参考書にはエ
リミネーターの例が三つ出て居る。第一は実用向とかで二二七,二二六の低
130
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
周波二段のレフレックスと言ふ奴だが,その後で出て来るのを見た後では何
しろうと
となく物足りない。ラヂオには全然素人な余も人並にどうせ作るならいいも
のが欲しい。第二,第三の物は同じく二二七を使つたものだが,部分品を計
算して見ると六十円程掛る。余は憂うつになつた。六十円の部分品を集めて
さて組立てたが聴えないなんと来たら,余に取つて問題が大きすぎる。手当
たくさん
り次第に買つて来たラヂオの雑誌を読で見ると失敗談が沢山ある。余は小々
組立る事が不安になつた。
「出来てるのを買つたらいいぢやないの」余の
もっぱ
にはかラヂオ屋を全然信用しないター公は 専 ら
既製品の安全さを説く。余もその気になつて残
暑の残る夕,ター公をお伴にしてラヂオ探しに出
すこしばか
まとま
かけた。臨時に入つた 少 許 り 纏 ったお金を大
ふところ
切に 懐 で握つた。ラヂオ雑誌の広告欄をたど
ま
つて先づ訪れたのが新橋駅から歩いて六畑無線
研究所。
(著者注,三田無線研究所を変名にした
ようである)買ふ気はない唯見るだけだ。そんな
第 124 図 不心得者と知るや? 店員氏は親切に種々見せて
呉れる。何でも二二七,二二六,二二六でケースは金属,今を流行のワンダ
カタログ
もら
イヤル型で四十五円とかだった。型録だけ忘れずに貰つて出る。
桜田本郷町(著者注,今の田村町)で飛行会館
の高い建物を見上げながら電車を待つてゐる鼻
いかが
の先へ,円タク 1) をヌツと突きつけて如何です
と言ふ者がある。片手の指を開いてこれで行く
かと言つたら行くと言ふ。 (著者注,50 銭)行
先は本郷赤門前だ久し振りで来て見ると,こん
なだつたかと思はれる程本郷通は野暮臭く街の
ようや
灯が暗い。 漸 く探し当てた黒門ラヂオ商会(著
まか
者注,赤門ラヂオ商会の変名)へ罷り入る。用向
きを話すと小僧氏がこちらへと言ふ。従つて行
つらな
くと店の奥に 連 る倉だ。コンクリートの階段を
1) 〔編者註〕「一円タクシー」の略。料金均一 1 円で走ったタクシーの事。
第 125 図 131
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
上るとゴタゴタした所で二人程受信機の修繕をしてゐる。小僧君早速試聴さ
せてくれる。倉の二階だからとても暑い。ター公を見るとオカツパの額に汗
がにぢんでゐる。
なが
外へ出て人波にもまれ乍ら飲物屋に飛込み冷たいものを飲んで,もう一軒
やす
うかが
下谷に廉い広告の所があつたから行つて呉れるかと,ター公に 伺 ひを立て
ると「ウン行く」と言ふ。電車を広小路で降りてグロテスクな感じのする高
ようや
架線の下を抜けて車坂辺で三,四回人に尋ねた揚句 漸 く判つた。山商会(著
者注,島商店の変名)とか言ふ店だ。ここは部分品が主で組立てた受信器は
いくばく
あまりない様だつた。試に余が計算して六十円位になつたものを幾何位で組
やす
立て呉れるかと訊ねたら,二十五円位でやりませうと言ふ。余り廉く出られ
たのと未だ若い主人の態度が気に入つたので,後から配線図を郵便でお送り
するか,自分で持つて来るから頼むと言つた。気の弱い余はこの約束を果さ
なかつた事を其後長く苦にした。
帰りの省線電車 1) の中でター公
から「どれにする」と訊かれて返
事に迷つた。
翌晩は神田のコンドル屋(著者
注,田辺商店の変名)を襲つて見
た。決して悪い感じのしない小店
員君が,店頭で大声でがナつてゐ
た蓄音機を止めてコンドルの説明
をして呉れる。非常に充分過ぎる
程の音量で,松内〔則三〕君(著者
第 126 図 注,かつての名アナウンサー)の水泳の実況放送だ。ター公は受信器なんぞ
ただ
に興味がない。唯聞けばいいのだ。浮かぬ顔をしてゐる。早く銀座へ行つて,
チョコレートサンデーが喰べたいんだらう。小店員君にはコンドルに充分な
未練気のある様に見せかけ,及び後程買ひに来る様な素振りで店を出る。
銀座だ。都会子のター公にとっては百のラヂオ屋さんより銀座のペーブメ
ントがどんなにか嬉しいらしく,赤ん坊の位な大きさの小間しやくれたハイ
ヒールの音をコツコツさせながら,不二屋の二階へ駈け上がって行つた。
1) 〔編者註〕鉄道省の経営する電車。後の国鉄時代の国電に相当する。
132
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
×
其後大森を散歩した時,或る小さなラヂオ屋の店先にあつた受信器の外観
しま
に心を引かれ其場で買つて了つた。フラウワーヴォックスのマグネチック
やす
コーンとアンテナ線百尺つけて四十円だつた。高いか廉いか知らない。余は
満足だつた。
(3)
種々な雑誌を見てると短波長の事が出
てゐる。発信などと言ふ大それた事は出
来さうもないが受信器ならば出来さうだ。
雑誌には雪のハヴロフスクの音楽を紅茶
なが
をすすり乍ら聞くなんぞと書いてある。余
の興味は極度にそそり立てられた。
第一にあの太い裸銅線のコイルが嬉し
い。風通しのよさそうなコイルを作つて
得々と……などと悪口の記事もあつたが,
く も
どうも蜘蛛の巣コイルでは幅がきかない。
エボナイトの直線の中にあのシットリと
薄光りする銅線の円が幾層も並んだ美し
さはどうだ! よろしく始終眺められる様
に箱には入れない。余は早速コイルの製
第 127 図 作にとりかかつた。材料の銅線だが十二
ちょっと
番(著者注,約 2mm)なんと言ふ太い銅線は,そこらの金物屋に一寸ない。
ようや
漸 く人に教はつて神田駅近くの金物問屋まで押しかけて分けて貰つた。軟
ふ
銅にする為にガス七輪で焼く。九月上旬のガスは暑い。裸の身体の汗を拭き
なが
乍ら焼き終つて後磨くのはター公に一任する。
らせん
アルコホルの空瓶に巻きつけて螺旋が出来た。エボナイトの細い板に孔を
たくさん
沢山あけてこれを通さなくてはならない。この孔が始め少し小さかつたので
せっかく
中々銅線がくぐつて呉れず,手の中が豆だらけになつた。無理をすれば折角
のコイルの型が壊れる。余は泣きたくなつた。近所の電気屋さんに行つて孔
いよいよ
を大きく直して貰つてどうにかこうにかコイルが出来上る。愈々組立だ。ト
なまず
すこぶ
ランスはテストラン一○号と言ふ, 鯰 の頭を思はせる様な 頗 る振はない外
133
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
しろもの
いず
おじきじき
観の代物。バリコンは「無線と実験」代理部のラックス,何れも御直々の店
まで行つて買つて来たものだ。
ま
始めての事で不案内だが,写真や何にかを参考にして先づ部分品の配置だ。
せいか
おさ
の
落付いて落付いてと吾心を臍下に納め,朝日〔たばこの名称〕をゆつくり喫
おもむろ
みながら 徐 にコイルを置きトランスを並べる。配線は短かい程よいとある。
×
しま
ター公が病気になつて寝て了つた。一人で寝てると退屈なもんで「ラヂオ
かわい
なんかお止めなさいよう」と言ふ。ター公が可愛さうだからなるべく枕元に
居てやる。「何かお話してよう」とせがむ。余はチョークコイルを捲きなが
い か
ら「学生生活の挿話――如何にして酔払へる僕は汽車を止めたか」を話さね
ばならなかつた。
ハンダ付に弱つた。コテを焼てハンダに当るとポロリポロリ玉になつてハ
しま
かぶと
ンダは皆畳の上に散らばつて了ふ。幾度やつても駄目だ。到頭 冑 を脱いで
ブリキ屋の小僧に秘伝を伝授して貰う。それでどうにか付くには付くが至る
こぶ
所ハンダの瘤だらけだ。
恐ろしく複雑な配線が出来上つた。まるで建築中のビルディングの様だ。
その中から二〇一 A が二つチョコンと頭を出してゐる。とも角組立は竣工
した。
借物の電池を結び二〇一 A を点火して見る。嬉
しくも明るくなるではないか。レオスタットも二
なが
つ乍らきく。これも借物の受話器を頭に上げてコ
イルのクリップの位置を動かして見る。果して何
あえ
の音もしない。敢て,「果して」と言ふ。聞こえ
ないのが当り前の気がした。
それから数日間それでも毎夜いぢくり回した。
配線を代へて見たり,コイルの位置を動かしたり,
バリコンの枚数を減らして見たが一向に何も聞こ
えぬ。部分品を買つたラヂオ屋の主人が「短波長
第 128 図 は難しいもんですよ」と言つたがほんとうだと思ふ。
ほこり
余は完全に短波長に見限りをつけた。機械は棚の上に放り上げられて 埃
134
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
で白くなつた。機械的の構成美を発揮する筈だったコイルには蛛蜘が巣を張
つた。
今考へると哀れにも滑稽な事ではある。何も知らない余はメグオームを一
万オームと解していたのだ。それでも多小不安だつたので近所の電機学校の
生徒君に訊ねたら「さうだ」と言つたものだ。グリッドリークはなるべく可
変がいゝと言はれて,得々と一万オームのレオスタットを入れたのだ。
ター公は短波長など,どうならうと意に介しない。毎日オカッパを朝風に
なびかせてお弁当の食パンを抱へて学校に行き,帰つて来るとチョコレート
をなめる事を唯一つの楽しみにしてゐる。
(4)
銀座を歩くといゝ音のするラヂオが
鳴つてゐる。太いシットリした声だ。
どうも家のラヂオと違ふ。雑誌を見る
程に本を読む程にどうも家のラヂオが
物足らなくなつて来た。神戸で観艦式
が行はれた時〔JO〕BK〔大阪放送局〕
の中継を聴いてゐると,アナウンサー
が「やがてインイン〔殷々〕たる砲声
がマイクロフォンを通して皆様の御耳
に……」と言つてゐるが待てど待てど
聞こえなかつた。余は機械の蓋をあけ
てゆつくり点検して見た。鉱石検波で
低周波二段,これにおこがましくも高
周波が一段つけてある。球は皆二〇一
A だ。買価の四十円からフラワーボッ
第 129 図 クスを十二円としてもこのセットだけ
で三十二円だ。
部分品は皆安物が使つてある。余はパネル面を拳固で一つコツンとやつた。
ラヂオ屋の親爺の頭の代りである。余はいゝ器械がしみじみ欲しくなつた。
それと一緒にダイナミックと言ふあの巨人ぶつた低音の出るスピーカーが欲
あけく
しくて堪らなくなつて来た。余は明暮れ紙の上に二四五の配線図を数限りな
135
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
く写しては描いた。余が友達ドクトル竹庵先生は余に向つて,「君は頭の中
たくさん
お
ぢやもう大分沢山のラヂオをこしらへたらうな」とぬかし居つた。
×
虎の子のスピーカーが時々ピリつき出した。尺八などの時特にさうだ。有
り余る金で買つたのでないだけに余は少々淋かつた。秋の風の吹く日,余は
製造元南欧会社(著者注,七欧商会のこと)へ出かけて診察して貰つた。二
四五のプッシュプルとかの増幅器にかけて恐ろしく大きな音をさせた上,店
なるほど
員氏は「どうもありません」と言ふ。成程どうもないらしい。この器機にか
けてすらビリ付かないのだから,ビリ付くのなら御宅の機械が悪いのでせう
と言ふ。せめて二二七,二二六をお使いにならなければね。
いよいよ
「愈々作るか」余は叔母に預けて置いた大
切な金を皆引出して来た。後はどうにでもな
れ,余は歯を食ひしばつて部分品買ひに出か
けた。と言つても余の財布ではダイナミッ
しま
クを買つたらそれで無くなつて了ふ。欲し
いけれ共仕方がない。淋しい諦めだ。マグ
ネチックを使つてその代り最終に一七一 A
ま
を入れて我慢しやう。先づ電源トランスだ
が何がいゝだらう。余は何よりも電気試験
所の放送局の相談所へ相談に行つた。認定
品の中には余の求める二〇〇 V を出すもの
はない。二〇〇 V 出すものでは徳久の No.40
たず
より他はない。同じ構内の売店で訊ねて見る
第 130 図 す
と四円五十銭と言ふ事だつた。直ぐとは買ひ兼ねた。表へ出ると泣き出しさ
うだつた空は本降りになつて,邦楽座の前で自動車から降りた貴婦人がフェ
そうり
ルトの草履を爪先立てゝ居た。少し疲れたが勇を鼓して雨の中を某デパート
のラヂオ部へ行つて見る。徳久の No.40 を見付けて値段を訊ねると五円五十
銭と言ふ。余は呆れて退却した。
翌日陰惨な天気の中を溜池の徳久の工場へ出かけた。受付の事務員氏が持
出して呉れた中から一つ選んで買ふ。No.40 にフューズをつけたのはここに
もなかつた。重いトランスの包を下げて出かけたついでに神田の福長商会
136
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
(著者注,富久商会のこと)へ廻る。この店は以前何か部分品を買つた時大
やす
変廉かつたので覚えてゐた。親切と不親切の間位を行く店員氏のぶつきら棒
さも余にはかへつて買ひよかつた。チョーク,バイパス,ソケットと言つた
様な細々したものを買ふ。低周波トランスはテストランのスペシャルで我慢
く
することにしてコンドル屋に廻り二個買つた。少し負けて呉れんかと小店員
うかが
君に頼んだら,主人であらう所の紳士に 伺 ひを立てゝからよろしう御座い
しま
ますと言ふ。余は嬉しく店を出た。財布は軽くなって了つた。
家へ帰つて一々包紙を解いて並べて,
なが
さてゆつくり煙草を吸ひ乍ら眺めると
何とも言へない愉快さが腹の底から込
み上げて来る。余はその晩この品々を
枕元にならべて寝た。
部分品は揃つた。今度は箱を買はな
ければならない。翌日余り遠くない品
川の卸問屋へ行つて見たら割合気に入
つた型のがあつた。送つて呉れないか
と言つたら手不足でと断られたから止
さ
む得ず提げて帰つた。晩に早速底板の
上へ部分品を並べて見る。頭の中で何
遍も組立て笑はれただけに配置はちや
んと頭の中に描れてゐた。ネジ止めし
てさて一服して眺めると我ながら整然
第 131 図 とした美しさだ。
いよいよ
愈々配線となると前に短波長セットで失敗してゐるだけに少からず不安だ。
だが今度は短波長とは違ふから蚊の鳴く位な音位はするだらう。ハムとや
らは定めし多い事だらう。余は心細いながらも配線図とにらめつこをしなが
ら工事を進めた。フィラメント回路は底板の裏へ廻し他はなるべく上で配線
した。
ハンドドリルの手が滑つて指に裂傷が出来た。ハンダゴデに触つて火傷も
した。惨憺たる光景の中にとも角余が愛児――二二七検波,二二六,一七一
A 低周波二段,容量再生式受信機は出来上つた。
137
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
最後にグリッドリークとプレート抵抗を余は
大崎の日本無線本社へ行つて買つて来た。市価
やす
く
より遥かに廉く分けて呉れた。
いよいよ
愈々テストだ。未だ箱に格納しないままのジ
ャックにスピーカーをつなぎ,二二七を抜いて置
いてスヰッチを入れた。瞬間余は眼をつむつて
つつが
「南無阿弥陀仏」と唱へた。……見ると球は 悉
なく点火して,受信器に耳を近けるとかすかに
サーと音がしている。余は少し安心した。セッ
トを箱に格納する。アース,アンテナ,皆つな
第 132 図 ぎ準備は出来た。
スヰッチを入れる。かなり長い不安の時を経てブーンとスピーカーが鳴り
出した。ダイヤルを廻すと嬉くも人の声だ。今迄の受信器に聞く声とは似も
きんぜん
つかぬ含らみのある太い人間臭い声だ。日暮れ時の経済市況に余は欣然聴入
つた。
(5)
自分で手を傷めて作つた受信器の音は一種特
別な味がある。余は藤椅子に寝ころんでしみじ
みと味はつた。新設の岡山放送局から陸軍大演
習の実況が中継された。今度は大砲の音が聞え
た。余は大砲の音に復讐した様な気がした。
人間は次々と慾が出る。余はこの器械で短波
長を聴く事を思ひ立つた。コイルさへ変へれば
出来さうだ。余の器械はコイルにラックスの一
三三と言ふプラグイン式を使つたから,二二七
か
のソケットにはめる様になつてゐる。換へると
すれば二二七の古ベースを使はなければならぬ。
余は方々のラヂオ屋を二二七の廃物を探して歩
ど こ
第 133 図 しゃく
いた。何処にもない。 癩 にさはつたから総本家の川崎の東京電気会社に出
いか
かけた。やかましい門衛や厳めしい玄関に似ず営業課とやらの社員の人は
ど こ
く
親切で,古ベース二個何処からか探し出して呉れた。厚く礼を述べて貰つて
138
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
来た。
巻回数が分らないから古べースに大体の見当で二四絹巻線を巻いてやつて
見たが何も入らない。いろいろ回路を変へてもうまく行かない。ふと或る雑
誌にあつた記事に従つてスパイダーを使つてやつて見た。盛んにビートが起
る。気まぐれにダイヤルをいぢつて居る中に突然独唱が入つて来た。フェー
ディングが甚だしいので始終ダイアルを気をつけなくてはならない。二晩,
三晩聴いてゐる中にハヴァロフスクだと言ふ事が判つた。スピーカーを通し
て実に堂々とした音量で入つて来る。或晩は劇場からの中継らしくアンコー
ルの嵐の様な拍手が聞こえた。
某氏はこのハヴァロフスクをやはり二二七の受
信器で受け,二二七,二四五のパワー・アンプリ
ファイヤーでダイナミックにかけて毎夜楽しんで
ゐると書かれた。余もしみじみダイナミックが欲
しくなつた。ラヂオ商の叔父を持たなかつた事を
真実後悔した。
「あたしが買つてあげませうか」と
ター公が言ふ。それがベラ棒に高いものだと聞い
て「ぢや駄目だわ。あたしの貯めたお金五円きり
ないのよ」とター公も淋しく笑つた。
昨年の暮不要になつた二〇一 A のセットを叔母
第 134 図 の家へ譲り,その金でピックアップの安物を買つた。コロムビア位な音だ。
ター公はお小遣の内から松内レコードを買つて来て掛けて喜んでゐる。
ラヂオ雑誌に自作セットの記事を発表したら方々から質間が来た。余は半
ひとかど
年の間に一廉のラヂオ通になつた。
久しく棚の上で埃まみれになつてゐた思出の短波セットの部分品を利用し
て,余は今 S・G 球を使つた短波セットの組立中である。
(三月雛の節句に稿)
両国とお茶の水の間に国電が開通したのもこの頃であった。第 135 図は工事中
の秋葉原付近である。
春風秋雨,今では文中のラジオ商も或は廃業し,或は移転してしまっている。
当時,今いうところのジャンク屋は東京にわずかしかなかった。秋葉原駅東口
にあった店は高級品専門で官庁の払下品が多かった。他に荒川区の三河島に数軒
139
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
と牛込の柳町,小石川の柳町,本所の柳島にそれぞれ 1 軒ずつあった。
一方,第 2 章で述べたように,ラジオセットは放送開始当時,芝浦製作所,東
京電気,安中電機,沖電気等比較的大会社により生産された。しかし,当時は需
用も少なく大資本による経営には適しなかったので,各杜はことごとく生産を中
止し,家内工業的生産者のみが残っていたのであった,
しかるに聴取者の増加とともに,1931 年(昭
和 6 年)頃から再び資本的多量生産の時代に入
り,まず松下電器がコンベアシステムを採用し,
早川金属〔シャープの前身〕がこれに続いた。
これまではアマチュアもラジオ商もラジオは
自分で組立てるのが当然とされていたが,この
頃より少なくもラジオ商での自作は特殊のケー
スのみとなったのであった。
「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)10 月号に
第 136 図に示すようなシャープの広告が掲載
された。このセットは外箱まですべて金属製
で,「鉄函受信機」といわれたものである。
第 135 図 また,1931 年(昭和 6 年)4 月 6 日,東京第
二放送が開始され,始めてローカル局の分離が問題となった。
第 136 図
第 137 図
140
第 9 章 あるラジオ・アマチュアの記録(1930 年)
第 137 図は「無線と実験」1932 年(昭和 7 年)3 月号に掲載されたナショナル
の広告であるが,“二重放送聴取完全” といっているのはこのためなのである。
このような鉄函時代をすぎてから,わが国のラジオセットは急速度で進歩して
行ったのは,何といっても真空管のめざましい発達に負うものが大きいといわな
ければならない。
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる
(1930 年頃)
226,227 についで,1930 年には 245 が国内でも作られるよう
になったが,初めのうちははなはだかんばしからぬ製品が多
かった。
メーカーやラジオ屋さんは不良真空管も何とか交換の方法が
あったらしいがわれわれアマチュアは不良品をつかんだら泣き寝入りになるより
仕方がなかった。「無線と実験」1930 年(昭和 5 年)11 月号に掲載されたアンプ
リファイヤの記事中に,浦郷晴二氏はつぎのようにのべている。
これら
猫も杓子もダイナミックを鳴らして,原音再生再生と言つて居る今日,之等
そば
くわ
を側で指を噛へながら見て居る事も到底出来ないので,段々パワーパックに
手を出し,最初は一七一 A のプッシュブルで試聴して居たが,それでは我慢
出来なくなつたので,二四五球を使ふ事にした。…(中略)…使用球は全部
サイモトロンで CX1) を用ひたかつたが之で我慢した。UY 二二七と UX 二
二六と KX 二八〇とが各一個づつ,それに二四五が二個である。それから和
製〔国産〕の二四五に付いて少々述べる。地方に居られる諸兄も御存じの事
と思ふが,以前大阪に「青い灯,赤い灯,道頓堀の……2) 」と言ふ流行歌が
はやつた事があるが,此の二四五球は「赤い火,紫の火,真空管の……」だ。
何しろスウイッチを入れてしばらくと云ふものは,ものすごいグロウが出る。
使用中といへども,真赤と紫の色がプレートの内部即ちグリッド,ヒラメン
トの間に充満している。夜間うつかり電燈を消さうものなら,まるで鉄道の
信号燈かと思はれる程である。暴言多謝
二八〇球も(無論和製品)相当グロウが出て居たが,此の二四五球程ではな
と
かく
い。兎に角和製の二四五,二五〇なんて物は余り感心した物でないらしいさ
うである。百本買つたら満足に規定通りパワーが出るのは何本程であらうか。
こやつ
其の次は二二七球だ。此奴は又不便な物でスウイッチを入れてから二三十
秒もせないと働かない。それに寿命が甚だ短かい。規定通り,二・五ボルトか
1) 著者注。CX とは米カンニングハム〔Coningham,カニンガム〕会社製品のこと。
2) 〔編者註〕道頓堀行進曲。
142
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
けたら四ケ月しか完全に働かなかつた。それ以後は検波作用がぼけて終つた
り,使用中不意に音量が少なくなつたりする。又此の二二七球は使用中セッ
トが極くスムースに働いて居たのに,時々ボーボーと言ふハムとも牛の鳴声
とも判断に苦しむ様な変な音をスピーカーに出す事がある。…(後略)…
1929 年後期,オランダのフィリップスは B443,C443 などのペントード〔五極管〕
を日本市場に提供したが,PR 不足も手伝ってあまり関心をよばなかった。これ
はフィラメントが 4V であったことも原因であったので,フィリップスでは 2.5V
の D243 を開発した。第 138 図は「ラヂオの日本」1931 年(昭和 6 年)7 月号に
掲載された広告である。
五極真空管時代来る
三極パワー球が全盛を極めたのは昨
年のことであつて,今や低周波強力増
幅部は五極管に変りつゝあります。本
年中には世界のありとあらゆる受信機
がペントード化されることゝ予想され,
つい
遂にペントード時代の出現を見るわけ
であります。
ペントードがフィリップス会社に於
て発明せられたのは一九二七年で,僅
か四年足らずして三極管を駆逐した事
になりますが,この事は五極管が三極
い
か
すぐ
管に比して如何に勝れたものであるか
を明瞭に物語つてゐます。
ペントードは非常に増幅度高く,極
めて小さな入力で大きな出力が得られ,
第 138 図 従つて能率は三極管の到底及ばぬとこ
ろで,真空管の消費電力に対する不歪出力の能率は二四五型の一三・六パー
セントに比し相当型であるフィリッフス D 二四三は,二倍に近き廿五パーセ
かつ
ントを有します。又特性上から見て,周波数特性は驚くべく良好であり,且
交流音混入少なく B 電源のフィルター装置が簡単にすむ等,真に理想に近き
143
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
強力増幅管であります。
フィリップス・ペントードの種類は合計十種,出力○・四ワットの小型受
信機用から,十ワットの出力を有する大型強増幅装置用まで各種作られてを
ります。
フィリップスの広告は実に洗練されており,
今日でもそのまま通用しそうである。また
フィリップス社では第 139 図に示すように
自社製の受信機「カテイフォン」をもって,
実物宣伝を行なったがそのすばらしい性能
は当時のラジオファンをおどろかせたので
あった。このセットはいわゆる 3 ペン 1) の
元祖といえよう。
たしかに当時のフィリップス球は性能優秀
ではあったが,スローリークの多かったのは
意外であった。虎の子で買った 1560(80 相
当管)など,2∼3 ケ月しまっておくとぜんぜ
んダメになっていることがあった。
高周波ペントードが使用されるようになっ
第 139 図 たのは後のことで,当時は高周波用としては四極管が使用された。
つぎに示すのは「無線と実験」1931 年(昭和 6 年)6 月号に掲載されたもので,
筆者は高瀬芳卿氏である。
四極真空管の使ひ方
つい
はしがき 四極真空管時代は遂に来た! それは商業通信,アマチュア用と
しての域を脱し,今や一般家庭用として大衆化されようとしてゐる。今日四
しゃへい
極真空管と言へば殆んど遮蔽グリッド管(簡単のため S・G 管と呼ぶ)を指
ありさま
し,その前身とも言ふべき空間電荷四極管を除外した様な有様であるが,こ
もちろん
れは前者の方が特殊の機能を多分に有してゐるからであらう。勿論S・G 管
も空間電荷管として使用する事が出来るが,普通に言ふ空間電荷管は単にグ
しゃへい
ほと
リッドを二個備へただけのもので,遮蔽効果を殆んど持つてゐない。是等の
1) 〔編者註〕ペントード(五極管)を3本使ったストレートラジオのこと。
144
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
わた
全般に亘つて機能,使用法をお話すると随分長くなるから,最も需要の多い
つ
S・G 管のみに就いて二三の参考事項を述べて見たいと思ふ。
一,各種製品の分類と特性大要 第一表は現在の内地市場にて容易に手に
入るものを列挙したもので,米国系のものではラヂオトロン,サイモトロン
オランダ
等,和国系のフヰリップスである。同表からも明かな通り,米国系のもので
は,UX 二二二が広く普及しゐるが,一般用としては,交流受信機用の UY 二
いわゆる
二四が最近特に使はれて来た。RCA 二三二は新製品でフヰリップスの所謂
ミニワット級に対抗するために造られたものと,一般に観測されている。フ
ヰリップス製品は其の種類に於て断然多く,各種用途に適するものが研究製
作されているので,適宜に選択して使用すれば大なる利益があるものと信じ
たと
てゐる。例へば A 四四二は一般用であるが,A 四四二 K は特に短波専用と
して E 四四二 N は検波及可聴周波増幅に,特に A 四四二や E 四四二等のグ
リッド・プレート間の静電容量は〇・〇〇〇一で,其他のものに比較して実
に十分の一減じてゐる。相互伝導率も非常に高く設計されてゐる様であるか
うかが
なお
ら,其の優秀さを 窺 ふことが出来よう。尚フヰリップスのものも UX 又は
UY ベースに適合するので,交換使用が出来るから便利である。この中で最
も普及してゐるのは,直流用では UX 二二二,A 四四二。交流用では UY 二
よろ
ごと
二四,F 二四二等で使用法さへ宜しきを得れば,短波の如き超高周波の無線
周波増幅に用ひて其の効果が著しいばかりでなく,検波,可聴周波増幅用と
しか
しても極めて優秀な働きを持つてゐる。併し,機能も複雑だけに取扱には余
程の注意を要する次第である。…(後略)…
つぎに当時の四極受信管の規格表を示す。
種 類
UX 232
UX 222
UX 224
A 442
(フィリップス)
F 242
(フィリップス)
フィラ
メント
2.0V
0.06A
3.3V
0.132A
2.5V
1.75A
4.0V
0.06A
2.5V
1.5A
グリッド
バイアス
(V)
プレート
電 圧
(mA)
プレート
電 流
(V)
スクリー
ン電圧
µ
Gm
(µ℧)
Rp
(kΩ)
Cpg
(pF)
ヒーター
−3
135
1.5
67.5
580
505
1120
0.02
直熱
−1.5
135
3.5
67.5
290
480
600
0.025
〃
−1.5
180
4.0
75
420
1050
400
0.01
傍熱
―
50∼150
2.8
25∼75
150
800
185
0.01
直熱
100∼180
―
50∼90
―
―
―
―
傍熱
―
さらにまた 1931 年(昭和 6 年)4 月,七欧無線電気商会発行の「ラヂオブリテ
145
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
ン」1931 年版はつぎのようにのべている。
…(前略)…さて後廻しになりましたが UY–224 に
移りませう。224 は交流用スクリーングリッド球です。
つい
UX–222 と云ふ直流用 SG 球に亜で現れた球で,いは
ゆる傍熱型である為五本足(つまり UY 型)ベースを
有し,しかも SG 球であるためグリッドターミナルは
頂上に追上げられて,すこぶる古風なトルコ帽をいた
だいて居ります。
現在私共がお目に掛るラヂオ真空管としては一番
多くのターミナルを有して居りますが,其の働きも亦
第 140 図 中々すばらしく,うまく御してやればかなりの成果を収めることが出来ます。
この球を外から眺めますと(第 140 図)の様な型です。
ソケットは UY 型ですから御承知の通りなのですが…一つ御注意! それ
は G ターミナルです。これは真空管の中の説明書を見ても不明瞭な記述しか
してありませんから御間違なく,これはスクリーングリッドのターミナルで
す。227 を入れた時にはグリッドのターミナルでしたが,224 を入れますと
SG のターミナルに早変りいたします。そしてグリッドは先程申しました様
に球の頂上に追出されてしまったのです。頂上のターミナルを SG だと思っ
て 224 は一向働かぬなんて言はれる方が中々あるのですから,御注意下さい。
かなり他にも此頂上にターミナルのある球があります(フィリップスにも
ラヂオトロンにも)。そして此金具をのせた球に限つて其ターミナルの位置
は千種万別,必ず(さう思つて居れば大丈夫です)皆ちがふのです。ですか
ら御使用前によく説明書を御らん下さつて「アヽこれも 224 と同じか」なん
て早合点をなさらないで下さい。さて本題の 224 ですが,これらの規格は次
の通りです。
ヒーター電圧,電流(A) 2.5V 1.75A
つまり 227 と全く同一です。
プレート電圧,電流(B) 180V 4mA
UX222 に比べて断然大きいです。
グリッド電圧(C) 3V SG75V に対しては 1.5V
SG 電圧,電流(D) 約 1mA
146
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
第 141 図
第 142 図
と先づこんな風になつて居ります。今迄は真空管は ABC と三つの電圧をか
ければ良い事になつて居たのに,SG 球に至つて D 電圧(SG 電圧)と云ふ新
手が加はりました。…(後略)…
D 電圧という言葉はついに使われずに終わってしまったのであるが,とにかく
受入側はテンヤワンヤの大さわぎであったのがうかがい知れよう。
このような真空管の出現で新しい回路がいろいろ生まれた。第 141 図は LUX
より発売されたロフチンホワイト増幅器で,
「無線と実験」1931 年(昭和 6 年)5
月号の表紙裏に掲載された広告である。
またこの UY224 を使用した,いまの TV の調整ずみ IF のような,ラジオの IF
キットも発売された。第 142 図はやはり「無線と実験」1931 年(昭和 6 年)6 月
号裏表紙に掲載された広告である。文中に
い
…(前略)…お承知の通り此スウパーヘットは百七十五キロサイクルと謂ふ
従来にない短い中間周波を使用するのでありまして,六箇所に同調点を有す
る非常に鋭敏な増幅器であります。此増幅器は第一中間周波,第二中間周波,
第二検波より成り,使用球は全部 C 三二四であります。…(後略)…
147
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
とある。C324 はカンニングハム〔カニンハム〕会社の製品で UY224 と同規格で
あった。なお,第 143 図に示すマンガの JFAK は,当時の台北放送局のコールサ
インで,内地とは 1 時間の時差があった。
アメリカ側のペントードもおくればせながら 1931 年頃に現われた。この間の事
情をつぎの記事に示す。
「無線と実験」同年 8 月号掲載,筆者は柱白人氏である。
新しいラヂオトロンの話
進歩又進歩の真空管 「日進月歩」などとい
ふのは昔通用した形容の言葉で,ラヂオ界の進
なまぬる
歩発達を形容するには実に生温いものです。ま
づ瞬進秒歩とでも云つたらよいかも知れません。
そのラヂオ界にあつて,中でも特に目ざましい
進歩を見せてゐるのは,何と云つても真空管で
あります。
かつて二〇一 A 型といふ真空管の全盛時代が
ありました。最近は交流管全盛で,私の知つて
ゐるファンにはまだ二〇一 A は使つたことがな
いといふ人が少くない位ですが,昔は実に大し
たものでした。その時分はサーキット〔回路〕
の研究が盛んで研究家は争つて新回路の考案と
その試作に熱中し,レナーツ,コッカディ,グ
レープ,スーパーダイン等々変つたサーキット
がラヂオ新聞や雑誌を賑はしてゐたのでありま
第 143 図 す。現在はどうでせうか。
前には真空管の特性も何も考へに入れず,真空管に適応した部分品を選択
するといつたやうなことも極一部の人のみが僅かに行つてゐた状態で,C 電
池は四ボルト半,B 電圧は二十二ボルト半もそう定つてゐました。一七一型
が輸入されたとき,これにプレート九〇ボルトをかけ,C 電圧もかけずに使
つた人が少くなかつたのであります。――ところが,今ではあれほどやかま
しく云はれ,熱心に研究された回路はさほど問題にならなくなりました。回
路の不備は真空管によつて容易に完全に補はれます。平々凡々なサーキット,
148
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
優秀真空管の出現によつて,一躍驚くべき能率のものに変つてしまひます。
真空管に最も適する回路を研究をしてその真空管を最高能率に働かせる場合
と,回路に最も適する真空管を研究製作して回路の最高能率を上げる場合を
かつ
比較すれば,後者の方がはるかに能率上り且容易な方法です。全く最近の真
空管発達はすばらしいものであります。もう,真空管の特性をよく知らなく
てはサーキットの研究はおろか,セットを組立てることすら出来なくなりま
した。
三極管に入れられた今一つのグリッド――スクリーンが,高周波増幅,否
い
か
ラヂオ界に如何に革命的な役目をつとめたかを考へて見ませう。レフレック
スが捨てられニュートロダインが姿を消し,かつては空想に近かった高周波
の七段増幅等すら完全に行はれ,更にペントード〔五極管〕を産んで低周波
増幅部にまた一つの驚くべき真空管を作り出してをります。真空管研究時代
です。新しい真空管の出現した場合,我々は卒先してそれを研究し理解すべ
きでありませう。我国のラヂオ界は米国を標準としてをりますから,米国の
新型真空管はやがて国産の標準真空管となつて現れることを考へ,米国の真
空管――特にラヂオトロン真空管については充分な理解が必要です。又欧州
うかが
ラヂオ界の傾向,新研究はフィリップス新型ミニワット真空管によつて 伺
ふことを得る故,これ亦注意すべきです。最近米国と欧州で発売された特に
注意すべき新型真空管についてその規格を記し,いさゝか解説を試みませう。
ラヂオトロンのペントード 第一表に掲げたのは,米国で製作された新型
真空管であります。ラヂオトロンの新型は六種,一種は二ヴォルト直流用,
二種は六ヴォルトの特殊直流用,他の二種は交流用真空管でありまして,こ
の中六・三ヴォルト管一種を除いた他の五種類は全部多極真空管であり,こ
れまでこの国で全然用ひられてゐなかつた新様式のものであることは注目に
値します。
第一表 名称
UX
UY
UY
UY
C
233
238
247
235
335
551
UY 236
UY 237
フィラメント
V
A
2.0
0.26
6.3
0.3
2.5
1.5
2.5
1.75
2.5
1.75
2.5
1.75
6.3
0.3
6.3
0.3
プレート
V
mA
135
14
135
8
250
32
180
9
180
9
180
5.3
135
3.5
135
4.5
スクリーン
V
mA
135
3
135
2.5
250
7.5
75
―
75
―
90
―
75
1.15
バイアス
(V)
−13.5
−13.5
−16.5
−1.5
−1.5
−3
−1.5
−9
µ
63
100
95
―
―
―
275
9
Rp
(kΩ)
45
110
38
200
200
400
250
12.5
Gm
(m℧)
1.4
0.9
2.5
1.1
1.1
1.05
1.1
0.9
出力
(W)
0.65
0.375
2.5
―
―
―
―
0.075
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
149
RCA 二三三 RCA 二三八 RCA 二四七
この三種は五極真空管であつて,ヨーロッパで広く用ひられてゐるのと同
様のペントードであります。ただ各種の規格が米国の国情を考慮に入れて
定められてゐるだけの相違です。ペントードの発売はかなり以前から予想さ
れてゐたことで,最近いろいろな障害も除かれたのでいよいよ製品が市場に
現れました。本年下半期の米国ラヂオ界はペントード時代でありませう。…
(中略)…RCA 二三三は二ヴォルト蓄電池用の小型ペントードで,二三〇(一
般用)及び二三二(SG 管)と組合せて使用するに適します。RCA 二三八も
二三三と同様小型ペントードでありますが,これは傍熱型に製作されてをり
ちょうど
ます。米国のペントード管に丁度相当する型をヨーロッパに求めますと,二
四七にはフィリップスの二・五ヴォルト球 D 二四三が当ります。これも亦優
秀球で,出力は同様二ワット半,フィラメント電流は二分の一以下の〇・六
アムペアしか消費いたしません。第一図に見るように小型に作られてをりま
す。二三三,二三八程度の出力を有する真空管は欧州に於てはスタンダード
タイプとなつてゐて,フィリップス B 四四三は規格こそ幾分異りますが二三
ごと
八の如き傍熱型ではなく,直接加熱型のペントードです。…(中略)…
ヴァリアブルミュウ SG 管の考案――RCA 二三五
これまで高周波増幅,中間周波増幅用として最も優秀と認められてゐた真
空管は,米国では UY 二二四でありました。ところが今度作られた RCA 二
三五は,更に二二四に改良を加へたより優れた真空管であつて,入力電圧の
大小によつて増幅率の変化するところから,ヴァリアヴル・ミュウ・チュウ
ブ――略して VM 管と呼ばれます。今までにない新様式の真空管でありま
す。…(中略)…
六・三ヴォルト傍熱管シリーズ RCA より発売さる。
RCA 二三六,二三七は前記二三八ペントードと共に,六・三ヴォルト傍
熱シリーズの真空管で,フィラメントを直列にして使用する DC 電源用ヴァ
ルヴであります。自動車ラヂオに用ひるときは,普通の真空管同様フィラメ
ントを並列にして用ひます。オートラヂオの A 電源は用途が用途故電源電
圧の変化が甚だしく,これによる感度の変化を防ぐため傍熱管が賞用される
ので,これまでは窮余の策として二二四型を直列フィラメントの方式で用ひ
てゐましたが,新真空管の出現によつて非常な便利を得ることになりました。
150
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
二三六は SG 管で二二四類似の特性です。二三七は二〇一 A の傍熱化と思へ
ば差支ありません。…(後略)…
初期の SG 球とペントードを使った製作記事の例をつぎに示す。これは「無線
と実験」1931 年(昭和 6 年)12 月号に掲載されたもので,筆者は東京,松村生氏
である。
今流行のペントード受信機製作について
はしがき 一九三一年も二
二四球全盛のうちに過ぎ様と
して居ります。所で,一九三
二年は「ペントード球全盛時
代」を現出するのではないで
せうか。ペントード球もアメ
リカ物がぼつぼつ輸入される
オランダ
し,一足先きに和蘭フィリッ
プス製品が,大分広告して居
ります。我国でも某々会社等
が,此れが製作に腐心して居
第 144 図
りますから,遠からず発売さ
れることゝ思ひます。
そこで時代の尖端を行くと
云ふわけで早速試用して見ま
した。相当大きな期待を持つ
てセットを作りましたが,思
つた程でもありませんでした。
しか
然し,家庭用としては受信機
が余り大型にならぬのと,割
合安上りに出来ると云ふ利点
があります。
第 145 図
部分品及び其の注意先づ第一図(第 144 図)を御覧下さい。二二四高周
しか
波一段,二二七再生検波,と云ふごくありふれた様式であります。然もワン
151
第 10 章 新型真空管ぞくぞく現わる(1930 年頃)
第 146 図 ダイヤルチューニングである。と云ふのが此のセットの特長の一つでありま
す。以下アメリカ型ペントード「UY 二四七」をスタンダードとして申上ま
す……(後略)……
このように新しい真空管が現われるにおよんで,ラジオ受信機の構成もしだい
に近代の型になって来たのであった。
第 146 図は当時の米国 HOWARD 会社の H 型といったスーパー受信機の回路で
あるが,今日の方式とほとんど変らない。
また第 147 図に示すセットは三田無線の「ミゼットスーパー」と称したもので
224 を 5 球,227 を 1 球,247,280 各 1 球使用している,IF は 175kc であった。
1931 年(昭和 6 年)11 月,KO トロンによって,初めて国産の UY247 が完成し
た。第 148 図の広告は「無線と実験」1932 年(昭和 7 年)3 月号の裏表紙に掲載
されたものである。
第 147 図
第 148 図
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの
進歩
(1932∼1935 年)
1932 年度にはじめて今日型の真空管が現われた。すなわち,
57,58 等であって,これなどは現在でも古いラジオで使われ
ている。
これらの一連の型がドーム管から GT 管に,そして MT 管
になって現在に至っているのである。
「無線と実験」1932 年(昭和 7 年)7 月号に「最も新しい真空管十五種の特性
と使ひ方」という記事が掲載されている。筆者は高瀬氏で RCA のリポートを翻
訳したもののようである。
おおい
ふ
はしがき 現在でさへ真空管の種類が 大 に殖へてゐるのにまたまた約二十
一種の新しい真空管が試作され,其の特性が発表された。やがて市場に現は
れることと思ふが,それに先立つて其の構造,特性,使ひ方の大要を御参考に
すべ
供し度いと思ふ。凡てアメリカ系のもので,どちらかと言へば特殊設計にな
それほど
るもので,一般用としては夫程重要性を持たないかも知れないが,極めて興
味ある性質を有してゐる。初期時代には一種のものが色々の目的に用ひられ
ぜんじ
たが,漸次或る用途に適する管が考究され,構造も特性も使ひ方も非常に複
雑となつて来た。従つて何等の知識無しに使ふといふ事は危険でもあり,又
充分の能力を発揮させることが出来ない。最近の流行児たるペントード〔五
極管〕に於ても使ひ切れないといふ声をしばしば聞くが,これなどは性質を
理解してないからではないかと思ふ。又始めから余り期待し過ぎた点がない
でもない。…(中略)…
46〔B 級増幅用複グリッド・パワー・ヴァルブ〕
46 は複グリッドのパワー・ヴァルブで,特別に設計された B 級増幅回路
すぐ
もちろん
に用ひて優れた特性を有してゐる。A 級増幅回路にも勿論用ひられ,この場
合の増幅率は 5.6 である。A 級としての最大不歪出力は 1.25 ワット,B 級と
しての連続パワー出力は 20 ワット,この場合はバイアスは加へない。A 級
153
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
としては 33 ヴォルト加へる。…(中略)…
56〔検波,増幅,発振用三極管〕
56 は一般用の三極管で,検波,増幅,発振用として設計された。増幅率は
比較的高く,抵抗結合用として便利である。カソードはフヰラメント・トラ
ンスの二次線の中点,又は 50 オームのハム・バランサーを入れて其の中点へ
か
ごと
接ぐことが望ましい。もし斯くの如くにして用ひないと,ヒーター即ちフヰ
ラメントはカソードに対して 45 ヴォルト内外の負に保たれるかも知れない。
交流受信機に於いて,カソードをヒーターへ直接に接続しない時には,ヒー
ターとカソードのイムピーダンスを可及的小さく保つ様に注意する。この注
ろうえい
意を無視するときは,ヒーターとカソードの漏洩作用の為にハムが増加する
であらう。…(中略)…
57〔トリプル・グリッド増幅,検波管〕
そ
57 は特殊の目的に副ふ為に設計されたグリッド三組を有する管である。即
ちコントロール,スクリーン及びサプレッサー・グリッドを持つているから,
いわゆる
所謂ペントードに属するが,サプレッサー・グリッドは,管内に於いてカソー
ドに接続されてゐないから,純粋のペントードと称する事は出来ない。増幅
率は非常に高く 1500 より大きい。頂上のキャップにはコントロール・グリッ
ドを出し,サプレッサー・グリッドはベースピンへ出してある。これはヴァ
すぐ
リアブル・ミューの性質は持つていない。プレート検波としては優れた検波
を有し,スクリーン・グリッド管として使へば無線周波増幅用ともなり,自
動音量制御管ともなる。又 A 級増幅管としても能率がよい。写真から解る
通りに,在来のアメリカ型とは形状を異にし,ドーム・トップ型と称するも
ので欧州にはこれに類似したものがある。内部シールドはドーム(円蓋)中
にある。この真空管は他のものと交換して使ふことが出来ない。(註)ここ
で言ふサプレッサーとはペントードの接地グリッドのことで,普通は管内で
フヰラメントの中点へ接続されてゐるから,これに外部から触れることは出
来ない。…(中略)…
この記事からわかるように,ドーム型は 57,58 からわが国に入ってきたのであ
る。「スクリーン・グリッド管として使へば無線周波増幅用ともなり…」といっ
ているところから考えると,最初は検波用として作られたのであろうか……。そ
154
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
れとも訳者の意見なのであろうか……。
58〔トリップル・グリッド・スーパー・コントロール増幅管〕
トリップル・グリッドとはコントロール,スクリーン,及びサプレッサー・
グリッドの三個を持つてゐることである。58 は無線周波及び中間周波回路
に 56 及び 52 と組合せて用ひる。写真からも解る通りに 57 と同様の形状及
構造を持つている。58 は 57 同様サプレッサー・グリッドが単独にべ一スの
下部のピンに出してある五極管で,スーパーコントロール即ちヴァリアブ
ル・ミューの特性を備へてゐる。自動音量制御を必要とする受信機の無線周
すぐ
波及び中間周波回路に使用して,特に優れた特性を持つてゐる。其の他の構
造,サプレッサー・グリッドの接ぎ方等に関する注意は 57 と全然同様であ
るから略す。…(中略)…
以上が,高周波ペントード管 57,58 がはじめて日本に紹介されたときの記事で
ある。さらに同記事を続ける。
型番号未定(ヒーター型出力ペントード)
これはヒーター型の出力用強力ペントードで,不歪出力は 3.5 ワットに達
する。第八図は新ペントードと 47 との比較を示したもので非常に感じてゐ
しか
ることが分る 1) 。負荷抵抗は 7000 オームの時に最大出力が得られ,然も第
二高調波の出力が一番少ない。…(中略)…
これはいうまでもなく 2A5 のことである。この時はまだ型名がきまっていな
かったものと見える。つぎに同じように,
型番号未定(発振兼第一検波管)
これは一個を以てスーパーの第一検波と発振とを同時に行はんとする特
ごと
殊管で,発振はダイナトロン特性を利用してゐる。第十三図からも解る如く,
ペントードにプレートを二組挿入した様な構造である。
図は省略する。これは 2A7 のことである。更にまた,
G–2S(検波専用二極管)
カソードを中心として小型のプレートを二組持つ検波専用の二極管である。
1) 著者注,図は略す。第八図は 47 とのハムの比較のカーブである。
155
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
特性は一つも発表されてないから詳細は不明である。単なる試作品にすぎな
いらしい。
これは後の 6H6 であることは説明するまでもない
が,この間に 2.5V の相当管が出たか否か著者の記憶
にもないし,資料も持ち合わせていない。2A6(ヒー
ター 2.5V,ロー µ の二極三極管)はこの記事にはま
だ現われていない。この記事には他に 82,34 などが
紹介されている。
このように前景気はよかったが現物はなかなか到
着せず,やっと 10 か月たった 1933 年(昭和 8 年)5
月号の「無線と実験」表紙に姿を現わした。同号に
その製作記事も掲載された。筆者は目黒の谷沢進氏
である。
第 149 図 新型真空管を用ひて受信機の試作
ようや
最近に至り 漸 く新型の真空管 57,58,82 等を入手しましたので,早速こ
れらの新型のものに更に 247 を出力管として第一図(第 150 図)の様なセツ
トを試作しました。次に簡単に小生の貧弱な経験を述べさせて頂きたいと思
ひます。御承知の通り 57,58 共にペントード〔五極管〕でありまして,前者
第 150 図 156
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
は 224,後者は 235 をペントード化したものと考へることが出来ます。従つ
て特性も著しく改良されて居ることは申すに及ばずです。又 82 と云ふ球は
水銀を封入した両波整流管であります。我国においては UZ57,UZ58,KX82
の名称の下に間もなく市場に現れるでせう。…(中略)
ミリ
…シールド箱は厚さ約 1耗の銅板で作り,寸法は V1 ,L1 ,L2 ,L3 ,C2 が
センチ
センチ
センチ
楽に入る様に高さ一三 糎 ,幅八・五 糎 ,長さ一五 糎 に取り,V1 には更に
上端及下端に数個の通気孔を設けたシールドを施しました。C1 ,C4 は二連
バリコンであります。C1 と C4 は別々に完全にシールドをしました。57,58
の様な高増幅率のバルブ〔真空管〕を高周波増幅に用ふる場合には,二個の
普通のバリコンをドラムダイヤルを用ひて聯動せしめた方がいやな反結合を
起すことなく,非常に得策と思ひます。…(中略)…
此の部分で特に申し添へたいことは,八二は御承知の通り水銀蒸気整流
管 1) でありますため,其特性として,プレート電流のウェーブフラントが
嶮しいため真空管回路には減衰振動が誘起され,このため感度鋭敏な受信機
に於ては大きな騒音を発生します。是を防止するには球をシールドすると同
時にそのプレート帰線に四ミリヘンリー位のチョークを入れるのであります。
球のシールドには過熱を防ぐため,孔を沢山あけなければなりません。…
(後略)…
その後,UZ57,58 に続いて UT59 が現われた。
これはヒータ電圧 2.5V の傍熱型パワー五極管で
あった。パワー管としては初めてサプレッサ・グ
リッドが外部に引出され,アマチュアはサプレッ
サ変調の実験ができるようになった。
第 151 図は「無線と実験」1936 年(昭和 11 年)
2 月号の表紙に掲載されたアマチュア局用送信機
である,すでに自励発振の使用者は少くなり水晶
発振子が使用されている。UT59 は発振,増幅共
に使用され出力は 10W となっている。
このように高周波ペントードが登場してもわが
国ではろくに製品が出回らないうちに,本家の米
第 151 図 1) 〔編者註〕真空二極管の中に少量の水銀を封入したもの。低いプレート電圧でたくさん電流を流すことができる。
157
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
国では 6.3V 球が使われはじめた。米国では 6.3V 球は最初自動車用として開発さ
れたのであるが,しだいに一般の受信機にも使用されるようになったのであった。
以下は「無線と実験」1933 年(昭和 8 年)5 月号に掲載された中原武夫商店の広
告である。
米国に於て理想的受信機の出現,ラヂオの大革命
ようや
最近我国に於て 56,57,58,82 型真空管が 漸 く売り出され,是れを使用
べ
する受信機は今より製作に取り掛る可く各受信機製作業者は其研究に没頭し
しか
つゝあり,然るに米国にては是等は既に昨年中に終り,現在にては交流直流
両用として 36,37,38,39,12Z3,25Z5 等,新型真空管を使用せる受信機を
各製造会社は競ふて発売せり。形状に於てもミゼット型は市場より駆逐され,
大体に於て在来のミゼット型は携帯用,机上用及一般家庭用としては蓄音器
ごと
箱の如き蓋付の三種と変化し,ダイナミックスピーカーを箱内に入れ,寸法
は僅かに約幅七,八寸,高さ五,六寸,奥行四寸位の(内地のラッパの箱よ
もんめ
しか
り小さき)小箱,目方七八百 匁 より一貫目 1) 以内,而も四球,五球,六球等
のスーパーヘテロダイン機にして,能率分離の点に於ては従来のセットの比
第 152 図
1) 〔編者註〕1 貫は重さの単位。3.75kg。1000 匁。
第 153 図
158
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
に非ず。交流直流何れにても使用し得る故,家庭用としては昼間電燈線なき
場合は電池,夜間は電燈線より,旅行用としては自動車,電車,汽車内,野
い か
に山に河に海に,如何なる場所にても使用し得る真に理想的受信機なり。
これは輸入商の思い違いで,DC は米国における直流送電地帯用であった。
また第 152 図に示すのは「無線と実験」1934 年(昭和 9 年)6 月号に掲載され
たエルコ商会の広告である。
広告中にオールウエーブとあるが,当時オールウエーブ受信機を販売するのは
何等問題とならず,その使用が禁止されていたのであった。
ここで UZ77,78(6C6,6D6 の前身)の登場となるのである。以下は「無線と
実験」1934 年(昭和 9 年)1 月号に掲載された記事で,筆者はドン真空管の山田
早苗氏である。なお当時このドン真空管は,ベストおよびエレバム真空管ととも
にアマチュア問で非常に愛用されたものである。
国産トランス・レス受信機用真空管と,その受信機の作り方
はしがき 今春来,本邦真空管界は全く新球の嵐に吹きまくられて居るの
感が深い様でありますが,又々ファン諸君の前に新球が発表せられて居りま
す。それは本年(昭和 8 年)6 月頃輸入業者に依つて我々の前に提供されま
第 154 図
第 155 図
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
159
したトランスレス受信機に依るものでありまして,その受信機は全く目新し
い構造のものであり,又使用真空管も新しいものでありました。しかもその
受信機は音量,音質,そして経済的な見地からしても,家庭用として全く適
当なものであると云ふ事が,再度我がラヂオ界を変遷せしむるに充分なもの
か
である事は明かな様に感ぜられます。斯くして新球トランスレス受信機用真
空管が発表せられたのであります。
受信機の音量及び音質は先にも述べました通り家庭用として適当なもの
であると云ふ事は,普通の使用法に依つて約一ワットから二ワット位の出力
いかん
を持つものであり,音量もその製品如何によつては決して悪いものではなく,
又真空管も大分改良されて居る点もあります。経済的の方面から見ますと,
従来の受信機に於ては,パワートランスはその受信機に用ひられている真空
管と大体同価格程度のものが用ひられて居りましたのに比し,この受信機で
はその構造上からしてこれが不必要であると云ふ事から,これだけ安価とな
る事は明白でありませう。次に維持費に於ては又パワートランスを有するも
のに比し,同等程度のもので約七〇パーセントで済むと云ふ事も見のがせぬ
事であります。こうしますと,全く現在の受信機に近き将来取つて代るべき
ものであると申しました事も過言ではない事であらうと思ひます。次に新真
空管の説明を致しませう。
つい
真空管に就て トランスレス真空管は,交流又は直流の電燈線を電源に用
ひているものであつて,その使用真空管には 2 種ありまして,一は自動車受
信機用真空管をこの受信機に流用し,一はトランスレス受信機専用球であ
ります。トランスレス受信機はこの二種を併用しているものと,単に自動車
用球のみを用いて居るものとがありますが,ここでは両者を併用するものに
つい
就て述べる事と致しませう。今回発表されたものは UZ43,UZ77,UZ78,及
つい
KZ25Z5 の四種であります。この四種に就て詳しい説明をいたします。
UZ43(終段増幅用傍熱型ペントード)
UZ43 は終段増幅用傍熱型ペントード〔五極管〕でありまして,低電圧で
大なる出力を得らるゝ様設計してあります 1) …(中略)…
UZ77(検波,増幅用高周波ペントード)
UZ77 は UZ57 に良く似た特性を持つ六・三ヴォルト型自動車受信機用の
1) 著者注。Ep 135V で 2W 出したのであるから,エミッションはきわめて大きい設計で Ef 25V,0.3A であった.
160
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
高周波ペントードでありまして,その規格は 1) …(中略)…
UZ78(バリアブルミュー高周波ペントード)
UZ78 は UZ58 に似た特性を持つ六. 三ヴォルト型自動車受信機用のペン
トードでありまして…(後略)…
トランスレス
受信機は局型
受信機などで
いやがられ,ほ
んとうに大衆
のものになっ
たのはごく最
近であるから,
筆者の予言か
ら 20 年余かか
ったわけであ
る。
一方,わが国
においても第
第 156 図
第 157 図
156 図に示す KO トロンのように,米国の規格によらない独自の真空管の開発
が試みられたが,あまり売れ行きはよくなかったようであった。しかし第 146
図に示したうちの 247B(後の 47B)
,280B などは日本独自の型としてごく最近ま
で使用されたことは周知のとおりである。247B は 1932 年(昭和 7 年)4 月,マツ
ダより発売された。また最初にハイ µ の 227 として NY227R を発売したのは日本
無線であった。
また超 245(後の超 45)は 2A3 の代りとしてかなり長い間使用されたが,フィ
ラメントが弱いのが欠点であった。
さて,1934 年(昭和 9 年)4 月号より「無線と実験」誌は全紙面が横組となっ
た,当時としては大英断であったといえよう。
しかし同時に 1934 年 6 月号ではラヂオ職業講座,ラヂオサービスの研究という
ような記事が 86 頁も占めるようになり,アマチュアの雑誌というより無線会社
1) 著者注。ヒーター以外は 57 とほとんど同じであった。Gm は 1.25MΩ であったから,後の 6C6 の 1.225MΩ に近い。
161
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
の技術者やラジオ屋さん用に変換しつつあった。時局の影響によるものであった
ろうか……
このような状況のもとに国産の新型管はぞくぞく発売された。
第 157 図に示す広告は「無線と実験」1934 年(昭和 9 年)7 月号の裏表紙に掲
載されたものである。2A7,2B7 などの国産品が出回るとともに同誌 9 月号は遠
距離受信特輯を行なった。以下は同号に掲載された記事の一部で,筆者は茨木悟
氏である(第 158 図)。
2A7,2B7,2A5 新型球を用ひた新型スーパーヘテロダインに就て
新しきスーパーヘテロダイン受信機が
出現した。通常のスーパーに一歩進んだ
ものである。2A7 型球の出現により第 1
検波と発振の結合が簡単になつて完全に
なつた。即ち従来まで 2 個を要した発振
並に検波が 2A7,1 個で出来て,検波と
発振の結合法が電子結合(エレクトロ
ンカップリング)に進んだ結果,発振回
ごと
路に従来の如く負荷の懸ることなく,極
第 158 図 めて安定であるばかりでなく,コンバー
ジョンゲインが数等増加する関係で,同じ状態の場合にても従来より数倍強
しか
力なる中間周波を作ることが出来,而もバリオミュウである為め,自動音量
すこぶ
調節球に連結して 頗 る有効になり,行きづまりであつた波長変換の問題が
ま
一先づ解決した訳である。独逸(ドイツ)の雑誌を見ると,2A7 の一層進歩せ
るオクトード〔八極管〕と称する新球が発明されて既に実用時代に入らむと
して居る様子。遠からず日本にも出来るであらうと考へる。此の新球は 2A7
ごと
球のプレートとスクリーンの間に,普通の 57,58 球にある如くグリッドを置
だ
き,之がカソードに連結さるる様になつた丈けのものであるが,其の為に受
くる利益は,コンバージョンゲインが 2A7 が 60 であるに対し 250 に達する
すこぶ
由で,中々の進展振りである。2A7 球は 頗 る簡単にオクトード球に入替可
たびごと
ま
能であるから,新球の出来る度毎に気を痛む諸氏も先づ大いに安心して 2A7
を使つて置いてよろしい。
162
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
めざま
2A7 球に次いで目醒しい進歩は 2B7 の出現であらう。第 2 検波を低周波 1
段と自動音量調節球を兼備せる新球であり,此の球を使用せる結果より見る
ま
と,先づ音質非常によく,フェーヂングが充分調節出来,更に低周波の出力が
なお
相当多い事を上げることが出来る。尚経済的に使用する必要があるなら,本
球をレフレックスに使用し,中間周波拡大と低周波 1 段拡大を兼ねさせて 58
球 1 個を助けることが出来る。2A7,2B7 は共にスーパー受信機に最も必要
であつたものが与へられた感じのする球である。…(中略)…
2A7,2B7,2A5 型 5 球スーパーヘテロダイン
すこぶ
前述の 4 球式スーパーはトリック的応用であったが 1) ,此の方式は 頗 る
ま じ
め
真面目のスーパーで,能率も非常によい。受信能力も高級品として申分無
く,総べての点に於て実用性を多分に持つ高級ラヂオ装置と決めてよからう。
もうすまで
申 迄 も無く価格も相当に安い。(第 159 図)
回路の説明 本機は第 1 検波及び発振用として 2A7 球を,中間周波拡大用
として 58 球を,第 2 検波,自動音量加減器及び低周波 1 段用として 2B7 球
それぞれ
を,パワーアンブリーファイヤーとして 2A5 球を,整流として 280 を夫々使
用する方式であって…(後略)…
このようにスーパー用真空管がデビュウしたものの,売れ行きはあまりかんば
第 159 図 1) 著者注。2B7 を IF,AF にレフレックスで使用してある。
163
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
しくなかったらしい。もっともスーパー受信機の需要が非常に少なく,一般家庭
では並 31) か並 42) で十分ことたりた時代であったのである。
新型管の売れ行き不振を使い切れないからだという立場から,川野義雄氏(当
時,読売新聞ラジオ技術部長)は「無線と実験」1935 年(昭和 10 年)4 月号でつ
ぎのように述べている。
特殊新球の使用法について
しか
ごと
相変らず新球は市場に現はれてゐるが,然し日本のラヂオ市場は米国の如
く新球に対する活気がない。この理由は日本独特の素因もあるが,1 つはそ
もちろん
の新球を充分使ひこなせぬことにも起因してゐる。勿論新球は相当に値段も
さば
高い。この売り捌きの大なるほど合理的に値段も低下出来るが,初めは製造
か
者側も採算出来ぬ為に値段は高く,且つ使用法を充分知らぬならば新球の前
途は実に暗胆たるものである。この問題を考へると製造者も新球を出す気分
しか
かか
になれない。然し,本質的に考へるならば,たとへ斯る憂慮あるとも世に製
しかい
造者として立つならば,多少の犠牲を払つても斯界をリードしてやらねばな
第 160 図
1) 〔編者註〕放送局型 1 号のように再生なしの 3 球ストレートラジオ。
2) 〔編者註〕放送局型 3 号のように再生無しの 4 球ストレートラジオ。
第 161 図
164
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
るまい。日本の製造者はこの点に欠けてゐる。
い か
米国で出してゐる新球は何れも独特の特徴を有してゐる。故に如何なる型
のものでも,其の特性を吟味したならば,其の価値と特質を容認出来る。今
回は吾々に最も関係の深いものを 2,3 挙げて,其の特性や使用法を研究し
て見ることにした。之等の真空管は何れも来るべき受信機界の寵児として其
の使命を有するものと考へてゐる。…(後略)…
また新型管としてスペースチヤー
ジの UX111B(フィリップス A141
をマネしたもの)を使用したポータ
ブルセットが現われた。第 160 図は
「無線と実験」1934 年(昭和 9 年)12 月
号に掲載の広告で,総重量は 2.25kg,
大きさは 260 × 160 × 70mm のトラ
ンク型であった。回路は高周波なし
の再生検波,低周波 2 段の 3 球式,A
電池は 1.5V,B 電池は 28.5V,C 電
池は −3V であった。ループアンテ
ナは,トランクのフタに内蔵してあ
った。
一方,「無線と実験」1935 年(昭
和 10 年)4 月号には第 161 図のよう
に 6C6 を使用した KADETTE 社の
広告が掲載されている。この当時は
6C6,6D6 は記事としてはほとんど
第 162 図 紹介されておらず,広告が先行した感があった。
つい
このような時代をバックとして終にメタルチューブ〔金属真空管〕が現われた
のである。「無線と実験」1935 年(昭和 10 年)7 月号は,第 162 図に示すように
レディオ界の革命児「受信用金属管」現わるという記事を掲載している。
「Radio
Engineering」April 1935 より訳者は海野勉氏である。
はしがき 真空管とグラス〔ガラス〕とは現在まで不可分の位置にあり,従
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
165
来の真空管では包装にグラスを使用してゐないものは絶無だつたと言へる。
ところが「General Electric」より発表された新型真空管は全くグラスを使用
もっぱ
せず,其の包装には 専 ら金属を用ひ,金属部は真空管の包装として役立つ
と同時に,シールドの役目をもなして居る。其の特性は,在来のグラス真空
管の或るものとは異なるところがないが,その製作は極めて新しい手段を以
て行はれて居るのである。以下,此の真空管界,否レディオ界の革命児とも
称すべきミタル・ティユーブ(金属真空管)の構造と特徴などに就いて述べ
て見度いと思ふ〔訳者〕。
「General Electric」会社のスケネクタディ研究所では数種のミタル・ティ
ユーブ(金属真空管)を発表した。此の真空管は円筒形をなし,従来の同一
規格のグラス・ティユーブより小型である。此の金属真空管は GE の使用に
供する為「RCA-Radiotron」に依つて目下製造中で,間もなく GE の受信機に
お め
み
え
使用されて,広く世に御目見得する事であらう。
(中略,このあと構造,キー
ベース,残留ガスについて述べている)
ことごと
次記の各真空管は 悉 く 6.3 ヴォルトの傍熱型,電流は 0.3 アムペアのも
のである。今まで高電圧の整流管には次記の様な型式番号は割り当てゝない
が,此の整流管は熱の放射を援ける為に,金属の包装に孔の開けてあるとこ
ろが標準の金属真空管と異なつて居る。金属真空管に於いては,グラスのも
のに比して熱放射性の良い金属を使用して居る為に,電力増幅管として高能
率が得られる。其の上,管の周囲の空気に熱を発射する輻射能力は,グラス
のものより良好であるが,金属カヴァーと其の周囲の温度は,グラス真空管
の場合より高くはないと云はれて居る。
金属真空管の型式番号 今までに発表されて居る金属真空管を記して見る
と,次ぎの様なものである。
6A8 (ペンタグリッド・コンヴァーター)
6C5 (検波増幅三極管)
6D5 (電力増幅三極管)
6H6 (複二極管)
6J7 (トリプルグリッド検波増幅管)
6K7 (トリプルグリッド・スーパー制御増幅管)
166
第 11 章 近代型真空管の誕生とラジオセットの進歩(1932∼1935 年)
6D5 は三極管の故か,わが国ではほとんどみる機会がなかった。記事中「メタ
ル管は熱放射性のよいものを使用しているから,電力増幅管として高能率が得ら
れる」とあるが,これは事実と相違していた。
特にパワー管や整流管,たとえば 6L6 や 5Z4 のようにプレート損失の大きいメ
タル管は,同型のガラス管にくらべてかなり短寿命であった。
なおハム用(VHF 用)として,「無線と実験」1934 年(昭和 9 年)12 月号に
RCA955 がまた RCA954 が 1935 年(昭和 10 年)7 月号に紹介されている。いずれ
もエイコーン管とよばれて,現在でも一部で使用されているものである。
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで
(1935∼1945 年)
さて,真空管の話ばかりつづいたが,ここで
ちょっと回路技術をふりかえって見よう。「無
線と実験」1935 年(昭和 10 年)7 月号に,
「新
しい記号 “Q” の話」という小記事がある。筆者
は L.P.D 生氏である。
近頃,色々な記事に “Q” といふ文字が現われてゐる。そして別に説明が加
へられてないが,これは無線同調回路の特性を示す 1 つの指針であつて,簡
単に説明すれば以下の通りである。同調回路方式に,直列共振回路と並列共
振回路の 2 つがあることは言ふ迄もないことで,前者はインダクタンス,容
量,抵抗及び電源が全部直列になつてゐるもの,後者はインダクタンスと容
量が並列(抵抗は此の回路に直列に入つてゐる)になつていて,電源が並列
に加へられてゐる。そして,直列共振回路にあつては,共振周波数に於いて
イムピーダンスは最小であつて最大の電流が通るが,並列共振回路にあつて
は逆に共振周波に於いてイムピーダンスは最大である。…(中略)…
同調コイルの能率 従つて同調回路の選択度は,コイルのリアクタンスと
実効抵抗の比で示される。即ち,リアクタンスを 2πf L,実効抵抗を R とす
れば Q = 2πf L/R = コイルのリアクタンス/コイルの抵抗となる。“Q” の値
の大きいもの程よいのであつて,アマター・バンドの低いところでは 100 位
に達するが,更に低い放送電話周波数帯にあっては 500 位に上げられる。
アマターというのはアマチュアのことで,ティユナーとかミーターとかこの時
代には妙な歯の浮くようなコトバが流行した。時局に対するレジスタンスと考え
られないこともない。
また少しとんで 1938 年(昭和 13 年)4 月号の同誌編集後記には,つぎのような
記事がある。
デシベルの講義をしたら,大失敗をしたといふ話がある。技術者たる聴講
168
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
者が,誰一人としてデシベルそのものを咀囎(そしゃく)してゐなかつたか
らである。…(後略)…
ともに今日ではゆめのようなはなしである。
さて,2A7—6A7 は BC バンドで使用しているうちは問題はなかったが,オール
ウェーブ(もちろん米国でのはなし)となって短波帯で使用されるや,たちまち
トラブルが発生した。
そして,6L7 の登場となるのである。「無線と実験」1935 年(昭和 10 年)12 月
号の海外翻訳記事欄「アンテナは語る」は,つぎのように報じている。
なお筆者はヘンリー生氏および春潮生氏で,かなり長い間この欄は連載されて
いた。
6L7 型ペンタグリッド・ミクサーアンプリファイヤー全金属管
(Radio Craft. Oct 1935)
最初「オッスィレイター・ミクサー又はオッスィレイター・第 1 検波」の
複合管として名声をかち得たペンタグリット管は,今回新デザインの「ミク
サー・アンプリファイヤー」の複合管として栄誉を更に荷なふ事でありませ
う。2A7 型と 6A7 型ペンタグリッド変周〔周波数変換〕管が 1933 年 5 月に
最初に紹介された時,スイユーパ・ヘテロダインの為,これ迄の変周法に著
これら
しい進歩を与へました。実際に之等の真空管は以前に出遇した総べての欠陥
を征服するでありませう。――といふ事が主張された程,レディオ技術家達
しば
これら
は熱狂しました。そして暫らく之等の主張は正しいものとされて居りました。
しか
併し,商業的オール・ウェイヴ・セットの市場への出現は,新しい問題――
2A7 型と 6A7 型は,特に短波帯の高周波数端に於て不完全であると云ふ――
がもたらされました。低い周波数に於て良好に持続された発振管能率は,高
周波帯の低周波数端に於て不適当であることが判明いたしました 1) 。そこで
これら
技術家は之等の周波数に於て真空管の操作能率を増加する手段を求めました。
数種の回路が案出されました内で,三極管がオッスィレイター出力を補強す
るか,又は真空管(2A7 型の)オッスィレーター部分を全然取つて代つて,別
の発振管からの局部発振を「Virtual Grid」即ち普通「オッスィレイター・セ
クション・グリッド」と呼ばれて居るものに依つて変周管に注入する方式の,
1) 著者注。短波帯でバリコンが入ったところで発振が弱くなることをいっているのである。
169
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
発振管としてのいずれかに使用されました 1) 。此のシステムは良好な能率を
しか
示しました。併し又別の難題が,コントロール・グリッド(第 4 グリッド)と
「Injection Grid(注入グリッド)
」間の結合といふ形で出て来ました。此の結
合はちいさく,放送バンドや短波スペクトラムの低周波端に於て認められぬ
――とは言へ,それは 10 ミータ以下のセットを作るセット・メイカーの頭痛
の種でありました。金属管の新系統の出現と共に,真空管技師は上述の困難
を除く様に,特にデザインされた新真空管案出の好機会に出逢ひました。此
の真空管は 6L7 型と呼称されるもので,相互間をシールドされた 2 個の別々
のコントロール・グリッドを有する「ペンタグリッド・ミクサー・アンプリ
ファイヤー」といふペンタグリッド管の 1 種であります。此のデザインに依
りますと,各コントロール・グリッドをして電子流(キャソードからプレイ
か
トへの)に無関係に働かしめます。斯くて,同管は分立した発振ステージを
有するスイユーパ・ヘテロダインのミクサーとして使用する事が出来,同様
に他の応用方法としては,単一ステージに於てデュイアル・コントロールが
望ましいところに使用可能であります。…(後略)…
さらにこの記事は G3 グリッドに AVC 電圧を注入すれば,選択度に無関係に感
度が調整できることをのべているが,後年われわれが珍重したノイズサイレン
サーとしての使用法はのべていない。
なお,
「Radio News」の Dec. 1935 および Jan. 1936 には,5Z4,6F5,6F6,6Q7,
6E5 が発表されている。
このような情勢は当然わが国のプロおよびアマチュアに大きな刺激を与えたの
である。
「無線と実験」1936 年(昭和 11 年)4 月号の社説はつぎのように論じて
いる。
国産金属真空管の出現を待望す
ここ
1904 年フレミング教授に依つて二極真空管が発明せられてより,茲に 30
つい
にっし
余年,遂に金属真空管時代が到来したのである。30 年と云ふ日子は考えやう
がいし
では長くもあり,又短かくも感ぜられるが,その間に於て,碍子真空管を巡
じゃっき
つて,或る時は大西洋を距て,英米の国際問題をも惹起したものである。
即ち例のリ・ドゥフォレ博士のオーヂオン・ヴァルブ問題は特許権係争か
1) 著者注。文意がハッキリしないが最初の方法は別の 3 極管で発振して 2A7 に注入する方法で,後のは 2A7 へ別の 2A7
で発振して注入するということらしい。
170
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
ひ
まね
ら,延いて英米間の国際的危機までも叫ばれたことは,世人の普く記憶する
ところである。此の争ひは遂に漁夫の利を GE 会社のラングミュア博士のコ
さら
な
ンディセイショ・ヴァルブの硬度真空管に依つて浚はれたことも亦,今尚ほ
世人の口の端に残るところである。
険悪なりし真空管の過去の歴史も今は淡くも世人の記憶から去らんとする
ここ
時に当り,茲に突如として金属真空管の出現を見るに至つたのである。
金属真空管の特徴は今更吾人が説明するまでもなく第 1 に小型,第 2 に
か
もちろん
セットのシールド不要,且つハウエルを生せず,勿論堅牢なる等の特徴があ
これら
しばら
お
り,未だ此の外に幾多の金属管としての特徴を挙げ得るが,之等は 暫 く措
くとして静かにセットに及ぼす今後の影響を考ふるとき,セット界を全く一
新する時代が,近き将来に到来するに至らずやと思惟せらるゝのである。
現に米国にては,昨年 6 月迄は全受信機の僅か 3 割を占めてゐたものが,ク
リスマス前後に至つて,75%の金属真空管時代を招来せしめたることを以て
しても,やがては本邦セット界も此の潮流の影響なしに過すとは考へられ
ない。
こと
殊に近時実現さるべき大電力時代の受信機には,益々分離選択性の鋭敏な
るものを要求せられることを考慮すれば,金属真空管に依るスーパー・ヘテ
ロダイン級のセットが,最も多く市場に流布されるものと想像せられる。又
一般ラヂオ以外の即ち軍用,或は飛行機,自動車用ラヂオ等も,金属真空管
の出現によつて益々盛んになることを予想されるのである。
しか
然るに現在の本邦にては,この金属真空管を入手せんとすれば,輸入する
まま
他途なきの状態である。これをこの儘放置するに於ては,現下の非常時局に
際して,ラヂオの独立性を危くするものと言はねばならぬ。
ここ
あえ
茲に於てか,敢て主張するものである。心ある真空管製造業社諸君よ,一
日も早く金属真空管の研究に手を染められ,一刻も早く市場品の出現を図ら
れんことを切望してやまぬものである。
もちろん
にっし
勿論,米国に於ても 3 ケ年の日子を経て研究完成せられたものである以上,
ま
本邦に於ても之が急速に成功するものとは決して考へてゐないが,先づ其の
こと
ガラス
材料殊に硝子部と金属部の接触面に於ける合金等は,よろしく東北帝大なり,
理研等の研究に協力せられんことをお勧めする次第である。
171
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
次に一般ラヂオ・ファン諸君は,国産金属真空管が出現せる暁には,之を
応援する意味に於て,絶対に国産金属真空管の支持を願ひたい。
又,放送協会等は,真空管製造業者に対し,技術的方面と財政的方面との
援助に一奮発せられ,金属真空管の研究達成の助成にやぶさかならざらんこ
ねが
とを希ふ次第である。
国産のメタル管は戦時中わずかの
種類が生産されたが,もちろんアマ
チュァの手には入らなかった。そし
て戦後は GT 管から MT 管にかわっ
て行ったのであるから,戦後でた放
出品以外は日本の大部分のアマチュ
アには無縁におわってしまったので
ある。
さてつぎに現われたのは 6L6 であ
る。第 163 図に示すのは「無線と実
験」1936 年(昭和 11 年)8 月号に掲
第 163 図 載された記事で,
「QST」JUNE 1936
より訳者は J.Y.T 生氏である。
全金属真空管の跳躍 ビーム管 6L6 の理論と使ひ方
はしがき 現今,広く用ゐられてゐる真空管の総べては,管内に於ける電
子流の直進性を利用したものであるが,理論的に設計された特殊管では,電
こ
子流を曲げることが出来る。斯うした立場から或る特殊な性質を有する真
空管の設計に成功したのは「RCA ラヂオトロン」会社の O. H. Schade 氏で
「ビーム電力管(beam power valve)
」と仮りに命名し,全金属管級に 6L6 な
る名称を加へた。
か
元来この管は家庭用として歪のない,且つ音響特性の良好な高電力出力管
を得ることを目的としたのであつたが,偶然にもアマチュア用(著者注,ハ
ムのこと)として非常に便利なものであることが判つた。…(後略)…
インチ
そしてまた 1937 年になるや 1 吋 〔約 2.5cm〕のブラウン管 913,バリアブル
ミュー・エイコン管 956,などとともに 807 が登場したのである。つぎに示すのは
172
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
「無線と実験」1937 年(昭和 12 年)3 月号の「アンテナは語る」で「Radio Craft」
Jun. 1937 よりの翻訳である。
RCA–807 型 5 ミータ・ビーム送信管
低周波アンプリファイヤーやレディオ受信機のサークルから熱狂的な歓迎
を受けて居るビーム管は,短波送信分野にもセラミック・べ一スを有し,低
電極間容量のトップ・キャップ,中和操作の必要を最小とする改善された
RF パウア増幅管の形式で侵入して参りました。此の RCA807 型真空管は 21
ワットの最高プレイト損失と高パウア感度を有するもので御座いまして,ク
リスタル発振管に,ダブラーに,或はバッファーとしての用途にうつて付け
のものであります。…(後略)…
さらに 1938 年前期までに G 管が多数現われた。これは「無線と実験」1938 年
(昭和 13 年)7 月号に掲載された記事で,筆者は太田納氏であった。
新型真空管の規格と性能
はしがき 昨年あたりから米国で新しい真空管がたくさん売出されていま
すが,これ等の真空管の中主なるものを御紹介致します。これ等の大部分は
ガラス
いわゆる
金属真空管を硝子管にしたやうな所謂G 型の真空管であります。
6V6G これは自動車用或は家庭用セットに使用する目的で作られたもの
で,比較的フィラメント,プレート電流が少く,即ち消費電力が比較的少く
て出力の大きい高能率の四極ビーム管であります。最初にビーム管として発
表された 6L6 或は 6L6G と同じやうな構造を有するもので,6L6 を小電力に
したものであります。…(後略)…
なおこの他に,6K6G,6J5,6B8,5U4 などが紹介されている。
1937 年(昭和 12 年)7 月 日華事変が勃発した。
同年 9 月,輸出入品等臨時措置法が公布され,舶来の部分品,真空管などの入
手はきわめて困難になった。
一方,無線雑誌の記事にもしだいに時局の影響が現われてきた。一例として「無
線と実験」1938 年(昭和 13 年)5 月号に掲載された記事を示す。筆者名はなく,
原口無線電機株式会社研究部となっている。
173
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
第 164 図 国防標語「一家に 1 台備へよラヂオ」新型国防受信機 4 種の解説
非常時と国防受信機! それに就ては幾多記述すべきことも少くないが,根
がペンの人間でない私には「東亜の風雲急……」とか何とかの名文句も浮び
さうに思はれない。技術的には余り関係のない寝言の如き迷文句を長々と書
そ
くのも,どうかと思ふので,夫れらのイントロダクションは御勘弁を願ふと
して,早速本題に入ることゝする。以下,解説する国防受信機は,最近完成
を見たものゝ中,一般向のものを選定し,此の種受信機に関心を有せられる
方々の,御参考に供する次第である。(第 164 図)
ま
先づ初めに,国防受信機は,これを技術的分類に従へば,完全純粋な交・
直両用受信機ではないことを明記しておく。即ち,本受信機は電燈線より交
ていしょう
ていこう
か
流電源を得,これを適宜 逓 昇 或ひは逓降し,且つまた,適当なる整流装置
よ
に拠り直流に変換し,以つて蓄電池に蓄へ或は蓄へつゝ,これを受信機の繊
条及び陽極電源として供給し使用するものであつて,常に蓄電池の仲介を必
要とするものである。…(中略)…
か
さて国防受信機の技術的定義は充電装置を自蔵し,且つ充電を簡易に行ひ
得る蓄電池式受信機といふことになる。…(後略)…
第 165 図は「無線と実験」1935 年(昭和 10 年)9 月号に掲載されたこの種製品
の広告である。しかし保守困難と価格の点で,この種のラジオは一般には普及し
なかった。トランジスタなど夢にも考えられない時代のはなしである。
174
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
第 165 図
第 166 図
1938 年(昭和 13 年)4 月国家総動員法が公布され,ピックアップなどが製造禁
止になった。第 166 図は「無線と実験」同年 8 月号に掲載されたサミット・ピッ
クアップの広告である。
このような情勢の下に「無線と実験」誌も「無線報国」の文字を表紙に刷りこ
むようになり,記事もだんだん時局色をおびてきたのであった。1938 年(昭和 13
第 167 図
第 168 図
175
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
年)10 月号の同誌口絵には,第 167 図,第 168 図に示すような交流 2 球式受信機
の解説がある(これは整流管共 2 球式という意味である)
。
い か
積極的な物資統制下に在って,如何にして受信機を簡易化し,以つて貴重
物資の節減を計るかといふことは,既に各方面で検討されて居るところであ
いわゆる
るが,これはその一つの例として,最近大井修三氏が試作された所謂国策型
の交流 2 球式受信機である。2 球式とはいふものの 47B によるレフであるか
ら,結局,単球式と称すべきものかもしれぬ。回路は 47B で高周波増幅と低
周波増幅(12F 整流)を行ひ,鉱石で検波する一般的なものであるが,上手
に作れば,これでも強電界地域で家庭用として十分実用に供し得る筈である。
第 169 図はこの号の表紙で本記事の受信機である。「無線報国」の文字も右上
にみえる。また読者の製作欄にも
現在ラヂオに興味をもつ読者諸君の中には,新しき部分品を使用すること
を得意にしてゐる方がありますが,それは国策上良くない心と思ひます。そ
れより古い部分品を使用して,良いものを作るといふことが,国策上最も必
要であらうと思ひます。
というような投稿が現われはじめた。第 170 図は同号の裏表紙である。
第 169 図
第 170 図
176
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
一方,この時代のアマチュア無線はつぎのような経過をたどった。まず 1934 年
(昭和 9 年)9 月 19 日,有志が愛国無線隊を結成して秋季陸軍大演習に参加した。
1935 年(昭和 10 年)2 月,JARL は正式に国際アマチュア無線連合(IARU)に
加入が認められた。
1936 年(昭和 11 年)9 月には第 171 図に示すコールブック中,純アマチュア局
と思われるものは 232 局に達した。
1937 年(昭和 12 年)12 月 10 日,満州国アマチュア無線連盟(MARL)が結成
された。盟員は 26 名であった。
このように局数も増加はしてきたが,事変の進展とともに当局の取締りもしだ
いに厳重になった。つぎに示すのは「無線と実験」1938 年(昭和 13 年)10 月号
に掲載された記事である。
事変下のアマチュア無線
R・K 生
最近アマチュア無線の実験通信上
の違反数が非常に減少した。これは
誠に結構なことであるのみならず,ア
マチュア無線の非常時局に対する緊
張の現れとして実に喜ばしい限りで
ねがわ
ある。 希 くば更に一段の努力を致さ
れ,重要通信への妨害の原因となる
べき違反の絶無を期して頂きたい。
さて,後一息の頑張り場所の目標
ど
こ
は何処に置いたらよいか,既に御承
知のやうに無線通信界には一定の法
規的な形があることであるから,こ
の形をよく呑み込み,充分な注意を
以てこれに臨むなれば,決して違反
第 171 図 をしでかし,他に妨害を与へるとい
ふことはないのである。以下事変下に於て実験通信を行ふに当って特に注意
を要する事項に就て述べることとする。
177
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
ま
先づ第一に電波そのものであるが,私設無線電信無線電話規則第 17 条及
び第 18 条に「私設無線電信無線電話ノ発射電波ハ出来得ル限リ必要ナラザ
ル電波ヲ伴ハザルコトヲ要ス」
かつ
「私設無線電信無線電話ニ使用スル電波ノ周波数ハナルベクコレヲ正確且
安定ニ維持スルコトヲ要ス」と規定し,周波数の偏差から生ずる他への妨害,
並に高周波等不純電波により与へる妨害をなからしめんとしてゐるのである
から,電波を発射するに当つては,一応周波数の正否,不純電波の有無をよ
く確めることが最も肝要である。
次は運用に就てであるが,私設無線電信無線電話規則第 46 条に「私設無
線電信無線電話ノ使用ハ左ノ各項ニ従フコトヲ要ス。但シ……(省略)……
(3)実験用私設無線電信無線電話ニ在リテハ他ノ無線電信無線電話ノ通信ニ
支障ナキ時ニ限ル」なる規定を以つて,アマチュア無線の実験通信を行ひ得
い
か
るのは如何なる時であるかを明らかにしてゐる。
元来アマチュア無線の行ふ実験通信は,その性質上他の無線電信無線電話
の如く通信そのものに急速性を持つてゐるものでないから,軍事通信,公衆
通信はもとより,他の施設目的を有する無線電信無線電話のどれかに支障を
ごと
及ぼすが如き時には,絶対に避けねばならないのである。故に実験通信を行
ふに当つては,まづ自己の受信機でこれより発射せんとする周波数を一応聴
取し,他の無線電信無線電話がその周波数に於て通信をなしているや否やを
確め,支障なきを認めたる上,自己の通信を始めるやう特に心がけなければ
ならぬ。次は無駄な電波を空中へ発射せざることである。私設無線電信無線
電話規則第 49 条に「実験用無線電信無線電話ハ特ニ規定アル場合ヲ除ク外
他ノ無線電信無線電話トノ通信ニコレヲ使用スルコトヲ得ズ,但シ他ノ実験
あいて
用無線電信無線電話トノ間ニ自己又ハ対手ノ施設者名,機器装置場所,製置
方式,空中線電力,使用周波数,感度又ハ実験時刻ヲ照復スル場合ハコノ限
リニ非ズ」とあり,アマチュア無線は擬似空中線により実験研究を行ふのが
原則であつて,特に実際に電波を発射することを必要とする場合及び他の実
験用無線電信無線電話装置と規定範囲内に於て,直接実験上に必要な事項を
通信することを要する時にのみ許されてゐるのであつて,その通信方法,用
あいて
語等は簡単明瞭なることを要し,対手をして反復せずして通信事項を了解せ
178
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
しめるように努めねばならぬ。
次に電力の問題であるが,私設無線電信無線電話規則第 21 条に「私設無
線電信無線電話ノ空中線電力ハ所要通達距離ニ照シ最少ナルコトヲ要ス」と,
あいて
その対手との距離の遠近に応じ電力を加減して通信を行ふべきを規定してゐ
きんきん
かつ
る。アマチュア無線の空中線電力は僅々10 ワット以下のものであり,且アマ
かかわらず
チュア無線はその施設の性質上よりしてその通達距離の遠近に 不 拘 ,時に
は与へられた電力の最大を必要とし,又時には最少を必要とする等特殊の場
あなが
合があり, 強 ちこれにより難い時があるとしても電力の加減を全然無視す
ることは出来ない。特に近距離に重要通信施設等ある場合に於ては,一層そ
かよう
の加減に注意を払ふ必要があると思ふ。斯様に必要以上の電力を出すことさ
ごと
へ戒めてゐるのであるから,命令に反して電力を増強するが如きことは全く
許さるべきものではない。
次に時間の問題であるが,実験用無線電信無線電話の実験時間は他の無線
施設に対する妨害を考慮して指定せられたのであるから,時間外にならぬや
う充分に気をつけねばならぬ。
この文の筆者は逓信者のお役人であったと思われる。
1940 年(昭和 15 年)11 月,これまでライ
センスの付与は各所轄逓信局の認定で行な
われていたが,この月に至り,
「実験研究者
は電気通信技術者第 3 級(無線)
,又は無線
および
通信士第 2 級以上の資格を有するもの, 及
せんこう
其の終了後上記資格を詮衡により付与せら
るべき学校,講習所の生徒に限る」ことを
原則とすることになった。
第 172 図 1941 年(昭和 16 年)8 月,ライセンスを
有するアマチュア無線家中,関東,東北の 23 名の有志により国防無線隊が結成
された。隊長は菅波易二陸軍中将であった。
第 172 図は当時使用された腕章である。
1941 年(昭和 16 年)12 月 8 日,日本は太平洋戦争に突入した。
179
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
同 8 日付けをもってアマチュア無線局にはつぎのような命令が発せられた。
「貴私設実験用無線電信無線電話ハ本日以降何分ノ通知ガアルマデ一切ノ電波
ノ発射ヲ禁止セラレル」
また同月 13 日付けを以って
「貴私設実験用無線電信無線
電話ハ本日以降短波受信機ノ
使用ヲ禁止セラル」という命令
が発せられた。第 173 図は当
時 J4DE(現 JA5AF)大塚政量
氏が受領した電報である。
かくしてアマチュア局の活動
は全面的に停止されたのであ
った。当時の局数は約 300 であ
り,先進国にくらべて問題にな
第 173 図 らない数であった。
戦局の進展とともに国民の召集徴用ははげ
しさの度を加えたが,何万といたであろうラ
ジオ・アマチュアはその特技を生かして大き
な効果をあげたのであった。
1941∼1945 年の間はラジオ・アマチュアも
また空白時代であったというほかない。無
線雑誌にも第 174 図に示すように戦意高揚
の広告が掲載された。また,1943 年(昭和
第 174 図 18 年)頃より,雑誌の名称も英語はいけないというので「ラジオの日本」が「電
波日本」になり「オーム」が「電気日本」と改名させられるなど,まったく笑止
のかぎりであった。
ラジオ関係の資材はもとより重要な戦略物資であったから,アマチュアの使用
はおろか,一般家庭用受信機の保守にもことかく状態になったのは当然の成行き
であった。したがってラジオ受信機に要する物資を節約するのにも非常な努力が
払われた。「ラジオの日本」1942 年(昭和 17 年)1 月号に高村,森田両氏により
「代用品利用資材節約型受信機の一例」という記事が掲載されたが,これを改良
180
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
第 175 図
第 176 図
きかん
したものが第 175 図に示す局型受信機 122 号である。(原型は 5MΩ の負饋還があ
り,アンテナ回路はオートトランス,B 電源は 12X-K1 の半波整流であった)さ
らに,これに 12Y-V1 の高周波増幅 1 段を付けたのが局型 123 号であったが,両
機とも判定困難な故障(たとえば電解コンデンサ,ブロック間の横リーク,極性
反転など)が続出し非常に不評であった。
一方,無線雑誌の発行もますます
困難になり「電波日本」誌は 1944
年(昭和 19 年)9 月をもって休刊
したが,
「無線と実験」誌は合併号
をくりかえしながらも発行をつづ
けた。第 176 図は終戦直前の 1945
年(昭和 20 年)4,5 月合併号の表
紙である。内容は,広告が 1 件も
なく新聞用紙に印刷して 31 頁,製
第 178 図 本はせず折たたんだままであった。掲載記事中には第 177 図のように「電波兵器
の創意工夫懸賞募集」などがあり,戦局の急迫をものがたっている。
また QST の記事を紹介した中に ARRL メンバーの活動を述べ
…(前略)…敗けたときの悲惨を思ひ,ただ一途に戦争へ総力を集中してゐ
るヤンキーどもの真剣さを我々は正しく見なければならない。
第 12 章 太平洋戦争敗戦まで(1935∼1945 年)
181
雪の日も風も夜もマリアナ基地から大編隊でやって来る B29,多数の艦船
を本土近海に送つて…(後略)…
といっている。
このような状況のもとで,放送局も敵機の,電波による方位測定を困難にして
空襲をさけるために,同一周波数による電波管制 1) を行なったが,実際にはほと
んど効果がなかったようである。このため地方ではビートにより受信困難なとこ
ろが続出したのも止むをえないことであった。
1945 年(昭和 20 年)8 月 15 日,わが国の敗戦によって太平洋戦争は終末を告
げたのであった。
1) 〔編者註〕1941 年 12 月 9 日,日米開戦の翌日,全国の NHK 放送の周波数を 860kHz に統一し,同月 20 日からは,
1,000kHz に統一した。
第 13 章 戦後のあゆみ
(1945∼1961 年)
1945 年(昭和 20 年)9 月電波管制が解除され,同時に
短波放送の聴取が許可になった。
「無線と実験」同年 11,
12 月合併号の DX CORNER において斎藤健氏はつぎの
ようにのべている。
あ
戦争に負けたお蔭で――敢へてお蔭でと
いふ。それは負けなければとても許されな
かつたであらうから――受信のみは全面的
に解放された。長い間望んでやまなかつた
ものが突然得られた。今や我々は諸外国並
に公然と全波受信機を持ち,短波放送を聞
かつ
くことができるやうになつた。嘗てのやう
に「……と外誌は報じてゐる」なんて逃げ
口上をはらないで,堂々署名入りで受信成
績を発表してもよくなつたのである。遅か
つた――だが許されぬより遥かに気持がよ
い。…(後略)…
第 178 図 「長い間望んでやまなかったものが突然得られた」とは,まさにアマチュア万
人の実感であった。第 178 図に示すように「無線と実験」誌は翌 1946 年(昭和 21
年)1 月号をオールウエーブ特輯号とした。同号に逓信院の石川武三郎氏は,全
波短波受信機聴取手続についてつぎのようにのべている。
つい
今回実施された全短波受信機の施設手続等に就てその大要を記し,これか
ら施設される方の御参考に資することとする。
全短波受信機の施設も,大体普通の一般ラジオ受信機の施設と同様に,出
願者の資格等は一切問ふことなく,簡易な手続きに依つて許可されることと
なつたのである。即ち全短波受信機を施設される場合はその住所氏名,機器
183
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
装置場所及び全波又は短波の区別,使用真空管の数,受信機の種類を記載し
た申請書を郵便局,放送局或ひはラジオ申込取次所を通じて,又は直接にそ
の地方の逓信局長又は逓信監理部長宛に差出せばよろしい。そして既に普通
のラジオの許可を得て居られる場合は,その許可番号を併せて記載して差出
せば,全波受信機の増設に依り新に聴取料金を課せられることはない。
なお
尚従来全短波受信機に対しては,之が使用を禁止する為,官憲に於て封印
これら
も
を施したものもあるのであるが,之等封印された機器で,若し未だ封印の解
除をしてないものがあれば,関係逓信局に申出れば即刻封印解除の措置をと
つて呉れることになつて居る。
一方,無線通信機メーカーは兵器として
の通信機の仕事がなくなったので一せい
にオールウエーブ・ラジオの生産を開始し
たが,安価な部分品で大量の製造をする仕
事はかってがちがい,最初はなかなかうま
く行かなかった。またセットの需要も一般
の人は生活をささえるのがやっとの状態で
あったから,一部特権階級に限られていた
のであった。したがって種々の便法が考え
られたが,一時は第 179 図,第 180 図に示
すコンバータを並 4 や高 1 の頭に付ける方
法も愛用されたものであった。
スーパーヘテロダインが大衆のものとな
ったのは,後年の民間放送開始〔1951 年 9
月 1 日〕によって混信でどうにもならなく
なってからのことである。
第 179 図 戦後のラジオ技術は大量の軍放出物資によって大きく変わったといえる。たと
えば真空管のヒータが 2.5V より 6.3V に変わったのも当然の成行きとはいいなが
ら,77,78,6C6,6D6,6F7,6P7 などの大量放出物資がきっかけになったことは
否定できない。戦前には 6.3V 管はごく特別な人達しか使用しなかったのであった。
一方,一般の物資不足はますますはなはだしく 47B,12F などの消耗の早い真
184
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
第 180 図 空管は絶好の物々交換の材料とされた。
また軍放出真空管のうちには兵器専用で,一般にはまったく知られていなかっ
たものも多数あった。後日のため受信管の一部の規格を下表に示す。
ヒーター
V
A
PH1 電力増幅 ビーム管 12.0
0.25
DH2
整流 双 2 極管 12.0
0.175
KH2
混合
〃
24.0
0.25
CH1 高周波 7 極管 12.0
0.175
RH2
〃
5 極管 12.0
0.175
RH4
〃
〃
12.0
0.25
RH8
〃
〃
12.0
0.25
ソラ }
〃
〃
12.0
0.175
6302
6.3
0.6
〃
〃
6303
名称
用途
種類
プレート
V
mA
250
45.0
100
4.0
300
100.0
250
3.5
250
5.0
250
5.0
250
10.0
250
5.0
250
スクリーン バイアス Gm
備考
V
mA
(V) (m℧)
250
5
−12.5
Rp = 5kΩ
100
100
100
150
100
8.5
1.2
1.5
2.0
1.0
12.0 150
2.5
12.0V,0.5A にても使用可能
−2.0
50Mc まで使用可能
−2.0
2
〃
−2.0 3∼4
〃
−2.0 6∼10
−2.0
2
10.6 6303 はバリ µ
真空管は戦争中もっとも生産増強を要求されたのであったが,メーカーおよび
下請会社の大部分は戦災を受け,終戦時の生産はきわめてわずかであった。
第 181 図 185
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
第 182 図
第 183 図
加えて諸資源の不足による材質の低下および熟練技術者の不足により品質の低
下がはなはだしく寿命も短かいものが多かった。このような状況下でアマチュア
は第 181 図に示すように,2.5V 管と 6.3V 管を混用したり(
「CQ」誌 1946 年〔昭和
21 年〕9 月創刊号,金子氏)
,あるいは第 182 図のように H 管を使用したり(
「無
線と実験」1947 年〔昭和 22 年〕,8 月号東京,早川氏)した。
また,6P7,6F7
も大量の放出品が
あったので盛んに
使用された。6P7
使用の実例を第
183 図に「無線と
実験」1947 年(昭
和 22 年)8 月号
掲載の愛知県,伊
藤氏の記事より,
第 184 図 6F7 の実例を第 184 図に同年 11–12 合併号掲載の広島県,吉野氏の記事より云
した。これらの放出品は東京においては神田,小川町通りに設けられたジャンク
屋とよばれる露店に行けば容易に求められた。第 185 図,第 186 図に当時の状況
を示す。後年放出品が少なくなる頃には代って米軍の放出品が出回るようになり,
露店は秋葉原に移り,正式な店舗となって今日に至っている。
1946 年(昭和 21 年)8 月 11 日,東京,新橋の蔵前工業会館において JARL 再
結成の会が開かれた。出席者は 35 人であった。
186
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
第 185 図
第 186 図
1946 年(昭和 21 年)9 月 JARL は機関誌「CQ ham radio」を発刊した。(第
187 図)
1948 年(昭和 23 年)10 月号の「無線と実験」に第 188 図のような 6WC5 の広
告が現われた。GT 管の 6SA7 が発売されたのはさらに後のことである。
同 12 月号には第 189 図のように MT 管の紹介記事が掲載された。RCA では
第 187 図
第 188 図
187
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
1948 年までに 48 種が製造された。
1948 年(昭和 23 年)ベル研究所において発明されたトランジスタについて,
「無
線と実験」同年 11 月号は早くも小林正次博士の解説を掲載した。
真空管発明以来の世紀の大発見
TRANSISTOR とは何か
最近ベル電話研究所で真空管発
明以来のフィラメントのない検波
増幅発振器の大発明が行なわれて,
電気通信関係者の注意を集めてい
る。将来真空管がこれにおきかえ
られる可能性があり,40 年前の真
空管発見以来の重大なことである。
この新発明のものはその構造全
く在来の真空管と異なつているが,
第 189 図 その作用は真空管とは同一でトランジスターと命名された。現在これを用い
てラジオ受信機の製作も試みられており,通信機,テレビ等にも利用され得
るものとされている。主任研究員の R. Brown 博士は公開実験で電話,ラジ
オ受信機に広い用途のあることを発表している。これは目下実験の過程にあ
るので詳しいことは分らないが,構造が簡単で堅牢小型,電気的には検波の
ほか増幅も発振も出来るのでその応用範囲は広く,工業的にもその将来発展
性あることが暗示される。
インチ
この外観は太さ鉛筆位のもので長さ 1 吋 位の筒である。その内部にその心
臓部たる特殊鉱石に針金が二本はいっている。この鉱石は「SCIENCE NEWS
LETTER」の本年 7 月号には特殊処理をしたジャーマニウム〔ゲルマニウム〕
鉱石となつている。
筆者はこれらを最初 6 月 14 日の「Communication Digest」でよんだので
あるが,これ以上の技術上のくわしいことはうかがうことが出来なかつた。
「SCIENCE NEWS LETTER」の表紙には鉛筆とならべて比較した写真が出
ているが,これにはリード線も見えないので,単にべ一クライトの筒の写真
と早のみこみしてしまう。記事内容も同じようなものである。
188
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
7 月 15 日の「Physical Review」にトランジスターの真空管と同じ様な増幅
作用の理論的説明が発表されたので,上の記事と考え合わせればこの構造及
つい
び性能に就て或程度明らかになってきた。…(後略)…
なお,TRANSISTOR は TRANSFER,RESISTOR をちぢめた語であることは
周知のとおりである。
1949 年(昭和 24 年)3 月号の「無線と実験」は LP レコードの完成を報じてい
る。筆者名はなく「一寸ウラヤマシイ話」という題名である。
最近発行の米国コロンビアのパンフレットは,新長時間レコードの完成を
発表している。即ち一枚のレコードで 45 分間の連続演奏が可能で従来のも
のの六枚分に相当する。
いわゆる
この発明により大抵の交響曲,協奏曲等の所謂大曲が一枚のレコードによ
り連続演奏出来る。
インチ
インチ
従来の 12 吋 盤は両面約 8 分,10 吋 約 6 分の演奏時間しか持たないが,新
インチ
インチ
長時間レコードでは 12 吋 盤が 45 分,10 吋 は 27 分の演奏時間を持っている。
従来レコード回転毎分 78 であるに比し,新レコードの回転数は毎分 33 1/3で
演奏する。
以上は米国の有名な科学者ゴールドマルク氏とコロンビアの技術者との協
力で長年研究された成果である。二,三の米国誌の批評から,戦前発売され
たこの種長時間レコードに比し格段の進歩をしていることは事実らしく,わ
が国でも一日も早くプレスしたいものである。
同年 10 月号には第 190 図のように,
「テ
レビジョン受信機講座」が連載されはじ
めた。
1950 年(昭和 25 年)1 月号の「無線と
実験」には第 191 図のように MT 管の広
告が現われた。
1950 年(昭和 25 年)5 月,電波法が公
布された。ここにはじめてアマチュア無
線技士の資格が確立し,第 1 級と第 2 級
の二種とされた。
第 190 図 189
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
1950 年(昭和 25 年)11 月号の「無線と実
験」誌にはじめて MT 管使用の製作記事が
掲載された。
1951 年(昭和 26 年)6 月,第 1 回アマチュ
ア無線技士の国家試験が施行された。受験
者は 316 人で,合格者は 1 級 47 入,2 級 59
人であった。
第 191 図 1951 年(昭和 26 年)9 月,民間放送として
大阪の新日本放送,名古屋の中部日本放送が
開局した。在来の並 4,高 1 などでは混信が
はなはだしくなり,スーパー時代が到来した。
1952 年(昭和 27 年)7 月 29 日,アマチュア
無線局 30 局に対し予備免許が下りた。
1952 年(昭和 27 年)8 月 27 日,アマチュア
無線局 JA1AB,JA3AA 他数局に免許が下り,
戦後はじめての運用が開始された。
1953 年(昭和 28 年)2 月,NHK–TV が本放
送を開始した。
第 192 図 1953 年(昭和 28 年)8 月,民間テレビの NTV が本
放送を開始した。
1954 年(昭和 29 年)神戸工業とソニー(当時は東
通工)よリトランジスタが発売された。第 192 図は
同年 3 月号「無線と実験」の口絵,また第 193 図,第
194 図は 4 月号の記事「国産トランジスターを使っ
た高一附スーパー受信機の試作」小谷氏の一部であ
る。当初の値格はラジオ用で 1 個,4500∼7000 円と
いわれた。
1955 年(昭和 30 年)5 月,JARL は戦時中除名さ
第 193 図 れていた国際アマチュア無線連合 (IARU) に復帰が認められた。
1958 年(昭和 33 年)4 月,電波法が改正され,アマチュア無線技士の資格に電
信級と電話級が追加された。
190
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
1959 年(昭和 34 年)4 月,第 1 回初
級(電信級,電話級)アマチュア無線
技士の国家試験が施行された。電信級
の受験者は 735 人で,合格者は 447 人,
電話級の受験者は 8276 人で,合格者
は 5887 人であった。
1959 年(昭和 34 年)12 月 1 日,JARL
に対し社団法人が認可された。アマチ
ュア無線局数は 1960 年(昭和 35 年)12
月末において,14,529 局となった。
1960 年(昭和 35 年)9 月 2 日,NHK
と民間 4 局にカラー TV 本放送の免許
が下りた。
第 195 図,第 196 図は「無線と実験」
1929 年(昭和 4 年)1 月号(テレビジョ
ン特輯号)と,1961 年(昭和 36 年)3
月号のそれぞれの表紙である。
第 194 図 第 195 図
第 196 図
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
191
ここに著者は稿をおわるに当たり,過去数十年にわたる諸先輩の努力がいかに
ちゅうしん
大なるかを知り, 衷 心 より敬意を表するものである。
〔完〕
192
第 13 章 戦後のあゆみ(1945∼1961 年)
本 PDF は,
岡本次雄著『アマチュアのラジオ技術史』(誠文堂新光社,1963 年 11 月)
を元に作成したものである。
理解を助けるために編者による註をつけた。短いものは本文中に〔 〕の形で,
やや長いものは,脚注に〔編者註〕と前置きして記述した。
PDF 化にあたって,仮名遣いは新仮名遣いに変更した。漢字の一部には振り仮
名をつけた。
ラジオ関係の古典的な書籍及び雑誌のいくつかを
ラジオ温故知新 (http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/radio/)
に、
ラジオの回路図を
ラジオ回路図博物館
(http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/radio/radio-circuit.
html)
に収録してある。参考にしてほしい。