労働運動と幸せを追って

労 働 運 動 と 幸 せ を 追 っ て
大阪府・元ゼンセン同盟大阪府支部次長
吉 田 止久子
私は、1926 年7月、朝鮮半島の京城で生まれました。
父親の仕事の関係で、子供時代を外地で過ごしました。
学校は、日系女学校でした。18 歳の時、学徒動員で無煙炭会社へ同級生 3 人が配属。当時日
本は、石炭の需要が多く、この会社で生産される石炭は重要視されていました。2 年間勤労
していました。1945 年日本へ帰国しました。しばらく兵庫で生活をはじめましたが仕事を探
さなければならず、就活しているうちに従姉妹が郡是(株)塚口工場で勤務していた関係か
ら、郡是の面接試験を受けることになり、郡是株式会社塚口工場へ採用になりました。
工場長と面接の時、提出した履歴書の英語科目に目をとめられ、即採用され営業課英文タ
イプ担当へ配属されました。郡是(株)は、戦前から、シルク婦人靴下の老舗。勤労婦人が
多いアメリカや GHQ 関係からの受注があったため、GHQからの機械登録を頻繁に要求され
ていました。工場内の機械関係を英文書類での提出が義務づけられ、英文タイピストが必要
でした。そのような状況で、私が英文タイプの仕事をすることになりました。しかし、採用
されても専門用語の多い機械関係、戸惑うことしばしば、途中から、神戸市のタイピスト専
門学校へ午前中修学、午後工場勤務の生活を 1 年間継続しました。自分の仕事に自信を持ち
始めたころ、婚約者が現れ結婚しようと決め始めた 25 歳。状況が変わりました。
私の人生の転機の訪れ
塚口工場寄宿舎自治会の定例総会が開催され、1950 年女子寮自治会長専従に選出されてし
まったのです。その当時、全繊同盟では寄宿舎民主化闘争を展開されていました。郡是の寄
宿舎では、20歳前後の女性が集団生活の中から、食事改善、自主生活の確立、機械優先か
ら人間性を求める方向へなど、寄宿舎と労働組合が連携を密にしながら、独自性を持つ活動
を展開していました。
『郡是労働組合活動のあゆみ』を振り返ってみますと 1952 年(昭和 27)運動方針では、
「繊維産業に於ける寄宿舎施設が日本農業経済機構のもたらす諸条件につながる、日本繊維
産業の発展の一つの基盤になっていることを明確にしながら、その、社会矛盾や不合理を労
働組合として、現在も将来も絶えず考えなければならない問題である。労働者の私生活の場
であり、また、重要な厚生施設の役割を持っている寄宿舎を明るく、住みよい環境におき、
そこにおいて教養を高め、生活を楽しみ労働力再生産を行うことが出来る場所に可能性を求
め、それを持続しなければならない」と謳っています。
具体的な寄宿舎改善対策は、
(1)現在の寄宿舎の設備及び備品について、不備な点が多い集団的構想から個室、個人生
活へ施設を改善、備品の購入、修繕に関しては、工場差をなくし水準を上げること。
会社が寄宿舎を新設、増築する時は、会社は組合に対してその構想を明示させる。
(2)食事対策について、寄宿舎生活においては食事問題は重要な問題、組合員にとっては
最大関心事である。実態を把握し、食生活改善に努力する。
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(3)教育啓蒙の基本方針として、教育宣伝活動の強化と支部巡回が必要、などでした。
私はこの年、1952(昭和 27)年から郡是労働組合本部専従書記に任命された時、労働
協約改定が行われ、第5条組合員の組合活動の保全と時間内を原則とし、労働時間内活
動可能な範囲を婦人懇談会該当項目であることを知らされ、感激しました。婦人懇談会
は原則、時間内に行う、役員会年3回と地区婦人懇談会は原則の地区協議会に合わせて
開催する。
このことは、定例化した活動が展開できると言うことです。
組織の民主化「グル懇」
1953 年(昭和28)私は郡是労働組合専従から、中央執行委員に選出され、婦人対策部長
兼任婦人懇談会長の職務につきました。
郡是労働組合の婦人活動の主体は自治会員、組合活動にはグループ懇談会を各工場で開催、
母性を守る月間、組合員の権利、寄宿舎生活の悩みなど、を話し合った婦人グル懇(婦人グ
ループ懇談会)は活発に開催されました。
50 年代当時、郡是労組組合員は 80%が若年女子労働者でした。戦後の民主化は始まった
ばかりでしたから、まだ歴史的、伝統的な女の生き方があり、組合は男がやるもの、女は後
からついていけばいい、と考える者が大部分でした。
職場の仕事は、入社して 2~3 年で立派な一人前、しかし、組合への関心が薄く、職場会
などの発言も少ない、またどのように発言してよいか解からない、役員のなり手も少ない、
活動は少数の男性にまかせっきりになります。これでは組織の民主的運営にもひびく、とい
うことから、労働組合員としての基礎教育が必要と考えました。寮の各部屋を1グループと
し、日常の身辺問題を話題に、全員が参加し、「労働組合は民主主義学校」と言われるよう
に、まず全員が発言することを目標としました。
単組本部は共通テーマ「女の歴史」にスポットをあて、テキストに「女のあゆみ」を婦対
パンフとして作成配布、外部講師を招き、私の支部巡回に合わせ「グル懇」を開くなど活動
を広げました。
1964 年には「労働運動と自分の幸せを考えて見よう」「幸せの設計づくり」も提案しまし
た。女性のライフサイクルの変化が女性運動のテーマになったところでした。2~3 年も経つ
とみんなの視野も広がり、リーダーとしても大きく成長しました。年1回単組本部が問題解
決の手がかりとして、開催した支部婦対部長会議でも、それが目に見えるようでした。
また、活動と共に女性のリーダーが育ち、活動の幅を広げるという実績を残しました。こ
のような「婦人グル懇」を各支部巡回した中に、いつも端正に行儀よく話を聞いているのに、
リーダーが育たない、いわゆる若い女性の活気がない、「どうしたことか」と思案していた
私の目の前にクモの巣を見つけました。良く見ると至るところにクモの巣があることに気が
つきました。そこで私は、「どう、このクモの巣、どうにかならないの」と言いますと「そ
うです、ここは古い寄宿舎ですねん。一杯あるわ」というわけで、寄宿舎の「クモの巣とり
競争」を始めました。寄宿舎がきれいになったと工場長から感謝の言葉を頂きました。
以後、クモの巣競争で活発なリーダーが多く誕生した由縁でもありました。皆の関心事と、
誰でもすぐ実行できる問題から解決する状況判断をすることが成果として、喜びを分かち合
うことの大切さを体験しました。支部長から、会社に対して発言力がアップしたと報告を受
けました。
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また、なんでも話会うことは大切ですが“出し放題の発言”でなく、問題解決の方向に進
めるための学習が必要です。問題解決の手掛かりをつかむ道として、退職金、期末一時金、
賃金配分、職場の労働強化はないか、生理休暇は取りやすいかなどの問題については、各支
部長、書記長は必ずグル懇に出席し、意見を直接聞くことで執行部と女子組合員の共通意識
をもつことができ、女性リーダーの層が厚くなりました。
海外派遣と帰国報告
1956 年 1 月(昭和 31)郡是労組の上部組織の全蚕糸労連(後の繊維生活労連)の女性役
員が出産退職することになり、その後任へと私は専従役員・婦人問題担当者として、東京・
京橋にある片倉ビルで勤務することになりました。
全繊同盟では、1954 年から、取り組まれた近江絹糸民主化闘争でカンパ活動が行われ、全
蚕糸労連も積極的な運動へ参加しました。近江絹糸の民主化闘争は国際的に注目され、カン
パや支援が届き、世界労連婦人会議へ日本労働関係者を招待したいと案内状が届きました。
全繊同盟滝田会長から、近江絹糸民主化闘争中であり、今回は生糸関係で参加して欲しい
と小口全蚕糸労連委員長あてへ申し入れがありました。
全蚕糸労連執行委員会で検討した結果、吉田が派遣されることに決定。海外派遣は、初め
てのこと、1 ヶ月滞在の身仕度、当日の持ち物、資料、日本の土産など、ともかく一切、郡
是、片倉の仲間がカンパ活動で整えてくれました。仲間の連帯には胸が熱く感謝と感激で会
議に臨みました。
メンバーは、日教組、全日労、有識者など 10 名ほど。開催地はハンガリーの首都ブタペ
スト、内容は女性保護、権利、平等、平和問題を論議したのち、ソ連(現・ロシア)、ポー
ランド、ハンガリー、チェコ、中国、など各国を訪問、女性の職場、既婚者の問題、お茶く
み問題、結婚観など意見交換した様子をスライドに制作。それを中心に各職場、地域へ報告
会として、巡回したことが好評を得ました。
1969年から、繊労組織拡大方針が決定され、オルグ体制の中で私は、中部地区担当と
なり名古屋市鶴舞公園内にある事務所を起点に愛知、岐阜県内にある加盟組合の訪問オルグ、
中小の未加盟の組織化は、幾度も訪問「女性のしあわせ問題」など懇談するうちに女性問題
の先生にされてしまい、岐阜県高山市、美濃市の工場から講演依頼がありました。このよう
な女性が悩んでいる問題を組合員や特に経営者と懇談するなかから、結果、加盟の糸口を見
つけ、女性リーダーたちと話会う懇談会も誕生しました。今でも飛騨地方の美しい自然のな
か、素朴なそして、ひたむきな女性リーダーたちを思い浮かべています。
ゼンセン同盟へ再加盟
全蚕糸労連が全繊同盟に加盟したのが 1951(昭和 26)年 8 月、脱退したのは 1953(昭和
28)年 10 月。全蚕糸労連が繊維労連と名称を変更[1960(昭和 35)年 2 月開催中央委員会]
運動が続けられていましたが、生糸産業政策などの課題があり、1963(昭和 38)年 8 月郡是
労組第 21 回大会において、繊維労連を脱退、
「全繊同盟加盟の件」を執行部が提案、可決さ
れ、1964(昭和 39)年加盟申請しました。以後つづいて昭栄、片倉労組が繊維労連脱退、全
繊同盟加盟という組織変更がありました。全繊同盟に生糸部会が発足しました。
同年、私は再び郡是労組に戻り 1966 年全繊同盟生糸部会執行委員、婦人対策委員として、
当時、高度成長下、女性の職場進出がめざましく、その半面、女子結婚退職制やパートタイ
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マー就業をめぐる問題、出産費用をもっと安くする運動、男女雇用均等法制定と労働時間短
縮、母性保護と保障、育児、介護休業の法制化など、寄宿舎民主化の問題と共通点を見出し
ながら、働く女性が安心して働くことができる女性政策を論議し、実現運動へメンバーと共
に行動をつなげたことが全繊同盟運動へ参画した成果と考えています。
「OL集会」で活動の担い手が
1969 年私は、大阪府支部常駐となり、翌年 1970 年に女性で初めての大阪府次長として任
命されました。
1971 年 11 月大阪府支部、本社・営業所地協主催 150 名出席で開催された「第1回OLプ
ラザ」での発言「コンピューター化されつつある職場環境の中で人間性が失われて、健康不
安が起こっている」との意見が沢山でました。意見のまとめとして、「せめてランチタイム
の1時間でも御堂筋の車を止め、排気ガスのない“緑と太陽の広場―OLプラザ”を実現で
きないか」という案がまとまり 1972 年 1 月実行委員会が発足しました。
しかし、御堂筋は大阪の大動脈、たとえ1時間でも車をストップさせることなど、常識で
は考えられない等の状況下、
「OLプラザ」が何故必要かを、組織の内外に向けてポスター・
ビラによる宣伝、繁華街での呼びかけ、デモによるアピールをしました。4 月には1万2百
名余の署名簿を持って知事、市長らに陳情を行い上部団体や友誼組合、マスコミへの協力依
頼など運動を展開しました。4月知事への公開質問状に対する回答は、「大幹線の車を平日
の昼にストップさせることは交通混乱をおこし、都市機能に大きな混乱をきたすので、不可
能」というものでした。実行委員会は1つの運動の転機を迎え、メンバーたちは、自分たち
の主張をより客観的なデーターで示す「職場の冷房調査」や「昼休みの過ごし方アンケート」
「樹木汚染調査」「車の交通量調査」など4班に分け、実地調査と協同学習を行いました。
1971 年~73 年御堂筋に「太陽が欲しいOLプラザ」運動が発足して、困難に遭遇したも
のの、1974 年 9 月「緑と太陽の歩道橋」がオープンしました。始めの構想とはちがい、緩行
車道 500 メートルをランチタイムの1時間のみ、との限定付でしたが、この「OLプラザ」
運動は、実行委員会のメンバーの職場活動に自信と勇気をもたせました。実現までに大阪府
支部の加盟組織との協力と連帯の力を確信しました。以降女性リーダーが多く育ち活動の担
い手となりました。
行動しつつ、意識改革
私は、大阪を生活の拠点と決め、近畿を中心に組合組織オルグ、女性政策問題など運動を
ひろめ、大阪同盟婦人委員会委員長、大阪府婦人問題企画推進員として国際婦人年、続く国
連婦人の 10 年(女子差別撤廃条約批准)の運動と男女雇用機会均等法成立などに参画して
きました。
1986 年に定年退職し、ゼンセンOB友の会(現・シニア友の会)へ女性会員を増やす活動
を積極的に担っていましたが、突然の入院と病気の養生で健康には、随分注意を払ってきま
した。やはり、高齢者問題は、医療と介護を個々人がどのように受け止めるか、特に高齢社
会に生活する単身者の年金や見守りが地域にとって差異があることなど、現在介護保険制度
を利用している施設の若い看護師・ヘルパーのみなさんと意見交換などしています。退職し
ても社会問題、労働問題意識を持ち、関心を寄せることは、ゼンセン同盟の運動に参画した
「行動しつつ意識改革、草の根参加で働きやすい職場づくり」この言葉に尽きると思います。
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*「歴史を語りつぐ」第2弾を編纂するにあたって、吉田止久さんの原稿を企画しました。
ご本人の寄稿と考えましたが日程的な問題もあり、熊崎 清子(シニア友の会事務局長)が
2012 年 9 月 19 日大阪市の吉田さん自宅で聞き取りをさせて頂き、ご協力を得ました関係資
料に基づき作成しました。
資料のご提供を頂きました UI ゼンセン同盟グンゼ労働組合本部から、また多田とよ子さ
んの刊行本から、引用を承諾頂きましたこと御礼申し上げます。
2012.10
資料のご協力
1. 郡是労働組合
2.
3.
4.
「組合のあゆみ」(1952 年事業報告)及び2冊分
〃
(1953 年事業報告)及び2冊分
〃
(1954 年事業報告)
〃
(1955 年事業報告)
輝き「ゼンセン女性運動史」多田とよ子さん編纂・発行ゼンセン同盟
明日につなぐ ~仲間たちの伝言~ 多田とよ子著
全繊同盟史第3巻・第4巻
以上
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