エーリッヒ・フロムは

2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 著者紹介
エ ー リ ッ ヒ ・ フ ロ ム ( Erich Seligmann Fromm)
エーリッヒ・フロムは、ドイツ出身の社会心理学者、精神分
析学者、哲学者で、ヒューマニズム思想家としても知られる。
1900 年にフランクフルトでユダヤ教正統派の両親の間に生
まれる。フランクフルト大学、ハイデルベルク大学で社会学、
心理学を学び、アルフレッド・ウェーバー(マックス・ウェ
ーバーの弟)、カール・ヤスパースに師事する。フロイトの
精神分析とマルクス主義を社会的性格論で結びつけ、初期フ
ランクフルト学派の代表的な功績となった。
1933 年、ナチスが政権を掌握した後、米国に亡命し、後に帰
化する。アメリカではコロンビア大学で教えた後、イェール、ミシガン、ニューヨークなど
の大学でも教鞭をとった。彼の代表作である『自由からの逃走』(1941)では、ナチス・ド
イツやアメリカの大衆文化を念頭に置き、自由と自立の重さに耐えかね、権威への従属や画
一性への同調に進みゆく大衆の性格構造を批判した。その後の主要著書として、『正気の社
会』(1955)、『愛するということ』(1956)、『悪について』(1964)、『希望の革命』
(1968)などがある。
参考:『岩波哲学・思想辞典』(1988)岩波書店、『生きるということ』(1977)紀伊國屋
書店
参考サイト:Wikipedia
【問 1】p.51「私たちが生きている社会は財産を取得し利益をあげることに専念しているので、
ある存在様式のあかしはめったに見られず、たいていの人びとは持つ様式が最も自然な存在
様式であると思い、受け入れる唯一の生き方であるとさえ思っている。」とあるが、本著で
述べられている、持つこととあることの違いについて述べよ。
【引用】
、、
p.46f 持つこととあることの意味についてのこの概観から、次にあげる結論が導かれる。(1)
あること、あるいは持つことによって私が言及しているのは、「私は車も持っている」とか
「私は白い」とか、「私は幸福だ」などの論述に例証されているような、言語の或る種の個々
、、、、、
の特質ではない。…あることのもう一つの形は見えることと対照をなすもので、あることの
語源に例示されているように(バンヴェニスト)、偽りの外観とは対照的に、人あるいは物の
1 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 本性、真の現実に言及するものである。
、、
p.51 私たちが生きている社会は財産を取得し利益をあげることに専念しているので、ある
存在様式のあかしはめったに見られず、たいていの人びとは持つ様式が最も自然な存在様式
であると思い、受け入れうる唯一の生き方であるとさえ思っている。
p.99 持つ様式を打破することが、すべての真の能動性の条件である。エックハルトの倫理
体系における至高の美徳は、生産的な内的能動性の状態であって、その前提はあらゆる形の
自我の束縛と渇望を乗り越えることである。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
p.121 すなわち、所有への支配的な方向づけは十全な成熟が達成される以前の時期に現れ、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
もし永続的になればそれは病的であるということ。言い換えれば、フロイトにとっては、持
ち、所有することのみに専念する人物は神経症であり、精神的に病める人物である。それゆ
え、大多数の構成員が肛門愛的性格である社会は、病める社会ということになる。
、、
、、、
p.130 疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。…こ
のことはまた、私の能動性は私の力の現れであって、私と能動性と能動性の結果とは一体で
、、、、、、
あるという意味も含んでいる。私はこの疎外されない能動性を、生産的能動性と呼ぶ。 p.153 用心深い、持つ人物は安心感を味わっているが、彼らは必然的にきわめて不安定であ
る。…それに生命はいつ何どき失われるかもしれないし、おそかれ早かれ、必ず失われるも
のなのである。
、、
p.159f ある様式においては、私的に持つこと(私有財産)にはほとんど情緒的な重要性はない。
…これは争いを避けるだけでなく、楽しみを分かち合うという最も深遠な人間的幸福の一つ
の形態を創造する。
【解答】
、、
本著で述べられている持つ様式とある様式は、思考、感情、行為の方向性を決定する性格
構造である。産業時代の到来以降技術進歩によりエネルギーが機械エネルギー、核エネルギ
ーへと移行し、文明の発達と共に人間は自然の支配し、市場は多くのモノで溢れ、物質的豊
かさを実現していった。人生の目標は欲求充足であるとされ、人々は限りない生産と限りな
い消費に明け暮れ、それらが幸福に繋がると信じた。そのような背景から一般的になった存
在様式が持つ様式である。
持つ様式は、自分自身をも含むすべての人、全てのモノを財産とすることを欲する関係で
あり、英語では“I have…”と表現する。この場合の財産とは、所有物という物質的な意味だ
けでなく、人間関係、感情、思想などの生き方全般を指し、その財の取得、利益の追求、ま
たはその専念に価値を置く生き方を持つ様式と定義付けている。現代社会は、産業消費社会
であり他者との差異化を図る持つ様式の基づく生き方は賞讃され、多くの人々は持つ様式を
疑うことなく自然な存在様式であると認識している。
持つ様式では、幸福とは他者以上に財産を所有する点において感じることができる。故に
他者から羨望されるべく、人々は他者以上の財産の生産、労働、支配を強め差異化を図り、
羨望のまなざしで見られたとき人々は安心感を得るだろう。しかし、持つとは自分以外のも
2 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 のに依存している状態であるため、財産の喪失、略奪という不安定要素も併せ持ち、自らの
財産を守ろうという保身から周囲の人間に対し敵対意識を抱く可能性がある、という問題点
がある。要するに、持つ様式において私有財産を支配し維持するためには、常に努力しなけ
ればならないという生きづらさが伴う。その中で今日の豊かな産業社会では消費活動が、も
つ様式の最重要形態である。なぜなら消費は財産を他者に奪われる恐れがなく、個人のみで
完結する安心感のある形態であるためだ。しかし消費はいくら消費活動を行ったとしても、
人間にさらなる欲求充足を求める。これが持つ様式に生きる現代人が、消費社会の波に飲み
込まれている現状である。フロイトの言葉を拝借すれば、現代では肛門愛的性格を持つ状態
であるという。つまり、永続的に生きるためにモノに対する維持、節約、貯蓄に尽力する生
き方、が占める社会は病める社会であり、現代社会の現状でもあるのだ。
、、
もう一つの存在様式である、ある存在様式とは、持つことと対照をなす意味と、見えるこ
とと対照をなすという意味がある。つまり、物事を保持することに価値を見出すのではなく、
何もなくとも今「ある」ことに幸せを感じることができる状態であり、生きるという事実、
、、
人間のあり方そのものを指す。また英語では“I am…”と表現する。ある様式が関係するの
は経験する事象であるため、文章化をして理解することは困難であるが、その特徴を数点挙
げる。
まず自らが所有物への執着に終始する持つ様式とは異なり、ある様式は何者にも執着せず
何者にも束縛されない。そのため財産が失われることを恐れる必要性がなく、他者との関係
においては、財産を与えることを“喪失”ではなく“共有”と捉えることが可能となり喜び
を見出すことができる。そのため自らの保身に生きる持つ様式とは異なり、多くの人々と喜
びの共有という、人間的幸福を創造されるのである。
このように持つ様式を打破してあらゆる形の自我の束縛と渇望を乗り越えることが、すべ
、、
ての真の能動性、つまりある様式の条件であるのである。
【問 2】p.52「持つ存在様式の学生は、講義に耳を傾け、講義の言葉を聞き、それらの言葉の
論理構造と意味とを理解し、できるかぎり、すべての言葉を彼らのルーズリーフ式のノート
に書き込む…しかしその内容が彼ら自身の個々の思想体系の一部となって、それを豊かにし、
広げることにならない」とあるが、持つことを前提とする学習様式が現代社会において一般
的となった原因と、それがもたらす問題、さらにその問題の改善策を考え述べよ。
【引用】
p.52 学生はその代わりに、彼らが聞く言葉を思想あるいは全体的な理論の固定した幾つかの
集合に変貌させ、それをたくわえる。
同上 学生と講義の内容とは互いに無縁のままであって、ただそれぞれの学生が、誰かほか
の、だれかほかの人の所説(その人が自分で創造したか、あるいはほかの典拠から借用した
もの)の集積の所有者となったというだけのことだけである。
同上 なぜなら、新しいものは彼らが持っている決まった量の情報に、疑いをはさむからで
3 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 ある。
タブラ・ラーサ
p.53 まず第一に、彼らは一連の講義に、たとえそれが第一回の講義であっても、 白 紙 の状
態で出席することはない。
’
’
’
’
同上 そしてこれが重要なことだが、能動的、生産的な方法で、彼らは受け入れ 、彼らは
’
’
’
’
反応する。彼らが耳を傾けるものは、彼ら自身の思考過程を刺激する。…それぞれが聞く前
の彼もしくは彼女と異なった人間となったのだ。…講義が刺激的な材料を提供した時に、初
めて可能である。
p.65 知識を持つことは、利用できる知識 (情報)を手に入れ、保持することである。知る
ことは機能的であり、生産的な思考における一つの方法としてのみ役立つ。
p.66 知ることは裸の現実を〈見る〉ことを意味する。…それは絶えず真実によりいっそう近
づくためにうわべを突き抜け、批判的かつ能動的に努力することを意味する。
p.67 わたしたちの教育は一般的に、人々が知識を所有として持つように訓練することに努め、
その知識は彼らが持つであろう財産あるいは社会的威信の量とだいたい比例する。
p.151 私達は未知のもの、不確かなもののなかへ、足を踏み入れることをおそれ、その結果、
それを避ける。
同上 すべての新しい一步は失敗の危険をはらんでいて、それこそ人々がこれほど自由を恐
れる理由の一つなのである。
p.152 しかし、持つことによる安心感にもかかわらず、人びとは新しい理想を持つ人たち、
新しい道を切り開き、前進する勇気を持つ人たちを賞賛する。
p.153 ものは安心感を味わっているが、彼らは必然的にきわめて不安定である
【解答】
現代の学生において学習とは、ただ固定した理論の集合体を記憶することであり、学生は
思想体系において広がりを見せない知識の集積を所有することに満足している。なぜなら現
代における社会構造は経済と強い結びつきを持っているからである。そのため現在の産業社
会において、人々は持つという存在様式を主とすることが多くなった。持つことを存在様式
とする現代の人々は生活のあらゆる場面において、物に還元し、生産と消費を限りなく循環
させている。この背景は学生の学習様式にも現れている。
だから持つ様式の学生は、知識を広げ、新たな発見をしようとはしない。彼らは新しい発
見によって、彼らの持つ知識に疑念が生じることを恐れるのである。疑念によってその知識
を捨てざるを得ないということになったとしたら、彼らはなぜ学習するのか分からなくなり、
さらには生きる意味さえも見失ってしまうだろう。
以上のことから、持つという存在様式の学生は学習することにおいて、成長することがな
い。しかし、あるという存在様式を持つ学生は、学習の過程において全く異なった特質を持
っているため成長することが可能である。彼らは知識を獲得し、新しいことを能動的に受け
いれ、反応し、思考過程を刺激する。そして新しい観念や、思想を手に入れ、全く以前と異
なった人間となる。ある存在様式の学生は学習に置いて、知識などに全く執着しない。その
ため成長できるのだ。
4 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 ではどのようにすれば、持つ様式の学生をある様式の学生のように成長できる学習ができ
るのか。それにはまず持つ存在様式の学生の精神的な部分、意識の部分を変革しなくてはな
らない。それを実現するためには、教育機関が鍵を握っているといっても過言ではない。教
育者や教授は、持つ存在様式の人間であってはならない。そして、学生から不安を取り除き、
成長のために新たな発見をする勇気を持つように指導する必要がある。そして彼らは学生に、
常に講義において刺激的な材料を提供し続けることが求められる。そうすれば学生は、新た
に思考し、新たな発見をして、次に活かそうとするだろう。学生は自らが成長したという実
感をすれば、今まで彼らを取り巻いていた不安は消え、さらなる学問の広がり、人間の広が
りを見せるだろう。
また私達の社会において、人びとは持っている知識の量によって後の社会的地位が決まる
が、そうであってはならない。なぜならその社会で生きる人間は、所有の意識に固執し、ど
のようにあるかを考えず、人間的な広がりを見せないからだ。統計データから答えをだし、
知識が変容していくことを恐れる学生が多い現代の中で、少なくとも鎌田ゼミは、ある存在
様式の学生が集まっていると信じている。
【問 3】p.129「疎外された能動性においては、私はほんとうに働きかけはしない。私は外的
あるいは内的な力によって働きかけられるのである。私は能動性の結果から切り離されてし
まったのだ。」とあるがどういうことか。能動的であることと受動的であることを比較しな
がら答えよ。【参照範囲:第二篇】
【引用】
p.127 その基本的特徴は能動的であるということだが、それは忙しいという外面的能動性の
意味ではなく、自分の人間的な力を生産的に使用すると言う、内面的能動性の意味である。
’
’
p.128 私たちが記述した意味でのあることは、能動的であるいう能力を含意している。
p.129 現代の用法では、能動性は普通エネルギーの費消によって目に見える結果を生じる行
、、、、、、、、、、、、、、、、、
動の特質と、定義される。…概して言えば、能動性とは社会に認められた目的行動であって、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
そのけかとして、それに対応する社会的に有用な変化を生じるものである。
同上 現代的な意味での能動性は、ただ行動のみをさして、行動の背後の人物をさしてはい
ない。
同上 能動性の現代的な意味は、能動性と単なる忙しさとを区別しない。…疎外された能動
性においては、私はほんとうに働きかけはしない。私は外的あるいは内的な力によって働き
かけられるのである。私は能動性の結果から切り離されてしまったのだ。
p.130 しかし、精神分析的研究が十分に示しているように、彼らは自分でも意識しない内的
な力によってかりたてられているのである。
同上 疎外された能動性の例として、これと同じようにはっきりしているのは、後催眠行動
である。…それぞれの施行者から先に与えられた命令に従っている、ということには何ら気
付かない。
’
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’
’
’
同上 疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。…私
5 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 と能動性と能動性の結果とは一体であるという意味も含んでいる。私はこの疎外されない能
’
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’
動性を生産的能動性と呼ぶ。 p.131 生産的な人物は、彼らが触れるすべてのものを活気づける。
同上 単なる忙しさの意味での疎外された能動性は、実は生産性の意味においては、〈受動
性〉である。
同上 f このため、アリストテレスのような哲学者は、〈能動性〉と単なる〈忙しさ〉との
間の明確な区別さえ、していない。…彼らの自由が含意していたのは、自分は奴隷ではない
から、その能動性は生産的であって、自分にとって意味のあるものだという、まさにそのこ
とであった。
p.136 スピノザの能動性と受動性の概念は、産業社会に対する最もラディカルな批判である。
…そして彼らはいわゆる正常な能動性にはほとんど順応していないので、〈ノイローゼぎみ〉
ではないかと思われがちである。
【解答】
本著で述べられているある存在様式や、あることとは能動的であるということを含意して
いる。しかし、現代の私達における能動性はルネサンスによって新しい時代に至るまで用い
られた意味と全く異なっている。現代の人々がしばしば用いる能動性は、エネルギーの消費
によって見える、結果とその特質とされている。つまり社会的に認められた、目的行動であ
って、その結果、対応する社会に有用な変化をもたらすのである。例えば、患者を治す医者
も能動的であるし、他人の金を投資する投資家も能動的である。つまり現代的な意味での能
動性は、ただ行動のみを指しており、行動の背後の人物は指してはいない。だから能動性と、
人々の忙しさは区別されない。しかし本来の能動性の中では能動性と忙しさの間には根本的
な違いがある。これは私と言う主体が疎外されるか、されないかによって確認できる。本来
の能動性の中で私は能動性の主体として、私自身を経験している。しかし現代の人々におい
ての私はその能動性の主体として、自分を経験しない。つまり別の意識に私は働きかけられ
ているのである。だから私から切り離され、私という主体の能動性は疎外されているといえ
るのである。例えば、催眠をかけられた人が、施行者から与えられた暗示に従い行動するが、
これは望んでやっているのではなく、命令に従っていることになる。しかし催眠をかけられ
た本人は気づくことができない。対して、疎外されない能動性は私の力の現れであって、私
と能動性という経験と能動性の結果は一体である。さらにこの能動性は生産的であると言え
る。なぜなら、疎外されない能動性において、自分自身を深く意識し、様々な物体の本質を
観察し、さらには詩人が表現した言葉の感情の動きを内部に経験する人は、彼らが触れるす
べての物を活気づけるだろう。そういう意味で、生産的なのである。
この能動性はアリストテレスの実践の概念に通づる。この実践という言葉は、「自由な人
物が行う可能性のあるほとんどすべての種類の能動性のみを指す用語で、本来、アリストテ
レスが人の自由な能動性を表すために用いた用語である。」(p.132 引用)としており、つ
まり、アリストテレスを含むアテネ人は奴隷とは違い、何者にも疎外されない、自由で生産
的な能動性を実現していたのである。それだから彼らの時代には忙しさと能動性の間に明確
6 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 な違いは見らなかったのである。なぜならそのようなことは起こりえないのだから。
しかし現代における能動性は生産的能動性ではない。つまり生産的能動性と裏腹に現代に
おける能動性は単なる忙しさと言う意味だとそれは受動性を持った。なぜなら、現代の人々
は流れ作業において、私と言う主体の経験は疎外され、結果や行動しか見ていない。先に述
べたような催眠術の例がまさしく受動性を示していただろう。
さらに本著の中におけるスピノザの受動性と能動性の概念は、近現代の産業社会に対する、
根本的な批判である。彼は主として、金や所有や名声への貪欲にかりたてられる人物は現代
において、正常とみなされるが、スピノザにとっては、受動的で根本的に病んでいるのであ
る。
だから、単なる忙しさの意味での疎外された能動性は、生産性の意味において、受動的な
のである。なぜなら彼らは他のものの本質を観察し、活気づける以前に自分自身を失ってい
て、行動と結果しか見ず、病理的であるから。
【問 4】p.231「新しい社会の創造を可能にするためにまず必要なことは、このような試みが
直面しなければならないほとんど打ち勝ちがたいほどの困難に気付くことである。」とある
が、本著で述べられている今後私達に求められていることについて答えよ。また、本著を用
いてあなたが現代社会で問題視している事柄について自由に述べよ。
【引用】
p.130 疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。疎外
されない能動性は、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを
保つ過程である。このことはまた、私の能動性は私の力の現れであって、私と能動性と能動
性の結果とは一体であるという意味も含んでいる。私はこの疎外されない能動性を、生産的
能動性と呼ぶ。
p.234 あることの基礎となる新しい社会形態が生まれるためには、多くの企画、モデル、研
究によって、必要なことと可能なこととの間の隔たりに橋を渡すことを始めなければならな
い。
同上 新しい社会のモデルは、疎外されていない、ある方向づけをもった個人の必要とする
ものによって決定されなければならない。
p.236 私達が決定しなければならないのは、次のことである。どの要求が私達の有機体の起
源を発しているのか。どれが文化過程の結果なのか。どれが個人の成長の表現なのか。どれ
が産業によって個人に強制される合成品なのか。どれが<能動化>し、どれが<受動化>するの
か。どれが病理に根ざし、どれが精神的健康に根ざしているのか。
p.240 あることに基づく社会を達成するためには、すべての人々が自分の経済的な機能にお
いて、また市民として、能動的に参加しなければならない。かくして、持つ存在様式からの
開放は、産業的、政治的参加民主主義の十全な実現によって、初めて可能となる。
p.241 民主主義が権威主義の脅威に抵抗するためには、受動的な<観客民主主義>から能動的
7 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 な<参加民主主義>――そこでは、共同体のことがらが市民個人にとって、私的なことがらと
同じように身近で重要であり、さらに進んで、共同体の福利がそれぞれの市民の私的な関心
事となる――へと、変貌しなければならない。
p.245 官僚制的方法とは、(a)人間をあたかも物のごとく管理し、(b)物を質的な観点でな
く量的な観点から管理することによって、数量化と支配をいっそう容易で金の掛からないも
のにしようとする方法と定義することができる。官僚制的方法は統計的データに支配される。
官僚は決定をなすに当たって、目の前に立っている生きた人間への反応ではなく、統計的デ
ータから得た固定した規則を基礎とする。彼らは統計的に最も実情に近いと思われるものに
従って問題点を解決するので、その型に当てはまらない五ないし十パーセントの人びとは損
害を受けるおそれがあるわけである。
p.251 …人間は<社会への義務>を果たすかどうかにはかかわりなく、生きるための無条件の
権利を持つ…
p.260 今日の社会の救済の見込みを、生命の観点からでなく、賭けや商売の観点から判断す
るのは、商業社会の精神の特徴なのである。
p.265 新しい社会と新しい<人間>の実現は、次の諸条件が満たされた時、初めて可能となる。
利益、力、知性の古い動機づけが、あること、分かち合うこと、理解することの新しい動機
づけに取って代わられること。市場的性格が生産的な愛する性格に取って代わられること。
サイバネティックス宗教が、新しいラディカル・ヒューマニズム精神に取って代わられるこ
と。
【解答】
フロム自身、持つという存在様式が浸透しきった現代社会を変え、あることに基づく社会
を作ることは非常に難しいと語っている。しかしまず私たちは、私たちが持つことに基づい
た社会に生きており、それを転換することの困難さに気づくことから始めなければならない。
私たちは、お金をいくら持っているから、高価な品物をたくさん持っているから、素晴ら
しい経歴を持っているからその人は価値がある、と考えてしまうことがある。その逆もまた
然りである。そう考える時、私たちは相手を市場社会の中の商品であるかのように価値判断
してしまい、持っているモノによって人間のあり方が決められるという意味で受動的である。
また、このような価値判断が普通となってしまった社会においては、人びとは自分がどうあ
るかを表現することは求められない。これらのことに気づいた上で、社会の中で働くこと、
政治に参加することを能動的に行い、産業的、政治的参加民主主義を実現することが必要な
のである。
例えば、「指示されたことをこなすだけで給料は支払われるからそれでいい。求められた
仕事をこなすのも、自分の意志によって能動的に行っている」という人がいたとする。しか
しこの人の言う「能動的」は、仕事の行動と結果のみを指しているに過ぎない。自分がその
仕事とどのように関わるか、その仕事をどう意味づけるかを考え、「もっと自分が働きやす
くなるためにこうしたい、こうすればお客さんに喜んでもらえる」というように能動的に行
8 / 9 2014 年 7 月 11 日 第 11 回マクロゼミ フロム『生きるということ』 担当班 白石、赤嶺、林 動することで、自分のあり様を高めていけるようになる。
政治参加においても私たち一人ひとりが、何が人間の成長につながるのかということを念
頭に置き、私から能動的に共同体へ働きかけていくという姿勢で、どうすればあることに重
点を置いた社会を作れるかを議論することが重要となる。
以上のことが、あることに基づいた社会を作るために私たちがしていかなければならない
ことである。
さて、以下では私が現代社会において持つことの存在様式を感じたことについて述べる。
最近ニュースで、「日本経済復活のために女性の活用を」「LGBT 市場は何億円」という
言葉を見ることが多くなってきたように思う。女性が子育てしながら働ける環境を整えたり、
企業が LGBT に理解があることを示したりすりことで日本経済が潤うことには、おそらく誰
も反対しないだろう。しかし私は、先ほどのようなニュースでの論調の背後に、持つことを
前提にし、それを肯定する社会の姿を見るのである。彼らは潜在的な労働力や購買力を持っ
ているがために、市場社会で居場所を確保してあげましょう、というわけである。ではもし、
彼らに「何億円の経済効果」のように、数量的に測られるものを持っていなければ、女性や
LGBT の人たちはこの社会から見捨てられてしまうのだろうか。私は以前、企業における女
性の活用について研究している私の友人とこのテーマについて話したことがあるのだが、彼
が言うには、「経済的な視点から女性の活用を促進することのどこに問題があるのか。結果
的に女性の権利が守られて社会的地位が向上するならそれでいいじゃないか」とのことであ
った。私は彼の言葉に違和感を抱いた。経済市場の要請によって確保される、カギ括弧付き
の社会的地位、人権などに何の意味があるのだろうか、と。フロムの言葉を借りれば、「人
間は<社会への義務>を果たすかどうかにはかかわりなく、生きるための無条件の権利を持つ」
(p.251)のである。
この世に生きる全ての人びとが、互いに一人ひとりのあり方を肯定できる。そのような社
会を、私もある存在様式の人間の一人として作っていきたい。
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