全文ダウンロード(PDF形式)

第 3 部 物質・材料研究における今後の研究動向
第 5 章 環境・エネルギー材料
7.鉄系構造材料
(3)高窒素ステンレス鋼
片田 康行 材料創製支援ステーション、物質・材料研究機構
化されている DSN9 3)など 0.5mass % N を含有する
1 .はじめに
鋼種もでてきている。Cr 系マルテンサイト鋼では、
窒素は、鉄鋼材料の強度、耐食性などの向上に有
本質的に窒素溶解度の高い成分系が得られないこと
効な元素であり、従来より窒素を積極的に利用した
から、窒素の利用は 0.15mass %程度までと限定的
鋼種が開発・実用化されてきている。図 1 に窒素を
である。
含有する鋼種の窒素レベルの推移および鋼種の例を
一方、より多くの窒素を添加するための加圧溶解
示す。実線が一般的な鉄鋼の製造プロセスである大
法についても古くから検討されている。研究室規模
気圧下での溶解にて製造されている窒素量のレベル
では 1960 年頃から誘導炉やエレクトロスラグ溶解
である。Mn と Cr を多く含む Mn-Cr 系オーステナ
炉(ESR)での研究が行われ 4)、これらの結果を
イト鋼では、古くから窒素を多量に含有する鋼種が
ベースとして 1980 年代に欧州で量産規模の加圧型
開発されてきている。例えば、現在でも自動車用排
ESR が開発された 5)。図 1 の中で四角枠で囲んだ鋼
気バルブ鋼として広く用いられている 0.4mass %窒
種がこれらの装置を用いて開発されたものであり、
素を含む 21-4N(JIS SUH35)が 1950 年より前に開
Mn-Cr 系オーステナイト鋼では 1mass %程度、Cr
発され、その後もリテーナリングや石油掘削用ドリ
系マルテンサイト鋼では 0.4mass %程度まで窒素を
ルカラーをはじめとする非磁性鋼として多くの鋼種
含有する鋼種が実用化されてきている。
の実用化が図られている。最近では Mn-Cr 系オー
このように窒素の特性を生かし、窒素を積極的に
ステナイト鋼の窒素含有量は 0.7mass %程度まで上
利用する鋼種開発は精力的に行われてきており、そ
1)
第
5
章
環
境
・
エ
ネ
ル
ギ
ー
材
料
がってきている 。SUS304 に代表される Ni-Cr 系
の製造方法も多種多様にわたっている。本章ではこ
オーステナイト鋼でも 1970 年代に米国で窒素を積
れらの窒素利用鋼の製造方法について概説する。
極的に利用した Nitronic 系の鋼種が実用化されてか
ら、より高い窒素を含む鋼種が開発されてきており、
化学プラント用の高耐食材として用いられている
2 .窒素利用鋼研究の現状と動向
Avesta654SMO 2)、自動車の排気ガスケットに実用
鉄鋼材料への窒素の添加方法としては、溶融状態、
図 1 窒素を利用した鋼種の窒素量の推移と代表鋼
342
2006年度物質材料研究アウトルック
第 3 部 物質・材料研究における今後の研究動向
第 5 章 環境・エネルギー材料
固体状態の 2 種に大別される。固体状態での窒素添
鋼(HNS)については、高圧条件下での溶解のため
加方法としては、高温の窒素ガス中に保持し、材料
窒素の溶解度が上昇するので、Mn のような窒素の
表面から窒素原子を拡散させる固相窒素吸収法のほ
溶解度を高めるための添加元素を用いる必要はな
か、メカニカルアロイング(MA)法、粉末冶金法
く、従って Mn 添加による耐食性の低下を避けるこ
などがある。以下、溶融法と固相法に分け、それぞ
とができること、スラグによる精錬効果と脱酸剤に
れの特徴を述べる。
より清浄性に優れた素材となること等により、合金
高強度、高耐食、非磁性の特性を兼ね備えた素材と
2.1 加圧式 ESR 法
なる。HNS は、化学成分から見る限りオーステナ
加圧 ESR(Pressurized Electro-Slag Remelting)と
イト系ステンレス鋼の範疇になるが、以上のように
して知られる技術と装置はオーストリアで考案され
バルク材として極めて優れた特性を示す。このよう
4-6)
、最終的に
に HNS はその特性から従来にはない新素材といっ
はドイツで完成された 。PESR の特徴は、他の溶
てもよいほどの素材ではあるが、実際の応用までに
解法と異なり、一次電極の化学成分と最終インゴッ
は解決すべき課題も多い。
長い年月をかけて研究されてきたが
7)
トのそれが異なっていることであり、PESR では一
実用上最も重要な課題は、加工性・成形性の確保
次電極の溶解時に窒素源としての窒化物あるいは
であろう。例えば 1 重量%を越える窒素を含有する
フェロ窒化物を添加して加圧条件下のフラックス中
HNS の場合、窒素の固溶強化により溶体化処理処
で溶解され、最終インゴットの化学成分が決定され
理後でも 300 以上のビッカース硬さを示す。さらに
る。
この素材は加工硬化が著しく、実際には加工と溶体
1988 年にフランスの Lille で開催された高窒素高
化処理処理を繰り返しながら加工を進めていくこと
国際会議(HNS'88)において、Stein らは、イン
になる。さらに靭性や強度延性バランスの解決には、
ゴット重量 20 トン、インゴット直径∼ 1000 mm の
加工熱処理等を用いた結晶粒微細粒化や微細析出物
新しい PESR 溶解装置を開発し、大型溶解に関する
による組織制御技術の確立が望まれる。
7)
研究を開始したことを発表した 。この装置の最大
圧力は 4.2MPa で、溶解に必要な窒素源およびフ
ラックスは圧力平衡装置を持った圧力バウンダリー
2.2 固相窒素吸収法による高窒素ステンレス鋼の
を介し、るつぼ内に順次供給される。この装置を用
固相窒素吸収法とは、鋼材を 1000℃以上の高温
いて、発電機の回転子端を締め付けるためのリテー
の窒素ガス中に保持することで材料表面から窒素原
ニングリング用材料として P900N(18%Cr-18%
子を固相内(オーステナイト相)に拡散させ、材料
Mn-Mo-N)が開発された。この素材の窒素量は、
表面近傍、または材料全体の高窒素化を図る一種の
0.75 ∼ 1.07 質量%で、70%の冷間加工を施した結
化学熱処理法(chemical heat treatment)である。こ
果、引張強度 1550MPa、0.2%耐力 1530MPa のもの
の手法は、相変態点以下の温度で材料表面に窒化物
が得られている。この 20 トンの PESR については、
を析出させて表面を硬化(析出硬化)する、いわゆ
HNS'90 の国際会議でさらに詳細な報告がなされて
る「窒化(nitriding)
」とは本質的に異なり、固溶さ
7)
いる 。窒素源として、金属系の窒化クロム、窒化
せた窒素原子による固溶強化をねらうのが目的であ
マンガン、フェロ窒化クロムの粉末が使用されてい
るため、窒化と区別して「窒素吸収処理(nitrogen
るが、これらは比較的窒素含有量が低く、また重量
absorption treatment)」、「solution nitriding」、「high
が比較的重いためインゴット内で偏析を生じるので
temperature gas nitriding(HTGN)
」といった表現が
ダブルメルトを行う必要がある。これに替わって窒
用いられている。固相窒素吸収法は、窒素と親和力
化シリコン Si3N4 は、30%N、60%Si と窒素の含有
の高いクロムを多量に含むステンレス鋼に対して、
量が高く、偏析もないので欧州においては窒素源の
通常の溶製法では添加が困難な高濃度の窒素をガス
主流となっているが、インゴット内に比較的高い
雰囲気焼鈍のみで容易に添加できる特長を有するた
Si が歩留まるという問題がある。
め、高窒素鋼の製造プロセスとして実用的にも有効
PESR 法で得られたオーステナイト系ステンレス
2006年度物質材料研究アウトルック
第
3
部
物
質
・
材
料
研
究
に
お
け
る
今
後
の
研
究
動
向
製造と特性
な手段である。実際にドイツの Berns ら
8-10)
のグ
343
第 3 部 物質・材料研究における今後の研究動向
第 5 章 環境・エネルギー材料
ループにより、工業レベルでの処理技術が確立され
ている。
2.3 メカニカルアロイング法による高窒素鋼の
研究
11)
ニッケルフリーオーステナイト系ステンレス鋼(以
が粒子分散型のスーパーアロイ粉末
後 Ni フリーステンレス鋼)の開発研究が注目さ
の製造法として提唱し、その後粒子分散型合金だけ
れている。しかし Ni フリーステンレス鋼の歴史は
でなくアモルファス材料や最近ではナノ結晶粒材料
実は非常に古く、1956 年には既に Tisinai ら 22)に
の製造法の一つとして研究、開発 12-14)に用いられて
よって窒素および炭素でオーステナイト組織を安定
いる。
化した Fe-Cr-C-N 系ニッケルフリーオーステナイト
MA 法により HNS 研究を行っているグループは
ステンレス鋼が製造されている。その際利用され
世界でもそう多くない。アメリカの Rawers のグ
た製造手法が固相窒素吸収法であった。その後、
ループは窒素雰囲気で鉄粉の MA 実験を行い、MA
Schenck ら
処理中の窒素吸収と組織変化、加えて押出し、HIP
後、国内でも熱力学の研究を目的として盛ら 24)、
により固化成形した試料の窒素、組織について調べ
増本ら
15)
23)
の Fe-X-N 系合金に関する研究を経た
25)
、今井ら 26)、菊池ら 27、28)等の研究グルー
。彼らは MA 中に鉄中に窒素が吸収され
プがニッケルフリーステンレス鋼の窒素吸収挙動に
その量は MA 時間に依存すること、格子間位置に
関する研究成果を数多く報告している。ただし、当
侵入すること、結晶粒微細化に非常に効果的である
時はアレルギー問題というより、高価なニッケルを
こと、固化成形時の昇温後でも残存していること等
使用しない安価なオーステナイト鋼の製造に興味が
を報告している。
寄せられていたのだと思われる。最近では塙ら 29-32)
ている
第
5
章
環
境
・
エ
ネ
ル
ギ
ー
材
料
近年、医療分野では、ニッケルアレルギーの危険
性の観点から、ニッケルを窒素で完全に置き換えた
メカニカルアロイング(MA)は 1970 年 INCO 社
の Benjamin
3 .ニッケルフリー高窒素ステンレス鋼の
開発研究
フランスの Foct のグループは磁性に注目し、MA
により、Ni フリーステンレス鋼の生体用への応用
実験を行っている。彼らは窒化鉄(Fe 4 N および
が試みられている。しかしながら、固相窒素吸収法
Fe 2N)と純鉄を MA 処理すると窒素含有量は MA
で製造した Ni フリーステンレス鋼は、結晶粒が粗
処理中に変化せず仕込み量に応じた窒化鉄の単相に
大であり脆性的な破壊を生じること、熱的安定性が
16)
なることを報告している 。
低く溶接や耐熱用としての使用が困難なこと、ひず
ロシアの Popovich らは鉄とチタンを窒素雰囲気
み・応力に対する安定度が不十分であり加工誘起マ
中で MA 処理すると、窒素の含有量がミリング時
ルテンサイトを生じやすいこと等、解決すべき問題
間と共に増加することと、鉄とチタン、鉄と窒素が
を多く残している。今後の合金設計・組織制御指針
反応し鉄、鉄チタン(Fe 2Ti)、窒化チタン(TiN)
が重要である。
17)
の三相になることを報告している 。
姫路工業大学(現兵庫県立大学)の山崎らは鉄と
鉄クロム合金
18)
、鉄とチタン
19)
を窒素雰囲気で
MA 処理すると、窒化が進行し非晶質もしくはナノ
4 .NIMS における高窒素ステンレス鋼
研究
国内における PESR による高窒素鋼の例として、
結晶質ができることを示した。
産業技術短期大学のグループでは鉄窒素系の非晶
NIMS において 1997 年から開始された超鉄鋼プロ
質化を調べるため純鉄と窒化鉄による MA 実験を
ジェクト研究(STX-21)の一環として行われてき
行い、非晶質化に、窒素が効果的であること、窒素
た「耐海水性ステンレス鋼の開発」33-35)をあげるこ
との親和力の強い第三元素の添加が効果的であるこ
とができる。この耐海水性ステンレス鋼の開発指針
と、親和力が強すぎると窒化物を形成し単相になら
としては、Cr、Ni、Mo の合金元素を極端に増加さ
ないこと、ステンレス組成の場合でも窒素の振る舞
せることなく、かつ素材の高清浄化を図ることによ
いは同様であることを示した
20、21)
。
り、スーパーステンレス鋼級の耐海水性省資源型ス
テンレス鋼を開発することである。窒素添加と素材
344
2006年度物質材料研究アウトルック
第 3 部 物質・材料研究における今後の研究動向
第 5 章 環境・エネルギー材料
の清浄化を同時に実現できる装置として、窒素ガス
加圧式 ESR(Electro-Slag Remelting)装置を国内で
初めて開発し、不純物混入の原因となる Mn を添加
しない高窒素添加ステンレス鋼の試験溶製に成功し
た 33-35)。
高窒素鋼研究は欧州において先行しており、そこ
では素材の窒素溶解度を高め、コストの低減化を図
10)H. Berns: Proc. High Nitrogen Sreels 2004, GRIPS
media(2004)271.
11)J. S. Benjyamin: Met.Trans. 1(1870)2943.
12)日本金属学会報 27(1988)799.
13)工業材料 44(1992)18.
14)金属 65(1995)999 および 1111.
15)J. Rawers,D. Govier and D. Cook: ISIJ Int. 36(1996)
958.
るために、ベース材として高 Mn 鋼(∼ 20 質量%)
16)J. Foct and R. S. de Figueired: ISIJ Int. 36(1996)962.
を使用しているのが特徴である。しかしながら高
17)T. A. Popovich, O. V. Arestov, A. A. Popovich and A. S.
Mn 鋼の採用は耐食性向上の阻害因子となることが
実験的に示されており、NIMS における高窒素鋼の
研究は、耐海水性高窒素ステンレス鋼の開発を目指
したものであるため、Mn フリーの高窒素鋼の開発
を目指している。これまで実海水環境下の暴露試験
Kuchma: J. Mater. Technol. 17(2001)1.
18)Y. Ogino, T. Yamasaki and K. Namba: ISIJ Int. 33
(1993)
420.
19)T. Yamasaki, Y. Ogino, K. Fukuda, T. Atou and Y. Syono:
Mater. Sci. Forum 179-181(1995)647.
20)H. Miura, K. Omuro and H. Ogawa: ISIJ Int. 36
(1996)951.
において 2 年以上にわたってすき間腐食を発生しな
21)H. Ogawa and H. Miura: Jpn.J.Appl.Phys. 41
(2002)5311.
いという高耐食性を確認している。日本における高
22)G. F. Tisinai, J. K. Stanley and C. H. Samans: Trans. Am.
窒素鋼研究は、日本鉄鋼協会材料の組織と特性部会
に設立された「鋼の諸特性に及ぼす窒素の有効性」
研究会(H16-19 年度、主査:片田康行、物質・材料
研究機構)で国内の産官学 30 余機関により組織さ
れ、高窒素鋼の製造、各種特性発現機構の解明、接
合、表面改質およびニッケルフリー高窒素鋼の実用
化研究等に関する精力的な研究活動が行われてい
Soc. Met. 48(1956). 356.
23)H. Schenck, M. G. Frohberg and F. R. Reinders: Stahl
und Eisen 83(1963)93.
24)盛利貞、新名恭三、一瀬英爾、諸岡 明:日本金属
学会誌 27(1963)49.
25)増本健、奈賀正明、今井勇之進:日本金属学会誌 34
(1970)195.
26)今井勇之進.鋼の物性と窒素.アグネ技術センター、
東京、1994、p. 31.
る。
第
3
部
物
質
・
材
料
研
究
に
お
け
る
今
後
の
研
究
動
向
27)菊池実、田中良平:鉄と鋼 61(1975)2892.
引用文献
1 )池田、岩田、波多野、石坂: 日本製鋼所技報 46
(1992)
28)菊池実、田中徹、西村隆宣、武田修一、田中良平:
鉄と鋼 63(1977)105.
29)M. Sumita, T. Hanawa and S. H. Teoh: Mater. Sci. Eng.
67.
2 )B. Wallen, M. Liljas, P. Stenvall: Werkstoffe und
Korrosion 44(1993)83.
3 )桂井、西山、濱野: Honda R&D Technical Review 15
(2003)167.
4 )W. Holzgruber: High Nitrogen Steels HNS88, J. Foct and
A. Hendry(Eds.), Maney Publishing, London, 1988, p.
C 24(2004)753.
30)D. Kuroda, T. Hanawa, T. Hibaru, S. Kuroda, M.
Kobayashi and T. Kobayashi: Mater. Trans. 44(2003)
414.
31)D. Kuroda, T. Hanawa, T. Hibaru, S. Kuroda and M.
Kobayashi: Mater. Trans. 44(2003)1363.
32)D. Kuroda, T. Hanawa, T. Hibaru, S. Kuroda and M.
39.
5 )W. Holzgruber: Austrian Patent 333327, S12(1974)
.
rd
6 )CH. Kubich and W. Holzgruber: Proc. 3 Int. Symp.
Electroslag and other Special Meeting Technology,
Pittuburg, 1971.
7 )G. Stein, J. Menzel, H. Dorr: High Nitrogen Steels
HNS88, J. Foct and A. Hendry
(Eds.)
, Maney Publishing,
Kobayashi: Mater. Trans. 45(2004)112.
33)Y. Katada, M. Sagara, Y. Kobayashi and T. Kodama:
Mater. Manuf. Process. 19(2004)19.
34)片田康行、相良雅之:防錆管理 48(2004)329.
35)Y. Katada, N. Washizu and H. Baba: Proc. HNS 2004,
Ostend, Belgium, GRIPS media(2004)549.
London, 1988, p. 32.
8 )H. Berns and A. Kühl: Wear. 246(2004)16.
9 )V. G. Gavriljuk and H. Berns: High Nitrogen Steels,
Springer, Heidelberg, 1999, p. 215.
2006年度物質材料研究アウトルック
345