博物館ニュース vol.90

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▲蓮如上人絵伝第2幅より(本宗寺蔵)
本證寺を攻撃する家康軍(下)と炎上する本宗寺(上)
ISSN 1344-266X
●
安祥文化のさと
●
Anjo City Museum of History
2013.10
No. 90
特別展
三州に一揆おこりもうす
- 三河一向一揆 450 年 -
平成25年11月 30日(土)~ 平成26年2月2日(日) 観覧料 一般:300 円
(中学生以下無料)
桶狭間合戦後、三河国統一をめざす松平家康に
八ツ面の荒川義広、上野の酒井忠尚、桜井の松平家
とって最初の試練が、永禄6年(1563)におきた三河
次、大草の松平昌久、六栗の夏目吉信らの動きに呼
一向一揆でした。本願寺の影響力が大きい西三河を
応するように、本願寺門徒勢力が蜂起したことで、
治めようとする家康にとって、この勢力との対立は
西三河の各所で両勢力がにらみ合う状況になりまし
難しい問題をはらんでいました。家康家臣のなかに
た。家康にとってはもっとも敵に回したくない相手
も多数の本願寺門徒がいたためです。結果として家
が、敵側についてしまったことになります。
臣団は、家康側と本願寺門徒側に別れて激しい戦闘
短期間の激戦
をくりひろげることになり、若き家康は苦渋の選択
を強いられたとして、後世語り継がれています。今
永禄7年正月になると、いよいよ戦闘が激しくな
年はこの三河一向一揆の勃発から450年にあたりま
りました。本宗寺・勝鬘寺・本證寺の軍勢が、家康
す。
側の大久保氏の守る上和田砦攻撃、その後一進一退
の激戦を断続的にくりひろげました。
一揆の原因
2月上旬には刈谷の水野信元が援軍を差し向け、
この頃の西三河では、多数の道場を傘下におさめ
本證寺や上宮寺の軍勢と戦いました。信元は家康に
た本證寺、上宮寺、勝鬘寺の三河三か寺を中心に、
和睦を勧めたともいわれます。市内の小川安政では、
本願寺直属の浄妙寺、慈光寺、願照寺、無量寿寺の
一揆側が水野軍と果敢に戦いながらも敗北し、円光
四か寺を加えた七か寺が、本願寺の血縁者を住職と
寺順正が大将格の本證寺空誓の身代わりとなり壮絶
する本宗寺を支える大きな組織になっていました。
な最後を遂げたと伝えられています。
水運や商いにたずさわる門徒も少なくなく、経済的
中旬には岡崎城の攻撃に向かう本宗寺・勝鬘寺の
にも大きな影響力がありました。本宗寺や三か寺に
軍勢が、手前の小
は「寺内」と呼ばれた区域があり、犯罪者の追跡・
豆坂(馬頭原)で直
処罰や年貢米を集めるなどのために領主やその家臣
接家康と戦いまし
が立ち入ることを断る特別な権利(不入権)もありま
た。両軍が入り乱
した。
れ た 大 混 戦 の 末、
ところがこの寺内で起きた事件をめぐって、家康
家康側が勝利しま
の家臣である酒井政家が、寺内にいる関係者を一方
す。翌日朝、菅生
的に処罰してしまいました。寺内の事件については
川 で は 戦 死 者130
様々な説がありますが、いずれにしても家康が進め
人の首が並べられ
る三河国統一のため、反家康勢力との戦いにそなえ
たといいます。
て兵糧米を強引に確保しようとしたことが発端と考
その後一揆側か
えられます。このことに反発して三か寺などが反家
ら家康に和睦が働
康の動きをみせると、家康家臣で本願寺門徒でもあ
きかけられ、2月
る侍たちが、これに同調して三か寺にたてこもるよ
末頃に和睦が成立
うになります。一族を二分して対立することになっ
しました。不入権
た家臣たちも大勢いました。
の確認と一揆に参
永禄6年の12月にはこの動きが決定的になり、も
加した門徒侍の助
ともと家康に反旗をひるがえした東条の吉良義昭や
命が和睦の条件で
-2-
小豆坂古戦場の碑(岡崎市)
三河一向一揆の20年ほど前にも、織田・
今川両軍が二度にわたり戦いをくりひろ
げた。
く、いずれも家康の事跡のひとつとして書かれてい
ます。一部に詳しい記述があるものの、すでに事件
の推移が読み取りにくくなっています。また、一向
一揆そのものを題材とするものは、100年以上後に
書かれた『永禄一揆由来』が古いもので、こちらは
地元の伝承を丹念に取材して書かれたものです。以
後、さまざまな三河一向一揆をテーマとする記録が
書かれますが、伝承をもとにしているため、史実と
して認めがたい部分もあります。このような記録・
編さん類に共通して書かれること、くいちがうこ
と、どれかにしか見られないことなど、複雑な状況
のなかから、丹念な比較と検討をとおして、少しず
つ一揆の全体像が明らかにされてきました。
本願寺門徒側の遺品なども、三河三か寺もふくめ
金の唐人笠馬印(杵築神社所蔵)
家康に献上され、後に能見松平家に返却された。
て、ほとんど残っていません。一方で、家康に仕え
た側では遺品が残されることが希にあります。左の
写真は、この一揆で家康側について戦った松平重吉
した。発端になった寺内の事件が10月と伝えられる
が用いた馬印で、代々能見松平家で大切にされてき
ことから、わずか6か月(永禄6年は閏12月がある
ました。重吉はこの馬印を掲げて華々しく活躍した
ため)、大きな戦闘としては約2か月で一揆側の抵
といいます。
抗は終息したことになります。3月には本願寺門徒
下の写真は、一揆で中心的役割をはたした本證寺
以外の抵抗勢力も押さえ込まれました。
の堀を、発掘調査で確認した様子です。調査による
と堀は戦国時代のもので、急斜面で深く掘りこまれ
坊主衆の追放
た特徴がよくわかります。このような城と見まがう
一揆が和議をきっかけに鎮静化すると、3月から
ような堀を、境内やその外側の寺内にめぐらせてい
4月の頃に家康が三か寺などに対して改宗するよう
ること(「城郭伽藍」といわれる)が、多くの侍が立
命じます。これを拒んだ坊主衆たちは、三河国外へ
てこもるのを可能にしていました。近年は一揆当時
追放されてしまいました。三河へもどることが許さ
の堀や土塁の様子がしだいに明らかにされ、城郭伽
れるのは天正11年(1583)、中心的役割を担った七か
藍が良好な形で残る史跡として高く評価されていま
寺の場合はさらに2年後の天正13年で、約20年間に
す。 (天野信治)
わたって真宗の本願寺派は禁教状態になりました。
三か寺の主要な建物、本宗寺では寺内についても、
このときに取り壊されたとされています。 また、一揆側についた家臣たちも、わずかの例外
をのぞいて、再び家康に仕えることを許されなかっ
たので、大多数は国外に出て行くことになりまし
た。こうして家康は、支配下から反抗勢力をとりの
ぞき、家臣団をまとめあげることに成功します。
一揆の跡をたどる
家康の生涯では確かに大きな節目になった三河一
向一揆ですが、事件当時に書かれた記録は残されて
いません。50年ほど後の江戸時代初め頃に書かれた
本證寺外堀の調査
幅 4.5 m、深さ 3.2 m。この内側には大規模な土塁があった。
『松平記』や『三河物語』に記された部分が最も古
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企画展
千客万 来
- 安城を彩った広告 ー
平成25年10月19日(土)~11月17日(日) 観覧無料 明治のはじめから昭和30年初頭にかけて、店の看
板や、商品の看板・ポスター・チラシは最も効果的
な広告・宣伝手段でした。広告・宣伝が氾濫してい
る今日とは全く違っていました。
当館には市民の方々から寄贈された資料が沢山あ
り、その中から今回は広告・宣伝に関わる資料の収
蔵品展を企画しました。ここでは展示する資料の一
部を紹介します。
明治24年(1891)に安城駅ができ、駅の南を中心と
して町が発展していきます。そのうち末広町には醤
写真2 天萬商店引札
油醸造元山口商店がありました。写真1の引札は、
「帝国万歳」の文字と日章旗・海軍旗がなびいてい
く、広告以外にラベ
る様子から、日露戦争前後(明治37・38年)のものと
ルは今でも趣味で収
思われます。駅開業から13年ほど経った頃です。絵
集の対象となってい
のような店が実物通りなのか不明ですが、この引札
ます。
から店が大きくてとても繁盛しているようなイメー
この展示で目玉と
ジを与えてくれます。
なるのは、小川町の
古田商店で販売して
いた商品の広告で
す。古田商店は明治
30年(1897)に 創 業
し、当時「古田百貨
店」という店名でし
た。今も小川町で営
写真3 昭和15年頃富士屋呉服店
初売りチラシ
業しています。味噌・醤油・缶詰や酒などの食料品
だけでなく、薬品や燃料、魚、たばこ、家電製品、
そのほか小川村の人たちが必要とするものは何でも
写真1 山口商店引札
あり、
「百貨店」と名乗るにふさわしいお店でした。
明治の引札の多くは、パターン化されたデザイン
そのほかに、市内や近隣で製造された食品の広告
に店舗名や商品、所在地などが記名されたもので
や、安城駅前商店街にあった劇場・映画館の広告、
す。写真2の天萬商店は現在の小川町天神で、おそ
選挙広告、公共の啓発ポスターなど様々な種類のも
らく明治後期に営業していた小売店と思われます
のがあります。
が、駅前や街道沿いの町だけではなく、この頃は農
今回の展示では、昭和10年代から30年代はじめの
村内にも店ができ始めました。絵の内容は歌舞伎な
頃の店をイメージ
どの芝居の一場面ですが、そのほかに七福神や万歳
した店舗コーナー
などの慶事、汽車などの新しい文明を題材にしたも
などをつくり、店
のなどがあります。
ごとに関連するポ
広告で多く残っているのは、生活に身近な商品で
スター・チラシ・
す。昭和30年頃まで和服は必需品で、呉服店では盆
看板を紹介しま
や正月にセールを大々的に行うなど、今とは様相が
す。 (三島一信)
違います(写真3)。また、お酒に関するものも多
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写真4 森永ケチャップ看板
( 市内工場製造 )
収蔵品紹介
だ い つ き が め
弥生時代の大発明!?台付甕
ここ数年、温暖化や東日本大震災の影響も手伝っ
他の地域の様子もみてみましょう。日本列島で最
て、
「節電」や「省エネ」が日本では定着してきてい
も早く、米作りの文化が伝わった九州では、弥生時
ます。しかし「効率良くエネルギーを利用したい」
代の前期末から中期初頭に台の付く甕が登場しま
という気持ちは、現代人のみならず、古代人も同じ
す。それに加え、北部九州では甕を支える支脚も一
だったようです。
緒に使われたようです。中期の中頃になると、南部
弥生時代に使われていた土器を弥生土器と呼びま
ではそのまま台付の甕が使われますが、北部では、
すが、一口に弥生土器と言っても、食物の貯蔵には
甕に付いた台は消えて支脚のみが使われるようにな
壺と呼ばれる口が窄まる形をした土器、食物を盛る
りました。甕自体を高く持ち上げれば良いわけです
のは高坏や鉢と呼ばれる浅い土器というように用途
から、台を付けることを止めて、支脚で支える方法
によって形が異なっていました。そして食物の煮炊
を選択したということです。
きには甕と呼ばれる口の広い土器が使われていまし
一方、三河や尾張地域において、台付甕が成立す
た。現在の道具に例えるなら鍋のようなものです。
る前段階では、甕の下に筒状の土製品を置いて甕を
すぼ
かめ
持ち上げており、この土製品と甕が合体して台付甕
が誕生しました。台を甕に付けるという点で、北部
九州とは正反対の方法を選びました。このように地
域によってさまざまな工夫を凝らしていたようで
す。
さて、このような機能的な土器が誕生しました
が、すべての甕に台が付くようになったわけではあ
平底の甕
中狭間遺跡出土
古墳時代前期
りません。機能だけが土器の形を決定するわけでは
台付甕
釈迦山遺跡出土
弥生時代後期
なく、それ以外にも地域性や他の地域との関係、文
化などさまざまな要素が土器の形に反映されるので
この三河や尾張地域では、弥生時代中期の終わり
しょう。
頃(紀元前100年頃)に甕に台がつくようになりまし
弥生時代の終わりごろ(200年頃)になると、台付
た。台があるのとないのとでは何が違うのかと言い
甕の最終進化系とも呼べる「S字 状 口縁台付甕」
ますと、台があると甕を火にかけた時の熱効率が良
が伊勢地域で成立し、この三河でも作られるように
くなるのです。図を見てください。
なります。この台付甕は器壁が非常に薄く、また胴
えす じ じょう こう えん だい つき がめ
の張りも強く炎の当たる面積が広いため、さらに効
度が高い部分
率よく炎の熱を利用することができます。この当時
は、炎の頂点
の伊勢湾沿岸地域を代表する非常に優秀な土器で
とそのやや上
す。
部です。台が
しかし、朝鮮半島から伝来した竈が、安城市域で
付いていない
は古墳時代中期(500 ~ 600年頃)には使用されるよ
と、この炎の
うになっていました。そのため台付甕よりさらに効
温度の高い部
率良く調理することができるようになり、S字 状
分が、加熱したい食物の入っている甕の下部ではな
口縁台付甕を含めた台付甕は徐々にその役目を終え
台が付いている
ことにより、炎の
一番温度の高い部
分が、甕の下部か
ら最も膨らんでい
るところに当たる
ので、熱効率が良
く、平底の甕より
短時間で調理する
ことができます。
胴 部
炎の最も温
かまど
えす じ じょう
こうえんだいつきがめ
く、上の方に当たってしまいます。ところが、甕に
ていきます。
台が付くと、炎の最も温度の高いところが、ちょう
常設展示室には、写真以外の台付甕も展示してい
ど甕の下の方から胴部の最も膨らんだところに当た
ますので、博物館にお越しの際にはぜひ見ていって
り、短時間で効率よく調理ができるのです。まさに
ください。 (後藤麻里絵)
熱効率を突き詰めた弥生時代の発明品です。
-5-
村絵図を歩く Ⅶ 館長
高 山 忠 士
屋惣重、此絵図下書ニ
境村
今
テ□出」と書かれ、何
境
村
田
牛
作野池
カ所かの付箋による書
境
村
今
き加えがあったり、明
らかに書き手の違うカ
タカナ表記の部分が
あったりするところを
みると、この絵図は何
度か手を加えられなが
らも村に残されてきた
山新畑
小作野池
御林
ものであることが分か
ります。御林であった
ところが山新畑と書き
郷中
換えられたりしていて
新屋敷
開発が進んだ様子もう
かがえます。絵図は、
元御林新 畑
村の行政にとって欠か
すことのできない大切
なものだったのでしょ
藩中開拓地
う。
図の左下に青水、黄
田、赤道、白畑、黒境、
中村新屋敷
安城村境
阿津ま池
緑青山と色分けの凡例
が書かれていますが、
退色してしまってよく
半城土村境
野田村境
分からない部分がある
のが残念です。
ま た、 北 の 境 は 今
村、東の境は安城村と
書 か れ、 現 在 の 住 吉
図1 文政12年(1829)笹目村絵図
町(今村)、今池町(今
これまで数回にわたって天明7年安城村絵図写に
村)、池浦町(安城村)と接していることが分かりま
よって村絵図を歩いてきました。今回から文政12年
すが、西から南の境は、中村、半城土村、野田村な
笹目村絵図(図1)によって現在の篠目町を歩いてみ
どと書かれ、現在の行政区分とは全く違う村々に接
たいと思います。
していたことも分かります。
図1を見てみましょう。図の右端に、
「文政十二
図の左、やや下に中村新屋敷と書かれたところが
(1829)己丑年九月下旬三州碧海郡重原庄笹目村地内
ありますが、ここは現在の井杭山町にあたります。
之絵図和泉村都築弥四郎様新開ニ付認之」と書かれ
井杭山が中村(現在の知立市西中町)からの分村でで
ています。都築弥厚の用水計画にともなって描かれ
きた集落であることが分かります。
たものであろう事が分かります。
さて、篠目村の中を見ていくと郷中と新屋敷とい
また、図の下、中程には「天保十四(1843)卯四月
う二つの集落があったことが分かります。郷中はま
絵図御役所差出し、百姓代武右衞門、組頭増蔵、庄
さに篠目村の中心です。
-6-
郷中
写真2 明専寺から北に続く篠目本郷のメイン道路:絵図によれば
この道の左手に郷蔵があったことになる
業によって篠目地域は大きく変貌しました。そのた
めにかつての姿はほとんど残っていません。しかし、
郷蔵
郷中に入って少し気をつけてみると絵図の時代の名
御高札
残も残っています。
写真2は明専寺の北門から本郷に続くかつてのメ
イン道路です。古くからの道は狭くて日常の生活に
は不便かもしれませんが、江戸時代から残る道筋で
あることを思うと感慨深いものがあります。
さて、今一度図1に戻ります。郷中をぐるりと囲
図2 文政12(1829)篠目村絵図(部分)
む黄土色にみえる部分は田です。これらの田に水を
供給していたのが作野池です。
それ以外に篠目には小作野池と阿妻(吾妻)池の2
つの池がありました。絵図を見ると小作野池は今村
にあった上倉池からの水を受けていたようです。そ
して、その水は下流にある新屋敷の西あたりの水田
を潤し、明専寺の南を通って中村境から吹戸川へと
ど
ふ
流れていたようです。その筋にはかつて土富という
小字がありました。どぶ(排水路)のような低湿地
だったと思われます。今も残る溝川という字地名と
合わせて考えると、この辺りは低湿地が続いていた
写真1 明専寺:本堂は文政3年(1820)から14年かかって建立
されたと伝えられている。
であろうと思われます。
一方、阿妻池を見ると池の中から水路が描かれて
います。満々と水をたたえた池であったとは思われ
図2をみてください。図1を拡大したものです。
ません。安城村境はその東から始まる長田川水系と
郷中の南端にはテラと書かれた建物があります。今
の分水嶺になっています。吾妻池の流域は安城村境
もある明専寺のことです。テラのすぐ北には御高札
までのわずかしかありません。それを考えると、阿
と郷蔵があったことが分かります。
妻池は台地からの湧き水を、周りよりも低いところ
郷中の北には八幡宮が描かれています。ハカバと
に細々とためた池であったと思われます。
書かれている辺りは現在拡張整備され、ささめ墓苑
(高山忠士)
になっています。今も篠目町本郷という地名が残っ
ていますが、篠目村の中心はこのあたりだったので
す。
昭和62年から始まった県道安城八ツ田知立線の整
備拡幅事業や、それに続く作野地区土地区画整理事
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参考文献:『篠目誌』『篠目誌資料編』『新編安城
市史2近世』
『安城の地名』
『安城市内村絵図集』
講座 ・ 催 し 物 情 報
◆安祥文化のさとまつり
■日時 10月5日(土)・10月6日(日)
午前10時~午後4時
■会場 安城市歴史博物館・市民ギャラリー・
安祥公民館・公園内
見逃せない文字書きからくり人形(複製)の実演は
6日10時から。迫力満点の火縄銃実演や県指定無形
民俗文化財の棒の手実演、さとまつり武将隊などさ
とまつりならではのイベントにご注目ください。
おもちゃづくりや勾玉づくり、火起こし体験、売
店もあります。どうぞお越しください。
「安城の町と工業化」
■講師 鳥居 直(本館学芸員)
■日時 12月14日(土)午後2時~
■会場 本館講座室
◆連続講座
「考古学最前線Ⅲ」
平成23年から下半期の連続講座として開催してい
る考古学最前線。今年は安城を中心とした西三河の
古墳時代の最新の研究成果について、わかりやすく
紹介します。
安城市には二子古墳・姫小川古墳を中心に多数の
古墳が存在します。なぜ古墳が出現したのか?その
ころ三河ではどんな暮らしをしていたのか?そんな
ことを考えながら聴いてみませんか。
第1回「古墳時代のはじまりと三河の古墳の出現」
■講師 岩原剛氏(豊橋市教育委員会)
■日時 10月12日(土)午後2時~
第2回「東海地方の古墳と三河の古墳の特色」
■講師 鈴木一有氏(浜松市教育委員会)
■日時 11月23日(土)午後2時~
第3回「桜井古墳群と鹿乗川流域遺跡群」
■講師 西島庸介(安城市教育委員会)
■日時 12月21日(土)午後2時~
◆特別展記念講演会
「戦国本願寺門徒、信仰のかたち」
■講師 青木馨氏(同朋大学仏教文化研究所客員所員)
第4回「東海地方の集落と三河の集落の特色」
■日時 12日1日(日)午後2時~
第5回「渡来人と三河」
■会場 本館講座室
■講師 早野浩二氏(愛知県埋蔵文化財センター)
「一向一揆とはなにか」
■日時 2月15日(土)午後2時~
■講師 金龍静氏(本願寺史料研究所副所長)
第6回「古墳時代の中の三河」
■日時 12月15日(日)午後2時~
■講師 土生田純之氏(専修大学教授)
■会場 本館講座室
■日時 3月15日(土)午後2時~
■講師 鈴木敏則氏(浜松市博物館館長)
■日時 1月18日(土)午後2時~
■会場 いずれも本館講座室
◆歴博講座
「桜井神社の祭礼―江戸時代を中心にー」
■講師 山本あずさ(本館職員)
■日時 10月19日(土)午後2時~
■会場 本館講座室
「広告で見る安城駅前商店街の活況」
■講師 三島一信(本館学芸員)
■日時 11月16日(土)午後2時~
■会場 本館講座室
◆歴博小劇場
継承~日本伝統芸能の心~その7「民謡・三味線」
日本伝統芸能に親しみ、ワークショップも行う
エントランスの演奏会。第7回目です。
■出演 山口寿章氏
■日時 10月20日(日)午後2時~
■場所 本館エントランスホール
■鑑賞無料・事前申込不要
博物館ニュース №90
平成25年10月発行
編集・発行 安城市歴史博物館
〒446-0026 愛知県安城市安城町城堀30番地
TEL 0566-77-6655 FAX 0566-77-6600