悲劇の麗人「唐人お吉」

悲劇の麗人「唐人お吉」
平成 23 年 12 月 10 日
尾 形 喜 煕
唐人お吉の写真が残っている。まだあどけなさの残る19歳の
お吉は、色白で(白黒写真であるが色白に決まっている)、大き
な二重瞼にくっきりと上がった眉、なめらかな頬のラインを持つ
現代的な小顔の美人である。お吉の写真には42歳の頃のものも
あり、それは別人ではないかと思えるほど暈けて映りが悪い。
そこで、上の19歳の写真は別人ではないかという説もあるが、
間違いなくお吉だという証言もあり、作者は本人であると思う。
それは、生え際の形、顔骨の輪郭、口もとや、目じりの上がり具合が同じだからである。
また、当事者であるヒュースケンの日記に描写されているお吉はまさに写真のとおりであ
る。お吉は当時の女性としてはかなり背が高かったようで、日本女性独特の目もとの涼し
い顔つきは日本の太平洋側に多く、南方系の血を感じさせる。大陸には案外少ない。お吉
の写真を見ると、日本の女の子は昔からこんなに可愛いと、どこかの国に自慢したくなる。
お吉は 1842 年 12 月 22 日の生れである。
「唐人」とは、中国人という意味ではなく外国人という意味で、この場合、現実的には外
国人に身を許した女、売春婦という蔑称である。唐人お吉・本名斎藤きちは、幕末から明
治にかけ、一生を世間の逆風の中で生きた女性である。
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伊豆・下田・1859 年ころ
「ねえ、お吉さん、私やっぱり行こうかと思うの。ヒュースケンさんはとても優しいし、
支度金がもらえれば家が助かるの。だけど、お吉さんがハリスさんのところに行くと言っ
てくれなければ私もいけないでしょ、考えてくれないかしら」
同輩のお福がおずおずと切り出した。お吉は、通訳のヒュースケンとお福が既にただなら
ぬ仲になっていることを知っていたが、ヘンリー・ヒュースケンというオランダ系アメリ
カ人をあまり快く思っていなかった。ヒュースケンは如才なく、人当たりもよく、多くに
好かれているようだったが、にもかかわらずお吉は、若い娘の直感でヒュースケンを女か
ら女へ渡り歩く軽薄な人物であると感じていた。
「せっかくだけど私はいやよ。異人さん(この当時外人という呼称はない)の世話なんて、
冗談じゃないわ。いくらお金を積まれてもそれだけはいや。お福ちゃんサ、柿崎の浜に並
んでいる石塚があるでしょ、名前も何もないやつ。あれは異人さんとの間にできたあいの
子の墓よ。生んでも世間体があるから親が殺したのよ。お福ちゃん、そんなことできるの?」
お福は、でもぉと言いながらもじもじした。お吉を看護婦として求めているのはヒュース
ケンの上役、下田・玉泉寺に居を構えるアメリカ代表部領事のタウンゼンド・ハリスであ
る。時は安政4年(1858)
、場所は静岡県下田、そこで 16 歳のお吉は売れっ子の芸者であ
った。
幕末の日本は完全なテロ社会である。攘夷、天誅だと称し、田舎侍が些細なことで人を切
り殺した。生麦事件では、行列の前を横切ったというだけで、英国人リチャードソンが薩
摩に切り殺されている。後には、ヒュースケンも薩摩に切り殺される。四辺の海には英国、
オランダ、ポルトガル、アメリカ、ロシア等の船が頻繁に現れ、一方の徳川幕府はただ動
揺するだけの末期的状態であった。南北戦争直後のアメリカは、日本がアヘン戦争後の中
国がそうであるように英国に牛耳られてしまうことを極度に恐れ、タウンゼンド・ハリス
に幕府への工作を命じた。ハリスは、幕府に列強の日本侵略を強調し、その防波堤として
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アメリカと全面的な外交通商条約を結ぶよう働きかけた。つまりアメリカが日本を守るか
ら、その代わりアメリカとだけ取引しましょうということで、現代の日米安保と似ている。
しかし国内に目を向ければ、いまだに尊皇攘夷(天皇を中心とした国家経営を行い、外国
人は追い出す)を唱える者が天皇をはじめ幕府の中枢にも多数おり、よほど徹底した手段
を講じなければ、国家の危機は足元に迫っていた。大老井伊直弼は、開国主義者も攘夷主
義者も、大名でさえも、無用な雑音を立てる者は徹底的に弾圧し、独断でアメリカとの調
印に踏み切った。直弼は、江戸城桜田門外で非業の最期を遂げるが、もし彼が「安政の大
獄」と呼ばれる大弾圧を行わなかったなら、攘夷に凝り固まった狂信者の外国人襲撃が相
次ぎ、当然列強はそれに反撃し、日本の運命は違ったものになっていたかもしれない。そ
れほど国論の統一ができていなかった。
安政元年(1855)11月2日の夕方、14歳のお吉は、下田・坂下町で、船大工の父
親が仕事をする傍ら、家の手伝いをしていた。二つ年上の鶴松はやはり船大工見習いで、
お吉にやさしく、そろそろ青春期に差し掛かるお吉は鶴松と一緒にいることが楽しかった。
お吉の父親はそれとなくお吉の様子を見ているようだったが、お吉は父親の前だからと言
ってことさら鶴松に対する自分の気持ちを隠そうとはしなかった。お吉は、河津城主・向
井将監の側室である「村山せん」の養女になり、7歳から7年間、武家の娘として、琴、
三味線に始まり、読み書き、作法も一定の教育を受けていた。だが村山せんはお吉が14
歳になる前に病死し、拠り所をなくしたお吉は実家に戻った。そういうお吉はもう十分に
美しく、14歳の娘にしては気配りが行き届き、船大工仲間には人気があった。
その日も終わり、お吉一家が眠りにつこうとした夜10時ころ、突然ド~ンという衝撃が
走り、家がビシビシと音を立てて揺れ始めた。父親の市兵衛が地震だ!これはでかいと言
って飛び上がり、母親のきわが半分眠りかけていたお吉を揺り起こした。直後に襲ってき
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た立っていられないほどの横揺れの中を、一家は這うように戸外に逃れた。屋外はゴーと
いう不気味な音にあふれ、月明かりの中、周囲の家がぐらぐらと揺れ、どこからかドシー
ンという音が聞こえた。地面がバタンバタンと跳び撥ね、雨など降っていないにもかかわ
らず雷が走った。父親は、
「船が」と言うとヨロヨロと作業場のほうへむかった。2軒隣の
家がめりめりと崩れ始め、だれかの悲鳴が聞こえた。母子は腰を抜かして抱き合いながら
地面に座り込んだ。むしろお吉がガタガタと震える母親を抱きかかえ落ち着かせた。地震
は少しずつおさまり、お吉は腰を抜かした母親を立ち上がらせたが、母親はまたヘナヘナ
と座り込んでしまった。長い時間が経過したようであったが、ほんの数分の出来事であっ
た。誰かが月明かりの中近づいてきた。
「おう、お吉ちゃんか、大丈夫だったか」鶴松であった。
「ああ、鶴松さん!」お吉は思わず走り寄り手を握った。
夜が明けた。お吉の家はかろうじて残ったが、目に見えるほど傾いてしまい、坂下町の造
舟作業場も壊滅状態であった。だが悪夢はそれで終わらなかった。その翌朝の8時ころ、
またしても同じような規模の地震が発生したが、すでに多くのものが家を失い、野宿状態
で、うろたえるものは少なかった。海が大きく後退し、たくさんの貝や魚がそれまで海底
だった砂州にピチピチはねていた。すでに飢えの始まった人々は魚を求めて海に殺到した。
お吉の父親も同じであった。だが人々が魚集めに熱狂していた時、沖に高い緑の壁が現れ
た。津波である。鶴松があわててやってくると市兵衛さん(父親)はどこだと怒鳴った。
お吉がおずおずと海のほうを指さすと、鶴松はお吉の手を引っ張って反対の方角へ走り出
した。
「津波だ、高台に逃げるんだ、早くしないと助からない」
お吉は津波と言われてもさっぱり実感が湧かなかったが、鶴松の必死の様子に自分も懸命
に走り出した。母親もヨタヨタと後をついてきた。走りながら父親はどうなるんだろうと
漠然と考えた。3人は高台にある寺の境内までたどり着き振り返った。今まで下田であっ
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たところは黒い水に覆われ、やがて昼過ぎに水が引くと後には何も残っていなかった。
安政の大地震は M8.4 の規模ものが1日を隔てて2回起き、3・11東北大震災よりは規模
が小さかったが、関東地方に広範な被害をもたらした。江戸下町では1万戸に上る家屋が
倒壊し、4000人強が命を落とした。水戸藩(茨城県)では藤田東湖など藩の頭脳が圧
死した。優秀なオピニオンリーダーを亡くした水戸藩は、その後ひたすら右翼方向へ突き
進み、薩摩同様、多くのテロ活動を行うことになる。
下田では漁業が真っ先に息を吹き返した。今日と異なり、小さな木造船が漁船の主流で、
傷んだ船の修理や新造が比較的容易であったためである。見習いであるにもかかわらず、
船大工の鶴松は引っ張りダコとなった。鶴松はもとお吉の家であったと思しき所に廃材で
母子のために家を建てた。
下田は当時からにぎわった港町であった。それは地図を見ればうなずける。伊豆半島の先
端にあつらえたような入り江を持つのが下田である。そこには多くの船、主に漁船が出入
りし、町は漁師、船乗りたちでいっぱいであった。当然、そういう船乗り目当ての女たち
も集まり、いわゆる芸者を抱える置屋(おけや)が発達した。そこで働く娘たちは多かれ
少なかれ不幸な身の上の娘たちで、体を売る者もいれば、京都の芸子のようにあくまで遊
芸だけで通す者もいた。若く美しく、琴も三味線もこなし、ほかの娘たちよりはるかに高
い教養を身につけたお吉が、スカウトの目に留まるのは時間の問題であった。お吉は貧困
から芸者の道を選んだというよりは、一つの職業として芸者の道へ入った。お吉が所属し
たのは叶屋という置屋であるといわれているが作者には定かではない。写真を見れば納得
できるが、お吉は化粧をするとすごく美しかったそうである。また歌も踊りも抜きんでて
おり、お吉が唄う新内明烏(しんないあけがらす)は今でも語り草になっているほどであ
る。お吉は、あっという間に下田芸者のナンバー1となり、裕福な商人や武家筋は競って
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お吉を指名した。多忙なお吉と、同じく引っ張りだこの鶴松は一緒に過ごす時間が少なく
なっていったが、お吉は鶴松への愛を貫き通した。
この当時50歳のタウンゼンド・ハリスはもともと米政府の人間ではないが、その東洋に
おける経験と博識のため民間コンサルタントから実際の中国・寧波領事に任命され、18
55年には日本領事に就任している。ハリス自身が米政府に働きかけたのである。明治維
新の13年前である。ハリスの人となりを紹介する記事として、ウィキペディアには敬虔
なキリスト教徒で、生涯独身、童貞を貫いたとあるが、お吉に関する記録には、お吉本人
の言として、両者のいわゆるベッドシーンが書かれており、本当のところはわからない。
一方のヒュースケンは次々と女を変え、子供まで生ませている。ハリスにはそういう噂は
全くなく、少なくとも女に関しては潔癖なほうであったようである。ただし癇癪持ちでや
きもち焼きであった。
ハリスは日本人役人の全てにわたる信じられない非効率に激怒していたが、米国の代表使
節としてそれをあからさまに非難することはできなかった。日本での生活はストレスに満
ちており、領事館として幕府より提供された下田・玉泉寺も、まるで領事館にふさわしく
ない古臭い寺であった。何もかもハリスのイメージとはかけ離れたもので、いらだつ毎日
が続いた。一方の下田奉行所は江戸幕府が何も決定できず、対応に苦慮する毎日であった。
そういう中、お吉とお福を領事館に派遣するという話が起こり、すべてに行き詰っていた
奉行所は飛びつき、すぐさま稟議書を韮山代官・江川太郎左衛門に送った。だが韮山代官
は日本の婦女子を毛唐に差し出すなど、国辱ものだと強く突っぱねた。申請しては拒否さ
れる事態が何度か続き、下田奉行が切腹を覚悟した時、中浜万次郎(ジョン万次郎)が現
れ、アメリカという国の重要性を力説し江川太郎左衛門の説得を行った。江川は納得し、
ついに看護婦としてのお吉派遣を許可したが、今度はお吉が頑として承知しなかった。
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ハリスは来日以来の激務とストレスがたたり胃から吐血して寝込んでいた。秘書のヒュー
スケンは下田奉行にハリスの看護役として婦人の派遣を頼んだが、それを役人が妾の斡旋
と勘違いし、お吉に白羽の矢を立てたとあるが、本当のところはわからない。ハリスにお
吉を勧めたのは、直接的には秘書のヒュースケンで、自分がお福を囲うためにはハリスに
も同罪になってもらう必要があったとされるが、これも裏話しのひとつで、事態の行き詰
まりという理由のほかに、一つにはハリスがギクシャクとした癇癪持ちで取り回しが難し
く、実際に吐血するなど胃の持病があったことと、やたらと将軍との面会を主張するアメ
リカ領事に女をあてがい、下田に繋ぎとめておくためであった。一方のお吉は、お福と一
緒にいるヒュースケンを見るだけでけがらわしいと言って風呂に入り、服を着替えるほど
であったというが、そこに下田奉行所の伊佐新次郎が現れる。伊佐は武士の娘としてお吉
に接し、日本が置かれている現況を説明し、天下国家のためにとお吉を説得した。現代の
娘と比べればはるかに大人びたお吉であったが、根は素直なハイティーンである。天下国
家を言われ、お吉の義侠心が刺激された。しかし売れっ子のお吉にはそんなことをする必
要も理由も全くなく、鶴松という恋人もいた。それを捨てて売春まがいの奉仕をするなど
まるで受け入れられない話であった。だが、伊佐新次郎はひそかに鶴松にも接触しており、
お吉が知らない間に鶴松は心変わりを始めていた。
「異人さんのところで働くようにっていう奉行所の話しはその後どうなったんだい」
「伊佐さんや奉行所の人が何回も来たわ。でも馬鹿にしてるわ。なぜ私がそんなところに
行かなければならないのよ。いくら国のためて言われてもさあ。鶴松さんもそう思うでし
ょう」
「・・・・・そうだな・・・」
鶴松は煮え切らない返事をした。このところ鶴松の様子がおかしかった。お吉が怪訝な顔
をした。しばらく黙った後鶴松は話し始めた。
「実はなお吉、俺の爺さんは武士だった。俺の本名は川井又五郎っていうんだ。なんか、
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鍵屋の辻の果し合い(荒木又右衛門が絡む有名な仇討話しで、殺されるほう)みたいな変
な名前だろう。それで…江戸に出て侍にならないかって話があって・・・・」
「ええ?侍?鶴松さんが?」
「うん、お家再興ってやつだ。このままじゃ髪結い亭主みたいだし」
「何が髪結い亭主よ、鶴松さん立派に仕事してるじゃない」
「うん、だが、世間じゃそうは見てくれない。下田1番の芸者に食わせてもらっている腕
の悪い船大工さ」
「それひょっとしたら伊佐さんじゃないの」
「・・・・・・・・・」
このような会話が何度か繰り返された挙句、鶴松は結局お吉のもとを去り、お吉は失望と
落胆を心底味わう。
伊佐新次郎は、鶴松に侍になることを悪意なく勧めたのかもしれないが、結果としてお吉
の人生を全く変えてしまった。落胆したお吉は、その必要は全くなかったにもかかわらず、
ハリスのもとへ行く決心をした。だが、その裏で下田奉行所は、一般の娘を異人にあてが
ったとなればどのような批判を受けるかわからず、江戸幕府には、お吉はもともと船乗り
相手に体を売るけがれた遊女であり、心配はいらないという報告を行った。伊佐は、奉行
所がそういうことをやりかねないと思っていたが、その内容のあまりのひどさに、お吉に
会わせる顔をなくした。
下田玉泉寺は、アメリカ領事館であると同時にタウンゼンド・ハリスの居所でもある。安
政 4 年 5 月 21 日、お吉は装飾もあでやかな武家かごに乗せられ、奉行所の武士数名を伴っ
て玉泉寺へ向かった。沿道には多くの人が詰めかけ、異人に身売りする女を一目見ようと
待ち構えていた。恥知らずの淫売をあざけり、好奇心を満たし、話のネタにしようという
わけである。ザワザワとした騒音の中を行列は進んだ。かごの中のお吉は、外が何やら騒
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がしいとは思ったが、まさか沿道にこれほどの人が詰めかけているとは知らず、これから
始まるであろう日々を考えていた。突然かごに何かがゴツンと当たり、警固の武士が誰だ
と怒鳴るのが聞こえた。かごが止まった。何事だろうとお吉は引き戸を開けた。信じられ
ないような美しい女を見て、民衆は息をのんだ。小さな女の子がお吉をポカンとみていた。
お吉はわずかにほほ笑んだ。呆然と見つめる群衆を後にして行列はまた動き出した。
タウンゼンド・ハリスはお吉の美しさに一瞬目を奪われたようであったが、すぐ不機嫌に
無視した。銀髪でいかり肩の大きな男であった。ハリスは自分の身の回りの世話をする女
をもちろん嫌がってはいなかったが、同時にそれは、自分を江戸へ行かせないための姑息
な手段であることを十分承知していた。やってきた女は、美しく、子供のように若い女で
あった。その女は普通の女のように物おじせず、まっすぐハリスを見つめてきた。
「きちでございます。よろしくお見知りおきを」
お吉が日本語であいさつすると、一瞬ハリスはドギマギした様子をみせたが黙ってお吉を
見つめた。二人の間の緊張を見て取ったヒュースケンが割って入り、英語でお吉の紹介を
行うと、次に流ちょうな日本語で領事館の説明を行い、日本人館吏に館内の案内と職務の
説明を行うよう命じた。お吉の仕事はいわゆる看護婦の仕事であったという。むろんお吉
に専門知識があるわけではない。お吉に続いて、ヒュースケンはお福を引き入れ、両名に
は破格の金額が支払われた。それは職人が数年かけて稼ぐような金額(120両と90両
の支度金、別に月の手当ても支払われている)で、そのうわさが広まると民衆はやっかみ
半分でお吉を非難し始めた。お吉は身を犠牲にして国のために尽くしているつもりであっ
たが、世間で金目当ての淫売という評価が広まり、伊佐新次郎は心を痛めた。
安政4年11月のある嵐の夜、玉泉寺の扉が強引に破られ、抜刀した3名の浪士が侵入し
た。その時ハリスとお吉はテーブルを挟んで話をしていた。ハリスは震え上がり、お吉の
背中に回り込み、お吉さん頼みますと言ったという。3名の浪士はまだ若く、食い詰めた
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似非浪士には見えなかった。お吉は浪士たちの前に立ちふさがった。
「お待ちなさい。土足で夜間白刃を持って押し込んでくるとは、あなた方はそれでも日本
武士ですか」
「そなたがお吉か、われらは尊攘の志を持つものだ。天に代わりハリスを誅殺に参った。
邪魔をすると怪我をするぞ」
「そのようなことは存じませぬ。あなた方が刀にかけようとするのは、いやしくも一国の
代表ですよ。それを、名も名乗らず、土足で不意打ちとは無礼ではありませぬか。そもそ
もあなた方はどなたの命令でこのようなことするのですか」
浪士たちは血相を変えたお吉の威勢に出鼻をくじかれた。お吉が美しかったことも浪士た
ちの勢いをそいだのであろう。美人に叱られると、男は年齢に関係なくハイすみませんで
したとなるものである。美人に嫌われたくないのである。
「誰の命令でもない、我々は日本国を、天下を憂うものだ」
「どのような志かは存じませぬが、夜間にいきなり土足で踏み込むとは武士の礼儀にもと
るのではありませぬか。相手はこのように無抵抗ですよ。それを切り殺すというのですか。
この方が本当に日本のためにならないとお考えですか。そこまで本当に調べましたか」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「そのような無作法をして、かえってご主君のお名前に傷がつくのではありませんか。考
え方は人それぞれ違うもの、ただ国家を憂えるから殺すでは筋が通りません。お名前を伺
いましょう」
「・・・・・・・・・」
「この方のことは私がお奉行様から一任されております。あなた方の志は私がよく言って
聞かせますから、今夜はどうぞお引き取りください」
若い浪士たちは、それぞれ水戸藩郷士堀江芳之助、蓮田東藏、信田仁十郎と名乗り、改め
て出直すと引き上げていった。この時お吉が捨て身の対応をしなかったら、ハリスは切り
殺されていたに違いない。なお、これらの若い浪士たちはほどなく自首して投獄されてい
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る。
この一件以来、ハリスとお吉の立場は微妙に逆転した。ハリスは何かというとお吉を頼る
ようになった。二人は誰もいないところでは同格となり、ラム酒を満たした真っ赤なグラ
スを挟んで毎夜いろいろなことを語った。お吉の好奇心はものすごかったらしく、異国ア
メリカの風物について納得するまで質問したという。ハリスは持参したアメリカ婦人の絵
や写真をお吉に見せ、お吉は長い間食い入るようにそれらを見ていた。アメリカの婦人は
日本女性とは全く異なる風貌、服装をしており、同じ女性としてそれが珍しかったのであ
ろうか。お吉の好奇心は少女っぽいものであったが、凛とした部分と子供っぽい部分を持
つお吉が、ハリスにとっては魅力的であったのかもしれない。
同じ領事館内で次々に女を引っ張り込むヒュースケンを横目で見て刺激されたハリスが、
お吉に情交を求めることがあったが、お吉は頑としていうことを聞かず、癇癪を起こした
ハリスはある日お吉を首にしてしまう。ハリスはお吉のせいで精神のバランスが取れなく
なってしまっていた。洋の東西を問わず、こういうゲームに男が勝ったためしがない。こ
の時ハリスが、お吉には皮膚病があり、そのような女は置いておけないと言ったと伝えら
れているが、これは日本側がこさえたデマである。介護役とストレスのはけ口を失くした
ハリスはほどなく持病が悪化し、幕府はまたお吉に戻ってくれるよう依願した。皮膚病も
何もあったものではない。
お吉が玉泉寺に戻ると、ハリスは病床から起き上がり、欣喜してお吉を迎えた。このころ
すでにお吉は多少の英語を分かるようになっており、ハリスから見れば自分の心がわかっ
てくれる唯一の女性であったはずである。50歳のアメリカ人と17歳のお吉は再び同じ
屋根の下での生活を始めた。17歳の少女が、50歳の国際人をいいようにあしらうので
あるから、人間は面白い。だが前述のようにハリスはかなりのやきもちで、召使いである
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中国人の少年がお吉を夕食の献立の件で話しているのを見て激怒し、殴り倒したという逸
話も残っている。50歳の男が17歳の美少女を自分に繋ぎとめておこうとすれば焼きも
ちも焼かざるを得ないであろう。
牛乳は胃粘膜保護剤の働きをするといわれている。胃潰瘍もちのハリスは、病状が悪化す
ると寝込み、時には吐血した。ある日ハリスは、激痛の中、牛乳を手に入れてくれるよう
お吉に懇願した。しかしこの当時牛の乳を人間が飲むという習慣はなく、お吉は途方に暮
れた。あちこち探した結果、町はずれの農家が必要なら分けてもいいと言っていると聞き、
お吉は、深夜であるにもかかわらず領事館を走り出た。苦しむハリスのためにお吉は深夜
の街をかけとおし、翌早朝その農家へたどり着いた。履物を失くし足に血をにじませたお
吉は、牛乳に大金を払うと、すぐまた領事館へ駆け戻りハリスに牛乳を飲ませた。ハリス
は、牛乳より足の手当てをするように言ったが、お吉は聞かなかったそうである。お吉は
日々の付き合いの中で、自分の父親以上の年齢の、老いかけたアメリカ人のさびしい心を
次第に理解していったのであろう。やっぱり女は偉い。男だったらこうはいかない。
タウンゼンド・ハリスは 1804 年にニューヨーク州で生まれている。日米修好通商条約を締
結した立役者として知られているが、子供のころから努力家で、図書館通いをして外国語
を 4 つ習得し、若くしてアジアを股にかけた商売を行い、その中で後進国であるアジアの
国々が、いかに英国などの列強から蹂躙されているかをつぶさに見てきた。自由の国アメ
リカの領事として、ハリスは日本が外国と対等に付き合えるような開国を画策したが、そ
のようなハリスのモチベーションを理解するような日本ではなかった。ハリスは日本人を
礼賛する記事を多く残しているが、その中心にはお吉がいたのではないだろうか。
安政 5 年(1858)は徳川政府が実質的に崩壊した年である。日米修好通商条約が調印され、
安政の大獄が起こり、日本は一挙に開国へと向かう。ハリスは領事館を下田から東京へ移
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し、お吉は幕府によりお払い箱になる。もちろんハリスにはお吉を切り捨てるという冷酷
な心はなかったが、巨大な時代の波を前にし、それどころではなくなったということでは
ないだろうか。むろんこれで両名が完全に没交渉になった訳ではなく、その後も連絡は取
り合っていたようである。ハリスが「お吉さんありがとう」と誠意あふれる様子で言うの
がお吉にはうれしく、この一言のため自分は世間の侮蔑に耐えることができたとお吉は言
っている。1862 年 5 月、ハリスがアメリカへ帰国する時、お吉は伊佐新次郎に自分も一緒
に行く約束になっていると食い下がったが、一方で、それが実際にできることではないこ
とを聡いお吉はわかっていた。
傷心のお吉の前に松浦武四郎という武士が現れる。三重県松坂出身の松浦は、若いころか
ら全国を遍歴し、長崎県の平戸にも行けば、北海道にも行くなど生涯を旅に費やした人物
で、特に蝦夷、樺太には造詣が深く、北海道、樺太という地名の名付け親である。松浦は
ロシアの北海道への南下を強く警戒しており、度々幕府に献言している。松浦は別に尊王
ではなかったかもしれないが、ある意味攘夷派であった。この当時、松浦は伊佐新次郎の
部下であったが、お吉に同情すると同時に、悪く言えばお吉を利用して攘夷の一助とする
ことを考え、お吉を説得、洗脳し、倒幕の下工作を行わせようとした。ハリスを通じて江
戸幕府の固陋さを身に染みて知っているお吉は、あばた面ではあるが澄んだ目をした松浦
に思想的になびく。お吉はその後京都へ行き再び芸者となるが、そういう活動の中、坂本
竜馬と話し合った、スパイ活動を行ったなどという逸話があるが、本当のところはわから
ない。しかしかなり政治的動きのできる女であったことは間違いない。お吉は京都に 15 年
くらいいたようであるが、その間江戸は東京となり、幕府は倒れ、明治となった。30 歳も
半ばに達したお吉は、結局信じて心を預けた人間たちすべてに裏切られ、時代に取り残さ
れた自分に改めて気づいた。ハリスは母国へ去り、伊佐新次郎も松浦武四郎も鮮やかに時
代に合わせた変わり身を見せ、母親はなくなり、鶴松は記憶の彼方となった。自分だけが
いつの間にか若さを失くし、それでいて異人に身を任せた穢れた娼婦という評価だけはし
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つこくついて回った。
お吉は、その後東京へ移動し、そこで川井又五郎(鶴松)と再会、二人は故郷の下田へ帰
った。やっと収まるべきところに収まることができたと喜んだお吉は、再び三島・金本楼
で芸者の道へ入った。一時は下田芸者のナンバー1 で、京都で磨きをかけたお吉は、30 代
半ばといってもまだ十分に美しさを保っており、一目置かれる存在であった。だが下田の
人情は昔と全くと言っていいほど変っていなかった。お吉の周囲には常に侮蔑とあざけり
があり、いらだったお吉は深酒をし、客と言い争いをするようになり、公然と新政府を批
判した。お吉にしてみれば、身を犠牲にしてつくした新政府に爪でも切るように切り捨て
られ、勢い攻撃の矛先がそこへ向かったのであろう。お吉の舌鋒は鋭く、鼻白んだ客、特
に政府関係者は次第にお吉を敬遠するようになり、ついに店はお吉を解雇した。
お吉は髪結い(美容院)を開き、ハリスのところで見たアメリカ婦人の髪型からヒントを
得たデザインは若い娘に好まれたが、うちの娘に毛唐のまねをさせるなと怒鳴り込む親も
あり、客足は遠のいて行った。ラシャメン女郎上がりという世評はお吉を打ちのめした。
このようなお吉に対する侮蔑は昭和まで生き残り、お吉は死後も鞭打たれることになるが、
九州ではラシャメンなどこの 200 年も前からある話で、伊豆下田がなぜこうもしつこくお
吉を貶めたのかはわからない。考えられることは、お吉が人に優れた美人であったこと、
金銭的に優遇されたことに対するやっかみが定着したのではないだろうか。
お吉は次に安直楼という居酒屋を始めるが、客よりも先に酔いつぶれてしまうありさまで、
多くの回収不能売掛金を作ってしまう。安直楼にはただ酒目当ての客ともいえないような
食い詰め者が集まるようになり、店はあっという間に傾いた。川井又五郎との間もうまく
行かなくなり、所持金を使い果たしたお吉はその日の食事にも困るようになっていった。
救いの手を差し伸べる者もいたが、お吉はかたくなに拒否したという。このころのお吉の
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写真が残っているが、眉を落とし、横座りに膝を崩し、胸元をはだけ、19 歳のお吉とは似
ても似つかない容姿である。42~3 歳ころの写真であるという。
お吉はついに物乞いをして生活するようになり、下田17乞食の一人といわれるようにな
った。それでも世間は穢れた淫売としてお吉を許さず、感情的になったお吉が通行人にど
なりつけることが度々あったという。
伊佐新次郎は牧の原台地(愛知県)の開墾などに尽力し(松浦武四郎も後年大台ケ原の開
拓に老年の情熱を傾け、71 歳で亡くなった)
、書道では勝海舟らの師として知られることに
なる功成り名を遂げた人物であったが、一つだけ心に引っかかっていることがあった。使
い捨てにしてしまったお吉である。伊佐は自分の正義感や功名心のため、結果としてお吉
をだまし、その生涯を狂わせてしまったことに深い自責の念を持ち続けていた。風のうわ
さでお吉が不遇をかこっていると聞いた伊佐は、ある日下田を訪れた。20 年以上の歳月が
流れていた。当時お吉が住んでいた柿崎の浜はすっかり姿を変え、お吉の消息を尋ねると、
住民はそろって嫌な顔をした。これも自分が蒔いた種である。伊佐は海を見つめた。旧暦 3
月のその日は暖かく、浜におかれた漁師舟の向こうから海鳴りだけが聞こえていた。
伊佐が下田の通りを歩いていると人だかりが見え、近づくと人垣の中心で老女が何かわめ
いていた。髪や顔は垢にまみれ、着物は破れてボロボロであった。老女の足元には米俵が
あり、老女はそこに手を突っ込むと米を掴み、目の前の男に投げつけていた。
「なんだい、これだけあれば当分は食いつなげるだろうとは。それで施しをしているつも
りかい。あたしはねえ、そんなつもりであんたを助けたんじゃないよ。馬鹿にするんじゃ
ないよ。こんな米なんか、こうしてやる」
老女はまたコメを掴みだすと地面に投げ捨てた。男は困りきった顔をしていた。どうした
のだと伊佐が男に尋ねると、男は渡りに船と伊佐に説明を始めた。
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「私は昔この人に助けてもらったことがあって、おかげで今は何不自由ない暮らしをして
いるのですが、この人が困っていると聞いて、せめて米でもと思って小田原から来たんで
すが、どうも虫の居所が悪かったようで・・・・」
伊佐の心にピンとくるものがあった。伊佐は老女の正面に進み出てその顔をじっと見つめ
た。よく見ると、目鼻立ちが整い、まだ老女というには早い年齢の女であった。
「お吉、お吉ではないか。伊佐だ、伊佐新次郎だ、探したぞ」
汚れて赤茶けた髪の間からお吉は伊佐をじっと見つめた。お吉は見つめ続け、伊佐もその
視線を受け止めた。群衆はひっそりとなった。なおも見つめ続けるお吉の目にうっすらと
涙が浮かび始めた。つとお吉は伊佐に歩み寄ると、無言のままいきなり伊佐の左頬をひっ
ぱたいた。群衆はあっと声を上げ、立派な身なりをした恰幅のいい初老の役人に狼藉を行
うお吉を止めようとした。だが伊佐は群衆を制し、いきなり土下座を始めた。
「お吉、この通りだ、済まなかった、この通りだ」
お吉はしばらく立ち尽くしていたが、無言のまま自分の小屋に入ると蓆の帳を下し出てこ
なかった。伊佐新次郎は群衆がいなくなっても土下座を続けた。お吉は小屋の中で号泣し
たという。お吉は伊佐の頬を叩いたが、それは伊佐を恨む気持ちからではなかった。ハリ
スも伊佐も、鶴松も松浦武四郎も、攘夷浪士も将軍も、何か大きな時代の波に乗せられ、
運ばれただけのことであり、お吉は逆らい得ない大きなうねりをひっぱたいたのである。
無神経に謝る伊佐は、非常な時の流れの代弁者であった。お吉は、自分が若いころ無心に
愛をささげたハリスが無性に懐かしかった。だが彼は 10 数年前、母国アメリカで亡くなっ
ていた。もう何も元には戻らなかった。明治 24 年 3 月 23 日であった。
その日の深夜過ぎ、下田・生稲沢川角栗地区に住む農民は、女が雨の中、唄を歌いながら
通り過ぎるのを聞いた。お吉は淵の上流まで歩き、そこで川に身を投げた。満 48 歳であっ
た。
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お吉は死後も侮蔑を受けた。お吉の遺体は 2 日以上引き取り手がなく、菩提寺でさえも穢
れた女として引き取りを拒否した。たまたま、菰を被せられたお吉の遺体のそばを通りか
かった宝福寺の竹岡和尚が、住民の懇願を受け引き取ることを決めたが、今度はお吉の遺
体を運ぶ者がいなかった。和尚は檀家の一人に頼み込み、お吉はやっと荼毘に付された。
だが今度は穢れた女を引き取ったと言うことで竹岡和尚が世間の非難を浴びる始末であっ
た。
お吉は自己の利益や名誉のためにハリスのもとに行ったのではなかった。それは当時お吉
が一流の芸者であったことから明らかである。少なくとも本人は天下国家のためとつらい
決断をした。だが世間の反応はあまりにも悪意に満ち、執念深かかった。お吉の名誉が曲
りなりも回復され、記念館その他がたてられたのは最近のことである。後で意見を翻すも
のの、新渡戸稲造や松本清張でさえ一時はお吉のことをあしざまに評価した。だが、お吉
の一生をたどってみると、その本性は素直で愛情深い女であったはずである。でなければ
こうも自分に不利になることばかりするはずがない。
お吉は 17 歳から亡くなる 48 歳まで、女一人極端な世間の逆風の中で生き、力尽きた。
終
お吉の墓がある「唐人お吉記念館」は伊豆下田の宝福寺にある。すっかり観光地化しており、な
んと坂本竜馬、吉田松陰その他も一緒に展示され、お吉の人生や悲しみに思いをはせるというよ
り、何でもありの金儲けという感じがする。唯一、お吉が晩年着たという粗末な着物と、芸者時
代に使用した櫛、髪飾りなどが何となく可愛らしく興味深かった。お吉が身を投げたお吉が淵は
下田の街からはかなりの距離である。お吉が死ぬことをためらいながら次第に上流へ登って行っ
たことが感じられる。現在ではコンクリートの護岸工事がなされ、単なる川の屈曲部という感じ
であるが、水量は豊かで、昔は確かに淵であっただろうと思われた。
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