第1502回例会 - 平塚西ロータリークラブ

国際ロータリーのテーマ
2006∼2007
L
LE
EA
AD
DT
TH
HE
EW
WA
AY
Y
率
率先
先し
しよ
よう
う
平塚西ロータリークラブ
WEEKLY REPORT HIRATSUKA−WEST
会
長
会長エレクト
副 会 長
幹
事
大
成
水
縄
畑
田
島
島
直 裕
清
政 利
清
創 立/1976年6月23日
例会日/毎週水曜日 12 時 30 分より
例会場/神奈川県平塚市平塚 5-23-12
カルチャーBONDS平塚
姉妹クラブ:韓国西清州ロータリークラブ
第1502回 例会
事務局:〒254-0045 神奈川県平塚市見附町 32−7
TEL:0463(33)1475 FAX:0463(33)8676
2007年2月21日
天候
晴 (担当/近藤(陽)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
§ロータリーソング
§会長あいさつ
「それでこそロータリー」
§結婚祝
大畑 直裕
本日はロータリー創立記念卓話を小玉会員にお願いして
あります。後ほどよろしくお願いいたします。
水島 貞 会員
会員の皆様、ニュース等でご存知だと思いますが、千葉県
の浦安市の無届老人ホーム「ぶるーくろす癒海館(ゆかいか
§幹事報告
ん)」でホーム利用者への虐待の疑いがもたれている。この
件で、国内に無届の老人ホームは全国47都道府県に 625
◇米山記念奨学会
米山功労者表彰 菊池 良知会員
箇所(毎日新聞調査、以後同じ)あるそうです。その後の指
◇第 2780 地区 国際奉仕事業報告会開催のご案内
3/10(土)9:30∼12:00 藤沢産業センター
◇第 4420 地区 来日チーム歓迎会開催のご案内
3/18(日)17:00∼19:00 藤沢産業センター
◇平塚南RC 創立 30 周年記念式のご案内
導で届出を行った老人ホームは、243 箇所にとどまった。
更に問題の施設のように若年の障害者も入居している場合、
「老人ホーム」とみなすか、どうかで判断がばらついている。
老人ホームとみなさない・高齢者が一人でもいれば老人ホー
ム・ホテルや下宿という区分になる・単なる民間アパート等
4/6(金)受付 15:00 式典 16:00JA平塚ビル
◇平塚RC 50 周年協賛事業 ロータリアン絵画展
2/22(木)∼27(火)於:平塚市民プラザ
【週 報】
の回答があったそうです。
改正法は、入所高齢者の人数に関係なく食事の提供サービス
などをしている施設を有料老人ホームと定義している。
しかし、高齢者以外も入居できる施設について、厚生労働省
伊勢原、伊勢原平成、各RCより
は改正法施工後、都道府県に「基本的には有料老人ホームに
あたらない」などと説明していたとのことです。社会福祉法
§例会変更
人が運営する老人ホームには、拘束等の件について、しっか
◎大磯RC
りとしたマニュアルがあります。だから社会福祉法人が良い
3/1(木)→ 3/3(土)第 8 グループ合同例会
というわけではありません。老人ホーム等を利用されるとき
3/22(木)定款による休会
は、事前の情報をしっかりと調査して利用しましょう。
§委員会報告
◎次年度理事役員会(成田会長エレクト)
【次回予定】会員卓話
次回 28 日例会終了後、理事役員会を開催します。
◎若葉会(荒井会長)
―近藤 勉之 会員―
本日 18:30∼相州長屋にて第 6 回を開催します。
出
席
報
告
総会員数
計算対象数
46名
42名
出席会員数
28名
メークアップ
今回出席率
7名
66.67%
前々回修正出席率
2/7
78.57%
○今日は久しぶりの卓話です。ロータリー創立記念卓話と
§スマイル報告
いうことで緊張しております。
○小玉さん卓話よろしくお願いします。
(大畑会長)
○水島貞さん結婚記念日おめでとうございます。小玉さん
本日の卓話よろしくお願い致します。
ロータリー創立記念日と同じ日です。
○ロータリー創立記念卓話、小玉さん、よろしくお願いし
ます。水島貞さん、結婚祝おめでとうございます。
(田中会員)
(縄島幹事)
○結婚祝ありがとうございました。昭和 44 年 2 月 23 日
(水島貞会員)
○水島貞さんおめでとうございます。奥さんに感謝です
(小玉会員)
○水島貞会員、結婚祝おめでとうございます。小玉会員の
卓話楽しみにしています。
(成田会員)
○水島貞さん結婚祝おめでとうございます。小玉さん記念
ね。お蔭様で末娘が大阪に嫁ぐことになりました。皆様
卓話楽しみにしています。
にはお世話になりありがとうございます。 (山田会員)
増尾、友近、関口、森岡、早川、菊池、葛西、近藤勉之
(山浦、山崎満、久保田、
荒井、瀬尾、渋江、平野、各会員)
ロータリー創立記念卓話
小玉 秀秋 会員
皆さんこんにちは。
に会ったときの事でした。祖父ハワードについてポールは
次の様に述べております。「背の高い男が固く握り締めた
私のこぶしを暖かく力強い手で包み込んだ。その手は私の
父よりもはるかに大きく、巨大な親指は、幼い私がつかま
あさって 2 月 23 日はロータリー
るハンドルみたいだった。」 ほとんど言葉も交わさずに、
の創立記念日であることはご承
駅からわずかな道のりを歩き一向はハリス家に到着した。
知のことと思います。そしてその
そこで二人の子供は初めて祖母のパメラ・ハリスに出会っ
創立者であるポール・パーシー・
ております。父ジョージ・ハリスはしばらくウォーリング
ハリスの職業が弁護士であった
フォードに滞在した後、この街を去ったが、ポールはのこ
こともご存知のことと思います。今日はロータリーの生み
りの子供時代をウォーリングフォードで過ごしておりま
の親であるポール・ハリスの生い立ちについて少しお話を
す。人生は持ち物で計られるのではなく、人の内側にある
させていただきます。内容につきましてはロータリー文庫
もので決まり、誠実さが中心的価値観であると彼に示した
より資料を送ってもらい、抜粋をさせていただきました。
のはここで受けた教育であったと思われます。
ポール・ハリスがロータリークラブを創立するに至った源
ポールは祖母について、「良質の入った箱は小さいという
が、彼の成長する過程の中で大きく培われていったと思わ
諺があるが、祖母はまさに良質の品だった。」と書き残し
れます。短い時間ではありますが、これから皆さんにお話
ています。この祖母のもとでポールは健全さ、秩序、清潔
をする中でほんの少しでもポール・ハリスの思いを感じて
さ、親切さ、思慮深さを、身をもって体験しました。
もらえれば幸いに思います。
祖父ハワード・ハリスはポールに勤労倫理と寛容な心の大
ポールの生い立ちはつつましく、そして貧しかったそう
切さを教えた。祖父は「誰の宗教や政治理念についても決
であります。母のコーネリア・ブライアンはウィスコンシ
して悪口を言わぬ」親善大使であったとポールは述べてお
ン州ラシーンに生まれ、中流階級の家庭で何不自由なく育
ります。彼は祖父が家族を養う為に週6日、年に52週働
ち、彼女の父は弁護士でラシーンの第二代目の市長でし
くのを見てきた。同じ仕事着で、綻びても新しいのを買う
た。夫婦にはまもなく長男のセシルが生まれ、続いて 1868
でもなく、繕いながら働いてきた。村人らが、村にたった
年 4 月 19 日に次男ポール・パーシー・ハリスが生まれま
一人住んでいるユダヤ人とローマ・カトリック教徒の住民
した。父のジョージは社交的な性格で、生活面や仕事に対
を変わり者扱いしても、ハワード・ハリスは万人に対して
しての理想や夢にあまり情熱はなく、次々と転職を繰り返
示した友情と敬意を持って彼らに接した。ポールは祖母か
し、やっとラシーンで薬屋の経営に落ち着いたそうです。
らも学んでいます。怖い時、彼が走っていくのは祖母の優
しかしその店も彼の父が全額援助したものであったそう
しい腕の中でありました。祖母は聞き上手であり、熱心な
です。母の実家はこの街の名士であり尊敬を集めておりま
教会員で、病気の人や困った人が近所にいれば、誰よりも
したが、父はこの街ではよそ者であり、また日々悪化する
先に暖かい食事やパンやケーキを拵え、その配達役はポー
店の経営、そんな中で妻の故郷で養わねばならないという
ルが喜んで務めました。しかしながら祖父母から受けたす
プレッシャーをひしひしと感じていたに違いありません。
ばらしい教訓も、若いポール・ハリスを高徳の人にした訳
「父と祖父母との関係は一触即発の状態であった。」と後
ではありませんでした。彼は悪ふざけといたずらで評判と
日ポールは述べております。祖父(ジョージの父)が援助
なり、この評判を誇りにしていた所があったみたいです。
を止めた為、店は倒産し 1871 年家族を養う事が出来なく
要するにその当時は悪餓鬼でもあった訳です。ある時は、
なった父は5歳のセシルと 3 歳のポールを連れて、生まれ
早めに教会に行くと座席に曲げたピンを置いて回り、そし
故郷のバーモント州に帰りました。妻とまだ赤ん坊だった
て仲間と一緒に後列に座って、礼拝堂の硬い椅子にすわっ
娘のニーナ・メイは残したままだったそうです。ポールの
た人々が、顔を歪めて飛び上がるのをながめていたり、祖
心に焼き付いた最も鮮明な光景の一つは、父の故郷、ウォ
母がポールに決めていた就寝時間後に家を抜け出し、悪仲
ーリングフォードで列車を降り、生まれて初めて父の祖父
間と一緒に深夜列車の機関車の前によじ登り、 (次頁へ)
マンチェスターまで往復したりしておりました。祖父はポ
に尊敬されているということだ。」こうした祖父との会話
ールとは正反対で、悪さや悪ふざけには我慢できない性分
があったせいか、就きたい仕事を自覚するはるか以前から、
でしたが、ポールには大きな望みをかけており、雇い人に
ポールは法律を立派な職業だと思うようになっていまし
「いつかあの子は世に名を残す人物になる。」と話してお
た。ポールは祖母がなくなった後、1889 年にアイオワ州立
り、おそらく甲斐性のない息子への深い失望を埋め合わせ
大学デイモン校法律学部に入学することを決意しました。
る為に、孫のポールへ希望を傾けていったと思われます。
デイモンに行くには、シカゴで列車を乗り換える必要があ
父は時々姿を見せ、息子を散歩や野いちごを摘みに連れ出
りました。活気あふれる大都会にすっかり魅了された彼は
したり、ポールの好きな鱒釣りに行ったが、共に過ごす時
そこに一週間留まることにしました。当時のシカゴは辺境
間は短く、機会も少なかったため、父と息子の絆が生まれ
の町の面影を色濃く残していました。泥道の上を豪華な馬
るには至りませんでした。
車がエレガントなドレスに身を包んだ淑女を乗せて商店街
3歳児の記憶はたちまちに薄れます。母の想い出も同じで
へと向かう。シカゴ大火災以来続いている建築ブームのあ
す。ある日小さな女の子を連れた見たことも無い女性に
おりで、9万人が住居を失い、地価は高騰していました。
「あなたはポール・ハリスかしら」と尋ねられた。ポール
従来のように平屋建てにするには費用がかかりすぎる為、
の母と妹で、父と和解をしようと尋ねてきたのでした。父
シカゴの建築家ウィリアム・ジェニーが 1884 年に世界初の
母は縒りを戻し、父は家族の良き養い手になろうと最善を
高層ビルを建てた。このアイデアは瞬く間に模倣されてい
尽くし、様々な仕事をし、母もまたピアノを生徒の家で教
きました。どの通りでも輸入品のいっぱい飾られたショー
え、家には両親ともいないことが殆どでした。しかしたと
ウィンドウや、客引きが大声でバーや遊郭に客を誘ってい
え努力をしても家計は逼迫し、夫婦関係もこじれ、とうと
る。シカゴは世界中から集まった異国情緒豊かな移民のる
う一家は離散した。ポールとセシルは祖父母のもとへもど
つぼであり、守られて育ったポールにとって、巨大なサー
り、その後二度と再び家族全員が一緒に住むことはありま
カスのようでした。シカゴに立ち寄った後は、アイオワへ
せんでした。人生の晩年を迎えた祖父は、10 代のポール
行き、最初の一年間、アイオワ大学で法律学を学び、法律
によい教育を与えるという変わらぬ義務を感じていまし
事務所で事務員として働きました。その後、でも、特に優
た。孫の親たちはポールが世に出る準備をさせる能力がな
秀な学生だったわけでもなく、後日、教育から得た最大の
いため、社会人として成功させる技能を習得させるのは祖
恩恵は他の学生とのつながりだったと彼は述べています。
父である自分の役目だと認識していた。祖父はポールをバ
後にはロータリーを広める目的で、たびたびこれらの大学
ーモント州にあるブラックリバー・アカデミーに入学させ
時代の知人に連絡をとっています。ほとんどの大学卒業生
たが、間もなくポールの悪さがもとで数週間で退学処分と
は卒業と同時に就職をする訳ですが,卒業式に基調講演を
なった。祖父母を落胆させたことは言うまでもありません
した先輩の弁護士の「出て楽しめ」という勧めに影響を受
でした。祖父母はポールを別の私立学校に入学させます。
け,ポールはすぐには就職せず、アメリカ見聞の旅に出か
バーモント陸軍士官学校です。今回は学業でも態度でも彼
けたのであります。この旅は彼の人生の中で最も波乱万丈
は優秀でした。1886 年にバーモント大学に入学許可を得
の時代であり、人格形成の時期でした。
たが、18 ヵ月後、不祥事の濡れ衣を着せられ退学処分と
まず彼は昔の西部開拓者と同じように、アメリカ北西部へ
なります。後に濡れ衣とわかり大学側より 1919 年に保健
と行きました。金が無くなると、サンフランシスコの新聞
体育の学士号、1933 年に名誉博士号を贈呈されておりま
社で新聞記者として働き、お金がたまってくると再で果物
す。その後ポールはプリンストン大学に入学し大学生活を
を収穫する日雇い労働者として働きました。ロサンゼルス
満喫していた 1889 年のある日、叔父より祖父が危篤との
では、ロサンゼルス・ビジネス・カレッジで講師を務め、9
電報を受け取りすぐに戻ったがしかし間に合うことは出
ヵ月後コロラドに移ると、まずは劇場の舞台俳優として働
来ませんでした。彼の人生の中で唯一、模範的な男性であ
き,その後再度新聞記者として働き、次には農場のカウボ
った祖父は、夜明け前に息を引き取りました。大学に戻り
ーイになりました。山岳地帯に飽きると、フロリダに行き、
その学年を終えた後、祖母のもとに戻り地元の会社で床掃
ホテルで夜勤の仕事につきました。ここで大理石と御影石
除や暖炉の掃除などの単純労働に就いた。祖父から受け継
の商人、ジョージ・W・クラークは大理石会社に勤めた経験
いだ勤労倫理のお陰で、雇い主は彼を速やかに昇進させ、
のあるハリスに、自分の会社で働くように説得したが、人
どんどん重要な仕事を任せていった。追悼と,回想と、将
生の目的を発見するという冒険のために誘いを断り、ワシ
来について考えた一年でした。
ントン、ケンタッキー、ペンシルベニアに移り住み、でき
ポールは時折夕飯の食卓で祖父が地元のローレンス弁護
る仕事は何でもしました。フィラデルフィアに滞在してい
士のことをおおげさに話していたことを思い出します。
る時、イングランドに向けて出航する家畜船の乗組員募集
ローレンス弁護士は判事候補に指名されていました。ハリ
の新聞広告が目に入り、さっそく採用申し込みをし、翌日
ス家で政治が話題になることは滅多にありませんでした
の夜明け前には水夫としての航海が始まっていました。し
が、一生に一度も弁護士を使ったことが無い祖父が、「ロ
かし船は不潔で、海は荒れ、衛生状態も食べ物も家畜同然
ーレンス弁護士について知るべきことはすべて知ってい
であった。さらに悪いことには、14 日後にリバプールに着
る。誠実正義に関心があり、どこにいても判事や陪審員
くと、ポールは数時間陸地に上がっただけで、 (次頁へ)
また帰路に着いた。
看板を吊るすのは簡単だった。多くの客が押し寄せるとは
マットレスもナイフやフォークもない船の旅は悲惨では
期待していなかったものの、これほど完全に無視されると
あったが、ポールはこの体験を冒険の一部として位置付け
は思ってもいなかった。」と後に回想しています。世界博
ている。帰国するや否や、以前よりもはるかに条件のよい
覧会までの過剰な建築ブームが終わり,世界博覧会の閉幕
ロンドン行きの船を捜し、英国の首都を見ることが出来た
とともに多くのビジネスが去り、シカゴの景気は後退して
のです。1893 年に帰国した彼はシカゴに向かい、世界博
いました。しかし、辺境の町の精神はいまだ健在で「弱肉
覧会を見に行っています。
強食」と「買う者側の危険負担」が横行していました。消
5 月から 9 月までの期間中、2700 万人の人が訪れており、
費者保護の規制は皆無に等しく、ポールは詐欺や倒産や横
シカゴこそが法律の仕事を始める街だと心に決め、再び旅
領の犠牲者を代弁する事によって、地道に事業を築いてい
にでました。5 年の放浪生活で、ポールは飢えや寒さや孤
きました。仕事では順調に成功していましたが、個人的な
独を身をもって味わいました。自分の能力だけに頼って生
友人を見つける事に、大都市は不毛の地でした。1900 年
き延びることを学び、生活してゆくために、ユーモアのセ
のある秋、弁護士仲間のボブ・フランクが自宅にポールを
ンスと知力を培いました。赤の他人から並ならぬ親切を受
招待しました。食後、二人は近所をぶらついていくつかの
けることもあれば、勝つために人が騙したり、盗んだりす
店に足を踏み入れた時、シカゴの街中の店員の無愛想な態
るのも見てきました。人生とは自分が注いだだけのものを
度とは対照的に、彼らを店主は笑顔と握手で迎えました。
得るものだと学んだ。同じ人間として、他の人をよりよく
他の店も同様に店主とフランクは互いにファーストネー
理解するようになり、ビジョンも生まれました。こうして
ムで呼び合い挨拶を交わしていました。この事は心から信
彼は、世界とは多文化の地であり、より深い理解が必要な
頼しあう親しい関係にあるからこそ、互いに取引をしてい
場であり、孤独主義の視点で見るべき処ではないかと考え
ることが明らかに見て取れました。この時の午後の散歩の
るようになりました。この 5 年間の冒険、体験をして彼は
事が、その後ポールの頭に蘇り、よそ者同士が商売でも友
法律の仕事を始めるべく、シカゴに向かったのです。シカ
情でも、一つになれる憩いの場所をつくれるということを
ゴに到着した彼はレーク通りとディアボン通りの角に小
ついに見い出したのです。一粒の種がポール・ハリスの心
さな事務所を借りて弁護士事務所を開業しましたが、程な
に蒔かれた瞬間でした。
く,弁護士である事と、弁護士で身を立てることとは、必
このあと残されたわずかの時間ですが、ビデオをご観賞く
ずしも同意語ではないことを知った。「弁護士の小さな
ださい。ご清聴ありがとうございました。
マウント・ホープ墓地に眠る。その執務室は世界本部にその
まま保存されている。ハリスは終生にわたり、法律事務所
の仕事を熱心に続ける傍ら多くの公職にもあった。全米身
体障害児童及び成人協会並びに身体障害児童国際協会初代
会長、シカゴ弁護士協会理事、アメリカ弁護士協会の委員
会委員長等々、更にハリスの功績に対しボーイ・スカウト
のバッファロー銀賞、フランスからレジョン・ドヌール勲
章、同種の賞の中でもアメリカ最高のシカゴ市善行賞、外
国からはブラジル、チリ、ドミニカ共和国、エクワドル、
ポールP・ハリス
ポール・ハリス夫人
1905 年 2 月 23 日の夜に他 3 名と世界最初の奉仕クラブ
ペルーなどから栄誉ある勲章を授与されている。
ジーン夫人は信仰深いトムソン家の 8 人兄弟の 5 番目、
女としては二女で、素晴らしく魅力的な女性だったといわ
「ロータリー」を創始した。創始 3 年目にクラブ会長とな
れる。37 年間ハリスに連れ添い、ロータリーの発展に努め、
る。1910 年 7 月 2 日スコットランドのエジンバラ出身の
ハリスの世界中のロータリー講演旅行(ハリスのテーマは
ジーン・トムソンと結婚。ハリス 42 歳、弁護士を開業し
理解と友情、またはロータリーの起源が多かったといわれ
て 14 年目、ロータリーを創始して 5 年目の夏である。
る)にはいつも同行し、何度かハリスに代わって講演もし
1910 年 8 月「全米ロータリークラブ連合会」を結成、初
ている。ジーン夫人はエジンバラで晩年を送り 1963 年 11
代会長に推される。カナダ、イギリスにもクラブが結成さ
月 9 日逝去、82 歳。ハリスとは海を隔てて何千キロも離れ
れて国際的となり 1912 年 8 月「ロータリークラブ国際連
ポールP.ハリス
ポール・ハリス夫人
合会」を結成、初代会長となる。ハリス 44 歳のときであ
たエジンバラ市ダルキース・ロードのニューイントン墓地
る。更に 1922 年には「国際ロータリー」と改称され目覚
かな慈愛の心をもった婦人」と刻んである。
しい発展を遂げてきた。
に先祖とともに眠る。その墓石には「常に渝らぬ信仰と豊
二人は子供に恵まれず、ハリスの自叙伝には「子供がい
「国際ロータリー」の初代会長であり 1947 年 1 月 27 日
ない私たち夫婦は国際ロータリーを養子にしました」と書
(月)78 歳で逝去したときは名誉会長であった。シカゴ市
いている。(ポール・ハリス―偉大なる奉仕の先覚者より)