滝廉太郎の音楽作品におけるキリスト教信仰の影響

プール学院大学研究紀要 第54号
2013年,121∼135
滝廉太郎の音楽作品におけるキリスト教信仰の影響
内 海 由美子
序
滝廉太郎(1879∼1903)は、日本を代表する作曲家の一人である。滝は23歳10カ月という若さで
世を去った。短い生涯において、滝は編曲を除く、声楽曲32曲とピアノ曲2曲を作曲している 1 。
滝が生きた明治時代は、初めて日本に西洋音楽が取り入れられた、まさしく西洋音楽の黎明期で
あった。当時、日本の音楽界は、西洋音楽を模倣することによって成り立っていた。その模倣中心
の時代に、滝が独自の手法を用いて「荒城の月」や合唱曲「花」を作曲したことは、日本の近代音
楽史上、大きな功績といえる。滝が作曲家の魁と呼ばれる理由である 2 。「荒城の月」や「花」は
今も歌い継がれ、滝廉太郎の名は広く知られている。
しかし、滝がキリスト教徒であったことはあまり知られていない。滝は、明治33(1900)年10月、
21歳で、日本聖公会 3 の博愛教会 4(現在の聖愛教会)において洗礼を受けている。滝の作曲活動は、
受洗した明治33年から翌年にかけて最も充実しているのである。
筆者は、明治33(1900)年以降の滝の音楽作品にキリスト教信仰の影響があると考えた。本稿で
は、滝の生涯とキリスト教の関わりを検証し、楽曲分析を行うことで、音楽作品に見られるキリス
ト教信仰の影響を考察する。
Ⅰ 滝廉太郎の生涯とキリスト教の関わり
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滝廉太郎は、明治12(1879)年8月24日、父、吉弘、母、正子の長男として、東京市芝区南佐久
間町2丁目18番地(今の港区西新橋2丁目6番地付近)に生まれた。父は、当時内務省の官吏であっ
た。廉太郎の誕生により、滝家は父、母、祖母ミチ、長女利恵、次女順、従兄の大吉、廉太郎の7
人家族となる。明治15(1882)年、吉弘が神奈川県少書記官となったため、一家は横浜の官舎へ移った。
明治6(1873)年に、キリスト教禁止令が解け、各教会が伝道に力を注いだため、日本において
キリスト教は急速に広まっていた。特に横浜は、
外国人が多く居住し、西洋文化の香り高い町であっ
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た。新垣壬敏(2001)は以下のように述べている。
滝家の官舎の隣には、親しくしている松川という通訳官の家族が住んでいた。松川家には外
国人客がよく訪問していた。松川家の人びとは、熱心なカトリック教徒であった。日曜日には、
横浜外国人居留地八〇番(現山下町)の教会のミサに与っている。松川家の官舎で行われる家
庭音楽会には、廉太郎の他、姉のリエとジュンの三人が招かれている 5 。
ここで滝はキリスト教と初めて出会ったとみられる。滝が当時キリスト教についての知識を得た
かどうかは定かではない。しかし、幼くしてキリスト教に接する機会があったことは、滝がキリス
ト教徒となることに大きな影響を与えたと考えられる。また、滝の二人の姉は、当時としては大変
貴重なヴァイオリンやアコーディオンを習っていた。幼い滝は、姉が所有していたヴァイオリンに
興味を示した。松本正(1995)は「新しいものを受容することに対しての順応性を示したのは廉太
郎であった。彼は、やがて新しい音楽である洋楽を志し、留学に情熱を傾け、また洗礼を受けてク
リスチャンともなる」6 と記している。
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滝は父の仕事の関係で、明治19(1886)年に富山、明治21(1888)年に東京(麹町)、明治23(1890)
年に大分(大分町)と各地を転々とした。明治24(1891)年に一家は、大分の城下町である竹田市
に移り、滝は直入郡高等小学校(現竹田小学校)2年に転入する。小学生の滝は、姉の所有するヴァ
イオリンを自己流ながら巧みに操り、級友を驚かせた。また、明治26(1893)年に後藤由男という
新任教師との出会いにより、滝はオルガンの手ほどきをうけることができた。小学校にあったオル
ガンを唯一弾くことを許されたのも滝である。オルガンやヴァイオリンという西洋音楽を奏でる楽
器が、日常生活にあったことで、滝の西洋の音に対する感覚は養われた 7 。滝は、竹田時代に将来
音楽家になりたいという強い決意を固めた。
高等小学校時代の滝とキリスト教は一見何の関わりも持たないように見えるが、実は滝が小学校
で習ったであろう「唱歌」と「讃美歌」には深い関わりがある。
日本の音楽教育の基礎を作ったのは、伊沢修二(1851∼1917)という人物である。伊沢は、学校
教育研究のため文部省から明治8(1875)年に米国に派遣されている。留学先で伊沢は、L. W. メー
ソン(Luther Whiting Mason, 1818∼1896)と出会い、個人的に西洋音楽の手ほどきを受けた。明
治11(1878)年に帰国した伊沢は、日本の音楽教育の指導者として、メーソンを招いた。明治13
(1880)年に来日したメーソンは、伊沢と共に、初等教育における最初の音楽教科書『小学唱歌集』
を編纂した 8 。この『小学唱歌集』は、明治15∼17(1882∼1884)年にかけて、三編発行されている。
手代木俊一(1999)によると「メーソン編纂による『小学唱歌集』(初編−第三編)には91曲中
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16曲、讃美歌と同一曲が存在」9 しているとのことである。つまり、メロディーは讃美歌と同じで、
歌詞のみ日本語の別の歌詞を付けるという作業が成されたのである。
当時の日本の音楽水準では、作曲するのが困難であったという背景があるが、メーソンが熱心な
キリスト教徒で、自分が学んだ音楽でキリスト教伝道の手助けをしたいという思いがあったようで
ある 10。一例をあげると、日本の子どもの歌として親しまれている「むすんでひらいて」は、
『小
学唱歌集 初編』では、
「見わたせば」として収録されている。これは19世紀に英米で讃美歌として
歌われた曲である 11。
滝は、小学校時代にメーソンが編纂に関わった『小学唱歌集』を用いていた可能性が極めて高い。
明治27(1894)年4月、滝は直入郡高等小学校を卒業した。
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滝は、明治27(1894)年5月、音楽家を志して上京する。滝は、麹町区平河町3丁目17番地(現
千代田区平河町1丁目5番地)に住む従兄の大吉宅に身を寄せた。
同年9月、滝は最年少で高等師範学校附属音楽学校の予科に合格した 12。翌年に滝は予科を修了
し、音楽の専門家養成を目的とした専修部(修業期間3年)へと進んだ。専修部での滝の成績は大
変優秀であった。特に洋琴(ピアノ)と和声学は素晴らしい成績を残しており、後世に残る名曲を
作曲する片鱗が感じられる。明治31(1898)年、滝は音楽学校本科専修部を首席で卒業し、研究科
へと進学する。翌年、滝は音楽学校の嘱託として授業補助を命じられ、後進の指導にあたりながら
自分自身の演奏活動や作曲活動にも力を注いだ。そして、明治34(1901)年4月に、念願のドイツ
留学へと旅立つのである。
音楽学校時代の滝とキリスト教の関わりは、どのようなものだったのだろうか。
滝は留学直前の明治33(1900)年10月7日、麹町区(現在の千代田区)上五番町にあった日本聖
公会の博愛教会で洗礼を受けている。司式は元田作之進 13(1862∼1928)である。
『聖愛教会百年
史 聖愛の友』(1989)によると、元田は、当時立教中学校の校長を務めるかたわら、明治29(1896)
年から博愛教会で主任長老(牧師)として活発な牧会活動を行っていた 14。同年10月28日、滝はJ.
マキム主教 15(John McKim、1852∼1936)より、堅信 16 を受ける。日本聖公会では、洗礼、堅信
を経て、正式に教会員として迎えられる。
当時、博愛教会は静修女学校内にあり、礼拝は校舎の一部を借りて行われていた 17。明治33(1900)
年11月に上二番町に聖堂が新築され、翌年1月3日にマキム主教により聖堂聖別式が行われた。こ
の時から「博愛教会」の名称は、「聖愛教会」となったのである。滝は、明治32(1899)年より麹
町区上二番町に居住しており、新築された聖愛教会聖堂とは目と鼻の先であった。滝が聖公会の信
徒となったのは、単に近くにあった教会が聖公会だったという理由だけではない。滝の音楽学校入
学時代から研究科までの同級生、杉浦チカ(旧姓高木)の影響があったと思われる。チカは、後に
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立教大学の学長となる杉浦貞二郎(1870∼1947)の妻であり、チカ本人も聖公会の信徒であった。
『聖愛教会百年史 聖愛の友』(1989)には、明治33(1900)年12月31日に博愛教会の新聖堂で行わ
れた除夜の祈祷会に、滝が教会員と共に参加したとの記述がある 18。
松本正(1995)は、「明治33年3月の『基督教週報』19 には音楽学校内におけるキリスト教信者の
数が掲載されている」20 と記している。これによると、当時の音楽学校の予科・本科および研究科
を合わせた男子生徒数30名弱のうち、選科を除いた男子生徒に占めるキリスト教徒の数は20名に達
していた 21。
西洋音楽は、長い歴史の中で、キリスト教と深く結び付きながら発展してきた。明治時代の日本で、
西洋音楽を志し、その本質を深く知るためには、キリスト教に関わる必要があったのである 22。当時、
滝の知人、友人にキリスト教徒が多かったことも影響していると思われるが、ドイツ留学を半年後
に控えた滝がキリスト教に導かれたことは、全く自然なことだと筆者は考える。滝が音楽と出会っ
て心惹かれたように、幼少期からの様々なキリスト教との関わりによって、滝はキリスト教徒とし
て生きる決意をしたのである。
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明治34(1901)年4月6日、滝は横浜港からドイツ、ライプツィヒ(Leipzig)に向けて出発す
る。念願の3年間のドイツ留学である。同年5月14日、イタリア、ジェノヴァ(Genova)に上陸し、
6月7日、滝は留学先のライプツィヒに到着する。
滝は、受験予定のライプツィヒ王立音楽院(Das Königliche Konservatorium der Musik zu
Leipzig)の近くに下宿をして、試験に備えてピアノや語学の勉強を熱心に行った。同年10月1日、
滝は無事ライプツィヒ王立音楽院に合格し、入学を許可された。
滝は横浜を出発してから、日本の親族や友人に宛てて多くの書簡を出している。書簡から、滝の
留学生活の様子が伺える。その中に、
特筆すべきキリスト教に関する記述は見当たらない。しかし、
町の中心に、J. S. バッハ(Johann Sebastian Bach,1685∼1750)が音楽監督を務めた聖トーマス
教会(Thomas Kirche)があり、街中にキリスト教信仰と文化があふれているライプツィヒの町で、
滝が音楽的にも信仰的にも大きな影響を受けたことは間違いないと思われる。
順調にライプツィヒでの学生生活をスタートさせた滝であったが、同年11月、感冒にかかり、12
月2日ライプツィヒ大学附属の聖ヤコプ病院(Stadt Krankenhaus zu St. Jakob)に入院した。入
院生活は半年に及んだ。しかし、滝の病状は一進一退を繰り返し、完治には至らなかった。音楽大
学にもわずか2カ月通っただけで、休学を余儀なくされた。
明治35(1902)年7月10日、ついに滝に帰国命令が発せられた。滝は8月24日、ベルギー、アントワー
プ港から日本船、若狭丸に乗り、イギリス、ロンドンに向けて出港した。ロンドンで5日間碇泊し
たが、この間に「荒城の月」の作詞者である土井晩翠(1871∼1952)と滝は運命的な出会いをして
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いる。ちょうどロンドン留学中の土井が滝の話を聞いて、若狭丸の滝を見舞ったのである。同年10
月17日、滝は横浜港に到着した。
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約2ヶ月の船旅を終え帰国した滝は、麹町区上二番町に住む従兄の大吉宅に身を寄せた。帰国し
た滝の衰弱は激しかった。滝の病気は肺結核であった。肺結核は、明治期の日本において、死に至
る病気として恐れられていた。
明治35(1902)11月21日、滝の従兄、大吉が脳溢血で倒れ、23日早朝42歳という若さで世を去っ
た。幼少の頃から兄のように慕い、滝の良き理解者であった大吉の突然の死は、滝に大きな衝撃と
悲しみを与えた。滝は大吉を失った悲しみの中、同年11月24日、両親の待つ大分へと旅立つ。大分
に到着した時の滝は、かなりの疲労困憊状態であった。家族の温かい愛情に支えられ、大分の新鮮
な空気と温暖な気候により、滝の病状は次第に安定した。しかし、完治するには至らなかった。
キリスト教徒の滝が、大分で信仰の交わりを結んだ人物がいる。日本聖公会の英国人宣教師、H.
R. ブリベ(Henry Reonard Bleby, 1864∼1942)である。東京の博愛教会で洗礼、堅信を受けた滝は、
大分にある聖公会の講義所で宣教活動を行っていたブリベ司祭と交流をもった。
『大分聖公会のあ
ゆみ ∼120年間の記録∼』23 によると、ブリベ司祭は、明治23(1890)年に来日し、大分には明治
27(1894)年に着任している。CMS 24 から日本に多く派遣された宣教師の一人である。滝は当時、
大分町339番地(現大手町)の両親の家に住んでいた。明治35∼36(1902∼1903)年の大分聖公会
は「教会」ではなく「講義所」という名称で、滝の住居に近い「大分町京町裏」にあった。その当
時の滝とキリスト教との関わりを知る資料は、北村清士(1963)の『瀧廉太郎を偲ぶ』に寄せられ
た、滝の11歳年下の妹、安部とみによるものである。
当時の碩田橋、今の中央通りの郵便局の南側に、三倉屋という材木問屋があり、その横を入
るとブリベさんと言う米国の宣教師 25 が居られた。クリスチャンの兄は時々伺って御話をきい
たり、御馳走になったりして居た。ピアノがあったか覚えて居ないが、或は此処だけで弾ける
ピアノがあったかも知れない。(中略)此のブリべさんの御宅にお年賀に出かけた時の姿は何
年たっても忘れられぬ俤である。真黒い髪を一寸分けて、黒紋付の羽織に仙台平のハカマをつ
けて、ニコニコし乍ら車上の人になった兄の美しさ。色の黒い私は思はず、兄さんのように色
が白かったらと、つくづくうらやましく思った 26。
滝は大分での療養生活の中で、宣教師との交流によって癒しを得ていたといえる。滝家の座敷に
は、借りてきたオルガンが据えられていた 27。滝はこのオルガンを使って、遺作となるピアノ曲「憾」
を作曲している。
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療養生活を送っていた滝だが、病状は回復せず、明治36(1903)年6月29日午後5時、家族が見
守る中、天に召された。23歳10カ月であった。家族にキリスト教徒がいなかったためであろうか、
滝は戒名「直心正廉居士」と名付けられ、大分市金池町にある萬壽寺の滝家の墓に収められた。
Ⅱ 楽曲分析
滝は、音楽学校専修部在学中に作曲活動を開始している。編曲を除くと、声楽曲32曲、ピアノ
曲2曲の計34曲を作曲している。作品は、作曲された時期によって初期、中期、後期の3つに大
別される 28。初期は明治32(1899)年頃までの音楽学校時代の6曲、中期は、明治33∼34(1900∼
1901)年頃のドイツ留学前に書かれた24曲、後期は、留学後から明治36(1903)年に亡くなるまで
の4曲である。
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初期の6曲は、
「四季の瀧」を除く5曲が、伴奏譜のない旋律のみの作品である。また軍歌調の
ものが多いことも、この時期の特徴といえる。当時、日清戦争(1894∼1895年)を社会的な背景と
して、軍歌が多く作られ、流行していた。滝もその時代の影響を受けていたのである。各曲の音楽
分析は次の通りである。
(初期作品 分析一覧)
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中期は、滝の作曲活動が最も充実した時期といえる。滝の代表曲である合唱曲「花」や「荒城の
月」もこの時期に作曲されている。筆者は、滝が洗礼を受けた明治33(1900)年に注目する。滝は
自らの言葉で信仰について何も語っていない。しかし、作曲家の滝にとって作品を生み出すことこ
そ、自分自身を表現することであると考える。ならば、明治33(1900)年以降の曲にキリスト教信
仰の影響が見られるのではないだろうか。この点に注目しつつ、楽曲分析を行う。
『組歌 四季』 明治33(1900)年11月、共益商社から出版された。
「花」
「納涼」「月」
「雪」の
4曲からなる歌曲集である。この歌曲集は、日本人作曲家による最初の合唱曲集であり、日本の近
代音楽史上、画期的な作品と言える。
「花」 イ長調、2/4拍子、2部合唱曲。作歌者は武島羽衣(1872∼1967)。3節からなる。付点
音符を中心とした軽やかなリズムによる旋律と、流れるような伴奏が、明るい爽やかな曲調を作り
出している。自筆譜が現存しており、タイトルは「花盛り」となっている。特筆すべきは、1節ご
とに違う旋律を与えられていることである。これは、いかに滝が日本語のイントネーションにあっ
た音の動きを重要だと考えていたかを示すものである。
「納涼」 イ長調、6/8拍子、独唱曲。作歌者は東くめ(1877∼1969)。自筆譜が現存しており、
タイトルは「海辺納涼」となっている。「花」と同様に歌詞に合わせて違う旋律が付けられている。
中間部を同主調であるイ短調に転調させ、再びイ長調に戻る形式をとっており、歌詞の内容にあわ
せた調性の変化が特徴である。小刻みなリズムの繰り返しによる伴奏部分と、ゆったりと動く旋律
は対照的である。
「月」 ハ短調、6/8拍子、無伴奏による混声4部 áഽ༎ & â
合唱曲。作歌者は滝廉太郎。秋の部分にあたる適当
な詩がなかったことから、滝自身が作詩し、曲を付
けた。歌詞は哀愁を帯びた日本の秋の情緒を表現し
ている。注目すべきは、終止にピカルディ3度を用
いていることである。
(譜例1)ピカルディ3度とは、短調の終止に長3和音を用いた場合の長3
度のことで、まるで暗闇に光が射したかのように感じる終止である。ピカルディ3度は、グレゴリ
オ聖歌の基礎音階である教会旋法に見られ、バッハの作品やキリスト教の礼拝で歌われる賛美歌に
も用いられている。
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「雪」 変ホ長調、4/4拍子、混声4部合唱曲。作歌者は中村秋香(1841∼1910)。
「雪」は、滝の全作品の中でキリスト教信仰の影響が最も強く現れていると筆者は考える。
まず詩に「神」という言葉が2度使われている。作歌者である中村秋香はキリスト教徒ではなかっ
たので、日本の一般的な神を想像して詩を書いたと思われるが、滝にとっての神は、キリスト教の
神、すべての創り主の神であったはずである。
この詩は、野山という自然物も、宮や藁屋という人工物も、全てが一晩で雪に覆われ、白銀の世
界となった景色に感動し、これこそ不思議な神の業であると語っている。
伴奏楽器にピアノとオルガンを用いていることも「雪」の特徴である。基本的には同じ和声であ
り、音楽に幅を持たせた形である。これにより、響きが増し、壮大な印象となっている。この点も
キリスト教の影響を感じる点である。
キリスト教音楽において、
「響き」というのは大変重
要である。西洋の教会では、パイプオルガンや讃美歌が
礼拝堂全体に響き渡ることで、神の御手に包まれている
かのような感覚を作りだす。
「雪」で指定されているオ
ルガンは、パイプオルガンではなく、当時の日本の教会
で使用されていたリードオルガンであるが、滝が敢えて
ピアノとオルガンを用いたことにキリスト教の影響がう
かがえる。
「雪」は、3部構成となっている。1部は、1∼ áഽ༎ ' â
10節「一夜のほどに 野も山も 宮も藁屋も おし
なべて」の部分である。特徴として、旋律が4声体
で書かれ、讃美歌のような印象を与えることが挙げ
られる。(譜例2)
キリスト教の長い歴史の中で讃美歌も変遷を遂げ
てきたが、「雪」には、コラール(独 Choral)と
呼ばれる讃美歌の影響がみられる。コラールとは、
16世紀ドイツのルター派の教会から生まれた、全会
衆で歌う讃美歌のことである。専門的な教育を受けていない全会衆が容易に歌うことができるよう、
旋律は単純で、和声も複雑ではない。4声体で書かれ、旋律はソプラノ声部が受け持っている。17
世紀初頭、コラールの各声部は、音価 29 の揃った形となる。滝が当時、教会で用いていた賛美歌は
『新撰讃美歌』と思われ 30、このコラールを元に日本で編纂されたものである。
2部は、11∼18小節「白銀もてこそ 包まれにけれ 白珠もてこそ 飾られにけれ まばゆき光
や 麗しき景色や」の部分である。ここでは、ゼクエンツ(独Sequenz)と呼ばれる反復進行が用
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いられている。(譜例3)ゼクエンツとは、モチーフ(動機)が複数の声部に反復して用いられる
進行のことで、反復する度に、その音高は変化していく。
「雪」では、ゼクエンツ進行によりメロディー
がバスから順に、テノール、アルト、ソプラノへと引き継がれていく。滝はゼクエンツ進行を用い
ることで、感情の高まりを見事に表現している。高揚した感情は、18小節のフェルマータの後、19
小節でフォルテッシモとなって爆発する。
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3部は、19∼27小節「あはれ神の仕業ぞ 神の仕業ぞ áഽ༎ ) â
あやしき」の部分である。ここでは、アルペジオによ
るピアノ伴奏と持続するオルガンが力強く歌われる旋律
を支えている。(譜例4)特に19小節の「あわれ」とい
う感動を表す単語は、フォルテッシモで力強く歌われ「神
の仕業ぞ」につながっていく。4拍で持続するオルガン
と、アルペジオで上行するピアノが、1小節ごとに与え
られた和声の中を進行する。
(譜例4)26小節で変ホ長
調の主和音に戻り、ピアノの1オクターブ間のトレモロ
から27小節の4分音符の主音(Es1音)で終わる。
『中学唱歌』
明治34(1901)年3月30日、東京音楽学校編纂により『中学唱歌』が出版された。
『中学唱歌』は、
作詩、作曲を委嘱した100余種の作品と、作詞を公表して作曲を一般公募する形で集まった100余種
の作品の中から38種を選び編纂された。滝は、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の3曲を応募し、
3曲すべて選ばれた。
áഽ༎ * â
「荒城の月」 ロ短調、4/4拍子、作歌者は土井晩翠。
滝の代表曲である。(譜例5)
現在歌われている形は、大正7(1918)年に山田耕
筰(1886∼1965)が編曲したものである。(譜例6)
山田の編曲により、ロ短調から3度高い二短調へ、
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音価も倍になり、8小節の旋律は16小節に拡大された。 áഽ༎ + â
また山田は編曲の際、伴奏部分を付け加えている。原
曲では、2小節目のe1音にシャープが付けられている
が、現在歌われている楽譜にはシャープがない。
作歌者の土井晩翠は、自身はキリスト教徒ではな
かったが、妻と娘は熱心なキリスト教徒であった。そ
の影響が土井に少なからずあったのではないかと思わ
れる。滝が土井の詩にキリスト教を感じていたかどう
かは定かではない。しかし、
「荒城の月」の旋律は、
現在『ヘルヴィム賛歌』
(Hymn of the Cherubim)と
いう聖歌となって、ベルギーのシュヴトーニュ修道院(Monastere De Chevetogne)で歌われて
いるのである 31。この事実は、「荒城の月」がキリスト教の香りを含んでいることを現わしている。
「箱根八里」 ハ長調、4/4拍子、ヨナ抜き長音階 32。作歌者は、鳥居忱(1855∼1917)。基本のリ
ズムに付点8分音符と16分音符の組み合わせを用いて、言葉のもついきいきとしたリズムをいかし
ている。当時は「箱根八里」の方が「荒城の月」より人気があった。
「豊太閤」 ホ長調、4/4拍子、作歌者は外山正一(1848∼1900)。「荒城の月」
「箱根八里」ほど注
目されなかったのがこの「豊太閤」である。前2曲は、歌詞と音楽が見事に融合した作品となって
いるが、この「豊太閤」にはやや難があったようである。
『幼稚園唱歌』 明治34(1901)年7月、共益商社から出版。
『幼稚園唱歌』全20曲のうち、16曲 33
が滝の作曲による。この唱歌集は就学前の児童を対象にしたものである。子どもには難しい文語体
の詩ではなく、やさしい口語体の詩を提供したいという思いから、作歌者の東くめと共に、滝も企
画、編集に携わった。
「メヌエット」 明治33(1900)年10月に作曲されたピアノ曲。ロ短調、3/4拍子、典型的なメヌエッ
トの複合三部形式。ドイツ留学に際して、持参した曲と思われる。
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後期の作品は、声楽曲3曲とピアノ曲1曲の計4曲である。すべて生前に出版されることはなく、
手書き譜の形で残されていた。希望を胸にドイツへ旅立った滝だが、病に倒れ、帰国を余儀なくさ
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れた。キリスト教徒である滝が、この試練をどのように受け止めたかを知る資料は残されていない。
しかし、異国での闘病生活の辛さと、志し半ばで帰国せざるを得なかった滝の無念さは想像に難
くない。作曲家であった滝が「当時の自己の内面世界を音によって具現化したと言える」34 作品が、
ドイツ留学時代から帰国後に作曲された「別れの歌」「水のゆくえ」「荒磯」「憾」である。
「別れの歌」 自筆譜には、明治35(1902)年10月30日作曲と記されている。同年10月17日にドイ
ツより帰国した滝は、ドイツでこの作品の構想を練り、東京で完成させたものと思われる 35。ホ短
調、4/4拍子、無伴奏の混声4部合唱曲である。20小節という短い曲で、作歌者は未詳だが、滝自
身の作詞の可能性も高い。歌詞の最後に
「のこるおもいを いかにせん ああ áഽ༎ , â
いかにせん」とあり、滝の無念な思いが
表現されている。音楽も短調で、これま
での作品のような明るい作風は見られな
い。特に最後3小節では「ああ いかに
せん」とフォルテで歌われた後、フェル
マータで余韻を残して終わる。(譜例7)
「水のゆくえ」 「別れの歌」を完成させた翌日10月31日、滝は「水のゆくえ」を完成させている。「別
れの歌」と同時期に構想が練られたものと思われる。作歌者は、長い間未詳とされていたが、小長
久子(2010)によると、橘糸重(1873∼1939)であることが判明したとのことである 36。ニ短調、
4/4拍子のピアノ伴奏を伴う女声3部合唱曲となっている。前述の「別れの歌」同様に歌詞に滝の
思いが現れている。
「別れの歌」と「水のゆくえ」は独立 áഽ༎ - â
した曲であるが、歌詞の内容と作曲され
た時期により、関連性があると筆者は考
える。つまり、「別れの歌」で「この思
いをどうすればいいのか」と激しく歌っ
た後、「水のゆくえ」では、星の光でさ
え流れる水に巻き込まれ流転し、一体ど
こへいくのだろうかと問うのである。こ
れは、滝が、自分の運命はどうなっていくのかと自問自答しているようにも思える。滝は、
「水の
ゆくえ」の最後にもピカルディ3度を用いている。(譜例8)
プール学院大学研究紀要第54号
132
「荒磯」 明治35(1902)年12月、大分に áഽ༎ . â
て作曲された。イ短調、6/8拍子の独唱曲
である。作歌者は徳川光圀。4小節の前奏
に続いて、レシタティーボ風に歌が始まり、
7小節目で旋律はe2音まで一気に上がり、
感情の高ぶりを表現している。それに続く
旋律は静かにゆっくりと下行し、21小節で
曲は終わる。この曲の最後にも、滝はピカルディ3度を用いている。(譜例9)
「憾」 明治36(1903)年2月、滝はピアノ曲「憾」を完成させた。死の約4ヶ月前である。タイ
トルの「憾」は「残念に思う気持ち」「心残り」「未練」という意味の言葉で、決して「恨み」では
ない。志し半ばで、この世を去らねばならなかった滝の無念さは明らかだが、その運命を恨むもの
ではなかった。ニ短調、6/8拍子、終結部のついた複合三部形式である。付点のリズムによる印象
的な旋律で始まり、中間部は平行調であるヘ長調に転調する。この中間部は、この世の苦しみを忘
れたような明るい曲想である。再びニ短調に戻り、冒頭と同じ形が現れる。終結部の連続するオク
ターブと、続く和音は、滝の様々な感情が一気に爆発したような激しさである。そして、最終音に、
彼の全作品の中で最も低いD2音が突然現れ、まるで滝自身が自分の人生を締めくくるかのように
終わる。
結
本稿では、滝の生涯とキリスト教の関わりを検証し、楽曲分析を行うことで、キリスト教信仰の
影響について考察してきた。結論として、初期の作品には、キリスト教信仰の影響は全く見られな
かった。しかし、明治33(1900)年の受洗以降の中期、後期の作品にはその影響が見られたのである。
キリスト教の教えには、絶望やあきらめは存在しない。どんなに苦しい試練の中にあってもイエ
ス・キリストが共におり、希望があるという教えである。滝は「月」
「水のゆくえ」
「荒磯」にピカルディ
3度を用いることで、希望を持ち続けようとする姿勢を示しているのである。ここにこそ、キリス
ト教信仰の影響がある。また「雪」は紛れもない神への讃歌で、滝のキリスト教信仰の深さを示す
ものである。
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1
大分県教育庁文化課編『大分県先哲叢書 瀧廉太郎 資料集』大分教育委員会,1994年,pp. 345−356
2
松本正『瀧廉太郎 大分県先哲叢書』大分県教育委員会,1995年,p. 3
滝廉太郎の音楽作品におけるキリスト教信仰の影響
3
133
1859年、米国聖公会の宣教師J. リギンズ司祭、C. M. ウイリアムズ司祭の来日により宣教が始まり、1887年
に創設された。
4
グレース・エピスコパル・チャーチ(Grace Episcopal Church)として、1889(明治22)年に創立。
5
新垣壬敏『賛美、それは沈黙のあふれ』教文館,2001年,p. 137
6
松本正、前掲書、p. 20
7
松本正、前掲書、p. 41
8
大塚野百合『賛美歌・聖歌ものがたり 疲れしこころをなぐさむる愛よ』創元社,1995年,pp. 2−3
9
手代木俊一『讃美歌・聖歌と日本の近代』音楽之友社,1999年,p. 139
10
大塚野百合、前掲書、p. 2
11 『聖書之抄書』
(1874(明治7)年発行)に収録されている。チューンネームはGREENVILLE。
12
滝は予科の入学試験においては、仮入学扱いであったが、同年12月に本入学を許されている。
13
元田作之進は、立教大学創設時に初代学長に就任した人物である。
14
日本聖公会東京教区聖愛教会百年史編集委員会『聖愛教会百年史 聖愛の友』聖愛教会,1989年,p. 4
15
1880(明治13)年に米国聖公会宣教師として来日。1893年第2代日本伝道主教に任命された。
浦地洪一『日本聖公会宣教150年の航跡』日本聖公会管区事務所,2012年,p. 41 p. 64を参照。
16
日本聖公会祈祷書(2004)p. 268を参照。
「祈りと按手により聖霊によって強められ、神の民として教会の交
17
日本聖公会東京教区聖愛教会百年史編集委員会、前掲書、p. 10
18
日本聖公会東京教区聖愛教会百年史編集委員会、前掲書、p. 6
19
元田により1900(明治33)年に創刊された聖公会週刊誌である。日本聖公会東京教区聖愛教会百年史委員会、
20
松本正、前掲書、p. 210
21
松本正、前掲書、p. 210
22
松本正、前掲書、p. 210
わりに迎え入れられる」ための式を堅信という。
前掲書、p. 5
23
菅孝子『大分聖公会のあゆみ 120年間の記録』日本聖公会大分聖公会,2011年,pp. 24−26
24
Church Mission Societyの略。
25
英国の宣教師の間違いと思われる。
26
安部とみ「兄を偲ぶ」
,北村清士編著『瀧廉太郎を偲ぶ』1963年,pp. 89−90
27
松本正、前掲書、p. 262
28
小長久子編『瀧廉太郎全曲集 作品と解説』音楽之友社,2010年,p. 2を参考に筆者が大別した。
29
音価とは、楽譜上の音符の長さのこと。
30
日本聖公会東京教区聖愛教会百年史編集委員会、前掲書、p. 7を参照。津田梅子女史(津田英塾創設者)よ
31
大塚野百合『賛美歌・唱歌とゴスペル』創元社,2006年,pp. 21−27
32
全音階の第4音(ヨ)と第7音(ナ)を抜いて作った5音からなる音階。
り新撰讃美歌30冊寄贈とある。
33 「ほうほけきょ」
「ひばりはうたひ」
「鯉幟」
「海のうへ」
「桃太郎」
「夕立」
「かちかち山」
「水あそび」
「鳩ぽっ
ぽ」
「菊」「雁」
「軍ごっこ」
「雀」
「雪やこんこん」
「お正月」
「さよなら」の16曲。
34
松本正、前掲書、p. 265
35
自筆譜がドイツのブライトコップフ社製であることから、ドイツ時代の作品と考えられている。
36
小長久子編、前掲書、p. 81
134
プール学院大学研究紀要第54号
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日本聖公会歴史編集委員会『あかしびとたち 日本聖公会人物史』
(日本聖公会出版事業部、1974)
浅香淳『新音楽辞典 楽語』
(音楽之友社、1985)
小長久子著、日本歴史学会編『滝廉太郎 人物叢書 新装版』
(吉川弘文館、1990)
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瀧廉太郎『瀧廉太郎 作品集』演奏 立川清登、平野忠彦、中村邦子、中村浩子、中村健、木村宏子、三浦洋一(ビ
クター音楽産業株式会社、1993)
瀧廉太郎『荒城の月のすべて』ヘルヴィム賛歌(マクシム・ジムネ士編曲)指揮 マクシム・ジムネ士、演奏 シュ
ヴトーニュ修道院聖歌隊、録音 1987年 ベルギー(キングレコード株式会社 2003)
滝廉太郎の音楽作品におけるキリスト教信仰の影響
135
(ABSTRACT)
The Influence of Christian Faith on the Musical Works of Rentaro Taki
UTSUMI Yumiko
Rentaro Taki(1879∼1903)was one of the leading composers during the Meiji era in Japan.
“Kojo no tsuki”and“Hana”, which are his representative works, are well known in Japan.
However, what is not well known is that Taki was a Christian and that his faith influenced
his works. In this paper, I describe the relationship between Taki’
s life and Christianity, and
investigate how his works were influenced by his faith. His musical works were divided into
three periods: the early period(1897∼1899), the middle period(1900∼1901), and the late
period(1902∼1903). I analyze Taki’
s works of each period and discover that“Yuki”, the
fourth song of his suite“Shiki”, has characteristics typical of hymns. He also used a picardy
third, which is often used in hymns, in his works“Tsuki”
,“Mizu no yukue”and“Araiso”
. I
therefore conclude that although Taki’
s early works were not influenced by his Christian faith,
his middle and late works were.
Keywords: Meiji, baptized, confirmed, Episcopal Church, Picardy third.