タイ文学史ノート - Seesaa ブログ

タイ文学史ノート
大げさなタイトルになってしまったが、以前本ブログで紹介した『東南アジア文学への
招待』(段々社)所収のタイ文学に係る解説(宇戸清治著)を手がかりに簡単なノートを
作っておこう。
先ず同解説の骨格を理解すべく見出しを列挙しておこう。但し文学と言い条、実際は小
説中心の簡述であることに留意されたい。
【タイ文学・解説】上掲書p16∼p43
1 タイ文学のいま
経済発展とタイ社会の変化
タイ文学界の状況
2 伝統文学から近代文学へ
伝統文学の時代
西洋文学はどう受容されたか
3 近代作家シープーラバーの描いたタイ社会
4 民主化時代の文学
5 新世代作家とその作品世界(止め)
本稿で採り上げるのは上記2の前半だ。
《摘要》伝統文学の時代 1)以下の整理番号と[]内は私が付加したものだ。
1)タイの伝統文学はスコータイ王朝[1240?ー1438]以来、800年近い伝統を有して
いる。そのため、一口に文学といってもその内容や形式には時代ごとにかなりの差がある。
従って、ここでは全般に共通する特徴を指摘しておくにとどめる。[記述限定の断り書
き]
2)伝統文学は宮廷文学とほとんど同義。王侯、貴族官僚、宮廷詩人などが主たる作者で
あり、受け手でもあった。韻文が最主要な形式=クローン、リリット、セーバーなど数十
種類の複雑な詩形があった。
3)アユタヤ朝[1351−1767]中期のナライ王治世下(1656-1688)は、フランスなどと
交流があり、第一期の文学黄金時代と言われる。第二期黄金時代が詩聖スントーン・プー
(1785-1855)が活躍した19世紀半ばだ。タイ文学が西欧新文化やロマン主義文学の影
響を受け、韻文文学から次第に脱皮するのは1850年代からで、翻訳文学は世紀末に
なってからだった。日本と比べれば半世紀の差があった。
4)近代以前のタイ伝統文学の大まかな特徴はー文学を含む文化活動がほぼ王室独占だっ
た、宗教色濃厚で国民の道徳観に大きな影響を与えた、外来の物語や非人間界を相手にす
る英雄譚が多かった。
5)外来の宗教文学に対するタイ独自文学の代表が今日でもタイ文学の最高傑作とされる
スントーン・プーら宮廷人の合作『クンチャーン・クンペーン物語』(1816頃)だった。
(止め)
《摘要》西洋文学はどう受容されたか
1)タイ文学に散文形式が入ったのは中国歴史小説の『三国志演義』[ママ。タイ国では
寧ろ『三国』という名前で読み継がれている]が平易な口語体で翻訳された1802年以
後である。その後中国小説の翻訳は一大ブームとなり、20世紀初頭までに約35の作品
が訳された。多くが新聞に連載され好評を博した。つまり、三国志演義』こそ現在のタイ
文学につながる散文文学の出発点だった。
2)タイ国が西欧への門戸を開いたラーマ4世の19世紀半ば以降、西欧文物の受容が盛
んとなり、近代文学発展の条件が整えられて行った。米人宣教師が1835年に持ち込ん
だ印刷機を利用して、その2年後にブラッドレーが聖書や『三印宝典』を出版した。印刷
技術の普及が、新聞や雑誌のあいつぐ発刊、商品としての新聞小説の登場、西欧思想の一
般への紹介などで、近代タイ文学の成立に大きな影響を与えた。
3)英国帰りのプラヤー・スリンタラーチャー(筆名メーワン)が発行した雑誌「ラッ
ク・ウィッタヤー(知識の剽窃)」は翻訳小説を多数掲載した。彼は英大衆作家マリー・
コレリーの『復讐』をタイ語に翻訳した(1901年)。これがタイ最初の西洋小説の翻訳
だったとされる。
4)20世紀初頭のタイ国で好んで訳された作家はドュラス、コナン・ドイル、ハッガー
ド、マリー・コレリー、モーパッサンなど主に大衆作家だった。思想や哲学等は1970
年代まで殆ど研究紹介されることがなかった。Cf.日本ではディッケンズ、エリオット、
ユーゴー、ブロンテなどロマン主義や人道主義の小説家、さらにはモーパッサン、フロー
ベール、ゾラ、ユーゴー、トルストイほかロシア文学、ニーチェ、生の哲学、新カント派、
ベルグソンが読まれた。
5)当時のタイの作家たちのほとんどは絶対王制という制度下でのエリートであって、そ
の思想は伝統的なものを強く引きずっており、タイでの西欧文学の受け入れ方は、自己や
社会の中からの内発的契機によるものでなく、貴族的意識が近代意識との葛藤を経ずに西
欧小説の形式のみをまねる傾向が強かった。恋愛小説や家族小説、探偵小説や冒険小説ば
かりが翻訳、模倣された。
6)裏返せばそれはタイの作家たちが西欧の突きつける文化的、政治的脅威に対して無防
備だったことを意味する。国家運営の責任が国王及び一部側近に委ねられた伝統的統治の
あり方と無縁ではない。
7)注目すべきはラーマ6世(ワチラウッド王1910-25)の文学面の功績だ。詩、小説、
戯曲の創作の他シェイクスピアの翻訳を手がけた。それは帝国主義に包囲された国家危機
への対応の一つであったのでないか。(止め)
***
西欧との宗教、思想、哲学での戦いで特筆すべきはモンクット親王(ラーマ4世185168)の活躍だ。キリスト教に対抗するに仏教を以てし、タイ仏教を再建したからだ。教義
を整理し間違いを是正した上で、戒律を見直したのだ。それは果敢な宗教思想闘争だった。
王の創設したタマユット派は姿勢を正した仏教として数こそ少ないが、伝統仏教に互角の
発言力を有している。開国により滔々流入する西洋文化、宗教に対して堂々仏教を以てし
たその姿勢は尊敬に価する。
天下国家の計が国王及び一部側近に限られていたからだが、孤独な戦いに勝利したと言
えよう。上座仏教が牢固として存在していたが故に西欧の思想哲学が入り込めなかったの
だろう。我々は無意識に西欧化=善と刷り込まれているが、それは明白なことではない。
時代を飛ばして第二次世界大戦前後から話すことにしよう。
《摘要》民主化時代の文学 典拠:前掲書
1)第二次世界大戦前後、ナーイ・ピー(1918-59?)が古典文学を宮廷の卑猥文学と批
判し、貧しい民衆に「生きるための文学」を提供しなければならぬと主張した。→1952詩
「東北」、短編『何のための医者』。
2)同志作家にアッサーニー、ウダコーン、ラウィーがおり後にイッサラー、アマンタク
ン、シープラバーが加わった。これら活動はプリーディー・バノムヨンの指揮下に結成さ
れた中央労働組合によるコミンテルン系労働運動から強い影響を受けたもので、現実とは
ややかけ離れ、多分に思想的、気分的なものだった。
3)1958-63年サリット元帥が共産主義者取締法により文化人に対する言論弾圧を繰り広
げた。「タイ文学受難の時代」とも言われるが、この時代こそ今日隆盛を極めるタイ娯楽
小説の基礎が確り築かれた時代だった。
4)この時期発行された雑誌が18種類にのぼり、掲載された小説のカテゴリーは恋愛小
説、アクション小説、家庭小説、社会派小説、怪奇小説の5つあった。中でも恋愛小説と
家庭小説とが最も盛んだった。
5)内向きの文学状況に地殻変動が起き、「生きるための文学」が再評価されるのは、長
い軍部独裁政治が学生・知識人の手で倒された1973年以後のことだった。言論・結社
の自由がかなり保証されたのを受け、ルン・マイ(新世代)と呼ばれる若手作家や詩人が
続々登場した。→ラウィー・ドゥームプラチャンの詩集『生きるための詩』(1974)、ナ
ワラット・ポンバイブーンの詩「秘かな動き」、詩人ワット・ワンラヤンクーンの短編詩
など。
6)この期の小説をタイ文学史テキストはリアリズム文学と呼ぶが、労働者・農民対資本
家・政治家といった紋切り型の対立、糾弾が多く、個人の内面に迫るものはなかった。
(止め)
同時期タイ・ポップスの世界ではカラワンを代表にした「生きるための歌」(プレー
ン・プア・チウィット)が大衆の支持を集めた。代表曲のひとつ「人と水牛」がこれ↓
http://www.youtube.com/watch?v=aUtlmSWFGlQ&feature=player_embedded
言うまでもないが、水牛はタイ農民の象徴だ。歌詞の意味は次の通りだ↓。
<人と水牛《コン・ガップ・クワーイ》
人と人が田を耕す
人と水牛が田を耕す
人と水牛のいとなみは
深く長い
長い長いあいだいそしんできた
平和な労働
さあ行こう
鋤かついで田にでよう
無知と貧困に耐えぬいて
涙さえかわいた
恨みと憤りの胸のうち
どれほどの苦しみにも動じない
死の歌がひびく
ひとの尊厳は失われた
ブルジョアは労働を喰いものにし
農民を、低い階級
田舎者さと、蔑んだ
死のみがさだかなこと
(荘司和子訳)
此所では軍部独裁政治を倒した1973年10月政変以後の文学状況を見る。
《摘要》 新世代作家とその作品世界[その1] 典拠:前掲書
1)チャート・コップチーティー(1954∼) 現在最も活躍し、注目を浴び、次作が待た
れる中堅作家。25歳の時に短編小説「敗者」(1979)で新進作家の登竜門チョー・カー
ラケート賞を受賞、長編『裁き』(1981)で東南アジア文学賞を受賞して一気に名声を高
めた。
2)『裁き』(星野龍夫訳、井村文化事業社)はー
<外からはいかにも自由に見えるありきたりの村で、何の変哲もない一人の男がたまたま
村のタブーを犯したと誤解されたばかりに、共同対社会から阻害され、見えない敵との戦
いに最初は困惑しつつ、最後には絶望し、そして死んで行く物語である。ここには人間を
がんじがらめに縛っている土着思想や仏教、村の規範、村長や校長といった権力者からは
ては隣人にいたる人々による暴力がきわめてリアルに書き込んである。(前掲書)
3)『裁き』が発表された時期のタイ国は急激な経済成長のただ中、人々の波が都市へと
向かい、農村から若者の姿が消えた。「都市では人間のエゴイズムは克服されるどころか、
屈服させるべき敵を求めて徘徊する」。
4)シラー・コームチャイ(1952∼) 短編集『路上の家族』で1993年度東南アジア
文学賞を受賞。彼は民主化闘争や76年の「血の水曜日事件」の後、タイ共産党のゲリラ
闘争に参加したことのある作家で、回顧録『真実の証言ーラームカムヘン大学における初
期の学生運動』がある。短編集『路上の家族』は中産階級の共稼ぎ夫婦がバンコクの交通
渋滞と苦戦する日々をユーモラスなタッチで描いた小品だ。
5)カノックポン・ソムソンパン(1966∼) ポスト民主化世代の最も若い作家。
チョー・カラケート賞受賞の中編『落ちた橋』(1989)、同『サラマーンの小さな世界』
(1990)で並々ならぬ才能と骨太ぶりを示した。
5)4記載の中編は一見「新しい時代における新しい人間の生き方を示唆する」ように見
えるが、東南アジア文学賞を受賞した八つの短編からなる『他の世界』(1996)でカノッ
クポン・ソムソンバンは全く違った世界を描いてみせた。
前掲書はそのうちの「滝」についてこう語る。
<これはメタファーを巧みに用いた心理的な小説である。そこでは出来事は記述されても、
物語というものはない。…フラッシュ・バック手法を使った複雑なプロット構成、「私」
「彼女」のようにどれも固有名詞を欠いた主要登場人物、夢と幻視と幻聴とをモメントと
して展開する非物語的な展開、そしてこれらの出来事の曖昧な終末…にこそこの小説の真
骨頂はある。
6)ウィモン・サイニムヌアン(1955∼) この作家が大いに話題を呼んだのは、本ブロ
グでも採り上げた長編『蛇』(1984)によってだった。重複を厭わずに前掲書の評言を記
せば、「この作品に描かれたメタファーの蛇とは、農民からの寄進をせしめて肥え太り、
仏教サンガの階梯を上がり詰めようとする僧侶だけでなく、政治的野心の実現のためサン
ガの権威と農民の無知を徹底的に利用する権力者、私の救済を求めるあまり自らの生活さ
え破壊しかねない高額の寄進を行う農民たちのエゴを指す言葉だ」。
ウィモンにとって小説とは「読者という他者への作者自身の世界観の伝達手段」であり、
その姿勢は「生きるための文学の継承者だ」。七つの長編を発表しているが、そのうち
『生き神』(1988)、『コークプラナーン』(1989)、『大地の主』(1996)は『蛇』の
続編とみなせ、四部作を構成している。
摘要》 新世代作家とその作品世界[その2] 典拠:前掲書
1)ウィン・リョウワーリン(1956∼) ウィンはタイの名門大学卒業後直ぐにシンガ
ポール、アメリカでインテリア・デザイナーの業務に従事、6年後に帰国。広告代理店勤
務をへて短編「肉欲と涅槃』(チョー・カーラケート賞受賞)で文壇にデビューした。そ
の後短編集『嘆きの異常気象』・『黒い手帳と紅葉』でも文学賞を受け、1997年には
長編『平行線上の民主主義』で東南アジア文学賞、更に99年に短編集『人間と呼ばれる
生き物』で復(また)も度同賞を受賞して、一躍時の人になった。
『平行線上の民主主義』は1932年の立憲革命以後、92年迄のタイ政治裏面史の物
語だ。この作品がセンセーショナルに取沙汰されたのは、第一にフィクションを謳いなが
ら歴史上の実在人物を登場させ、そこに虚構の人物を加えたこと。第二に、立憲革命や重
要な政治事件の正しい評価が小説家ウィンの歴史観、人生観によりねじ曲げられていると
いう歴史家の危惧からだ。だが同時にこの小説の形式やジャンルの実験を擁護する文学研
究者の意見が表明された。つまり大論争を巻き起こす話題を提供した作品だ。
2)タイ現代文学は「生きるための文学」に起源を持つウィモンらの流れと「小説は面白
くなければならない」とするウィンらの流れが鬩ぎあう状況にある。
3)その他作家には、『クントーン、お前は暁に戻る』のアッシリ・タンマチョート
(1947∼)、『同じ路地』のワーニット・チャルンキットアナン(1955∼)、『ヨム河』
のニコム・ラーイヤワー(1945∼)、『薫る髪のチャン姫』のマーラ・カムチャンなどが
いる。また本ブログで採り上げたプラープダー・ユン(1973∼)(『存在のあり得た可能
性』で東南アジア文学賞受賞)が新進気鋭の作家として注目されている。
4)最後に東南アジア文学賞を受賞した詩人には、ナワラット・ポンパイブーン(1940
∼)、コムトゥアン・カンタヌー(1950∼)、アンカーン・カンラヤーナポン(1926
∼)、チラナン・ピットプリーチャー(1955∼)、サックシリ・ミーソムスープ(1957
∼)、パイワリン・カーオガーム(1961∼)などがいる。
(以上、完結)
[参照]『東南アジア文学への招待』宇戸清治、川口健一編 段々社2001年11月