新潟大学人文学部 英米文化履修コース 2004 年度 卒業論文概要

卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
新潟大学人文学部
英米文化履修コース
2004 年 度
赤塚
麻衣
卒業論文概要
ルイス・キャロル:アリスへの願い ......................................................... 2
短編小説研究 .................................................. 3
五十嵐 あい
レイモンド・カーヴァー
生方
美沙
アリス・ウォーカー『カラーパープル』研究........................................... 4
江口
里美
A Study of Toni Morrison’s Beloved ........................................................ 5
奥村
栄美
アンジェラ・カーター研究 ....................................................................... 6
小野
朝葉
A Study of Fools in Tudor Britain ........................................................... 7
風間
絵美
近代イギリスにおける女性
−「女性」の再構築
−............................. 8
岸 美香子
リチャード・ライト『アメリカの息子』における盲目............................. 9
久島
薫
J.M.ホイッスラーにおけるジャポニスム.................................................10
佐藤
綾香
ジェーン・エアにおけるポストコロニアリズム ......................................11
佐藤
翔悟
Woodrow Wilson の「秩序」と平和主義 .................................................12
佐藤
祐子
J.F.ケネディとキューバ・ミサイル危機 ..................................................14
島軒
かおり A Study of Clara Barton .........................................................................15
鈴木
麻衣子 アンブローズ・ビアスの死生観 ...............................................................17
須田
江梨子
A Study of WutheringHeights ................................................................18
関谷
貴子
The First World War and British Citizens.............................................19
相墨
渚
A Study of Muriel Spark.........................................................................20
細貝
蘭
A Study of The Catcher in the Rye: As a Bildungsroman .....................21
本合
真美
『オセロー』研究 ....................................................................................22
森山
あゆみ
A Study of Seamus Heaney ....................................................................23
山内
真理
ケイト・ショパン『目覚め』研究 ...........................................................24
吉岡
美緒
アイダ・B・ウェルズ研究 ......................................................................25
涌井
高志
カズオ・イシグロ研究 .............................................................................27
渡邉
美和
Lexical Semantic Representations and English Verbs..........................28
2004 年度卒業生
1
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
赤塚
麻衣
ルイス・キャロル:アリスへの願い
『不思議の国のアリス』ならびに『鏡の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは、幼い
少女たちをこよなく愛し、中でも最も理想とした友アリス・プレザンス・リデルを主人公
にこの 2 冊の物語を書き上げた。こうしたキャロルの子どもへの偏愛から、『アリス』物
語はキャロルが現実や大人社会から逃避し、永遠の子ども時代を夢見て創り出した幻想で
あるとの批判を受けることも少なくない。しかしながら、『不思議の国のアリス』のラスト
シーンにおいて、キャロルは主人公アリスを現実世界に帰環させており、それは彼女がや
がては大人になることを意味する。もしもキャロルが本当に子どもの永遠性を望んでいた
なら、彼が最後にアリスを現実に戻すことはなかったのではないだろうか。
ラストシーンでアリスの姉が思い浮かべる未来のアリスは、「永遠の少女」ではなく「子
どもの心を持ち続ける大人」として描かれている。この女性像こそがキャロルのアリスへ
の願いなのであり、このことを念頭に置いて物語を読めば、『アリス』には「成長」の要素
がはっきりと含まれるだろう。『不思議の国』でのアリスの冒険は、人生の旅路と酷似して
いる。アリスが目指す美しい庭園はハートの女王が支配する「大人の国」を指しており、
彼女が歩む道のりは紆余曲折に満ちた人生そのものだ。そして、アリスが大人の世界に入
ってからも、子どもとしての純粋さを失わず女王の理不尽さに反発するように、ここには
キャロルの願った「大人になっても子どものイノセンスを持ち続ける」という理想が示さ
れていると考えられる。つまり、『不思議の国』で主人公アリスは、肉体の加齢こそ伴わな
いものの確実に大人へと成長しているのだ。同様に続編『鏡の国のアリス』も、無垢なる
アリスが女王を目指してチェスのゲームに参加する、彼女の成長を謳う物語なのである。
そして、キャロルは自らの願いを実在のアリス・リデルに伝えるため、『不思議の国』を
夢物語としアリスを夢の中だけの存在とした。つまり、不思議の夢から覚めたアリスはそ
の瞬間に現実世界のアリス・リデルの中へ戻り、キャロルの願いは彼の最愛の少女へと伝
えられたのだろう。また、『アリス』の特徴である当時のイギリスへの鋭い風刺も、同じく
夢の中でだけ行われるものである。キャロルはヴィクトリア朝の敬虔な聖職者であり勤勉
な数学者だった。彼は現実において表に出すことのできない社会への不満を、無垢の象徴
であるアリスに委ねて夢の世界でのみ具現化したのであり、厳格すぎる世を澄んだ子ども
の心で批判することもまた、キャロルがアリスに託した願いだったといえるだろう。
2004 年度卒業生
2
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
五十嵐
あい
レイモンド・カーヴァー
短編小説研究
―カーヴァー的コミュニケーション―
レイモンド・カーヴァーは「大聖堂」以降自分の作風が変わったとインタビューで語り、
その作品は“‘opening up’ process”であったと述べている。「大聖堂」より前に書かれたもの
を前期の作品、「大聖堂」より後に書かれたものを後期の作品として、カーヴァーの小説が
どのように変化したかを、登場人物間のコミュニケーションに焦点を当てて考察する。
カーヴァーの前期の作品では登場人物たちのすれ違いが多く、その原因は、偶然や運の
作用と言葉の無力の二つである。前期の小説では、偶然や運が登場人物たちの仲を引き裂
く。さらに、言い間違い、嘘、冗談など、言葉が原因で関係が悪くなっている。そこでは
言葉はコミュニケーションの手段ではない。これは、カーヴァーの、言葉に対する不信の
表れである。前期の作品に描かれるコミュニケーションは、言葉、時間、空間を超えた、
絶対的コミュニケーションである。カーヴァーにとって世界は偶然や運によって左右され
不安定であったため、絶対的な繋がりが必要だったのだ。
「大聖堂」においても言葉を超えたコミュニケーションが見られる。しかし、コミュニ
ケーションによって一体化するということは、アイデンティティーからの逃避とも言える。
前期の作品との相違点は、登場人物のコミュニケーションが肌と肌が触れ合っている点と、
語り手の心が次第に変化していく様子を描いている点である。
後期の作品では、登場人物たちが言葉でコミュニケーションをしている。絶対的なコミ
ュニケーションはないが、登場人物がより人間らしく描かれており、心の触れ合いがある。
前期の作品では、コミュニケーションをしている当事者たちは、実際に触れ合うことがな
かったが、「大聖堂」では、肌の触れ合いがあり、さらに後期の作品では、心の触れ合いが
見られる。カーヴァーは「大聖堂」で人間らしさや心の触れ合いを描くことに目覚めたの
だ。さらに、前期の作品のオープンエンディングとは異なり、後期の作品には結びが存在
するが、それは諦めとも言える、なげやりな言葉で終わっている。一見消極的なこの結末
は、しかしアイデンティティーからの逃避とは違って、積極的な解決であると考えられる。
《諦め》は、彼の小説において、周りで起こる全てを受け入れるという意味をもつ。カー
ヴァーは「大聖堂」以降の作品で、登場人物の内界と外界のコミュニケーションを描いた
のである。
2004 年度卒業生
3
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
生方
美沙
アリス・ウォーカー『カラーパープル』研究
セリーの自立―
creativity
への道―
アリス・ウォーカーの『カラーパープル』の主人公セリーの自立の要因は、彼女が次第
に獲得していった”creativity”という能力にあると考えられる。“creativity”という概念は、
批評家 M. Teresa Tarvomina がその著作の中で使用したものである。しかしながら彼女は
それを生得的なものと考えており、しかもその本質や具体的な意味を明らかにしていない
ことから、筆者の考える“creativity”とは異なるものと理解される。本論文の目的は、本来
セリーに欠落していたこの“creativity”の本質を明確にすることにある。
第1章では、セリーと技芸(キルト作りやズボン作り)の関係に焦点を当てる。彼女が
それまでの生活から、技芸を始め、それによって生計を立ててゆくようになるまでの経緯
を考察する。そしてそこから、普段の生活において彼女に欠落していたと思われる「思考」
の重要性を導き出し、それが“creativity”の重要な要素であると主張する。
第2章では、セリーが新たな「神さま」の像を確立するに至る、その宗教観の変遷を考
察し、そこから「認知すること」や「自発的な試み」という要素が、新たな神の像を創造
するために必要であり、これらの要素は「思考」と共通性があることを論証する。
第 3章 では 、 前章 で検 証 した “creativity”の 本 質 をよ り明 確 なも のと す るた めに 、
“creativity”の対立概念として“image”を提唱する。“image”は無意識のうちに刷り込まれた、
個人を束縛する慣習や固定概念の総称であり、セリーがそれを打破し“creativity”を成熟さ
せてゆくことと「思考」との間には密接な関係があることを証明する。
以上の考察より、“creativity”の本質であり、セリーに欠落していた要素は「思考」とい
う最も人間らしい行為であったことが判明する。「思考」は彼女自身の中で曖昧にしていた、
あるいは意識の外にあった問題を浮き彫りにさせ、自己定義を確立させる。そして、その
「思考」を兼ね備えた彼女の“creativity”は、他者への理解をも可能にさせるのである。そ
れは黒人の文化遺産である「共有する心」の獲得であり、作った衣服は仲間に贈り、身に
付けた新たな宗教観は黒人全体、特に夫への理解に繋げることによって、セリーはその力
を彼女の属するコミュニティーに還元させることに成功しているのである。以上のような
意味で、『カラーパープル』における“creativity”とは「人と人とが繋がってゆくこと」で
あると理解することができる。
2004 年度卒業生
4
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
江口 里美
A Study of Toni Morrison’s Beloved
—Aspects of the Human Desire—
トニ・モリスンは黒人作家として黒人の生活や環境を作品にしてきた。しかし、彼女の
作品の真のメッセージは、黒人/白人という観点で捉えきれるものではなく、もっと別の
ところにあるのではないか。『ビラヴド』においては奴隷主から逃げた主人公セテの子殺し
が物語の中心であるが、モリスンはここで奴隷制の苦しさを描くだけでなく、人間が生き
ていくうえで忘れてはならないことを指摘しているようである。それは何か。A・マズロ
ーの理論を援用しながら、登場人物の心情や言動から探っていく。
まず白人奴隷所有者の
先生
とガーナー氏をとりあげる。二人は全く違うやり方で奴
隷たちを扱う。 先生 は奴隷を酷使し、人間として扱うことはない。一方、彼の前任者の
ガーナー氏は、奴隷たちを一人前の人間として扱っていた。そして奴隷たちは彼を信じて
いた。このようにガーナー氏のやり方は、 先生 のそれとは違って、一見温厚なようにみ
える。しかしじつは、奴隷を所有したいという欲望を持っている点では、 先生 となんら
変わるところがないのだ。彼らは奴隷を所有することで名誉や尊敬を得ていたのである。
セテと彼女の奴隷時代の仲間であるポールDにも似た欲望が見られる。セテの場合、そ
れは子供を自分のものにしようとすることであり、その結果が子殺し、そして生き返って
きたビラヴドへの献身となって現れる。またポールDにおいては、セテを愛するがゆえに
自分のものにしたいという欲求が表れ、それがビラヴドやデンヴァーの存在のために満た
されずに、もがき苦しむ。
さらにセテの子供たち、デンヴァーやビラヴドも同じ欲望を持っている。デンヴァーは
ビラヴドに対して、ビラヴドはセテに対して、自分の思い通りになってほしい、自分のも
のであってほしいと望むのだ。しかしそれが叶うことはなく、彼らもまた苦しみにさいな
まれる。
このように『ビラヴド』の登場人物たちは、誰かを所有したいという欲望をもち、その
欲望が彼らの関係を作り出し、そこに苦しみが生じている。人間が忘れてはならないもの、
それは人間が持つこの欲望の恐ろしさである。モリスンは登場人物の描写を通じて読者に、
彼らもまた同じ欲望を持っているかもしれないこと、そしてデンヴァーとポールDのよう
にその恐ろしさに気づき、うまく向き合っていかなければならないことに気づかせようと
しているのだ。
2004 年度卒業生
5
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
奥村
栄美
アンジェラ・カーター研究
―現実とフィクションの融合―
アンジェラ・カーター(1940-92)は、マジック・リアリズムの手法を用いた作家とし
て知られている。現実的な描写の作品に、夢や幻覚などの非現実的な場面(フィクション)
を取り入れるのだが、それらの場面もまるで現実に起こっているかのような鮮明さで描く
のである。このような特徴をもつマジック・リアリズムの手法は、カーターの作品にどの
ように反映されているのか。彼女の作品における現実とフィクションの関連性について考
察する。
作品中で、フィクションを体験する人物たちには共通点がある。彼らはいつも周りの環
境に対して孤独感や疎外感を抱いており、自分はそこから外れた存在だと感じている。社
会から与えられる「∼として」「∼らしく」という役割に見合った自分でいようとするのだ
が、それが自分の本心に反するものであるため、葛藤が起こりうまくその役割を演じきれ
ない。このような状態になったとき、彼らは周りの環境から外されたと感じてしまうので
ある。このような登場人物が夢や幻覚などの非現実的な場面を体験する。彼らはこの瞬間
に社会の役割から解放された自分という、別の一面を発見する。そして現実世界で感じる
疎外から目を背けず、それを乗り越える勇気を与えられるのである。
人は無意識にも自分や他人にこうあるべきという役割を与えることで、互いの社会的立
場を確定し、その枠組の中で安心感を得る。このような枠組がないと不安定に感じる現実
とは対照的に、フィクションの世界は、現実ではありえない話と割り切って考えられる安
定したところである。カーターの作品に登場する人物は、フィクションの世界に入ること
で自分自身のアイデンティティーを確認し、安定感を得る。彼女の作品において、フィク
ションの世界は現実とはかけ離れたものではなく、自分の存在を確認するために必要な要
素なのである。カーターはこのような人物を描く一方で、現実世界の決められた枠の中で
生きることで安心する者も描く。役割が存在する世界でも、それから解放されるフィクシ
ョンの世界でも、各人にとって自分の存在意義を見つけられるのならばそこは安定した場
所となる。このようなところでしか安心して生きていけない無力さこそが人間らしい部分
なのであり、その人間らしさを現実とフィクションという二つの世界を混合しながら露呈
させることでカーターの作品はより現実味をおびたものとなるのである。
2004 年度卒業生
6
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
小野
朝葉
A Study of Fools in Tudor Britain
―The Origin of an Artificial Fool and His Raison D’être―
イギリスにおいて、道化はテューダー朝後期のシェークスピア劇の中でその魅力を最大
限に発揮する。その道化たちは、生まれつきの阿呆ではなく、阿呆を装う「職業道化」で
ある。シェークスピア劇に登場する職業道化の起源は、どこにあったのか。また、初期の
道化はどのような性質を持っていたのだろうか。
シェークスピア劇における職業道化は、決して阿呆なわけではなく、むしろ権力者や社
会を嘲り、また人を笑わせることができるくらい賢く、柔軟性に富んでいる。彼らは既存
の価値観を破壊することで人々の思考を刺激し、人々が普段囚われている様々なルールか
らその発想を解放する。それはつまり、いったん全てのルールを破壊し、秩序を崩壊させ
ることで、より調和的空間をつくり出すということである。道化は何者にも規制されない
自由さ、つまり、不安定さを持つ多義的要素の塊であり、それが人々を惹きつける理由だ
と言える。しかし、中世のイギリスでは、シェークスピア劇に登場するような道化の存在
は見られない。それは中世のキリスト教思想において、職業道化の持つ「笑い」という要
素が「悪」と考えられていたためである。しかし、ルネサンス・ヒューマニズムの影響に
より、中世のキリスト教的価値観は人間中心的・現世的価値観へと移行する。そして、ヒ
ューマニストが著書の中で全ての阿呆に対しての寛大な見方を示したことが、人間の愚か
さを意図的に表現する職業道化を社会が受け入れるきっかけとなったのである。このよう
な変化のあったテューダー朝初期の演劇の中で、ヴァイス(悪徳)という登場人物がシェ
ークスピア劇における道化と同じ役割を持つ。ヴァイスは、他の登場人物たちを揶揄した
り、けなしたりしつつも、結果的に状況をよい方向へ導く。これは先で述べたような、カ
オス(混乱)からコスモス(調和)をつくり出す職業道化の性質と類似している。
これまでの考察から、職業道化的存在としての始まりは、テューダー朝初期の演劇にお
けるヴァイスだということがわかる。中世キリスト教の強い束縛から逃れ、「悪徳」という
完全な意味を持たず、曖昧で多義的な性格になった後も、ヴァイスは人々の悪を肩代わり
することによって彼らに「善」を与える。シェークスピア劇の道化の起源と言えるヴァイ
スは、曖昧な性格を持ち、秩序を破壊した後でより調和的な状態をつくり出すという点に
おいて、立派に職業道化としての機能を果たしていたのである。
2004 年度卒業生
7
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
風間
絵美
近代イギリスにおける女性
−「女性」の再構築
−
イギリスの女性たちが、陰あるいは周縁という社会の埋め合わせとしての存在から、明
確に社会構造の中に組み込まれていくようになっていく変化を「女性」の再構築の過程と
し、およそ 19 世紀前後をその変化が起こっていった時期として、その過程の背景にある
要因を求めて考察した。
女性が社会の中で自分たちの属する場所を獲得した最大の要因には、宗教思想を背景と
した家庭重視イデオロギーによる影響が考えられる。男性は公的領域に属し、女性は私的
領域に属するという意識を持ち、家庭における理想的な道徳の実現を目的として、女性に
私的領域すなわち家庭の中の役割を担わせた。女性の役割と観念的な女性らしさが明確に
され、社会の中での「女性」の存在意義が検討されるようになった。「女性らしさ」と理想
的な私的領域の実現のために、女性は慈善活動などを通して公的領域をもその手段として
いくようになり、女性が福祉というものを公的領域に持ち込んでいくようになった。
経済的理由で公的領域において労働しなければならない女性たちにも「女性らしさ」は
適用されていった。道徳的観念から外れない「女性らしい有償労働」が求められ、女性た
ちが不道徳にならないよう労働や労働条件に対して議論が行われるようになった。「女性
らしさ」は私的領域で果たされるべき性質であったが、公的領域にも在籍する女性たちが
無視されることなく公的領域の枠組みの中へ組み込まれていくための道具ともなった。
産業革命以後の資本主義体制の導入、機械化・工場化といった変化は、労働市場という
公的領域における女性の位置づけを明確に示した。工場制の下で雇用者から一労働者とし
て雇われる存在となった女性たちは、利益を追求する資本主義体制の犠牲となって劣悪な
労働を強いられ、労働者の最下層に位置づけられた。「最下層」の女性労働者と「女性らし
さ」を追求する女性たちとの結びつき、雇用される労働者として同じ立場に立つ男性との
結びつきによって、それぞれ社会構造の中で縦と横の協調が生まれた。
こうして社会の中での「女性」の存在が明確に認識されるようになると、それまで隠さ
れていた社会構造のもう半分が新たな構成員として加えられえるようになり、「男性」と
「女性」、あるいは公的領域と私的領域は、両者の相互介入が可能となった。そして、自覚
を持った「女性」の存在が社会へ直接影響を及ぼしていけるようになった。
2004 年度卒業生
8
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
岸 美香子
リチャード・ライト『アメリカの息子』における盲目
黒人抗議小説の先駆者の一人とされているのが、リチャード・ライトである。ライトの
作品の多くは黒人の犯罪を扱っているが、中でも最も読者に衝撃を与えたのが、『アメリカ
の息子』である。この小説の主人公ビッガー・トーマスは、黒人に友好的な白人女性メア
リーと自分の恋人ベッシーを殺害する。では、ビッガーに罪を犯させた原因はいったい何
であろうか。
ビッガーの犯罪という『アメリカの息子』の主題を、小説の背景を踏まえた上で、登場
人物たちの物理的・精神的「盲目」に焦点を当てて考察する。
第1章では、『アメリカの息子』の舞台となる 20 世紀初頭のアメリカにおける黒人の立
場、そして作者リチャード・ライトの人生を確認し、第2章ではビッガー以外の登場人物
を分析する。そして第3章ではビッガーの犯罪の原因とその犯罪が彼に与えた影響につい
て考察する。
先行研究では、ビッガーの犯罪の原因は、ビッガーの白人に対する「恐怖」であると論
じられている。しかし、「恐怖」はあくまでも瞬時的なものであり、根本的な原因はビッガ
ーに「恐怖」や「憎悪」を感じさせる登場人物たちの「盲目性」にある。黒人差別を運命
として受け入れている黒人、ただ白人に憧れているだけの黒人、酒や宗教に頼ることで現
実逃避する黒人、黒人を自分たちの活動のために利用しようとする共産主義者、そして偽
善的な博愛主義者と、登場人物は皆「盲目」なのである。そして、それはビッガーも例外
ではない。ビッガーもまた、他人と向き合うことができないという点で「半盲」であると
言える。しかし、ビッガーは自分の力でそれを克服し、罪を犯すことで一人の人間として
の自分を見つける。つまり、ビッガーは「半盲」の状態から抜け出し、成長を遂げたので
ある。
『アメリカの息子』の登場人物たちは、一個人としてではなく、アメリカ市民を分類し
た場合の各グループの代表として描かれている。それゆえに、ビッガーの犯罪の原因であ
る登場人物の「盲目」はアメリカの「盲目」と言え、アメリカ社会の「盲目」によって引
き起こされたビッガーの犯罪は、アメリカの国家的な罪なのである。そのため、たとえビ
ッガーが死刑になったとしても、アメリカという国全体の本質が変わらなければ、再び別
のビッガーが別のメアリーやベッシーを殺害するのである。
2004 年度卒業生
9
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
久島
薫
J.M.ホイッスラーにおけるジャポニスム
私は、ヴィクトリア朝イギリスで活躍した、J.M.ホイッスラーという画家について、ジ
ャポニスムという観点から考察した。彼は、唯美主義者の先駆けとして有名であり、ダン
ディーな服装とその派手な行動で目立った画家である。また、画業においても他の追随を
許さず、独自の道を開拓してゆく画家であった。彼は積極的に日本の美術品から美的な要
素を吸収し、それを作品にあらわした。それゆえ、先駆的な日本趣味の画家といえる。彼
のような日本趣味、またはその影響のことを、ジャポニスムという。ジャポニスムの定義
は、日本的なモティーフを作品に導入することから、日本の美術に見られる原理の応用ま
で、幅広い。典型的なジャポニスムの画家としては、印象派が有名である。フランスの印
象派の画家たちは、日本の浮世絵から、構図や、自然の描写などの影響を受けた。ホイッ
スラーも、初期の作品には浮世絵から影響を受けたと思われる作品がある。しかし、後期
に描かれた風景画、〈ノクターン〉という作品群については、浮世絵だけではなく水墨画の
ようなイメージが感じられた。ホイッスラーには、表面的な日本美術の模倣にとどまらな
い、さらに深い日本美術への理解と共感があったのではないか。そのような日本的なイメ
ージが〈ノクターン〉のどこから醸し出されるものなのかを、考察した。
以下に、その具体的な方法を述べる。日本的な美意識と西洋的美意識の違いを考察する
ために、当時のヴィクトリア朝の典型的な風景画を挙げ、〈ノクターン〉と比較した。そこ
で、当時の美意識とホイッスラーの美意識の異なった点を示した。また、実際の日本の水
墨画と比べることによって、日本の芸術との類似点を指摘した。最終的には、風景という
画題そのものについて考察し、描くということが人間の心象にどう関わってくるか、画家
が風景を絵にする時の態度の差異を考察した。
以上のような考察であきらかになったのは、ホイッスラーは〈ノクターン〉でそれまで
の西洋にはないような、主観的な自分を発見していたということである。それまでの西洋
絵画は客観的なリアリズムに徹していた。そこでホイッスラーは違いを見せた。また、そ
の主観性は〈ノクターン〉のなかの空間処理の方法などにみられる。そのような主観性に
よる美意識は、日本の水墨画に見られる美意識と共通したものである。
私は、ホイッスラーのジャポニスムが〈ノクターン〉において達成され、それはヴィク
トリア朝という時代の必然性を伴った、日本的な美意識の発見であると結論づけた。
2004 年度卒業生
10
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
佐藤
綾香
ジェーン・エアにおけるポストコロニアリズム
−Charlotte Brontë の二面性−
シャーロット・ブロンテの作品ジェーン・エア(1847)は時代によって読み方や研究方法
に移り変わりがある。多くの批評家によってフェミニズムの観点から読まれているが、作
者シャーロット・ブロンテはフェミニズムを意識していたのであろうか。しかし、批評家
たちはフェミニズムにこだわりすぎて、作品評価がシャーロットの意図とは違うものにな
ってきているのではないか。
ジェーンとバーサは正反対のキャラクターとして描かれているが、ある批評家はバーサ
がジェーンのもっとも恐ろしい分身として描かれているという考えを表した。バーサがジ
ェーンのしたいと思うことをやってしまう、バーサの行動の中に、ロチェスターや父権制
社会の圧力に対する怒りや反抗を読み取った。シャーロットは、バーサを登場人物の中に
加えることで、父権制社会が規定する女性像に反抗する女性としてジェーンを描くことに
成功したと考えられている。しかし、ヒロインを中心に考えるあまり、実は、バーサを道
具として扱ってしまっていた。ジェーンを父権制社会に反抗させるために、植民地の女性
(クレオール)を描き出してしまい、ジェーンを被害者ではなく女性を道具として扱う加
害者として描いてしまったのである。ジェーンはイギリスの帝国主義を支え、父権制社会
の一員として捉えられてもおかしくない。
第一章では、ロチェスターをシンデレラストーリーの王子様のような存在として見ても
よいのかを問う。ロチェスターと青ひげの物語の主人公青ひげをとりあげる。また、火事
の場面を考察し、ロチェスターの特徴を明らかにする。第二章では、ジェーンとバーサを
見ていき、2人とフェミニズムとの関係について考察し、新しい見解へとつなげていく。
以上のようにみてくることで、シャーロット自身が父権制社会から完全に脱却しきれて
いなかったことがわかる。大英帝国によってもたらされたシャーロット自身の固定観念は
消えていないのにも関わらず、女性の権利を主張する主人公を描いたシャーロットの想像
力は計り知れないものであった。この作品は我々読者に男性と女性の問題だけでなく、人
間社会全体についての問題を考えさせてくれる。弱者を登場させることにより、自分の立
場を上げる、人間の弱さのせいで人間がしてしまう誤ったこと、我々人間が簡単に消し去
ることのできない固定観念まで、我々が考えなければいけない要素がジェーン・エアには
含まれているのである。ジェーン・エアは多面的な奥深さをもった作品であるとともに、
作者シャーロットの二面性までも垣間見ることができる作品である。
2004 年度卒業生
11
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
佐藤
翔悟
Woodrow Wilson の「秩序」と平和主義
本論文では革新主義時代のアメリカ大統領である Wilson の政治思想を研究した。
非民主的国家、民主的に未成熟な国家に、自ら民主国家の模範たるアメリカが手を差し
伸べ自由を享受させること。その上で、帝国主義という政策上の過ちを国家指導者である
Wilson が修正したときに初めて、アメリカの外交政策が「自由の幇助」として正しく評価
された。なぜなら Wilson が自らの政治的目標を達成しようとする際の、最も根本的な前
提として成立していなくてはならないものが「国家の健全な状態、国民の健全な状態の保
護のための政府による人道的奉仕」であるからだ。「国家の健全な状態、国民の健全な状態
の保護のための政府による人道的奉仕」の有無が、その国家の性質において”the good”で
あ るか ”the evil”で あるか を決定 付け る最も 根源 的な要 素で ある。 その ”the good”た
る”democracy”を流布させることができる力をアメリカ合衆国は備えており、またそうす
ることがアメリカの力の正しい使い方であるとともに、それがアメリカ合衆国の「存在意
義」となる。「国家の健全な状態、国民の健全な状態の保護のための政府による人道的奉仕」
という観点からすると、メキシコの軍事独裁体制、ドイツの皇帝専制政治のどちらも
Wilson にとっては”the evil”であるはずのものである。まず Wilson は、ラテンアメリカと
いう存在をかなり特別なものと見なしている。アメリカ合衆国がパナマから永久租借権を
得たのは 1903 年 11 月、Theodore Roosevelt 政権の時である。まず確定していることは、
Wilson は当時のメキシコ政権、Victoriano Huerta を認めてはいなかった。少なくとも、
Wilson はメキシコ国民に対して”the evil”という位置づけをしてはいない。そして Wilson
は、ドイツ軍の行為に憤りを感じているが、ドイツ帝国自体にそれに比するほどの悪感情
を持っているとは考えられないのである。ドイツの場合、中立国の船舶に攻撃を与えたド
イツ軍隊が”the evil”にあたり、それ以外は”the good”、少なくとも”the evil”以外と捉えて
いるのだ。これまで、Wilson の国家の性質における”the good”か”the evil”かの判断は、「国
家の健全な状態、国民の健全な状態の保護のための政府による人道的奉仕」の有無に依拠
すると述べてきた。そして帝国主義的膨張志向は、明らかに”the evil”であると彼は断じて
いる。アメリカ国内においては、これは疑いないであろう。なぜなら、それ自体が国家存
立の「自由」を奪う行為だからである。彼は、”democracy”であるための、”the good”であ
るための根本的な要素である「国家の健全な状態、国民の健全な状態の保護のための政府
による人道的奉仕」の頒布によって「自由の幇助」というアメリカに課せられた使命を果
たそうとした。彼が「理想主義者」であるとは、「理想主義者」として政治判断をしていた
2004 年度卒業生
12
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
とは言えないのである。彼の国際連盟の提唱は、むしろ現実主義的な思考から生み出され
た。それは世界の安全保障をラテンアメリカ諸国とアメリカ合衆国間から世界単位に拡大
したものと言えるのではないのだろうか。
2004 年度卒業生
13
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
佐藤
祐子
J.F.ケネディとキューバ・ミサイル危機
概要
第一章では、キューバ・ミサイル危機勃発に至るまでの、アメリカとキューバの関係、
ソ連とキューバの関係について述べている。なぜ、アメリカとキューバの関係が悪化し、
キューバ危機が起こったのかについて考察している。そして、ソ連が関与し始めた背景な
どについても考察している。
また、ピッグス湾事件について述べている。このピッグス湾事件は、アメリカがキュー
バに侵攻し、カストロ政権を倒すために計画されたものである。この侵攻作戦は失敗に終
わるが、この失敗は、キューバ危機におけるケネディの采配に影響していると考えられる。
第二章では、キューバ危機が勃発してからのアメリカを中心に考察している。
まず、ソ連がミサイルをキューバに導入した理由について述べている。次に、キューバ
にミサイルが配備されていると発覚した、10 月 14 日からの、ホワイトハウス内の決定に
ついて考察している。
危機解決のために召集された、エクスコムという会議のメンバーと、ケネディ大統領が、
どのようにして数々の決定を下したのかについて考察している。また、その際に、大統領
がどのくらい、実の弟であるロバート・ケネディに頼っていたのかについて考えている。
そして、ケネディが戦争を出来るだけ起こさないような解決方法を望んだのは、何が関係
していたのかについても、考察している。
第三章では、ケネディ宛に届いた、フルシチョフの 2 つの書簡について、考察している。
フルシチョフからは、2 つの書簡が送られてきていて、1 つ目は、フルシチョフ本人が書
いたもので、2 つ目は、ソ連政府からの公式なものであるとされている。それらは書かれ
ていた内容も異なっていた。ケネディ大統領と、エクスコムのメンバーたちは、これらの
書簡について、どのように考え、どちらの書簡に対して回答したのかということについて
考察している。
また、危機解決後の、カストロの反応にも注目している。
2004 年度卒業生
14
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
島軒
A Study of Clara Barton
かおり
– as a true altruist and pioneer –
Clara Barton は 19 世紀のアメリカにおいて多大な功績を残した。彼女は、
戦場の天使・アメリカ赤十字の創設者として知られている。Clara は慈善家としてま
た開拓者として評価されている部分が大きいが、幼い頃の彼女は内気で臆病な性格の
持ち主であった。しかし、小さい頃から人のために尽くすことを生きがいとし、人の
ためには信じられないほどの行動力と積極性を見せるのであった。のちの活動では、
自分の体を犠牲にしてまでも人の苦しみを取り除こうと懸命に活動を行っていくのだ
った。小柄な彼女のどこにそのような力があったのだろうか。
複雑な家庭環境の中で育った Clara は人の目や評価を気にするあまり、あり
のままの姿を他人に見せることがまれであった。また、彼女自身の偉大な功績のため
に彼女の暗い部分があいまいになってしまい、本当の彼女を理解するのはとても難し
い。しかし、彼女がとった行動や活動を通して、彼女がどのような人間で、最終的に
何を目指していたのか垣間見ることは可能であろう。この論文では、Clara の幼い頃、
南北戦争での活動、普仏戦争での体験、赤十字との出会い、それをアメリカで創設し、
23 年間にわたり赤十字で活動を続けた、という彼女の人生をたどり、Clara という人
間を探ろうと試みた。
Clara の活動全てにおいて、彼女がなんの野心もなく救済活動に励んでいたと
は言い切れないが、彼女が活動を行ったのは、自己満足ということ以上に自分の存在
を人々に知ってもらい評価してもらうため、もう一方では、自分の愛する国の人や苦
しんでいる人を助けたいという強い気持ちがあったからであろう。そしてどんなとき
も、自分の身体がボロボロになるまで働くのは、他の研究者が言っているようにその
内気さや臆病さを克服するためであった。そして彼女が最終的に目指したのは、「慈善
の心」の連鎖であった。Clara が他の人に尽くすことで、相手にも慈善の心が伝わり、
同じように苦しんでいる人がいたならば助けてあげようという、他人を思いやる気持
ちを広げたかったのだと思う。
Clara は組織をまとめる者としての能力に欠けている部分があったが、開拓者、
また慈善家としては素晴らしい人間であった。19 世紀というヴィクトリア期において、
2004 年度卒業生
15
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
女性が男性とともに働いていくのはとても大変なことであった。しかし、彼女はどん
なときも差別と自分自身と闘い続けてきた。そして、自分が正しいと思ったことには、
後ろを振り返ることなくまっすぐに、そしてあきらめることなく突き進んでいったの
である。
2004 年度卒業生
16
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
鈴木 麻衣子
アンブローズ・ビアスの死生観
アンブローズ・ビアスは、人間の
死
をテーマにした数多くの作品を残した。彼はア
メリカの作家としては比較的まれな兵役経験者であり、従軍した南北戦争において数々の
人間の死を目の当たりにし、主にその経験が彼の作品に独特の世界やさまざまな形の死を
生みだした。ではそのようなビアスの死生観とはいったいどのようなものだったのだろう
か。彼の代表作である『悪魔の辞典』と数編の短編小説の中に見られるそれを、彼の生い
立ちと照らし合わせながら検証していく。
初めに『悪魔の辞典』に見られる死生観を考察する。この作品の中でビアスはさまざま
な単語に彼なりの定義づけを行なっているが、なかでも“life”の定義は注目に値する。とい
うのは彼の死生観に結びつくと思われる多くの単語とその定義が、最終的に何らかの形で
この定義に結びついていると考えられるからだ。そしてここでの考察の結果見出される死
生観とは、《人は肉体を人生の中に漬けておくことによって生き、人生を喪失することによ
って人は死ぬ》というものである。
次に短編小説の中からビアスの死生観を見出す。「哲学者パーカー・アダソン」の、将軍
と死について語り合う場面における一連のスパイの言葉、なかでもとりわけ“dissociate
the idea of consciousness from the physical forms”という言葉が、ビアスの死生観に深く
結びついているように思われる。そこでこのスパイの考え方を、他の短編小説に見られる
考え方と比較してみると、《肉体に意識が入ることによって人は生き、意識を失うことによ
って人は死ぬ》という死生観が導き出される。
以上のように、『悪魔の辞典』からは 人生 と 肉体 、短編小説からは 肉体 と 意
識
に焦点を当てた死生観が見出される。この両者に共通して言えるのが、肉体という物
質に何らかの要素が加わることによって人は生き、その喪失で人は死ぬという、物質とし
ての肉体の独立性とそれに加わる精神的要素の存在という見方である。そしてこれこそが
ビアスの死生観の根本概念にちがいない。
2004 年度卒業生
17
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
須田
江梨子
A Study of WutheringHeights
―――Catherine as a voice of Emily Brontë―――
1847 年、ロンドンで出版された小説『嵐が丘』は母娘二世代にわたる長編小説である。
初代ヒロインである Catherine Earnshaw は疾風怒濤を巻き起こす「嵐」のような女性で
あると言える。『嵐が丘』の著者 Emily Brontë は、1818 年、閑散とした静かな土地ハワ
ースで働く清貧な牧師 Patrick Brontë の四女として生まれた。彼女は非常に内気な女性で、
家族以外の者には滅多に心を開かなかった。 『ジェーン・エア』の著者として知られる姉
の Charlotte Brontë ですら、Emily のことを理解しかねるときがあったほどである。そ
んな彼女が何よりも愛したものは「自由」だった。彼女は自由が奪われるたびに拒食を続
けた。彼女は自分で自分を完全に統御したかったのである。その徹底ぶりは凄まじく、死
ぬ直前まで医者による診察や薬を拒み続けた。統御することを望んだのは自分自身だけで
はなく、家族や犬の Keeper にも支配力を示した。そして彼女は毎日のように死者の眠る
墓地を眺めながら、死後の世界に思いを馳せていた。彼女にとって死は終わりを意味せず、
死者の魂は生者に対して良くも悪くも影響力を持っていると信じていたのである。一方、
Emily によって創造されたヒロイン Catherine Earnshaw はどのような人生を歩んだのだ
ろうか。 Catherine は幼い頃から「女」であることに嫌悪感を覚える。家父長制にも真っ
向から反抗し、父親を苦しめることに悦びを感じていた。家父長制に反抗しているのにも
拘らず、世間体に打ち勝つことができなかった Catherine は結婚し、妻の立場から自由に
なれないことに苦しみ続ける。追い討ちをかけるように妊娠し、母となってしまう。全て
から「自由」になるには死ぬしかなかった。Catherine は拒食して死んでゆく。死んで「自
由」になった Catherine であるが、Emily は彼女の魂に生者を支配する力を与えた。
Catherine は生前、Heathcliff を散々傷つけ振り回し、彼を思い通りに動かしていた。彼
女は死後もなお彼を支配し、ついには彼を自分の世界に引き込んでしまう。つまり、彼を
死へと導くのである。以上述べてきたことから分かるように、Emily と Catherine の思想
は酷似している。Catherine は Emily の代弁者なのである。Emily は Catherine を描くこ
とによって思いのたけをぶちまけた。彼女たちが求めたことは、自分自身のみならず周り
の者たちをも「支配」することだった。そうすることによって、男と同等の力、あるいは
男をしのぐ力を得ることができたのである。
2004 年度卒業生
18
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
関谷
The First World War and British Citizens
貴子
―The Changeable Identity of Tommy Atkins’―
第一次世界大戦が勃発したとき、イギリスでは多くの男たちが志願兵となった。労働者
階級出身の兵士の多くにとってはこれが初めての戦争だったのだが、何が彼らを戦争に駆
り立てたのだろうか。
イギリス人はそもそも、国を支配する階級と、支配される階級の二種類に分かれていた。
後者だった労働者階級は支配者に対し、自らの権利のために抵抗運動をすることによって、
そのアイデンティティを確立していった。それは例えば教育の場に表れ、中産階級の価値
観を押し付ける学校に対して労働者の子供たちが抵抗をする光景がよく見られたという。
労働者の間では一方で、ジンゴ・ソングと呼ばれる愛国的な歌が人気を集めていた。ボー
ア戦争が始まる直前の 19 世紀末には、トミー・アトキンスという架空の兵士がその歌詞に
登場する。労働者階級であるトミーは同じ階級の者たちの親近感を得る一方で、この時期
に徐々にイギリス庶民の心に植えつけられていったイギリスの理想を象徴してもいた。彼
らのアイデンティティとイギリスの理想を同時に背負っていたトミーは、「イギリス労働
者階級の理想」を表していたのだろう。
ボーア戦争が終わった後ジンゴ・ソングの人気は落ちたが、トミー・アトキンスはポスタ
ーの中に再び現れた。しかしここでは労働者の要素はなく、イギリスの理想ばかりが強調
されていた。これによって労働者たちの「イギリスの労働者」としてのアイデンティティ
は「イギリス国民」としてのそれに変えられ、彼らはその理想を背負って戦争に参加した
のである。
労働者たちの愛国心は彼らのアイデンティティとともに変化した。そしてそのアイデン
ティティは、政府に対する抵抗によって民主的な社会の実現を果たしたという彼らの自負
に支えられていた。自らの意思で動くことが、彼らにとって何よりも重要だったのだ。
2004 年度卒業生
19
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
相墨
渚
A Study of Muriel Spark
−An Analysis of Memento Mori−
この論文では、ミュリエル・スパークの作品の一つ、『死を忘れるな』を中心に論じ、
この作品の題名「Memento Mori=死を忘れるな」とはどういう意味なのかということに注
目する。
「死を忘れるな」という言葉は、国や文化、宗教等によって受け取られかたが違う。こ
こではスパークがカトリック教徒であることから、カトリックの死生観からその意味解釈
を求めた。カトリックの死生観は簡単に言うと、「死は生の単なる終わりにすぎない」と考
え、死に対して特に恐怖は感じないということである。カトリック教徒にとって死は常に
身近なものである。身近にあるから、死後、肉体は人間にとって何の効力もないというこ
とを常に感じている。人間は普通でないものに対して恐怖を感じる生き物であるから、死
が身近にない人にとって死は恐怖であり、さらに腐敗などを伴う汚い肉体は、嫌悪の対象
となる。そのような死を恐怖と考える人たちはそれから逃げ、何か別のものに関心を向け
ることで不安から解放されようとする。一方死を「単なる生の終わりにすぎない」と、あ
る意味受け入れることができている人たちは、死の瞬間まで生を思いきり生きることがで
きる。
『死を忘れるな』に出てくる登場人物は、上に示した、死を受け入れることが出来る人
と出来ない人という2つにわけて考えることができる。なぜスパークはこの2つを描いた
のだろうか。彼女がカトリック教徒であることを考えれば、「死を受け入れることが出来る
人」を強調するためにその逆の特徴を持つキャラクターを登場させたと考えることが出来
る。しかしながら、ここでもう一度「死」ということに視点を移すと、「死」は誰も体験す
ることが出来ない未知のものであるから、やはり誰にとっても不安なものであるのではな
いだろうか。そう考えると、スパークにとっても「死」はカトリック教徒として「受け入
れるべきもの」でありながら、やはり心の中には「受け入れられないもの」という考えや、
また「死に対する不安」も持っていたと考えることは妥当である。つまり、スパークの作
品に現れる2種類の登場人物たちは、彼女の死に対する葛藤の表れなのである。彼女は「死」
を作品に描くことで、死を考え、自らを死に立ち向かわせようとしたのである。
2004 年度卒業生
20
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
細貝
蘭
A Study of The Catcher in the Rye: As a Bildungsroman
サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、16 歳の少年が直面する成長への
葛藤というテーマから、Bildungsroman(教養小説)として扱われている。これまでに、
主人公ホールデン・コールフィールドの成長について、さまざまな研究が行なわれてきた。
それらは成長を遂げたという意見と全く成長していないという意見の大きく二つに分けら
れる。しかし、ホールデンの成長はこのように両極端な解釈しかできないのだろうか。本
論文では、このような疑問に基づき、ホールデンの成長を再検討する。
第1章ではホールデンの性格を分析し、特に彼が口癖のように使う“phony”という言葉
に注目する。ホールデンがいつ、どのように、そしてなぜこの言葉を使うのかを考察する
と、彼は大人の世界に対し批判的であり、逆に子どもの世界を大事に思っていることが明
らかになる。その思いから彼は、作品のタイトルでもある“the catcher in the rye”になり
たいと願うようになったと思われる。
第2章ではこの夢について考察する。すると、ホールデンは実は子どもたちを「つかま
えたい」のではなく、誰かから「つかまえて欲しい」と願っていることが明らかになる。
さらに、大人の世界に批判的である反面、実は自分も大人の世界に仲間入りしたいという
矛盾した気持ちを抱いていることも判明する。ホールデンはこの大人の世界に入りたいと
同時に子どもの世界にとどまりたいという葛藤から自分を「つかまえて」くれる人を探す
べく、さまざまな人々と積極的に関わっていくのである。
そこで次にホールデンと彼の周りの人々との関係を分析する。まず第3章では大人との
関係に焦点をあてる。だが、彼はやはり大人とはうまくいかず、ますます不信感を抱くよ
うになってしまう。第4章では子どもとの関係に注目する。大人には幻滅させられると思
ったホールデンは子どもの世界、特に妹フィービーと亡くなった弟アリーに頼る。しかし、
ホールデンは子どもたちに対し、徐々に自分の嫌いな大人の態度で接するようになり、結
局彼は自分を「つかまえて」くれる人を見つけることはできなかったことが明らかになる。
このようにホールデンは、自分を助けてくれる人を探す過程の中で、子どもは大人への
成長を避けられないことに気づき、また自分はそれを妨げてはならず、見守ることが大切
であることを学ぶ。しかし、彼自身の葛藤は解決しておらず、まだ大人と子どもの世界の
狭間にとどまっている。つまりホールデンの成長は両極端に言い切れるものではなく、成
長した面と成長していない面の両方があるというのが本論文の結論である。
2004 年度卒業生
21
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
本合
真美
『オセロー』研究
∼
nothing
に託したイアーゴーの欲望∼
私は、シェイクスピアの Othello(以下『オセロー』)について研究しました。従来は、
タイトルにもなったムーア人のオセローが主人公であり、且つ、彼が悲劇を被った人物で
あると考えられてきていましたが、私には寧ろ、一般的に悪人とされるイアーゴーの悲劇
であるように感じられる作品でした。そこで、イアーゴーの悲劇という視点から『オセロ
ー』を論じました。
今回の研究は、イアーゴーは劇中長々と台詞を発しているのにも関わらず、彼が最後だ
とわかっていて発した言葉は、 Demand me nothing: what you know, you know: / From
this time forth I never will speak word.
(ⅴ.2.302)であることに、私自身が意外性を感
じたことが始まりです。そして、彼のこの最後の台詞、特に
nothing
に着目して、こ
の台詞に隠された真意は何か、をメインテーマにもってきました。
イアーゴーがその最後の台詞に至るまでには
界を考察すると、 jealousy
jealousy
の世界が存在します。その世
とは、一般的に言われている「嫉妬」ではなく、「疑い」で
あるという結果がでました。これは、オセローの人物像「一途」に green-eyed monster
honest
が拍車をかけたこと、イアーゴーの人物像
に着目した結果、出た結論です。
そして、この jealousy の世界における彼のレトリックこそが、まさに nothing ま
でのプロセスであるので、 jealousy が「疑い」であることを前提に、彼の言動を見てい
きました。その結果、『オセロー』における
nothing
味であることにたどり着きました。 honest man
というのは、 honest man
の意
という存在は、イアーゴーにとっては
復讐のために創り上げられ、且つ自己防衛のために創った仮の姿であるゆえに、本来の
honest においては、実際彼の中では nothing 「いなかった」のです。
このように考えたとき、イアーゴーの最後の台詞の真意は、彼の「自尊心を守りたい」
とか、「優越感を感じていたい」という
honest な欲望を受けつつ、その欲望のために
honest を知られたくない、見せたくないという気持ちが込められた台詞であることが
わかります。そして、彼はその気持ちを
nothing
結論を導き出しました。
2004 年度卒業生
22
という仮の姿に託したのだ、という
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
森山
あゆみ
A Study of Seamus Heaney
A Meaning of a Poet’s “Death” and His Rebirth in Death of a Naturalist
シェイマス・ヒーニーの最初の詩集『ある自然児の死』について論じる。この詩集では
ヒーニーの詩人としての礎と、アイルランド人であるというアイデンティティの確立とい
う二つのベクトルの絡まりを見ることができる。まず疑問にあがるのはこの詩集のタイト
ルである。初の詩集であり、詩人としての第一歩を飾るこの詩集にあえて「死」という暗
澹たるイメージを伴う語句を入れたのはどういう意図を含むのであろうか。ヒーニーの独
自の「死」の概念に迫りたい。また死んだ代わりに生まれたものは何か。そのために「自
然児」の意味も考えていく。
「自然児」は「自然を愛する人」という意味にもなるし、「自然と一体化する人」とい
う意味にもなる。ヒーニーもまた自然と一体化したいという願望はあるようだ。だからこ
そアッシジの聖フランシスを理想の人として掲げ、彼が鳥たちに愛について説教したとい
う場面を聖フランシスの作った最もよい詩と褒め称えている。彼の北アイルランドに生ま
れたカソリック教徒というジレンマを伴う生い立ちによっても自明なように彼は、さまざ
まなジレンマを抱えている。自然と一体となって暮らしたいにもかかわらず、鋤を捨てて
代わりにペンでもってアイルランドの大地を耕そうとしている。これらのジレンマは彼の
詩に大きく関わってくる。
おそらく彼は「死」という作用を否定的ではなく肯定的に見ている。「死」は今までの
世界に混沌を引き起こし、調和をもたらし、より上質な世界へと導く役割を担っている。
「バター作りの日」ではまさに「死」のメタファーが見られる。このように混沌とした世
界から調和の取れた上質なものを抽出するのが「死」の作用である。また「予防駆除」に
見られるように、「死」はまた、古いものや濁ったものを浄化するという作用も持っている。
ヒーニーは「死」を当たり前のこととして受け止めている。
最後にヒーニーのアイルランド人としてのアイデンティティについて読む。彼は政治的
な問題に後の詩集で取り組み、この最初の詩集では触れていないとされるが、その萌芽は
はっきりと認められ、随所に彼のアイルランドへの想いを感じる。彼は自分の身の回りの
身近なものに詩のテーマを見てきたが、詩集の最後ではこれからは自分の心の暗闇を見つ
めると宣言している。これは彼の詩人としてのマニフェストであり、アイルランド人とし
ての宣言でもある。
2004 年度卒業生
23
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
山内
真理
ケイト・ショパン『目覚め』研究
ケイト・ショパンの代表作である『目覚め』は、夫の所有物から、「魂」と「肉体」を兼
ね備えた個人へと「目覚め」る一人の女性の姿を描いた作品である。主人公は「目覚め」
たあとも、さまざまな葛藤を抱えており、最終的には自ら海に身を投じるという選択をす
る。この主人公を「自殺」に駆り立てた要因、すなわち彼女の葛藤の本質を理解すること
によって、女性が自我に目覚め、個人として生きようとするときに何が障害となるのかが
浮き彫りになるものと考えられる。本論文では、作品に頻出する「魂」と「肉体」という
単語に注目しながら、主人公エドナ・ポンテリエ夫人の「目覚め」の過程を考察したあと
で、彼女の葛藤の本質を検証していく。
第1章では、「目覚め」る以前の主人公の心理状態を考察する。第2章では、R・W・エ
マソンの思想と照らし合わせながら、彼女の「目覚め」の過程を見ていく。エマソンの思
想と照らし合わせて考察する理由は、作品中に主人公がエマソンの本を読む場面が登場し
ており、何よりも自己の精神を優先する彼の思想は、個人として生きるエドナに大きな影
響を与えたものと考えられ、さらに彼の唱える「精神」と「物質」の関係は、『目覚め』に
おける「魂」と「肉体」の関係を考察していく上で有益であると考えられるからである。
第3章では、「目覚め」たエドナが感じている葛藤を、ほかの登場人物に対する彼女の態度
から考察する。第4章では、そのエドナの葛藤の本質、すなわち彼女を「自殺」に追い込
む要因を明らかにする。
主人公は、芸術家として、妻として、母として、女性として、さまざまな立場において
葛藤しているが、そのなかでも母としての葛藤が、彼女を「自殺」に駆り立てた最大の要
因であるというのが本論文の結論である。エドナは、実際にお腹を痛めて出産した母親と
して、子供たちを愛する気持ちはありながらも、「目覚め」てしまった以上、家父長制社会
における母親としての役割を演じることはできない。彼女は現代の用語では「ジェンダー」
という概念に当てはまるものと、個人としての自我との狭間で葛藤しているのである。
女性にとって出産は、自分の人生を変えてしまう可能性を持つ重要な経験である。女性
の一生を考える上で、出産という経験を避けて通ることはできない。この作品は、エドナ
個人の葛藤に留まらず、女性が自立する上で障害となる普遍的な問題を提示しているので
ある。
2004 年度卒業生
24
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
吉岡
美緒
アイダ・B・ウェルズ研究
リンチは初期のアメリカにおいて、犯罪者を制裁するための手段として広く利用されて
いた。そして19世紀末、主に南部社会において多くのアフリカ系アメリカ人が白人の暴
徒によって殺された。当時「アフリカ系アメリカ人が白人女性を強姦している」という噂
が流れており、南部の白人は法の裁きではなく「リンチ」という制裁を与えることによっ
て強姦を食い止めようとした。そしてそのようにして、リンチは南部社会で正当化された。
しかしそれは全く事実無根で、下劣な嘘だった。アフリカ系アメリカ人は、1863年に
リンカン大統領が奴隷解放宣言を発布して以来、奴隷の身分から解放された。つまり南部
白人は、解放された黒人が対等の地位を得ることを恐れ、彼らを再び低い地位へ押し止め
るための手段としてリンチを利用したのである。
アイダ・B・ウェルズはその噂が間違っていることを証明するために勇敢にも立ち上が
り、強姦及びリンチを詳細に調査した。そして彼女は反リンチ運動を開始したのである。
黒人に対するリンチなどの不正義と闘う道へと、ウェルズを突き動かしたものはなんだっ
たのか。彼女の不正義に対する考え方、実際にそれとどのように闘ったのか、自伝を読み
ながら検証し、ウェルズの人物像に迫るのが本論の目的である。
第一章では、ウェルズの両親や子供時代に言及し、両親の不正義に対する考え方や教育
が彼女にどのように影響を与えたのか考察している。加えて、彼女が初めて差別という不
正義に直面した事件を取り上げている。これは彼女が不正義と闘っていくことを人生の課
題としたきっかけとなる事件である。
第二章では、実際にどのようにして不正義と闘ったのか、そしてどのようにして反リン
チ運動を成功させたのか述べている。また、運動が成功した理由がどこにあったのか、当
時の英米関係を検証した上で解明している。
第三章では、黒人差別の問題に関してウェルズと異なる見解を持っていたために対立関
係にあったブッカー・T・ワシントンという人物の思想に迫っている。両者を比較するこ
とによって、ウェルズの活動の限界がどこにあったのかを考察することが、この章の目的
である。
リンチは完全に無くなることはなく、多くのアフリカ系アメリカ人が黒人差別に苦しん
できた。1965年、アフリカ系アメリカ人は公民権を獲得したが、差別は未だになくな
っていない。しかしウェルズが反リンチ運動を開始したことによって、リンチの数は次第
に減少した。さらに、NAACP(全国黒人向上協会)が反リンチ運動を受け継ぎ、多大
2004 年度卒業生
25
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
な成功を収めた。ウェルズがこの運動を始めなかったら、さらに多くのアフリカ系アメリ
カ人がリンチの犠牲になっていたに違いない。ウェルズの活動全体を通して認められるの
は、彼女はいつでも自分を犠牲にして困っている人を助けるために生きていたということ
である。つまり、隣人愛の精神が活動の原動力となっていたのだ。黒人の地位向上を目指
して闘ったウェルズの姿勢は賞賛に値するものであり、黒人の歴史に名を刻む人物である。
2004 年度卒業生
26
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
涌井
高志
カズオ・イシグロ研究
――異性愛主義とクイアな欲望――
カズオ・イシグロは現在(2005 年 1 月)までに 5 作の長編小説を発表している。その 5
作品はすべて一人称の語り手によって語られるのだが、彼らには総じて同性愛指向が強く
現れているのではないだろうか。彼らは自らの性的指向について、何の疑いもなく「異性
愛者」として認識しているようであるが、その一方で彼らの語りからは彼らの同性愛指向
が読み取れる。なぜそのような同性愛指向が語られるのだろうか。
A Pale View of Hills (1982)の語り手エツコは「友人」サチコに強い執着を示している。
しかし、その感情がエツコによって説明されない。そこにはサチコに対するエツコ自身も
消化できないサチコへの同性愛的欲望があるのではないか。
An Artist of the Floating World (1986)の語り手オノはかつての教え子クロダに対して
犯した罪に苛まされながらも、それを自らの戦争責任という罪とすり替えて、クロダへの
罪から目を背けようとした。そこにはクロダへの同性愛的欲望があるのではないか。
The Remains of the Day (1988)の語り手スティーブンスに執事としての品格を忘れて
涙を流させるほど強い感情の発露をもたらしたのは、彼の主人ダーリントン卿への同性愛
的欲望なのではないだろうか。
The Unconsoled (1995)の語り手ライダーの将来の姿を暗示する指揮者ブロツキーは元
妻ミス・コリンズとのセックスにおいて水夫を必要とする。ブロツキーは水夫に犯された
いという願望を持っていたのではないか。
When We Were Orphans (2000)の語り手クリストファーが唯一その弱さを見せること
ができたのは幼馴染アキラだけであった。そこにはクリストファーのアキラに対する同性
愛的欲望が見られるのではないだろうか。
ここまでで、それぞれの語り手たちに強い同性愛指向が見られることが確認される。そ
の一方で実際には彼らは孤独を恐れて、「異性愛主義」的な家族形成を目指すが、結局孤独
になってしまう。それでも彼らはその後の人生を前向きに捉えようとする。どのような心
境の変化が起こったのだろうか。ここで再び彼らの同性愛指向に注目したい。すると彼ら
の同性愛的欲望の対象との関係は、実際の家庭での性的役割と逆転していることに気づく。
同性との関係における役割を、抑圧された性愛への願望と見るとき、彼らは「家族」から
解放され「個人」になったことで「男性/女性」という枠組みから解放され「個性」とし
て生きることができるようになったのではないだろうか。
2004 年度卒業生
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卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
渡邉
美和
Lexical Semantic Representations and English Verbs
英語の動作動詞には、その意味が拡大して動作と移動を表す動詞として使われるという
現象がある。この論文では、動作を表す動詞の中で、どの種類の動詞が移動の意味を表す
ものとして使われることができるかを調べる。その際、Levin & Rappaport (1995)の動詞
の分類を使って、それぞれの種類の動詞が移動の意味を示すことができるかどうかを調査
した。英語の移動・変化を表す動詞は、状態変化と場所の変化のいずれかを表すが、ここ
では場所の変化のみに焦点を当てていくことにする。動作を表す動詞の意味が動作と移動
に拡大するという現象を調査し、その基準を明らかにしていく。動詞の意味が移動を含む
まで拡大するとき、”PATH”(道筋)の概念が動作を表す動詞に組み込まれることが語用論的
に重要であることを示す。
まず、英語の動詞の分類の中で、音を放出する動詞があるが、音を表す動詞は移動の意
味を示すことができる。なぜなら、音は基本的に移動に付随すると考えられるからである。
次に、においを放出する動詞は、移動を表すものとして使われることはできない。なぜな
ら、においは、基本的に移動に付随していると考えられないからである。このように、音
を放出する動詞とにおいを放出する動詞の間には、動詞の意味の拡大において顕著な対立
が見られる。次に、興味深い種類の動詞である物質を放出する動詞に注目する。物質を放
出する動詞も条件により、移動の意味を示すことができる。しかし、同じ動詞でも移動の
意味を示すことができる場合とできない場合がある。この動詞が移動の意味に拡大される
かどうかは、語用論的にその動詞が日常で”PATH”と結びつきやすいかどうかによると考
えられる。その例は動詞 bleed である。まず、”He bled to the hospital.” の例文では、動
詞 bleed は移動の意味にまで拡大することができる。なぜなら、血を流すということは、
病院へ行くという”PATH”に日常的に結びつきやすいからである。これに対して、*”He bled
into the room.” の例文では、動詞 bleed は移動の意味に拡大することができない。なぜな
ら、この場合、血を流すということは、部屋へ入って行くという”PATH”の意味に日常的
に結びつきにくいからである。
動詞の分類に従って、動詞が移動の意味を含むまで拡大できるかという調査をした。明
らかになったのは、動作を表す動詞が”PATH”(道筋)と組み合わされ、語用論的に日常生活
で移動の意味と結びつくかどうかという基準があると結論を下した。
2004 年度卒業生
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