剣と杯(1988-1-24) 先週は、同じく 77 歳になられまして天に召されました

相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
剣と杯(1988-1-24)
イエスはこれらのことを語り終えて、弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれ
た。そこには園があって、イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。イエスを裏切
ったユダは、その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったこ
とがあるからである。さてユダは、一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役ど
もを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやってきた。しかしイエスは、
自分の身に起ころうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、
「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言わ
れた、
「わたしが、それである」
。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。イ
エスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地
に倒れた。そこでまた彼らに、「だれを捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナ
ザレのイエスを」と言った。イエスは答えられた、「わたしがそれであると、言ったでは
ないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」
。それは、
「あな
たが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた
言葉が、成就するためである。シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭
司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルコスであった。する
と、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、
飲むべきではないか」
。
(ヨハネ福音書 18:1-11)
先週は、同じく 77 歳になられまして天に召されました二人の姉妹の葬式のた
めに、私どもの教会と江古田教会に参りました。いずれも長い信仰生活のうえ
で天に召された方々であります。こういう事柄につきましては、いろんな機会
で申し上げることがあろうかと思います。また、皆さん方の心の中にも様々な
思いがよぎられることと思いますが、今日は、昨年の 11 月から、イエス・キリ
ストが十字架を前にいたしまして、弟子たちとの最後の晩餐を終えて別れの言
葉を語り、そして天の父なる神に祈った、そういう祈りを学んでまいりました
が、いよいよ主がゲッセマネの最後の逮捕される場面に向かわれる、その人生
のクライマックスに至る個所について、御一緒に学ぶことにしたいと思います。
私どもは、このイエス・キリストの弟子たちに対する別れの言葉、そして最
後は神への祈りの中に、
“如何に弟子たちに対する思いが深いか”ということを
学んだのであります。
三年間の一緒の生活。先生と呼ばれ、弟子と言われた交わりがここで一旦切
れるわけであります。そのことを予感された主は、残された弟子たちがどんな
歩みを辿るか…。心配でないと言うとこれは嘘になるのでありまして、やはり
気がかりであった。ただ元気で幸せであれば良いというだけでなくて、将来、
イエス・キリストの証人として立たせられる彼らへの思いが様々に交錯する中
にあたりまして、それをハッキリと確認するまでに至らない中に、ゲッセマネ
の園に向かおうとするわけです。
主イエスのそういう思いの中に、別れの寂しさとか不安とか、それ以上に、
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相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
“今、自分が果たさなければならない神の栄光のための献身の志を、一層ここ
で弟子たちに明確にしなければならない”というのが、心底の主イエスのみこ
ころではなかったかと思うのです。
18 章の一番最初に、「イエスはこれらのことを語り終えて、弟子たちと一緒
にケデロンの谷の向こうへ行かれた」
(18:1)。このケデロンの谷の向こうという
のは、オリブ山であります。実際に行ってみますと、オリブ山というのはそん
なに大きい山じゃないんですね。
エルサレムがシオンの丘の上に建っているところから、一旦降りまして、ケ
デロンの谷へ。日本では谷間と言うと何か非常に深い感じがしますけれど、そ
んなに深いものじゃないのです。それを渡って登りかける、その中腹にオリブ
の木がたくさん植わっておりまして、オリブの林と言った方がいいですね。そ
の林の中にちょっと平らなところがあって、ゲッセマネと言われる園がある。
そこは採取したオリブを絞ってオリブ油を作るという場所になっているわけで
あります。そこに主イエスは度々お出でになって祈られていたわけであります
が、最後の祈りの場とされ、そこに向かわれたのであります。
この 18 章の初めは、これを前との続きから見ますと、14 章の最後で、
「立て、
さあここから出かけて行こう」というところがありますから、この 18 章の始ま
りは 14 章の終りに続くものと見ることが、一番自然なわけです。その間に、い
ろんな弟子たちへのお話であるとか祈りが入って来ているわけです。
これは聖書の学問の上では、錯簡(さっかん)問題ということで、いろいろと論
議のあるところであります。元来、これはパピルスで書かれているわけですか
ら、風で飛んでですね、そこが一枚飛んで順序が狂ったんじゃないだろうかと
いう偶然説を唱える人もいますが、あるいはそうかも知れません。いずれにし
ても、今日私たちが読むものは、14 章に 18 章が繋がっているんじゃなくて、
15、16、17 章があって、18 章となっているのです。そして御承知のように、こ
の聖書の第何章何節というのは、だいぶ後になって便宜上付けたものでありま
す。そのページが飛んでしまったものですから、このような形になっています
けれども、内容からしてみますならば、そう問題があるとは思われません。
「立て。さあ、ここから出かけて行こう」(14:31)と言うのは、ひょっとして
最後の時を待つということじゃないだろうか。イエス様は自ら、ここから出発
しようという、その主の呼び声に弟子たちが応えて一緒に出かけたということ
です。
そしてその途中、みんな非常にシュンとしまして、口を開くこともみんなた
めらって、じっとしていたというんじゃなくて、これはマタイに依りますと、
一同は讃美歌を歌って出発をした(マタイ 26:30)。何か出陣式のような感じ、ち
ょうどこのときは過越しの祭りでありますから、多分、過越しの祭りに詣でる、
エルサレム神殿に参るという歌が歌われたんじゃないか。つまり詩篇ですね。
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相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
詩篇が歌われてみんなが元気よく出かけて行った。たぶん弟子たちは、いつも
のように先生がお出かけになるということで、それ以上にあまり深いものを考
えなかったのかも知れません。
とにかく一同は、この詩篇の讃美歌を口ずさみながら、エルサレムの東側に
南北に走っているケデロンの谷、ここにはちょろちょろと水が流れているので
すが、それを渡りまして、対岸のオリブの山に参ったのであります。今はオリ
ブの山に登りましてエルサレムの市街を見渡すのでありますが、ここでは逆に、
エルサレムのシオンの山からオリブ山に進んで行ったのであります。
ここはマルコ福音書では、地上での最後のゲッセマネの園での祈りが為され
る箇所であるのですけれども、不思議なことと申しますか、ヨハネ福音書には
ゲッセマネの園での苦悩に満ちた祈りが記されておりません。マルコでもマタ
イでも非常に詳しく記されているのです。ペテロ、ヨハネがすっかり眠りこけ
ているのに、主イエスが苦悩に満ちた祈りを捧げている。そういう状況を私た
ちは、主イエスのゲッセマネの園の祈りとして、深く心にとどめて読むことが
出来るのでありますが、ここではそういう事柄が出て参りません。
じゃどうなっているかと申しますと、全体を貫いて、主、自らがこの十字架
を担おうという、そういう意欲に満ちた姿が非常に印象に残るわけです。
この 4 節を見ますと、
「しかしイエスは、自分の身に起ころうとすることをこ
とごとく承知しておられた」…。非常に意外なことがそこで起こったというん
じゃなくて、かねがねこういうことが起こるだろうということを自分で良く承
知しておられた。しかも自分を逮捕しようとする大勢の一隊の兵卒と祭司長、
パリサイ人たちの送った下役どもと言いますと、何か5人や 10 人じゃなくて、
数十人、百人に近いような人員がどっと押し寄せて来たのです。たった一人の
主イエスを逮捕するために、これだけの大勢の人を繰り出してやってきた物々
しさに比べて、イエス様はちっともたじろがずに、「進み出て彼らに言われた、
「だれを捜しているのか」」…。
イエス様の方からそのように問うているわけです。そこで彼らは、
「ナザレの
イエスを」と答えた…。“我々はイエスを逮捕しに来たんだ”。そうしましたら
イエス様は、
「わたしが、それである」と自ら名乗ったのです。暗いんですから、
顔もよく分からない。どこのだれなのか、前にいるのか後にいるのか、真っ暗
ですから見分けがつかない。
持って参りました、たいまつと言いますか、オリブ油を燃やしたもので顔を
見分ける。そこで顔を見分ける役を果たしたのが、あのイスカリオテのユダで
す…。
“この人に間違いない”こう言ってくれたわけでありますが、そのことに
ついては、ヨハネは触れておりません。ただイエスを裏切ったユダも彼らと一
緒に立っていたと、積極的にその役割を述べております。
「イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろ
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ヨハネ 18:1-11 剣と杯
に引きさがって地に倒れた」(18:6)…。逃げ腰でいるんじゃないかと思ったの
に、積極的に“あなた方が一生懸命に捜して逮捕しようとするのは、このわた
しだ”と、こう言われた気迫に飲まれた、そういう場面がここで感じられます
ね。
それでもう一度、主イエスは彼らに「だれを捜しているのか」とお尋ねにな
ると、彼らは「ナザレのイエスを」と、ここでも繰り返して間違いないように、
“イエスを我々は捜して逮捕しようとするのだ”と。そうしましたら、イエス
様はここでまた繰り返して、「わたしがそれであると、言ったではないか」と、
こう念を押しているのです。
このところを見ますと、ゲッセマネの園でのイエス様の逮捕ということの意
味は、あのマタイ、マルコ、ルカに比べますと、非常に捉え方が違っていると
言うのでしょうか…。
マタイやマルコやルカ福音書では、
“神様、わたしがここで十字架に付くこと
が本当にあなたのみこころでしょうか。わたしが十字架に付くということは、
本当にあなたのために必要なのでしょう。わたしは十字架に付くということは、
好みませんけれども、しかし、これがあなたのみこころでしたら、どうか、あ
なたのみこころのままにしてください”と、たいへん人間として苦悩に満ちた、
しかも、信仰によって打ち勝った祈りを捧げているわけですね。
ところが、このヨハネ福音書では、そういうイエス自身の人間的な苦悩、あ
るいはそういう苦悩の祈りというものが記されておりませんで、積極的にその
苦悩を引き受けられるという、そういう姿が非常に印象的であります。
日頃私たちは、マタイ、マルコ、ルカのイメージに慣れておりますと、つい、
このヨハネが語るイエス様の十字架に立ち向かう姿勢というものを見失いがち
であります。そしてまたその共観福音書、マタイ、マルコ、ルカ、この三つの
書に書かれているイエスの姿に、非常に私たちは共鳴を禁じ得ない。人間的な
同感と言いますか、そういうものを感じるわけですが、しかし、ヨハネはそう
いうようなイエスの姿を表してはいない。これはどうしてなんだろうか…。い
わゆる良く書こうとしたんだろうか…。
たぶんこれはそういう動機からではなくて、
“このイエス・キリストは神から
遣わされた独り子である。神のお遣わしになった、人と成り賜うた神でいまし
賜う。その方が、十字架の贖いとして栄光を神に帰する。そういう場に当面し
たのである”という信仰から、
“止むを得なく、仕方なしに”というんじゃなく
て、
“積極的に自分の使命を果たされる”という観点から、この福音書をヨハネ
が書いているためではなかろうかと思うわけです。
つまり、こういうものは既に、前から伏線があるのでありまして、例えば 16
章の一番最後に「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平
安を得るためである」。そして、「あなたがたは、この世では悩みがある。しか
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ヨハネ 18:1-11 剣と杯
し、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(16:33)…。この、
“わ
たしは既に世に勝っている”という観点から、このゲッセマネの園のイエスと
いうものを、再解釈し捉えているのです。
どっちが本当でどっちが作文か、といった問題ではなくて、これが同時にあ
るというところに、私は福音の豊かさというものを、あるいは福音が持ってい
る、決して単細胞的な発想じゃなくて非常に複雑な捉え方。イエス・キリスト
の十字架に対する接し方とか、あるいは捉え方、受け止め方というものがある
んじゃないだろうかと思うのです。
「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい」…。
その勇気というのは、から元気を出すというんじゃなくて、
“イエス様が既に
世に勝っていらっしゃる。世の罪を負ってそれを克服し、死の力に勝利をなさ
っていらっしゃる”ということを、あなた方がこころの内にハッキリと捉えた
ならば、私たちが受けている悩みというものは相対化される。絶対的なものと
はとうていならない。確かに悩みがある、無いとは言っていない。けれども、
その悩みこそ、それは敗北の印ではなく神に栄光を帰する一つの印なんだ。あ
るいは、イエス・キリストに属する者の業であると、こう証しているわけです。
これは、マタイ、マルコ、ルカより積極的な信仰のアッピールであると私は思
うのです。
このような書き方をヨハネがするということの背後には、やはり紀元 1 世紀
の終わり頃の教会の姿というものを考えざるをえないのです。ヨハネが書いて
いるのは、決して 20 年、30 年前のことをただ忠実に書いているんじゃなくて、
そこにメッセージを持って書いているのです。単なる昔の歴史を紐解くんじゃ
なくて、その時代に対するイエス・キリストの持つメッセージを新しく告げよ
うとしているわけです。
有名なベートーベンの第九、年末になるとよく取り上げられるわけですけれ
ども、
“苦難を通して喜びへ”というのがテーマです。ですからあれを歌うのに
みんな元気が出るわけですね。何か下町の芸者さんまで第九を歌おうという時
代です。芸者さんもきっと元気が出るんでしょう。みんなと一緒になってあれ
を歌うと、何となしにですね、自分だけが苦しんでいるというそんな感じがし
なくなるわけです。みんなも苦しんでいる。しかし、苦難を通しての喜び、素
晴らしいことじゃないだろうか…。その喜びというのは何かと言うと、これは
やはり人生の喜び、
“私たちの人生の喜び”という、あくまでも私たちのという
条件が付くわけです。
ここのヨハネ福音書のテーマを第九流に表現し直しますと“苦難を通して栄
光へ”、これがテーマなんです。
“喜びへ”じゃないんです、
“栄光へ”…。やは
りクリスチャンはもっとですね、この点を本当に確実に捉えることが必要なん
じゃないだろうかと思うのです。
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相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
苦難を通したらその先にうれしい良いことがある。それではベートーベンと
同じです。それを歌う芸者さんなんかと同じですね。けれども主イエスは、
“苦
難を通して喜べ”ということだけを言っているんじゃなくて、そういうケース
ももちろんありますけれども、
“苦難を通して神に栄光を帰する”というところ
にまで至らなければならないということを明確に御自身が証をしている。これ
が、ヨハネ福音書が語るイエス様のゲッセマネです。ですから他の福音書と違
うのです。事実を歪曲して書き直したんじゃないんです。イエス様の十字架の
意味を更に深めた、深く捉えたのです。
ヨハネの主イエスの受難というのは、あるいは十字架の考え方というものは、
これはただ単に苦しいとか悩みとかいうものがあるけれども、そういうものを
担って身代わりになられたというだけにあるんじゃなくて、それは神から与え
られたところのものであって、そのことを通して、人間ができるとか、あるい
は経験が深められるというんじゃなくて、
“神に栄光を帰されることだ”とこう
受け取っているのです。
我々の日常の生活の中で、色んな苦しみがありますね。お金がない苦しみと
言うのは、近頃はあまり感じなくなったようでありますけれども、お金がない
ということも辛いことですね。この前、御岳が原のホスピス、末期医療をして
いる病院からアンケートがまいりました。日本で一番最初にこういうガンでも
う数ヶ月しか持たないという方を受け入れて、そして本当に平安のうちに天に
召されるようにということを心がけた、そういう特殊な病院であります。さら
に充実するために、こういうアンケートが牧師のところに来たのだろうと思い
ますけれども、それを見ていますと、やはり人間、最後になって一番こころに
残るものというものは、
“金がない、どうしようか”ということじゃないですね。
そういうことじゃなくて、あるいは不安で仕方がないとか、死ぬことが怖いと
いうことも勿論ある、無いとは言いません。
書かれている順序とかパーセンテージを見ますと、人間というものは、最後
において、希望を持って病気と闘って、そしてそこに真実の平安があるという、
あるいは身内の者がやさしい態度を取ってくれるということ、そういうことが
とても大事であるということが分るわけですね。ですから病人につっけんどん
に当たるということは、病人の命を縮めさせてしまうことにもなるわけです。
病人が病気であることは止むを得ないとしても、
“生きていて良かった、あり
がとう”とこう言えるというのは、やはり自分の身近にいる人たちが、本当に
優しく接してくれるという、そのことがたいへん大事なんですね。立派な設備
の中に何不自由なく居させてもらっているということは、2,3,4 番目と後の
方の順序になるわけです。当事者にとりましては、それが例え立派でなくった
って良いんです。そうじゃなくて、一番大事なものが何であるかということを
良く知って、こころ優しく接してくれるという方が身近にいるということ、こ
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相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
れが最上の喜びなんです。そういう喜びがあるならば、苦難に耐えられる。痛
みに耐えられる。私はそのアンケート用紙を見ていまして、色々と考えさせら
れるところがあったのです。
人間はこの苦しみというものから免れることはできない。そして、その苦し
みというのは、自分が悪いんじゃなくて、客観的にそういう状況の中で引き起
こされた苦しみというものや、悩みというものが多いわけです。けれども、そ
ういう苦しみを通して喜びに至るというのは、よほど出来た人間じゃないとな
かなかこれは難しいと思います。
ベートーベンはあまり出来た人とは思えません。これは手紙などを読んでみ
ますと極めて人間臭い人であったわけですが、しかし、彼自身、最後は高めら
れてここまで行ったわけであります。私たちはキリストを知る者として、いろ
んな自分に与えられた苦難、苦しみ、自分が別に悪いわけでもなくて、たまた
まそういう状況に置かれたときに、それをどう受け取って担って、あるいは克
服して行くかという時にですね。苦難を通して喜びに、というものには、私は
限界があるだろうと思います。これは不可能です。
信仰的に、神が私に与えて下さっているものは、やはりイエス・キリストが
辿られたように、この苦難は同時に神の栄光への奉仕であるという、その点を
見失わなければ、私たちには力が与えられる。勇気が与えられる。それが無け
れば、結局私たちは、そういう色んな苦しみ、悩みに耐えることは出来ない。
こちらが病気になったりしてしまうということになって、我々の人間性自体が
破壊してしまうということにもなるわけですね。
この苦難を通して人々のあがないにとか、苦難を通して人々の苦しみを分か
つという、こういう次元も非常に大事であると思いますけれども、しかしヨハ
ネは、それだけではどうしても解決しないというものをハッキリと見ていたん
じゃないでしょうか…。それは最終的には、この苦難を我々が受けるというこ
とは、その苦難は神様の栄光を期する業であると、こう信仰的に受け取ること
によって、その苦しみを、仕方が無いとか、止むを得ないというんじゃなくて、
喜んで神様から与えられたものとして受け取る。
イエス様自身が自分を逮捕しに来た者に対して、
“お前たちが逮捕しようとす
るのは、このわたしだ”と、ハッキリと明言しているのです。明言したことは、
これはもう逃れることはできないものです。そしてそこに、主イエスはしっか
りと立っているのです。
その場合でもここでヨハネは、ユダについて沈黙をすることをしておりませ
ん。2 節にも「イエスを裏切ったユダは」と、それから 5 節にも、
「イエスを裏
切ったユダも、彼らと一緒に立っていた」…。みんなが志を一にして、
“その苦
難を栄光のために”ということになるかというと、ならないわけです。必ずそ
こには、イエスを裏切る人が立っている。しかもここでは弟子です。十二弟子
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ヨハネ 18:1-11 剣と杯
の中の会計という大役を担っているユダが立っている…。
自分たちが受けている苦難を通して、神様の御栄のためにやろうというとき
に、みんなの気持ちが一致するかと言うと、必ずしも一致しない。一番大事な
人が一番反対をするということです。駄目だという場合があるのです。
そういう場合であっても、イエス・キリストは、“お前あっちへ行け”とか、
“お前のようなものは弟子じゃない”とは言わなかった。そういうものを含め
て、人間さまざまです。しかもユダは最後までイエスの弟子のような形でここ
に立っている。私たちはそのことを覚えなくてはならないのです。
イエスの弟子だから、同じ信仰を持っているからと言って、自分と同じよう
に考えてくれると思ったら、これはたいへん甘いことだと思うのです。まった
く違った考え方の人が、一番近くにいる。そういうことは不思議でも何でもな
くて当然なことです。けれどもイエス様は、“苦難を通して神様の栄光を現す”
ということに、全然たじろいでいらっしゃらない。そのたじろがないで最後ま
でそれを神のみこころと、喜んでそれに服従したということを通して、十字架
があり、その十字架は神の栄光のために役に立った。
イエス様の名を高めたというんじゃないんです。ぜんぜんイエス様の名は高
められなかった。最後には神の子であるから、不思議な業を為して、みんなを
アッと言わせるようにするだろうと、みんな期待していたのに、期待外れで何
事もそこに奇跡は起こらなかった…。
奇跡が起こらなかったということは、神のみこころであり、神の愛であり、
また、神に栄光を帰する道であったということです。これは大変厳しい道です。
けれどもしかし、主の歩み続けられた道は、そういう道であったわけです。
10 節を見ますと、シモン・ペテロ…。ユダに続いて名前が出て来るのはペテ
ロであります。逮捕する人がイエスを捕まえようとしてやってきた。弟子たち
はたいへんビックリしただろうと思います。こんなことに突然なると思わなか
ったんで、つい思わず持っていた護身用のナイフというか短剣ですね、短剣を
抜いてイエスを逮捕しようとする大祭司の僕に切りかかった。そうしましたら
手元が狂って耳を切り落とした。
昨日、久しぶりで、NHK の大河ドラマ武田信玄を見ていました。武田信玄が
お父さんに切りつけられるところがありますよね。そしたら、手元が狂って手
を切られてそこから血が出るということがありました。実際、歴史的にあれは
本当かどうか知りませんが、非常に緊迫感がある面白いドラマだと思います。
親と子の非情な、そこに厳しい確執と言いますか、生き方の違いというものが、
狂気なお父さんと、また冷静な非常に人間性を備えている息子のギャップとい
うものが良く出ているのです。人間は最後はですね、例え親子であっても、そ
ういう刀で決着をつけるということが起こって来るわけですね。
この場合のシモン・ペテロは、どうして刀を抜いてそういうふうに切りつけ
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相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
たかと言うと、とっさの場合の衝動的だと思います。よくよく考えて、
“さあ抜
くまいか抜くべきか、それが問題だ”と、こういうドラマじゃないですね。根
が真っ正直なこのペテロでありますから、とっさの場合に、つい彼は持ってい
た短剣を引き抜いて、そして大祭司の僕、不思議なことに名前まで書いてあり
ますね。マルコスという名前です。マルコスに斬りかけた。
そうしましたらイエス様は、ペテロに、
「剣をさやに納めなさい。父がわたし
に下さった杯は飲むべきではないか」(18:11)…。たいへんこう冷静なのに私た
ちは驚くわけです。
“父がわたしにお与えになった杯は飲むべきではないか。飲
まなくてはならないものだ”ということですね。
ペテロは、何とかして先生のピンチであるということで、ここで刀を抜いて、
逮捕しようとする、飛びかかって来るその敵に斬りかかったわけです。手元が
狂いましたけれども、彼の先生を思う気持ちというものが非常に良く出ていま
すね。けれども、先生を思う気持ちが必ずしも先生の意志ではないということ
です。
このとっさの場合ということは、非常に気になることですね。何かあった場
合、とっさに反応するとき、どういう反応をするか…。
“剣に立つ者は剣にて滅
びますよ”ということは、確かに彼は聞いていたはずですね。少なくともそう
いう生き方を強いられていたはずです。
ところが、先生が大変だというときに刀を出して、これ、刀で戦えるかどう
かと言ったら、ぜんぜんこれは喧嘩にも戦争にも成らないぐらい、始めからこ
れは負け戦です。例え彼がマルコスを殺したにせよ、他の人たちによって捕ら
えられて引き立てられる。ペテロも殺人罪に問われて一緒に連れて行かれるは
ずです。けれどもとっさの場合に、彼は先生を守らなければならないという気
持ちでやったんでしょう。彼の行動というのは、とっさの場合には、あまり信
仰的じゃないですね。皆さん方も良く気を付けられた方が良いとおもうのです
けれども、このとっさの場合にあんがい本音が出て来るというんですかね、日
頃、信仰が非常に深い人が、とっさの場合になるとそうでないものが出て来る。
いろんな場合もあります。とっさの場合というのは、私たちはみんなお互い
に愛し合っていなければならないと言いますけれど、
“私あの人嫌いよ”と、パ
ッと出ることがあるのですね“ああいう人がクリスチャンだったら、もう私は
ごめんだ”というようにパッとこう言っちゃう。“じゃ、あなたはどうなのか”
とこう言われたら、“私だってたいしたもんじゃないわ”とこうなってしまう。
結局、天に向かって唾を吐くようなことになってしまうのです。
けれども、このとっさの場合に、これは決して悪意じゃない、先生を守ろう
とした。けれども本当は、ペテロは先生を守るなんておこがましいもんじゃな
くて、先生に守られている人物ですね。もう長々と先生から祈られている人物
です。それを守ろうと発想したというのが、これはもう間違いですね。
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相馬牧師宣教集
ヨハネ 18:1-11 剣と杯
私の誤りというものは、自分が相手に対して守ってあげようというようなこ
とを、イエス様が守って下さることを忘れて自分が責任者であるかの如くに振
る舞う時に一番間違いを起こしやすいのです。この場合に即して言うならば、
そのように感じるわけです。とっさの場合に私たちが信仰的な判断を誤らない
ということは、とても大事なことなんじゃないでしょうか。
誰々さんが亡くなった。さあ遺産の相続だ…。とっさの場合に我々が、私だ
ってもらう権利があると、こういう具合にパッと出ちゃったという人が以外に
あるのです。その一言がたいへんな重さを持って、そこでその場合に、私も権
利があるとこう言った、口から出してしまったらこれは終わりですね。私たち
は、とっさの場合にすることというものは、とっさの場合ですから、前々から
準備はできませんけれども、やっぱりこれは、イエス・キリストに私はどれだ
け近くあるかということの日頃の鍛錬です。鍛錬が出来ていないと、とっさの
場合にはできません。
これは柔道や剣道でもそうですね。相手からパッとやられたときに、それに
対応できるというのは、日頃の鍛錬が問題ですね。信仰というのは我々の生き
方、あるいは人との関わりの中でそれが問われて来るわけです。とっさの場合
に私たちがどのような振る舞いを取れるかということを、このペテロでも、三
年間弟子であったペテロでも、この場合は全然ダメですね。落第ということに
なるわけです。
しかし、永遠に落第なのかと言うとそうじゃなくて、彼はやがて悔い改めて、
もう一度イエスの弟子、使徒として立った時には、彼は、
“先生は十字架につけ
られた。私は本当に取るに足らないものですから、反対に、逆さに十字架につ
けて下さい”と言って、彼は亡くなったと言われるようになったのです。
イエス様は彼をたしなめられました。
「剣をさやに納めなさい。神がわたしに
下さった杯は飲むべきではないか」…。これは、
“神様がわたしに下さったとこ
ろの杯というのはある。それはどうしても飲む必要がある。飲まなければなら
ないものなんだ。それを力で、あるいは刀でもってなんとか防ごうという、そ
ういう思いは止めなさい”と、こう言っているのです。
この剣というようなものは、最終的な解決にはならないですね。第二のベト
ナム戦争と言われるソ連の、8年間もアフガニスタンに進駐して、どうにもこ
うにもならない。まぁ、引き揚げようかということにもなっているわけです。
超大国と言われる国は、そういう形でだんだん国力を弱めて行くに違いないわ
けですね。私たちの国に置いても同じようになって行く可能性があるんじゃな
いでしょうか。
我々は、こういうイエス様のお言葉を、日常の中に受け取りましても、真理
であるということが分かるのですが、少なくともイエス様は、この十字架は神
様がわたしに下さったところの苦難である。しかしその苦難は栄光、私たちの
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ヨハネ 18:1-11 剣と杯
栄光のために役に立つものなんだ…。これはわたしの人生のまったくマイナス
だと受け取ったなら、イエス様のみこころからは遠い。私たちはこのイエス様
の十字架に向かうそういう姿勢の中に、我々自身がそれぞれ様々な形で、いま
苦難に直面していらっしゃる方々が多い事を思います。
どうかここから皆さん方が、主キリストが我々に語るところを、ご一緒に受
け取ることが出来るならばと思います。 お祈りいたします。
寒い中にもさわやかな朝を与えられまして、感謝をいたします。私たち
の愛する姉妹を御許にお送りいたしました。良き信仰の闘いを闘いぬいて、
また様々なハンディキャップを超えまして、あなたの御国に凱旋をしまし
た。教会はこの地上において、信仰の良き歩みをお互いに辿り合うという
ことだけが使命ではございません。良き信仰を持って、あなたの御国にお
送りするという責任もございます。まことにこの教会に与えられた責任の
一端を果たすことができ、感謝を申し上げます。我々の教会がひとりの姉
妹の信仰を通して、あなたの御栄を現す器とされましたことを、厚く感謝
をいたします。このような姉妹を与えられましたことを、感謝をいたしま
す。またその姉妹と共に交わりを深められた兄弟姉妹たちの交わりを感謝
いたします。どうか姉妹が残されました多くの信仰の遺産を、私たちがま
た新しく受け継ぎ、共々に分かち合うことができるように導いて下さい。
愛する者を失われました御家族を顧みて下さい。また病床にある者、様々
な困難の内にあります者をどうか力づけ励ましてください。今週もあなた
が共にいて下さいますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名に
よって御前にお捧げいたします。
アーメン。
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