弟子の条件

年間第 23 主日(Lectio Divina C 年)
9 月 4 日 年間第 23 主日
弟子の条件
ルカによる福音書 14 章 25 ~ 33 節
25
大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしの
もとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まな
いなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれで
あれ、わたしの弟子ではありえない。28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるの
に十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台
を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成するこ
とはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、
二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をす
えて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和
を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一
人としてわたしの弟子ではありえない。」
他の朗読:知恵の書 9:13 ∼ 18 詩編 90:3 ∼ 6,12 ∼ 14,17 フィレモン 9,10,12 ∼ 17
Lectio …読む
イエスは周りの群衆に弟子となることの条件について話をしています。多くの人々はただイエスが
人気の先生であるから、彼について行っています。しかし弟子たちはイエスの背後に迫る困難をもま
た知っていました。彼らは既に宗教権威者たちからの迫害を経験していたのです。
どんな関係においても、それについて真剣になるか否かを決定しなければならない時がやって来ま
す。それこそイエスが今日語っていることなのです。キリスト者の生活は、人気や責任の伴わないよ
いときを求める人々のためのものではありません。
イエスがその立場を説明するにつれ、弟子の条件はもっと挑戦的なものになります。よいように思
われる物事も、天との関係を害することがあります。イエスはもう一度考えるように私たちに言うの
です。彼と私たちの関係を妨げるものがあってはなりません。ですから、母、父、妻、子供や私たち
自身の必要や願望は、イエスのみ旨の次にこなくてはなりません。イエスと彼の愛する御父との関係
はこのようなものでした。
衝撃的なことに、私たちはある意味で十字架につけられるところまで人生を差し出す覚悟が必要で
す。これはつらいことです。私たちはどんな苦しみや屈辱がこようとも、イエスのみ旨を行うように
呼びかけられているのです。私たちの利己的なやり方を、神のみ旨に従わせなければなりません。こ
の種の生き方は、人生のあらゆる面に影響し、次第にイエスとのつながりの中に導かれます。そして
それは私たちの全てを代償とするのです。
このような理由で、イエスは弟子としての旅を始める前に、私たちがその代償となるものをよく考
えるよう、強くて明瞭なイメージを用いています。
ヨハネ 6 章 43 ∼ 71 節の中で、群衆はイエスの教えのいくつかの面で驚愕し、そしてイエスを離れ
ました。イエスに従うことは人間的に言えば不可能であることをイエスは明確にしています。それは
神の霊によってのみ可能なのです。ヨハネ 6 章 65 節の中でイエスは「父からお許しがなければ、だ
れもわたしのところに来ることはできない」と言っています。
年間第 23 主日(Lectio Divina C 年)
Meditatio …黙想する
これらの箇所の中で、あなたが最も衝撃を受けることは何でしょうか。あなたの生活の具体的な側
面において、イエスの教えにそぐわないと思われるところがありますか。
Oratio …祈る
しばらくの間、神と謙虚な時を過ごしましょう。あなたの生活における全てを神にささげることが
できるよう、助けを願いましょう。どんな結果になろうとも、イエスに従う力と恵みを与えられるよ
うに聖霊に願いましょう。イエスから目をそらさないようにしましょう。テサロニケの信徒への手紙
一 5 章 23、24 節は、私たちに大きな勇気を与えてくれます。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あな
たがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリスト
の来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになっ
た方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」
Contemplatio …観想する
イエスご自身が示された、神に完全に命をささげる生き方について考えてみましょう。イエスは御
父が彼に注がれる完全な愛も知っていました。
私たちが罪から解放されて生き、神に喜ばれる生き方ができるように、イエスが十字架の上で耐え
忍ばれた苦しみをよく考えてみましょう。