Untitled

中田
私たちITECという組織で、21世紀
COEプログラムに採択された「技術・企業・
ービスという形での社会への還元。こうし
に登場したのは、1958年頃です。様々な電
た大きなサイクルをうまくまわす道筋を示そう。
子機器に使われるような大規模半導体集
国際競争力の総合研究」も4年目が終わ
最終的に、研究の成果として、あるべき未
積回路(LSI)が登場したのが1971年。で
ろうとしています。
来社会の一つのビジョンを提示できれば・・。
すから35年以上が経過しています。30年も
20世紀も終わり頃、
日本社会は、高齢化・
20世紀終わりに日本社会をおおった閉
経つと事業は衰退する企業30年説という
少子化の進行ともあいまってある種の閉
塞的状況を克服して、
もう一度、明るい、未
社会科学の通説があります。実は今、
日本
塞感におおわれ、これからどのような社会
来のある、幸せな社会にしていくための社
の半導体産業もそうした状況にあります。
のダイナミズムを実現するのか、その源泉
会科学研究をしよう、
というものでした。で
1970年代から80年代にかけて、
日本の大
を何に求めるかという問題に直面しました。
すから私たちは、21世紀COEプログラム全
手電機メーカーはDRAM(Dynamic Ran-
文部科学省は、
「21世紀は科学技術の時代」
体の目標と極めて整合性の高い提案をし
dom Access Memory:半導体記憶素子
として、21世紀COEプログラムを開始。科
たと考えています。
の一つ)の生産に特化し、生みの親である
学技術をいかに社会に還元するかが大き
今日、お集まりの三人のご専門は、それ
な課題であるという認識のもとに、日本の
ぞれ半導体、自動車、医療という、今の日
たとえば、私がいた日立製作所では1980
科学技術の先鋒として、
またそれが世界水
本において最も重要と思われる産業の研
年 中 旬、社員8 万 人の利 益の約 8 0%を
準を越えていくための研究拠点(COE)
を
究です。まずは、半導体産業の研究をなさ
DRAMが稼ぎ出していました。
しかし、1980
各分野ごとに設けられたわけです。
っている湯之上先生。半導体はエレクトロ
年代中旬をピークに、
日本の半導体産業は
ニクスという狭い分野だけでなく、自動車、
凋落し始めた。DRAMシェアは激減しエル
に関連する研究拠点は4つ。私たちはその
医療はもとよりあらゆる分野で利用されて
ピーダ一社を残して撤退に追い込まれた。
うちの1つですから、その使命、担うべき役
います。 産業の米 とも言われてきました。
かつて半導体メーカー大手5社に32万人い
社会科学の研究拠点25の中でビジネス
アメリカを追い越して世界一になりました。
割は大きく、
また現実に大きな期待も受け
今の日本の半導体産業の現状をどう評価
た社員は、2005年には15万人にまで減った。
ています。一方、私たちが提案した「技術・
されますか。問題点は何か、未来のビジョン
リストラ、事業縮小、撤退と非常に具合の悪
企業・国際競争力の総合研究」の意図を
を描く上で何が足りないのでしょうか。
い状況になっていった。
改めて述べるなら、
こうです。科学に基づい
なぜこんなことになってしまったのか?政
て技術を創る、それは人あるいは組織を通
日本の半導体は技術で負けた!?
策的な研究、経営的な研究の先行例はあ
じて創られる。技術とそれを使った商品・サ
湯之上
ったのですが、技術的な視点からの研究と
半導体集積回路(IC)が世の中
いうのは一切なされていなかった。そこで、
元技術者だった私は、技術的の視点から日
一方、韓国、台湾の半導体メーカーはパ
の機器にもずいぶん半導体は使われており、
ソコン用に安価に大量生産していった。パ
半導体がないと私たちは非常に不便な暮ら
本が競争力を失った理由について探ってき
ソコンだけを見て、
日本の半分ぐらいの原価
しを強いられる。日本のGDPの約45%を占
ました。
で作り込んだ。これはやはりクリテンセンが
める製品に半導体が使われています。しか
その結果を簡単にいうと、非常におそろし
いうところの「破壊的技術」です。つまり、
ち
もハードウェアが重要なのではなく、
その中
いことですが、
日本の半導体の凋落も「イノベ
ょっと品質は悪いが、圧倒的に安いのです。
で動くソフトウェアが重要なのです。半導体
ーターのジレンマ」と同じ現象という結論です。
日本はそういう作り方が出来なかった。安く
デバイスはシステムであり、いろんな機器の
「イノベーターのジレンマ」はクレイトン・ク
作る技術力は低かった。つまり、
日本は、韓
機能を担っている。日本で生産されるあらゆ
リステンセンの著書で、
日本では『イノベー
国や台湾の、半導体デバイスを安価に大量
る製品の45%の中核をなすシステムとなっ
ションのジレンマ』として出版されています。
生産する「破壊的技術」に負けたのです。
ている。
中田 というと・
・。
単にコストで負けたというのは、間違ってい
湯之上 日本が世界一になった頃のDRAMは、
るのです。
この中核が全部、海外で作られるという
のは、
どうみてもマズイでしょう。でも、現在の
大型コンピュータ用に作られたものでした。
中田 「技術で負けた」という言葉の意味
状況が続くなら、10年後には日本の半導体
大型コンピュータ用DRAMというのは故障
ですけれど、
それは高品質のものを作れない、
メーカーは1〜2社を除いて全滅すると、私は
を許さない。その結果、DRAMメーカーは25
ポテンシャリティがないということではなくて、
予測しています。
年の長期保証可能なデバイスを作らなくて
適切な技術を、適切なマーケットに向って、
中田 ショッキングな予測ですが、
ではどう
はならない。非常に高品質を要求される。こ
適切な形で提供できなかったということですね。
すればいいのか?
のような高品質DRAMを作ることにおいて
そこが日本の半導体産業の弱点であった、
と。
湯之上 日本の半導体はビジネスで負けた、
日本は高い技術力を誇り、世界を席捲し、
そ
売れないから企業がだめになっていく、
そう
経営で負けた、技術で負けた。負けを負けと
の結果、世界一になったのです。
すると技術者もいなくなり、組織も崩壊して
して潔く認め、挑戦者として勝者に挑む覚
ところが、
コンピュータ市場において、大
いくし、技術そのものも陳腐化していく。そう
悟を決めることです。
型コンピュータは徐々に使われなくなり、パ
いう悪いサイクルに入っていく。まずは売れ
ソコンが飛躍的に売り上げを伸ばしていった。
る半導体を作る必要がある、
と。
パソコン用のDRAMあるいは半導体デバイ
それからイノベーションとは何かを改めて
定義し直す必要があります。
半導体製造に関わる日本の経営者、技
スには長期保証の高品質は要らない。同じ
イノベーションの再定義
術者にイノベーションとは何かと聞くと、
ほと
パソコンを25年間も使いませんから。まぁ、3
湯之上 そういうことです。でも、
日本の半
んどの人が「技術革新でしょ」という。良い
年か5年で買いかえる。ところが日本の半導
導体は衰退してしまったけれど、
日本に半導
技術を作ればイノベーションだ、
と。これは大
体メーカーはパソコンが伸びるのが分かって
体はなくてはならない。日本のGDPに占める
きな間違い。たとえば今のゲーム機の市場を
いても、主要顧客である大型コンピュータメ
半導体の割合はたかだか1%で、5兆円程度。
見ればすぐ分かることで、素晴らしい先端的
ーカーの言うことを聞かざるを得なかった。
この数字だけを見るとたいしたことは無いよ
な半導体デバイスを積んだ超高性能なゲー
過剰な高品質の半導体デバイスを作り続け、
うに見えます。しかし、三好先生が研究して
ム機を作れば売れるとは限らない。爆発的に
それをパソコン用にも売っていた。
らっしゃる自動車、安川先生の医療の分野
売れて初めてイノベーションと言えるのです。
動車産業のイノベーションについてはどう
とで回避できるようになります。しかし、将来、
でしょう。
このシステムが完成しても、皆がこのシス
三好
日本の自動車産業は、電子制御と
テムは普及しないと考えれば、誰もこのシ
いうことでは、欧州やアメリカの自動車産
ステムを買わないです。何故なら、誰もこ
業より格段に優れた技術をもっている。た
のシステムを搭載していないと、自分だけ
ぶん日本の高品質な半導体がそれを下支
搭載しても意味がないですから。電話とい
えしたのだろうと思います。私がやってきた
うネットワークに一人だけが加入しても何
のは、
「自動車全体のIT化とネットワーク外
の意味もなさないのと同じです(笑)。こう
部性」というテーマです。なかでも、それら
いう財は、人々の普及水準に対する「期待」
が消費者の厚生にどんな影響を与えるか
が、実際の市場普及率にものすごく大き
という観点からの研究です。
な影響を与えます。間違った期待を消費
自動車のIT化といえば、代表的なものは
者が抱けば、いくらいい製品を作っても普
ITS(Intelligent Transport Systems:高
及していかない。それから、ネットワーク外
度道路情報システム)です。これは、最先
部性があるために、私的な価値と社会全
1981年大阪大学経済学研究科博士課程
端のITを駆使して、道路と車と人をネットワ
体の価値が乖離するという現象も起きます。
前期修了。1986年カリフォルニア大学バーク
ークで結び、安全、渋滞、環境などの諸問
以上の2つの現象が働くため、ITSは、市
中田 喜文(なかた よしふみ)
レー校経済学研究科Ph.D.プログラム修了。
題に対処するものです。一方、ネットワーク
場メカニズムだけでは適切に普及すること
Ph.D. in Economics 現在は、同志社大学大
外部性というのは、非常に経済学的な概
にはならないのです。
学院総合政策科学研究科教授、同ビジネス
念なのですが、個人がある財から得る効用
中田
なるほど。
さきほど湯之上先生から、技術革
研究科教授、同志社大学、技術・企業・国
というのが他の人がどれだけその財を消費
三好
際競争力研究センター(ITEC)センター長、
しているかに依存する現象を指します。ネッ
新だけではイノベーションではなくて、消費
文部科学省21世紀COE研究拠点リーダー。
トワーク外部性が重要となる事例として、
者に普及して初めてイノベーションなんだ、
古くはビデオのVHSかベータか、あるいは
とのご指摘がありましたが、私が研究して
パソコンのOSではウィンドウズかマックかと
いるITSでは、市場メカニズムが適切に機
いう例があります。みんながVHSやウィンド
能しないのです。どうしても政府の介入が
市場が受け入れなければイノベーション
ではない。幸いなことに、高品質・高性能な
ものを作る技術力は日本が圧倒的に高い。
ウズを使うと思えば、やっぱりそれらを買って
必要になるわけです。これまで研究を進め
しまう。
てきたのは、ITSに対して、政府は市場に
自動車のITSも、似た特徴を持っています。
どのように介入すべきか、
という問題です。
これは間違いない。この高い技術開発力を
たとえば、10年先ぐらいに実現されるITSア
どう市場に結びつけるか、
これが、
これから
プリケーションに「情報交換型運転支援シ
生きていく上での鍵となるでしょう。
ステム」というのがあります。これは車と車
中田 自動車のIT化、
たとえば、
そのITS(高
のコミュニケーションによって、交通事故を
度道路情報システム)が企業の競争力に
自動車のIT化とネットワーク外部性
競争の形が変わる可能性
回避しようとするシステムです。現在、事故
与える影響という点からはどうでしょう。
過剰な高品質で日本の半導体は
類型で一番多いのは、信号のない交差点
三好
負けたというご指摘でしたが、日本の自動
での出会い頭の事故、それから交差点で
ば、国内の自動車メーカー間の競争にも大
車産業は逆に高品質で強みを発揮してき
右折する車と直進車の衝突事故等ですが、
きな影響を与えると考えています。
たのではないかと思います。三好先生、自
こうした事故が、車と車が情報交換するこ
中田
やはり非常に大きいでしょう。たとえ
すでに実現しているITSアプリケーション
ITEC は、2003年度文部科学省21世紀COE (Centre of
開催。研究領域と学問的バックグラウンドの異なる研究
Excellence)プログラムとして採択された「技術・企業・
者が成果の共有化をはかり、 ITEC総体として研究の有機
国際競争力の総合研究」をおこなっています。目的は、日
的関連性を高めています。また、2005年に、TIM研究コー
本企業および日本経済の国際競争力を再構築するため
ス(博士後期課程のみ)を開講。持続可能で国際競争力を持
TIM(Technology and Innovative Management)につ
つナショナルイノベーションシステムの理論基盤を構築
いて総合的な研究を行い、技術立国、日本のための処方
するための研究と実践者の育成をおこなっています。さら
箋を示すことです。研究活動には、現在、4つの研究クラ
に、若手研究者の育成も重点的に行い、世界の研究者が参
スターがあり、各クラスターの研究者は、領域が近接す
集し、指導する「国際PhDワークショップ」や「オープンチ
る研究プロジェクトで構成されています。全ての研究グ
ュートリアル」を展開するととともに、
「リサーチインター
ループ/プロジェクトで定期的にITEC ワークショップを
ン制度」を創設し、研究の場を積極的に提供しています。
としては、有料道路での自動料金収受シス
が出てくるか分かりません。メーカー間競
テムであるETS(Electronic Toll Collec-
争も、これまでとはずいぶん違う形の競争
tion System)、交通渋滞や交通規制な
となる可能性があります。
どの道路交通情報をリアルタイムに受信
中田
できるVICS(Vehicle Information and
という点からは……。
Communication System)があります。
三好
これらは車載器の仕様が決められているの
いると思いますが、今後、重要になってくる
で、
どのメーカーの車でもそのサービスを受
のはやはり安全分野のITSでしょう。しかし、
けられる。ところが最近、
ちょっと違うタイプ
方式とか仕様の問題があります。ETCや
のITSが出てきました。一つのメーカーの
VICSは日本独自の方式をとっています。
車だけのネットワーク、
クローズドなITSです。
自動車への搭載器や道路側の機器は完
VICSよりはるかに精度の高い交通渋滞情
全に独自仕様で、欧米で売り込める形に
報を、H社ならH社の車だけ、
T社ならT社の
なっていません。日本の携帯電話もそうで
車だけに送るというものです。
すよね、だから海外では弱い。同じことを
どういう仕組みかといいますと、
このITSで
国際間競争、
あるいは国際競争力
ITSについては日本が一番進んで
起こしてはならないと思います。
は、車自体を一つのセンサーに仕立てあげ
安全ITSは将来最も重要になるITSで
ます。H社の車からメーカーのセンターに向
すから、
ここで開発した技術や仕様は海外
けて情報が発信され、センターが情報を集
でも展開できるようにしておかないといけ
約し、H社の車だけにフィードバックします。
ない。まぁ、自動車メーカーというよりエレ
しかし、
H社のネットワークとT社のネットワー
クトロニクスメーカーの問題かもしれません
クはリンクしていないわけです。そうすると、
そ
が。デ・ファクト・スタンダード獲得に向け
の情報の精度、質の高さが、
どのメーカーの
た取り組みは、国際競争力の点から絶対
自動車を購入するかという選択行動に影響
に必要だと思います。
を与える可能性が出てきます。そのネットワ
ークに加入している車が増えれば、当然、情
技術革新と医療の普及、標準化
三好 博昭(みよし ひろあき)
1999年、大阪大学国際公共政策研究
科比較公共政策専攻博士課程後期修
了。国際公共政策博士。民間シンクタン
クの主任研究員として、長年、調査研究
活動、政策提言活動に従事し、2003年
よりITEC COEフェロー。
飛躍的に進歩しました。私が病院に勤め
報の質がどんどん良くなりそのメーカーの車
中田 さて、医療産業を研究なさっている
ていた現役の頃は、分厚い紙のカルテを
の魅力は高まります。自動車がネットワーク
安川先生。医療は、日本最大の産業とい
ものすごく大きな倉庫に順番に収めてい
外部性を持つ商品になっていくわけです。
ったら語弊がありそうですが(笑)
・・、少子
ました。
「ターミナルデジット方式」といって、
これは一例ですが、ITSは今後どんなもの
高齢化が進む日本において、そのGDPの
何科の患者さんの誰それはどこに入って
中で最大のシェアを占めている分野といえ
いると番号をふっていって、人間がそれを
ます。一方、医療の役割を現代的に捉えよ
綴じて、中身を転記して、請求書を起こし
うとすると、多くのことを考えさせられます。
ていた。それがこの10年の間に「オーダー
たとえば、環境汚染の問題であったり、
エントリー方式」と呼ぶ方式に変わり、発
交通事故の問題であったり、高齢化の問
生源入力が可能になった。手元のキーボ
題であったり、自殺の問題であったり……と、
ードを叩けば処方箋が出てくる、その情報
技術革新のある意味で負の側面が人の
がすべてホストコンピュータに溜まっていき、
身体や心を蝕んできたということ。技術の
それをレセプトとして吐き出すことができる
進歩が必ずしも人間にポジティブなものだ
という仕組みです。しかも、そのことによっ
けを与えきたとは限らない、それが20世紀
て運営管理コスト、医療コストの削減が可
の現実であったと思います。そういう意味
能になり、中小病院も生き残れています。
で医療は人間にとって最後の砦。人が身
体や心を蝕まれた時、最後は医療ですよね。
まず、日本の医療産業の現状をどう見
ておられるのでしょう?
安川
もう一つ、例をあげるなら、人間の身体
を輪切りにして診察するCTやMRIという
機械の普及。当初は、
1スライスに2秒ぐら
いかかり、導入のための初期投資は1台4
湯之上先生と三好先生のお二人
億円ぐらいでした。ところが現在は1スライ
の話を聞いていて改めて思ったことがあり
ス、コンマ数秒で、機械の買い替えなら1
湯之上 隆(ゆのがみ たかし)
ます。半導体単独の市場規模では5兆円
億円かかりません。それは、必ずしもITだけ
1987年京都大学工学研究科原子核工
ぐらいということですが、実際にはその伝
の技術ではなく、半導体の技術が大きく
学専攻修士課程修了。同年株式会社日
播のエリアが広くて、日本のGDPの45%
進展し、
しかも大量に生産されることによ
立製作所中央研究所入所。2001年工
ぐらいに影響を与えている、
と。いわずもが
って高度な医療機器がうんと安価になっ
学博士取得(京都大学)。2003年より
なですが、医療はまさにその恩恵を得てい
たということでしょう。日本医療に特有とい
ITEC、COEフェロー。長岡技術科学大
る最たる産業です。
っていいかもしれませんが、
どんな田舎の
学極限エネルギー密度工学研究センター
客員教授を兼務。
では、
どんな恩恵かというと、たとえば、
こ
病院にいってもCTがあるという時代にな
の10年の間に医療情報を管理する仕組が、
った。これは、
日本の医療の精度を高め、
がる。高齢になった時というと、信頼度は
ティブな側面ももちつつ、
それでもそれぞれ
とんでもなく下がってしまう。今の医療に
への社会ニーズに応えている、
と。では最
満足しているなら、10年先、
さらにその先
後に、21世紀、
この日本社会において、
こ
も信頼してもおかしくないのに、皆、 えも
れから科学技術の成果をどのように人々
いわれぬ不安 を持っているのです。人々
の幸せにつなげていくか、何をなすべきか
は、自分自身の将来の健康に対する不安
について、ひと言ずつお願いします。
が大きく、その不安を今の技術や制度が
湯之上
カバーしてくれるかというと確信がもてない。
ずっと考えていたのは、世界の中における
半導体をテーマに研究しながら
この点こそが、医療技術なり医療制度な
日本人とは何か、
日本人はこれからどうした
りの限界で、人々の健康に対する安心と
らいいのか?どうやら日本人というのは、ポ
信頼をどう高めるかが問題になる。という
テンシャルは高い、だけど視野狭窄に陥り
のも、それは次の世代の医療に対する支
やすい。決められた枠内では素晴らしい能
出行動を決めるからです。今の医療制度
力を発揮するが、
しかし全体を俯瞰して技
安川 文朗(やすかわ ふみあき)
を維持発展させるために必要な費用を人々
術や製品、
ビジネスを創るのはどうも不得手。
1993年京都大学経済研究科現在経済
は進んで支出するか、否か。医療にあって、
そんなふうに感じていました。ですから、日
学専攻修士課程修了。経済学博士。医
信頼とか安心は決して情緒的な問題なく、
本人が生き残っていくために、
もっと世界
療科学研究所専任研究員、広島国際大
社会の医療制度を維持する重要なモチ
を俯瞰して、世界中に役に立つものを作
学助教授を経て、2004年よりITEC、COE
ベーションであり、推進力であると考える
るという能力を要求したい。国際人が増え
フェロー。2006年より「同志社大学医療
必要があるのです。
ないといけない。ただ、技術を最適化する
政策・経営研究センター」センター長。
中田
医療の未来にとってはかなり根源
ということでは抜群の能力を持っている民
的な課題だと思うのですが、そうした課題
族なので、これを日本の発 展、世 界の発
に対して、
どのような研究アプローチがあ
展につなげていけば……と。
るのでしょう。
安川
安川
たとえば、ITECで行った看護師さ
先ほど指摘しなかったのですが、
日
本の医療分野では依然として「情報の非
設備(アメニティ)が良くなり、かつ医療費
んや医療技術者の雇用問題の研究とか、
がアメリカの半分ぐらいで済んでいる大き
あるいはそれを発展させた人的医療資源
療技術の成果を本当の意味で享受する
な理由となっています。
の配分の研究は、いわば医療のインプット
ためには治療の状況を正しく理解する必
技術革新は医療そのものの普及と標
をどう整備するかの問題です。医療の人
要があります。また医療の財源についても、
準化に貢献しているというのは、紛れもな
的資源をどう提供すれば、人々が望む医
細かいことはいいにしても、やはり自分たち
い事実です。
療に近づけることができるか、
と。
一方、昨年4月から始めた医療制度プロ
対称性」という問題があります。人々は医
がお金を出しているのだから、
もっとしっか
り認識する必要がある。それを積極的に
医療への信頼、安心は
情緒的課題にあらず
ジェクトでは、政府の役割、つまりどのよう
理解する努力も大切だけれども、人々がそ
な政府の介入が望ましいのか、
どんな診
れをきちんと理解できるように正しい情報、
中田
問題点を挙げるなら、
どうでしょう。
療方針の体系を作ればいいのか、人々の
多様な情報をどんなふうに流したらいいの
安川
残念ながら、医療技術の向上や標
医療への関心をどうやって高めるかという
かを、私たちは考えていかなければならな
準化が達成されたとしても、人間の健康
研究。さらには医療市場の自由化問題と
いと考えます。
がそれにともなって向上することとパラレ
の絡みで、医療サービスを提供する側の
三好 日本の自動車産業の場合、
その関
ルでないことです。
モチベーションを高め、かつ医療の質を担
連技術というのは世界でも最高ランクに
診断技術、治療技術が進んでも、人間
保するにはどうしたらいいかを政策的に議
あります。一方、これからモータリゼーショ
の身体は不確実性が高い。しかも正しい
論するということを並行してやっています。
ンが本格的に進む国といえば、中国、
インド。
日本が引っ張っている技術(安全技術とか、
診断のもとに正しい処方をしても、患者さ
残るアプローチとしては、インプットに対
んがそれを守るとは限らない。治療方針に
してアウトプットをどう評価するか、です。出
燃費技術とか、排ガス技術とか……)を、
対するコンプライアンスが担保される保証
てきた医療が本当にいい医療なのか、役
これらの国々にできるだけ広げて、世界中で、
はないのです。なぜかというと、
この問題は
に立っている医療なのか、それほど役に立
より安全でより環境にフィットしたモータリ
医療に対する信頼の問題と深く結びつい
っていないのかを客観的に評価する研究
ゼーションを実現していくことに貢献して
ているからです。それで、調査をしてみた、
ですね。
いくべきだと思います。
アメリカでも2年に1回やっているのですが。
調査は大まかにいえば「あなたは今の
次なる技術の社会還元のために
私自身は、これからしばらく安全分野の
ITSの研究に―どちらかというと公共政策
医療に満足しているか」
「10年後、信頼
中田
それぞれに研究の成果を語ってい
の観点からですが―専念しようと考えてい
できるか」
「高齢者になった時、信頼でき
ただく中で、少し大げさな言葉でいうと、現
ます。これをうまく市場に普及させることを
るか」というものです。結果は、アメリカと
状の日本型イノベーション・システムの実
通じて、日本がそれを世界に輸出していく
似ていて、日本人の老若男女は現在の医
相がある程度浮かび上がってきたと思い
礎をなんとか築き上げたいと考えています。
療に対しては非常に満足度が高い。とこ
ます。それぞれの産業分野において、それ
中田 ありがとうございました。
ろが、10年先になると、信頼度はぐっと下
ぞれの技術革新があって、
それは時にネガ
(2007.1.10 ビジネススクール応接室にて)
を持つように発展し、移り変わろうとしてい
るのではないだろうか。人流・物流という言
葉にはその土地を基準とした、
いわば土着
ITEC客員フェロー
性といった性格の強い印象があるが、前
坂倉 孝雄
述の視点に立つと現在においてはあまり
1975年生まれ。1997年立命館大学政策科学部単位取
得中途退学、同大学大学院飛級進学。1999年立命館
大学大学院政策科学研究科修士課程修了。同年、経
済産業省近畿経済産業局入局。産業企画部技術振興
課特許室、総務企画部調査課を経て、2006年4月より
同志社大学 技術・企業・国際競争力研究センター
客員フェロー。修士(政策科学)。
土地に縛られない知識情報の流通の問題
にも拡張され得ることに気づく。
さらにもう一点は、事業展開以前の戦
略や計画の問題である。人流・物流が意
思決定の結果行われるアクションであると
したら、
その前段階には戦略の策定段階
がある。この段階では不確実性を可能な
「アジア・ゲートウェイ構想の基本的考え方」
れるという。第1段階は、産業革命前後の
限り低減させることが望まれ、畢竟、
その
(首相官邸)
を読むと、
『「アジアと日本」
単純な分業(division of labor)の段階であ
基礎材料となる構造把握のための客観
の関係から、
日本がアジアの中に埋め込ま
る。第2段階は、労働と機械の代替の段
的資料が求められる。このように事業展
れていく…(後略、傍点は著者による)』と
階であり、
この段階は2つのポイントによっ
開の前段階に意識を拡張すれば、戦略策
いう表記が目に入る。ネットワーク論でいう
て前段階から区別される。それは(1)
(人
定のための客観的な構造把握資料の必
ところの社会的埋め込みとは、
ある一定の
力を含む)動物的エネルギーの利用から非
要性に気づく。
コミュニティにおける文脈に一体化するこ
動物的エネルギー利用への移行であり、
このように2つの方向に拡張して、人流・
物流ビッグバン政策について考えると、
そ
とであり、道徳や価値観といったものを相
もう一点は(2)標準規格による大量生産
互理解し共有した関係性を含意する。こ
の可能性を拓いたことである。そして第3
の射程が下段図のような範囲に及ぶもの
のように書くことは簡単であるが、実現する
の段階として、近代的大量生産システムを
と考えることができる。
ことは非常に難しい崇高な理想であると
揚げている。これらの段階はいずれも物的
そしてその2者のうちでも、
とくに戦略策
思われるし、
それだけにこれを目標に掲げ
資本と対応した生産工程に着目したもの
定のための構造把握の資料(具体的には
ていることから並々ならぬ決意がそこにあ
である。実際に戦後日本の経済成長は、
構造統計)のアジア圏での充実は極めて
ることが読み取られよう。
物質資本を軸にしたリーディング産業と、
公共性が高いと私は考える。それだけに
特色ある産業構造によって達成されてきた。
今後日本が地域において主導的地位を
その実現に向け、何が重点政策となる
のかということについて、同文書は7つを揚
げている。順に取り上げることはしないが、
その筆頭に人流・物流ビッグバンが挙がっ
ていることは、
まさしく新たな関係性の構
築が政策全体の基礎に置かれていること
を表していると考えることができるだろうし、
目標とも整合的である。
この重点政策の一つ目に関して、本稿
では少し概念を拡張して、
そこから2つの強
調点を導きたい。
産業構造論研究の蓄積によれば、製造
産業の発展は3つの段階に分けて考えら
そして今、産業構造は物的資本に規定
される時代から、知的資本により強い関連
占めて取り組む課題のひとつと言えるの
ではないだろうか。
ンドを含めた、より広い地域での経済連
携強化を最重要視し、社会・文化面、安
全 保 障 面を含めた東アジア共 同 体 創
設に向け、始動し始めた。21世紀、
日本
が東アジア諸国から真のバートナーとし
て信頼され、
また、
これらバートナーの活
1989年、
ハワイ大学大学院経済研究科修了(Ph.D.取得)。社団
法人海外コンサルティング企業協会、
アジア経済研究所、神戸大
学大学院国際協力研究科、
ブランダイス大学大学院国際金融
経済研究科、名古屋大学大学院国際開発研究科を経て、2004
年4月より現職(同志社大学政策学部教授)。専門は、
国際経済学、
開発経済学、
アジア太平洋経済協力論。現在、バイオ産業を中
心に、
サイエンス型産業の形成・発展メカニズムと政府の役割に
関して、
日・米・欧の比較を比較制度分析の立場から試みている。
力を自国の「新たな創造と成長」につ
なげるためには、日本が自らの市場を率
先して開放し、東アジア広域の経済連
携協定、
さらには、開放的かつ多様性を
尊重する東アジア共同体構築にリーダ
ーシップを発揮することが必要不可欠
であると考えられる。
2006年10月、第165回国会における
倒からWTOを補完する自由貿易協定
内閣総理大臣所信表明演説において、
(FTA)の締結に動き出した。ただし、
そ
安部首相がアジア・ゲートウェイ構想を
れは二国間ベースが中心であり、現在ま
「アジア・ゲートウェイ構想の基本的考え方」
1)
表明した。その構想の目的は、
(1)アジ
で東アジア広域にわたるFTAは締結さ
を参照。なお、本資料は首相官邸ホームペー
アの成長と活力を日本に取り込み、新た
※3
れるに至っていない
ジ(WWW.KANTEI.GO.JP)
より、平成19
な「創造と成長」を実現する、
(2)アジア
シンガポールを皮切りに、
メキシコ、マレ
の発展と地域秩序に責任ある役割を果
ーシア、
フィリピンと二国間経済連携協
たす、
(3)魅力があり、信頼され、尊敬さ
タイとチリともほ
定(EPA)※4を締結し、
れる「美しい国」を創る、
ことであるとされ
ぼ合意にこぎつけているものの、より広
※1
る
。
「美しい国」日本が何を意味する
。日本を例にとると、
体とのEPAでさえ、依然、交渉中なので
東アジアでリーダーシップを発揮し、アジ
ある(現在の日本の各国との取組状況
アと連携を強化していくことこそ、
日本が
に関しては、図1を参照)。※5
ていることは間違いないといえよう。
年1月28日にダウンロード。
2)詳しくは、World Bank (1993), East
Asian Miracle: Economic Growth and
Public Policy. Oxford University Press.
3)必ずしも内容が統一されていない2国間
域なEPAについては、
日本とASEAN全
のか、今ひとつ明らかではないが、21世紀、
今後発展していく1つの大きな鍵を握っ
注釈・参考文献
FTAの数が激増して、取引費用が増えるこ
とを、
スパゲティーボール、又は、
ヌードルボ
ール現象と呼ばれる。
4)EPAは、FTAが物品の関税やサービス貿
易の障壁等を削減・撤廃するにとどまるの
東アジア広域のFTA締結については、
に対し、投資ルール、知的財産制度や競争
関 係 諸 国 の 政 治 的 思 惑から、現 在 、
1960年代後半以降、日本に続き、台
APEC、ASEANプラス3、East Asian
湾、韓国、シンガポール、香港といった
Summitという3つの別々の枠組みの中
アジアの国や地域が急成長を遂げ、ア
で、
それぞれ並行的に進められる結果に
ジア新興工業国(ANIEs)と呼ばれる
なっている。日本は、従来の東アジア諸
ようになった。また、1980年代後半に
国にインド、オーストラリア、ニュージーラ
政策の調和、人材交流の拡大、各分野で
の協力を含むより包括的な連携協定である。
5)外務省経済局「日本の経済連携協定−現
状と課題−」
(平成18年10月)
を参照。なお、
本 資 料 は、外 務 省 ホーム ペ ージ( WWW.MOFA.GO.JP)
よりダウンロード。
なると、タイ、マレーシア、インドネシアと
いったASEAN諸国もANIEsに続き、工
業化に成功をおさめた。このような東ア
ジアの国や地域の驚異的な経済発展は
※2
特に「東アジアの奇跡」
とまで呼ば
図1 現在の日本の各国との取組状況
アイスランド
ノルウェー
れるようになり、東アジアは世界から注目
カナダ
スイス
を浴びるようになった。さらに、1990年代
モンゴル
に入ると中国とインドの経済的台頭が顕
著となり、東アジア全体が「成長センター」
モロッコ
エジプト
として世界経済の牽引役を担うまでに発
展したのである。したがって、
日本が経済
GCC
台湾
メキシコ
ベトナム
タイ
ブルネイ
フィリピン
マレーシア
インドネシア
シンガポール
ックに発展を遂げているアジア諸国の成
ブラジル
ASEAN全体
アルゼンチン
メスコメール
長と活力を日本に取り込むことは、日本
の今後の発展に必要不可欠であるとい
日本
中国
インド
連携強化策を通して、
このようなダイナミ
米国
韓国
イスラエル
オーストラリア
チリ
南ア
えよう。
しかし残念ながら、現在、
日本と東アジ
ア諸国との広範な経済連携を強化する
手段が欠如している。1990年代後半以
降、日本を含めたアジア諸国の通商政
策が大きく転換し、
それまでのWTO一辺
国名
締結済み/署名済み
国名
大筋合意済み
国名
交渉中/交渉開始予定
ブラジル
アルゼンチン
ウルグアイ
パラグアイ
国名
政府間共同研究/産学官共同研究
国名
民間で研究開始/
先方政府・経済界等より要望・関心あり
出典:外務省経済局「日本の経済連携協定−現状と課題−」
(平成18年10月)
より作図
国との貿易開始を契機に、
また、台湾経済
を輸出中心からサービス中心へと移行させ、
北京語を話す台湾人を活用するという必要
に迫られて、台湾は自国をアジア太平洋地
域の物流の拠点にしようとするアイデア、
い
オーストラリアと中華民国(台湾)国籍。台湾、
シンガポール、
オーストラリア、英国にで教育を受けた。96年ニューサウスウェ
ールズ大学(オーストラリア)政治学科を首席で卒業。97年に
ケンブリッジ・オーストラリアン学者 として、
ケンブリッジ(英)
のキングスカレッジに入学。2002年、
ケンブリッジ大学政治学
専攻博士課程後期満期退学。専門分野は主に比較政治経
済学、国際政治、東アジア政治思想史。現在の関心事は、
東アジア統合についての様々な問題、特に日中の役割など。
わゆる「亜太営運中心」企画を展開した。
これは、
むしろ安倍氏のアジア・ゲートウェイ
構想に近いものであった。残念ながら、中
国本土と台湾の直接取引と交流の開始が
頓挫し、企業が台湾をアジアの拠点として
利用する理由は薄れた。また、香港やシン
ガポールと比較して、英語が話せるホワイト
カラーが少なかったことも影響した。
日本は、2006年に国連常任理事国入り
についてアジア諸国の支援を得られなか
ジアと世界を結ぶ真の架け橋、
いわばアジ
ア・ゲートウェイであったのである。
前述した明治時代の日本、香港、
シンガ
ポール、
および台湾の事例から、様々なこと
幕末と同じ頃、大英帝国が東南アジア
を学ぶことができる。日本のおかれた状況を
れまで理解されてきた以上に深刻であり、
の橋掛かりとして、香港を清から奪いシンガ
眺めると、
活性化するアジアにおいて地位を
中国外交のつまづきに留まらず、
日本の対
ポールを確保した。これら地域は、広東や
獲得しようと独力でもがいた台湾のおかれた
った。アジアにおける日本の地位低落がこ
アジア政策におけるビジョンの決定的な
福建地方から中国人移住者が流入するこ
状況と似ている、
と言うことは正当であろう。
欠如に根を持つことが露呈したのである。
とによって、急速に発展した。植民地となっ
そのため、
台湾から特に学ぶべき教訓がある。
果たして日本はアジア・ゲートウェイにな
て以来、両地域では、法の支配が確立され、
第一に、
中国が好きであろうと嫌いであろ
るのだろうか?興味深いことに、事実、明治
外見上は満足に値する行政サービスが提
うと、
中国と関わり、
交流し、
結びつくことがア
および大正時代の日本は、
アジアの大部
供され、国際貿易のためのインフラが整備
ジア・ゲートウェイ構想実現の鍵である。日
分(主に中国、韓国、ベトナムなど)
と世界
され、広大な内陸地域へ地理的に近く、
そ
本の地理的位置と中国の持続した成長を
を結ぶ架け橋となっていた。19世紀中頃
して複数言語を話す多くの人々が存在し、
考慮するならば、
中国を無視する、
または封じ
までの長い期間、
その役割は東アジアの
中国人が数の点で優位し、
そして何よりも、
こめる戦略は全く自己欺瞞と言わざるをえない。
中で最も巨大で、豊かで、強力で、先進的
商取引や官僚制の運用手段として英語が
第二に、
より多くの人が英語を話せるよう
であった中国が保持していた。銀本位制
使用されている。では、19世紀から20世紀
に教育し、
彼らを官僚制、
ビジネス、
政治およ
に基づいた貨幣、物品、人および知識は、
初めの香港およびシンガポールと、明治時
び学術機関において決定権を持つポジショ
中国を軸として広がっていった。
ところが、
幕末が近づくにつれて日本の学
代の日本とは何が違うのだろうか?香港とシ
ンに据えない限り、
日本はアジアやアジア以
ンガポールは、
どちらも明治時代の日本のよ
外の多くの人々と同じ言語で話すことができ
ないであろう。
識の高さが次第に東アジアに知られるよう
うな知識の発信地ではなかった。これに対
になる。日本の荻生徂徠とその弟子達によ
して、明治時代の日本は典型的な漢字によ
る儒学の研究や、京都に在住した儒学者、
るアジア・ゲートウェイであったのである。
第三に、
日本をアジア・ゲートウェイとし
アジアと世界との交流を促進するために
頼山陽の漢詩文などが中国や韓国の知識
中国の台頭が著しい今日でさえ、共通語
働く人材として、英語で教育され数ヶ国語
人から高い評価を得るようになり、
まもなく日
として英語は以前にもまして浸透し普及して
を話すことのできるアジア人や、他の地域
本人によって翻訳された西洋の書物や専門
いるように見える。東南アジアから台湾、韓
の人々を、
日本はもっと多く誘致することが
できるはずである。
用語が、
中国人による翻訳に取って替わり、
国に至る大半のアジア諸国のエリートのみ
それが中国、韓国、
およびベトナムにおける
ならず、中国のエリート達も、概ね英語が達
標準となった。つまり、economics(経済)、
者であり、
英語圏で教育されている。明らかに、
てその他のアジア言語を日本人が学び、
ア
politics(政治)から、
religion(宗教)やsoci-
多くの人々が英語を話す今日、
通訳としての
ジア内外の人々に日本語を学ぶように促す
ety(社会)に至る、
主要な近代語のほとんどが、
役割を果たすゲートウェイを介することなく、
ことで、
日本は上手くやるのかもしれない。
し
日本人によって翻訳され、
それが中国、
韓国、
直接ビジネスが行われることが多い。
しかし、
かし、長期的戦略を効果的に遂行するため
そしてベトナムへと普及していったのである。
(政治的、
地理的、
経済的、
または過去の制
さらに興味深いことに、
日本が1895年に
約といった)様々な理由から、
ゲートウェイを
韓国の宗主権をめぐる中国との戦いに勝
長期的に見れば、中国語、韓国語、
そし
には、大量の移民を受け入れられるような実
質的な変化が日本には求められるであろう。
必要としている人は、
絶えず存在するであろう。
ただし、近い将来、
もし日本がアジア・ゲート
ウェイになれなかったならば、長期的には、
利し、台湾も日本領とした後になって、中
もし日本がアジア・ゲートウェイになることに
国と韓国は日本に送り込む学生の数を増
本当に関心があるのならば、
どのようなオプシ
台湾において散見されるように、上手くやろ
やしている。その結果、政治、軍事、
ビジネ
ョンが日本にあるのか。この問いに敢えて応
うとする熱意すらも失われてしまうであろう。
スそして学術の分野における1970年代ま
えようとする前に、
香港やシンガポールのよう
での中国および韓国の指導者の多くが、
な現在のアジア・ゲートウェイに取って代わろ
明治、大正時代に日本で教育を受けるか、
うとする試みが決して容易ではなく、
それを試
日本に滞在経験を持っていたことは、驚く
みた台湾の失敗が日本にとって教訓となるこ
に値しない。過去を振り返れば、
日本はア
とを、
認識すべきであろう。1990年代初め、
中
展のひとつの帰結であり、決して珍しい現
象ではない。
さて、
日本は、
アメリカほどではないが、
こ
れまでに多くの台湾留学生を受け入れて
きた。戦前には、植民地体制下での教育
2004年、同志社大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課
程修了、同年9月博士(社会学)学位取得、2004年4月より現職。
大学院在籍時より、
香港や台湾をフィールドとして、
グローバル時代
の最前線に生きる人々の生活様式、人間関係、
アイデンティティの
あり方に関する調査研究に従事してきた。最近は、
「旧台湾総督府
天然瓦斯研究所」調査プロジェクトや「京都伏見日本酒クラスター」
調査プロジェクトを中心に研究活動を展開している。専門は比較社
会学、
華人社会論、
グローバリゼーション論、
産業クラスター論など。
機会の不平等を背景に、多くの若者が日
本へ留学し、戦後、特に1980年代以降に
は、
日本経済の空前の好況と日本政府の
積極的な留学生受入政策を背景に、
やは
り多くの若者が日本へ留学した。1990年
代に入ると、
日本経済の長期的不況を背
景に、
日本へ留学する者の数が減少傾向
となるが、1990年代末ごろから、
日本のポ
戦後の台湾が多くの若者を海外(特に
取得のための留学が減少傾向にあるの
ピュラー文化への関心の高まりもあって、
アメリカ)の大学へ送り出してきたことはよ
に対し、短期的な語学研修のための留学
減少に歯止めがかかり、
その後は横這い
く知られている。戦後初期、反共陣営の
は増加傾向にある。
傾向である。
重要軍事拠点となった台湾には、同盟国
21世紀を迎えたころから、台湾では、
そ
現在、
日本で学ぶ台湾留学生の数は
アメリカから莫大な軍事的・経済的援助
うした留学熱の下火傾向に対する懸念が
4,000人程度(留学生全体の約3%)
であ
社会に広がり、各種マスメディアがたびた
り、数としてはさほど大きなものではないが、
沢な教育援助予算も組み込まれていた。
びこの問題を取り上げるようになった。また、
しかし、
「アジアのなかの日本」という古く
それによって、当時の台湾では、様々な教
その時期、台湾政府も、
そうした事態を憂
て新しい課題を考えるにあたって、彼・彼
育関連施設が建設されるとともに、
海外(主
慮して、新しい海外留学奨励政策を続々
女らの存在意義は決して小さなものでは
にアメリカ)への留学・研修の機会が大い
と打ち出すこととなった。背景には、
その
ない。やはり彼・彼女らの間でも、社会的
に開かれた。その時期には、
「来い来い来
時期に顕著となるグローバル市場での中
上昇のための留学だけでなく、文化消費
(「米援」)がもたらされ、
そのなかには潤
い台湾大学へ、行こう行こう行こうアメリ
国の影響力拡大(2001年末のWTO加
や 自分探し のための留学、
ただ 何と
カへ」というフレーズが生まれ、
エリートの
盟を契機として)に対する危機感の高まり
なく の留学まで幅広い留学形態がみら
卵たちはこぞってアメリカを目指した。彼・
という事情がある。1990年後半以降、ア
れる。そうした彼・彼女らの留学のあり方は、
彼女らの多くは学位取得後も留学先にと
メリカでは留学生全体に占める台湾出身
同時代の日本の若者の海外留学のあり
どまることになるが、背景には、当時の台湾
者の割合が低下したが、逆に中国出身者
方と何ら変わらない。要するに、彼らの留
の政治的不安定や経済的立ち遅れ(留学
の割合は急激に高まった。さらに、教育・
学は、発展途上国から先進国への移動で
先で苦学して得た知識や技術を活かせる
研究スタッフにおいても中国出身者の占
はなく、 ある先進国から別の先進国への
場がない)
という事情があった。しかし、
める割合が目立って高まった。その時期、
移動 なのであって、経済的にも文化的
1980年代以降の台湾政府による積極的
アメリカの某有名大学で台湾の政府系
にも大きなギャップを超えなくてはならない
な呼び戻し政策を背景に、多くの在外高
財団の賛助により中華民国元副総統の
ような移動ではない。今日のアジアには、
度人材が台湾へ帰還し、
その後の半導体
名を冠した教授ポストが設けられたが、皮
台湾に限らず、各地に 豊かな社会 が
産業を中心とした台湾経済の劇的な成長
肉なことに、迎えられたのは中国出身者で
形成されており、
さほど無理せずとも子弟
とグローバル化を大きくリードすることとなる。
あった。そうした 人材大国 中国の存在
を海外留学させられるくらいの経済能力を
その台湾において、近年、海外留学を
希望する若者が減少している。たしかに
は、人材の数で圧倒的に不利な台湾にと
備えたミドルクラス家族がおそらく何千万
って大きな脅威となっている。
という単位で存在しているだろう。
「アジア・
今日においても海外留学は社会的上昇
近年の台湾政府による海外留学奨励
ゲートウェイ構想」を掲げる日本が、今後、
を望む若者にとって有効なパスであるも
政策は近い将来に何かしらの効果を生む
欧米のカウンターパートと競争しつつ、
そう
のの、留学熱は20年ほど前に比べ明らか
ことになるかもしれないが、
おそらく海外留
した 豊かな アジアから優秀な人材を多
に下火傾向にある。背景には、1990年代
学に関する若年世代の意識を大きく変え
く呼び込むためには、政府レベルでも大学
半ばにはじまる教育制度改革によって、
るほどのものにはならないだろう。他の先
レベルでも、
アジアの内部で ある先進国
従来狭い門戸であった高度教育機会(大
進諸国と同様に、台湾でも若年世代の生
から別の先進国への移動 の潜在的担
学院レベルも含めて)が大幅に拡充され
活様式・価値観が大いに多様化しており、
い手が拡大しているという現実を踏まえた
ており、
しかも、 豊かな社会 で生まれ
そのなかで海外留学の動機・目的も多様
うえで、留学生の多様なニーズに対応で
育った若年世代の間で忍耐力や上昇意
化している。社会的上昇のために留学す
きるような、能動的でフレキシブルな受け
欲が旧世代に比べて低下しているという
る者もいれば、文化消費や 自分探し
入れ態勢を整えていく必要がある。そのよ
こともあって、海外で苦学してまでより良い
のために留学する者もおり、
なかには、た
うに、台湾留学生の存在は大きな氷山の
一角なのである。
生活を求めようとする若者が少なくなって
だ 何となく 留学する者まで出て来ている。
いるという事情がある。そうした若年世代
そうした海外留学の 生産性低下 は、
の意識変化を象徴するかのように、1990
アメリカや日本をはじめ 豊かな社会 に
年代末以降の台湾では、長期的な学位
おいてはどこでも生じている高度経済発
(本稿は、筆者が大学院在籍時に参加した「同志
社と台湾留学生」調査プロジェクトの成果を踏ま
えて作成したものである)
ITEC Deputy director
Dr. YAMAGUCHI Eiichi
シーズを企業化するために
コーディネーターの育成を
日本でベンチャー企業が育ちにくい原
因の一つは、エンジニアと資本市場のアク
ターとの出会いの場がないことです。私は
昨年実施したケンブリッジでの
研修は実り豊かなものだった
いままで3回の技術起業家養成プログ
ラムを行なってきました。
第1回目は2004年11月ロサンジェルス
ビジネススクールの中では、両者の出会い
のUCLA・USC・UCI、第2回目は05年9月
の場が持てるのではないかと考え、
2004年
フランスのニースEDHEC、
そして第3回目
にDBSとI
TECで技術起業家養成プログラ
は06年イギリスのケンブリッジ大学。この
ムを作りました。
第3回は、
9月10日から18日まで約1週間
これはイノベーション・シーズとマーケティ
にわたって行ないました。午前は講義、午
ング・エキスパートを結びつけるコーディネー
後はフィールドワークという形をとり、非常
ターを育成するためのものでもあります。私は、
に充実した内容でした。
リスクにチャレンジして、自分も一人のイノ
ケンブリッジ郊外のTTP社を訪問した
ベーターになるんだという気構えを持った人
時には、私たちのためだけに5時間に及ぶ「国
たちを育てたいと思います。
ビジネススクールは、学問だけでなく、勇
際フォーラム」を企画実施してくれただけ
でなく、社内のアトリエの中まで案内してくれ、
気や果敢や剛毅やそしてチャレンジ精神など、
日本の企業ではありえないオープンマイン
文化の根底にあるものを教えるべきだと思
ドな姿勢は強く印象に残りました。またシミ
います。それを教えるためには、
それを実際
ュレーションと呼ばれる独特の手法で、<
にやってきた人たちに会うしか方法がありま
自動車を開発し、それをジュネーブ・ショー
せん。
世界に出て行って成功体験をした人や
ベンチャー企業を立ち上げた人たちに出会
に出品してディーラーに売るまでのプロセ
ス>を体験させる実習は、ゲーム感覚で、
どきどきしながら学習できるという面白いも
ックレイが1955年に創業した会社の建物
が実在するし、
そこから飛び出たノイスたち
「8人の裏切り者」がはじめてICを創ったフ
ェアチャイルドの社屋も残っています。そん
な場所も訪ねてベンチャーの歴史を体感
してもらいたいと思います。
シリコンバレーはアメリカの中で一番刺
激的な場所です。ベンチャービジネスが、
産業社会をオープンなシステムに変え、新
しい人生の味わい方を社会制度にしてし
まった、いわば第2のルネッサンスを産み出
した土地だからです。
会社よりも人が主人公です。自分の属
するコミュニティは変わらない。会社は単な
るツールであり、乗り物でしかありません。
また、
ここには世界中の多様性が集まって
いて、今やアジア人が7割を占めています。
こんな場所に立ち、事業を創造する心意
気を再確認していただきたいと思います。
「技術起業家養成プログラム」の最
新ニュースは、ITECのホームページ
で発表します。また、プログラムに
い、触れ合い、肉声を聞くことによって初め
のでした。1週間という短い日程でしたが、
てそういうものが生まれてきます。
1ヶ月くらい滞在していた気がします。
介しています。
(編集部)
今年、
第2のルネッサンス発祥の地で
ベンチャービジネスの歴史と魂を
体感してもらいたい
同志社大学ビジネス研究科
山口栄一教授ブログ
そして今年、いよいよシリコンバレーを訪
ねます。
詳しい内容は未定ですが、
DBSとITEC
に縁の深いUCバークレー大学の協力を
得て、
1週間バージョンのプログラムになる
でしょう。また講義やフィールドワークだけ
でなく、
「歴史の遺跡」も訪ねてみたいと
ケンブリッジ大学での修了証授与式
思っています。
トランジスタを発明したショ
ついては、山口教授のブログでも紹
http://bs .dos his ha.ac.jp/blog/eyamaguchi
ハイテク産業において、
かつて1980年代に世界の覇権を得た日本。経済大
国アメリカにならぶ経済発展を遂げたこの国は、昨今では、
まるで「つまづく巨
人」のように低迷し、閉塞感に包まれている。本書は、
日本のハイテク企業が、
海外企業とくりひろげた輝かしい競争を通じて展開したチャレンジの数々につ
いて考察し、
オープンイノベーションとモジュール生産と密接にリンクする新た
な競争モデルの出現について言及している。ITECと日本、US、
ヨーロッパの
研究者や実務家による研究成果をD. Hugh Whittaker(ITECディレクター、
ビジネス研究科教授)
と Robert E. Cole(同志社オムロンチェアプロフェッ
E DITE D B Y
サー、UCバークレー名誉教授)が中心に編集をしたもので、
その内容は、
イノベ
D. HUG H WHITTAK E R
ーション、
技術、
そしてチェンジマネジメントへの深い示唆を与えてくれる。
(編集部)
OXFORD University Press 2006年9月発行
ISBN:0-19-929732-0
Dos his ha Univers ity
R OB E R T E . C OLE
Dos his ha Univers ity / UC B erkeley
現在、同志社大学ITECは北京大学政府管理学院政治経済学科と協定を
結び、共同研究プロジェクトを推進しています。その成果をもとに、
アジアはも
とより連携する欧米の研究者、実務家が一堂に会する機会が実現します。
国際フォーラムのテーマは、
「Innovating East Asia」。当日は、傳軍(北京
大学政府管理学院常務副学院長)、Ronald P.Dore(ロンドン・スクール・オ
ブ・エコノミクス、
アソシエイト)、D.Hugh Whittaker(ITEC ディレクター)によ
テーマ
Innovating East Asia
開催日
2007年3月17日(土)
開催時間
9:50〜19:30
会場
北京大学政府管理学院
るキーノートスピーチを予定。午後には、
「Political Economy of Innovation」
をはじめとする4つのセッションでのディスカッションも行います。翌日は、次世
PhDワークショップ
代の研究者育成を目的とする国際PhDワークショップを開催。7名の若手研
開催日
2007年3月18日(日)
究者が発表を行い、優れた研究者たちの指導を受けます。フォーラム参加ご
開催時間
9:20〜15:00
会場
北京大学政府管理学院
希望の方は、下記ホームページをお訪ねください。
大学院生、研究者の方で聴講ご希望の方は
ITEC事務室までお問い合わせください。
ITECでは、技術開発の先端機関、財団法人京都高度技術研究所(ASTEM)との共催セミナーを定期的におこなっています。
テーマ
利益を生み出す
ビジネス手法と事例紹介
開催日
2007年
開催時間
14:00 〜17:00
現在検討中
現在検討中
会場
AS TEM(京都リサーチパーク内)
AS TEM(京都リサーチパーク内)
同志社大学 寒梅館
3月 24日(土)
サービスエンジニアリング
(予定)
2007年
4月 21日(土)
成功への期待
〜ケンブリッジにみるイノベーション事例〜
2007年
5月 19日(土)
開催時間は、決定次第ITECホームページでお知らせします。
「novello」は、英語Innovativeのもとになったラテン語で、
「新しい土地を耕す」
「ぶどうの木を植える」といった意味を表します。
このプロジェクトの成果が、世界に、
そして、
日本に、新しい価値をもたらし、未来創造のために、貢献できることを願って名づけました。