Title アメリカのモダニズム小説と「男らしさ」の詩学 : 『驚 きと怒り』を中心に

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アメリカのモダニズム小説と「男らしさ」の詩学 : 『驚
きと怒り』を中心に( fulltext )
諏訪部, 浩一
東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I, 58: 61-72
2007-01-00
URL
http://hdl.handle.net/2309/65549
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要人文社会科学系Ⅰ 58 pp.
61∼72,2007
アメリカのモダニズム小説と「男らしさ」の詩学
*
――『響きと怒り』を中心に
諏訪部
浩
一
英語学・英米文学・文化研究**
(2
0
0
6年8月3
1日受理)
本稿は,大戦間のアメリカにおいて白人男性によって書かれた小説を,
「男らしさ」という観点から概括的
に素描することを試みる。こうしたアプローチは当然,ジェンダー批評的な性格を本稿に与えることになる
が,本稿の主目的は,そうしたジェンダー批評的な問題意識を,モダニズム作家達の詩学という問題に接続
し,発展させることにある。
アメリカにおいて,芸術に関するいわゆる「ハイブラウ/ロウブラウ」の区分は19世紀に成立したというこ
とについてはローレンス・W・レヴィーンの指摘があるが,モダニズム期の作家達の多くは,大衆文化が栄え
た時代に作家となったということもあり,自分達がハイ・アート,
「純文学」の担い手であると強く意識して
いた。これはモダニズムのエリート主義として批判されもする特徴であるのだが,本稿の文脈において問題と
されるべきことは,彼らのハイ・アート志向が,しばしば男性中心主義的であったということである。アンド
レアス・ヒュイッセンが示唆するように,彼らの芸術志向を,
「女子供」の大衆文化から自らを峻別し,差異
1
化しようという意識と総括することはひとまず可能であるだろう。
つまり,彼らの創作活動はそのままジェ
ンダー・パフォーマンスとなっていたのであり,そのような意味において,モダニスト作家の作品における
ジェンダーの問題を考えることは,その詩学を考えることと相補的な関係にあるのである。
男女の平等化が進んだアメリカの20世紀前半は,「男性不安(“male anxiety”)」の時代であった。女性は選挙
権の獲得により政治的な主体として,職場への進出により経済的な主体として,そしてフラッパー達の出現な
どにより性的な主体として「発見」された。1
927年10月の『カレント・ヒストリー』誌に掲載された,
「新し
い女」をめぐるシンポジウムにおいては,この十年でかくも議論されたトピックはないとされているのである
2
し(“The New Woman”1),
実際,当時のジャーナリスティックな言説を見れば,社会に問題があるたびに「新
しい女」が批判されているということがわかる。そうした言説をいささか乱暴に要約してしまえば,例えば殺
伐とした都市型の生活形態が発展したのは女性が職を持つようになったからであると,共同体の喪失が女性の
せいにされるのであるし,また女性が外に出るようになったので婚前交渉も普通になったのであると,性モラ
ルの低下も女性のせいにされる。かくして婚前交渉が普通になったために晩婚化が進み,疲れた男は家庭でい
たわってもらえず精力も衰え,出生率は低下し,このままでは白人文明は滅びるだろう,という話になってい
くのである(当時アメリカで隆盛を極めることとなっていた優生学が,そうした懸念を助長したことは間違い
ないだろう)。
こうしたジャーナリスティックな言説を検証するのはそれ自体として興味深い作業となるはずであるが,本
稿の文脈においては,この種の女性批判は男性不安の噴出だったとまとめておくだけで十分だろう。こうした
言説の背景には,俗流フロイト主義の流行,ハヴロック・エリスを代表とする世紀転換期のセクソロジーの発
達,影響力のあった『性と性格』のオットー・ヴァイニンガーの性差別思想,そしてアニマとアニムスという
*
**
American Modernist Fiction and Its “Masculine” Poetics / SUWABE Koichi
東京学芸大学(1
8
4―8
5
0
1 小金井市貫井北町4―1―1)
― 61 ―
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人文社会科学系Ⅰ
第58集(2007)
概念を提唱するユング心理学などが,性差とは絶対的なものではないという理論を展開していたということが
3
ある。
つまり,性差が絶対的ではないからこそ,振る舞い方,パフォーマンスがなおさら肝腎になるのであ
り,「マッチョ(“macho”)」という語の初出が『オックスフォード英語辞典』によれば1
928年であるというの
は,いかにも示唆的な事実であるといえるだろう。
以下の議論においては,こうした状況を同時代の小説がどのように扱っていったのかを見ていくことにした
い。まず,大衆小説家が「男性不安」をストーリー・レヴェルで抑圧しようとしたことを指摘し,次いでいわ
ゆる純文学作家にも同様の反応が見られると論じる。そして,そのようなナイーヴな反応とは一線を画すケー
スとして,アーネスト・ヘミングウェイと F・スコット・フィツジェラルドの代表作について言及したあと,
本稿の後半ではウィリアム・フォークナーの初期の傑作『響きと怒り』に関して考察する。フォークナーはこ
の小説によってモダニズムの詩学のいわば臨界点に達したと思われるが,それがモダニズムのジェンダー・パ
フォーマンスの臨界点でもあったということを本稿が示唆できることを期待したい。
それではまず,「男性不安」をストーリー・レヴェルで抑圧しようとするという,ナイーヴな反応から見て
いくことにしよう。同時代の風俗を積極的に取り入れるがゆえに世相を如実に反映すると思われる流行小説か
ら例を取れば,ワーナー・ファビアンの『燃える青春』は,自立した気性を持つヒロインが,結局は自分を守っ
てくれる「父」的な中年男性への愛に目覚めるという話である。これと並び1
920年代を代表するベストセ
ラー,(これは女性作家であるが)ヴィニア・デルマーの『バッド・ガール』は,うっかり妊娠してしまった
フラッパーが次第に母性に目覚めていき,ついには「母なるイヴ」
(261)とさえ呼ばれるまでに至る過程を
綴った物語である。いずれの作品も,そこで描かれている事象こそ「現代風」の意匠を施されているが,独立
を求めていたはずの若い女性が,結局は「強い男」に守られたり,
「よき母」になったりというような,いか
にも19世紀的な「女の幸せ」を(再)発見するという筋立てになっているのである。
あるいはまた,大学生の生態を描いたものとして,やはり評判になったパーシー・マークス(彼は英文科の
教員であった)の『プラスティック・エイジ』という作品などを見ておいてもいいだろう。これは一言でいっ
てしまえば,主人公の若者がどのようにして女性の誘惑をかわして4年間の大学生活を無事に童貞で終えるか
というだけの話であり,彼の友人達は,売春婦と一緒にいるのを見付かり放校になってしまったルームメイト
を初めとして,主人公の童貞を守ろうと奮闘する。この作品は一種の教養小説的な枠組みを与えられているの
だが,主人公が大学で学んだことといえば,若い女性に近寄ってはならないということくらいしかないといっ
てもいいほどである。ここで興味深いのは,作中でライトモチーフのように繰り返される校歌である。
サンフォード,サンフォード,男達の母よ
僕らを愛し,守り,しっかりと抱いてくれ
あなたの腕に僕らを包み
あなたの真実で僕らを支えてくれ
大学の女王,男達の母――
アルマ・マーテル,サンフォード――万歳!
アルマ・マーテル――万歳!――万歳!
(91)
この校歌は,若者を誘惑から守る存在=「恵みの母」というイメージを大学に与えるものとなっている。「母」
は若者を守り,若者は「母」に感謝する。
「若者の性の乱れ」という当時の社会不安・社会通念を背景にして
考えてみれば,『プラスティック・エイジ』という作品が,
『バッド・ガール』と同様(あるいは逆側から)
,
世の大人達を安心させる機能を持つ,保守的な物語であるということは明らかだろう。こうした観点からすれ
ば,E・S・ガードナーの作品が,探偵ペリー・メイスンが「母親的な秘書に守られつつ,生意気な女達に次々
と躾を与えていく」というパターンを繰り返すことで,作者を当代随一の大ベストセラー作家としたというこ
4
とも理解されるはずである。
経済学者が化粧品や宝石や美容室といったものを「セックス産業」に属するものとして分類し(Beard 183
5
−84),セックス・ハンドブックが大いに売れた時代に,
女性というものの本質を「母」とするベストセラー
が続々と現れたことは,それらが男性の不安を緩和したであろうことから意外ではないが,問題は,純文学と
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される作品にも同様のナイーヴさが散見されるということである。
『もしかすると女が』と題された,現代文
明に関する長編評論において「現代の男の不能は至るところで感じられる」(138)と述べたのは,修業時代の
ヘミングウェイやフォークナーに大きな影響を与えたシャーウッド・アンダスンであるが,実際,
「強い父に
なれないことへの不安」とでも要約することができる男性の不安感は,いわば「現代病」のようにして,大戦
間の「純文学」に深く浸透しているといってよい。例えばアンダスン自身の小説『黒い笑い』において,
「君
は街を歩いていて見かける奴が,どいつも疲れ切っていて,インポテントだっていうことに気付かないか?」
(23)と述べる人物が登場するというように。
しかしながら,前段からの議論の流れにおいては,ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』を挙げておく
べきだろう。ジョード家において,父親は影の薄い存在であり,そのことについては当人にも自覚がある。
父親は鼻を鳴らした。「どうやら時代が変わったみたいだな」と彼は皮肉な口調でいった。「昔は男が,ど
うするかいったもんだった。どうやらいまじゃ,女が指図するってわけだ……」(584)
ジョード父の弱々しさには,ジョード母がほとんど神話的なまでに象徴的な「母」であること(ファースト・
ネームの欠如は,彼女が1人の個人としての女性ではなく,あくまでも象徴的な「母」であることを強烈に印
6
象付ける),そして娘がラストシーンで衰弱した男に母乳を与えるということとともに,
男が「強い父」にな
れないという時代の空気がよくあらわれている。作者がやがて(本稿が対象とする時代から少し外れるが)
『爛々と燃える』という不妊を扱った作品を書くことになるのも不思議ではないだろう。
「男性不安」の抑圧が,上に見てきたように母性礼賛という形を取ることもあれば,当然のことながら,よ
りストレートな形で女性嫌悪的に発露することもあった。そうした傾向は,例えばスタインベックと同
様,1930年代に精力的に作品を発表したアースキン・コールドウェルの場合に顕著である。障害のある息子
(母体に問題があると示唆される)を主人公が殺してしまうという『バスタード(私生児)』に続き,『哀れな
道化』においては主人公が堕胎病院を経営する悪魔的な女性の虜になり,危うく(文字通りに)去勢されそう
になる。『タバコ・ロード』,『神の小さな土地』,『巡回牧師』といった代表作では精力旺盛な男が主人公にな
るのだが,彼らが(そのアナクロニズム的な振る舞いゆえに)一種のヒーローとされているということに鑑み
れば,ジェンダーをめぐる作者の見方が変わっていないということは明らかだろう。同時代のある評者は,『神
の小さな土地』について,生きている「母」が1人も登場しないことを指摘し,唯一の「よい女」は死んで伝
説になった「母」だけだと述べるが(Kubie162),これはコールドウェルが大戦間に出版した作品全般に当て
はまるといっていい。
『バスタード』に見られるような「父になれない不安」を「母になれない女」を出すことで抑圧・隠蔽する
7
というパターンは,
ヘミングウェイの『武器よさらば』やフォークナーの『エルサレムよ,我もし汝を忘れ
なば』(これは,『武器よさらば』のパロディとも考えられる作品であるが)の結末にも見ることができる。た
だひたすら自由に生きようとするキャサリン・バークレーやシャーロット・リッテンマイヤーは,あたかもそ
うした願いを抱いたために罰せられるかのように妊娠させられ,その望まれない子供の死産/堕胎の際に死ん
でしまうのだ。ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』においても,不妊の可能性を示唆するレイプの被害
者マリアを愛させることで主人公のヒロイズムを強調するというように,作家としてのキャリアを積むに連れ
て,女性人物の女性性を主人公の「悲劇」の道具としていささか安易に使うという傾向が出てくる。
『移動祝
祭日』でフィツジェラルドがペニスのサイズを気にしていた話を暴露する手付きなどにも窺えるが,ヘミング
ウェイのやり方は,ジェンダー・パフォーマンスがはらむ問題を,かなり露骨に体現しているように思われ
る。
彼らの作品に現れる「母になれない/ならない女」は,「男性不安」の反映というよりも,むしろ「不毛な
現代社会」の象徴なのではないかという反論があるかも知れない。だが,そうであるとしても,不毛な現代社
会の象徴として「母になれない女」が頻繁に出てくるというのは想像力の貧困さを物語るはずであるし,その
貧困な想像力こそが彼らの潜在的な「男性不安」を露呈させてしまうと見做すことは可能だろう。結局のとこ
ろ,文学作品として未熟なものは,ジェンダー・パフォーマンスとしても杜撰なのである。
このように見てくると,「男性不安」をめぐるパフォーマンスとしては,いわゆる「純文学」の主立った作
家も,「大衆文学」の作家とさして変わりがないということになりそうであるのだが,付言しておけば,『怒り
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の葡萄』,そして『武器よさらば』や『誰がために鐘は鳴る』はそれぞれベストセラー・リストに載る作品で
あったし,コールドウェルという小説家は,それこそ爆発的に売れた作家であった。典型的に「売れない作家」
であったフォークナーの場合でさえも,
『エルサレムよ,我もし汝を忘れなば』
(『野生の棕櫚』というタイト
ルで出版された)は例外的によく売れる作品だったのだ。しかしながら,そもそも,こうした「俗情との結託」
に依存する作品はたとえ売れはしても「文学」ではないのだというのが,
「女子供」の「大衆文学」から身を
引き離そうとする「純文学」作家達の矜恃であったはずである。そのように考えてみると,小説家ロバート・
へリックが1920年代の後半に続々と書いていたエッセイにおいて,アメリカ文学が「女性化」してしまったこ
とをしきりと憂いて,「女性化された種族はそのうちに絶滅する。女性化された芸術も同じである」
(489)
と,その結果を芸術の衰退になるとするとき,その主張が先に示したような白人文明の衰退を危惧するジャー
ナリスティックな,つまり「大衆的」な言説とあからさまに似てしまうというのは,極めて皮肉なことである
8
というべきだろう。
誤解を避けるために述べておけば,優れた作家は時代の「男性不安」から自由だったなどと主張したいわけ
ではない。そうではなく,その時代の不安を引き受け,文学的に昇華しようとした作品こそを本稿は評価した
いのである。こうした観点からは,もてない男がその屈辱的な現実をバネに作品を産むというジョン・ファン
テの『塵に訊け』やナサニエル・ウエストの『いなごの日』などを一種のメタフィクションとして読むことが
できるのだが,ここではより洗練された例として,ヘミングウェイの『日はまた昇る』とフィツジェラルドの
『グレート・ギャツビー』に言及しておきたい。
本稿の文脈においてこの2作品が優れている点は,何よりもまず,
「マッチョ」なタイプが時代遅れである
ことを看取していることにあるだろう。まさしく性的に不能であるがゆえに「男らしさ」にオブセッションを
抱かざるを得ないジェイク・バーンズは恋人をいかにも「男らしい」闘牛士に献上するのであるが,アメリカ
の「新しい女」はたとえ性的に満足することができても,結局は古いタイプの男とは一緒にいられず,ジェイ
クの元に戻ってくることになる。そしてニック・キャラウェイはジェイクとは対照的に,マッチョなトム・ブ
キャナンを時代遅れの寝取られ男に仕立て上げる。そうして彼はジェイ・ギャツビーの不倫を追体験的に楽し
み,最終的には自分とギャツビーとの美しい友情物語を構築することになるのである。
これらの物語はどちらも「負けるが勝ち」といった「敗北の美学」に通じるものをモダンな男性像として提
示しているように思われるのだが,ジェイクよりもニックの方が現代的な「男らしさ」のあり方に意識的であ
ると思われるし,この2人の登場人物/語り手の差異はその後の2人の作家のキャリアに現れているようにも
思われる。つまり,
「僕は半分女だ――少なくとも僕の心はそうだ」
(Turnbull267)と,言葉に出していえて
9
しまうフィツジェラルドは,落ち目の男性を女性人物の目を通して描き売れない作家になり,
「パパ」・ヘミ
ングウェイは,少なくとも生前発表の作品では,次々といわゆる「男らしい」男を出してベストセラー作家に
なっていくのである。
モダニスト作家にとり,優れた文学を書くことこそが最高のジェンダー・パフォーマンスであったという点
は既に示唆しておいた。この小論でモダニズム詩学の諸相を詳細に検討する余裕はないが,男女差さえ曖昧と
なっている,混沌とした現代を描くモダニスト作家は,まさに作品を書くことによって「秩序」を回復しよう
としたのだということは強調しておきたい。例えば作品の「統一感」が尊ばれたことや,T・S・エリオット
の「客観的相関物」に関する主張などがすぐに想起されるところだが,実際,いま言及した2つの小説の「統
一感」は,かなりの程度,語り手が自己の経験を意味付けして語るという形式によって支えられている。これ
は取りも直さず,語り手自身がモダニスト的に振る舞っているということであるが,これらの小説の厚みとい
うものは,そうした語り手の外側にいる作者が,語り手の「パフォーマンス」を自己批評的に脱構築し,相対
化しているところにあると思われる。
「こいつが,あるいは俺がやっているのは,結局『負けるが勝ち』って
ことだよな」といった作者の批評性がこれらの作品には感じられるのだ。
しかしながら,作品の「統一性」とこうした自己批評性のバランスを保つことは,この2人の優れた作家を
もってしても決して容易ではなかったといわねばならない。
「これは男の本だ」
(173)と呼んだ『グレート・
ギャツビー』以後の作品で,フィツジェラルドが繰り返し女性の視点人物を採用したことは,小説家としての
彼が,自分のジェンダー・パフォーマンスに意識的・批評的であったことを示唆するのだろうが,そうした作
品は魅力的ではあっても「統一感」をどこか欠くことになっていく。一方,ヘミングウェイは『エデンの園』
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のような作品を仕上げられないかたわら,自己批評性があまり見られない代わりにまとまった作品を仕上げて
いき,後年にはモダニスト世代の代表者のように振る舞うことになるのである。
ヘミングウェイをモダニズムのスポークスパーソンと呼ぶに際して念頭に置いているのは,勿論,
「わかっ
10
ていることは書かなくてもいい」という,彼の有名な「氷山理論」である。
彼はいかにもヘミングウェイら
しくというべきか,このいわゆる「モダニスト・アンダーステートメント」を自分の発明であるかのように語
るのだが,より正確には,同時代の作家達が共通の課題として取り組んでいたことを,彼が「技法」として巧
みに言語化したと見做すべきだろう。事実,1930年代に興隆した「ハードボイルド派」とカテゴライズされる
11
作家達は,そろって同様のことをいっているのである。
しかし本稿の文脈で特に重要なことは,まさにこのヘミングウェイとハードボイルド作家達の類似が示唆す
るように,この「わかっていることをあれこれといわない」というモダニスト・アンダーステートメントの美
学/詩学が,規範的な「男の美学」だということである。こうした観点からは,例えば『日はまた昇る』にお
ける,ビル・ゴートンが親友のジェイクに向かって,性的不能であったとされる作家ヘンリー・ジェイムズに
言及しつつ,不能の原因については語らないように忠告する印象的な場面(1
15)などは,泣き言を並べるロ
バート・コーンがジェイクの引き立て役になるという対比的な事実とともに,モダニズム詩学の「男性性」を
12
メタフィクション的/パフォーマンス的に示唆するように思われる。
このようにして獲得される「男性性」は,それが「パフォーマンス」であるという自意識がある限りにおい
て自己批評性を備えているといい得るだろうが,いったん確保されると,単なる自己肯定へと変わってしまう
危険がある。
「わかっていることは書かない」という論理が「オムニポテントな作者」という神話を呼び寄せ
てしまうことはわかりやすい道理だろう。作中で言語化されていない以上,作者が「わかっていること」と「わ
かっていないこと」との境界は,極めて微妙かつ曖昧であるはずなのだから。そしてこのロジックはさらに,
「わかっていないこと」に関しても,「わかっていないということをわかっている」という形で自己の超越性,
つまり「男らしさ」を担保することを可能にしていくだろう。これは一種の敗北の美学であり,またパトロナ
イジングないしパターナリスト的な態度でもある。ここでこの「パトロナイジング」ないし「パターナリスト」
という語を使ってみたいのは,この「男性不安」の時代において「わからない」対象とはつまり「女」,とり
わけ「若い女」だったという歴史的文脈があるからだが,ともあれフォークナーが『響きと怒り』という,お
そらく北米モダニスト小説の最高傑作で到達したのは,こうしたパターナリスト的地平だったのではないかと
いうのが,本稿が提起したい疑問である。
フォークナーが『響きと怒り』を「最も壮大な失敗作」であるゆえに最も愛したと語った(FU61)ことは
夙に知られているし,その愛が,「美しすぎるゆえに語らせられなかった」とされるヒロインへの愛として表
13
明されている(1)ことも研究者のあいだでは周知の事実である。
しかしまさにそれが周知の事実であるが
ゆえに,批評家達はともすればいささか安易に,作者によるこの小説とヒロインの神話化に荷担してきたよう
にも思われる――「フォークナーは精一杯やったのだ。彼はコンプソン3兄弟とともに,激しくキャディを追
14
い求めたのであり,その失敗は尊いのだ」というように。
しかしながら,『メランコリック
デザイン』の平石貴樹が説得的に論じたように,若きフォークナーが作
者の超越性を確保せんと,いかにもモダニストらしく奮闘していたとすれば,この「失敗」は予定調和と考え
るべきではないだろうか。3兄弟の「失敗」を描く作者は彼らのメタレヴェルに立っており,彼らのキャディ
へのオブセッションを共有しているわけではない。3兄弟にとって,キャディとは直面することもできなけれ
ば目をそらせもしないトラウマ的存在であるのだが,
『響きと怒り』の作者は,キャディを不在の中心とする
ことで,彼らのダブルバインドを先験的に克服しているのではないだろうか。苦悩する3兄弟に比べ,作者の
態度は遙かに余裕に満ちているように思われるのだ。
この「余裕」は例えばヘミングウェイのジェイクに対する余裕と同種のものであり,それは『響きと怒り』
をモダニズムの傑作にしている一因であると思われるのだが,ここではまず,その「余裕」がジェンダー・パ
フォーマンスの問題であるということを確認しておかねばならないだろう。
『響きと怒り』への(生前未発表
の)序文で「芸術家であることと,男であることのどちらかを選ばされることになる」(“Introduction” 229)
と彼が書いたように,芸術家であることと「男」であることが相反するアメリカ南部という地に育ったフォー
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クナーは,父親からは認めてもらえず,恋する女性にも振り向いてもらえず,そして低い身長のためにすぐに
従軍もできずというように,「男」としては極めて不甲斐ない青年時代を送ることになった。フォークナーが
最初期の作品において次々と自己パロディ的な,芸術家風の人物を登場させ,フラッパータイプの若い女に翻
弄させたことは,「作者」として彼らから距離を取ることによって自らの男性性を確保するためのパフォーマ
ンスであったと理解しておいていいだろう。
しかし,こうした戦略で担保される「男」とは,多数の芸術家が登場する『蚊』の登場人物の比喩を借りれ
ば,所詮は性行為を眺める「宦官」のようなものに過ぎないということ(184−85)に,小説家フォークナー
はおそらく気付いていた。そこで彼は,作者の超越性をそれ自体として確保せんとして,平石が詳述するよう
15
に「母親的な作家像」を構築していこうとするのだが,
ここで強調しておかねばならないのは,「母」が「作
家」なのではなく,「作家」が「母」になるということである。作品を書くことによって「母」になるという
ことは,作品を書かずには「母」になれない,つまり作家が「男」であることを意味する(事実,上に挙げた
16
『蚊』の別の登場人物は,姉に向かって女は芸術家になることができないという趣旨の発言をする[2
47])
。
さらにまた,
「作者」を「母」と定義することにより,彼は自分を「女」に模せるほどに「男らしい」のだと
暗黙のうちに主張できるわけである。こうした観点からは,モダニスト作家がときに両性具有的なイメージを
纏うことは「男」としてのパフォーマンスとして理解されることになるし,先に引いたフィツジェラルドの発
言などは,その1つの例ということになるだろう。
フォークナーが『響きと怒り』で初めて1人称の話者を導入し,3人の話者をそれぞれ悲劇的人物として造
型し得たことは,長い修行期間を経て,ついに彼が作家である自分を「男」として担保できる余裕を得たこと
と無縁ではないはずである。作品の立派な「母」である限り,
「女々しい」登場人物にいくら共感しても構わ
ないのだ。かくして彼は,最初期の作品ではパロディという形で抑圧していた自己のロマンティシズムをこの
作品では登場人物を通して存分に発露させることができたのだし,また,小説への序文の草稿に記されている
ように,いわば1人の「男」を「息子」(ベンジー)
・「恋人」(クエンティン)・「父」(ジェイソン)の3つに
分割し(Cohen and Fowler 277),3兄弟にそれぞれの立場からキャディに接近させることによって,「男性不
安」の構造を深く探究することができたのである。
キャディがいた過去には幸せだったベンジーは,
「母なき現代」ではうめき声をあげるばかりの惨めな存在
であり,彼が実際に去勢されていることは様々な意味でシンボリックである。クエンティンにも「不能」のイ
メージが与えられるが,彼のインポテンスは旧タイプの「男」として振る舞えないことを意味する。妹の純潔
を汚した恋人との「決闘」に赴こうとする彼は,召使の黒人に命じて馬に鞍をつけさせ,キャディにヒロイッ
クな姿を見せようとする。それが時代錯誤のパフォーマンスであり,またそれでしかないということは,彼が
結局は歩いてドールトン・エイムズに会いに行くことからも明らかであるのだが,その決闘相手(この人物は
実際に馬に乗って現れるのだ)に対して,クエンティンは警告を繰り返すばかりでなかなか行動に出ることが
できず,とうとう最後には(拳ではなく)平手で相手を叩こうとして失敗し,
「女の子のように」
(103)気を
失ってしまうのである。彼は結局,ロマンティックな近親相姦幻想においてしか男性性を確保することができ
ず,それを守ろうとして自殺することになる。
この「女なんてみんな雌犬」(102)などといってのけるエイムズが,時代錯誤の「男らしさ」をほとんどカ
リカチュア的に体現する人物であることは,まさにクエンティンが彼に惹かれてしまっているように見える
(Millgate 44−45)ということからも推測されるのだが,それは「いったん雌犬になったら一生雌犬だって
いうのさ」(113)という忘れがたいクリシェで語りを始めるジェイソンの男性性を考える上でも示唆に富むと
17
いえるだろう。
このコンプソン家の現在の当主は,「過去」を抑圧し「現在」にすがりつこうとするのだが,
彼の奮闘は強い「家長」たらんとする奮闘である点で時代錯誤的たらざるを得ない。いや,より正確には,彼
の奮闘はまさに時代錯誤的であるという点において「モダン」なのだというべきなのだろう。
この没落名家の末裔には家長としての権力は所与のものではなく,自ら獲得せねばならないものであるのだ
が,彼にその権力ないし「男らしさ」の保証を与えるのは,自分が一家を養っているという意識である。この
ような点において,いささか逆説めくが,彼の「父権」とはまさしく社会的弱者の存在に依存しており,従っ
て彼が「南部貴婦人」たる母親を欺き,送られてくるキャディからの小切手を着服するかたわら,働く「新し
い女」に批判的である(120)のは当然である。そんな彼の紋切型,つまりいわば「共同体の言葉」で満ちた
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語りが時代のジャーナリスティックな言説と似通うというのもやはり当然であるというべきだが,ここで重要
なことは,作者がジェイソンの「強い家長」,あるいは「タフガイ」たろうとする奮闘を,(クエンティンのも
18
のと同様に)パフォーマンスでしかないものとして提示しているということである。
実際,ジェイソンは姪
を躾けると口ではいうものの,作品を通して決定的な「対決」をひたすら遅延させ続けるのであり,その結果,
彼の「男らしさ」を保証してくれるはずであった金――娼婦ロレインは彼を「ダディー」と呼ぶ――を奪われ
てしまうことになる。姪を追跡する途中の,
「彼は[ロレイン]とベッドにいるところを想像してみたが,彼
はただ彼女の隣に横になり,助けてくれと懇願するばかりだった」(191)という場面などは,彼が想像の中で
さえも「男」として振る舞えなくなってしまっていることを示唆する。ジェイソンはファルスを想像的にさえ
も回復できなくなってしまうのだ。
金を取り戻せないということが決定的になったときのジェイソンが束の間の平和を得ているように見えるこ
とは(195),『日はまた昇る』の結末でジェイクが平和を得ているように見えることと似ており,そこには旧
タイプの「男らしさ」を求める奮闘から降りた人間は「男性不安」から解放されるという教訓を認められるか
も知れないし,そこにはフォークナーの,同時代のジェンダー・イデオロギーへの批評的な視座も確認される
かも知れない。しかしながら,この「批評性」をもって,フォークナーが当時流通していた「男らしさ」のあ
り方に対して「批判的」であり,またそこから完全に自由であったと結論付けることには,我々はやはり慎重
であるべきだろう。結局のところ,ジェイソン,あるいはベンジーやクエンティンが魅力的な,そして悲劇的
なキャラクターとなり得たのは,彼らが「成熟」するからではなく,あくまで「成熟」を拒否し「敗北」する
からなのであり,そうであるとすれば彼らの「敗北」の向こうには,決して手の届かないものとしての「男ら
しさ」がロマンティックに措定・温存されていることになるのだから。
そしてこの決して獲得できないロマンティックな「男らしさ」
,あるいは隠されているときに(のみ)機能
する「ファルス」と呼んでもいいだろうが,それを象徴するのが「不在の中心」としてのキャディである。
フォークナーが彼女の美しさを神秘化し,「全てがあるべきところにある」
(199)という言葉で小説を美しく
閉じるとき,彼は泣きわめくベンジーから束の間の平和を得るジェイソンまでの全てを内面化し,同時に彼ら
をはっきりと超えた地平に立っているのだ。少なくとも同時代的には,彼の男として,そして作家としてのパ
フォーマンスはほぼ完璧なものとなっているというべきだろうし,まさにその完璧さこそが,彼にこの傑作を
して「失敗作」と呼ぶことを可能とさせるほどの余裕を与えているのである。
しかしながら,この「余裕」は「キャディを描かない」という前提により,いわば先験的に得られた余裕で
あり,フォークナーの「失敗」は,決して「敗北」ではない。後藤和彦は,エステル・オールダムが他の男と
結婚するときの若き作家の心境を忖度し,当時のフォークナーにとって「愛」とは負け戦にかけることではな
く,戦に負けた自分の姿にあらかじめ耐えていることであったと述べているが(253),その数年後,フォーク
ナーは『響きと怒り』の作者としてその「愛」を文学的に昇華することになった――敗北を前提とすることで
自意識の勝利を得るという「ロマンティック・アイロニー」,あるいはモダニスト的アイロニーの鎧を纏うこ
とによって。そのような超越(論)的視点から,彼はロマンティックな男達が求める「男らしさ」を手の届か
ないものとして温存しつつ,自らの「男らしさ」は陰画的に担保するという離れ業をやってのけるのだ。ここ
に「負けるが勝ち」というモダニズムの詩学,そしてそのジェンダー・パフォーマンスの1つの臨界点を見ら
れるのではないだろうか。
本稿はその前半において数人の作家にいささか厳しい評価を与えたが,実際,本稿の議論から翻ってみる
と,彼らは『響きと怒り』の作者の立つ地平には達せず,むしろコンプソン家の3兄弟のように振る舞ってい
るようにさえ感じられるだろう。しかしながら,やはり最後に強調しておかねばならないことは,こうした評
価はかなりの程度,モダニスト的基準による評価に過ぎないということである。
事実,『響きと怒り』の到達点は,そのマスターピースを書いたフォークナー自身によってさえ,すぐに崩
され始めることになる。さえない父親が結局は望むものを全て手に入れる『死の床に横たわりて』や,手の届
かないものであるべきだったヒロインが不能の男にレイプされてしまう『サンクチュアリ』を始めとし
て,1930年代のフォークナーは父権制の問題を追及し,「男らしさ」を温存してしまうイデオロギー自体を「問
題」としていくことになるのだ。結果,全盛期におけるフォークナーの作品は,フィツジェラルドのそれと同
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東 京 学 芸 大 学 紀 要
人文社会科学系Ⅰ
第58集(2007)
様にやや統一感を欠くものになっていくことになるのだが,その不安定さはモダニズムの詩学への自己批評性
の顕現として見做し得るだろうし,そのレヴェルにおいて,彼はやはりコンプソン兄弟,あるいは同時代作家
達とともに,いわば泥にまみれることになったというべきかも知れない。
いずれにしても,時代錯誤的に発見された「男らしさ」をめぐっての奮闘は,大戦間の作家達を鍛え,アメ
リカ文学史における最も実り多い時期の1つを形成することになったといっていいだろう。第二次世界大戦後
の彼らの作品が迫力を欠いてしまったのは,おそらく彼らのアナクロニズムさえもが時代錯誤になってしまっ
たことによるのだろうが,そのパラダイム・シフトの礎を築いたのはやはり彼らだったのではないかと思われ
るし,そのような意味において,彼らの文学作品は,「ポストモダン」の時代を生きるとされる読者にとって,
いまだに「リアル」なものとして感じられるのである。
注
本稿は,第44回日本アメリカ文学会全国大会(2005年10月16日,於北海学園大学)において開催されたシン
ポジウム「男を演じる――アメリカ文学における「男らしさ」の系譜」における口頭発表原稿に,加筆修正を
施したものである。
1
ヒュイッセンの他にも,アン・ダグラスに代表される様々な論者が「二〇年代モダニストの挑戦とは『文
化の女性化』に対する挑戦であり,文化を男性の手に取り戻そうとする試みであった」(小笠原122)と論
じている。
2
この時代の「男性不安」に関する最も包括的な研究の1つとして,Dijkstra を参照。
3
例えばローレンス・バーキンはセクソロジーの発展に関して,
「性科学者がダーウィニズム以後の考え方
を強調するようになっていった……つまり「男性」と「女性」……の差は根本的には相対的なものであり,
各々の性は,他方の性の名残をとどめているがゆえに,性とは実は質的にというよりはむしろ量的に異な
る複数の性的タイプからなる一種の連続体だという考えが強調されていった」(23)と述べている。
4
ガードナーの作品における探偵と女性との関係については,拙稿 “Case” 58−62 を参照。
5
セックス・ハンドブック(それはほとんど必然的に「マリッジ・ハンドブック」でもあったが)の中で,
おそらく最も有名なものは T・H・ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』とマリー・C・ストープス
の『結婚愛』だろう。デイル・カーネギーが有名な『人を動かす』において,
「結婚の性的な面に関する
良書を読みなさい」(332)とアドヴァイスして,多くの書物から引用している(329−34)ということも,
影響力のある事実であったに違いない。
6
利己的な娘といった印象を与える登場人物であった Rose of Sharon が「子宮を通して母親の共同体の感覚
を継承した」ように見えることについては,Motley411を参照。
7
「父になれない男」が「母にならない/なれない女」への攻撃に転化することの背景には,まず「性的主
体」として発見された女性の性欲を「不能」の男性が満たせないことへの不安を挙げられる。従って,若
い女性達の性欲がかつてより高まっており(Pruette283),その大多数はマスターベーションに耽ってい
ることが盛んに報告され(Pierce 163,Wile, “Is” 34),そうした女性達の「需要」を満たすためにセック
ス・ハンドブックが次々と出版される一方で,女性の「不感症」が問題とされたりもすることになる(例
えば Stekel を参照)
。
しかし,さらに直接的なものとしては,前掲ストープスに加えてマーガレット・サンガーやエマ・ゴー
ルドマンといった主導者を得た,同時代のバース・コントロール運動が重要な背景であったと思われる。
詳しくは荻野美穂の2つの著書を参照されたいが,同時代的に興味深いものとして,フランク・ノリスの
弟である(というよりも本稿の文脈で強調すべきは,有名なロマンス作家キャスリーン・ノリスの夫であ
るということかも知れないが)チャールズ・G・ノリスの,カトリック一家の9人の兄弟姉妹を扱った
「バース・コントロールの小説」という副題を持つ小説『種』を参照。
8
最初期のフォークナーもこうした「男性的文学」への意識は強かったと思われることに関しては,Gresset
38−39を参照。
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諏訪部:アメリカのモダニズム小説と「男らしさ」の詩学
9
『グレート・ギャツビー』を境にフィツジェラルドの作品において女性の視点人物が重要となっていった
ことについては,ニックの語りをジェンダー・パフォーマンスとして論じた拙論 “It’s a Man’s Book” を参
照。
10 ヘミングウェイの「氷山理論」に関する発言としては,Death192,“Ernest”235,Moveable75などを参照。
11 例えばレイモンド・チャンドラーについては2
23,そしてダシール・ハメットについては Johnson329n9,
ジェイムズ・M・ケインについては Hoopes380にそれぞれ引用されている作家の言葉を参照。
12 この場面の詳しい考察に関しては,拙論 “Gender”30−31を参照。
13 フォークナーの『響きと怒り』に対する「失敗作」としての評価は,他に FU 61,77; LG 92,146,180,
244; FWP49などを参照。また,主要な言及は Cowan14−24にまとめられている。
14 『響きと怒り』の執筆とキャディ・コンプソンというヒロインの造型が神話化される形で結び付いてきた
ということを,エリック・J・サンドクィストは「この小説をキャディから離して想像することが難しい
のと同様,「フォークナー」を[この小説の純粋さという神話]から離して想像することは難しい」(27)
と表現している。
15 第4章,特に1
41−43頁を参照。
!
16 『蚊』における,女性はまさに「自然」に「女」であるがゆえに,
「女性的」である芸術家になれないと
いうイデオロギーに関しては,Michel14を参照。
17 このような台詞を口にすることが「男らしい」と思ってしまうジェイソンのキャラクターは,サディア
ス・M・デイヴィスの,
「彼のもっとも破壊的なところは,男らしさというものがどのようなものである
べきかということについての,倒錯した感性である」(147)という言葉に要約される。
18 ジェイソンの「タフガイ」としてのポーズが脆弱な仮面でしかないことについては,Bleikasten118を参
照。
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Bulletin of Tokyo Gakugei University, Humanities and Social Sciences I, Vol. 58 (2007)
American Modernist Fiction and Its“Masculine”Poetics
SUWABE Koichi
English Linguistics and English-American Literature
Abstract
Male anxiety increased during the early twentieth century in America, and the writers of popular fiction aroused “macho” ideology between the two world wars. Some serious writers of the Lost Generation, however, adapted the notion of
male anxiety to sophisticate their modernist “masculine” poetics as a gender performance. Ernest Hemingway, whose pursuit of machismo made him a popular writer, is contrasted to F. Scott Fitzgerald, whose adaptation of femininity to his
male protagonists eroded his popularity. William Faulkner transcended authorial male anxiety through his multiple presentations of male characters in The Sound and the Fury.
Key words : ジェンダー(gender),男性性(masculinity),モダニズム(Modernism),ウィリアム・フォーク
ナー(William Faulkner)
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