翻訳研究における「等価」言説

JAITS
<論 文 >
翻訳研究における「等価」言説 
長沼美香子
(元 立 教 大 学 )
Translation is a complex event of performing intercultural communication and the
concept of equivalence in translation is full of scandals. This paper explores the
discourse of equivalence in relation to theories and applications of translation. Even
if translational equivalence in terms of form or meaning between different languages
is too naïve to be postulated, the illusion of equivalence remains one of the key words
in distinguishing translation from non-translation. The author will first review a
main stream of Translation Studies in the European and North American academia,
focusing on how the concept of equivalence gave rise to the academic discipline of
translation and later became criticized as a rigid linguistic model of analyzing
symmetrical texts and making translators invisible. Following that review, Japanese
discourse on translation by two antipodal theorists, NOGAMI Toyoichiro and
YANABU Akira, will be highlighted to open up the current discussions about the
imagined translational equivalence in a Japanese context.
1. はじめに
本 稿 では、「翻 訳 学 」(Translation Studies) 1 における「等 価 」(equivalence)をめぐる欧 米
と日 本 の諸 言 説 に焦 点 をあてる。翻 訳 と等 価 については語 りつくされた感 があるかもしれな
いが、異 なる立 場 からの歴 史 的 前 提 を踏 まえて再 考 したいと思 う。まず後 続 の第 2 章 で、翻
訳 の理 論 と実 践 を研 究 対 象 とする欧 米 系 翻 訳 学 の成 立 と等 価 の系 譜 を概 観 する。ただし、
等 価 という概 念 への筆 者 の着 目 は、言 語 形 式 であれ意 味 内 容 であれ、異 言 語 テクスト間 の
等 価 性 へのナイーヴな希 求 とは一 線 を画 すものである。この点 を明 確 にするために、第 3
章 でポストコロニアル翻 訳 研 究 を取 りあげる。そして第 4 章 では近 代 日 本 の翻 訳 論 へと目 を
転 じ、等 価 という視 点 から野 上 豊 一 郎 と柳 父 章 の言 説 を読 解 する。最 終 の第 5 章 で全 体
のまとめをして本 稿 の結 びとしたい。

NAGANUMA, Mikako, “Discourse of Equivalence in Translation Studies,” Interpreting and
Translation Studies, No.13, 2013. Pages 25-41. ©by the Japan Association for Interpreting
and Translation Studies
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『通訳翻訳研究』13 号 (2013)
翻 訳 行 為 は異 文 化 コミュニケーションを遂 行 する複 雑 な言 語 行 為 である。そして、翻 訳
が生 み出 す等 価 は、「スキャンダル」を招 く翻 訳 の出 来 事 だ。英 語 の ‘scandal’ という語 は
「醜 聞 」などと訳 されもするが、本 稿 ではカタカナ語 「スキャンダル」を用 いる。「醜 聞 」も「スキ
ャンダル」も ‘scandal’ の翻 訳 語 であり、どちらにしても原 語 からのずれは不 可 避 であろう。
OED (Oxford English Dictionary) 第 2 版 によると、‘scandal’ の語 源 には ‘trap’「罠 」の
意 味 が潜 むという 2 。スキャンダルという語 からは、ヴェヌティ(Lawrence Venuti)が 1998 年
に著 した The Scandals of Translation: Toward an Ethics of Difference も想 起 されるだろう
が(本 稿 第 3 章 を参 照 )、語 本 来 の意 味 合 いも同 時 に確 認 されたい。本 稿 では、等 価 とス
キャンダルを不 可 分 のキーワードとして(ことばの意 味 は、ずれながら反 復 するのが常 なのだ
が)論 を進 める。
翻 訳 と等 価 の関 係 を論 じるためには、多 層 的 な分 析 が不 可 欠 だ。翻 訳 行 為 に等 価 とい
う概 念 を介 入 させることは危 うい賭 けでもあり、スネル=ホーンビー(Mary Snell-Hornby)が
批 判 するように、等 価 などという概 念 は異 なる言 語 間 にシンメトリーが存 在 するかのような幻
想 を生 み出 す(Snell-Hornby, 1988)。しかしながら、それでもと言 うべきか、だからと言 うべ
きか、翻 訳 学 においては等 価 の記 憶 を途 絶 できない。等 価 概 念 を翻 訳 から抹 消 するのは、
等 価 というスキャンダルを不 可 視 のまま忘 却 することになるからである。等 価 が幻 想 であれ
ばこそ、なおさら等 価 という幻 想 を可 視 化 するためのメタ的 思 考 が必 要 であろう。ピム
(Anthony Pym)も「翻 訳 のユーザーが翻 訳 について信 じていることの多 くが実 は幻 想 であり、
幻 想 は幻 想 として分 析 可 能 である」(ピム,2010,p. 66)と述 べている。
日 本 の文 脈 ではどうか。わが国 には翻 訳 実 践 と格 闘 した漢 文 訓 読 以 来 の長 い経 験 があ
る。その過 程 での理 論 的 関 心 はどうであったのか。例 えば、近 世 の国 学 者 、漢 学 者 、洋 学
者 らが残 した論 考 のなかで、われわれは翻 訳 についての言 説 に出 会 う。伴 蒿 蹊 『国 文 世 々
の跡 』『訳 文 童 喩 』や荻 生 徂 徠 『訳 文 筌 蹄 』などは、江 戸 期 の翻 訳 論 として読 むことが可 能
だ(杉 本 , 1996 参 照 )。ここには、昭 和 初 期 の谷 崎 潤 一 郎 『文 章 読 本 』(1934)の「西 洋 の文
章 と日 本 の文 章 」まで連 綿 とつながる、文 章 論 的 なまなざしからの翻 訳 論 の系 譜 がある。た
だし本 稿 では、翻 訳 学 における等 価 概 念 との照 応 を鑑 みて、このような伝 統 的 な翻 訳 論 を
一 旦 切 断 した論 考 を取 りあげる。対 蹠 的 に翻 訳 の等 価 と向 きあった日 本 における言 説 とし
て、ロマンティックな等 価 幻 想 に呪 縛 された野 上 豊 一 郎 の翻 訳 論 と、翻 訳 語 と翻 訳 文 体 に
隠 蔽 された等 価 スキャンダルを暴 く柳 父 章 の翻 訳 論 に注 目 する。
2. 翻 訳 学 事 始
2.1 翻 訳 における言 語 学 的 側 面
20 世 紀 後 半 から欧 米 を中 心 に翻 訳 についての学 術 研 究 が体 系 化 された契 機 は、翻 訳
と等 価 に関 する言 語 学 的 な研 究 であった。翻 訳 学 の概 説 書 、例 えばマンデイ『翻 訳 学 入
門 』(2009)やピム『翻 訳 理 論 の探 求 』(2010)なども踏 まえたうえで、個 別 の原 典 を確 認 して
おこう。
等 価 という用 語 を用 いた初 期 の事 例 には、フランス語 と英 語 の間 での比 較 文 体 論 がある。
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翻訳研究における「等価」言説
ヴ ィ ネ イ と ダ ル ベ ル ネ ( Jean-Paul Vinay and Jean Darbelnet ) に よ る 1958 年 の 著 作
Stylistique comparée du français et de l'anglais では、翻 訳 方 略 のひとつとしての等 価 が
論 じられていた 3 。言 語 学 者 のヤーコブソン(Roman Jakobson)も同 時 期 に、翻 訳 のための
メ タ 言 語 と し て 等 価 概 念 を 採 用 し た 。 彼 は 1959 年 の 論 文 ‘On linguistic aspects of
translation’で、翻 訳 を 3 種 類 に分 類 している。それは、言 語 記 号 (verbal signs)を対 象 とし
て、(1)「言 語 内 翻 訳 」(intralingual translation)という「換 言 」としての「同 一 言 語 内 の別 の
記 号 による言 語 記 号 の解 釈 」、(2)「言 語 間 翻 訳 」(interlingual translation)という「本 来 の
翻 訳 」 と し て の 「 別 の 言 語 に よ る 言 語 記 号 の 解 釈 」 、 ( 3 ) 「 記 号 間 翻 訳 」 ( intersemiotic
translation)という「変 異 」としての「非 言 語 記 号 体 系 の記 号 による言 語 記 号 の解 釈 」である。
そして、(2)の場 合 を次 のように説 明 する。
ある言 語 から別 の言 語 への翻 訳 は、ある言 語 のメッセージを何 か他 の言 語 による個 々
のコード単 位 に置 き換 えるのではなく、メッセージ全 体 に置 き換 える。そのような翻 訳 は
間 接 話 法 であり、翻 訳 者 は別 の情 報 源 から受 け取 ったメッセージを再 びコード化 して
、 、 、、、、、、
伝 える。かくして翻 訳 は、2 つの異 なるコードにおける 2 つの等 価 な メッセージ を伴 うの
である。
(Jakobson 1959/2004, p. 139, 強 調 引 用 者 )
このように言 語 学 的 な観 点 から、等 価 関 係 にあるメッセージとして翻 訳 テクストを捉 えたの
である。いわゆる「直 訳 」か「意 訳 」 4 かという、古 代 ギリシャのキケロ以 来 何 世 紀 にも及 ぶ「不
毛 な議 論 」(Steiner, 1975/1998)から一 歩 踏 み出 して、翻 訳 は言 語 学 的 研 究 の対 象 となっ
た。ただし後 に、言 語 学 的 アプローチは翻 訳 学 の文 化 的 転 回
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を提 唱 する研 究 者 から批
判 されることになる。狭 義 の静 的 な言 語 的 等 価 性 は、翻 訳 学 のスキャンダルとなったとさえ
言 えるだろう。だがもう少 し、等 価 の系 譜 を辿 ってみる。
2.2 等 価 の諸 相
コラー(Werner Koller)は、対 照 言 語 学 がラングの「対 応 」(Korrespondenz)を研 究 する
一 方 で、翻 訳 研 究 ではパロール間 の「等 価 」(Äquivalenz)が対 象 になると指 摘 した(Koller,
1989)。翻 訳 を言 語 分 析 するなかで、等 価 の議 論 はいくつかのバリエーションに進 展 し、そ
の分 類 の多 様 化 という道 を歩 んだ。
1960 年 代 に遡 れば、ナイダ(Eugene Nida)による等 価 に関 する言 説 がある。これは、代
表 的 著 作 2 冊 が 1970 年 代 に邦 訳 されて、日 本 でも早 くから紹 介 された。1964 年 の Toward
a Science of Translating は 1972 年 に『翻 訳 学 序 説 』として、1969 年 の The Theory and
Practice of Translation は 1973 年 に『翻 訳 ―理 論 と実 際 』として邦 訳 が刊 行 されている。
前 者 は、生 成 文 法 に基 づき翻 訳 を「科 学 」として研 究 するという姿 勢 が当 時 としては画 期 的
であった。また後 者 は、テイバー(C.R. Taber)との共 著 であるが、日 本 語 版 ではさらにブラ
ネン(N.S. Brannen)が加 わることで、翻 訳 のために原 著 が改 められるというユニークな方 法
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を採 用 している 6 。
ナイダの有 名 な分 類 は、起 点 言 語 志 向 の「形 式 的 等 価 」(formal equivalence)と受 容 者
志 向 の「動 的 等 価 」(dynamic equivalence)である。そして、ナイダ自 身 は動 的 等 価 によっ
て翻 訳 から異 質 性 を排 除 し、「起 点 言 語 のメッセージに対 して最 も近 い自 然 な等 価 」を目
指 した。この志 向 性 は、ナイダが聖 書 翻 訳 者 であったことと密 接 に関 係 する。つまり、絶 対
的 な神 のことばを異 言 語 に翻 訳 することで、異 教 徒 を改 宗 させるという逼 迫 した要 請 があっ
たのである。
その後 の等 価 への関 心 は、翻 訳 類 型 の二 項 対 立 に引 き続 き発 展 していった。例 えば、
ハウス(Juliane House, 1977; 1997)の「顕 在 化 翻 訳 」(overt translation)と「潜 在 化 翻 訳 」
( covert translation ) 、 ニ ュ ー マ ー ク ( Peter Newmark, 1981 ) の 「 意 味 重 視 の 翻 訳 」
(semantic translation)と「コミュニケーション重 視 の翻 訳 」(communicative translation)、ノ
ード(Christiane Nord, 1997)の「記 録 としての翻 訳 」(documentary translation)と「道 具 とし
ての翻 訳 」(instrumental translation)などの二 項 的 な翻 訳 方 法 は、コミュニケーション行 為
としての翻 訳 がどのような等 価 を規 定 的 に志 向 しているのかをとらえたものである。ピム
(2010, p. 55)に従 えば、これらは「方 向 的 等 価 」(directional equivalence)という概 念 でまと
めることもできる。
2.3 等 価 を超 えて
翻 訳 についての言 語 学 的 研 究 は異 言 語 間 における等 価 への探 求 から出 発 し、等 価 を
類 型 化 し分 類 するという点 では一 定 の精 緻 化 もなされた。だが、トゥーリー(Gideon Toury)
の「記 述 的 翻 訳 研 究 」(descriptive translation studies)では、等 価 を超 えて反 対 方 向 から
眺 めることになる。つまり、等 価 はすでにそこに存 在 する、と措 定 したのだ(Toury, 1995)。
まず、翻 訳 とは何 かという難 問 に対 するトゥーリーの答 えは明 快 だった。それは、翻 訳 で
あると見 なされているものが翻 訳 であるという、同 義 反 復 と思 えるものの、虚 を突 いた定 義 で
あった。そして、目 標 テクストが所 与 の起 点 テクストの翻 訳 であれば、そこに等 価 の関 係 が
すでに成 立 していることを自 明 とするのだ。このように、翻 訳 と等 価 をアプリオリに仮 定 してし
まえば、その関 係 を成 り立 たせる社 会 文 化 的 な「翻 訳 規 範 」(translational norm)の分 析 へ
と向 かうことが可 能 となる。
トゥーリーによれば、翻 訳 とは「規 範 に支 配 された活 動 」(norm-governed activity)である
(ibid., pp. 53-69)。翻 訳 者 の翻 訳 行 為 は、拘 束 力 のある規 則 から個 人 的 な特 異 性 の間 に
拡 散 する連 続 体 としての「規 範 」(norm)に制 約 され遂 行 されるのだ。この規 範 という概 念 は
社 会 学 からの援 用 で、不 安 定 な社 会 文 化 的 特 性 を有 するものであり、それゆえに交 渉 可
能 である。等 価 を前 提 として翻 訳 規 範 の交 渉 を明 らかにしようとするトゥーリーらの研 究 は、
翻 訳 の等 価 を規 定 的 概 念 から歴 史 的 概 念 へと変 容 させた。そして翻 訳 規 範 の研 究 は、
「翻 訳 の普 遍 性 」(universal of translation)を求 める道 へと向 かったが、等 価 そのものを生
成 する翻 訳 行 為 のイデオロギー性 は不 問 とされた。
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翻訳研究における「等価」言説
3. スキャンダル、不 可 視 性 、ポストコロニアル
翻 訳 テクストに対 する言 語 学 的 な等 価 分 析 を拒 み、記 述 的 翻 訳 研 究 の規 範 概 念 が価
値 観 から離 れたものあることに異 議 申 し立 てをしたのは、アメリカで活 躍 するイタリア語 -英
語 の翻 訳 者 かつ翻 訳 研 究 者 のヴェヌティである。また、フランス現 代 思 想 の影 響 を受 けた
ニランジャナ(Tejaswini Niranjana)は、ポストコロニアルな観 点 から 19 世 紀 インドにおける
植 民 地 政 策 と翻 訳 の問 題 系 を論 じた。両 者 の主 張 に共 通 するのは、起 点 言 語 と目 標 言 語
の間 に力 の不 均 衡 があれば、翻 訳 は非 対 称 的 な権 力 関 係 から逃 れることができないという
立 ち位 置 から、英 語 への翻 訳 に顕 現 する暴 力 性 に抗 議 する姿 勢 である。ポストコロニアル
翻 訳 研 究 においては、言 語 学 的 等 価 性 の分 析 そのものがスキャンダルとなる。
3.1 翻 訳 のスキャンダルと不 可 視 性
ヴェヌティは翻 訳 のスキャンダルと翻 訳 者 の「不 可 視 性 」(invisibility)を問 題 とする。特
に英 語 圏 において、文 化 的 、経 済 的 、政 治 的 に翻 訳 と翻 訳 者 が周 辺 化 されている現 実 に
注 意 を喚 起 し、英 国 や北 アメリカなど、いわゆるアングロ・アメリカ文 化 における翻 訳 の位 置
づけを問 題 視 する。ヴェヌティによれば、「透 明 性 という幻 想 」を生 み出 し、翻 訳 行 為 が隠 蔽
される状 況 が翻 訳 のスキャンダルである(Venuti, 1995/2008, 1998)。
アングロ・アメリカ文 化 においては、違 和 感 のない滑 らかな翻 訳 文 体 、つまり翻 訳 でありな
がら翻 訳 ではないような翻 訳 が好 まれる。これには出 版 社 ・編 集 者 ・評 者 ・読 者 など出 版 業
界 内 外 の関 係 者 の指 図 や意 見 が深 くかかわっている。そのような環 境 下 での翻 訳 実 践 の
結 果 として、異 質 性 や他 者 性 を消 去 した翻 訳 作 品 が生 産 される。翻 訳 は原 作 の二 次 的 な
派 生 物 として消 費 され、翻 訳 者 は不 可 視 の存 在 となるのである(Venuti, 1995/2008, pp.
1-34)。
「同 化 的 翻 訳 」(domesticating translation)と「異 化 的 翻 訳 」(foreignizing translation) 7 と
いう 2 つの方 略 を提 示 するヴェヌティは、異 質 な外 国 語 で書 かれた起 点 テクストを自 民 族 中
心 的 な目 標 テクストとして受 容 する同 化 的 翻 訳 方 略 を批 判 した。この二 項 の起 源 となって
いるのは、ドイツ・ロマン主 義 の神 学 者 シュライアーマハー(Friedrich Schleiermacher)によ
る 1813 年 の講 義 録 、‘Uber die verschiedenen Methoden des Ubersetzens’(邦 題 「翻 訳 の
さまざまな方 法 について」) である。
…翻 訳 者 が辿 る道 はどういったものでしょうか。私 が見 たところでは道 は 2 つしかありま
せん。著 者 をできるだけそっとしておいて読 者 の方 を著 者 に向 けて動 かす、あるいは
読 者 の方 をできるだけそっとしておいて著 者 を読 者 に向 けて動 かす、このどちらかしか
ありません。
(シュライアーマハー,1813/2008, p. 38)
シュライアーマハーは異 化 作 用 の手 法 によって、「著 者 をできるだけそっとしておいて読
者 の方 を著 者 に向 けて動 かす」ことを推 奨 し、これがヴェヌティの異 化 的 翻 訳 へと受 け継 が
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『通訳翻訳研究』13 号 (2013)
れ た 。 た だ し 、 ヴ ェ ヌ テ ィ ( 1998, pp. 9-20 ) は 、 「 マ イ ノ リ テ ィ 化 翻 訳 」 ( minoritizing
translation)という語 も使 用 している。英 語 への翻 訳 行 為 における異 化 的 方 略 の呼 びかけ
には、英 語 帝 国 主 義 に対 するマイノリティ言 語 の抵 抗 という構 図 があるのだ。
アングロ・アメリカ文 化 における日 本 文 学 の受 容 のされ方 に関 しても、第 二 次 世 界 大 戦
後 1950 年 代 60 年 代 に英 訳 された川 端 康 成 、三 島 由 紀 夫 、谷 崎 潤 一 郎 などの「日 本 的 」
作 品 が、近 代 日 本 文 学 の正 典 となった点 が指 摘 されている(ibid., pp. 67-75)。覇 権 的 な
言 語 としての英 語 への翻 訳 という出 来 事 では、どの作 家 が誰 によって選 択 され、それがど
のような方 略 で翻 訳 されたのかを検 証 することで、翻 訳 行 為 の「オリエンタリズム」が露 呈 さ
れるのである。
3.2 ポストコロニアル翻 訳 研 究
ポストコロニアルなアプローチからの翻 訳 研 究 は、異 なる言 語 間 の不 均 衡 な権 力 関 係 を
問 題 とする。そして、翻 訳 行 為 がもたらす言 語 間 の不 平 等 性 に闘 争 を挑 む。このような非
対 称 性 は、現 代 の翻 訳 学 では特 に英 語 という支 配 的 な言 語 へと翻 訳 される際 に顕 著 とな
る。バスネットとトリヴェディ(Susan Bassnett and Harish Trivedi)が 1999 年 に編 集 した
Postcolonial Translation: Theory and Practice は、そのような論 考 を集 成 した論 文 集 であ
る。また、スピヴァック(Gayatori Chakravorty Spivak)は「翻 訳 の政 治 学 」(1996)において、
西 洋 のフェミニズムを非 難 しながら、抑 圧 されたアイデンティティが英 語 に翻 訳 されることに
よって歪 曲 され続 けてきたと論 じる。
ニランジャナによる 1992 年 の Siting Translation: History, Post-structuralism, and the
Colonial Context では、ポストコロニアルな文 脈 において民 族 や言 語 の間 の不 平 等 と非 対
称 を明 らかにするために、翻 訳 実 践 の役 割 とその問 題 を定 置 する。ド・マン(Paul de Man)、
デリダ(Jacques Derrida)、ベンヤミン(Walter Benjamin)らを読 解 しながら、植 民 地 におけ
る「従 属 化 (主 体 化 )」(subjection/subjectification)がどのように実 践 されてきたのかという
点 で、翻 訳 の果 たした役 割 を位 置 づけるのである。
整 合 的 で透 明 なテクストと主 体 を創 出 するときに、翻 訳 は多 様 な言 説 を横 断 して植 民
地 の文 化 を定 置 することに参 与 する。そして、植 民 地 の文 化 が歴 史 的 に構 築 されたも
のでなく、あたかも静 的 で不 変 なものであるかのように思 わせる。翻 訳 はすでに存 在 す
る何 かの透 明 な現 前 として機 能 する。だが、その「オリジナル」は実 際 には翻 訳 を通 し
てもたらされるのである。逆 説 的 に言 えば、翻 訳 はまた、植 民 地 の人 々にとっての「歴
史 」における場 所 をも提 供 するのだ。
(Niranjana, 1992, p. 3)
こうしてニランジャナは英 語 への翻 訳 によって、植 民 地 の主 体 (臣 民 )や歴 史 が逆 説 的 に
構 築 され、「東 洋 」のイメージが書 き換 えられた点 を糾 弾 し、「支 配 者 なき植 民 地 主 義 」
(absentee colonialism)という表 現 で翻 訳 の責 任 を問 うのである(ibid., p. 8)。
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翻訳研究における「等価」言説
言 語 間 の非 対 称 性 の力 学 は、近 代 日 本 における翻 訳 の実 践 においても見 過 ごされて
はならない。ただしここには、西 洋 語 と日 本 語 、日 本 語 と旧 植 民 地 の諸 言 語 という二 重 に
非 対 称 的 な権 力 関 係 が介 在 している。このうち西 洋 語 からの翻 訳 について言 えば、西 洋 の
植 民 地 支 配 下 になかったにもかかわらず、日 本 が西 洋 語 への過 剰 な模 倣 と擬 態 を示 した
点 で、ニランジャナの「支 配 者 なき植 民 地 主 義 」は、小 森 陽 一 の「自 己 植 民 地 化 」とも通 底
する。小 森 によれば、自 己 植 民 地 化 とは近 代 日 本 において「欧 米 列 強 という他 者 に半 ば強
制 された論 理 によって、自 発 性 を装 いながら植 民 地 化 する状 況 」である。
あたかも自 発 的 意 志 であるかのように「文 明 開 化 」というスローガンを掲 げて、欧 米 列
強 を模 倣 することに内 在 する自 己 植 民 地 化 を隠 蔽 し、忘 却 することで、植 民 地 的 無 意
識 が構 造 化 される。
(小 森 ,2001, p. 15)
福 沢 諭 吉 は 1875 年 の『文 明 論 之 概 略 』で、文 明 開 化 の度 合 いを「文 明 ・半 開 ・野 蛮 」と
いう三 段 階 に相 対 化 した。この見 方 では、欧 米 列 強 の「文 明 」に対 しては「半 開 」でしかな
い日 本 が、「野 蛮 」な周 辺 地 域 を領 土 化 するために、「野 蛮 」を発 見 し続 けると同 時 に、「文
明 」への擬 態 と模 倣 が常 に要 請 される。
国 を挙 げて文 明 開 化 を掲 げた近 代 日 本 では、翻 訳 主 義 が採 用 された(加 藤 ,1991; 丸
山 ・加 藤 ,1998 参 照 )。その結 果 、矢 野 文 雄 『訳 書 読 法 』の「序 」で述 べられているように、
「方 今 訳 書 出 版 ノ盛 ナルヤ、其 ノ数 幾 万 巻 、啻 ニ汗 牛 充 棟 ノミナラザルナリ」という状 況 も
生 まれた 8 。明 治 政 府 にとって、西 洋 の科 学 技 術 や社 会 制 度 などを翻 訳 することは死 活 的
に重 要 な国 家 事 業 であり、開 化 啓 蒙 期 の日 本 の翻 訳 は、西 洋 語 と等 価 である(と虚 構 され
た)翻 訳 語 とそれを統 辞 的 に配 列 する翻 訳 文 体 で西 洋 文 明 を表 象 していた(はずだと思 い
こまれた)。ここにポストコロニアルな視 線 を照 射 すれば、翻 訳 行 為 によって遂 行 された等 価
が西 洋 文 明 への擬 態 を可 能 にし、模 倣 に隠 された自 己 植 民 地 化 へと導 いたと言 える。
4. 近 代 日 本 の翻 訳 論 と等 価
ここからは、わが国 の翻 訳 論 のなかでも、とりわけ等 価 への見 果 てぬ夢 を抱 いた野 上 豊 一
郎 と、翻 訳 語 と翻 訳 文 体 における等 価 の虚 構 を暴 いた柳 父 章 の言 説 に的 を絞 って論 じる。
両 者 の翻 訳 論 を対 比 的 に読 みながら、両 極 にある日 本 の等 価 言 説 を考 察 する。
4.1 野 上 豊 一 郎 の翻 訳 論 :浪 曼 的 等 価
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夏 目 漱 石 門 下 の英 文 学 者 、野 上 豊 一 郎 は能 楽 の研 究 者 としても著 名 である。彼 は小
冊 子 の「翻 訳 論 」に続 き、『翻 訳 論 ―翻 訳 の理 論 と実 際 』を出 版 している。まず 1932 年 に
「翻 訳 論 」が「岩 波 講 座 世 界 文 学 」のシリーズの一 冊 として刊 行 された。これは、1938 年 の
『翻 訳 論 ―翻 訳 の理 論 と実 際 』に「翻 訳 の理 論 」という章 として再 録 され、さらに「翻 訳 の態
度 」「日 本 文 学 の翻 訳 」「謡 曲 の翻 訳 について」「蒟 蒻 問 答 」などが追 加 された。この 1938
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『通訳翻訳研究』13 号 (2013)
年 版 の『翻 訳 論 』は、200 頁 超 の本 格 的 な翻 訳 理 論 書 である。同 時 代 評 は概 ね良 好 であり、
多 くの書 評 も出 た。とりわけ小 林 秀 雄 は、「大 変 面 白 く読 み、教 へられる処 が多 かつた。恐
らく外 国 にも類 書 はないだろう。あつてもこんなに翻 訳 上 の諸 問 題 を綿 密 に論 評 したものは
無 いだらう」と絶 賛 している
10
。ところがその後 は、翻 訳 理 論 としての継 承 発 展 は特 になかっ
たと言 わざるを得 ない。そして 1970 年 代 以 降 は日 本 語 の「翻 訳 調 」批 判 を背 景 として、野
上 の「直 訳 」擁 護 的 な主 張 は実 務 者 から厳 しく攻 撃 された(例 えば、別 宮 ,1975 など)。た
だし近 年 では翻 訳 の文 化 史 という観 点 から、野 上 の翻 訳 論 の再 評 価 も提 起 されるようにな
った(鈴 木 , 2012 参 照 )。だが筆 者 は、等 価 の陥 穽 にはまったスキャンダルとして、野 上 の
言 説 を再 読 できると考 える。
野 上 が翻 訳 論 を発 表 した戦 間 期 の 1930 年 代 とはどのような時 代 であったのか。保 田 與
重 郎 らが文 学 同 人 誌 『日 本 浪 曼 派 』を創 刊 したのが、1935 年 である。野 上 自 身 は同 人 で
はなかったが、伝 統 美 への回 帰 と西 洋 近 代 への屈 折 したまなざしのなかで、彼 の翻 訳 論 は
発 表 されたのである。『翻 訳 論 』の冒 頭 は「世 界 が一 つの読 書 サークルを形 作 らうとしたの
は大 分 以 前 のことであつた。西 洋 で逸 早 くそれは形 づくられ、思 想 的 に国 境 はとつくに取 り
はづされ、東 洋 でも日 本 は率 先 してそれに参 加 した」(野 上 ,1938, p. 1)とはじまる。翻 訳 に
対 する野 上 の考 え方 は、日 本 が欧 米 諸 国 と比 肩 しようとした時 代 の思 潮 と重 なる。
野 上 は色 のメタファーを随 所 で多 用 して、究 極 的 に翻 訳 が目 指 す透 明 性 を語 る。「無 色
モ ノ ク ロ ー ム
的 翻 訳 」「単 色 版 的 翻 訳 」などの言 説 は、西 洋 語 と日 本 語 の関 係 が対 等 であることを前 提
とする。そして、異 言 語 間 に存 在 する壁 を否 認 する強 い欲 望 が見 え隠 れする。さらに目 を
引 くのは、もうひとつのキーワード「等 量 的 翻 訳 」である。これについては、『翻 訳 論 』以 前 の
論 考 でも次 のように表 現 されていた。
翻 訳 は A の国 語 で言 ひ表 はされてある事 なり心 持 なりを、その通 りに B の国 語 で言 ひ
表 はさうとするのであつて、其 の際 、原 物 に盛 られた思 想 感 情 の同 じ分 量 が複 製 の中
にも盛 られねばならぬのである。盛 られたものが原 物 に比 較 して過 多 に失 する場 合 も、
不 足 の場 合 と同 様 に失 敗 である。ただ表 現 する言 葉 が違 ふだけのことで、中 身 は全 く
同 じ本 質 で、同 じ分 量 でなければならぬ。
(野 上 ,1921,p. 135)
ここに述 べられた「思 想 感 情 の同 じ分 量 」「同 じ本 質 で、同 じ分 量 」という考 えが、『翻 訳
論 』では、「等 量 的 翻 訳 」として明 確 に概 念 化 されることになる。「西 洋 のものを日 本 のものら
しく書 き直 す」という意 味 での等 価 ではなく、「西 洋 のものを西 洋 のものらしく日 本 語 で表 現
する」ために、「従 来 の日 本 文 の文 脈 を破 」り、新 たな表 現 様 式 を創 出 することを志 向 したも
のであった(野 上 ,1938,pp. 195-234)。西 洋 が日 本 語 で表 象 できるという、ある種 ロマン主
義 的 な等 価 性 を追 い求 めるのである。
しかしながら、実 はこの概 念 化 自 体 に野 上 独 自 の考 えと言 い切 れない疑 念 が残 る。『翻
訳 論 』の理 論 的 著 述 の全 体 に西 洋 近 代 の翻 訳 論 が色 濃 く投 影 されているからだ(長 沼 ,
32
翻訳研究における「等価」言説
2010)。
ほぼ同 時 代 を生 きた英 国 の古 典 学 者 ポストゲイト(John Percival Postgate)は、1922 年
に Translation and Translations: Theory and Practice を刊 行 している。ポストゲイトは、
‘commensurateness’( 同 等 ) とい う 語 を繰 り 返 し 用 いた が、 この 語 の 意 味 するとこ ろ は、“A
translation must be true to its original in Quantity as well as Quality. The two are not
independent, and inattention to the former cannot fail to affect the latter.”「翻 訳 は量 と質
において、オリジナルに忠 実 でなければならない。量 と質 は自 立 したものではなく、量 への
無 関 心 は質 へと影 響 しないはずはない」(Postgate, 1922, p. 65)と、量 と質 の両 面 からの等
価 である。野 上 の「等 量 的 翻 訳 」という概 念 はポストゲイトをそのまま踏 襲 していることにな
る。
完 全 な翻 訳 は、第 一 に、原 作 の表 現 が一 語 一 語 の末 まで正 確 な意 味 を把 握 して伝
へられなければならぬ。次 に、用 ひられた国 語 の特 性 が原 作 の国 語 の特 性 を最 近 似
の度 合 に於 いて連 想 させるものでなければならぬ。最 後 に、さうやつてまとめ上 げられ
た翻 訳 は、全 体 として、措 辞 ・語 法 の点 から見 ても、文 勢 ・格 調 の点 から見 ても、原 作
のそれ等 と同 質 ・同 量 のうつしとなつてゐなけれならぬ。
(野 上 ,1938,p. 93)
野 上 は翻 訳 における忠 実 性 の理 想 を掲 げるが、それは西 洋 語 と日 本 語 との透 明 な等 価
性 という幻 想 に囚 われた帰 結 であった。西 洋 の翻 訳 論 、とりわけポストゲイトの理 論 的 論 考
を引 き写 した野 上 の翻 訳 論 は、二 重 の意 味 で等 価 のスキャンダルに翻 弄 された。日 本 浪
曼 派 の時 代 に応 答 するかのように、いわば浪 曼 的 等 価 の罠 にはまったのである。
4.2 柳 父 章 の翻 訳 論 :日 本 語 のスキャンダル
Translation Studies という名 称 が初 めて提 唱 されたのは、1972 年 の国 際 応 用 言 語 学 会
でのホームズ(James S. Holmes)の発 表 である(Holmes, 1988/2004)。日 本 ではこの年 に、
柳 父 章 の最 初 の著 作 『翻 訳 語 の論 理 ―言 語 にみる日 本 文 化 の構 造 』が刊 行 されている。
本 書 においてもその後 の一 連 の翻 訳 論 においても、「等 価 」という語 を直 接 用 いるか否 かに
かかわらず、柳 父 の翻 訳 論 は近 代 日 本 語 に潜 む等 価 幻 想 を暴 くものである。『翻 訳 語 成
立 事 情 』(1982)のなかで翻 訳 語 が成 立 した歴 史 を考 える際 には、「単 にことばの問 題 とし
て、辞 書 的 な意 味 だけを追 うというやり方 を、私 はとらない。ことばを、人 間 との係 わりにおい
て、文 化 的 な事 件 の要 素 という側 面 から見 ていきたいと思 う。とりわけ、ことばが人 間 を動 か
している、というような視 点 を重 視 したい」(p. 47)と述 べる。また、『近 代 日 本 語 の思 想 ―翻
訳 文 体 成 立 事 情 』(2004)では、「日 本 の近 代 を、西 洋 近 代 から到 来 した文 明 の言 葉 の事
件 として、その文 字 の翻 訳 という側 面 から迫 ってみたい」(pp. 195-196)とする。こうして、「文
字 の出 来 事 」として、翻 訳 語 と翻 訳 文 体 に隠 された日 本 語 のスキャンダルが明 らかにされ
る。
33
『通訳翻訳研究』13 号 (2013)
4.2.1 翻 訳 語 の成 立
翻 訳 語 という「不 透 明 」なことばを多 量 に生 産 した近 代 日 本 語 の歴 史 を振 り返 りながら、
柳 父 (1972, p. 10)は西 周 の述 懐 を引 用 する。
本 邦 従 来 欧 州 性 理 ノ書 ヲ訳 スル者 甚 タ稀 ナリ是 ヲ以 テ訳 字 ニ至 リテハ固 ヨリ適 従 スル
所 ヲ知 ラス且 漢 土 儒 家 ノ説 ク所 ニ比 スルニ心 性 ノ区 分 一 層 微 細 ナルノミナラス其 指 名
スル所 モ自 ラ他 義 アルヲ以 テ別 ニ字 ヲ選 ヒ語 ヲ造 ルハ亦 已 ムヲ得 サルニ出 ツ
これは、Joseph Haven 著 Mental Philosophy(1869)の西 周 訳 『心 理 学 』(1875-76)にお
ける「凡 例 」の一 節 である。西 に代 表 される当 時 の知 識 人 翻 訳 者 は、「固 ヨリ適 従 スル所 ヲ
知 ラス」という訳 字 について、「語 ヲ造 ルハ亦 已 ムヲ得 サルニ出 ツ」という方 針 に従 って翻 訳
と格 闘 した。西 洋 語 からの翻 訳 のために使 用 された膨 大 な漢 語 には、漢 籍 からの借 用 もあ
れば新 造 語 もあり、この現 象 自 体 は国 語 学 的 研 究 においても従 来 から指 摘 されている(森
岡 編 ,1969; 佐 藤 ,1986; 高 野 ,2004 など)。けれども、翻 訳 研 究 として重 要 となるのは、
それらの語 彙 が翻 訳 プロセスで等 価 として選 択 された、あるいは選 択 されたがゆえに等 価
であるという幻 想 が生 まれた点 である。翻 訳 行 為 の遂 行 によって等 価 が成 立 したのだ。旧
来 から存 在 していたか新 たに造 語 されたかの如 何 を問 わず、近 代 日 本 語 における翻 訳 語
としての漢 語 が過 去 を継 承 しながらも切 断 し、西 洋 語 の等 価 物 として誕 生 したのである。
柳 父 は翻 訳 語 を意 味 の乏 しいことばであるという。しかも、それは誰 にも気 づかれにくい。
いわば日 本 語 における翻 訳 語 のスキャンダルなのだ。翻 訳 語 は異 言 語 と相 互 参 照 され、
意 味 は此 岸 にはなく彼 岸 にあるのかもしれない(あるいは、どこにもない)のだが、その事 実
自 体 は等 価 幻 想 によって隠 蔽 される。翻 訳 行 為 は虚 構 としての等 価 を生 み出 すが、この日
本 語 の出 来 事 は、日 本 人 が漢 字 という文 字 を受 け入 れた古 代 にまで遡 る。
哲 学 者 の中 村 雄 二 郎 は、国 語 学 者 の時 枝 誠 記 の日 本 語 文 法 論 を参 照 しながら、かつ
て次 のように述 べて、時 枝 の「言 語 過 程 説 」は「事 としての言 語 観 」の上 に築 かれるものとし
た。
時 枝 によれば、日 本 の伝 統 的 な言 語 論 の特 色 は、一 般 にヨーロッパの言 語 学 が言 語
、
こと
こと
を物 として見 る傾 向 がつよいのに対 して、言 と事 を同 一 視 するような考 え方 がつよいこ
、、、
、
とにある。だが、どうしてそういう特 色 が生 まれたのだろうか。それは言 う事 の根 本 に心
があって、心 が発 動 されて言 語 になるというように見 なされてきたからであろう。
(中 村 ,1993, p. 69,強 調 原 文 )
中 村 は『古 今 集 』の序 文 「やまと歌 は人 の心 を種 として、よろづの言 の葉 とぞなれりける」も
こと
こと
引 きながら、「心 が発 動 されて言 語 になる」ことを説 明 する。だが、「言 と事 を同 一 視 するよう
な考 え方 」というのは、文 字 以 前 の状 況 を想 定 すれば想 像 に難 くないのではないか。文 字
をあてる前 には「言 」「事 」という区 別 はなく、ただ「コト」という「やまとことば」だけがあったに
34
翻訳研究における「等価」言説
すぎない。柳 父 (1972, pp. 88-135)によれば、『万 葉 集 』のなかでは借 訓 文 字 である「事 」
「言 」の文 字 がいずれも「コト」にあてられている
11
。とは言 え、「事 」と「言 」という別 の概 念 を
持 つ借 字 を無 頓 着 に混 用 しているのでもなく、その区 別 に無 知 であったのでもない。つまり、
「事 」と「言 」を「同 一 視 」しているのではなく、「やまとことば」の「コト」という根 源 的 に「同 一 」
のことばだったのであり、意 識 的 に混 用 できたのである。しかしながら、「やまとことば」と借 訓
文 字 の等 価 性 という思 いこみは、このように気 づかれにくい。
一 般 的 に言 って、日 本 人 は、外 来 の文 字 を、必 ずしもその原 語 の概 念 どおりに受 けと
めてきたのではない、と私 は思 う。このことは、近 代 以 降 、ヨーロッパ文 明 の言 葉 を翻 訳
語 として受 け入 れて後 の事 情 についても、基 本 的 に変 わりはない、と思 う。
(柳 父 ,1972, pp. 89-90)
古 代 においては漢 字 という文 字 を受 け入 れ、さらに明 治 期 には漢 字 二 字 の多 くの翻 訳 語
が翻 訳 行 為 によって誕 生 した。近 代 の翻 訳 語 では、西 洋 語 という異 言 語 の意 味 を漢 字 と
いう異 言 語 の文 字 で表 記 している事 実 は無 意 識 のなかに沈 められて、西 洋 語 と等 価 な意
味 をもつ近 代 日 本 語 という虚 構 が成 立 したのである。
4.2.2 翻 訳 文 体 の思 想
近 代 日 本 の翻 訳 論 として最 も有 名 な言 説 の ひとつは、おそらく二 葉 亭 四 迷 に よる例 の
「原 文 にコンマが三 つ、ピリオドが一 つあれば、訳 文 にも亦 ピリオドが一 つ、コンマが三 つと
いふ風 にして…」という件 を含 む「余 が翻 訳 の標 準 」(『成 功 』第 8 巻 3 号 ,1906)であろう。
上 記 に続 く部 分 はこうである。
出 来 上 つた結 果 はどうか、自 分 の訳 文 を取 つて見 ると、いや実 に読 みづらい、佶 倔 聱
牙 だ、ぎくしやくして如 何 にとも出 来 栄 えが悪 い。従 つて世 間 の評 判 も悪 い、隅 々賞
美 して呉 れた者 もあつたけれど、おしなべて非 難 の声 が多 かつた。
後 になって四 迷 が得 た日 本 近 代 文 学 における言 文 一 致 文 体 への高 い評 価 とは裏 腹 の、
この「佶 倔 聱 牙 」の翻 訳 文 体 とは何 であったのか。この点 を考 える糸 口 を柳 父 が指 摘 してい
る。それは、大 日 本 帝 国 憲 法 の文 体 に頻 出 するような「主 語 」構 文 であり、小 説 においては
三 人 称 代 名 詞 「彼 」「彼 女 」、学 術 論 文 においては未 知 難 解 な抽 象 名 詞 で始 まる「センテ
ンス」の成 立 である。近 代 日 本 語 は言 文 一 致 という過 程 を経 て成 立 したと言 われるが、文
字 通 りに「言 」(音 声 言 語 )と「文 」(書 記 言 語 )とを一 致 させることは不 可 能 であり、西 洋 語
からの翻 訳 が近 代 日 本 語 形 成 に深 く関 与 している。
近 代 日 本 語 に、「主 語 」らしい文 法 要 素 がつくられ、またこの「主 語 」を受 けて、文 を結
ぶ「である。」という文 末 語 もつくられた。それは、日 本 語 の中 で果 たしたのは、上 から
35
『通訳翻訳研究』13 号 (2013)
下 へ天 降 ってくる演 繹 的 論 理 を導 く新 しい機 能 であったが、とにかく西 洋 語 の主 語 の
翻 訳 という使 命 を果 たしていた。それによって、近 代 西 洋 の法 律 、文 学 などの思 想 内
容 を持 ち運 んでくる役 割 を果 たしていた。とりわけ、最 先 端 の新 しい未 知 の概 念 を持
ち運 んでくるのに有 効 であったようである。
(柳 父 ,2004, p. 141)
日 本 語 文 体 の諸 相 は、西 田 幾 多 郎 の哲 学 や時 枝 誠 記 の日 本 語 文 法 論 など、日 本 語 の
思 想 と文 体 を論 じる場 面 でも論 じられることがある。西 田 の「述 語 論 理 」と時 枝 の「言 語 過
程 説 」を結 び付 けて、両 者 の共 通 性 から「日 本 語 の論 理 」を言 語 主 体 ではなく「場 所 の論
理 」とする見 方 である(中 村 ,1993, pp. 63-74 参 照 )。
柳 父 はこのような見 解 を一 応 は認 めつつ、近 代 日 本 語 の翻 訳 文 体 という点 から、独 自 の
文 体 論 を展 開 する。大 槻 文 彦 以 来 、西 洋 文 法 をモデルとして日 本 語 文 法 を論 じてきた反
省 として三 上 章 の主 語 廃 止 論 を首 肯 しながらも、近 代 日 本 語 の「主 語 」を括 弧 つきで用 い
る立 場 である。
柳 父 の翻 訳 論 の核 心 にあるのは、翻 訳 との出 会 いを契 機 に日 本 語 が引 受 けてきた矛 盾
である。日 本 列 島 において漢 字 が使 用 され始 めて以 来 続 いてきた、異 質 な文 化 の文 字 と
語 彙 文 法 を受 容 した日 本 語 が孕 む等 価 への思 いこみが呼 び出 される。翻 訳 による異 文 化
との出 会 いは、日 本 語 文 体 の思 想 をも変 容 させてきたのだった。
時 枝 の説 く「陳 述 」は、伝 統 的 な日 本 文 においては、「辞 及 び陳 述 を客 体 的 なものか
ら切 離 して、主 体 的 なものの表 現 」と考 えられている。その文 法 構 造 を受 けて考 えるな
らば、近 代 以 後 に翻 訳 の場 でつくられた「である。」や「た。」や「ル形 」は、客 観 的 な判
断 の内 容 を包 み込 んでいる、と言 えるだろう。即 ち、客 観 的 判 断 内 容 を「主 体 的 なもの
の表 現 」で包 み込 むといういわば矛 盾 した構 造 である。それは、結 局 近 代 日 本 語 にお
ける翻 訳 文 の持 つ本 質 的 な矛 盾 ともいえるのではないか。西 洋 舶 来 の客 観 的 、論 理
的 内 容 や、人 間 世 界 についての客 観 的 叙 述 は、いったん翻 訳 者 や学 者 や作 家 の
「主 体 的 なものの表 現 」に納 められ、そこで「主 体 的 」な変 容 をこうむる。
(柳 父 ,2004, p. 162)
例 えば、英 語 の be 動 詞 によって A=B という関 係 を定 義 する構 文 は、「(主 語 )は~であ
る。」と近 代 日 本 語 では翻 訳 されるが、その意 味 は、「発 言 者 の立 場 から整 序 され、色 づけ
され、つくりなおされる」のである。そして、「主 語 」の空 間 に置 かれた名 詞 が抽 象 的 な翻 訳
語 である場 合 には、その客 観 的 な意 味 内 容 が明 確 でなくとも、主 体 的 な解 釈 によって評 価
されて次 第 に変 化 していく。このような構 文 装 置 に仮 託 して、夥 しい西 洋 の思 想 や学 術 テク
ストが日 本 語 へと翻 訳 されてきたのである。
柳 父 が指 摘 するように、「未 知 な概 念 を未 知 なままで、この構 文 を通 じて受 け取 ることに、
私 たちはそれなりに慣 れてきた」(ibid., p. 167)のかもしれない。と同 時 に、翻 訳 行 為 の遂
36
翻訳研究における「等価」言説
行 性 を無 意 識 の淵 へと閑 却 するがゆえに、等 価 が幻 想 にすぎないことは忘 却 されて、あた
かも自 明 の意 味 が存 在 しているかのようにふるまうことにも慣 らされてきた。ここに、等 価 とい
うスキャンダルの罠 が仕 掛 けられている。
5. おわりに
本 稿 では、翻 訳 学 における「等 価 」という鍵 概 念 を確 認 したうえで、日 本 の翻 訳 言 説 と接
合 し、野 上 豊 一 郎 が囚 われ、柳 父 章 が暴 いた等 価 幻 想 を明 らかにした。従 来 は別 々に語
られてきた欧 米 系 の翻 訳 学 と日 本 の翻 訳 論 に等 価 という補 助 線 を引 いてみたのだ。そこに
潜 んでいたのが「スキャンダル」という罠 である。
翻 訳 不 可 能 論 にもかかわらず現 実 に翻 訳 は存 在 し、異 言 語 間 のコミュニケーション行 為
は遂 行 されている。等 価 という概 念 は気 まぐれでさえある。翻 訳 の等 価 は、ないと言 えばな
いし、あると言 えばある。その意 味 で、想 像 された等 価 概 念 を虚 構 と呼 ぶこともできる。欧 米
の翻 訳 学 史 においては、等 価 への求 心 力 が遠 心 力 に転 じて、翻 訳 の等 価 は時 代 遅 れの
幻 想 になってしまったのかもしれない。等 価 の探 求 が翻 訳 学 の成 立 に寄 与 した反 面 、文 化
的 転 回 が等 価 をスキャンダルにしたのだ。だが日 本 においては、特 に明 治 以 降 の近 代 化
のなかで翻 訳 を考 察 するために、等 価 という概 念 は幻 想 であれ何 であれ、さらには幻 想 で
あればこそ、可 視 化 しておくべきもの、と筆 者 は考 える。柳 父 も指 摘 す るように、他 者 との
「未 知 不 可 解 な出 会 い」における翻 訳 は、日 本 語 をめぐる出 来 事 である。特 に「近 代 化 =
西 洋 化 」という啓 蒙 の幻 想 図 式 を成 立 させるためには、西 洋 の言 語 と等 価 であると虚 構 さ
れた翻 訳 語 と翻 訳 文 体 が必 要 であった。
原 作 の派 生 物 としての翻 訳 、著 者 性 を有 しない翻 訳 者 は不 可 視 の存 在 とみなされる傾
向 にある。翻 訳 実 践 には長 い時 間 が流 れているが、翻 訳 学 として学 術 的 に体 系 化 され始
めたのが 20 世 紀 後 半 であるのも故 なきことではない。若 い学 問 の典 型 として、翻 訳 学 も学
際 性 に富 む領 域 であり、言 語 学 、文 学 、歴 史 学 、哲 学 、社 会 学 、心 理 学 、コミュニケーショ
ン 学 な ど 諸 学 問 や そ の 下 位 領 域 と の 関 連 は 深 い 。 Translation Studies と い う 名 称 は
Cultural Studies(カルチュラル・スタディーズ)を想 起 させるが、ともに現 代 的 な問 題 への関
心 を共 有 している。いまの日 本 では、とりわけ 3.11 を契 機 とした思 考 と相 俟 って、さまざまな
テクストの読 み直 しが求 められている。このような時 代 のなかで翻 訳 テクストを読 む際 には、
日 本 語 に記 憶 された等 価 幻 想 の可 視 化 は避 けて通 れない課 題 である。
.............................................................
【著 者 紹 介 】
長 沼 美 香 子 (NAGANUMA, Mikako)通 訳 と翻 訳 の知 的 可 能 性 への関 心 から、理 論 研 究 ・実
践 ・教 育 に取 り組 む。『日 本 の翻 訳 論 』(共 編 著 )(法 政 大 学 出 版 局 , 2010)、『深 層 文 化 』(翻
訳 )(大 修 館 書 店 , 2013)ほか。
.....................................................................
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『通訳翻訳研究』13 号 (2013)
【注 】
1. Translation Studies には日 本 語 の定 訳 がない。マンデイ(Jeremy Munday)による 2008 年
の翻 訳 理 論 の概 説 書 Introducing Translation Studies が『翻 訳 学 入 門 』として 2009 年 に邦
訳 刊 行 され、日 本 通 訳 翻 訳 学 会 の学 会 誌 名 が 2008 年 に『通 訳 翻 訳 研 究 』(Interpreting
and Translation Studies)と改 称 されたことなどから、「翻 訳 学 」「翻 訳 研 究 」などが比 較 的 よ
く用 いられるが、人 口 に膾 炙 してきたとまでは言 えないかもしれない。「トランスレーション・ス
タディーズ」や「TS」という表 記 なども候 補 だろうか。ちなみに、「翻 訳 学 」という語 はナイダ
(Eugene Nida)の Toward a Science of Translatin g の邦 題 『翻 訳 学 序 説 』として 1972 年 に
すでに登 場 しているが、原 著 のタイトルに Translation Studies という語 は含 まれていない。な
お本 稿 全 般 における外 国 語 原 文 の引 用 では基 本 的 に既 訳 を参 照 しているが、部 分 的 に
変 更 した箇 所 もある。既 訳 のないものは筆 者 自 身 の翻 訳 による。
2. 現 代 日 本 の英 和 辞 典 でも、その語 源 についてギリシャ語 ‘skandalon’ に言 及 し、「わな、
つまずきの石 」『ジーニアス英 和 大 辞 典 』(大 修 館 書 店 ,2001)、「わな、精 神 的 わだかまりの
原 因 」『ランダムハウス英 和 大 辞 典 』(小 学 館 ,1994)などと説 明 している。
3. 英 訳 は 1995 年 に Comparative Stylistics of French and English: A Methodology for
Translation と し て 刊 行 さ れ た 。 本 書 で ヴ ィ ネ イ と ダ ル ベ ル ネ は 、 「 直 接 的 翻 訳 」 ( direct
translation)と「間 接 的 翻 訳 」(oblique translation)という翻 訳 方 法 を示 して、それを 7 つの
手 順 ( 「 直 接 的 翻 訳 」 を 「 借 用 」 ( borrowing ) 、 「 な ぞ り 」 ( calque ) 、 「 直 訳 」 ( literal
translation)の 3 つ、「間 接 的 翻 訳 」を「転 位 」(transposition)、「調 整 」(modulation)、「等
価 」(equivalence)、「翻 案 」(adaptation)の 4 つ)に分 類 する。ここでの「等 価 」とは諺 や熟
語 など定 型 表 現 を翻 訳 するために用 いる方 略 のひとつであり、例 えば、フランス語 の
‘Aïe!’ ‘cocorico’ ‘Deux patrons font chavirer la barque.’ が 、 英 語 で は ‘Ouch!’
‘cock-a-doodle-do’ ‘Too many cooks spoil the broth.’ に相 当 するというものである。ピム
(2010, pp. 11-41)は、このような等 価 を「自 然 的 等 価 」(natural equivalence)としている。
4. ここでは「直 訳 」「意 訳 」という語 を便 宜 的 に用 いたにすぎない。英 語 の ‘literal translation’
と
‘free translation’ あ る い は
‘word-for-word translation’ と
‘sense-for-sense
translation’ などに厳 密 に対 応 するわけではない。
5. 翻 訳 学 における「文 化 的 転 回 」(cultural turn)の用 語 は、スネル=ホーンビーの 1990 年 の
論 文 ‘Linguistic transcoding or cultural transfer: A critique of translation theory in
Germany’ による。
6. ブラネンによる「日 本 語 版 への序 」には、ナイダの監 修 のもとで、「原 著 にある聖 書 の例 文 を
大 幅 に削 除 したり、他 の文 学 からの例 を代 りに挿 入 したり、新 しい例 をもつけ加 えたりしてい
るので、翻 訳 というよりは原 著 を活 かした改 作 」(ナイダ・テイバー・ブラネン,1973,p. viii)
であることが説 明 されている。
7. ‘domestication’ と ‘foreignization’ の別 の訳 語 には、それぞれ「受 容 化 」「内 国 化 」「 馴
化 」と「異 質 化 」「外 国 化 」などもある。
8. 矢 野 文 雄 (号 は竜 渓 )による『訳 書 読 法 』は 1883 年 に刊 行 された翻 訳 書 案 内 である。その
38
翻訳研究における「等価」言説
「序 」は吉 浦 生 が書 いている。
9. roman「ロマン」を「浪 漫 」と漢 字 表 記 した嚆 矢 は漱 石 である。1908 年 の「創 作 家 の態 度 」と
いう小 説 論 に、「一 度 かう云 ふ風 に推 し立 てられると、スコットは浪 漫 主 義 で浪 漫 主 義 はス
コットであると云 ふ風 にアイデンチファイされる様 になります」とある。本 稿 では野 上 との同 時
代 性 を考 慮 して、その後 の文 学 機 関 誌 『日 本 浪 曼 派 』(1935-38)に倣 い「浪 曼 」と表 記 する。
日 本 浪 曼 派 については、橋 川 (1960/1998)、ドーク(1999)などを参 照 。
10. 本 書 の 同 時 代 評 価 とし ては 複 数 の 書 評 か ら 確 認 で きる。 小 林 秀 雄 以 外 にも、 阿 部 知 二
「野 上 豊 一 郎 『翻 訳 論 』」(『文 學 界 』1938 年 5 月 号 )、本 多 顯 彰 「野 上 氏 の創 見 多 き翻 訳
論 」(『東 京 日 日 新 聞 』1938 年 4 月 27 日 )、 小 林 英 夫 「 野 上 豊 一 郎 氏 著 『翻 訳 論 』」
(『東 京 朝 日 新 聞 』1938 年 5 月 9 日 )、中 島 健 蔵 「『翻 訳 論 』の示 唆 野 上 豊 一 郎 氏 の近
著 について」(『帝 国 大 学 新 聞 』〔復 刻 版 〕不 二 出 版 ,1938/1984)などが主 なものであり、い
ずれも肯 定 的 な論 調 である。なお、大 山 定 一 は吉 川 幸 次 郎 との『洛 中 書 問 』(初 出 は 1944
年 6 月 から 12 月 の『学 海 』誌 上 )において、野 上 の『翻 訳 論 』に対 する否 定 的 な意 見 を述
べている。
11. 同 書 では、万 葉 集 における「タマ」についても、「玉 」「珠 」「霊 」「魂 」の表 記 文 字 があてられ
ていることから分 析 が進 められている。「コト」と「タマ」を合 わせれば「コトダマ」ということばと
なり、現 在 では「言 霊 」という文 字 で普 通 は表 記 される。この結 果 、上 代 日 本 人 の言 霊 信 仰
を解 釈 する際 に、その解 釈 の方 向 付 けが既 に解 釈 以 前 に与 えられてしまっていると、柳 父
は指 摘 する。「このコトは、「言 」であるか、「事 」であるか、また、このタマは、「玉 」であるか、
「霊 」であるか。問 題 は、いかなる文 字 か、である。果 して、いずれかの文 字 の概 念 で割 り切
れるのか、という問 題 、そればかりではない、およそ何 らかの漢 字 に置 き換 え得 る言 葉 なの
か、ということは、今 までほとんど問 題 にされてこなかったように思 われる」(柳 父 ,1972, p.
89)。
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