2015 年4月 23 日(木)16:00~16:58 於:参議院議員会館 B109 会議室 民主党オープンフォーラム「近現代史研究会」 開会のあいさつ ○古川元久(民主党近現代史研究会副座長兼事務局長・衆議院議員) それでは定刻とな りましたので、ただいまより民主党オープンフォーラム「近現代史研究会」を開会いたし たいと思います。 それでは、最初に藤井座長からごあいさつをいただきます。(拍手) ○藤井裕久(民主党近現代史研究会座長・党顧問) この間の第1回のお話でよくおわか りいただけたように、筒井先生のお話は非常に客観的に奥深い話だったと思います。きょ うは第2回でございます。 一つだけ。 「安倍さんと対抗するために、最近これを発会したのか」というようなことを 言う人がいるのですが、全く違います。今から 10 年前に、当時代表であった岡田克也さん に指示を受けて始めたのです。2005 年ですから丸 10 年になりました。しかも、その結果の 本が3冊出ているのです。 『日本の近現代史述講 歴史をつくるもの』が2冊、それから『劇 場型デモクラシーの超克』です。 第一の本の序で特に私はこういうことを書いたのです。私は田中角栄さんの秘書官だっ たのですが、日本の中核、この「中核」というのは何も政治家とか経済界の人のことでは ありません。地域の方ももちろん含めて、 「戦争を知っているやつが世の中の中心である限 り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったとき、怖いなぁ」 と言われた。 「しかし、勉強してもらえばいいやな」と。「だからしっかり勉強させろよ」 と、私は角栄さんに言われた経験があります。そのことを書いてあります。 序でもう一つ書いたことは、偏狭なナショナリストとマルクス的歴史観は、結果は同じ だと。なぜかというと、結論が先に出ている。全く逆の結論ですが、結論が先に出ている。 そうではなくて、この間の筒井先生のお話のように、客観的に事実を究明していくという ことでやろうじゃないかと。そう 10 年前に言ったのですが、この 10 年間はそれで徹して やってまいりましたし、これからもそれに徹してやるつもりでございます。どうかよろし くお願いしたいと思います。そういう意味で筒井先生にお受けをいただいたと理解してい ます。それ以上特に申し上げることはございませんが、そういう趣旨でずっと、これから もやってまいりますのでよろしくお願いしたいと思います。 1 きょうはありがとうございました。(拍手) ○古川事務局長 ありがとうございました。 それでは早速、前回に引き続きまして筒井先生から「満州事変はなぜ起きたのか」 、パー ト2ということでご講演をいただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。 講演 満州事変はなぜ起きたのか(2) ○筒井清忠氏(帝京大学教授) 「はじめに-日露戦争後の日中関係」のところまで前 回お話ししたことになっております。本当はちょっと復習してからやりたいのですが、時 間が非常に限られているのに話さなければならないことはいっぱいありますので、国共合 作・5.30 事件(1925 年・大正 14 年)までやったわけですので、早速、その後の話に進んで いきたいと思います。 ◆日露戦争後の日米関係 日中関係について勉強して満州事変直前まで行くのですが、そのためには日米関係も重 要なので、ちょっとそのお話をしておきたいと思うのです 日露戦争が終わるのと前後して、 「桂タフツ覚書」 (1905 年・明治 38 年)と「高平ルート 協定」 (1908 年・明治 41 年)という、二つの約束が日米間にできました。要するにある程 度双方で勢力圏を認め合い干渉しないようにしようというものです。 これはセオドア・ルーズベルト大統領の時代だったのですが、その後、ルーズベルトは ウィリアム・タフトに大統領を譲ります。タフト大統領時代はフィランダー・ノックスが 国務長官で満鉄中立化策を提起して、日本に非常に警戒され、ロシアにも嫌がられて、む しろこれで日露間が仲よくなって日露協定が改定される結果になりました。タフト大統領 時代はドルの力でアメリカの勢力を増やそうとしたということで「ドル外交」とも言われ るのですが、結局あまりうまく行きませんでした。 前回、質問がありましたが、アメリカのエドワード・ハリマンの鉄道問題というのは、 大局で見ると、このノックス国務長官のことをはじめ、これからもアメリカと中国・満州 の鉄道問題は色々あるので、結局決定的ではではなかったということになるわけです。 その後、ウッドロウ・ウィルソン大統領になりまして、日本の対華二十一カ条要求(1915 年・大正 4 年)に、最初、国務長官のウィリアム・ブライアンは、文句はあるがオーケー みたいだったのですが、結局、第二次ブライアン・ノートという国務長官の声明が出て、 非常にネガティブになります。ウィルソンはネガティヴだったのです。 ところが、第一次大戦で日本・アメリカ・イギリス・フランスが一緒の陣営になりまし 2 たので、有名な「石井・ランシング協定」 (1917 年・大正 6 年)ができまして、結局、アメ リカの求める門戸開放はちゃんとやる、そのかわりに日本の中国における権益をアメリカ は認めるということになりました。 しかしその後また、シベリア出兵(1918~22 年・大正 7~11 年)やパリ講和会議(1919 年・ 大正 8 年)で対立があったりして、またギクシャクしてきて、そうこうするうちにウィル ソンはヴェルサイユ条約(1919 年・大正 8 年)をアメリカの上院で否決されて、国際連盟 にも入れず、寂しい最期を迎えます。 その後、共和党のウォレン・ハーディングが大統領になります。このハーディングはあ まり能力がなかったのではないかと言われることが多いのですが、チャールズ・エヴァン ズ・ヒューズ国務長官は非常に大物で、ギクシャクした日米関係を中心にした東アジアの 状況を再構築する会議を企画しました。これが有名なワシントン会議です。 ◆ワシントン会議(1921 年・大正 10 年) いろいろあるのですが要点だけ見ていきますと、まず「中国に関する9国条約」ができ ました。会議でアメリカのエリフ・ルート全権は有名な4原則を提示しました。 「①中国の 主権の独立と領土的行政的保全の尊重」というのは、中国に現状以上の勢力拡大などをし ないということをお互いに認めあうということです。また「④友好国の安寧に害あること をしない」というのは、日本の満蒙の権益を脅かさないという意味でして、結構日本のこ とも尊重してあります。しかし、現状維持的なものではあるわけで、中国の急進派から見 ると、不平等条約を結ばれたまま、ということにもなるわけです。 2番目が、 「太平洋に関する4国条約」です。これはヒューズ自ら「どうでもいい内容」 と言っているのですが、日米英仏4ヵ国で条約に調印するけれど、要するにこれは日英同 盟を廃棄することが目的でした。この日英同盟廃棄については時々「アメリカの陰謀だ」 とか書いてあるものがあるのですが、それは言い過ぎです。日英同盟は 1921 年(大正 10 年)7月に期限が切れることになっていまして、その前から英国外務省ではしきりに議論 していましたが、イギリス政府にとってメリットがないということで、もうやめようとい うことになっていたわけです。イギリスは第一次大戦で膨大な借金をアメリカからして、 経済的に非常に困っていました。そこでアメリカと対抗するような軍艦の建造なんか思い もよらない、軍縮して、こういうアメリカが嫌がっている日英同盟なんかやめちゃったほ うがいいということになったわけです。 それから「海軍軍縮条約」が結ばれました。日本の海軍には不満を抱く人もいたのです が、加藤友三郎海軍大臣という近代日本でも屈指の国際派軍人が、 「米5・英5・日3」 (主 力艦航空母艦の総トン数比率)ということでまとめたわけです。 それから第一次大戦で日本が占領して、中国から絶えず抗議を受けていた「山東半島問 題」 、これをアメリカのヒューズ国務長官が中心になって交渉を嫌がっていた中国を熱心に 3 説いて、結局、日本はこれを簡単に言うと中国に返す、日本軍は撤兵するということにな りました。 それから「シベリア撤兵」 、これは全権の幣原喜重郎は撤兵を声明しました。 こうしてワシントン条約というのは、海軍の一部に不満が残ったし、日英同盟を失いま したが、客観的に言って日本にとってそれほど不利なものではなかったと言えると思いま す。だからこそ日本は非常に熱心に遵守するという方向に向かうのです。不利だったら遵 守しませんから。 また、これにより「日英米協調の新体制ができた」と言われることが多いのですが、最 近の研究成果によると、イギリスの外務省などには格別新しい新体制ができたという意識 はなかったようです。ですからイギリスのイアン・ニッシュ(Ian Hill Nish)という学者な ども、 「ワシントン体制という言い方はおかしい。格別の意義もないものを、あったように 言い出したのをなんとなく認めてきたようだが、そんな新体制なんか存在しなかった」と 言っています。後から見ますが、新体制ができたにしてはイギリスの条約遵守の意識が薄 いです。 中国にとっては、これで山東半島が返還されまして、日本に対して返してくれと長年言 っていたのが返ってきましたし、関税特別会議を開いて関税についてもいろいろ中国に有 利にしてくれるということも決まりました。だから、中国の全権の中には日本の全権に対 わだか して非常に好意を感じて「従来日支間に 蟠 まりたる悪感情を一掃すべき絶好の機会なりと 認め、帰路上海より北京に到る迄随所に啓発運動を試むる心算なる」と語った人もいたく らいでした(日本の全権団の一人の本国への打電内容による)。 しかし、不平等条約の急激な改正を求める立場からすれば、非常に不満が残るものであ ったことは言うまでもありません。 それからソ連とドイツは排除されておりまして、その結果、この2国はこれ以後、中国 との関わりで非常にユニークな行動をとることになります。 ◆排日移民法(1924 年・大正 13 年) このようにアメリカはワシントン条約を結んでおきながら、すぐにそれをほごにするよ うなことを次にやるのですが、それが排日移民法問題です。 1906 年(明治 39 年)にサンフランシスコの学務局が日本人学童を隔離することを発表し ただす て、日本の林 董 外相が抗議し、これは移民法自体を改正して日本も自粛することになるの ですが、その後ずっと継続的に、カリフォルニアを中心に激しい排日運動がアメリカを席 巻するのです。特にカリフォルニアは激しくて、1910 年(明治 43 年)に野党だった民主党 の選挙スローガンは「カリフォルニアを白く保とう!」という、今ではちょっと考えられ ないようなことが言われて、これで民主党は州議会で大躍進しました。これが逐次日本に 報道されますから、この辺から、日本人のアメリカに対する悪感情がずっと蓄積していき 4 ます。 以後、カリフォルニア州で第1次排日土地法、 (1913 年・大正 2 年)、第2次排日土地法 (1920 年・大正 9 年)と成立していき、連邦レベルでは 1923 年(大正 12 年)、第 68 議会 に排日移民法が提出されて、日本政府から抗議を受けたヒューズ国務長官が、これが通過 すると「ワシントン会議の成果を水泡に帰するものである」と議会に修正を勧告しました が、結局、 (1924 年・大正 13 年)上下両院で可決されました。これが配信されると、すぐ に日本政府はヒューズ国務長官に宛てて、 「国際間の差別待遇は……正義と公平の原則に反 する」と非常に激しく抗議します。 これに日本の世論は激高しまして、まずいきなりアメリカ大使館の前で抗議の切腹自殺 する人が出まして、それから主要新聞社が米国の反省を求める共同宣言を発表。最初はボ イコットとか映画の上映禁止を要求しただけなのですが、次々に実力行動が起きまして、 アメリカ領事への暴行事件とか、なにか幕末・維新の時みたいなことになりまして、7月 1日には国民大会が開かれて、全国で非常に激しいデモなどが起きます。そして横浜沖仲 仕組合の米貨積みおろし拒否などが行われ、有名な新渡戸稲造先生も「自分はもう一生ア メリカに行かない」と宣言したりしまして、在日のアメリカ人は身の危険を感じて、本国 政府に移民法の撤廃と身辺保護を要請したりします。 東大の美濃部達吉教授は、雑誌『改造』にこう書いています。「事のここに至ったのは、 政府の罪でもなければ、外交官がわるいのでもない。つまりは国力の相違である。情けな いかな、日本は国力において、少くとも経済力において絶対にアメリカの敵ではない。如 何に侮べつせられても、如何に無礼を加えられても、黙して隠忍するのほか、対策あるを 知らぬ(中略)切に自分の実力を養うのほかない。国家百年の大策としては、所詮はアジ ア民族の協力一致をはかるの他はない」 (『改造』1924 年5月号) 。 昭和天皇は戦後に出された『独白録』の中で、日米戦争の原因の一つはここにあるとい うことを言われています。そして、以後の反米・アジア主義の非常に重要な動因になるの です。 こうしてワシントン会議の精神をアメリカはいきなり非常に損ねてしまった。また、こ ういう議論から、新聞論調がそうなのですが、日本では非常に反米論が高くなると自動的 に親中国・アジア論が台頭するという関係があることがわかります。 このように日米の関係を押さえておいて、次に、具体的に日中関係に入っていきたいと 思います。 ◆5.30 事件(1925 年・大正 14 年) ・北伐(1926 年・大正 15 年・昭和元年) ここは前にやったのですが、5.30 事件というのが起きて、ものすごい反英運動が起きま す。イギリス人の警官が指揮している警備陣によって中国人の労働者が撃たれたことが契 機です。 5 そして反英運動が起きた後、蒋介石の北伐が始まって、北伐軍が南京でいろいろな暴行 などを働いた。その時、各国の軍隊は発砲したり鎮圧したけれども、日本は軍事力を使わ ないという不干渉主義を幣原外務大臣がとったので、何もやらなかった。 続いて漢口事件(1927 年・昭和 2 年)が起きたけれども、これも日本軍は動かなかった のです。 しかし、こういうことが再三繰り返されるので、中国の居留民からは「日本軍を出して くれ」という非常に激しい要請があり、そして日本の国内では激しい反中国世論が起きま した。これは西田敏宏さんという研究者が書いているのですが、 「ジャーナリズムは、北伐 に際しても依然として幣原の政策を支持していたが、南京事件が起こって居留民に危害が 及ぶに至ると、もはや幣原外交を積極的に擁護することはなくなった」ということになっ たのです。日本人自身が傷つけられる事件が起きたことによって、平和主義的な幣原外交 の維持が難しくなってきたわけです。 ◆山東出兵(1927 年・昭和 2 年) ・済南事件(1928 年・昭和 3 年) 次に山東出兵に入っていきますが、第二次南京事件を起こした北伐軍は、その後、華北 へ進撃していきます。日本の田中義一首相は、べつに蒋介石が中国全体を支配しても構わ ないので、満蒙はもともと親しかった張作霖が支配したらいいという考えでいる。田中首 相のところに蒋介石からの密使が来たり、張作霖からの密使も来て、両方の密使同士が交 錯したり、そんなことがありまして、結局 1927 年5月に第一次山東出兵をやります。満州 から約 2000 人の部隊を派遣しまして、さらに増派していきます。当時この辺に2万 4000 人、日本人がいたのですね。 しかし、7月から8月に、徐州会戦で蒋介石は別の軍閥の軍隊に敗れて下野します。田 中内閣は8月末にすぐに撤兵を声明して、9月に日本軍は撤兵を完了します。 日本軍が出兵した後、米英軍も華北の治安維持のために出兵しています。アメリカは陸 タークー 戦隊を大沽へ、イギリスは天津・威海衛に歩兵隊を派兵します。米英ともに田中内閣の出 兵を評価しています。ネヴィル・チェンバレン英外相は親日的立場を強め、ジョン・マク マリー米中国公使はフランク・ケロッグ国務長官と会談後、日本軍が撤兵しないよう芳沢 謙吉駐華公使に説いている。特に、これまで再三出兵を要請したのに日本が動かなかった のでしびれを切らしていたイギリスは非常に喜んで、チェンバレン外相が、 「日本が北部に 軍隊を動かし……北京と天津の防衛に積極的な関心を示し始めたというのはすばらしいこ とだ」と言っています。イギリスの陸軍省や中国にあったイギリス紙も非常に好意を持っ ています。 ですから、幣原外交が平和的でよく、田中外交が軍事力を使ったからよくないというの は単純なので、第一次山東出兵は米英に好感をもって迎えられたのです。 下野した蒋介石は9月末に宋美齢との結婚のために、宋美齢のお母さんが神戸にいたの 6 ですが、下工作のためということで来日して、田中と会談し、約1ヵ月半滞在・保養して、 温泉に入ったりして帰国します。このあたり日中関係を詳しく知らない人には考えられな いことですが、日中間はこういう意味で非常によかったところもあり複雑なんですね。 蒋介石は田中と会談して、 「我々の革命に日本が協力してくれたら反日もやむ。そしたら 満蒙問題も片づく」ということを言いまして、どうも蒋介石はある程度了解が成立したと 感じて帰ったようです。というのは、この後に蒋介石が非常に怒るのですが、どうもこの 時に(日本が)了解したと思ったからのようです。 その後、1928 年4月に北伐が再開されて、第二次山東出兵が行われます。これは約 5000 名出兵していますが、まず5月3日に細かいことから北伐軍と日本軍が衝突して、両方で 少し死傷者が出ます。ただ、中国側の発表する死傷者数というのが非常に多いので、どこ まで本当かわからないのですが、中国側の発表どおりだと中国側の死傷者が非常に多い。 そして衝突が起きたので、また日本軍が行きます。これは第三次山東出兵ですが、9日 から 10 日にかけて、当時、中国北伐軍が約2万人で、日本軍が約 3500 人だったのですが、 戦闘が行われて、日本軍は中心部を占領します。中国側は 3000 人くらい死んで、負傷者が 1400 人くらい、日本側の死者は 25 人で負傷者 157 人という数字があるのですが、この数字 自体に既に中国側の宣伝戦があると主張する人もいるので、正確なことはわかりません。 これで当然、南京・上海・漢口・広東など主要なところで排日運動は激化します。これ 以後、中国の排外運動の対象は英国だったところから日本へと移っていきます。 済南事件全体の詳細はまだわからないところが非常に多くて、やはり国民党内部の中国 共産党系の人による陰謀だという説もあるのですが、証拠はありません。第二次南京事件 もそうです。 それから日本軍の行動につきましては、福田彦助という師団長が中国軍に出した要求が、 12 時間期限と非常に短くて苛酷だったという説はかなり強いですが、指揮官というのは責 任があるし、既にたびたび中国兵による暴行事件が起きているからやむを得ないと弁護す る人もいて、この辺も研究者の評価が分かれます。 とにかく間違いないことは、 『蒋介石日記』がスタンフォード大学のフーバー研究所にあ って最近読めるようになったのですが、蒋介石は雪辱を誓って、毎日、日記の最初に「雪 辱」と書いてあるということです。ものすごく怒ったようですね。これは日本に来た時に、 蔣介石に協力してくれると思ったのにこういうことになっちゃったというのが原因のよう です。ただ、書き出すとやめられませんから、ずっと書いてるからずっと怒っていたのか と言うとこれから先紆余曲折あるので判断の難しい所があります。 それから日本にとって非常によくないのは、米英が国民党よりになったことです。ただ この事件だけでなったわけではありませんが。つまり中国国民党中央執行委員会は、事件 前から日本の不当性を、ウィリアム・ボラー米上院外交委員長に訴えていたのです。もと もと親中国的なアメリカはいっそう中国に寄っていった。 それからイギリスに対しては、やや後になるのですが、1928 年7月に英中の南京事件交 7 渉が再開した時に、孫文の息子の孫科が胡漢民という国民党幹部と一緒にロンドンでチェ ンバレン英外相と会った時に、彼らは「イギリスは貿易のみだが、日本は領土的野心があ る」と強調したので、イギリスは、中国が、米英日の中の日本だけにターゲットを絞ろう としているのを感じたということです。後から話しますように、この年8月 25 日、アメリ カが一気に関税自主権を認める新条約を調印したのですが、この時すぐ中国はイギリスと の関税交渉も急ぎ始めたので、イギリスの外務省は明確に、中国の日本孤立策を感じまし た。8月3日に米中間の南京事件交渉が決着すると、8月9日に英も決着するという形で す。 結局、まず、この事件によって中国国内で日本が最大の排外運動の対象とされた。それ からこの前後から列国分断策の対象に日本が固定されて、日本孤立策を中国は明瞭に工作 し始めた。米英は明瞭に中国寄りになり始めた。ただ、これはこの事件の前からおき始め ていたことなので、この事件だけで起きたわけではありません。また、1931年には英 中の治外法権問題交渉が決裂したりしますから、ここがすべての分岐点というわけではあ りません。しかし、この時点で日本が中英米関係の中で最も困難な局面に立たされたこと は間違いありません。 イギリス外務省極東部のフランク・アシュトン=グワトキンは次のように言っています。 「日本は薄氷を踏むような危険な状態にある。満州と山東のみならず、さらには国民党に 対する姿勢全体においてである。日本は 1925 年から 1926 年に我々が占めていた不愉快な 地位を占める危険がある」 。 ◆張作霖爆殺事件(1928 年・昭和 3 年) 1928 年は大きなことがいくつも起きた年なのですが、この年、次に起きたのが張作霖爆 殺事件です。 北伐軍が北京に入城して、張作霖の帰趨が注目される中、彼は満州に帰ろうとして、6 月4日に爆殺されました。これは張が日本の言うことを聞かなくなったので、例えば北京 に行ったので満州に帰るようにと言っても、言うことを聞かなくなったので、関東軍の高 級参謀・河本大作大佐が行った陰謀です。 この陰謀についてはいろいろ研究があるのですが、とにかくこうして張作霖が爆殺され えき し まして、息子の張学良は国民政府に加わる「易幟」を敢行しました。張作霖の片腕だった よううてい 楊宇霆を自分で殺害します。 ◆中ソ戦争(1929 年・昭和 4 年) 次に、翌 1929 年に起きた重要なことを一つお話ししておきたいのですが、それは中ソ戦 8 争です。 ロシア革命後、1919 年(大正 8 年)に、ソ連はカラハン宣言を発して在華権益の放棄を 中国に提起して、1924 年(大正 13 年)に中ソ協定を結びましたが、実際は在華特権は全然 手放しませんでした。でも、声明でそうした印象を与えて、そして前にお話しした「連ソ 容共」路線にまで至った。しかしソ連はワシントン会議に入っていませんので、現状維持 の義務はないというつもりなのか、非常に挑戦的で、在華特権の中でも在満鉄道利権の獲 得には熱心でした。 まんちゅり そして 1929 年の春から夏にかけて、中東鉄道という、満洲里というところから海の近く まで鉄道があって、それを中国とソ連が共同で運営するようなことになっていたのが、も めて紛争が起きます。11 月 17 日に、 準備していたソ連軍が満州里から国境を越えて侵入し、 機械化されていて非常に強くて、張学良の国民党軍に連戦連勝して、「ハバロフスク条約」 という条約が結ばれ、ソ連は連邦成立以来最初の対外戦争を勝利で飾りました。以降、フ ィンランドとかと領地問題が起きるとソ連はすぐ軍事力を使いますが、これが最初の成功 だったのです。 この時、ヨシフ・スターリンが10月7日付のモヴャチェスラフ・モロト宛に書いた手 紙に、中国人を主とした旅団を満州に送り込んで、満州内の軍隊に暴動を起こさせ、それ らの兵士からなる師団を編成してハルビンを占領し、張学良を退位させて革命権力を樹立 するという「ソ連版の満州事変」構想も語ったりしています。これは最近のロシアの文書 の研究でわかったのです。 ともあれ、この事件は非常に重要な事件でした。というのは、この中ソ戦争でソ連が軍 事的に勝利して、ソ連の権益の保全・拡大が国際的に承認されたので、軍事的勝利がその まま既成事実化されるということと、ソ連の満州への脅威がいっそう拡大したという二重 の意味で、関東軍の軍人の危機意識を非常に高めたと思われるからです。 「連ソ容共」路線後、国民党はソ連の影響が非常に強くて、いろいろな事件も起き、ま た満州での軍事行動と相まって、実は既存の東アジアの国際関係を最初に破壊したのはソ 連なのですが、ソ連はワシントン会議の9ヵ国条約も締結していませんので、べつに条約 違反をしたわけではなく、ソ連は国連にも加盟していませんから国連にも制裁されないこ とになってしまって、それを関東軍の軍人たちが見ていたということが起きたわけです。 ◆「ワシントン会議の精神」と中国(関税・不平等条約問題) 次に、ワシントン会議と中国との関係にいきます。 ワシントン会議と日米関係について一言だけ言っておきますと、ワシントン会議で決定 されたことに日本は非常に協調的で、山東半島を返還して撤兵し、シベリアからの撤兵も した。しかし、アメリカがいきなり排日移民法をやった。このころ、満鉄はアメリカから 9 お金を出してもらったほうがいいといって3回にわたって借款要請をしていますが、アメ リカ国務省は非常に冷淡でした。 アメリカは、先ほど言いましたように、基本的に中国寄りです。中華民国ができたとき に、共和国ができたということで、アメリカももちろん共和国ですから、シスターズ・カ ントリーと言って非常に親近感を抱いたということなどあったようです。それから宣教師 が非常にたくさん行っていて、その人たちがアメリカ国内で中国のことを非常によく言っ たということも言われたりします。そんな感じで、アメリカは(日本に対して)やや冷淡 なところがあったのです。 さて、次は中国と関税問題。9ヵ国条約の第2条で、関税特別会議を開催することが決 定されていたので、これが開かれ始めたのです。しかし、やっている北京自体が、政変が 起きて無政府状態になったので会議は無期延期になりました。そうしたら 1926 年(大正 15 年)9月 18 日、南方の広東政府は、こんなものは無効だと従来言っていたのが、突然一方 的に 2.5%の付加関税を決定することをイギリスの広東総領事に通知してきました。これは、 北京のほうの関税会議が形式的にせよ終わっていないので、ワシントン会議で決まった国 際協力を公然と無視することだったのですが、その前に行われた大変なボイコット運動に イギリスは手を焼いていたので、すぐこれを黙認してしまいました。 その次に起きたのはベルギー問題です。ベルギーは国自体は小さいのですが、北京政府 がベルギー政府との間に交わしていた条約に違反して廃棄通告をしてきました。ベルギー 政府は、交渉をしようとしたらいきなり廃棄通告が来たので、国際常設裁判所の法廷に訴 えましたが、中国は応じなかった。結局、ベルギー政府は条約上の立場の防衛を断念して、 中国から条約国と同様の権利を与えられるという保障の確保のために、天津租界返還とい う、これもワシントン条約無視の非常に問題のある行為をしました。 しかし一番衝撃を与えたのが、 「12 月メモランダム」でした。1926 年(大正 15 年)12 月、 イギリスのボールドウィン内閣は突然、既存の条約は多くの面で時代遅れであり現状に合 わせる必要があるとして、中国に関税自主権を認め、付加税を即時無条件承認するという、 従来、米英日を中心にして反対していたことを全部認めるという 12 月メモランダムを発表 して、特に日本を非常に驚かせたのです。米英日中がワシントン条約で決めたことを、イ ギリスが突然一方的に廃棄するということを言い出したわけです。イギリスは割と突然こ ういうことをやることが多い。 ヴィクター・ウェルスレー外務次官補は松井慶四郎駐英大使に「チェンバレン外相は急 にこれを決定したるため、あらかじめお話しするいとまがなかったと弁疏(べんそ)し」 たということですが、ジョン・ティリー駐日大使からこれを受け取った出淵勝次外務次官 は「突如発表の一事に至りては甚だ了解し兼ぬる」 「英国は華府(ワシントン)条約の精神 を無視し、又日本と協調を欲せざるものと認むる他なし」「事態甚だ遺憾に堪えず」と述べ ています。 幣原外相はティリー駐日大使に対して、最近の日本の佐分利貞雄公使と陳友仁国民政府 10 外交部長の会談内容からしてこれでは納得できないとして、新たな関税会議開催を提案し ました。その時、幣原は、元英国外相エドワード・グレーの『25 years』を片手にして注 意を喚起したのです。これは紳士外交を説いた、幣原の愛読書で、この本をもとに「外交 官は英国紳士のようでなければいけない」と幣原はいつも言っていたのです。 イギリス外務省のジョージ・マウンジー極東部長は、「(ワシントン条約という)有害無 益な絆を断ち切り、中国における我々の新政策を宣言しようと我々が決意した」と言って います。また、 「イギリスは 12 月メモランダムによって中国問題に関してはワシントン会 議の精神から離れる意図を持っていたということがうかがえる。」「それはワシントン会議 の枠組からの離脱を明確に意識した上で実行されたこと」と最近の研究は書いています。 こうしたことを研究した後藤春美さんと西田敏宏さんは非常に優れたこの時期の研究者で、 後藤さんはこのテーマでオックスフォードで学位を取って、今、東大の駒場で教授をされ ています。 次に「米中関税協定」 。1928 年(昭和 3 年)7月、アメリカは日本との事前協議なしに中 国との間に新しい条約・米中関税協定(関税自主権の承認と国民政府の実質的承認)を締 結しました。それは欧米のような奢侈品でなく廉価品が多いという点で、輸出品の質の異 なる日本にとっては極めて不利となる内容であり、これまた日本には寝耳に水であり、重 大な脅威で、イギリスもこれは列強の協調を乱す行為と見たようで調停しようとしたので すが、 イギリス自身が 12 月メモランダムを発表して米英日の関係を壊していたのですから、 それを言う資格があったのかどうか。 さらに日本にとって決定的であったのは 1928 年(昭和 3 年)7月 19 日、国民政府外交 部長・王正廷の日清条約(通商航海条約)の廃棄通告でした。この条約は約定関税率と通 商に関する 10 年ごとの見直し規定を定めていたのですが、10 年目の 1926 年(大正 15 年) 秋に中国は条約の改正を要求して、半年以内にまとまらないと失効するとしてきたので、 日本は1年以上にわたって交渉を継続してきたのですが、そこに廃棄宣言が来ました。日 本は、ベルギーの前例があるので、ワシントン会議諸国にアピールするのではなくて、結 局はアメリカ次第だということで、パリのケロッグ・ブリアン条約調印式に出席した内田 康哉枢密顧問官をワシントンに行かせました。この時の内田の主張は、以下のようなもの です。 「協調政策とは、全関係国の協調を不可能にしているような中国の条約違反をやめさせ、 規則に従って行動するよう各国が一致して中国に当たることを想定しているのか。 日本は地理的必然性から他国と異なる特別な関係を中国との間に持っており、大きく依 存している。ワシントン会議で日本はその立場がアメリカの政策と一致することを学び、 以後、国際協調政策に全幅の信頼を置き、さまざまな主張を放棄し、面子も捨ててきた。 ワシントン条約を全面的に支持するアメリカの考え方に忠実に良心的に従って行動してき たのである。しかるに中国は、約束した国際協力を無視し、条約締結国中でも日本に対し て敵意と無責任の政策をとり続けてきた。もし、中国が自己の利益のために、約束された 11 国際協力を拒否したり、協力しようとする諸国との良好な関係の樹立を排斥しようとする のなら各国は団結してもっと冷静な時代に中国が喜んで承認していた諸目的を達成するよ うにさせなければならない。日本政府はアメリカ政府が中国問題に関する国際協力理念の 保証人だと認識している。中国をこの国際協力の枠組みに引き戻すよう決定的な影響力を、 アメリカが放棄するのかどうかを日本は知りたいと願っている」 。 この「願い」に対してアメリカ政府はほとんど回答らしい回答をせず、実質的に日本の 主張を否定しました。 日本は、アメリカ・イギリスがそれぞれ単独で中国と関税条約を結んでしばらく置いて、 1930 年(昭和 5 年)に関税条約を結ぶことになりましたが、これはワシントン条約を守ろ うとしてきたから起きたわけですが、これは不平等の解消に不熱心な国と見られる、国際 的に非常に損な役回りとなりました。この前後に日本はこんなことばかりなのですが。 これに対してアメリカの駐華公使だった-大使がなかったので公使が最上級のポスト なのですが、ジョン・マクマリーが、満州事変が起きた後の 1935 年ですが、「日本政府は 満州侵攻開始までほぼ 10 年間、ワシントン会議の協約文書並びにその精神を守ることに極 めて忠実であった。そのことは、中国に駐在していた当時の各国外交全員がひとしく認め ていた。 (中略)当時、中国問題に最も深くかかわっていた人々は、日本政府は申し分なく 誠実に約束を守っていると考えた。」「中国に好意を持つ外交官は、中国が、外国に対する 敵対と裏切りを続けるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっ ぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指し したわけではない。しかし、そうはいっても皆、内心では思っていた。中国のそうした振 る舞いによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威を受けるのは日本の利益であり、最 も爆発しやすいのが日本人の気性であった。 しかし、このような友好的な要請や警告に中国はほとんど反応を示さなかった。返って くる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかち取らなければならないという答えだ けだった。 (中略)ワシントン体制的な協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に 軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジ アでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、 非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」と言っています。 マクマリーは,親中国的な米国務省の中では少数派の親日派なので、これらの言は割り 引いて聞く必要がありますが、それにしてもこのようなことが言われているのです。 ◆済南事件以降の排日運動 最後に、具体的に済南事件以降の排日運動を見ていきたいと思います。 まず「排日貨運動」ですが、1929 年1月 15 日に上海の反日会が日本製品を没収して競売 にかけることを決めて以来、上海では日本製品を扱うことはほとんどできなくなりました。 12 日本の輸出の半分くらいが中国向けなので、日本は非常に困ったのです。ですから当時の 中国で発行されているイギリス紙などは、ボイコットしたものを国民党政府自体が競売に かけて売っている、こういうのは文明国のすることではないと攻撃しています。 しかし、排日貨は非常に長く続きまして、1929 年7月に突然止んだのです。日本政府は 「やめてくれ」と頼んでいたのですが、ちっともやまないで、「取り締まる方法はない」と 言っていたのですが、これは先ほど言いました中ソ紛争が始まったので止んだわけです。 だから中国は二国相手の紛争はしないということを、この時に米英日などは明確に認識し たようです。 それから「革命外交」です。中国は 1929 年(昭和 4 年)4月 27 日に米英仏6ヵ国に早 期の治外法権を求める覚書を提出していますが、先ほどから言っていますように日中通商 条約はもう無効だからということで、日本には提出しませんでした。これは中国としては 当然なのですが、日本国内における親中国派の立場が非常に悪くなるのです。 1929 年(昭和 4 年)9月、駐華公使・芳沢謙吉が中国を去り、後任に佐分利貞男が決ま ったのですが、彼は箱根で怪死を遂げます。小幡酉吉が後任となるはずでしたが、中国は アグレマン(就任合意)を拒否しました。21 カ条要求時の一等書記官であったことが理由 でしたが、その後に駐華公使をしていましたので、これも普通の外交常識では理解できな いことなのですが、排日運動の側から言えば小幡のような中国に理解がないと考えられる 人に対しては当然ということになるわけです。 こ ろ その他、前に申し上げた商租権や、大連港の営業の妨害を目的とした葫蘆島の築港が始 まりまして、これが完成すると大連がほとんど使われなくなるのではないかという状態に なってきた。それから満鉄に対する並行線を満鉄の東と西に作って、西のほうはこの葫蘆 島につなげるということが進み始めて、満鉄の収入は 1929 年以降、半減していきました。 非常に激しい排日運動でした。 そして 1931 年 (昭和 6 年) 春に王正廷外交部長は5段階の革命外交の実施を伝えました。 重光葵駐華代理公使は「容易ならぬことだ」と認識せざるを得なかった。 そして具体的に日中間には大きな紛争が二つ起きました。一つは「万宝山事件」。これは 東北地方長春の郊外、万宝山で、移住してきた朝鮮人が水路を作ろうとして、朝鮮人と中 国人が衝突して、実際は死者が出ていないのに朝鮮半島で「死者が出た」と誤った報道が なされて、朝鮮人が多数の中国人に朝鮮半島内で危害を加えた事件です。 そして「中村大尉事件」というのは、日本人の中村震太郎大尉が、満州の奥地で殺され た事件です。 こうして、陸軍の急進派の強硬論が台頭してくるのですが、そういう状況については満 州事変の時の参謀本部作戦課長・今村均大佐が戦後、こういうふうに書いています。 「私自身も、関東軍幕僚は、よく中央と協調し、機の熟するまで隠忍すべきであったと思 わないわけではない。けれども現地満州に駐屯していた将校の身になってみれば、毎日毎 13 日、幾千居留民が「また満人にぶたれた」「つばきをはきかけられた」「うちの子どもが学 校へ行く途中、石をぶつけられた」「家のガラスはめちゃめちゃに壊されてしまった」「排 日排貨運動で、店の品物は一つも売れない」 「満人はもう野菜を売ってくれなくなった」 「満 鉄は毎年赤字続きで、もち切れなくなってしまっている」と連続して泣きつかれ、当時の 軍人たちは我慢がきかなくなったのだ。 それから満州にいた日本人というのが、23 万人いたのですが、官吏や満鉄のエリート社 員を別にすると、大体満鉄系統で働いている人が多かったのですが、次のような人たちだ ったのですね。 「引き揚げたらよいという人もいるが、日本内地に残しておいたわずかばかりの田地財産 は、二十幾星霜の間に(中略)皆、兄弟親戚ないし村人等に食いつぶされてしまって、在 満邦人としては帰るべき日本内地のスペースがないというのが実情である。 (中略)在満二 十万の邦人は(中略)その働き盛りを満蒙の地で働いて、ようやく築き上げた生活の基礎 てんぷく を、今日では支那官憲に顛覆され、あまつさえ敵人扱いを受け(中略)帰るに家なく働く に商売なく、今は只鰻の寝床の如き満鉄付属地及び関東州で、自己の貯金を寝食している 次第である」 。 以上、実力行動を起こした人の立場を理解するために長くなりましたが、こうして、関東 軍は軍事行動を起こすことになるわけです。 ◆結びに 最後のまとめに入って行きたいと思います。 まず、 「民族自決主義の時代」だったということに対して、さっき言ったような行動を起こ した人は認識が充分でなかったと言わざるをえないでしょう。 1914 年(大正 3 年)1月8日にアメリカのウィルソン大統領の行った講和の条件として の 14 カ条演説中の第5項は、植民地問題の公平な解決と言っていましたが、これがまさに 「民族自決」と解釈された。少し後に、革命が起きた後のレーニンも「平和に関する布告」 の中にも「民族自決」の考えがありましたから、期せずしてソ連とアメリカの両方からこ うした見解が現れ、ヴェルサイユ講和会議以降、 「民族自決」というのが言説における世界 的な潮流になったのです。中国はヴェルサイユ条約に調印しませんでしたが、これをいわ ば持ち帰った。 ですから、第一次大戦後の時代は、大きな流れとして植民地主義からの離脱という理想 主義的な方向が、言説世界を中心に作動したわけです。わざわざ「言説世界」と言ったの は、イギリスもオランダもフランスもアメリカも、即、自分たちの植民地支配をやめたわ けではありません。フィリピンの独立を認めていくアメリカが一番優等生の方でしたが。 しかしそういう「言説世界」は形成され、国際世論はそういう方向に流れていたのに、 14 こういう軍事行動を起こした人はもちろん、日本人全体がこの点の認識が不十分だった。 もっと正確に言えば、それを認識して、そういった世界の世論を味方につけていかなけれ ばいけないということに認識が十分でなかった。 それから国際連盟が 1920 年(大正 9 年)に成立しましたが、日本は理事国となり、新渡 戸稲造・杉村陽太郎と2代続けて事務次長を輩出していました。新渡戸先生はやはりとて も偉い方で、知的国際協力委員会というのを作って、大変努力して、乗り気でないキュリ ー夫人の委員就任に成功するなど、大きな成果を上げました。それから連盟の日本代表を 務めた安達峰一郎は 1931 年(昭和 6 年)にハーグの常設国際司法裁判所所長に就任してい ます。こういう点で、国際連盟に対して日本は非常に大きな責任があったのですが、そう いう責任意識が国民に充分自覚されていなかったと言えると思います。 そういったことも含めた国際感覚という点では、済南事件でも軍事力の行使に国際的理 解を求める努力が中国に比べて日本は大きく欠けていた。まして、中国の不平等条約撤廃 に対する抗議活動がどんなに性急であり既存の条約無視であっても、張作霖爆殺事件や満 州事変などの謀略事件が国際的信用をいかに失うかについての認識が大きく不足していた。 これは、それ以前に中国の内政に軍人が深く入り込んで、郭松齢事件が典型ですが、謀略 に成功していたからでしょうが、こういう国際感覚は日本の置かれていた国際的地位にふ さわしいものではなかった。 この点については重光葵が『外交回想録』 (中公文庫)に次のように書いています。大正 期の日本は世界の五大国・三大国の一つとまで言われるようになり、 「日本の世界平和に対 する地位は大であり、人類文化に対する責任は極めて重かった」 「明治以来の粒々辛苦の努 力を忘れることなく」 「責任を充分に自覚し、常に自己反省を怠ることなく、努力を続ける ことによってのみ」この責任は果されるはずであった。 「然るに、日本は国家も国民も成金風の吹くに委せて、気位のみ高くなって、内容実力 はこれに伴わなかった。日本の地位は躍進したが、日本は、個人も国家も、謙譲なる態度 と努力とによってのみ大成するものである、という極めて見易き道理を忘却してしまった」 。 パリ会議で日本は山東権益を得たが、その「外交的勝利」は中国の調印拒否や激しい排 日運動を招き、それも最後にはワシントン会議で山東返還となる。結局「大局から見れば 日本はまだ大国として成長していなかったわけである」 。 最後に、この時代は大衆世論、大衆ナショナリズムの時代だということもよく認識する 必要があるでしょう。陸軍の急進的行動の背後には、新聞の煽動により、この後の満州事 変を熱狂的歓呼の声で迎えることになる大衆の世論があった。これは、日比谷焼打ち事件 以降、憲政擁護運動・米騒動・反アメリカ排日運動・反中国排日運動という形で、明治末 以来現れてきた大衆の政治的力の発露でもあった。特に中国に対するものはマグマのよう にたまっていて、満州事変に際して爆発的支持という形で発露したと言っていいと思いま す。知識人的国際協調主義が強くなっていた時代だけに、大衆的ナショナリズムは強く抑 制する力によってマグマのようにため込まれていて、満州事変後、爆発的に表に現れたと 15 いうべきでありましょう。 さらに言えば、この時期は加藤高明の護憲三派内閣が成立し、普通選挙制度成立に至る 平等主義的政治的要求が一般化してきた時代で、大衆の政治参加という事実がすべての根 底に存在していました。 ですから日本の権益への侵害は、国民一人ひとりの利益への侵害と受け止めるようにな ってきていた。そうした時にこそ、それへの被害者意識と報復を求める感情は巨大な、統 御できないものとまでなる危険性があるということです。それが大衆デモクラシー時代の 大衆ナショナリズムというものであって、急進的軍人の背後にはそれが存在する時代を、 日本はこの時期に迎えたということであります。それは非常に危険なことで、これから後 そういう時代となるのですが、これが今日にも続く大衆社会におけるナショナリズムの取 り扱いの難しさということだと思います。 以上です。 (拍手) ○古川事務局長 大変内容が濃いところを無理に時間を詰めてお話をいただき、ありがと うございます。 質疑・意見交換 ○古川事務局長 それでは 10 分ほどでございますが、質疑の時間を取らせていただきたい と思います。 ○一般参加 最後の問題ですが、大衆ナショナリズムの問題で、満州青年連盟が大衆ナシ ョナリズムに果たした役割は大きいと思うのです。今はそういう団体が出てきそうな情勢 だと思うのですが、満州青年連盟というのをきちんと研究されている研究者の方はいらっ しゃいますか。 ○筒井教授 もうだいぶ前に、 『日本ファシズムの対外侵略』という東京女子大の松沢哲成 さんが書いた本に入っている満州青年連盟の研究あたりに始まって、幾つか研究がありま すね。 満州青年連盟は満州事変の前に日本にやってきて、小澤開作という、小澤征爾のお父さ んが中心になって日本国内で活発な啓蒙活動をやって、それが満洲事変後、国民が関東軍 を支持するかなり重要な原因の一つになります。 ○一般参加 外交問題に関する部分で、 「他国無視」とか「一方的」とか「突然」とか、国 際的な法や取り決めを一方的に無視するという状況になっている、外交不在のような状況 になっているということですが、なぜこの時期に外交不在の「無視」「一方的」「突然」と いう時代になってしまったのか。また、日本外交とか日本人、日本の政治家が、外交が「無 視」「一方的」 「突然」みたいにちょっと外れているぞということを認識していたのか、お 16 尋ねさせていただきます。 ○筒井 まず中国では、中国人の中華民国ができて、当然ですが意識が高まるにつれて、 「な んで我々の国はこんな不平等条約を結ばされているのだ」と、不満が高まっていきます。 重光葵が書いているのですが、中国で外交担当者になった人は不平等な状態を解消するた めの声明を出したり交渉したり、何かをやればやるほど非常に国民の人気が出て支持され るという構造になっているから、簡単に言えば、一方的で突然にやればやるほど支持され るわけです。そういう構造があるので、そういうことをやりたがるし、またそれによって 成功したことになる。前の人がそういうことをやって成功したということになれば、後任 の人はまた一層ラジカルなことをやって国民の支持を得ようとするということになった。 たぶん同じような大衆ナショナリズムの時代と地域ではどこでもそうやって支持を獲得 していくという構造があるのだと思います。 ○一般参加 中国側の「無視」とか日本の期待を裏切る行動というのは、背後にコミンテ ルンの何かがあるのでしょうか。 ○筒井 コミンテルンによるというのは検証できていません。ソ連の共産党が当時は世界 じゅうに支部を作って世界を共産化するということで活動していました。そして中国の国 民党の内部にも入っていたので、第二次南京事件でも済南事件でも、国民党と日本が衝突 すると共産党には都合がいいから、どうもそういうことをやった可能性があるという説は あります。 ただ、今度はそこから拡大して、第二次大戦ごろに起こったことは全部コミンテルンの 陰謀だというようなことを言う人がいますが、明確な証拠がありませんから、実証的な史 料に基く研究者でそれをそのまま肯定する人はいないですね。 ○一般参加 アメリカが公表した「ベノナ文書」に、ソ連がいろいろと工作していたとい うのがあるのですが、これはどうなのでしょうか。コミンテルンが 1919 年に設立されたの で、この時期既に中国にいろいろと仕掛けていたような気がするのですが。 ○筒井 ベノナ文書に出ているからといって、第二次大戦期に起きたことがみんなソ連の せいだというのは、どうでしょうか。ベノナ文書によってわかることもあるけれども、「そ のような可能性もある」ということだと思います。つまり外務省の文書などをいくつも検 討して、これはこの人がこうしてこうなったのだ、確実だというのとは違いますね。それ をもとに確実な史料とつき合わせて確定していくというのであればいいですが。 ○古川事務局長 ありがとうございました。 そろそろ時間となりましたので、本日の近現代史研究会はこれで終了したいと思います。 筒井先生、2回にわたりまして本当にありがとうございました。 (拍手) (以上) 17
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