このサイトは、スコットランド教会(Church of Scotland)が長く歌い継い

このサイトは、スコットランド教会(Church of Scotland)が長く歌い継いできた、詩編歌
(Metrical Psalter)について紹介するページです。
【目次】
1.英訳詩篇歌の成立史
2.2つの低迷期
3.歌唱史の問題
4.詩篇歌の旋律(チューン)
5.日本語訳の紹介
6.資料
0.サイト管理者
スコットランドはカルヴァン主義の影響のもと、長
老制の教会を長く営んできました。詩篇歌はこの
伝統のもとで歌い継がれてきたものですが、古く
は英語圏のプロテスタントの全教派(一般の教区
教会、長老派、会衆派、バプティスト派、など)が、
詩篇歌を礼拝で唯一使用できる讃美歌としていま
した。
英訳詩篇歌には、幾つかのルールがあります。
パラフレーズや創作詩を加えず、歌詞を聖
書本文の1節1節に照合させる。
歌詞はたった4行の短い韻律詩(Metre)に
より編まれる。
歌詞と旋律(Tune、チューン)は独立してお
り、自由に入れ替えることができる。
このルールにそって翻訳された詩篇歌は、共通
の旋律(Common Tune)で歌えるため、たとえ1つ
のチューンしか知らなくても、150編すべてを歌い
通すことができます。このシンプルなアイディア
が、広く日本に知られることを願っています。
ご意見、ご質問などありましたらこちらのフォームよりお願いします。
◆最近の校正進捗状況(2011/8/28)◆
スコットランド詩篇歌 > 英訳詩篇歌の成立史
1.英訳詩篇歌の成立史
1-1.宗教改革期 1-2.ピューリタン革命期 1-3.名誉革命後
1-1.宗教改革期
もともとブリテン島には、ノルマン人の使用していた古
英語の時代から詩篇の韻文訳が知られていますが、当
時の教会や礼拝式の実態はほとんど判っていません。そ
の後、フランス寄りの典礼文化の移入により、イングラン
ドの音楽史および礼拝史は始まるのですが、英語訳の詩
篇歌の伝統は実質的に宗教改革期からとなります。
スコットランドにおいては、ジョン・ノックス(John Knox、
1510-72年)、ジョージ・ウィシャート(George Wishart、
1513-46年)らが中心となって、スコットランド教会の改革
John Knox
に着手しますが、女王メアリー・スチュアートによる強硬な
カトリック施政によって弾圧をうけ、ウィシャートの殉教の後に多くの宗教改革者はスイス
のジュネーヴに亡命しました。そこでカルヴァンの指導する改革派教会の薫陶をうけたノ
ックスらは、1559年にスコットランドに帰国して、スコットランド信仰告白、礼拝式文を国会
に提出し批准しました。このとき礼拝式文(Common Order)と共に準備されたのが、旧詩
篇歌(Anglo-Genevan Psalter、1564年)です。この頃はイングランドの教会とは兄弟関係
にあり、イングランドの旧詩篇歌(Old Version、Sternhold & Hopkins、1562年)とは若干
の違いをみせるものの、ほぼ同じ内容のものです。むしろ、イングランドがこの旧詩篇歌
を18世紀に至るまで一般祈祷書(Cmmon Prayer)と共に正式採用していたため、こちら
のほうが有名になりました。
歌詞は英語圏で古くから親しまれていた3つの短い韻律詩(Common Metre:8686、
Short Metre:6686、Long Metre:8888)によって編まれました。これらはバラッド(叙事詩)
の伝統からくるもので、フランスやドイツのように吟遊詩人の伝統に添うものとは違った
特徴をもっていました。歌詞は聖書の言葉を要約せずに節ごとに訳していくこと、また言
葉の修辞に凝らず創作詩を加えないなど、短い韻律詩にかなり厳しい制約を課していま
した。ちなみに、英語による詩編の韻律訳はノルマン人による11世紀の古英語まで遡
り、ウルガタ聖書の散文訳と並行して行われた記録があります。こちらは回文に近い厳
密な韻律が特徴で、礼拝学的な興味よりも古ゲルマン語による芸術への興味を引き立
てるものとなっています。その意味で短い4行詩で綴る長篇詩の伝統は、北欧神話(サ
ガ)の伝統に根を下ろしているとも言えます。一方でロンドンの下町では、19世紀にいた
るまで庶民の間でブロードサイド・バラッドが流行しており、グリーン・スリーブスのような
流行歌から、キャプテン・キッドの冒険のような時事譚まで、歌詞は非常に広いジャンル
に渡っていました。
宗教改革者たちが詩篇歌を編纂した本来の意図は、礼拝において全会衆が聖書の御
言葉の奉仕にあたることを目指しており、そのために歌詞は旧約聖書の詩編に限定さ
れ、歌詞の編纂には芸術性よりも厳密性が求められました。この後の英語圏のキリスト
教会では、18世紀末までの約250年間は詩篇歌のみが礼拝の歌として歌い継がれるよ
うになるのです。
1-2.ピューリタン革命期
イングランドでは1562年の詩篇歌の出版に前後して、
ロンドンではピューリタン的な改革が推し進められまし
た。聖ポール大聖堂の屋外に設置された説教檀
(Paul's Cross)では説教中心の集会がなされ、詩篇歌
の出版される前の1560年には、ジュール司教がチュー
リッヒの宗教改革者に宛てて、「説教を聞きに集まった
6000人におよぶ会衆が、礼拝の後に詩篇歌を声を合
わせ歌っている」と報告していることから、ジュネーヴの
影響の強い礼拝形式が好まれました。一方で、大聖堂
内では王室礼拝堂と比肩する聖歌隊による壮麗な典
聖ポール大聖堂のPaul's Cross集会 礼音楽が毎日執り行われていたのでした。ちなみにエ
リザベス女王時代の王室礼拝堂では、外交政策の一環で、カトリック教会と遜色のない
典礼色の濃い礼拝様式が維持されました。外国要人の表敬訪問の際には必ず礼拝に
出席するよう求め、聖歌隊の質の高さへの賛辞を受けるとともに、国教会がプロテスタン
トであることの妥当性を説明したとされます。カトリック信者であるウィリアム・バードの王
室礼拝堂への採用も、ただ単に彼の才能のみによるのではなく、こうした寛容政策の枠
組みに組み入れられていたのです。そのような一流の演奏家による教会音楽も、ピュー
リタンの側からみると応唱形式のチャントを「ピンポンゲーム」と揶揄される有様でした。
このように、一見して矛盾する状況が併存することにより、イングランドの国教会は主教
側とピューリタンとで溝を深めていくこととなるのでした。
17世紀の詩篇歌の進展は、こうしたイングランドの宗教改革を不十分と感じていたピュ
ーリタン達の活動と関連があります。それは最初、思わぬ方向からきたのですが、音楽
出版を手掛けていたトマス・イースト(Thomas Este、1540-1609)の手により、従来の詩
篇歌に掲載されていたチューン(tune、旋律)に替えて、世俗的なバラッドの節を掲載し
た詩篇歌が1592年に出版されたことから始まります。ちなみにイースト氏は、ウィリアム・
バードの楽譜出版を手がけていたことでも知られます。当初、人々の反応は、、1619 年
にピューリタンのGeorge Wither が非難したように、「これら悪びれた旋律は異教の礼拝
で公に使われるものだ」と言い、自身は1621 年に王室礼拝堂付き音楽家のO.Gibbons
の曲を附したパラフレーズ集を出版しました。1630 年にWilliam Slatyer 司教が茶化して
「詩篇、シオンの歌、変テコな国で広く親しまれた旋律に合わせて」という本を執筆し、そ
こで詩篇歌を「スキャンダル好きがテーブルを囲んで、宗教を汚し侮辱する者を勇気づ
けている」と揶揄しました。つまり国教会、ピューリタンを問わず保守的な人々からは、世
俗的なメロディーで詩篇歌を歌うことを好ましいこととは考えてなかったようです。
一方で、ピューリタンの家庭礼拝では、主人の家族の他
にも従者や乳母が参加するため、庶民にも親しみやすい
チューンで詩篇歌を歌うことは非常に好ましいものでし
た。イースト氏による出版も次第に版を重ね、他に多くの
出版社が似たような詩篇歌を出版するにいたり、当時の
詩篇歌の楽譜には、リュート、オルフェオン、チターン、バ
スヴィオールの合奏を家庭で楽しめるパート譜も出版され
ました(Richard Allison、1599)。1621年に音楽家のトマス・
レイヴンズクロフト(Thomas Ravenscroft、1592-1635)が
出版した版は、従来の聖歌隊用のチューンを掲載せず、
全てバラッド調のチューンを4声部の楽譜に編纂したもの
で、ブリテン島の4カ国(イングランド、スコットランド、ウェ
ールズ、アイルランド)以外にもオランダ、フランス等の様々な国の曲が選ばれました。な
かには、宮廷音楽家のトマス・モーリー、ジョン・ダウランドなどの曲の他、「失楽園」で有
名なピューリタン詩人ミルトンの父も編曲に参加しており、新しいバラッド調のチューンの
スタイルを完成の域まで高めました。新しい旋律の作曲技法の違いとして、16世紀の旋
律が教会旋法を使った歌謡的になだらかなメロディーとすると、17世紀の旋律は明確に
長調と短調に分かれ、和声的な美しさを重視すると評されています(David E. Hoover)。
これらのチューンのほとんどは、
1562年版の旧詩篇歌の歌詞が掲載
されていましたが、17世紀に入りピ
ューリタンを中心に新しい歌詞への
動向が激しくなります。表向きの理
由は、旧詩編の歌詞の言い回しが
難しいというものでしたが、ピューリ
タンの不満の多くは詩篇歌と対にな
1637年にスコットランドのSt.Giles教会で起きた騒動
王の命により祈祷書を強制されたことに憤慨した
っていた一般祈祷書(Common
Prayer)へのものでした。イングラン
ド国王は「主教なくして国王なし」とする主教制の維持とともに、この祈祷書による礼拝し
か認めない方針だったため、これまで家庭礼拝や路傍伝道で信仰の灯火を掲げていた
ピューリタンが、自分たちの理想とする礼拝への最大の妨げが一般祈祷書の存在に映
ったのです。一方で、祈祷書というルールに則さないピューリタンの思想は、主教側の目
に無政府主義として映り、両者の溝は深まるばかりでした。
イングランド国内での改革は困難としてオランダに亡命した分離派にあって、旧約学者
のHenry Ainsworth (1571-1622)は1612年にジュネーヴ詩篇歌の旋律に合わせた歌詞を
出版します。オランダ経由で北アメリカに植民したピルグリム・ブラザーズはこの詩篇歌
をもっていたとされています。植民当時は音楽的な素養に恵まれていることを書き残して
いたピルグリム・ブラザーズですが、次第に増える多様な植民者のなかで、Ainsworthの
詩篇歌は次第に存在感を失っていきます。その理由について、マサチューセッツ植民地
で編まれたBay Psalm Book(1640年)では、Ainsworthの詩篇歌はパラフレーズした歌詞
に加え旋律が難しくて歌えないという批判がなされました。このため、一般祈祷書と相容
れず、ジュネーヴの旋律にも馴染めない植民者は、新しい歌詞で詩篇歌を編纂するにい
たったと序文に記しています。この際に推奨されたのは、バラッド風のチューンを4声部
版で全面的に採用したRavescroft版(1621年)のチューンでした。
ピューリタン革命の引き金を引いたのは、チャールズⅠ世がピューリタンの主張を退
け、1637年に一般祈祷書の改訂と強要を始めたことに端を発しています。このとき詩篇
歌もKing James版として改訂されましたが、後につぎはぎだらけ(meta-phrase)と揶揄さ
れたこの訳は、ピューリタン革命により短命に終わりました。
驚くべきことに当時の詩篇歌の序文に
は、反教皇主義というピューリタン的な
主張よりも遙かにエキュメニカルな視点
が随所にみられます。まず、どの文章に
おいても、王(メシア)にして預言者であ
るダビデの霊性と、詩篇歌を歌う者への
聖霊の働きを同じくみようとする努力が
アメリカのピューリタンの教育風景
New England Primerより
常に払われました。個別の見解では、
Ravenscraft氏は序文で、ロシア正教の典礼が最も古代教会に近いという見解を示し、
正教とピューリタンとで典礼の理解が大きく隔たっていながらも、ポスト・ルネサンス時代
のピューリタンたちの教会音楽の探求が示されています。またJohn Cotton氏起草とされ
るBay Psalm Book序文では、ヘブライ語の原典主義をどこまで貫くか、ユダヤ教音楽と
の関係まで言及され、主の名をエホバと呼ぶことを提案しました。もちろん両者とも資料
的な検証というより思想的な問題ではありますが、当時のピューリタンたちには現代の
私たちが考えると同じエキュメニカルな視点が認められます。
ピューリタン革命の政治的意義についてはともかくとし
て、議会における興味のひとつに礼拝式文の改訂にあり
ました。詩篇歌の訳出はこの時期にピークを迎え、1640
年以降、150篇全編を訳した詩篇歌は7版を数え、その他
にミルトンなど多くの詩人が部分訳に挑みました。ウェスト
ミンスター宗教会議では、1645年に議員の一人でもあっ
た老齢のフランシス・ラウス(Francis Rous、1579-1659)に
よる訳が採用されました。その際に決議された礼拝指針
では、礼拝での詩編歌の歌唱を信徒の義務とする旨が織
り込まれ、名実共にピューリタンの希望が叶えられたと考
えられます。
一方でスコットランド教会は、ウェストミンスター信仰告白は直ちに批准したものの、ラ
ウス氏の詩篇歌に関してはなかなか進展しませんでした。最初のつまずきは検討委員
会において、他の幾つかの詩篇歌の歌詞を組み合わせることで完成度が高まること、も
うひとつはCommon Metreで書かれていない幾つかの歌詞について書き直すことが報告
されました。そしてこの改訂の役目をザカリー・ボイド牧師(Zachary Boyd、1585-1653)に
託します。既に独自の訳で詩篇歌を出版していたボイド牧師はラウス氏の詩篇歌の大
改造に着手し、他の委員も巻き込み3年掛かりで最終版に行き着きました。これが現在
のスコットランド詩篇歌(1650年)です。
混迷した編纂作業は、この詩篇歌の成立史を研究したW.P. Rorison博士の手稿からも
読み取れます(以下の表を参照)。元のラウス氏の歌詞は全体の18%しか残らず、ウェ
ストミンスター版を加えても29%の歌詞しか引き継がれていません。その他ではボイド牧
師とKing James版から多く引用され、王政復古期のピューリタンに人気のあった教会音
楽家のバートン氏、流麗なムーア卿や堅実なBay Psalm Bookからも引用されています
が、判明していない56%は細かい文言の修正であろうとされています。この他にもOld
Versionからは、100篇2ndがKethe氏、124篇が Whittingham氏、136篇と145篇がCraig氏
のものを、新しい詩篇歌からは、148篇2ndがWither氏、 102篇のLong metreがBarton氏
のものを流用しています。これについてバートン氏は苦々しくも「スコット人の海賊行為」
とまで揶揄しました。しかし歴史の結果は、スコットランド詩篇歌が穏健派ピューリタンの
伝統を色濃く残す中庸な訳として評価を固めたと言えます。
歌詞の引用状況
Lines
1564 Scottish version
338
Henry Dod (1620)
266
King James (1631-36)
516
George Wither (1632)
52
Sir William Mure of Rowallan
49
The Bay Psalm Book (1640)
269
William Barton (1644)
136
Zachary Boyd (1644-48)
754
Westminster version (1647)
878
Francis Rous (1638-46)
1,588
Total (of 8,620 lines in entire Psalter) 4,846
詩編23の引用状況
1 The Lord's my shepherd, I'll not want. …
2 He makes me down to lie
…
In pastures green: he leadeth me
…
he quiet waters by.
…
3 My soul he doth restore again;
…
and me to walk doth make
…
Within the paths of righteousness,
…
ev'n for his own name's sake.
…
4 Yea, though I walk in death's dark vale, …
yet will I fear none ill:
…
For thou art with me; and thy rod
…
and staff me comfort still.
…
5 My table thou hast furnished
…
in presence of my foes;
…
My head thou dost with oil anoint,
…
and my cup overflows.
…
6 Goodness and mercy all my life
…
shall surely follow me:
…
And in God's house for evermore
…
my dwelling-place shall be.
…
Boyd
Rous
Boyd
Boyd
Westminster
West.
West.
West.
West.
Sternhold
West.
Mure
West.
Mure
West.
Mure
Boyd
King James
West.
Sternhold
1-3.名誉革命後
次の時代の詩篇歌の行方は、ピューリタン革命の失脚
後の王政復古期での冬眠を経て、名誉革命以後に移り
ます。スコットランド教会は1650年版の詩篇歌を堅持し、
1713年の総会で小学教育で詩篇歌のチューンを教えるよ
うに決議しています。イングランドでは、1696年ににTate
& Bradyによる新詩篇歌(New Version)が出版され、王
政復古期に硬直していた教派間の融和が図られます。実
際には新詩編歌の出版後も旧詩編歌の需要は一般祈祷
書を中心に衰えず、新詩篇歌は教会内より慈善学校やコ
ーヒーハウスなど、先進的なものが好まれる場所で歌わ
れました。こうした状況の打破に出たのがアイザック・ウォ
ッツ(Issac Watts、1674-1748)です。会衆派信徒の家に
生まれたウォッツは、従来の詩篇歌一辺倒の讃美のあり方を疑問に思い、最初はイギリ
スではまだ珍しかった讃美歌と霊歌(Hymns & Spiritual Songs、1707)の歌詞を発表しま
す。続けて詩篇歌においても、歌詞に「キリスト」の名を挿入した詩篇歌(The Psalms of
David: Imitated in the Language of the New Testament and Applied to the Christian
State and Worship、1719)を発表します。詩編の歌詞にキリストの名を用いることは、ル
ターなど過去に沢山の事例があるのですが、旧約聖書を忠実に訳すことをステータスと
していた英語圏の詩篇歌に対し分岐点となるものでした。神学的なスタンスは異なって
いましたが、メソジスト派のウェスレー兄弟にも高く評価され、ウォッツ氏の詩篇歌や讃
美歌は信仰覚醒運動との絡みで、むしろアメリカにおいて大きな影響力をもつようになり
ます。特に19世紀前半までは、どの教派もウォッツ詩篇歌を公礼拝で用いることを定め
ており、創作讃美の全盛期にあっても人気の衰えることはありませんでした。現在でも、
南部デルタ地方の保守的なゴスペル伝承者には、ウォッツ詩篇歌を好む人は多く、詩編
歌唱の伝統を再確認する動きもあります。
現在のように創作讃美が優勢となったのは、イングランドでHymns Ancient & Modern
(1861年)が出版され、讃美歌の教会的伝統が研究され正統な位置が確認された後のこ
とで、各教派は讃美歌集(Hynmal)の編纂に躍起になりました。この影響が日本の讃美
歌に顕著に表れているといえましょう。特に詩篇歌のチューンは頌栄の讃美歌に多く残
されていますが、これは詩篇歌の後を締めくくるために歌っていた名残です。しかし、詩
篇歌自体はより深い伝統をもっており、プロテスタントのみならず全てのキリスト教会の
歌として認知されるべきものといえるでしょう。
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スコットランド詩篇歌 > 2つの低迷期
2.2つの低迷期
2-1.王政復古期のピューリタンたち 2-2.ロマン主義時代の詩篇歌復興 2-3.
低迷期から学ぶこと
英訳詩篇歌は450年の歴史をもちますが、全て順風満帆だったわけではありません。
あるときには歴史の波に翻弄されて、存続そのものが危ぶまれていた時期もありまし
た。ここでは、ピューリタン革命が失脚して後の王政復古期(1660~89)、そして市民社
会が成熟した19世紀の詩篇歌の様相をスケッチします。
2-1.王政復古期のピューリタンたち
ピューリタン革命の失脚後、1661年にチャールズⅡ世がイングランド王として即位した
後に、ピューリタン的な集会、説教、文書などを弾圧するクラレンドン法典が1661~65年
に建て続けに出されました。この時代のピューリタンの活動は、弾圧とともに地域毎に分
散しており、歴史的に埋もれた部分でもありますが、数少ないトピックスを挙げることとし
ます。
イングランドにおいては、1662年の礼拝統一法に先だ
って、1661年に主教側と非国教徒側とが12名ずつ参加
したサヴォイ会議で、主教側の提出した祈祷書に対し、
長老派のRichard Baxter牧師(1615-91)を中心に幾分か
の修正が試みられました。結局、この交渉は無効になっ
たものの、Baxter牧師はこのときの会議録の離散を恐れ
てA Petition for Peace(The Reformation of the Liturgy:
後にSavoy Liturgyと呼ばれる)を出版しました。そこで詩
篇歌の扱いに関する記述が幾つか残されています。ま
ずSternhold & HopkinsのOld Versionは舌が回りにくいと
言及しており、詩篇歌としては1644年にRous氏に続きウ
ェストミンスター会議で承認されたWilliam Barton(1603-78)のものと、1650年のスコットラ
ンドのものが勧められています。もうひとつは応唱詩篇(アングリカンチャント)と頌栄
(Doxology)に関する批判で、応唱では信徒が詩篇を半分しか唱えないこと、また詩篇
歌の後のみならず礼拝中に信徒が何度も頌栄を唱えるのは異邦人の祈りに似ているな
ど、詩篇歌を信徒の義務と考えるピューリタンの思いから掛け離れた状況を記していま
す。
後年の1681年に、Baxter牧師は自身の宗教詩集で、当時使われている詩篇歌にRous
(1641-46)、King司教(1651)、John White(1655)、New England版(1640-)、Davisons
(?)、スコットランド版(1650)を挙げており、王政復古期においてイングランドでの詩篇歌
の選択に自由度が広がっていたことが判ります。老境に入ったBaxter牧師自身は、詩篇
歌が自分の宗教と人生に最高に喜ばしい訓練を与えてくれたこと、早朝と就寝の折りに
最愛の妻と共に詩篇を唱えることが、けして小さな慰めではないと語っています。
会衆派牧師のPhilip Henry(1631–96)が行った家庭礼拝の模様が伝えられています。
Henry牧師は家庭礼拝を信徒の義務と考え、自身の子供や家の使用人まで家庭礼拝を
守らせました。木曜の夕刻に小教理問答を子供と使用人に教え、土曜の夕刻には問答
を覚えているかチェックします。日曜の夕食後は、詩篇を歌った後に朝の説教を繰り返
し、近隣の2、3の家族も一緒に加わりました。詩篇歌は時折Old Versionを使用しました
が、ほとんどの場合Barton氏のものを用い、家族全員が詩篇歌の本を持っていたので、
全節を先唱なしで素早く歌ったとされます。そのほうが歌詞が途切れることなく、霊的に
理解をもたらすとも考えたのです。
ピューリタンへの取り締まりが特に厳しくなったのは、1672年の信仰寛容令が撤回され
た後からであり、讃美歌作家で有名なIsaac Watts牧師(1674-1748)の父もSouthampton
で生まれて間もない息子を残して投獄されましたし、Baxter牧師も1675年にLondonの集
会で説教したかどで50ポンドの罰金刑と家財差し押さえに会っています。こうした事態に
あって、Bristolでの集会では、密告者が集会場に忍び込んでくると説教者は座り、誰が
説教者か判らないように皆で詩篇歌を歌い始めたとされます。当時、非国教徒として分
類された教派は長老派、会衆派、バプテスト派、クェイカーであったが、面白いことに
Bristolでは1672年の寛容令よりバプテスト派と長老派が合同礼拝を行っており、ウェスト
ミンスター会議の継承の一面が見て取れます。ただし、長老派が祈祷書を読んで祈る場
面では、自由祈祷を旨としていたバプテスト派からすると、嬉しいことも悲しいことも関係
なくアーメンと唱えねばならないのかと疑問を呈しており、ピューリタンが祈祷書の強制と
弾圧の反動から、非典礼的な態度を硬化させていった一面も見て取れます。逆に当初
から会衆讃美そのものを否定していたクェイカーは、1670年頃には詩篇歌を歌うように
なっていました。
イングランドとの同盟関係にあり、同じ王を掲げていたスコットランドも同様な状況で、
詩篇歌の後に頌栄を歌うことに批判的でありました。Edinburghに設けられた監督教会
のBarnet司教は1673年のSecond Conferenceで、長老派は頌栄を礼拝の最初に唱えると
非難しましたが、実際は退場前に主の祈りの後に頌栄を歌うため、司教の指摘は間違っ
ていると記しています。あるいは1661年のSavoy Liturgyとの混同かとも思われますが、
こうした見解が政治的に微妙な影響を与えたことは見て取れます。
1549年のCommon Prayerより続く詩篇歌の後の頌栄の付加については、1688年の名
誉革命後も議論が続きました。1696年にBrad & TateによるNew Versionの詩篇歌が、
1719年にはIsaac Watts(1674-1748)による"The Psalms of David: imitated in the language
of the New Testament"が出版され、いずれも頌栄を末尾に備えていました。ピューリタン
は詩篇歌への頌栄の付加が、カトリック教会から続く伝統であることを周知しており、頌
栄への反動は、詩篇歌の礼拝使用を訴えるピューリタンらに明確な違いとして映りまし
た。特に当時は詩篇歌を座って歌う習慣がありましたが、その後の頌栄を歌う際には起
立することが求められたため、頌栄の存在感は際だっていたと思われます。ちなみに
1743年にGeorgⅡ世がヘンデルのハレルヤ・コーラスの場面で立ち上がったというのは、
当時の礼拝儀礼とも関係があると思われます。頌栄を擁護する意見も様々で、J.Johnson
は1706年のダビデ詩篇翻訳史で、頌栄を詩篇のハレルヤ(主をたたえよ)のパラフレー
ズだと解説しましたし、C.Wesslayは1722年の祈祷書解説で、詩篇歌の後の頌栄はユダ
ヤ人の詩篇をキリスト者の讃美に変えると述べましたが、これは当時の標準的な考え方
を示していると思われます。またユニテリアンのW. Whistonは1710年に、Cambridgeの慈
善学校やコーヒーハウスでNew Versionの詩篇歌を頌栄付きで歌い、その歌詞に"One
God"というフレーズが付加されていることを指摘し、三位一体の神という記述が聖書本
文にないことを理由に頌栄を歌わないとしました。頌栄が聖書本文に書かれていないと
指摘する長老派の聖書主義を茶化したものとして、Scotch Presbyterian eloquence
display'd (1738) があり、締めにあたる教理問答で、「Q. なぜ長老派は信条や頌栄を唱
えないのですか? A. なぜならそれらの言葉は聖書に書かれていないからです」と答え
させ茶化しています。こうした意見の狭間で、スコットランド教会は1713年の総会で、学
校教育で詩篇歌のCommon Tuneを教えるべきことを決議しており、16世紀末から続いた
学校での宗教教育の伝統を再確認しました。
1661~88年の王政復古期のピューリタン弾圧は、一見すると英語圏のピューリタンの
活動が衰退したように思われますが、一方でその教派的特徴がより顕著となった時代で
もあります。またアメリカでは19世紀中頃から典礼的な伝統に言及する際、1661年の
Savoy Liturgyを重視する傾向があり、通常、聖餐と並んで行われる使徒信条と主の祈り
を、説教より前に配置するなど、現在の日本のプロテスタント教会に多い礼拝式の形成
への影響も無視できないと考えられます。
2-2.ロマン主義時代の詩篇歌復興
英米では、一度はメソジスト運動に影響を受け、霊歌(Spiritial Song)や讃美歌(Hymn)
の流行に呑まれてしまったと思われる詩篇歌ですが、教会の歩みは保守層を中心として
かなりゆっくりしていました。むしろ詩篇歌とチューンブックは19世紀前半を通じて出版さ
れ続け、ときにはその扱いに議論を巻き起こしながら、礼拝讃美に影響を与え続けたと
言えます。
スコットランドでの詩篇歌復興は、イングランド出身の音
楽家Robert Archibald Smith(1780-1829)によってもたらされ
ました。1807年にPaisley Abbey の先唱者に着任し、まずメ
ソジスト風のウェストギャラリー・バンドとやさしい声で歌う
聖歌隊を組織しました。それが評判となり、Edinburgh の
St.George's Churchの先唱者に1823 年に着任し、1825 年に
出版した"Sacred Music for St. George's Church"では、自身
の曲以外にも地方にいる音楽家による新しいチューンをプ
ロデュースし、詩篇歌の新しい方向性を世に示しました。
新しいチューンを会衆に教える先唱者の役割は次第に広
がってゆき、当時のリヴァイバル運動とも連動して、巨大な讃美集会へと発展します。
R.A.Smith に見いだされたGreenock 在住の盲目のバイオリニストで、Kilmarnock の作
者であるNeil Dougall (1776-1862)の担当したSinging class は、千人規模の大集会となっ
たといわれます。まさに街中が讃美に興味をもち駆けつけたといえる盛況ぶりといえまし
ょう。この頃多くのチューンブックが出版され、選曲を委ねられた先唱者の頭痛の種であ
ったようで、"Precentor's Guide to the Selection of Tunes"(1853)では、各詩篇に3曲程度
の推薦曲を示すと共に、10冊におよぶチューンブックに掲載される曲の対応表が付いて
います。一方で庶民の間で古いチューンへの愛着も深く、よく冗談で使われる田舎のお
ばちゃんネタでは、「ごちゃごちゃいってんじゃないよ!わたしゃ、ダビデの詩篇を
St.Davidのチューンで毎日歌ってんだ。それで乏しい(やせっぽち)だなんていわせない
よ!」とか、「先生、昼にあそこ(先唱者席)に上るんだって? それじゃ先生、エジンバラ
風にごまかさないで、ちゃんと歌を先導してちょうだい!」という類のものです。礼拝での
讃美の座を会衆に提供しようとした宗教改革者の願いは、こうした会衆の自負として根
付いていたのです。
イングランドにおける詩篇歌の復興は、Hymns Ancient & Modern(1861)の出版以前に
起こった典礼復興運動に結びついています。詩篇歌の有用性を説いた人としては、
WorcesterのSt. Nicholas' 教会のWilliam Henry Havergal牧師 (1793-1870)が有名で、ジ
ュネーブ詩篇歌のチューンOld 100thにまつわる"A history of the old hundredth psalm
tune"(1854)は、そうした詩篇歌への愛着を示す良書です。またチューンの作者で多いの
は、意外にもコンサート向けのクラシック音楽に傾倒していた紳士たちでした。イタリア系
音楽家のVincent Novello (1781-1861) はRoyal Philharmonic Society のオリジナルメン
バーであると同時に出版業を営み、ハイドンやモーツァルトのミサ曲をオルガン譜に編曲
した他、メンデルスゾーンとの交流や作品出版にも携わり、1835年にはチューンの百科
事典"The Psalmist"を出版しました。1808年に"Sacred Music"を出版したWilliam
Gardiner(1770-1853)は熱心なドイツ古典派の愛好家で、The Historical Institute in Paris
のメンバーでした。19世紀の初頭に、こうした人々を訪ねたのが、アメリカのBoston
Handel and Haydn Society の創設者であるLowell Mason(1792-1872)です。
リヴァイバル運動を通じて創作讃美歌に大きな影響を与えた
アメリカですが、19世紀前半はバプティスト派からエピスコパル
派に至るどの教派でもPsalms & Hymns という編集スタイルで出
版し、前半をWatts 氏の詩篇歌、後半を創作讃美歌という組み
合わせが一般的でした。アメリカの讃美歌の父と言われる
Mason 氏ですが、1823年に出版された最初の曲集であ
る"Collection of Church Music"は、触れ込みに"Haydon, Mozart,
Betohoven, and the other Composers"と記されていながら、前半
は古い詩篇歌のチューンで埋め尽くされており、ヨーロッパでの
評価も当時最高の曲数を網羅するというものでした。また1831
年には、Watts詩篇歌の歌詞に強弱記号を付けた"Church Psalmody"の出版に協力し、
詩篇歌に一種の情緒的な解釈を施そうとした跡がみられます。同様の出版は、New
Yorkを拠点としていたThomas Hastings (1784–1872) も行っており、19世紀初頭の教会
音楽家の保守性の一端を示しています。
アメリカでは18世紀後半にはどの教派でもWatts 氏のものが使われましたが、少数派
ながらRouse versionと称するスコットランド詩篇歌を使用するグループがありました。ウェ
ストミンスター会議の決議をより厳密に適用しようとしたものですが、米国長老教会
(PCUSA)ではこのことが火種となって、1790年代にはWatts詩篇歌とRouse詩篇歌を使
用するグループの間で礼拝の分裂まで起こったため、1799年の総会でWatts詩篇歌を正
式に採用することとしました。その後も約10年置きに詩篇歌の啓蒙のためという理由で、
総会で議決してはWatts 詩篇を何度も再版しましたが、一方でRouse versionを推すグル
ープも出版活動を根強く続け、長く続いた論争の終着点は、1866年の総会でWatts氏 と
Rouse氏 の詩篇歌を併用して出版することでした。ちなみに日本伝道に大きな足跡を残
したヘボン博士が、上海で和英語林集成を出版したのが1867 年でなので、こうしてみる
と、日本の讃美歌がリヴァイバル運動の影響で福音唱歌を多く用いるという一般論は、
アメリカのプロテスタント教会全般でみるとあまり正確ではないように思われます。あるい
は長老派で讃美歌(Hymnal)が単独で出版され詩篇歌が顧みられなくなる過度期でもあ
り、アジアでの宣教団体の活動を広く調べることで、日本の礼拝史との関わりが明確に
なると思われます。
2-3.低迷期から学ぶこと
以上、詩篇歌の低迷期についてスケッチしましたが、これらの時期の特徴は、詩篇歌
が成立する動機がエキュメニカルな意図であったにしても、その保守的な立場を貫くとき
には教派的な態度を固めざるを得なかったということです。この点から、韻律詩篇歌を改
革派もしくは長老派教会に特徴的な伝統と考える場合、英国での王政復古期、19世紀
のロマン主義での態度が、教会に歴史的な決定と下したと考えるのと同じこととなりま
す。むしろ、そうした逆境の時代を乗り越えさせたのも詩篇歌だったという見方も可能だ
と言えます。
しかし詩篇から受ける恵みは、もっと広く融通の利くものでもあります。それはチューン
(旋律)の扱いで述べますが、詩篇歌を歌うという単純な事柄にも、実際には文化的に広
いシチュエーションが存在し、それをひとつの時代や文化に押し止めておくことはできな
いのです。しかし、人間はある種の文化的な特徴をもって生きなければなりません。その
肉なる制限のなかで、主への讃美と祈りを絶やさない方法をみつけるのが、詩篇本来の
スタンスとも言えましょう。逆に言えば、文化的事情を詩篇の御言葉に従わせるというこ
とも必要であり、そのためのルール作りとして、共通のMetreを用いることが有用であると
考えています。
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スコットランド詩篇歌 > 歌唱史の問題
3.歌唱史の問題
3-1.評判の良くない歌唱史 3-2.アメリカ植民地にて 3-3.啓蒙時代のイングラ
ンド 3-4.スコットランドにて 3-5.民族音楽となった詩篇歌唱
3-1.評判の良くない歌唱史
歌唱史とは讃美の伝承史といっても過言ではありません。そして宗教改革期の会衆讃
美がどのように歌われていたか、という興味はつきないものです。しかし、こと英語圏の
詩編歌唱に関しては、理想から遠く掛け離れた状況だったと言わざるをえませんでした。
300年に渡る歌唱史は、詩篇歌のみを礼拝で用いるというシンプルなアイディアにこだわ
った結果、頂上の見えない裾野を無駄話をしながら散策しているのに似ています。同じ
時期のドイツでは、Arp Schnitgerが壮麗なオルガンを築き、ポリフォニックな演奏法に磨
きを掛けていたのとは大変な違いがあります。一方で、ドイツでは17世紀末にコラールの
作詞は飽和状態になり、会衆の興味は多様な音楽表現を伴うカンタータの演奏に注が
れていき、逆にこのことで讃美歌の内面的な発展は閉ざされていきました。これとは全く
逆のことが、英語圏の会衆讃美についていえ、目に見える成果のない逆境に立っていた
そのときこそ、詩篇歌について真剣に議論され、多くの人が韻律訳に手を染めたともい
えるのです。いつでも発展途上と思われるときこそ、多くのアイディアが注ぎ込まれ、議
論も盛んだったといえるでしょう。
スコットランドでは現在でも1650 年版の詩篇歌を用いており、通常シンプルなチューン
をオルガン伴奏で歌っています。しかしオルガン伴奏は19世紀半ばからの比較的新しい
伝統であり、18世紀まではカルヴァン主義の影響で、無伴奏で先唱者(Precentor)が歌
詞を先導して会衆が歌う方法が広く行なわれていました。これをContinuous singing(英)
またはLining-out(米)と呼びます。現在でも例外的にこの方法での詩篇歌唱が受け継が
れているのは、ハイランド地方に残るゲール語(ケルト系言語)を使用する地域で、単純
なチューンに派手なスコッチ・スナップ(こぶし、メリスマ)をつけて装飾しながら歌うことが
慣習となっています。かつては装飾をGrace と呼んでいましたが、現在では音楽用語とし
てFree Heterophony(演奏者が旋律やリズムに自由な変奏を加える奏法)と呼んでいま
す。
3-2.アメリカ植民地にて
今でもアメリカのケンタッキー州、アラバマ州、ノースカロライナ州の一部に、同じ唱法
を受け継ぐOld Regular Baptist 派があります。これは植民地時代にアメリカへ移住した
スコッチ・アイリッシュ移民の影響だとされる一方で、スコットランドに限らず、国教徒から
分離派ピューリタンに至るブリテン島全土で、同じような唱法が採られていたと思われま
す。18世紀初頭のアメリカで、詩篇歌が2,3曲のチューンで歌われていたという事情も、
17世紀に出版された詩篇歌と照らし合わせると、全く普通のことであり、植民地での会衆
讃美は音楽的に貧しかったというのは後世の誤った見解と考えられます。これは植民地
時代のニューイングランド地方での教会音楽ばかりか、17世紀の英語圏での会衆讃美
の実態を知るうえで重要な視点です。
アメリカ植民地では、18世紀初頭からLining-out 唱法による特有の問題として以下の
ことが指摘されていました。
第一に、装飾音を入れることによるテンポのずれで、1723 年にThomas Symmes
は、「ひとりが2音符目を歌うころに、隣の人が最初の音符を歌い出す始末」と記し
ました。
第二に、ときに30分にも及ぶ歌唱の冗長さで、1726 年にダートマスの牧師West
はたまたま説教を書いた紙を忘れたので、会衆が詩篇歌を歌っている間に失敬し
て半マイル(約800m)離れた我家に取りに行ったが、会堂に戻ってみると会衆はま
だ歌っていたそうです。そのときの詩篇は133 編でした。
第三に、チューンの区別のいい加減さも日常的で、先唱者だったJudge Sewall は
日記に、「今朝に私はチューンをYork で始めたが、2番の歌詞に至り会衆は気持
ちを抑えきれずにSt.David に持っていってしまい、随分とがっかりさせられた」と記
しています。
こうした歌唱法を鋭く批判し
た1721年のThomas Walter に
いたっては「身の毛もよだつよ
うな無茶苦茶な調子っぱずれ
の騒音」とまで評し、Sing by
rule(楽譜通りの歌唱)を主張
し、楽譜の読み方教本まで著
しました。対する保守派は、楽
譜通りに歌うのは教皇主義で
あり、音楽家が教会に金をせ
びりにくるための思い付きに違
いなく、しまいに会衆の誰もが
家庭礼拝で讃美する人々(1770年)
William Billing作 "The New England Psalm Singer"より
チューンを学びに来なくなる、
という主張が一般的になされ
ました。1723 年の"New England Cronicle"誌には「本当に私が危惧しているのは、楽譜
(rule)通りに歌い、次には祈祷書(rule)通りに祈り、教説(rule)通りに説教し、やがて教
皇主義へと改宗することだ」とまで主張されました。当時アメリカではこの歌唱法を
Regular Singing と称しており、イングランドのOld way of singing とは正反対です。祈祷書
と教説への嫌疑には急進的ピューリタンの神学も多分に含まれていますが、いわゆる
Common Prayer(国教会の礼拝式文)に対する非国教徒の一般的な反応とみてよいでし
ょう。非国教徒はこれに従わないことで王権に楯突く者として、公の学歴から就職まで制
裁を受けて生活することを余儀なくされていたからです。また教皇主義とは、王権による
礼拝式文の強制に対する端的な反応で、1638年のスコットランドにおける国民契約の概
念(教皇主義への抵抗を義務付け、長老主義を反逆とする嫌悪から守り、真に改革され
た宗教を告白し、それへの服従を徹底する)が、どの教派にも根強く残っていたといえま
す。今では笑い話に思えるようなことでも、当時は礼拝と生活とが人間の権利に属する
切っても切り離せない重要な関心事であり、詩篇歌の歌唱法に至るまで議論は尽きなか
ったと言えます。
3-3.啓蒙時代のイングランド
イングランドにおいて、この
唱法の問題点を是正しようと
したものは、メソジスト運動の
ジョン・ウェスレー が1761 年
の讃美歌集に記した歌唱指針
にも表われており、「譜面に書
かれているとおり、変更や修
正を加えないで歌いましょ
う」、「他の人たちより目立とう
として、大声で叫ぶように歌っ
キリスト者の義務(1747年)
St Martin in the Fieldsでの礼拝風景
背面にChristopher Schrider作(1727年)のオルガン
てはいけません」、「テンポを
守りましょう。ゆっくり過ぎない
ように気を付けましょう」などの言葉の裏返しは、現在スコットランドの辺境に残る唱法と
特徴が一致しています。
イングランドの教区教会では、その歌唱の乱れが著しいため、礼拝で会衆の詩篇歌唱
を禁止した教区も多くありました。1671 年に音楽出版社のジョン・プレイフォード は詩篇
歌の序文で、「大きな都市でさえチューンを良く理解している会堂奉仕者は100 人の会
衆に対し2,3 人しかおらず、人数の不足はその人の技量や能力を上回っている」と記しま
した。1681年にロンドン在住のバクスター牧師は、「学識ある思慮深い紳士でさえ、どの
チューンを歌っているかの区別はできない」と記しました。田舎の教区教会のことは散々
取り上げられ、1676年に音楽家Thomas Mace は「悲しいかな、田舎の多くの教会で、泣
き声、どなり声、わめき声、金切り声が聴かれる」と漏らしました。1712 年にゴシップ誌
The Spectator は、Kent州の教会での御婦人方の立ち振舞いを取り上げ、「詩篇のチュ
ーンをOld 100th で先唱したのに、その間に周りの紳士への会釈に気を取られ、歌い出
したのはSouthwell、そのうちWindsor になり、何度か目配せして直そうとしたが、だんだ
ん自分でも訳が判らなくなり、ようやく最後の頌栄(Gloria Patri) までこぎ着け荘厳なア
ーメンで締め括った」とあります。
18 世紀初頭には先唱者に代わりオルガニストがチューンを導くこともあったものの、前
奏と間奏のみオルガンを弾くだけで、そのときさえ早弾きしたり、音符を省略しました。あ
るときはオルガンの周囲で死ぬほど退屈そうにしている紳士淑女のご機嫌取りのため間
奏にダンス音楽(リールのボレロ、跳ねっ子ジョアン)を奏して会衆を驚かしたこともあっ
たといいます。こうした事情を逆手にとって、メソジスト運動は2階桟敷にダンス・バンドを
引き連れ、会衆讃美を大いに盛り上げました。当時のチューンの作者には、肉屋の
Wilkins、靴屋のWilsonなどアマチュア音楽家が多く登場し、庶民に暖かく迎えられまし
た。だが今度は逆に、この手の霊歌を酒場でキャッチソングよろしく得意気に詠唱しはじ
めた庶民を前にして、教区教会ではメソジスト派の霊歌も歌唱を禁じました。その意味で
は18世紀イングランドの教区教会は会衆讃美への無関心に彩られていました。
一方で、この時代にオルガンが導入された特異な場所として慈善学校(Charity
School)があります。慈善学校は別名Blue Coat Schoolと呼ばれ、貧民の子に教育を施
すという、現在の義務教育のはしりとなったものです。16世紀からあったこの制度は、ハ
ノーヴァー朝に一気に躍進し、1710年には88校と男女3000人に上る生徒がいて、生徒た
ちはCharity Childrenと呼ばれていました。ヘンデルも作品を提供したり、メサイアでチャ
リティ・コンサートをおこなったりしています。慈善学校の後ろ盾になっていたのは"The
Society for Promoting Christian Knowledge"(キリスト教知識促進協会)で、貧しい人た
ちへの聖書の無料配布をはじめ、当時としては画期的な伝道方法をとっていた団体でし
た。慈善学校の教育プログラムには詩篇歌の歌唱指導があり、歌唱指導には教区教会
のオルガニストがあたり、Charity Childrenは教区教会の聖歌隊として十分な実力をもっ
ていました。大手音楽出版Playfordの詩篇歌集は、伝統的な4声の楽譜が良く知られて
いますが、3声譜の1701年版は慈善学校を意識して出版されたと考えられています。他
にも当時の教区教会向けの旋律集(Tune Book)の末尾には本格的なアンセムが掲載さ
れていますが、当時の会衆の歌唱レベルでは無理だとしても、Charity Childrenには十分
演奏が可能でした。18世紀末には、教育成果として聖歌隊の腕前を披露するという状況
が毎年のように行われましたので、かなりの力の入れようでもあったと考えられます。こ
の時代の詩篇歌の旋律には、オルガニストにより提供された和声的に均整の取れた曲
が少なくありませんが、その担い手として慈善学校の生徒がいたことはもちろんのこと、
ヘンデルのオラトリオ演奏もこうした社会環境の助けを借りて、ヘンデルの死後も継続し
て世の中に知られていったのでした。
Foundling Hospitalの礼拝堂(1773)
西側中央にはヘンデル寄贈のオルガン
オラトリオ「ユディト」の練習風景(1732)
新旧世代の歌い方の違いに注目
会衆讃美を冷遇した教区教会がある一方で、詩篇歌自体は18世紀を通じ非常に好ま
れていました。1591 年に出版されたWindsor (スコットランドではDundee)というチューン
は、1820 年まで約700版のチューンブックに収められ、そのうちの7割は1750 年以降の
出版でした。つまり会衆讃美は禁止したが、詩篇歌を禁止したわけではありませんでし
た。ただし人々の詩篇歌に対する興味は、礼拝から外の生活の場へと移っていきまし
た。教区の教会や学校の鐘の音には詩篇歌のチューン(York やOld 100th)が使われま
した。おそらく名誉革命以後にオランダのカリヨン演奏を導入したものと思われ、朝の4時
から夜の20時まで6回鳴らされた記録があります。1785 年のMilton 詩集では、その父が
アレンジしたYorkについて、乳母の子守歌にも使われると記されました。哲学者John
Norris は1707 年に、時報の鐘に詩篇歌のチューンを使うことについて、「街中の人に敬
虔を呼び覚ますつもりかもしれないが、人々が寝ている時間に鳴らすのは疑問がある
し、不幸にもカフェに居るときに聴いたならば祈りの時間を守ることはできないだろう」と
述べました。コーヒーハウスは当時の紳士の社交場であり、世間的な話題の他にも、紳
士のたしなみとして宗教的な談義もなされ、1706 年にはW.Smithies 氏による詩篇94:16
についての説教が記録されています。1698年に創設された"The Society for
PromotingChristian Knowledge"(キリスト教知識促進協会)により慈善学校がイングラン
ド中に広がりましたが、そこで詩篇歌を中心に歌唱指導が始められました。こうして詩篇
歌は人々の日常生活へと浸透する一方で、庶民の敬虔を呼び覚ます目的へとより傾倒
していったのです。
3-4.スコットランドにて
17世紀のスコットランドは啓蒙思想の最先端
を行くような自由な気風に溢れていました。古く
からの学都エディンバラは「北のアテネ」とも賞
され、例えばブリタニカ百科事典の初版はスコ
ットランドから始まったものでした。
スコットランド教会では1713年の総会で、学
校教育で詩篇歌のCommon Tuneを教えるべき
ことを決議しており、16世紀末から続いた学校
での宗教教育の伝統を再確認しています。一
方で、1746 年の総会で「古代の歌唱の慣例に
先唱は無かった」と勧告しましたが、唱法の変
化は徐々にしか現れませんでした。自由なコラ
18世紀末スコットランドの礼拝風景
説教壇の下にPrecentorの席がある
ムを掲載するScots Magazineでは、1755 年の
Aberdeen での"Reformation of Church-
music"と称する催し物に関する投稿で、チューンのハーモニーを正確に伝えるため、ピッ
チパイプで音程を取った後、コーラス隊により先唱しましたが、テナーが主旋律を受け持
つことで、肝心のチューンを会衆がたどれなかったと報告されています。1766 年に
Edinburgh で会衆が先唱者なしで歌った事を貴重な例とし、逆にAberdeen のAssociate
Church は1830 年まで先唱者による歌唱を続けたといわれます。しかし多くは、1800 年
初頭に楽譜通りまっすぐ歌うようになっていました。
Resolis で牧会していたDonald Sage 牧師(1789-1869)は回想録で、1790 年代に小学
生だった頃、日曜の夕食後に子供たちが暖炉を囲み、父からカテキズムと詩篇歌を教わ
ったといいます。学んだチューンは、St.David, St.Anne, Bangor, Dundee, London New,
Stilt(York), Martyrs, St.Mary といずれも伝統的なチューンで、1713 年の総会決議が機
能していたことが判ります。一方で、1820 年にDundee のゲール語教会を訪問した際に
は、野外で歌う会衆をみて、とても厳粛な感銘を受けたと記しました。そしてGustavus
Aird博士の説を引用し、このチューンは北部の一部でしか歌われないため、1626 年の
戦役で渡って来たドイツ人から学んだものと紹介し、過去に行われた歌唱法の記憶は完
全に消えていました。
この“ドイツ風”というのは意味深長で、ライプチヒの讃美歌作家C.G. Frohbergerは
1797年にモラヴィア兄弟団のヘルンフートを訪れた際に、次のように述べています。
「我々の教会にとって理想的な歌い方は、(会衆讃美が)公礼拝において重要な部分を
占めつつ、適切に歌い手の心に良い情緒を湧き起こさせ、ついには敬虔で神々しい意
義を見いだすことだが、これらについてモラヴィアの会衆の歌い方に増して相応しいもの
はないであろう。我々の地域の教会は、歌うというより叫ぶように声を出し、あたかも彼ら
が口で何を歌っているかを心で感じとったり信じることなどないかのように、歌い手は誇
大に振る舞い金切り声を上げて歌うのだ。逆にモラヴィア教会では柔らかい声で、心か
ら感動的に表現して歌う。」
つまり19世紀初頭において、ドイツの保守的な教会では絶叫型の歌唱法であった可能
性が高く、スコットランドから観ても異質なものであったことが伺えます。逆に保守的なル
ーテル教会ではカンタータの演奏に執着するあまり、会衆讃美の質の向上にあまり興味
が向かなかったとも考えられます。Frohberger氏の発言はそのカンタータさえも上演され
なかった時代のもので、今日考えられている啓蒙時代における教会音楽の衰退にも結
び付く、ある種の焦りも感じられます。
以上の歴史を経た英語圏における17世紀風の詩篇歌唱は、庶民の手に委ねられた結
果、全般的には下手の横好きということが言えるかもしれません。しかしそのときこそ、
詩篇歌の編纂に限りない情熱が注がれたという逆説が存在するのも確かなのです。こ
れに対し19世紀にもたれた批判は、非文明的な過去の残骸、無知蒙昧な大衆の音楽教
養の不足とするのが常でした。19世紀後半から20世紀半ばまではチューンブック(同じ
旋律を共有し異なる歌詞を歌う歌集)も、情緒や独創性を重んじる創作讃美の狭間で否
定される傾向にありました。しかし同時に、18世紀まで英米のカルヴァン主義の教会で
続いた無伴奏での会衆讃美の伝統にもピリオドが打たれたのです。
3-5.民族音楽となった詩篇歌唱
しかし、これらの歴史的事情を飛び越えて、無伴奏で歌うスコットランド詩篇歌が残って
いる地域がハイランド地方のゲール語地域です。ここで伝承された派手なメリスマ唱法
は、一聴して非西洋的で、古いケルト起源とも言われる一方、コプト教徒の歌唱と似てい
ることから、広く地中海世界に広まっていた古代ローマ典礼歌との結び付きも想像され
ます。ケルト伝道は5世紀にはじまり歴史は長いのです。しかしメロディーに過度なメリス
マをかける唱法は、地中海のコルシカ島やスペインのアンダルシア地方にもみられ、17
世紀に広く行なわれたバロック唱法の一端をなすものと思われます。少なくとも当時の
人々が心を込めて歌う場合、今の私たちのように素直に楽譜通りに歌わなかったらしい
のです。ちなみにウェストミンスター信仰告白には"Singing of psalms with grace in the
heart"(コロサイ3:16、エフェソ5:19)というくだりがあり、言葉の綾とはいえ、当時の人が
音符の装飾をGrace と呼んだことと照合します。メロディーを変奏し展開する手法は、変
奏曲としてバロック音楽家による楽譜が多く残されています。
ハイランド地方の詩篇歌唱で特徴的なのは、1659~94 年に訳されたゲール語訳のス
コットランド詩篇歌の成立以降、その継承がハイランド地方でもゲール語を話す地域に
限定され、ゲール語文化のなかで長く育まれてきた点があげられます。ここでの詩篇歌
唱は、ゲール語文化と教会的事情(礼拝統一法に関わる国教会の礼拝式や教会統治
法を拒んだ非遵奉派への迫害)がその障壁となって、例外的にその歌唱法が温存され
たと考えられます。多くの宗教改革時代の会衆讃美が一度は伝統を破棄し、現在での
復興の手掛かりを文献や楽譜に依存するのとは大きな違いがここにあります。そこには
伝えようとする人間の意志が脈打っており、ウェストミンスター信仰告白を生み出した時
代の会衆のバイタリティもまた、生き生きと継承されていると思われます。
現在ではジャズのモード奏法のルーツを、スコッチ・アイリッシュ移民の詩篇歌唱とする
説も出ています。南部デルタ地帯で、Dr.Watts Hymn と呼び慣わされた最も濃いアレン
ジ唱法は、ハイランド地方と同種のヘテロフォニーであり、アフリカ起源とされてきたこれ
までの通説は変わりつつあります。黒人へのウォッツ詩篇の伝承は意外に古く、ヴァー
ジニア州のHanover で長老教会のS.Davies 牧師が黒人奴隷の伝道のため、1755 年に
Psalms & Hymnsをロンドンの“貧民のための宗教知識促進協会”から寄付され、翌年に
は自分の家の台所に黒人たちが泊まっては夜中の2~3時に歌っていたことを報告して
います。ブルース・ゴスペルの伝承者たちの間では、ウォッツ詩篇は依然として人気があ
り、一般に創作讃美の創始者のように言われるウォッツ氏が、詩篇歌の最後の継承者と
して敬われる一面も覗かせます。
これらの例では、18世紀に一度途絶えたと思われた英米の詩篇歌唱の伝統は、時代
に淘汰されたとはいえ、ゲール語圏のスコットランド人や、米国南部の黒人教会など、特
殊な文化背景をもったコミュニティに根強く残ったことが判ります。一方で、これらからジ
ャズやケルト音楽のようなコンテポラリー・ミュージックが生まれ出たことを考慮すると、
詩篇歌は過去の歴史的事実に留まらず、今なお生き続けている文化のなかにあると言
えましょう。
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スコットランド詩篇歌 > 詩篇歌のチューン(旋律)
4.詩篇歌の旋律(チューン)
4-1.英訳詩篇歌でのチューンの扱い 4-2.チューンの選択について 4-3.アレ
ンジと作曲について 4-4.オルガン伴奏について
4-1.英訳詩篇歌でのチューンの扱い
英訳詩篇歌では古くからの慣習で、歌詞に特定のメロディーを定めないのが通常で、
共通のチューン(Common Tune)で歌うようになっています。ほとんどの詩篇歌は歌詞
のみで出版され、チューンは別に出版されることもありました。これをチューンブック
(Tune Book)と言いますが、いわゆるチューンネーム(Tune name)と呼ばれる旋律の愛
称も16世紀末から付けられました。歌唱法も、チューンは基本的に先唱者(Precentor)
によって指示され、それをなぞるように会衆が歌うという方法をとっていましたので、基
本的に楽譜がいらない仕組みがありました。
スコットランドとイングランド両国の音楽事情は、政治的に分かたれていても緊密な関
係にあり、各都市の出版社より競って詩篇歌のチューンブックが出版されました。16世
紀~19世紀初頭までに、版数だけでも700版超のチューンブックが出版され、チューン
の数も有名無名を含めて17,000曲を超えます。一方で詩篇歌の歌詞は、長期に渡り礼
拝に使われたもので5版を数えるのみなので、チューンブックは歌詞の数に対し圧倒的
な量を誇っています。そして短い旋律のなかにも、ルネサンスからロマン派までの西洋
音楽の変換を、地続きで展望できる特徴も持っています。チューンブックには、個人で使
うセレクト版から、プロの先唱者が使う辞典のようなものまで多種多様にあり、これを専
門に研究する人も多く存在します。
4-2.チューンの選択について
ここでは、歌詞に対しチューンが自由に選べるという利点とは裏腹に、膨大なチューン
から何を選んで良いか悩むことも多いと考えられることから、歴史的経過を踏まえた資
料を提供することとします。
まずFrancis Roberts牧師(1609-1675)
の"Clavis bibliorum: The key of the
Bible"(1648)に収められる詩編歌注解で
は、チューンの性格をChearful(快活)と
Sad & Solemn(悲愴と荘厳)に分け、
Chearfulには慰め、喜び、感謝の詩篇を、
Sad & Solemnには哀願、懺悔の詩篇が
相応しいとしましたが、具体的にどのチュ
ーンを充てるべきかは示していません。
John Playford(1623-1686)の"A Brief
J.Playfordのチューン分類(1660)
Introduction to the Skill of
Musick"(1660)には、田舎の信徒および初心者向けに通奏低音付きの楽譜を掲載され
ています。そこでは9曲のCommon Tuneについて性格分類がなされており、①慰め、②
懺悔と葬儀、③讃美と感謝に分類し、①Ps.4, 12, 23, 69、②Ps.73, 116、③Ps.34, 84, 95
の歌詞が充てられました。これは後にBay Psalm Bookにも転載されたもので、当時とし
てはとても実用的なものであったと考えられます。
次に、長調=喜び、短調=悲しみという分類は、18世紀の近代になり生じたものです。
ただ古くより親しまれたチューンには、FrenchとDundee、St.DavidとSt.Marry、St.Anneと
Bangorなど長調と短調のペアを組むように覚えられたものもあります。長短2調に性格
分けした例として、1755年のThe Scots Magagineに掲載されたものを次に示します。
The Scots Magagine 1755年7月号に掲載されたチューンの分類表
19世紀には讃美歌(Hymn)の流行に後押しされて詩篇歌のためのチューンも多く作
られましたが、多数出版されたチューンブックのうち各版に掲載される曲目の異同に混
乱が生じました。"Precentor's Guide to the Selection of Tunes (1853)"はそうした時代
を反映するもので、どの詩篇にどのチューンを充てるべきか、そのチューンが掲載され
た版はどれかなどをまとめています。ただ目的がプロの先唱者向けなため、網羅的であ
るがゆえ扱うチューンの数も膨大になり、曲を憶えるだけでも大変な作業になります。ま
た、19世紀のチューンはいずれも牧歌的なものが多く、性格描写という点では制約も多
くあります。例えば19世紀のチューンを主体に集めたアメリカのW.W.Keys氏の詩篇歌集
(1863)は、22篇でKilmarnock、142篇でEvanを充てました。
1899年にスコットランド長老派の4教派合同で出版されたスコットランド詩篇歌では、7
種類にチューンの性格分類し、Plaintive(悲嘆)、Prayerful(祈り)、Restful(安息)、
Didactic(教訓)、Cheerful(快活)、Jubilant(歓喜)、Majestic(荘厳)としました。チューン
の性格分類が現代の趣向に近いことと、いわゆる礼拝式の統合の目的もあるため、分
類が簡潔となっています。次にその表を示しますが、各詩編の性格分類は、各詩編に
充てられたチューンに従って自動的に割り振ったもので、詩編の性格を直接に表記をし
たものではないことに注意してください。
スコットランド詩篇歌(1899)Tuneの分類
ⅠPlaintive
(Grief, Penitence, Complaint)
(Common Metreのみ記載)
ⅤCheerful
(Hope, Gratitude, Gladness)
Bangor、Burford、Colesbill、Culross、
Dundee、Elgin、Martyrs、St.Kilda、
St.Mary、St.Neot
Arnold、Bedford、Belgrave、Castleford、
Dunfermline、Durham、Effingham、
Epworth、Gloucester、Harington、Howord、
Lancaster、Liverpool、Munchester、
Ps.4, 6, 10, 22(1-21), 25(15-22), 35, 38, 39, St.Andrew、St.David、St.Ethelreda、
43, 51, 55, 59, 64, 69(1-29), 74(1-11, 18St.Gregory、St.Lawrence、St.Stephen、
23), 76, 77(1-9), 79, 88, 90(1-12), 94, 102 Sheffield、Southwell、Wetherby
(1-12), 103(1-18), 109, 119(153-160), 120,
129, 142
Ps.8, 9, 18(1-45), 19(7-14),20, 21, 25(8-24)
27(1-6), 28, 31, 34, 62, 63, 65(1-8), 67,
68(17-35), 69(30-36), 72, 84, 87, 92, 95,101
105, 106, 111, 113, 119(73-80),125, 126, 128
134, 138, 139, 145(1-7), 146, 149
ⅠPlaintive
(Grief, Penitence, Complaint)
ⅥJubilant
(Triumph, Exultation)
Abbey、Cheshire、Erin、Evan、Farrant、 Aspurg、Bishopthorpe、Bloxham、Bon
Kylsyth、Martyrdom、Norwich、Salzburg、 Accord、Cambridge New、Crediton、
Spohr
Glasgow、Huddersfield、Preatorius、
St.George、St.Magnus、Southwark、
Ps.12, 13, 23, 27(7-14), 32, 42, 51, 57,
Tiverton、Waldack、Wincester
58,60, 61, 71(1-13), 80, 83, 86, 89(38-52),
90(13-17), 119(17-24, 25-32, 81-88, 113-120, Ps.8, 18(46-50), 19, 22(22-31),24(7-10), 45,
145-152, 169-176), 126, 130, 140, 141, 143 47, 48, 65(9-13), 66, 68, 75, 81, 89(19-37),
95, 96, 98, 100,103(19-22),104,108, 117, 118,
135, 136, 145(1-7, 17-21),147, 148, 149, 150
ⅢRestful
(Meditation, Resignation, Peace)
ⅦMajestic
(Grandeur, Strength, Solemn Confidence)
Ballerma、Belmont、Comfort、
Consolation、Crimond、Eden、Faith、
Kilmarnock、Newington、Palestrina、
Rest、St.Anges、St.Bernard、St.Cylir、
St.Frances、St.Fulbert、St.Hugh、
St.Paul、St.Thomas、Southwold、
Uxbridge、Wiltshire
Colchester、Corona、French、Irish、London
New、St.Anne、St.Bartholomew、St.Mirren、
St.Nicholas、Stroudwater、Westminster
Ps.3, 17, 23, 25(1-7), 26, 30, 37, 40, 42,
59, 61, 70, 82, 84, 85, 90(13-17), 102(2328), 103(1-18), 107, 112, 116, 119(9-16, 4148, 49-56, 65-72, 97-104, 129-136, 161-168,
169-176), 122, 131, 133
ⅣDidactic
(Instraction, Encouragement, Warning)
Bristol、Caithness、Edinburgh、Felix、
Grafenberg、Iconium、Jackson、Melrose、
Moravia、Peterborough、Ravensburg、
St.Flavian、St.Jmaes、St.Leonard、
St.Matthias、St.Peter、Salisbury、
Ps.2, 7, 9, 27(1-6), 29, 33, 36(5-12), 44, 46,
50, 73, 77(10-20), 86, 89(1-18), 90(1-12), 91,
93, 95, 97, 103(1-18), 104, 105, 110, 114,
115, 119(89-96), 121, 124, 132(11-18), 137,
145(8-16)
Stockton、Tallis、Wigton、York
Ps.1, 5, 11, 14, 15, 16, 20, 24(1-6), 24(710), 36(1-4), 37, 40, 41, 49, 50, 52, 53, 54,
56, 62, 63, 65(9-13),71(14-24),72, 74(1217),78, 85, 91, 92, 97, 99, 102(13-22),107,
119(1-8, 33-40, 57-64, 89-96, 105-112, 121128, 137- 144), 123, 127, 132(1-10),138,
139, 144, 146
4-3.アレンジと作曲について
伝統的なオルガン譜にこだわらず、従来のチューンをアレンジして歌うことも考えられ
ます。英訳詩篇歌のチューンは、ブロードサイド・バラッドという庶民文化から派生したと
いうこともあり、17世紀からチューンのアレンジは盛んに行われていました。現代のゴス
ペルソングの基礎となったDr.Watts Hymnは、植民地時代の詩篇歌唱から発展したもの
で、英語圏の長老派から会衆派の教会の会衆讃美で広く行われていたことが、近年の
研究で明らかになっています。旧来のアレンジ唱法は現在では少数ですが、スコットラ
ンドのハイランド地方のゲール語詩篇歌や、アメリカ南部のOld Regular Baptist派でも伝
承されています。あのゴスペル唱法も、もとをたどると古い単純なチューンに行き着くの
です。
また伝統的なチューンにこだわらず、今の時代に合ったコンテンポラリーなチューンを
新しく作曲するのもよいと思うので、ぜひ実践して欲しいと思います。
例:Amazing Grace:MIDI、Oseh Shalom、、Mo Ghra Thu、Lone star、 Ik geloof
Heer u bent mijn leven、自作:INORI、WAKAI、Rosen Tag)
4-4.オルガン伴奏について
①詩篇歌の伴奏
現在、日本のプロテスタント教会で最も多く使われる楽器ですが、17世紀以降のチュ
ーンは和声の均衡が高いため、オリジナルのアレンジで演奏しても全く違和感がありま
せん。
礼拝中のチューンの指示については、会衆がよく知っているものであれば、礼拝中に
チューンネームをとくにアナウンスしなくとも、前奏で全曲弾ききればそのまま歌えると
思います。詩篇歌のチューンは通常の讃美歌の半分以下の長さなので、良く行われる
最後のフレーズだけ伴奏して冗長を避ける必要はないでしょう。
詩篇の選択は牧師の重要な役割である一方で、チューンの選択は先唱者
(Precentor)の役割でした。現在ではほとんどの教会で先唱者は見られなくなったため、
オルガン奏者がチューンを選ぶ任につくのがよいと考えられます。これには会衆が新し
いチューンを覚えるための歌唱指導も含まれるでしょう。
多くの詩篇歌では、推奨するチューンを前半と後半に分けている詩篇があり、歌詞の
段落を区切りに伴奏を入れ替えるというアイディアもあります。即興のできるオルガニス
トであれば、歌詞の段落で変奏曲を奏することもあり得ます。また、詩篇の1編全てを通
さずに典礼的要請によって抜粋して歌うことも行われます。ここでは詩篇歌の典礼的な
扱いまでは言及しませんが、詩篇を歌う場の理解として考えてよいと思われます。
②18世紀イングランドのオルガン
詩篇歌の盛んに歌われた18~19世紀初頭の室内オルガンについて、ここで紹介する
こととします。この時期の英国のオルガンは、バッハなどのドイツ・バロックの陰に隠れ
てあまり注目されませんが、讃美歌の発展史と共に紐解くと理解しやすいと思います。
後期バロックから古典派にいたる時期に発展したイングランドの室内オルガンは、バ
ロックvsロマン派の対立概念を描くことなく、チェンバロやピアノと同様に十分な汎用性
をもった鍵盤楽器でした。このことはパイプオルガン=本格的なコンサート楽器という概
念が、いかに敷居を高くしているかを示しています。
18世紀イングランドのオルガンについて、個人的に蒐集したトピックスを以下にまとめ
ましたので、興味のある方はご一読ください。(立教大学宗教音楽研究所「RICM
MUSICA SACRA」誌に掲載されました)
・18世紀イングランドの室内オルガンについて
以下のリンクには、The Historic Organ Sound Archive Project [HOSA]で調査した、歴
史的な室内オルガンの例を示しますが、Volantaryを中心にルネサンスから古典派まで
の広いレパートリーに適合していることが判ると思います。
・Norfolk, Thornage All Saints [N06711]:Thomas Elliot(1797)
・Norfolk, Wymondham St. Mary and St. Thomas [D06611]:James Davis(1810)
・Cambridgeshire, Boxworth St. Peter [D00184]:George Maydwell Holdich(1857)
礼拝で讃美歌のためのパイプオルガンを検討するときには、こうした古典派~初期ロ
マン派の様式にも注目してみてはいかがでしょうか。
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スコットランド詩篇歌 > 日本語版の紹介
5.日本語版の紹介
5-1.個人訳の紹介 5-2.翻訳の方針
5-1.個人訳の紹介
実はこれまで、英訳詩篇歌のルールで日
本語に翻訳し、150篇揃えたものは存在し
ませんでした。無ければ作ってしまおうとい
うのが、ここで紹介する個人訳です。
150篇全てをシンプルなCommon
Metre(8686)の節で翻訳しました。
歌詞は聖書の1節1節に対応させて
いますので、従来の散文訳の詩編と
も照合がとれますし、礼拝式文での
使用も容易になります。
全ての歌詞が同じ定型詩で統一さ
れているため、たとえ1曲しか知らな
くとも150篇全てを歌い親しむことが
できます。音楽的制限の多い家庭で
の祈りの場や集会等にも便利です。
巻末に24曲のチューン(旋律)を掲
載し、各詩編の性格分類と対応曲の
表をまとめました。
サンプル
はじめに~歌詞初行一覧
歌詞
詩編19
詩編23
詩編121
詩編42
詩編51
チューン
St.Anne
(楽譜 MIDI)
主がぼくしゃなれば われはひつじ
St.Angnes
わがめをみあげて やまをのぞまん (楽譜 MIDI)
Cambridge
しかはかれだにの みずをもとむ
(楽譜 MIDI)
St.Nicholas
あわれみをかみよ いつくしみを
(楽譜 MIDI)
てんはものがたる
かみのさかえ
詩編98
あたらしきうたを 主にうたえよ
詩編150 ハレルヤとうたえ きよきみやで
チューンブック~適用表
Richmond
(楽譜 MIDI)
※現在、文言の検証作業を進めておりますが、2011年6月頃を目処に自費出版の準備
を進めております。詳しい購入方法などは、後ほど掲載します。
A5版、155ページ、150篇の詩篇歌と24曲のチューンを掲載 (予定価格 980円)
また、伝統的なチューンにこだわらずに、新しい世代に相応しいコンテンポラリーなチュ
ーンも良いように思います。ややセンチメンタルな旋律を選んでいますが、参考にしてい
ただければ幸いです。
詩篇 チューン
8 Mo Ghra Thu ケルト聖歌
42 Oseh Shalom ユダヤ教聖歌
23 WAKAI
19 Ik geloof
オランダ聖歌
PDFサンプル
5-2.翻訳の方針
スコットランド詩篇歌の原題は「韻律詩によるダビデの詩篇」というものなので、英訳詩
篇歌を直訳することはしていません。翻訳の方針としては次の三点のことを行いました。
① Common Metre による語数の限定
② Strong's Number の活用
③脚韻の試み
① Common Metre による語数の限定
歌詞の語数は、1650 年版のスコットランド詩篇歌の編集方法を踏襲し、Common Metre
(8686)に限定しました。このことにより、16世紀から450 年以上蓄えられた大量のチュー
ン(tune:旋律)を自由に使うことができます。定型詩の語数を明確にするため、「主(し
ゅ)」、「名(な)」以外に漢字を用いず、歌詞を全てかな書きとしました。このため漢字でし
か判らない同音異語は極力避けています。これは歌詞に楽譜を併記しないことへの便宜
以上に、歌を耳で聞いて理解する際にも役立つものと思っています。また、語数の制限
が厳しいため、訳語を文語調とすることで、語句を短く切り上げるようにしました。口語体
の歌詞が増えている昨今において、やや古臭い紋切り型の語句に違和感を感じる人も
少なくないと思いますが、古典的な風合いも加味して採用しました。
② Strong's Number の活用
翻訳の底本については、King James 版聖書(KJV、欽定訳:1631 年)とJames Strong
(1822-94)によるヘブライ語コンコルダンス(1890 年)を参考にしながら訳語を整えまし
た。Strong 氏のコンコルダンスは、KJV 聖書を原語の単語に沿ってStrong's Number とい
う整理番号を振ったものです。KJV 聖書とそのコンコルダンスは、ともに当時の聖書学の
限界がありながら、詩篇歌の訳には十分すぎるほどの語彙が含まれている点と、スコット
ランド詩篇歌の編纂された17世紀的性格を反映できる点から採用しました。現在ではパ
ソコンの普及により、各国語訳の聖書にStrong's Number を振ったコンピューター・ソフト
が多数出ており、この詩篇歌の構文解析にも活用させていただいた。構文解析により
Strong's Number で分類される単語は、できるだけ統一した訳語を充てるようにしていま
す。
歌詞について構文解析するというのは、抒情的にそぐわないと考える人も多いかもしれ
ません。しかしこれは、詩篇歌として語数の制限が厳しいなかでも、訳語の統一が聖書
の文脈を維持する客観的な指針となると考えた点と、個々の詩篇歌の仕上がりにむらを
生じさせず、全体にひとつの文書として統一感を与える点に留意したためです。長い伝
統をもつ英訳詩篇歌にはコンコルダンスが整備されており、そうした伝統も引き継ぎたい
と思っています。
ヘブライ語の詩編(BHS:Biblica Hebraica Stuttgartensia)の全文を、Strong's Number の
単語分類に沿って、使用回数別に整理すると以下のようになります。
Strong単語
分類
使用単語の総
数
使用回数
単
語
数
n>100
25 1.2% 4,790 24.5%
%
全使
用数
%
100>n>50 57 2.6% 3,763 19.2%
50>n>20 129 6.0% 3,887 19.8%
20>n>10
10>n>5
5>n>3
n=2
n=1
未分類
計
166
287
332
335
829
7.7% 2,229 11.4%
13.3% 1,877 9.6%
15.4% 1,134 5.8%
15.5% 670 3.4%
38.4% 829 4.2%
2,160 語
404 2.1%
19,583 回
これによると、10 回以上出てくる単語は17%に過ぎないのですが、全文に占める割合
は75%にのぼります。逆に2 回以下の単語は54%占めるのに対し、全文での使用率は
10%に満たない、という逆転現象がおきます。つまり詩編で使われる単語には、基本的
な骨格として言い回しに共通する部分が多い一方で、言葉の多様性がかなり豊かである
ともいえます。これまで多くの翻訳や注解書では、この多様性の解釈にかなりの神経を
注いでいることと思われます。しかしながら、詩篇歌を翻訳する場合は、散文のような細
かい配慮は困難であることと、語数を画一的にCommon Metreとしたことを加味し、訳語
の統一感のほうを重視することとしました。
実際の作業では、代名詞、助動詞、前置詞を除いた主要単語(約300語)について構文
解析を行い、詩編全文に対する詩篇歌の構文解析の比率を約70%にすることを目標とし
ました。参考のために、構文解析の一覧を示します。ゆくゆくは英訳詩篇歌のようにコン
コルダンスが作成できればと思っています。
③脚韻の試み
元来、韻律訳とは全ての節で脚韻を踏むものを指しますが、日本語訳ではほとんど始
めての試みのため、可能なところは脚韻を踏むというスタンスで訳しました。日本語での
脚韻は、下手な駄洒落のようになりやすいことや、語句の流れを阻害するなどであり、こ
れまであまり好まれなかったと思います。しかし詩篇には、対句表現そのものにカテキズ
ム(問答)や典礼的(応答)な意味があったり、逆に単なる語呂合わせで書かれた部分も
散見されることから、各々の語彙を仔細に吟味するより、一種の形式美によって味わう
べきものだと考えました。語数をCommon Metreに揃えたうえ、文語調であることも相まっ
て、脚韻を踏むと短く格言風となっています。
並列)詩編23:1
反意)詩編11:5
主がぼくしゃなれば われはひつじ
主はただしきひと
とぼしきことなど
つみあいすものぞ
なにもあらじ
ためされども
にくまれたもう
詩篇33:16
詩篇37:17
おうのかちどきは
へいによらず
ゆうしらのちから
たすけならず
詩篇57:11(108:5)
主はそむくものの
うでをくじき
ぎのひとをたかく
ささえませり
詩篇96:5
てんのいつくしみ
おおいにまし
ながまことひろく
くもおおえり
くにぐにのかみは
ぐうぞうなり
主こそてんさえも
つくりませり
④追記
Strong's Numberで分類した単語を、使用回数順に並べると以下のようになります。や
はり一番多いのは主(ヤーウェ)で、次に多いのが神(エロヒム)です。ところが3番目に
「地上」、4番目に「魂」の来るところが詩篇の面白いところです。
Strong
No.
3068
430
776
5315
5769
6440
2617
5971
3117
6213
8034
意味
Load
God
earth
soul
ever
before
mercy
people
day
do
name
回
数
Strong
No.
698
365
190
144
143
133
128
120
115
112
109
1004
3559
4325
6662
7311
8055
2416
3519
6965
6664
2022
1121 son
559 say
103
101
3820
7200
5414
1984
3027
3045
1732
7563
935
8085
410
1288
341
7725
8064
5542
8104
heart
see
give
praise
hand
know
David
wicked
come
hear
God
bless
enemy
return
heaven
Selah
keep
1697
2896
3034
4428
word
good
praise
king
意味
house
prepare
water
righteous
exalt
rejoice
life
gloly
stand
righteousness
hill
回
数
Strong
No.
意味
iniquity
poor
feet
eat
great
statute
God's work
set
praise(song)
iniquity
fail
回
数
53
53
53
52
52
52
51
51
51
49
48
5771
6041
7272
398
1419
2706
6381
7896
8416
205
5307
31
31
31
30
30
30
30
30
30
29
29
5375 lift
982 trust
48
46
5703 ever
784 fire
29
28
100
100
95
94
94
94
87
82
79
79
77
75
74
74
74
71
71
3372
3444
5337
6944
5797
3050
7892
3225
1980
2167
8130
157
4639
6030
7307
376
3220
afraid
salvation
deliver
holy
strength
Load(Yah)
song
right hand
walk,go
praise(sing)
hate
love
work
answer
spirit,wind
man
sea
46
45
45
45
44
43
43
42
41
41
41
39
39
39
39
38
38
3162
3915
8193
1245
3212
3373
3925
7130
7891
7965
6
565
835
995
4687
6466
6697
together
night
lip
seek
walk,go
fear
teach
among
sing
peace
perish
word
blessed
understand
commandment
work
rock
28
28
28
27
27
27
27
27
27
27
26
26
26
26
26
26
26
70
69
67
67
6726
6862
571
5608
Zion
enemy
truth
declare
38
38
37
37
2620
2623
3381
3477
trust
saints
down
right
25
25
25
25
6310
1870
5869
4941
mouth
way
eye
judgment
67
66
66
65
7760
8451
639
3318
7451 evil
120 man
3478 Israel
64
62
62
3427
1471
1696
1755
36
36
35
35
4131
7442
1875
5341
move
rejoice
seek
keep
25
25
24
24
3824 heart
3956 tongue
3966 very
35
35
35
6490 precept
6869 trouble
34 poor
24
24
23
60
59
59
59
954
3290
6666
5674
34
34
34
33
3615
5159
5641
5927
23
23
23
23
6963 voice
3467 save
4210 Psalm
59
57
57
7218 head
7911 forget
7971 send
33
33
33
6635 host
7646 satisfy
7931 dwell
23
23
23
5650
7227
7121
2142
5329
136
57
57
56
54
54
53
2603
5975
8199
8605
2421
5186
32
32
32
32
31
31
8548
241
530
4194
4390
5437
23
22
22
22
22
22
dwell
nation
speak
generation
servant
many
call
remember
Musician
Load
make
law
anger
forth
ashame
Jacob
righteousness
pass
mercy
stand
judge
prayer
live
stretch
consume
heritage
hide
up
continually
ear
faithful
death
fill
compass
これを順に並べて訳すと以下のようになります。
主なる神は、いにしえより永遠に地と人を慈しみ、日々み名とみわざを子らに告げ、人
の魂と心を見定めたもう。
ダビデが神を讃え感謝を献げると、主に背く者と敵が来ようとも、天より声を聞きみ手を
伸べたもう。(セラ)
王の口はみ言葉を守り讃美をたたえ、目は良き道を向き悪を裁く。
イスラエルの国と民は後の世代に語りつたえ、主が僕の叫びを憶えるゆえ、声をあげ
讃美せよ。
詠唱者は主の家に立ち、主の正義と栄光を命の限り喜びたたえよ。
主は丘を水で潤し、避け所となり救いとなる。
主に叫べば、汝の右の手を取り歩みたもう。
主はシオンにて、憤りと愛をもて、人の子のわざに応えたもう。
主の掟の真実と力とを、心と舌で告白するなら、ひどく恥じ入ることはない。
ヤコブはみ手により正義を歩めども、慈しみを忘れ、偉大なる神のみわざに替え貪欲
にも偶像を立て、罪のゆえに裁きの前に立つこととなった。
弱り果てて祈りを捧ぐと、主は夜を炎で照らし、畏れのうちに歩ませ、唇に平和の歌と
讃美の言葉を教えられた。
主は岩に契約を刻み、慈しみを定め、正義のもとに喜び行かせたもう。
主の命令を守るように命じ、困難や貧困に悩む人に、嗣業を与え満ち足らせたもう。
誠に主は民の声に常に耳を傾け、死の淵より引き上げたもう。
このように詩篇で使用回数が多い単語は、詩篇ばかりではなく旧約聖書に通底するテ
ーマを示しているようです。主の慈しみへの讃美、讃美の意義と責任、主の救いのわざ
の告白、イスラエルの救いの歴史の告白、というふうに、詩篇の主題をたどることも可能
かもしれません。主に向かい、過去から永遠に渡り、地上と魂への慈しみと平安を求め
ることが、詩篇の基本姿勢とも言えますし、礼拝の基本姿勢とも言えそうです。
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スコットランド詩篇歌 > 資料
6.資料
6-1.詩篇歌 6-2.詩編の日本語訳 6-3.チューンブック 6-4.視聴覚資料(CD、ビデオなど)
ここではスコットランド詩篇歌を知るための有用な資料を紹介します。日本語での紹介はほとんどないばかりか、否定
的な見解のものが多く存在するのが現状で、ほとんどは英語の文献に頼らざるを得ない状況ですがご了承ください。
※リンク先の文献のうち古いものはPDFでダウンロードできますが、近年のものは購入ページにリンクしています。
Internet Archiveは図書館等と連携していて、隠し文字の埋め込みも正確でデジタル文書として有用です。Google Books
は掲載範囲が広く珍しい文書も多く、文書内検索が可能な点は良いのですが、文字のデジタル化は機械任せで誤字だら
け、PDFには自身のロゴを入れ込むなど、不親切な面も多々あります。
6-1.詩篇歌
Scottish Psalmody: 1650 Scottish Metrical Version (split-leaf) ※Crown & Covenantへのリンクです。
Split-leafと呼ばれ、上段にチューン、下段に歌詞を掲載し、ページを別々にめくることができます。各詩編冒頭に推奨の
チューンの指示があり、Common Metreのチューンだけでも130曲掲載している一番充実した版です。ずっと廉価な歌詞だ
けの版もありますが、歌詞だけならインターネットの様々なところで公開されています。
A Concordance to the Metrical Psalms(1856) ※Reformation Heritage Booksへのリンクです。
スコットランド詩篇歌のコンコルダンス。一般に讃美歌の歌詞で構文解析するのは珍しいのですが、韻律詩という制約
のなかで立派に翻訳として成立する英訳詩篇歌ならではのもの。他の詩篇歌については"A concordance to the Psalms of
David, according to the version in the Book"(Charles Girdlestone, 1834)があります。
The letters and journals of Robert Baillie Vol.1 , Vol.2 , Vol.3
Robert Baillie (1602-62)はウェストミンスター宗教会議に参加したスコットランド教会の特使の一人。3巻目の付属資料
にスコットランド詩篇歌の成立に関する手紙や議事資料があり、他の詩篇歌の作家との交流なども含め非常に有用な一
次資料です。
The Scottish metrical psalter of A.D. 1635 (1864)
19世紀の詩篇歌再評価の頃に、1635年に出版されたスコットランド詩篇歌(旧版)を再現したもの。この版に31曲収録さ
れたCommon Tuneはピューリタン革命以前の集大成であり、この版にしか収録されていないチューンも多い。前文と付録
には1565年版から1635年版までの歴史的遍歴(チューンの割り当て、詩篇に伴う祈祷文、詩文の異同など)が細かく網
羅されており、とても参考になる。
Clavis bibliorum: The key of the Bible(1648)
Francis Roberts(1609-75)は、上記のBillie氏とも親しかったイングランドのピューリタン牧師。書物全体は旧約聖書注解
だが、詩篇の項は個人訳の詩篇歌と共に本格的な注解を記した労作。各詩編歌について、Ⅰ.要約、Ⅱ.詩篇歌本文、Ⅲ.
性格・著者・場面、Ⅳ.目的、Ⅴ.注解・主要事項とを記す。序論には詩編歌唱に関する多くの記述がなされ、共和制~王
政復古期の資料として随一のもの。
Editions of the Bible and parts therof in English from the year 1505 to 1850(1852)
Henry Cottonによる歴代の英訳聖書の出版リスト。やや古いものの、旧新約以外に詩篇歌も調査され、出版年代順に
並べていいます。付録では各訳が比較でき貴重。
Four centuries of Scottish Psalmody(1949)
Miller Patrick教授による、1650年版の詩篇歌の出版300周年を記念して書かれたアンソロジー。この詩篇歌の複雑な
成立史に関する有用な情報を掲載。比較的新しい本でありながら、現在入手できるものが劣悪なコピー本なので、あえて
初版本のPDFへリンクします。
The Psalmists of Britain(1842)
John Holland(1794-1872)による17~19世紀の英訳詩篇歌の作者たちの作例をまとめたアンソロジー。ウォッツ詩篇歌
を分岐点としながら、周辺の作者に目を配っている点が重要。教会で公に使われた版は極一部に限られるが、それを支
えた多様な文化背景と継承の記録でもあります。
The English Hymn Its Development and Use In Worship(1915)
Louis F. Benson(1855-1930)によるアメリカ讃美歌史で、Watts Hymnを中心に、18~19世紀の各教派の動きを記してい
ます。長老派では出版状況と合わせ地域毎の会議(Synod)の経過を記述し、1780年代にRouseとWattsの詩篇歌を巡っ
て礼拝が分裂したなど興味深い記述があります。リヴァイバルと西部開拓以外の保守層における詩篇歌の扱いを知るう
えで興味深く、これを読むと日本への詩篇歌の伝搬は紙一重だったと感じます。
6-2.詩編の日本語訳
散文訳
一般に知られるものとしては、日本聖書協会からは文語訳(1887)、口語訳(1955)、新共同訳(1987)、日本聖書刊行会
からは新改訳聖書(1970)、リビングバイブル(1978)などに、詩編の散文訳があります。
礼拝用のものでは、文語訳は長らく讃美歌(1954)の巻末に交読文として使用されていたことから考えると、非常に息の
長い訳といえます。詩編のみの訳では、古くから正教会の聖詠経(1901)があります。カトリック教会の典礼委員会訳
(1972)は、典礼聖歌の底本になったばかりか、新共同訳にも影響を与えていると思われます。日本聖公会の古今聖歌
集や日本基督教団の讃美歌には、朗唱によるアングリカン・チャントが掲載されており、これも一種の散文訳といえます。
個人訳では、戦前のものとして、左近義弼訳(1909)、湯浅半月訳(1940)があり、共に当時流行した文献批判に基づい
て、文学的な面白みも加味しながら詩編を翻訳しています。戦後のものでは、新旧の岩波訳(関根文雄:1973、松田伊
作:1998)が、注解的な要素の多いものとしてあります。
韻律訳
詩編は讃美の源泉として、様々な讃美歌に引用されていますが、詩篇歌のみで出版されたものはそれほど多くありま
せん。日本基督改革派教会によるジュネーブ詩篇歌は、その名の通りジュネーブ詩篇歌の日本語版で、オリジナルの旋
律を掲載しています。ジュネーブ詩篇歌の個人訳としては、木岡英三郎訳、渡辺信夫訳(未出版)があります。英訳詩篇
歌の伝統では、日本改革長老教会による詩編抄集が1950年代から長期に渡り編纂されていますが、2000年版を最後に
150篇の完成には至っていません。讃美歌21は、詩篇歌の章を独立させ、多様な伝統による讃美歌を掲載しています。
6-3.チューンブック
Whole Booke of Psalms(Old Version)(1588)
一般祈祷書(Common Prayer)の後半に、1588年版のSternhold & Hopkinsによる旧詩篇歌と当初のチューンが掲載さ
れています。歌詞はひげ文字で読みにくいものの、旧詩編歌のチューンが単旋律で記載されており、当時の出版形態を
知るうえで参考になります。ちなみに序文はアタナシウス主教による各詩編の紹介。
Ravescroft's Psalter(1621)
旧詩篇歌の全ての歌詞に4声部の楽譜を載せたこの版は、後のチューンブックに多大な影響を与えたものです。序文
にはロシア正教の聖歌が古代教会のものに一番近いのではないかとの見解が示されるなど、楽譜以外にも興味深いも
のものがあります。
A brief introduction to the skill of musick(1660)
John Playford(1623-1686)による本書は、ヴィオール演奏の入門書と共に、田舎の教会における詩篇歌唱の向上を目
指して、詩篇歌のチューンをバス・ヴィオール譜付きで紹介しています。とかく理念が先行していた当時の詩編歌唱にあ
って、実践的な立場で書かれた音楽教本としては最初のもので、アメリカのBay Psalm Bookが1696年に初めて楽譜を掲
載する際にも引用されました。
Psalm of David for Use of Parish Churches/Edward Miller(1790) ※Amazon.co.ukへのリンクです
メソジスト運動の最盛期に出版された詩篇歌。チューンの選択は保守的ですが、当時使われた装飾音符が書かれてい
るのが貴重。詩篇の扱いは聖務日課に沿っています。
Collection of church music(1823)
アメリカ讃美歌の父と呼ばれたLowell Mason (1792-1872)がボストン・ヘンデル・ハイドン協会( Boston Handel and
Haydn Society)から出版したチューンブック。表題に”with many beautiful extracts from the works of Haydn, Mozart,
Beethoven”とあるが、前半の300曲がいわゆるPsalm Tuneで埋められています。Mason氏は1831年にウォッツ詩篇歌の
歌詞に強弱記号を附した”Church Psalmody”の出版に協力しており、従来の詩篇歌に情緒的な解釈を施しています。
The Hymn Tune Index
Nicholas Temperley教授による、16世紀から1820年までに出版されたチューンブックの出版記録のデータベース。どの
チューンがどの版に掲載されているか、似た旋律のバージョン区分、チューンネームの異動など、様々な情報が満載で
す。出版本は$450の大型本。
The Music of the English Palish Church Vol.1 , Vol.2 ※Amazon.comへのリンクです
上記のTemperley教授によるイングランド会衆讃美の歌唱史の論考。Vol.1が本文、Vol.2が譜例集となります。これまで
推測の域を出なかった16~18世紀の歌唱史について、膨大な資料で具体的に裏打ちした労作。通常書かれる成立史の
みならず、都会と田舎の緩やかな流行の時差や、オルガン建造への支出状況、新旧詩篇歌の出版の移り変わり(意外に
ウォッツ詩篇歌の出版数は少ない)など、進化論的なこれまでの通史とは異なる丁寧な掘り下げがなされている論考で
す。
Sabbath in Puritan New England(1891)
著者のAlice Morse Eagle女史はアメリカのコロニアル文化について多くの著作を残したが、この本は17~18世紀ニュー
イングランドでのピューリタン礼拝について、当時の文書をもとにスケッチしたもの。一見してアメリカ独自の神学に思える
ピューリタン史は、一方でイングランド教会史の鏡姿であり、様々な神学的アイディアが史実として残る実験場でもありま
した。礼拝音楽が詩篇歌のみだった時代を中心に、文化面からみた礼拝史の橋渡しをしてくれる良書。
Lining out the word: Dr. Watts hymn singing in the music of Black Americans (2006) ※Amazon.co.jpへのリンクです
William T. Dargan教授による、アフロアメリカンの人々により伝承されるゴスペル唱法:Dr. Watts Hymnについて、植民
地時代からの詩篇歌唱にルーツを持つことを歴史的に実証した書物。黒人教会の文化的特異性が、宗教的保守性によ
り成り立っているというユニークな視点は、これからの黒人教会の行方を考える点でも有用に思えます。
6-4.視聴覚資料(CD、ビデオなど)
実はスコットランド詩篇歌の録音というのは非常に少ないのが現状です。いわゆる芸術作品とはほど遠いうえ、歌って
いる人の大多数が一般の信徒です。ここでは歌唱史との関連で紹介します。
The Psalms of David in Metre, 1650 ※Presbyterian Reformed Church(Canada)へのリンクで
す
米国アイオワ州の改革長老教会のアカペラ・コーラスによる自主製作CDです。500年の歴
史が貯えた色々なチューンが楽しめます。
Vol.I
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
Vol.II
51: 8-13
63: 1-6
23
36: 5-9
24: 7-10
130
79: 9-13
98: 1-4
124 II
121
St. Kilda
Wetherby
Crimond
Gainsborough
St. Magnus
Erin
Culross
Desert
Old 124th
Abbeyville
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
95: 1-6
100
99
147: 1-8
138
105: 1-7
136: 1-12
66: 1-5
90: 1-4
19: 7-14
Irish
Old 100th
Ellacombe
Huddersfield
Crediton
St. Flavian
New 136th
Scarborough
St. Anne
Old 44th
11 145 II: 1-6 Duke Street
12 137: 1-6 Dunlapscreek
13 102 II: 16-22
Walton
14
45: 1-7
Praetorius
15 73: 25-28
Wiltshire
16 143 II:8-12
Aurelia
17 103: 1-7
Ostend
11
12
13
14
15
16
139: 1-10 Belmont
6
Soldau
62: 5-8
St. Agnes
17: 1-9
Salzburg
25: 1-10 Leominster
32: 1-5
Main
17
128
Dunfermline
18 34: 11-18 St. Ethelreda
19 71: 1-5
Sawley
20
12
Farrant
21 27: 1-5
Arnold
22
87
Naomi
23 45 II: 10-17 Diademata
24 80: 14-19
Evan
25
67 II
Contemplation
26
131
Humility
27 116: 13-19
28 103: 1-5
29 89: 1-8
30 72: 18-19
31
117
Ostend
Kilmarnock
St. Asaph
Effingham
Tiverton
詩篇歌の諸相
Youtubeへの投稿でみつけた様々な詩篇歌のアレンジです。伝統的なものからコンテンポラ
リーなトラッド・ミュージックまで広く浸透している状況が判ります。
Acapella Psalm Singing
Free Church of Scotlandに属する学生が集めたDowanvale教会の詩篇歌唱の録音集。17曲
のなかには、19世紀の旋律も多く含まれ、現在のスコットランドの状況をよく反映しています。
アカペラ歌唱の発声法は訓練されていない荒めの声ですが、軽めのスコッチスナップで旋律
に装飾を加えながら、素のままの讃美の心が伝わり味わい深いです。
Psalm 46 at Stornoway ferry terminal
スコットランド沖のルイス島にあるStornowayの船着き場での荒々しい歌声。チューンは
Stroudwaterだが、突き上げた高音に癖があって少し違って聞こえるのがスコットランド風。詩
篇歌の原風景のようなものです。
Grandchildren Sing Psalm 23
おじいちゃんの誕生日のお祝いでしょうか。孫たちがかしこまってYorkチューンで詩篇歌を
歌います。スコットランド伝統的な家庭で良くある風景。
RAIDFIX's Channel
オーストラリアの学生たちが歌うアカペラの詩篇歌。けして上手ではないが、和気あいあい
な感じが微笑ましい。
OPC Psalm sing...
アメリカでの歌唱で、いわゆるSacred Harpなどに代表されるヘンデル風のFugging Tuneで
の歌唱。18世紀末からSinging Schoolが流行した名残。
Psalm 139 (Were I to cross from land to land)
コンテンポラリーなトラッド・ミュージック風にアレンジされた詩篇歌。
Scottish Tradition Gaelic Psalms from Lewis ※Amazon.co.jpへのリンクです
スコットランド北部に位置するルイス島で伝承された、ゲール語(ケルト語)による詩編歌唱
のドキュメント。1960年代にBBCによって録音された。元のチューンが判らないほど強烈なア
レンジを加える独特の唱法で、家庭での老婦人の歌唱から、礼拝での先唱者付きの歌唱ま
で、短いながらも貴重な録音である。
1. Martyrdom (Psalm 84 . 11 and 12)
2. Coleshill (Psalm 118 . 15-23)
3. Stroudwater (Psalm 46 . 1 and 2)
4. Dundee (Psalm 103 . 1 and 2)
5. London New (Psalm 107 . 1-4)
6. Martyrs (Psalm 79 . 3 and 4)
Salm (Vol I) (Vol II) ※Bethesda Care Home and Hospiceへのリンクです。
上記の時代より30年程経った頃のゲール語による詩篇歌唱の録音。基本的に教会での歌
唱だが、地元の人の他に練習して参加している人もいるらしい。付録に教会での歌唱の紹介
ビデオがついている。
Vol I
1. Kilmarnock Psalm 16: 8-9
2. Montrose Psalm 9: 10-11
3. St. David Psalm 48: 13-14
4. Martyrdom Psalm 57: 1
5. Martyrs Psalm 79: 3-4
6. New London Psalm 63: 2-3
7. Dundee Psalm 103: 1-2
8. Moravia Psalm 16: 5-7
9. Walsall Psalm 13: 1-2
10. Bedford Psalm 45: 13-14
11. Bangor Psalm 22: 1-2
12. Stornoway Psalm 133
Vol II
1. Torwood Psalm 69: 35-36
2. Glencairn Psalm 42: 1-2
3. Free Church Psalm 43: 3-4
4. Stroudwater Psalm 46: 1-2
5. Kilmarnock Psalm 107: 28-30
6. French Psalm 121: 1-3
7. Coleshill Psalm 118: 15-16
8. St. Mary's Psalm 62: 6-7
9. Evan Psalm 86: 15-16
10. St Paul Psalm 122: 1-4
11. Ballerma Psalm 40: 1-3
12. Morven Psalm 103: 13-14
13. Bedford Psalm 132: 14-16
14. New Cambridge Psalm 122: 7-9
Songs of the Old Regular Baptists ※Amazon.co.jpへのリンクです
ケンタッキー州南部で今もLined-Out唱法を守る人たちの録音。上記のゲール語の歌唱が
スコットランド特有のものではなく、広くピューリタンにおいて行われたものであることを裏付け
るもの。
1. Bethren We Have Met Again
2. On Jordan's Stormy Banks
3. (O) How Happy Are They
4. Day Is Past and Gone
5. Guide Me, O Thou Great Jehovah
6. Jesus Thou Art the Sinner's Friend
7. Jesus Left His Home in Glory
8. Salvation O the Name I Love
9. I'm Not Ashamed to Own My Lord
10. I Am a Poor Pilgrim of Sorrow
11. Farewell Vain World
12. I Am Going to a City
13. Meaning of Singing
Dr.Watts Hymnの歌唱(アメリカ)
Youtubeに投稿された、いわゆる商業録音ではないのですが、生活に溶け込んだ讃美が垣
間見られ、他に類例がない面白いものなので紹介します。
Stamps Media
教会でのDr.Watts Hymnの典型的な歌唱例。基本はアカペラで、独唱からCall & Response
で歌われるものまであります。
gyyon
車の運転中でも歌っちゃう。ちょっと危険な感じのするDr.Watts Hymnです。
OLD BAPTIST HYMN
葬式でおじいちゃんが感極まって歌います。
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