異文化の旅 イスラエルを行く1103-16 a299 イスラエル4日・ナザレ・受胎告知教会・ラバルム・天使ガ ブリエル・華の聖母子・聖ヨセフ教会 2011 年 3 月 4 日の 10 時過ぎ 、 カナから南西およそ 10km の ナ ザレ Nazareth に着いた。標高は 450m ほ ど 、 テ ィ ベ リ ア か ら は 700m 近く上った丘陵地である。 この丘陵地に受胎告知教会が建 っている。 新約聖書マタイ福音書 には、 1-18「・・ 母マリアはヨセフの 妻と決まっていたが、二人がまだいっしょにならないうちに、聖霊 によって身重になった ・・ 」、 1-20 「・・ 主の使いが夢に現れ 、・ ・恐れないで妻マリアを迎えなさい ・・ 」、 1-21 「 マリアは男の子 を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民 をその罪から救ってくださる ・・ 」、 1-23 「 見よ、処女が身ごもっ ている 。そして男の子を産む 。その名はインマヌエルと呼ばれる 」、 ・・ 2-1 「 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生 まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやってき て ・・」とある。 また 新約聖書ルカ福音書 には、 1-5~1-25 にかけて、年老いた祭 司ザカリヤには子どもがいなかったが、天使ガブリエルが現れ、妻 エリサベツは聖霊によって身ごもり男の子を産むのでヨハネと名付 けよと伝える話が続き、 1-26「・・ その 6 ヶ月目に御使いガブリエ ルが神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女の ところに来た 」、 1-27 「 この処女はダビデの家系のヨセフという人 のいいなづけで、名をマリアといった 」、・・ 1-30 御使いは「 こわ がることはない、あなたは神から恵みを受けた」・・、 1-31 「・・ あなたは身ごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい 」 と言っている。そして 、・・ 1-40 ではマリアはザカリアの家に行っ てエリサベツに挨拶したところ、エリサベツはマリアに 1-41「 あな たは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されている 」と 語りかけている。 これがマリアの受胎告知の記述である。なお、ルカ福音書 1-5 ~ 1-25 でエリサベツが身ごもったヨハネは後にイエスに洗礼するヨ ハネである。 また、 旧約聖書イザヤ書1-14「 主みずからあなたがたに一つのし るしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を 産み、その名をインマヌエルと名づける 」とあり、新約聖書マタイ 福音書 1-23 は旧約聖書イザヤ書 1-14 を引用していることが分かる 。 インマヌエルとは、神は私たちとともにいる、という意味で、新 約聖書ではイエスを指していて、そのためか、インマヌエル=マヌ エル=エマヌエルなどが人名に使われるそうだ。 マタイ福音書、ルカ福音書をあわせると、ヨセフの許嫁であった マリアはナザレで天使ガブリエルからイエスを身ごもったことを知 らされ、ベツレヘムでイエスを産んだことになる。 ナザレは丘陵地帯で、いまから 2000 年ほど前は洞窟を住まいと する人も多かったそうで、マリアも洞窟に住んでいて、そこで受胎 告知を受けている。 ガイドの説明+ web を参照すると、ローマカトリックでは受胎 告知を洞窟で受けたので洞窟の上に教会を建て、受胎告知教会 Basilica of the Annuciation と呼んでいて、ギリシャ正教会ではマリア の使っていた井戸端で受胎告知を受けたので受胎告知教会から少し 離れた井戸の上に教会を建て 、聖ガブリエル教会 St. Gabriel's Church と呼んでいるそうだ。 受胎告知教会について、 web では、コンスタンティヌス大帝が母 ヘレナの要請により 、 ベツレヘムの生誕教会 Church of the Nativity、 エルサレムの聖墳墓教会 Church of the Holy Sepulchre と同じころに 建てられ、イスラムが侵攻してきた 7 世紀に破壊されている。その 後、第 1 回十字軍でノルマンディーのリーダーとして活躍し、現シ リアの重要都市に築いたアンティオキア公国の摂政になったタンク レッド Tancred ( 1075-1112)が 1102 年に受胎告知教会を再建した が、未完のまま放置された。サラディン( 1137-1193)の時代にフ ランシスコ修道会がこの教会の維持を願い出て認められたが、マム ルーク朝( 1250-1517)の時代にまたも破壊され、フランシスコ修 - 1 - - 2 - 道僧もしばしば襲撃され、そのままとなった。オスマン帝国時代 ( 1299-1922)の 1620 年にフランシスコ修道会のナザレ入りが許さ れ、 1730 年にマリアの洞窟の上に小規模の教会が建てられ、 1877 年に増築された。イスラエル建国が宣言された後の 1954 年に建て 替え工事が始められ 、1964 年に献堂式が行われ 、1969 年 、高さ 55m の中近東で最大規模を誇る教会として完成した。 その偉容は、丘陵地の狭い道 に面して建ち上がっているため よりいっそう強調されているが ( 写 真 )、 緩 や か な カ ー ブ の 壁 面に、白みの石灰岩?の地に少 し赤みの大理石?を下ほど間隔 を開け、少しずつ間隔を狭めな がら帯状に配置し、さらに屋根 をアベ・マリア Ave Maria の A を連想させる三角形にしていて、マリア=女性=母親にふさわしい 暖かみのある印象をつくり出している。 正面の入口扉にはマリアの受胎告知からイエスの誕生~宣教~磔 刑~復活が銅板に押し出し成形されていて、イエスの始まりが受胎 告知であることを示している。 入口の上には、 X と P を組み 合 わ せ た 図 柄 ラ バ ル ム Labarum が大理石に彫りこまれている( 写 真 )。 こ れ は 、 ロ ー マ 帝 国 で 西 暦 293 年から始まった四分割統 治テト ラル キ アを戦 い抜き 324 年に唯一の皇帝になるコンスタ ン テ ィ ヌ ス 帝 が 、 312 年 、 ロ ー マ近郊のミルウィウス(ミルヴ ィオ)橋でマクセンティウスを破ったときに用いられた旗印に始ま る。戦いの前夜、コンスタンティヌスの夢で、この印をつければ勝 利するとのお告げがあり、 X + P を旗印にして戦勝したことからロ ーマ帝国軍の紋章の一つともなった 。コンスタンティヌス帝は 、313 年、リキニウス帝と連名でキリスト教を公認するミラノ勅令を発布 している 。一説には 、312 年のミルウィウス橋の戦いに向かう途中 、 光の中に X と P が重なった印を見たそうだ 。X はギリシャ語で Chi、 P は Rho となり、 Chi と Rho を組み合わせると CHRISTOS =キリス トになることから、コンスタンティヌス帝が神を信じるようになっ たともいわれる。コンスタンティヌス帝の母ヘレナが先に洗礼を受 け 、330 年のコンスタンティノープル遷都=ビザンティン帝国以降 、 ヘレナはエルサレムでイエスの聖地を訪ねたり、コンスタンティヌ ス帝に教会建設を進めるなど、信心を深くしていた。コンスタンテ ィヌス帝も神を信じていたが、洗礼は 337 年、死の間際となった。 入口上の X + P は 、それ自体でイエス・キリストを象徴するが 、 受胎告知教会の創建者であるコンスタンティヌス帝への思いも込め られているのかも知れない。 中に入る 。エントランスは中 2 階の高さにあり、ここから 1 階 のマリアが天使ガブリエルから 受胎を告知された洞窟が見える ( 写 真 )。 そ の 手 前 に は 祭 壇 が 設けられ、祭壇を囲んで 3 方に 席があり、巡礼に訪れた海外の キリスト教信者へのミサが行わ れていた。 2 階は、 1 階の洞窟の上あたりを祭壇とする広めの礼拝堂になっ ていて、こちらは地元のキリスト教徒へのミサに利用されるそうだ が、訪れたときはミサがなく、 堂内をゆっくり見ることが出来 た。 1 階 の祭壇 の上 部は屋根ま で吹き抜けていて、その上に高 さ 55m のドームが乗っている。 ドームから射す光は 2 階を明る くした うえ で、 1 階 に降り注ぐ つくりのため、 1 階からも 2 階 からも光の射し込むドームを見 - 3 - - 4 - 上げることが出来る。そのドームは、見上げると百合の花弁を思わ せ る デ ザ イ ン に な っ て い る ( 前 頁 写 真 )。 百 合 は 天 使 ガ ブ リ エ ル Gabriel の象徴で、宗教絵画などでは、天使ガブリエルに百合を持 たせて描かれることも多いそうだ 。百合はまた純血 、処女を意味し 、 そのためか、天使ガブリエルは優しい面立ちの女性的な様相で表現 されることが多い。 聖堂の壁には世界中のキリスト教信者 から寄贈されたマリアの絵が飾られてい る。それぞれの聖母子にはお国柄が表現 されていて、マリアもイエスも想像し得 なかっただろうが、キリスト教信者が世 界中に広まっていることをうかがわせる 。 日本からはルカ長谷川の「 華の聖母子 」 が 飾 ら れ て い た ( 写 真 )。 絵 は モ ザ イ ク で描かれていて、聖母マリアも幼子イエ スも和装であり、背景の上方は明るい日 射しが金のモザイクで表現され、下方に は花が咲き乱れている。ルカ長谷川を調べた。本名は長谷川龍三 ( 1897-1967)、東京出身で、 1914 年に函館トラピスト修道院で過ご したあと洗礼を受けていて、洗礼名は画家の守護聖人であるルカに ちなみ長谷川路可としている。日本におけるフレスコ画・モザイク 画のパイオニアとして知られ、国際的に活躍していて、バチカン美 術館には「切支丹曼陀羅」 1927、日本初のフレスコ壁画である「聖 母子像」 1928 がカトリック喜多見教会、イタリア・チヴィタヴェ ッキア市には「日本聖殉教者教会聖壇壁画・天井画・小祭壇壁画」 1954 があり、日本二十六聖人記念館にも「長崎への道」 1967 年が ある 。・・今井兼次氏設計の長崎・日本二十六聖人記念館を訪ねた とき 、それとは知らず通り過ぎてしまった・・ 。 「 華の聖母子 」は 、 下絵が出来て間もなくルカ長谷川は亡くなり、弟子たちが完成させ たそうだ。天使ガブリエルにちなみマリアにも百合が描かれること が多いそうだが、この絵の花はボタンの花のように見える。資料に も web にも花については言及していない。 ボタンの花言葉は富貴、壮麗で、私には背景の金モザイクや聖母 子と幼子の衣装からも富貴、壮麗を感じさせる。左袖には日本の真 珠もふんだんに散りばめられているそうだ。 新約聖書ルカ福音書153では、エリサベツの家でマリアが、主は「 飢えたものを良い物で 満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返された 」と述べてい て、清貧であることを訴えているように思う。が 、「華の聖母子」 をはじめ、展示されている聖母子はどれも壮麗である。壮麗である か、清貧であるかは、見る者の心次第、信ずる者の心を満たせばい いということであろう。 外に出ると、ガイドが受胎告 知教会に続く左手の 聖ヨセフ教 会 Church of St' Joserh に案内し た。途中の案内板(写真)を見 ると、手前右手から受胎告知教 会、中ほど右手に資料館、中ほ ど左手にフランシスコ修道会、 左手に聖ヨセフ教会と続く大き な建物であることが分かる。 web には、聖ヨセフ教会の下層の遺構の説明がある。最下層に 1 ~ 2 世紀ごろまで使われていた洞窟や納屋の跡があり、その一つが ヨセフの仕事場だったらしい。マリアの洞窟跡に教会が建てられた ころから、ヨセフの仕事場跡も巡礼地となったらしく、ビザンティ ン時代の 5 ~ 6 世紀ごろの教会の基礎の一部も見つかっている。そ の後、イスラムの侵攻で破壊され、十字軍時代の 12 世紀ごろにフ ランスの構造法による防御壁をもったホールが建てられたが、これ もイスラム支配のもとで破壊さ れ 、そのまま放置されたそうだ 。 1754 年、フランシスコ修道会 は、 1730 年にマリアの洞窟住居 跡に教会を建てたのに続き、聖 ヨセフ教会を建てた。さらに 1914 年には、受胎告知教会再建 に先立って、聖ヨセフ教会を新 ロマネスク様式で再建していて 、 - 5 - - 6 - 1950 年にはイタリアのデザイナーによって後陣の改修を施し、祭 壇上部にはヨセフ・マリア・イエスの聖家族の絵を飾ったそうだ (前頁写真 )。 ガイドによれば、ヨセフ 40 才、マリア 16 才のころにイエスが生 まれていて、イエスは聖霊によって身ごもったことから、キリスト 教会ではヨセフをイエスの実父ではなく養父としている。そのため か、キリスト教信者は受胎告知教会とともに聖ヨセフ教会を巡礼し ているはずにもかかわらず、カトリック教会がヨセフを聖人として 宣言するのは 1870 年の教皇ピウス 9 世まで待たねばならない。い まもそうだが、父親の苦労はなかなか報われないね。ちなみにヨセ フは大工を生業としていたことから、労働者の守護聖人として祝祭 されている。 ヨセフとマリアのあいだにはイエス誕生の後、 4 ~ 5 人の弟妹が 生まれているそうだ。こちらは実の子どもということになるが新約 聖書福音書ではまったくといっていいほど触れていない。イエスと 同じ母マリアから生まれても神の恵ではないし、東方から博士も来 なかったからただの人で終わったようだ。詮索よりも信じきること なのであろう 。( 1103 現地、 1211 記) - 7 -
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