からて遍路 喜寿を迎えて 川口史郎 1 一九四三年、大阪の商家の

からて遍路
──喜寿を迎えて──
川口史郎
1
一九四三年、大阪の商家の末っ子が第一早稲田高等学院(早稲田大学付属旧制高校)理科を受験した
のは、白い実験衣、その角帽、校歌が格好よく思えたからに過ぎない。
入学してみると、高と稲穂の丸帽は、いかにも野暮ったく、独乙語、化学、数学が厳しい上、クラス
の人達は地味で、夏休み、心斎橋筋を闊歩していた、あの角帽姿とは程遠い。
すぐ判ったことだが、彼等の殆んどは文系専門部(旧制)の人達だったらしい。
第一早高の教授方は、何処か、ヨーロッパ調の小粋な雰囲気をお持ちでいらっしやった。
戦時下、学問の自由を説かれ「学園は友を得る場」と仰云った院長先生、初等数学による古典物理学、
万葉恋歌、春秋左氏伝、敬虔なキリスト者だった方の生物学、英文による宇宙創造史、東洋哲学、銃剣
道の達人、シャイな大尉ドノの軍事教練などは、厳しい理系基礎学科の間の息抜きというだけでなく、
自由で西欧的な校風と共に、今も懐かしく思い出される印象深いものであった。
雪の新潟からマントに身を包んで上京したという者、生涯、丹波篠山弁を改めなかった者、六十人の
クラスは留学生二人を含め、地方出身者が多く、その地方訛りバイタリティーに、東京出身者は逆カル
チャーショックに陥った由。
早速、煙草を吹かし、ニーチェ、ヘーゲルを齧り、いっぱしの旧制高校生ライフに酔った。
――このクラスは、後の早大理工学部大学院長を始め、学究の道に進む者が多かったが、中小企業経
営者、ジャーナリスト、産婦人科医、参議院議員まで輩出、早稲田らしいといえば早稲田らしいクラス
だった。
母校八尾中学から多くのスポーツ選手が活躍していたので、二軍、三軍でも良いから、体育会に所属
したいと思っていた。
ラグビーには柄が小さく足も遅いので、級友の一人と軟式庭球部に入部したが、新人の中には全日本
中学(旧制)選手権者などが居り、われわれ全くの素人は相手にされない。二人で詩吟部に行ったが、
甘泉園(相馬様下屋敷跡、中山安兵衛血闘の碑がある)での初練習で、とんでもなく大声を出すように
言われ、恥ずかしいので、すぐ辞めて了った。
――その夏、突然、学徒動員令が下り、徴兵延期されていた文系学生すべてが出陣することになった
が、私達理系は三年制が二年制に短縮されたものの、入隊猶予ということで学園に残った。
因みに、この秋、戸塚球場で、所謂、「最後の早慶戦」が行われた。試合後、私達が「若き血」を、
慶應義塾の人達が「都の西北」を歌ったことが、鮮烈な思い出として残っている。
2
厳しい理系の授業と東京生活に馴れるのに精一杯で、なんとなく秋頃まで過ごして了ったある日、別
の級友に頼まれ空手部道場に付き添って行った。
上級生の言葉が丁寧の上、新入部員のすべてが初心者、更には、「君の拳は大きいね」と言われ、つ
い入部して了った。──このことが全学生々活を通じての、苦難の始まりとなった。
秋に入部したことに、プラス面とマイナス面があった。新人としての基礎を教わることが出来なかっ
たし、終生、部に於けるランクが曖昧だった。
だが、あまりにも激しかった夏合宿の後、多くの新人が退部して了ったそうだったが、私の入部した
頃は上級生方は入隊準備に忙しく、従って恐怖の合宿は体験しなくて済んだ。
若し体験していたら、一緒に逃げ出していたかも知れない。
その後、時々、来られる理工学部の方を中心に、大神さんと云う新人係の方と、奥山さんと仰云ゃる
先輩の方が教えて下さった。
正規稽古に入る前、各自が自由に巻ワラを突くことに始まり、道場では基本、五本組手、型という順
序の繰り返しだった。
型は平安五っの型を中心に、五本組手では、上級生が思い切って踏み込んで来られるのを必死に受け
るのだが、一年間は「上段揚受け」が不文律だった。
五本組手では、上級生の拳に対する恐怖心の克服、間合、見切り、体捌き、腰の決まりなどの体得に
役立つと共に、思い切って踏み込めるので、気迫、出足、突きの伸びなどが体得出来た。
──今の学生は何故、五本組手を稽古しないのだろう。
情況に応じ、上級生が自由組手に誘導して下さり、新人は当てても良いが、中堅、幹部は絶対に当て
なかった。当てないことが、その方達の美学だったかも知れない。
唯、中古と称する二年部員は、その限りではなかったが、兎に角、上級生は強く、新人の拳の届くも
のではなかった。
後年、それが口惜しく、又、当てられないのを良いことに、間合もなにも無視して突っ掛って行った
が、上級生方は、「あいつの八方破れの裏拳にも困ったものだ」と、弱って居られた。
後に、「八方破れの裏拳」が私のトレード・ネームになったが、後輩の中には、それを言葉通り、信
じて呉れている人が居たらしい。
木の香も新しい目白の本部道場では、富名腰義珍大先生の温顔を、遠くから拝することが出来た。
義豪若先生は早稲田の学生を愛され、よく道場にお見えになった由。私達にとっては、その激しさに、
唯々、恐ろしかっただけだったが、もう、その頃からお顔色が勝れなかったようであった。
はじめ、JR鶯谷駅近くの、父の知人宅にお世話になっていたが、二人の級友の誘いで千駄ケ谷駅前
のアパートに移った。
町内に鷹司邸があり、所謂、高級住宅街で、級友の一人は学生の無邪気さを演出することに巧みだっ
たらしく、周囲からは好意の目で迎えられた。商店街の銭湯、雑炊食堂の娘さん達にも人気があったら
しく、暖簾を下した後も入浴出来たし、いつも六人前の雑炊が確保されていた。
深夜、神宮外苑を「野人の歌」、
「逍遥歌」を高唱して歩いたが、彼はアパートに近づくに従い、一際、
声を張り上げることを強いた。その方が、ご近所の好意を呼ぶというのだ。
私だけ、講義と稽古の狭間に苦しんでいたが、何故か、いずれか一方を諦めようとは思わなかった。
偶然、机を並べた四修(飛び級進学のこと)、数え年十七歳の秀才(後に宇都宮大学名誉教授)のお
陰で進級出来、教室では自由で西欧的な雰囲気を、道場では東洋の神秘に触れることが出来た。
一九四四年、次兄、長兄が応召、父は他界、三兄は戦地に居たので、大阪の実家は女ばかりとなった。
3
その八月、私達理科生も横須賀海軍工廠に勤労動員され、戦艦大和、武蔵と同排水量で、急遽、航空
母艦に改装された「信濃」に艤装する 25 ミリ機関砲製造に当たることになった。帝国海軍直属という
ので期待したが、町工場の集合体といった機構で、少なからず失望した。
艤装を終えた信濃は、呉軍港に向かい出港後数時間で米潜水艦に撃沈され、帝国海軍十数年の技術の
集積も、私達の努力も一瞬にして潰え去った。
――日曜日返上して頑張ったが、私だけ、血沈速度が異常に上がり、中学時代休学の原因となった肺
浸潤の再発として帰郷療養を命じられた。
一方、私達は理系基礎学力不足のまま理工学部各科に進級、生涯、その負い目を担うことになったが、
動員中の寮生活で、友情を確かめ合うに充分な時間を持ち得たことは幸せだった。
── 一九四五年三月、大阪の実家は一夜にして焼失、ご近所の方が大勢、亡くなられた。幸いと言
っては申し訳ないが、女ばかりの家族は、既に大和盆地に疎開していた。
その五月、疎開先から夜行で上京すると、下宿は焼けており、早稲田も焼けているというので駆付け
て見ると、煉瓦造りの美しかった恩賜記念館も道場も、完全に焼け落ちていた。
これで、空手部は無くなって了ったと思った。
4
部との再会は敗戦の翌年、一九四六年春のことだった。
GHQ(連合軍総司令部)によって、すべての武道が禁止された中にあって、空手部だけが稽古再開
出来たのは、大浜信泉先生(初代早大空手部長、後に早大総長、全日本空手連盟初代会長)、富沢俊一
郎先輩(戦後初代主将)のご尽力によるものとお聞きしている。
又、富名腰義珍先生が、戦時中、大日本武徳会(武道綜合団体、歴代陸軍大臣が会長)に加入されて
いなかったことが幸いしたともお聞きしている。
──重要なことであり、私にとってすべて伝聞に属しますので、若し、間違っていましたらお赦し下
さい。
早速、主のいなくなった剣道場を占有、その師範室を部室と定め、富沢主将の力強い宣言と共に、我
が早大空手部は復活した。
心優しい大神副将が新人指導に当たられたことも、我が部にとって幸いなことだった。
稽古は矢張り、巻ワラ突き、基本、五本組手、型の繰り返しだった。
正規稽古前の巻ワラ突きでは、銘々、自分にノルマを課していたが、足腰の鍛練だけでなく、何故か、
空手の心が伝わって来るような気がした。
私は実験の合間に駆付けるので、どうしても巻ワラ突き不足だった。休暇中、補足する努力はしたが、
今でも拳に重さが足りない。その上、直後、実験室に戻ると、指先が震え、ビーカーやフラスコを壊し
て了うことが、よくあった。
基本は、一、ニッと号令に合わせるのではなく、銘々の気合、間合などを体得するよう心掛けた。私
は巻ワラ突き不足のため肩に力が入る癖が、今も抜けない。
五本組手は可成り激しかった。
突き抜けるような攻めを稽古した。私は身長、体重共に劣るので追い込まれないよう、前で合わせて
受けるようにしたが、これは突く側にも受ける側にも、可成りの危険と痛みが伴うので、下級生達の評
判は良くなかった。
型は平安五っの型、抜塞、鉄騎初段を五回ずつ位、調子の良い時は十回ずつ位、繰り返した。
富沢さんは、ご卒業まで少しでも多くの型を伝えようとされ、私達も、それの吸収に必死だった。
あまり余計なことは考えず、ひたすら稽古した。上野地下道で餓死者が出た時代、よくもまあ、あれ
程の稽古が出来たものと思う。
5
その夏、万難を排して佐渡島に合宿した。
宿舎の方も町の人々も心から温かく迎えて下さり、その後、夏合宿は佐渡と決まった。
その様子は、当時、新人として参加され、後に空手部長をお願いした早大名誉教授小林諶三先生のお
寄せ下さった『思い出』と、一九九〇年、『早稲田学報』に投稿した私の文章から想像していただきた
い。
早稲田大学空手部の思い出
小林 諶三
日本は一九四五年八月に連合軍に敗れ、この年は連合軍の占頷下で年がくれた。次の年は食糧事情が
最も悪く、日本の国際的権威はゼロ、国民は生存するのに困窮を極めた。戦闘員であった学生は武装解
除されて帰還し、母校のキャンパスに現れるが、早稲田周辺は前年五月二十五日の空襲により、完全な
焼野原となり、敗戦国の惨状を露呈していた。学生らは自分の能力の自信を失い、将来の運命を考える
ことすら出来ない状態であった。私も限りなく暗い空疎な日々を送るのみであった。私は、ここは一つ
格闘技でもやってみるかと、空手部に入ることを決心した。
入部にどの様な手続きをしたか忘れたが、六月頃より練習を始めた。道場は新人部員で一杯であり、
彼らは平服の上衣をぬいで、ズボンのまま練習をうけていた。稽古着を着ているのは、敗戦前より入部
していた部員だけだったと思う。入部後、約半月経ったとき、私は「前突き」と同時に、某先輩の「蹴
込み」が右胸に当たり、息が止まった。突くとき、彼の様子より、蹴ってくるのは、よく判っていたが、
思い切り突いた。「大丈夫か?」という声は覚えているが、この一件が私の運命に大きな作用を与える
こととなるとは思うすべもなかった。食糧が極度に窮迫していた時だから、栄養状態が悪く、私の健康
には大きな打撃だったのである。しかし乍ら、自分の体力の限界を試すつもりで七月の合宿に参加する
こととした。
七月中旬の快晴の続く暑い日に、富沢俊一郎主将以下二十五名は上野駅八時半の汽車で新潟に向かっ
た。到着したときは、すでに夕暮れであった。翌朝「おけさ丸」で佐渡両津に向け出発した。船内は混
乱社会を示す、ひどい混雑状態であった。私は甲板の手すりの鉄棒に足を海に向けて座るという危険な
ことをして数時間を過ごした。私は二十歳の元気一ぱいの時代であった。両津港より河原田へは夜行バ
スで運ばれたが、通過する田畑に乱舞する蛍の数に驚いた。
小学校の講堂をかりて練習が始まった。練習はかなり厳しいものであった。当時は、練習中は絶対水
を飲むことは禁止された。私は中学(旧制)時代、野球部の選手で激しい練習をしたが、それ以上に、
全力をあげて練習に打ち込んだ。練習は午前と午後あり、その間は昼食後、午睡の時間が与えられた。
私はこの間、旅宿から遠くに見える桟橋近傍の浜辺で独り練習を繰り返した。大神大祐先輩は遠くより
私をみて、わざわざ教えに来てくれた。それは五、六回におよび、感謝の気持は今も忘れない。先輩よ
り、突くときは、「突く」という気持を捨て拳を前に投げる気持になれと繰り返し教えられた。これは
貴重なもので拳のスピードを著しくあげることができる。その後、空手部長となり、学生の練習をみて
いると、幹部級の学生にも、この点を注意したい気持に、屡々かられたものである。
川口史郎先輩にも親切に教えていただいた。ただ先輩は腕力が強く、当たると痛いので敬遠した。あ
るとき、川口先輩は巻藁を突いている間に柱を析ってしまったものである。その他、竹井先輩、鎌田先
輩にも大変お世話になった。合宿生活は何でも競争で、練習が終わっても宿まで徒競走、また砂浜では
角力を競った。私はこれらに敗けたことはなかった。どなたに云われたか忘れたが、「九月に大隈講堂
で拳闘部主催の拳闘早慶戦がある。出場に資格はないから、お前はそれに出ろ」といわれ、そのつもり
になった。
合宿期間(確か十日間)も終わりに近づき、私は前記の右胸の打撃症が悪化しているのに気づいた。
胸が痛むだけでなく、両脚のムクミがひどく、指が深々と入ってしまうのである。さらに巻藁を突いた
時、つけた傷は次第に化膿して、左手は腫れ上がった。納会前日は発熱し、遂に一日休まざるを得なか
った。しかし納会にはドブロクを思い切り飲んだことを覚えている。
納会の夜、私の手の状態より、翌日すぐ帰京しろといわれた。翌日は台風が佐渡に接近し、両津港内
も波が荒立っていた。しかし「おけさ丸」は出港した。乗客は危険を感じて、ほとんどいなかった。し
かし乍ら、私は空手に全力を出し切った満足感にひたっていた。船は激しく揺れていたが、何の不安も
感じなかった。私は強風の吹き荒れる甲板に立ち、「ラ・パロマ」を口ずさみ、溢れる感動を反芻しな
がら両津を離れていった。
“Cuando sari de la Habana valga me Dios! ...."
作曲者 Yradier はハバナの港を出るとき、見送ってくれたのは一羽の鳩だけだったという歌詞を思い
出していた。私を見送るものは誰もいない。
帰京といっても、東京東部は広々と夏草の茂る荒野原であった。幸い、父が医師で、この草原に小さ
い一軒の病院を開業したところで、直ちに手当てをしてもらった。しかし、秋に胸の病気が再発し、そ
の後大学へ行くことは出来ず、進学がおくれた。遂に同級生より三年も遅れてしまった。しかし乍ら、
このことは自分には良かったのか、悪かったのか解らない。ただ四十年後、空手部長として再び懐かし
い空手部と関係を持つことになったが、それは望外の喜びであった。部長は十年間勤めたが、働き甲斐
があり、ささやかではあるが、私の研究業績の一つのエポックを作ることが出来た。
──小林先生のプロフィル
早稲田大学名誉教授、工学博士
フランス国立科学研究院所員、バテル記念研究所員、モスコー大学客員教授、オックスフォード
大学客員教授、国連工業開発機構顧問を歴任。
早稲田大学大隈学術記念賞、科学技術庁長官賞を受賞。
勲三等瑞宝章を受勲。
一九八六年より一九九六年まで、空手部長として現役学生のお世話下さる。
空手部超OB佐渡訪問
──卒業後四十数年目、『早稲田学報 90 年度 10 月号』に投稿した私の文章です。
体育会空手部超OB八名、八月八日より二泊三日の予定で佐渡河原田町を訪問した。
戦中、戦後、お米が潤沢ということで、夏合宿を繰り返した町であり、今年三月急逝した渡辺洋一兄
の企画を、武田穣二君が継承、実現に至ったものである。
当時、カアチャンとお呼びしていた、宿舎「カネ長」の女主人は既に亡くなられていたが、家の方々
は我々のことをよく承知しておられ、心温かく迎えて下さった。
道場としてお借りし、文字通り汗と涙の染み込んだ河原田小学校の講堂は改築され、観光道路建設と
グラウンド整備のため、越の松原も少なからず伐採されて了っていたが、浜風と素朴な人情は昔と変わ
らなかった。
二日目は、カアチャンのご位牌に手を合わせた後、宿のご主人(故人の甥御さん)のマイクロ・バス
で尖閣湾、相川金山、たらい舟の小木港など、島内隈なく案内していただいた。
けれど、主目的は夜の会合ということで、日本海の活魚造りを前にして、連日、深夜に至るまで語り
合った。
来年迎える創部六十周年記念行事、現役部員への支援態勢、亡き吉田悦造、渡辺洋一、鎌田博、田山
博敏、新田博之、山宮清諸兄のエピソード──話題は尽きなかった。
更には、合宿最終日の百回型、総当たり組手、納会のドブロク、アミダ籤の西瓜、子供達との交流、
地元新聞社主催の演武会、女子青年団による「おけさ踊り」の指導等々、稽古が烈しかっただけに思い
出も多彩である。
あれから四十数年、仲間の裡、六人は世を去り、残った我々も老人と呼ばれて久しい。
だが、当時の空手部員にとって佐渡合宿は全てであり、今尚、胸の締め付けられる青春の思い出であ
る。
〈参加者〉富沢俊一郎、千保与進、大神大祐、志岐(原田)五十郎、川口史郎、武田穣二、川辺三郎、
野間義一
6
一九四六年半ばを過ぎると、田中さん、吉田さん、渡辺さん、原田(志岐)さんといった上級生方が、
先輩も広西さん、奥山さんに加え、鎌田(渡部)さん、細川さん、最後にシベリアから野口さんが、続々、
部室に復員され、大浜先生も折りにふれてお出で下さり、目に見えて部の体をなして来た。
卒業されて一ヶ月経った頃、富沢さんが来られ組手の相手をさせられたが、私の汚い突きが先輩の顎
に当たった。
先輩の顔色がサッと変わった瞬間、私は当時の広い道揚の中央から隅まで必死に逃げたが、その無様
な姿は、一時の語り草になった。
後年、富沢さんが私の家内にお見せになったが、歯茎に小さな穴が明いていた。
先輩に一発、当てることが出来たら死んでもよいと思っていた。
ある時、広西先輩が米人カメラマンを連れて来られた。丁度、部室に残っていた吉田さん、原田(志
岐)さん、鎌田(博)兄と私の写真を次々と撮って行った。
写真報道雑誌『ライフ』にゼントルマンズ・スポーツと紹介されたが、これが米空軍が空手を正式採
用に至る切っ掛けになった由。
一九四七年夏休み、社交ダンスに熱中、約ニヶ月、汗だくで踊っていたが、その直後の合宿では腰が
浮き、拳も軽く、散々だった。
──因みに、翌年の夏休みには、巻ワラ突き、基本、特に追突きを、毎日、何百回か繰り返した。
私は一九四五年、「零戦」の軽合金を開発された海軍技術中将石川登喜治先生に憧れ、応用金属学科
に進学していたが、敗戦と共に、石川先生はじめ多くの教授方が教職追放されたので、一九四六年、応
用化学科に転科していた。若し、この年、空手部が復活されていなかったら、世界的化学者が誕生して
いたかも知れなかった。
特に基礎実験の出席率が悪く、休暇中、実験室使用の特別許可を申請、補充したが実験の採点は極端
に低かった。
最終学年の寒稽古で、私の駆け足姿をご覧になった実験担当助教授の方が、「そういうことだったら
配慮して上げられたのに」と仰云ったが、もう手遅れだった。
何分、先生方に知れると、退部を促されるものと思い詰め、ひたすら内密にしていたからである。
三学期に入ると、文字通り寝食を忘れて机に向かった。その為、毎年の寒稽古には皆勤出来ず、今も
申し訳なく思っている。
当時、まだ応化の講師であられた、世界的登山家関根吉郎先生が、時々、慰めて下さった。
それでも稽古を続けられたのは、下宿運が良かったからである。
はじめお世話になった渋谷のお菓子やさんでは、その頃、珍しい白米のお弁当を作って下さったし、
店番の合い間に摘むピーナッツやキャンデー、おばあちゃんが差し入れて下さるチョコ饅でカロリーを
補充することが出来た。
その後、経堂でお世話になった方は、新富町の名妓であられ、今も花柳流の写真年鑑に、先代片岡仁
左衛門丈、先代水谷八重子丈と共演された東劇での舞台姿が残っている。
京風の庭を望む広い縁側で、毎朝、お薄を点てて下さったが、寛いだ裡にも、凛としたおたたずまい
には深い感銘を受けた。
そんな中で、鎌田(渡部)、奥山両先輩から、松涛館究極の技「追突き」を教えていただいた。
私にとっては余りにも難しかったが、生涯、追い求めるべき課題と思っている。
野口先輩からは「抜塞」を教えていただいた。正規稽古が終わった頃、お見えになり、「まあ一回」
と、果てしなく繰り返させられた。
一九四七年秋、富名腰義珍先生が疎開先の九州から帰京されることになり、我々学生の手で歓迎演武
会を行った。このことは「部室のこと」の項で述べているので、ここでは割愛させていただく。
──義豪先生は敗戦後間もなく、お亡くなりになっていた由である。
最終学年の一年間は卒業論文作成になるので、時間的融通は効くようになった。
私のテーマは「苦汁加里塩(にがり)よりマグネシヤ・セメント」だった。
苦汁加里塩から金属マグネシヤ抽出は容易だが、占頷下の日本では火薬原料の製造は禁止されていた
ので、耐火セメント(キャスタブル)に逃げたのだ。
強度に悪影響する残留硫酸根と煆焼温度の関係を見付けるのだが、お陰で無機分析技法だけは上達し
た。
──主任教授が日本窯業協会長だったので、日本に於ける珪藻土の分布状態調査のお手伝いをしたが、
後に、この珪藻土で一生を送ることになった。
体育会各部は二人の代表委員制を執っていたが、三人しか居ない幹部の一人が、突然、現役引退表明、
止むを得ず理工系の私がその一人となり代表委員主将鎌田(博)兄を補佐することになった。──この
ことは殆んど知られていないが。
中堅の鶴田君が海軍主計予備士官だったので彼に印鑑を預け、自分は稽古に専念した。
先輩幹部の方々のお考えを踏襲、稽古以外では、出来るだけ自由な雰囲気を保ちたいと思った。
「学の独立」を謳う早稲田大学の、一つの部であることを誇りとしたかった。
自分が幹部になってみて、上級生方が常に私の未熟さを温かく見守って下さっていたことに気付いた。
──技の面だけでなく、人間性の面でも。
私なりに悩み多かった一年も、あっという間に終わったが、卒業時、中堅、中古の人達が連日、送別
会をして呉れ、応化の級友を羨ましがらせた。
その頃、親しくさせていただいた方々に、加藤、小竹、瀬戸ご兄弟(慶)、中島(拓)
、加藤、小沢(菅
野)(法)、長島(明)
、高木(中)、加瀬(専)の各氏が居られる。
これらの方々は、その後、学生空手ばかりではなく、日本の空手、世界の空手の指導者として活躍さ
れた。
学生空手受難期のご体験から、後輩にだけは、あの苦労をさせたくないとのご愛情の表れと思う。
その頃は早稲田スポーツ黄金期で、全国制覇は当然、その上を狙うといった風潮にあった。
大きな木製火鉢を据えた旧柔道部師範室が体育会事務所で、吉井、松本両主事先生を中心に、各部の
主将、マネジャーが屯ろしていた。あるミーティングで、実験衣のまま駆付けると、異星人を見るよう
に、唖然として迎えられたことがあった。
田舎の中学出身、理工系の学生が、これら国際級スポーツマンと親しくなれたこと、不思議な思いが
する。
暮れの納会が了わると、誘われたように新宿に出た。所謂、カストリ時代で、五木寛之『青春の門、
立志篇』の少し前だった。その頃は、警官も、組の人達も、学生も、それなりの連帯感を持って暮らし
ていた。
街角に立つ女達の悲しみが判るような気がした。
7
私は部室が好きだった。
早大空手部誌『旌旗 13 号』に投稿した、次の文章から、その雰囲気をお感じ下さい。
部
室
昭和二十四年卒 川口史郎
今のロイヤルホテル早稲田の辺りにあった平屋の道場には部室はなかった。二つあった人口の、いつ
も閉鎖されていた側の二、三段の石段が溜まり場だった。日溜まりになっていたのか、真冬でも、傍ら
の巻ワラを突きながら先輩方の高説を拝聴することが出来た。
──昭 20・5・26、空襲の朝、駆付けてみると、煉瓦造りの美しかった恩賜記念館も、この道場も
焼け落ちて了っていた。
私にとっての部室は、戦後混乱期に占拠した旧剣道部師範室である。
敗戦の翌年、昭和二十一年四月、在京の旧空手部員一同、この部室に集合した。
「力を合わせて部を再建しましょう」
簡潔に宣言された富沢主将(戦後初代)の凛凛しかった学生服姿が、今も目に浮かぶ。
天井が高く、窓が広く、真ん中に大きな木の火鉢を据えたこの部室では、政、法、文、教、商などの
学生が自由に語り合っており、理工系の私には、とても新鮮に思えた。
壁には渡部(鎌田)先輩のお持ちくださった「修文練武」の、大先生のご直筆が掲げられており、次々
と先輩方が、そして最後に野口先輩がシベリアから、この部室に復員して来られた。
なにかの話に、吉田主将(第二代)が、「彼女に会った瞬間、ワシぁ、宿命的な、あるものを感じた
よ、ホッ、ホッ、ホッ、」と笑われたが、流石は文学部と感心、いつか、どこかで、これを使ってやろ
うと思った。
佐賀県出身の五十郎主将(第三代、志岐、旧姓原田)は先輩主将方を見習って、みんなを笑わせよう
と一生懸命だった。冗談は上手とは言えなかったが、その素朴な努力には微苦笑を禁じ得なかった。
部室ではなく合宿中だったが、大神さんの「指で語るY談」には死ぬ程、笑った。いつか、皆さんも
お教え戴くことをお奨めする。
稽古衣の上衣を田中さんから、下衣を渡辺さんから戴き、「突きは久生さん、蹴りは洋一ッあん」と
悦に入った。──これには後日談があるが、ここでは省く。
黒板に古典力学を使って、
「拳に於ける単位面積当たりの瞬間圧力」を計算してみせたことがあった。
「流石は、理工学部」と判ったような顔をして、吉田さんだけが頷いて下さった。
果てしなく世を憂え、人生を論じていた博さん(第四代、鎌田)の姿も、時が経つに従い懐かしく思
い出される。
──昭和 22 秋、道場で大先生ご帰京歓迎演武会が行われ、門下の慶拓法駒中専早に加えて、明日立
(和道)、同(剛柔)、大専(糸東、現近大)が、初めて合流して呉れた。部室で塩煎餅を齧り乍ら重ね
た会合が、学連結成への先駆となったと自負している。因みに当日、五十郎さんが燕飛、博さんと私で
一本組手を演武した。
「ゲソって、なんだろう」、誰かが言い出したが、食糧難のその頃、誰も知らない。山宮は江戸ッ子
だからと言うことになったが、彼も知らない。結局、「なんでも、粋な食べ物らしいですよ」というこ
とでお終いになった。
食事と言えば、私達の差し上げる貧しい昼食を丁寧に召し上がり下さった、大先生の後姿も忘れるこ
とは出来ない。
学院、専門部の主将山口(文)、名前もエキゾチックだった武田(穣二、昭 24・25 主将)
、一言居士
川辺、何故か背中に「色即是空」と書いていた田山、山男横内、一癖ありげな原、浜ッ子小川、少し頑
固な山口(康)、剣の達人野間、刃のようだった新田、江戸ッ子山宮、いつも控え目な鎌田(正)、ツッ
パリ気味の栗原等々、一人一人の技の癖、小さな言動まで、今も目に浮かぶ。
だが、私達幹部の頃の新人達、堺、大島、小森、遠藤、魚津、古殿、原田(満)、岡崎らのこと共に
ついては、それを割愛する訳にはいかない。
彼等の裡、誰か一人にでも議論に誘い込まれると大変である。碌に内容も知らない者達まで横から口
を挟み、聞き齧ったばかりの文学用語、哲学用語を並べ立て、一致結束、五月蝿いこと限りない。
弱き者たちの、愚かしき連帯とでも言うべきであろうか。
唯、直後の稽古で、私の鉄槌受けに思わず力が入って了ったとしても、それは若気の至りと宥恕して
戴ける範囲のものと、今も思っている。
道場では烈しく、部室では楽しく。──私の理想である。
──社会情勢の激変、健康上の理由から、心を残しながら部を去った大勢の仲間達に比べ、私達は幸
せだった。
新しい道場、部室が出来て、もう何年になるのだろう。ここでも又、新しく伝統が萌芽し、新しい伝
説が生まれて来るのだろうか。
嗚呼、青春は醒め易く……。
応化石川研とあの部室こそ、私にとっての心の故郷である。
(完)
──敗戦後四年、父の遺産も何百分の一にか、その価値は下落していた。
8
一九四九年卒業の頃、印度の企業群から技術者の募集があった。「大卒、三年の実務経験」が採用条
件だったが、応化の級友四人と、兎に角、応募した。
応化の大学院に宮崎龍介先生の女婿の方が居られた。龍介先生は、ご尊父滔天先生のご縁で、印度経
済界に広い人脈をお持ちなので、お口添えをお願いすべくお伺いした。
龍介先生は、申し上げようのない程の男らしい方だったが、応接間で控えていると、白髪の可愛い老
女が入って来られ、スーツと出て行かれた。
日本三大恋愛の一つのヒロイン白蓮夫人であられた。
──この話は英本国の横槍で立ち消えになったが、若し実現されていたら、どういうことになってい
ただろう。余りの酷さに縛り首になっていたかも知れない。
印度の果敢ない夢破れ大阪に帰ったが、早速、仕事に失敗、三兄の仮宅に寄寓することになった。
近くの糸東流の町道場を覗きに行ったが、そのご縁で糸東流開祖摩文仁賢和先生に可愛がっていただ
くことになった。
「貴方は、私の先輩富名腰先生に習って来られたのだから、あの道場では松涛館の型を教えて下さい。
貴方の習っていない型は、私が教えてあげるから」と仰云って、本部道場で、何時間も、自らお教え
下さった。
当時、先生は古式柔術を研究しておられ、又、動きは「尺を越えず」と仰云ったことが、今も心に残
っている。
──賢友流宗家友寄隆一郎先生のご尊父隆正先生には「征遠鎮」を教えていただいた。
若い警察官が居た。彼は寒稽古などの駆け足では、必ず先頭に立ち、近くの遊郭の中を走り回るので、
ひどく恥ずかしい思いをした。
ある高校生宅の法事に招かれたが、由緒ある博徒の家系だったらしく、「若の先生」と、最上席に座
らせられた。所謂、親分衆の、金、銀、朱を彫り込んだ刺青の見事さに感心した。
その町道場では、早稲田で教わった通りの稽古をした。学生気質が抜けず、高校生、若い工員さん達
に喜ばれたが、昇段だけを目的として集まっている中、高年の人達には評判が悪かった。
その裡、高段者だけの剣道グループの片隅に入れていただけるようになったのを機に、なんとなく辞
めて了った。
剣道場では、先生方の緊迫した稽古の息抜きに私などの存在が、丁度、良かったのだ。お陰で、高段
者方の試合、居合、据え物切りなど拝見出来たが、武術として見た場合、私達の空手など、門前の小僧
の域を脱していないことを痛感した。
それでも、先生方の宴会で沖縄民謡に合わせ、「平安四段」を踊り喝采を博した。
当時の高校生で、現在、医院を経営しておられる中本先生のお寄せ下さった文章を次に転記させてい
ただく。──今、読ませていただくと、当時の気負いが感じられ面映い限りだが、そのまま転記させて
いただく。
師匠
川口史郎さん
中本 毅
練習、川口さんの横蹴りはすばらしかった。出した方の足に体重をかけて。いろんな型や組手など大
変強くて、そしていつも矜持をもっておられた。
当時、私は週に三回程道場に通い、巻藁で左右手足をそれぞれ三〇〇回以上鍛え、種々の型(バッサ
イ大など、なぜかこの型だけはいまだに憶えている)、それに五本組手、一本組手などなど。練習はそ
れなりに厳しく、しんどかった記憶がある。
川口さんの信念(ポリシー)によると、これだけ重ねた練習をしていて、その成果を、一生を通じて
実地に世の中で使わなくてすめば、本当に幸運であったと考える。そのように努力すること。又、もし
も喧嘩になりかけたとしても、いかに喧嘩をしないでうまく逃げるかを考えるべきというのである。た
とえば、下駄を脱いで、さあ(みんな)くるかと構えてから、或る方向ヘ一目散に走り去る。もしもつ
かまりかけた時には一戦を交えてから、相手の足の甲を一回踏んづけておいてその場を素早く立ち去る
ようにとか。
また盆踊りにもよく連れて行ってもらった。戦後まだ数年しか経っていない暑い暑い夏の夜、町内会
の小広場で、下駄ばきで輪になって踊るのが庶民の愉しみであった。(江州音頭、炭鉱節、佐渡おけ
さ・・・・・・)、まず川口さんが全体を見渡して、おぬしはあの上手なおばさんの後に入れてもらっ
て練習するようにと。また一緒に出かけた連中や川口さんも、いつのまにかどこかの輪の中にまぎれこ
んで時の経つのも忘れ、踊る阿呆に酔いしれたものだった。
高校三年の年末に道場に顔を出すと、せっかくだが、しばらく練習は休んだ方がよいよと。なぜか。
入試の日は三月の三、四、五日ときまっていたので、もう二ヶ月しかない。勉強して希望校に入ってか
ら、また一緒に練習しようと。汗を流して練習したあとは、やはり疲れが残って勉強の能率があがらな
いのは、自分(川口さん)の体験からも忠告できると。
その二ヶ月後阪大へ合格し川口さんに報告に行ったら、ことのほか喜んで下さった。
大学の教養課程一回生の社会学の講義で先ず習うこと、即ち、ゲマインシャフト(自然発生的集団、
民族や宗教など)と、ゲゼルシャフト(利害関係を含めて発生した集団、株式会社など)を教わったが、
それと全く同じことを川口さんより再度、教わったのをよく憶えている。その他の教科についても同じ
ように。勉強の面でも敬意を表した。
川口さんには文武両道にわたり、そして又、誠意、思いやりの心、中庸の心意気などを含め、人生如
何に生きるべきかを、多感な青春時代に教わった。これは一つのよき人生勉強を示唆していただいたこ
とだった。なにか立ちどまって考える際に、大変参考にさせていただいたことである。これは川口さん
の人柄からのものであり、その恩恵は折りにふれて思い起こし感謝しています。
──中本先生のプロフィル
糸東流空手四段、日本泳法能島流五段(浜寺水練学校教授)。
外科医(医学博士、京都府立医大)
、薬剤師(阪大)。
9
一九五二年、職を求めて上京したが、小さな同族会社に就職できるまで経済的に苦労し、多くの方々
にお世話になった。──後年、この会社へのサプライヤーで、NY市場特定銘柄の企業にトレードされ
た。
野口さんに伴われ、大浜先生に就職報告にお伺いすると、
「主義として学生の保証人にならないが、君の場合、わたし位が保証しないと」と仰云って下さった。
ある人から、
「何故、空手の人を、そんなに庇うのですか」と問われ、
「出来の悪い子程、可愛いもの
ですよ」と仰云った由。
富名腰先生を最高技術顧問、小幡(慶)、佐伯(法)、中山(拓)、野口(早)各先輩を技術顧問(五
段)とする日本空手協会も、まだ揺籃期だったが、出来るだけ合同稽古に出席した。
ある日、中山さんからタイプした小さな紙片を「川口君、これ」と手渡された。技術指導員の委嘱状
だった。今、持っていたら珍しい資料になっていたかも知れない。
一九五三年、八幡に転勤。バス停で巻ワラ胼胝があり、拳のバッジの偉丈夫が立っていた。北九州外
大の河村主将だった。
そのご縁で拓大OB森高さんご指導の北九外大、八幡製鉄道場で稽古させていただいた。
ある時、北九外大生、八幡大生に混じって高校生と五本組手をしていると、熊本から来られていた拓
大宮田先輩が、みんなをお集めになり、私の稽古態度をお誉め下さった。
狭い街なので、小倉魚町通りなどで学生達に出逢い、雑談出来たこと、祇園太鼓の響きと共に懐かし
い思い出である。
一九五五年、名古屋に転勤。丁度、兼松本社から東京に転勤される大神さんの後を継ぎ、名古屋工大
をコーチすることになった。
中部電力に粂井さんと仰云る慶応OBの方が居られ、電通に居た小森君と共に、名工大、南山大、愛
知学院大、名大など、松涛館系大学強化のため、中電体育館を基地として、合同稽古、合同演武会など
行った。東京の複雑な情勢を考慮、「名古屋空手クラブ」と名付け、飽くまで同好会という姿勢を保っ
た。
──その頃、稽古中、急に動悸が激しくなり簡単に転倒した。この地の風土病脚気で、それも重症と
いうことだった。
米空軍小牧基地で空手の指導を頼まれ、南山大加藤主将と英会話勉強の積もりで引き受けたが、そち
らの方は余り役に立たなかった。
殆んどが、ボート、レスリング、ボクシングなどの選手で、学生の数倍、激しい稽古でも平気だった
し、所謂、攻めの受けをしないと体力負けする恐れがあった。
そんな中で、日系二世、三世の人達が顔面蒼白になりながら頑張っている姿に、この人達の本国にお
ける立場の厳しさが想像出来た。
「妻を守るため、空手を習うのだ」と、三世の軍曹に言われ吃驚した。
ボクシングの極東空軍フェザー級チャンピオンという下士官から試合を打診され、素手であればと回
答しておいた。五、六回、覗きに来たが、その裡、来なくなった。
やってみるまでもないと、思ったのだろう。
──稽古する兵上達は、驚くばかり謙虚だった。
名工大の卒業生送別稽古で、越智主将に足を蹴られた。余り痛みがないのでスキーなどに行っていた
が、米空軍基地での稽古中、鋭い音と共に腓骨が完全に剥離、勤め先に多大の迷惑を掛けて了った。
それ以来、自由組手を慎むようになったが、自由組手は、続けていないと怖くなるものだ。
──
一九五七年、大先生ご逝去。
一九五八年、東京に転勤。土曜日の午後、学校の道場に行けるようになった。
その頃、学生空手界で生命に係わる不祥事が続発、文部省が学生空手禁止を打ち出したが、大浜先生
が当局を説得され、存続が認められた由。堀口君が毎日新開に「学生空手の真義」を投稿、大きな反響
を呼んだ由である。
一九六一年、一年だけ名古屋に転勤。
慶応OB粂井さんと、尾道で新田君に教わった拓大OB土生(はぶ)君が松涛館系大学を、よく纏め
て下さっていた。
粂井さんは、名工大、南山大の学生達を我が児のように可愛がって下さり、私生活の面倒まで見て下
さった。私の最も尊敬申し上げる方の、お一人である。
一九九九年、お亡くなりになる前、名工大、南山大合同OB会に、大神さんや私も、ご一緒に招かれ
たが、その直後、いただいたお手紙を次に転記させていただく。
(手紙)
夜来の音もなく降る雪に、一面、白銀の雪景色の清らかな名古屋の今朝ですが、過日は三十五年振り
で大兄の勇姿に接し、なつかしさも一入でした。古武士の風格そのままの、ファイトマン川口大兄の黒
帯の勇姿が彷彿といたし、早々と、悠々自適されていることが、何か、勿体ない様な感じを受けました
が、或る意味では、如何にも大兄らしいご決断と敬服いたしますとともに、それに引きかえ、三病息災
のヨタヨタの、昔から名涛会(注、名工大OB会)には、何のお役にも立ち得なかった老生を、相不変、
先輩として立てて下さるご芳情には、唯々、頭の下がる想いです。これからも、生命のある限り、空手
の道の同人としてご好誼賜れば幸甚の至りです。
大兄もご自愛の上、お揃いで充実した余生をエンジョイされますよう、心から、お祈りいたします。
先ずは、取り急ぎ御礼まで。
乍末筆、ご令閨にもよろしく。
粂 井 晃 拝
川口史郎大兄
一九六二年、神戸に転勤。ある日、毎日新聞神戸支局長であられた細川隆一郎先輩のお伴で、(社)
日本空手協会兵庫県本部の演武会観戦に行くと、本部長が法政OB小沢(菅野)さんであられるのに驚
いた。
細川さんのご指示で関西稲門空手会を結成、内藤(正)会長、細川、加島両副会長とし、中橋、木崎、
木野、渡辺、小川、横内、坂田諸先輩が参加、加島さんのご要望で、一、二年しか在籍しなかった、所
謂、朦朧OBもお誘いすることにした。
現役の遠征、合宿などの受け入れに奔走したが、当時の学生気質が掴めず、又、戦中の早稲田の地力
を信じていたOBには、試合制度に戸惑っている現役の空手が理解出来なかった。
細川さんのご発案で、「毎日空手教室」を開校、坂本元兵庫県知事を校長、菅野最高師範、樫本主席
師範、我々早稲田勢は、その他大勢の師範ということになった。
早稲田勢は時々、彼女らしい人を同伴、その時だけ、急に張り切るのはご愛敬だった。
──この教室は、後に、協会のいろいろの大会で大活躍した由。
毎土曜日夕方、芦屋の小宅に集合、稽古後、入浴、ビールで喧々囂々、深夜まで気勢を上げた。
家の前から白い物を着て車に分乗、暫くすると、興奮状態で帰って来るので、ご近所では、危ない筋
の者が越して来たかと心配された由。やがて事情も判り、押し売りが来なくなったと感謝されるように
なった。
大島君のカリフォルニア工科大学での弟子で、ハーバード・ロースクール生のダグラス君が、加島邸
で一ヶ月以上お世話になったのも、この頃である。
──現役学生の遠征、米国松涛館の来阪、関西稲門会、毎日空手教室など、折にふれて加島さんお一
人に経済的負担をお掛けし、今も申し訳なく思っている。
一九六五年、再び東京に帰り、時々、学校の道場に行けるようになった。
当時は、小野君が全日本学生選手権で優勝したり、東日本、関東大会で団体優勝するなど、試合制度
にも慣れ、充実したものがあった。
武道館での全日本学生個人戦で小野君が勝ち進むに従い、観客席で、立ったり座ったりして了った。
あとで、小野君から「先輩は何故、あんなにソワソワしておられたのですか」と言われた。下から見
ていたらしい。
一九六七年、ロサンゼルスから大島君とその門弟が、大統領のメッセージを携えて来日、各地で演武
したが、その頃の空手より遥かに純度の高い空手を披露、多大の感銘を与えた。
──常々、チームワークの良いとは言えなかった早稲田OBが一致協力、連日、毎日新聞、サンデー
毎日、スポーツニッポンの紙面を賑わせ、他校OB方を驚かせた。
道場で、何十年振りかで大島君と一本組手をしたが、彼の汚い突きで顎に一発、当てられた。
昔日の恨みを晴らした積りらしい。
毎日曜日、道場で、内藤、笠尾、白井の諸君と軽く稽古したのも、この頃である。
世田谷の狭いアパートに小寺君、小野君などが来て呉れ、ロンドンから原田(満)君も寄って呉れ、
それなりに楽しかった。
内藤監督の代理で福岡市能古島合宿に参加したが、最終稽古で部員の一人が呼吸困難に陥った。
一同、右往左往していると、市内との連絡船の船長さんが、特別に船を出して下さった。
そのため、完全にダイヤが乱れ、市内への通勤、通学のすべての方々を遅刻させて了った。
幸い、一日の入院で事なきを得たが、今も祈にふれ、当時の学生の近況など、未亡人に報告している。
──合宿中、米国から田畑君が参加、型を見せて呉れたが、余りの厳しさに驚いた。
段々、仕事が忙しくなり、又、横浜に引越したので道場に出ることは少なくなったが、拓大OB中島
さんのお誘いで、法政OB伊藤(公)さんが理事長をされている関東学生OB連盟に顔を出すようにな
った。昇段審査では、組手試合の審判は難しいので型の審査だけ手伝わせていただいた。稀に糸東系の
型を見ると懐かしいので、つい甘い採点になった。そんな時、市川君だけが三段に合格した。
鎌倉円覚寺での松涛祭、早慶定期戦には、出来るだけ参加した。
ある早慶戦で、開始時間のだらしないことを注意し、慶応OBの方から、試合場に臨む早稲田の学生
の服装について苦言があった。
あらゆる早慶戦の中で、最もサイズの小さい定期戦と言えよう。
だが、伝統の一戦である以上、それなりのものであって欲しい。
自分の持つ、すべてを出し切り、相手のすべてを学び取る。対戦相手は、言わば、師である。
勝敗に拘わらず、慶応空手、早稲田空手の真髄を出し合って欲しい。
先輩方も、紋付き袴とは言わないまでも、それに相応しい姿で出席して欲しい。
──静かな緊張の裡、精魂込めて闘うのが、武術の試合ではなかろうか。
── 一九七五年、大浜先生ご逝去。
一九七六年、札幌に転勤。ここでの二年半、全く空手に縁はなく、観光とスキーに明け暮れた。
唯、この間、全日本学生が札幌で行われ、松尾、水野面先輩、坂田君、紋別の本間君など、今まで全
く連絡のなかったOBが一堂に会することが出来た。
サッポロビール園のジンギスカン料理に招待したが、部員が平気で、小野監督に給仕させているのが
可笑しかった。
一九七八年、再び東京に。だが、この頃からヨーロッパ、アメリカ、韓国をはじめ、極東各地に出張
するようになった。
お陰で、パリで原田(満)君、ロサンゼルスで、大島、岡部、福田の諸君に会うことが出来、大変、
お世話になった。
唯、パリ到着早々、日本料理店に、ロサンゼルスでは、一両日中に日本到着という日に寿司屋に案内
され、洋行気分を著しく損なわれたことは残念だった。
海外でのコンファレンスで、世界各地の酷い訛りに疲れ果て、黙っていると、「シローは空手のブラ
ック・ベルトらしい。流石に、日本のサムライは寡黙だ」と噂された。
私の仕事は、米国カリフォルニア州産の珪藻土(商品名セライト)の日本、韓国に於けるマーケティ
ングと、極東地区に対する技術サービスである。
珪藻土とは、数百万年前、海洋、湖水中に大量繁茂した珪藻の骨格部の集合体である。大昔、海岸、
湖岸だった地域に堆積層として発見され、用途は次の三つに大別される。
(一)濾過助剤。 濾過機の濾体表面に、圧力又は、吸引力で数ミリ厚の珪藻土層を形成する。これ
に液体を通過させ、その清澄度を高め、純度を上げる。日本では次の工業に採用されている。
抗生物質、グルタミン酸ソーダー、イノシン酸ソーダー、血漿、チタン白、アルギン酸、ゼラチン、
ゼット・オイル、研磨・圧延油、動植物性油脂、砂糖、ブドウ糖、ビール、ワイン、清酒、醤油、食酢、
プール、温泉、銭湯、工業用水、飲用水、クリーニング用洗剤など。
(二)鉱物性充填剤。 無水シリカ 90%以上、多孔質、微細粒度分布などの特性を活用、少量の充填
により、製品各々の機能を高めるが、次の製品が対象となる。
シリコン・ラバー、ポリエチレン・フィルム、農薬、肥料、塗料、紙、ポリッシユ、歯科印象材など。
(三)特殊用途
ガスクロマトグラフ分析器のカラム充填剤(商品名クロモゾルブ)、触媒、生化学における固定化酵
素の担体など。
──個々の工業に於ける消費量は僅かだが、対象の工業は多岐に渉っており、それぞれの工業の基礎
知識が要求される。
何れにしても、滅菌剤、保存剤など、有害化学物質を追放、製品の清澄度、純度、保存性を高めるこ
とで、国民健康衛生に貢献して来たとの自負はあるが、人間の心も濾過出来ないかと思う。
──狭い業界で、ちょっとした有名人だったが、自分の好きな仕事で、生涯、生計を立てられたこと、
幸せだったと思う。
一九八九年、六十五歳で定年退職。翌年、かねての計画通り有料老人ホーム「神戸ゆうゆうの里」に
入居した。
早速、菅野さんが、(社)日本空手協会筑紫ケ丘支部長(現兵庫県本部長)山本先生と訪ねて来て下
さり、そのご縁で、筑紫ケ丘道場にお世話になることになった。
この道場は、小学校の体育館を借り、京都産大OB山本師範を中心に、福別府、ウォーターハウス、
山口の諸先生が初級、中級、上級とクラス分けし、指導しておられる。
子供に組手の駆引きを教えたくないとの師範のご方針で、二時間の稽古時間の半分は準備体操、基本
に当てられる。私は準備体操、基本だけは、子供達に随いてゆくことにしている。それでも充分、汗を
かく。疲れると、大きな声を出すことにしている。
型は中級の人達の後方で、あまり邪魔にならないよう、各型、一回ずつ位、随いてゆく。
組手は怪我をしても、させてもいけないので、傍らで眺めているが、それでも、間合、呼吸など体感
出来る。
型についての質問には、一切、答えない。私は義豪若先生の流れの方々に教わったので、解釈に差異
があってはいけないからである。
唯、組手については、判って呉れそうな人には、間合、呼吸など、つい口を出してしまう。
それでも、判って呉れると嬉しい。
時々、信州大OB、宮森さんという方に立っていただき、追突きの稽古をする。
その裡、毎日空手教室で始められ、あらゆる型に精通しておられる小川さんという方が来られるよう
になった。この方に、平安五っの型、鉄騎、抜塞、慈恩、十手、燕飛、半月、観空、岩鶴などを復習し
ていただくと共に、今まで習うことのなかった明鏡、二十四歩、壮鎮、珍手、王冠などを教わっている。
この道場では、幼稚園児、小学低学年生の頃から習い始めているので、全員鋭く、多彩な技を持って
いる。まだ、幼・少年の身体だが、将来、恐るべきものがある。
現に、双子姉妹が居るが、隔年、行われる(社)日本空手協会世界大会で、次の成績を残している。
一九九六年、大阪
(小学低学年)
一九九八年、パリ
(小学高学年)
二〇〇〇年、東京
(中学)
型
組手
型
組手
型
組手
<美希>
優勝
──
三位
──
準優勝
準優勝
<亜耶>
──
三位
優勝
準優勝
優勝
──
唯、全員、少年初段になり中学に進学すると、部活、進学準備に忙しく、足が遠のくのが残念だ。断
続的にでも来て呉れると、体力増加と共に強い空手に育つだけでなく、空手の面白さがわかって呉れる
のだが。
この道場では、山岳地帯の子供特有の、声が低いことが残念である。
10
──空手について、思いつくまま、列記してみたい──
空手には、強い空手──弱い空手、大きい空手──小さい空手、明るい空手──暗い空手がある。私
は指導を頼まれると、いつも、明るく、大きい空手を目指すことにしている。
富名腰大先生も、松涛館草創期に先生の片腕として活躍された野口先輩も、無邪気とも思える位、明
るく、ロマンチストであられた。
以前は、学生の昇段審査に立ち合ったことがあったが、私は、つい甘い判定を下して了った。彼はマ
ネジャーとして苦労して来たとか、最終学年だからといった理由で。
けれど、それは間違ったことだった。甘い判定を受けた人の中に、文字通り人生を誤って了った人が
いた。
先輩方の鋭い目に間違いのなかったことを知り、自分には人を判定する能力のないことと、それ以後、
審査に立ち合わないことにしている。
──逆説的ではないが、空手さえ習わなかったら、平凡で幸せな一生を送れたのにと思える人が、僅
かではあるが、居るということである。
型でも組手でも、お互いの身体にコンタクトすることがない。
自分の技が効いているのか、いないのか判らない。私自身、いつも過信と不安の間に揺れ動いていた。
こんな曖昧さの故に、身を滅ぼしていった人がいた。
──空手の怖さかも知れない。
型の前後に、正面に向かって「礼」をする。
これは型への畏れ、創造された方、伝承されて来た方々、直接、お教え下さった方への感謝の表現と
理解している。
──型は下手でも、
「心を込めて」使うように心掛けている。
「型は、必ず心の中の敵を仮想して演武しなければならぬ」と、野口さんは仰云った。
「心の中の仮想敵は、自分より一歩、技が進んでいることである。これは自分の心の中の技が、身
体の技に先んじているからである」とも仰云った。
「空手に先手なし」
「『力の強弱』『体の屈伸』『技の緩急』、これだけは覚えておいて下さいよ」
──富名腰先生のお口癖である。
一際、頑丈であられた、ある先輩が、ふと、先生のご実力に疑問を持たれたそうである。
その瞬間、先生の鉄槌受けが決まり、一週間ほど、腕が上がらなかった由。──大先輩ご本人からお
聞きした。
三上君(現稲門空手会長)が、こんなことを言ったことがある。
「OBの間に、世代を越えた友情がある。そして、その濃淡は、道場の床に流した汗の多寡による。」
学生間の交流、空手の普及のため、組手試合は不可欠であろう。
一方、瞬時に生死を決する武術の勝敗を第三者の肉眼で判定する事は至難のことである。
世界大会決勝戦で、度々、主審を務められた日大OB若林さんが、
「一つの大会中、一つか二つ、ミス・ジャッジをして了うことがある。それを考えると、その日は眠
れない」と仰云ったことがあった。
試合制度が完成されるまで、あと数世代を必要とするだろう。
唯、それが完成されたとしても、空手固有の技、闘技としての野性昧の残ったものであって欲しい。
空手数千年の歴史から見れば、私達の空手は一瞬のものであり、現行試合制度も、その一通過点に過
ぎない。
学生諸君も現行試合制度の意味を理解し、時には、空手数千年の歴史に思いを致して欲しい。
──唯、最近の学生大会を観る限り、稽古充分と思える学生が勝ち残ってゆくように思える。
他のスポーツに比べ、試合中の怪我が多過ぎないだろうか。後遺症が残らねばと思う。
勿論、余程、科学的に研究、設計されたものでない限り、安易な防具は、もっと深い後遺症の原因と
なる。
巻ワラ突き、基本、型、約束組手など、空手伝来の稽古を充分積んだ者だけに自由組手を許したら、
どうだろう。
試合の回数も、もっと減らせないだろうか。
──主審の一瞬の決断が、怪我を防げるかも知れない。
組手試合中、稀に「相打ち」という判定がある。人間の肉眼で、一瞬の遅速を判定出来る限界かも知
れない。
米空軍基地で感じたことだが、日本人には「突く」、
「蹴る」といった習慣が少ない。彼等は子供の頃
から、それらに馴染んでおり、更には、体格、体力とも、遥かに勝れている。
昔、空手を秘技とした理由が判るような気がした。
空手を闘技として見た場合、私達日本人の空手は、どの方向に行くべきか。じっくり考えてみる必要
がある。
書き忘れたが、型にも彼我の間合がある。
空手には多くの派閥があり、更に細分化の傾向にある。武術である以上、一人一派であっても良い。
空手数千年の歴史から見れば、私達の空手は一瞬のものに過ぎない。派閥はあっても無くても、どちら
でも良い。
唯、排他的であって欲しくない。
組手は危険を伴うので、一定年齢に遠すると、どうしても遠ざかり勝ちになる。
高齢の方でも、若者と乱取り、竹刀を交えて居られる柔・剣道家が羨ましい。
柔・剣道では、その道に生涯を賭けて来られた方だけが指導して居られる。過渡期とはいえ、三十歳
そこそこの若輩が、大きな顔をして指導してきたことを思うと、恥ずかしい限りだ。
名古屋時代、慶応OB粂井さんに五本組手をお願いしたが、どうしても一本目、足が出なかった。
人間の格というものかも知れない。
大阪で「全日本学生」があり、神戸から細川さんのお伴で観戦に行った。
東京より来られていた慶応小幡先輩が、「丁度良かった。川口君に試合監査をやってもらおう」と仰
云ったが、細川さんは、「彼は駄目です。納まる話もブチ毀してしまうから」と、即座にお断りになっ
た。
毎日空手教室のミーティングで、「今でも、慶応の稽古衣を見るとカッとなる」と言って了った。
慶応OBの望月さんが、それを覚えておられ、いつまでも冷やかされた。
11
──なんとなく書いておきたいこと──
空手以外、スキーとヨットが好きだった。何れも広い空間で、肉体と頭脳だけで流体力学を表現出来
るからだ。
ある文楽の太夫が、「旦那衆が義太夫をなさるなら、へたでも、かまいまへん。いやらしくさえなけ
れば」と、言われた由。
一九八八年、歌舞伎座で、武原はんさんの地唄舞を、たてつづけに二度、拝見した。機会を逃さなく
て良かったと、今も思っている。
そう言えば戦争中、文五郎さんの「酒屋」を拝見出来、「お園」さんの艶な姿が、今も眼に浮かぶ。
敗戦直前、技術見習士官だった中学の親友が、最後の戦闘訓練中、斃れた。彼の日記を見ると、連日、
誰かが斃れている。
この訓練が了れば、技術将校として兵器の開発、製造に携わることになっていた。
──もし、彼が生きていて呉れたら、私の人生も変わっていたかも知れない。
中学の悪友の一人に、「釜ヶ埼の聖者」と呼ばれた男がいた。彼との思い出は、余り誉められたもの
ではなく、大挙して禁止されていた映画館に行ったこと位である。
欧、米、韓、東南アジアの街を歩くと、若者達の姿勢の良さが目に付く。
日本中、狂ったように高層建築が建った時期があった。
街に木炭バスが走り、「石油一滴、血の一滴」と言われ、我が国が 100%可能性のない戦争に突入し
た頃、亀井直人先生の「物理化学」で、原子分裂によるエネルギー発生の可能性を知り、感激した。
然し、これが大量殺りくの具として、更には想像もしなかった放射能を伴ってデビューしたことは、
人類にとって不幸なことだった。更には、杜撰な操作ミスによって不信感をばら撒き、学生時代、その
可能性に血を湧かせたことは、なんだったろうかと思う。
科学は人間を不幸にすると言われるが、人間が不幸の道連れにしているに過ぎない。
屡々、九州稲門空手会から、折にふれて名涛会(名工大OB会)から、お招きいただく。
今年は又、(社)日本空手協会兵庫県本部、お世話になっている筑紫ケ丘支部の先生方、父兄の方々
に喜寿を祝っていただき、周りに吹聴、自慢している。
──内祝に、照井一玄君(早大空手部OB、陶芸家)に作品をお願いした。あとで妻から、日展十数
回入選の先生に、あのような乏しい予算と厳しい納期でお願いするとは、失礼過ぎると叱責された。
次に、協会兵庫県本部会長菅野先生からいただいたお言葉を転記させていただく。
川口史郎様
二〇〇〇年八月、五十五回目の終戦記念日を迎えました。
テレビでは、武道館で催された戦没者追悼式で天皇陛下、総理大臣がそれぞれ、戦後五十五年間の苦
難に満ちた時代、そして、奇跡ともいえる復興、繁栄の時代を経て今日に至った半世紀を回顧されてい
ました。私自身もその時代に沿って生きてきた年月を振り返るにつけ感無量のものがあります。その年
月を通じて途絶えることなく続けてきた空手の修練、思えば私の人生の大半をかけた空手道、その道に
おける同好の先輩として、川口先輩に出会えたことは、一つの深い縁と言えるのではないでしょうか。
私が川口先輩に初めてお目にかかったのは、法政大学の予科生の時、監督の佐伯先輩に連れられて早稲
田の道場に参り、五本組手を指導して頂いた時でした。その時の強烈な印象が、私の空手修練に大きな
刺激となり卒業後、日本空手協会の会員として、切磋琢磨し指導に専念出来た一つの大きな要因であり
ます。改めて心より感謝申し上げる次第です。
来る二〇〇一年、二十一世紀の幕開けの年に、先輩が喜寿をお迎えになることは、誠に喜ばしいこと
であります。平均寿命がのびた今日にあっても川口先輩のように、矍鑠として長寿を保たれることは、
並大抵のことではありません。いつも変わらぬ温顔に接し、そして今も道着を着て若い人たちと共に道
場にあられることは、まことに稀なことと感じ入って居ます。
何卒、今後ともご夫婦そろってご健康で我々の光明となり、変わらぬご指導を賜りますようお願い申
し上げます。
平成十二年八月吉日
社団法人 日本空手協会兵庫県本部
会長 菅 野 淳
──菅野先生のプロフィル
(社)日本空手協会総本部副会長、
(社)日本空手協会兵庫県本部会長、空手九段
──おわりに──
第一早高(早大付属旧制高校)で偶然、巡り合った空手が、これ程まで私の人生に関わり合って来る
とは思わなかった。
空手を通じて多くの出会いがあり、思い出があった。
空手を学んだこと、私の一生にとって幸せだった。
それを実地に役立てる機会のなかったことも、又、幸せだった。
最後に、一九七一年発刊の早大空手部誌『旌旗、四十回特別号』に寄稿した文章を、次に転記させて
いただきたい。──今、読み返してみると、可成り気障で面映いが、当時の私の空手への思い入れとお
赦しいただきたい。
空手とはなにか
川口史郎
武トハナニカ
吾人ハ知ラズ
唯
行キ行キテ
求ムルノミ
こんな面映い言葉を、壁に貼っていた時代がありました。
あれから二十数年、もう一度、「空手とはなにか」を、考えてみたいと思います。
空手とはなにか。──それはロマンの歴史とは言えないでしょうか。
仏教伝達の使命感のため印度を発った青年僧、日本列島を媒体として世界の空手を夢みた南海の一武
術家、これらの伝説や物語の中に、なんとも言えない若々しい夢、ロマンの香りがするのです。
空手には又、血ぬられた歴史がありません。
世界中の殆んどの武術が、鉱物性物質の一片を敵対者の肉体の一部に没入させ、その生命を断つ方法
を採っています。
ですから、これらの武術は、武器の改良、研究を基盤とし、それの持つ機能をいかに効率よく発揮さ
せるかという技術の改良、習熟に重点を置いています。
例えば、剣術は、刀剣の進歩と剣技の改良との相乗関係によって今日に至りました。
世界中の殆んどの武術が、闘技者の職業的必要から発生して来た以上、最も効率の良い闘争方法を選
ぶのは、当然のことでしょう。
(蛇足ですが、より進歩した殺りく用鉱物性物質の追求が、Fe から U(ウ
ラン)に、即ち銃砲から原爆になってゆきました)
。
空手には全く、武器の概念はありません。
むしろ、殺伐とした闘いの技法を、芸術的香りさえする「型」にまで昇華させています。(これを逃
避と言い、奴隷の武術と評した人がいますが、一応、無視しましょう)。
何故でしょう。
私にはよく表現できないのですが、東洋人の深い心の底に、このような武術を求めるなにかが、ある
ような気がするのです。
とりとめのない文章になってしまいました。
けれど、今でも白い稽古衣に着替える時、なんとも言えない充足感があります。
私にとっての空手とは──こんな充足感かも知れません。
──あとがき──
(社)日本空手協会兵庫県本部、筑紫ケ丘支部の先生方、父兄の皆様にお祝いいただくまで、喜寿な
ど、認めない積りでした。
けれど、思い返して、今までご指導、お世話下さった先生方、先輩方、同好の友、後輩諸君、私の空
手修業を温かく見守って下さった方々に、感謝の気持ちをお伝えしたく、思い出すまま、書き綴ってみ
ることに致しました。
貴重な文章をお寄せ下さった小林諶三先生、菅野淳先生、中本毅先生、いろいろ助言して呉れた第一
早高理科Qクラスの級友、富岡正敏君に、心より感謝いたします。
──私の思い違いの個所がございましたら、どうかお赦し下さい。
(注)これは、二〇〇一年中に仕上げる積もりでしたが、今年にずれ込んで了いました。貴重な文章
を、お寄せ下さった先生方に、深く、お詫び中し上げます。
二〇〇二年十二月
川口 史郎
ごあいさつ
大会会長 川口史郎
本日、ここ兵庫の地に第 33 回社団法人日本空手協会近畿地区空手道選手権大会を開催することとな
りました。
先ず、ご助力戴きました大阪、京都、奈良、滋賀、和歌山各府県の皆様に、心よりお礼申し上げます。
私達の空手の祖、富名腰義珍大先生に、
「空手は礼に始まり、礼に終わる。」とのお言葉がございます。
一方、中国に、「礼は信なり。」という言葉があるそうです。
「信」即ち、「信じ合う。」、
「心の繋がり。」とも言えるでしょうか。
大先生のお言葉を、「空手の稽古は、心の繋がりから始まる。」、私なりに、このように理解させてい
ただいております。
試合も又、同じことが言えるでしょう。
お互いを尊敬し、信じ合う、そして全力を尽くして闘う。これが私達の目指す試合であると信じます。
選手諸君。
諸君に与えられた時間は僅かであります。
この与えられた時間に、選ばれた者の誇りと自負を賭け、正々堂々、長年、鍛え上げられた心、技、
体、心残りなく発揮して下さい。
諸君の健闘を祈ります。
2007 年 10 月 14、28 両日
兵庫県武道館にて