日本の会社と社名の由来

日本の会社 と
名
の
由
来
鈴 木 ム ク
遊人舎文庫
日本の会社と
社名の由来
遊人舎文庫
鈴木 ムク
目 次
目 次
砂糖とお菓子の由来 コラム〈カステラと長崎〉 砂糖の2大原料 日本の製糖業 ●砂糖はどのようにして作られてきたか 日本甜菜製糖 台糖 塩水港精糖 大日本明治製糖 明治製菓 13
19
25
●製糖会社の由来
18 15 13
森永製菓とエンゼルマーク 3
●お菓子とキャラクター
23 21 21 20 19
25
12
不二家とペコちゃんポコちゃん
グリコとゴールインマーク コラム〈道頓堀を飾るグリコのネオン塔〉 カルシウムと河童のカルビー
ソントンのトンちゃん バレンタインデーを仕掛けたモロゾフ 文豪ゲーテにあやかったロッテ ●お菓子と外国人
お馴染みのあの食品は あんパンと木村屋
クリームパンと洋風料理の中村屋 コラム〈中村屋サロンに集まった文化人・外国人〉 ●あんパンとクリームパン 裏庭の発明小屋で生まれた即席麺 コラム〈カレーより古いハヤシライス〉 カレーはイギリスから伝わった ●カレーとラーメン
日本初の乳酸菌飲料・カルピス 人の腸内乳酸菌のヤクルト ●日本生まれの乳酸菌飲料
キユーピーとアヲハタ 醤油の由来 ●調味料の由来
35
38
44
51
54
33 32 31 29 27
36 35
42 40 38
49 48 44
53 51
56 54
37
3
目 次
ソースの由来 化学調味料の元祖・味の素 ビールと洋酒の物語 ビールの歴史 コラム〈ビールの大瓶はどうして633 〉 ●ビールはどのようにして作られてきたか サッポロビール コラム〈ビール園の赤煉瓦工場〉 アサヒビール コラム〈三ツ矢サイダーの三ツ矢伝説〉 キリンビール ●ビール会社の由来
コラム〈ニッカとポッカ〉 オーシャンとメルシャン 日本の洋酒製造の由来 サントリー ニッカウヰスキー ●ウイスキーとワイン
薬品と化粧品の由来 道修町の御三家
東京の輸入薬商 コラム〈杏林伝説〉 5
62
86
63
67
74
87
61 59
66 63
72 71 70 69 67
84 83 79 76 74
95 92 87
●日本の薬品事情 ml
花王と石鹸の歴史 資生堂 ●石鹸と化粧品
オロナイン軟膏とオロナミンC 繊維と化学工業の由来 ●ヒット商品が社名となる
仁丹とテルモの体温計 コラム〈最初の国産体温計〉 日本の繊維産業 紡績業と大原家 レーヨンとナイロン メリヤスとファッション ●繊維会社とファッション セルロイドが社名の会社 セメダインとセロテープ チッソとソーダ 兵法と積水化学 南海の無人島とラサ工業 商品名を社名にした会社 ●プラスチックと化学工業
96
108
100
112
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●軟膏と体温計 メンソレータムとメンターム 97 96
107 105 104 100
121 119 113 112
137 136 135 130 128 126
111
6
目 次
電機産業の誕生物語 からくり師の弟子たち からくり師と東芝の誕生 沖電気とアンリツ 富士電機と富士通 ●通信機から始まった電気会社 鉱山から始まった日立グループ ナショナルとパナソニック 世界のブランド「ソニー」
テレビの父とビクターの犬 シャープペンシルのシャープ 三洋電機と山洋電機 ●鉱山の日立と新興の起業家たち
仁和寺の御室とオムロン 地名が隠された会社
創業者の理想、発展への願い ●地名や創業者の理想を示す
建設業のルーツは古い ●そもそもは大工の棟梁から始まった 戦国時代から続く松井建設 ドーム建築と竹中工務店 清水建設と幻の築地ホテル 超高層ビルと鹿島建設 7
141
173
142
151
163
174
149 147 144 143
161 160 158 156 153 151
168 165 163
180 178 177 174
大成建設と大倉財閥
銭高組と銭形平次の関係は 若築建設 大気社 ●創業時の事業内容が社名になった
自動車と財閥、その他の企業 脱兎とその子供たち 日産自動車
富士重工業
三菱自動車 トヨタ自動車
ホンダ スズキ マツダ ●ダットサンから始まる日本の自動車産業 住友
三菱
伊藤忠と丸紅 日商岩井とニチメン、トーメン
●財閥と総合商社
三越 高島屋 大丸 ●百貨店とスーパー
208 207 205 204 202 200 197 195
190
195
209
222
188 183
191 190
218 217 214 209
225 224 222
194
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目 次
松坂屋 伊勢丹と松屋 ダイエーとローソン イトーヨーカ堂とイオン 焼き物の話
海外貿易に賭けた森村兄弟
森村グループの形成 ●ノリタケと日本の陶磁器
●理研が母体の企業群
理研と理研コンツェルン コラム〈コンドームの由来〉 249
動物の名前を付けた企業たち ライオン 虎と象 ●動物の王者の名前 灘の酒の由来 白い動物たち ●灘の酒と白い動物
トンボ
馬 鳩、ヒバリ、キリン、シャチ、ロブスター
動物のブランド名 ●トンボや馬、その他の動物たち
9
248 240
233
240
250
256
262
231 230 229 227
237 235 233
253 250
257 256
272 269 266 262
日本の会社と
社名の由来
1
砂糖とお菓子の由来
口もこころもとろける甘いお菓子。その甘さの原料と
なっているのが砂糖である。日本の砂糖とお菓子の歴史
をひもといてみよう。
12
お菓子には豊かさと平和のイメージがあるが、その原料である砂糖の製造は、
実はさまざまな歴史の試練に翻弄されてきたのである。
砂糖はどのようにして作られてきたか
砂糖の2大原料
砂糖は何から作られるか? まず思い浮かぶのがサトウキビだろう。
サトウキビは熱帯や亜熱帯地方に生育するイネ科の植物で、甘蔗(カンショ)とも呼ばれ、茎に含ま
れる糖分から蔗(ショ)糖が作られる。原産地は南太平洋ニューギニア周辺といわれ、インドや東南ア
蜂蜜を生む葦がある」として、ヨーロッパにも知られるようになった。
14~15世紀の大航海時代になると、コロンブスによって発見された新大陸や西インド諸島などに
運ばれ、栽培地域を広げた。さらに17世紀に入ると、ヨーロッパ諸国で紅茶やコーヒー、チョコレー
トなどの嗜好品文化が成長し、砂糖の需要が拡大したため、サトウキビ栽培は熱帯地方各地に広がって
13
ジアにかけて分布していた。紀元前4世紀にアレクサンドリア大王のインド遠征で「蜜蜂がいないのに
砂糖とお菓子の由来
いった。現在は中南米と熱帯アジアで世界の栽培面積の85%強を占めている。
日本には17世紀初頭に伝わり、まず奄美大島で初めてのサトウキビ栽培と製糖が行われ、ついで琉
球(沖縄)に広まった。
砂糖といえばサトウキビの時代が長く続いた。
ところが、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、蔗糖のヨーロッパへの流入が止まってしま
った。そのとき注目されたのが甜菜(テンサイ)、すなわち砂糖ダイコンであった。
ヨーロッパで家畜の飼料として利用されていたビート(テンサイ)のなかに、根に糖分を含んでいる
ものが発見され、1747年にはドイツの科学者がテンサイの根に砂糖が含まれていることを実証した。
そして19世紀初頭のドイツでテンサイからの砂糖(甜菜糖)製造が進められたが、糖分の含有量が低
く、価格的にサトウキビの蔗糖に勝てなかった。
そのようなときに出された大陸封鎖令は、甜菜糖にとって大きな援軍となった。品種改良や栽培法、
製造法が急速に進歩し、19世紀の終わりごろには蔗糖と肩を並べるようになった。日本には明治の始
めに伝わり、現在では全世界の砂糖消費量の約30パーセント、日本では約25パーセントが甜菜から
作られた砂糖で占められている。
甜菜の甜は「舌に甘い」と書き、甘い野菜ということだが、見た目がダイコンやカブに似ていること
から「砂糖ダイコン」と呼ばれてもいる。しかし分類上はほうれん草と同じアカザ科に属し、根の部分
に蓄えられる糖分を採取して甜菜糖を作る。もともとが家畜の飼料に使われていたものだから、栽培地
もヨーロッパやアメリカの牧草地と重なり、日本では北海道が中心である。
14
砂糖の生産には、南のサトウキビと北の甜菜という2種類の原料植物の特徴が大きく影響しているの
である 。
日本の製糖業
日本では江戸時代から沖縄や奄美を中心にサトウキビ栽培が行われていたが、明治時代に入って国際
交易が始まると、砂糖の輸入が行われるようになった。
ヨーロッパ諸国に追いつくことを目標としていた明治政府は、農業の近代化にも力を入れ、亜麻や大
麦とともに甜菜の種子を輸入して東京青山の直営官園で栽培を試みた。しかし、甜菜は寒冷地作物であ
るために本州でうまく育たず、開拓の機運が高まっていた北海道に目を向け、明治4年 1
( 871年)
に北海 道 の 七 重 な
( なえ 村
) (現函館市)の試験圃で栽培の研究を続けた。
)
明治政府から第3回パリ万国博覧会(1878年)に派遣された勧農局長松方正義(後に総理大臣)は、
西欧諸国での甜菜糖業の隆盛を目の当たりにし、帰国するなり甜菜糖業の導入に力を入れた。「ボーイズ・
もまた、甜菜糖の製造技術で全米1を誇るマサチューセッツ農科大学の学長だったこともあり、政府に
甜菜の栽培を強く勧めた。
(す
開拓使は明治11年(1878年)、札幌農学校に甜菜の試作を依頼し、翌12年には有珠 う
郡紋鼈 も
( んべつ 村
) (現伊達市)に官営の製糖所が建設された。
15
ビイ・アンビシャス」の言葉で知られるウイリアム・クラーク(北海道大学の前身、札幌農学校の教頭)
砂糖とお菓子の由来
この官営工場は、明治20年に民間に払い下げられて紋鼈製糖株式会社となり、道庁などの保護を受
けながら営業を続けたが、農業・工業の両面で技術が未熟だったために、明治29年には事業を放棄し、
解散する羽目に陥った。
また明治21年にも、道の援助で苗穂村(現札幌市東区)に新しい製糖工場が建設され、札幌製糖株
式会社が設立されたが、紋鼈製糖(株)と同様に事業としては成り立たず、明治34年には閉鎖された。
)となって観光客に親しまれている。
P69
ちなみに札幌製糖(株)の工場はのちにビール工場として生まれ変わり、その赤レンガ造りの建物は現
在のサッポロビール園(→
明治30年前後に北海道の甜菜糖業が壊滅した理由のひとつには、もうひとつの砂糖原料であるサト
ウキビ が あ っ た 。
明治27年(1894年)に日清戦争が起こり、翌28年の下関条約で日本が台湾を手に入れたこと
から、状況が一変した。台湾では以前よりサトウキビ栽培が盛んで、国民の目は甜菜糖からサトウキビ
の蔗糖に移った。内地資本が競って台湾に進出し、次々に製糖業を始めた。
5千円札の肖像で知られる新渡戸稲造は 、,明治14年に札幌農学校を卒業して北海道開拓使で働い
たのち、明治35年(1902年)に台湾総督府に招かれ、台湾製糖業の近代化に力を注いだ。その前
年の明治34年には台湾製糖が操業し、大日本製糖、明治製糖が続いて、大工場による近代製糖業が確
立して台湾経営の柱となっていったのである。
台湾の蔗糖に破れた甜菜糖は、細々とした試験研究を除き、約20年間にわたって歴史の表舞台から
姿を消した。その甜菜糖事業が再び歴史の舞台に登場するのは大正8年のことである。
16
第一次世界大戦でヨーロッパの甜菜(ビート)が焼失し、砂糖の国際価格が急騰した。日本は第一次
大戦の戦勝国として経済の繁栄を謳歌していた。
松方正義の子息松方正熊は、帝国製糖社長として台湾での製糖業を成功させ、さらに甜菜糖業への進
出を図っていた。また台湾で実績を積んだ他の糖業資本も、北海道・朝鮮・満州の甜菜糖業に強い関心
を示していた。そして大正8年と9年に相次いで甜菜糖事業の新会社が北海道に設立されることになる。
こうして製糖業は黄金期を迎えたが、それもつかの間、大正9年(1920年)10月、アメリカに
端を発した世界恐慌で砂糖相場が暴落した。
また、太平洋戦争末期には台湾からの輸送が止まり、国内で深刻な砂糖不足がおこって昭和27年3
月まで配給制となるなど、国際市況商品である砂糖は、戦争や景気変動の波をもろにかぶってきたので
17
ある。
砂糖とお菓子の由来
コラム
カステラと長崎
カ ス テ ラ は 今 か ら 4 0 0 年 以 上 前 に、 宣 教 師 た ち に よ っ て 日 本 に 伝 え ら れ た と い わ れ て い る。
その名前は、発祥の地であるスペイン・カスティーリィア地方の名前から来ている。
このカステラが長崎名物となった理由は、長崎が当時の有数の貿易港であり、鎖国時代にあっ
ては唯一の貿易港であったからである。まず第一に、ポルトガル人がカステラの製法を長崎商人
に伝えた。そして第二に、重要な原料である砂糖が中国・福建省の省都・福州から長崎に運ばれ
てきていた。この事情を今に伝えているのが長崎カステラの老舗・福砂屋である。
長崎の貿易商としてさまざまな品目を扱っていたが、
福砂屋は寛永元年(1624年)の創業で、
なかでも福州の砂糖が重要品目で、名前の福砂もそこからきている。記録では創業時にポルトガ
ル人よりカステラ製造を伝授されたとあり、以来同社の歴史は長崎カステラの歴史となった。
長崎カステラを全国的に有名にしたのは、文明堂の「カステラは一番、電話は二番」というキ
ャッチフレーズだろう。昭和12年(1937円)に赤坂電話局が開局すると、2番の電話番号
を購入して、電話帳の裏表紙に広告を出したのが始まりである。現在も文明堂の直営店舗の電話
番号の多くは、局番のあとが0002番となっている。同社は明治33年(1900年)に中川
安五郎が長崎で創業し、大正11年に開業した東京支店がのちに経営分離して東京文明堂となっ
た。長崎のほうは文明堂総本店として今も続いている。
18
しかし第2次世界大戦で、ほとんどの製糖会社は台湾を始めとする海外の工
場や資産を失い、大きな打撃を受けた。
湾に日本の製糖業の基礎が築かれることになった。
先に述べたように、明治の文明開化以来、政府は製糖業の発展に力を入れて
きたが、北海道開拓の使命を帯びた甜菜糖業が失敗したため、日清戦争後の台
日本の製糖会社の社名は、そのまま日本の製糖業の歴史を表している。
製糖会社の由来
日本甜菜製糖
その名の通り同社の歴史は日本の甜菜糖業の歴史でもあり、現在も甜菜糖ではトップシェアを誇って
いる。
甜菜糖製造を再開した。
松方正熊は帝国製糖社長として台湾での製糖事業を展開しながら、父の夢である北海道での甜菜糖業
19
前述したように、明治の元勲松方正義の進めた北海道の甜菜糖業はとん挫したが、その20年後の大
正8年(1919年)、子息の松方正熊が十勝の大正村(現帯広市)に北海道製糖株式会社を設立して、
砂糖とお菓子の由来
再開の機をうかがっていたのである。そして第一次世界大戦後の製糖ブームでにわかに北海道が注目さ
れ、北海道製糖設立の翌年(大正9年)には、同じ十勝の人舞村(現清水町)に日本甜菜製糖株式会社
(旧会社)も設立された。
しかし、両社の発足まもない大正9年(1920年)10月、アメリカに端を発した世界恐慌で砂糖
相場も暴落し、両社は創業直後から早くも経営難に陥ってしまった。両社は十勝鉄道を建設して製品の
輸送路を確保するなど、ライバルであるとともに共同して苦難に立ち向かった。後に実質的に合併して、
昭和22年、現在の日本甜菜製糖株式会社に社名変更した。
台糖
スプーン印の砂糖で馴染みの台糖株式会社は、かつては台湾製糖株式会社という名前であった。その
名の通り、台湾でサトウキビを原料とする製糖事業を行っていた会社である。
創業は明治33年(1900年)。日清戦争で台湾を領有した日本が国策として台湾に近代的製糖業
の建設を推進したが、その先陣を切って台湾に進出したのが、三井系の資本によって創立された台湾製
糖株式会社であった。第二次世界大戦で日本が台湾を失うまで、同社は台湾経済の中心に位置していた。
終戦後の昭和21年、台湾の工場などをすべて失った同社は、新目本興業株式会社として新たに発足
し、昭和22年にはペニシリンの製造販売を開始した。そして昭和25年、社名を台糠株式会社に変更
して再び精糖事業を開始したのである。
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塩水港精糖
「オリゴのおかげ」シリーズを販売している塩水港製糖だが、なぜ塩水港なのか。実は台湾にある地
名で、「鹽水港廳下岸内庄 え
( んすいこうちょう・しもがんないしょう 」)という港近くに設立された製
糖会社だったのである。
台湾製糖に続く第2陣として明治36年(1903年)12月に設立され、明治40年3月に社名を
地名からとった鹽水港製糖とした。
第2次大戦で海外資産のすべてを失ったが、昭和25年7月、倉庫などの内地資産を整理継承して、
塩水港倉庫株式会社として再発足した。昭和25年8月、社名を塩水港精糖株式会社に変更し、翌26
年1月から 精糖事業を復活させた。
昭和38年に砂糖の原料である粗糖の輸入が自由化され、多角化の必要に迫られた同社は、昭和 昭
和62年から乳果オリゴ糖の研究開発を行ない、平成2年より「オリゴの朝」
、
「乳果オリゴ」を製造・
大日本明治製糖
製糖業だけでなく日本経済界に大きな足跡を残した(旧)大日本製糖と(旧)明治製糖が、平成8年
21
販売し、平成6年11月に全国販売を開始した「オリゴのおかげ」が人気商品となっている。
砂糖とお菓子の由来
(1996年)7月に合併してできた会社である。三菱商事の100%資本による砂糖業界のトップメ
ーカーで、バラ印のマークが目印。
大日本製糖は、日清戦争が終結した明治28年(1895年)12月、日本製糖株式会社として発足
し、明治39年(1906年)大日本製糖株式会社に改称して台湾での製糖事業に進出した。日本最大
の製糖会社に成長したが、明治42年(1909年)
、日糖疑獄事件を起こし、政財界に多くの逮捕者
を出しただけでなく、社長も自殺して会社は倒産の危機におちいった。このとき、渋沢栄一の依頼を受
けて社長に就任し、会社を立て直したのが、三井銀行にいた藤山雷太であった。
藤山雷太は、慶応義塾で福沢諭吉の下に学び、三井銀行入社後は日本で最も古い電機製作会社である
芝浦製作所(現・東芝)の所長として経営を立て直し、王子製紙の専務として会社の復興に力を尽くし
た人物 で あ る 。
大日本製糖の建て直しに成功して「日本の砂糖王」といわれた後、保険、銀行、電力、紡績、鉄道な
どの事業にも手を広げ、一代で藤山財閥を築き上げ、日本商工会議所の初代会頭になった。また、長男
の藤山愛一郎は、昭和9年に大日本製糖の社長に就任し、日東化学工業社長や戦後の日東製紙社長や日
本航空会長などをつとめたあと、政界に入った。岸内閣で外相に就任し、その後も自民党の大物政治家
として 活 躍 し た 。
明治製糖は、大日本製糖の台湾進出と同じ明治39年12月、相馬半治によって台湾に創立され、台
大日本製糖は、この藤山親子による藤原財閥の中核企業であったが、第二次世界大戦で外地資産をす
べて失い、昭和20年に内地資産をもって新たに大日本製糖を設立した。
22
湾製糖、大日本製糖とともに3大製糖会社に数えられるようになる。
のちに砂糖の消費拡大を狙って明治製菓を設立し、さらに明治乳業、スマトラ興業(ゴム栽培)など
を設立して多角化を進め、戦前の大資本である明治グループを形成した。
やはり第二次世界大戦で外地資産をすべて失い、昭和25年(1950年)に内地資産をもって明糖
株式会社を設立し、昭和27年に明治製糖株式会社に改称した。
昭和46年(1971年)以降、両社は三菱商事を中心として結びつき、東日本精糖株式会社及び西
日本株式会社を経て、平成8年の合併で大日本明治製糖株式会社が発足した。
明治製菓
台湾での精糖事業で業績を伸ばしていた明治製糖だが、1910年、11年と続いて大暴風雨が台湾
を襲い、精糖事業の不安定さを知ることになる。そこで相馬半治は事業の多角化を考えた。砂糖の消費
拡大を狙って菓子事業に進出しようと、大正5年(1916年)12月に大正製菓株式会社を設立した。
このままなら大正製菓となりそうなものだが、実はその2カ月前、大正5年10月に同じ主旨の下に
東京菓子株式会社が設立されていた。そして翌大正6年3月に両社は合併して新しい東京菓子株式会社
が誕生する。名前の上では東京菓子が存続会社だが、実質は相馬半治を中心とする明治精糖の傘下にあ
った。同社は順調に発展し、全国的な事業展開のもとでは東京という特定地名が実情にそぐわないとし
23
これが明治製菓の始まりである。
砂糖とお菓子の由来
て、大正13年(1924年)、明治グループの一員であることを明示する明治製菓株式会社に社名変
更した の で あ る 。
大正15年、ドイツから製造技師を招いて本格的なチョコレート生産に乗り出し、同年9月13日
に「ミルクチョコレート」を販売した。このチョコレートのヒットで明治製菓は森永製菓と並ぶ2大菓
子メーカーに成長した。第二次世界大戦中は他の菓子とともにチョコレートの製造は中断したが、昭和
26年(1951年)に「ミルクチョコレート」が復活し、戦後初の国産チョコレートとして人気を博
した。現在も売れ続ける超ロングセラー商品であり、CMソングで歌う「チョコレートはメ・イ・ジ」
のイメージを定着させるものとなった。
また、戦後の同社は終戦直後の昭和21年に抗生物質ペニシリンの製造にはじまり、昭和25年の結
核治療薬ストレプトマイシンの発売など、抗生物質を中心とする医薬品メーカーとしても有名だ。
うがい薬でお馴染みのイソジンは昭和36年(1961年)の発売以来の定番商品として定着してい
る。その有効成分ポビドンヨードは、殺菌消毒剤の影響を受けにくいといわれる微生物・芽胞に対して
号の船体に注ぎかけられたという。
も有効で、しかも海洋汚染の心配が少ないことから、月面着陸を終えて太平洋上に着水した宇宙船アポ
ロ
11
24
お菓子とキャラクター
お菓子には夢がある。その味や甘さには、いっときの豊かさや幸福感をもた
らすものがある。お菓子作りに挑戦する人の夢がある。
お菓子には印象的なキャッチフレーズやキャラクターが多いが、そこにはど
んな夢が託されているのだろうか。
森永製菓とエンゼルマーク
エンゼルマークで知られる森永製菓は、日本の菓子王と呼ばれた森永太一郎がアメリカ修行から帰国
した明治32年(1899年)に開業した森永西洋菓子製造所が発祥である。社名はもちろん創業者の
森永からきているのだが、ではエンゼルマークの由来はなんだろうか。そこには森永の創業の歴史と理
森永太一郎は1865年(慶応元年)、肥前国(現在の佐賀県伊万里市)の豪商の息子として生まれたが、
幼児に父を亡くしたため、苦労して育った。24歳のとき、日本の陶磁器を売り込むためにアメリカに
渡ったが、うまくいかず、途方に暮れていた。そんなとき、偶然口にしたキャンディのうまさに感動し
て、洋菓子職人になる決心をした。
25
念が刻まれているのである。
砂糖とお菓子の由来
このころすでに森村兄弟はニューヨークに貿易商社を設立し、日本の陶磁器輸出で成功していた。そ
の森村兄弟が後にノリタケを創業して日本の陶磁器産業(→ P233
)に君臨するが、森永のほうは陶磁
器輸出に失敗したことで「日本の菓子王」への道に進んだわけである。
森永太一郎は菓子工場で働こうとしたが、東洋人の彼を雇ってくれるところはなく、しかたなくハウ
スボーイとして働きながら農園や邸宅などを転々としていた。そして、彼を我が子のように差別なく可
愛がってくれる老夫婦と出会った。彼らの信仰するキリスト教に興味を覚えた太一郎は、いつしか熱心
なキリスト教徒になり、洗礼を受けた。すると、願いが神に通じたのか、ついに菓子工場で働くことが
実現し た 。
11年の菓子修行を終えて帰国した太一郎は、赤坂溜池にわずか2坪の小さな工場をつくって森永西
洋菓子製造所と名付け、マシュマロ作りを始めた。欧米ではマシュマロが「エンゼルフード」と呼ばれ
ていた。子どもにも親しまれるようなシンボルマークを作ろうと考えた太一郎は、自身がキリスト教徒
であったこともあり、子どもの天使が翼を広げて舞い降りてくるマークを考案した。天使がハンドルの
ように握っているのは、森永太一郎のイニシャルである「T」と「M」を組み合わせたものである。明
治38年(1905年)のことである。そして大正元年 月森永製菓株式会社に社名変更した。
という方法だった。当初はばら売りで、1粒5厘だったという。大正3年に東京・上野公園で開かれた
べたついてしまうという欠陥があった。これを解決したのが、ワックス加工した包み紙で一粒づつ包む
太一郎は日本で最初にキャラメルを製造した人でもある。最初はバターとミルクを多量に使ったアメ
リカ仕込みのソフトキャラメルであったため、当時の日本人の嗜好に合わず、また高温多湿の気候では
11
26
大正博覧会で、土産用に20粒入りの紙箱に入れて販売したところ爆発的な人気を得、現在にも続く黄
色い箱の森永ミルクキャラメルが誕生した。
大正7年(1918年)には初の国産チョコレートを発売し、日本の菓子業界をリードする会社へ発
展して い っ た 。
森永乳業は、大正6年に設立された日本煉乳株式会社が前進であるが、大正9年に森永製菓と合併し、
その後、昭和2年に森永製菓煉乳部を分離して森永煉乳株式会社が誕生した。戦争中に再び森永製菓と
合併して森永食糧工業株式会社となり、戦後の昭和24年に森永食糧工業乳業部を分離して、森永乳業
株式会社が設立されたのである。
不二家とペコちゃんポコちゃん
だものであり、同時に不二(この世にふたつとない)の意味を含んで縁起が良いという理由から付けら
れた。
27
ペコちゃんポコちゃんのミルキーで馴染みの不二家は、明治43年(1910年)に藤井林右衛門が
横浜市元町に開店した洋菓子店が発祥である。林右衛門はそのとき25歳。不二家の名は藤井にちなん
砂糖とお菓子の由来
2年後の大正元年、林右衛門は洋菓子事情視察と技術修得のためにアメリカへ渡り、帰国した大正3
年、店の隣をぶち抜きにして喫茶室を新設し、「ソーダ・ファウンテン」と名付けた。滞米中の街角で
見た大理石のインテリアカウンター、そして真鍮のハンドルを押すとジュッと飛び出すソーダ水に心を
奪われた彼は、日本でも同じようなものを作ろうと決心していた。3メートルもある大理石のカウンタ
ーを取り寄せ、テーブルも白の大理石、コーヒーカップも従業員の制服も白で統一し、料金の支払いは
レジで自己申告するというアメリカスタイルをそっくり取り入れた。レモン、オレンジなどの天然果汁
を加えた日本最初の天然ソーダはこのカウンターから生まれた。
大正7年には日本ではじめてシュークリームやエクレアなどを販売し、洋菓子の基礎を築いた。そし
て昭和5年、合名会社不二家が設立される。昭和9年に発売したフランスキャラメルが大ヒットし、昭
和13年には株式会社第二不二家を設立して、合名会社不二家を合併して株式会社不二家と改称した。
人気キャラクターのペコちゃんとポコちゃんは、戦後のミルキーの販売とともに登場した。戦災で焼
け残ったただ1基のボイラーで水飴と練乳の生産を開始した林右衛門は、この2つの製菓材料を使った
新製品の構想を抱いた。それは幼児や子どもを対象に、母乳を思わすミルク味の柔らかいキャンディだ
った。昭和26年に販売された「ミルキー」は、「ミルキーはママの味」のキャッチフレーズとともに
大ヒットし、不二家の名を一躍有名にした。
その前年の昭和25年暮れ、銀座店の前に張り子で作った女の子の人形を置いてみたところ、評判が
良く、翌年のミルキー発売時には男の子も必要だとして、ペコちゃんポコちゃんの二人が生まれた。名
前の由来は、昔から子牛のことを「べこ」と言い、幼児のことを「ぼこ」と呼ぶこともあり、それを西
28
洋風にアレンジしたのが「ペコ」と「ポコ」である。
ミルキーのパッケージには当初から二人が描かれているが、評判がいいため、ミルキーだけではなく、
不二家をアピールするキャラクターとすることにした。そしてペコとポコを兄妹とするなら、父と母も、
さらに祖父、祖母も、と広がってしまうので取りやめになり、二人は「友達」ということになった。現
在のペコちゃん人形はプラスチック製で、年に7~8回衣替えをする。
それでは、昭和33年に行われた「ペコちゃんいくつ?」キャンペーンで決まった二人のプロフィー
ルを紹 介 し よ う 。
ペコちゃん。年齢=6歳(永遠に6歳)。性別=女性。身長=100cm。体重=15kg。スリー
サイズ=B58cm、W55cm、H63cm(店頭に立つ現在のペコちゃん人形の体型)
。
ポコちゃん。年齢=7歳(永遠に7歳)。性別=男性。身長=100cm。ペコちゃんのボーイフレンド。
グリコとゴールインマーク
薬の行商をしていた江崎利一は、あるとき漁師たちがカキをゆでているのを目撃して、グリコーゲン
は貝類のなかでもカキに多く含まれるという研究報告を思い出した。もしかしたらこのカキのゆで汁に
グリコーゲンが溶けだしているのではないか。専門家に分析してもらったところ、思った通りだった。
29
グリコはグリコーゲンから取られている。グリコーゲンは動物の肝臓や筋肉などに多く含まれる多糖
類の一つで、酵素によって分解されてぶどう糖に変わり、動物のエネルギー源となるものである。
砂糖とお菓子の由来
捨てられてしまうゆで汁からグリコーゲンを取り出して何か事業を起こせないか、と利一は考えた。
すでにグリコーゲンを主成分とする栄養剤は発売されていた。グリコーゲンが必要なのはむしろ育ち盛
りの子どもだと思った利一は、グリコーゲン入りのキャラメルの製造を思いついた。
大正10年(1921年)、栄養菓子「グリコ」が誕生し、翌大正11年2月11日、大阪「三越」
百貨店で発売された。その発売日が江崎グリコ株式会社の創立記念日となっている。
江崎利一はグリコの発売と同時に、その「おいしさと健康」をアピールするキャッチフレーズやマー
クを作ろうと考えた。あるとき、子どもがかけっこをしてゴールインする姿を見て、
「これだ 」!とひ
らめいたのがゴールインマークである。イラストはゴールインのいろいろな姿を研究したうえで正面向
きの姿に決まったが、特定のモデルはなく、時代に合わせて顔や年齢、体格が変わっている。
「 1粒で300メートル」というキャッチフレーズは、実際にグリコ(キャラメル)1粒で300メ
ートル走れるエネルギーが含まれていることから生まれた。身長165cm、体重55kgの人が分速
160メートルで走ると、約300メール走ったときの消費エネルギーがグリコ1粒の15.4キロカ
ロリーに相当するという計算である。
、江崎利一が子どもの「食
ところで、グリコと言えば「オマケ」だが、これは昭和2年(1927年)
べる」「遊ぶ」を同時に満足させれば鬼に金棒だと考え、豆玩具のオマケを創案したのが始まりである。
このオマケでグリコは大きく躍進した。また、もうひとつのキャッチフレーズである「1粒で2度おい
しい」は昭和30年(1966年)発売の「アーモンドグリコ」からで、その後のアーモンドブームを
巻き起 こ し た 。
30
砂糖とお菓子の由来
コラム
道頓堀を飾るグリコのネオン塔
グ リ コ の ゴ ー ル イ ン マ ー ク は 昭 和 1 0 年( 1 9 3 5 年 )、 大 阪 ミ ナ ミ の 道 頓 堀 川 戎 橋 に 高 さ
33メートルのネオン塔となって出現し、たちまちミナミの夜の名物となった。ランナーとグリ
コの文字を6色に変化させ、同時に花模様が毎分19回点滅して大阪人の度肝を抜いたのだった。
このネオン塔は、戦況が厳しくなった昭和18年に鉄材供出のため撤去されてしまったが、戦
後の昭和30年に2代目が再建された。砲弾型の下部に特設ステージを持ち、そこでは大きな人
形のワニ君がピアノをひいたり、人形劇を演じたり、ロカビリー大会を催したりするものだった。
3代目は昭和38年の噴水ネオン塔で、トレードマークの中心部にある150本の水車状のノ
ズルから12トンの水が噴き出し、12色のランプ400個がそれを照らして虹の模様を描いた。
4代目は昭和47年に建設され、点滅する陸上競技場のトラック部分をバックに、トレードマ
ークのランナーがゴールインする姿。
31
そして今、大阪の名所風景をバックにランナーが走る5代目のネオンが輝いている。
阪神タイガース
が18年ぶりの
優勝を果たした
時、 タ イ ガ ー ス
のユニホーム姿
が期間限定で登
場した
カルシウムと河童のカルビー
「やめられな~い、止まらない」のかっぱえびせんのカルビー株式会社は、カルシウムの「カル」か
ら社名をとっている。では「ビー」とはなにか。ビタミンBのビーで、正確にはビタミンB1のこと。
つまりネラルの代表格であるカルシウムと、ビタミンの代表格であるビタミンB を組み合わせて作っ
た、いかにも健康志向の会社名である。
子にできないかと考え、瀬戸内で水揚げされた小えびを生でまるごと使用するという、当時では想像を
、CMソングとともに大ヒットして全国的な菓
「かっぱえびせん」の登場は昭和39年(1964年)
子メーカーに成長した。じつは松尾名誉会長はエビの天ぷらが大好物で、なんとかこのおいしさをお菓
株式会社に社名変更したのである。
初めて小麦粉原料の洋風あられの製造に成功し、「かっぱあられ」と名付けた。この年、カルビー製菓
社に改組。そして昭和29年(1954年)、それまであられや煎餅の原料は米だったものを、日本で
昭和12年(1937年)に現名誉会長・松尾孝が事業を継ぎ、松尾糧食工業所に改名。戦後の昭和
23年、菓子原料の統制緩和とともにキャラメル・飴菓子の製造を開始し、翌年に松尾糧食工業株式会
れてい る 。
(1905
とはいっても、最初からカルビーであったわけではない。今から約100年前の明治38年
年)、広島で松尾寿八郎が「かきようかん」の製造をはじめ、松尾巡角堂の看板を掲げたのが創業とさ
1
32
絶する製法で開発に成功したのだった。このかっぱえびせんは、昭和42年のニューヨーク国際菓子食
品博覧会に出品して、人気を博し、スナック食品の本場アメリカに日本で初めて進出するという偉業も
成し遂 げ て い る 。
「 か っ ぱ 」 は、 当 時 の カ ル ビ ー の シ ン ボ ル マ ー ク に な っ て い た が 、 そ の 由 来 は 清 水 崑 画 伯 の 人 気 マ ン
ガ「かっぱ天国」にある。清水画伯作の子どものかっぱの絵がシンボルキャラクターとして使われたのだ。
昭和48年(1973年)、本社を東京都へ移転し、社名も現在のカルビー株式会社へ変更した。
ちなみに、清水崑画伯のかっぱをキャラクターとしたもうひとつの会社に黄桜酒造がある。こっちは
「カッパッパ、ルンパッパ」のかっぱの歌で踊る女かっぱの色気が日本酒のイメージに合っており、今
は小島功画伯の描く2代目女かっぱが活躍している。
ソントンのトンちゃん
ソントンのジャムに必ずついてるピーナッツみたいなキャラクターにはトンちゃんという名前がつい
ている。そもそもソントンという社名は、戦前に日本でキリスト教の布教をしていたJ・B・ソントン
ソントン牧師は、教会の運営資金をまかなうためにピーナッツバターを製造して信者に売っていた。
ピーナッツバターはアメリカの子どもたちの大好物で、ロック歌手のエルビス・プレスリーもその食べ
過ぎのために肥満で苦しんでいたことは有名である。
33
牧師に 由 来 す る 。
砂糖とお菓子の由来
ところが第二次世界大戦が勃発したために、牧師はアメリカに帰国しなければならなくなった。そこ
で信者のひとりだった石川郁二郎にピーナッツバターの製法を教え、事業を譲った。1942年、石川
郁二郎が兵庫県氷上郡においてピーナッツバターの製造を開始したのが同社の創業となっている。
戦後の昭和23年(1948年)、東京都中央区に株式会社山吉商会を設立し、2年後の昭和25年、
日本にピーナッツバターを伝えたソントン師の名をとってソントン工業株式会社に改称し、さらに昭和
36年にソントン食品工業㈱に改称した。トンちゃんのキャラクターは昭和38年に誕生し、昭和41
年に顔もヘアスタイルもかわいくモデルチェンジしたものである。
34
お菓子と外国人
ソントンがキリスト教宣教師ソントン牧師の名前に由来していたが、他に
も外国人の名前を掲げたお菓子の会社がある。よく知られた会社では、モロ
ゾフとロッテがそうである。
バレンタインデーを仕掛けたモロゾフ
2月14日のバレンタインデーに女性から男性へチョコレートを贈ることが、日本ではすでに年中行
事となっている。欧米ではこの日、恋人たちが花やキャンディーを贈り合うそうだが、日本ほどポピュ
ラーな行事とはなっていない。
昭和の初期、チョコレートは高価であったため、モロゾフの得意先は神戸に在留している外国人たち
であった。モロゾフはチョコレートの販売促進のため、昭和11年2月12日に神戸の英字新聞に「バ
レ ン タ イ ン デ ー に チ ョ コ レ ー ト を 贈 ろ う 」 と い う 広 告 を 載 せ た。
「花の代わりにチョコレートを」と言
35
バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣は日本で生まれたものなのだ。それを仕掛けたの
が、神戸の洋菓子会社モロゾフであった。
砂糖とお菓子の由来
うわけだが、それが浸透するのは戦後のチョコレートブームまで待たねばならなかった。
ところでモロゾフという社名はロシア人の名前からきている。明治になってから港町神戸には横浜と
同じように多くの外国船が訪れるようになった。ロシア革命で祖国を逃れたモロゾフ一家も最終的に神
戸にたどり着いた。製菓技術をもっていた彼らは日本人と共同経営で菓子屋を始め、モロゾフ製菓と名
づけたのである。その後、会社はモロゾフ一家とは経営を別にして日本人だけの経営となっった。
そして昭和6年(1931年)神戸モロゾフ製菓株式会社が設立され、昭和11年モロゾフ製菓株式
会社に商号変更、さらに昭和47年に現在のモロゾフ株式会社へ商号変更したものである。
文豪ゲーテにあやかったロッテ
ドイツの文豪ゲーテの作品「若きウェルテルの悩み」はかつての青春小説の代表であり、そのヒロイ
ンであるシャルロッテは当時の青年たちにとって「永遠の恋人」のようにイメージされていた。
「お口
の恋人」のキャッチフレーズで知られるロッテの社名は、そのシャルロッテからとられたものである。
昭和23年に株式会社ロッテが誕生し、チューインガムの製造販売を開始した。当時は入手困難であ
った「天然チクル」をガムベースの原料として採用したことで、噛み心地の良いガムを実現し、またア
メリカ人のガムを噛む習慣が日本にも広まってきたことで、ロッテのガムは国民に浸透していった。
昭和31年に南極学術探検隊用チューインガムを試作して話題をさらい、そのときの南極・ペンギン
のイメージは、その後に登場した「クールミントガム」のパッケージに使われてヒットした。
36
2
お馴染みのあの食品は
あんパンやクリームパン、カレー、即席ラーメン、あ
るいはマヨネーズやソースなど、普段なにげなく口にす
るお馴染みの食品は、いつ、どのようにして作られたの
だろうか。
それら食品会社の創業には、そして社名にはどんなド
ラマが隠されているのだろうか。
37
な感じがしない。
でもクッキーでも良さそうだが、それでは単なる洋菓子で、ひとつも日本的
ク
リームパンも忘れてはいけない。クリームもパンも洋食そのものなのに、
なぜか見事に日本化している。パンの代わりにスポンジケーキでもワッフル
洋食のパンと和菓子のあんを組み合わせたあんパンは、考えてみれば不思
議な食べ物である。まさに和洋折衷。日本人ならではの発明品といえるだろう。
あんパンとクリームパン
あんパンと木村屋
あんパンといえば、銀座の木村屋である。
木村屋の創業は明治2年(1869年)、幕府が倒れて職を失った徳川家の下級武士木村安兵衛が息
子の英三郎とともに、芝日陰町(現在の新橋駅近く)で「文英堂」というパン屋を始めた。これが日本
人経営によるパン屋の始まりといわれている。木村安兵衛はのちに店名を木村屋と改め、尾張町を経て
明治7年に銀座の煉瓦街に店を移した。
38
当時は外国人のパン屋で使われるホップを入手するのが困難だったため、出来上がったパンは非常に
硬く、売れ行きも悪かった。そこで思いついたのが酒饅頭であった。安兵衛は、ホップの代わりに糀を
使った生地を発酵させ、酒饅頭のようにやわらかいパンをつくろうと研究し、米と糀で培養した酒種酵
母菌を発明した。こうして出来たパンの中にあんを入れて、日本で初めて「酒種あんパン」を売り出し
たので あ る 。
パンに馴染みのない日本人でも、酒饅頭なら食べ慣れている。あんパンは洋風饅頭のようなものであ
り、新しいもの好きの明治人の嗜好に合っていた。
その評判を聞いて、明治8年に明治天皇の侍従をしていた山岡鉄舟が木村屋を訪ねた。鉄舟は有名な
剣術家で、江戸開城に際して勝海舟と西郷隆盛の会談をセットした人物である。鉄舟と安兵衛は、とも
に下級の幕臣として維新前からの知り合いであった。今も残る屋号「木村家」の大看板は鉄舟の揮毫に
よるも の で あ る 。
鉄舟は、4月4日に明治天皇が水戸徳川家の下屋敷(現墨田公園)にお花見を兼ねて訪れるので、あ
んパンを献上してはどうかと提案した。木村親子は、花見を記念して、奈良の吉野山の八重桜を塩漬け
引き続き献上することになる。このことをきっかけにあんパンの人気が高まり、銀座名物となった。当
時の値段はあんぱん 個1銭であった。
1
また宣伝のため、今の「ちんどんや」を日本で最初に使ったのも木村屋であった。楽器を演奏しなが
ら派手な衣装で「パン、パン、パン、木村屋のパン」と練り歩く姿は、当時の錦絵にも描かれている。
39
にして埋め込んだ「桜あんパン」を考案した。これを天皇が気に入り、とりわけ皇后に喜ばれて、以後
お馴染みのあの食品は
あんパンの次はジャムパンである。パンの上に塗って食べるジャムをパンの中に入れてしまったがジ
ャムパンだ。明治 年、木村屋3代目儀四郎がジャムパンを新発売し、これもまた大評判となった。
信州から上京してきたばかりの相馬夫妻は、商売をはじめるに当たって、まだ目新しいパンに目をつ
けた。そしてパンが日本人の生活に本当に定着するものかどうかを見極めるために、1日のうち2食を
中村屋は明治34年(1901年)、相馬愛蔵・黒光夫妻により創業されたパン屋である。相馬なの
になぜ 「 中 村 」 か 。
り出し た の で あ る 。
代りにクリームを用いたら一段と高級なものになるだろうと考え、日本で最初の「クリームパン」を売
明治37年のある日、中村屋の創業者である相馬夫妻がシュークリームを食べて感動し、これをパン
にして売ろうと思い立った。当時すでにあんパンが人気を博していたので、それに対抗して「あん」の
日本で最初のクリームパンを作ったのは中村屋である。
あんパンと比べるとクリームパンはいかにも洋風の感じがする。かなり最近の食べ物のように感じら
れるかもしれないが、あんパンと同じように明治生まれの由緒あるものだった。
クリームパンと洋風料理の中村屋
ジャムパンが出れば、残すはクリームパンである。しかしクリームパンは木村屋ではなく、中村屋が
明治37年に発売した。
33
40
パン食にすることを3カ月間試してみた。このとき毎日パンを買っていたパン屋が本郷の東京大学前に
あった「中村屋」であった。
そしてパン屋をはじめる決心をした相馬は、新聞に「パン店譲り受け渡し」と出してみると、申し出
たのが偶然にもその中村屋だった。明治34年12月30日、このパン屋を居抜きで買い取り、相馬夫
妻による新たな「中村屋」がはじまった。
中村屋が発展するのは新宿に移ってからである。
ある日、新設する支店の候補地を見回っていた黒光は、市内電車の終駅である新宿に目を付けた。当
時の新宿は東京のはずれのなんでもない殺風景な町だったが、支店を開店した明治40年12月15日
に、その日の売り上げが本郷本店の一日の売り上げを超えてしまった。明治42年に本店を本郷から新
宿の現在地に移転した。
新宿の中村屋では明治の末から大正にかけて美術・演劇・文学その他広い分野にわたる文化人が集ま
るようになり、いつしか「中村屋サロン」と呼ばれるようになった。また多くの外国人も出入りし、イ
ンド人革命家ボースの「インドカリー」や、ロシア詩人エロシェンコの「ボルシチ」など、文化の交流
それが昭和2年(1927年)に中村屋喫茶部を開設するにあたって大きな力となった。「本格イン
ドカリー」と「ボルシチ」の2大メニューの他に、中国菓子の「月餅」や中華まん(当時は「肉まん」
「あ
中村屋のマークは、真心を表す心臓を西洋の楯形風にデザイン化したもので、全体は四等分され、上
んまん」とは言わず「支那饅頭」と称した)などをメニューに揃え、珍しい物好きの話題をさらった。
41
とともに味の交流も行われた。
お馴染みのあの食品は
半分の左右に白と黒の二頭の馬を配し、右下に赤と黒の碁盤目を置き、左下には黒地に白の秤が描
かれている(現在は白と黒の碁盤目、白地に黒の秤)
。二頭の馬は双馬、すなわち相馬を意味している。
碁盤目は昔の西洋で貨幣を数える時に用いた盤で、経済、すなわち商売を意味する。天秤は正確・
正直を表し、片方がお客様で、もう一方が会社で、
「中村屋の商売は正直で正確なり」を表したもの。
2代目社長の相馬安雄がデザインしたといわれている。
中村屋サロンに集まった文化人・外国人
中村屋に文化人が集まるようになったのは、明治41年に彫刻家の荻原守衛(碌山)が欧州か
ら帰国して新宿にアトリエを建て、そこから中村屋に通うようになったのがきっかけである。
荻原は相馬黒光に触発されて芸術を志し、フランスでロダンに師事して日本の近代彫刻の礎を
築いた。彼を慕う中村彝、中原悌次郎、鶴田吾郎らの若い美術家たちが続々と中村屋に通うよう
42
お馴染みのあの食品は
コラム
になった。しかし、荻原は帰国してまだ3年の明治43年、中村屋の古洋館をアトリエに改造し
たその夜に突然吐血し、32歳の生涯を閉じた。
荻原が洋行中に親交を結んだ高村光太郎や中村不折(洋画家・書家)も中村屋に出入りし、中
村屋のロゴは中村不折の筆によるものである。
中村屋サロンに集まった芸術家たちの残した代表的な作品としては、黒光がモデルだと言われ
ている荻原守衛(碌山)の「女」
、相馬夫妻の長女・俊子をモデルにした中村彝の「小女」、鶴田
吾郎と中村彝が競作した「盲目のエロシェンコ」、高村光太郎の「自画像」などがある。
また黒光は島村抱月主催の「芸術座」に大きな関心を寄せ、中村吉蔵、秋田雨雀、松井須磨子
などの演劇人たちと親交を結んだ。
また、多くの外国人が中村屋に出入りしているが、なかでも深い関係にあったのがエロシェン
コとボースである。
ロシアの盲目の詩人ワシーリー・エロシェンコは、大正6年(1917年)に日本の盲学校に
学ぶために東京にやって来たが、本国でロシア革命がおこって送金が途絶えてしまった。ロシア
語に堪能な黒光が彼を引き取って世話をしたが、大正10年にスパイの容疑で国外退去命令を受
け、各国を流転したあと故国ロシアで不遇の生涯を終えた。
ラ ス・ ビ ハ リ・ ボ ー ス は イ ン ド 独 立 革 命 の 志 士 で、 イ ギ リ ス の 総 督 に 爆 弾 を 投 爆 し て 失 敗 し、
大正4年日本に亡命して相馬夫妻にかくまわれた。そのとき連絡係をしていた相馬夫妻の長女の
俊子とのちに結婚し、日本に帰化した。
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カレーとラーメン
カレーもラーメンも見事に日本化した外国料理である。まさに国民食とし
て、大人にも子どもにも人気が高い。どちらも即席化することで家庭でも簡
単に作れるものとなり、お手軽料理の代表にもなっている。
カレーはイギリスから伝わった
インド料理の代表であるカレーはスパイスの効いた辛口の大人の味であり、前述したように新宿中村
屋でインド人亡命者のボースが作る本格インド式カレーの評判が高かった。これは昭和2年に登場し、
名前も「インドカリー」で、ライスとカレーを別々の容器に入れた高級志向のものであった。
それまでのカレーは、イギリス海軍の軍隊食だった「イギリス風カレー」を基礎にしたものだった。
これは、肉、人参、ジャガイモ、玉ネギなどのシチュー材料をカレースープで煮込んだもので、明治の
初期にイギリス海軍を規範にして日本の海軍が整備されていったとき、日本海軍の軍隊食に採用され、
米飯と絡むように小麦粉でとろみをつけるなどの工夫が加えられた。今でも海上自衛隊では週に一度カ
レーの日があるという。
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海軍ゆかりの街「横須賀」では、この昔ながらの「海軍カレー」を「よこすか海軍カレー」と名付け
て町興しに利用し、平成11年5月20日に「カレーの街」宣言を行った。
国産カレー粉を開発したヱスビー食品
カレー粉はイギリスで商品化されたもので、インド料理を手軽に楽しむために代表的なスパイスを
あ ら か じ め ミ ッ ク ス し た も の で あ る。 日 本 で 初 め て 国 産 カ レ ー 粉 の 製 造 に 成 功 し た の は 大 正 1 2 年
(1923年)のことで、当時ソース屋に務めていた山崎峯次郎の研究の成果である。同年4月、彼は
カレー粉販売のために浅草七軒町に日賀志屋を創業した。
屋号の由来は「一日一日を賀び、志をたてて商売にいそしみ励む」という生活信条からとられている。
昭和5年(1930年)に家庭用のヒドリ印カレー粉を発売し、「太陽」と「鳥」を図案化したヒドリ
印を商標とした。これは「社運が、日が昇る勢いであるように、
また鳥が自由に大空をかけめぐるように、
自社製品が津々浦々まで行き渡るように」との願いが込められていた。その翌年には、ヒドリ印に「太
ーの呼び名の始まりである。
「S&B」のマークをもとに社名を ヱ
昭和15年、株式会社日賀志屋に改組し、戦後の昭和24年、
スビー食品株式会社に変更した。
45
陽=SUN」と「鳥=BIRD」の頭文字である「S&B」を併記した商標に変更した。これがエスビ
お馴染みのあの食品は
カレーを子どもの好物にしたハウス食品
ハウス食品の創業者である浦上靖介は、10歳のころに徳島から大阪に出て薬種問屋に10年ほど奉
公したのち、大正2年(1913年)、薬種化学原料店「浦上商店」を開業した。そこでは工業薬品や
和漢薬品、そしてソース原料や各種スパイスなどを扱っていた。
当時はまだ、カレーが一般の家庭料理として普及してはいなかったが、漢方薬と共通するスパイスを
使うカレーに浦上は興味を持ち、日本人の味覚に合うカレー粉の研究に精を出した。
大正15年(1926年)、「ホームカレー」の稲田商店を吸収し、その布施市(現・東大阪市)の工
場でカレー粉の生産を始め、粉末即席カレー「ホームカレー」を発売した。そして昭和3年(1928
年)、「ホームカレー」を即席ハウスカレーと改称した。
戦後の昭和22年、会社組織に改めて社名を株式会社浦上糧食工業所としたが、2年後の昭和24年
に株式会社ハウスカレー浦上商店と改称した。さらに昭和35年(1960年)社名をハウス食品工業
株式会社と改めた。このころにルータイプのカレーが誕生し、カレーライスが家庭料理の定番メニュー
となっ て い く 。
「りんごとハチミツ」をキャッチフ
昭和38年(1963年)には「バーモントカレー」を発売し、
レーズにした子どもでも食べられる甘口カレーはテレビCMでも人気となり、大ヒット商品に成長した。
このころからカレーが子どもの人気メニューの上位に登るようになったのである。
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平成5年(1993年)、社名を現在のハウス食品株式会社に改称した。りんごとハチミツの「バー
モントカレー」は、今でもテレビCMでタレントを変えながら子どもたちにカレーのおいしさを伝えて
いる。
レトルトカレーを開発した大塚食品
手軽に調理済み料理が楽しめるレトルト食品だが、もともとは1950年代後半にアメリカ陸軍で研
究開発されたもので、一般向け食品として商品化されたのは1968年に大塚食品が発売したレトルト
カレーの「ボンカレー」が最初であった。女優の松山容子さんがイメージキャラクターに起用され、郊
外の道沿いで大きな宣伝看板をよく見たものである。
レトルトとは高圧釜(レトルト釜)の名前に由来し、気密性の高い袋に食品を詰め、高圧釜の中で
120℃、4分以上加熱殺菌した食品のことである。缶詰と同じように常温で長期間保存することがで
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き、今ではさまざまな料理がレトルト食品として販売されている。
大塚食品は昭和30年(1955年)に設立され、平成14年に大塚化学の子会社になった。オロナ
ミンCやポカリスエットで知られる大塚製薬(→ P104
)を中心とする大塚グループの一員である。
お馴染みのあの食品は
コラム
カレーより古いハヤシライス
カレーといえば、次に連想するのはハヤシである。しかし、「ハヤシもあるでよ」というCM
のように、ハヤシはカレーの脇役というか、常に2番手の存在に甘んじてきた。
そもそも、その存在性格が曖昧なのである。洋食のようでいて洋食らしくなく、カレーのよう
な自己主張もなく、誰もが知っているわりにはよく食べているわけでもない。内容的にはハッシ
ュドビーフを日本化したものであるから、一般に浸透するにはまだ歴史が浅いのではないか、と
考えられがちである。
しかし、とんでもない。ハヤシライスの日本デビューは幕末か明治の初め、考案者は丸善の創
「 友 人 が 訪 問 す る と、 有 的 は 台 所 に 有 合 せ た 肉 類
業者である早矢仕有的 は
( やし・ゆうてき で
)、
や野菜類をゴッタ煮にして、飯を添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハ
ヤシライスといい・・・」と、
『丸善百年史』に書かれているそうだ。
早矢仕有的は福沢諭吉の門下生で、すでに医師として病院経営も行っていたが、諭吉の薦めで
明治2年1月1日に輸入商社丸善を創業した。ご飯とおかずが一皿で済むハヤシライスは丸善で
働く使用人のまかない食として、また有的が経営する病院の入院患者に与える滋養食として食べ
られていたという説もある。たぶん福沢諭吉をはじめとする慶応義塾の人たちも食べていたこと
だろう。ハヤシライスの名前には文明開化の音がするのである。
48
裏庭の発明小屋で生まれた即席麺
いまや世界中で親しまれている即席麺はインスタント食品の代表といえるだろう。それは安藤百福と
いう一人の街の発明家によって昭和33年に発明されたものである。
即席麺 と 日 清 食 品
「食が文化の原点」をモットーとする安藤百福は、戦後の食料難時代に目にした中華そばの屋台に並
ぶ長い人の列が頭から離れずにいた。安くて手軽で温かく、お腹がいっぱいになるだけでなく栄養もあ
る。ラーメンこそ日本の国民食ではないかと考え、大阪府池田市の自宅裏庭に粗末な研究小屋を作って、
家庭で簡単につくることができるラーメンの研究に没頭していた。
一
番苦労したのが、保存方法だった。困り果てていたある日、夕食の天ぷらを揚げているのを見てひ
らめいた。めんを揚げれば天ぷらのコロモと同じようにたくさんの穴ができ、お湯を注ぐと穴からめん
燥させる「瞬間油熱乾燥法」にたどりついた。こうして世界で最初の即席麺が誕生した。
味はチキン味と決めていた。フランスでも中国でもスープの基本はチキンで、あっさりしていてくせ
がなく、みんなに愛される味だからである。昭和33年(1958年)、お湯をかけて3分待つだけの「チ
キンラーメン」が発売された。
49
全体にゆきわたって、もとの状態に戻るのではないか。こうして試行錯誤の結果、めんを油で揚げて乾
お馴染みのあの食品は
安藤はすでに昭和23年(1948年)に中交総社を設立(翌年サンシー殖産に社名変更)していた。
そして10年後の「チキンラーメン」発売とともに社名を現在の日清食品株式会社に改称した。日清と
は、「日々清らかに豊かな味を作る」という思いを込めた命名である。
インスタントラーメンが日本で大成功を収めたのを見て、安藤は海外への進出を考え、昭和41年
(1966年)に欧米へ旅立った。そこで見たのは、野外のカフェテリアでサンドイッチをつまんだり、
ジュースやコーヒーを飲んだりする人々の姿。 そして、アメリカ人のバイヤーにチキンラーメンを紹
介したとき、バイアーは紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、ポットの熱湯を入れてフォークで食
べ始めた。そのとき「インスタントラーメンもフォークで食べられるようにしなければならない」と考
え、新しい包装容器の開発を決意した。
新容器の開発は「いつでも食べたいところで食べる」新機軸のラーメン「カップヌードル」の誕生に
つながった。 5年後の昭和46年(1971年)9月18日、カップヌードルは新宿伊勢丹を皮切りに、
銀座三越、松屋といった百貨店で本格的な販売が始まった。
しかし、カップヌードルを一躍有名にしたのは、翌年2月の連合赤軍浅間山荘事件であった。この人
質立てこもり事件は19日から28日までの10日間、各テレビ局に中継され続け、最後の28日はN
HKが連続9時間の中継を行って累積視聴率は98%を超える大事件であった。そのとき、雪の降る中
で山荘を包囲した3000人の警官達の手元には湯気の立ち上るカップヌードルがあり、テレビに映し
だされたのである。「いつでも食べたいところで食べる」ラーメンを強烈に印象付けることになった。
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日本生まれの乳酸菌飲料
欧米や中央アジアなどの牧畜の盛んなところでは乳製品は重要な日常食で
あり、乳酸菌を使ったヨーグルトなども古くから知られていた。しかし日本
の食文化のなかにそれらが浸透するには相当の時間がかかった。
にもかかわらず、大正には早くも日本独自の乳酸飲料が生まれ、昭和の初
めには日本人の名前がついた乳酸菌が登場している。カルピスとヤクルトで
ある。
日本初の乳酸菌飲料・カルピス
われる貴族の家に世話になった。毎日の食卓にカメに貯めた酸っぱい乳と発酵クリーム出され、いつの
海雲は、カメのなかの白い液体こそ、かつて大帝国を築き上げたモンゴル民族の活力源に違いないと
間にか弱っていた胃腸も回復し、体重も増えて、健康体に戻っていた。
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明治35年(1902年)、25才の三島海雲は、中国大陸に渡って数々の事業を試みた。現在の中
華人民共和国、内モンゴル自治区で長旅の疲れから体調を崩した海雲は、チンギス・ハーンの子孫とい
お馴染みのあの食品は
確信した。のちにその白い液体は酸乳とわかり、牛乳から乳脂肪分を除いた脱脂乳に乳酸菌を加えて発
酵させた独自の「カルピス酸乳」を完成させた。
大正4年(1915年)、中国での事業を手放して帰国した海雲は、大正6年にラクトー株式会社を
創業し、2年後の大正8年7月7日、カルピス酸乳を原料とした日本初の乳酸菌飲料「カルピス」を発
売した 。
カルピスというなんとも不思議な名前は、牛乳に含まれるカルシウムの「カル」とサンスクリット語
に由来する「ピス」の合成だという。英語の「ピス(おしっこ」ではない。仏教での五味の最高位をサ
ルピルマンダ(醍醐味)といい、次位をサルピス(熟酥 じ
= ゅくそ)という。そこで最高の味ならば、
サルピルのピルをとって「カルピル」となるところを、創業者の三島海雲は音楽家の山田耕筰やサンス
クリット語の権威に相談して、語感のいいサルピスのピスをとって「カルピス」としたのである。
大正12年カルピス製造株式会社に商号変更。戦後、カルピス食品工業株式会社をカルピス株式会社
と社名 変 更 し た 。
ところでカルピスの包装紙に描かれた水玉模様は、発売日の7月7日、七夕にちなんで天の川をイメ
ージしたものであり、水玉ではなくて星であり、当初は青地に白の玉だった。後に白地に青に変わって、
水玉となった。「初恋の味」というキャッチフレーズは、大正11年4月の新聞広告で使用したのが始
まりで あ る 。
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人の腸内乳酸菌のヤクルト
乳酸菌飲料のもうひとつの代表はヤクルト。その乳酸菌の名前がヤクルト菌である。
昭和5年(1930年)に医学博士の代田稔が京都帝国大学医学部微生物学教室で人腸乳酸菌の強化
培養に世界で初めて成功し、代田の名前をとって「ラクトバチルス カゼイ シロタ株」と名付けられ、
のちにヤクルト菌と呼ばれるようになった。
すでにロシアのノーベル賞学者メチニコフによってヨーグルトの不老長寿説が発表されており、人腸
乳酸菌「シロタ株」が腸内の悪い菌を退治することを確認した代田は、予防医学の立場からこれを多く
から作られた造語で、
(Jahurto)
に人に摂取してもらいたいと考えた。そこで安くておいしい乳酸菌飲料として商品化し、昭和10年に
「ヤクルト」の販売を開始した。
ヤ ク ル ト の 名 前 は、 エ ス ペ ラ ン ト 語 で ヨ ー グ ル ト を 意 味 す る ヤ フ ル ト
昭和13年に商標登録されている。
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昭和15年には販売専門の「代田保護菌普及会」が各地に誕生し、戦後の昭和30年、株式会社ヤク
ルト本社が設立された。そして本格的な販売を開始するにあたって、「誰もが願う健康を、誰もが手に
入れられるよう、ハガキ1枚、タバコ1本の値段で届けられるヤクルト」というスローガンが提唱された。
お馴染みのあの食品は
統的な調味料である醤油に対してソースは? そして味の素はどのようにし
てできたのか? 料理の脇役である調味料にも興味深い由来が隠されている。
今や、何にでもマヨネーズをかけて食べる人たちが出現するほどポピュラ
ーになったマヨネーズだが、日本にはいつ登場したものだろうか。また、伝
調味料の由来
キユーピーとアヲハタ
日本で初めてマヨネーズが誕生したのは大正14年(1925年)3月のこと。創業者中島董一郎の
営む株式会社中島董商店が製造したキユーピーマヨネーズである。しかしマヨネーズに馴染みのない日
本人は、それを整髪料(ポマード)と間違えて髪に塗ったという。
中島は農商務省(現農林水産省)の海外実業練習生としてアメリカに滞在したとき、おいしく栄養豊
富なマヨネーズと出会い、これを日本で製造販売したいと考えた。そして関東大震災をきっかけに衣食
住の洋風化が進むのを見て、製造を開始したのだった。しかしそのころの日本では、まだ野菜サラダを
食べる習慣はなく、マヨネーズはサケ缶やカニ缶などの魚介類につけて食べられる程度だった。
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中島がマヨネーズにキューピーの名前を付けたのは、アメリカのイラストレーター、ローズ・オニー
ルがローマ神話に登場する愛の神キューピッドをモチーフに発表したイラストがヒントになっている。
この愛らしいイラストが全米で大ヒットし、いろいろな商品のコマーシャルやクリスマスカードにも使
用されていただけでなく、日本でもセルロイドの国産キューピー人形が大流行していた。そこで中島は
お年寄りから子供まで幅広く愛される商品に育てたいという思いからキューピーを商標にしたのだった。
昭和32年(1957年)に社名もキユーピー株式会社に変更した。
中島董一郎はもうひとつの馴染み深い会社の創業者でもある。缶詰のアオハタである。
いろいろな缶詰があるが、フルーツの缶詰ではみかんの缶詰が日本人には馴染み深い。それもそのは
ずで、みかんの缶詰は日本人によって開発され、企業化されたもので、1970年代までは日本の独占
商品として世界各国に輸出されていたものである。
中島が実業練習生として欧米に学んだ際、マヨネーズとともに日本に伝えたいと思ったのがオレンジ
ママレ ー ド だ っ た 。
缶詰事業は原料立地産業だから、広島のみかんを缶詰加工する目的で広島に株式会社旗道園を設立し、
みかんの缶詰とオレンジママレードの生産を始めた。昭和7年(1932年)のことである。アヲハタ
した企業とする意味が込められている。
ブランド名のアヲハタだが、中島がイギリスに滞在していたとき、世界的に有名なケンブリッジ大学
とオックスフォード大学のボートレースをよく見物したが、そのときの両校の校旗が共に青色で印象的
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のブランドでイギリスにみかんの缶詰を紹介し、輸出した。旗道園の名は「青旗」のもとに園芸に立脚
お馴染みのあの食品は
だった。そのBLUE FLAG、すなわちアヲハタをブランド名に付たのである
旗道園は戦時中の企業整備法で解散となり、広島県合同缶詰株式会社に整理統合された。戦後の昭和
23年(1948年)に合同缶詰は解散し、工場がそれぞれに返還されて新しい経営体として再発足す
ることになった。その際、アヲハタ・ブランドを継承し、社名を青旗缶詰株式会社とした。1988年
創立40周年を機に社名をアヲハタ株式会社と改め、原料の産地制約や価格変動をうけやすい缶詰事業
現在もキューピーとアヲハタはグループ企業として共同歩調をとっている。
からマーケット志向型の食品企業への転換を図った。
醤油の由来
醤油の醤は「ひしお」と読み、飛鳥時代の「大宝律令」にも登場するが、その原型は弥生時代から古
墳時代にかけて作られた一種の塩漬け発酵食品だと考えられている。
いっぽう鎌倉時代には、禅僧の覚心が中国(宋)から径山寺味噌(きんざんじみそ)の製造法を持ち
帰り、紀州の湯浅で村人に製法を教えたところ、桶底にたまった液汁が美味しいことを発見した。これ
が溜醤油(たまりしょうゆ)の始まりといわれている。またこの湯浅が日本の醤油産業発祥の地といわ
れてい る 。
しかし醤油産業と言えば千葉県の野田と銚子である。野田にはキッコーマンやキノエネ醤油があり、
銚子ではヤマサとヒゲタが有名だ。江戸時代初期は、紀州の湯浅醤油が近江商人の手で売られていたが、
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江戸の人口増加とともに、原料の大豆や小麦の生産地である常陸や筑波に近く利根川や江戸川の水運の
便に恵まれた野田と銚子で醤油醸造が栄えるようになったのである。
キッコーマンとキノエネ醤油
野田の醤油は、永禄年間(1558~69年)に飯田市郎兵衛が溜醤油を造り始めたのは始まりとさ
れているが、本格的な商業化は寛文元年(1661年)の髙梨兵左衛門からで、18世紀に入って飛躍
的に発展し、多くの醸造家がでた。なかでも髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の勢いは明治に入ってから
ますます盛大となり、明治20年(1887年)に両家が中心となって野田醤油醸造組合を結成した。
そして大正6年(1917年)には、茂木一族と髙梨一族の八家合同による野田醤油株式会社が誕生し、
大正14年(1925年)に野田醤油醸造株式会社、万上味醂株式会社、日本醤油株式会社を合併、そ
の2年後に商標をキッコーマンに統一した。
ところでこのキッコーマンだが、漢字では「亀甲萬」と書き、千葉県の亀甲山香取神宮の山号の「亀
甲」に「亀は万年も生きる」という言い伝えからとった「萬」の字を加えたものである。
キノエネ醤油株式会社は天保元年(1830年)に野田で創業した。社名の由来は十干(甲きのえ・
乙きのと・丙ひのえ・・・)との十二支(子・丑・寅・・・)を組み合わせた60単位の一番最初の甲
子(キノエネ)から取られたもので、「一番」とか「稀にみる」とかの意味が込められている。
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昭和39年にキッコーマン醤油株式会社に社名変更し、昭和55年(1980年)に現在のキッコー
マン株式会社に社名変更した。
お馴染みのあの食品は
ヤマサ と ヒ ゲ タ
飯沼村の豪農・田中玄蕃が銚子で醤油の醸造を始めたのは元和2年(1616年)で、これがヒゲタ
醤油の始まりとされている。創業当時は、田中家の屋号「入山田」をマークにしていたが、元禄(1668
年~1704年)のころマークを書いていたら「田」の字の上端から墨が垂れてヒゲのようになり、他
の端も同じようにしたらおもしろい図案になったので、この「ヒゲ田」をマークにしたと言われている。
ヒゲタ醤油の名前もこのマークに由来している。
また、マーク左上に添えられている「上」の字は、江戸末期に物価高騰を鎮めるために幕府が値下げ
令を発したさい、銚子と野田の7銘柄に値下げ免除の「最上醤油」のお墨付きを与えたのが由来で、ヤ
マサ醤油のマークにも同様の「上」の字が残っている。
ヤマサ醤油を創業した濱口儀兵衛は、紀州湯浅の隣村(現広川町)の出身で、代々、紀州と銚子を行
き来してたが、江戸の発展を見据えて正保2年(1645年)に銚子に渡り、醤油の醸造を始めた。そ
して昭和3年(1923年)に濱口儀兵衛商店からヤマサ醤油株式会社に社名変更した。
ヤマサ印の由来は、浜口儀兵衛が自分の「儀」をとって「入」に「キ」としたかったが、紀州徳川家
の船印と同じ形になってしまうので、「キ」を横に倒しにして「サ」にしたといわれている。
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ソースの由来
醤油とくれば次はソースに触れないわけにはいかない。
ウスターソースの起源は、イギリスのウースター市にすむ主婦がリンゴや野菜の切れ端を捨てずに塩
や酢や香辛料をまぜて壺に貯蔵したところ、自然に発酵しておいしい調味料ができあがり、それを自家
製調味料として売り出したことによるそうだが、日本には明治初期に洋食とともに伝わった。
日本で最初にウスターソースを製造したのはヤマサ醤油の8代浜口儀兵衛で、明治18年(1885
年)に「ミカドソース」の名前で売り出し、「新味醤油」として特許まで得たが、辛すぎて日本人の味
覚に合わず、1年で製造中止となった。
日本人向けのソースは、明治27年に大阪の越後屋産業創業者の布谷徳太郎が「三ツ矢ソース」を製
造し、ソースといわずに「西洋醤油」と名乗った。同社は昭和44年(1966年)に歯車ソース株式
会社と合併して関西食品株式会社となっている。
東京では、明治35年(1902年)に開業した食料品卸商の三澤屋商店が明治38年からソースの
製造販売を開始し、大正末期に商標とマークにブルドックを採用し、大正15年(1926年)にブル
なぜブルドックかは、そのころブルドッグがペットとして人気を集めていたことと、ソース発祥の地
ドックソース食品株式会社となった。
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ブルド ッ ク と オ タ フ ク
お馴染みのあの食品は
昭和15年(1940年)に社名をブルドック食品株式会社に改称したが、戦局の厳しくなった昭和
であるイギリスでブルドッグが国犬として愛されていたためである。
1 9 年、 外 来 語 の 使 用 禁 止 に と も な い 社
、 名を三澤工業株式会社に改称した。終戦直後の昭和20年
12月に社名を再びブルドック食品株式会社に戻し、昭和37年(1962年)に現在の社名であるブ
ルドックソース株式会社に改称した。
大阪にはカラメルを加えた日本独特のソースの伝統があり、ソース焼きそばやお好み焼き、たこ焼き
などに合った専用ソースを次々に送り出している。そのなかでも広島お好み焼きとともに有名なのが広
島のオタフクソースである。
大正11年(1922年)に佐々木清一が創業した酒、醤油類の卸小売業 佐々木商店が前身で、昭
和に入ってからは酢の製造を行うようになり、ソースの製造販売を開始したのは戦後の昭和25年に
なったからです。その2年後の昭和27年に社名をお多福造酢株式会社に変更し、さらに昭和50年
(1975年)にオタフクソース株式会社に社名変更したものである。
「オタフク」の社名は、人生の酸いも甘いも苦いも知り尽くした心の美人に広く愛用されることを願
って付けられたという。つまり、お多福の顔は笑顔を絶やさない(細い目)
、謙虚な姿勢(低い鼻)
、無
駄口を言わず控え目(小さな口)、心身ともに健康(ふくよかな両頬)、賢い(広い額)といった心の美
人を表している。そして調味料は、甘酸塩苦旨の味の五味からなっており、おもに女性(お多福)が使
うもの。また、文字もお多福と縁起がいい。
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化学調味料の元祖・味の素
東京帝国理科大学(現・東京大学)の池田菊苗博士は、妻の買ってきただし用昆布を見て、その成分
の研究を思いたち、昆布の「うま味」の主成分がグルタミン酸であることを発見した。
そしてグルタミン酸をナトリウムで中和すると、さらに「うま味」が強くなることを発見し、この成
分を「味精(みせい)」と命名して、明治41年7月25日に「グルタミン酸塩を主成分とせる調味料
製造法」の特許を取得した。これが後の「味の素」である。
池田博士はこの調味料の製造を、ヨード事業を行っていた鈴木三郎助(味の素初代社長)に依頼して
事業化を図った。当時はアルコールが酒精、サッカリンが甘精、デキスシトリンが糊精と呼ばれていた
ことから、味精という名では薬品を連想させるので、新しい商品名の検討が行われた。候補として「だ
しの元」、「味素」、「鰹の元」、「味の王」などが上げられたが、鰹は不適当だし、「味素」ではミソで語
呂がよくないため、長男の三郎(三代社長・三代三郎助)が、
「味の元」ではどうかと提案した。しか
こうして新調味料「味の素」は明治42年(1909年)に発売された。明治45年、個人事業であ
った「味の素」の製造販売を合資会社鈴木製薬所に移し、同時に合資会社鈴木商店に社名変更した。大
正6年に株式会社鈴木商店を設立し、昭和7年に味の素本舗株式会社鈴木商店に社名変更し、その後も
社名は 鈴 木 食 料 工 業 株
( 、)大日本化学工業 株
( と
) かわり、昭和21年に味の素株式会社となった。
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し「元」は踊りの家元を連想させるとのことから、「元」を「素」とした。
お馴染みのあの食品は
3
ビールと洋酒の物語
飲 酒 の 歴 史 は 人 類 の 文 明 の 歴 史 と 同 じ く ら い 古 く、
世界各地でそれぞれの民族が独特の酒文化を形成して
きた。酒は主にその土地の主要農作物を原料にして作
られるため、それぞれの気候風土が大きく反映されて
いる。
日本はいうまでもなく米文化であり、米から作られ
る日本酒が中心であった。明治維新後に外国人が持ち
込んだビールや洋酒はどのようにして日本に根付いて
いったのだろうか。
62
う問題がある。
違うビールを飲めるようになったが、小規模生産ではコストが高くつくとい
独自なビールを楽しめる。最近は日本でも地ビールが解禁になって、種類の
味も画一的になってしまった。ドイツやベルギーなどでは今でも地方ごとの
ビールは人類の文明の始まりとともに飲まれてきた歴史の古い飲み物であ
り、種類も豊富だったが、日本では早い時期からビール会社の寡占化が進み、
ビールはどのようにして作られてきたか
ビールの歴史
紀元前3500年ごろに人類最初の都市文明を築いた古代メソポタミアのシュメール人は、すでに大
麦や小麦などの穀物から20種類近くのビールを製造していた。それは単に飲み物であるだけでなく、
支払っ て い た と い う 。
紀元前2600年ごろのエジプトでも、ピラミッドの建設にあたった人たちへの給料がビールで支払
われていた。そのために大規模なビール工場も造られ、ビール醸造の様子が壁画に描かれている。古代
63
いわば通貨のような役割もしていたらしい。給料の代わりにビールの配給を受け、税金などもビールで
ビールと洋酒の物語
では文字通り給料がビールに化けてしまっていたわけだ。
その後のメソポタミアでは、紀元前1900年ごろにバビロン王朝が生まれ、ハムラビ王が最古の成
文法として知られるハムラビ法典(前1750年ごろ)を制定したが、そこにもビールに関する記述が
出ている。「酒場の主人がビールを水などで薄めて売ったら、水に投げ込まれる(溺死刑)
」とか、
「酒
場の主人がビールの代金を銀貨で受け取ったら、水に投げ込まれる」とか、
「目には目を」の原則に則
った刑罰が記載されている。ビールは神聖なものと受け止められていたらしく、支払いも現金ではなく、
原料の穀物(大麦)で払うことになっていたようだ。
ギリシャ・ローマ時代にはワインが重宝され、ビールは農民や都市庶民の飲み物として低くみられる
ようになった。中世のヨーロッパでは主に修道院で醸造が続けられ、そこで殺菌法や酵母の培養法など
の醸造技術が生み出されていった。ベルギーを中心とするトラピスト修道院のトラピストビールは有名
である 。
日本の ビ ー ル
日本にはじめてビールが登場したのは、江戸中期の享保9年(1724年)のことであった。鎖国中
の日本と唯一交易を許されていたオランダ使節団が長崎から江戸へ来たときの様子を記録した『和蘭問
答』の中にヒイルという名前で紹介されている。のちに『解体新書』を刊行する杉田玄白などの蘭学者
も、このときビールの味を体験したようだ。
幕末の嘉永6年(1853年)ペリー提督の率いる黒船が来航し、江戸の街は大騒ぎとなったが、船
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上で行われた外交交渉の後に開かれた宴会でビールが出された。浦賀奉行とともに乗り込んだ蘭学者の
川本幸民は、酒好きでも有名で、そのときのビールが忘れられなかったのだろう。さっそく自宅の庭に
炉を築いてビールを試醸し、桂小五郎、大村益次郎らにもふるまったという。川本が明治7年(1874
年)に刊行した『化学新書』のなかに、ビールの醸造法が詳しく書かれている。
明治初年(1868年)にはじめて英国ビールが正式に輸入され、明治4年にはイギリスの他にフラ
ンス、アメリカ、ドイツ産も輸入されるようになった。
明治政府は、進んだ欧米文化を積極的に吸収するために岩倉倶視らの遣欧使節団を送ったが、彼らも
またヨーロッパのビールについて克明に視察していた。
国産ビール第一号は明治3年(1870年)、ドイツ人から醸造技術を学んだアメリカ人ウィリアム・
コープランドが横浜に設立した醸造所「スプリングバレーブルワリー」で造られた。彼は水の乏しい山
手で天沼という池から湧水が出ることを知り、在日外国人向けにビール製造を始めたのだが、外国人は
もとより日本人にも「天沼ビール」として人気を得た。しかし、ビールが多く出回るようになると経営
が悪化して、明治17年には閉鎖に追い込まれた。その工場がのちのキリンビールに引き継がれていく。
造技師を雇って始めたものだが、売れ行きが悪く、明治 年に庄三郎が亡くなってまもなくビール工場
14
ところで、明治のはじめに北海道岩内地方で野生のホップが発見されている。これに目をつけた明治
は閉鎖された。のちにその大阪で、アサヒビールの前身である大阪麦酒会社が生まれる。
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日本人によるビールの製造・販売の最初は、明治5年(1872年)に大阪で発売された「渋谷(し
ぶたに)ビール」であった。大阪商人の渋谷庄三郎が堂島中町にあった土蔵を改造し、アメリカ人の醸
ビールと洋酒の物語
政府は、前述した砂糖と同じように北海道開拓事業のひとつとしてビール製造に乗り出した。
明治9年(1876年)、北海道開拓使はドイツでビール作りを学んできた中川清兵衛を主任技師に
迎えてビール醸造所の建設を開始し、9月に開拓使麦酒醸造所が完成した。そして翌年、
「札幌冷製麦
という中途半端な数字なのはどうしてだろう。
酒」を世に送り出した。このときのマークは、開拓使のシンボルである北極星をデザインしたものであ
ビールの大瓶はどうして633
ところで、ビール大ビンの容量が633
で、それを基準すれば、より大きな容量にも
ml
化されたのである。
戦
争が激化した昭和18年には、ビールが配給制になるとともに、ビールの商標も「麦酒」に
統一された。同時にビール会社の統合・合併やビンの共用化などが進み、容量も633 に統一
対応できるとというわけだ。
分かった。そのときの一番小さいビンが約633
昭
和15年(1940年)にビール税と物品税を一本化した新しい酒税法が制定されたのをき
っかけに、それまで使われてきたビールビンの容量を調べたところ、各社バラバラだったことが
ml
ml
る。これがサッポロビールの発祥となった。
コラム
ml
66
ビールとアサヒビールがかって同一企業だったことさえある。
日本のビール会社は早くから寡占化が進み、その歴史は熾烈なシェア争い
と合従連衡の歴史であった。文字通り泡と消えた企業も数知れず、サッポロ
ビール会社の由来
サッポロビール
明治15年(1882年)に開拓使は廃止され、明治19年に北海道庁が設置されるが、それにとも
なって官営工場の民間払い下げが行われた。麦酒醸造場(醸造所を改称)は、
大倉喜八郎の大倉商会(後
の大成建設→ P183
)に払い下げられた。それを渋沢栄一や浅野総一郎らが翌年12月に譲り受け、札
幌麦酒会社を設立した。これが現在のサッポロビールに至るひとつの流れである。
月には、ドイツから醸造技師を招いて「恵比寿ビール」を発売し、東京の地ビールとして大変な人気を
博した。明治32年には、銀座に恵比寿ビール「ビアホール」(現・銀座ライオン)を開業している。
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もうひとつの流れは、「エビスビール」にある。札幌麦酒会社の設立と同じ明治20年(1887年)
9月、東京では地元の実業家たちが集まって日本麦酒醸造会社を設立していた。3年後の明治23年2
ビールと洋酒の物語
そのころにはビール醸造所が全国各地に生まれていた。しかし、1900年(明治33年)に起こっ
た北清事変(義和団の乱)をきっかけに、明治政府は軍備増強を図るために、清酒にしか課税されてい
なかった酒税をビールにも課税することにした。中小の醸造所は次々に淘汰されて、明治30年代後半
には札幌、日本、大阪(旭ビール)、麒麟麦酒の4大会社が激しい競争を展開するようになった。そし
て明治39年(1906年)、日本麦酒の馬越恭平は札幌、日本、大阪麦酒の3社を合併して、シェア
の7割を独占する大日本麦酒株式会社を発足させた。ここに現在のサッポロビールへ至る太い流れが出
来たのだが、まだサッポロビールの名前は現れない。
大正・昭和と時代が進むにつれてビールの需要も伸び、大日本麦酒は大企業に成長したが、終戦後に
それがあだとなる。昭和24年9月、過度経済力集中排除法の適用を受けて会社は分割されてしまった。
そのとき誕生したのが日本麦酒と朝日麦酒の2社で、「サッポロ」「ヱビス」の商標を継承したのが日本
麦酒であった。しかし、そのブランドを採用せずに心機一転「ニッポンビール」の新ブランドでスター
トした 。
ところが、知名度のない新ブランドは苦戦を強いられ、多くのファンからは「サッポロビール」を懐
かしむ声が上がった。その声に応えるべく、昭和31年にまず発祥の地北海道でサッポロビールを復活
させたところ、好評をもって迎えられ、翌年には全国的に復活販売した。そして次の年には、
「ミュン
ヘン サッポロ ミルウォーキー」のフレーズで知られる大キャンペーンが始まった。
そして、昭和39年(1964)年 月、会社名もサッポロビール株式会社に変更したのである。
昭和46年
(1971
戦前の大日本麦酒の主力ブランドひとつとして人気のあった「ヱビスビール」は、
1
68
コラム
ビール園の赤煉瓦工場
札幌の観光名所となっている「サッポロビール園」は、ジンギスカン食べ放題・生ビール飲み
放題という日本で最初の「キングバイキング」を売り物にした観光ビール園として昭和41年に
オープンした。
園内にある赤レンガの建物は、北海道開拓時代の面影を残すものとして観光客に人気が高いが、
それもそのはず、もともとは北海道の甜菜糖事業の一翼を担っていた札幌製糖株式会社の工場で
あった。それを、同社が解散したあとの明治36年に札幌麦酒会社が買受けたもので、使われて
いるレンガはイギリス製で、1つ1つに番号が打ってあったという。
その後、サッポロビールが麦芽を造る製麦工場として使っていたものを、閉場を機に資料館と
して保存し、同時に観光ビール園のシンボルとしたのである。
69
年)12月に28年ぶりに復活した。これは戦後初めて発売された麦芽100%のプレミアビールである。
ビールと洋酒の物語
アサヒビール
日本人よる国産ビール第一号は明治5年に大阪で生まれた「渋谷ビール」であったが、当初はにごり
も多く、味も品質も輸入ビールには及ばなかった。その大阪で、明治17年、小西儀助の小西屋(現・
コニシ株式会社)が「アサヒ印ビール」の製造を始めている。この商標を買い取ったのが、アサヒビー
ルの前身である大阪麦酒会社だった。
明治22年(1889年)11月、千里丘陵の南端にレンガ造りの洋館が建ち、大阪麦酒会社が発足
した。2年後の明治24年にドイツの最新技術を導入して吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)が
竣工、翌25年5月に「アサヒビール」が発売された。このころは国産ビールの品質も向上して人気が
高まっていた。それまで輸入ビールやワインの空きビンを使って瓶づめしていたが、そのビンが不足す
るようになったため、明治26年には早くも大阪麦酒が他社に先駆けて自社でビールビン製造を始めた。
その年に大阪麦酒株式会社に改組している。
そして、同じ明治26年10月、シカゴ世界博で発売後1年半の「アサヒビール」が最優等賞を受賞
する。さらに明治33年(1900年)のパリ万国博でも「アサヒビール」が最優等賞を受賞。国産ビ
ールが国内だけでなく海外でも高く評価されるようになったのだ。また、同じ33年に日本初のビン入
前述のように大阪麦酒、日本麦酒、札幌麦酒の3社が明治39年に合併して大日本麦酒株式会社とな
り生ビール「アサヒ生ビール」を発売しており、アサヒの生ビールの歴史は1世紀を超えている。
70
った。翌40年に三ツ矢印「平野シャンペンサイダー」を発売し、のちの「三ツ矢サイダー」となる。
三ツ矢サイダーの三ツ矢伝説
「 六甲のおいしい水」
(ハウス食品)という商品もあるように、花崗岩でできた兵庫県の山系は
水が良質なことで知られている。そこで三ツ矢の故事だが、平安中期の武将、源満仲が築城の祈
願に住吉神社を詣でた時のことである。与えられた三ツ矢羽の白羽の矢を天に向けて放ち、その
落ちたところに城を築くのがよい、とのお告げだった。その矢の落ちたところが兵庫県多田村で、
満仲はそこに霊泉を発見する。それが多田村平野 現
( ・兵庫県川西市 の
) 天然鉱泉である。
明治政府は外国要人に提供する良質なミネラルウォーターの調査を行い、この平野の鉱泉に宮
内省が炭酸水の御料工場を建設した。それはやがて民間の手に渡り、明治17年に三ツ矢の故事
にちなんだ「三ツ矢平野水」
、
「三ツ矢タンサン」が一般にも販売されるようになった。
明 治 4 0 年 に 大 日 本 麦 酒 が サ イ ダ ー フ レ ー バ ー エ ッ セ ン ス を 輸 入 し て 三 ツ 矢 印「 平 野 シ ャ ン ペ
ンサイダー」を発売しが、シャンペンという名称は特定地域で生産されたもの以外に使用するこ
と が 禁 止 さ れ た た め、 シ ャ ン ペ ン を 外 し た 三 ツ 矢 サ イ ダ ー の 名 前 が 今 に 続 い て い る。 平 成 8 年
(1996年)にアサヒビールから分離したアサヒ飲料の商品となった。
71
大日本麦酒は昭和24年に分割され、山本為三郎初代社長のもとに朝日麦酒株式会社が設立された。
さらに昭和29年にニッカウヰスキー株式会社 →
に資本参加し、平成元年(1989年)にカ
(
P79)
コラム
タカナのアサヒビール株式会社に社名変更した。
ビールと洋酒の物語
キリンビール
長崎のグラバー邸に名を残すイギリス人Y・B・グラバーは、幕末に坂本竜馬を介して反幕府勢力
に武器を調達したり、伊藤博文や井上馨、森有礼らの留学を援助するなどの活躍をしたが、明治3年
(1870年)にグラバー商会が破産して、長崎から東京に移った。同じ明治3年、米国人W・コープ
ランドが横浜の山手にビール工場のスプリング・バレー・ブルワリーを開設したが、明治17年に閉鎖
した。その翌年、グラバーともう一人のイギリス人J・ドッズは、そのビール工場を岩崎彌之助、渋沢
栄一らの出資を得て再建し、ジャパン・ブルワリー社を設立した。これがキリンビールの前身である。
明治21年(1888年)、ジャパン・ブルワリー社はドイツ風ラガービールを「キリンビール」と
いうブランドで発売した(販売は総合代理店の明治屋)。当時のラベルは朝日をバックにした小さなキ
リンのマークが描かれているだけで、キリンの文字もなく、ビンの肩に「キリンビール」というシール
を貼っていた。翌年6月にキリンビールのラベルが変わり、現在のラベルの原型ができあがった。キリ
ンの顔は、牙があり目がギョロリとしていて、現在のものより怖いが、それだけ「霊獣」のパワーを感
じさせるものとなっていた。
当時のビールのラベルには、猫・山羊・狐・ライオンなどといった動物を使ったものが多かった。ギ
ネス・スタウトが猫、渋谷ビールが犬、盗聴ビールが山羊頭、大阪ライオンビールがライオンなど。麒
麟は古代中国の想像上の動物で、慶事の前に現れる霊獣といわれ、おめでたと幸福のシンボルとされて
72
いる。ジャパン・ブルワリー社は香港に本拠地をおく会社だったことから、動物をトレードマークにす
るなら、中国の伝説の聖獣「麒麟」がふさわしいと考えたようだ。
明治39年に販売を担当する明治屋がわが国最初の宣伝カーを日本各地に巡回させ、キリンビールの
宣伝を行った。この車は、英国で購入したものをビールビンを横にした形に改造し、キリンの商標マー
クを入れたユニークなもので、それでなくても自動車が珍しかった時代だから、大変な話題を呼んだ。
明治40年(1907年)、明治屋、岩崎家、日本郵船などの三菱グループがジャパン・ブルワリー
を買収し、麒麟麦酒株式会社を設立した。麒麟の名前はラベルのキリンからとられたことはいうまでも
ない。
戦後の昭和29年キリンビールが日本のビールでトップシェアを獲得。キリンジュースの発売もこの
年であった。そして昭和38年(1963年)、キリンビバレッジの前身である自動販売サービス株式
73
会社を設立し、キリンレモンのルートセールスを開始した。
ビールと洋酒の物語
ヰスキー」の創業者である。
日本における本格ウイスキーの製造は、鳥井信治郎と竹鶴政孝というふた
りの男の出会いから始まった。それぞれ「サントリー」と「ニッカニッカウ
とんどだった。
当初の国産ウイスキーはアルコールにさまざまな薬品を混ぜて味を付けた
模造洋酒で、製造元も薬品の調合技術もつ薬種問屋(現在の製薬会社)がほ
ウイスキーとワイン
日本の洋酒製造の由来
明治維新で多くの外国人が来日するようになり、それとともにさまざまな洋酒が輸入されるようにな
った。そして早くも明治4年には東京の薬種商の滝口倉吉が国産リキュールを製造している。リキュー
ルとはいってもアルコールに砂糖と香料を加えただけの模造品である。
日本の洋種製造の黎明期に名を残す神谷伝兵衛は、明治6年、17歳のときに横浜のフランス人経営
の洋酒醸造所で働き、葡萄酒のすばらしさに目覚めたが、まず明治13年に浅草で酒の一杯売りをする
74
「みかはや酒店」を開いて独立した。店名は出身の三河国(今の愛知県)から取られたものである。そ
して翌年、輸入葡萄酒にハチミツや漢方薬を加えて独特の甘味葡萄酒をつくることに成功し、蜂印香竄
葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)として製造販売し、
大人気を博した。また、明治26年には「電
気ブランデー」(通称「電気ブラン」)を発売し、明治45年浅草で日本初の洋酒バー「神谷バー」を開
店した。「神谷バー」は現在も営業を続け、「電気ブラン」が名物メニューである。また、蜂印香竄葡萄
酒は「ハチブドー酒」として「電気ブラン」とともに合同酒精株式会社から発売されている。
これらの成功をおさめた伝兵衛は明治27年にフランス・ボルドーへ旅発ち、帰国した明治30年
には気象条件や地質がボルドーに似ている茨城県牛久の原野36万坪を購入して葡萄園をつくり、明治
36年にはフランスの城をモデルにした牛久シャトー(現シャトーカミヤ)を建設した。この城には松
方正義、榎本武揚、板垣退助など、政府要人も数多く訪れたという。
大阪では薬種商の小西儀助が明治17年に「アサヒ印ビール」を製造し、明治21年に大阪洋酒醸造
会社(現在は接着剤「ボンド」のコニシ株式会社)を創立してブランデー・ウイスキー・アルコールな
ど製造 販 売 を 始 め た 。
大阪市住吉区住吉町)の摂津酒精醸造所である。
明治40年にアルコール製造に着手した摂津酒造は、4年後には自社で蒸留したアルコールをもとに、
ブランデー、ウイスキー、甘味葡萄酒などの委託製造を始めた。サントリーの基礎を築いた「赤玉ポー
75
しかし明治の終わりごろには、政府の清酒保護政策による税法上の不利などから衰退し、薬種問屋に
代わって台頭してきたのが国産アルコール蒸留業者であった。
その大手のひとつが大阪府東成郡吉村
(現
ビールと洋酒の物語
トワイン」も摂津酒造の手になるものであり、そこで働いていた技術者が竹鶴政孝であった。
模造洋酒全盛の時代にあって、摂津酒造の阿部喜兵衛社長はいずれ本格ウイスキーの時代が来ること
を予感し、竹鶴政孝を本場スコットランドに派遣してウイスキー醸造技術を学ばせた。こうして日本の
ウイスキー造りの第1歩が始まったのである。
サントリー
明治32年(1899年)に鳥井信治郎が大阪市西区に開業した鳥井商店が発祥である。ぶどう酒の
製 造 販 売 を 営 み、 明 治 4 0 年 に は ヒ ッ ト 商 品 と な っ た 甘 味 ぶ ど う 酒 「 赤 玉 ポ ー ト ワ イ ン 」
(現赤玉スイ
」(鳥井の)という名前から
Tory's
ートワイン)を発売した。この赤玉は太陽を意味し、英語でサン、その下に自分の名前の鳥居(トリイ)
を結びつけて命名したのがサントリーである。ちなみにトリスは「
きてい る 。
明治12年(1879年)、大阪市東区に生まれた鳥井信治郎は13歳で小西儀助の薬種問屋に奉公
した。もともとは漢方薬を扱っていた薬種問屋だが、明治に入ると洋薬の輸入をはじめ、ぶどう酒ブラ
ンデー、ウイスキーなどの洋酒も扱うようになっていた。ここで洋酒の知識を深めた信治郎は20歳の
ときに独立し、前述の鳥井商店を開業した。
ある時、洋酒の輸入商を営むスペイン人セレースと知り合い、本場のポートワインのおいしいさを知
った。さっそく輸入販売してみたが、酸味がきつくて日本人の味覚は合わず、売れ行きが悪かった。そ
76
こでワインに香料と甘味料を調合して、「向獅子印甘味葡萄酒」を明治39年に発売し、同時に屋号を
壽屋洋酒店に変更した。
そして翌年(明治40年)、「向獅子印甘味葡萄酒」に改良を加えた「赤玉ポートワイン」を発売した
ところ、美しい色、適度な甘酸っぱさが加わったそれは日本人の嗜好に合う初めてのワインとして人気
となった。赤玉とはまさに「日の丸」日本のことで、日本のポートワインという自負が込められている。
この売り出しにあたって、信治郎は新聞広告を出したが、販売量の少ないぶどう酒の宣伝に新聞広告
を使うことが異例であっただけでなく、広告には商品名さえ入れず、企業の姿勢を訴えるだけの企業広
告であ っ た 。
さらに大正11年(1922年)には日本最初のヌードポスターを作って世間を騒がせている。赤玉
楽劇団(オペラ団)のス夕-女優松島恵美子にワイングラスを持たせ、肩から胸にかけてのふくよかな
ラインをソフトフォーカスで強調した写真は、今でも鑑賞にたえる芸術性をそなえている。広告のサン
トリーといわれる下地はすでにこのころから出来上がっていたのだ。
当時のぶどう酒は殺菌が十分でなく、生き残っていた酵母が発酵してビンが破裂する事故が各地で相
次いでいた。しかし、「赤玉ポートワイン」だけは破裂せず、その高品質が広く知られることとなった。
「赤玉ポートワイン」で成功した信治郎は、洋酒の王者ウイスキーを作るという夢を実現すべく、大
正10年(1921年)に株式会社寿屋を創立し、ウイスキー蒸留所の建設に乗り出す。しかし、莫大
な費用がかかるだけでなく、本格的なウイスキーはスコットランドでしかできないといわれていたため、
77
この製造を行っていたのは当時の洋酒業界の大手である摂津酒造で、担当技師は若き竹鶴政孝であった。
ビールと洋酒の物語
周囲の大反対にあった。
「 や っ て み な け れ ば わ か ら な い 」 と 信 条 と す る 信 治 郎 は、 イ ギ リ ス か ら 技 師 を 招 こ う と ロ ン ド ン に 問
い合わせした。するとウイスキーの権威であるムーア博士が「わざわざイギリスから人を派遣する必要
はない。日本にはミスター・タケツルという適任者がいる」と答えた。
竹鶴はスコットランドでのウイスキー作りの修行を終えて帰国したところだった。信治郎は竹鶴のこ
とを思い出し、彼の自宅を訪ね、ウイスキー作りを頼んだ。大正12年6月、政孝は寿屋に入社し、ウ
イスキー作りの夢に向けて歩み出す。竹鶴は当初スコットランドに気候風土の似ている北海道での醸造
を推したが、諸般の事情により見送られた。そして交通の便も良く、良質の地下水が確保できる京都・
山崎に工場の建設が決定し、大正13年に完成した。
蒸留を終えた出来たばかりのウイスキーは無色透明に近い。それをシェリー酒用酒樽に詰めて何年も
寝かすことで、琥珀色の芳香をたたえたモルト・ウイスキーに成長する。その間も原料費や人件費など
の出費はかさむ。赤玉ポートワインの儲けをつぎ込んで待ちに待った昭和4年(1929年)
、最初の
製品の出荷された。このとき初めてサントリーの名が付けられ、「サントリーウイスキー白札」
(昭和
39年に「サントリーホワイト」に名称変更)が登場した。ジャパン・ウイスキーの誕生した瞬間である。
昭和12年に高級ウイスキー「角瓶」を発売。ダルマの愛称で親しまれているサントリーオールドは、
昭和15年に製造が発表されたが、戦時中のため発売を延期。戦後のウイスキー発売は昭和21年のト
リスウイスキーにはじまり、発売が見合わされていたオールドは昭和25年に発売された。昭和35年
には創業60周年記念製品「サントリーローヤル」を発売し、
これが初代マスターブレンダーとして数々
78
の国産ウイスキーを世に送り出してきた信治郎の最後の作品となった。
ローヤルという名前は、その中味(レシピ)がもともとは皇室に献上したロイヤルファミリー専用の
特製ウイスキーだったことから付けられている。ビンの形は、酒の壷から来た象形文字である酉という
漢字の形をデザインしたもので、鳥井の名前にかけたものでもある。ついでにキャップの形もお宮の鳥
居の形をしており、鳥井信治郎の夢がこの作品で完成をみたという自信が表れている。
昭和38年(1963年)にサントリービールが発売され、同時に社名を寿屋から現在のサントリー
株式会 社 に 改 め た 。
ニッカウヰスキー
創業者竹鶴政孝は、寿屋(現・サントリー)で日本初の本格的国産ウイスキー生み出した人であり、
日
「 本のウイスキーの父 と
」 呼ばれている。
竹鶴は明治27年、270年の伝統を持つ広島の造り酒屋・ 竹鶴酒造の3男に生まれ、家業を継ぐ
ために大阪高工(現・大阪大学)で醸造を学んだ。しかし、日本酒よりも洋酒のほうに興味を持ち始め、
トワイン」で技術を認められたことは前述した通りである。
当時の洋酒は葡萄酒にしてもウイスキーにしても、中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素な
どを加えたイミテーションが主流であった。しかし竹鶴はより本物のウイスキーを求めた。社長の阿部
79
大正5年卒業を待たずに当時の日本の洋酒業界の大手である摂津酒造に入社した。担当した「赤玉ポー
ビールと洋酒の物語
喜兵衛も、いつまでもイミテーションが通用するとは考えていなかった。
第一次世界大戦でアルコールの輸入が途絶えた日本では、アルコール蒸留やや各種洋酒の製造販売が
好調で、摂津酒造も会社始まって以来の黄金時代を迎えていた。この機会に本場の技術を学び、国産ウ
イスキー製造の足がかりを作ろうと考えた阿部社長は、竹鶴にスコットランドへの留学を勧めた。竹鶴
にとっては願ってもないことだった。
カリフォルニアのワイナリーを見学してからアメリカを横断し、イギリスへ向かう予定であった。スコ
家 業 を 継 ぐ こ と を 期 待 さ れ て い た 竹 鶴 は、 社 長 と ふ た り が か り で 実 家 の 両 親 を 説 得 し、 大 正 7 年
( 1 9 1 8 年 ) 6 月、 神 戸 港 か ら ア メ リ カ へ 向 か っ た。 ま だ ヨ ー ロ ッ パ は 第 一 次 大 戦 の さ な か で あ り、
ットランドのグラスゴーに到着した竹鶴は、王立工科大学に入学し、講義に出席するかたわらJ・A・
ネトルトン著「ウイスキー並び酒精製造法」を独学で学んだ。それだけでは足りず、ハイランド地方の
蒸留所でモルトウイスキーの製造を実習し、エディンバラのグレーン・ウイスキー工場で蒸留器の操作
方法を学ぶなど、 年間に渡ってスコッチウイスキーの製法を研究した。
翌年11月、ウイスキー作りの夢を膨らませた竹鶴と新妻リタが帰国してみると、日本はそれまでと
る。
ースで有名なマッキー社の主要工場であるへーゼルバーン蒸留所で留学の最後の仕上げをするためであ
リタ24歳であった。結婚後ふたりはグラスゴーを離れ、キャンベルタウンに向かった。ホワイト・ホ
その間に、子どもの柔道の指導を依頼されて訪れたグラスゴー郊外のカウン家で、長女のリタと知り
合い、大正9年(1920年)年早春、両親の反対を押し切って登記所結婚を挙げた。竹鶴政孝26歳、
4
80
大きく変わっていた。第一次大戦後の恐慌に見舞われ、摂津酒造の本格ウイスキー製造計画は棚上げに
されていた。同社に戻った竹鶴は何度もウイスキー作りを嘆願したが許可されず、大正11年(1922
年)に退社した。竹鶴は中学の教師となり、リタも英語を教えるなどして浪人生活を送ることになった。
翌年の6月、寿屋の鳥井信治郎が訪れ、ウイスキー製造の指揮を竹鶴に依頼した。鳥井はウイスキ
ー作りのすべてを任すと約束したが、北海道の余市に工場を造りたいという竹鶴の希望は通らなかった。
山崎工場でのウイスキー作りが起動に乗ったことを見極めた竹鶴は、昭和9年3月、自分の理想を実現
するために10年勤めた寿屋を退社した。
ウイスキー作りには、水、空気、気温、湿度、ピート(草炭)などの複雑な条件が絡み合い、スコッ
トランド以外ではスコッチ・ウイスキーの味が出せないといわれている。余市は気候・風土がスコット
ランドに似ているだけでなく、ビート(草炭)もあり、ビートの層から流れ出る水、ウイスキーを樽で
熟成させるための適度な湿度もあった。竹鶴の理想をかなえるものであった。
余市駅のすぐ前にある古い石門を入ると、庭園に赤い屋根と石造りの倉庫や建物群が点在する独特の
雰囲気に圧倒される。昭和9年(1934年)に竹鶴がスコットランドの古城をイメージして建てたニ
10月に工場が完成すると、竹鶴は大日本果汁株式会社の看板を掲げた。ウイスキーは長期間の貯蔵
による熟成が必要なため、ウイスキーの仕込みのかたわら、余市の特産物であるリンゴジュースなどの
日
「 と
」
果
「 を
」 とったもので、創業から6年後の昭和15年に第1号ウイスキー「ニッカ角
製造販売を行っていこうということで、社名も大日本果汁となったのである。ニッカの名前はこの大日
本果汁 の
81
ッカウヰスキー北海道原酒工場である。
ビールと洋酒の物語
瓶」が発売されたときのブランド名として命名された。昭和27年(1952年)
、ブランド名を社名
としたニッカウヰスキー株式会社へ社名変更した。
ウイスキーが日本人の生活の中に浸透していったのは戦後のことである。昭和24年に酒類の配給制
度が廃止されて自由に販売できるようになり、さらに昭和28年ごろから朝鮮戦争の特需景気で日本経
済が立ち直り始めるとともに、最初のウイスキー・ブームが起こった。
た「トリスを飲んで、ハワイに行こう」というキャッチフレーズが流行り、全国に「トリスバー」が生
「トリス」(サントリー)と
昭和30年から33年までのピークは、第1次ウイスキー戦争と呼ばれ、
「オーシャン」(現・メルシャン)との低価格ウイスキー(3級ウイスキー)戦争である。開高健の作っ
まれ、オーシャンも対抗してチェーン店を展開した。
しかしニッカは、当初はこの戦いに加わらなかった。昭和28年の酒税法改正で、従来の3級が2級
に、2級が1級に、1級が特級に変更されるとともに、ニッカは2級ウイスキーに参入し、少しずつ先
行2社との差を詰めていった。そして昭和34年にオーシャンを抜いて業界2位となり、ここからサン
トリー対ニッカの第2次ウイスキー戦争が始まるのである。
82
ビールと洋酒の物語
コラム
ニッカとポッカ
缶入りコーヒー飲料の「ポッカコーヒー」で馴染みの株式会社ポッカコーポレーションは、前
身がポッカレモン株式会社で、レモン飲料の「ポッカレモン」が主力商品であった。
そもそもは昭和32(1957年)年に名古屋で誕生したレモン飲料の製造販売会社ニッカレ
モン株式会社であった。とはいっても、ニッカウヰスキーとの直接的な資本関係はない。そのこ
ろ全国に展開していたニッカウヰスキーの「ニッカバー」に対して、カクテル用に使うレモン飲
ところで、
「ニッカーボッカー」という言葉がある。乗馬ズボンのような膝下までのズボンで、
料を製造販売していたからである。 と
ころがこのレモン飲料がヒットして、ニッカバー以外の
さまざまなところで取り扱うようになったため、社名を変更することになった。
登山用に使われているが、
当時はゴルフウエアーとして流行していた。 こ
の「ニッカーボッカー」
に触発されて、
「今までがニッカなら、これからはボッカだ」となった。ただし、「ボ」の響きは
社名の頭に濁音がきて印象が良くないからと、
響きもよくて音に勢いのある「ポ」に変え、「ポッカ」
となった。そのポッカレモンは現在に続くロングセラーである。
そ
して昭和41年(1966年)にポッカレモン株式会社に社名変更した。昭和47年には缶
入りコーヒー飲料の「ポッカコーヒー」を送り出し、レモン飲料以外の分野が広がっていったため、
昭和57年(1982年)に株式会社ポッカコーポレーションに社名変更した。
83
オーシャンとメルシャン
メルシャンは日本のワインを代表するトップブランドである。その前身は合成酒で有名だった三楽だ
が、もともとは味の素を作る過程でできる小麦澱粉を使ってアルコールを作るために、味の素の一事業
部として昭和9年(1934年)に創立された昭和酒造という会社であった。
昭和12年に合成清酒「三楽」を発売し、戦時中に昭和農産化工株式会社に社名変更したが、戦後の
昭和21年に焼酎「三楽」を発売し、昭和24年にブランド名を冠した三楽酒造株式会社に社名を変えた。
合成酒の三楽は戦中戦後の一時期、灘の清酒全体の消費量を上回るほどの人気を得たが、日本が豊か
になるとともに消えていく運命にあった。そこで洋酒部門への進出を考え、まず昭和36年(1961
年)に日清醸造を吸収合併して「メルシャン」ブランドを傘下に収め、さらに翌年オーシャン株式会社
を吸収合併して「オーシャン」ブランドを手に入れた。そして同時に社名を三楽オーシャン株式会社に
改称し、昭和60年(1985年)に社名を三楽株式会社に改称した。そしてメルシャン・ブランドの
ワインがブームとなり、平成2年(1990年)にCIを導入して現在のメルシャン株式会社に社名変
更した 。
山梨県東八代郡祝村(現・勝沼)で大日本山梨葡萄酒会社が日本初のワイナリーとしてスタートした
オーシャン・ブランドの源流は明治10年(1877年)に設立された日本最古のワイン会社大日本
山梨葡萄酒会社にまでさかのぼることができる。
84
明治10年、この会社から土屋竜憲と高野正誠の二人の青年がパリ万博日本館事務局次長の前田正名と
共にフランスに渡った。彼らは、シャンパーニュ地方・トロワ市などでぶどう栽培、ワインの醸造、貯
蔵、熟成など学び、2年後の明治12年に帰国する。
帰国後の彼らが製造したワインは本格的国産ワインとして一時的な人気を得たが、品質が安定せず、
不況などの悪条件も重なって、明治19年(1886年)に廃業した。彼らの友人であり、また同社の
設立発起人の息子である宮崎光太郎は、醸造器具などを買い取ってワイン醸造を再開し、明治21年に
甲斐産商店の屋号で「大黒天印甲斐産葡萄酒」を発売した。そして明治25年(1892年)大黒葡萄
酒株式会社を設立する。
この大黒葡萄酒株式会社が、昭和13年(1938年)軽井沢にウイスキー蒸留所を建設し、終戦を
待って昭和21年に発売したのが「オーシャン・ホワイト」であり、社名もオーシャン株式会社に変更
した。オーシャンブランドは第1次ウイスキーブームの立役者となった。
85
また、ワインのブランドであるメルシャンは、ワインに着目した製油業界大手の日清製油株式会社が、
昭和24年に日清醸造株式会社を作ってテーブル・ワインの醸造を始めたのが由来である。メルシャン
とはフランス語の感謝を表す言葉「メルシー」からとったものである。
ビールと洋酒の物語
4
薬品と化粧品の由来
日本では長く漢方薬の時代が続いたが、江戸時代に
は長崎・出島で交流を続けてきたオランダ(和蘭)か
ら西洋医学が伝わり、蘭学が発展した。これらの薬を
扱う商人は薬種問屋を営み、明治以降は化学薬品の調
合技術を活かして薬品以外にも、写真材料(小西六・
現コニカミノルタ)や洋酒(サントリー)
、食品(ハ
ウス食品)
、化粧品(資生堂) など、さまざまな会社
が生まれた。
86
製薬会社へと発展していった。
祥としている。明治の開国以後は、西洋の医薬品を扱う貿易商が東京で生まれ、
を置く武田薬品、塩野義製薬、藤沢薬品、田辺製薬は道修町の薬種仲買商を発
大阪・道修町は谷崎潤一郎の名作「春琴抄」の舞台になった街で、江戸時代
は薬種中買商の街として知られている。現在の製薬会社大手のうち大阪に本社
日本の薬品事情
道修町の御三家
寛永年中(1624~44)に幕府は唐薬を扱っていた有力な業者を道修町に移し集め、薬種仲買仲
間(薬種取扱専門業者)を形成した。唐薬種が中国船やオランダ船で長崎に入ると、それを道修町の薬
「塩野義三郎」(現・
なかでも「田邊五兵衛」(現・田辺製薬)、「武田長兵衛」(現・武田薬品工業)、
塩野義製薬)の三者は「道修町の御三家」といわれ、古いのれんと繁栄を誇っている。また新興の藤沢
薬品も含めて4社とも従来の和漢薬から洋薬へ転換し、さらに自社工場を建設して製薬業に乗り出し、
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種仲買商が一手に買いつけ、検査をし適正価格を定めたのちに全国の薬種問屋へ供給していたのである。
薬品と化粧品の由来
同じころに個人商店と製薬工場を合併して株式会社に改組、さらに昭和18年には4社ともそろって現
社名に社名変更を行っている。また、現在は4社とも通称をカタカナ表記にしているところも共通して
いる。
タナベ
慶長9年(1604年)、田邊屋又左衛門は徳永家康より渡航朱印状を下付され、朱印船による東南
アジアとの貿易で巨万の富を築き、大阪でも名だたる豪商となった。彼は当時の貴重品であった薬材の
輸入にも熱心であった。
現在の大阪市北区土佐堀1丁目と中之島4丁目を結ぶ土佐堀川に安常(じょうあん)橋という名の橋
があるが、この橋はもとは田邊屋橋といい、又左衛門の私財によって作られたものである。
しかし寛永8年(1931年)から寛永16年にかけての度重なる鎖国令の発布と鎖国の完成は、貿
易で財をなした豪商たちに壊滅的な打撃を与えた。田邊屋もまた例外ではなかった。
それまでのポルトガル船の来航が止まれば、国内の輸入品が品薄となり、値上りするだろうとの見込
みで、豪商たちは大量の輸入品買い付けを行ったのだが、その狙いが外れたからである。ポルトガル船
の代わりをオランダ船がつとめたため、品薄にはならず、逆に輸入品の値下りが続いたのである。
寛文10年(1670)、田邊屋五兵衛が分家し、唐和薬の原料を仕入れて合薬(あいぐすり…各種
の生薬を配合した売薬)の製造を試みた。8年後の延宝6年、
服用の処方生薬を小袋に入れた振出薬「た
なべや薬」の製造・販売を看板に大阪土佐堀で創業。店の略称は「田五(たなご)
」といった。
88
田邊屋五兵衛家は順調に商域をひろげていったが、鎖国の終了以降は道修町の株仲間の特権が崩壊し、
横浜や神戸から輸入される洋薬を扱う新規参入者が増えていった。老舗の薬種問屋もこれまで通り和漢
薬一筋でいくか、洋薬へ切り替えるかの二者択一を迫られた。
明治4年(1871年)に12代五兵衛を継いだ田邊屋五兵衛は、その年の戸籍法制定で「田邊」姓
を名乗り、「田邊五兵衛商店」を洋薬の世界へ進出させ、後の田辺製薬の土台を築いた。
昭和8年(1933年)、個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組し、昭和18年、社名を現在
の田邊製薬株式会社と改称した。
東京田 辺
洋薬の製造に進出した田邊五兵衛は、明治12年10月にエーテル製造中の製薬場が爆発して弟の元
三郎を亡くした。同年8月に生まれたばかりの次子・武次郎に弟の名前「元三郎」を襲名させた。この
元三郎が分家して、明治34年(1901年)に東京日本橋本町で薬種問屋田辺元三郎商店を創業した
のが東京田辺の始まりである。
年(1943年)に東京田辺製薬株式会社に社名変更した。そして 平成11年(1991年)に三菱
化学株式会社と合併して三菱東京製薬株式会社となり、さらに吉富製薬とミドリ十字が合併してできた
ウェルファイド株式会社と合併して平成13年10月に三菱ウェルファーマ株式会社となった。
89
株式会社田辺元三郎商店に改組し、
スポーツマッサージ薬「サロメチール」
大正10年(1921年)、
を発売。昭和11年(1931年)には日本初のビタミンC製剤「アスコルチン」を発売し、昭和18
薬品と化粧品の由来
タケダ
武田家の祖、初代の近江屋長兵衛は、寛延3年(1750)に生まれ、幼名を長三郎といった。14
歳で大阪・道修町の薬種中買商、近江屋喜助方へ丁稚奉公にあがり、安永2年(1773)
、番頭とな
って長兵衛と改名した。中買の譲り株を受けた長兵衛は天明元年(1781)に独立して、道修町で和
漢薬の薬種仲買商を創業した。
明治4年(1871年)の戸籍法制定で武田に改姓した4代目長兵衛は、同業者に先んじて洋薬に着
目し、親近の同業者らと共同で横浜に洋薬の仕入れ組合をつくって外国商館との取引を始めた。明治
28年(1895年)に専属工場として内林製作所を設立し、塩酸キニーネなどの製造を開始。その後、
洋薬の直輸入を始めて、明治40年(1907年)にはドイツ・バイエル社製品の一手販売権を得た。
またその年には日本で始めて合成甘味料サッカリンの製造に成功している。
大正14年(1925年)に改組して株式会社武田長兵衛商店を設立。昭和18年(1943年)に
社名を現在の武田薬品工業株式会社に変更した。
戦後はペニシリンなどの製造を始め、昭和27年(1952年)に発売したビタミンB1誘導体製剤
「アリナミン」が大ヒットした。
シオノ ギ
道修町には「田邊屋」と同じように古いのれんを誇る「塩野屋」があった。大百姓の三男坊に生まれ
90
た吉兵衛は、寛政元年(1789)、12歳で薬種商の塩野屋藤兵衛のもとに奉公し、
文化5年(1818)
に別家を許されて「塩野屋吉兵衛」として独立した。
2代目吉兵衛が家業を大きく発展させたが、その3男に生まれたのが義三郎である。
明治3年、長男・豊太郎が「塩野屋吉兵衛」を継ぎ、義三郎は、明治7年に分家した。そして明治
11年(1878年)、初代塩野義三郎は道修町にて薬種問屋塩野義三郎商店を創業し、和漢薬を販売
を始め た 。
明治19年には取扱品を洋薬に転換し、明治43年に塩野製薬所を建設して製薬業に乗り出した。大
正8年(1919年)に塩野義三郎商店と塩野製薬所を合併して株式会社塩野義商店に組織変更し、昭
和18年(1943年)に塩野義製薬株式会社へ社名変更した。
フジサ ワ
明治27年(1894年)、初代藤澤友吉が大阪・道修町に藤澤商店を創業した。3年後の「藤澤樟
脳」の発売を機に一躍「藤澤」の名が日本中に広がり、1900年代に事業の拡大を行い、明治38年
(1905年)に天六工場を建設、大正7年(1918年)にニューヨーク出張所を開設した。
内製薬と合併してアステラス製薬株式会社となった。新社名は星を意味する「ステラ」と「明日を照ら
す」をかけたものである。
91
昭和5年(1930年)に改組して株式会社藤澤友吉商店を設立し、当時の最先端の設備を誇る加島
工場(現在の大阪工場)が竣工。昭和18年に藤沢薬品工業株式会社に社名変更し、平成一七年に山之
薬品と化粧品の由来
東京の輸入薬商
伝統的な薬種問屋から始まった大阪の製薬会社に対して、東京の製薬会社は西欧の優れた医薬品の輸
入販売から始まったといえる。その代表格が三共と中外製薬である。
三共
明治30年(1897年)、父親の援助で横浜刺繍株式会社を設立し、事業家としての第一歩を踏み
出した塩原又策はまだ20歳の青年であった。その年、塩原は渡米する友人の西村庄太郎に、日本で事
業化できそうな商品を探してくるように依頼した。
西村はシカゴで日本領事館のディナーに招待されたとき、領事から「本日は在米中の日本人科学者・
高峰譲吉博士の消化酵素剤タカヂアスターゼを用意している」と聞き、すごい薬があると知った。タカ
ヂアスターゼは明治27年(1894年)に高峯譲吉が麹菌から発見した消化酵素で、アメリカで特許
をとり、当時世界1の製薬会社といわれたパーク・デービス社が独占販売契約を結んでいた。西村はニ
ューヨークへ直行して高峰博士に会い、タカヂアスターゼの日本国内での販売を働きかけた。
このタカヂアスターゼの輸入販売のために、明治32年、塩原と西村は共通の友人である福井源次郎
を加え、3名の共同出資による匿名合資会社を設立した。名前は3人の共同出資にちなんで三共商店と
付けられた。タカヂアスターゼは驚異的な売り上げをみせ、その後の発展の土台を築くとともに、高峯
92
譲吉との結びつきを強めることとなった。
明治33年に高峯譲吉は世界で初めて副腎の有効成分アドレナリン結晶の抽出に成功し、その止血作
用と血圧上昇作用は「アドレナリン無き治療は無し」とまでいわれる評価を得ていた。明治35年に三
共商会は高峯との一手販売契約を結び、日本での商標「アドリナリン」の独占販売に加え、パーク・デ
ービス社の日本総代理店となった。これを機に、新薬の輸入販売業者として大きく発展していく。
塩原と高峯の結びつきはさらに深まり、三共商店が大正2年(1913年)に株式会社化する際に、
高峯は財界の実力者である渋沢栄一や増田孝らの協力を得、さらに北里柴三郎や鈴木梅太郎などの著名
学者を株主に迎えるなど、大きな働きをした。社名を三共株式会社」とし、初代社長に高峯が就任した。
翌大正3年にはパーク・デービス社からの輸入を国産に切り替えるため、高峰の助手・上中啓三を監督
として自社の生産工場を品川に建設した。
またこの年、理化学振興のための国民科学研究所の必要性を提唱していた高峰は「化学研究所設立
の請願」を議会に提出し、大正6年(1917年)渋沢栄一を設立者総代とする財団法人理化学研究所
(→ P240
)が設立された。理研の略称で知られる同研究所は、日本最大の基礎科学研究組織として湯
川秀樹、朝永振一郎、福井謙一、長岡半太郎、鈴木梅太郎などの優れた研究者を生み、その研究成果は
創業者の上野十蔵は、大正12年の関東大震災で多くの悲惨な負傷者の姿を目にし、人の生命と健康
中外製 薬
93
産業化されて多くの会社を生み出した。
薬品と化粧品の由来
に深くかかわる仕事に携わるという天啓を受けた。
彼は大正14年(1925年)に東京本郷で中外新薬商会の名で医薬品の輸入商を始めた。巨大な資
本のいる製薬業と違って、輸入商なら小資本で始めることができたからである。輸入先はドイツのドレ
スデンにあった有名な製薬会社ゲーヘ社であった。しかし、やがては自社の医薬品を海外に輸出するよ
うになりたいとの思いから、社名に中外と付けたのである。
昭和17年の「企業整備令」で企業も軍需中心に再整備の対象とされ、多くの企業が合併・統合して
社名を変えた。製薬企業も「商店」「商会」から「薬品工業」「製薬」などの社名に変更するものが多か
った。そこで昭和18年、株式会社化するとともに、商号を中外製薬株式会社と変更した。
戦後の昭和27年に発売したバルサンは、ドイツで発売されていた殺虫有効成分リンデンを使用した
クン煙殺虫剤「バルガサン」をヒントに、日本で初めてリンデンを家庭用蒸散殺虫剤として開発したも
のである。名前は「バガルサン」から「ガ(蛾)」を取ってバルサンとなった。
また、グルクロン酸の工業化に成功して保健薬「グロンサン錠」を発売し、その大ヒットによって昭
和34年には売上規模で業界4位となった。勢いにのって昭和37年に「グロンサン・バーモント」を
発売、1年後にこれを短く「グロモント」に改名、さらに昭和40年に処方改良品「新グロモント」を
発売した。ところでバーモントは、バーモントカレーと同じようにリンゴと蜂蜜に関係している。アメ
リカのバーモント州には長寿の人が多く、その秘密は蜂蜜とリンゴ酢を水に薄めて飲む伝統的な習慣に
あるということで、それを「バーモント療法」と呼んだ。グロモントは「グロンサン」とバーモント療
法のハチミツ・リンゴ酢及びビタミン等を処方したドリンク剤である。
94
薬品と化粧品の由来
コラム
杏林伝説
昔、中国に董奉(とうほう)という神仙がいて、人びとの病気を治してあげていた。貧しい患
者からお金を取ることはなく、かわりに礼として杏の木を植えさせた。彼をたよって多くの患者
が集まり、数年で立派な杏の林ができたという。そこで彼は、自ら董仙(とうせん)杏林と号した。
この故事から、杏林は医者の異称となったのである。
この「杏林伝説」から社名を取った会社が杏林製薬である。杏林製薬は大正12年(1923年)
に創業した東洋新薬社を発祥とし、昭和6年(1931年)に杏林化学研究所を設立、昭和15
年に杏林製薬に改称したものである
95
たという。
日本にはじめて石鹸が渡来したのは、天文年間のポルトガル人渡航以後の
ことで、「シャボン」は医薬目的で蘭医家の秘伝として製造されただけだっ
石鹸と化粧品
花王と石鹸の歴史
明治6年に横浜の堤礒右衛門による堤石鹸工場が創設されて以降、日本の石鹸業は年々拡大し、輸出
も行われるようになっていったが、品質は中国市場でシャットアウトされるほど粗悪なものだった。
ところで、石鹸といえば花王である。明治23年(1890年)10月に国産ブランド石鹸として桐
箱三個入り三十五銭の花王石鹸が発売された。そのときすでにお馴染みの月のマークも登場している。
」 日本橋馬喰町に創業し、アメリ
明治20年に長瀬富郎は花王の前身である洋小間物商「長瀬商店 を
カ製の化粧石鹸を中心に国産石鹸や輸入文房具などを販売していた。そして、舶来ブランド石鹸に負け
ない、国産優良のブランド石鹸を創製しようと考えた。
96
製造面では石鹸職人村田亀太郎の協力を得、香料や色素調合に関しては薬剤師瀬戸末吉の協力を得た。
長瀬自身も科学知識を習得し、薬剤の調合技術をほぼ完全に吸収するなど、寸暇をおしんで石鹸の創製
に取り組んだ。そして明治23年に花王石鹸が国産優良化粧石鹸として発売される。
このとき花王と命名したのは、当時「顔洗い」と呼ばれていた化粧石鹸の高級な品質を訴求するため
に、発音が「顔」に通じるということからであった。つまり、顔も洗える高品質ということと、美しさ
の象徴としての花をかけ合わせた命名である。同時に美と清浄のシンボルとして「月のマーク」が使わ
れ、それは形を変えながら今でも同社のマークとして受け継がれている。
ところで、花の王といえば日本では桜であるが、包装紙の模様は桜ではなくボタンがあしらわれてい
た。それは、日本に留まらず東洋第一の石鹸という意図からである。
大正14年(1925年)ブランド名を冠した花王石鹸株式会社長瀬商会が設立され、戦後の昭和
21年 、
株式会社花王に改称。さらに昭和29年に花王石鹸株式会社となったのち、昭和60年(1985
年)に現在の花王株式会社に社名変更した。
資生堂の名は、中国の古典『易経』のなかの一節「至哉坤元 万物資生」
(大地の徳はなんと素晴ら
海 軍 病 院 の 薬 局 長 で あ っ た 福 原 有 信 は 日 本 に は な い 医 薬 分 業 シ ス テ ム の 実 践 を 志 し、 明 治 5 年
(1872年)、漢方薬が主流の時代にあって日本初の洋風調剤薬局として資生堂を東京銀座に創業した。
97
資生堂
薬品と化粧品の由来
しいものであろうか。すべてのものは、ここから生まれる)に由来する。西洋薬学に基づく新事業を興
すにあたり、東洋哲学から命名するというのは、明治時代らしい「和魂洋才」の精神の表れだろう。
資生堂の最初のヒット商品は明治21年(1888年)に発売した日本初の煉歯磨「福原衛生歯磨石
鹸」であった。日本にはそれまで石灰岩の粉末に香料を入れただけの粉歯磨しかなく、かえって歯を傷
めるようなものだった。歯磨石鹸は歯磨を固形石鹸状に煉り固めたもので、石鹸分を多く含んでいたた
め、歯石を溶解するうえ、滑らかで使用感も良好だった。粉歯磨が1袋2~3銭の時代に、歯磨石鹸は
陶器の容器に入って、25銭と高価であったにも関わらずよく売れた。
化粧品事業への進出は明治30年(1897年)に発売した化粧水「オイデルミン」から始まった。
オイデルミンの名前は、ギリシャ語の オ
「 イ・eu (」良い)と「デルマ・derma」 皮
(膚 か
) ら
命名された。薬品とおなじように科学的な商品開発をめざし、東京帝国大学教授・長井長義博士に処方
を依頼して作った西洋薬学に基づく化粧水であった。中身は赤ワインを思わせる鮮やかな色をしており、
「資生堂の赤い水」の愛称で親しまれた。現在も販売されている超ロングセラー商品である。
資生堂パーラーの起源は、明治35年に銀座の資生堂薬局内に開設した「ソーダ・ファウンテン」で、
日本初のソーダ水や当時はまだ珍しかったアイスクリ-ムを製造販売して評判になった。これは福原有
信が、明治33年の欧米視察旅行の際に米国で見たドラッグストアにヒントを得て、ソーダ水製造機を
はじめ、シロップやコップ、スプーン、ストローまで米国から取り寄せ、徹底して本物にこだわって作
ったも の で あ る 。
福原有信の三男として生まれた福原信三は、米国留学から帰国後の大正4年、資生堂薬局を継ぐとと
98
もに、事業の中心を化粧品に移した。そのとき花椿マークが誕生した。
当時の商品の中では、「香油 花椿」
(髪油)が最も人気があり、資生堂といえば「花椿」が連想されるほどであったことから、写真家でも
99
あった信三がその原型をデザインしたものである。
大正5年の花椿マーク
現在の花椿マーク
翌大正5年に信三は意匠部(現・宣伝部)を設立した。花椿マークは意匠部員の手が加わりながら、
大正7年には、ほぼ現在の形に近いマークが完成している。
薬品と化粧品の由来
軟膏と体温計
いかにも日本的なイメージのある軟膏薬だが、メンソレータムもオロナイン
も外国製品に由来している。では、メンタームとは何か? また、丸薬の仁丹
と体温計にはどんな関係があったのか。
メンソレータムとメンターム
、発売元はロ
可愛い少女看護婦「リトルナース」のイラストでお馴染みの軟膏薬「メンソレータム」
ート製薬株式会社とある。いっぽう、よく似た名前の「メンターム」、こちらの発売元は株式会社近江
兄弟社 で あ る 。
(1920
実はこれ、もともとは近江兄弟社がアメリカのメンソレータム社から販売権を得て大正9年
年)に販売し、有名になったものである。
ところが昭和49年(1974年)に近江兄弟社が倒産の危機におちいり、メンソレータム社の販売
権がロート製薬に移った。さらにロート製薬は昭和63年(1988年)にメンソレータム社を買収し
て経営権を取得した。「リトルナース」のシンボルマークも「メンソレータム」のブランド名もロート
100
製薬に移ったのである。
近江兄弟社は再建に成功したが、もう「メンソレータム」の名前は使えない。そこで主力製品の軟膏
薬を「メンターム」の名前で再登場させたのである。「リトルナース」のマークも使えないから、あら
たに男の子の「メンタームキッド」のイラストを作ってシンボルマークにしている。
では、近江兄弟社とはどのような会社だったのか。
近江兄弟社とメンターム
創立者はアメリカ人のウイリアム・メレル・ヴォーリズ師。彼はキリスト教伝道のため、明治38年
(1905年)に来日し、滋賀県・近江八幡の商業学校で英語教師の職に就いた。
しかし、キリスト教に対する偏見が強く、2年足らずで教師の座を追われてしまった。本業が設計技
師であった彼は、設計事務所を作って、大丸百貨店心斎橋店、主婦の友社、神戸女学院、関西学院など
の建築設計に携わりながら、キリスト教の理念に基づく社会奉仕活動を行った。
明治43年にヴォーリズは村田幸一郎、吉田悦蔵とヴォーリズ合名会社を設立した。伝道や社会事業
を行っていくためには豊富な資金が必要なため、ヴォーリズはアメリカの医薬品メーカーであるメンソ
た。同時にヴォーリズ合名会社を解散して近江セールズ株式会社を設立。メンソレータム販売の収益を
総合病院の「ウォーリズ記念病院」は大正7年(1918年)に開設した結核療養施設「近江サナト
病院や学校といった社会事業につぎこんでいった。
101
レータム社と契約し、大正9年(1920年)に外皮用軟膏薬「メンソレータム」の輸入販売を開始し
薬品と化粧品の由来
リウム」が発祥である。また、幼稚園から高校までの一貫教育を実践している学校法人「近江兄弟社学
園」は、大正11年(1922年)に満喜子夫人が創立した「清友園幼稚園」を母胎とし、昭和8年に
近江勤労女学校を開設、さらに近江兄弟社幼稚園・小学校・中学校・高等学校に発展したものである。
ウオーリズは昭和9年頃に自分が創業した企業を「兄弟社」と名付け、社員や関係者がキリスト教の
理念に基づいて「兄弟」として接することを目指した。教会で信者たちが互いに「ブラザー」と呼び合
うことにならったものである。
戦後もメンソレータムは売れ続けたが、販売促進活動を行わず、問屋任せの経営がたたって売上げが
低迷し、ヴォーリズ没後10年の昭和49年(1974年)に倒産の危機に直面した。さらにアメリカ
のメンソレータム社から契約を解除され、メンソレータムの販売権はロート製薬に移った。
そこで、メンソレータムを「近江兄弟社メンターム」と名前を変え、社員全員が自転車に乗って薬局
を訪問する「全員セールス」など、死にものぐるいの奮闘や、大鵬薬品工業の援助などによって奇跡の
再建を 果 た し た 。
新たなシンボルマークとなった「メンタームキッド」は、ギリシャ神話に出てくる医術の神アポロン
を親しみやすい子供の姿に図案化したものである。アポロンはまた社会秩序の基礎を支配する神でもあ
るから、平和と健康を願うメンターム製品のシンボルにふさわしいとして採用された。
現在でも近江兄弟杜グループは「商売と信仰を両立」させ、「人のために役立つことをやりたい」と
いう創業の精神を掲げている。
102
ロート製薬とメンソレータム
ロート製薬といえば目薬で有名だが、創業者の山田安民が明治32年(1899年)
、 大 阪 南 区 に信
天堂山田安民薬房を創業し、胃腸薬 胃
「活 を
」 発売したのが始まりである。
「胃活」の大成功を受けて次の商品を開発し、明治42年(1909年)に点眼薬 ロ
「 ート目薬 を
」
発売した。「ロート」というカタカナの商品名は、当時の人びとに斬新な印象を与えたが、これは処方
ロ
「ロート」
「 ート目薬 が
」 爆発的に売れ、
の原型を提供してくれたミュンヘン大学のロートムンド博士にちなんで名づけたものである。さらに昭
和6年(1931年)、当時画期的な目薬の新容器を採用した
の商標は広く知れ渡った。
昭和24年(1949年)に株式会社に組織変更するとき、ロートのブランドを冠したロート製薬株
式会社 と し た 。
%を記録する大ヒットとなり、
「 ロン は
」 、ピーク時に市場寡占率 47.5
昭和29年に発売した胃腸薬 シ
昭和37年(1962年)には後継の総合胃腸薬「パンシロン」発売した。
103
昭和50年(1975年)に米国メンソレータム社よりメンソレータム専用使用権を取得して外皮用
剤の分野へ進出し、「メンソレータム薬用リップスティック」など商品を送り出してきた。 そして昭和
63年(1988年)、米国メンソレータム社を買収して経営権を取得したのである。
薬品と化粧品の由来
オロナイン軟膏とオロナミンC
大塚製薬は大正10年(1921年)に大塚武三郎が創立した大塚製薬工場が始まりで、医薬用注射
液の製造販売を行っていた。戦後の昭和22年に2代目の大塚正士が経営を継承してから大きく発展す
る。
大塚正士は、大手製薬会社に太刀打ちするためにはドル箱となる大衆薬が必要だと考えた。当時「メ
ンソレータム」など軟膏薬がヒットしており、米国のオロナイト・ケミカル社が開発した殺菌消毒剤を
軟膏(こう)にして売ることを思いついた。
昭和28年(1953年)に「オ
製品開発を徳島大学の教授に依頼して、わずか一年で製品化に成功し、
ロナイン軟膏」が発売された。オロナインの名前はオロナイト社に由来するものである。現在は、主成
分であるヒビテン(グルコン酸クロルヘキシジン)の頭文字のHをとってオロナインH軟膏となっている。
オロナイン軟膏の発売当初は、大阪の遊郭で1夜に6千個のサンプルを配ったり、看護婦を対象にし
た「ミス・ナース・コンテスト」を実施するなど、宣伝に力を入れたが、思うように売上が伸びなかっ
た。そこで「最高の宣伝は現物の使用」だと、全国の児童へ商品を1個ずつ無料配布するという思い切
ったPR作戦を展開した。その結果、大ヒット商品に成長し、大塚グループの基礎を作った。
売の大塚家具もグループの代表的な企業である。
「チオビタドリンク」などで知られている大鵬薬品工業株式会社は、昭和38年(1963年)に大
塚グループの一員として設立されたものである。また、
「ボンカレー」の大塚食品(→ P47
)や家具販
104
昭和39年(1964年)に大塚製薬株式会社を設立し、オロナインに続くヒット商品の開発を目指
した。そのころは医薬品ドリンク剤市場が活発であったことから、
「誰でも飲めるおいしい炭酸栄養ド
リンク」として開発した「オロナミンCドリンク」を昭和40年に発売した。看板商品であるオロナイ
ンの名前を残しながら、ビタミンCを多く含んでいることを訴えるネーミングである。
昭和55年(1980年)に発売された「ポカリスエット」は、同社が点滴注射薬のトップメーカー
であったことから、病院で使用されている輸液をベースとし、生理的に吸収のよい水に近い飲料をめざ
して7年前から研究を続けていたものである。いわば「飲む点滴」なのであった。しかし、点滴では病
気のイメージが強い。スポーツで失われる水分補給という健康的なイメージで訴求するため、
「汗=ス
エット」を商品名とし、明るく躍動感のある「ポカリ」(意味はない)の音を加えて「ポカリスエット」
となっ た 。
仁丹とテルモの体温計
明治33年(1900年)に、梅毒の新薬「毒滅」を販売し、新聞に全面広告を出すなど、財産をつ
ぎ込んで大々的な宣伝を行った。その結果、梅毒の画期的な新薬として注目を集め、森下南陽堂の名が
全国に 広 ま っ た 。
105
森下仁丹株式会社は、明治26年(1893年)に25歳の森下博が薬種商森下南陽堂を創業したの
が始ま り で あ る 。
薬品と化粧品の由来
森下はこの成功をもとに新しい保険薬の開発に着手し、携帯や保存に便利で気軽に服用でき、万病に
効く薬を目指して研究を進めた。当時は風邪や食あたりでも命を落とすことがあったので、病気予防の
ための総合保険薬の必要性を感じていたのである。
そして明治38年(1905年)に、16種類の生薬などを配合した丸薬「仁丹」が発売された。森
下が台湾出征の際に現地で見た丸薬がヒントになっており、台湾の丸薬に使用される「丹」の文字と儒
教で最高の徳とされる「仁」の文字を組み合わせた命名である。
仁丹は新聞広告などによって広く受け入れられ、風邪薬や胃腸薬のように服用されて、発売2年後に
は売薬の売上高第1位の座を獲得した。
仁丹体 温 計 と テ ル モ
第一次世界大戦によって欧米からの輸入が途絶えたもののなかに体温計があった。
診断にはどうしても体温計が必要なため、北里柴三郎博士をはじめとした医学者が発起人となって、
大正10年(1921年)に「森下仁丹」の子会社として赤線検温器株式会社を設立し、優秀な体温計
の国産化をめざした。翌年に「仁丹の体温計」を発売してヒット商品となり、昭和11年(1936年)
に仁丹体温計株式会社へ社名変更した。戦後の昭和30年には体温計の国内シェアで仁丹体温計が30
%のトップシェアを占めている。
昭和38年に、国産初のディスポーザブル(使い捨て)注射筒を発売し、医療の安全性を高めるディ
スポーザブル医療機器分野に進出した。同年、株式会社仁丹テルモに社名変更した。テルモは、ドイツ
106
最初の国産体温計
山口県防府市の薬屋に生まれた柏木幸助は医学校で化学を学び、マッチの製造に成功して海外
へ輸出していたが、火事で工場が全焼してしまった。次に取り組んだのが水銀を利用した体温計
の研究で、1883年(明治16年)に日本で最初の体温計を完成させた。
当時使われてた外国製体温計は、体から離すと数値が変化してしまうものだったが、柏木の製
品は体から離した後も目盛が変化しないなどの改善が加えられ、しかも値段は外国製の半分だっ
た。
しかし外国製品の人気は高く、柏木体温計はなかなか受け入れられなかった。日露戦争後に国
産製品の見直し機運が広がり、体温計自体の品質も認められて売り上げを伸ばし、大正時代には
海外へ輸出するまでになった。
107
語で「体温計」を意味する「テルモメーター(THERMOMETER)
」に由来する。昭和49年
コラム
(1974年)現在のテルモ株式会社に社名変更し、各種のディスポーザブル医療機器を開発している。
薬品と化粧品の由来
大衆薬の世界では、ひとつのヒット商品を生み出せば、それを土台に会社が
発展する。その商品名をそのまま社名にした会社も少なくない。
ヒット商品が社名となる
わかも と 製 薬
昭和4年(1929年)に東京市芝公園大門に設立された合資会社栄養と育児の会が前身で、消化・
整腸剤 の 若
「素 を
」 発売。文字通り若さの素という意味である。
昭和6年に商品名をひらがなの「わかもと」に変更し、昭和8年、株式会社わかもと 栄養と育児の
会を創 設 し た 。
昭和18年(1943年)にわかもと製薬株式会社と社名変更した。昭和37年に消化酵素及び活性
乳酸菌を強化充実した「強力わかもと」を発売した。
ビオフ ェ ル ミ ン
大正6年(1917年)に神戸市に設立された株式会社神戸衛生実験所が、乳酸菌整腸剤「ビオフェ
ル ミ ン 」 を 製 造 し、 株 式 会 社 武 田 長 兵 衛 商 店 現
( ・武田薬品工業株式会社 に
) 販売を委託した。ビオフ
108
戦後の昭和24年(1949年)にビオフェルミン製薬株式会社へ社名変更している。
ェルミンの名前は、ビオ=生命、活性、生きた、と、フェルミン=酵素、の合成語である。
フマキ ラ ー
前身である大下回春堂が大正13年(1924年)に開発し、製造販売した殺虫剤が「強力フマキラ
ー液」 で あ っ た 。
名
前はハエ F
( LY=フライ 、)蚊 M
( OSQUIT=モスキート 、)殺し屋 K
( ILLER=キラー )
を組み合わせて「FLY+MOS+KILLER=FUMAKILLA」となった。以来、 フ
「 マキラ
ーA な
」 ど色々な商品に「フマキラー」という名前がつけられるようになった。
同社は昭和35年に株式会社となり、昭和37年(1962年)に社名をフマキラー株式会社に変更
した。
翌年の昭和38年には世界ではじめての電気蚊取「ベープ」を開発、販売した。ベープの名前は、薬
剤を蒸発、蒸散させるという意味のVAPORIZEの文字から「VAPE=ベープ」となった。それ
マンダ ム
「金鶴ロー
西村新八郎が昭和2年(1927年)に創業した金鶴香水株式会社が前身で、「金鶴香水」
ション」「丹頂香油」「丹頂ポマード」などの商品を販売していた。
109
以降、蚊とり商品には「ベープマット」「ベープリキッド」などが使われている。
薬品と化粧品の由来
モデルに当時の国際的大スタールドルフ・バレンチーノを採用した「丹頂ポマード」の広告は評判を
呼び、さらに昭和8年発売の「丹頂チック」は整髪料界に一大旋風を巻き起こし、丹頂のブランド名を
不動の も の と し た 。
そして昭和43年発売の液体整髪料「マンダム」が若い男性に好評で、昭和45年にはテレビコマー
シャルでチャールズ・ブロンソンが言う「ウーン、マンダム」が流行語になった。マンダム(MAND
OM)はHuman(人間)とFreedom(自由)を合成した造語で、人間尊重と自由の理念を標
榜する も の で あ る 。
同社は金鶴香水に始まり、丹頂株式会社に社名変更した後、さらにマンダムのヒットを受けて昭和
46年に株式会社マンダムへ社名変更している。つまり、
一貫してブランド名を社名としているのである。
110
5
繊維と化学工業の由来
明治の殖産興業を担った繊維産業は大正、昭和と移る
につれてレーヨン、ナイロン、アクリル、ポリエステル
な ど の 合 成 繊 維 に 比 重 が 移 っ た。 こ れ ら の 合 成 繊 維 は、
セルロイドやビニール、ポリエチレンやポリプロピレン、
ポリスチレン、発砲スチロール、そしてペットボトルの
ペット(PET:ポリエチレンテレフタレート)などと
同じようにプラスチックの仲間である。最近の繊維業界
は新素材の開発や薬品にも進出して化学工業との区別が
なくなってきている。
111
をみればそのルーツがうかがえるのである。
繊維とファッションは切っても切れない関係だが、現在ではどちらも多角化
が進み、何が本業だか分からなくなっている会社も少なくない。それでも社名
繊維会社とファッション
日本の繊維産業
開国後の日本は、欧米に追いつくための富国強兵政策を打ち出し、明治政府は軍備の増強とともに殖
産興業をはかった。その大きな柱となったのが繊維産業で、とくに生糸製造が中心となって外貨獲得の
成果を 上 げ た 。
綿工業は日露戦争後の中国市場への参入、第1次世界大戦期のアジア市場への輸出拡大で急成長をと
げ、昭和8年(1933年)には綿布輸出でイギリスをぬいて世界第1位となった。
(絹 は
) 大正期から技術開発が進んで輸出も急増し、昭和12年にはア
ま た、 人 造 繊 維 の レ ー ヨ ン 人
メリカをぬいて世界一の生産国になった。
第2次世界大戦では生産設備に大打撃を受けたが、朝鮮戦争による特需を契機に復活し、昭和25年
112
ごろにはレーヨン、スフなどの生産が急成長して「糸へん景気」と呼ばれる活況を生んだ。その後、ナ
イロン、ポリエステル、アクリルなど合成繊維工業が発達し、昭和40年(1965年)には世界一の
合繊輸出国になった。しかし、日米貿易摩擦や石油危機による石油価格の急上昇、さらに円高などの逆
風がつぎつぎに襲い、そのたびに大きな打撃を受けて、構造不況業種といわれるまでに落ち込んだ。
昭和60年以降はアジアの安い労働力を背景にした衣料品輸入が増加の一途をたどり、昭和62年に
は、すでに日本は繊維輸入国となっている。
紡績業と大原家
(む ぐ
) 紡績業は、18世紀に紡績機が改良されて産業革命の一翼を担ったが、日
繊維から糸を紡 つ
本では明治時代に大きく発展した。
カネボ ウ
( ねがふち に
) 建設した紡績工場が
明治20年(1887年)、東京綿商社が隅田川河畔の鐘ヶ淵 か
始まりで、2年後に鐘淵紡績として操業を開始し、明治26年に鐘淵紡績株式会社を設立した。由緒あ
る紡績会社で、旧三井財閥の支援や日清戦争を契機とする輸出拡大で発展した。
113
カネボウは、今では化粧品をはじめ、食品、ファッション、医薬品など多彩な顔を持ち、繊維業界の
項目で扱うのは適当ではないが、もともとは繊維メーカーであったことが社名に留められている。
繊維と化学工業の由来
明治36年(1903年)に、日本で最古の社内報といわれる「鐘紡の汽笛」を発刊しており、この
ときすでに鐘淵紡績を略した鐘紡(カネボウ)の名前が登場している。
昭和にはいると羊毛や麻、そして昭和14年(1939年)の「カネビアン」
(ビニロン)の製法発
明を機に合成繊維の分野に進出し、総合繊維メーカーとしての基盤を確立するとともに、多角化を進め
た。昭和11年までには日本製鉄 現
( ・新日本製鉄 に
) つぐ大企業に成長している。
日中戦争の進展とともに、昭和13年に鐘淵実業を設立して製鉄、航空機、造船など事業をさらに拡
大し、昭和19年には鐘淵紡績と鐘淵実業が合併して鐘淵工業となった。
敗戦によって国内外の資産の多くを失ったが、昭和21年に社名を鐘淵紡績にもどして、繊維メーカ
ーとして企業再建にとりくみ、戦後の「糸へん景気」にのって発展をとげた。その後の繊維不況に際し
て、いち早く多角化に乗り出し、昭和36年(1961年)には化粧品分野への進出をはたし、さらに
食品やファッション、医薬品の分野へも進出している。
また繊維事業ではポリエステル、アクリルの生産へ軸を移し、昭和46年に鐘紡株式会社に社名変更
した。現在の社名であるカネボウ株式会社は平成13年(2001年)に社名変更したもので、紡の字
を含む漢字をカタカナに変えて、繊維を中心とする素材産業から化粧品、トイレタリーを中心とする生
活用品産業への脱却を表してる。
明治22年(1889年)に創業した株式会社尼崎紡績会社は日本の紡績史の ページを開くものだ
ユニチ カ
1
114
った。大正7年(1918年)に株式会社摂津紡績と合併して大日本紡績株式会社に改称し、日本の三
大紡績のひとつに数えられるようになった。
大正15年(1926年)にレイヨン事業を推進するために日本レイヨン株式会社を設立した。いっ
ぽう大日本紡績は昭和39年(1964年)に「日本」と「紡績」の文字をとってニチボー株式会社に
改称した。そして昭和44年(1969年)、日本レイヨンと合併してユニチカ株式会社となったのである。
ユニチカの名前は、ユナイテッド・ニチボーと日レイ・カンパニーから、ユナイテッドのU、ニチボ
ー及び日レイの共通文字NITIをとり、カンパニーのCOはコと読まれる可能性があるので、会社の
KAを付けたものである。
グンゼ
明治政府の推進した殖産興業政策をさらに全国規模で展開するために、明治20年代から「町村是運
動」という地域振興運動が全国に広がった。
これは、農商務省次官などを務めた殖産興業家の前田正名が推進したもので、「今日の急務は国に国
是(こくぜ)を、県に県是(けんぜ)を、群に郡是(ぐんぜ)を定むるにあり」というもの。
「是」と
力の発展を目指すものである。
波多野鶴吉はこの思想に共鳴し、京都府何鹿(いかるが)郡(現・綾部市)の蚕糸業を発展させるこ
とこそ郡の是であると考えた。農家が養蚕した繭を買い受け、輸出することで、地域とともに発展して
115
は基本方針、進むべき道という意味で、それぞれの地域で特有な産業の振興をはかり、組織化して、国
繊維と化学工業の由来
いくことを目的に、明治29年(1896年)、郡是製糸(ぐんぜせいし)株式会社を設立したのである。
グンゼとはまさにこの「郡是」であり、町村是運動によって地方の在来産業が大企業に成長した数少
ない例のひとつとされている。
昭 和 4 2 年( 1 9 6 7 年 )、 現 在 の グ ン ゼ 株 式 会 社 に 社 名 変 更 し た。 昭 和 6 2 年 に 生 糸 事 業 の 歴 史
を 閉 じ、 現 在 は メ リ ヤ ス 肌 着 で 業 界 首 位 の 総 合 衣 料 会 社 に な っ て い る 。 創 立 1 0 0 周 年 の 平 成 8 年
(1996年)には京都府綾部市に歴史的な建物・機械・資料を一堂に集めた資料館を建設した。
大原家 と 倉 敷 の 紡 績
江戸時代の倉敷は徳川幕府の直領で、倉敷川畔の水運で栄えたが、明治維新によってその栄光を失
った。しかし、明治中期に紡績業が興って再び活気を取り戻す。その原動力となったのが、代官所跡
地に建設された倉敷紡績所で、その工場は昭和20年の終戦とともに操業を停止したが、昭和49年
(1974年)に倉敷アイビー・スクエアとして変身し、現在は倉敷の観光名所のひとつになっている。
さてその倉敷紡績だが、大原家によって創業され、現在はクラボウ(倉敷紡績株式会社)とクラレに
引き継 が れ て い る 。
倉 敷 の 殖 産 の た め に は、 当 時 急 成 長 が 見 込 ま れ て い た 紡 績 業 が い い と い う こ と で、 明 治 2 0 年
(1887年)に設立発起人総会が開かれ、翌年に倉敷紡績所が設立された。そのとき大資金を提供し
倉敷紡績所は明治26年(1893年)に現在の社名である倉敷紡績株式会社へ改称し、事業を拡大
て頭取となったのが大原孝四郎だった。大原家は米穀・棉問屋として財をなした倉敷一の富豪であった。
116
していった。しかし、大原孝四郎は「何でも一番になると慢心して、気も緩む。常に2番手・3番手で
ある謙虚さで精進すること」をモットーにして、「二・三のマーク」の社標を採用し、
教育を徹底していた。
明治13年に孝四郎の三男として生まれた孫三郎は、二人の兄が夭折したため、跡継ぎとなることが
決まっており、身体が弱いこともあってわがまま放題に育てられた。上京して勉学に励むはずだったが、
東京専門学校 現
( ・早稲田大学 に
) 入っても講義に出るよりは遊郭などで遊び歩き、大金持ちの跡取り
だからと高利貸しもちやほやしたから、今の金額で億単位の借金を作ってしまった。
( ゅう
学校を中退して郷里に連れ戻された孫三郎は、キリスト教徒で岡山孤児院の創設者石井十次 じ
じ に
) 出会い、大きな影響をうけて、明治38年には受洗してクリスチャンとなった。
明治39年(1906年)、孫三郎は弱冠26歳で社長に就任した。キリスト教的博愛主義に目覚め、
社会問題にも関心を深めていた孫三郎は、まず飯場制度を廃止した。
また、従業員の人格をみとめその幸福を増進することが経営の紺本であるとして、職工の労働条件と
福利厚生の向上につとめた。社内病院として設立された倉紡病院は、現在は倉敷中央病院となって多く
の市民に信頼されている。
場を拡張していった。当然大きな反対にあったが、「わしの眼は十年先が見える」と、積極策を続けた。
大正に入って第1次大戦が勃発し、日本に空前の好況が訪れると、孫三郎の先行投資が実って倉敷紡
績は業界大手にのし上がった。孫三郎はさらに中国合同銀行(現・中国銀行)の頭取となり、電力事業
117
孫三郎は経営者としても才能を発揮した。明治末年の日露戦後の不況で紡績業界の再編が進み、大手
に飲み込まれてしまう危機に直面したとき、自社の資本金を上回る金額で吉備紡績を買収し、次々と工
繊維と化学工業の由来
の統合を図って中国水力電気会社(現・中国電力)も設立して、関西実業界でもその名を広く知られる
ように な っ た 。
孫三郎の活動は他分野にわたり、大正3年(1914年)には大原奨農会農業研究所(現・岡山大学
農業生物研究所)を設立した。ここでは岡山名産となるマスカットや白桃が開発された。また大正8年
(1919年)には大原社会問題研究所 戦
( 後に財団法人法政大学大原社会問題研究所となる)を創設し、
社会思想や社会問題についての研究を助成した。
、昭和大恐慌による経営危機のさなか
( 930年)
倉敷を代表する大原美術館の創立は、昭和5年 1
であるのにもかかわらず、文化事業に私財を投じた。洋画家・児島虎次郎をヨーロッパに派遣して、印
象派を中心に西洋絵画を買い集め、世界的にも評価の高い大原コレクションを形成している。
昭和14年に59歳で社長を辞任した孫三郎は、その後も倉敷絹織をはじめ、中国銀行の頭取や京阪
電鉄の重役などをこなし、岡山県産業の発展にも力をそそいだ。
孫三郎の子・総一郎は、昭和12年、30歳の時にヨーロッパを視察して、ドイツの古都ローデンブ
ルグに感銘し、「倉敷ブルグ構想」を描いた。父の残した大原美術館、有隣荘等と共に、倉敷川畔の歴
史的景観の核となるさまざまな建物を整備し、景観を整えた。その一角は昭和54年に国の重要伝統的
建造物群保存地区に指定されて倉敷観光の名所となっている。
クラレ
人絹事業の将来性を見抜いていた孫三郎は、大正15年(1926年)に倉敷絹織株式会社を設立し、
レーヨン糸の生産を開始した。
118
倉敷でレーヨン生産をしていることから、昭和24年に社名を倉敷レイヨン株式会社に変更し、さら
に昭和45年(1970年)、現在の株式会社クラレに社名変更した。
レーヨンとナイロン
繊維メーカー大手のテイジンと東レは、ともにレーヨン生産から始まった会社であり、戦後はテイジ
ンの「テトロン」、東レの「ナイロン」で地位を築くとともに多角化を進め、新素材の開発などにも積
極的に取り組んでいる。
テイジ ン
総合商社の鈴木商店番頭の金子直吉が、大正4年(1915年)に同店傘下の東工業株式会社の工場
として山形県米沢市に設立した米沢人造絹糸製造所が前身である。そして3年後の大正7年に帝国人造
絹絲株式会社が設立され、日本ではじめてレーヨン糸 人
(絹 の
) 製造を開始した。
戦後は合成繊維への転換がおくれて経営危機におちいったが、昭和32年(1957年)に東洋レー
ヨン 現
( ・東レ と
) 共同でイギリスからポリエステル系繊維の製造技術を導入し、新繊維「テトロン」
を開発して業績回復に成功した。公募で命名されたテトロンはしわになりにくい、洗濯しやすい、強度
119
昭和2年(1927年)の金融恐慌で鈴木商店が倒産したために独立会社となり、昭和9年には三原
工場が稼働して、レーヨン生産では国内最大規模となった。
繊維と化学工業の由来
もあって風合いにすぐれているなどの特徴があり、急速に普及した。
テトロンにつづいてナイロンを事業化し、人絹(レーヨン)の名前が実体と合わなくなったため、昭
和37年(1962年)に社名を変更して現在の帝人株式会社となった。昭和46年にはレーヨン事業
から撤 収 し て い る 。
東レ
日本最大の合成繊維メーカーである東レは、大正16年(1926年)に三井物産の出資による東洋
レーヨンとして設立された。
当初は名前のとおりレーヨン糸の生産をしていたが、昭和12年(1937年)にアメリカのデュポ
ン社がナイロンの工業生産に成功したことに触発されて独自の研究を始め、4年後の昭和16年にナイ
ロン6の合成と紡糸に成功した。戦後の昭和26(1951年)
、デュポン社から技術を導入してナイ
ロン生産を拡大し、国内トップのシェアを占めるようになる。
昭和45年(1970年)、社名を東レ株式会社に変更した。
捕鯨と 厚 木 ナ イ ロ ン
昭和22年(1947年)に堀禄助が設立した厚木編織株式会社が前身で、当初は捕鯨用のロープを
生産していた。今でこそ日本の捕鯨は国際的な批判にさらされて衰退してしまったが、敗戦後の食糧難
の時期には鯨肉は日本人の重要なタンパク源であり、伝統ある日本捕鯨が世界の海で活躍していたので
120
ある。
昭和25年に撚糸、メリヤス肌着、靴下、染色等の設備を整備し、昭和30年(1955年)に縫い
目のないシームレスストッキングの本格的な生産・販売を開始した。このストッキングは丈夫で履き心
地もよく、海外でも人気商品となり、生産の80%を輸出するほどだった。
、
昭和35年(1960年)、社名を厚木ナイロン工業株式会社に改称した。平成11年(1999年)
厚木ナイロン工業株式会社と厚木ナイロン商事株式会社を統合して、社名をアツギ株式会社に変更した。
メリヤスとファッション
江戸時代の南蛮貿易でもたらされた衣料品のひとつにメリヤスがある。靴下を意味するポルトガル語
のメイアスやスペイン語のメディアスに由来する名前で、始めは編物の靴下を指していたが、のちに編
物一般をメリヤスというようになった。織物にくらべて伸縮性に富み柔軟で、空気の通りがよいため、
靴下、肌着などに多く用いられている。
明治15年(1882年)、辻本福松が足袋装束商の丸福を創業。この商標は自分の名前の「福」の
字をとったものである。ところが明治25年に「丸福」の商標登録をしたのだが、明治32年になって
和歌山市の足袋業者から「丸福」の商標を先に使用しているとの理由で商標取り消しを訴えられ、敗訴
121
フクス ケ と 福 助 人 形
繊維と化学工業の由来
してし ま っ た 。
明治33年(1900年)の正月、息子の豊三郎がお伊勢参りに行った帰りに、福々しい福助人形を
古道具屋で発見した。この人形こそ「丸福」にふさわしいと思った豊三郎は、さっそくこれを買い求め、
父の福 松 に 見 せ た 。
福助人形は背が低くて頭の大きな幸福を招くという縁起人形で、ちょんまげに裃(かみしも)姿で正
座している。これこそ「禍を転じて福となす」と、福松父子は「福助」を新しい商標として登録したの
だった。この招福の神、「伊勢路福助」は社宝として今も大切に保管されており、福助マークはこれを
イラスト化したものである。
大正8年(1919年)福助足袋株式会社を設立して、全国に販売網を拡充し、1930年ごろから
靴下、シャツ、シューズなどに業種を拡張した。戦後はメリヤス(肌着、アウター)部門に進出し、昭
和39年(1964年)、現在の福助株式会社に社名を変更した。
122
ファッションメーカーのレナウンとダーバンは兄弟会社であり、そのことは社名にも表れている。
イギリス海軍にあやかったレナウンとダーバン
レナウンは、明治35年(1902年)に大阪で繊維雑貨卸売業として創業し、大正12年(1923
年)に商標「レナウン」を採用して国内の有力なメリヤス問屋に発展した。
レナウンという当時としては洒落た名前は、実はイギリス戦艦の名前からとられたものである。
昭和天皇が皇太子時代に英国を訪問したときの答礼として、大正11年5月に英国皇太子プリンス・
オブ・ウェールズ(後のウィンザー公)が訪日した。そのときの御召艦が、当時世界の耳目を驚かした
超弩級戦艦レナウン号だった。
船の名前は縁起がよいとされていることにくわえて、レナウンには「優秀・栄光」などの意味があり、
さらに繊維産業の先進国であるイギリスにあやかりたいという理由から、商標として採用されたもので
ある。
そして3年後に生産部門レナウン・メリヤス工業株式会社を設立。昭和6年(1931年)には東京
に株式会社佐々木営業部が設立された。
商事株式会社に社名変更した。
そして昭和42年(1967年)、レナウン商事株式会社を現在の株式会社レナウンに社名変更した
のである。この年は、斬新なTVコマーシャルで評判を呼んだ組み合わせニット イ
「 エイエ が
」 発売さ
123
戦時中は営業を中断していたが、戦後の昭和22年に株式会社佐々木営業部が再発足した。昭和26
年には生産部門をレナウン工業株式会社に社名変更し、昭和30年に株式会社佐々木営業部をレナウン
繊維と化学工業の由来
れた年 で も あ っ た 。
ダーバンは、昭和45年(1970年)にレナウンが紳士服業界に進出するために設立した株式会社
レナウンニシキが前身で、翌年には「ダーバン」ブランド商品を発表し、さらに昭和47年に株式会社
ダーバ ン に 変 更 し た 。
レナウンとの兄妹会社であることは社名の「ダーバン」にも表れている。大正11年に英国皇太子プ
リンス・オブ・ウェールズが来日した時の御召艦がレナウン号で、そのときの供奉艦が巡洋艦ダーバン
号だったのである。艦名の由来は、当時英国領であった南アフリカの軍港ダーバン(ナタール州)から
きており、1834年にこの港を発見したケープタウンの提督、サー・ベンジャミンダーバンの名前に
ちなんだ軍港である。またダーバンはフランス語の De+Urben
となり、
「都市の」とか「都会風に洗練
された」という意味がある。さらに濁音で始まるのは男性的な響きがあり、ンとい確認の鼻音に終わる
のは語尾として印象が強くなるという発声学上の理由もあった。
レナウンとダーバンの両社は2004年に経営統合し、株式会社レナウンダーバンホールディングス
として 再 出 発 し た 。
ファーストフードとユニクロ
ユニクロのブランドで不況下の衣料業界を席巻した同社のはじまりは、昭和24年に山口県宇部市に
開いた個人営業のメンズショップ小郡商事だった。昭和38年(1963年)に個人営業を引き継いで
小郡商事株式会社を設立し、昭和59年(1984年)に広島市に「ユニクロ」第1号店を出店した。
124
ユニクロの名前はユニークなクロージング(衣料)から作られている。しかし、同社の理念や特徴を
よく表しているのは株式会社ファーストリテイリングという社名のほうである。この社名は平成3年
(1991年)に、同社の行動指針を表象するものとして採用され、小郡商事株式会社から社名変更を
行った も の で あ る 。
ファーストリテイリングは、ファーストフードのファースト(FAST:速い)とリテイリング(R
ETAILING:小売)の二つを合わせたものである。そこにはファーストフードのコンセプトで小
売りを行っていくという事業展開の理念が込められている。ハンバーガーチェーン店に代表されるファ
ーストフード店は、そのころ激烈な競争を展開しながら業績を伸ばしていた。旧態依然とした衣料小売
業界も、その徹底した合理的経営手法に学んで自己変革をしていかなくては未来はないと考えたのであ
った。では、同社の言うファーストフードコンセプトとはどのようなものか?
1、いつでも、どこでも、だれでも食べられる→ユニクロも、いつでも、どこでも、誰でも着られる。
2、どの店でも同じ商品を同じサービスで販売している→ユニクロも、どの店でも同じ商品を同じサ
ービス で 販 売 し て る 。
4、単品を大量に安く販売する→ユニクロも単品を大量に安く販売している。
このファーストフードコンセプトとそれにもとずく「ユニクロ」の躍進は、カジュアルファッション
の世界に大きな革命をもたらしたのだった。
125
3、独自商品の企画・開発・販売システムを持っている→ユニクロも、全世界の情報を収集し、自社
で企画・商品化、中国・東南アジアの委託工場で生産、自社店舗で販売している。
繊維と化学工業の由来
プラスチックと化学工業
)は合成樹脂ともいわれ、工業的に合成される高分子
プラスチック( Plastic
物質のことをさしている。外から力をくわえて変形する性質(可塑性)を表す
ギリシャ語の Plastos
が語源で、化学工業の発展によって人工的に合成された
高分子物質をプラスチックと呼ぶようになった。
セルロイドが社名の会社
プラスチックは自然界に存在しない人工的な物質であり、最初に開発されたのはセルロイドである。
発端はビリヤードボールであった。
1863年(江戸時代末期)のこと、当時のビリヤードボールは象牙で作られていたが、あまりに高
価なため、アメリカの製造会社が象牙にかわる人造の代替品を開発したら1万ドルの賞金を出すと広告
した。
アメリカの発明家ジョン・ハイアットがこれに挑戦し、天然の高分子物質セルロースから、象牙に似
た人造物質をつくることに成功した。ジョンの兄イサイアがこれをセルロイドと名づけ、特許をとった。
126
兄弟は1872年にセルロイド・マニュファクチャリング社を設立し、セルロイドの商標で生産を開始
した。
ダイセ ル
ダイセルは、大正8年(1919年)にセルロイド会社8社が合併して設立された大日本セルロイド
株式会社が前身である。
昭和2年(1927年)に三国セルロイド株式会社(現・三国プラスチックス株式会社)を設立して、
セルロイドの加工を開始した。その後もプラスチック関連の会社をいくつも設立している。
また昭和9年(1934年)には写真フィルム事業を分離して、富士写真フイルム株式会社を設立し
ている 。
昭和41年(1966年)に現在のダイセル株式会社に社名変更した。大日本のダイとセルロイドの
セルからとられた社名である。
プラスチック建材やビニル床材のタキロンの前身は、大正8年(1919年)に大阪市東成区に設立
された滝川セルロイド工場所で、セルロイド生地の製造を行っていた。
昭和10年に滝川セルロイド株式会社を設立し、戦時中に滝川工業株式会社に社名変更したが、昭和
26年に社名を滝川セルロイド株式会社にもどしている。
127
タキロ ン
繊維と化学工業の由来
昭和34年(1959年)にタキロン化学株式会社に社名変更し、昭和48年に現社名のタキロン株
式会社に社名変更した。タキロンは旧社名の滝川セルロイド株式会社から派生した名前である。
セメダインとセロテープ
学生の工作時間になくてはならないのが、物を張り合わせるセメダインとセロテープではないだろう
か。この両者、どちらも日本の商品名なのである。
セメダ イ ン
創業者の今村善次郎が大正12年(1923年)に東京で接着剤類の製造販売を開始し、昭和16年
(1941年)、各種接着剤の製造販売を目的とした有限会社今村化学研究所を設立した。
、産
そもそも「接着剤」という言葉は今村善次郎が名付け親だという。それまでは家庭では「のり」
業界では「接合材または、こう着材」と呼ばれていた。接着剤の歴史はセメダインの歴史でもある。セ
メダイン(CEMEDINE)とは、接合材「セメント(CEMENT)
」と力の単位である「ダイン(D
YNE)」の造成語で、「強い接合・接着」を意味している。
戦後の昭和23年(1948年)、株式会社今村化学研究所を設立、さらに昭和26年、販売会社と
セメダインは日本で初めて合成接着剤を開発し、あの黄色いチューブのセメダインCのキャッチフレ
ーズは「なんでもよくつくセメダイン」であった。
128
してセメダイン株式会社を設立した。そして昭和31年に、この販売会社を吸収合併して、現在のセメ
ダイン株式会社に社名変更した。
ニチバ ン
セロハンはパルプからできるセルロースフィルムのことで、1910年頃にスイス人科学者のブラン
デンバーガーが発明し、商品名であったものが一般化した。このセロハンをテープ状にして粘着剤を塗
ったのがセロハン粘着テープでテープで、「セロハンテープ」は日本の商品名である。
セロハン粘着テープは、1930年ごろのアメリカで自動車の塗装に使用されていた。その後、さま
ざまなものを貼る用具として広まっていき、戦後日本に駐留したGHQも事務用に米国製のセロハン粘
着テープを使っていた。ところが、アメリカからの輸入が遅れて品不足となったとき、日本での製造を
ニチバンに打診した。ニチバンはそれまでの絆創膏の技術を応用して、わずか1か月ほどで試作品の製
造に成功し、GHQを驚かせたという。
そのニチバンだが、前身は大正7年(1918年)に設立された歌橋製薬所で、おもに絆創膏(バン
ソウコウ)類、軟膏・硬膏類を製造していた。
ンのバンは絆創膏だったのだ。
)、
昭和22年に生産設備を拡充して、絆創膏以外にもセロハン粘着テープ(登録商標「セロテープ」
129
昭和9年(1934年)に株式会社歌橋製薬所となり、鎮痛性貼り薬の製造を開始した。戦時中の企
業整備により、昭和19年に全国25の絆創膏製造業者が統合して日絆工業株式会社となった。ニチバ
繊維と化学工業の由来
紙粘着テープ、その他工業用粘着テープの製造を開始した。そして翌年日絆薬品工業株式会社に改称し、
さらに昭和36年(1961年)に現在のニチバン株式会社へ社名変更した。
チッソとソーダ
化学工業の原料として最も基礎的なものは、チッソ(窒素)とソーダ(曹達)ではないだろうか。
チッソは大気の約5分の4を占める主成分で、植物の栄養となる主要元素である。したがって化学肥
料の原料となる。さらにチッソからアンモニアを合成し、アンモニアからは肥料、硝酸、尿素、アミン
などの多種多様な化学原料がつくられる。
ソーダはナトリウム化合物の総称で、とくに炭酸ナトリウムや水酸化ナトリウムなどをいう。炭酸ナ
トリウムは、かつては海草の灰からつくられたため、ソーダ灰とよばれた。ガラスの主要原料であるほか、
洗剤、無機薬品などの原料、有機合成用、また製鉄における脱硫剤などとして多分野で利用されている。
水酸化ナトリウムは、工業では苛性(かせい)ソーダと呼ばれ、塩(海水:塩化ナトリウム溶液)の
電気分解によって得られる代表的なアルカリ製品である。苛性とは、はげしい反応をおこすという意味
で、強いアルカリで金属や皮膚を腐食することから付いた名前である。油脂と反応させて石鹸とグリセ
リンを製造するほか、ガラス、繊維、製紙、無機化学などの多分野で使用される基礎原料である。
ところで塩を電気分解すると、苛性ソーダと同時に塩素がとれる。塩素と石油から得られるエチレン
とを反応させ作るのが塩化ビニルモノマーで、塩化ビニル樹脂の原料である。
130
苛性ソーダや炭酸ナトリウムなどによる製品を主力とした産業分野をソーダ工業という。
チッソ と 旭 化 成
鹿児島県大口市に日本のナイヤガラといわれる曽木ノ滝がある。その下流1.5kmのあたりで、渇
水期になると湖底から煉瓦積みの建物が姿をあらわす。鶴田ダムが完成して水没した明治時代の発電所
跡であ る 。
野口遵(したがう)は曽木ノ滝の水力を利用して電気事業を行おうと計画し、明治39年(1906
年)に曽木電気株式会社を創設した。翌年、曽木発電所の建設に着工し、明治42年(1909年)に
完成し た 。
(
電力は、当初予定した牛尾鉱山の排水動力源や近郊集落の電灯需要だけでは使い切れないため、余
剰電力を利用する日本最初のカーバイト工場を熊本県水俣村につくり、日本カーバイト商会を設立した。
明治41年に曽木電気と合併させて日本窒素肥料株式会社を設立した。これが、現在のチッソ株式会社
や旭化成株式会社の前身である。
酸化カルシウム と
) コークスなどの炭素材料を電気炉で加熱溶融してつくる。カーバイドを高温で窒素
と化学反応させてできるのが、窒素肥料として使用される石灰窒素である。
大正12年(1923年)には延岡市に延岡工場を完成させ、合成アンモニアの製造に成功した。こ
のアンモニアを有効活用するために、昭和6年(1931年)延岡に日本ベンベルグ絹絲が設立され、
131
カーバイドは、本来は炭化物の総称だが、工業分野などでは粗製の炭化カルシウムをさし、生石灰
繊維と化学工業の由来
銅アンモニアレーヨン糸「ベンベルグ」の製造を開始した。また同じ年に延岡工場を日本窒素肥料から
分離して延岡アンモニア絹絲が設立された。いっぽう大正13年に、旭絹織株式会社が滋賀県膳所でレ
ーヨン糸の製造を開始している。これらの繊維事業がもとになって現在の旭化成へつながっていくので
ある。
延岡アンモニア絹絲は、昭和8年に同じ日本窒素肥料系の旭絹織と日本ベンベルグ絹絲を合併して
旭ベンベルグ絹絲と改称した。戦時中の昭和18年には日本窒素火薬を合併して日窒化学工業と改称し、
繊維、薬品、火薬、プラスチックなどの主要部門を一本化した。
戦後の財閥解体で日本窒素の傘下からはなれ、昭和21年に旭化成工業株式会社と改称し、レーヨン
製造を中止した平成13年(2001年)に現在の旭化成株式会社に社名変更した。
「サランラップ」は、昭和27年(1952年)にアメリカのダウ・ケミカルとの合弁で設立した旭
ダウ の
( ちに吸収合併 が
) 生産した塩化ビニリデン繊維サランの需要が見込めないために、食品用フィ
ルムとして商品化したものである。
さて本体の日本窒素は、その後、南九州各地に水力発電所を建設して電気化学工業の分野において発
展を続けた。昭和2年(1927年)には北朝鮮で水力発電を中核とする世界屈指の大規模化学コンビ
ナートを展開した。事業分野も化学肥料や工業薬品、合成樹脂、金属精錬などにおよび、総合化学会社
としての地位を確立した。
戦後は新日本窒素肥料株式会社として再出発し、オクタノール、高度化成肥料、超高純度シリコンな
どの製造に日本で初めて着手したほか、合成繊維、石油化学、ファインケミカルといった分野に進出した。
132
しかし水俣工場の排水中のメチル水銀が原因といわれる「水俣病」が発生し、大きな社会問題となっ
た。この公害病は昭和34年(1959年)に熊本大学医学部によって発表されたものの、政府によっ
て認定されたのは昭和43年になってからであり、対応の遅れが被害の大きさと深刻さを増した。
昭和40年(1965年)に社名を現在のチッソ株式会社に変更し、事業分野はエレクトロニクス、
ニューマテリアルなどの最先端分野へと拡がっていった。
曹達と い う 社 名 の 会 社
化学工業の基礎原料である苛性ソーダや炭酸ナトリウムを使った工業分野をソーダ工業とよび、社名
に「曹達」の文字を入れていた会社も多い。
東ソー
前身は昭和10年(1935年)に設立された東洋曹達工業株式会社である。翌11年からソーダ灰
製造を開始した。昭和17年に臭素、18年に苛性ソーダの製造をそれぞれ開始し、戦後の昭和28年
昭和62年(1987年)に現社名の東ソー株式会社に社名変更した。
ダイソ ー
大正4年(1915年)に苛性ソーダの製造販売を目的として関西財界有志により設立された大阪曹
達株式会社が前身である。
133
にはセメントの青銅を開始している。
繊維と化学工業の由来
昭和63年(1988年)にダイソー株式会社に社名変更した。
日本曹 達
大正2年(1913年)に創立者の中野友禮が電解法ソーダの特許を取得し、
大正9年(1920年)
に日本曹達株式会社を設立した。
トクヤ マ
本社は山口県徳山市で、以前は徳山曹達株式会社という社名だった。
大正7年(1918年)にソーダ灰事業を起こし、アンモニア法ソーダ製造を目的とする日本曹達工
業株式会社を設立。昭和11年(1936年)に徳山曹達株式会社へ改称し、昭和13年にセメント事
業に進出、昭和14年に炭酸マグネシウム工場を新設して無機化学品事業を拡大していった。
戦後の昭和27年(1952年)には電解ソーダ事業に進出した。平成6年(1994年)に現在の
株式会社トクヤマに社名変更した。 東亞合 成
北
(
)・
商品では瞬間接着剤の「アロンアルフア」が有名だが、終戦直前の昭和19年に昭和曹達 株
海曹達 株
レーヨン曹達 株
(
)・
( の
) 3社を吸収合併して、社名を東亞合成化学工業株式会社としたもの
である 。
その前身は昭和8年(1933年)に設立された矢作工業株式会社で、愛知県・矢作川の水力発電で
得た余剰電力を利用して、硫安 硫
・ 酸、硝酸の製造を行っていた。昭和17年に第2次矢作工業株式会
社が設立され、同社が前述の曹達会社3社を吸収して現在につながっている。
134
瞬間接着剤「アロンアルフア」は昭和38年(1963年)に製造開始され、現在も主力商品となっ
ている 。
ところでこの「アロン」の名前だが、同社のルーツである矢作川にちなんだ矢の「アロー」と、プラ
スチックの主流であったナイロン、テフロン等の「ロン」を合成したものである。
昭和48年(1973年)には、グループの東亜樹脂工業株式会社と株式会社寺岡製作所が合併して
アロン化成株式会社が誕生した。アロンの商標を受け継いだアロン化成は、上下水道配管部材の硬質塩
化ビニル管「アロンパイプ」や塩ビ製小口径マンホール「アロンホール」など、商品名にも「アロン」
を冠し た も の が 多 い 。
いっぽう東亞合成化学工業は、平成6年(1994年)の創立50周年を機に現社名の東亞合成株式
会社に 社 名 変 更 し た 。
兵法と積水化学
それは「勝者の戦は、積水を千仞(せんじん)の谿(たに)に決するが如きは、形なり」というもの。
その意味は、「勝利者の戦闘というものは、満々とたたえられた水(すなわち積水)を深い谷底へ切
って落とすような、激しい勢いの得られる形のもとに、一気に決められる。
」
135
化学だけでなく、住宅や生活用品、医療関連連まで幅広く手がけている積水化学だが、社名の「積水」
は中国最古の兵法書「孫子」にある言葉に由来している。
繊維と化学工業の由来
これを企業活動にあてはめて、「事業活動を展開すれば、必ず「問題」や「課題」に直面する。その
敵を破る為には、相手の実情をよく知り、充分な分析をしたうえで、当方の体制をつくり、満々たる積
水の勢いをもって、勝者の戦いをすることが大切である。
」という経営思想を掲げているのである。
戦後まもない昭和22年に積水産業株式会社を設立し、京都化学研究所で酢酸ビニル研究、ポリビニ
ルアルコール・塩化ビニル製品などの試作を始めた。
最初の国産インジェクションによる成形加工も始まり、日本最初の射出成形事業であるボールペン軸
などの受注、生産を開始した。翌23年(1948年)、奈良工場開設を機に、社名を現社名の積水化
学工業株式会社と改称した。
昭和35年にハウス事業部が発足して「セキスイハウス」の試作に成功し、別会社積水ハウス産業株
式会社 が 設 立 さ れ た 。
南海の無人島とラサ工業
北緯24度27分57秒、東経131度11分23秒、沖縄本島・那覇市から東南約408kmの位
置に、周囲約4.5kmの珊瑚礁に囲まれた蛤型の無人島がある。
この何の変哲もない南海の無人島が歴史に登場するのは、明治33年(1900年)に政府が正式に
日本の領土であることを正式に表明してからのことである。公式名称は「沖大東島」、
一般には「ラサ島」
という通称で呼ばれた。
136
当時の農商務省肥料砿物調査所初代所長を務めた恒藤規隆らは、精力的にこの島を探検して、明治
40年、ついにリン鉱石を発見した。歴史に登場して間もない島が、いちなり時代の脚光を浴びること
になった。農業で用いられる肥料としてもっとも必要とされる元素は窒素、リン、カリウムの3つであ
る。このうち窒素とカリウムは電気化学的に生成できるが、リンは鉱物資源に頼らざるを得ない。その
リン鉱石は日本では産出されていなかったのである。
明治44年(1911年)に発見者の恒藤規隆は、リン鉱石を採掘するラサ島燐砿合資会社を設立し
た。リン鉱石の国内唯一の産出地として、往時には2千人の在島者を数え、戦前の農業生産上の重要な
拠点となっていた。大正2年(1913年)にはラサ島燐砿株式会社を設立し、
昭和9年(1934年)
に現社名のラサ工業株式会社に改称した。そして昭和12年にはラサ島を国から譲渡されている。
まさにラサ島がすべての同社であったが、昭和47年(1972年)に非鉄金属鉱山事業より撤退し、
その後肥料部門を営業譲渡して、現在は化成品や電子材料を事業の中心としている。
ラサ島もまたもとの無人島に戻ったが、日本の領海の基点として重要な位置を占めていることには変
わりが な い 。
カーワックスとして馴染みの「ソフト99」は、昭和29年に設立された日東化学株式会社の商品名
ソフト 9 9
137
商品名を社名にした会社
繊維と化学工業の由来
である 。
同社は平成5年(1993年)に、現在の株式会社ソフト99コーポレーションに社名変更した。す
でに高い知名度とイメージの浸透した「ソフト99」を社名に冠することで一層の発展を願ったもので
ある。
また「ソフト99」という名称には、「ソフト」=柔軟な発想、「99」=限りない、白寿(おめでた
い数字)、まだまだ成長しつづける無限の可能性という意味があり、
「常に柔軟な発想で、無限の可能性
を目指して成長し続ける」という想いが込められている。
ゼオン
古河電気工業(株)、横浜ゴム(株)
、
日本軽金属(株)の古河系3社の資本と、
昭和25年(1950年)、
米国B.F.グッドリッチ・ケミカル社の資本と技術により日本ゼオン株式会社が設立された。
(GEON)をとったもので、「ゼ
社名のゼオンは、グッドリッチ社の塩化ビニール樹脂の商標「ゼオン」
オ」(GEO)はギリシャ語で大地、「エオン」(EON)は永遠を意味し、
「大地から原料を得て永遠に
栄える」という意味が込められている。
塩化ビニル樹脂のメーカーとしてスタートした同社だが、昭和34年に合成ゴムの初の国産化に成功
し、昭和40年(1965年)には合成ゴムの主原料となるブタジエンを抽出する方法を独自開発(G.
P.B.法:ゼオン・プロセス・オブ・ブタジエン)
、次いでイソプレン抽出法も独自開発(G.P.I.
これらの独自技術をもとに、世界トップ・クラスの合成ゴム・メーカーに成長し、とくに耐油性特殊
法:ゼオン・プロセス・オブ・イソプレン)した。
138
合成ゴムでは世界トップ・シェアを誇っている。
東リ
かつての病院の床は塗れたように冷たく光っていた。あれはたしか、リノリュームだったと思う。東
リのリはリノリュームのリで、前身は大正8年(1919年)に設立された東洋リノリユーム株式会社
である 。
そのころアメリカで「耐久性に優れた美しい床材」として普及していたリノリユームを、日本で製造
しようと研究し、国産材料のなかから亜麻仁油という素材を見つけ、国内での製造法を確立し、大正9
年に国産初のリノリュームを完成した。そのかげにはアメリカンリノリユーム社のパーカー技師の技術
指導があった。欧米より湿度が高く寒暖の差も激しい日本で、リノリュームを美しく仕上げるために工
夫を重ね、品質の向上とともに、船舶や省庁関係の建物を中心に広く使われるようになった。
しかし、ビニル床タイルやビニル床シートの台頭によってリノリユームは時代からとり残され、昭和
52年(1977年)、ついにリノリユームは製造中止となった。5年後の昭和57年、同社は国産初
の塩ビバックタイルカーペット「GA-100」を発売し、塩ビ技術とカーペット製造技術を生かして
オフィスの床材として広く使われているタイルカーペットの礎を築いた同社は、平成3年(1991
年)、東リ株式会社に社名変更した。
パーカライジングは商品の名前ではなく、技術の名前である。
日本パ ー カ ラ イ ジ ン グ
139
塩ビバックタイルカーペットの製造へ乗り出した。
繊維と化学工業の由来
金属表面処理方法にパーカライジング法と呼ばれるものがある。これは大正4年(1915年)にク
ラーク・W・パーカー、ウィマン・C・パーカー兄弟によって実用化された技術で、その名称はパーカ
ー兄弟 に 由 来 す る 。
このパーカライジング法を日本で初めて手がけたのが、昭和3年(1928年)に設立された日本パ
ーカライジング株式会社である。以来、金属表面処理のトップメーカーとして、鉄・アルミ・ステンレ
ス・亜鉛・鋼などの素材の強度向上をはじめ塗装品質性能アップ、耐久消費財の美観の保護など、工業
用から家庭用製商品まで幅広く使用されている。
戦時中は英字社名から日本化学防錆株式会社に社名を変更したが、戦後再び現在の社名に戻した。
140
6
電機産業の誕生物語
日本の電機産業は、まず明治時代の富国強兵政策の
もとで、軍事技術としての通信機の国産化から始まっ
た。その後民生分野が拡大し、松下やソニーなどのカ
リスマ的企業が登場して戦後の日本経済の牽引役とな
っていった。日本の電気産業から世界を驚かすような
発明が次々に生まれてきたし、今も世界をリードして
いる。
141
通信機から始まった電気会社
明治維新以後、日本は富国強兵の基本方針のもとに、西欧の近代文化・技術
を取り入れ、軍備の近代化とともに国内産業の育成に力を注いだ。
ちょうど電気の時代が始まろうとしていた。通信機を皮切りに、外国の新技
術がつぎつぎに流入したが、それをいち早く取り入れ、国産化することは軍事
的にも重要な課題であった。
JR久留米駅前のからくり時計
からくり儀右衛門と発明品の数々が動く
142
からくり師の弟子たち
現在もインターネットを中心に通信技術の大革新が進行中だが、電気技術の誕生当時から通信技術が
常にその最先端をリードしていたのである。明治政府は工部省を中心に国産電気技術の研究開発を進め
た。
ここにひとりの人物が登場する。江戸時代末期に「からくり儀右衛門」としてその名を馳せた発明家・
田中久 重 で あ る 。
工部省は彼に目を付け、それまで外国製品に頼っていた通信機器の国産化を依頼する。彼は明治7年
(1874年)にモールス電信機の製作に成功した。これが日本で最初に実用化された電気製品である。
翌年、田中は珍器製造所(現・東芝)を設立して電信機の製造を開始した。
明治11年には官営工場として工部省電信局製機所が設立されたが、当初は田中がその指導にあたり、
珍器製造所との交流が続いた。この製機所で電気技術を習得した人たちのなかには、白熱舎(現・東
郎、石杉社(現・安立電気)を創設した石黒慶三郎と杉工謙太郎など、その後の日本の電機産業の基礎
を築いた者たちがいた。
彼らは、欧米で開発・発明された新技術をつぎつぎに国産化していった。グラハム・ベルが電話機を
発明したのは明治9年(1876年)で、翌明治10年には日本に輸入され、設立されたばかりの電信
143
芝)や三吉電機工場(のちの日本電気)を創設した三吉正一、明工舎(現・沖電気)を創設した沖牙太
電機産業の誕生物語
局製機所が明治11年に試作に成功している。エジソンが白熱電球を発明したのは明治11年
(1878
年)であるが、日本初の白熱電球は明治23年(1890年)に白熱舎が製造している。
) は電信用機器製作の 石杉
また、マルコーニが無線電信の発明に成功した明治28年(1895年 に
社が創立され、5年後の明治33年には無線用機器製作の安中電機が創立されている。両社はのちに合
併して安立電気(現・アンリツ)となる。
からくり師と東芝の誕生
東芝は、昭和14年(1939年)に芝浦製作所と東京電気が合併して東京芝浦電気株式会社となり、
昭和59年(1984年)に現在の株式会社東芝に社名を変更したものである。しかし、東芝の創立記
念日は明治8年(1875年)7月1日で、芝浦製作所の発祥となった珍器製造所の創立の日である。
したがって、珍器製造所を作った田中久重が創業者となるが、彼は江戸時代末期から発明家として有
名で、青年時代には「からくり儀右衛門」としてその名を馳せた人物であった。
田中久重は寛政11年(1799年)に、現在の久留米市通町にべっこう細工店の長男として生まれ
た。もともと手先の起用だった彼は、9歳の時、硯箱が寺子屋仲間に悪戯されるのを防ぐために、巧妙
な鍵機構を使って自分だけにしか開けられない硯箱を作り、人々をビックリさせた。これが彼の発明家
13歳の時には隠し戸のついた小箪笥を作り、15歳の時には近所に住む久留米絣の考案者・井上伝
としての第一歩であった。
144
で依頼で、絣に絵模様を織り込むための織機を作り上げた。
その後、さまざまなからくり人形を作り、見せ物興行に出品した。なかでも天女が雲に乗って空を舞
う「雲切り人形」や、子供の人形が矢を取り、弓を引いて遠くの的に矢を当てる「弓射り童子」はとく
に有名である。こうして、彼は20歳のころには「からくり儀右衛門」とよばれるようになり、からく
り師として身を立てようとした。
からくりから時計の制作に進むのは自然の流れともいえるが、研究熱心な彼は天文暦学や蘭学を習い、
西洋近代科学の物理や化学の原理を学んだ。和時計の最高傑作とされる「万年時計」を制作した後も、
火薬、蒸気船、模型の蒸気機関車、大砲、電信機の製作などに携わり、さらに自転車、人力車、写真機、
蒸気自動車などの当時の最新技術にも手を染めている。
明治政府は電信機を国産化して通信網を整備する必要性を感じ、田中久重にその開発を依頼した。す
でに75歳になっていたにもかかわらず、久重は工部省の要請に応じて上京し、明治7年にはモールス
電信機の製作に成功した。そして翌明治8年、できあがったばかりの銀座煉瓦街(現・銀座8丁目)に
店舗、工場、住宅をかねた小規模の珍器製造所を構え、工部省の指定工場となって各種の電気機器を製
久重は明治14年、83歳で大往生を遂げた。養子の田中大吉が2代目田中久重となり、明治15年
11月に芝区金杉新浜町(現・港区)の芝浦に田中製造所を設立した。これが明治37年(1904年)
さて、もう一方の流れである東京電気のほうは、明治23年(1890年)に東京・京橋に設立され
に芝浦 製 作 所 と な る 。
145
造していったのである。
電機産業の誕生物語
た白熱舎が発祥で、日本における電球の歴史を形作っている。
日本で初めて照明用の電灯が灯されたのは、明治11年3月25日(この日を記念して昭和2年に電
気の日と定められた)、電信中央局の開局式の祝宴で工部大学校の大ホールで点ぜられた、デュボスク
そ こ に 同 校 の 生 徒 で あ っ た 藤 岡 市 助 も い た。 明 治 1 5 年 に、 銀 座 2 丁 目 の 大 倉 組( 現・ 大 成 建 設
式アー ク 灯 で あ る 。
→ P183
)の前に設置されたアーク灯が点灯されて話題を呼んだが、このときすでに工部大学校の助教
授になっていた藤岡市助が関与している。
この藤岡市助こそ、日本における白熱電球の生みの親である。当時はまだ外国製の白熱電球しかなか
った。明治19年に藤岡は帝国大学、工科大学の教職を捨てて、 東京電橙株式会社の技師長に就任し、
国産白熱電球の開発に取り組んだ。そして明治23年、藤岡は当時有数の電気器具製造者であった三吉
正一とともに白熱電球の製造を目的とした白熱舎を創立し、初の白熱電球(炭素電球)を生み出したの
である。白熱舎の名前は白熱電球から来ているのはもちろんである。
ところで三吉正一だが、工部省電信局製機所の技術者として田中久重の教えを受けた門下生の一人で
あり、明治16年に三吉電機工場を設立して当代有数の大電機工場に育て、明治18年には直流発電器
を発明している。三吉電機工場は日清戦争後の反動不況で明治31年に倒産し、それを買収して設立さ
れたのが現在の日本電気である。
白熱舎は明治32年(1899年)に東京電気と名前を変え、大正11年(1921年)には世界の
電球6大発明の1つである「二重コイル電球」を発明し、さらに大正14年(1925年)に世界の電
146
球6大発明のもう1つ「内面つや消し電球」を発明している。内面つや消し電球は現在よく使われてい
る白い不透明ガラスの電球で、それまでの透明ガラスを使った電球のまぶしさを解消したものである。
このように東芝の源流となった芝浦製作所と東京電気の両社は、どちらも電気機器における発明の伝
統を持ち、その新製品開発力はその後の同社の発展を支えてきた。
東芝の開発した「わが国初」の製品は、上に挙げた以外にも、わが国初のラジオ受信機(大正13年)、
わが国初の電気洗濯機および電気冷蔵庫(昭和5年)
、わが国初の電気掃除機(昭和6年)
、わが国初の
螢光ランプ(昭和15年)、わが国初の自動式電気釜(昭和30年)
、わが国初の電子レンジ(昭和34
年)、わが国初の日本語ワードプロセッサ(昭和53年)などがある。
沖電気とアンリツ
沖電気とアンリツは通信分野を事業の主体としているが、そもそもの通信機器の製造から始まった会
社であり、両社の歴史は日本の通信技術の歴史でもあった。
明治9年(1876年)にグラハム・ベルによって発明された電話機は、翌明治10年には日本に輸
入されている。工部省電信局製機所がそれを模した国産電話機の試作に取り組み、明治11年に成功し
たが、このとき工部省の技手として参画していたのが沖牙太郎であった。
147
沖電気
電機産業の誕生物語
製機所ではさらに電話機の試作を続けたが、なかなか実用の域には達せず、通信手段にはまだ電信機
が使われてた。しかし電気通信の将来性に着目していた沖は、独自に電気通信機器開発をするために官
職を捨て、明治14年(1881年)、現在の西銀座に明工舎を創立した。
明治22年(1889年)、創業者の名前をとって明工舎を沖電機工場と改称した。同社は日本最初
の通信機器メーカーとして、明治29年(1896年)に国産初の直列複式交換機、明治35年に国産
初の磁石式並列複式交換機、明治42年に共電式電話機と、電信電話事業の発展に貢献してきた。
その後大正元年(1912年)に沖電気株式会社を設立し、昭和24年に企業再建整備法により沖電
気株式会社を解散して現在の沖電気工業株式会社が設立された。
戦後は通信に加えて、オンラインシステムや半導体などの電子技術分野でも活躍している。
アンリ ツ
電信局製機所の同期であった石黒慶三郎と杉山鎌太郎は、明治28年(1895年)に合資会社石杉
社(せきさんしゃ)を設立して、電信機及びその附属品、絹巻線、エナメル線など製造を始めた。
明治41年(1908年)に阿部電線製作所と合併して共立電機電線株式会社を設立し、共電式自働
電話機(大正14年に公衆電話機と改称)の量産化に着手した。
一方、工科大学の助手であった安中常治郎は、無線電信電話事業に着目して、X線機及び無線電信の
主要部分であるインダクションコイルや蓄電池を研究していたが、明治33年(1900年 に
) 個人経
営の安中電機製作所を創立した。安中式インダクションコイルを完成させ、明治36年の第5回内国勧
148
業博覧会にこれを使った安中式無線電信送信機と30センチ火花コイルを出品して称賛を浴びた。
軍事技術として無線電信の実用化を急いでいた海軍省は安中製品に注目し、海軍三六式無線電信機の
主要部分の生産を発注した。日露戦争の開戦前に海軍艦船全部に無線電信が設備された。明治38年の
日本海海戦で哨艦信濃丸が「敵艦見ゆ」の無線警報を打ち、日本艦隊大勝の端緒をひらいたのもこの無
線電信 機 で あ っ た 。
また、明治45年には逓信省電気試験所のTYK式無線電話機を完成させ、大正5年、三重県・鳥羽
一答志島、神島間での電報業務に利用された。これが世界初の無線電話の実用化として脚光をあびた。
大正13年には、放送事業開始にともない、ラジオ受信機、スピーカー、ヘッドホーンの製造を始めて
いる。
昭和6年(1931年)、当初から関係の深かった共立電機と安中電機が合併し、安立電気株式会社
が誕生した。昭和14年には、国産初の自動式公衆電話機1号機が完成。また同年に、現在のテープレ
コーダーの母体となった交流バイアス式磁気録音機を開発した。
昭和60年(1985年)、社名をカタカナにしたアンリツ株式会社に変更した。
産業用ロボットのファナックはコンピュータの富士通から分かれ、その富士通は富士電機から別れた
会社で あ る 。
149
富士電機と富士通
電機産業の誕生物語
母体となった富士電機製造株式会社は、大正12年(1923年)の創業で、翌年には電動機の製造
を開始している。以来重電メーカーとしての地位を築いてきた。
昭
和10年(1935年)に電話部所管業務を分離して富士通信機製造株式会社(現・富士通)が設
立され た 。
戦後すぐの昭和20年12月、富士形電話機を逓信院が採用し、電話機製造業者に指定された。電
話 を 中 心 と す る 通 信 器 機 が 事 業 の 大 き な 柱 で あ る が、 も う ひ と つ の 柱 で あ る 電 子 工 業 は 昭 和 3 6 年
子工業部の2工業部を中核にした「通信と電子の富士通」へと機構改革をしている。そして昭和42年
(1961年)のトランジスタ式大型汎用電子計算機の完成をもって本格化し、同年に通信工業部と電
(1967年)、現在の富士通株式会社に社名変更した。もちろん前社名の富士通信機製造から最初の3
文字をとったものである。
昭和55年(1980年)には前年度の電算機部門の売上げで国内第1位になった。日本語ワードプ
ロセッサ「オアシス100」を発表したのもこの年である。
また、富士通は昭和31年(1956年)に、民間における日本最初のNC(数値制御装置)の開発
に成功した。このNC部門を昭和47年(1972年)に分離独立させて設立したのが富士通ファナッ
ク株式会社である。昭和57年に富士通の名前を外してファナック株式会社へ社名変更した。
150
鉱山の日立と新興の起業家たち
鉱山から始まった日立は巨大な企業グループを作り上げた。一方、松下やソ
ニ ー は カ リ ス マ 的 な 創 業 者の も とで戦 後 日本を 代 表する 国際企 業に成長 した。
戦後の電機産業は時代の流れにのって小さな町工場から大企業へ発展する例が
少なくない。
鉱山から始まった日立グループ
株式会社日立製作所は日本の総合電機メーカーの最大手で、900社以上におよぶ日立グループの中
核企業である。同社の始まりは日立鉱山で使用している電気機器の修理工場であり、日立の名前も日立
鉱山からとられている。
創業者である久原房之助は、明治2年(1869)に山口県萩市で醸造業の4男として生まれ、のち
に政治家としても活躍した人物である。父の庄三郎は、藤田組 現
( ・藤田観光 創
) 始者藤田伝三郎の次
兄で、房之助は慶応義塾大学を卒業後、森村組(現・ノリタケ)をへて藤田組に就職し、秋田の小坂鉱
151
そこで、日立グループの母体となった日立鉱山の由来から始めよう。
電機産業の誕生物語
山に赴任して明治33年事務所長となった。そして明治38年に藤田組を退職し、政治家の井上馨の助
力をえて日立の赤沢銅山を買収し、日立鉱山を設立した。
日立鉱山は明治40(1907年)に久原鉱業所と改称し、日本有数の産銅会社へ発展していき、の
ちに日本鉱業を経て現在のジャパンエナジーになった。第一次世界大戦で業績を伸ばし、造船、製鉄、
海運、生命保険、商事など多方面に事業を拡大していった。その後産銅事業の不振で久原鉱業の再建を
親戚の鮎川義介に委ねた。
鮎川は昭和3年に持ち株会社の日本産業に改組して、日本鉱業、日立製作所、日本水産、日産自動車
などを中心とする新興財閥日産コンツェルンをつくりあげたのだった。日立鉱山は昭和56年
(1981
年)に 閉 鎖 さ れ た 。
この久原鉱業所日立鉱山の工作課長だった小平浪平は、同鉱山の電気機械の修理をおこなうために、
明治43年(1910年)、茨城県日立町 現
( ・日立市 に
) 日立製作所を創業した。
その後、モーターや発動機などを製作するようになり、大正9年(1920年)に久原鉱業所から独
立、さ ら に 大 阪 鉄 工 所 現
( ・日立造船 、)東京瓦斯電気工業などをつぎつぎに買収合併していった。
戦時中は軍需関連に進出し、重電機器や一般機械、車両の製造まで事業分野を拡大したが、戦後は過
度経済力集中排除法による分割や、経営陣の公職追放などで危機におちいった。しかし家電市場に参入
して高度成長期とともに大きく発展した。
日立グループのなかでは乾電池の日立マクセルが馴染み深いが、マクセルとはなんのことだろう。
日立マ ク セ ル
152
日立マクセル株式会社は昭和36年(1961年)に創業し、電池と記録メディアを2大事業分野と
している。マクセルの名前は創業製品の乾電池のブランド名で、「 Maximum Capacity Dry Cell
(最大容
量の乾電池)」に由来する。マクセル・ブランドは国産初のアルカリ乾電池、国産初のフロッピーディ
スクを経て世界初のDVD-RAM商品化へと受け継がれてきている。
ナショナルとパナソニック
松下電器の創業者・松下幸之助は立志伝中の人物であるから、いまさら多くを語る必要はないだろう。
社名の松下も創業者の名前から取られていることは明白である。ここではナショナルとパナソニックの
ブランド名の由来を中心に述べよう。
明治27年(1894年)に和歌山県で生まれた松下幸之助は、小学校卒業を前にして大阪へ丁稚奉
公に出された。彼は大阪を走る市電を見て電気の将来性を感じ、電気関連の仕事をしたいと思うように
なった 。
今の大阪市生野区の借家に妻むめのの15歳になる弟・井植歳男(三洋電機創業者)を呼び寄せ、3人
でソケットの製造販売を始めた。翌大正7年に現・大阪市福島区の2階建て借家に移り、松下電気器具
製作所を創立した。松下電器が電気でも電機でもないのは、電気器具を略したからである。
153
15歳のとき大阪電灯に就職して技術を学び、20歳で井植むめのと結婚、22歳のときに作った改
良ソケットの試作品が上司に酷評されたのをきっかけに独立を決心した。そして大正6年(1917年)、
電機産業の誕生物語
幸之助は便利で品質のよい配線器具を作ろうと、夜遅くまで配線器具の考案に没頭し、最初の製品「ア
タッチメントプラグ」、続いて「2灯用差し込みプラグ」を製作、発売した。これらは一般製品より品
質がよく価格も安かったので、よく売れた。そして大正9年、京都・石清水八幡宮の「破魔矢」と松下
の頭文字「M」を組み合わせた初めての商標「M矢のマーク」を作った。これには障害を突破し、目標
に向かって突き進む意味が込められていた。
つぎに幸之助が取り組んだのは自転車用のランプだった。当時の自転車用の灯火はローソクか石油ラ
ンプが中心で、電池式もあったが点灯時間が短く、故障も多かった。大正12年に従来製品の10倍長
持ちする「砲弾型電池式ランプ」を完成させ、「エキセル」の商標で販売した。それを改良した角形ラ
ンプの発売は昭和2年(1927年)のことであったが、このとき初めて「ナショナル」の商標が付け
られた 。
角型ランプの名称を考えていた幸之助は、ある日、新聞で「インターナショナル」の文字を見、辞書
を引いたら「国際的な」とあった。そして「ナショナル」は「国民の」という意味であった。
「これだ!」
と思った幸之助は「ナショナルの商標をつけ、国民の必需品にしよう」と決心した。
「 ナ シ ョ ナ ル ラ ン プ 」 の 販 売 は 大 成 功 を 収 め、 昭 和 4 年( 1 9 2 9 年 ) に松 下 電 器 製 作 所 と 改 称 し、
同時に松下電器の進むべき道を明示した「綱領・信条」を制定した。昭和10年には電気器具の有力メ
ーカーにまで育ち、「会社は社会からの預かり物」という考え方から松下電器製作所を改組して松下電
器産業株式会社を設立し、同時にこれまでの事業部制を発展させた「分社制」を採用して事業部門別に
子会社 を 設 立 し た 。
154
もうひとつのパナソニックは、戦後の音響製品に付けられたブランド名である。最初は昭和30年頃
に人気のあったスピーカーのアメリカ向け商品名で、「音」を意味する形容詞のSONICに「すべて」
を意味する接頭語を付けた造語である。
その後、パナソニックのブランド名はアメリカで有名になり、日本でも音響製品のブランド名として
使われるようになった。さらに電子機器などの先端技術にもパナソニックが使用され、従来の家電製品
ブランドである「ナショナル」との使い分けをしているようだ。
なお平成15年1月にグループ再編を行い、松下通信工業株式会社、九州松下電器株式会社、松下精
工株式会社、松下寿電子工業株式会社、松下電送システム株式会社の5社は松下電器産業の完全子会社
となっ た 。
ところで、グループ会社の中でちょっと異色な名前が松下寿ではないだろうか。なぜ「寿」なのか。
どうも創業者の稲井隆義は「寿」の文字が好きだったようで、昭和35年(1960年)に設立した寿
電工株式会社、昭和39年に設立した寿電機株式会社、昭和42年に設立した寿録音機株式会社、とす
べての会社に「寿」の文字を付けている。
4
を生産 し て き た 。
155
昭和4 年には、これらの3社が対等合併して現在の松下寿電子工業株式会社が設立された。創業翌
年の昭和36年に日本初の赤外線健康コタツを開発し、その後もテープレコーダー、カラーテレビなど
電機産業の誕生物語
世界のブランド「ソニー」
「 戦 時 中、 私 ガ 在 任 セ ル 日 本 測 定 器 株 式 会 社 ニ 於 テ 、 私 ト 共 ニ 新 兵 器 ノ 試 作 、 製 作 ニ 文 字 通 リ 寝 食 ヲ
忘レテ努力シタ、技術者数名ヲ中心ニ、真面目ナ実践力ニ富ンデイル約二十名ノ人達ガ、終戦ニ依リ日
本測定器ガ解散スルト同時ニ集マッテ、東京通信研究所ト云フ名称デ、通信機器ノ研究製作ヲ開始シタ。
」
昭和21年(1946年)1月、ソニーの創業者、井深大が起章した東京通信工業株式会社設立趣意
書の前文である。井深は戦時中に在任した日本測定器株式会社で、ともに新兵器の研究開発にあたった
技術者を中心に20名で東京通信研究所を設立したとある。
日本測定器株式会社の主要製品のひとつである真空管電圧計の技術を引き継ぎ、ラジオを始めとする
通信機器の研究製作からスタートしたが、早くも昭和25年には日本初のテープレコーダーを生み出し
ている 。
さらに昭和30年(1955年)には日本初のトランジスタ・ラジオを発売し、大ヒットする。早速
このトランジスタラジオをアメリカに輸出しようとしたが、自分たちの社名がアメリカ人に発音できな
いことが問題となった。そこで井深の盟友である盛田昭夫専務が中心となって、ソニーというブランド
名を決 め た 。
ソニーには、小さい坊やという意味の「SONNY」が、音を意味する「SOUND」や「SONI
C」の語源であるラテン語の「SONUS(ソヌス)」と通じることから付けた名前で、自分たちの会
社は非常に小さいが、はつらつとした若者の集まりであるという意味も込められている。また、テープ
156
レコーダーのテープに紙テープと違うことを示すためにsoni(音を意味する)という文字を表示し
ていたことがあった。それを英語読みすると「ソナイ」となってしまうし、坊やを意味する「SONN
Y」だと、ローマ字読みで「損に」となるので、「SONY」としたという話もある。
昭和33年(1958年)に社名を現在のソニー株式会社に変更した。このときも、すでに名の通っ
ている東通工でいいとか、ソニー電気のほうが何の会社か分かりやすいとかの意見があったが、ブラン
ド戦略にこだわる盛田がソニーで押し通したのであった。
昭和35年に世界初のトランジスタ・テレビを発売し、昭和38年には世界初のトランジスタ小型V
TRを発売した。トランジスタのソニーの名声は高まっていった。
昭和39年に完成したソニー独自のカラーテレビであるクロマトロンは弱点が多く、なかなか解決へ
の糸口が見いだせないために「苦労マトロン」と陰口を言われた。クロマトロンを諦め、1本の電子銃
で3本の電子ビームを走らせる新方式を開発した。これを、キリスト教で三位一体を意味するトリニテ
ィからトリニトロンと名付け、昭和43年に発売した。
ヘッドホンステレオという新分野を開いたウォークマンは昭和54年(1979年)に発売された。
音楽好きな井深は、海外出張の機内でも小型テープレコーダーとヘッドホンでステレオ音楽を楽しんで
だった 。
すでに昭和52年に小型のモノラルテープレコーダー「プレスマン」を発売しており、そのボディか
ら録音機能を外してステレオ回路を組み込んだ試作器が作られた。歩きながら聞く「プレスマン」とい
157
いた。しかし、重くて携帯に不便だったので、再生だけでいいから小さいのを作ってくれと要望したの
電機産業の誕生物語
うことで「ウォークマン」と名付けられた。和製英語の「ウォークマン」は、『広辞苑』や『オックス
フォード・イングリッシュ・ディクショナリー』など、世界の権威ある辞書にも載るほどポピュラーに
なって い る 。
1990年に世界規模で行われた企業のブランドイメージ調査で、ソニーは「評価度」で世界第1位
となっ て い る 。
テレビの父とビクターの犬
日本ビクター株式会社は昭和2年(1927年)に日本ビクター蓄音機株式会社として設立され、翌
年にはレコードを初プレスしている。昭和8年には「東京音頭」が大ヒットしたが、家電メーカーとし
て大きく成長するのは戦後の昭和21年、高柳健次郎が入社してからのことである。
「テレビの父」といわれている。
高柳健次郎は世界で初めてテレビ映像実験に成功した人で、
小学生のころから無線に興味を持っていた高柳は、ラジオ放送が無線で声を送れるのならば、映像だ
って送れるはずだと考えていた。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授となった大正13年
(1926年)ごろから本格的にテレビの研究を始めた。そして、大正天皇が崩御して昭和が始まる大
正15年(1926年)12月25日、世界で初めてブラウン管による電子式受像に成功した。送像側
にニプコー円盤(機械式)、受像側にブラウン管(電子式)を用い、
「イ」の字を見事にブラウン管に映
し出し た の だ っ た 。
158
昭和15年(1940年)に開催される予定だった東京オリンピックをテレビ放送する計画があり、
高柳は昭和12年から日本放送協会(NHK)技術研究所でその準備を進めたが、第2次世界大戦のた
めにオリンピックもテレビ放送も夢と消えた。
終戦を迎えた昭和20年の暮れに日本ビクター株式会社に社名変更し、翌年に高柳が入社した。高柳
はビクターの技術陣を率いて新技術開発に邁進していった。
ビクターは昭和25年(1950年)に日本初のLPレコード発売、昭和31年にテレビ受像機発
売、昭和33年に日本初のステレオ演奏器 「STL1 S」
発売するなど、AV分野での躍進が著しく、昭
和51年(1976年)のVHSビデオの成功でその地位を確立した。
ところでビクター犬は実在の犬がモデルで、その名前は「ニッパー」という。
1889年のことである。イギリスの画家フランシス・バラウドは、兄のマークがこの世を去ったた
め、その飼犬であるフォックス・テリア犬のニッパーを引き取って育てていた。
ある日フランシスは、家にあった蓄音器で、かつて吹き込まれていた兄の声をニッパーに聞かせてみ
た。ニッパーはラッパ型スピーカーから出てくるに主人の声に驚き、耳を傾けて聞き入っていた。その
その時の蓄音器は録音・再生ができるシリンダー式だったが、後でフランシスは円盤式の蓄音機に描
き変え、「 His Master's Voice
」というタイトルをつけて発表した。
その絵をを見た円盤式蓄音器の発明者ベルリナーは、亡き主人の声を懐かしそうに聞いているニッパ
ーの姿に感動し、この絵をそのまま商標として使うことに決め、1900年に商標登録をしたのである。
159
様子に心を打たれたフランシスは、聞き耳を立てるニッパーの姿を1枚の絵に描き上げたのだった。
電機産業の誕生物語
シャープペンシルのシャープ
( ンドのバックル の
) 発明で特許を取り、大正元年(1912年)に
創業者の早川徳次氏が徳尾錠 バ
18歳で金属加工業を創業したのがシャープの始まりである。
早川は金属文具の製作技術の研究改良を進め、大正4年に金属繰り出し鉛筆を発明。これを早川式繰
出鉛筆と呼んで特許を申請し、スクリューペンシル、プロペリングペンシルの名で売り出したが、日本
よりも先に欧米でヒットし、評判を聞きつけた国内の問屋もあわてて取り扱うようになった。そこでこ
の年、早川兄弟商会金属文具製作所を設立して、金属繰出鉛筆の本格的な生産を始めた。
早川はさらに金属繰出鉛筆の改良を重ね、翌年の大正5年(1916年)にはこれまでにない極細芯
の近代的な筆記具となった。名称もエバー・レディ・シャープ・ペンシル(常備芯尖鉛筆)と改め、軽
快さとモダンさを備えた先端文具として一世を風靡した。これが現在のシャープペンシルの始まりであ
り、社名シャープの由来でもある。
大正12年の関東大震災はシャープペンシル工場を破壊し、早川は翌大正13年に従業員3人ととも
に大阪に移って早川金属工業研究所を創設し、再起をもとめた。
その年の暮れ、心斎橋で輸入されたばかりのアメリカ製鉱石ラジオ受信機を買い求めた早川は、ラジ
オの製作に乗り出す決心をした。翌年の大正14年に日本でもラジオ放送が開始されると発表されてい
たが、受信機は外国からの輸入に頼るしかない状況だったからである。
160
大正14年(1925年)4月、早川は国産ラジオ受信機第1号の鉱石ラジオセットの組み立てに成
功した。翌年にはラジオ受信機にシャープダインと命名し、シャープのブランド名が誕生する。昭和3
年(1928年)には鉱石ラジオに替わる新しい交流式真空管ラジオを発売し、同社はラジオ・ブーム
とともに成長していった。
昭和10年(1935年)に法人化して株式会社早川金属工業研究所を設立、翌年に早川金属工業株
式会社と改称し、さらに昭和17年に早川電機工業株式会社に社名変更した。
戦後は家電製品の販売で業績を伸ばすとともに、電子部品の分野へも進出し、昭和39年(1964
年)には世界初のオールトランジスタ・ダイオードによる電子式卓上計算機を完成させ、昭和41年に
は世界初のIC電卓を発売した。
昭和45年(1970年)、社名を現在のシャープ株式会社に変更した。昭和48年には電卓の表示
装置として世界で初めて液晶の実用化に成功し、その後液晶のトップ企業へと成長していった。
三洋電機と山洋電機
いメン バ ー で あ る 。
161
山洋電機は昭和22年(1947年)に井植歳男によって創業された。前述したように彼は松下幸之
助の義弟で、大正7年の松下電器の創業時には松下夫妻と3人で電球ソケットの製作に当たった最も古
電機産業の誕生物語
井植は自身の事業の創業にあたって、太平洋、大西洋、インド洋の3つの海につながる国々、すなわ
ち全世界を表わすものとして三洋電機株式会社と名付けた。これには、世界を相手に人間、技術、サー
ビ ス を 三 本 の 柱 と し て 進 め て い く と い う 意 味 も 込 め ら れ て い る。 ま た、
「私ども事業人の信念とは人種
や思想や宗教や貧富の差別なく照らしてくれる太陽のごときものでありたい」という理念を持ち、三洋
電機は世界を対象とし、世界を照らす「太陽(サン)
」 の よ う に、 人 々 に と っ て な く て は な ら な い 存 在
になりたいと考えていたのである。
平成元年(1989年)、「人と・地球が大好きです」という企業スローガンを掲げた三洋電機は、「太
陽のごとく」という言葉どおり、太陽光エネルギーの研究開発にも力を入れていることでも有名である。
山洋電機の山洋は「さんよう」でも山と海(洋)のことである。
山本秀雄が昭和2年(1927年)に、無線通信機器用の電源を製造販売する「山洋電気商会」を創
立したのが始まりである。
山洋の社名には「世の中の荒波を乗り越えて、いくつもの山坂を踏破して、これから無線分野という
広 い 海 に 乗 り 出 す の だ 」 と い う 気 概 が 込 め ら れ て い る。 ま た、
「山」は山本の名前からとられたもので
もある だ ろ う 。
創立3年後の昭和5年に株式会社に組織変更し、昭和15年(1930年)に山洋電気株式会社に社
名変更 し た 。
162
地名や創業者の理想を示す
創業者の発明や新技術を元手に起業した会社では、拠点の地名や創業者の理
想が社名に反映しているケースが少なくない。そこに会社の出自や理念がうか
がえるのである。
仁和寺の御室とオムロン
オムロンは旧社名を立石電気といい、創業者の立石一真の名前から取られているが、彼が最初の事業
おこしたのは昭和5年(1930年)に京都市下京区の工場付き長屋を借り受けて設立した彩光社であ
った。
立石は発明家で、すでに「ズボンプレス」の実用新案を個人で取得しており、彩光社でその製造販売
を始めた。しかし売れ行きは不振で、新たにナイフグラインダを開発・製品化して縁日での露店販売も
2年後の昭和7年、友人から「レントゲン写真用の正確なタイマ撮影装置があれば売れる」という話
を聞いて、図面から部品生産に至るまですべて1人で取り組み、試行錯誤の末に試作品を完成させた。
163
行ったが、苦境を脱することはできなかった。
電機産業の誕生物語
それを大阪の日生病院に持ち込んだところ、期待通りであったので、株式会社大日本レントゲン製作
所から大口受注を得た。そこで昭和8年に大阪で立石電機製作所を創業し、レントゲン写真撮影用タイ
マの生産を開始した。さらに、レントゲン用タイマに使用している誘導型電圧継電器を改良して、一般
の配電盤用の誘導型限時継電器なども開発し、継電器の専門工場として自立していった。
昭和18年には、東京帝国大学航空研究所から要請された日本初の国産マイクロスイッチの開発に成
功した。そのころから第2次大戦の戦火は強まっていった。立石は戦災を避けるため、京都・御室に分
工場の建設を計画した。
御室工場の建設を進めていた昭和20年に、度重なる空襲で東京出張所と大阪本社工場の全施設が焼
失してしまった。会社再建の鍵を握る御室の分工場が完成したのは、昭和20年8月15日で、この日
の正午に終戦の詔勅が放送された。
戦後は、まず五徳付電気七輪を発売したところ、燃料不足という社会情勢を受けてヒットした。さら
に女性の整髪用ヘアアイロンを考案して「Omlon」のブランドで販売、またオムロン万年マッチ、
棗(なつめ)型卓上ライターなどをつぎつぎに開発・製品化していった。
オムロンのブランド名は工場のある京都市御室の地名からとられたものである。御室といえば、世界
遺産にも登録されている仁和寺(にんなじ)で有名で、境内の「御室桜」は古来より人々に親しまれて
いる。立石にとっても馴染み深い地名であった。
立石電機製作所は、昭和22年の電力危機に際して電流制限器を開発したが、個人経営では電力会社
からの受注に不利であるため、昭和23年(1948年)に株式会社化して立石電機株式会社を設立し
164
平成2年(1990年)にCIを行って、ブランド名を冠したオムロン株式会社に社名変更した。
た。その後はオートメーションとサイバネティックス(自動制御技術)を軸に発展していった。
地名が隠された会社
創業地の地名を社名に取り入れている企業は多いが、電機業界では、一見それとわからないものも少
なくない。当初は地名がそのまま使われていたものを、社名変更するさいに省略したというケースが多
いからだ。その場合、カタカナ表記を漢字に置き換えてみると、元の地名がうかがえたりする。
また、東芝の「東」が前身の東京電機を意味しているように、東京で創業された電機会社は多いが、
TDK、シントム、ティアックなどのように、元の「東京」の文字がほとんど分からなくなっている会
社もあ る 。
京セラ
昭和34年(1959年)、京都市中京区にファインセラミックスの専門メーカー京都セラミツク株
式会社として創業された。
当時は「セラミック」という言葉はまだあまりなじみがなく、一般に「特殊磁器」と呼ばれていたが、
語感に迫力があり、現代的でもあるとして、「セラミック」を社名に採用した。ただし「ミック」では
165
京セラの「京」は京都の略で、漢字が残っているだけに分かりやすいかもしれない。
電機産業の誕生物語
なく「ミツク」と表記している。頭に「京都」を付けたのは、所在地でもあり、また将来海外と取引を
する場合にも「京都」なら外国に知られているという理由からである。
多角化でセラミックス以外の異分野・異業種への進出が進み、昭和57年(1982年)にグループ
会社4社を合併した際、社名を現在の京セラ株式会社に変更した。旧社名を略した「京セラ」がすでに
一般的な呼称になっていたからである。
ビデオ)は、
名称も「SAMURAI(サ
ちなみに、ユニークな縦型フォルムのカメラ(銀塩、デジタル、
ムライ)」というユニークなものである。これはSuper Auto-Matic URban Ama
zing Innovationから付けられたとのことだが、「新しい世代のカメラを生み出す」とい
う開発思想を表現するためにユニークな名前が望まれたのである。
ダイヘ ン
大正8年(1919年)、大阪市大淀区に柱上変圧器の専門メーカーとして大阪變壓(変圧)器株式
会社が 設 立 さ れ た 。
社名を付ける際に、当時は○○電機という名前が一般的であったにもかかわず、小林常務はそれを採
用しなかった。小なりといえども、わが国唯一の変圧器専門メーカーであるから「変圧器」を社名に採
ることによって、それを表明しようと考えたのである。
「電気の電圧を変えるもの」と
しかし、問題もあった。変圧器というものがまだ一般に理解されず、
いっても通じない。電話で説明する時は「電気の機械を作る会社」と説明していた。また、変圧器とい
166
う字が「變壓器」という難しい字だったから、相手になかなか覚えてもらえなかった。
ともかく、変圧器の名を入れることは決まった。次にその頭に何を付けるかである。大阪で事業を始
めるのであるから「大阪」がいいと素直に決まった。こうして大阪変圧器という社名が生まれた。
1980年代の半ばには、新産業分野への業容拡大を積極的に進めた結果、変圧器以外の売上高が
40%を超え、創業以来の大阪変圧器という社名が実態にそぐわなくなった。従来から社名を略して音
読みにした「ダイヘン」という呼称がブランド名として浸透していたので、昭和60年(1985年)
に現社名の株式会社ダイヘンに社名変更した。
イビデ ン
岐阜県南西部を流れ、長良川と合流して伊勢湾に注ぐ揖斐(いび)川が社名の由来である。
同社は大正元年(1912年)に設立された揖斐川電力株式会社が前身で、大正4年に西横山発電所
で発電を開始した。大正7年に社名を揖斐川電化株式会社と変更し、さらに大正10年に揖斐川電気株
式会社へ変更、そして昭和15年に揖斐川電気工業株式会社に変更した。。
TDK
昭和10年(1935
オーディオテープ、ビデオテープや電子部品メーカーとして馴染みのTDKは、
167
昭和52年(1982年)、創立70周年を迎えて社名をカタカナ表記のイビデン株式会社に変更した。
これで揖斐(いび)川の名前が見えにくくなった。
電機産業の誕生物語
年)に磁性材料フェライトの生産を目的として設立された東京電気化学工業株式会社が前身である。
昭和12年にフェライトコアを「オキサイドコア」の名前で発売し、昭和14年には海軍技術研究所
が同社のフェライトコアを船舶無線用として正式採用している。
戦後のオーディオブームで業績を伸ばし、フロッピーディスクの発売を始めた昭和58年に社名を現
在のTDK株式会社に変更した。東京電気化学工業株式会社をローマ字表記した頭文字がTDKである。
シント ム
昭和30年(1955年)に新東京無線株式会社として設立された。カーラジオ、カーステレオなど
の製造を行っており、昭和48年に現在の社名であるシントム株式会社に社名変更した。旧社名を略し
てカタカナ表記にしたものである。
ティア ッ ク
昭和28年(1953年)に設立された東京テレビ音響株式会社が前身で、その後、東京電気音響株
式会社、ティアック株式会社と社名変更した。TEACは東京電気音響株式会社の英語表記の頭文字で
ある。
創業者の理想、発展への願い
創業者の理想や事業の発展への願いが込められた社名は多く、電機業界も例外ではない。ときには創
168
業者の意外な趣味がうかがわれたりもする。
アイワ
アイワとは日本語にすれば「愛」と「和」、つまりラブ・アンド・ハーモニーの心で品質の優れた使
いやすい商品を世界の人々に提供したいとの意味が込められている。
しかしそれだけではない。「アイワ」にはアラビア語で「YES」の意味があり、アラブ圏での日常
会話にも頻繁に登場するし、中国語圏では「愛華」と表記される親しみあるネーミングなのである。
昭和26年(1951年)、電気通信機器の製造販売を目的として、東京都千代田区に設立された愛
興電機産業株式会社が前身で、当初はマイクロホンの製造販売をしていた。アイワは商品のブランド名
であった。昭和34年(1959年)に、ブランド名の「AIWA」を社名とし、アイワ株式会社に社
名変更 し た 。
昭和39年(1964年)には日本で最初のカセットテープレコーダーを開発、発売しているが、昭
和44年(1969年)にソニー株式会社との技術・業務・資本の提携により子会社となった。
創業者の松本望はキリスト教信者であった。彼が昭和13年(1938年)に会社を設立した際に、
聖書の「福音」の名前を社名に入れ、福音商会電機製作所と命名した。
、東証
スピーカーを始めとする音響機器メーカーとして成長した同社は、昭和36年(1961年)
169
パイオ ニ ア
電機産業の誕生物語
二部に上場する際にパイオニア株式会社へ商号を変更した。
同社の社是のなかに『開拓者精神を発揮する事』とあり、その理念を実現するために、開拓者=パイ
オニアを社名としたのである。
前身は昭和23年(1948年)に片岡勝太郎が設立した片岡電気株式会社で、ロータリスイッチの
アルプ ス 電 気
製造販売を行っていた。 彼は、世界最高峰となる製品を生み出したい、日本だけでなく世界で通用す
る名前を、ということから製品のブランド名にヨーロッパ最高峰の山脈アルプス(ALPS)の名前を
付けた 。
昭和39年(1964年)、ブランド名を冠したアルプス電気株式会社に社名変更した。
フォス タ ー 電 機
昭和24年(1949年)、東京渋谷に設立された信濃音響研究所が前身で、このときの社名「信濃」
は創業者の二人が長野県の出身だったところからきている。
現在はOEM専業メーカーで、独自の商品を持たないが、当初はスピーカの製造を行っており、フォ
スターはその商標である。昭和28年に社内公募で決まり、商標として使用され始めた。英語のFOS
TERには「育てる」「はぐくむ」という意味があり、作曲家のフォスターにも通じるというのが大き
な理由である。 この商標と社名を統一するため、昭和34年(1959年)に現在の名称であるフォ
スター電機株式会社に改称した。
170
スタン レ ー
自動車のヘッドランプでシェアを持つスタンレー電気も人名から取られた名前で、探検家のスタンレ
ー卿にあやかったものである。
北野隆春が大正9年(1920年)に北野商会を創業し、大正12年に自動車電球・特殊電球の製造
販売を開始したことから同社の歩みが始まった。
まだ動車保有台数が僅か8000台足らずで、しかもその総てが輸入車という時代である。まさに創
業精神にある「先見性」と「勇気ある決断・行動力」の実践である。
この創業精神を体現した人物として、19世紀後半にアフリカ探検で名を馳せた探検家ヘンリー・モ
ルトン・スタンレー卿が挙げられる。ということで、昭和8年(1933年)の株式会社化に際して、
探検家スタンレーの名前をとったスタンレー電気株式会社とした。
マスプ ロ 電 工
マスプロの名前は、「MASTER OF PRODUCTION」(生産の覇者)から、ヘッドの3
文字づつをとって、MASPROとしたものである。
171
テレビアンテナを主力製品とする同社は、日本でテレビ放送の始まった昭和28年(1953年)に
創立さ れ た 。
電機産業の誕生物語
シスメ ッ ク ス
東亞特殊電機株式会社(現・TOA株式会社)が製造する医用電子機器(自動血球計数装置)の販売
会社として昭和43年(1968年)に設立された東亞医用電子が前身で、昭和47年に東亞特殊電機
の医用電子機器開発製造部門を譲り受けている。
東亞医用電子の名から「トーア」という商品ブランドを使っていたが、昭和53年の設立10年を機
に、海外でも通用するブランドとして新ブランド名「シスメックス(SYSMEX)
」を制定した。
シスメックスは、SYStematical(組織的)とMEdics(医療)とX(未知なる物へ
の挑戦、無限の可能性)を組み合わせたつくった造語である。「未知なる医療に挑戦する組織」という
願いが込められたものだろう。
事業内容が医療関係だけでなく工業関係へも進出したこと、国内でも海外でもシスメックスというブ
ランド名が浸透したこともあり、平成10年(1998年)、創立30周年を機にシスメックス株式会
社に社 名 変 更 し た 。
172
7
建設業のルーツは古い
灌漑事業や都市の建設を行う技術者と労働者の集団
を建設業と呼ぶなら、そのルーツは文明の始まりと同
じくらい古いといえるだろう。日本では築城や寺社建
築に独自な技術蓄積を持つが、明治維新や関東大震災、
戦後復興、そして高度成長期などの建設需要の高まり
を背景に大きく飛躍し、大手ゼネコンを頂点とする土
建業ピラミッドが形成される。
173
そもそもは大工の棟梁から始まった
日本最古の建築会社とされる金剛組の由来は飛鳥時代にさかのぼり、聖徳太
子ゆかりの四天王寺を建立した百済(朝鮮)からの渡来人が起源だという。江
戸時代ごろの大工から発展した会社も多く見られる。ケンカと火事は江戸名物
といわれるほど、江戸の街は何度も大火にあっており、大工の需要が多かった。
その大工の棟梁が○○組を名乗って建設業を請け負ったのである。
最初の大きな飛躍は、明治維新による文明開化の波で、洋風建築や鉄道建設
などの需要に湧いた。会社名に「建設」という文字が登場するのは戦後のこと
で、昭和21年の大成建設株式会社が最初であった。それ以後、古いイメージ
の○○組から○○建設へ社名変更する会社が続出した
戦国時代から続く松井建設
松井建設は、建設業界のなかでも老舗中の老舗である。
創業が天正14年(1586年)というから、今から400年以上も前にさかのぼる戦国時代末期の
こと。羽柴秀吉が豊臣の姓を賜り、太政大臣に就いた年である。
174
この年、豊臣秀吉と縁の深い加賀藩前田家の第2代藩主利長の命を受け、初代松井角右衛門が越中守
山城(富山県高岡市)の普請に従事したのが松井建設の始まりといわれている。建設会社の歴史は古い
といっても、さすがにここまで古い会社は見あたらない。
松井角右衛門は、文禄2年(1593年)には伏見城普請のため京に上り、戦火により消失した端泉
寺(富山県井波町)の再建にも携わった。松井家はこの井波の地を藩主前田家より拝領し、北信越地方
を拠点にして社寺建築を中心に多くの建物を建設する。
端泉寺との関わりは現在にいたるまで代々続いている。また、秀吉は天正18年(1590年)に関
東に攻め上り、小田原城を制したが、その小田原城の復元(昭和35年年)も松井建設の仕事であった。
寺社建築の伝統は現在にも引き継がれている。
北陸から東京へ進出し、建設会社としての名を広めたのは、第15代角平のときで、関東大震災が契
機とな っ た 。
角平が東京帝国大学に在学していた時の恩師伊藤忠太博士に依頼され、新橋演舞場の設計監理をして
いた大正12年(1923年)、関東大震災が東京を襲った。工事は勿論中断、見渡す限りの瓦礫の山
里井波町の一族を説得して東京都京橋区入船町に松井組東京出張所を開設した。これを機に、社寺建築
だけではなく一般建築へと広く業容を拡大し、震災復興に尽力したのである。
震災で焼け落ちた築地本願寺別院復興工事(伊藤忠太博士設計)を請け負い、
昭和9年(1934年)
に竣工した作品は、インド様式を採り入れた、モダンで厳かな姿を誇り、松井組の名を一気に広めるこ
175
を見て、帝都復興こそ建設業者の使命ではないかと角平は強く感じ、東京進出を決意したのだった。郷
建設業のルーツは古い
ととな っ た 。
第二次世界大戦が勃発し、日本も太平洋戦争に突入すると、建設業者も軍需産業に方向転換をせざる
えなくなる。法規制が強まる中、松井組は組織の強化のために昭和14年(1939年)1月、
「株式
会社松井組」を設立した(資本金13万円)。戦時下では建設主要資材の入手は困難を極め、セメント
工場などには割当切符を手にした同業者が列をなしていたという。
終戦を迎えると、戦災復興事業が急務となった。受注は木造建築が多数を占めたが、昭和22年の成
増地区連合軍家族宿舎第三期工事はそれまでに請負っていた工事よりも遙かに規模・受注金額が大きく、
この工事を進めるにあたって会社規模を拡大することになった。
中央区日本橋江戸橋に本社を移転し、昭和23年、社名を「松井建設株式会社」に改称。昭和28年
(1953年)港区田村町に本社ビルを構えた。
この頃になると、日本の戦後復興もようやく落ちつき、神社・仏閣の再興の意識が強まるようになっ
てきた。第15代角平は歴史ある松井組の伝統を維持・発展させようと考え、社寺建築部を設置した。
伝統に裏打ちされた社寺建築のノウハウが現在の松井建設の大きな特徴となっている。
高度経済成長期の昭和43年(1968年)、第16代松井泰爾が社長に就任。昭和48年(1973
年)にはインド・ブッダガヤーにインド日本寺本堂・会館を造営。仏教発祥の地に日本様式の寺を逆輸
出するということで注目を集めた。
平成元年(1989年)第16代松井泰爾は角平を襲名した。
176
ドーム建築と竹中工務店
歴史の古さでは竹中工務店もひけをとらない。創業が慶長15年(1610年)というから400年
の歴史 を 誇 る 。
日本初の空気膜構造による東京ドーム(1988年)、やはり日本初の屋根開閉式多目的スタジアム・
福岡ドーム(1993年)をはじめ、ナゴヤドーム、大阪ドームなどのスタジアム建築で知られる竹中
工務店も、そもそもは社寺建築の棟梁から始まった。
初代竹中藤兵衛正高が名古屋で慶長15年に創業し、神社仏閣の造営を業としたのがはじまりである。
文化11年(1814年)には志摩国分寺本堂(三重県)
、店舗14年(1843年)には大宝神社本殿(滋
賀県)などを施工している。
明治に入ると、次第に洋風建築を手がけるようになり、名古屋鎮台、三井銀行名古屋支店、三井名古
屋製糸所などを施工する。明治32年(1899年)14代竹中藤右衛門は神戸に進出し、三井銀行神
戸小野浜倉庫を施工、この年を創立第1年とする。明治37(1904年)無筋コンクリートの住友安
明治42年(1909年)合名会社竹中工務店を設立し、神戸を本店に名古屋を支店とする。明治
45年(1912年)、商店建築では日本初の鉄筋コンクリート造の高島屋京都店を竣工した。
昭和12年(1937年)株式会社竹中工務店を設立し、取締役社長に竹中藤右衛門が就任。翌昭和
13年合名会社竹中工務店を株式会社竹中工務店に吸収合併した。
177
治川倉 庫 竣 工 。
建設業のルーツは古い
清水建設と幻の築地ホテル
古いということなら、清水建設の歴史もかなり古く、創業は約200年前にさかのぼる。初代清水喜
助が文化元年(1804年)に神田鍛冶町で大工を始めたのがはじまりとされ、社寺建築に実績を残し
てきた 。
清水喜助は、現在の富山県上新川郡大沢野町小羽(コバ)で、比較的上層の農家の跡取りとして生ま
れた。子供の頃から彫物が好きで、10代で農家を建てられるほどの腕を持っていたといわれる。
20歳のころ、郷里を後にして江戸にのぼり、神田で大工を始めたのが文化元年。その技量と人柄で
信用を拡大し、天保年間(1830年代)には江戸城西ノ丸修復工事に加わり、嘉永年間には牛込高田
穴八幡随身門を再建、彦根藩井伊家や肥前藩鍋島家の御用達大工を務めるなど、大工棟梁としての名を
高めた。また、高田八幡宮(現在の穴八幡神社)の随身門再建、浅草寺、寛永寺などの御用達大工を拝
命し、社寺建築に多くの作品を残した。
社寺建築の実績は現在にも引き継がれ、明治28年(1895年)の平安遷都1100年記念事業と
して創建された平安神宮、浅草寺(総本山)本堂(1956年)
、西新井大師総持寺大本堂(1970年)
、
増上寺(大本山)本堂大殿(1973年)、東大寺(大本山)金堂(大佛殿・国宝)昭和大修理(1975
年)、湯島神社本殿造営(1996年)などをはじめとする多くの作品を残している。
2代目清水喜助は、三井組の守護神である三囲神社(みめぐりじんじゃ)の内社殿を造ったことを縁
に、明治期に入ってからの三井関係の数々の工事を手掛け、さらには明治実業界の指導者渋澤栄一の知
178
遇を得て渋澤邸を施工するなど、事業を拡大していった。また安政6年(1859年)の開国とともに
開港場横浜に支店を出し、外国商館などを手掛けて西洋建築技術導入の道を付け、清水建設の基礎を作
ったの で あ る 。
日本で最初のホテルは明治元年11月19日に開業した築地ホテルで、施工は清水組2代目清水喜助
であった。江戸幕府は、交易の場所としていた築地の居留地周辺に外国人旅館を建てようとしたが、財
政が破綻状態だったため、施工者が建設資金3万両を調達し、経営もするという内容の計画だった。江
戸と横浜で大工の棟梁をしていた2代目喜助は、この話を聞きつけて名乗りを上げ、約束通りホテルの
経営も自ら行い、資金や人手を掻き集めてホテルを完成に導いた。
ホテルは7000坪の敷地に木造二階建、中央には3層の展望塔が取り付けられ、高さは地上18メ
ートル(現在のビルの7階相当)、間口73メートル、奥行きが61メートル。和洋折衷で客室102室、
1室が10~20坪の広さで暖炉もあり、風呂はシャワーつき、さらにバーやビリヤード室もあるハイ
カラな も の だ っ た 。
当時は、多くの庶民が長屋住まいで、江戸幕府が町屋を3階以上にすることを禁止していたから、東
京のどこからでも富士山が見えたという時代。ホテルには見物人が大勢押し寄せ、ホテルを描いた錦絵
しかし明治5年2月26日の大火で消失し、残念ながら幻のホテルとなってしまった。
昭和12年8月24日、株式会社清水組が設立され、昭和23年2月1日、清水建設株式会社に社名
変更して現在に至っている。
179
がいくつも作られるほどの人気を博したという。
建設業のルーツは古い
超高層ビルと鹿島建設
鹿島建設も明治以前の創業である。
江戸時代後期の文化13年(1816年)、武蔵国入間郡小手指村上新井(埼玉県所沢市)に生まれ
た鹿島岩吉は、江戸・四谷で大工の修行後、棟梁となり、
天保11年(1840年)に江戸中橋正木町(中
央区京橋1丁目)に店を構えた。屋号は「大岩」(大工の岩吉の略)
。当時の江戸は火事が多く、大工の
仕事は繁盛したらしい。岩吉はやがて3つの大名屋敷の出入株を得、桑名藩松平越中守の江戸屋敷ほか
を建築 し た 。
嘉永6年(1853年)、黒船に乗ったペリー提督が浦賀に来航し、幕府に開国を迫った。以来、外
国船が次々に来航し、横浜に外人が住み着くようになった。もともと漁村であった横浜は、領事館・商
館・住宅などの建築需要がふくれあがり、江戸の大工職人がこぞって進出した。
岩吉は江戸の店をたたんで横浜進出をはかり、横浜居留地第1号の英一番館やウォルシュ・ホール商
会(通称アメリカ一番館)を建築した。その縁で主人のウォルシュ兄弟から厚い信用を得たのである。
そのころ旧長州藩毛利家では東京邸洋館の建設を計画し,西洋事情に明るい旧藩士の伊藤博文らに相
談していた。伊藤は親しかったウォルシュ兄弟を通して岩吉を継いだ岩蔵を推薦し、毛利家東京邸洋館
建築を請け負うことになった。
「日本鉄道の父」とよばれる工部省鉄道頭・井上勝は長州藩出身で、幕末に渡英し、理化学・土木技
180
術などを学んでいた。毛利家は、西洋での生活様式や西洋館の実態について明るい井上に東京邸洋館新
築の監督を依頼した。この工事で井上と岩蔵が出会う。
井上は、鉄道建設というそれまでの日本には存在しなかった新しい建設工事を推進するために、岩蔵
に鉄道請負業に転身することを強く勧めた。洋館建築主体の事業を営んでいた岩蔵にとって、それは大
きな冒険であったが、鉄道建設の気運が全国的に高まっているのをみて転身の決心をした。明治13年
(1880年)のことであった。
この年、岩蔵は鹿島組を創立し、初代組長に就任。鉄道工事請負を積極的に進め、東海道本線丹那ト
ンネル(大正7年)工事で、「鉄道の鹿島」の名声を高めた。
明治24年(1891年)、信越本線の横川-軽井沢間のトンネル工事などに従事したことをきっか
けに、岩蔵が亀屋旅館(万平ホテル)の主人佐藤万平と知り合って、軽井沢の土地を購入した。自らの
別荘や西洋人向けの家具調度付きの別荘を建て、別荘地軽井沢の先駆けとなった。この時、岩蔵は広大
な敷地に植林を行い、今では樹木がすっかり成長して森になっている。これが「鹿島の森」である。
関東大震災(1923年)の復旧工事では鹿島組も大きく業績を伸ばし、昭和5年(1930年)に
は 上 野 駅 な ど の 建 設 を 手 が け た。 ま た こ の 年 の 2 月 2 2 日( 岩 蔵 の 命 日 )、 3 代 目 鹿 島 精 一 は 資 本 金
鹿島守之助が社長に就任した昭和13年(1938年)以降は、それまでの勘や腹づもりの請負業経
営に科学的管理法を導入することで一大改革をおこない、それまで“従”であった建築工事に積極的に
進出するようになった。その後、軍需産業関連の工事受注やダム建設などによって飛躍的な発展をとげた。
181
300万円をもって株式会社鹿島組に組織変更した。
建設業のルーツは古い
戦後の昭和22年(1947年)、社名を鹿島建設株式会社に変更。昭和24年、他社に先駆けて技
術研究所を設立し、最初に取り組んだ軟弱地盤を制する各種新技術・新工法は、昭和30年代の臨海工
業地帯の建設に「技術の鹿島」として参入する基礎を築いた。
日本初の原子炉、日本原子力研究所第一号原子炉が完成した昭和32年(1957年)、鹿島守之助
は国務大臣に就任し、社長を退いた。守之助は「出版事業を通じて文化の向上に寄与したい」という理
念から、昭和38年(1963年)に鹿島出版会を設立している。またその年は、鹿島建設が年間受注
高世界1(1368億円)となった年でもある。
昭 和 4 0 年( 1 9 6 5 年 )、 日 本 初 の 超 高 層 ビ ル で あ る 三 井 不 動 産 霞 ヶ 関 ビ ル が 着 工、 3 年 後 の
1968年には霞ヶ関ビルが完成するとともに、2番目の超高層ビルである京王プラザホテル着工、新
宿西口の超高層ビル群の先駆けとなった。
それまでは、関東大震災後に作られた建築基準法により、ビルの高さは31メートルに制限されてい
た。地震と台風の国・日本では、高いビルの建設は不可能とされていたのである。鹿島は昭和38年に
「柔構造理論」の武藤清東大教授を副社長に迎え、初の超高層ビルに挑んだのだった。
( 時50歳)。二階は「初めての試みには、新たな発想が必要」と、
プロジェクト・リーダーは二階盛 当
35歳以下の技術者しかチームに加えなかった。後に“二階学校”と呼ばれる150名のプロジェクト
が誕生 し た 。
二階は自ら関東大震災を経験し、多くの友人を亡くしていた。どうしたら地震にも耐える高層ビルを
建設できるか。思い悩んでいた二階は、関東大震災でもビクともしなかった寛永寺の五重塔を思い出し
182
た。一本の柱で支えられている五重塔は、揺れることによって衝撃を吸収する。地震に強い柔構造ビル
のヒントはここにあった。
霞が関ビル建設の鍵は、147メートルに達する柱をいかにまっすに立てるかだった。ところが肝心
の鉄骨は、建設中に微妙に曲がってしまう。二階と若手技術者たちはこの難問に取り組み、解決したの
だった。このノウハウがその後の高層ビル建設に生かされる。
昭和48年(1973年)、池袋のサンシャイン60が着工。昭和49年、新宿副都心に新宿住友ビル、
KDDビル、新宿三井ビルが相次ぎ完成した。「高層建築の鹿島」と呼ばれる一時代を築いたのであった。
大成建設と大倉財閥
( 873年)10月に大倉喜八郎が大倉組商会を設立して、輸入貿
大成建設の始まりは、明治6年 1
易や建造物の造営にあったことにさかのぼる。
乱期。官軍にも幕府軍にも鉄砲を売って財をなした。
明治5年(1872年)、貿易商に転換する志を抱いて横浜から海外汽船アラスカ丸で出航し、アメ
リカ、イギリス、フランス他各国を視察旅行した。翌年に帰朝した喜八郎は、銀座3丁目に貿易商社の
183
天保8年(1837年)、越後国(新潟県)新発田に生まれた喜八郎は、18歳で江戸へ上り、カツ
オ節店に奉公したのち上野に乾物屋を開き、慶応1年(1865年)に鉄砲店を始めた。時は幕末の混
建設業のルーツは古い
「大倉組商会」を創立した。
日本の最初の鉄道が明治5年9月に「新橋~横浜」間で開通したが、大倉喜八郎は新橋停車場の建設
に参画し、近代的建設業の方式を導入している。また明治15年には、まだ日本に電灯がなかった当
時、商会の2階に発電機を設置して、2千燭光のアーク灯で銀座の夜を照らし、一躍、東京名物となっ
た。喜八郎は新しいものや人を驚かすようなものが好きだったようで、翌年には同様のアーク灯を京都
にも設 置 し て い る 。
明治17年(1884年)、2度目の欧米視察を終えて帰国した喜八郎は、国際外交の進展を痛感し、
ホテル建設を決意する。鹿鳴館時代の外務大臣井上肇や渋沢栄一とともに発起人となって有限責任東京
ホテルを明治20年に設立し、明治23年3月、日本で最初の本格的な洋式ホテルである「帝国ホテル」
が完成する。そのルネッサンス風の端麗な外観は当時東京随一の美観を称賛された。のちに火災で焼失
し、アメリカの建築家ライトの設計で1922年に再建される。
明治20年(1887年)3月、喜八郎は渋沢栄一らと有限責任日本土木会社を創立して、大倉組商
会の業務のうち土木関係に関するものを分離し、これを継承した。これが日本での会社組織による土木
建築業のはじめといわれている。
5年後の明治25年(1892年)年11月に有限責任日本土木会社は解散し、翌年その事業を大倉
喜八郎単独経営の大倉土木組が継承した。さらに明治44(1911年)年 月、大倉土木組は株式会
大倉喜八郎の軍需品調達事業は日清・日露両戦争を経て大いに発展した。一方で経済界の重鎮である
社大倉組に吸収合併され、株式会社大倉組土木部と改称した。
11
184
渋沢栄一と親交を結び、さまざまな事業をおこした。 喜八郎が設立に関与した主な会社を挙げてみると、
1982年設立の大阪紡績会社、83年東京電灯会社 →
( 東京電力 、)85年東京瓦斯会社 →
( 東京瓦
斯 、)87年内外用達会社、88年日本輸出米会社、門司セメント、95年入山採炭会社、1906年
大日本麦酒会社 →
( アサヒビール、サッポロビール 、)07年帝国製麻会社、日本皮革、日清豆粕製造
→
( 日清製油 、)帝国劇場設立などがあり、一代にして財閥を築きあげたのだった。
( 、東京商工会議所 を
) 設立。また、
財界活動においても、1878年に渋沢栄一らと東京商法会議所 現
1900年には大倉商業学校 東
( 京経済大学 を
) 設立し、17年 大
( 正6年 に
) は日本で最初の私立美
術館である大倉集古館を設立して、東洋美術や日本画を中心とする貴重な美術品のコレクションを一般
に公開 し て い る 。
ごく最近では、埼玉県にできた「ジョン・レノン・ミュージアム」が大成建設の開設・運営によるも
のであ る 。
一方、本体である大倉組は大正6年(1917年)に土木部を分離して「株式会社大倉土木組」を設
立(大正13年に大倉土木株式会社に改称)し、翌7年に「大倉商事株式会社」へ改称する。またこの
大倉土木は大正14年(1925年)に日本で最初の地下鉄である地下鉄銀座線の上野~浅草間を施
工(昭和2年完成、昭和9年に上野~新橋間が完成)するなどの業績を残したが、終戦後の財閥解体に
この社名変更にあたっては、過去の歴史を反省し社内の刷新を図るため、創業の原点に還って大倉喜
ともない、昭和21年(1946年)大倉の名を捨て、
「大成建設株式会社」に名を改めた。
185
間に「大倉鉱業株式会社」を設立し、この直系3社が大倉財閥の中核となった。
建設業のルーツは古い
の訳語である「建設」を採用して、
(Construction)
八郎の功績を顕彰することが意図された。そこで喜八郎の戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」から
大 成 の 二 字 を と り、 さ ら に 英 語 の コ ン ス ト ラ ク シ ョ ン
大成建設の社名が付けられた。
ちなみにこの「大成建設」が社名に建設という言葉を採用した最初である。その後○○組などを名乗
っていた各社がこれに続き、いわば業界の民主化を表わす名称として広く採用されることになった。
『孟子万章下篇』に
ところで、そもそもこの大成の語は、2代目の喜七郎が父・喜八郎の逝去の際、
ある「孟子曰。孔子之謂集大成。集大成也者」から大成の二字をとって戒名としたものである。大成と
は、完全に成し遂げること、多くのものを集め作り上げること、仕上げの意味に当てられ、建設業には
最も相応しい社名であるとして採用された。
2代目の喜七郎は、バロン大倉の愛称で知られ、のちにホテルオークラを設立するが、若い頃は財界
のプリンスとして自由奔放に生き、あちこちにその名を残している。
喜七郎はイギリスのケンブリッジ留学中に自動車の運転技術を習得し、明治35年(1907年)7
月、イギリス・ブルックランズで開催された自動車レースの第1回ブルックランズ・グランプリにフィ
アットで出場し、いきなり2位に入賞してしまう。
これが日本の自動車レース史の始まりといわれている。また、日本の自動車事故の代1号も、明治
32年(1899年)に日本で初めて輸入された喜七郎所有の自家用車が電柱に衝突して4人が即死し
明治40年当時、日本の自動車保有台数はたったの16台だったというが、喜七郎はフィアットの他
たもの だ と い う 。
186
にイタリアとフランスの小型スポーツカーを1台づつ、計3台を所有していた。
せっかくスポーツカーを乗り回していても、日本で自動車レースができるような状況ではなかった。
そんなとき、曲芸飛行機を操るマースがアメリカから来日し、川崎競馬場で自動車と飛行機の競争を
行うことになった。2人の日本人が非力な自動車で挑戦して惨敗した。それを聞いた喜七郎はフィア
ットで挑戦し、2マイルレースで12秒もの大差を付けてマースの飛行機に勝ってしまった。
喜七郎はゴルフやスキーにも打ち込み、昭和初期に川奈ゴルフ場を作った。川奈は漁村で男たちは
海へ出ていたため、人手は留守を守る女しかいなかった。喜七郎はこれに目をつけキャディに採用し
たのが、日本の女子キャディの始まりとされている。
札幌の大倉山ジャンプ競技場を建設して寄贈したのも喜七郎である。また大正13年に創立された
日本棋院も喜七郎の力によるもので、喜七郎は副総裁に就任している。
スポーツや趣味の世界で名をはせた喜七郎だが、昭和30年代、80歳近くになってホテル建設を
思い立つ。東京オリンピックの開催が決定しており、新しいホテルの必要性があったのだが、それだ
けでなく、父・喜八郎の作った帝国ホテルへの対抗心があった。
七郎は、帝国ホテルに負けないホテルを作ろうと、ホテルオークラを設立したのだった。
187
戦後の財閥解体で公職追放となった大倉家は帝国ホテルを去り、その後に犬丸徹三が総支配人につ
い た が、 大 倉 家 は 追 放 措 置 が 解 除 さ れ て も 帝 国 ホ テ ル に 戻 る こ と が で き な か っ た 。 そ れ に 激 怒 し た 喜
建設業のルーツは古い
銭高組と銭形平次の関係は
銭高組の名前は社祖銭高善造に由来する。
( 阪府阪南市尾崎町 で
) 番匠屋と称し、近郷の社寺造営に携わるなど、代々建設
錢 高 家 は、 尾 崎 村 大
)の番匠屋林右衛門以降であるという。
1687
業を継承してきた 「。番匠」という言葉は遠く律令時代 (645
~ 995)
にさかのぼり、宮廷の営繕に従
事した工匠を「番匠」と呼んでいた。錢高家が番匠屋と称していたのは、江戸時代の貞享年間( 1684
~
銭高善造は幕末の万延元年(1860年)、大阪府泉南郡岬町に生まれ、旧尾崎村において古くから代々
続いた大工棟梁番匠屋作次のもとで西本願寺尾崎別院などの寺社造営などに携わっていた。
時代は明治に変わり、文明開化の波が勢いを増していた。善造の胸には、勃興しつつあった西洋建築
の技術を習得したいという思いが日増しに高まり、苦労の末に上京して新技術の習得に励んだ。
そして事業経営のコツを会得し、多くの得意先の知遇を得た善造は、明治20年(1887年)大阪
の地に移り、屋号の番匠屋を錢高組に改め、新たなる出発をした。大阪 東
・ 京を中心に紡績工場、鉱山
施設、兵舎建築等数多く施工して業容を拡大していった。
大正元年、合資会社錢高組に組織変更。昭和6年(1931年)、株式会社銭高組を設立して、合資
会社錢 高 組 を 合 併 。
錢高組が株式会社として発足した昭和6年、文芸春秋の月刊誌「オール読物」に野村胡堂の「銭形平
次捕物帳」が発表され、以来27年間で383編にもおよぶ膨大な作品が生み出されていくのだが、銭
188
高組と銭形というよく似た名前にはやはり因縁があるらしい。
この年、小説家・野村胡堂は文芸春秋から、当時人気のあった岡本綺堂の「半七捕物帖」のようなも
のを書いて欲しい頼まれ、半七とは違う特徴を出そうと構想を練っていた。
主人公には「水滸伝」の中に登場する小石投げの名人のようなワザが欲しいと考え、平次という名が
先に決まったが、姓と肝心のワザが思い浮かばない。思案にくれていた胡堂は、ある日ふと窓を見ると、
外のビル建設現場に「設計 施工 錢高組」の看板と社章の「錢」のマークが目に留まった。そうだ、
小石ではなく銭を投げるのはどうか、と「投げ銭」のワザを思いついた。あとは名前だ。
「錢高」は商
標でもあるから、そのまま使うわけにいかない。「銭」を活かして、
「錢安」
「錢○」と文字をあてはめ
ていったが、どうもしっくりこない。そこで「錢高」の「タカ」を逆にしてみると「ゼニカタ」
、漢字
で「銭形」、これはイケル。こうして「銭形平次捕物控」が誕生したというエピソードが同社のホーム
ページで紹介されている。
189
同社はその後、昭和7年の大連に続いて、昭和8年には奉天、新京、京城、平壌に出張所を開設し、
満州を は じ め 樺
、太 朝
、鮮 北
、 支等外地へ進出して多くの産業施設 橋
、梁 鉄
、 道等を建設し、業績を拡
大していくことになる。
平成7年6月、音楽評論家「野村あらえびす」としても著名な野村胡堂の業績を顕彰する「野村胡堂・
あらえびす記念館」が出身地の岩手県紫波町に作られた。施工を担当したのはもちろん銭高組である。
建設業のルーツは古い
若築建設
創業時の事業内容が社名になった
。つまりブルドーザー工
青木建設の旧社名は「ブルドーザー工事株式会社」
事の会社として始まったのである。
このように、創業当時の事業内容を社名とした会社も少なくないが、その後
の事業拡大などで社名が実情に合わなくなり、社名変更をおこなうケースがよ
くみられる。旧社名をみれば、その会社の出自が理解できておもしろい。
旧名は「若松築港株式会社」。これだと事業内容に直接結びつく。北九州の若松港を築営するために
作られ た 会 社 で あ る 。
若松は昭和38年(1963年)に小倉、門司、八幡、戸畑の4市と合併して北九州市若松区とな
っ た が、 明 治 期 以 降、 日 本 最 大 の 出 炭 量 を 誇 る 筑 豊 炭 田 を 背 景 に し て 全 国 最 大 の 石 炭 積 み 出 し 港 に 発
展して い た 。
その若松港を石炭積出港として築営し、港銭を徴収してこれらの修築運営にあたる管理会社として
190
計画され、明治23年(1890年)5月23日に設立されたのが「若松築港会社」である。
3年後の明治26年、「若松築港株式会社」と改称し、昭和13年同港が県営に移管されるとともに、
港湾土木会社として西日本を中心に実績を重ねてきた。
古くは幕末の御用炭として蒸気船や塩田の燃料に用いられ、明治以後の日本の産業発展をささえてき
た筑豊炭田も、1960年代のエネルギー革命によって役割を終えた。それに合わせて同社の主要事業
も変わり、昭和40年(1965年)、社名を現在の「若築建設株式会社」に変更したのである。
大気社
ドイツ系の機械輸入商社「エル・レイボルド商館」を母体として、大正2年(1913年)に「合資
会社建材社」が東京に設立され、暖房設備、エレベータ、建築材料等のドイツからの輸入、およびその
据付を主な業務としていたのが始まりである。
ドイツ人技師長の指導による暖房設備の設計・施工は、当時の日本の技術水準をはるかに超えたもの
だったらしい。昭和24年(1949年)、株式会社に改組し、全資本が日本系となって以降もその技
戦後の復興は昭和24年ごろから紡績業を中心として加速していったが、紡績工場空調での高品質・
低コスト施工に定評のあった同社も業績を伸ばし、昭和27年までの間に日本の10大紡績会社のうち
8社から大型工事を受注するなどの成果をおさめた。
191
術力は遺産として生き続けた。
建設業のルーツは古い
昭和30年(1955年)頃からはナイロン、ポリエステルなど、石油を原料とした合成繊維が普及
しはじめた。そこでは、製造工程の中できわめて精密な気流、温湿度、気圧等の制御を必要としており、
綿・スフ紡績などよりはるかにレベルの高い空調技術が要求された。同社は紡績空調での経験を生かし
て、1960年代には合繊工場空調でも高いシェアを獲得した。また、薬品工場、精密機械工場、フイ
ルム工場などでも、製品不良を防ぐために高い清浄度を維持できる空調設備が求められ、同社の空調設
備が活 躍 し た 。
1960年代後半から、日本でも本格的なクリーンルームが普及しはじめるが、1967年にはフ
イルム工場にクラス100の本格的クリーンルーム、1973年には近畿大学医学部付属病院にクラス
100の無菌手術室やバイオロジカルクリーンルームを納入するなどの実績を持ち、のちの半導体クリ
ーンルームのパイオニアとなった。事業内容が当初の建材輸入から清浄空気に移ったことを受けて、昭
和48年(1973年)に株式会社大気社へ社名変更したのである。
1970年代には電子産業における高度集積回路の技術が飛躍的に発展し、高度なクリーンルームを
必要とする半導体工場の建設が相次いだ。80年代以降はアメリカや東南アジアでの半導体クリーンル
ーム設備の施工へと事業を拡大していった。
同社は名前の通り、クリーンな「大気」を実現する建設会社なのである。
昭和22年の創業時は「ブルドーザー工事株式会社」という社名であった。大阪でブルドーザーを使
青木建 設
192
った機械化土木のパイオニアとして活動し、昭和25年には日本で初のショベル・ダンプ工法を実施。
昭和29年に当時世界最大のブルドーザー、米国キャタピラー社製D8U型を輸入(わが国最初の建設
機械の直輸入)するなど、その名の通りの事業を展開していたが、昭和44年に「株式会社青木建設」
へ社名変更(社長は青木益次)した。
鉄建建 設
昭和19年に設立されたときの名前は「鉄道建設興業株式会社」で、その名の通り営業種目を「鉄道
工事の施工、測量、設計、管理」としている。鉄道や駅、橋、トンネルなどの工事を中心に手がけてき
た。昭和39年、社名を「鉄建建設株式会社」に変更した。
テトラ
平
成7年10月1日に「株式会社テトラ」へ社名変更した。
193
昭和36年(1961年)、に「日本テトラポッド株式会社」として設立された。海岸の浸食を防ぐ
ためにコンクリートの構築物を積み上げる、あのテトラポットである。
建設業のルーツは古い
8
自動車と財閥、その他の企業
ここでは、自動車会社、財閥と商社、百貨店とスー
パー、陶磁器、および理研を母胎とする起業群などを
まとめて紹介しよう。
194
がうまれ、その息子「ダットサン」へんとつながっていく。
日本の自動車製造の歴史は、明治44年(1911年)橋本増次郎が東京・
麻布に設立した快進社自動車工場から始まった。ここで最初の国産車
「脱兎号」
ダットサンから始まる日本の自動車産業
脱兎とその子供たち
大正3年(1914年)、快進社自動車工場で橋本増次郎の設計・製造による純国産車の試作車が生
まれた。その名を脱兎号(DAT CAR)という。
(魅力的な)、 Trustworthy
(信頼性のある)と意味づけされる。
Attractive
いっぽう大阪では、大正8年に米人技師ウィリアム・R・ゴルハム設計のゴルハム式三輪車を製造す
る実用自動車製造株式会社が設立された。機械設備、自動車部分品、材料などを米国から輸入し、当時
としては近代的な自動車工場であった。
195
これは田(でん)健次郎、青山禄郎、竹内明太郎の3人の協力者のローマ字イニシャルをとったもの
である と 同 時 に 、
「脱兎の如く走る」という意味も込められていた。のちにDATは、 Durable
(頑丈な)
、
自動車と財閥、その他の企業
この実用自動車製造株式会社と快進社が大正15年(1926年)に合併してダット自動車製造株式
会社となり、昭和5年(1930年)に小型乗用車「ダットソン」を発売する。
名 前 の 由 来 は、「 ダ ッ ト の 息 子 」 と い う こ と で「 D A T S O N( ダ ッ ト ソ ン )」
。 息 子 で あ る 理 由 は、
DAT号の部品を使用していたこと、そして大型車DATに対して新小型乗用車は息子にあたるという
ことで あ る 。
この自動車に目を付けたのが、戸畑鋳物株式会社の社長であり日本産業株式会社の総帥だった鮎川義
助である。かれは自動車産業に進出するために、昭和8年にダット自動車を吸収して、戸畑鋳物と日本
産業との共同出資による自動車製造株式会社を設立した。同社は翌年に日産自動車株式会社へ社名変更
する。
ダットソンを売り出すにあたって、SONは損に通じて縁起が良くないとされ、太陽を意味するSU
Nに置き換えてDATSUN(ダットサン)となった。ソニーの命名と事情が似ているといえるかもし
れない。ダットサンの名前は国産自動車の代名詞として今も日産自動車に受け継がれている。
(1961
ついでだが、このSON(息子)が入った社名にはプリンターのエプソンがある。昭和36年
年)に株式会社諏訪精工舎の子会社として誕生した信州精器株式会社は、
昭和43年にミニプリンタ「E
P101」を発売して高い評価を得た。EPはELECTRIC PRINTERのことである。その
EPの子どもたち(SON)ということで昭和50年にEPSONのブランドが誕生し、昭和57年に
エプソン株式会社、昭和60年に諏訪精工舎と合併して現在のセイコーエプソン株式会社となった。
ところで、このダット自動車からの流れが日本の自動車製造の本流だとすれば、別の産業から自動車
196
に流入していた流れもある。
ひとつは、産業革命の象徴ともいえる自動織機の製造から自動車製造へ移ったトヨタであり、スズキ
も当初は明治時代の織機製造から始まっている。
もうひとつは、造船・飛行機と展開するなかで、エンジン製造のノウハウを持って自動車製造へ展開
し た 三 菱 重 工( 三 菱 自 動 車 )
、戦前は戦闘機製造で三菱に並ぶ実績を持つ中島飛行機をルーツに持つ富
それに対して、軽工業系というか、戦後の原付自転車から始まったのがホンダであった。
士重工の重工業系である。
日産自動車
創業者の鮎川義助は福岡に戸畑鋳物を創業して経営者となり、その後、親戚の経営していた久原鉱業
(日立製作所の前身)を引き継ぎ、昭和3年(1928年)に日本産業を設立して新興財閥日産コンツ
その鮎川が昭和8年(1933年)にダット自動車を吸収して、日本産業と戸畑鋳物の共同出資によ
る自動車製造株式会を設立し、翌年に日産自動車株式会社と改称したのが始まりである。
昭和10年、日本で最初のベルトコンベヤを使用した本格的な大量生産工場である横浜工場から小型
自動車「ダットサン」が生まれ、オーストラリアにも輸出された。
“旗は日の丸”
“車はダットサン”と
いわれるほど、近代日本工業の躍進を象徴するものとなった。車のボンネットには、
「脱兎の如く走る」
197
ェルンをつくりあげた人物である。
自動車と財閥、その他の企業
という意味で兎のマスコットが取り付けられていた。
戦争中は自動車生産をストップして日産重工業と改称し、陸軍練習機や魚雷艇のエンジンなどを製作
したが、戦後すぐにニッサントラック、昭和22年にはダットサン乗用車の生産を再開した。昭和24
年(1949年)に日産自動車の社名に復帰した。
イギリスのオースチン社と技術提携して、昭和34年(1959年)に小型車ブルーバード、翌35
年に中型車セドリックを発売して人気となり、日本のモータリゼーションを急速に発展させた。
ところで車名の「セドリック」は、児童文学作家バーネットの名作「小公子」の主人公の名前からと
られている。オースチン車国産化の技術を通して、オースチン車以上の国産車を生みだそうと、当時の
社長川又克二が英国にちなんだ名前を選んで命名したものである。
昭和41年(1966年)に発売した「ダットサン・サニー1000」は、高性能・低価格の「大衆
車」として人気を獲得し、日本にマイカー時代の到来を告げた。この社名は自動車としては日本初の一
般公募によるもので、「太陽がいっぱい」や「明るく快活で若々しい」というイメージから採用された。
ま
た昭和41年にはプリンス自動車工業と合併して「グロリア」と「スカイライン」が加わり、黄金
時代を築くことになる。
ここで、吸収されたプリンス自動車の歴史を概略しておこう。
大正13年(1924年)に石川島飛行機製作所が設立され、昭和に入るとともに立川への進出を進
め、昭和11年に立川飛行機と改名して陸軍の戦闘機工場となった。
昭和20年の敗戦により、米軍から依頼されて自動車の整備などを行うたかたわら、電気自動車の開
198
発に取り組み、昭和21年立川飛行機自動車株式会社へ社名変更した。
しかし昭和22年、米軍に全面的に接収されることになったので、200名近くが独立して東京電気
自動車を設立し、電気自動車「たま号」を発売した。当時のガソリン供給統制のもとで好評を博した。
ブリヂストン会長の石橋正二郎を会長に迎えて、昭和24年にたま電気自動車へ社名変更した。しか
しその後、ガソリン供給統制が解除されたために、同じ石橋 ブ
( リヂストン 系
) 資本の富士精密工業よ
りエンジン供給を受けてガソリン車の製造に転向した。
そこで昭和26年、電気の文字を削除したたま自動車に社名変更。翌27年、皇太子の立太子礼にあ
やかった「プリンス」の車名でガソリン車を販売し、社名もプリンス自動車工業へ変更した。
昭和32年「プリンススカイライン」、昭和34年「プリンスグロリア」と、立て続けに名車を生み
出して い っ た 。
昭 和 3 6 年、 協 力 関 係 の 富 士 精 密 工 業 と 合 併。 昭 和 4 0 年 に 登 場 し た「 プ リ ン ス・ ス カ イ ラ イ ン
2000GT」は、各地の自動車レースで外国製スポーツカーを次々と破り、数多くの記録を打ち立て
このプリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併されたことによって、新たな技術陣が加わり、従来
からの「ダットサン」系と「プリンス」系の車作りが競争を演じながら発展していった。
、フランス
しかしその後、トヨタ自動車との差が開くいっぽうで、ついに平成11年(1999年)
の大手自動車メーカーであるルノーの傘下に入った。そして来日した新社長カルロス・ゴーンのもとで
見事な 復 活 を 遂 げ た 。
199
た名車 で あ る 。
自動車と財閥、その他の企業
富士重工業
日産自動車の傘下に入ったプリンス自動車の前身が立川飛行機で、陸軍戦闘機「隼」の量産工場だっ
たことは先に述べたが、その「隼」を開発したのが後に富士重工業となる中島飛行機であった。飛行機
のエンジンと自動車のエンジンには共通する部分が多いのだろう。
中島飛行機は日本の航空機生産の先駆けであり、戦時中は軍用機の開発・生産を行い、優秀な技術者
を多く集めたが、敗戦とともに解体した。そこには国産ロケットで有名な糸川英夫もいたのである。
大正6年(1917年)、海軍機関大尉を退役した中島知久平を中心に栗原甚悟、佐久間一郎らの9
名が、飛行機作りの夢を抱いて飛行機研究所を開設した。群馬県太田町(現太田市)の利根川沿いに養
蚕小屋を改造した粗末な建物が最初の舞台となった。
翌年にはアメリカ製エンジンを搭載した中島式一型1号機を完成させたが、初飛行で大破してしまう。
その後も失敗が続き、ようやく中島式四型6号機になって初飛行に成功した。
大正8年に行われた第1回懸賞郵便飛行競技で、中島式四型機が東京~大阪間を3時間18分で飛び、
多くの輸入機を差し置いて賞金を獲得し、その優秀性が世に知られることとなった。
昭和6年(1931年)にそれまでの合資会社から中島飛行機株式会社に改組し、航空機の製造に力
を注いだが、昭和10年の陸海軍の競作で九七式戦闘機が採用されたことから戦闘機の開発が中心にな
ってい く 。
200
九七式戦闘機は、糸川英夫らの若手技術者が参加して作り上げた革新的な設計構造を持ち、初期の太
平洋戦争で活躍した名機である。それを発展させたものが陸軍の一式戦闘機「隼」で、海軍の零式艦上
戦闘機(ゼロ戦)とともに大空のエースとして活躍した。ちなみにこの九七式とか零式、一式は製造さ
れた年の皇紀2597年、2600年、2601年の年号から取られている。
戦争末期にはアメリカ軍の爆撃で工場は壊滅状態におちいり、戦後はGHQの指令により会社の解体
が決まった。中島飛行機は富士産業株式会社と改称し、飛行機部品などを利用してスクーター「ラビッ
ト」号の製造を始めた。しかし昭和25年の企業再建整備法で分割され第二会社12社が発足した。
富士重工業株式会社が設立された。
昭和28年(1953年)に航空機製造への夢を掲げて再び結集し、
航空機事業は輸入機の組立から始まって、昭和33年のジェット練習機の国産試作1号機、昭和36年
の国産旅客機YS 1
- 1の共同開発、さらにボーイング社との共同開発と続き、軍用機や民間機の多種
多様な航空機の開発・生産に携わり、日本の航空宇宙産業をリードしてきた。
ルマー ク が 誕 生 し た 。
スバルは別名「六連星(むつらぼし)」とも呼ばれる星団の名前で、漢字で「昴」と書く純粋な日本
語である。プレアデス星団の名前でも知られ、無数の星が集まった星団だが、普通の肉眼で6個、目の
いい人には12個の星が見えるといわれている。中島飛行機を母体とする各社が集まって出来た富士重
工を象徴するものといえるだろう。スバルのマークは、星の集まりをデザインしたものである。ちなみ
201
- の試作が完成し、翌年に「すばる」と命名された。そ
自動車部門では昭和29年に4輪乗用車P 1
の後開発の方向を大衆車に変更して、昭和33年に軽4輪乗用車スバル360発表。同時に商標のスバ
自動車と財閥、その他の企業
に自動車の名前に和名を使用したのもスバルが最初であった。
スバル360は小型軽量でありながら家族4人が乗れるということで大ヒットし、同社の自動車製造
の基礎 を 築 い た 。
そ の 後、 昭 和 4 3 年( 1 9 6 8 年 ) に 日 産 自 動 車 と 業 務 提 携 を し た が、 平 成 1 1 年( 1 9 9 9 年 )
12月に米・ゼネラルモーターズと資本・業務提携し、翌年に日産自動車との業務提携を解消して、グ
ローバル化に向けた新たな体制を構築している。
三菱自動車
三菱自動車工業株式会社は昭和45年(1970年)に三菱重工株式会社の自動車部門が独立し、自
動車の製造・販売を行迂回車として設立されたものである。
富士重工業の自動車部門がスバルであり、戦前は中島飛行機という会社で戦闘機を作っていたことは
すでに述べたが、三菱重工業の航空部門も戦前は戦闘機を作っていた。中島飛行機の代表作が陸軍戦闘
機「隼」であったが、三菱重工の代表作は海軍戦闘機「ゼロ戦」で、両者共に第二次世界大戦のエース
として世界に知られた名機である。
、三菱の創
しかし、三菱重工の歴史は飛行機ではなく、船から始まった。明治17年(1884年)
業者岩崎彌太郎が政府より工部省長崎造船局を借り受け、「長崎造船所」と命名して造船事業を始めた
のが創 業 で あ る 。
202
明治26年(1893年)に三菱合資会社となり、大正6年(1917年)に三菱造船株式会社とな
って、造船事業は大きく成長していった。またこの年、我国初の量産乗用車「三菱A型」の生産を開始
してい る 。
大正9年に三菱内燃機製造株式会社が分離し、昭和3年(1928年)に三菱航空機株式会社となるが、
昭和9年(1934年)に再び三菱造船と合流して三菱重工業株式会が誕生する。その間の大正10年
(1921年)には、三菱造船から三菱電機株式会社が分離している。
三菱重工業は船舶、重機、航空機、鉄道車両に及ぶ巨大企業へ成長したが、戦後の財閥の解体を目的
とした過度経営力集中排除法により、昭和25年に西日本重工業株式会社、中日本重工業株式会社、東
日本重工業株式会社の3社に分割された。昭和39年(1964年)にこの3社が再び結集して新生三
菱重工業株式会社が誕生したのである。
三菱重工業は軽自動車「ミニカ」や「ジープ」「コルト」などの人気車を世に送り出してきたが、昭
その後も多くのラリーで活躍してRVブームの火付け役となった。しかし、自動車産業のグローバルな
再編成の波が押し寄せ、平成12年(2000年)にダイムラークライスラーと提携、平成14年には
クライスラーから派遣されたロルフ・エクロートが社長、CEO(最高経営責任者)に就任した。
203
和45年に分離独立した三菱自動車はスポーツカーの「ギャランGTO」で若者の心をつかんだ。 昭
和57年(1982年)に発売された4WDの「パジェロ」は翌年のパリ~ダカールラリーで優勝し、
自動車と財閥、その他の企業
トヨタ自動車
自動織機の発明で日本の産業史に名を残す豊田佐吉は、自動車製造の夢を息子の喜一郎に託し、昭和
4年(1929年)に自動車事情視察などのために喜一郎を欧米へ派遣した。そして自動織機の特許を
イギリスのプラット社に売った資金で、昭和5年に帰国した喜一郎に小型ガソリンエンジンの研究を任
せた。
昭和8年、株式会社豊田自動織機製作所に自動車部を設置し、昭和10年(1935年)にようやく
最初の試作車A1型車が完成し、日の出モータース株式会社(現・愛知トヨタ)が営業開始、翌11年
にトヨタマークが制定された。
昭和12年(1937年)、自動車部を分離独立させてトヨタ自動車工業株式会社が設立された。翌
13年に挙母工場(現・本社工場)が操業開始するとともに、トヨタ式生産管理法として名高い「ジャ
ストインタイム」方式が本格的にスタートする。トラックと乗用車の生産を進めたが、第2次世界大戦
中は主として軍用トラックの量産をしていた。
昭和18年に東海飛行機株式会社(現・アイシン精機)を創立、戦後の昭和21年に関東電気自動車
製造株式会社(現・関東自動車工業)を設立している。この流れは、戦時中の戦闘機製造から戦後の電
気自動車製造へと進んだプリンス自動車と通じるものがある。
昭和23年に日新通商株式会社(現・豊田通商)設立、昭和24年には名古屋ゴム株式会社(現・豊
田合成)と日本電装株式会社(現・デンソー)を設立するなど、戦後の早い時期につぎつぎと関連会社
204
を設立 し て き た 。
昭和25年(1950年)には販売部門を分離してトヨタ自動車販売株式会社を設立。この販売会社
を昭和57年(1982年)に再び合併して現在のトヨタ自動車株式会社となった。
乗用車生産は、昭和30年のトヨペットクラウンにはじまり、昭和32年のコロナ、昭和36年のパ
ブリカと続き、昭和41年に発売したカローラが大ヒットして国民的大衆車とよばれた。その後も順調
に売り上げを伸ばし、業界トップメーカーの地位を確立した。
そして、平成 年(1999年)、国内生産累計1億台を達成した。
ホンダ
(じ 屋
) の家に生まれた本田宗一郎は、東京本郷の自動車修理工場アート商会に奉公し、
代々の鍛冶 か
昭和3年(1928年)にのれん分けのかたちで浜松に支店を開業した。
ちょうどそのころ、本田は友人の家で旧陸軍の無線機発電用エンジンと出会う。この小さなエンジン
を自転車の補助動力に使ったらどうか、と思いつき、家にあった湯たんぽをとりあえず燃料タンクの代
わりに使って試作に取り組んだ。
終戦直後のことで、国産スクーター1号の「ラビット」が生まれてはいたが、庶民には手の届かない
価格で、移動手段は自転車が普通であった。その自転車に重い荷物を積んでも楽に走れる補助動力付き
205
11
( の山下工場 し
) た。
昭和21年、浜松市山下町の焼け野原にバラックを建て、本田技術研究所を開設 後
自動車と財閥、その他の企業
自転車は、まさに待望の商品であった。本田の小型エンジン付き自転車は「バタバタ」の通称で大ヒッ
トした。しかし、元になったエンジンは無線機発電用エンジンである。いずれ底をつくのは目に見えて
いる。自分たち自身でエンジンを開発する必要があった。それは本田の夢でもあった。効率を考えるな
ら、発電用エンジンをそっくり真似て作ればいいのだが、本田はまったく新しい独創的なエンジンの試
作に取りかかる。昭和22年、エントツ式エンジン試作完成、続いてA型自転車用補助エンジン生産開始。
そして昭和23年、本田技研工業株式会社を設立してオートバイ生産に着手した。翌24年、日本初
の本格的オートバイとなったドリーム号D型を完成した。昭和33年に発売したスーパーカブは大ヒッ
トし、オートバイのトップメーカーへと成長していく。
昭和34年からオートバイの世界最高峰レースであるイギリスのマン島TTレースに参加、昭和36
年に完全優勝、以後ホンダ車の連覇が続き、ホンダの名前を世界に広げた。
( 360
昭和37年に鈴鹿サーキットが完成し、その年自動車産業に進出して軽四輪スポーツカー S
、)軽四輪トラック T
( 360 を
) 発表。2年後の昭和39年からは4輪レースの最高峰F1にも出場し
てホンダ・エンジンの優秀さをアピールした。
昭和40年代後半に入ると、公害や自然破壊への関心が高まり、自動車にも低公害仕様が求められる
ようになった。昭和47年(1972年)に画期的な低公害エンジンCVCCを発表し、小型乗用車シ
ビックに搭載して高く評価され、アメリカの排ガス規制法であるマスキー法の75年規制に世界ではじ
平成元年(1989年)、本田宗一郎は日本人初の米国自動車殿堂入りを果たした。
めて合格した。こうして世界の日本車ブームをホンダが引っ張っていったのである。
206
スズキ
バイクではホンダ、ヤマハと並んで国際的にも知られているスズキだが、明治時代に織機の製作所と
して始まったところはトヨタに似ているかも知れない。
大正9年(1920
明治42年(1909年)、鈴木道雄により鈴木式織機製作所として浜松で創業し、
年)に鈴木式織機株式会社を設立した。
戦後はバイクの生産に力を注ぎ、昭和27年(1952年)にバイクモーター「パワーフリー号」を
発売。翌年に発売した「ダイヤモンドフリー号」は当時のバイクブームにのり月産6000台を記録した。
昭和29年(1954年)、鈴木自動車工業株式会社へ社名変更。翌30年には本格的125CCの二
輪車「コレダ号」を発表、さらに軽四輪乗用車「スズライト」を発売して軽自動車時代の先鞭をつけた。
ムニー」は今でもシリーズが続くロングセラーである。また、モトクロス世界GP125で10年連続
メーカーチャンピオンを獲得するなど、オフロードに強いスズキのイメージを世界に広めた。
昭和56年(1981年)にGM・いすゞと業務提携を経て、平成2年(1990年)スズキ株式会
社と社 名 変 更 し た 。
207
昭和36年(1961年)に、それまでの繊維機械部を分離して鈴木式織機株式会社を設立し、バイ
クと自動車の開発・生産に主軸を置いた。昭和45年(1970年)に発売した四輪駆動軽四輪車「ジ
自動車と財閥、その他の企業
マツダ
現社名のマツダ株式会社となったのはそれほど古くはなく、フォードと資本提携(昭和54年)した
あとの昭和59年(1984年)のことである。それまでは東洋工業株式会社という名称であった。そ
もそもの始まりは大正9年(1920年)に創立された東洋コルク株式会社で、翌大正10年に松田重
次郎が社長に就任し、昭和2年(1927年)に東洋工業株式会社に改称した。工作機械の製作から三
輪トラックの製造に移り、戦後はインドへのトラック輸出なども手がけている。
マツダの名前は松田重次郎の姓にちなむものであるが、同時に叡智・理性・調和の神アフラ・マズダ
ーにもかけたもので、東西文明および自動車文明のシンボルとして意味づけられている。
同社の認知度が一般に広まったのは、昭和38年(1963年)に発売した「ファミリア800バン」
以降のファミリア・シリーズの人気によるものだろう。もうひとつ同社の名前を高めたのは、ロータリ
ーエンジンの開発であった。昭和42年に世界初のロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」を発
売して い る 。
208
住友
財閥と総合商社
明治維新以降、日本の資本主義化が急速に進んだが、その過程で財閥と呼ば
れる巨大な企業グループが形成された。
第2次大戦後、GHQ(連合軍司令部)による財閥解体政策や独占禁止法の
施行などで、それらは解散・分割させられたが、企業系列というかたちで残り、
グループ家集力は弱まったものの現在に続いている。
総合商社は、事業展開するなかで各産業にまたがる企業同士を結びつける働
きを持つことから、三井、住友、三菱など、かつての財閥の性格を引き継ぐ中
核企業となっている。
住友商事株式会社、日本電気株式会社、株式会社明電舎、日本電気硝子株式会社、日本板硝子株式会
209
住友グループは、約400年の歴史をもつ住友家の諸事業を母体として生まれ、発展した企業群で、
現在は次のような企業が中核をなしている。
自動車と財閥、その他の企業
社、株式会社三井住友銀行、住友信託銀行株式会社、住友生命保険相互会社、三井住友海上火災保険株
式会社、住友化学工業株式会社、住友製薬株式会、住友ゴム工業株式会社、住友金属工業株式会社、住
友金属鉱山株式会社、住友軽金属工業株式会社、住友重機械工業株式会社、住友ベークライト株式会社、
住友石炭鉱業株式会、株式会社住友倉庫、住友電気工業株式会社、ダイキン工業株式会社、住友不動産
株式会社、住友大阪セメント株式会社、住友建設株式会社、住友林業株式会社など
住友家の家祖・住友政友が江戸時代初期の寛永年間(17世紀)に京都で書物と薬の店を開いたこと
が始まりである。政友は商人の心得を説いた「文殊院旨意書」を残したが、それは今も「住友精神」と
して残っている。 同じ頃、政友の姉婿・蘇我理右衛門は京都で銅吹き(銅精錬)及び銅細工業の「泉屋」を営んでいた
が、苦心の末に粗銅から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を開発した。理右衛門の長男・友以は、政
友の娘婿として住友家に入り、大坂に進出して同業者に「南蛮吹き」の技術を公開した。そのため住友・
泉屋は「南蛮吹きの宗家」として有名になり、大坂が銅精錬業の中心となった。
当時、日本は世界有数の銅生産国であり、友以は銅貿易で得た富をもとに糸、反物、砂糖、薬種など
を扱う貿易商へと事業を拡大し、泉屋は「大坂に比肩するものなし」と言われるほどに繁盛した。
その後、銅の採掘にも進出して奥羽地方や備中吉岡で銅山経営を行っていたが、元禄4年(1691
年)に開坑した別子銅山は283年間にわたって銅を生産し続け、住友の事業の根幹を支えた。
明治維新後の別子銅山は、いち早く外国の技術や機材を導入して生産高を飛躍的に伸ばすとともに、
機械工業、石炭工業、電線製造業、林業など、つぎつぎと関連事業に進出していった。また大坂で営ま
210
れていた金融業が銀行業に発展し、鉱工業・金融業の2大部門を中心とする住友財閥が形成されていっ
たので あ る 。
明治8年(1875年)に住友本店を設立し、銀行、伸銅、倉庫、鋳鋼、電線、肥料などの多角経営
を進めていった。第1次世界大戦で大きな飛躍をとげ、大正10年(1921年)に個人経営から住友
合資会社へ改組し、事業所を株式会社として独立させ、信託、生命保険、電力、ビルなどの新事業にも
進出。主導権は別子銅山から住友銀行へ移っていった。
昭 和 の 戦 時 体 制 下 で は 住 友 金 属 工 業 を 中 心 と す る 軍 需 関 連 の 製 造 会 社 が 急 成 長 し、 昭 和 1 2 年
(1937年)に株式会社住友本社に改組して、持株会社化をはかった。
戦後のGHQによる財閥解体で住友財閥は消滅したが、その後、戦後に成長した住友商事をくわえた
グループ化をすすめた。
住友の商標は井桁(いげた)マークで、天正18年(1590年)に蘇我理右衛門が「泉屋」をおこ
した際、「いずみ」を表すものとして「井桁」の商標を用いたのが始まりである。井桁のマーク自体は、
独自の形状・寸法割合を創案し、現在に至っている。
住友商 事
住友財閥の中核となったのは銅山であったが、住友商事の前身は大正8年に(1919年)に設立さ
れた大阪北港株式会社であった。昭和19年に株式会社住友ビルディングを合併して住友土地工務株式
会社と改称し、戦後の昭和20年に、新たに商事部門への進出を図って、社名を日本建設産業株式会社
211
昔から商家ののれんなどに多く使われており、住友は他と区別するために、大正2年(1913年)に
自動車と財閥、その他の企業
昭和27年(1952年)、現在の住友商事株式会社へ社名変更した。
と改称し、商事会社として発足した。
三井
三井グループの中核をなす企業にはつぎのような企業がある。
三井物産、三越、サッポロビール、サントリー、東レ、王子製紙、三井造船、商船三井、三井住友銀
行、三井住友海上火災保険、三井生命保険、三井化学、電気化学工業、日本ユニシス、太平洋セメント、
三井石油、三井金属、東洋エンジニアリング、三井不動産、三井倉庫など。
三井家の祖先は武家の出であったといわれるが、現在に続く三井家の歴史は、江戸時代初期に三井高
俊が松坂(現・三重県松阪市)で酒・味噌・質商売を営み始め、父・高安が越後守であったことから「越
後殿の酒屋」と呼ばれていたことにさかのぼる。
延宝元年(1673年)に高俊の子・高利が江戸本町に呉服店越後屋を出店したのが、現在の三越の
始まりで、三井家では家祖を三井高利、商売の祖を高利の母・殊法としている。
三井のマークである「丸に井げた三」の商標は、延宝5年ごろから越後屋の暖簾に使われ始めた。こ
の「井ゲタ三」は三井の字を紋様化したものであるだけでなく、丸は天、井ゲタは地、三は人を表し、
「天
地人」の三方を意味している。その着想は高利の母・殊法の夢にあらわれたものと伝えられている。現
在でも三井グループ各社の社章は「丸に井げた三」であるが、井ゲタの太さや三の字に微妙な違いがあ
212
高利の商才は江戸で大きく開花し、「現銀掛け値なし」という新商法で越後屋は大繁盛した。
(→三越
るとい う 。
)
P222
) は大阪にも呉服店と両
高利は呉服業の補助機関として「両替店」を設け、元禄4年(1691年 に
替店を開店し、呉服、両替ともに幕府の御用達になるほど短期間で発展していった。
(商 と
) してくいこむことがで
幕末期に三井家は朝廷方についたことから、明治新政府に特権商人 政
きた。明治9年(1876年)には三井銀行と三井物産会社を設立し、翌年には官営三池炭鉱の払い下
げをうけて三井鉱山を発足させた。
( 円・鐘紡 、)王子製紙、芝浦製作所 現
( ・東芝 、)
この銀行、物産、鉱山の3企業を軸に、鐘淵紡績 下
富岡製糸場を傘下におさめ、明治26年(1893年)に設立された三井家同族会が全体の統括おこな
った。
けて、三井信託や三井生命を設立した。
第2次世界大戦下では重化学工業への巨額な投資が必要となり、三井合名は三井物産と合併した。そ
して昭和19年に三井本社と改称し、敗戦をむかえた。戦後の財閥解体で三井本社は解散させられたが、
その後、三井系諸企業が三井グループとして再結束していった。
三井物 産
213
明治42年81909年)に持株会社 三井合名会社を設立し、銀行、物産、鉱山を株式会社にして、
その全株式を所有した。第1次世界大戦期で莫大な利益をあげて事業基盤を広げ、大正期から昭和にか
自動車と財閥、その他の企業
明治9年に設立された三井物産会社は、昭和19年に設立された三井物産と区別するために旧三井物
産と呼ばれる。明治後期には、石炭、米、綿糸、綿布、生糸をはじめ日本の主要な輸出品のほとんどを
扱い、当時の日本の貿易総額の約2割を占めたという。
昭和15年(1940年)、旧三井物産は親会社にあたる三井合名会社を吸収合併するが、これは当
時の政府が行った軍備拡張経費のための大増税への対策が目的であった。しかし、両者は事業内容も機
能の大きく異なっていたため、さまざまな無理が生じた。
そこで昭和19年、商事部門、工業部門を分離し、残りの持株会社としての資産に三井総元方の統轄
機構をあわせて三井本社を創設した。分離された商事部門は新三井物産となり、工業部門は三井木材工
業(現・三井物産ハウステクノ)となった。
戦後の財閥解体では、まず昭和21年に三井本社の解散が決まり、翌年に三井物産が解散した。三井
本社は解散を決めても清算業務を続け、昭和31年に三井不動産に吸収合併された。
昭和22年(1947年)の三井物産解散と同時に、現在の三井物産の前身である第一物産株式会社
が設立された。そして昭和34年(1959年)、周辺の会社を統合して三井物産株式会社に社名変更した。
三菱
三菱グループの中核をなす企業にはつぎのような企業がある。
( 、)三菱重工業 株
( 、)三菱自動車工業 株
( 、)キリンビール 株
( 、)旭硝子 株
( 、)三菱樹
三菱商事 株
214
脂 株
( 、)三菱レイヨン 株
( 、)三菱化学 株
( 、)三菱マテリアル 株
( 、)三菱製鋼 株
( 、)三菱アルミニウ
ム 株
( 、)三菱プレシジ ョン 株
( 、)三菱製紙 株
( 、)三菱電線工 業 株
( 、)三菱電機 株
( 、) 株
( ニ
) コン、
大日本塗料 株
( 、)新日本石油 株
( 、) 株
( 東
) 京三菱銀行、三菱信託銀行 株
( 、)東京海上火災保険 株
(
、明治生命保険 相 、ダイヤモンドリース 株 、 株 ディーシーカード、 株
)
(
)
(
)
(
)
( 菱
) 食、宇宙通信 株
( 、)
日本郵 船 株
( 、) 株
( 三
) 菱総合研究所、三菱地所 株
( 、)三菱倉庫 株
( な
) ど。
( へ
) つながる海運業であった。創業者は坂本
三菱グループの母体となったのは、現在の日本郵船 株
竜馬、板垣退助らと同じ幕末の土佐に生まれた岩崎彌太郎である。
(げ 浪
) 人で、
彌太郎は天保5年(1835年)、土佐の井ノ口村に生まれた。岩崎家は土佐藩の地下 じ
苗字帯刀はゆるされるが家禄のない半農の家であったが、祖先は甲斐武田の末裔だといわれ、家紋も武
田菱に由来する「三階菱」で、三菱マークの由来でもある。
少年時代は吉田東洋のもとで学び、やがて藩の開成館長崎出張所の主任となって長崎貿易で活躍し
た。明治3年(1870年)、土佐藩は藩営事業を分離独立させ、3隻の汽船で海運事業を営む九十九
九十九商会を経営することになった。三菱に歴史はここから始まるのである。
藩船の払い下げを利用し海運業にのりだしたわけだが、この時の船旗号として採用した三角菱のマー
クが、現在のスリーダイヤモンド・マークの原形となっている。岩崎家の家紋「三階菱」と土佐山内家
九十九商会は政府の輸送業務を独占し、三川商会 明
( 治5年 、)三菱商会 同
( 6年 、)郵便汽船三菱会
の家紋「三ツ柏」を組合せたもので、後に社名を三菱と定める機縁ともなった。
215
商会を開業し、その監督に岩崎彌太郎を任命した。翌明治4年に廃藩置県で土佐藩は廃絶し、彌太郎が
自動車と財閥、その他の企業
社 同
( 8年 と
) 改名しながら、国内最大の汽船会社に成長していった。しかし海運の独占は世の非難を
浴び、政府が援助する共同運輸会社とのはげしい競争が続くさなかの明治18年に彌太郎は死去した。
その年、郵便汽船三菱会社は共同運輸と対等合併を強いられて日本郵船となった。
三菱は中心事業であった海運業を失った(その後日本郵船は三菱に復帰する)が、明治6年の吉岡鉱
山や明治14年の高島炭坑の買収による鉱業(三菱鉱業の前身)
、明治17年の官営長崎造船所(後の
三菱重工業)を借り受けて進めた造船業が育っていた。
彌太郎の跡を継いだ弟の岩崎彌之助は、明治19年(188 年)に三菱社を設立して会社の再興を
はかった。明治23年には丸の内と神田三崎町の土地10万坪を政府から買い取り、現在の丸の内ビジ
ネスセンターの礎となるビル街の建設を進めた。
昭和12年に三菱合資は株式会社三菱社に改組し、昭和18年に三菱本社と改称した。
日本タール工業(現・三菱化学)などの会社をつぎつぎに設立した。
三菱地所、日本光学工業(現・ニコン)、三菱電機、三菱信託、三菱石油、新興人絹(現・三菱レイヨン)、
第1次世界大戦中の大正5年(1916年)、彌之助の長男・小彌太が第四代社長に就任し、三菱造
船( 現・ 三 菱 重 工 業 )、 三 菱 商 事、 三 菱 鉱 業( 現・ 三 菱 マ テ リ ア ル )
、 三 菱 銀 行( 現・ 東 京 三 菱 銀 行 )、
時期で あ る 。
つくって事業の拡大をはかった。神戸製紙所(三菱製紙の前身)、麒麟麦酒、旭硝子などの設立はこの
明治26年(1893年)の商法の施行で、三菱社は三菱合資会社へ改組し、彌太郎の長男久彌が社
長に就いた。三菱合資会社は、総務、鉱山、炭坑、造船、銀行、営業、地所の各部を置き、分権体制を
6
216
三菱商 事
大正7年(1918年)、三菱合資会社の営業部を母体として三菱商事株式会社が設立された。戦後
の財閥解体で、昭和22年に三菱商事は解散し、社員は100を超える企業に散ったという。三菱商事
の役員たちは多数の独立会社を設立して、その人材や事業を継承した。昭和25年(1950年)には
清算中の三菱商事が光和実業を設立し、2年後の昭和27年に旧名の三菱商事の名称を復活させた。
そして昭和29年(1954年)の大合同で、三菱商事及び旧商事系の貿易商社である不二商事、東
京貿易、東西交易の3社が合併し、現在の三菱商事株式会社が発足したのである。
伊藤忠と丸紅
江戸時代に近江では多くの豪商が生まれたが、その近江商人をルーツとする企業には伊藤忠及び同根
の丸紅、高島屋、日清紡、西武グループ、日本生命など、有力企業があ少なくない。
力が大きな競争力を生んだ。彼らはやがて江戸、大阪、京都に進出して大成功を収めるのである。
伊藤忠商事の社名に名を残す創業者の初代伊藤忠兵衛は、安政5年(1858)年に近江特産の麻布
の行商を始め、財を成して大阪市本町に呉服太物商の店紅忠を開店した。同じ年、忠兵衛の兄長兵衛も
九州博多に呉服卸商伊藤長兵衛商店を開設した。
217
近江商法は、地域間の需給や価格差に着目して、生産地から消費地へ生活必需品を流通させるところ
に大きな特徴がある。また多くは行商からスタートし、全国の商品や情報を自分の足で集め、その情報
自動車と財閥、その他の企業
明治16年(1883年)に忠兵衛は店の暖簾に「紅」の字を印した。これが丸紅の名前の由来であ
る。翌年に紅忠を伊藤本店と改称し、京都に染呉服卸問屋伊藤京店を開設した。その後、大阪にラシャ
輸入卸商伊藤西店、綿糸卸商伊藤糸店、神戸支店などを開設し、事業を拡大していった。
明治36年(1903年)に忠兵衛が亡くなると、息子の精一が二代目忠兵衛を襲名し、大正3年
(1914年)にそれまでの個人経営から会社組織にして伊藤忠合名会社を設立した。
そして大正7年(1918年)、営業部門を2つに分割し、本店と京店を母体とした株式会社伊藤忠
商店と、糸店、神戸支店及び海外店を母体とした伊藤忠商事株式会社が設立された。前者の伊藤忠商店
は伊藤長兵衛商店と合併して、大正10年(1921年)に株式会社丸紅商店を設立した。この丸紅商
店、伊藤忠商事はふたたび合併し、さらに呉羽紡績なども加えて大建産業株式会社となるが、戦後の過
度経済力集中排除法の指定を受けて丸紅、伊藤忠商事、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割され、昭和
24年丸紅株式会社が設立された。
伊藤忠と丸紅は文字通り兄弟会社なのである。
日商岩井とニチメン、トーメン
明治35年(1902年)、鈴木岩治郎は神戸に鈴木商店を設立した。大番頭・金子直吉の采配のもと、
砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業
を展開し、さらに保険・海運・造船などの分野にも進出していった。
218
いっぽう岩井文助は明治45年(1912年)に岩井商店を設立した。鉄鋼商社として急成長を遂げ、
国内でもトップクラスの地位を築いた。
鈴木商店は穀物取引において世界的な名声を獲得するまでになり、当時の小説に「スエズ運河を航行
する船舶の10隻に1隻は日本の鈴木に属すといわれ、そのシンボルマークは世界中の海で見ることが
できる」と記されたほどの隆盛をきわめた。その後、金融恐慌期の苦難を経て、昭和3年(1923年)
、
日商株式会社を設立した。
また岩井商店は、ダイセル化学工業、日新製鋼、徳山曹達、関西ペイント、富士写真フイルムなど、現在、
各分野のリーディングカンパニーとして活躍する会社を次々に設立し、グループ企業を形成していった。
そして昭和18年に岩井産業株式会社と改称した。
戦後、日商と岩井産業はそれぞれ金属・機械部門を中心に事業を拡大し、昭和43年(1968年)
に合併して日商岩井株式会社となった。そして平成15年ニチメンと共同で完全親会社のニチメン・日
ニチメ ン と ト ー メ ン
明治政府は近代的な設備による紡績の振興をはかり、基幹産業のひとつに育てていった。国産綿花で
は需要をまかなえず、原料の綿花を海外から輸入する必要があった。しかし輸入業者はきわめて少なく、
価格の変動も激しいため、発展途上にあった紡績業界にとっては大きな不安定要因になっていた。
ニチメ ン
219
商岩井ホールディングス(株)を設立した。
自動車と財閥、その他の企業
そのような情勢に危機感を持った大阪の紡績会社の有志たちは、綿花直輸入会社の設立にむけて動き
出した。明治25年(1892年)、大阪の摂津紡績、平野紡績、尼崎紡績、天満紡績の4社の首脳陣
を中心とした25人の発起人で日本綿花株式会社が設立された。ニチメンの始まりは紡績会社による原
料の共同仕入会社だったのである。
昭和57年(1982年)にニチメン株式会社に社名変更した。平成15年、日商岩井(株)と共同
で完全親会社のニチメン・日商岩井ホールディングス(株)を設立した。
トーメ ン
明治の産業発展を支えた繊維産業のなかでも、とりわけ綿花は相場の変動が激しく、投機的な性格が
あった 。
三井物産では大正6年に、棉花部の取扱額が総取扱額に対して30%を超え、最大の部門となった。
当時の棉花部長・児玉一造は、綿花事業のリスクが大きいだけでなく、莫大な利益をあげても社員の待
遇は規定によって制限されることから、大正9年(1920年)の反動恐慌のさなかに三井物産棉花部
の業務を継承するかたちで東洋棉花株式会社を設立した。
、 ずからは
棉花王とよばれた児玉一造だが、会社設立に際しては三井物産にいる同輩への考慮から み
専務となり、三井物産筆頭常務の藤瀬政次郎を会長に迎え、社名も、投機性の高い綿花で万一のことが
あった場合を考えて三井の名を付けなかった。
そこで当時よくあった「日本」の名を付けた企業の上を行こうと、「東洋」の名を付けた。その後に
設立された東洋レーヨン(現・東レ)も同じような事情で、以来、三井系で新しく生まれる会社には、
220
東洋と名付けることが多くなった。
221
昭和45年(1970年)、全売上高に対する非繊維部門の売上高が70%を超え、創立50周年を
機に現在の株式会社トーメンに社名変更した
自動車と財閥、その他の企業
三越
百貨店とスーパー
百貨店には大きく分けて2つの系統がある。ひとつは呉服店から発展したも
ので、三越や松坂屋などの由緒ある店が多く、名前には「屋」がつくケースが
多い。もうひとつは電鉄系で、電車のターミナル百貨店として発展し、名前に
は電鉄会社の名前がついている。
スーパーは戦後に生まれた新業態で、安売り店から始まって消費者の支持を
集め、急速に事業を拡大していった。総合スーパーはデパートに引けを取らな
い規模と品揃えを誇り、各地にチェーン展開をして、売上高でもデパートを抜
いている。
三越の創業は延宝元年(1673年)、伊勢・松坂出身の商人、三井高利(三井家の家祖)が江戸本
町に呉服店越後屋を開いたことから始まる。三井家は武士の出で代々「越後守」を名乗っていたことか
ら越後屋の名前がつけられた。
222
越後屋は「現銀掛値なし」(正札販売)という新商法を掲げ、呉服の価格を下げただけでなく、呉服
は反物単位で売るという当時の常識を覆して切り売りをし、江戸庶民の人気を集めた。また、雨の日に
越後屋と書いた傘を無料で貸し出すなど、宣伝にも努めた。
延宝6年(1678年)には二番目の店を出し、この2店を江戸の大火で焼失したのを機に、天和3
年(1683年)に越後屋呉服店を駿河町に開店し、隣に補助機関として両替店(後の銀行)を設置し
た。その後、大阪にも呉服店と両替店を開店し、呉服、両替ともに幕府の御用達になるほど発展して現
在の三井グループの源流となっていった。
しかし明治維新で武家の得意先を失い、洋服も出てきたために、呉服店は時代の流れに添わなくなっ
た。三井家は、三井銀行、三井物産、三井鉱山などで大きく発展したが、呉服店だけが取り残されてし
まった の で あ る 。
ついに明治5年(1872年)、呉服店は三井大元方から離され、三井の「三」と越後屋の「越」を
取った三越家をたて、三越得右衛門らの経営となった。店章も丸に越のマークに改められた。
年、商標を丸に井桁三のマークに戻し、合名会社三井呉服店と改称した。三井銀行本店副支配人だった
日比翁助が副支配人に就任してさまざまな改革を進めていくことになる。
明治37年(1904年)12月、株式会社三越呉服店を設立し、マークも「丸に越」に改めた。専
務取締役となった日比は、同時に顧客や取引先に三越呉服店が三井呉服店の営業すべてを引き継いだこ
223
三井家でもなんとか呉服店を近代化しようと、明治28年(1895年)に三井銀行大阪支店長の高
橋義雄を呉服店の理事にした。高橋はアメリカの百貨店の研究をしており、呉服店の改革を始めた。翌
自動車と財閥、その他の企業
とを案内するとともに「販売の商品は今後一層其の種類を増加し(中略)米国に行わるるデパートメン
トストーアの一部を実現致すべく」と挨拶し、翌年の年頭には、同様の文章を新聞一面広告、雑誌など
に掲載した。これが日本の百貨店の始まりとされる「デパートメントストア宣言」である。
明治39年に日比は欧米を視察し、イギリスのハロッズ百貨店を目標に決めた。大正3年(1914
年)、三越呉服店はルネッサンス式鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエスカレーターが設置され
て話題となった。このとき日比のアイデアで、正面玄関に二頭の青銅製ライオン像が設置された。
日比は自分の息子に「雷音」と名付けるほどライオンが好きで、ロンドンのトラファルガー広場にあ
るネルソン提督像を囲むライオン像を模して作らせた。そこには三越がライオンのような王者になって
欲しいとの願いが込められている。このライオン像は、太平洋戦争中の金属回収のために海軍省に供出
されたが、溶解を免れて東郷神社に奉納されているのを社員が発見し、昭和21年に本店に戻った。現
在は本店に2頭、各支店に1頭ずつ設置されている。
新宿店、
その翌年に銀座店を続けて開店した。
昭和3年(1928年)に三越呉服店の商号を三越と改め、
なお、包装紙「華ひらく」は昭和26年(1951年)に現代美術家の猪熊弦一郎がデザインしたも
のであ る 。
高島屋
江戸末期の天保2年(1831年)、創業者の初代飯田新七が京都烏丸松原で「たかしまや」の屋号
224
で古着・木綿商を始めた。この屋号は創業者の出身地である近江国高島郡南新保村(現・滋賀県高島郡
今津町)にちなんだものである。
明治中期から大正にかけて、高島屋の名を世界に広めるために、海外博覧会に刺繍や壁掛け、屏風軸
などを意欲的に出品し、あいついで受賞した。明治27年には四代新七がパリ万国博覧会の視察をかね
て欧米を旅行し、海外貿易の必要性を確信したという。明治29年にショーウインドーを設けて現在の
百貨店スタイルの原形をつくり、明治43年にはロンドン日英博タカシマヤ館を建設した。
大正8年(1919年)に株式会社高島屋呉服店となり、大正11年には大阪長堀橋に7階建ての新
店舗を開設して近代的百貨店経営を始めた。昭和5年(1930年)
、文字どおり百貨の商品を扱うよ
うになって「呉服店」のイメージが合わなくなったため、株式会社高島屋に社名変更した。
昭和7年には日本初の冷暖房装備をした大阪南海店が全館開店し、昭和13年には大阪店に東洋一の
大食堂 を 誕 生 さ せ た 。
大丸
享保2年(1717年)に下村彦右衛門正啓が京都の伏見に呉服店大文字屋を開き、そのころから大
丸の商標を使用している。
225
「バラ」マークはタカシマヤのシン
昭和27年(1952年)に包装紙のデザインにバラを採用し、
ボルと な っ た 。
自動車と財閥、その他の企業
「人」
大に丸を書いた旧マークで、丸は宇宙を表し、大の字はは一と人との組み合わせであることから、
のなかで「一」になる、つまり天下第一の商人を意図したものである。大正2年(1913年)に大の
字の端を7・5・3に分け、商標として登録している。
現在の孔雀をモチーフにしたロゴマークは、昭和58年(1983年)に、梅田店を開設する際、フ
ァッション性や創造性、積極性などのイメージを築き上げるために一新したものである。
大丸のシンボルである孔雀が初めて使われたのは大正14年(1925年)で、大阪・心斎橋店の中
央玄関上部にテラコッタ(陶製)の孔雀が掲げられた。これは当時の下村社長が心斎橋店の新築工事に
あたり、フェニックスをアメリカの会社へ注文したのが、何かの事情で孔雀に変わったものらしい。
旧来のマークは、今も社章として残り、公文書、契約書、株券などに使われいる。
ところで、彦右衛門は身長が非常に低いにもかかわらず頭が大きく、その姿は福助人形の原型だとも
言われている。彼の店は繁盛し、貧民への施しも忘れなかったので、京の人々は店主にあやかろうと人
形をつくって祈ったといわれている。
享保11年(1726年)には大阪の心斎橋に大阪店松屋を開き、現金正札販売をはじめ、享保13
年に名古屋の本町にも店を開いた。このとき商標のマークをそのまま読んで大丸屋という屋号に改めた。
「先義後利」の店
元文元年(1736年)、彦右衛門は事業の根本理念を「先義而後利者栄」と定め、
是を掛け軸にして全店に配った。これは中国の儒学者旬子の教えからとったもので「義を先にして利を
後にする者は栄える」という意味である。今ふうに言えば「お客様第一主義」ともいえるもので、現在
も社是として掲げられている。
226
寛 保 3 年( 1 7 4 3 年 ) に 江 戸 日 本 橋 大 伝 馬 町 に 江 戸 店 が 開 業 す る が、 そ れ に 先 駆 け る 元 文 3 年
(1738年)、彦右衛門は江戸の呉服屋と取引契約を結び、大丸マークを染め抜いた派手な大風呂敷で
商品を送り込んだ。先方の小僧がこの大風呂敷を背負って町中を歩いたので、江戸店が開店するときに
はすでに大丸屋の名前は知れ渡っていたという。また幕末の文久3年(1863年)に、新撰組は麻の
羽織、紋付きの単衣、小倉の袴という制服を大丸で新調したという。
明治40年(1907年)に合資会社大丸呉服店を設立し、大正9年(1920年)に株式会社大丸
呉服店を設立。昭和3年(1928年)に現在の株式会社大丸に改称した。
松坂屋
織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道(すけみち)が、慶長16年(1611年)に、清須から新興
城下町の名古屋に移り、名を源左衛門と改めて呉服小間物商のいとう呉服店を開いたのが始まりである。
火で類焼したため、衣類や古着を原価に近い値段で売り出した。これが大成功をおさめて、薄利多売の
原点と な っ た 。
元文元年(1736年)には呉服小間物問屋から呉服太物小売業へ業態を転換して、「現金かけねなし」
の正札販売をはじめた。その後、尾張徳川家の呉服御用達となって発展していった。
227
源左衛門は大坂夏の陣で豊臣方に加わり、戦死を遂げた。遺児の祐基(すけもと)が元服して次郎左
衞門と名乗り、万治2年(1659年)に中絶した家業を再興した。ところが翌年におこった万治の大
自動車と財閥、その他の企業
明和5年(1768年)に、上野の松坂屋を買収して江戸へ進出し、店名をいとう松坂屋と改めた。
江戸の名所として浮世絵にも描かれた店で、新選組副長の土方歳三もここで働いていたことがあるとい
う。
文化2年(1805年)に江戸大伝馬町に木綿問屋を開業して亀店(かめだな)と称し、上野店は鶴
店と称した。これは問屋を兼業して価格の引き下げをはかったものである。
明治8年(1875年)には大阪の老舗えびす屋呉服店を買収し、えびす屋いとう呉服店を開業した。
明治43年(1910年)に会社を設立して株式会社いとう呉服店となり、名古屋に百貨店を開設した。
関東大震災の翌年(大正13年)には銀座復興の先陣を切って銀座店を開店し、百貨店初の全館土足入
場や屋上も動物園が話題を呼んだ。
会社創立15周年の大正14年(1925年)に株式会社松坂屋に社名変更して、呉服店から百貨店
への脱皮を遂げたのである。
また、愛知県為替方の御用で開業していた出納所は明治14年(1881年)に名古屋初の私立銀行
伊藤銀行へと発展し 東
、明治26年(1893年)には姉妹銀行として伊藤貯蓄銀行(あさ
( 海銀行)
ひ銀行)を独立させた。三越とおなじように呉服屋と銀行を両立させたわけである。
東京フィルハーモニー交響楽団の前身は明治44年(1911年)に結成されたいとう呉服店少年音
楽隊で、日本のオーケストラの草分けといわれている。
商標は「いとう」を形にしたもので、井桁が伊、中央のくずし字が藤を表し、通常「いとう丸」と呼
ばれている。開業直後から暖簾や看板に使用されていたものを、1926年の昭和への改元を機に、井
228
桁、丸型の太さを現在の形式に統一した。
伊勢丹と松屋
伊勢丹
明治19年(1886年)に、伊勢又から分家した初代小菅丹治が神田旅籠町に呉服太物(ふともの)
商を開業した。そのときの屋号が伊勢屋丹治呉服店であった。「伊勢又」から分家した丹治の店という
ことで あ る 。
解凍大震災後の大正13(1924年)に百貨店形式に変更し、昭和5年(1930年)の株式会社
設立時に現在の社名株式会社伊勢丹となった。
3年後の昭和8年には新宿に現在の本店をオープンした。
松屋の社章は、松と鶴を合わせた松鶴マークである。かつて、松屋と鶴屋の2つの呉服店があったか
らであ る 。
始まりは明治2年(1869年)、横浜に創業した鶴屋呉服店であった。
明治22年(1889年)に東京へ進出するさいに、神田今川橋の松屋呉服店を買収して、その屋号
を継ぎ松屋呉服店を営業した。しばらく横浜の鶴屋と東京の松屋の2店体制が続いたのである。
229
現在のiのマークは昭和61年(1986年)のCI刷新で生まれた。
松屋
自動車と財閥、その他の企業
一時、両店を合わせた松屋鶴屋呉服店などの屋号も使用していたが、松屋呉服店の方が本店として順
調に業績を伸ばしていったため、松屋の名前に統一された。
ダイエーとローソン
スーパーのダイエーの由来は、創業者の中内功の父が兵庫県神戸市兵庫区に開いたサカエ薬局にさか
のぼる。「サカエ」は中内の祖父の名前「栄」にちなんだものである。
その後、祖父の名前の「栄」と大阪の「大」を取って、大栄薬品工業を設立し、昭和32年(1957
年)に大栄をカタカナにした株式会社主婦の店ダイエー本店を設立した。大栄には大きく栄えるという
願いも込められている。1号店は大阪の京阪電車・千林駅前に同年9月にオープンした。翌年には神戸
市三宮店がオープンし、早くもチェーン化の第1歩を踏み出した。
「主婦の店」という名前には、家計をあずかる主婦の味方になるという理念が込められており、
「価格
は、生産者ではなく、お客さまが決める」の信条のもとにいいものを安く販売することに努めた。たと
えば昭和34年当時、100g60円だった牛肉を39で売るなど、その安売り商法が主婦の支持を得
て全国を席巻することになる。
昭和45年(1970年)、株式会社主婦の店ダイエーから株式会社ダイエーに社名変更した。
また、昭和50年(1975年)にはコンビニチェーンのローソン1号店を大阪にオープンした。ロ
ーソンは、アメリカ・オハイオ州で1939年にJ J. ロ. ーソンがミルクショップ ロ
= ーソンを設立
230
したのが名前の由来で、ミルク缶のマークもそのためである。
ダイエーローソン株式会社として設立され、平成元年にサンチェーンと合併して株式会社ダイエーコ
ンビニエンスシステムズとなり、平成8年(1996年)に株式会社ローソンに社名変更している。
イトーヨーカ堂とイオン
イトー ヨ ー カ 堂
伊藤雅俊取締役名誉会長の叔父、吉川敏雄氏が大正9年(1920年)に浅草に創業した羊華堂洋品
店が前身である。「羊華堂」の名前は、当時、銀座の繁盛店だった日華堂にあやかり、また吉川氏がヒ
ツジ年生まれだったことからつけられた。
昭和33年(1958年)に株式会社ヨーカ堂を設立し、ダイエーが社名変更した翌年の昭和46年
(1971年)に株式会社イトーヨーカ堂に社名変更した。
イオン
総合スーパーのジャスコを中核とするジャスコグループは、平成元年(1989年)に「イオングル
ープ」へ名称を変更し、平成13年(2001年)にはジャスコ株式会社もイオン株式会社へ社名を変
更した。「イオン」は、ラテン語で「永遠」を意味する言葉である。
231
現在のハトのマークができたのは社名変更した翌年の昭和47年で、ハトの白色は誠実を、青色は清
潔を、赤色は若々しい情熱を表している。
自動車と財閥、その他の企業
Japan
ジャスコの誕生は、昭和44年(1969年)にローカル企業の岡田屋、フタギ、シロの3社が提携
して共同仕入機構ジャスコ株式会社を設立したことに始まり、翌年に岡田屋がフタギ、オカダヤチェー
ン、カワムラ、ジャスコを合併した。
ジャスコの名前は、新社名を全従業員に公募したところ、日本ユナイテッドチェーン株式会社(
)が選出され、それを略したJUSCOの通称を新社名としたものである。昭
United Stores Company
和55年にコンビニチェーンのミニストップを設立した。
232
の中核企業なのである。
洋食器メーカーとして知られるノリタケは日本の近代窯業を築いたパイオニ
アであり、衛生陶器や碍子、ニューセラミックス分野にまたがる企業グループ
ノリタケと日本の陶磁器
焼き物の話
粘土は、花崗岩などの長石をふくむ岩石が風化して出来た土で、水を多く含みやすく、そのためやわ
らかく、簡単に形をかえることができる。そして熱したり焼いたりすると硬くなって元に戻らない。こ
「焼き物」は焼く温度が高いほど硬く焼き締まる。もっとも原始的な
「焼き物」は比較的低温で焼ける「土
器」であり、人類の文明とともに古い。それより高温で焼かれる「陶器」、さらに「磁器」と硬度も硬
くなる。また、この順番は歴史に登場した順番でもあり「焼き物」先進国の中国では6世紀ごろには磁
器が作られていたが、ヨーロッパでは1200年も後の18世紀まで待たなければならなかった。
それまでのヨーロッパでは中国の磁器が「白い宝石」として珍重され、各地の王侯貴族が熱心に収集
233
の性質を利用して、用途に応じたさまざまな物を作り出すことができる。いわゆる「焼き物」である。
自動車と財閥、その他の企業
するいっぽう、盛んに模倣し、製法の研究を重ねていた。磁器のことを英語で「チャイナ」という(ち
なみに英語で「ジャパン」といえば漆器のこと)。
18世紀の初め、ドイツのドレスデンで錬金術師が最初の硬質磁器を生み出したが、その製法は国家
機密として厳重に管理され、近郊のマイセンに王立磁器工場を造ってヨーロッパの磁器製造を独占しよ
うとした。しかし、いずれその製法は漏洩し、ヨーロッパ各地で磁器が作られるようになるが、マイセ
ン磁器の評価は高く、今日のテーブルウエアの基礎を作った。
日本では奈良時代に中国や朝鮮から陶工が帰化して陶器が伝わり、茶の湯の勃興とともに陶芸が発達
したが、磁器の生産は江戸時代の初めごろからである。九州北部の有田近郊で磁器用の粘土が発見され、
有田焼きとして発展したが、中国の明末期からの動乱で中国時期の輸入が減ったヨーロッパで人気が沸
騰し、伊万里港から盛んに輸出された(そのために伊万里焼とも呼ばれる)
。
明治の開国以降、日本の陶磁器はパリ万国博覧会などで紹介され、ヨーロッパのジャポニズム・ブー
ムの一翼を担ったが、逆にヨーロッパの白い食器の美しさに魅了された日本人がいた。洋食器メーカー
として知られるノリタケの創業者・森村市左衛門である。
「 焼 き 物 」 製 品 は 壺 や 食 器 の 陶 磁 器 だ け で な く、
こ の ノ リ タ ケ に よ っ て 日 本 の 近 代 窯 業 は 始 ま っ た。
土管やレンガ、タイル、さらに絶縁特性を活かした碍子 が
( いし や
) 、硬度を活かしたセラミック包丁、
耐熱性と硬度からスペースシャトルの噴射口部品にまで広がっている。最近はそれらを総称してセラミ
に由来している。そしてノリ
Keramos
タケはこのセラミック全般に渡って事業展開し、高級食器の大倉陶園のほかにも衛生陶器のTOTOや
ッ ク と 呼 ん で い る。 セ ラ ミ ッ ク は 粘 土 を 意 味 す る ギ リ シ ャ 語 の
234
INAX、碍子の日本ガイシ、自動車プラグやニューセラミックスの日本特殊陶業、ファインセラミッ
クス原料や住宅資材の共立マテリアルなどの企業グループを作り上げたのである。
海外貿易に賭けた森村兄弟
1、海外貿易は四海兄弟、人権拡張、共同幸福を得て永く世界の平和を保ち国家の富強の元を開き将
来国家に志す者の執るべき事業と決心し創立したる社中なり。
これは現在もノリタケの企業理念として生きている「我が社の精神」の第1条で、明治42年5月、
森村組総長、森村市左衛門の署名がある。
森村市左衛門は、天保10年(1839年)に御用商人の長男として江戸・京橋に生まれた。しかし
16歳のとき、江戸を襲った安政大地震で家を失い、煙草入れなどを売る露天商で一家を支えた。安政
中津藩(大分県)の福沢諭吉と知り合った。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約(1858年調印)の批准書交換のために使節団をアメ
リカに派遣することになった幕府から、持参する土産品や外貨の調達を頼まれた。そのとき、彼は日本
の小判(金)とメキシコ銀貨の両替レートが不当に低いことに憤慨し、「これでは日本の金が流出する
一方だ」と福沢諭吉に相談した。「貿易で取り戻すしかない」という福沢の言葉を胸に刻み、市左衛門
はのちに貿易商を始めることになる。
235
6年(1859年)に開港した横浜でラシャや時計などを仕入れて売り、大名屋敷に出入りするうちに
自動車と財閥、その他の企業
森村商店は幕末に馬具や軍服の製造を始め、明治になってからも陸軍に鞍や軍服を収めていた。しか
し市左衛門は、賄賂を要求されたことに激怒して軍御用達を辞めてしまい、銀座に洋服店を開いた。
明治9年(1876年)、慶應義塾に学んだ弟の豊と貿易商社森村組(現・森村商事株式会社)を設
立した。これが現在の森村グループの第一歩となった。市左衛門37歳、豊22歳であった。
その年、豊は福沢諭吉に紹介された輸入商の佐藤百太郎(順天堂の創設者の長男)の世話で、三井組
の伊達忠七らとともにニューヨークに渡り、日之出商会を設立した。市左衛門が日本で蒔絵、印籠など
を調達してニューヨークの豊に送り、アメリカ人に販売した。これは開国以来、日本人が初めて行った
海外貿易であるといわれている。2年後の明治11年、豊は単独で六番街に輸入雑貨店森村ブラザーズ
を設立し、市左衛門は義弟の大倉孫兵衛を森村組に入れて仕入れを強化した。欧米では東洋趣味が流行
しており、日本の陶磁器が人気で、輸出品目の主力となっていった。
そして数年後、何回か開催されたパリの万国博覧会では日本文化に注目が集まったが、森村兄弟が魅
せられたものは西洋陶磁器の白い輝きだった。「この美しい磁器を日本で製造したい」と名古屋支店で
洋食器の研究を開始した。ここから日本の洋陶磁器製造の歴史が始まるのである。
しかし、どうしてもあの純白の光沢が出せなかった。その秘密を探るため、技術者をヨーロッパに派
遣したが、どの工場でも粘土の混合や焼成温度は極秘扱いで、なかなか成果を上げることが出来なかっ
た。その苦闘のさなかに、慶應義塾を出てニューヨークに渡っていた市左衛門の長男・明六が明治30
年に死亡し、続いて弟の豊も死去する不幸が襲った。
ようやく明治35年になって、日本の絵付け技術と交換に工場見学が認められ、翌年に純白の生地を
236
作り出すことに成功した。そして明治37年(1904年)、
ヨーロッパから製陶機械や石炭窯を導入し、
名古屋駅近くの鷹羽村則武にノリタケの前身である日本陶器合名会社が創立された。代表は大倉孫兵衛
の長男・和親で、自ら工場内に家を建てて陣頭指揮にあたった。ここで生産された製品の裏には所在地
を示すNORITAKEという文字が入っおり、それがブランド名として有名になった。明治末年には、
ノリタケの洋食器は輸出だけでなく、皇室、外務省、海軍、帝国ホテル、精養軒などに採用されている。
しかし、海外では八寸皿のディナープレートが求められており、その大きさになると皿の中央が垂れ
てしまって製品としての形をなさなかった。中央の粘土を厚くすることでその問題を解決し、白色硬質
磁器ディナー大皿が完成したのは10年後の大正3年(1914年)だった。ここに日本初のディナー
セット が 誕 生 し た 。
その年、第一次世界大戦が勃発して欧州からの輸入が途絶したアメリカからディナーセットの注文が
殺到し、世界のノリタケへの飛躍が始まる。大正6年(1917年)に株式会社化して日本陶器株式会
ノリタケカンパニーリミテドに社名変更した。
森村グループの形成
ディナーセットの完成に向けて研究を進めている間に、明治40年に食器の糸底などを研磨する砥石
の自家製造を始め、のちに日本を代表する研削・研磨の総合メーカーとなる。また、成形技術から生ま
237
社となり、昭和56年(1981年)に事業の拡大にともなって陶器の名を外し、ブランド名を冠した
自動車と財閥、その他の企業
れた人造石膏は業界トップになった。こうして関連技術の蓄積が進み、工業機材事業、電子事業、セラ
ミック事業、環境エンジニアリング事業などへの多角的な企業体へ発展する礎となったのである。
日本陶器が株式会社化した大正6年以降、立て続けに分社化や関連会社の設立を行い、企業集団森村
グループを形成することになる。
日本陶器合名会社内に設けられた製陶研究所は、衛生陶器(便器)の製造研究を始め、八寸皿完成の
大正3年に国産初の洋風衛生陶器を製品化した。そして大正6年に北九州小倉に東洋陶器株式会社を設
立し、衛生陶器の製造販売を開始した。衛生陶器は関東大地震以後、東京で需要が拡大し、シェア90
%にまで達した。東洋陶器からとったTOTOのロゴは衛生陶器の代名詞とさえいえる。このTOTO
の商標登録は昭和44年(1969年)で、翌45年に現社名の東陶機器株式会社に社名変更した。
ま た 明 治 3 8 年( 1 9 0 5 年 ) に は、 芝 浦 製 作 所( 現・ 東 芝 ) の 要 請 で 送 電 用 碍 子 を 製 造 し て い
る。水力発電の普及とともに碍子の需要が拡大していき、重要な産業分野となった。そこで大正8年
社を設立した。そして昭和61年(1986年)に日本ガイシ株式会社へ社名変更した。碍子(ガイシ)
(1919年)に碍子部門を分離して、市左衛門の次男・開作と大倉和親の出資による日本碍子株式会
とは、高圧の送電線を鉄塔のアーム取り付けるためのセラミック(陶)製の絶縁体のことで、同社のテ
レビコマーシャルでいうようにまさに黒子的存在である。
大正13年に愛知県常滑市に設立された伊奈製陶株式会社では、近代陶管、タイルの生産を行った。
同社は昭和恐慌下の昭和5年に自動車・航空機の点火プラグを開発し、昭和11年にスパークプラグ
部門を分離して日本特殊陶業株式会社を設立している。
238
昭和60年に株式会社INAXへ社名変更し、平成13年にトステム株式会社と共同持株会社株式会社
INAXトステム・ホールディングスを設立している。
日本碍子株式会社を設立した大正8年には、大倉孫兵衛、和親の父子によって大倉陶園が設立され、
美術的価値の高い磁器の生産を開始し、皇室御用達や迎賓館の食器などを収めている。昭和2年に現在
の株式会社大倉陶園に社名変更した。
昭和に入ってから設立された会社には共立原料株式会社がある。昭和11年に日本陶器、東洋陶器、
日本碍子の原料が共通する3社の原料部門を分離統合し、原料を円滑に供給することを目的に設立され
た。戦後は3社以外にも販売を行い、昭和22年に共立窯業原料株式会社に社名変更した。さらに平成
12年に現在の共立マテリアル株式会社へ社名変更した。 こうしてみると、日本の陶磁器産業のお
もだった会社はノリタケを母体に生まれ育ってきたことがわかる。
さて、そもそもの始まりとなった森村組はどうだろうか。
機に大きく伸びた日本陶器とは逆に、戦後の不況と昭和恐慌のために主要な業務は日本陶器に合流した。
明治30年に設立した森村銀行も昭和4年に三菱銀行に吸収され、ニューヨークの森村ブラザーズも昭
和16年(1941年)の日米開戦で活動停止に追い込まれた。昭和21年に、森村商事(株)と改名
森村市左衛門は、グループ企業が次々に生まれていた大正8年、81歳でこの世を去った。
し、陶器材料の輸入販売や不動産事業などを行っている。
239
陶器だけでなく、ミキモトの真珠、工芸品に手を広げて貿易商社として成長していき、大正6年には
市左衛門の次男・開作に引き継がれ、大正7年に株式会社森村組となった。しかし、一次世界大戦を契
自動車と財閥、その他の企業
理研が母体の企業群
理化学研究所、通称「理研」は日本を代表する総合科学研究所である。ここ
から物理学者の湯川秀樹や長岡半太郎、仁科芳雄、朝永振一郎、そしてビタミ
ンB1を発見した鈴木梅太郎など、多くの著名な研究者が生まれた。
基 礎 研 究 だ け で な く、 発 明 や そ の 製 造・ 販 売 に も 力 を 入 れ、 ビ タ ミ ン A の
製造やコランダム(研磨剤)
、アルマイト、日本初の感光紙もここで生まれた。
それらの成果をもとにつぎつぎと企業を設立して、理研コンツェルンと呼ばれ
る企業グループを形成したのである。
理研と理研コンツェルン
そもそもは大正2年(1913年)に、高峰譲吉が築地精養軒で「国民科学研究所設立の必要性」に
ついて演説したのが始まりである。高峯は消化酵素剤タカヂアスターゼの発明や副腎の有効成分アドレ
)の初代
P92
ナリン結晶の抽出などで世界的に知られた科学者で、日本人ノーベル賞候補の第1号とさえ言われた人
物である。「タカヂアスターゼ」や「アドレナリン」を日本で販売する三共株式会社(→
240
社長で も あ っ た 。
高峯はアメリカで長く研究生活を送った経験から、日本に理化学振興のための国民科学研究所の必要
性を提唱し、桜井錠二や渋沢栄一らの官・財界人からも支持を集めた。そして大正6年(1917年)、
渋沢栄一が創立委員長になり、皇室や政府、企業からの資金提供を受けて財団法人理化学研究所が東京
都文京区駒込に設立された。
しかし第1次世界大戦後の不況で思うように資金が集まらず、3代目所長の大河内正敏は主任研究員
が裁量権を持って研究室を主催する研究室制度を発足させるいっぽう、研究成果を特許化し、工業化・
商品化して、資金にあてるという方針を打ち出した。これによって研究開発は進み、大正13年
(1924
年)に高橋克己が肝油からビタミンAを分離抽出して、日本で初めてビタミンAを販売するなど、多く
の事業が立ち上がった。
昭和2年(1927年)には理研の発明を理研自身が製品化するための事業体として理化学興業株式
会社(さまざまな理研系企業の母体)を創設し、さらに理研マグネシウムや理研ゴムを設立するなど、
こうして最盛期には63の会社と121の工場を持つ一大コンツェルンができあがった。
基礎研究では原子物理学研究で先端を行き、第 次世界大戦を目前にした昭和16年(1941年)
には、仁科芳雄が中心となって原子爆弾の開発にも着手している。
2
太平洋戦争に突入すると軍需関係業務が中心となり、敗戦後はコンツェルンをふくめて解散を余儀な
くされた。解体後は株式会社科学研究所に改組し、研究によって開発された成果物を売ることによって
241
アルマイト、陽画感光紙、ピストンリングなどを事業化するための多くの生産会社を設立していった。
自動車と財閥、その他の企業
研究費をまかなっていた。その代表的なものが、抗生物質のペニシリン、ストレプトマイシンの製造だ
った。
しかし、それだけでは研究費がまかなえず、昭和33年(1958年)の理化学研究所法の制定で、
科学技術庁傘下(現・文部科学省)の総合研究機関として特殊法人理化学研究所となったのである。
現在は埼玉県和光市に本部を移し、物理学、工学、化学、生物学、医科学などにおよぶ広い分野で研
究が進められている。また研究成果の普及を目的に保有特許の利用許諾を進め、
一般企業による実用化・
製品化はもとより、研究者がいわゆる理研ベンチャーを興すことも積極的に支援している。
なお、戦前に理研が創設した主な会社には以下のようなものがある。
昭和2年、理化学興業(兵器、化学及工作機械、投資)。昭和7年、理研マグネシウム(マグネシウ
ム)。昭和9年、理研ピストンリング(ピストンリング、ピストン、工作機械)
、理
研閃光板(フラッ
シュ・ライト)。昭和10年、理研特殊鉄鋼(各種特殊鋼)、理研電線(エナメル銅線、通信用コード)、
理研紡織(人絹交織物、メリヤス)、理研光器(写真用機械器具)
、理研コランダム(研磨布・紙)
。昭
和11年、理研感光紙(感光紙、写真機)、理研軽合金(銅合金、軽合金鋳物)、理研酒販売(理研酒の
共販及び製造原料の販売)、理研鋼材(製鋼、製鉄)、理研圧延工業(圧延材料による諸製品)。昭和12年、
東洋綴金具製作所(各種ベルトレーシング)、理研護謨工業(再生ゴム、特需ゴム製品)
、旭光学興業(写
真機)、理研琥珀工業(合成樹脂製品)。昭和13年、理研スプリング(スプリング、バネ)、理研金属(マ
グネシウム)、日本苦汗工業(苦汗)、理研工作機械(工作機械)、理研水力機(飛行機用部品)
、日本光
器(光学用レンズ、フイルター)、理研酒工業(理研酒、理研ウイスキー)、理研工業薬品(工業用及化
242
学用薬品)、理研栄養薬品(栄養並医療用薬品)、理研電動機(工作機械用電動機)
、理研空気機械(空
気機械一般)、理研重工業(ピストンリング、工作機械、特殊鋼)
。昭和14年、理研計器(測定用諸機械)
、
山鹿製作所(電流計及電圧計)、葛生窯業(高級コークス)、戸越精機製作所(ダイヤルインジケーター、
硬度計)、特殊ゴム化工(ライニング加工)、東洋製鋼所(薄鋼鈑)
、渡辺鉄工所(化学機械)
。昭和15年、
理研電化工業(アルマイト応用品、飛行機部品)、理研鋳造(工作機械、鋳造)
、理研鉱業(鉄鉱石、亜炭)。
昭和16年、理研工業、など。
株式会 社 リ ケ ン
「理研」の名前をそのまま継承している会社が株式会社リケンだ。
大正15年(1926年)に理化学研究所・大河内研究室の海老原敬吉博士が、シリンダ内壁に対し
均一な圧力を及ぼすピストンリングの製造法を発明し、各国の特許を取得したことから始まる。
し、昭和9年にその工場を分離して理研ピストンリング株式会社が設立された。この理研ピストンリン
グ(株)が昭和13年に理研特殊鉄鋼(株)と合併して理研重工業株式会社となり、さらに昭和16年
に理研コンツェルン内の理研工作機械(株)や理化学興業(株)など6社と合併して理研工業株式会社
戦後の昭和24年には11社に解体され、柏崎工場は理研柏崎ピストンリング工業(株)
、熊谷工場
となっ た 。
243
昭和2年(1927年)に「理研」所長の大河内正敏が 理化学興業を創業し、日本で初めて実用ピ
ストンリングの製造を開始した。これが同社の前身である。昭和7年に新潟県柏崎町に柏崎工場を建設
自動車と財閥、その他の企業
は理研熊谷鋳鉄(株)として再出発した。この2社が昭和28年(1953年)に合併し、理研ピスト
ンリング工業株式会社としてピストンリングでは世界有数の企業(昭和56年に世界2位)に成長して
いく。昭和54年(1979年)に現在の株式会社リケンに社名変更した。
リコー
今は昔、書類のコピーをとることを、「リコピーする」とか「ゼロックスする」とか言ったことがあった。
リコーとゼロックス、どちらも代表的なコピー機メーカーの名前である。
このリコーは、戦前の「理研」が発明の工業化を目的に設立した理化学興業株式会社が母体で、昭和
11年(1936年)に創業者市村清がそこから独立して理研感光紙株式会社を設立した。
そもそもが感光紙の会社だから、コピー機を手がけるのも理解できる。それだけでなく、カメラの製
造も手がけ、昭和13年に理研光学工業株式会社に社名変更し、昭和38年(1963年)に現社名の
株式会社リコーへと社名変更している。
戦後の昭和28年に関係会社の旭精密工業株式会社および愛光商事株式会社を吸収合併してカメラの
製造を再開した。昭和32年にはカメラの大量生産体制を日本で初めて確立し、大河内記念生産賞を受
賞した。この賞は「理研」の発展に大きな足跡を残した3代目所長の大河内正敏を記念して、生産工学
上の優れた独創的研究によりあげられた産業上の特に顕著な業績に対して与えられるものである。
昭和48年には、事務用高速ファクシミリの1号機「リファクス600S」が人工衛星を使用してア
メリカとの国際間電送に成功した。このころにはすでに事務機器・電子機器メーカーとして知られるよ
244
うにな っ て い る 。
理研ビ タ ミ ン
理研ビタミンのルーツは、「理研」で高橋克己博士が肝油からビタミンAの抽出に成功したことにさ
かのぼる。昭和13年(1938年)に「理研」の研究成果を工業化するために理研栄養薬品株式会社
が設立され、ビタミンAの量産体制へ踏み出した。戦後の昭和24年に、同社のビタミンA部門を引き
継いで理研ビタミン油株式会社が設立され、昭和55年(1980年)に現在の理研ビタミン株式株式
に社名 変 更 し た 。
家庭用商品の第1弾は、昭和40年(1965年)に発売した「わかめちゃん」で、その後わかめ製
品やレトルト食品、ドレッシングなどでもヒット商品を生みだしてきている。
しかし、その根底にある技術は、天然物にごくわずかしか含まれていない成分を抽出・濃縮する工業
的濃縮技術「分子蒸留法」で、これでビタミンAの国内トップメーカーの地位を築いた。
ビーズ化などの加工技術を開発してきたのである。
コランダムとはあまり聞き慣れない言葉だが、日本語では鋼玉といい、天然のアルミニウムの酸化物
理研コ ラ ン ダ ム
245
それ以来一貫して「天然物の有効利用を図る」という姿勢で、ビタミンをはじめ、肉エキス、色素な
どを抽出する技術、モノグリセライドの蒸留濃縮技術、わかめ製品の加工技術、ビタミンのカプセル化・
自動車と財閥、その他の企業
(アルミナ)からなる鉱物のことである。ガラス光沢をもち、赤色のものはルビー、青色のものはサフ
ァイアと呼ばれ、黒色のエメリーなどは研磨剤に用いられている。工業的にはコランダムは研磨材の総
称として使われている。
理研コランダム株式会社は、「理研」で開発された研磨材をもとに、研磨布紙の製造販売を目的とし
て昭和10年(1935年)に設立された。
手作業的な使われかたをしていた研磨布紙は、20世紀の初めに出現したベルトサンダー(研磨ベル
ト)によって、金属、木工の素材産業をはじめ、航空機、造船、自動車などの各種機械部品、家具、ス
ポーツ用品、皮革、合皮、繊維など幅広い分野で使われるようになった。このベルトサンダーが同社の
主力製 品 で あ る 。
昭和45年に米国ノートン社と技術提携し、合弁会社理研ノートン株式会社を設立したが、昭和53
年に100%子会社にするとともに社名を株式会社理研に変更し、昭和56年に理研コランダム株式会
社が吸収合併している。
理研計 器
理研計器株式会社は、昭和14年(1939年)に「理研」から分離・独立して、ガス測定器の製造
販売を目的に設立された。現在は産業用保安器・計測器メーカーとして成長し、環境・防災関連に注力
するとともに、各種センサを一貫生産している。
246
オカモ ト
オカモト株式会社は、むしろ前社名の岡本理研ゴムのほうが馴染んでいるかもしれない。言わずと知
れたコンドームのトップメーカーである。この岡本理研の「理研」は、あの理化学研究所のことであり、
昭和11年に「理研」から独立して設立された理研ゴム株式会社がルーツである。
いっぽうの岡本は、昭和9年(1934年)1月に日本ゴム工業株式会社として設立され、ゴム引布
製造及び雨合羽の加工を行っていたが、同年の9月に岡本巳之助がラテックスでコンドーム製造に成功
し、岡本ゴム工業所を設立してコンドームの製造・販売事業を開業したのが始まりである。
日本ゴム工業株式会社は昭和33年(1958年)に理研ゴムと合併して 日本理研ゴム株式会社と
な り、 昭 和 4 3 年 に 岡 本 ゴ ム 工 業 株 式 会 社 と 合 併 し て 岡 本 理 研 ゴ ム 株 式 会 社 と な っ た。 昭 和 6 0 年
(1985年)に現在のオカモト株式会社に社名変更した。
247
ところで、もうひとつの大手コンドームメーカーである不二ラテックス株式会社だが、昭和24年
(1948年)に日本ラテックス工業として設立された。ラテックスとは生ゴムのことである。ついで
不二ラテックス本社
だが、同社の本社ビルのカタチは滑り止め付きコンドームを模したユニークなものである。
自動車と財閥、その他の企業
コラム
コンドームの由来
記録として残っているものでは、16世紀の中頃、イタリアの有名な解剖学者ガブリエル・
フォロピオの著書に「リンネルで作った亀頭覆いを梅毒の予防に用いた」と書かれているの
が最初と言われている。
そして17世紀、イギリスの医師コントン(Conton)が魚の浮き袋を使った避妊具
を考案し、イギリス王チャールズ2世が愛妾との性交に用いたとされている。このコントン
の名前からコンドーム(Condom)と呼ばれるようになったという説がある。
日本では文政10年(1827年)頃にオランダ製の茎袋なるものが輸入され、「ルーデ
サック」の名前で発売されている。日本製の第1号コンドームは、明治41年に井上芳三郎
が試作したとされているが、第二次世界大戦中に性病予防として兵士に配給されたのがきっ
かけで普及した。このときのネーミングは「鉄兜」、または「突撃一番」というものであった。
248
9
動物の名前を付けた企業たち
ブルドックソースやキリンビールなど、動物の名前
を企業名とした会社も少なくない。ほかにはどんな会
社があるだろう。
そ し て、 動 物 名 企 業 は な ぜ そ の 動 物 を 社 名 に 選 ん だ
のだろうか。そこには創業者のどのような想いが込め
られているのだろうか。動物と企業の結びつきを探っ
てみよう。
249
ライオン
うか。
動物の名前を社名にするなら、強くて立派な動物を選ぶのが普通だろう。百
獣の王ライオンをはじめ、虎、ゾウなど、創業者は社名に何をたくしたのだろ
動物の王者の名前
ライオ ン 株 式 会 社
明治24年(1891年)に小林富次郎が東京神田柳原河岸で小林富次郎商店を創業したのが始まり
で、当初は石鹸やマッチの原料と石鹸の製造販売を行っていた。
しかし、石鹸は季節による変動もあって生産効率がよくなかった。しばらくすると、歯磨き関連の産
業が急成長してきたので、歯磨き分野への進出を図り、明治29年(1896年)に歯磨きの製造販売
その歯磨きの名前が「獅子印ライオン歯磨」であった。ライオンの名称は、それが百獣の王であると
を始め た 。
250
いうこと、しかも歯が強くて純白だということから「ライオンの歯のように丈夫に、純白にできるよう
な高品質の歯磨」という願いを込めてつけられたものである。
この「獅子印ライオン歯磨」がヒットしたため、明治40年にそれまでの石鹸に「ライオン石鹸」の
商標を登録した。以来、ライオンの名称やマークはさまざまな商品に用いられている。
それまでの歯磨きは、歯を磨く洗剤といった感じの粉状のもので、名称も「歯磨き粉」と呼ばれてい
たが、現在のようなチューブ入り練り歯磨きを初めて作ったのも同社である。明治44年発売された「ラ
イオン練歯磨」がそれで、ヒット商品となった。
また大正時代に入ると口腔衛生普及活動を精力的に行い、啓蒙と販売促進を結びつけて大きな成果を
得る。その最初は大正2年(1913年)の第1回社会講演会の開催で、大正10年には日本最初の児
童専門の歯科診療を目的としたライオン児童歯科院を設立、さらには昭和7年(1932年)に初めた
学童歯磨教練体育大会(現在の「学童歯みがき大会」)と、子どもの歯磨き習慣の確立を目指した活動
オマケ付きキャンペーンを行ってきた。
小林富次郎商店は大正7年(1918年)に株式会社小林商店へ改組し、翌年に石鹸部門を独立させ
てライオン石鹸株式会社(昭和15年にライオン油脂株式会社に改称)を設立した。戦後の(株)小林
商店は昭和24年(1949年)にライオン歯磨株式会社に社名変更し、昭和55年(1980年)に
ライオン油脂(株)と合併して、現在のライオン株式会社が誕生した。
251
を行っている。それにともない大正2年には子ども向けに「ライオン子供歯磨」を発売し、さまざまな
動物の名前を付けた企業たち
ライオ ン 事 務 器
ライオンは百獣の王だけあって、他にもライオンを名乗る会社はいくつかある。銀座で日本初のビヤ
ホールを開き、現在は全国各地にビアレストランを展開している「ライオン」もそのひとつだ。
文具・事務用品のライオン事務機も認知度の高い会社だろう。創業は寛政4年(1792年)という
から、210年の歴史を持つ老舗メーカーである。
福井小八郎が寛政4年、大阪で筆墨商の今津屋を創業したのがはじまりで、以来文具を取り扱い、明
治10年(1877年)に福井楢次郎が今日の基礎を築いたとされている。明治14年に欧米の文具、
輸入品の取扱いを始め、石盤、石筆、ペン先、国産インキなどの近代的事務用品を普及させることにな
る。そのとき製図器等に、「獅子印」の商標 明
( 治28年に商標登録 を
) 使用し始めた。
大正10年(1921年)に株式会社福井商店となり、鉛筆、ぺン先、万年筆、絵具、レターペーパー、
手帳、複写紙、製図器、ファイル、パンチ、ナンバーリングなど幅広く取扱った。昭和6年(1931年)
に発売した日本初の多穴式バインダー「ドンコ帳簿」はヒット商品となった。翌年には製図器部を開設
して、商標「獅子印」を使用。その商標から、昭和15年に有限会社ライオン製図器製作所を設立した。
戦後の昭和20年、商号を福井商事株式会社に改め、さらに昭和55年(1980年)に現在の株式
会社ライオン事務器に社名変更した。
菓子業界にもライオンの名前はある。ライオネスコーヒーキャンディで知られるライオン菓子株式会
ライオ ン 菓 子 株 式 会 社
252
社だ。同社も明治の創業だから、菓子業界での老舗の部類に入るだろう。
明治38年、東京・麻布で水飴の瓶詰卸商を営む篠崎商店を創立したのが始まりである。昭和10年
(1935年)には日本で初めてバターボールを生み出している。
昭和22年に株式会社化して篠崎製菓株式会社となり、ライオネスコーヒーキャンディは昭和39年
に発売してヒットしたものである。このキャンディを篠崎製菓の名前で記憶している人も多いだろう。
平成7年に社名を現在のライオン菓子株式会社に変更した。
虎と象
アジアの動物で王者といえば虎(タイガー)だろう。地上最大の動物である像も忘れてはいけない。
このふたつの動物名が2大魔法瓶メーカーの社名に使われている。象印マホービンとタイガー魔法瓶で
このふたつの社名をよく見ると、動物名と魔法瓶の表記が漢字とカタカナでそれぞれ逆になっている。
商標の登場も、どちらも同じ大正12年(1923年)で、しかも同じようにアジアの動物名を使って
おり、両社の強力なライバル意識がうかがわれるものである。
創業は象印マホービンのほうが古く、大正7年(1918年)に市川銀三郎、金三郎の兄弟が創業し
象印マ ホ ー ビ ン
253
ある。
動物の名前を付けた企業たち
た市川兄弟商会がはじまりである。当初は魔法瓶の内瓶製造メーカーであった。
当時の魔法瓶は、内瓶製造メーカーと魔法瓶の外形を作る金属加工メーカーとに分かれており、ア
ッセンブルメーカー(組立業)がそれを組み立て金物問屋に売っていたのである。 そして大正12年、
市川兄弟商会は内瓶製造メーカーから、本格的な組立工場を持つアッセンブルメーカーへと発展した。
内瓶は中に隠れて見えないから、それまで商標をつける必要がなかったが、今度は完成品を売るために
商標をつける必要が生じた。
誰にでも愛され、親しみやすい動物の名前がいい、ということで魔法瓶のイメージに合う動物として
象に決まった。その理由は(1)象は頭がよくて家族愛が強い、(2)陸上動物で最大の巨体だが、お
となしく、ゆったりとした態度やその容姿は子供たちにも愛される、(3)生命力が強く、寿命が長い、
この3つのイメージを魔法瓶のイメージにあてはめたのである。
また、当時の魔法瓶は東南アジアなどへの輸出がほとんどだったので、現地の人にも親しみやすく、
神聖視されている象を採用したという理由もある。
戦後の昭和23年に株式会社協和製作所となり、昭和28年に魔法瓶を社名に入れた協和魔法瓶工業
株式会社に社名変更した。そして昭和36年(1961年)
、社名とブランド名を一致させるために社
名変更し、現在の象印マホービン株式会社になった。
一方のタイガー魔法瓶は、大正12年に菊池武範が菊池製作所を創設したのが始まりである。魔法瓶
タイガ ー 魔 法 瓶
254
の製造販売をするにあたって付けた商標が虎であった。虎はアジアの動物の中では王者であるところか
ら採用されたもので、虎印魔法瓶と名付けられた。ここに虎印対象印の構図が出来上がった。
昭和28年(1953年)に現在のタイガー魔法瓶工業株式会社に社名変更した。
タイガ ー ス ポ リ マ ー
タイガーの名前はゴム業界でも使われている。タイガースポリマー株式会社である。
ゴムホース・工業用ゴム製品の製造を行う同社は、創業が昭和13年(1938年)で、寅年であっ
たことからタイガースゴム工業所と名付けられた。また、虎の俊敏にして強靱、しかも柔軟、力感あふ
れるダイナミックな姿に、社業の発展をイメージしたものでもある。
戦後の昭和23年(1948年)に株式会社に組織変更して、タイガースゴム株式会社を設立。昭和
48年、ゴムの名称をより広い意味のポリマー(高分子化合物)に変えて、タイガースポリマー株式会
255
社に社名変更したものである。
動物の名前を付けた企業たち
んで付けられている。酒の色が白いことと関係があるのだろうか
日本酒の銘柄には鶴、亀、鷹などの縁起のよい動物名が付いたものも少なく
ない。そのなかでも灘の銘酒には、白鷹、白鹿、白鶴と、白い動物の名前が好
灘の酒と白い動物
灘の酒の由来
( 330年頃 か
) ら酒造りが始まったといわれ、室町時代にはすでに銘
灘 地 方 で は 元 弘・ 建 武 の 昔 1
酒の誉れが高かったようだ。明暦 1
( 655年~ か
) ら享保 ~
( 1736年 に
) かけて次々に酒造家が
創業し、灘五郷と呼ばれる生産地が確立して灘酒の勃興期を迎えた。
( ろし の
) 寒風、六甲山系の急流を利用した水
その後の灘酒隆盛をもたらしたのは、冬場の六甲颪 お
車による大量精米、樽材となる吉野杉、江戸への海上輸送に有利な海岸地帯であることなどが挙げられ
るが、やはり要は原料米の播州米(大正12年には酒米の王様「山田錦」が生まれた)と江戸末期に発
見された名水「宮水」、そして丹波杜氏の酒造技術の出会いといえるだろう。
灘の「宮水」は、地層に貝殻層がある西宮の特定の地域から湧き、リンやカルシウム、カリウムなど
256
のミネラル分を多く含む硬水(硬度9~11)である。ミネラルがこうじ菌や酵母の栄養分となり、短
い発酵期間でやや酸の多い辛口の酒が作られる。
それに対してもう一方の銘酒のふるさと伏見の水は中硬水で、比較的長い期間をかけて発酵させるた
め、酸が少なく、なめらかな味わいとなる。京料理に合う酒として洗練されていき、江戸好みの灘の「男
酒」に対して伏見の「女酒」という構図が出来上がった。
ところで、灘の「宮水」は西宮で発見された湧水で、はじめは「西宮の水」と言っていたものがいつ
しか「宮水」と呼ばれるようになった。灘の酒蔵は競って「宮水」を使い、宮水井戸を持たない酒蔵に
宮水を売る「水屋」という商売まで生まれた。
余談だが、京都・大阪を上方から江戸に向かうのを下るといい、江戸送りの灘酒を「江戸下り酒」と
呼んだ。江戸は将軍家の城下町だからどんなもので一級品が要求された。つまり下る品物は上等のもの
で、下らないものは下等なものであった。ここから日常語の「くだらない」という言葉が生まれたとい
白い動物たち
白鹿
寛文2年(1662年)、初代辰馬吉左衛門が神託により西宮の名水を得て、清酒の醸造を始めたの
が始ま り で あ る 。
257
われて い る 。
動物の名前を付けた企業たち
酒樽の製造や江戸への回漕業も営み、文化・文政年間(19世紀初頭)には酒造業が発展して、灘で
も有数の酒造家となっていた。江戸の酒問屋鹿島屋庄助商店に文政13年(1830年)作の銘酒白鹿
商標文字入り欅板看板が残されており、すでに「白鹿」の名は江戸でも広まっていたと思われる。
そこで白鹿の名前だが、中国の神仙思想に由来するといわれている。白鹿は古来から中国で縁起の良
い霊獣とされ、唐の玄宗皇帝の宮中に千年生きた白鹿がいたという話が伝えられている。あるとき宮中
に1頭の白鹿が迷いこみ、仙人の王旻がこれは千年前から生きている白鹿だ言った。そこで調べてみる
と、角ぎわの雪毛の中から「宜春苑中之白鹿」と刻んだ銅牌が現れた。宜春苑とは唐の時代を千年もさ
かのぼる漢の時代のものである。皇帝はこれを歓び、白鹿を愛養した。
「白鹿」の名はこの故事からとられ、江戸時代の看板にも「宜春苑 長生自得千年寿白鹿」という銘
が打た れ て い る 。
天保13年(1842年)には第十代吉左衛門が西宮酒造家の総代となった。弘化4年(1847年)
の火災で居宅蔵が全焼したが、そこの井戸水が良質な「宮水」であったため、翌年に灘の酒造家十数軒
に宮水を売る「水屋」を始めた。
、明治20年
辰馬家は幕末にかけて再び隆盛し、文久2年(1862年)に北辰馬家(白鷹醸造元)
(1887年)に南辰馬家(日本摂酒会社)がそれぞれ分家して酒造業を始めた。
そこで本家は明治25年に商号を辰馬本家商店とし、大正6年(1917年)に株式会社化して現在
の辰馬本家酒造株式会社となった。多くの醸造元がブランド名を社名にしているのに対して、現在もこ
の社名を名乗っているのは、本家のプライドだろうか。
258
ところで、辰馬家は灘酒を江戸へ送る商船事業も営んでいたが、明治36年(1903年)に辰馬汽
船部を創設し、大正5年(1916年)に辰馬汽船株式会社(昭和22年に新日本汽船株式会社に社名
変更)へと発展した。また海運に伴う保険事業にも進出し、大正8年に辰馬海上火災保険株式会社(の
ちに合併して興亜火災海上保険株式会社となる)を設立するなど、多角的な経営を展開した。
昭和19年に南辰馬家と合流し、日本摂酒株式会社を吸収している。
白鷹
幕末の文久2年(1862年)に初代辰馬悦蔵が辰馬本家(白鹿醸造元)から分家して新たに酒造業
をおこしたのが始まりである。その酒蔵が本家の北にあったので北辰馬と呼ばれ、商号を北辰馬商店と
した。
灘酒にはまず「宮水」の確保が第一である。悦蔵は当時西宮にあった雀部(ささべ)家の「鱗蔵(う
ろこぐら)」を買い取って酒造を始め、「鱗」印と銘うって江戸へ積み出した。品質にこだわった酒は江
り方を徹底し、「白鷹」印を発表した。この白鷹は評判の酒となった。
その白鷹の名前は、王者の風格と気品を持つ鷹に清酒の清らかを表す「白」をあわせたものである。
また、鷹は百鳥の王といわれ、その中でも白い鷹は千年に一度現われる霊鳥といわれている。
大正13年(1924年)に、伊勢神宮の大御饌(おおみけ)に清酒が初めて採用され、全国の清酒
の中から白鷹が選ばれた。以来、大御饌祭の御料酒として毎日神前に供えられている。
259
戸で人気を博した。さらに一流を目指して、丹波杜氏の伝統的な技法を活かした手間と時間のかかるや
動物の名前を付けた企業たち
昭和4年(1929年)に株式会社化して株式会社辰馬悦蔵商店と名前を変え、平成4年に現在の白
鷹株式会社に社名変更した。
白鶴
寛保3年(1743年)に灘五郷のひとつ御影郷(現在の神戸市東灘区御影本町)で材木商を営んで
いた嘉納治兵衛が酒造業を始め、3年後に初めて「白鶴」の銘を用いた。万治2年(1659年)に「菊
正宗」(嘉納商店)を創業した嘉納家の分家にあたり、白嘉納家と呼ばれた。
当時の酒銘には「鶴」を冠したものが多くあったが、白嘉納家の白をとり、また鶴の中でも清楚で優
雅な趣のある丹頂鶴をイメージして「白鶴」の銘が付けられた。
この「白鶴」は明治18年(1885年)に商標登録された。昭和54年(1979年)に業界の先
陣を切ってCIシステムを導入した際に、「時をこえ、親しみの心をおくる」のスローガンとともに飛
翔する鶴のシンボルマークが作られた。
ところで嘉納家は、灘の由緒ある名門の家筋で、講道館柔道の創設者嘉納治五郎も親戚にあたる。進
学校で有名な「灘高」も、両嘉納家が中心となり、嘉納治五郎を顧問として昭和2年に旧制灘中学校と
して誕生したものである。
また昭和9年(1934年)に開館した「白鶴美術館」は私設美術館の先駆けとなり、今では灘の主
だった蔵元でも美術館や記念館が作られている。
260
鶴の銘を持つ日本酒は多く、灘にももうひとつ有名な鶴がある。沢の鶴である。
沢の鶴
享保2年(1717年)といえば、おなじみ大岡越前が江戸町奉行に任ぜられた年である。浪速十人
両替の一人、米屋平右ヱ門は※のマークを掲げて藩米を取り扱い、大名屋敷に出入りして、両替を営ん
でいた。その別家の米屋喜兵衛が大阪平野町で米屋を営みながら、潤沢な資金を元に灘五郷の西郷で酒
沢の鶴の名前は伊勢神宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の次のような縁起に由来している。
を造り始めたのがこの年であった。
倭姫命(やまとひめのみこと)の巡幸中、伊雑の沢でよく実った稲穂をくわえた鶴を見て、その稲穂
から酒を作って奉納し、その鶴を大歳神(五穀の神)と呼んで大切にした。この伝説から「澤之鶴」の
酒銘が付けられたのだが、同時に「沢」は動植物の生命を育むオアシスで、「鶴」も沢で翼を休め羽ばたく、
そのような潤いの小宇宙をイメージしたものでもある。
石 崎 喜 兵 衛 は 明 治 2 0 年 の 大 阪 麦 酒( 現 ア サ ヒ ビ ー ル ) の 発 起 人 の ひ と り で も あ る が、 明 治 3 1
年(1898年)に石崎合資会社に改組し、大正8年に石崎株式会社に社名変更、さらに昭和39年
(1964年)に社名変更して現在の沢の鶴株式会社となった。
261
明治18年に「澤之鶴」を商標登録した。
動物の名前を付けた企業たち
トンボ
トンボや馬、その他の動物たち
トンボは日本を象徴するものとして社名に使われている。馬や鳩などの身近な
動物を社名に採用しているケースも見られる。そこには商品の特徴や創業者の
想いが込められている。
トンボの古名で、
平安時代の日記文学「蜻
トンボを漢字で書くと蜻蛉。蜻蛉は「かげろう」とも読み、
蛉日記」(藤原道綱の母の)でも知られている。
また蜻蛉を「あきづ」とも呼び、秋津とも書く。これも蜻蛉の古名で、同時に秋津は奈良県吉野の古
い地名であり、大和国の異名でもあった。また、日本のことを「秋津洲」とも呼んだ。つまり、昆虫の
トンボは日本を象徴するものでもあったのである。
「夕焼け、小焼けの赤とんぼ・・・」の歌が描く情景は、確かに日本の原風景なのかもしれない。日
本で多く見られるトンボは、この歌の赤トンボと、オニヤンマである。オニヤンマは体長10センチを
超える日本最大のトンボで、昆虫を補食する勇壮なトンボである。
262
またトンボは、古事記に「雄略天皇の腕にとまったアブをトンボが飛んできて食べた」とあることか
ら「勝利を呼び込む縁起のいい虫」すなわち「勝ち虫」とも呼ばれる。勝ち虫ということで、武士の時
代には甲冑や刀のつばなどの装飾にトンボが付けられることが多かった。このトンボはオニヤンマだろ
う。
農村では、田にトンボがたくさんでるとその年は豊作だといわれ、やはり縁起のいい虫である。とも
あれ戦前までは、トンボと言えば日本を連想するのが普通だったようである。
というわけで、トンボを社名やマークに使った会社がいくつかある。まず思いつくのがトンボ鉛筆で
ある。
トンボ 鉛 筆
鉛筆は明治の文明開化でドイツから大量に輸入されるようになった。日本では明治7年(1874年)
に小池卯八郎が鉛筆工場をおこし、その後は多くの製造業者が生まれ、明治20年には眞崎仁六(まさ
河原徳右衛門は明治13年に鉛筆の製造を始め、後継者である小川作太郎が独立して現在のトンボ鉛
筆の基礎を作った。そして大正2年(1913年)、小川春之助が独立して浅草に小川春之助商店を設
立し、鉛筆の製造販売を始めたのがトンボ鉛筆の創業とされている。
トンボが登場するのは昭和2年(1927年)。この年、商品の宣伝のためにブランド名とマークを
考案することになった。そして、いくつかの候補のなかからトンボのマークが採用された。日本の象徴
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きにろく)が眞崎鉛筆製造所(三菱鉛筆の前身)を設立している。
動物の名前を付けた企業たち
であり、縁起のいい虫であること、また身近な昆虫でよく親しまれていることから選ばれた。
ところで英語表記ではTOMBOWとWの字がつけられている。これは英語のTOMBが「墓」を意
味するため、誤読を避ける工夫である。
翌昭和3年に発売されたトンボ印の事務用鉛筆「8900」は現在も同じ商品名で販売されているロ
ングセラーである。当時はいくつかのマークの商品があったが、一番人気があったのがこのトンボマー
クの鉛 筆 だ っ た 。
小川春之助商店は昭和14年に個人商店から株式会社に改組する際に、人気のあったマークを社名に
使って、製造部門の株式会社トンボ鉛筆製作所と営業部門のトンボ鉛筆商事株式会社の二社を設立した。
ヤンマ ー
ヤンマー株式会社の「ヤンマー」はオニヤンマのことである。
創業は大正元年(1912年)、山岡孫吉が山岡発動機工作所を設立したことにはじまる。
そして大正10年(1921年)に「ヤンマー」の商標が生まれた。豊作を象徴するトンボ。トンボ
の王様であるヤンマ・トンボ(オニヤンマなどの総称)のヤンマをとり、農業の豊作、漁業の大漁を祈
っての命名である。また、山岡孫吉の名前にも音が通じている。
昭和6年(1931年)に株式会社となり、昭和8年に世界初の小型ディーゼルエンジンを完成した。
昭和27年(1952年)にヤンマーディーゼル株式会社に社名変更した。
ところで、昭和34年頃から続いている「ヤン坊マー坊の天気予報」の歌には同社の業態が歌い込ま
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れている(カッコ部分)のだが、最近は省略されているようだ。
「僕の名前はヤン坊、僕の名前はマー坊。ふたりあわせてヤンマーだ、君と僕とでヤンマーだ。
(農家
の機械はみなヤンマー、漁船のエンジンみなヤンマー。ディーゼル発電、ディーゼルポンプ、建設工事
もみなヤンマー)。大きな物から小さな物まで 動かす力だヤンマーディーゼル」
業務内容が広がったためだろうか。平成14年(2002年)7月にヤンマー株式会社へ社名変更し
たから、最後の「・・・ヤンマーディーゼル」の歌詞も消える運命にあるのだろう。
ともあれヤンマーの社名は、トンボの名前に託して豊かな暮らしの実現に貢献していこうというもの
である 。
ニチア ス
ニチアス株式会社のマークがトンボである。
アスベストのアは「ない」、スベストは「消せる」、つまり「消せない」という意味のギリシャ語で、
日本では石綿 い
( し わ た・ せ き め ん と
) も い う。 繊 維 状 の 鉱 物 で あ る か ら、 耐 火 性、 断 熱 性、 防 音 性、
耐薬性、耐磨耗性、電気絶縁性などの性質をもっており、屋根や天井、壁などの建材をはじめさまざま
な用途にもちいられてきた。最近は作業廃棄物の粉塵による健康障害が問題となっている。
同社は明治44年(1911年)に石綿保温材の特許を取得し、工業用資材メーカーとして業績を伸
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昭和56年
(1981
明治29年(1896年)に大阪で設立された日本アスベスト株式会社が前身で、
年)にニチアス株式会社へ社名変更した。ニチアスのアスはアスベストのことである。
動物の名前を付けた企業たち
ばしてきた。当初は、社名に日本の文字があることから、「本」の字をふたつ組み合わせて「ニホン」
と読ませる江戸時代風の洒落から作られたマークを使用していた。
大正12年(1923
マークを変更するにあたって、やはり日本につながることからトンボが選ばれ、
年)に現在にも続くトンボのマークを商標登録したのである。
馬
馬は人間に役立つ大型動物として文明の始まりとともに家畜化され、農耕や移動の労働力として仕え
てきた。日本でも古くから人々の暮らしに深くつながり、馬に関係した地名なども多い。
そのわりには「馬」そのものを社名に使った少ないようだ。ゼブラ(シマウマ)とか、天馬、ポニー
(仔馬)など、ちょっと特殊が馬が社名に使われている。
ゼブラ
ゼブラ株式会社のゼブラ(ZEBRA)は、アフリカの原野に棲息するシマウマのことである。
明治30年(1897年)、創業者の石川徳松が日本最初の国産鋼ペン先の製造に成功して石川ペン
先製作所を設立し、大正3年(1914年)にペン先の商品名をゼブラとするとともにマークも制定した。
ゼブラは草食の穏和な動物で、ライオンに狙われやすいために、常に群れで生活し、一致協力して外
敵から身を守る。そこで、ゼブラのように社員が堅く団結し、一致協力していくことを願った。また、
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シマウマは漢字で「縞馬」とは別に「斑馬」とも書くことがあり、斑の文字が文と王との組み合わせか
らなっていることから、文具界の王に通じる。文具メーカーにふさわしい名前としてゼブラが生まれた
のであ る 。
ところで、ゼブラのマークに描かれたシマウマの顔はうしろを向いている。これは社長の座右の銘で
ある「温故知新(古きをたずねて、新しきを知る)」から、「古きをたずねる」姿をあらわしたものである。
ゼブラに込められた「人の和」と「温故知新」は、同社の社是となっている。
昭和38年(1963年)、ブランド名を社名にしてゼブラ株式会社に社名変更した。
天馬
昭和24年(1949年)に創業者の金田兄弟が太洋商事株式会社を設立した。
しかし、その後の4~5年の間に、欧米で急速に発展したプラスチックを見て、今後は合成樹脂の時
代が来ると確信し、プラスチックの射出成形の研究開発を始めた。そしてプラスチックスに事業を特化
社名を考えるさいに、金田兄弟は敬虔なクリスチャンであったので、迷わず神=天を選んだ。そして
人に尽くし、可愛がられている動物である馬を組み合わせ、神および人に尽くし、愛される会社になる
ことを目指した命名であった。
天馬は、中国の伝説では、天上界に住むという天帝が乗る馬である。史記によれば、天馬の子が実際
に存在していたという。
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し、昭和29年に天馬合成樹脂株式会社に社名を変更した。
動物の名前を付けた企業たち
天山山脈の西のふもと、中央アジアのフェルガナ盆地では良馬を多く産し、その先祖が天馬の子だと
いうわけである。漢の武帝はその名馬をぜひとも入手したいと思い、2度の戦争の後にようやく手にし
た。そのうまが馬が汗血馬と呼ばれた名馬である。
昭和62年(1987年)、同社は原料を合成樹脂以外の素材にも広げたので、合成樹脂の文字を外
した天馬株式会社に社名を変更した。
同社の合成樹脂製の収納ボックスのブランド「FITS(フィッツ)はFIT=フィット(ぴったり、
ふさわしい、適合する)から付けられたもの。クロゼット下の衣類収納箱「COSPA=コスパ」は空
間という意味のギリシャ語のCOROSとラテン語のSRATIUMの合成語である。
ポニー
ポニーは小型の馬の総称である。この可愛らしい響きの名前を付けた会社として、音楽関係のポニー
キャニオンが思い浮かぶ。
そもそもは昭和30年(1955年)に、ニッポン放送の事業会社としてスタートし、昭和41年に
株式会社ニッポン放送サービスに改称してミュージックテープ事業を開始したのが始まりである。
昭和45年(1970年)に、株式会社ポニーと改称し、同時にキャニオン・レコードを設立した。
そして昭和62年(1987年)にポニーとキャニオン・レコードが合併して現在の株式会社ポニーキ
社名のポニーは、ニッポン放送のニッポンを愛称化したものでもあるようだ。
ャニオ ン と な っ た 。
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鳩、ヒバリ、キリン、シャチ、ロブスター
その他の動物社名をまとめて紹介しよう。由来はいろいろだが、その動物に会社の特徴や創業の想い
が託されていることには違いがない。
ピジョ ン
ベビー用品メーカーのピジョン株式会社は、昭和32年(1957年)株式会社ピジョン哺乳器本舗
として神奈川県茅ヶ崎市に設立され、お母さんのおっぱいに近いほ乳器作りに力を注いできた。
その後、国産第一号の紙おむつやおしゃぶり、おまる、湯たんぽなどの幅広い育児用品を扱うように
なり、昭和41年(1966年)に哺乳器の文字を取った現在のピジョン株式会社に社名変更した。
ロゴマークは、お母さんとおなかの赤ちゃんの2つのハートを組み合わせたダブルハートで、PIGE
ONのPのイメージでもある。
ファミリーレストランの株式会社すかいらーくは小鳥の「ヒバリ」を意味する英語である。
ヒバリ
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ピジョン(PIGEON)とは英語で伝書鳩のことである。平和のシンボルとしての「鳩」を社名と
したことには、赤ちゃんの幸せを願い、平和で豊かな社会であってほしいという願いが込められていた。
動物の名前を付けた企業たち
昭和37年(1962年)に東京都下「ひばりが丘団地」の片隅で小さな乾物屋を開業したのが始ま
りで、昭和45年(1970年)にファミリーレストラン1号店を国立市に出店する際に「すかいらー
く」の 名 前 を 付 け た 。
起業精神を忘れないという意味を込め、創業の地に由来するヒバリを英語にしたSKYLARKを採
用し、ひらがなで表記した。ロゴマークの鳥のマークも、澄み切った青空に向って天高く羽ばたくヒバ
リをイメージしたものである。
キリン
キリンはアフリカに生息する大型動物で、動物園ではゾウと並ぶ人気動物である。しかし、そのキリ
ンではない。もうひとつのキリン。それは中国の伝説の動物で、ビール会社のキリンの由来と同じ「麒
麟」で あ る 。
キリン堂は昭和30年(1955年)、薬品の製造と薬局の開設を目的にキリン堂研究所を創業した
のが始まりで、昭和33年に株式会社キリン堂を設立し、商店街や駅前に薬局チェーン展開してきた。
「麒麟」は古来中国の伝説上、聖人が世に現れて素晴らしい世の中になると出現する端獣(ずいじゅう)
の一つとされており、社名には以下の3つの願いが込められている。
第一に、翼をもって天空を駆け上がる麒麟の勇壮な姿になぞらえ、端獣「麒麟」のように天空を舞う
勢いで発展して欲しいという願い。第二に、人々に真の健康を提供することにより、端獣が現れるよう
な素晴らしい世の中を実現したいという願い。第三に、極めて優れた能力を持つ卓越した子供を神童=
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「麒麟児」というが、医薬品業界の「麒麟児」として、常に卓越した存在でありたいという願い。
ロゴは天に向かって大地から沸き上がるマグマの気と勢いを表現しており、また人という文字も表し
ていて、人が企業をつくり、人のために役立つことで成長発展するという企業と個人の自己実現を目指
すという理念を示している。
シャチ
スタンプメーカーの「シヤチハタ」のシャチは名古屋のシャチホコからとられたものである。
創業者の舟橋高次が夜間の学生だったころ、すぐ上の兄の事業を手伝って、ポケットインキ瓶を文具
店などに売っていた。このインキ瓶は、逆さにしてもインキがこぼれないので人気があったが、蓋がな
いためインキが蒸発してしまうという欠点もあった。
そこで舟橋は、空気中の水分を吸収するグリセリンを使い、インキが乾かない万年インキ台を発明し
た。それを商品化して特許を取り、大正14年(1925年)に舟橋商会を設立して、
「日の丸印の万
しかし、あるとき日本の国旗を商標に使ってはいけないと指摘を受けて、急遽、他の商標を考えるこ
とになった。そこで彼が考えたのは、出身地名古屋のシンボルでもある「金の鯱(シャチホコ)
」を日
の丸の旗の中に収めたものだった。そこには名古屋発のスタンプ台が日本一になるようにという思いが
込めら れ て い た 。
シャチホコのシャチ+旗でシヤチハタである。通称「シヤチハタ」ことネーム印が誕生したのは昭和
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年スタンプ台」として販売した。日の丸マークは日本一を目指す象徴である。
動物の名前を付けた企業たち
43年のことである。また現在のシヤチハタ株式会社は、平成11年(1999)にシヤチハタ工業
株 と
) シヤチハタ商事 株
( が
) 合併して設立されたものである。
ロブス タ ー
工具メーカーの株式会社ロブテックスの名前の由来は、大きなハサミを持ったエビのロブスターであ
る。明治21年(1988年)に両手バリカンを発明して販売を始めたのが創業である。大正12年
(1923年)に日本理器株式会社を設立して理髪用バリカンの大手メーカーに成長した。
その後モンキレンチなどの工具類の製造を開始する。そのハサミ状の工具類につける商標として、大
きなハサミをもったロブスターのイメージが浮かび、エビ印の「ロブスター」ブランドが登場した。そ
こには、エビは日本で縁起良く、腰が曲がるまで使える丈夫な工具という意味も込められている。
平成4年(1992年)、「ロブスター」ブランドの名前を生かした株式会社ロブテックスに社名変更
した。
動物のブランド名
金鳥
「キンチョール」の「金鳥」は大日本除虫菊のブランド名である。
創
「渦巻型蚊取り線香」は発売以来100年
業者の上山英一郎は世界で初めて蚊取り線香を開発し、
(
272
にも及ぶ長寿商品である。
その彼の信条が「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉で、そこから鶏をカタチどった「金鳥」
ブランドが生まれたのである。
慶応義塾の学生であった上山英一郎は、明治18年(1885年)に恩師の福沢諭吉の紹介でH・E・
アモア氏と出会い、その翌年に日本にはなかった除虫菊の種子を手に入れた。すぐさま除虫菊の栽培に
着手し、明治20年春に最初の収穫を得た。乾燥させた除虫菊の粉末を火にくべると、その煙で蚊が死
んだ。
火鉢に火をおこして除虫菊の粉をくべるわけだが、蚊が出るのは夏である。暖房具である火鉢を使わ
ずに、安全に燃やす方法はないかと思案していた英一郎は、線香屋と同宿したのをきっかけに、粉を線
香のように練って棒状にすることを思いついた。明治23年、こうして世界最初の棒状蚊取り線香が誕
生した 。
「線香を渦巻状にしてはどうか」とヒントをくれたのは夫人であった。それなら線香の棒を太く、長
くすることができる。太くなれば煙の量が増し、長くなったことで約7時間燃え続ける。7時間なら、
寝る前に火をつければ明け方まで持つことになる。試行錯誤の末、明治35年に「渦巻型蚊取り線香」
が完成 し た 。
「金鳥」のブランド名を商標登録したのは明治43年(1910年)で、蚊取り線香の箱に描かれた
273
しかし、まだ問題があった。棒状のために、細くて煙が少ない、しかも1時間程度で燃え尽きてしま
う、さらに輸送時に折れやすい、などである。
動物の名前を付けた企業たち
鶏のマークは同社のシンボルとなった。大正8年(1919年)に大日本除虫粉株式会社を設立し、昭
和10年(1935年)には現在の社名である大日本除虫菊株式会社に改称した。昭和13年には日本
の乾燥除虫菊の生産量が全世界の約7割を占めるようになった。
昭和42年(1967年)、日本の戦後を代表する歌手・美空ひばりが浴衣姿で立つバックに花火が
上がり 、
「金鳥」の二文字を描くTVコマーシャルが流れた。お馴染みの「日本の夏、金鳥の夏」である。
バッフ ァ ロ ー
バッファローは水牛やアメリカ・バイソン(野牛)を意味し、パソコン周辺機器メーカー「メルコ」
のブランド名に使われている。
同 社 は 昭 和 5 0 年( 1 9 7 5 年 )、 牧 誠 が 名 古 屋 市 に 音 響 機 器 製 品 専 業 メ ー カ「 メ ル コ 」 を 創 業 し、
アンプ専門のメーカとして設計製造を開始したのが始まりで、3年後に株式会社を設立した。
メルコ(MELCO)は、創業者の姓である牧のM、ENGINEERING(技術)のE、LAB
ORATORY(研究所)のL、COMPANY(会社)のCOを取ったもので、牧技術研究所を意味
してい る 。
ブランド名のバッファロー(BUFFALO)は、昭和57年(1987年)にプリンタバッファを
発売するに当たり、商品名を一般公募して採用されたものである。プリンタバッファを動物のバッファ
ローになぞらえ、その力強く大地を駆けるイメージが会社の躍進を表しているという理由である。この
プリンタバッファが大ヒットし、「バッファロー」は一躍メジャーブランドになった。
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鈴木ムク
(本名:鈴木茂昭)
1953 年、東京生まれ。
出版社、旅行会社に勤めた後、フリーライター
美術書等の編集や、デジタルフォト専門誌「月刊ア
イマガジン」
(副編集長)
、デジタルカメラ専門誌「月
刊イメージングジョイ」
(編集長)などの創刊に携わ
り、デジタル系ライターとしても活躍。
現 専門学校東京スクールオブビジネス非常勤講師
著書:「子連れで行くハワイ」
(ブルーガイド海外版 実業之日本社、共著)
小説:「神サマ、出テオイデ」
(第3回小川未明文学賞
優秀賞受賞)
、
「ヒッチハイク物語」など
遊人舎文庫
日本の会社と社名の由来
著者
鈴木ムク
デザイン・写真
鈴木ムク
2005 年 12 月 20 日 初版発行
発行者
鈴木茂昭
印刷・発行
遊人舎
日本の会社と社名の由来
遊人舎
Tel & Fax 03-3793-3756
〒 153-0053 東京都目黒区五本木 1-8-3
E-mail: [email protected]
遊人舎文庫
定価 1000円