〝不便さ〟でした……。 ノコがあんなに巨 佐野史郎さんに錦織良成監督と、私の スーパーで見かけ 大化するなんて! るお前は、あんな がしたい! そう思い立ち、平田(現出 雲市)の空き家を借りて生活を始めたの にも小さく可愛 そんな私が血迷って、何か新しいこと 多いことですが、しかし常々感じている が二〇〇二年。見渡す限り柿畑。集落は い の に!)、 憧 れ に、私ごときが寄稿だなんて本当に恐れ 島根への感謝の気持ちを何かの形で表現 十六戸しかなく、松江育ちの妻でさえヒ 大先輩ばかりが巻頭を飾る本誌のコラム せねばならないと考えていた矢先でのお の広い庭は草むし トを手にいれ、自分の身の回りの事、興 りという苦役の地 大型CDショップも無ければ、スタバ 味のある事、それらをグチャグチャと煮 の 近 所 の 方 々。「 あ げ こ げ そ げ だ わ ね ぁ もセブンイレブンも、KUAHAINA のが『菅井君と家族石』という〝おバカ 詰めながら作ったのです。で、完成した アリング不可能な強烈なまでの出雲弁 もゼスト系レストランも無い。スタジオ 誘いだった故、大変僭越ながらお引き受 表題の「何もないなぁ」という感想は、 怒り狂うスズメバチに巨大ムカデ、空 ヴォイスを手に入れるのに、車で四十分 けいたしました。貴重な機会をお与えく 飛ぶマムシに冷酷な虻、その他よく分か 平。 らん生き物(特に味噌汁に必ず死のダイ な ア ニ メ 〟。 そ れ を 自 分 の ホ ー ム ペ ー ジ ~ お べ た わ ぁ!」「 え、 何 言 っ て ん で す はじめて島根の地に降り立ったときの感 も走らなくちゃいけないなんて! 一体 に掲出して放置していたら……。四年後 ださいました、小泉凡先生に感謝申し上 想です。駅前に立ってもコンビニすらな ブを敢行する、緑色の小さな羽虫! お みんな、何が楽しくて島根県に住んでる か?」。そんな毎日ですよ。 く、ビデオカメラのテープを松江市内で 前ってやつは!)が東京モンを嘲笑うか には東京で劇場アニメまで作るようにな げます。 購入しようと駅前をうろつくも、結局S んだ、ええっ 当時は毎日が泣き言で、 りました。 のように湧き出る! 家の裏側には巨大 島根への恨み節でした。 と(考える時間はたっぷりあった たっぷり時間をかけて考えている 始 め る ん で す よ ね。 そ れ で …… ら、 自 分 で 作 る し か な い と 思 い でもない。仕事も遊ぶ所も無いな 空想をする時間、自分をタフに磨く時間 じっくり自分を見つめ直す時間、無駄な そ、なんでもやれる余裕が島根にはある。 島 根 に は そ れ が な い。 何 も な い か ら こ ぶ 所 多 す ぎ! 東 京 は 忙 し い! でも ぎ! 仕事のパートナーが多すぎ! 遊 本当に暇が無いです。仕事が沢山あり過 も の で す か ら )、 こ り ゃ ア ニ メ を がたっぷりある。今の蛙男商会が、この 近 頃 は、 ま た 東 京 で 暮 ら し て い ま す。 作ったらどうかと思いつくんです 〝余裕〟の産物であることは疑いようの も、空から幸福が降ってくるわけ よね。勿論アニメなんて作った事 い生き物たちみたいに、すっかりタフに ない事実。おかげで平田の得体のしれな しかし一年も恨み節を唱えて やれんじゃないの? うん、そう ない。でも時間ならたっぷりある。 なりました。ありがとう島根! たぶん、 あの緑の羽虫が飛び込んだ味噌汁を泣き 思う! 暇すぎて頭がおかしくなってた な が ら 飲 み 続 け た の が よ か っ た ん だ な、 うん。 のが幸いし、根拠のない前向きさ 1971 年、東京生まれ。本名:小野亮(おの・りょう)。映像ブランド蛙 男商会・代表。映画『白い船』の仕事で島根県を訪れ、そこで運命の人 と出会い結婚。これを機に島根に移住。2004 年、初めて作った WEB ア ニメ『菅井君と家族石』が人気爆発。2007 年 3 月には、劇場版『秘密結 社 鷹の爪 THE MOVIE ~総統は二度死ぬ~』でスクリーンデビューをは たす。この間、 「島根は鳥取の左側です」のフレーズ入り島根県応援Tシャ ツを企画するなど、島根県のPRに貢献。2009 年新春公開予定の『ピュー と吹く!ジャガー』フラッシュアニメ映画で監督・脚本を手掛ける。 タケノコが林立、こ……怖ぇえ!(タケ ATYまで出向かなくては手に入らない FROGMAN !? の私はパソコンとアニメ作成ソフ のんびり雲|第2号| 2008 不便さは、東京生まれの私には衝撃的な 何もないなぁ。 特集◎山陰の小さな博物館 梶川理髪館 (鳥取県三朝町) 川井野々芳 容 史 料 館 」。 店 内 に は た く さ ん の 理 髪 関 う ひ と つ の 顔 が あ り ま す。 そ れ が、「 理 見ただの理髪店ですが、このお店にはも がアンティークなんですが、実際に散髪 置かれているバーバーチェアはほとんど バーチェアに座って行いました。店内に 今回、取材は店内に置かれているバー で、本当に贅沢で優雅な気分でした。 係のコレクションが並んでいます。ご主 は、レトロなデザインの現代物なんです。 をするお客さんが座るバーバーチェア 鳥取県三朝温泉にある梶川理髪館。一 人 自 ら、「 世 界 床 屋 遺 産 」 と 名 乗 る の も 普通の理髪店で使われているものと同じ 納得です。 お店に入って一番最初に目に入ってく 供たちには不人気のようです。座ったは の首がついているため、お店を訪れる子 バーチェア、あまりに精巧に作られた馬 バーチェア(理髪椅子)です。このバー と で す。 明 治 初 期 に 西 洋 理 髪 が 日 本 に は日本製で、大正十年の製品だというこ なライオンの彫刻が彫られているチェア チェアが置いてあります。手すりに見事 それとは別に店内には本物のレトロ で電動式です。 いいが泣き出してしまう子供もいて、こ 入ってきて、明治後期には本格的なバー るのが、木馬の首がついた子供用のバー の椅子に座って散髪をした子供は今のと バーチェア作りが日本で行われるように チェア、約八十年も前に作られたものと 髪 中 つ い つ い 眠 た く な っ て し ま う の も、 で、取材の間ずっと座っていました。散 このバーバーチェア、座り心地が抜群 なります。バーバーチェアはデザインは ころわずか四、五人だそうです。 いうこともあり、馬の鼻の部分が削れて この椅子ならわかるなぁと思いました。 ご主人の梶川満さんは、このチェアを いたりと、状態が悪かったようです。そ イギリスだが日本製、というものが割り れを梶川さん自ら直し、また座ったとき 梶川さんがコレクションを集める手 ネ ッ ト オ ー ク シ ョ ン で 購 入 さ れ ま し た。 に足を置く部分は知り合いの鍛冶屋さん 段 は、 イ ン タ ー ネ ッ ト が 多 い そ う で す。 と多いようです。 に直してもらうなどして、今のとても美 「バーバー」「バーバーショップ」「ヘアー」 一九二〇年代にアメリカで作られたこの しい木馬にしたんだそうです。 とお菓子をいただき、まずは一服させて に思ったんですが、実は梶川さんのよう かるものなのかな……と、初めは不思議 インターネットの検索でそんなに見つ ネット検索するんだとか。 もらいました。レトロな雰囲気の店内で に理髪関係のものを集めている人は案外 「シェービング」などの英単語でインター 抹茶をいただく……、なんとも贅沢なひ 多いようです。 川 理 髪 館 に 到 着 し、 さ あ 取 材! と とときでした。このとき貴重な年代物の 思 っ た の で す が、 奥 さ ん か ら 抹 茶 バーバーチェアに座らしていただいたの 梶 ■梶川理髪館は本来の 意味での博物館ではあ りません。 かなる」と話されました。 は「シェービングマグ」です。店内にも 梶川さんの一番自慢のコレクション たくさん飾られています。この「シェー ビングマグ」というのは、髭剃り用の石 鹼 を 泡 立 て る 容 器 の こ と で、 形 は マ グ カップそっくりです。しかし、そのカッ プには美しい柄、個性的な柄と様々な図 柄が描かれています。この素敵な図柄の シェービングマグは、主に十九世紀のア メリカのものです。 ブがあり、約五百人のメンバーがいるん ターズ・アソシエーション)というクラ ル・ シ ェ ー ビ ン グ・ マ グ・ コ レ ク メ リカに はN SM C A( ナ シ ョ ナ す。ここで描かれる絵はお客さんの職業 とマグに絵を描くことが定着していきま が、 字 の 読 め な い 移 民 た ち の た め に も、 初めはお客さんの名前入りマグだったの である」ということで定着していました。 専用のマグをキープすることが「衛生的 のマグが一点物で、凝った作品になって ビングマグだ!」と主張するため、大体 髪店というたくさんの人たちが集 のコレクターがいる品物になりました。 ム」として認知され、世界中でたくさん 一九五〇年代頃から「コレクターアイテ カの理髪店ではお店にお客さん一人一人 一八七〇年頃~一九二〇年頃、アメリ だとか。もちろん、梶川さんもこのクラ や所属する団体、会社をモチーフにする います。また、自分の職業が描かれてい しての価値が高いそうです。梶川さんは う 場 所 で、「 こ れ は 自 分 の シ ェ ー ブの会員で、東洋では唯一の会員なんだ ことが多く、「いい宣伝になる」「名刺代 ることが多い中で珍しい職業ほどお宝と 「ピアノの調律師のマグ」をお持ちです。 理 そうです。このクラブ、アメリカで春・ わりに!」と大流行したようです。 一次世界大戦に参戦するとき、全兵士に ところが、一九一七年、アメリカが第 のんびり雲|第2号| 2008 秋の年二回の会合が開かれており、梶川 ました。その会合の内容は仲間同士でコ 理髪店でマグをキープする人は少なくな ン グ マ グ 」。 こ の マ グ を 一 人 で 百 個 持 っ 世界中にコレクターがいる「シェービ さんは今まで二回、この会合に参加され りました。そうしてマグに絵を入れる文 また、梶川さんはお持ちではないそうで 自慢し合う)ことが多いようです。実際 化も忘れられていき、美しいシェービン 安全カミソリが支給されます。それ以降、 に梶川さんが会に参加している写真も見 て い れ ば、「 一 流 の コ レ ク タ ー」 と し て レクションの売り買いもありますが、自 せていただきました。とても楽しそうに グマグは約五十年で姿を消したのです。 その世界では認められるという話です す が、「 サ ー カ ス の 綱 渡 り の マ グ 」 な ん アメリカの方たちと話している姿が写っ しかし、個性的なシェービングマグの が、梶川さんは約二百個持っている、と 分のコレクションを見せ合う(というか、 「 髭 剃 り は 自 宅 で 」 と い う 流 れ に な り、 ています。梶川さんは「英語はあまり得 魅力に惹きつけられる人は多いようで のこと てのもあるんだそうです。 意 で は な い 」 と 話 し て お ら れ ま し た が、 ( も ち ろ ん 梶 川 さ ん も そ の 一 人 で す!)、 「こんなに持っているのは、世 「 同 じ 趣 味 を 持 つ も の 同 士、 会 話 は 何 と !! ■シェービングマグ。右上にあるのがピアノの調 律師のマグ。 ア ■(左)レトロチェアに座っ て取材。右がご主人の梶川 満さん。(右上)子供用バー バーチェア。(右下)ブレイ ド・バンク。 ■映画『私は貝になりたい』に出演した髭剃りセット。 界でも数人でしょう」と自信満々に語っ ておられる姿が印象的でした。 シェービングマグの他にも、店内には 美しい皿のような陶器が飾られていま す。 こ れ は「 髭 皿 」 と 呼 ば れ る も の で、 西洋の理髪店ではあごの下にこれを当て て、服を汚さないように髭を剃ったそう です。十七世紀から十九世紀にかけて西 洋で使われていたものですが、日本でも 江戸中期には輸出用として伊万里で髭皿 二十枚お持ちということで(もちろん古 が生産されました。梶川さんは髭皿を約 伊 万 里 も あ る )、 髭 皿 コ レ ク タ ー と し て も自分はトップレベルではないか、と話 しておられました。 髭皿を持たせてもらいました。陶器なの 今 回、 特 別 に 髭 皿 体 験 と い う こ と で、 で重量もあり、何より結構な値段のする ものだと聞いたので緊張しました。 「ブレイド・バンク( blade bank )」と呼 ばれる置物は、姿かたちは貯金箱そっく ミソリの刃をブレイド・バンクに貯めて カミソリの刃です。昔は、使用済みのカ りですが、貯めるのはお金ではなく安全 シェービングマグ、髭皿のコレクターで 処分したそうです。しかし、刃の使い捨 梶 川 理 髪 館 の ご 主 人・ 梶 川 さ ん は すが、自分の理髪店を「理容史料館」と てはもったいない、として「ブレイド・ 名 乗 ら れ る だ け あ っ て、 他 に も 理 容 関 blade ド俳優ジャッ ンたちが映画出演することになったんだ ちの梶川さん。最近では、そのコレクショ に は、 ハ リ ウ ッ ク・パランス(『シェー そうです。その映画とは、二〇〇八年秋 恵さんで、中居さんの髭を仲間さんが剃 ン』という有名な映画 理容ルームに掛けられ るシーンで、梶川さんが貸し出された「髭 公 開 の『 私 は 貝 に な り た い 』。 主 演 がS ていた看板や、十九世 剃りセット」が登場します。この映画を MAPの中居正広さんと女優の仲間由紀 紀中頃のアメリカ西部 見るときは必見です。 ションを眺めるもよし、散髪してもらう はもちろん入館無料です。ここでコレク らに掛けられていま も よ し で す。 お 店 が 空 い て い る と き は、 こ の 博 物 館( と い っ て も 自 称 で す が ) す。また、一九二〇年 とっても話し上手のご主人・梶川さんの 板、といった珍しい看 代アメリカの安全カミ お話も聞けます。年間入館者(コレクショ んだそうです。世界でもトップレベルの ンを見に来る人)は何と約千人!もいる や文字盤が逆になった そのコレクションを、ぜひ一度見に行っ の理髪店に配った時計 時計も飾られていまし (かわい・ののか/日本語文化系一年生) てみてはいかがでしょうか。 理容関係の品物をお持 たくさんの年代物の た。 ソリメーカーが得意先 板が店内のあちらこち 開拓時代の床屋の看 だそうです)の自宅の ■西部開拓時代のものとされる看板。 で殺し屋役をやった人 他 れました。 )」と呼ばれ sharpener る刃の磨ぎ機も開発さ シ ャ ー プ ナ ー( 係 の 品 物 を た く さ ん 所 有 さ れ て い ま す。 ■(上)髭皿。(左)髭皿をあごの下に当てて みる筆者。貴重な体験でした。 4 4 和傘伝承館 (米子市淀江町) 米子市淀江町にある和傘伝承館を訪問し 八月のとても暑い日に私たちは鳥取県 う。現在、ここでは淀江傘の伝統を生き 北まで、全国各地から注文があったとい 傘の産地だった。全盛期には沖縄から東 今岡恭恵 た。和傘伝承館は現在、淀江傘を作って た形で継承しようと、実際に「番傘」と「蛇 の目傘」と「踊り傘」の製作を行っている。 いる唯一の場所である。 和傘伝承館では「淀江傘伝承の会」と 話 を 聞 い た の は、 現 在「 淀 江 傘 伝 承の会」会長をしていらっしゃる 坂田弘さん。現在の伝承の会の会員は坂 お い う 組 織 が 活 動 し て い る。「 伝 承 の 会 」 が発足したのは、平成二年のこと。もと もと淀江という場所は、淀江傘という和 田さんを入れて、たったの三人だそうだ。 会員の一人の中谷佐和さんは、去年から 会に入ったという若い方だ。坂田さんと 話をしているうちに、坂田さんのもとで 働きたいと思って米子で勤めていた会社 をやめて、淀江傘伝承の会に入ったとい うことだった。そんな中谷さんは私たち が話を聞いている間も、黙々と作業をこ なしておられた。和傘伝承館といっても、 和傘を作るための作業場で、内部には冷 で作業をしておられた。もちろん、取材 昔、淀江傘は山陰地方では一番たくさん 上げがあったほどである。しかし、洋傘 売れていた。大正時代に十七万本、昭和 淀江傘の歴史は文政四年、倉吉屋周蔵 が広まると和傘はだんだんと売れなくな 二十年代のピーク時には五十万本の売り という人が傘屋を開いたところから始ま り、一時期には七十九軒もあった傘屋は に行った私たちもすぐに汗がしたたり落 るという。その後、傘作りは淀江の産業 減り続けたのである。昔の淀江傘はとて ち大変だった。 の ひ と つ と し て 発 展 し て い っ た そ う だ。 のんびり雲|第2号| 2008 ■和傘伝承館は本来の 意味での博物館ではあ りません。 房がなく、坂田さんや中谷さんは汗だく ■和傘伝承館の工房風景。 特集◎山陰の小さな博物館 う。また、手もとの部分の飾りにもこだ とが多いのだが、淀江傘では着物地を使 場合は梅型・亀甲型といわれる形になる。 わる。 どってあるものがほとんどだが、淀江の また、傘の内側につく糸飾りも淀江独特 の伝承の会は、淀江の傘ということを極 たそうだ。坂田さんが会長になってから の会では約六名の会員が和傘を作ってい を作り始めたのは約五年前。当時、伝承 坂田さんが淀江傘伝承の会に入って傘 するためには自分の力で、考えるという があるのかを知ることができない。上達 ではなぜそのようにするのか、何の意味 に聞いて解決することは簡単だが、それ 必要なことでもあるという。なんでも人 すことだそうだ。それは、上達するのに ことは、考えながら作ることと数をこな 伝承の会で傘を作るのに心がけている めようと、古い淀江傘を集め、昔淀江傘 ことが重要なのである。もちろん、こう のもので、桔梗飾りなどがある。 を作っていた人に話を聞くなどして、昔 私たちが伝承館に取材に行った日、小 な が ら の 淀 江 傘 に 近 づ こ う と し て い る。 学生の女の子がお母さんと二人で和傘を したことは数をこなすことによって達成 るそうだ。浜干しの目的は、和紙に引い 作りに来た。夏休みが始まってから毎日 昔、淀江の海岸で見られた和傘を干す「浜 た油を閉じ込めること。このとき重要な できることである。 ことは、無風の状態であること。風が吹 少しずつ作っているのだという。私たち 干し」も、年に数回ではあるがやってい いて傘に砂などがついてしまうとどうし ようもないからだ。 承の会が作っている傘はすべて実 用品として使うためのものであ な気候である、雨や雪が多いこと、そし 作られる理由として、日本海側の特徴的 も壊れない、と坂田さんは言う。頑丈に も頑丈に作られていて、叩いても投げて ないからだ。 と、紙がもろくなって傘のためにはよく れることもなく飾りとして保管してある のかを聞きたくなるのだそうだ。雨に濡 実際に使うために買うのか、そうでない うことだ。カッパにはビニールを使うこ 傘の天井部分につくカッパに着物地を使 坂田さんのこだわりは、ほかにもある。 る。普通の蛇の目傘の模様は、丸くかた 淀江傘の特徴は、蛇の目傘の模様であ だった。 て風がとても強いことがあるということ だ。 だ か ら、 和 傘 を 買 っ て い く 人 に は、 引くことで、和紙がかたくなるのだそう には二回油を引くのだという。二回油を る。実際に使っても大丈夫なように和紙 伝 ■(左)「ロクロ」に「骨」を糸でつなぐところ。(右)製作工程図。 ■和傘作りに使う道具。 ■和傘作りに取り組む小学生。 が見たときは、もうずいぶん和傘の形に た。そんなに時間は経っていないような 紙は破けたり、はがれたりしなかった。 てしまう金額は定価の倍以上になってし ともできる。しかし、和傘一本にかかっ そうだ。遊ぶことで自分の腕を上げるこ まうという(もちろん、それでも定価で 私が紙を張ると一本に約二時間かかっ のに、あっという間に時間が過ぎてしま 売 る の だ が )。 坂 田 さ ん の そ ん な 言 葉 か も、中谷さんに指導してもらいながら熱 う。集中していたんだなと思う。できあ ら、淀江の傘を作り、守り続けるという なっていた。私たちが話を聞いている間 実際に和傘に紙を張ってみると、感じ がった傘を見て、紙を張るという作業を 心に作っていた。 ることも違うのではないかと言っていた 強い信念を感じた。 「職人を育ててくれるのはお客さん」 (いまおか・やすえ/文化資源学系二年生) り傘の紙張り。ろくろから出ている骨に これは坂田さんが私たちに教えてくだ た。 紙を貼り付けていく作業だ。踊り傘は一 さった言葉である。注文するときに「す しただけなのにとても誇らしい気分がし 面に紙を張るのではなく、三列にわけて の血が騒いで思いっきり遊んで作るのだ べてお任せします」と言われると、職人 だ き、 私 も 紙 張 り の 体 験 を す る こ と に 紙を張る。外側から列の間を数センチ空 ■(上段)踊り傘の 紙張り作業を行う 筆者。(下段)取材 場面。左側が会長の 坂田さん。 なった。私がさせていただいたのは、踊 けて順番に内側に向かって張っていく。 業を始めてか ら思ったこと は、自分が感じる以 上にしっかりと糊を は そ の 名 の と お り、 塗ることだ。踊り傘 踊りながら振り回し たりして使う。その ため、紙が簡単には がれないようにしっ かりと骨につけてお かなければいけない のだ。紙を張ってい ると、自分が中学校 の運動会で風が強い 中、傘を振り回しな がら踊っていたのを 思い出した。よく考 えてみれば、あんな に風が強かったのに のんびり雲|第2号| 2008 作 ■紙張り作業を行う中谷さん。 特集◎山陰の小さな博物館 鳥取県米子市の南側に 祐生出会いの館 (鳥取県南部町) 小松みさ 位 置 す る 南 部 町 に、「 祐 生出会いの館」という小 さな博物館がある。版画 家 で あ り、 同 時 に 希 有 なコレクターでもあっ た、板祐生(一八八九~ 一九五六年)の作品と蒐 集品を所蔵・展示する博物館である。周 りを山とダム湖に取り囲まれた静かな場 所にある。 「 祐 生 出 会 い の 館 」 は、 外 観 は こ ぢ ん 祐 生。 ―― 彼はどのような人物 だったのか。祐生は明治二十二年、 人形やこけし、姉様人形(和紙でできた ある。今ではあまり見られなくなった土 だが、その代表とされるのが郷土玩具で に幅広く、その数、四万点にも及ぶそう 生前、祐生が集めたコレクションは実 である。 クターという三つの顔を持っていたわけ 祐生は学校の先生、版画家、それにコレ て 教 員 資 格 を 得 て 小 学 校 の 先 生 と な る。 まれた。十五歳で代用教員となり、やが 鳥取県西伯郡東長田村(現南部町)に生 板 ま り と し た 建 物 だ が、 奥 行 き が あ っ て、 中は意外と広い。館内には五つの展示室 がある。第一展示室では祐生の生涯を紹 介し、第二展示室では彼が集めた代表的 な郷土玩具を、第三展示室では彼自身の れ替えられる彼のコレクションを見るこ 版画作品を、第四展示室では定期的に入 とができる。私たちが取材で訪れたとき は、ビールのポスターが展示されていた。 もうひとつは特別展示室で、祐生だけで なく多様なジャンルの企画展示が行われ ている。 ■(左)出雲の天神。(右)大山の竹馬。 祐生出会いの館 ■開館時間:午前 9 時~午後 5 時 ■休館日:火曜日、12 月 29 日~ 1 月 4 日 ■入館料:一般 300 円、高校・大学生 200 円、中学生以下 = 無料 薄 い 紙 製 の 人 形 ) な ど の 人 形 を は じ め、 神 」 や「 出 雲 の 阿 国 」、 大 山 が 国 立 公 園 さ ま ざ ま な 玩 具 を 蒐 集 し た。「 出 雲 の 天 に指定された際に作られたという「大山 の竹馬」や「因伯牛」などが目を引いた。 祐生には二人の娘がいたが、長女は十 の後は妻さきのと夫婦二人きりの暮らし 歳で、次女は二十歳でこの世を去り、そ であった。彼は子どもを亡くし、ますま す玩具蒐集に没頭していった。玩具を集 めることによって、自身を慰めていたよ まり愛着が持てなかったのではないかと うである。ただ、こけしについては、あ 言われている。 もかなり多い。満州から日本へ 持ち帰ったポスターはたいてい 政府に押収されたらしいが、こ れらは何らかの形で、知り合い や友人の手から祐生の手に渡っ たようだ。現在では、満州につ いての歴史的研究のため「祐生 出会いの館」を訪れる人もいる そうで、貴重な研究資料として 役立っている。 祐生はこれらのポスターをど に頼み込むか、ビール会社や問 うやって集めたのか。知り合い 屋、 百 貨 店 な ど に 直 接 連 絡 を ともに全国各地の友人・知人に送り、こ 伝用ポスターが作られていたため、百貨 百貨店では季節ごとに服や品物の新作宣 取 っ て 手 に 入 れ て い た よ う だ。 らの「いただきもの」である。当時、交 れがまた彼の蒐集ネットワークを広げて これらの玩具はすべて、友人や知人か 通事情がなにかと不便であった時代の いた。ポスターに限らず、いつ、誰にも 彼が玩具とともに蒐集に力を入れてい らったか、といった情報はすべて細かく 店へ自ら連絡し、予約してまで入手して 祐生は、その交友関係を広げる手段に「文 たのはポスターで、その数は千四百枚に 日記に残されている。 いったようである。 通」を使っていた。彼は「いただきもの」 ものぼる。今日でも有名なビール会社や 中、遠出ができるほどの資金がなかった の郷土玩具などを版画作品にし、手紙と 昭和五年に開催された松江 博 覧 会 ポ ス タ ー の 中 に は、 ど、 実 に さ ま ざ ま で あ る。 保険会社や博覧会のものな 手によって作られた「貼り込み帖」と呼 これらのうち紙の印刷物は、祐生自身の 手、マッチ箱など、驚くほど多彩である。 り、駅弁の掛け紙、千代紙、カルタ、切 品のラベルや包装紙、乗車券や旅のしお ターだけではない。酒やお菓子などの食 いるそうだ。平田の來間屋生姜糖本舗の 実際に昔の自店のラベルを見にくる方も 百 貨 店 の 宣 伝 用 ポ ス タ ー、 祐 生 が 集 め て い た も の は 玩 具 や ポ ス 菓 子 博( 全 国 菓 子 共 進 会 ) ばれる和紙でできた帳面にていねいに貼 前戦中の選挙ポス のポスターもあった。 際、「 祐 生 出 会 い の 館 と い う と こ ろ に、 ご主人は昨年の『のんびり雲』の取材の 昔からある、地元の有名な酒屋さんや うちの昔の包装紙があった」と教えてく り付けられている。 的な主張が強く押し出され 和菓子屋さんの古いラベルや包装紙など だ さ っ た。 最 近 で は、 松 江 の 和 菓 子 屋、 タ ー や、 軍 部 や 政 治 た ポ ス タ ー も あ る。「 満 州 は、 お 店 の 方 に と っ て も 貴 重 な よ う で、 戦 国」から持ち帰られたもの のんびり雲|第2号| 2008 ■駅弁の掛け紙や酒のラベルなど。 ■鉄道の乗車券や汽船の乗船券。 回数券もある。 ■祐生が作った「貼り込み帖」。中央に貼られているのが 「來間屋生姜糖」のラベル。祐生はこのような帳面を 60 冊ほど残している。 筆でひっかいて「ろう」が取 いたローラーを転がすと、鉄 張り、その上からインクのつ れており、祐生孔版画独特の美しさが小 の蔵書票はすべて切り抜き技法で作成さ 五十人分の蔵書票を作り上げた。これら 年に「板祐生孔版蔵書票の会」ができて、 和三十一年に祐生が亡くなった 後、 地 元 の 方 々 の 協 力 に よ り、 彼 の膨大なコレクションと作品は公民館に 昭 さな紙片に凝縮されている。 れた部分からインクが紙に浸 透し、紙に文字や絵が印刷さ れるという仕組みだ。出来上 はなく、ガリ版の孔版画はも 保管されることになり、やがて「祐生出 がりは決してきれいなもので ともと芸術としての版画を制 してもひとつの博物館として成り立つこ 会いの館」という博物館が建設されるこ 作品作りを行ったとされてい とは、すごいことだと思う。さまざまな 作する技法ではなかった。 る。彼はヤスリを使わずに直 人間の協力があってこそ残る、尊いもの とになる。ひとりの人間が蒐集し、制作 接小刀で「ろう原紙」を思い思いの形に したものが、こうして小規模であったと れまた古い駅弁の掛け紙もあった。江戸 に工夫を加え、独自の製法で 彩雲堂の方が自分のところの昔の包装紙 従来の孔版画に比べて色合いが鮮明にな の存在を見た気がした。 三十五年で、この道でも長い歴史を持つ。 るのだそうだ。彼の作品は特に、強烈で (こまつ・みさ/日本語文化系一年生) 松 江 の 酒 屋 さ ん、「 國 暉 」 の ラ ベ ル を 駅弁の掛け紙あれば乗車券あり。当時の 鮮明な赤色が特徴的であるという。 切り抜き、インクを紙に直接のせるとい 見つけた。酒好きの編集長は「國輝」と 山陰線、一畑電鉄、果ては合同汽船のも う 方 法 を 編 み 出 し た。 こ の こ と に よ り、 表 記 さ れ て い る の を 発 見 し、「 い つ か ら のまで、珍しい乗車・乗船券がいっぱい。 祐 生 は 孔 版 画 を 用 い て 私 家 本 も 作 っ 時代享保年間、米問屋として出発した米 『暉』に変わったのかなあ」と首をひねっ た。『おもちゃと絵馬』をはじめ、『富士 吾。 駅 弁 の 製 造 販 売 を 始 め た の が 明 治 て い た。 そ の 他、「 浜 田 名 物 百 合 羊 羹 」 の 屋 草 子 』 と い う 全 三 十 九 巻 の 大 作 や、 玩具を入手した経路や時代考証を記した 乗車券は出雲や鳥取など近い場所のもの 生のもうひとつの顔は版画家であ 『髫髪歓賞』(全六巻)など、たくさんの が多い。 と首を傾げるような、実にユニークなも る。 彼 の 版 画 は 孔 版 画 だ っ た。 私 作品を制作した。 まで、学校などでプリントを作るときに ル の こ と で あ る(『 の ん び り 雲 』 創 刊 準 すために見返しに貼っておく小さなラベ というのは、自分の蔵書であることを示 という長年の夢があったようだ。蔵書票 用 い ら れ て き た。「 ろ う 原 紙 」 と 呼 ば れ 備 号 の 記 事「 紙 の 宝 石 」 参 照 )。 彼 は、 祐生には、孔版を用いて蔵書票を作る る紙をヤスリ板の上にのせ、鉄筆と呼ば 友人や知人から会員を募り、昭和二十四 な い が、「 ガ リ 版 」 と か「 謄 写 版 」 と 呼 れる先の尖ったペンで文字や絵をかいて ばれるものである。コピー機が登場する たち若い世代は見たことも聞いたことも 祐 な ど と い っ た、「 こ れ、 お い し い の?」 を見に来られたそうだ。 祐生は、ガリ版印刷の手法 ■(上段)ろう原紙、ヤスリ、鉄筆など。(下段)謄写版、 ローラーなど。 いく。その後、謄写版に「ろう原紙」を ■私家本と自筆原稿。 のも見つかった。 米子駅で有名な駅弁のお店、米吾のこ ■蔵書票。 10 祝凧高橋 橋好さんは郵便局を退職したのち 桑原由紀子 (出雲市大社町) 出雲大社の左手に鶴山、右手に亀山と 「 鶴 」 ま た は「 亀 」 の 字 を 描 い た 凧 を 揚 係のある家に祝い事があると、それぞれ 二つの国造家がある。かつては両家に関 の麓には北島という、出雲大社に仕える のことである。そして、じょうきに続い たもので、鯛や屋形船の形をした灯籠船 というのは、盆の精霊送りの際に作られ うき」の復元製作を開始した。「じょうき」 る一方、大社町に古くから伝わる「じょ に、和 傘や 提灯 の 製 造 販 売 に 携 わ げて祝っていた。この字凧は畳何畳分も れらは、いずれも竹細工という点で共通 て取り組んだのが祝凧の復元である。こ 高 あ る 巨 大 な も の だ っ た よ う だ。 し か し、 祝凧は学校の先生だった橋本さんとい している。 こうした歴史ある大社の祝凧を小型化 表現している。左上は鶴の頭を、その少 う方の目にとまり、郷土玩具専門誌であ し 下 が 鶴 の 羽 を 表 し、 そ の 下 に 漢 字 の し て 復 活 さ せ、 製 作・ 販 売 を 行 っ て い 県ふるさと伝統工芸品」に指定されてい うき、祝凧ともに昭和五十六年に「島根 るのが出雲大社から程近いところにあ る『竹とんぼ』第七十一号(昭和四十年 る「祝凧高橋」である。現在の製作者で られることとなった。橋本さんが記事中 十一月)で紹介されたために全国的に知 ある高橋日出美さんの祖父の高橋好さん で「祝凧」と表現したのが広まり、以後、 左側は、鶴が木にとまっているところを 凝 ら し た 絵 文 字 で ある。鶴 の字 の の字も亀の字もさまざまな意匠を を表しており、穀物や家宝などを連想さ ら」とも読めるそうだ。「くら」は「蔵」 とひらがなで書かれている。これは「く 鶴 「木」が配されている。右側は縦に「つる」 ( 大 社 町 無 形 文 化 財 第 一 号〈 他 界 と と も 大社の鶴・亀の字凧は「祝凧」と呼ばれ る。 に 町 へ 返 還 〉) が 今 か ら 五 十 年 ほ ど 前 に るようになったのだという。なお、じょ と、この凧揚げの風習は廃れていった。 明治になって電柱が林立するようになる いう山があり、鶴山の麓には千家、亀山 ■祝凧高橋は本来の意 味での博物館ではあり ません。 始めた。 のんびり雲|第2号| 2008 11 ■祝凧高橋の店内に飾られた大凧。 特集◎山陰の小さな博物館 漢字の「米」と「二」 漢字の「木」 た も の で あ る。 上 の 二 つ の 山 は 旧 字 体 の「 龜 」 を 図 案 化 し せるため縁起のよい言葉とされてい る。 亀 のような形は、それぞれ「鶴山」と「亀 山」を、その下の縦二本、横二本の 直線の交わりは鳥居の形を表現して いる。左上の方にある膨らみは「打 ち出の小槌」を、右上の方のはねは 「大黒様の袋」を表しているそうだ。 も読める。また、右下は「米」と「二」 左下部分は「多」の旧字体「夛」に という字であり、これは米俵二俵を 同じ人が製作したものでも年代によって 紙を巻いた心棒を取り付け骨組みを作 ①型取りをした竹を組み合わせ、これに いる。 在 の 凧 と で は 若 干 形 が 異 な っ て い る し、 その後の製作手順は次のようになって 多少形が変わっているらしい。製作者の 表しているらしい。 鶴は赤、亀は黒で描かれる。また、 感性の変化が影響しているのかも知れな る。 きは鶴の凧を左に、亀の凧を右に飾 い。 鶴山と亀山の位置関係から、飾ると るのが望ましいそうだ。昔の凧と現 が竹だ。竹は夏場に処 の製作に欠かせないの ⑤糸取りをして完成。 ④型に合わせて文字を書く。 ③縁を折り曲げて貼り付ける。 わせて紙を切っていく。 ②四角い紙を貼り、縁を残しつつ型に合 理すると虫がついて使 この中でもっとも心を砕く作業は④の が出ないようにするなど、さまざまな工 直線部分に定規を使用するなどして、よ 夫が試みられている。昔作られた凧は一 竹の表面に傷がつくと が必要な作業だ。冬の 度 書 い た だ け な の で 濃 淡 の 差 が 目 立 つ。 る。そのほか、文字を二度塗りして濃淡 間に処理した竹は、春 こちらも味があっていいようにも思える りよい形にしようと気を使っておられ までに型を取って、で が、そのあたりは好みの差だろう。 曲げたときに折れてし きたものはビニールの ■ご主人の作業場の一角。 中に入れて保管する。 まうため、細心の注意 し な け れ ば な ら な い。 「 文 字 を 書 く 」 だ そ う だ。 日 出 美 さ ん は 間に一年分の竹を処理 えなくなるため、冬の 祝 凧 や「 じ ょ う き 」 ■竹の型取り。 鳥居 ひらがなの「つ」 または「く」 亀山 鶴山 大黒様の袋 打ち出の小槌 鶴の頭 鶴の羽 漢字の「夛」 ひらがなの「る」 または「ら」 12 ンスをとる必要はないが、けっこう手間 で、糸は飾りの要素が強く、厳密にバラ ある。現在の祝凧は揚げることがないの ⑤の糸取りとは凧に糸をつける作業で ねてこられても売り物がなく、後日郵送 数をこなすことができず、お客さんが訪 土日などに凧を製作していた。このため てきたわけではない。会社に勤めながら いときから凧作り専門の職人として働い ということが多かったらしい。 のかかる作業だ。 凧は島根県物産観光館でも販売さ ほうにも常にある程度は品を置けるよう になったらしいが、取材したときはちょ 日出美さんが退職したのちは、お店の め常に品切れのような状態だったそう うど出雲大社の本殿公開期間中で、お客 れて いる。 物産 観 光 館 に は 以 前 か だ。だが、今ではこうした状態は解消さ さんがどっと増えたため再び後日郵送の ら出品していたが、数が作れなかったた れた。日出美さんが去年会社を退職して、 状態になっていた。 ろに百合子さんの作業 店に入ってすぐのとこ それぞれにあって、お ておられる。作業場も の製作と糸取りを行っ さんが比較的小型の凧 が比較的大型の凧の製作を、妻の百合子 要な担い手だった。現在は、日出美さん からないが、県外の人に『まだ作ってい した。祝凧の製作が面白いかどうかはわ 統を守っていこうという意識が生まれま が祝凧の全盛期だったために、自然と伝 ださった。百合子さんも「嫁いできた時 に感じることはありません」と答えてく るのを見て育ってきたので、そんなふう のころから祖父や父が祝凧を製作してい か」という質問に、日出美さんは「子供 高橋家では代々、奥さんも凧作りの重 凧作りに時間を割くことができるように 実は、日出美さんは、祖父・好さんと 場が、奥の方に日出美 ますか』などと言われると、『作らねば』 なったためだ。 同 様( 実 は お 父 さ ん も そ う だ っ た )、 若 作業机に向かっている うかがっていたときと ては」という義務感よりも、「伝統は守っ お二人からは「伝統を守っていかなく と思います」と言っておられた。 同 じ よ う な 自 然 体 で、 を感じた。本来、伝統とはこのように守 て当然のもの」というような自然な構え (くわはら・ゆきこ/文化資源学系二年生) られていくものなのかもしれない。 んでいるように感じら れた。 凧作りが日常に溶け込 百合子さんは、お話を さ ん の 作 業 場 が あ る。 ■(上段)「亀」の字を書くご主人。(下段)糸取り作業中の奥さん。 「伝統を受け継いで いくことを重荷に感 じることはないです のんびり雲|第2号| 2008 13 祝 ■作業場。上の方に置いてあるのが「じょうき」。 特集◎山陰の小さな博物館 飯南町民俗資料館 (島根県飯南町) 槿原 希・鹿 野 一 厚 かぶからです。しかし、その雪も多量に そり遊びなどの冬の遊びが、頭に思い浮 ていただく石飛幹祐 民俗資料館を案内し 邪魔しました。今回、 雪。 この言葉を聞くと、私はワク まず最初に、飯南 ―― 町の教育委員会にお ワクしてしまいます。雪だるま・雪合戦・ 降り積もれば、生活に支障を来すことに さんは、この教育委 まず、石飛さんから資料館の成り立ち について説明をしていただきました。 勝部正郊という高名な民俗学者が、昭 和三十五年から雪に関する民具の収集と 整理を開始していました。昭和四十三年 に、それらの民具一五〇点が国の重要民 俗文化財に指定されました。勝部さんは 当時頓原に住んでいたので、旧頓原町が それらの民具を勝部さんから一括して寄 贈を受けました。そして昭和四十五年五 月、民俗資料館を建設して貴重な雪の民 具を展示することになったのです。 飯南町は雪国だった 中国山地の一角を占める飯南町は、同 じ山陰でも松江などの日本海沿岸と違っ て「 豪 雪 地 帯 」 で す。『 頓 原 町 誌 』 に よ ると、昭和四十七年から平成七年までの 年 平 均 降 雪 量 は、 頓 原 で 三 九 二・〇 セ ン チ、 赤 名 で 四 〇 五・九 セ ン チ で し た。 毎 は 今 よ り も っ と 積 雪 量 が 多 く、「 約 四 ケ 想像もできませんが、昭和五十年代以前 なります。雪に閉ざされた生活を少しで 民俗資料館に小学生 年四メートルもの雪が降るなんて私には を招いて説明するといった活動もなさっ 員 会 の 職 員 で あ り、 雪対策の生活用具が作られました。旧頓 も快適にするために、全国の積雪地域で 原町にある飯南町民俗資料館には、西日 郷の味覚』)そうです。 月近くが雪のしたの生活であった」(『故 ています。 います。 のかとても気になっていましたが、実際 降る地域と聞いていたので、どんな所な の地を踏むことになりました。雪が多く 外気より少し涼しいと感じます。五〇〇 開けて中に入ると、冷房はないのですが、 のような建物です。風通しの良い網戸を ト高床式二階建ての、まるで白壁の土蔵 飯南町民俗資料館は、鉄筋コンクリー 棟、被害総額約一億一五〇〇万円という り、死者一名、重傷者一名、家屋全壊五 最 高 三・三 〇 メ ー ト ル も の 雪 が 降 り 積 も でした。飯南町頓原でも短期間のうちに (略称「三八豪雪」)と名前をつけたほど り、 気 象 庁 が「 昭 和 三 十 八 年 一 月 豪 雪 」 昭和三十八年には日本全国で大雪が降 に訪れてみると、山々が間近に迫っては 点以上もの民具を収めた館内は、しんと 今回の取材に伴って、私は初めて頓原 いますが、民俗資料館がある地区は大き 静まり返っていました。 大きな被害をもたらしました。 のよい場所でした。 く開けた谷に位置していて、とても景色 民俗資料館の成り立ち 本で作られた「雪の民具」が展示されて 飯南町民俗資料館 ■開館時間:午前 8 時 30 分~午後 5 時 ■休館日:土曜日・日曜日・祝日、年末年始(予約対応あり) ■入館料:無料 ※入館を希望される方は飯南町教育委員会へお越しください。 TEL:0854-72-0301(飯南町教育委員会) 14 飯南町民俗資料館には、飯南町とその 屋根の雪を除雪することを、中国山地 掬 っ て 載 せ、 最 後 に ブ のブロックを板の上に 使って雪を切って四角い では「雪落とし」と呼びます。雪国の家 ロックを屋根の上を滑ら すか。そう。屋根に積った雪を取り除く 中国山地、そして南は九州山地にまでい は か な り 強 く 造 ら れ て い る の で、 雪 が せながら下に落とす、と ブロックを作り、次にそ たる、西日本の積雪地帯から集められた 二、三 回 降 っ た ぐ ら い で は 平 気 で す が、 いうものです。これらの ための道具なのです。 雪の民具が収められています。東日本の さすがに七〇センチを超える雪が屋根に 周辺地域を中心として、北は京都府から 雪の民具を収蔵した新潟県長岡市の科学 積もると、屋根裏の梁が不気味にきしみ、 「切る」「掬う」「滑らす」 のほかに、雪スキは、 「叩 博 物 館 と な ら ん で、 日 本 有 数 の コ レ ク 戸や障子の開け閉てがとみに苦しくなり く」「押す」「コネル」な 像できないほど、雪スキ ます。こうなると、雪落としをしなくて 雪スキはシンプルな道具なので、それ は屋根の上で多彩に使わ ど の 働 き も こ な し ま す。 して長い柄の付いた大きな羽子板のよう ほど種類はないだろうと思っていたので れているのです。 はなりません。雪スキは、雪から家を守 ションを誇っています。 雪スキ 館 内 で ま ず 目 に つ く の は、「 雪 ス キ 」 な 道 具 で す。 直 径 約 三 セ ン チ、 長 さ が す が、 民 俗 資 料 館 の 雪 ス キ は、 な ん と 「一般形」の雪スキだ シンプルな外見からは想 九〇センチから一五〇センチの「柄」の 一四種類もあるそうです。このうち三種 けでも、これらの働きを るための必需品だったのです。 先に、幅約二〇センチで長さ約五〇セン は板に柄を取り付けたものですが、他の です。雪スキは木で作られていて、一見 チの厚手の「板」が付いています。これ し、 先 ほ ど の「 肩 角 形 」 一通りこなします。しか の一一種は板の形 一一種は一本の木を削ったものです。こ や「先広形」など他の種 資料館が次に力を入れているのが、「雪 ■雪輪。 が何のための道具か、お分かりになりま と柄の長短に基づ 類の雪スキは、それぞれ い「肩角形」は、一度に スキはスコップにとって代わられました いて分類されてい 大量の雪を動かすことができます。先が が、現在でも大雪が降ると雪スキを愛用 が得意技を持っていま と長楕円形の「楕 少し広い「先広形」は、雪をこねるのに する人は少なくないそうです。 て、なで肩で細長 円一般形」のほか 便 利 で す。 柄 も 板 も 長 い「 長 板 形 」 は、 す。例えば、板の幅が広 に、 「肩角形」、 「先 大雪のときに威力を発揮します。このよ い「 先 角 一 般 形 」 広形」、「細長形」、 うに、一つひとつの働きをより効率よく 便利に行うことができるようにと人びと 輪」の展示です。雪輪とは、雪の中を歩 雪輪 どの名が付けられ 「シャクリ形」な ています。 が工夫した結果、様々な種類の雪スキが ために、はきものの下につける道具です。 行するときに、足が深く入るのをさける 中国山地では、昭和の初期までには雪 生まれたのです。 な使い方は、まず 板を包丁のように のんびり雲|第2号| 2008 15 雪スキの基本的 ■雪スキ。 ワ 一般に「カンジキ」と呼ばれていますが、 ユキワ いると凍えないなんて、初めて知りまし 具はなく、現在でも現役で使い続けられ 呼ばれています。雪輪はこれに代わる道 雪グツの中に履く、これも藁製の「ツマ す。藁を編んで作ったかわいい「雪グツ」。 の一階には様々な民具が展示されていま 雪スキと雪輪のほかにも、民俗資料館 は、これを見た瞬間に感動してしまいま 体温と汗を逃がそうという工夫です。私 ミ ノ と 衣 服 と の 間 に 空 気 の 層 を 作 っ て、 の ミ ノ に は 網 が 裏 打 ち さ れ て い ま し た。 ミノはよく知られていますが、資料館 た。すごい知恵です。 ています。 ゴ ワ ラ ジ 」。 野 外 で の 活 動 に 欠 か せ な い その他の民具 のある木や竹を曲げて作った外枠(「枠」) 雪輪の構造も比較的シンプルで、粘り 「カサ」と「ミノ」。小説で読んだことの 中国山地では「雪輪」とか「輪」などと と、内側に張った縄紐からできています。 ある「赤ゲットウ」。 どの重い物を運ぶために使われた「雪ソ ま え る た め の「 ウ サ ギ 網 」、 木 材 や 炭 な め の「 シ シ 槍 」、 ウ サ ギ を 追 い 込 ん で 捕 資料館の二階には、イノシシを狩るた せんか。 も、飯南町民俗資料館に足を運んでみま 民具たちと語り合うために、ぜひ皆さん 者の知恵と工夫、そして愛情と思いやり。 一つひとつの民具に込められた、製作 した。 縄紐の部分を細かく見ると、足を乗せる のりお はなお 「 乗 緒 」、 枠 の 隅 を 結 ん で 枠 を 補 強 す る すみど らなっています。 ( む く げ は ら・ の ぞ み / 文 化 資 源 学 系 二 年 生 料館に展示 が、民俗資 なのです はシンプル 方も多様で、「横一文字」「横一文字四隅 されているようです。また、縄紐の組み ひとつ、大きさや反り方にも工夫が凝ら 五つの形式があります。そのうえ、一つ ぼんだ楕円形のもの(「繭型」と呼ぶ)と、 民俗資料館に収められている雪の民具 円形のもの(「足型」と呼ぶ)、中央がく いたものです。そのなかには、江戸時代 に作られたものもあります。そのうえ実 際に生活の場で使用されていたものなの で、新品のような派手さもありません。 し か し、 立 ち 止 ま っ て よ く 眺 め る と、 藁で作ったツマゴワラジを素足に履いて 雪 グ ツ も あ り ま す。 雪 の 中 を 歩 い て も、 靴底の面積を大きくした、炭俵のような 朝 の 雪 踏 み を 少 し で も 楽 に す る た め に、 に 歩 け る よ う に 深 め に 作 ら れ て い ま す。 を多く含んだ飯南町の雪道を、より快適 こしらえた雪グツやワラジ。湿って水分 囲炉裏のそばでおじいさんが夜なべで 作られてから八十年以上も経た地味な民 乗緒が複雑な円形の雪輪が用いられま 雪輪は、降ったばかりの雪を踏み固め す。また、山仕事をしたりウサギ猟をす あることに けでも、円 枠の形だ るときなどは、反りがあって横一文字の 具たちが、とつとつと語り始めるのです。 形 の も の、 小さな雪輪が、歩きやすくて疲れにくい て道を作る「雪踏み」にも用いられます。 楕円形のも そうです。目的や雪質などに応じて様々 驚かされま の、長方形 れているのです。 なタイプの雪輪が工夫され、使い分けら 平地の雪踏みのためには、大形の雪輪や のもの、先 す。 広がりの楕 & しかの・かずひろ/生態人類学) リ」などが展示されています。 されている 取」「十文字」「井桁」など、基本形だけ 雪の民具の魅力 標本を見る でなんと二〇種類もあります。 は、ほとんどが大正時代以前に使われて と、実に多 ■ツマゴワラジ。 様な雪輪が 本的な構造 雪輪の基 して足全体を雪輪に固定する「締紐」か しめひも 「 隅 取 り 」、 つ ま 先 を 掛 け る「 鼻 緒 」、 そ ■雪グツ。 16 森崎窯業 (大田市温泉津町) インで製造されるが、鬼瓦は工場の一角 にある小さな作業場で鬼師が手作業で作 の瓦は石州瓦、三河地方の瓦は三州瓦と ぐ全国第二の瓦生産地である。石見地方 島根県石見地方は愛知県三河地方に次 い。あまり急に乾かしてしまうと、乾き ではなく、とても気を配らないといけな かし、乾燥期間の間ずっと放っておくの た。二週間から三週間、乾燥させる。し この鯉の棟飾りは乾燥段階に入ってい て、乾く速度を同じにする働きと、焼く になっている。これには厚さを均等にし なっているという。また頭の内部も空洞 くときに溶けてしまうので、中は空洞に ものは入っていないそうだ。入れても焼 は長く伸びているが、この中に芯となる た。これも乾燥中だった。これは水板と 工房には七枚一組で作られた龍もあっ 使って慣れた手つきで粘土に模様を描い れた紙を粘土の板の上に置き、木べらを 見せてくださった。原寸大の模様が描か ■鯉の棟飾り。 る。鬼瓦だけでなく、棟飾りや水板など、 凝った形の注文生産品はすべて鬼師が手 が製作中の鯉の棟飾りだ。大きい。 瓦工房に入ってまず目を引いたの がける。 鬼 二つのパーツに分かれているが、つなぐ がんぶり と高さ一メートルぐらいにはなりそうで ある。棟飾りとは棟線を葺く瓦(雁振な どと呼ばれる)のうち、上部に特別の飾 からの依頼で作っている。送られてきた りがついたもののことだ。舞鶴の小学校 たった一枚の写真を見て作るのだとい う。写真から立体を作り上げていくとい 呼ばれている。石州瓦製造会社は現在九 具合が部分ごとでまちまちになってしま うのはすごい技術だと思った。 社あるが、今回は大田市温泉津町にある ときにむらができて割れるのを防ぐ働き がある。 い、 割 れ て し ま う。 そ れ を 防 ぐ た め に、 何と、わざわざお湯をかけることもある 州瓦製造会社九社のうち、鬼師がいるの 呼ばれ、棟の下部に横に並べる飾りであ 本さんは私たちの質問に答えなが は四社だそうだ。ここ森崎窯業の鬼師は る。水板は龍のデザインの注文が一番多 ていく。絵を描いた部分を粘土板から切 という。 宮本好明さんという、この道二十年のベ いという。顔や体はとても緻密に作られ り出すと、今度は別の粘土板を絵の形に ら、 実際 に鬼瓦 のパ ーツ を 作 って テランである。鬼師という名前からは想 ており、今にも動き出しそうだ。牙や鱗 合わせて直角にくっつけていく。 宮 像出来ないほど笑顔の素敵な優しい方 も一つ一つ細かく作られている。目もま だった。 普通の瓦(桟瓦など)は現在では巨大 く っ つ き や す い よ う に、 接 着 面 に は るで生きているかのようにリアルだ。角 鬼瓦を製作する職人を鬼師と呼ぶ。石 である。 森崎窯業を訪ねた。お目当ては鬼瓦工房 高田彩香 ■森崎窯業鬼瓦工房は 本来の意味での博物館 ではありません。 な機械・装置がたくさん並ぶ自動生産ラ のんびり雲|第2号| 2008 17 鬼瓦工房 特集◎山陰の小さな博物館 と 外 側 の 両 方、 へ ら で 押 し て 溝 を つ く 強化するため、接合した角の部分を内側 引っかき傷をつけておく。さらに接着を と向き合ってこないとできない技だなと いうのは、宮本さんのように長年焼き物 いう。どれだけ縮むかを計算して作ると やすいという特性を考慮してのことだと か か り、 そ れ で も 十 分 で は な い そ う だ。 と話しておられた。それには最低十年は 真や全長の寸法など、実に大まかなもの われた。依頼者から送られてくるのは写 はあるのかと尋ねると、それはないと言 る。注文を受けて実際に現場に行くこと 宮本さんのところには各地から依頼が来 を 使 っ て あ ら ゆ る 注 文 に 対 応 し て い く。 宮本さんは、いたってシンプルな道具 これでもう独立という境目はない。 り、そこに棒状の粘土を埋めていく。こ た。しかし、次第に装飾の意味合いが強 鬼瓦は本来魔よけの意味で作られてい 思い、ちょっと感動した。 を使うそうだ。それは、焼き上げるとき れにはベースの粘土よりも少し硬い粘土 に、柔らかい粘土は硬い粘土よりも縮み くなってきたという。面白いこ とに、怒ったような顔のものだ けが鬼瓦かと思っていたら、時 が多いそうだ。自分が作っているものが 鬼以外のものも多い。宮本さん く、その部分は石膏型で作るのだ。同じ ている。鬼瓦には家紋を入れることも多 そんな心配は無用のようだ。これも長年 安にかられることはないだろうか。でも、 依頼者の要望に合っているのかという不 もこれまでに数え切れないほど 家紋でも大きさがいろいろあって、全体 あるという。もちろん、今では 代によっては鬼が笑ったものも の種類の鬼瓦を作ったそうだ。 ものが多いが六角形のものもあった。出 では膨大な数になる。基本的には丸型の ■粘土を伸ばす道具「たたき」。 でやるようになってからが本当の勉強だ があとは目に見えない。宮本さんは一人 この仕事、ある程度までは上達が早い とが多いという。 していく。師匠の方も仕事を見せないこ そうだ。すべて自分で工夫しながら習得 り方や技術を聞くということはなかった 土の硬さとかを教えてもらうだけで、作 しょに働いた。ただ、師匠といっても粘 れ、以後三年間、師匠と弟子としていっ んは森崎窯業で鬼師として働いておら 匠はお父さんだった。宮本さんのお父さ ンして鬼師の道を歩むことになるが、師 二十年以上、左官をされていた。Uター 宮本さんは鬼師になる以前は、大阪で 雲大社の神紋も六角形だ。 棚 が あ り、 家 紋 を 作 る た ■さまざまな形の「へら」。 房の天井近くには三方に めの石膏型が所狭しと並べられ 工 ■龍の水板。 ■家紋の型枠。 18 は全長約五〇センチで、オールの先端の 伸ばしていく作業に使うたたきだ。これ ここで道具を紹介する。まず、粘土を じた。 鬼瓦に携わらないとできないことだと感 ら、市販の道具を使っていると知り、意 が使うものなので特注品かと思っていた のに分けられる。鬼師という特殊な職人 作られているものと、金属で作られたも る。へらの素材はいろいろで、主に木で た形を作ったりするときに使うへらがあ 料の粘土を搬入するところから、瓦が焼 続いて瓦工場も見せていただいた。原 を出すという。 末にしたものを釉薬として使い、赤い色 属を入れたりする。石州瓦は来待石を粉 た着色材料として鉄やマンガンなどの金 がたくさん並んでいる。瓦工場がこれほ きあがるところまで、大きな機械・装置 土 の成形 が終 わる と、 釉 薬 を か け ど巨大なものとは思わなかった。できあ 外だった。 ような形をしている。次に粘土を均等な 厚さに切るために使う道具。同じ高さの 二本の木の棒にピアノ線を張り、それを る段 階に 入る。 釉 薬 の 原 料 は 長 石 粘 がった瓦には森崎窯業のマークや製造 日、 J ISマークなどが刻印されていた。 や石英、粘土、石灰、ケイ石などで、ま 石州瓦は四〇〇年を超える歴史があ る。石州瓦は高温で焼きあげるため、な んといっても硬く強い瓦に仕上がるのが として有名だ。石州瓦は一二〇〇度以上 特徴で、塩害や酸性雨、凍害にも強い瓦 で 焼 き 上 げ る。 瓦 の 三 大 産 地 は 三 州 瓦、 淡路瓦、石州瓦であるが、その中でも温 ことができた。日本家屋に は 欠 か せ な い 瓦 で あ る が、 普段はそんなに深く考えた ことはなかった。また、島 根に石州瓦というものがあ ることは知っていても、ど ん な 特 性 が あ る の か な ど、 詳しいことは知らなかっ た。こんなに素晴らしい伝 統産業の現場を実際に体験 し、地元を見直すよいきっ かけになった。 ( た か た・ あ や か / 生 活 文 化 デザイン系一年生) のんびり雲|第2号| 2008 19 度の高さはトップだ。 今回の取材で初めて瓦を身近に感じる ■瓦工場。瓦が成形されて出てきたところ。 板の上でスライドさせて切っていく。そ して粘土に模様を描いたり、丸みを帯び ■石見銀山の世界遺産登録を記念 して、こんな商品も企画・発売。 ■慣れた手つきで鬼瓦を製作する宮本さん。見る 見る形ができあがっていく。
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