東三日本史趣味 (試し読み用) 第2号 2016 年 5 月 14 日 徳川慶喜が愛した女性「お芳」(2) 2~12頁 1.その後のお芳? 2.新門辰五郎の娘なのか? 3.「お芳」という名前は本当か? 4.「お芳」の情報を提供したのは誰? 5.お芳のプロフィール - 1 - 【1】徳川慶喜が愛した女性「お芳」(2) 1.その後のお芳? 徳川慶喜と共に江戸へ帰り着いたお芳のその後についてもよくわからない。没年も亡くな った場所も、墓についても不明である。 その後のお芳については、「小島いと女憶え書き」で次のように語られている。 「小島いと女憶え書き」 遠藤幸威『聞き書き 徳川慶喜残照』朝日新聞社、1982年(昭和57年) あたくしは存じませんが、鳥羽・伏見の戦いの後、軍艦開陽丸まで付いて来て回りの人 が、 「上さまのお部屋で子供の声がする」 と間違えた京、大坂時代のお局お芳さんという新門ノ辰五郎親分の娘も、多分こんなタ イプの少少小柄な女じゃなかったか、と思います。 貴方がこないだ新庚申塚(豊島区)の善養寺にある新門ノ辰五郎以外の町田家(辰五郎 の養家)のお墓で見付けた、 法林妙市信女 明治四十三年十二月一日 六十二歳 というの。ひょっとするとお芳さんかも知れませんよ。明治後新潟の方へ駆落ちしたと か聴きましたけど、結婚したという話は聴きません。すると当然実家のお墓に入ります からね。「いち」という字もつづけようによっては「芳」ともなるし、御前ならそれく らいの茶目ッ気もありますもの。歳も合いますしね。ただお子さまはこの方生んでおり ませんよ。生れてすぐお亡くなりになったお方でも、あたくしには判りますからね。 小島氏は徳川慶喜晩年の侍女である。1893年(明治26年)生まれで、実際にお芳と 会っていない。お芳に関する情報はすべて伝聞であり、確証的な内容になっていない。 『聞き書き 徳川慶喜残照』の出版は1982年(昭和57年)であるが、実は、196 7年(昭和42年)発行の『歴史読本』10月号に「慶喜江戸崩れ」を書いており、小島 いと氏から話を聞いていることがわかる。同一の文章ではないが、〈箪笥の中身〉〈玄米麺 麭〉 〈アルミの飯盒〉の話は「小島いと女憶え書き」の内容と同様のものである。なお、 「慶 喜江戸崩れ」の小島氏から聞いたと思われる内容にはお芳の話はない。 「法林妙市信女」がお芳である可能性について、後で少し触れる。 しかし、明治後新潟の方へ駆け落ちしたという内容は、比屋根かをる氏の『将軍東京へ帰 - 2 - る』では次のようになる。 比屋根かをる『将軍東京へ帰る』新人物往来社、1975年(昭和50年) 須賀には、慶喜が昔、寵愛した新門辰五郎の娘が、明治になって、能の囃子方の笛吹 きの男と、駆け落ちしたのがわからなかった。一橋侯時代にこそ、新門辰五郎の「を組」 を私兵がわりに必要としたが、静岡に隠遁し、明治八年に新門辰五郎が死ねば、慶喜は 辰五郎の娘に目もくれなかった。 『将軍東京へ帰る』は小説であるが、著者の比屋根氏は、徳川慶喜に詳しく、『徳川慶喜 のすべて』(新人物往来社、1984年(昭和59年))に「徳川慶喜をめぐる女性たち」 を書いている。お芳が能の囃子方の笛吹きの男性と駆け落ちしたことが、事実なのか創作 であるのかは確かめようがない。 文中「須賀」とは、一色須賀のことである。天保9年(1838年)、旗本一色家に生ま れ、幼少の頃一橋家の老女であった伯母の養女となり、後に徳川慶喜に仕えて老女となっ ている。(「小島いと女憶え書き」)。徳川慶喜の晩年まで仕え、昭和初年まで存命であり、 慶喜邸で亡くなっている。この須賀が情報源の可能性の一つとして考えられる。須賀はお 芳のことを知っているであろうから、お芳のことは須賀によって周囲に語られた可能性は ある。 2.新門辰五郎の娘なのか? お芳については、江戸町火消の頭取、新門辰五郎(新門の辰五郎)の娘で、徳川慶喜の側 室であったということ以外はっきりとしない。その不確かな部分に興味をもって資料を探 してみたが、参考となる資料があまりにも少なく、実像に迫ることが困難であることは既 に述べてきた。このような状況なので、新門辰五郎とお芳の関係についても疑ってかかる ことにした。 新門辰五郎のことが書かれた戦前の刊行書には、お芳について触れてあるものは少ない。 もっとも、「お芳」という名は見当たらず、次にあげる3冊も新門辰五郎の娘が徳川慶喜 の側室になっていると書かれているだけである。A 以外は情報源の特定はできない。A も 「大坂城から脱出したお芳」でとりあげたように、信頼を置けない箇所が多い。 A 「「新門辰五郎の娘」舊幕臣渡邊淸太郎氏談」 (市村残月『前将軍としての慶喜卿』春江堂書店、1913年(大正2年)所収) 慶喜卿無二の愛妾たる時の俠客新門辰五郎の娘 - 3 - 《あとがき》 確かな資料がないというのがこれほどしんどいことだとは思いませんでした。というのが 正直な感想です。自供も物証もなく、関係者からの聞き込みもできないまま、数少ない状 況証拠と噂だけで犯人を捜し出すというような状況でした。 お芳については、確かなことがほとんどないということを証明したような結果となりまし た。今後、あまり研究する人もほとんどいないと思いますが、参考になれば嬉しいです。 東三日本史趣味 第2号 2016年5月14日発行 著者・発行者 伴野加津俊 - 4 -
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