ジンメルと人格性――心理主義の可能性

ジンメルと人格性――心理主義の可能性
九鬼一人
ヒューム的ふり
ジンメルは、新たに変容された主観概念にもとづき、アプリオリとして掴みなおした人
格概念を、自己のうちへと引き入れるというわざを成し遂げた(Fellmann,F.,1994,S.310)。
『貨
幣の哲学』のなかで、彼は人格性を意識内容の「相対的統一」と定義している
(Fellmann,F.,1994,S.310.)。相対的というのは、実体的な統一の代わりに、論理的に互いに矛
盾すらしている、多様な諸表象が束ねられる心理過程を含意している(Fellmann,F., 1994,
S.310-311.)。人格性は、もはや交換不可能な実体ではなく、その統一は、あまたに放散する
束である。
「魂の統一があまたに放散するとしても、それが総合されて初めて今再び、一個
の特定した魂と呼ぶことができるようになる」(Simmel,G.,1958, S.312.)。
まずこの人格性を雛型とする、
「ふり」(feign)をするさまを、ヒュームから引いておきた
い。ウィリアムズ(Williams,C.,1999,p.3)の言うように考察を一時中断し、迷路に陥ることを
回避する「不合理主義的」懐疑の態度として、ヒューム的「ふり」を捉えることにしよう。
とくに「現われるままの現象を肯定すると同時に、それを反実仮想的に把握する理性」、こ
れを「分散するふり」と呼ぶなら、ジンメルとの接点も見えてくる。
というのも、これは近代的な人格概念の刷新を意味しているからである。坂部恵が言う
ように、ある自律的〈人柄〉となることは、
「自我の理想としてのイデアールかつイマジネ
ひ
と
ールな〈他者 〉の〈ふり〉を〈まね〉〈まねび〉〈まなぶ〉、〈ひと〉の〈ふり〉を見てわが
〈ふり〉をなおす、
〈ふりつけ〉、すなわち内受容的・無限定的な直接性から想像的・象徴
ひ
と
的場において〈他者 〉へとのりこえ、そのいわば述語規定によって、みずからを限定する
ことなしにはありえない」1。つまりロック的な人格概念を換骨奪胎して、
「相対的統一」と
しての人格性による「ふり」に定位して、責任を改釈することができる。
ここで道徳的現象を把握する超越論的レベルと、道徳に対する反実仮想的把握の心理的
レベルとの、二つのレベルが区別可能である。例えば「痛みという概念を知らない部族」
にとって、
「痛みのふりを装う」ことはできない。痛みの直覚なくして、痛みについての反
実仮想は、没意味である。しかも痛みの反実仮想が、痛みの直覚から分岐しないのなら、
「ふ
り」をもち込むことができない。
「ふり」は、直覚と反実仮想との二つのレベルを前提にす
る。ジンメル的に言えば、あまたの態度に拡散しつつも、その間隙へ入り込んでくるのが
「ふり」なのである。道徳判断に即せば、さしずめ「ふり」の場合、痛みの直覚がなくし
ては、痛みの「ふり」ができないように、超越論的な美徳の現われがなければ美徳の「ふ
り」すらありえない 2。
1
2
坂部恵,2009(←1976), 86 ページ。
もとより美徳あるように見えることと美徳あることは事態として別ではなく、前者は「奥
1
ところで痛みの問題とは異なり道徳の場合なら、固有の機制が成り立つ。例えばセンは
ポジションたる、言わば「価値判断上の色眼鏡」を、或る種のものに限定することによっ
て、価値判断を客観的に把握しようとした。
「いくつかの見解の主観的恣意性を精査する文脈で、当該の見解が果たして、特殊な精
神的性向・特殊なタイプの不慣れ・推理の不自然な特徴に変数的特定を訴えることを通じ
てのみ、ポジション的客観性に合致したものにすることができるかどうか、ということを
調べる必要性が残る」(Sen, A. K.,2002, p.475.)。
つまりこのように考えれば、見かけの「主観性」 3/相対性と、道徳的性質の〈客観性〉
とは矛盾しない。というのも現象の「主観性」にもしかるべき理由があるからである。そ
の「主観性」を明確化していけば、
〈客観的〉な見解に到達できるというわけである。一般
に、或る社会的ポジションに視点を置いたとき、状況に関する評価は、それに拘束される
だろう。たとえそうであっても、ポジションを特定し、各々に分散した視点に扮すること
で、有意味な道徳的性質を総合すれば、
「評価者に関する不変性」を充たすような道徳原理
を、
〈客観的〉に想定することができよう。いや、単に超越論的次元の把握に収束するので
はなく、超越論的次元/心理的次元の言わば「綾取り」に、現実に絡まずにはいられない
両次元の跨ぎ越しを見定めることができよう。
痛みのふりは、主観的痛みの現われと相反することで、理解できる。方や道徳的なふり
は、美徳の現われの〔不在への〕背馳ということがらにととどまらず、客観的な道徳的判
断〔の不在〕(もとより実在論的に客観的性質に道徳判断の了解は限定されておらず、共同
体的な〈道徳的判断〉の間主観的一致というかたちをとることもある)への背馳という含意
を帯びてしまう。
ここでは道徳的実在論をとるのか否かという大問題は、棚上げにせざるをえないが、主
観的な美徳の現われをイマジネールに跨ぎ越し、彼方に客観に対応する道徳判断を認める
機制が「軽い」責任付与の対応物である。この機制を「分散するふり」と呼んだのであっ
た。ふりが可能であればこそ、美徳の現われへの背馳は、そのまま(社会的に統制される)
客観的な道徳的判断(歴史的アプリオリ)への背馳を含み込みながら、現実における有限責任
論を紡ぎだすのである。
歴史的アプリオリの次元
ジンメルの場合、アプリオリと言っても、心理的に構成されたものに引きつけられてい
ることに注意しなくてはならない。
行き」をもった後者の相貌である。ここでは詳しく論じる余裕はないが、美徳の基準(美徳
とはしかじかの様である)は、情念の教える経験に従って、アポステリオリに決まってくる
ものの、なお必然的に正しいと考える(そのことは水が H2O であることがアポステリオリに
決まってくるのと或る程度、類比的に説明できるであろう)。つまり生活世界での歴史的ア
プリオリである。
3 岡山からは太陽はまだ出ていない/東京では太陽はもう上った、という類の「主観性」を
念頭におかれたい。
2
「……価値は経済の形式と運動とのなかに入るためには、やはりまずは定在し、……定
在しなければなるまいに、という難問は、今や除去され、しかもその難問は、私たちと事
物とのあいだの距離として徴づけられた、あの〔論理の側から迫るのには、限界があると
いう〕心理学的な関係の洞察された意義に因由する」(Simmel,G.,1958,S.45.)。
『道徳科学序説』(Simmel,G.,1892-93, Bd,I, S.54)でジンメルは、当為とは「純粋に形式的
な性格」しかもっていないとする。当為が一種「心理学的機能」(Simmel,G.,1892-93,
Bd.II,S.310)を果たす点では、リッカートの「超越論的当為」と類似する。
他方リッカートとちがって、ジンメルが志向したのは、人間の学問における倫理と科学
の関係づける方向である。とくに価値評価の絶対性を否定する文脈で、この倫理に枠づけ
られた歴史的アプリオリは、決定的意味をもつ。ヴェーバーの価値前提が個人的であった
ことと並行的に、ジンメルは個人的倫理観から価値前提を選び取った。そのさいの倫理観
として「文化の諸要素を個性的に組み合わせる人格」の可能性が拓かれ、個人の自由 (『社
会分化論』Simmel,G.,1890, S.107)が措定される (廳茂,一九九五年,一四五頁)。
たしかに「人類たちの生はあらゆる瞬間において相変わらずゲゼルシャフトの生である
ということ、社会的な……というのはすなわち、個々人の相互作用のなかに一切の個別者
の被規定性を求める……考察方法はそのつどの瞬間に、なんらかの仕方で人類に対しても
適用されうるということが意識されるようになったこと、これが社会的な現存の形式と人
類一般という事実とを同一視する方向へ誘っていったのである」(Simmel,G.,1907, S.207)。
とはいえ、
「あらゆる善良な貴族階級は、他の人間に対してでも、外部から与えられた法に
対してでもなく、自分自身に対して責任があるという意識によって、彼らが特権を享受す
ることのみから免れる」(Simmel,G.,1907,S.246.)。ジンメルの場合、社会の枠が先取されて
いても、なお個人は貴族主義的な責任をふるうという、個人主義的/心理的裁量が重視さ
れているのである。
「ニーチェは、習俗や律法の外在的拘束から解放された「自立的な」存
在を「主権的個体」とよぶ。このような個人は、内側からの「彼の価値尺度」をもち、そ
のためには「
『運命に抗して』
」すらも闘う存在である。……結局約言すれば、自己への「責
フ
ル
ウ
任という異例の特権」を 許容された 主体ということである」(廳茂,一九九五年,二三八頁。
添え字引用者。)。
主体/人格は相互作用の織り合わせとしてあり、感覚の流れを超えた人格的同一性を成
す(Fellmann,F.,1994,S.311.)。心理的な相互関係をとおして産み出されてきた人格的統一は、
理論的・実践的世界の客観的契機となる……「人格が理論的・実践的世界の客観的契機と
して産み出される」(Simmel,G.,1958,S.79.)。
かくて相互作用は、実用的なものから、超越論的なものの次元へと分岐する 4のだが、実
4
ここでカント的な「実用的」pragmatisch について補足しておく。
「実用的」pragmatisch と
いう言葉にあてる訳語は数とおり考えられる。それは広義において、実践的〔たとえば
Kant,Bd. VII,S.189=15:115 ページでは夢との対比において「実際に」表象を与えるという含
みもある〕
・役立つ・実用的〔たとえば Kant,Bd.VII,S.214=15:151 ページ。〕を意味する一方
で、道徳的の対義語としても使われる〔Kant,Bd.VII,S.234f.,267=15:181,228 ページ。〕
。そも
3
用(際)的な次元に属するジンメルの経験的主観はカントの超越論的枠組みとは、異なってい
る。ジンメルは「自己貫徹性・機能的同化作用・感化・自己関係・あらゆる表象内容の範
囲内での自己溶融」に人格性を見出している(Simmel,G.,1923,S.204.)。それは対象を取りま
とめるカント的総合とは相違する。
ジンメルにおいて分岐してくる超越論的次元は、同一化と差異化という象徴的機能とし
て理解される。いずれにしても相互作用から主観的に演繹することによって、ジンメルの
人格性はカントのそれと様変わりしている。ジンメルは全認識形式を相互作用の変容によ
って捉えようとする。カテゴリーが棄却され、それに代わって、いまや生の形式が歴史的
アプリオリとなる(Fellmann,F.,1994,S.313.)。本論は、この心理的含意を最大限汲み取ろうと
するものである。
ジンメルの芸術の自律という考えは、新しい人格性の捉え方を可能にならしめた。この
考えは歴史概念に移行する。人格の統一は、ここでも歴史の現実における関係にとって指
導的カテゴリーとなる(Fellmann,F.,1994,S.317.)。これにさいして、ジンメルは歴史的客観化
をとおして、現代人の「支配」に終結をもたらすという目標を立てていた(Simmel,G.,1905,
S.VI.)。
「自然と歴史は、認識対象である人間を作りだす。だが認識主体である人間は、自然と
歴史を作りだす」(Simmel,G.,1905,S.VII.)。つまり歴史家=認識主体の自由は、決定された歴
史的現実という認識対象と結びつきうるかという案件とかかわるのである。つまり歴史解
釈の自由はいかに保証されるか、という問題である(Simmel,G.,1905,S.VII.)。このさい、ジン
メルでは、人格性というアプリオリは歴史家の役割を特徴づけるのみならず、歴史的現実
の構造はそれじしんには、拘束されてはいないのである(Fellmann,F.,1994,S.317.)。統一的に
構成する人格像という概念は、自己像によってその行為が動機づけられているかぎりでの
み、歴史的諸主体に当てはまる(Fellmann,F.,1994,S.317.)。彼らは歴史的現実を、まず何はさ
ておき象徴的に媒介された現実性あるものとして把握する(Fellmann,F.,1994,S.317-318.)。人
間は現実的な人格像を濃密にするかぎりにおいて、歴史的現実へと成りうる、という仕儀
なのである(Fellmann,F.,1994,S.318.)。
責任のインフレに抗して
ここで歴史的アプリオリの把握として、超越論的には全き理解に達しているにもかかわ
らず、心理的には恣意性を残した人格を考えられるのではないだろうか。ジンメルじしん
は人格的アプリオリのユートピー的次元を社会や歴史の方向にのみ展開するのではなくて、
そも実践的規則が「実用的な」といわれる場合、それは「幸福という動因にもとづく」
(Kant,Bd.IV,A806f./B834f. =6:90 ページ。)のであって、それに対応して pragmatisch は、思弁
的・理論的・生理的・道徳的・規律正しいとの対比において、怜悧(れいり)な(賢いこと。
利口なこと=clever Cf.wise)・器用な・目的を目指した・実践にかかわる意味ももつリッタ
ー哲学事典参照。Historisches Wörterbuch der Philosophie unter Mitwirkung von mehr als 700
Fachgelehrten in Verbindung mit Günther Bien ... [et al.] ; herausgegeben von Joachim Ritter
Schwabe, c1971-c2007,Völlig neubearbeitete Ausg. des "Wörterbuchs der philosophischen Begriffe"
von Rudolf EislerBd.7,S.1242.
4
個人的主観の方向にも引き戻したのであった(Fellmann,F.,1994,S.321)。ここでユートピー的
なものは「当為の形而上学」として機能し、そのなかで相互作用の原則は、きわめて純粋
なかたちで展開する(Fellmann,F.,1994,S.321.)。すなわち、人格のアプリオリが道徳的義務づ
けの現象を、自己意識から理解せしめる思考形式を準備する点に求めている
(Fellmann,F.,1994,S.321.)。
「当為とはいやしくも生を陵駕したり、もしくは生に対立したりするものではない。む
しろ生が生自身に意識されるところの、現実的なもののあり方そのものに他ならない」、こ
の意味で当為は「生の直観」(Simmel,G.,1918,S.156)と呼ばれる(Fellmann,F.,1994,S.321.)。当
為は定在と等根源的な所与であるとして、デカルト的 cogito を跨ぎ越している。なぜなら
他者が私たちをどう見るか、ということを私たちが欲する=他者の評価に沿った自己像を、
私たちは形成しているからである(Fellmann,F.,1994,S.321.)。したがって、サルトルのごとき
実存主義的な主観主義とはおよそ異なった様相を呈する。つまりジンメルは人格構成的機
能を社会的視点に帰する。
「私たちはことごとく、断片である。一般的人間の断片であるの
みならず、私たちじしんの断片でもある。私たちは――原理的に名づけられない――私た
ちじしんの個体性と唯一性の端緒であり、イデールな線で描写されるがごとき、私たちの
知覚可能な現実を取り巻いている。この断片を、とはいえ、私たちがおさおさ純粋でも、
まったきものではないことに対して他者の視線が補完として働く」(Simmel,G.,1922,S.25.)
(Fellmann,F.,1994,S.321-322)。個体性とイデアリテートは分離できない。普遍的なものは経
験的現存外部の超世界的絶対としてではなく、象徴的相互作用が閉じていないことの帰結
として、現われるのである(Fellmann,F.,1994,S.322)。されば自己像と他者像はたがいに支え
合い、イデールな人格は「主観がじしん、ないし対峙して認めるさい包摂する」カテゴリ
ーを形成する(Fellmann,F.,1994,S.322.)。ここで類型的な把握が生まれ、それが規範的機能を
獲得する。当為とは形而上学的な叡智的性格ではなく、象徴的な私を徴づけるのである
(Fellmann,F.,1994,S.322.)。道徳的義務づけを理想主義的・功利主義的道徳基礎から疎遠な仕
方でもとづけることを、ジンメルは試みる。自己像が内的形式の法則を意欲に服従させる
かぎりにおいて、自己像による義務づける基礎は象徴的性格をもっている
(Fellmann,F.,1994,S.322.)。この個人主義的道徳法則をめぐり、
〔有限責任論としての〕叙述倫
理と態度倫理とが、心情倫理に代わって現われる(Fellmann,F.,1994,S.323.) 。道徳はあらゆる
行為や言表で「私たちの歴史に対する責任」を経験的主観に課する象徴的形式として現わ
れるのである(Fellmann,F.,1994,S.323.)。ここでも示唆されるのは、一種の〔超越論的次元と
心理的次元との〕アンチノミーである。
ヒューム的「ふり」は、一種イデールな次元の役割存在と、経験的存在との分岐を前提
していた。人格はあまたに放散する契機の束であり、その含意として他者からの役割的捉
え返しを要求する。人格性とは、歴史的アプリオリに応じた、有限責任論的な役割存在で
ある。それは、認識を他者に照らして、引き受ける責任ある人格に他ならない。
翻って、リッカートが歴史的認識の定礎を実践的評価に置いたことが思い出される。認
5
識も価値判断の一種である、つまり判断は一種の態度決定である、と見なしてはどうだろ
うか。実際、文化科学の価値関係的手続きでは、対象のどの面を重視するかは、(超越論的
主観を包摂した)個々の認識主観に任せられる。主観に視点の自律性があるということは、
歴史記述が価値評価に委ねられているということである。すなわち部分的にせよ、「行為者
相関的」な判断の責任が、人格的決断に委ねられている。歴史家は、価値関係的手続きに
おいて「少なくとも彼が個別化的に対象に結びつけた一般的価値に対して、一定の態度を
とる」(Rickert,H.,1905,S.83-84)。つまり例えば政治史を書く歴史家は、政治という価値に一
定の意味を認めているがゆえに、政治史を書くのである。よって、「歴史はただ評価するも
のに対してのみ存在する」(Rickert,H.,1905,S.84) 。このように、歴史学を取り上げてみれば、
学知の根底に相対的な価値判断=歴史的アプリオリが食い込んでいるのである。このこと
はジンメルの場合、人格が鍵となって、認識の自由が保証されていた/裏返せば認識を引
き受けていたことと符合する。斜視をおそれずに言えば、超越論的な客観的道徳認識があ
るにもかかわらず、規範について葛藤せざるをえない人間像が埋め込まれているのである。
いな、超越的な次元の保持によって、罪を罪として認識しながら、心理的に罪を犯してし
まうという倒錯があるのである。この意味において経験的人格は、つねに罪に付きまとわ
れた(「行為者相関的モラル」にまみれた)存在である。
判断の一致は、例えば部分的に他者に情報の確かさを委ねる場合でさえ、その情報通の
選び方しても恣意性が残る。つねに可謬性・相対性がリッカート哲学には随伴する。
「Pは
真である」と言った後、
「Pは偽であると言うべきであった」と修正することがある、ちょ
うど訴訟に逆転判決があるように。誤りうることを自覚するところから、有限存在として
の人格のあり様が明らかとなる。この意味において経験的人格とは、リッカートにおいて
も歴史的アプリオリである。
繰り返しになるが、人格という束は他者から挿入される自己像である。この象徴的に徴
づけられた人格のなかに、心理的な役割が棲み込んでいる。束をなす当為の徴は、――イ
デールな次元に言及しているものの――アプリオリの歴史的刻印、つまり心理的負荷以上
を出ない。とするなら、個々の状況に放散して叙述や態度のかたちで統制される倫理は、
心情倫理との綾で成り立つ以上、勝義の責任倫理、無限責任論ではありえない。その倫理
は、個々の状況の他者との心理的相互作用による網の目であり、行為者相関的なさまを示
している。
ここでセンの言葉を思い出そう。規 範 は 対 象 と な る 他 者 に 応 じ て 、さ ま ざ ま に 対 応
が 変 わ り う る も の で あ る が 、相関性を斟酌する「行為者相関モラル」では、非帰結主義
的 (Sen,A.K.,1997,p.301)スキームがとられるのである。このことが成り立ちえたのは、相互
関係において行為を承認するという、ジンメルの心理主義がその下地にあったからである。
人格がかく、一種の対他的反照性において成り立つ心理的現象であるのならば、ジンメル
の倫理に役割存在に定位した有限責任論を見出せよう。それは責任倫理の枠を離れて、セ
ン的な「行為者相関モラル」に則すことを意味するのである。
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Persönlichkeitsbegriff
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