那智勝浦町昔懐かし話 - 那智勝浦町観光協会

那智勝浦町昔懐かし話
吉野
剛弘
早いもんで那智勝浦町の度真ん中、仲ノ町に生まれ育って53年。(勝浦にも仲ノ町とい
うところがあるのだ。今の観光桟橋あたりね)変わってしまった景色や子供の時にあった
ことなど今の若者に知ってもらいたいと大それた気持ちというか、こんなこともあったん
やでと言う軽い気持ちで僕の周りで、あった昔懐かしいことを短編小説風に書き記してお
きたいと無性に思ったわけであります。まあ、気軽につきあってやってください。それで
は、まず第一話。
第1話 『仮面ライダーがやってきたのだ。その1』
それは、僕が小学校2年生の時の話である。 「たけちゃーん。今度の日曜日仮面ライダ
ーの本郷猛が勝浦へ来るみたいやけどいっしょに会いに行くかん。」たけちゃんとは、僕
のことである。昔から剛弘なのでたけちゃんと呼ばれていた。「うん絶対いく。おいさん
かまんの。」友達の O 君のお父さんは勝浦の地元新聞の記者で白黒で写真を撮る勝浦では
ちょっと有名なおいさんだった。
「あ~かまんで。おいさん、本郷猛に取材するさか賢一といしょに連れったるわ。もしか
したらいっしょに写真撮れるかもしれへんで。」「おいさん。ほんまかん。そやから僕お
いさんのこと好きやねん。」と目一杯のおせいじをかましたったのである。そして、その
日曜日。勝浦の築地にある老舗旅館の2階の一室に僕ら3人は出かけた。本郷猛、いや仮
面ライダー1号はソファーに座って
「いや~。こんにちは。今日はよろしくお願いしますね」と挨拶。おいさん記者は、「こ
ちらこそ、よろしくお願いします。あっこの子は、うちの息子でこっちがその友達です」
と僕らを紹介してくれた。「そうですか。僕ら仮面ライダー好きかい」僕らは2人目を合
わせて「ほっほ本郷猛がしゃべってるぞ」と心の中でつぶやいた。「あっはい、大好きで
す。いつも仮面ライダー見てます。」と0君。僕ら2人は、好きどころか朝から晩まで仮
面ライターで仮面ライダースナックのカードを集めまくっていたほどである。それからし
ばらく、おいさん記者は、インタビューをしソファーに座っている本郷猛の写真を撮った
りしていた。そして本郷猛が「僕いっしょに写真とろうか。おいで」となんと0君をひざ
の上に座らせたのである。すかさずおいさん記者はシャッターをきった。
「さあ、もう次の撮影の準備があるからごめんね。これからも仮面ライダー応援頼みま
す。」と僕ら3人と握手してくれた。「今日はありがとうございました」と僕ら3人。そ
して、僕ら3人は1階に降り玄関先に出た。「くっそー。なんでおまえだけ写真とっても
らえたんや。なんでやねん。」と僕は本当に腹立ったが口にはせず顔はにこにこしておい
た。「いや~。良かったね。ほんま。あれ、サイクロン号おいたあるで」とおいさん。「う
わ~。ほんまや。すごー。」と僕と0君は駐車場に置いているサイクロン号に近づいた。
しばらく眺めたあと僕ら3人は帰路についた。サイクロン号を見てから僕と0君は0君家
に着くまで無言だった。なぜかって。駐車場に置かれていたサイクロン号のボディの一部
は木材でできており、ぽっかりと大きな穴があいていたからである。
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第1話終わり。
第2話 『仮面ライダーがやってきたのだ。その2』
(ダブルライダーとシオマネキング)
「ねえ、ねえ、たけちゃん。昨日の仮面ライダー見たかん。」勝浦小学校に登校中友人の
タコちゃんは、僕に尋ねた。僕の友人は変なあだ名の奴が多くタコちゃんは、名前のはじ
めに(た)が付き鼻が悪いんでいつもタコみたいに口をとがらせていたからタコちゃんで
ある。小学生はあだ名付けの名人である。 第1話にも書いたが、たけちゃんとは僕のこと
である。「あたりまえやん。勝浦特集やぞ。俺、本郷猛に握手してもろたんやぞ。見やん
わけないやん。」「そうやなぁ。たけちゃん、握手してしてもろたんやもんなぁ。」と、
なんのこちゃわからない理由に2人して納得したのである。「そやけど、1号と2号に追
っかけられたショッカーやけど、キーキー言いながら那智の滝の滝壺へ飛び降りた思った
ら浦島の忘帰洞に逃げるんやもんね。」とタコちゃん。「そうや、ショッカーの基地が忘
帰洞やもんね。びっくりしたわ。」僕らは撮影が那智の滝と浦島で行われたのは、小学生
のレーダービームで知っていたが、まさかそんな場面で登場するとは小学生の頭(普通の
下)では分からなかった。「でも、シオマネキングってなんかかっこええよなぁ~。潮を
まねく王様やぞ。(なんのこっちゃ)名前がええやん。」とたこちゃん。小学生の僕らに
はキングって付いたらなんかすごかった。かっこ良かったのである。野球のチームも仲ノ
町キングとかそんな名前が付いていた。「でも俺は、一文字隼人より本郷猛やなぁ。やっ
ぱり仮面ライダー1号やなぁ。」と僕。「俺は、一文字隼人やなぁ。男前やし、変身の仕
方かっこええやん。」とたこちゃん。そうこう言っているうちに学校に到着。ランドセル
を机の上に放り投げ朝の会が始まるまで昨日の仮面ライダーの放送のまねごっこ。タコち
ゃんがシオマネキング役。僕が仮面ライダー1 号。仮面ライダーがシオマネキングの顔面
にライダーパンチをくらわす場面。タコちゃんが「何か、たけちゃんの右手くさない。」
「 あ た り ま え や ん か 。 本 郷 猛 と 握 手 し て か ら 洗 っ て な い も ん 。 」
第2話終わり。
-2-
第3話 『祭りには、カチカチが欠かせないんやで』
「ワッショイ、カチカチ」「ワッショイ、カチカチ」皆さん、カチカチっ知ってるかなぁ
~。カチカチに凍った氷のことやないで。僕らの世代の勝浦のもんは、分かると思うけど
子供御輿の時に叩く拍子木(竹なので木やないけど)の様な物のことだ。もちろんカチカ
チと言うのか分らんし、正式な名前があるんだろうけど僕らはそう呼んでいた。簡単に説
明すると30センチくらいの竹の棒を真っ二つに縦に割り、その1枚ずつに肩ひもが通る
くらいに穴を開け肩からかけてちょうど左右の竹が腰あたりにくるように肩ひもを結んだ
物である。これを左右の手に持ち子供御輿を担いだ小学校の上級生の後に付き「ワッショ
イ」のかけ声のあとにカチカチと叩くのである。勝浦(旧勝浦町)には、1区から6区ま
であり1区大勝浦、2区脇入(わきいり)、3区仲の町(たけちゃん坊ちゃんの生まれ育
ったとこ)4区神明(しんめい)、5区北浜、6区築地がありそれぞれの地区に子供御輿
があった。(今もあると思うが)この子供御輿を各地区の小学生が担ぐのだが、僕らの時
は圧倒的に北浜と築地に小学生の数が多く我が仲の町と隣の脇入は、かわいそうなもんだ
った。いわゆる勝浦八幡神社例大祭の子供御輿である。この子供御輿の担ぎをランクで説
明すると1年生から3年生までは、カチカチ担当、4年生は優秀生1人(3年まででカチ
カチが一番うまかったスーパエリート)が区の名前の入った看板持ち、次に前後の御輿を
降ろした時の台持ち2人(エリート)あとの4年生はカチカチ、5年生、6年生は御輿担
ぎだった。僕ら3区は5、6年生が少ないときは4年でもスーパーエリートから順に神輿
担ぎになったこともある。いわゆるカチカチは、その後の神輿担ぎの登竜門であり皆必死
にやっていた。今はないと思うが、僕らは各区ともライバル意識が強く祭り前に1週間位
夕方から町中を神輿を担ぐ練習のために廻るのだが他の区の神輿とすれ違った時や、他の
区の子供神輿休憩所の前を通ったとき相手の子供神輿の前後左右に付いている角をへし折
っていた。だから1度は本番前までに祭りなので修理してくれたりするのだが、2回目は
さすがに修理してくれないので、本番当日4本きれいにそろっている神輿はなかったと思
う。どこの区も、はちまきで折れた角を結んでいた。そんなアホなこともしていた。もう
すぐ今年も勝浦八幡神社例大祭の時期である。今年は9月18日が本宮とのことである。
目を閉じると聞こえてくる。「ワッショイ、カチカチ」「ワッショイ、カチカチ」
第3話
終わり
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第4話 『ピンクの小屋』
はい、男性の皆様お待ちどう様でした。第4話は、勝浦の色っぽい話ですよ。
女性の皆様は、ちょつと我慢してくださいね。
これも僕らが小学生の時の話であります。では、では。
「なあ、なあ、タコちゃんとタケちゃん。」友達のナカシャが僕らの顔をながめながら話
しかけてきた。ナカシャは、名前が中嶋でナカシマが36回ぐらい変化してナカシャとな
った。僕らはあだ名付けの名人なのである。「なあ、桟橋の近くにピンクに塗った小屋あ
るやろあれなんか知ったあるか。」とナカシャ。「あ、あれか。横の壁もピンクのペンキ
で塗ったあるし。入り口もピンクのカーテン張ったあるんやで。この前、お母ちゃんにあ
のピンクの小屋何なんって聞いたやけど。『そんなんあんたら知らんでもええんやよ。』
って教えてくれなんだわ」とタコちゃん。「俺も何か知らんけど、おっちゃんらピンクの
カーテンから入っていって出てくる時みんな笑顔で出てくるらしいで。何かのお店かもし
れんど。」と僕。「俺の隣のおいちゃんに聞いたことあるけど大人のパラダイスっていう
てたで。」とナカシャ。「パラダイスってどういう意味なん。」とタコちゃんと僕。小学
生にはパラダイスは分からないのだ。
「今から見に行かへん」とナカシャ。今は午後5時、秋も終わりの頃なので薄暗い。僕ら
は、ナカシャの家から歩いて約5分のそのピンクの家の前まで行った。看板には「ピンク
ヌ〇ド」と書かれていて、スポットライトみたいので照らされている。入り口は、ピンク
の厚めのカーテンだけ。そのカーテンが少しだけ横にずれていてかすかに中が見えた。真
ん中に丸いステージみたいなのがありその周りに椅子がその丸いステージに沿っていくつ
か並んでいた。浴衣姿のおっちゃんが4、5人ステージから一番前の席に並んで座ってい
た。ステージ上では、これまたピンクの布みたいなのを着たおばちゃんが寝そべっていた。
僕らは、それをじっと眺めていたが、突然後ろから「こら、おまえら何しよんや。ここは、
大人のパラダイスやぞ。子供は来たらあかんねぞ」と声がした。「パラダイス」そこに立
っていたのは、ナカシャ家の隣のおっちゃんだった。
と、言うことで、勝浦のバスターミナルの近くの N 商店の隣には昔、「ピンクヌ〇ド」と
いうストリッ〇小屋があったというお話である。今は空地になっている。ちなみに僕は中
に入ったことは無い。大人になる前に無くなってしまった。また現在勝浦には、風〇関係
のお店はございません。念のため。
第4話終わり。
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第5話 『行商のおばちゃん』
「なんぞや、かんぞや、いらんかいのし~。」チリン、チリン。
今日も行商のおばちゃんは、ほっかむりをし、もんぺと長靴を履き大きな呼び鈴を付けた
リヤカーに平天とかの天ぷらやコロッケ、アジとかの小魚、イラギ(さめ)の干物なんか
を氷の入った木の箱にきれいに並べてやってきた。標準語に略すと「なんでもありますよ。
なにか買ってくれませんか。」となるだろうか。おばちゃんは、僕ら小学生から言うたら
おばあちゃんの年やった。勝浦小学校の下に魚屋を構えていたが、それを息子夫婦にまか
し、いつも勝浦町内(1区から6区)まで廻っていた。「おばちゃん、イワシあるかん。」
「ああ、あるで。今日のは、脂のっててうまいで。まぐろの刺身はいらんかん。」「そう
やのぉ、もろとこかいな。」お得意さんとのいつもの会話だ。がに股歩きのおばちゃんは、
歩くのがあまり早くない。だから町内廻るのに朝出ても店に帰ってくるのは夕方近くにな
る。でもおばちゃんの長年のファンは町内に多く、店に帰ってくる時は、いくつかの木箱
は、ほとんどからっぽになっている。おばちゃんは、若いときから早朝魚市場へ出向きそ
の日の魚を仕入れていた。おばちゃんの海産物を選ぶ眼は、そんじょそこらのもんには、
かなわない。雨の日以外おばちゃんは、一年中行商に出かけていた。「たけちゃん、おば
ちゃん来たから、アジ3びきとコロッケ6つ買うきて。」とおかあちゃん。おばちゃん手
作りのコロッケもうまかった。「うん、わかった。買うてくるわ」と僕は、外に出ておば
ちゃんのリヤカーのそばまで行く。「おばちゃん、アジ3びきとコロッケ6つちょうだい。」
「たけちゃん、いつもおおきによ。今日のアジもうまいで。塩焼きにするんかいの。刺身
でもいけるでっておかあちゃんに言うてよ」「わかった。おおきに」と僕。お金を受け取
ったおばちゃんは、しわくちゃの陽にやけた顔で「おおきにね。また、たのむよ。」とリ
ヤカーを押し始めた。僕ら勝浦小学校の生徒は、ほとんど知っていた。あの名セリフを。
「なんぞや、かんぞや、いらんかいのし~。」チリン、チリン。
第5話終わり
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第6話 『ハマチの釣り堀』
僕の書くこのシリーズには、小学生の時の事が多いがやはりその時期が一番多感で思い出
に残っているからだ。今回も小学生時代の話。
「たけひろ、ハマチの釣り堀つれったろか。」「ほんま、いくわ。お母ちゃん、お父ちゃ
んハマチの釣り堀連れてってくれるって。今晩のおかずいらんで~。」「タケちゃん、あ
んた、いつもそう言うて釣ってきたことないやん。」「あほいえ、今日はちゃうで。いつ
ものタケちゃんちゃうで、なんか釣れるような気がするんや。まあ、楽しみにしときなや。」
「はいはい、刺身包丁研いでまっとくわ。」この僕にこの父母である。関西の親子である。
会話がすでに漫才だ。
僕が生まれたのは、昭和38年だが、昭和30年代はじめ頃から40年代終わり頃までは、
新婚旅行や観光旅行のブームで伊豆、箱根、熱海、南紀白浜そして勝浦と新婚さんや観光
客でいっぱいやった時期である。勝浦も僕が小学生くらいの時は夕方になると浴衣を着た
観光客や新婚さんが町中を行き来していた。そんな中今のバスターミナル前の M 電気店の
横あたりにハマチの釣り堀があった。平屋建ての小さな体育館みたいな建物の中に25メ
ートルプール(楕円形だが)の様な、いけすがありその中にたくさんのハマチが時計回り
に泳いでいた。それを、一人30分300円(子供も大人も一緒)の 料金を払い針だけ付
いた竹竿で泳いでいるハマチをひっかけて釣り上げる仕組みだった。30分以内に釣り上
げたハマチは、全部持って帰れる。その日もお父ちゃんに連れて行ってもらい僕は出かけ
た。入り口のおっちゃんに600円払って釣り竿とバケツもらって、いけすに近づいた。
お父ちゃんの黒縁めがねの奥の眼がきらっと光った(ように見えた)「さあ、ハマッちゃ
ん、かかってや~。賢いハマッちゃんかかってや~。」とお父ちゃんは、戦闘態勢に入っ
ている。僕も負けずに戦闘態勢に。
「ハマッちゃん、かかってや~。お父ちゃんとこより、僕とこかかってや~。」しばらく
してお父ちゃんが、釣り上げた。「どうや、お母ちゃん喜ぶで~。」
30分やってお父ちゃん1本、僕は無し。そんなに簡単にハマチはかからない。ハマチも
賢いのだ。帰ってその日の晩ご飯。ハマチの刺身を前にして普通のお父ちゃんやったら「ハ
マチは、出世魚やから、たけひろもハマチに負けんぐらい賢くならなあかんぞ」とか言う
けど、うちのお父ちゃんのありがたいお言葉。「これハマチやなくてメバチマグロやった
らもっとええのになぁ~。」さすが、僕のお父ちゃんや~。
第6話終わり
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第7話 『和道流博正会勝浦支部』
始めにこの話は、僕の記憶に基づき書いた短編小説であり、当時お世話になった諸先輩方
の記憶と異なる事があることをあらかじめご了承ください。
「なあ、タコちゃん、山ちゃん今日は、K 川先生来んのかなぁ~。」タコちゃんは、もう
おなじみの T 君であり、山ちゃんは、名字に山が付くのでそのまま山ちゃんである。「さ
ぁ~。まだ7時5分やから分からんで~。」とタコちゃん。僕の小学6年生の時の話であ
る。当時勝浦小学校の下のグランド(通用門から上がっていき今のプールのある左奥、お
寺側)に木造立て2階の校舎跡の建物があり2階が家政学校、1階の1部屋が空手道場、
もう一部屋が剣道道場に借りられていた。空手道場つまり和道流博正会勝浦支部の道場で
K 川先生はそこの勝浦支部長、僕らは生徒だった。僕のお父ちゃんも大学時代より空手を
やっており K 先生と同じマグロの仲買いだったので、K 川先生、Y 木さん、R 野さん、K
郡さん、H 中さんたち先生方といっしょにこの道場で空手を教える役だった。生徒は、全
部で20人くらいいただろうか。僕は小学4年から6年の終わりまで習い1級(茶帯)、
タコちゃんと山ちゃんは僕より1年早く始めており初段(黒帯)だった。「ガラガラ、ド
ンドンドン」入り口のドアが開いて K 川先生がやってきた。K 川先生は、背は低いのだが、
ものすごい筋肉質で頭髪はなく、眼光が鋭くちょっと猫背気味に歩くので、ものすごい迫
力だった。もちろん黒帯でその黒帯も所々色がはげており貫禄十分、いつも竹刀をもって
僕らを教えていた。本気で叩かれた。普段は非常にやさしく冗談も言う先生なのだが、い
ざ稽古となると目つきが変わり戦闘態勢に入ったゴリラに変わる。
まるで大魔神が変身するときのようである。以前僕らの昇級試験に付いてきてくれた K 川
先生は見本として他の支部の有段者の若者と組み手試合をやって見せてくれたが、K 川先
生は暑くなると胴着からと頭髪のない頭から湯気が上がる。試合の途中相手がちょっとふ
ざけた格好をとった。
初めは、おおめに見ていた K 川先生だが、何度もふざけた態度を見せる相手の若造に中
段突きと蹴りを一発。相手は壁際までぶっ飛び、気絶してしまった。それを見ていた僕ら
生徒は、K 川先生だけには、間違ってもふざけた態度は取るまいと改めて心に誓った。K
川先生は、空手の練習日で無い時も、毎日仲買の仕事が終わったあと道場の外にぶら下げ
たサンドバックで突きの練習をしていた努力家であった。そのサンドバックには、所々赤
く血が付いておりそのぐらい毎日練習していた。この道場はこの校舎跡が取り壊されたと
同時に終わったが、形を変えてスポーツ少年団の様な形で那智勝浦町でも空手を習ってい
る子供たちがいると聞いている。中学入学と同時にやめてしまった僕だが今でもその道場
のことを思い出すことがある。良き思い出である。
第7話終わり
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第8話 『タケちゃん頑張る(見下す奴は許さへんねで~)1』
今回は番外編という形で自分に合ったことを書きます。少し自慢話になるけどご勘弁を。
これも小学生の時の話です。
僕は、昔から自分が正しいと思えば年上だろうが目上だろうが相手がどんな立場の人であ
れ自分の意見を貫き通す性格だった。もちろん論破される時もある。そんな時は素直に謝
るが、相手が確実に間違っているのに初めから相手に合わせるとかしなかった。しなかっ
たというか今もそうなので、職場でもよく上司とやりあう。生意気な奴だったと思う。で
も社会では、自分の意見を貫き通すばかりでは、生きていけない。難しい世の中だ。また、
弱い者いじめも許せない性格だった。決して僕はケンカが強かった訳でもないし頭が良か
ったわけでもないが、人を格好や癖とかで見下す(いじめたり、からかったり)する奴は
許せなかった。だからクラスに何をしても、どんぐさい奴っているじゃないですか。1人
くらいは。僕の小学校の時もいた。そいつは親父が出稼ぎで家が貧乏で少しきたない服を
着ていて勉強もできず運動音痴。ましてケンカも弱かった。だから何人かから、いじめら
れていた。そいつと僕は特に友達とかではなかったがたまに話をしていた。ある日そいつ
(S 君)がどう考えても悪くないのに悪いように何人かにいじめられていた。僕はそうい
うのが許せない。いじめてる奴らに「やめたれよ。こいつ悪ないやん。」と僕は S 君の前
に立った「なんや、おまえこいつの友達か。」「友達ちゃうけど、こいつ悪ないやん。な
んでそんなに馬鹿にするんな。あかんと思わんのか。やめたれや」といじめっ子の一人の
腕を取った。
いじめっ子は僕が大声で言ったのでいじめるのをやめた。「おぼえとけよ」と教室の外へ
出て行った。それからは、いじめの標的が僕に移った。僕はいじめられてる意識はなかっ
た。タコちゃんとかナカシャとか何人かの友達と普通に遊んでいたがときどきそのいじめ
っ子らに嫌がらせを言われたりした。僕は相手にしなかったが、ある時あんまりしつこい
んでケンカになった。そいつらはいじめっ子の友達とも一緒に来てて相手は約20人。こ
っちは僕一人。初め僕は誰かがなぐりかかってくるまでじっと立っていた。それまではか
っこ良かった。でも映画や無いやから勝つわけ無いやん。僕は家まで走って逃げた。けど
一発も殴られなかった。走るのはものすごく早かった。いじめっ子は後を追っかけてきて
僕のうちの玄関のドアに小石を投げて逃げてった。僕はお父ちゃんと、おじいちゃんに2
0対1でケンカしたことを言った。明治生まれの頑固なおじいちゃんと空手をやっていた
お父ちゃんに「それでこそ男や、ようやった」とほめられると思った。2人のお言葉「2
0対1やって。アホかおまえ。」
第8話おわり
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第9話 『タケちゃん頑張る(見下す奴は許さへんねで~)2』
このシリーズ NO.2 である。初めこの2の話を書こうと思って書き始めたら前置きだけで
8話になってしまった。だからこの2が初めから書きたかった内容である。
小学6年生の時の話である。僕らの勝浦小学校もご多分に漏れず秋に運動会があった。運
動会の目玉種目に6年生のクラス対抗100m走があった。僕のお父ちゃんは、若い頃短
距離で国体へ何回も出てて和歌山で一番早かったらしくその血をひいて僕は、短距離走は
幼稚園のときから小学校卒業までほとんど1番だった。勝浦町民体育大会でも、うちの仲
の町は子供が少なかったのでリレーで一つ上の学年の子供と走ってもぶっちぎりで抜かす
ぐらいだった。(自慢たらっしくてすいません。でも事実です)。話を元に戻そう。その
クラス対抗100m 走だがクラスで1人選ばれる訳だが、5クラスあり1組は大勝浦に住
んでいたトシヤ君(彼は造船所のボンボンででもそれを決して自慢せずええ奴やった。今
も友人である。彼も走るのが速かった)2組山ちゃん。(僕と友人で空手仲間、電気屋の
息子で壊れたラジオの修理なんか朝飯前。彼も速かった。)3組ケイちゃん。(旧勝浦地
区の外、朝日町に住んでいた。昔からスポーツ抜群、勉強もできて女の子に、もてもてだ
った。現在某役場の某課の課長。偉なったなぁ~。僕の中では勝浦で2番目に速い6年生)
4組 N 戸君。昔から野球ばっかりスパルタ教育を受けていた。まるで星ひゅうまみたいな
男。(なんか女の子にもてたし偉そうやったんで僕は嫌いやった。ごめん。でもぶっちぎ
りで速かった。僕の中では勝浦の6年生で一番速い男。勝浦のボルト。)そして5組。タ
ケちゃん。つまり何故か勝浦で速い6年生が5名集まったのである。多分テレビ中継があ
ったらリオオリンピック男子100決勝までは、いかないが(あたりまえやん)おもろか
ったと思う。スタート前に本人達を前にして N 戸君が「この競争、俺が1番、ケイちゃん
が2番、3番はトシヤ君か山ちゃん、そして吉野はビリやね」と大きな声で抜かしやがっ
た。
他のみんなも「そうやなぁ~。」と言って頷いた。「吉野はビリ」他のメンバーは君付け
やのに俺だけ呼び捨て。「許さん。見とれや。N戸。他のメンバーに負けてもかまんけど
おまえだけには絶対負けへん。見下す奴は絶対ゆるさへんねで~。」とタケちゃんは、大
魔神の様に変身したのである。
そしてスタート。「いちについて~。用~意」バーン。ピストルの音と同時にゴール目指
して駈けだした。僕の横には人がいない。気配で分かる。ぶっちぎりのタケちゃん1番。
2番ケイちゃん。3番トシヤ君。4番N戸。5番山ちゃん。僕は、1番の旗の所に座った。
N 戸が近づいてきて「吉野、速いなぁ。すごいね~。」「まあね。」と僕。ここでもまだ
吉野である。「吉野様と呼べ。吉野様と」と心の中で思った。最後に一言「人を見下す奴
には天罰がくだされるんやで~。正義は必ず最後に勝つんやで~。」
第9話終わり
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第10話 『私立
勝浦幼稚園』
記念すべき第10話である。小学生の時の話が多いが今回はもう少し遡って見ることにす
る。幼稚園の時の話。
「はーるよこい。はーやくこい。あーるきはじめたちぃちゃんが~。」
昭和40年代中頃、当時那智勝浦町には幼稚園、保育所がいくつかあったが旧勝浦町(1
区から6区)の子供達の多くは、勝浦幼稚園に通っていた。3歳で赤組、4歳で白組、5
歳で青組だった。青組には、その歳から入園してきた子供のために黄組もあった。普通な
ら3歳の赤組から入園するのたが、タケちゃんは、白組から入園している。小学生の時、
お母ちゃんに「タコちゃんや、ナカシャや山ちゃん、トシヤ君は赤組から入園してるのにな
んで僕だけ白組なん。」と聞いたことがあるが、お母ちゃんいわく。「お母ちゃんらもタ
コちゃんらみたいに赤組から入れよう思うて、タケちゃんを幼稚園の面接つれていったん
やけど、『吉野さんとこの子供さんは申し訳ありませんが、あまりにも手に負えないので
来年もう一度面接に来てくれませんか』って言われて入れてもらえなんだんや」「お母ち
ゃん、僕そんなに悪かったんか。」「あんた、体験入園の時先生らに鼻○そ付け廻るし先
生のスカートめくったりかなりアホなことしたらしいで~。」と言うわけで僕の幼稚園生
活は2年間だったが、青組の時の園芸会。園芸会は、毎年3月頃あったと思うのだが青組
の演目では、「王様とその仲間達(仮称、すいません、正確なタイトル覚えてません)」
で何故かトシヤ君は、きれいな衣装とマントと王冠をかぶった王様で椅子にふんぞりかえ
る役。そのそばでおいしそうな料理を王様に運び膝まづいて王様に差し出すやりがいのあ
る(なんでやねん!!)家来の役のタケちゃんとナカシャ。もう幼稚園の時から差がつい
てたのよ。 トシヤ君。そして卒園メイン演目。「春よこい」。タコちゃんとケンタンは背
が小さいのでサル役。僕とナカシャと山ちゃんと N 谷君との4人は、背が高かったので熊
の役。そして主人公の子供達の4人は、さゆりちゃんと、りかちゃんの女の子と当時建設
会社のボンボンのハマっちゃん。
そしてトシヤ君。春を探しに山に出かけた主人公の4人がサルや熊に順に出会いサルや熊
は主人公にエサもらっていっしょに春を探すというストーリー。
僕らの出番。熊役の僕らは縦に4人並び「おじょうちゃんたち、僕たちもいっしょに春を
探しましょう。エサをくれたら一緒に探しましょう」と4人で言う。トシヤ君が答える。
「そしたら、やるから付いてこい」と僕ら熊4匹にえさを渡す。僕らは主人公の後につき
一緒に春を探しに行く。というすばらしいストーリーである。って何が「そしたら、やる
からついてこい」や。ええかげんにせえよ。トシヤ君。笑。あなたのおかげで未だに僕に
は、春が訪れていません。
追記
現在勝浦幼稚園は、残念なことに閉園し福祉児童施設に代わっております。何年か
前、白組の時の先生に約45年ぶりに仕事で偶然再会しました。なんと勝浦に住んでいて
お元気でした。僕のこと覚えていてくれたことに感謝します。感動で泣きそうでした。
第10話おわり
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第11話 『勝浦の子供達よスイカ氷に誇りをもて』
たまには食べ物の話を。
「うって~。うって~。おばちゃんうって~。」勝浦の子供達は昔から駄菓子の玄関を入
るときは、この言葉を言う。売ってください、という意味。勝浦の子供達は行儀がよいの
だ。(ほんまかなぁ~。)「はい、はい、何にするんかいのお~。」駄菓子屋のおばちゃ
んは店の奥から現れる。僕らの子供の時は、勝浦小学校の入り口の所にイトウ、入り口の
右側忠魂碑の隣にユミネ、 そして今の紀陽銀行の近くにこれまたイトウという駄菓子屋が
あった。小学校終わって家に帰り、ランドセル放り投げてお母ちゃんにもらった10円玉
いくつか握って駄菓子屋へ行く。僕らタケちゃん、ナカシャ、タコちゃんの仲の町3馬鹿
トリオは、ユミネ派だった。理由は特にない。「なあ、ナカシャ、タコちゃん誘ってスイ
カ氷食わへん」「ああ、ええねぇ。」僕らは5段ギアの自転車「ライダー号」でユミネに
向かう。スイカ氷というのは、スイカを食べるときのあの形のステンレスの枠に氷を受け
て棒状に割った竹を横から刺しその上にまたまた氷をかけてそのスイカの形をした枠を左
右から力いつばい押してあのスイカの形にする氷である。食べやすいように竹の棒が刺さ
っておりそれをもって食べる。この氷の外側に緑色のシロップをかけ、内側に赤のシロッ
プをかけるとスイカ氷である。これには、裏メニューがあって、外側に緑のシロップ、内
側にレモン味の黄色のシロップをかけると黄色のスイカ氷である。大人になって聞いたの
だがこのスイカ氷全国で勝浦にしかないとのこと。(ほんまか嘘かわかりません。)だか
ら「勝浦の子供達よ。スイカ氷に誇りをもて」と僕は声を大にして言いたい。勝浦の名物
やぞ。今は氷というと底のくぼんだガラスの皿に氷をかいてシロップをかけたり、あんこ
を乗せたりして食べる。そして、これを都会のマダムや OL 達はフラッペとぬかしやがる。
(おっと汚い言葉をはいてしまった。すいません。)僕らの子供の時の駄菓子屋の氷はガ
ラスの皿の氷は無くウエハースの皿にのせた氷か、このスイカ氷だった。何年か前に仕事
柄、東京で地方のアイスクリームフェアというものがあつて、特別にスイカ氷で紀陽銀行
の近くのイトウさんに出店していただいたことがある。ものすごく好評だったと覚えてい
る。今は、残念ながら僕が知っていた駄菓子屋は、その紀陽銀行の近くのイトウしか残っ
ていないが、スイカ氷は今もあるらしい。ぜひ皆さん食べてみてください。食べ方もコツ
があり途中でぽろつと棒から氷が落ちる時があるんでご注意を。同じ所ばかり食べずあら
ゆる方向から真ん中に向かって食べてください。今もイトウから聞こえる。「うって~。う
って~。おばちゃんうって~。」
第11話終わり
- 11 -
第12話『勝浦は、昔サンマで有名やったんやで』
勝浦に生まれ育った僕は、実家が、ひいじいちゃんの時代より約100年続くマグロの仲
買で、マグロによって僕は大きくなったと言っても過言ではない。 実家は今、弟が継いで
いるが、そのおかげで僕は観光の仕事に従事している。
仕事柄、勝浦の恩人というか巨匠にお話を伺うこともあるのだが、今回はTさんの話を元
に勝浦の漁業のことを書きたいと思う。
明治、大正時代は、実は勝浦ではサンマ漁が盛んで、漁法は網を使った追い込み漁だった。
「勝浦のサンマ船に乗らなければ漁師やない」とまでいわれた程サンマ漁が盛んだった。
勝浦の駅前に佐藤春夫のサンマの碑があるがそれゆえんだろうか。明治末期になると勝浦
に動力船が誕生。これでサンマやカツオなどが採られていた。大正時代初めのマグロ漁船
は帆を付けた櫓船(ろせん)で非常に危険な漁だった。その後昭和初期には、エンジン付
き木造船が建造され、カツオ1本づりとマグロの延縄漁法が兼業で行われていた。このこ
ろから船も大型化されていく。これが勝浦での本格的なマグロ漁のはじまりである。
戦後まもなくも勝浦のサンマ漁は大量続きであったが、東北の三陸沖で棒受網漁によるサ
ンマ漁が行われるようになり勝浦のサンマ漁は衰退していく。その陰でサンマ漁からマグ
ロ漁に移る漁師が多くなってきた。勝浦のマグロ漁も船の大型化また漁法の進化により盛
んになっていった。そして水揚げ高も増え延縄漁法による生まぐろ水揚げ高日本一の町に
なっていくのである。
つまり、上記の通り勝浦は戦後まもなくまでサンマで有名だったのである。
今は、勝浦に揚がるサンマは東北地方で採れるサンマみたいに脂がのっているサンマでは
なく東北から勝浦に海流にのってやってくるまでに脂が落ちている
形も一回り小さいサンマである。脂があまりないのでサンマ寿司にできるし、一夜干しに
もなる。次に僕が小学生の時の話。先に書いたが、僕の家は祖父、祖母、父、母、僕、弟
2人の7人家族という大所帯だった。毎日夕方5時に家族全員で大きなテーブルで正座し
夕食を食べる。台所の隣は洗面所だった。
その日のおかずはサンマの一夜干し。僕たちは「やっぱり、サンマはうまいのう。今日の
は特にうまいね」とサンマを味わっていた。僕は、サンマの骨が苦手で、しっかり骨を取
ってたべる。すると明治生まれの頑固一徹のおじいちゃんが「たけひろ、おまえ魚屋の子
供がサンマ食べるのに骨ら取りやるんやない。おじいちゃん見ててみ、こうやって頭から
かぶりつくんや。」とおじいちゃんは、頭も取らずサンマにかぶりついて食べて見せた。
「うん、おじいちゃん、わかつた。こうやろ」僕も、頭からかぶりついた。「そうや。そ
れでこそ勝浦の子供や。魚屋の子や」そういっておじいちゃんは、サンマの一夜干しを何
本か食べた。しばらくしておじいちゃんは、無言で立ち上がり隣の洗面所の方に行った。
しはらくするとおじいちゃんの声が聞こえた。「ごほ、ごほ、おーい、悪いけど背中叩い
てくれ、骨ささったわ。ごほ、ごほ」僕らはサンマを食べる手を休め笑い転げた。「おじ
いちゃん、さすが俺のおじいちゃんや。魚屋のおじいちゃんや。」 なんでやねん。
第 12話終わり
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第13話『第1回まぐろ祭り。その1』
今回より僕が携わってきたイベントに関し後世に伝えるために(大げさやけど、語り伝え
てもらう為に)覚えている事を書きます。但し記憶なので事実と違っている場合もあるこ
とをあらかじめご了承ください。また、すべて実名で書かせていただきます、ご了承くだ
さい。
僕は、平成5年の12月に那智勝浦町観光協会で働くようになった。当時観光協会は、今
の海産物センターの3階を借りていて湯浅専務理事、中村女史、久保女史、そして僕の4
名が常勤で会長は中村紘一郎会長だった。会長は協会に用があるときに来られるという感
じだった。僕が入社して年があけた平成6年の初めのある日、観光協会に会長が来られて
「前から思っていたんやけど、勝浦は生まぐろが有名や。そやけど、このまぐろに関する
イベントが無い。もっともっと全国の人に勝浦の生まぐろを知ってもらうためにまぐろの
イベントをやりたいと思ってるんや。もうすでに漁協の組合長や魚商の濱田理事長に話し
てるとこや」とまぐろのイベント開催について初めて話された。それから何日かして和歌
山にある日本工宣という企画会社の斉藤さんが、観光協会に来られ会長、僕と湯浅専務と
で当時の魚商、漁協、県鰹鮪漁業協同組合、旅館組合、役場(水産振興会)、民宿組合、
商工会を周り再度中村会長の意志を伝え、承諾をいただき上記8団体共催で10月第4土
曜日に「第1回まぐろ祭り」を魚市場で午前中開催することとなった。町の団体で力を合
わせてイベントを行うという意味で共催の形を取った。実は、このまぐろ祭りは「まぐろ
祭り」と書く。生まぐろにこだわる所からあえて「マグロ」と書かず「まぐろ」と書く。
1回目から携わった方々のこだわりである。このまぐろ祭りには、まぐろ鍋が使われマグ
ロ汁が無料配布されるが、白浜町にステンレス製の舟形の鍋に魚介類を入れて作る海人鍋
がある。これを僕ら観光協会の職員と日本工宣の斉藤さんと、町観光産業課の中地さんと
で視察に行き、どうせ作るなら日本一のまぐろ鍋をつくろやないかと三重県の業者に頼み、
あのまぐろの形をしたまぐろ鍋が生まれたのである。制作費約100万。制作日数約3ヶ
月。約2500人分のまぐろ汁ができる。底に3つのバーナーを備えたまぐろの形のステ
ンレスの板を張った風呂みたいになっている。約22年使っている。まだまだ現役である。
このまぐろ汁に合わせ、勝浦らしいまぐろ料理を作ろうやないかと当時の中之島の上田調
理長を会長とした紀南調理師会の皆さん(勝浦だけやなく南紀地方の宿泊施設の調理長の
集まり)が検討を重ねまぐろ汁が生まれたのである。勝浦のオリジナル料理なんやで。ま
ぐろ汁は、まぐろ祭りの時に生まれたんやで。
第 13話終わり、第14話に続く。
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第14話『第1回まぐろ祭り。その2』
やはり、まぐろ祭りの事を書き出すと1話で終わらすつもりが、終わらない。よって続き
を書きます。
まぐろ汁は、今は前もって作ったまぐろのつみれを冷凍させたものを使っているが最初の
頃はまぐろ祭りの前日から上田調理長が2500人分のつみれをミンチ状で夜通し作りそ
のミンチを10個くらいの樽につめて中之島からまぐろ祭りの始まる早朝に対岸の魚市場
に連絡船で運ばれスタッフが道具で一個一個団子にしまぐろ鍋に入れていた。今のまぐろ
汁もうまいが、このときのまぐろ汁は格別にうまかった。また、一頭造りも「一刀造り」
と書いたりするが生まぐろ1本をまるまる捌くことから「一頭造り」と言う書き方にこだ
わっている。そして、まぐろ祭りのテーマソング「紀州まぐろ節」も誕生した。生まぐろ
販売も、藤紀和会の踊りも、色川茶サービス等も1回目から続いている。
実は、このまぐろ祭りはたくさんの皆さんに支えられて今のまぐろ祭りまで発展したのだ
が、この第1回のまぐろ祭りの企画書を作ったのは僕と観光産業課の中地さんと日本工宣
の斉藤さんの3人である。(自慢ではないがまぐろ祭りの企画を作ったのは僕ら3人だと
声を大にして言いたい。)だから僕に取っては子供みたいなものであるし、まぐろ祭りと
ともに歩んできたといっても過言ではない。話もどして、第1回目のまぐろ祭りだが、こ
れも実はの話だが、「あげいん熊野詣」と同じ日に行ったのである。午前中に魚市場で「第
1回まぐろ祭り」午後は那智山で「あげいん熊野詣」という今思うと「ようやったなぁ」
と思う。なんと、まぐろ祭りでは熊野那智大社の祈願祭と那智山青岸渡寺の高木副住職を
はじめとした山伏の皆さんによる大護摩祈祷を魚市場の会場で行ったのである。大護摩祈
祷の煙が会場内の火災報知器を鳴らし大変だったのも思い出である。山伏の皆さんはまぐ
ろ祭りが終わったらマイクロバスで那智山へ直行。あげいんの大護摩祈祷を行うというハ
ードスケジュールであったが、どちらも大成功であった。第1回まぐろ祭りより本年で2
3年。最初の2、3年は10月の第4土曜日、4回目頃から10回目頃までは2月第4土
曜日、それ以降は1月の最終土曜日となっている。最初は来場者5000人くらいだった
が生まぐろの町の「まぐろ祭り」として全国に定着して今は全国より1万5000人来場
する。近郊の来場者も多いが、それ以上の県外からの来場も多くまたリピーターも多いと
確信する。これがまぐろ祭り誕生の話である。僕は第1回より23回まぐろ祭り担当責任
者として携わってきた。いろいろな壁がありそれを各協力者の皆さんのお力を借り乗り越
えてきた。人と人のつながり。「吉野が言うんやったら力貸そか。」と言って協力してい
ただいた方々。本当に感謝しています。勝浦の子供たちよ。どうかこのまぐろ祭りを30
回、40回と続け、そしてもっともっと生まぐろの町那智勝浦町を全国否全世界に広げて
なぁ~。おっちゃんも頑張るからなあ~。
第14話おわり
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第15話『勝浦温泉花火大会の中止
1』
僕が携わったイベントとしてやはり花火大会の事は避けられない。多分この話を書くこと
により反感を買うだろう。しかし、それでは、当時いっしょにやっていた各団体の皆さん、
諸先輩達が自分たちの都合で花火大会をやめてしまったと思われ続けるだろう。事実を誰
かが書かなくてはいけないと思う。だから当時の花火大会事務局責任者として後世に伝え
る為あえて書きます。実名で書くことお許しください。
前にも書いたが僕の観光協会への入社は、平成5年12月である。勝浦温泉花火大会は8
月1日なので僕が事務局責任者として携わったのは、平成6年から平成16年までの11
年間である。平成16年終了後に中止となた。この11年間各申請やプログラム作り、実
行委員会や警備会議の資料造り等はほとんど僕ひとりでやっていた。花火業者との打ち合
わせや台船関係は、久司さん、大江さんや井藤さん等の商工会の皆さんが行っていた。勝
浦温泉花火大会は僕が生まれた昭和38年よりもっと前より続いていたと思う。僕たち観
光協会が事務局を受け持つまで商工会や他の団体の皆さんが事務局を受け持ち行われてい
た。
昔から那智湾と勝浦湾で交互に行っていた。まず那智湾での花火の事を書くと、当時は那
智漁協の奥の堤防も使い海上には丸濱組の台船が2台と、3カ所より花火が打ちあがりそ
れを出来たたばかりの那智海水浴場の階段溝に座り見学していた。海が舞台なので台船か
らは大玉の10号玉を打ち上げたり、海中自爆も名物となっていた。露天は今の臨海道路
側の海水浴場駐車場にが並んでいた。勝浦湾では、渡の島の堤防、海上に台船2台浮かべ
て打ち上げていたが、陸から台船までと台船からホテルまでの距離の規制により10号玉
等の大玉や海中自爆等は無くそのかわり2台のクレーンで鉄線をつり上げたナイアガラの
滝が名物だった。僕が初めに携わった平成6年頃も警備体制の規制は厳しく那智湾の時は
勝浦御苑の裏側の堤防から木戸浦グランドの端まで10m ごとに落下したときの為のロー
プを付けたブイの設置、足下を照らす電球の設置、臨海道路の陸橋の海側に落下しないよ
うに角材と虎ロープで柵の設置等し花火大会開始前より消防団の皆さんを初めとした担当
者の見廻りを行っていた。運営本部と台船とのやりとりは、トランシーバーを使っていた。
また、勝浦湾では、落下防止対策に、より厳しく役場側、木下水産物裏の岸壁から脇の谷
の渡の島あたりまで丸濱組に頼みセメントで造ったブロックに角材を取り付けそれを約1
0メートルおきに岸壁に沿って並べていき端から端まで何キロもの虎ロープで4往復ぐら
いして落下防止の柵を取り付けた。見学客はその内側で花火を見学するわけである。また、
その柵に沿って10m おきにブイを置く
。第15話終わり
第16話に続く
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第16話『勝浦温泉花火大会の中止
2』
第15話の続き。張り巡らされたロープに沿って岸壁を担当者が見廻り続ける。那智湾の
時は、次の日の朝掃除をすれば良かったが、勝浦湾の時は、次の朝から市場で競りが行わ
れる。夜9時に終わり岸壁に張り巡らしたロープは丸濱組が片付けてくれたが、それ以外
は全スタッフで片付け、きれいに道や会場内を掃除しなければならない。スタッフは、帰
宅が夜12時をすぎるのはあたりまえだった。そんな感じで11年間携わったが年々警備
体制の規制は厳しくなっていった。また、景気も悪くなってきて僕ら観光協会は約130
件ぐらい職員5人で寄付集めにまわっていたが、(他の団体の方々も必死で何十件も集め
ていた)が、「すいません。観光協会です。花火の寄付をお願いしに来ました。よろしく
お願いいたします」と深々と頭を下げて廻っても「この不景気に花火に寄付らできるか。」
と怒鳴られても、「なんとかお願いできませんか」と何回も通ったり「今年は、出したる
けど来年は来るなよ」とか言われ続けた。それでも僕ら共催の団体は「ありがとうござい
ます。」と花火大会を成功させるため深々と頭を下げ続けたのである。「なんで、こんな
にぼろくそ言われなやあかんねん」と事務所に帰ってきた皆は言っていたが、その何分後
かには、また出かけていった。
そんな中、平成13年7月にあの明石花火大会での事故が起こった。その翌年の実行委員
会で当然警備体制の強化が議題にでた。その日は特別に町長も出席していて、ある警備関
係の幹部の方が、「今年の花火大会は、もっと実行委員会の方々に見回りを強化してもら
わなあかんですね」と発言した。その時いつもは温厚な町長は、テーブルをバーンと叩き
立ち上がって「見回りは実行委員会の皆さんじゃなく、君ら警備関係の仕事やろうが。君
らがそんな気持ちでどうするんな」と大声で言った。それぐらいその年の花火大会開催に
は、ぴりぴりしていたのである。そして、その年の花火は無事終わった。そして、2年後
の平成16年8月1日の花火も無事終わった。しかし平成14年から問題となっていた開
催責任者の責任、そして年々むずかしくなってきていた運営資金集め、より厳しくなって
きている警備等の規制を含んだ話し合いを平成16年秋に当時共催だった那智勝浦町観光
協会、那智勝浦町商工会(現南紀くろしお商工会)、南紀勝浦温泉旅館組合、南紀湯川温
泉旅館組合、勝浦漁業協同組合、那智漁業協同組合の代表者が集まり行い、苦渋の決断だ
が「今後この団体の代表の誰かが実行委員長になり全責任を負うことはむずかしい。また、
我々団体だけでは運営資金の確保もむずかしい。」という理由で平成17年からの勝浦温
泉花火大会を中止としたのである。他の協力団体やマスコミには、上記団体の連名で通知
を出した。
これが、勝浦温泉花火大会が中止になったいきさつである。それから何年かたち今は役場
が中心となって町民で行う花火大会となっている。本来町民の協力が不可欠なのである。
非常に失礼な言い方になってしまうが、僕たち共催団体が中止にしたときは、花火大会を
行うには町民の協力が足りなかったのである。この花火大会中止を良き教訓として町民全
体で協力し今の花火大会がいつまでも続くことを1町民として願っている。
第16話おわり
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第17話『内田のおやじ
1』
このイベントのシリーズを書くにつれ、やはりこの方の事を書かない訳にいかない。そう、
内田のおやじこそ内田正年(うちだ
せいねん)さんだ。
ご家族のご承諾を頂戴したので、有り難く書かせていただくこととします。
あえて親しみを込めて内田のおやじと呼ばせていただきます。
僕と内田のおやじとの出会いは、僕が幼稚園の時ぐらいなので、約50年前ぐらいになる。
内田のおやじは、名前が正年。普通は「まさとし」だが、「せいねん」と読む。いつも「俺
はいつでも青年の心をもったぁるんや。名前のごとくやで~。」と言っていた。内田のお
やじは、東京目黒の出身で勝浦に来て先代の酒屋を継ぐこととなったと言っていた。「俺
はシティボーイやぞ」といつも言っていた。確かにおしゃれで身に付けていた物も僕ら田
舎坊主にも高いおしゃれな物と分かった。内田商店は、脇入りの真ん中にあり昔からの老
舗で家の中になんと温泉がわき出ており近年足湯が流行ってきたときに、その泉源からパ
イプで店の前の入り江に足湯を造って通りすがりの観光客に自由に足湯を楽しんでもらっ
ていた。内田のおやじは、僕のおとうちゃんも、おじいちゃんも知っていて「吉野とこの
おじいちゃんは、テニスがうまて、そこの山縣のおいさんと俺と吉野とこのおじいちゃん
とよう試合やったもんや。いつも俺が勝ったけどなぁ~。あははは。」と言ってたけど本
当にうまかったのかは定かでない。内田のおやじは、子供が好きでそして、いろんな団体
の責任者もやっていた。あの名少年野球クラブ「脇仲少年野球クラブ」僕はキャッチャー、
ナカシャは、ファーストも面倒をみていた。(内田のおやじの教え方のせいか、僕らの実
力かいつも負けていた。)でもすごく楽しかった。そしてボーイスカウト等子供達の為な
ら酒屋の仕事もほったらかしで全力でやる、おやじだった。
約15年位前、地元の子供達でシンデレラのミュージカルを体育文化会館で現在公明党で
頑張られている浮島とも子さんが責任者(当時ミュージカル劇団の責任者)で行うときも
ボランティアスタッフの責任者として練習会場の申請や合宿のための宿泊所の手配や食
事、風呂の手配等、子供達のために汗を流していた。僕が観光協会に入社してからも「あ
げいん熊野詣」の実行委員長(内田のおやじは、第1回より携わっていた)、観光協会の
理事および監事等勤められていた。いつもおやじは、ポルシェやと言っていたが、若者が
乗るスポーツカーで観光協会にやってきた。そしていつもでかい声でしゃべる。うるさい
おやじだった。僕も声が大きいので二人で話をしていたら廻りのみんなはさぞかし迷惑だ
っただろう。僕が入社した時からすでに実行委員長だったので良くあげいん熊野詣につい
て話した。
第17話おわり第18話に続く
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第18話『内田のおやじ2』
17話の続きです。
自称ポルシェでやって来たおやじは、協会事務所の奥から覗かなくても声のでかさでやっ
て来たのが分かる。「みんな元気か。おつ、○○ちやん。今日は一段とかわいいね。吉野
おるか、吉野」と入ってくる。僕は隣の職員と「また、うるさい、おやじきたで~。」と
眼で合図する。「内田さん、女の子からかったらセクハラになるで~。まあ、こっちへ座
ってよ」と僕。「あほいえ、からかいやるんやない。ほめやるんや。なぁ~。○○ちゃん。」
○○ちゃんも「あっ、はい」しか言えない。皆は「こまったもんや」と思っても、おやじ
の本当の姿を知っているので皆、尊敬していた。「なあ、吉野くん、今度のあげいん旗持
つけど去年みたいに全部あるけんかもしれんなぁ」おやじは、そのころ体を壊し入退院を
繰り返していた。平成26年の春頃の話である。「うん、しょうないね。出発式終わった
ら去年みたいに車で大社までいったらええやん。」「すまんのお」とおやじ。「ところで
体の方はどうなん。」「うん、手術は成功やけどまだ油断できへんねや」「俺も年やから
ねぇ」おやじは、80歳を超えていた。しかし、調子のええ時は、ダンスもやっていたし
見かけは健康そのものだった。おやじは、毎年夏ころから髭をのばし秋のあげいん熊野詣
に備えて役作りをし実行委員長兼侍役で自前の侍の衣装を着て「あげいん熊野詣」と書か
れた旗を持ち行列の先頭を歩いていた。その後日、おやじは入院した。僕達は入院したこ
とを知らなかった。そして平成26年のあげいん熊野詣に参加することなく内田のおやじ
は、天国に旅だった。平成26年10月の第4日曜日。第28回あげいん熊野詣当日。僕
は担当責任者として早朝から会場にいた。その日の天気予報は、降水確率90パーセント。
早朝より曇っていた。僕は空を眺め心の中で叫んだ。「内田さん、頼むから雨降らさんどい
てくれ~。頼むから俺らをまもってくれ~。」僕の叫びをおやじは聞いてくれたのか雨が
降り出したのはすべての行事が終わってからだった。僕は再び空を眺めた「内田さん、お
おきによ~。」「大成功やったで~。」きっとおやじも「ようやったなぁ~。」と言って
くれただろう。次の話はおやじが亡くなった後日、ご家族から聞いた話だが、おやじが天
国に旅立とうとしているとき、実は枕元の携帯電話が鳴っていたそうだ。その時前にも書
いたが僕たちはおやじが入院していることを知らなかった。その携帯電話をかけていたの
は僕だったのだ。内田のおやじの携帯の最後の着信の名前は僕の名前だったと家族の方に
教えていただいた。何かものすごく複雑な気持ちだったが、不思議な絆を感じた。今年の
10月23日であげいん熊野詣も記念の第30回を迎える。「内田さん、雨降らしたら承
知せんからな。頼むで~」そして「出来ることなら、おやじもう一回会って話したいよ~。」
第18話終わり
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第19話『妖怪大戦争』
イベントシリーズから今までの形に戻っての第19話である。18話からちょっと間が開
いたが終わったわけではありませんよ。100話めざして書きまっせぇ。読んでね。でわ
でわ第19話小学校低学年の話でありま~す。
「タコちゃんあそぼ~。」「あっタケちゃんとナカシャか~。どしたん。」どしたんって
遊ぼと言うたんやから遊び来たのである。僕らの子供の時は今から考えるとおもろい会話
しやたっなぁ~。「ねえ、タコちゃん、駅前の映画館あるやん。そこの看板に妖怪大戦争
上映中ってものすごい怖わそうなポスター張ってたんやけど見に行かせん。3時から第2
回目ってあったんやけど。なあ、ナカシャ」「うん、もんごい怖わそうやで~。でもおも
ろそうやで~。僕ら3時からの行こか思いやるんやけど、タコちゃん行かへん。おもろそ
うやで~。」僕とナカシャは、軽くタコちゃんを誘っているように見せたが、実はタイト
ルから2人で行くのが怖かったんである。「わかった。行くわ。俺ら仲の町の3馬鹿トリ
オやもんなぁ。堅い友情でむすばれとんもんなあ~。」なんのこっちゃ分からんが僕ら3
馬鹿トリオは、貯めた小遣いをポケットに入れ愛自転車、自称「ライダー号」にまたがり
駅前の映画館松竹座へ向かったのである。
当時勝浦には、バスターミナルの近くの寿座、駅前の松竹座そしてもう一軒映画館が会っ
たと思う。(あまり覚えてなく名前と、数に自信ありません)
受付のおばちゃんに、入場料を払い受付横の売店でコカコーラ3つと何故か「羽衣あられ」
を1袋買って席についたのである。(当時僕の記憶では、映画館の売店イコール羽衣あら
れなのである。)スクリーンが暗くなり映画が始まった。
あらすじを簡単に説明すると、この映画は1968年大映制作で、江戸時代に海の向こう
の遺跡のある国で墓荒らしが、4000年の眠りから吸血妖怪ダイモンをよみがえらせて
しまう。南蛮船に乗って日本に上陸したダイモンは代官に憑依し次々と人々を吸血し殺し
てしまう。この代官の家に住んでいた河童がいつもの代官の姿と違うことに気づきその正
体が外国妖怪のダイモンであることを知り仲間の妖怪達に伝える。このままでは日本中の
人々がこのダイモンに殺されてしまうと思った妖怪達は日本中からダイモンと戦うため大
集合する。河童、油すまし、青坊主、ろくろ首、二面女、雲外鏡、から傘、海坊主、ぬら
りひょん、天狗、雪女等々日本中の日本の妖怪が力を合わせて日本人の為に、ものすごく
強いダイモンに何度も何度もかかっていくのである。そしてとうとう最後にはその団結力
がダイモンの息の根を止めるのである。子供心にもこの日本の妖怪達の人間を思う姿に泣
きそうになった記憶がある。3馬鹿とも映画館から出てきたときは、すかすがしかった。
「怖かったけど日本の妖怪ってええなぁ~。俺らもいつまでも友達やで~。」とタコちゃ
ん。「あたりまえやんか。ダイモンかかってきてもやっつけたるわぁ~。」いつも調子のえ
え3馬鹿であった。
追記
第19話おわり
この「妖怪大戦争」は1968年に公開されましたが、2005年には、当時の有
名俳優によりリニューアルされ公開されました。
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第20話『ホテル浦島には、ケーブルカーがあったんやで』
記念すべき第20話である。たぶん今の若者(この表現嫌いなんやけどなぁ、自分がもの
すごく歳とったみたいで。まだまだ若いと思てるんで)は、知らんやろけどホテル浦島は、
僕ら小学生の格好の遊び場でしたと言う話です。
「タケちゃんあそぼ~。」またまた、仲の町の2馬鹿小学生タコちゃんとナカシャが僕ん
ちに遊びに来た。「どしたん。まあ、入りなぁ。おかあちゃん、タコちゃんとナカシャ来
たから何か出したって。俺の部屋いこか。」「タケちゃん、何もないけどピーナッツサブ
レとカルピス後でもってたるわ。タコちゃん、ナカシマ君こんにちは、また3人で何か悪
いこと考えるんやろ」とおかあちゃん。うちのお母ちゃんは、子供の僕のことをタケちゃ
ん、タコちゃんのことをタコちゃん、なぜかナカシャはなかしま君と呼んでいた。「あほ
か。俺ら悪いことばかり考えやるんちゃうで。勉強の話するんやぞ。」と僕。「あんたら、
吉本見過ぎで頭おかしなったんちゃうか。」とおかあちゃん。「じゃかましわ」と僕らは
2階の僕の部屋へ行った。「なあ、タケちゃん、今度の日曜日浦島いかへん。ケーブルカ
ー乗って狼煙山(ろうえんざん)いかへん」とタコちゃん。「ええやん。いこいこ。なあ、
ナカシャ」「うん、いこら。あそこ動物園みたいになったあて、おもろいもんなぁ~。」
当時、ホテル浦島には、本館横より今の山上館(狼煙山)までケーブルカーが走っていて
僕らは桟橋から(ほんまは、宿泊客しかあかんのだが)、ボートに乗ってそのケーブルカ
ーで狼煙山に登りそこにあるミニ動物園(羊やサル、うさぎ等がいた。今で言うふれあい
コーナー)や遊具で遊んでいた。ボートの運転手が知っているおっちゃんで、「また、お
まえらか」と言う顔でおっちゃんは、ボートに乗せてくれた。(浦島の皆さんほんまは、
あきませんが、子供の時の話なんでごかんべんを)「はい、とっておきのデザートでござ
います。」とおかあちゃんがピーナッツサブレとカルピスを3つ持ってきた。「おおきに」
3人は、うまそうに食べる。やっぱり濃いめに入れたカルピスは最高やった。カルピスは、
濃いぐらいがええ。お母ちゃんは、よう分かっている。(なんのこっちゃ)
そして、日曜日僕らは、宿泊客に混じり浦島のケーブルカーに乗りに行った。当然そのこ
ろのホテルにケーブルカーがあるところなんて他になかったし、ましてや屋上にミニ動物
園があるホテルなんて他にない。浦島って昔からすごかってんで~。僕ら小学生のパラダ
イスや~。このケーブルカーも時代の流れで1976年僕らが小学校卒業と同じ頃廃止と
なり今はミニ動物園が露天風呂に代わっており山上館には、エレベーターで上れ、またケ
ーブルカーのレールのあった場所には、エスカーターと健康の為と階段が設置されている。
ケーブルカーとミニ動物園、最高の小学生の時の思い出である。
第20話おわり
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第21話『祭り囃子がきこえる』
いつも書いている話は過去形の物が多いが、今回の話しは現在も続いている勝浦の伝統の
お話です。
「オーレンヤ、ホウランゲー、ヨヤサノサッサ、ヨイヨイヨヤサー」かけ声にに合わせて
太鼓を叩く。トントコリンノトン、トントコリンノトン。旧勝浦(1区から6区)の勝浦
町民なら口ずさめるし、太鼓のリズムも刻めるほど有名なかけ声である。そう勝浦八幡神
社例大祭の櫂伝馬のかけ声である。今年も櫂伝馬や子供神輿の練習が始まっている。前に
も書いたが僕ら男の子は小学生の時は子供神輿、そして中学生の時は、櫂伝馬の漕ぎ手に
なるのが僕らの誇りだった。
「おい、タケちゃん。おまえら中学生になったさか、櫂伝馬でるか」中学3年生の先輩か
ら声をかけてもらい僕とナカシャと山ちゃんは櫂伝馬に出ることとなった。僕らの中学生
の時の櫂伝馬は、大勝浦(1区)、脇仲(2区・3区)、小坂・神明(4区)、北浜(5
区)、築地(6区)、そして保存会のあいゆう会の6隻があったと思う。僕ら脇仲は、約
1週間前より毎日夕方練習があり観光桟橋から乗り込み勝浦湾内を2時間くらい漕ぎまく
る。そして最後にホテル浦島前で海に飛び込み、浦島で風呂に入って帰るという練習だっ
た。本番は赤のよれよれの膝までの衣装に、さらし、そして白パン(僕らはロンパンと言
っていた)で神社境内などで、木の杖に餅に見立てた綿をつけた棒を片手に餅つきの唄を
披露しその後櫂伝馬に乗り込んだ。祭りは子供神輿や少女達の踊り、山伏等、そして大人
神輿のひとつ大黒さん(担ぎ手が顔を真っ黒に塗り、大黒天を乗せた神輿を担ぎ町中を練
り歩く。今はあまりしないが観光客や町内の見物客の顔などに炭を塗りたくる。酒に酔っ
ているので家の中まで入ってくる。僕ら子供はわざと炭を塗られるのが誇りだった)、そ
して2つめの大人の神輿は、夕方クライマックスでバスターミナルあたりから神輿ごと海
に飛び込む。町を練り歩き最後にバスターミナルの所に来るのだが、なかなか海に飛び込
まない。見物客はいつ飛び込むのか、待ち遠しくなるだが、その気持ちが最高潮に達した
ときに海に飛び込む。見物客の歓声が響く。その海に飛び込んだ神輿にロープを掛け櫂伝
馬で引っ張り合う。そこが一番の祭りの見せ場だ。その櫂伝馬の漕ぎ手に僕らは、中学3
年間なれた。今夜も遠くから聞こえてくる。
「オーレンヤ、ホーランゲー、ヨイヤノサッサ、ヨイヨイヨヤサー。」
トントコリンノトン、トントコリンノトン。
第21話おわり
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第22話『餅まき好き好きおばちゃん』
21話から少し間が空きましたが、まだまだ書きますよ。22話です。
「タケちゃん、明日の1時から桟橋のとこで餅まきあるんやて。お母ちゃんにゆうたっ
て。」「うん、おばちゃんおおきに。」隣のおばちゃんが通りがけに明日の餅まきを教え
てくれた。「お母ちゃん、隣のおばちゃんが、明日1時から桟橋のとこで餅まきあるゆう
てたで~。」「ほんまか。隣のおばちゃん、餅取りの名人やさかなぁ~。」そういう家の
お母ちゃんもなかなかのもんやと思う。
今は無くなってしまったが僕の小学生頃はまだマグロ船の船首のおっちゃんも町内に多
く結構頻繁に餅まきが桟橋のところ等で行われていた。勝浦の餅まき(餅ほりとも言うが、
大量にまくので餅まきと言う方が合っていると思う)は、新しくマグロ船を造船したとき
はもちろん、家を新築したときは、家主らが家の屋根上から大量に餅をまく。マグロ船の
場合は、船の上から岸壁に集まっている餅まき大好きおばちゃん達の固まりに向かってま
く。まく餅も白や赤というかピンクの餅、気前が良ければその餅の中に50円や500円、
5円が入っている。大きさも小さいのからCD位の大きさまで様々であった。そして餅ま
きの情報は瞬く間に旧勝浦町内を伝わりゆく。僕は観光の仕事をやっているので、イベン
ト等で餅まきをやるのだが、餅まき命のおばちゃん達は昔も今も時間に厳しく予定より早
く行うなんてもってのほか、5分遅れようものなら苦情の嵐である。それだけおばちゃん
達は必死である。と言うわけで翌日僕とお母ちゃんは、1時前に観光桟橋の所へ出かけた。
新しい船には、大漁旗が飾られ岸壁には、まるで背中に「餅まき命」と書いているような
おばちゃんやおいちゃんがわんさかいた。おばちゃん達は、みんなエプロンをしている。
プロはほとんどその場から動かない。自分の縄張りを持っていてその縄張りに入ろうもの
ならただですまない。おばちゃん達はエプロンの両端を持ちその中に自分の方にまかれた
餅を拾うのである。いや、拾うのではない。かき取るのである。船首達に向かって「おい
さん、こっちやで~。こっちほらな後で怖いで~。」とおばちゃんたち。船首たちはそこ
めがけてほらなしょうないがな~。そんなこんなでプロのおばちゃん達は毎回何十個と餅
を持って帰るのである。だからあんなにぶくぶく太ってるんやろか。
えっおまえはどうなんやって。僕は10個がやっとだった。お母ちゃんはセミプロなんで、
結構拾っていた。帰り際お母ちゃんは「明日から1週間おやつ餅やで~。」そんなせつし
ょうな~。
第22話終わり
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第23話『僕らのおやつ
はったいこ』
新作でございます。
「おかあちゃん、腹減った~。」小学校から帰ってきた僕は「ただいま」の代わりにいつ
もこの言葉である。4時間目が終わってから給食を5分で(しかもお代わりし)超ハイス
ピードで食べ、昼休みの時間を目一杯ドッチボールをやる僕たちは給食だけで満足する訳
なく学校から帰るとおやつ(今のスイーツとかなんとか言うおしゃれなもんやないで~)
を食べていた。「おかえり、うーん、はったいこやったらあるで~。タケちゃんそれ食べ
とき」「はったいこか。まあ、ええわ。うまいし。でも昨日もはったいこやったで~。」
「つべこべいわんとたべときな。」「わかったよ。」ここまで書いてああ、あれか。とお
分かりになった方は、多分50歳以上の方でしょう。はったいことは、はったい粉と書き
大麦をあぶって粉にしたものである。これを茶碗にスプーンで何杯かすくい、砂糖を少し
入れ、その中にお湯を少し入れ箸で混ぜ混ぜするのである。
すると、なんて言うか、簡単に言えば灰色のソフトクリームみたいになるのである。それ
をスプーンですくい食べるとたちまち笑顔になるのである。
ただしソフトクリームみたいにきれいな色じゃなく灰色なのであまりおいしそうに見えな
いが、僕たちそのころの子供も大人もその魔法にとりつかれたのである。
スプーンではったい粉を茶碗に入れるのだからスプーンで混ぜ混ぜしたらええやないかと
思うだろうが、駄目なのである。箸でないと。先祖代々吉野家の言い伝えなのである。(す
いません。冗談です)でも何故か箸の方が混ぜ混ぜしやすくおいしくなるのである。味は
ちょっと粉っぽいソフトクリームかな。
後で知ったがこれが、整腸剤の代わりになるそうである。
このはったいこを茶碗一杯食べただけで満足した。毎日でも良かった。子供心においしい
おやつだったのである。インターネットのヤホーで調べたら結構色んなレシピが載ってい
た。それはそれで良いのだが、僕らはやはりオーソドックス(なのかな)な食べ方が好き
であった。好きであったと書いたが、もう何十年も食べてない。40年位かな。ぜひ知ら
ない若者も一度食べてみてほしいと思う。最近この懐かし話を書いていて無性に食べたく
なった。今度どこかで買ってきて混ぜ混ぜしよっと。 混ぜ混ぜ。
第23話おわり
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第24話『おまぜ』
なんとすばらしい言葉「おまぜ」、なんと分かりやすい言葉「おまぜ」
たった3文字「おまぜ」、勝浦の人間で知らん人はいないと思う「おまぜ」
とっても丁寧な言葉「お」がついている「おまぜ」、
ちょっとエッチな言葉「おまぜ」、泣いている赤ん坊が泣きやむかどうか分
からない言
葉「おまぜ」、その状態がそのまま言葉になった「おまぜ」
聞いただけでよだれが出てくる「おまぜ」、みんな大好き「おまぜ」
とっても簡単「おまぜ」、みんなでわいわい「おまぜ」、
何がなんでも「おまぜ」おーまーぜー(なんのこっちゃ。叫んでしまいまし
はい、新作です。23話に続き今回も食べ物の話です。つまり「おまぜ」で
た)
す。
インターネットのヤホーとゴーグル(お父さん、このまま覚えたらあかんで。
笑われる
で~。)で調べたら、詳しく書いてあるだろうが、 あえてタケちゃん風にいうと、冠婚葬
祭でおっちゃんやおばちゃんやご近所さん等、とにかく人がいっぱい集まるときにおかず
やごはん用意するの大変なんで、手っ取り早く作れる保存がきく五目寿司である。にんじ
ん、しいたけ、ごほう、たけのこ等を細かく刻んで甘辛く炊き、酢でしめたまぐろ(勝浦
は、まぐろ)を、すし桶に入れた酢飯に入れて混ぜ混ぜ(この言葉大好きです)
するの
である。このおまぜに肉じゃがや鯖のみそ煮などおかずを付けてはいけない。何故かそん
なおかずを作る時間がないのでおまぜを作るからである。(あくまで個人的な意見です)。
僕の実家ではおまぜに「なます」と別虎かま
であった。おまぜは、寿司なんで
ぼこの切ったのと、吸いもん(おすまし)
日持ちがする。祭りのときや忙しいときは大量に作り
朝、昼、晩おまぜである。さめてもおいしいし、おにぎりにしても最高である。遠足のと
きや運動
会の時もおまぜである。うちのおかあちゃんは、忙しいときはとにかく子供
に
はおまぜ食べさせといたらええやろと思っていたと思う。
僕は(多分僕だけやなしに勝浦の子供みんな)、このおまぜが大好きで
一度に茶碗10杯食べたときもあった。今は、そんな量食べれないが、未だ
食おまぜと吸いもんでも文句言わない。逆にうれしい。
おまぜに綺麗な言葉は似合わない。食べるとか、おいしいとか似合わない。
「おまぜは、とにかく食うたら、うまいんじゃ~。」である。
こんなん書きやったら食べたなってきた。あ~、おまぜ食いたいよ~。
僕らの味方お~ま~ぜ~。
第24話終わり
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に好きで3
第25話『山口熊野忌』
今回は、少し赴きを変えて歴史的なお話を。でわでわ第25話でありまーす。
皆さん、山口熊野って知ってますか。山口県と熊野地方ちゃいますよ。
人の名前で「やまぐち
ゆや」と読みます。この方何をされた方と言いますと、紀勢本線
(紀伊半島の鉄道ですな)の敷設に関わった大功労者なんですな。
この方が居なかったら、今僕らはJRで和歌山や大阪へ又は大阪から勝浦へと
列車移動が出来なかった訳です。ものすごく和歌山にとって大事な方であり未来永劫に語
り継いで行かねばならない方であります。この方は、天治元年(1864年)11月11日
に今の那智勝浦町浦神にお生まれになるのであります。
医者の息子で本人も一時医者を目指しますが、政治家になるのであります。
政治家になった熊野氏は、紀伊半島に鉄道を走らせる事に尽力されるのです。
そして昭和25年6月24日85歳でお亡くなりになるのです。この山口熊野翁の頌徳碑
(しょうとくひ)が那智勝浦町の那智駅前にあり観光協会では、国鉄職員が行っていたの
を引き継ぎ昭和60年頃より毎年菩提寺である浦神の海蔵寺のご住職にお願いし、またご
親族のご参列をいただき命日の6月24日に那智駅前で山口熊野忌を行っていたのであ
る。昔から観光協会は鉄道の事にも全力で力を入れていたのである。観光協会主催で初め
に町長や国鉄関係等の来賓挨拶、協会長挨拶、ご親族代表挨拶に続き海蔵寺ご住職の読経
と続く。
6月24日前には役場の職員や当時の国鉄職員、観光協会の職員でこの山口熊野翁の頌徳
碑の周りの草刈りをやったり掃除をしたりして綺麗にする。そして6月24日に山口熊野
忌をおごそかに行うのである。
平成12年の50回忌が終わった時にご親族の方に「熊野が亡くなってから50年。今ま
で鉄道関係の皆様、観光協会の皆様等大変お世話になりました。本当に感謝申し上げます。
これからは、親族中心にやっていきますので、ご了承ください。今まで本当にありがとう
ございました。熊野も大変喜んでいると思います。」と大変ご丁寧な御礼の言葉をいただ
いた。勝浦の子供達よ。那智勝浦町には君たちがやがて進学や就職で県外に出たときに胸
を張って語れる偉大な方がたくさんいるんやで~。那智勝浦町ってすごいとこなんやで~。
そして、それを未来永劫に語り継いでもらいたいと切に思う。
また、那智勝浦町を訪れた観光客の皆様、ぜひとも那智駅の山口熊野翁の頌徳碑を訪れて
いただきたいと思います。隣にはサッカーを初めて日本に伝えた中村覚え助の碑もありま
す。
第25話おわり
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第26話『世界リゾート博』
25話からしばらく間が空いたが、実はこの話を書くため昔の資料を読み返し ていたの
である。ちゃんと勉強もしてるのよ~。でわでわ26話です。
皆さんは、和歌山マリーナシティがかなり前にリゾート施設として建設され今に至ると思
っていませんか。実は、この和歌山マリーナシティでとてつもないことがあったのであり
ます。平成5年の12月に那智勝浦町観光協会に入社した僕は年が明けた年頭に専務理事
YさんとN協会長に「吉野君、今年の7月から和歌山市で世界リゾート博という博覧会が
あってその中の紀の国温泉館というパビリオンで勝浦の温泉もPRすることになったん
や。和歌山県の5つの温泉地が週替わりで3ヶ月の期間その地元からタンクに温泉入れて
会場まで運ばなあかんのや。」僕は入社したてだったのでそれがどれだけ勝浦のPRにな
るのかわからなかったけど、温泉を運ぶとは、何かすごいことやるなと思ったのである。
N協会長「温泉は湯川のきよもんの湯や、2トントラックにタンク積んで5週間に1回運
ぶんや。それを会場でわかし直して入ってもらう。運送会社は手配できると思う。それで
吉野君、観光課の連中と何回か勝浦温泉の週に温泉館に行って勝浦のパンフ使ってPRし
てくれへんか」僕は、当然仕事なんで「わかりました。」と即答した。世界リゾート博に
ついて簡単に説明すると、和歌山市沖に造成した人工島「和歌山マリーナシティ」で平成
6年7月16日から9月25日までの約3ヶ月間行われた地方博覧会。バブル崩壊前で3
ヶ月で298万人訪れた。前年に阪和自動車道が全通しており、和歌山駅、和歌山市駅、
海南駅からは直通バスも運行された。和歌山館等のパビリオンも約30ありその中でも南
太平洋ビレッジでは、サモアから現地の方々が来てカヌー体験や夕方からはファイヤーシ
ョーとか行っていて人気があった。
そのなかでの紀の国温泉館である。僕も温泉館での勝浦温泉のPRの時は、1週間ホテル
に泊まり込みで頑張ったのである。もちろん外国の方も来る。得意の英語じゃなくジェス
チャーで答える。(当たり前だが中々通じなくて苦労した)。温泉館はパビリオンの中に
露天風呂のセットがあり1週間の温泉地のPRが終わったらすぐに次の温泉地の温泉に入
れ替える。来館者はいくらか払いその温泉を楽しむ。入り口がありその奥で男湯と女湯に
分かれている。僕らは入り口の近くのパンフレット置き場で観光PRを行う。他の温泉地
もそうだったが、なかなかの賑わいだつた。休憩時間等にかわりばんこで他のパビリオン
も見て回った。当然パビリオンなので、きれいなかわいいコンパニオンがいる。当然タケ
ちゃんは、声をかける。「那智勝浦町の吉野と言います。紀の国温泉館で観光PRしてる
んで、休憩時間とかにきてね」っと。でも世の中そんなに甘くありません。来るのはきれ
いなかわいいコンパニオンじゃなく、その側で聞いていた
パンフレットの整理をしたりしいいるおばちゃんや、掃除のおばちゃん達である。
夕方になったら早番の仕事終わりのおばちゃん達は 「吉野くん、来たよ~。さあ、風呂
はいろか」僕は内心「なんで、おばちゃんばっかしやねん」と思いながらも「あっ、○○
さん、ほんまに来てくれたんですね。ゆっくりつかっててよ。うれしいな~。」と答える。
当時僕は、30歳で独身。今のように太ってなくスマートであった。でも今でもそうだが、
相手にされるのはおばちゃん達だけである。(すいません。小説なのでここの部分盛って
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ますんで)。あと期間中一番仲良しになれたのは、サモアのおっちゃん達であった。なん
でやねん。
第26話終わり
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第27話『南紀熊野体験博その1』
第26話に世界リゾート博のことを書いたが、次はやはり体験博のことも書かなくてはい
けないでしょう。でわでわ27話でございます。
早いもので、南紀熊野体験博が開催されて17年たったのであります。
1999年4月29日から9月19日までの144日間田辺市の新庄総合公園と那智勝
浦町の海水浴場駐車場をシンボルパークとして囲いのない自然が舞台の博覧会が開催され
たのであります。期間中で約290万人の方が訪れたのである。那智勝浦町のシンボルパ
ークでは、松本零氏の制作した南紀くまのエクスプレスという体感シアターや、オープン
ステージ、マリンスポーツゾーン、
水中展望船くまりんの運行や会場とくまりんの乗り場をつなぐシーサイドトレインの運
行等があり毎晩夜に短時間だが花火が打ち上げられた。また大門坂茶屋では、平安衣装の
体験も行われ今も続いている。オープンステージでは、有名歌手や演奏家等のステージも
行われた。また、期間中様々な体験イベントやウォーク等も行われ100万人の熊野詣と
いうテーマも生まれた。勝浦の会場内には、熊野牛等の特産物を使った食品や各地の特産
品販売のブースも並び大変にぎわった。9月19日のフィナーレイベントの一万人の熊野
詣では、毎年行っているあげいん熊野詣を体験博の期間に合わせて那智山を舞台に行うこ
とになっており観光協会もスタッフの中心として加わっていた。当時体育文化会館の事務
所内に体験博推進室が設けられ役場の各課より職員が派遣され準備運営に当たっていた。
その一万人の熊詣の詳細打ち合わせを1回目より観光協会と推進室、そして和歌山県内の
イベント会社の担当者が入って行ったが、このイベント会社担当者がくせ者だった。悪口
を言うわけではないが、いかにも業者マンですと業界用語連発、自信満々の男で僕らが何
かアイデアをいうと「それグッドですね。まかせてください。大丈夫ですよ。」ばかり言
っていた。そして推進室の担当者の方が「すいませんが、あと1ヶ月で詳細の書かれた企
画書やスケジュールを県の事務所に提出することになっているんですが大丈夫ですか」と
聞くと「ばっちりです。僕らプロですから1週間で仕上げますよ」と言った。しかしその
後1週間立っても2週間立っても企画書ができあがってこない。推進室の担当者が催促し
ても「申し訳ありません。すぐできあがりますよ。」の一点張り。結局観光協会の僕と推
進室の担当者で詳細企画書とスケジュール等制作した。この1万人の熊野詣は、ファイナ
ルイベントとして企画されていて約200名の参加者で、 その模様をカメラで写しシンボ
ルパークの会場で生中継することにもなっていた。しかし、台風の関係でその日の朝は警
報が出て中止となった。昼からは、台風一過で晴れ間が見えて警報が溶かれたので予定さ
れていた閉会式は行われた。
この日和歌山のイベント会社の担当者は一万人の熊野詣は、一切手伝わず閉会式の準備を
していたのである。 、
閉会式の担当者が他にちゃんといたのにである。僕と推進室の担当者やスタッフは朝早く
から中止が決まるまで、レインコートは着ていたが役に立たずびしょ濡れになりながら看
板等取り付けていたのにである。「あいつとは、絶対に今後いっしょに仕事せえへん」と
いつも温厚な推進室の担当者は本気で怒っていた。僕も絶対に許せん。そいつとは、たま
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に顔を合わせるが、社交辞令の挨拶しかしない。推進室の担当者は何年か前に定年で退職
されたが、たまに合うと同じまぐろ祭りを作り上げたスタッフとしてまぐろ祭りの話しと
必ずこの体験博の時の話しになる。悪口を書きたいわけではない。一万人の熊野詣のスタ
ッフ全員を裏切った事が許せないのである。話変わって、中止になった一万人の熊野詣だ
が、イベント中止保険に入っていたので参加申し込みをしていただいた方全員に連絡し当
初の人数には至らなかったが保険金で1ヶ月後にあげいん熊野詣として開催しました。
第27話おわり
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第28話に続く
第28話『南紀熊野体験博その2』
サブタイトル
「甲斐さんが体験博にやってきた」
前回に続き体験博の話しであるが、やはり我が青春のすべてである甲斐よしひろさんの事
を書かずにはおかない。たぶん止められないならその話しだけで30話くらい書ける気が
する。かなり感情が入ってますが、あしからす゛。
体験博も終盤に入った1999年8月12日のことである。ふと職場である観光協会の事
務所のカウンター奥に張られている体験博のポスターに眼が釘付けになった。「8/13
甲斐よしひろ~スペシャル・アコースティック・セット~Guy
Band」と載ってい
るではないか。「え~。うそやろ~。甲斐さんが体験博にくるんか~。え~。いつやん。
え~、明日やないか。うそやろ~。」私としたことが。いつも通っているカウンターの奥
に何日か前に体験博のポスターが貼り替えられているのを気づかずにいたのだ。「あかん、
なにがなんでも行く。絶対行く。」と殺気だった眼で「局長すいません、明日体験博で僕
がこの世で一番好きな歌手のコンサートがあります。次の日からなんでもやります。明日
休みください。」とお願いした。局長は割とあっさり「ええよ。」と返事。「あ~。良か
った。神様、仏様、局長様~。」 と心の中で思った。そしてコンサート当日、僕は嫁と2
歳の娘と家から歩いて10分の会場に向かった。かなり早く行ったので僕達は前から2番
目の真ん中からやや左よりに腰掛けて待っていた。しかし開演時間が近づくにつれすごい
人が集まり立ち見まで出来た。ステージはオープンステージで、ステージの後方は列車の
線路が走っていた。開演前のステージには左からフェンダーのプレジションベース・ナチ
ュラルカラー、真ん中にはギブソンのJ-45というアコースティックギター、その後ろ
にドラムセット、右側にはエレアコとフェンダーのストラトキャスターが立てかけられて
いた。そして開演。ステージ横からサポートメンバーのドラムス(すいません。名前覚え
てません)、ギターの鎌田ジョージ、そしてなんと、なんとベースは甲斐バンドのメンバ
ーで名ドラムスの松藤英男、僕はその姿を見た途端に思い切り「松藤~」と叫んでました。
そしてそして我らが甲斐よしひろが登場。その時も「甲斐~」と叫んでました。2歳の娘
を抱いて。 甲斐さんは、白の T シャツに黒のベスト、黒のジーンズとラフな格好。ギブソ
ンのJ-45を左利きでかき鳴らす。「かっこええ~。やっぱ違う」と僕は夢心地。始ま
る前特急が通ったので甲斐さんは「特急がとおってからやろうか」と皆に呼びかけ「この
地方に来たのは初めてです」と挨拶した。しかし違うのである。甲斐バンドのアルバム「誘
惑」が発売された直後隣の市の新宮市民会館で甲斐バンドのコンサートを行っているので
ある。当時僕は高校生、しっかり見ましたよ。
体験博の時の曲目は、1曲目
野生の馬、2曲目破れたハートを売り物に、3曲目安奈、
4曲目裏切りの街角、5曲目レイニードライブ、6曲目風吹く街角、7曲目風の中の火の
ように、8曲目アウトロー、9曲目HERO、10曲目バス通りの10曲だった。ライブ
でも中々演奏されない野生の馬、甲斐バンドデビュー曲のバス通りをやってくれたのは、
さすが甲斐さん。約1時間のステージだった。10曲終わってもアンコールの声は鳴りや
まなかったが甲斐さんは、「1時間のステージなんだ。これ以上やると怒られるんだよ」
との言葉を残しステージを後にした。僕は娘に向かって「よかったやろ」と分かるはずも
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ないけどつぶやいた。娘はにっこり笑った。嫁さんも以前から僕に散々甲斐バンドの曲を
聴かされていたので満足そうであった。この日の模様は翌日の新聞にも載った。その記事
を僕は今も大事に持っている。あとこの時の写真は、取材に来ていた新聞記者の方に「頼
みます、新聞に載ってからでええから下さい、新聞に載った写真だけでもええから」と頼
みに頼みその方は良い方でフィルム1本分ネガごともらった。これも僕の宝物である。本
当は甲斐さんのアップの画像載せたいのだが、すいません、許可いただいてないので遠く
からの画像で勘弁してください。とにかく僕の生まれた土地に甲斐さん達は来てくれ、そ
して歌って演奏してくれた。一生忘れない大切な一日である。もちろん今も甲斐さんのフ
ァンである。甲斐さんを呼んだスタッフの方、あなた方は、本当に偉い、すばらしい。心
から感謝いたします。
第28話終わり
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第29話『僕らの遊び基地づくり』
パソコンの調子が悪くしばらく更新できませんでしたが、終わった訳ではありませんぞ。
まだまだ書きますよ。でわでわ29話小学生4年生頃の話であります。
「なあ、タコちゃんとなかしゃ。新しい基地作りに行かへんか。前の基地大分古なってき
て遊べんようになってきたやん。なあ、明日休みやから行かへん。」と僕。
基地って何
やねん。って思われている方。もうちょっとお待ちを。この話読んでいくと分かるんで。
「ええねぇ。行こ。行こ。めちゃくちゃかっこええ基地つくろや。なあ、なかしゃ」「そ
うやねぇ。材料もすぐ集まるやろ。俺集めとくわ。」なかしゃもうれし
そうにそう言っ
た。「頼むで、なかしゃ。よつしや。そしたら明日朝9時になかしゃと
こ集まろら。」
「うん、わかった。じぁね。」学校帰りに僕ら仲の町3バカトリオは、固
い男の約束を
結んだのである。基地を作るには古くなったまぐろ船で使っていたしび縄、板切れ、かな
づち、くぎ、ひも、そして枯れ葉や笹そして太書きの何色かの油性マジッ
ク、基地が出
来上がったとき食べるお菓子とジュース。まあこんだけあればいいてしょ
う。しび縄は、
桟橋に行けばそこら中に捨ててあったものをお裾分けしていただいて(捨ててあるの拾っ
てくるのだが)、板きれは、市場へ行くと古くなってこれまた、使わなくなったトロ箱を
くずして板きれにし使う。これを何枚か用意する。金槌とかは家から借りてくる。つまり
材料はただである。そして翌日 、我らの愛車仮面ライダー号(自転車)にまたがり、なか
しゃんちへ集まった。「なかしまくーん。あそぼー。」「おう、いこか、今日のお菓子は、
サッポロポテトバーベキュー味やぞ。そしてファンタグレープやぞ。どえらいやろ」なか
しゃの家は、酒屋でお菓子もジュースもいっぱいあるのである。しかも最先端のものが。
「うそ、バーベキュー味なん。俺今日
で食べるの3回目や。どえらいげ。さすがなか
しゃ。ちゅぅしたろか。」「あほか、気持ち悪いわ」それから僕らは、材料を手にし歩い
て勝浦小学校の裏山へ行った。
4本のある程度太い木を探し飛び降りると降りれる高さ
のところに□の字に板を打ち付ける。そして平行にその上50センチくらいのところに左
と右と奥に板を打ち付ける。はじめの下の板に田の字に板をはわす。そして、しび縄を奧
から手前、左から右へと編み目になるよう掛けていく。しび縄の編み目ベットが出来上が
るのその上に枯れ葉と笹を集めてきて敷きしめる。そして手前の木の目立つところに基地
の名前を太マジックで書き打ち付けるのである。
いわゆる木を利用したベットを作るのである。これが僕らにとっての秘密の基地である。
「なあ、基地の名前なんにする。」タコちゃんが聞いた。「そうやな~。仲の町トリオハ
ウスにしよら。」となかしゃ。「なんか、もうちょっとかっこようならんかな。」と僕。
「仲の町グレートデラックハウスにしよら。」「ええやん。どえらいげ。」 単純に僕らは、
すごいとか、でかいとか強いとかいう英語を並べたらええと思っていたアホであった。そ
の名前を板にへたくそな字で書いて釘で打ち付けた。「それでは、我々の基地完成を祝っ
てかんぱーい。」ファンタグレープの缶で乾杯。そしてサッポロポテトバーベキュー味を
ほおばる。そして3人そろって叫んだ。「お~。ベリーグレートデラックスおいし~い。」
ほんまに幸せな奴らであった。
第29話終わり。
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第30話『僕らの前にドラゴンが現れたのだ』
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今年の夏位から遺書(死ぬわけちゃうで)みたいに書き始めて早30話になりました。
正直ここまで、書けるとは思っておりませんでした。これもすべて僕の努力のおかげです。
(いやいや、すいません。読んでいただいた皆様のおかげでございます。まじて感謝いたし
ます。)
でわ、でわ記念すべき第30話でございまっす。
「なあ、たけちゃん、今度かおりみなとから日本にきた映画しったあるか。ものすごい
かっこええらしいで。」なかしゃが、登校してきて僕らに聞いてきた。小学6年生の時の
ことである。「あほか、あれかおりみなとって書いてほんこんってよむんやぞ。おれもま
ちごたけど。しつたあるで。ブルース・リーやろ」と僕。「カンフーって中国の空手みた
いのの天才で、上半身筋肉ぎゅうぎゅうらしいで。うちのお父ちゃん、言やったけどヌン
チャクいう棒2本ひもでくくつたもんびゅーん、びゅーん振り回して悪党やっつけるんや
て。」と僕。「都会でものすごい映画流行ったあるらしいで。今度松竹座へ来るんやて、
燃えよ・ドラゴン言うんやて」となかしゃ。「そうか、みんなで見にいこら。」とタコち
ゃん。「おう、見にいこら」と僕となかしゃが答えた。当時色々なものが流行っていて、
教科書を十時に止めて持ち歩くブックベルト、その先か後か忘れ又呼び名も忘れたが、段
ボールみたいな厚紙で出来た四角い箱形のブックケース等があった。そんな中で僕らの眼
の前に奴は現れたのである。そう、ドラゴン、はるか香港からやってきたカンフーの達人
ブルース・リーその人である。後日映画を見た僕ら仲の町3バカトリオは、全国の男性が
かかったブルースリー病にご多分にもれず、犯されてしまつたのである。高倉の健さんの
映画見た人が皆その後健さんのまねをするように、映画館を出た瞬間に僕らは「アチョー、
アチョ、アチョー」の連呼である。その日の晩から、男たちは腹筋と腕立て伏せを始める
のである。僕らも当然行った。家の部屋には、ブルースリーのポスターを貼り、オモチャ
屋で、プラスチックのヌンチャクを買って(僕のおとうちゃんは、通販で木のヌンチャク買
いました)振り回していた。もちろんブルースリーの映画は勝浦で上映されたのは全部見た
のである。レコードも持っていた。ブルースリーの映画は色んなストーリーがあるが、大
体ある店で雇われているブルースリーがその店に悪党が借金や何らかで言いがかりを付け
られ、その悪党の手下と店で一番強いと言われている男と戦って
悪党の手下にやられてしまう。店が困っているとブルースリーが私に任せてくださいと悪
党の陣地に向かい手下の弱いものから順に倒していく。そして一番強い手下との戦いで、
だいたい一度はブルースリーは倒れる。その後傷を負ったブルースリーはカンフー着の上
着を脱ぎ捨て、腰に差していたヌンチャクが登場するのである。
そしてしばらく戦い相手はたいがい倒されて死んでしまう。そして最後に悪投の親分と戦
い苦戦の末勝つのである。このストーリーに、そして格好よさに男はやられたのである。
今は、便利な世の中で、いつでもインターネットとかで映画を見ることが出来る。今見て
も格好ええ。小学6年の時の話である。さて、腕立て伏せやろかな。
第30話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第31話『メジロの鳴き合わせ会』
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「アーチョー」
久しぶりの更新であります。終わったわけでは、ありませんぞ。ちょっと仕事が忙しく
更新出来ませんでした。僕の作品の全国1千万のファンの皆様お待たせしました。
まだまだ書きまっせ。でわでわ、第31話であります。
「たけひろ、悪いけどメジロのえさ作ってくれんか。」「ああ、ええよ」
お父ちゃんに頼まれ、学校が休みの時は、朝早くからメジロのえさやりを手伝っていた。
小学生の頃の話である。僕の実家は、明治の中位に建てられた築100年くらいの家で
玄関をあけると奧まで長い通路がありその通路にそって部屋が建てられており奧には、
池があり縁側もあるいわゆる田舎の家である。玄関側を表、奥の部屋を裏と読んでいる。
その玄関のところにいつもメジロの鳥かごをかけており裏の方には、メジロが20羽、 ウ
グイスが5羽飼われていた。竹で作った鳥かごに前と後ろにとまり木を付けてその木
の
間をメジロたちは行き来するのである。1羽につきひとつの鳥かごである。今は野
鳥
の乱獲によりメジロとかの捕獲、飼育は禁止されているらしいが、約40年前は届け
て
をしていると捕獲も飼育も許されていた。僕のお父ちゃんも届け出をしており、仲買
の
仕事とが休みの土曜日には、めじろを捕獲に行ったりしていた。めしろは、鳥もうち
で
捕獲していた。そんなんで、僕は休みの時メジロのえさやりを手伝っていたのである。
大根の葉っぱやったと思うが、すり鉢ですりそれをおちょこみたいな物に耳かきみたい
なへらで8分目くらい入れる。それをかごに取り付けていた。その間お父ちゃんは、鳥
か
ごの底についた糞を掃除していた。勝浦では、月に何回か日曜日の午後メジロの泣き
合
わせ会が、地元のお寺の境内で行われており、僕もよくお父ちゃんに連れて行っても
ら
った。メジロはスズメより小さく緑色しており眼のまわりに白色の輪があるのが特色
で
早春に椿や梅に群がる。「チーチー」と雄だけが鳴く。鳴き合わせ会はそれぞれ鳴き
声
がきれいなメジロを持ち寄りある時間で一番きれいで良く鳴いたメジロが優勝だっ
た。僕のお父ちゃんの飼っているメジロも何度か優勝したことがある。いつまで続い
た
のか分からないが、僕が高校に行くころには、実家には、もうメジロもウグイスも
い
なかったと思う。鳴き合わせもいつの間にかなくなっていった。昔は結構メジロ飼っ
て
いる家あったんやけどなぁ~。僕の実家には昔使っていた 鳥かごがまだいくつか残
って
いる。たまに実家に帰って縁側にすわり池の金魚を見ていると近くに直している
鳥か
ごに眼がいくことがある。一生懸命すり鉢をすったのを思い出す。幼い頃のお父ち
ゃん
との良き思い出である。
第31話おわり
第32話『バスターミナル』
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しばらくぶりでございます。今回の話はその姿が無くなったのはおそらくそんなに昔
じゃないと思う物である。たぶん20年もたっていないと思う。でわでわ32話です。
勝浦のど真ん中、たけちゃん坊ちゃんの生まれ育った仲の町と魚市場のある築地との
境目にバスターミナルがある。字のごとくバスの駐車場で役場の所有物で我が観光協会に
管理委託されている駐車場である。勝浦のど真ん中なので、周りにはおみやげ物屋さん、
パン屋さん、肉屋さん、酒屋さん、銀行、飲食店がある。今はバスが前後に14台くらい、
自家用車が20台くらい停められる駐車場で、一角に事務所とトイレがある。近くには
ホテル浦島と中の島に渡る連絡船乗り場である観光桟橋があり、夕方には観光バスを降り
た観光客が海沿いにバスターミナルから桟橋まで歩く姿がよく見られる。
僕はまだ生まれていなかったので知らないが、年輩の方に聞くとここは遠い昔入り江で
埋め立てられ前のバスターミナルが出来たという話である。今回書きたいのは実は今のバ
スターミナルの話でなく、一つ前のバスターミナルについてである。僕らが生まれてから
今から約15年程前までのバスターミナルである。覚えておられる方も多いと思うが、そ
の当時のバスターミナルは、2階建てで、2階は展望台というかベンチがおいてありゆつ
たりと座つて休憩できるようになっていたのである。天井には朝顔があちこちに咲いてい
るようなラッパ型の屋根が付けられておりその2階からは観光桟橋、ホテル浦島、中の島、
もつと右に昔の越の湯、桟橋の所には今は万清楼となつているが、金波というホテルが見
えた。またはるか向こうには、カブト島、鶴島などの紀の松島が見えた。それらを見なが
らのんびり出来たのである。また、。この2階に続く階段が僕はたぶん生まれて初めて見
たと思うモダンな螺旋階段が取り付けられておりなかなかおしゃれであった。この2階で
当時の新婚旅行のカップル(表現が古いね~。もっと前はアベックとも言いました。)が
ゆっくり海を眺めていたりしたもんだ。その横で僕ら仲の町3バカトリオは走り回ってい
たのである。この螺旋階段も絶好の遊び場だった。1階には確か事務所とトイレが合った
と思う。今から思うとなかなかのモダンな建だったと思う。このバスターミナルでは、遙
か昔よりお盆の時期にやぐらが設置され旧勝浦地区の盆踊りが夜中まで行われていた。露
天も出ていて炭坑節や勝浦温度、めはり音頭などに合わせ地元民だけでなく帰省者や観光
客も入れ混じり夜中まで踊りまくるのである。そんな盆踊りも何年か前に消えてしまった。
時代の流れかな。寂しい気がする。また、勝浦幼稚園の時には、子供たちによる火の用心
パレードでこのバスターミナルでも演奏した懐かしい場所でもある。勝浦幼稚園は閉園し
てしまつた。(現在は他の保育園が引き継いで子供パレードを行っています)ただ、前にも
小説に書いたがこのバスターミナルの前の勝浦港では、9月の中頃勝浦八幡神社例大祭の
階伝馬や大人の御輿の海中御輿神事が行われる。伝統の祭りだ。いつまでも続いてほしい
と思う。バスターミナルたかが、バスターミナル。僕にとっては幼き思い出の建物である。
第32話終わり
第33話『タッチごっこ』
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淀川長治さん風に
はい、皆さんこんばんわ、久々の更新ですね~。ちょっと間があき
ましたが、ごめんなさいですね~。タッチといってもタッちゃんと南の話じゃありません
よ~。ま~、読んでからのおたのしみですね~。それでは、31話です。また、最後にお
逢いしましょう。さいなら、さいなら、さいなら。
はい、ということでタッチごっこでございます。これも勝浦小学校時代のお話です。
「おーい、昼休みタッチごつこやろらよ。」タコちゃんが、給食の僕らの大好物カレー汁
を食べている(正確には飲んでいる、カレーは飲み物です。)クラスの男子(お~懐かし
い呼び方や)に呼びかけた。「お~、ええね~、やろら~、体育館集合やぞ」ナカシャが
答えた。そして他の皆も「お~、分かった、ズルズル」とカレー汁を飲みながら答えた。
昼休みのチャイムが鳴り5分で給食を全部食べた男子(その頃の僕らは5分でコッペパン
1本、メインのおかず、小皿のおかず、牛乳1本を平らげるのなんて朝飯前、僕は3分で
食べ終わっていた。そうじゃないと生きていけない。家の家族は7人家族で5人男でいつ
もおかず゛の取り合いである。必然的に早食い大食いになる)は、もうダッシュで体育館
へ。急がないと他のクラスに体育館をとられるのである。タッチごっこは、ほぼ体育館全
体を使うのである。男子全部で16名くらい。「そしたらグッパーやぞ、せーの」でグー
かパーをだす。グーチーム8人とパーチーム8人に分かれる。簡単に言うとグーチームと
パーチームに分かれた2チームは、舞台側の壁と反対の壁とを各陣地として体育館中を走
り回る。そのときに相手チームのメンバーにタッチしたら相手の陣地の壁に片手をついて
とらえられる。2人目のとらえたメンバーは一人目と片手ずつで手をつなぐ。その捕らえ
られた一番新しいメンバーにまだ生きているメンバーがタッチできると、捕らえられたメ
ンバーが生き返りまた体育館中を走れ回れる。時間内で生きているメンバーの多い方が勝
ちという非常に疲れるが僕らにとっては非常に闘争心のあおられる遊びである。
各陣地の壁に壁に分かれたチームは「それでは、タッチごっこはじめ~」のかけ声で走り
回る。さわられそうになるとふんわり南の話交わす。なかなか忍者みたいな奴もいる。
体育館シューズには底に滑り止めみたいな感じになっていて思い切り走ってキューキュー
と方向を変える奴。うまく出来ず壁に激突するアホ、せっかく助けるのにタッチしようと
思って行ったのによそ見をしていて助けられないこれもアホ等いた。このタッチごっこ僕
らの勝浦小学校では、そう呼んでいたが他の地域は分からないし、こんなハードな遊びが
あったんだろうか。昼休み全力で走り回った男子たちは、5時間目は皆、頭の中はおねむ
りごっこであった。
はい、どうでしたか、タッチごっこ、それではまた次回お逢いしましょう。さいなら、さ
いなら、さいなら。
第33話終わり
第34話『勝浦の子供はあだ名付け名人なのだ』
今回はちょっと趣向を変えて勝浦の子供(僕らの小学校から中学校の時)の得意技あだ
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名付けについて書きたいと思う。前にある大阪出身のタレントが子供の時の友達たちのあ
だ名を紹介していて大爆笑したが、勝浦の子供も負けてません。でわでわ第34話でござ
います。
僕の友達のあだ名が続きます。あだ名とその次に理由が続きます。
トシヤくん( 字のごとく名前がとしや)、タコちゃん(鼻が悪くいつもくしゅくしゅして
いて口をタコみたいにしているので)、山ちゃん(やまじ君だが初めの山だけとって)、
おっちゃま(おおたに君だがおっちゃんやおじさんだったら普通なので)、ほしばーさん
(ほしば君の事おばーさんのことちゃうで)、ほくろ(鼻の横に大きなほくろがある
なみに僕のこと)たけのこ(名前がたけひろなので
ち
これも僕のこと)、ナカシャ(なか
しまが30回くらい^変化したらナカシャ)、フランケン(顔がそのもの)、梅干し殿下 (顔
がそのもの)、てるちゃん(てるゆきのてるにちゃんをつけただけ)、ペンギン(
ペン
ギンみたいな歩き方するので)、マッチ(角刈りが伸びてきたが髪の毛かたいのでそのま
まあらゆる方向にぴーんと伸びていてまるでマッチみたいだから)、ケンタン(けんいち
なので。ケンちゃんやったらかわいすぎるので)、なべっち(なべわりをかわいく)
おったん
(おっさんみたいやから)
、あんちゃん(あんだ君のこと)、ばば(名前がばば)
教授(坂本龍一氏ににているため)、せいぶつぶつぶつ(顔ににきびがいっぱい)、コンコン
(キツネみたいな顔していたから)、しまもっちゃん(名前がしまもとなので)
タケちゃん(名前がたけひろ
僕のこと)、ちゃっかん(かつや君のかっちゃんを並べ替え)
さるくん(名前がまさる)、はまっちゃん(はまち君)、くにやん(くにとし君)、きみやん (き
みかず君)、きたさん(名前の初めに北がつく)、にしやん(名前のはじめに西がつく)、さー
くん(さとし君)、まーくん(まなぶ君)、へこき(屁ばっかりしている)、きんた(金田君)、ペ
リカン(あごが出てる)、はまっちゃん(はまち君)、よっちゃん(よしのり君),
がいこつ(やせているから)、おやじ(おやじみたいやから)、むっつん(むつみ君)、
し
おちゃん(名前に塩がつく)、はまぐっちゃん(はまぐち君) 、おおえまん(おおえ君)、
みーくん(みなみ君)、だいちゃん(だいき君)、かんちゃん(かんじ君)
まだ、あるけどこれくらいにしときます。これらのあだなの方に対し決してけなすつもり
はなく、親しみを込めて上げさせていただきました。又、あだ名を無断で掲載したことを
お許しください。あしからず。
第34話
終わり
第35話『仮面ライダースナック』
はい、第35話でございます。実はこの話は前々から書くべきかどうか迷っておりま
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した。勝浦だけの懐かし話やないからです。他の話書きながら、さて次に書くかなと思っ
ても全国的な懐かし話ということで書けずにおりましたが、やはり勝浦の子供たちも、と
りつかれたということで思いきって書きます。でわでわ始まり、始まり。
「やった~、ラッキーカードや。アルバムもらえるぞ。見したろか~。」ナカシャがユミ
ネの前で叫んだ。ユミネというのは、勝浦小学校の近くの駄菓子屋である。僕ら仲の町3
バカトリオをはじめ旧勝浦の子供たちのたまりで、愛車(車ちゃうで~、自転車でっせ)
のライダー号にまたがりやってきたのだった。「うそ~、もんごいげ~。タコちゃん、ナ
カシャ、ラッキーカード当てたぞ。どえらいげ~。」と僕。(現物目の前にして確かに嘘
やないのに人はなぜはじめにうそ~、っていうんやろ不思議やなぁ~)。仮面ライダース
ナック。カルビーが1971年つまり僕たちが小学2年生の時から販売した カード付きの
お菓子である。今のお菓子詰め合わせに入っているちょっとミニサイズの袋にピンク色の
星形の甘いスナック菓子が入っていて、その1袋に1枚当時爆発的な人気があった仮面ラ
イダーの怪人たちの写真が写っているカードがもらえる。もらえると書いたのは、実はこ
のカードスナックの袋の中に入っているのではなく、店の人が一袋に1枚くれるのである。
この仮面ライダースナック1袋20円でこのライダーカードは何百種類もありこのカード
集めるのが僕らの心を射止めたのである。僕らは完全にノックアウトされたのである。毎
日ありったけの小遣いもってライダー号にまたがりユミネへ向かう日々がつづくのであ
る。このカードのすごいとこは、今思うと表に怪人の写真、裏に通し番号と怪人の解説が
書いている。つまりこのカードをたくさん集めると仮面ライダーに登場する怪人の図鑑が
完成するのである。またまたこのカードのすごいとこは、同じ番号でも微妙に図柄が違う
プレミアカードがあったことである。このカードの中には、かなり低い確率で、ラッキー
カードと書かれたカードが入っておりそのカードをカルビーの工場に送るとカードが20
0枚位入るアルバムがもらえる。しかし実はラッキーカードと交換になるのでラッキーカ
ードはもどってこない。だから現在このラッキーカードはヤクオフとかでかなりのプレミ
アとなっている。その後ラッキーカードが戻ってこないことに苦情が多発しカルビー側は
印を押して返却するようになったそうだ。また、僕はおいしくて好きだったのだが、この
スナック、カードほしさで店の前ではスナックだけが大量に捨てられているという社会問
題となって店側は回収箱を置いたりした。ところでナカシャのラッキーカード仮面ライダ
ー1号が富士山をバックにして変身ポーズをしているカードだったのたが、実はこのラッ
キーカード、僕ら勝浦の小学生の中で都市前説があった。ある時タコちゃんがそれを他の
友達から聞いてきて僕らにこういった。「仮面ライダーカードのラッキーカードやけど幻
のラッキーカードってあるんやって」僕らは「うそ~、どんなんなん、早よ教えてよ」
「ええか、よう聞けよ。幻のラッキーカード言うのはな、本郷猛がトイレ入って便器にま
たがってう○こしやるとこやって」僕ら全員「そんな、アホな~」その後、僕らの中で
幻のラッキーカードを当てたものは、いない。
第35話
終わり
第36話『たこ焼き売りのおばちゃん』
以前行商のおばちゃんの事を書きましたが、勝浦にはまだまだ面白にくめないおばちゃ
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んがおったのであります。さて、久しぶりに幼稚園時代までタイムスリップであります。
てわでわ第36話です。
それは、約半世紀前(おっちゃんも歳とったなぁ~、50年前やもんなぁ~)誉れある勝
浦幼稚園時代の話である。おかっぱ坊ちゃん借りのタケちゃん(僕ちんのことであります)
の小遣いは1日10円であった。かなりの悪たれ坊主だったタケちゃんは、年小組から幼
稚園には入れてもらえず2年目から入園した。その時に未だに友達であるナカシャとタコ
ちゃんたちと出会うのである。ここからタケちゃんの人生はアホな方へ狂い出すのです。
当時行商のおばちゃんもそうだが屋台とかで町内を廻るおばちゃんたちがおり、その中で
屋台を引いてたこ焼きを売るおばちゃん(今から考えるとおばあちゃんやね)がいたので
ある。使い込んだきでできた屋台。大きな車輪がついていて屋台の中にはたこ焼き用の鉄
板、プロパンガス、水で溶いたメリケン粉(今メリケン粉って言うものおるんかな、うどん
粉とも言います。要するに小麦粉のことね)の入ったバケツと手しゃく、きれいな水道水の
入ったバケツ、鉄板の横には大きなカンカンに入った秘伝(ほんまかいな)のソースにハケ、
青のりが入ったカンカン、鰹節の入ったカンカン、紅ショウガの入ったカンカン、つまよ
うじの入ったカンカン、タコのぶづ切りの入ったタッパー、船型の竹の皮で出来た入れ物、
そして必殺仕事人が持っている千枚通し(たこ焼きをくるっとひっくり返すあの先のとん
がったあれです)を置いていた。そして屋台のばけつの横には古新聞をある大きさに切った
包み紙を置いていた、薄汚れた屋台ののれんには、たこ焼きと手書きでかかれていた。ま
た、おばちゃん屋台には呼び鈴も付けられていた。僕ら仲の町3バカトリオは良く幼稚園
終わってから午後まわってくるたこ焼き売りのおばちゃんの屋台でたこ焼きを買った。当
時は、たこ焼きかユミネ商店の駄菓子である。たこ焼きは、本当いうとタコそのものを焼
いているものでなく、「タコの切れ端と紅ショウガがはいったメリケン粉でと丸く包んだ
もの焼き」が正しい名前ではなかろうか。おばちゃんは、子供が小遣いでも買えるように
3個10円の物と大人用15個50円で売っていた。「たこ焼き~、たこ焼きいらんかい
のし~。チリン、チリン」僕らは紅葉のようなかわいい手に10円握りしめて「おばちゃ
ん、うって~、たこ焼きうって~」と天使のようなかわいい声でおばちゃんからたこ焼き
3個買うのである。「あいよ、タケちゃんらいつもおおきによ。ちょっとまってな~」「お
ばちゃん、はよしてよ~、腹へっておなかとせなかくっつくわ~」「ほんまかいなぁ~、
そしたらお母さんにくっついたのはがしてもらわなあかんがな~。あはははっ」と言いな
がらおばちゃんは、まず舟形の入れものの底に一度ハケで秘伝のソースを塗り千枚通しで
カリカリに焼けた(最近べちゃっとなっているたこ焼きあるけど、たこ焼きはカリカリやな
いとあきまへん。)たこ焼き3個を取り上げ舟形の入れ物に乗せその上がまた秘伝のソース
をハケで塗りその上にまず鰹節の粉をかけ、その後青のりをぱらぱら。そしてつまようじ
を1本たてる。(まったくの独断だがたこ焼きは、かりかりで入れ物の底にソース一度塗
り、たこ焼き入れてもう一度上からソース塗り、後ここが肝心だが、つまようじを1本し
か差さないたこ焼き屋はろくな店ではありまぜん。いくつ入りかにもよりますが10個以
上入っているならお客さんが分けて食べるだろうと思って2、3本つまようじを入れるべ
きである。入れてない店はお客さんのこと考えてません。あくまで独断ですが。)「はい、
10円ね、おおきによ。走ってこけたらあかんで~、気つけなあよ~。」「だいじょうぶ
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やよ、おばちゃんおおきに~、あ~」案の定タケちゃんは、つまづいてこけるのである。
僕らには3秒ルールというのがあって落とした物は、3秒以内なら食べても大丈夫という
アホなルールがあるが、一度こけたら中々立ち上がれないのでこのルール通用しない。僕
が困った今にも泣き出しそうな顔をしているとおばちゃんは、「いわんこっちゃない、ア
ホやね~、ほれ」といっい新しいたこ焼きをくれた。この時ほどおばちゃんが、神様に見
えたときはない。「おばちゃん、ほんまおおきに、おおきによ~」
「あいよ~」そう言っておばちゃんは、また屋台を引いて行ってしまった。
「たこ焼き、たこ焼きいらんかいのし~。」
追伸
おばちゃんの屋台は、夏になるとたこ焼きとワラビ餅も売っていました。
第36話終わり
第37話『春咲半島半島キャンペーン』
いや、いやまた久しぶりの更新になってしまいました。趣味の音楽活動と本業の観光
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のお仕事(俺はいったい何者なんや~)が、忙しく今になってしましました。
(えっ、言い訳はええから早よ、書けって。わかってまんがな。全国1千万のタケちゃん
ファンの皆様長らくお待たせいたしました。本業の観光のお仕事の昔懐かし話でございま
す。でわでわ第37話のはじまりはじまり~。)
と言う事で、春咲半島キャンペーンである。僕が観光協会の狭き門をくぐり抜け超難関の
面接試験を通って(本人だけ、そう思とります。はい。) 入社した平成の初め頃は、南紀
の旅ぽかぽかキャンペーンとかエージェント(横文字の方がかっこええでしょ。つまり旅
行会社のことです)と共同で観光客を勝浦方面に呼び込むキャンペーンをよく行っていた。
(今もありますが、その時の方が年間での数が多かったかな)その中でJR西日本和歌山
支社が事務局となり、南部町から新宮市までの「きのくに線」沿線を中心とした13市町
村(当時) で実行委員会を作り平成8年頃から約10年位 続いたキャンペーンである。
つまり当時から南紀の各市町村はこの実行委員会等でつながりが深く非常に仲が良かった
のである。だから僕なんかも20年近く友好を続けていただいている方もあちこちの市町
村におり非常にうれしい限りです。このキャンペーン春咲半島と書き(はるさきはんとう)
と読み、春に花がたくさん咲く半島と春先の意味もあり1月にはすでに菜の花が所々に咲
くほど暖かく日本でもっとも早く春が来るのが南紀であるという意味を持っていた。毎年
12月1日から翌年の3月31日までの121日間の期間であり、各市町村とJRが負担
金を出し合いろんな企画を考えた。最初の年には、イメージキャラクターに当時のトップ
アイドル西田ひかるさんが、採用され那智山とかでポスターやCMの撮影が行われアイド
ル大好きタケちやんも仕事で撮影に同行させていただいたのである。手元の当時の資料に
よると太地町の梶取崎、鯨浜公園、串本町の潮岬などで菜の花やすいせん等により春らし
さを演出しますとある。また、キャンペーンのサービスとして白浜駅での「海人鍋」、紀
伊勝浦駅での「まぐろ汁」の無料配布など行い、駅に到着した観光客に当時の温泉娘(勝
浦のキャンペーンガール)より菜の花のプレゼント等行った。又、期間中春咲半島再発見
クイズやマウンテンバイクスタンプラリーなども行った。またまた、期間中の土、休日「春
咲くろしお号」の運行も行われた。約、20年前のきゃんぺーんだが、オーシャンアロー
号が運行を始めたときでもあり多くの観光客が南紀にやってきたのである。この春咲キャ
ンペーン、紀伊半島の世界遺産登録に伴い古道キャンペーンと名前や企画内容も変わりし
ばらく続いたが、その後円満解散した。今はエージェントと共同でのキャンペーンという
形は変わり、県の観光連盟等のもと各市町村の観光関係職員がグループで全国の旅行会社
やマスコミを廻ったり、主要都市の会場でエージェントやマスコミの方を集めて観光PR
や商談会を行う形に変わってきている。春咲半島キャンペーン入社したての若造が、無我
夢中で取り組んだ良き思い出である。
第37話
終わり
第38話『温泉娘』
はい、前回の春咲半島キャンペーにもちょこっと登場しましたが、今回も本業の観光の
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お仕事に関する那智勝浦町昔懐かし話であります。でわでわ第38話であります。
「なあ、吉野さん、そろそろ来年の温泉娘の募集記事新聞に載せやなあかんね。」
観光協会の同僚である I さんが僕に尋ねた。「そうすね。もう12月入ったから紀南新聞
と南紀州新聞に記事載せますか。あと記者クラブにも情報流しときましょ。」「そうやね。
来年もかわいい娘応募してしてくれたらええけどなぁ」
温泉娘というのは、那智勝浦町観光協会に所属する那智勝浦町のキャンペーンガール
である。僕が平成5年に狭き門(えっ、もうその冗談はええって、すいません)を突破し
て観光協会に入社したのだがすでにその時には、温泉娘が存在したのだからおそらく30
年近く前から那智勝浦町のキャンペーンガールとして頑張っていたことになる。温泉娘は、
字のごとく那智勝浦町は、温泉と生まぐろ(当時はまだ、世界遺産に登録されていなかっ
たのて、世界遺産の町という言葉は後で付け加えられました。)の町であるためそのキャ
ッチフレーズにふさわしい名前として温泉娘と言う名がついていた。1年任期で4月から
翌年の3月まで平安衣装によつての観光キャンペーン参加やテレビや雑誌のモデル、ラジ
オの出演、各イベントへの参加等全国に出かけたりしていた。人数は4人から5人で
前年の1月から3月上旬まで各新聞や雑誌、ラジオ等(当時はまだインターネットという
ものが無く当然ホームページやfacebookとか言う物が無かったのであります。携
帯もありませんでした。)で応募し、履歴書と全身の写真を提出していただき、三役と局
長と担当の I さんによって厳重(ほんまかいな)の面接を行い温泉娘を決めていた。
応募資格は18歳以上の健康で明るい女性、1年通して要望があれば出張可能な方、容姿
端麗、高校生不可という主な内容であった。勝浦在住でなくても大阪とか地方でのキャン
ペーンに参加できれば採用したりもした。制服も僕が入社した頃はこちらの女性社員が決
めたりしていたが,その内温泉娘たちでいくつかある候補から選ばして購入したりした。
基本的に帽子、上下の制服、靴、たすきを用意し1年間貸与しその年が終われば本人にプ
レゼントした。出張費は実費支払い、また1回PR活動に参加ごとに規定の日当を支払い、
1年間終了時規定により謝礼金を支払っていた。どこかのキャンペーンガールみたいに外
国旅行プレゼントとかは、なかったが、皆非常に那智勝浦町のために頑張っていただいた
と思う。同僚のIさんは、僕より5年遅く入社したのでその5年間は僕が温泉娘たんとう
だった。東京や大阪でのキャンペーンに同行したり、他の市町村の方々といっしょにマス
コミやエージェント廻ったりもした。この温泉娘世界遺産登録前年くらいまで続き、予算
の関係や、キャンペーンの時は県のキャンペーンガールも出席するのでそちらにお任せす
る等の理由で無くなった。今は県のキャンペーンガールと共に観光協会の女性職員が平安
衣装とかでPRを行っている。この温泉娘の中から実は、プロのモデルになったりタレン
トになったりした方もいる。本人のため名前は伏せるが、和歌山出有名なスーパーのCM
で一番前で踊っている彼女も温泉娘出身である。おそらくこの話をごらんの方々の中には
昔温泉娘だった方、お母さんや姉妹、友達が温泉娘だった方もいらつしゃると思う。
温泉娘だったことをいつまでも誇りに思っていただければと思う。この話も良き思い出の
ひとつである。
第38話終わり
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第39話『学研の科学と学習』
ちょっと間が開きましたが、第39話です。今年中に50話行きたいと思ってますが、
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どうなるか。今回の話は勝浦だけでなく全国的に懐かしい話になると思いますが、僕らの
小学生の時の話であります。でわでわ39話であります。
「はーい、みんな聞いてよ。明日学習と科学の販売日やから頼んだある人は、集金袋にお
金入れてもってきてよ。忘れんようにね。ちゃんと連絡ノートに書くんやで~」
「はーい」皆元気良く返事。小学6年生の時の話。「タコちゃん、明日科学の発売日や
と。先月号に載つたあたけど今度の付録日光カメラやぞ。」と僕。「うそ。ほんまかん。
日光カメラほしかったんや。楽しみやね。」僕の斜め前に座っているタコちゃんは、いつ
ものごとく鼻を くしゅくしゅしながらニコニコ顔でそう答えた。それを聞いていた僕の向
かいに座っているナカシャは、「日光カメラかん。どえらいええげ。貸してよ。僕学習や
さかに。頼むで、タケちゃん」「ああ、ええよ。300億兆万円で貸したるわ。」と僕。
「ほんま、安いね。400億兆万円払うわ。頼むで~。」とナカシャ。相変わらず仲の町
3バカトリオの会話である。学研の科学と学習とは、僕のパソコンのアホーで調べたら
1946年学習研究社より創刊。内容は当時の学習指導要覧に対応しており1年生から6
年生まで各学年別に「学習」と「科学」の2種類があり確か月刊だったと思う。
「学習」は、主に国語と社会を中心に編集。読み物が多かった。「科学」は、主に理科と
算数を中心に編集。立体編集と銘打ってページの一部をハサミでちょっきんこしたり、折
り曲げたりして何かを作り上げたりする読者が体で学べる工夫がされていた。またこの2
種類の雑誌がすごいのは、永井豪氏や石ノ森章太郎氏のマンガが載っていたり、ムツゴロ
ウさんが、原稿を寄せていたりしたのがすごい。またまた付録がすごかった。一例をあげ
ると「科学」は、日光カメラ、レコードプレーヤー、カブトガニ飼育セット、磁石、ラジ
オ、顕微鏡、「学習」は、年賀状制作キット、鉱石セット、地図記号スタンプなどである。
この「学習」と「科学」僕らの母校勝浦小学校では1階の端に給食室があり、少し離れて
購買部があり、発売日に子供たちが集金袋に入れたお金をもって昼休みに交換に行く事に
なっていた。そして僕ら3バカトリオは、その週の休みの日僕の家に集まり早速「日光カ
メラを手に入れた記念グレートダイナミックスペシャル撮影会 」(前にも書いたが僕らは
なんでもグレートとかキングとか付けたらすごいと思ってました。)を開催したのであり
ます。モデルはタコちゃん。付録のカメラについていたフィルム(というかどうか分かり
ません)をセットタコちゃんはポーズ。しばらく動かずそのまま。そして撮影終了。
しばらくすると タコちゃんの姿がフィルムに浮かび上がってきた。「これ、あかんやん、
顔まがったあるやん」とタコちゃん。「いや、実物より男前やで。」と僕とナカシャ。
「アホか、俺仲の町のアランドロンやぞ。こんなに顔曲がる分けないやん」とタコちゃん。
それを言う顔がもうすでに曲がっていたのであります。小学生の時のほんわか思い出であ
ります。ちなみに、2009年「学習」、2010年「科学」より休刊となりました。 こ
れも時代の流れなんですね。
第39話
終わり
第40話『生まぐろ1本付き出前解体プレゼントキャンペーン』
記念すべき第40回である。やはりここは、那智勝浦町の観光の歴史、そして我が観光協
- 45 -
会の約60年の歴史に燦然と輝くキャンペーン、そう「生まぐろ1本付き出前解体プレゼ
ントキャンペーン」のことを書かざるを得まい。後生のために。でわでわ第40話であり
ます。
「あかんわ~。課長受け入れてくれへん。どうしよう」それは、平成22年の 11月末
の話である。行政の方は分かると思うがこの時期は来年度の予算獲得のために必死になり
来年度の事業を明確にし予算書を作成するタイムリミットの時期なのである。僕は次長と
して予算書の作成をまかされ当時の会長や理事、職員等と相談し来年度の新しい企画を取
り入れた予算書を作成し局長と一緒に観光産業課の T 課長に説明にいっていたのである。
「う~ん、この企画で観光客呼べるか、今までとほとんど同じやないか、悪いけどもう一
回考えてくれんか。」町民の方の税金である、取る方も必死なら決める方も必死である。
何回か皆で検討し直したあと僕が「毎月まぐろ1本当たるのどうやろ、今まで裁いてブロ
ックとかプレゼントとかあったけど、1本ってなかったんやない。」皆は、「そうやなぁ
~。ええかもしれん。企画書作ってくれるか」「分かりました」そして、なんと僕は5分
で企画書と予算書を作り上げ局長と共にT課長の所へ。「毎月生まぐろ1本プレゼントか。
おもろいかもしれんなぁ~。う~ん。そうや、どうせ生まぐろやるんやったら解体できる
やろ、解体もプレゼントせぇ。」と T 課長。「生まぐろの解体プレゼントですか。たとえ
ば全国どこでも行きますとか。」「そう、それや、今までどこにもないぞ。マスコミ飛び
つくぞ。それやれ。よっしゃ~、ええぞ。来年は生まぐろ1本付き出前解体プレゼントキ
ャンペーンや、ええぞ。」と言う風にこれも何と5分で決まった。子供たちよ、良く聞い
て置いてください。「ええアイデアは時間かけたら出るんやないんやで。ひらめきなんや。」
そして平成23年4月から1年間このキャンペーンを行うこととなった。でも案の定、周
りからは「そんなもんで、観光客よべるかい。あかん、あかん」ってぼろくそ言われたり
した。またまた子供たちよ、よう聞いて置いてください。「正しいものほどけなされたり、
批判されるんやで~。そこであきらめるのか、最後までやるのかなんやで~。」このキャ
ンペーンは、簡単に説明すると那智勝浦町の宿泊施設に泊まると一人につき1枚応募券が
もらえそれをフロントにある箱に入れる。そして全宿泊施設の応募券を毎月初めに観光協
会職員が集めに行きマスコミの前で抽選会をし1名当選者を決め希望日に自宅等にワゴン
車にスタッフとまぐろを積んで出前解体をやりに行くという物だ。生まぐろは、キハダか
メバチで約20キロを氷詰め。平成23年から平成25年まで3年続いた。非常に好評で
多いときは月に2万枚の応募券数のときもあった。3年間なので合計36回だが、あの台
風の被害でこちらから行けなかった、またどうしても当選者が出前解体を断る等で計32
回全国を廻った。和歌山市の和歌浦の旅館にも湯浅町のお宅にも行った。スタッフは、解
体、助士に漁協の2人ないし3人、協会より僕ともうひとり、また当選した方が宿泊した
宿のスタッフ1人で 4人から6人で北は埼玉、西は岡山、また徳島まで朝まぐろを積んで
その日の夕方に現地に着くよう走り廻った。東京へも2回10時間かけていった。雪の時
もあり、高速で事故があり仕方なく国道を走りつつけた時もあった。僕は全回参加した。
つまり32回全部担当者として走り廻った。
平成23年の第1回目の時、大阪のお宅だったが実は和歌山の地元のNHKの記者が同行
し取材、また関西テレビ、読売テレビも取材、ラジオも3社取材にきて後日同じ日の午後
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5時ころその出前解体の様子がNHK、読売テレビ、関西テレビのどのチャンネルを回し
ても放送されているというすごいことが起こった。後日僕ら観光協会の職員と観光産業課
のT課長はこういったものである。「やったなぁ~、マスコミに勝浦のこと取り上げても
らってPRしてもらい観光客を増やすのが目的や。俺らが正しかったんや」と。後このキ
ャンペーンの終了時平成26年の3月に平成25年全国の中から 1 年間プロモーションに
優れていたと言うことで、特別賞をいいだき、東京での授賞式に出席した(ちなみに大賞
は九州新幹線の企画だった。サントリーとかもノミネートされていて大手企業の企画と並
べられたのである)。記念の盾は、観光協会に飾っている。昔懐かし話というか、ついこ
の間の話だが、記念すべき40話にふさわしいと思ったので書きました。
第40話終わり
第41話『愛すべき我がふるさと
那智勝浦町仲の町』
はい、記念すべき第40話を書き上げもうだめかと思われた全国1千万のタケちゃんファ
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ンの皆様、残念でした。まだまだ書きまっせ。なんとか今年中に50話書き上げたいと本
気で思っておりますアホでございます。えっ、そんな事よりはよ書けって。わかってまん
がな。でわでわ第41話僕の生まれ及び育った仲の町のはなとであります。
はい、以前から何回も書いているのでご存じの方は多いと思うが、新宮市の仲の町と同じ
く那智勝浦町にも仲の町(なかのちょう)と言うところがあるのです。旧勝浦は1区から6
区に分かれ仲の町は、第3区に当たる。つまり仲の町は、那智勝浦町のど真ん中のそのま
たど真ん中である。今の観光桟橋のあるあたりであります。僕の実家はそのまたど真ん中
にありようするに那智勝浦町のど真ん中でタケちゃんは、昭和38年9月15日(昔の国
民の祝日、老人の日)に誕生したのである。(自慢話になりすいません。)子供の時か神
童と呼ばれず幼稚園にも年少組組から入れてもらえなかった悪ガキタケちゃんは、幼稚園
に入る前からタコちゃんとナカシャにこの仲の町出出会いいわゆる仲の町3バカトリオが
できたのて゛あります。 それからの活躍は僕のこのシリーズに書いているので、いかにこ
の仲の町で教わり鍛えられたかおわかりだと思う。僕のほとんどない脳みそをほじくりま
わし約50年前の昭和30年末から昭和40年代の仲の町の様子を書いてみることにす
る。仲の町とは、バスターミナルよりのまぐろ料理で有名な桂城の前の道を入った通りか
ら右にずっと中島酒店あたりまでの地域である。この海岸どおりに面したあたりは、その
頃は夕方になると浴衣をきた観光客が行き来していた。そして1本入ったいわゆる仲の町
通りには桂城側から、食べ物なら何でもそろった田中フードセンター、パーマ点、学校の
制服を買った中村呉服店、靴店、僕が初めてウイニーを買って食べた新谷精肉店、大石呉
服店、クリーニング店、大井魚店、浜薬局、和中歯科医院、紀陽銀行勝浦店、新宮信用銀
行勝浦支店、吉野百貨店(よく言われたが、僕の実家でも親戚でもありません)、タケち
ゃんがいつも坊ちゃん刈りにしていた鳥居理容店、コロッケが抜群にうまかった新田商店、
船具店、お父ちやんのハイライトをいつも買いに行かされた、あべくらたばこ店、森本か
しわ店、中嶋薬局(ナカシャとこの親戚やったと思う)、と1キロもない通りにこれだけの
店が並んでいてなんと僕の家の前に紀陽銀行(今の港郵便局)、隣に新宮信用金庫があっ
たのである。(なんせ40年近くも前の話なので名前の間違い、思い出せない店名もあり
ます。ご了承ください)十割そばの森本屋さんに行ったことのある方は分かると思うが、
仲の町の昔の家は、玄関から奧まで廊下がつづいておりその廊下の左右に部屋があると言
う作りで非常に風邪通しのよい作りとなっている。僕の実家もぼろぼろだが、築約100
年のそのような家で家の中に小さな池があり今は使っていないが井戸もある。また縁側も
ある。
今は仲の町にもあまりそのような家は残っておらず誇りである。前の港郵便局の建物もモ
ダンでなかなかのものである。このように仲の町は昔の勝浦を知るには、絶好ののとおり
であり、隣の脇入り地区と会わせ今脇仲クラブの皆さんがこの脇仲通りのPRのため色々
なことをされている。本当にうれしくありがたいです。我がふるさとで、育ちの地区仲の
町と脇入り地区を皆様ぜひ那智勝浦町にお越しの時はのんびりと歩いてみてください。昭
和の世界にもどれますよ。我が仲の町、愛すべき仲の町、いつまでもこのままでと
願わずにおられない。
第41話
終わり
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第42話『地下鉄サリン事件』
はい、第42話であります。この話は多くの方がお亡くなりになり、また被害に遭われ
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ましたので、書くべきかどうか迷いましたがあえて事実として書くこととしました。
昔懐かし話という軽々しい物ではないことも十分承知しているつもりでありますが、当
時の話として後生に伝えるべくあえて書かせていただきます。何故ここで書くのか最後ま
で読んで胃たたければお分かりいただけると思います。42話です。
平成7年3月20日、僕は観光協会に入社しやっと1年がたち会長とかとともに出張に
も連れて行っていただくようになっていた。前日の3月19日より観光協会、旅館組合、
役場観光経済課(当時観光経済課でした)の職員代表約5人でグループを組み19日には
名古屋、、20日と21日の午前中は東京の旅行会社をPRのために訪れることとなって
いた。19日に名古屋の旅行会社を訪れ終わった僕たちは、20日午前9時名古屋駅発東
京行きの新幹線に乗車した。僕らは車両の真ん中あたり。車両の前の上あたりにはその日
のニュース等が電光掲示板で流れる。名古屋を出てしばらく経った時僕は何気なしにその
電光掲示番に眼をやつた。読売新聞ニュース「東京の地下鉄で液体がまかれた模様。けが
人もあり」と流れた。僕はすぐに隣の局長に「東京の地下鉄でなんかあったみたいですよ」
と話しかけた。局長は眠っていたらしく「どうしたんな。地下鉄でなんかあつたんか」
と電光掲示板に眼をやった。「液体ってなんやねん」後日ニュースでやっていたがその液
体がサリンであると言うことが分かるまでかなりの時間がかかつたらしい。そしてまたし
ばらく時間がたって電光掲示番には「東京の地下鉄の何カ所かで透明の液体がばらまかれ
たみたい。けが人がでているもよう」と流れた。この時も当然サリンだとわかつておらず、
事の重大さも僕らもマスコミ等も当然わかっていない。そのような電光掲示板を見ながら
僕たちは東京駅に午前11時頃到着。予定表ではそこから地下鉄で地下鉄の築地駅まで行
き東京の晴海にあるホテル浦浜(当時は晴海にホテル浦島のホテルがありまはた)に行き
大きな荷物をフロントに預けてホテル浦島のご厚意でマイクロバスで旅行会社をまわるこ
ととなっていた。地下鉄で行くこととなっていたが誰かが、「皆、荷物あるさか、お金か
かるけどタクシーでいこらよ。」と急遽タクシー2台にて晴海のホテル浦島へ向かった。
午前11時である。これが良かった。地下鉄で行ってたらどうなってたか分からない。タ
クシーでホテルに向かう途中かちどき橋にさしかかった。その時の光景は今でも忘れない。
何台もの消防車、救急車、そして自衛隊の人々。かなりの人数が地下鉄の入り口付近に集
まっていた。当然僕たちはそんな大惨事になっているのも知らないし、タクシーの運転手
に「あれ 、なんですかね。避難訓練かなんかですかね。」と聞いていた。「さあ、避難訓
練あるとかきいてないけどなぁ」と運転手。その時間には、まだあまりそんな大惨事が起
こっていたのを人々はしらなかったのである。僕らは、ホテルに着き昼食をすませ
その後旅行会社を何軒か廻り夕方自分たちの部屋へ入った。僕も自分の部屋に入りテレビ
を付けた。その画面にはすぐそこの地下鉄の入り口の様子が映し出されたくさんの方が運
び出されている映像が流れている。「あの模様はこれやったんか。え~、うそやろ~。」
信じられなかった。ついそこでこの映像の事が起こっていたのである。あのまま地下鉄で
行っていたらどうなつていたか。僕はすぐ隣の部屋の局長たちの部屋に行った。皆もテレ
ビを見ていて初めてその事実を知った。僕は部屋にもどり結婚前の今の奥さんに電話した。
「あっそうなん」しか言わなかった。情報がまだあまり伝わっていなかったからか。当時
は当然携帯もスマホもインターネットもパソコンも無かった時代である。
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この事件で13名の方がお亡くなりになり、約6000人の方が被害に遭われたそうだ。
心よりお悔やみ、お見舞い申し上げます。
第42話
終わり
第43話『ボウリング場』
はい、42話がいつもと違う形になってしまったので、43話は元にもどしまっせ。
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今年中に50話行きたいと思っていますが、決してあせってはいません。まだまだネタは
ありまっせ。今回は娯楽のお話であります。でわでわ43話です。
「たけひろ、ボウリング連れったろか。」お父ちゃんはマグロの仲買いだったので土曜日
は休み。僕ら小学生は昼までだった。「ほんまかん。タコちゃんとナカシャも誘ってもえ
え。」と僕。「ああ、ええよ。」「分かった。ちょっとタコちゃんとことナカシャとこい
ってくるわ。」僕の家からタコちゃんの住んでいるアパートまでライダー号(自転車であ
ります)で2分、ナカシャとこまで3分であった。2人ともただやったら来るので。即「う
ん、行くよ。30分後にタケちゃんとこやね。」の返事。その頃はまだ、電話が各家庭に
ある時代ではなく、なかなか不便だった。そして僕のお父ちゃんは、車に乗って無く、僕
ら3人はライダー号、お父ちゃんはマジンガーZ号(んなわけありません。笑。)お父ち
ゃんは、いかにも昔のがっしりしたおそば屋さんの出前で使うような大きな自転車に乗り
勝浦駅裏のボウリング場に乗り込んだのである。その頃(昭和40年中頃)はボウリング
ブームで、中山律子さんが特に人気でテレビでもボウリングの番組をよくやっていて、律
子さんは、CMにも出ていたほどだった。「りつこさん、なかやまりつこさん~。」とい
うフレーズが有名だった。那智勝浦町にも、今の駅裏のホテルの所に、あと元教育センタ
ーの所にボウリング場があった。(まだあったかもしれませんが、すいません、覚えてお
りません。)建物の上に大きなボウリングのピンが立っているので遠くからもよく分かる。
なんとかボウルと。そうこうして、僕たちはお父ちゃんが、4人分のお金を払い靴を貸し
てもらって、仲の町4バカ(お父ちゃんごめん)グレートデラックスボウリング選手権が
はじまったのである。お父上はお江戸の4大学に学んだ天才でありましたから、自分でシ
ティボウイとぬかしていたが(汚い言葉、お父上おゆるしくだされ)結構うまく、あと何
故かナカシャがうまかった。僕とタコちゃんは書くのも申し訳ないほどでありました。は
い。でもそんな結果でも楽しく、子供だけで行けなかつたので、お父ちゃんに連れて行っ
てもらう機会が多かった。おもちゃでも野球盤も人気があったがボウリングゲームも人気
があつた。しかし高かった。僕の親戚に東京で会社の社長しているおじさんがおり、盆と
正月に勝浦に良く遊びに来ていた。だからタケちゃん坊ちゃんは言葉巧みにお土産のリク
エストをし、デラックスボウリングゲームを手に入れていたのである。土曜日以外は、学
校が終わったら良く僕の家で仲の町グレートデラックスボウリング選手権(ゲームやけど
ね)をおこなっていたのである。ボウリング場では、今はボールを投げると自動的にスコ
アが電光掲示板に示されるが、昔はスコアの用紙と鉛筆をもらい手書きである。スペアと
かストライクとか全部手書き。面倒くさかったが、ボウリングをやっている間、ぼくちん
達は、シティボ-イの香りに酔いふけっていたのであります。また、終わった後の一杯(い
やいや、冗談です)、終わった後の瓶のファンタグレープはシティボーイの味がしました
とさ。
第43話
終わり
第44話『かしわごはん』
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はい、いつもより速いペースでの更新であります。前に、はったい粉やおまぜ等食べ物
の話を書いたことがありますが、久々に食べ物の話ですよ。でわでわ第44話であります。
「お母ちゃん、明日遠足なんやけど弁当たのむで。」「あいよ。遠足かん。タケちゃん、
かしわごはんのおにぎりでもええかん。」僕が小学生の時の話です。「ほんまかん、やっ
た~。かしわごはんうまいもんね。あとお母ちゃん、こんこと卵焼きとウインナ入れてよ。
こんこ多めやで。」「あいよ、こんこ山盛り入れたるわ。タケちゃんこんこ好きやもんな
ぁ」「お母ちゃん頼むで~」「あいよ、かしわごはんは、おばあちやんに味付けしてもろ
たるわ、おかあちゃんのもうまいけど、おばあちゃんのは、特別やで~」「え~、おばあ
ちゃん、ほんまかん、つくってくれるん。」「あ~、ええで~。タケちゃんのためやった
ら喜んでつくったるよ」「お母ちゃん、おばあちゃんたのむで~」かしわごはんというの
は、簡単にいえば鶏肉 (かしわ)を入れた炊き込みごはんである。西日本では、鶏肉の事を
かしわとも呼ぶのである。僕のパソコンのアホーで調べたら、かしわ飯、九州では鶏肉の
ことをかしわと呼びかしわを入れた炊き込みご飯で、細かく刻んだ鶏肉とにんじん、干し
椎茸などを醤油、みりん、酒、だしの元を入れて米といっしょに炊きあげる福岡の郷土料
理であると載っていた。関西でも鶏肉のことをかしわというが、僕のお母ちゃんは福岡出
身なので勝浦で僕の家だけ作っていたのかと思い職場の同僚に聞いたらかしわごはんとい
う言葉すら知らなかったが、ある人は呼び方は知らんけど、かしわの入った炊き込みご飯
やろと答えて食べた事あるよ、と返事があった。あと、僕の嫁さんの家でも勝浦育ちのお
母さんが普通に昔からかしわごはん作っていて今でもたまにお裾分けしてくれる。勝浦の
他の方はどうなんだろうか。祭りのときやお祝い事の席では決まっておまぜやったし、か
しわごはん食べないのだろうか。かしわごはんは、あるけど、呼び名は鶏肉入り炊き込み
ご飯なのだろうか。皆さん、教えてください。何遍も書いて申し訳ないが、僕の中ではご
く当たり前に小さい頃からの食事であり、おまぜと並ぶ2大おいしいごはんであるのだ。
また、これも分からない方がおられると悪いので書くと、こんことは、たくあんの事であ
る。昔の方はなぜこんなに料理がうまいんだろうか、といつも思う。僕のおばあちゃん(亡
くなってます)や僕のお母ちゃん(80近いが元気です)や嫁さんのお母さん達が作った
おまぜやかしわごはん、煮物など、なんであんなにうまいんやろか。そして何でも作る。
うちのおばあちゃんなんか、まぐろのにぎり寿司、昆布ずし、サンマ寿司、イカやタコの
寿司、いなり、海苔巻き、めはり、煮物各種、おせち料理全部、餅もつくし、なんでもや
ってしまう。だから寿司なんか家で作って食べるもんだと思っていた。仲買いなんで、特
上のまぐろが手に入るし、マグロの握りも格別にうまい。家で極上の寿司が食べれたので
ある(寿司屋の皆さん、すいません)。話それたが、かしわごはんを夕食に食べるとき僕
の実家ではこんこと、おすましを作っていた。これもまたうまかった。ここ2年前くらい
からうちの奥様がかしわごはんを自分でつくるようになった。最初は本とにらめっこ。ま
ずくはなかったが、やはり僕のお母ちゃんや、奥様のお母様とちょっと違った。最近は大
分近くなりかなりおいしくなったがもうちょっとかな。かしわごはんはさめてもおいしい
し、おにぎりにしてお弁当にも出来る。この話書いてたら、かしわごはん久しぶりに食べ
たなってきたなぁ~。明日リクエストするか。もちろん、おすましとこんこ大盛りつきで。
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第44話
終わり
第45話『町民総踊り』
はい、またもや早いペースの更新であります。ここだけの話やけど結構45話も書くと
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ネタも大変なのよん。ある時ふと人と話している時やテレビ見ている時なんかに「あっあ
んな事もあったんやないか」と僕の脳みそがいっぱい詰まった頭の記憶装置を動かしタイ
トルを考えるのであります。またタイトル決まったのはいいが内容があまり思い出せない
ときは、昔の資料や、パソコンのアホーで調べたりして大変なのよん。
まあ、今年中に50話突破し来年は100話達成し本にして出版しサイン会開いて芥川賞
とノーベル文学賞とるという夢を昨日見ました。あっはは。えっそんなことどうでもええ
から早よ話に行けと、分かりました。でわでわ45話であります。(前ふり長いなぁ~。)
はい、皆さん突然ですが、めはり音頭って知ってますか。「南紀かつうら
にほんのおへ
そ~。」から始まる那智勝浦町を代表する音頭である。三波春夫さんの歌で勝浦の人間で
知らない者はいないぐらい有名な音頭である。各区の盆踊りや行事、また小学校では運動
会でこのめはり音頭にあわせて踊る。だから大抵の大人も子供もこの音頭を踊ることが出
来る。このめはり音頭、字のごとくあのめはり寿司のめはりをタイトルにした音頭である。
歌詞は勝浦の名所(紀の松島や那智の滝等)が入っている。今から約30年前の昭和61
年にNHKの昼のプレゼントの公開生放送に合わせ作られ三波春夫さんの歌で録音されレ
コード化された。このめはり音頭発表に合わせ当時の観光産業課等が中心となりめはり音
頭に合わせ町内を踊りながら廻る「町民総踊り」いわゆる「めはり祭り」が翌年の昭和6
2年の夏から始まった。当時は8月1日に勝浦温泉花火大会が1年ごとに勝浦湾と那智湾
で交互に行われており、その花火大会の日に勝浦駅周辺で花火大会前に町民総踊りが開催
されていた。町内の各区、各団体が自分たちの考えためはり音頭に合わせた踊りと衣装で
参加しそれを町長や各団体長達が公平に審査し優秀団体を決める。魚市場当たりから各団
体ごとに行列を組み バスターミナルから今の紀陽銀行の所をまがり駅の方へ海産物セン
ター前をまがり駅前本通りを通り市場へ向かい終了とだいたいこんなコースだったと思
う。めはり音頭のレコードに合わせて踊るのだが、時には歌の得意な町民が生で歌ったり
もしていた。そして踊り切った町民はそのまま花火大会の会場へ向かうのである。この町
民総踊りは2001年まで続き、2002年に7月の末に夏祭りというイベントを駅前に
て行うようになりその中の一つのコーナーとして続けられた。その夏祭りも約10年前ま
で続いたが、様々な理由により終了し今に至る。同時に長き歴史の町民総踊りも幕を閉じ
たのである。しかしめはり音頭とその踊りは今でも色々な行事や運動会等で受け継がれて
いる。また、冬の一大イベントのまぐろ祭りでも藤紀和会の皆さんが23年前の第1回目
から踊り続けてくれていて、会場の皆さんともいっしょになって踊る。これからもめはり
音頭は踊りと共に受け継がれることを願うものである。那智勝浦町を代表する有名な音頭
として。
第45話終わり
第46話『熊野七湯七滝七薬師キャンペーン』
はい、息つく暇もなくまたまた更新でございます。僕の頭はショートしそうであります。
しかし書きたいネタはまだまだ頭の貯蔵庫の中にいっぱいあるでよ。僕には全国1千万の
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ファンがまっていると自分だけ思とりますです。はい。でわでわ今回も勢いよくいくきま
っせ。でわでわ第46話でございます。
みなさんは、熊野地方に七つの滝と七つの湯と七つの薬師があるのをごぞんじでしょうか。
この話は、僕が観光協会へ狭き門を突破(ほんまかいな)して入社してから4年後の平成
9年と10年に行った画期的なキャンペーンのはなしである。先に説明すると、七滝とは、
1.那智勝浦町の那智の滝、2.同じ那智勝浦町の陰陽の滝、3,新宮市の白見の滝、4.
同じく新宮市の桑の木の滝、5.串本町のはぶの滝、6,熊野川町の鼻白の滝、7.同じ
く熊野川町の宝龍の滝の七つである。また七湯とは、串本温泉、太地温泉、湯川温泉、勝
浦温泉、川湯温泉、渡瀬温泉、湯の峰温泉の7つである。七薬師とは、1,那智勝浦町の
大泰寺薬師
関南七薬師の第1霊場でも知られる。特に耳、心の病に霊験あらたか。
2.那智勝浦町の湯泉寺薬師
湯川おんせんにあり、特にリウマチ、関節炎に霊験あらた
か。3.那智勝浦町の円心寺薬師
越水薬師とも言う。空海が妙法山を開き、越水薬師
に庵居すると近くに鉱泉が流れ出たと言われる。万病に霊験あらたか。
1.新宮市の佐野薬師
南珠寺のご本尊であり、日本天台宗の開祖、伝教大師の作とい
われる。特に首より上の病に霊験あらたか。 5,三重県紀宝町の平尾井薬師
白河法皇
が勅願して建立された由諸ある薬師堂である。特に首より上の病に霊験あらたか。6.三
重県紀和町の楊枝薬師
1167年、後白河法皇が薬師如来本尊をつくり、大導師となつ
て開眼法要を行った。特に首より上の病に霊験あらたか。7.田辺市本宮町の湯峰薬師
成務天皇の御代に発見された日本最古の温泉(東光寺)。薬師如来は湯元から出る湯の花
が化石となってできた。別名湯胸薬師。胸の病に霊験あらたか。の七薬師である。勉強に
なるでしょ。たまにはこんな話もええもんである。実はこの七湯七滝七薬師を巡ろうとい
うことで南紀地方の各市町村と首都圏の大手旅行会社が手を組んで平成9年は9月から1
1月まで大々的にキャンペーンを行ったのである。各大手の旅行会社ごとに表紙の違う豪
華パンフレットを作成したりもした。那智勝浦町、新宮市、本宮町、太地町、串本町の各
各自治体、観光関係者と大手旅行社の担当者で熊野七湯七薬師推進協議会も結成された。
団体バスで都心より観光客も多くやってきた。ただマニアックな感は否定できない。2年
間のキャンペーンだったが、画期的だった。もちろんこの七湯七滝七薬師は今も現存する。
一度訪れてみればどうか。(那智勝浦町の陰陽の滝は先の台風により行けなくなっており
ます。)七湯七薬師巡りは今も実行可能可能だと思うがいかがなもんか。
昔の僕たちの先輩方は非常にアイデアマンだったというお話であります。
第46話終わり
第47話『シーベース』
はい、またまたまたハイペースの更新であります。1日1話ペースであります。このま
ま行くと年内に何話いくでしょうか。今回は真夏の話です。なに、このくそ寒いときにな
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んで真夏の話なんやって。そこがタケちゃんのええとこであります。でわでわ真夏のお話
第47話であります。
「なあ、タコちゃんとナカシャ明日から夏休みやさか泳ぎに行かへん。」小学4年生の僕
は1学期の終業日の日2人に聞いた。明日から約40日間の長い長い夏休みである。僕の
お母ちゃんは福岡の芦屋と言うところから嫁にきて僕が生まれてから2年に一回夏に1ヶ
月くらい僕と弟達を連れて里帰りしていた。僕が小学4年の時はちょうどその年に当たっ
ていた。芦屋にも海水浴場はあったが、僕は夏休みに入ってから7月末までの約10日間
毎日タコちゃん、ナカシャと那智の浜に泳ぎに行った。夏休みの宿題は日記は毎日書いた
が、夏の友は、頑張って最初の1週間でやりきり後の1ヶ月は遊びまくるのである。「あ
あ~ええよ、何時に集まる」とナカシャ。「そうやなぁ、タケちゃんとこへ1時でええん
ちゃう」とタコちゃん。「よっしゃ、そうしょうか。」 翌日僕らは愛車のライダー号(毎
回書きますが自転車です)にまたがり海水浴場に向かった。脱衣場で着替え、海パン姿の
仲の町3バカトリオはシャワーを浴び念入りに準備運動をし(このへんは3賢いトリオな
のです)海へ飛び込んだ。沖には遊泳範囲を表すブイが浮きその近くを監視船に乗ったお
っちゃんが監視。その少し手前には、「シーベース」が設置されていた。シーベースとは、
簡単に言えば海に浮かぶステージみたいな物である。たて約6メートル横約12メートル、
高さ約1メートルのステージみたいな台でそこまで泳いで休憩したりそのステージの上か
ら飛び込んだりして遊ぶのである。波打ち際から結構距離があるので僕らはそこまで競争
したりして、そのあとそこから飛び込んだりした。このシーベースはシーズンオフは、町
内の勝浦ドックで保管され海水浴シーズン直前に曳航船により勝浦ドックから那智海水浴
場まで運ばれアンカーにて固定される。ステージの周りにはプラスチックの浮きがついて
いた。このシーベースは僕らの子供の時から僕が観光協会に入った平成5年近くまで海水
浴場に設置されたが、やはり長期間使用されたので損傷が激しくお役目ごめんとなったの
である。そのあと竹で大きな、いかだみたいな物を作り浮かべたり工事用のプラスチック
パイプでいかだを作り浮かべた年もあった。近年はシーペースみたいなものは無くなった
が、スライダーとかが海水浴場に設置され人気をよんでいる。
おそらくシーベースの事を覚えていらっしゃる方は、もういい歳の方であろう。これも時
代の流れか。ちなみに我が町の那智海水浴場は環境省の選ぶ快水浴場(安全性や水のきれ
いさ等)の全国で12カ所しかない特選に選ばれており、和歌山でも片男波と那智海水浴
場だけである。だから全国の皆さん安心して夏には泳ぎにきてくださいね。
はい、くそ寒い時期の真夏の話でした。
第47話終わり
第48話『昆布寿司』
はい、1日おいてのこれまた、ハイペースの更新であります。今回は久々の食べ物シリー
ズですよ。ただ、このタイトル、専門店の方もいらっしゃるので、僕みたいな度素人が、
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書くのは本当に申し訳なく恐縮し、間違った所もあるかもしれませんが、ご了承いただき
たくよろしくお願いいたします。 でわでわ第48話でございます。
「もういくつ寝るとお正月~。」と言うわけで、一年早いですね。ついこの間正月の特番
見ながら馬鹿笑いしやったと思ったら、もう年末であります。あれよこれよと月日は流れ
るのであります。そしてまたもうすぐすると正月特番見ながら(僕は吉本育ちなので漫才
や物まねなどの番組が大好きであります。又、箱根駅伝もええですなぁ)馬鹿笑いや感動
に涙するのでありましょう。そんな時に側にあるのがお正月料理であります。僕の子供の
時は、前にも書いたが何でも作る僕のおばあちゃんがおり、おせち料理のたつくり、黒豆
(若い奥様方なかなか味付けがむずかしいんですよ。これが上手につくれると旦那様に一
目置かれますよ)、伊達巻き卵、生酢、栗きんとん、かずのこ等もすべて手作り、そして
正月寿司の定番、サンマ寿司、海苔巻き、揚げ寿司、昆布寿司もおばあちゃん手作りであ
りました。今は、僕も家庭を持ち、おばあちゃんも亡くなり、僕の実家でも僕の家でも簡
単なおせちしか作らず、また寿司もお店やスーパーとかで、買ってきたりするが、やはり
僕の中ではおばあちゃんの作っていた寿司が一番である。(すいません、あくまでも個人
の意見です)。この寿司の中の昆布寿司であるが、関西でも熊野地方しか作らないのか大
阪の友人とかに聞いても知らないことが多かった。僕のパソコンのアホーで調べると、「寿
司に使う昆布は一般的に押し寿司特にサバ寿司の表面に乗せて使用することが多いが(バ
ッテラ寿司)、高知県では軽く煮て味付けし寿司飯を海苔巻きの様に巻き込んだ昆布寿司
を作る(高知の郷土料理)。大阪では鏡餅の上に乗せて新年を祝う、名古屋では婚礼の際
の結納飾りに用いられる」とある。そして昆布寿司は僕らの勝浦や新宮とかでも昔から作
られ食べられてきた。この昆布寿司、こんぶずしと書いて勝浦とかでは、こぶずしと呼ぶ。
「よろこぶ」という言葉にかけて縁起の良いお寿司として、お祭りや、お正月おめでたい
席によく食べられてきた。この昆布寿司の昆布は白板昆布を用いてそれを、出汁で煮詰め
て使う。また中の具材はかんぴょう、ゴボウ等でそれを醤油、みりん、酒、砂糖等で甘辛
く煮込み酢飯のうえに乗せ、それを先ほどの昆布で海苔巻きのごとく巻いていくのである。
これがまた格別にうまい。僕ら勝浦の子供達はこの昆布寿司がごちそうでありましたし、
大好きであります。もうすぐお正月が来ますが、この昆布寿司食べたことがある方も、大
好きな方も、見たこともなく知らない方も、、お子ちゃまも、おっちゃんおばちゃんも、
きれいなお嬢様もそうでない方も皆皆様方、勝浦や新宮のお店等で食べられますのでぜひ
お越しくださいませ。この正月は、昆布寿司で決まりだー。
追記
昆布寿司は正月でなくても勝浦や新宮のお店で食べられます。又取り寄せできる
お店もあります。一応お知らせまで。おいしいですよ。
第48話
終わり
第49話『マンボウ料理』
はい、ちょこっと間が開きましたが、ハイペースの更新であります。今回も前回に続き食
べ物のお話ですよ。でわでわ早速いってみよ~。
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はい、皆さんは、マンボウ知っていますか。「あのつぶらな瞳の図体は大きいが非常にか
わいいお魚でしょ。水族館とかで見たことあるわよ。うちのお利口ちゃんの息子といっし
ょに見たわよ」とお上品な奥様方が答えるでありましょう。そのマンボウのお料理のお話
であります。(なんか書きにくいなぁ~。まあええか)。もうひとつ聞きますが、皆さん
はマンボウを食べたことがありますか。あまりいないのではないだろうか。実はこのマン
ボウ、我が那智勝浦町の宇久井(うくい)漁港で行われている大敷網漁法に、たまにかか
るのである。大敷網漁法とは、僕のパソコンのアホーで調べると袋網がU字形をしていて
その1辺が開いていて魚の入り口になっている定期編み漁である。ブリ、マグロなどの大
型魚を目的に発達したが、今は他の漁法が発達してきたのでほとんど残っていない。とあ
る。この大敷網漁が宇久井に残っているのである。それだけでもすごいのだが、この大敷
網にマンボウがかかるのである。観光協会の同僚のIさんは宇久井出見なので聞いたとこ
ろ子供のときから良くマンボウは食べていたそうだ。マンボウは、たまにしかかからない
ので、僕ら勝浦地区の人間はほとんど食べたことが無く、僕は観光協会の仕事をしていな
ければ知らなかったであろう。それじゃ何で知ったかと言いますと、テレビ和歌山に「こ
ちら海です」という約25年続いた人気番組があり、ここのプロデューサーがこれ又めず
らしい物や隠れた名物を探すのが得意で和歌山のことなら隅がら隅まで知っているという
ようなおもろいおっちゃんで、風貌はこわそうなおっさんなのだが(すいません、敬意を
もって書かせていただいております。)この方が宇久井、そしてマンボウ料理が好きで、
取材の時に同行したのであります。僕が観光協会に入社してあまり月日の経っていない時
である。地元宇久井の民宿兼料理屋の店先で前日に水揚げされたマンボウをさばくところ
からカメラにおさめる。マンボウはどのようにさばくかご存じでしょうか。実は包丁で横
に寝かしたマンボウを、まず真横から包丁を入れてかぱっと真二つに切るのであのます。
簡単にいうとカスタネットを開いた状態のようにするのであります。この時の下の部分を
初めて見たとき僕はびっくらこんしました 。何と、何と、そこにはきれいに内臓がならん
だマンボウが横たわっておりました。ここが心臓、これが肝臓と、さばいてくれた店のご
主人が教えてくれたのを思い出す。マンボウの身は例えると杏仁豆腐みたいで、固まりを
包丁より手でちぎって食べた覚えかある。この身はほとんどが水分である。僕らは、さば
きを見てそして店の台所でご主人やその奥さんが、刺身やマンボウの肝あえ(マンボウの
身とネギをマンボウの肝を入れて軽く炒める)とかごちそうになった。もちろんどの料理
も初めての経験だったが、おいしく特にマンボウの肝あえを口にした時おもわず笑いだし
プロデューサーと固い握手をした。人間本当にうまい物を口にしたとき笑ってしまい握手
してしまうのである。今、「うんうん、そうそう」 と、うなづいていらっしゃる方も少な
くないだろう。
この後、何回か「こちら海です」を初めいくつかの番組でマンボウ料理を取材したりした。
残念ながら何年か前に「こちら海です」は終わってしまったが。
那智勝浦町のまぐろ祭りでも宇久井漁協の皆さんのご協力によりマンボウの刺身を振る舞
っていた時もあったが、前にも書いたがいつも網にかかる物ではなくまぐろ祭りの時に手
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に入らないときも何回かあった。また外でのイベントへの保健所の規制により配布はなく
なった。今勝浦とか新宮でもマンボウ料理を食べられる店はあると思う。
マンボウ料理食べる機会があればぜひ食べてみてください。おいしいですよ。
第49話
第50話『寝台特急
終わり。
紀伊』
はい、今年ももうすぐ終わりですね。今年7月頃から何かを残したい。自分の子供の時
の事。生まれ育った那智勝浦町の事を文字にして残したいと、無性に思い出し那智勝浦町
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昔懐かし話として書き始め何と今回が第50話であります。初めの内は冗談で100話書
くぞと言っておりましたが、まさか半分行くとは。これもひとえにひとえにそう、僕の努
力であります。いやいや、皆様方のあたたかい励まし、いいね、コメントのおかげでござ
います。ほんま、書く方も書く方やけど、読む方も読む方で、ほんまありがとうございま
す。このお返しは、本での出版と言う形で代えさせていただきます。誰か本にして~。お
願い。えっ前置き長いって。はいはい、分かってまんがな。それが、タケちゃんのええと
こでもあるんでつせ。では、記念すべき第50話あなたとともにいって見よう。
「タケちゃん、風邪ひかんようにね。東京行ったらこの2万円ちゃんと先輩に渡すんやで。
やったこと全部だしたらええからよ。着いたら電話しなあよ。じゃ、頑張っておいで」 そ
う言ってお母ちゃんは僕に茶色の2万入っている封筒を渡した。表におかあちゃんの鉛筆
書きで「よろしく頼みます」と書かれていた。1981年2月僕は大学受験の為、紀伊勝
浦発東京行きの寝台特急紀伊に乗り込んだ。午後7時34分発。「ああ、頑張るわ」
茶色の封筒を受け取り僕はそれだけ言った。ドアがしまり列車は走り出した。僕は、ホー
ムに一人立つおかあちゃんをしばらく見つめ、そしてボストンバックと茶色の封筒を手に
自分の席に向かった。東京へは、中学3年の時に修学旅行で行ったきり2回目だが、一人
で行くのはもちろん初めて。東京駅のホームでは高校のクラブの先輩が迎えに来てくれる
こととなっていた。ここで少し寝台特急
紀伊の説明をしようと思う。国鉄が1968年
10月1日から1984年2月1日まで東京駅~紀伊勝浦駅間を東海道本線、関西本線、
紀勢本線経由で運行していた夜行列車である。1975年3月10日の山陽新幹線の博多
開業に伴うダイヤ改正で寝台特急へと格上げされた。急行から特急への格上げである。車
両は開放式のA寝台、開放式3段B寝台、食堂車などで編成されていた。停車駅は上り紀
伊勝浦駅を出発し、那智、新宮、尾鷲、紀伊長島、多気、松阪、津、亀山、四日市、名古
屋、沼津、熱海、横浜、そして東京駅に午前6時25分に着く。下りは東京駅を午後9時
発、紀伊勝浦駅午後7時22分に着く。その日僕は、3段B寝台の一番下の席、寝台だけ
ど乗ったことがある方は分かると思うけど結構走る音がうるさくて寝れない。結局朝まで
一睡も出来ず朝を迎えた。夜行列車の朝というのは、なんであんなに気持ちがよいのだろ
う。車窓から見える遠くの山々。その間から太陽が昇る。いつもと違う景色が走馬燈のよ
うに変わっていく。一日のはじまりを目の当たりにしている。一度行ったがほとんど初め
ての東京。無知の世界。コンクリートジャングル。合ったことのない人々。田舎より早く
すぎると錯覚に陥る時間。それに向かって僕は進んでいる。席の窓からの眺めはそんな自
分にしてしまう。わくわくもあり、不安もある。たった2週間だが、僕の進むべき道が決
まる大学受験。その頃は、センター試験なんてなく、共通一次試験と呼んでいた。僕は私
立受験だったので関係ないが。非常に寒い2月の早朝、東京駅のホームには先輩が迎えに
来てくれていた。働きながら専門学校に行っていた苦学生である。
目黒の4畳半のアパートに住んでいた。ジャンバーの襟を立てて僕ら2人は目黒駅まで行
き駅前の吉野家に入った。初めて食べた牛丼。この世の中にこんなうまい食べ物があるん
か。本当にとりつかれた。それから2週間3食ほとんど牛丼を食べた。受験の時は牛丼弁
当。初めの日にお母ちゃんから預かった2万を先輩に渡した。先輩は表の鉛筆書きをじっ
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とみつめ、ほんまは、もらうべきやないけど、ありがたくもらうよ。と受け取った。今と
違って物価は違うとはいえ、男1人を2週間泊めさせるのは、金がかかるのである。少な
いくらいだと思う。ましてや、先輩は苦学生。本当にありがたかった。
大学は残念ながら駄目だったが、その後中野の専門学校に通うこととなり、上京の時もこ
の寝台特急
紀伊を利用したし、僕が上京し3年後の1984年に運行が終わるまで帰省
の際利用した。本当に思い出深き寝台特急であった。ゆっくり寝たときは、ほとんどない
けど。それはそれで良いと思う。僕の東京での生活もこの寝台特急とともに始まったし。
乗り換えなくて良かったのがいい。東京から勝浦間は結構時間がかかったが、それも又よ
し。僕にとって忘れることが出来ない思い出の列車である。
最後に、メリークリスマス。いつもありがとうございます。記念すべき第50話。このつ
たない話をあなたに、心をこめて。
by
タケちゃん
記念すべき第50話
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終わり