竹内魚乱「それからのユキコ」

 それからのユキコ
一 竹内 魚乱
西の空に入道雲が一列に並び、見る見るうちに膨れ上がり育っていくのが見えた。
九月に入っても暑い日々が続いている。私は自宅三階ベランダから外を眺めながら
一人呟いた。
――今、パラッと雨が落ちてきた。向かいのビルディングの東側半分に光が当た
り輝いている。雨が上がれば今日も暑くなりそうだ…。
もう四年も前のことだった。白石源一郎という中小企業の社長をしていて六十五
歳で辞めた友人から、連絡があったら面倒を見てやって欲しいと頼まれたことが
あった。川上ユキコという二十八歳の女性のことだった。源一郎は私より十歳年上
で、会社を息子に引き継ぎ趣味の小説を書くため日々喫茶店に通い、そこでウェイ
トレスのユキコと知り合い熱をあげるようになったと私に告白していた。それから
暫くして彼は肺がんで亡くなってしまった。
数か月後、源一郎が話していた女性から電話があった。事務所に来るように日時
を伝えた。当時、私は音楽や演劇のプロデュースの仕事をしていて企画や会合や打
ち合わせなど目まぐるしいスケジュールで滅茶苦茶に忙しかった。が、隙間を縫う
ように予定を作った。彼の熱い想いに応えてあげたいと思ったからである。
「但馬善治さんですね。初めまして。川上ユキコと申します。お忙しいところすみ
ません。白石源一郎さんから貴方様の名刺を頂き、厚かましくもご相談に上がりま
した」
「こちらこそ初めまして…。生前の彼から話は伺っております。相談に乗ってやっ
て欲しいと頼まれていましてね…」
私は目を細めた。茶色の髪を軽くウェーブさせ、眉が濃く目の大きな鼻筋の通っ
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た顔をしていた。引きしまった唇が芯の強さを表して見えた。灰色のパンツスーツ
で慎ましく座る姿には優雅ささえ感じられた。ときには少女のようにはにかむ表情
も見せ不思議な魅力を持っていた。
「こんないい方をして不愉快に思われたらお許し願いたいのですが、彼が心から惚
れ込んだ女性とはどんな方なのか…。とても興味がありました」
私は敢えて明け透けにいった。
「すいません、ご迷惑をおかけして…」
「とんでもない、迷惑だなんて…。早くお会いしたいと思っていたんですよ。彼が
深く愛した理由が分かりました。私にできることはさせて頂きますよ。何なりとお
申し付けください」
源一郎との出会いから別れまでの経緯についてポツポツと話し始めた。全く警戒
心を持たず私を前から知っていて信頼を寄せているかのように、沈殿物を一気に押
し流すように、ありのままの経緯を語った。そして付け加えた。
「一つお伺いしたいのですが、源一郎さんがモーターサイクルのアナウンス嬢に私
が向いているとおっしゃっていました。本当にそうなのでしょうか?」
「その件も彼から伺っています。既にその関係者へ採用についての相談をしておき
ました。多分、まだ大丈夫だと思います。私もお勧めできると確信しました。後日、
連絡させるようにしましょう」
私は直ぐにモーターサイクル協会の知り合いへ電話を入れ、採用枠の確認と配慮
の旨を伝えた。
ユキコの声は歯切れが良く聞きやすい。アナウンサー向きだと直感した。詩や歌
も好きだといっていた。ミュージシャンへの道も窺わせた。これは後で分かったこ
とだが、彼女はそれらについて意識せずとも無難にこなす天性の才能を持っていた
ようだった。
直ぐにモーターサイクル協会に採用され仕事に就くことになった。年間十八回、
世界の主要都市で行われる選手権レースの実況中継を英語や日本語でするのだ。専
門知識を要するが、ファンだったのでモーターサイクルの選手やバイクに精通して
いた。国内で一定期間の研修を受けた後、開催地へ派遣され世界各地でアナウンス
の仕事を闊達にこなした。学生の頃から英語が得意だった。彼女のクリアーな英語
2
と機転のきいた語り口は欧米人の間でも人気が集まり、仕事仲間からも一目置かれ
る存在となっていった。
そして音楽の才能もあったようだった。イギリスで開催されたレースを終えて、
打ち上げパーティーに参加したとき、ひょんなことから歌を唄うことになった。カー
ペンターズの曲を熱唱して喝采を浴びた。それがきっかけでイギリスのミュージ
シャンの目に留まり、彼等と一緒にデビューする機会を手に入れたのだ。外国の地
方都市でのライブで唄う仕事も入り二足のワラジを履きながらのユキコであった。
二
私は知人から情報を聞き、励ます意味もあり帰国したユキコと久々に会う約束を
した。銀座のレストランで昼食に誘った。
暫く見ないうちに美しさを増し、大人になっていた。シックな衣装に眩しさを覚
えた。
「どうですか、お仕事は? 順調のようですね」
「但馬さんのおかげで楽しくお勤めさせて頂いております。半年が過ぎましたが、
まだまだ勉強することが沢山あります。モーターサイクルは好きなので毎日が充実
しています」
「風の便りではアナウンスだけではなく、歌も始めたとか?」
「はい。思わぬことからイギリスのミュージシャンに誘われ、シングル盤を一枚出
しました。会社にも了解を頂き、機会があればですがライブハウスで唄っています」
「ほー、それは凄いですね。ところで、他に趣味でやっていることはありますか?」
「ピアノの練習を少しと、読書と、詩を作ることくらいかしら」
「詩ですか…。差し支えなければ見せて頂けますかね?」
ユキコはバッグからノートを取り出しモジモジしながら、
「見て頂けたら嬉しいです。下手ですが書くのが好きで、思いつくと書いています」
私はノートを手に取りパラパラと捲った。かわいらしい小さな文字が踊っている。
日常生活の詩や恋愛に戸惑う微笑ましい詩が多い。数ページ先の一編に私は目を留
めた。中年男性に叶わぬ恋心を抱き切々と表現するものだった。男心を引き付ける
言葉で魅惑を感じさせた。
3
私はノートを返し思い切っていった。
「ユキコさん。これから時間ありますか? カラオケでも行ってみませんか?」
「エッ! 但馬さん、私をデートに誘っているのですか?」
彼女は目を細めて確かめるように見つめた。
「いや、いや、そうではありません。ビジネスとして歌を聞きたいと思ったのです。
二、
三曲唄ってくれますかね」
「勿論です。但馬さんとご一緒できるなんて、幸せです。嬉しい!」
ユキコは子どものようにはしゃぎながら席を立った。 娘のようなユキコとカラオケ店へ行くのは気恥ずかしい思いがした。が、反面、
嬉しかった。肩を並べ歩いた。彼女の方がヒール分だけ高かった。晴海通りを歩き
数寄屋橋交差点にある「グリーン・アプル」という店に入った。銀座の昼下がりの
時間帯でガラガラだと思ったが年寄りや若いカップルが並んでいた。
一頃のカラオケ・ブームが沈静化して久しい。しかし団塊世代の年寄りが歌を唄
い、可愛い女の子の集団の歌が流行り、若者も安いカラオケ店に入るようになって
いた。
四、五人用の部屋を注文して、テーブルを挟み対面するように座った。
「私は音楽や演劇のプロデュースの仕事をしています。あなたにアナウンスの才能
があることは分かりました。ライブハウスで唄っていると聞き、そちらの才能も一
度、確かめたいと思いました。歌がグッドなら本格的なバンド結成の企画もアリか
なと思ったからです」
「才能だなんて…。私はたまたま機会を頂いて唄っているだけです。きっと幻滅す
ると思います。でも、厳しい但馬さんのお眼鏡に適い合格できれば嬉しいです」
「好きな歌を唄ってください。真剣に聞きます」
カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」を選曲した。私は腕を組み、
目を閉じた。ユキコが唄い始めた。クリアーな英語の響きはカレンの美声と酷似し、
透き通るような強さがある。一般の人が聞いても溜息が出る伸びのある声だった。
もう一曲、別の歌手の歌を唄って欲しいと注文した。
新井由美の「ルージュの伝言」を選んだ。アップ・テンポで高低差のあるリズミ
カルな曲だが「魔女の宅急便」の主題歌ということもあり、仕草も入れて唄ってい
たようだった。
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今度は男性の歌を聞かせて欲しいと要求した。流暢な英語でビートルズの「イエ
スタディ」を唄った。ポール・マッカートニーの語りかける歌だ。夜空に輝く月に
訴えるように熱唱した。
暫く腕を組み、目を閉じたまま動かなかった。
マイクを通し訊ねた。
「ダメですよね…。固すぎますよね…」
ゆっくりと目を開いた。
「私はあまり人を褒めません。ユキコさんの歌はライブでお金が貰える歌だと思い
ました。ただ…」
「ただ…、何ですか?」
「失礼ないい方で気に障ったらお許しください。私が思うにユキコさんの歌になっ
ていない。心を込めて唄っているのは伝わってきます。でも残念ながら、何度も聞
きたいと思う歌ではない」
「やっぱり、音楽の才能が無いんですね」
ユキコは顔をしかめ涙を滲ませた。
「いや、そうではない。あなたの歌ではないと申し上げたのです。考えさせてくだ
さい。今日はお付き合い頂きありがとうございました。後で連絡します」
私は伝票を掴むと席を立ち外に出た。ユキコは肩を落として後を追った。
三 ノートの詩を数編読んだだけだった。が、凄いと感じたのはユニークな視点と光
る言葉で表現していることだった。底知れぬパワーを秘めていると感じた。恋に向
きあい一歩を踏み出そうとする素直な気持ちが伝わって来る。口ずさむと自然と記
憶される言葉を使い新鮮だ。ブラッシュアップすればもっともっと光り輝く可能性
がある。
彼女の歌を聞いたとき私は閃きを感じた。透き通るようなパワフルな肉声。彼女
の詩にメロディーを付け彼女が唄う、そんなバンドを作ればヒットすると直感した
のだ。どう生かし得るか知恵が必要だ…。
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私はプロデューサーとしてメシを食っている。ヒットさせるには多少のリスクは
あるが成功させる自信はある。資金を注ぎ込めば一時的に流行の最先端に立たせる
ことはできる。が、長続きさせなければ結局、投資と収益の関係で利益を上げられ
ずマイナスとなってしまうのだ。 短期的でもいいならば幾らでも戦術はある。スタイルのいいかわい子ちゃんにミ
ニスカートを穿かせて唄わせればいい。多少下手くそでもかまわない。人間の半分
は男だから気を引く戦術でアピールすればヒットはさせられる。衣装や振り付けを
奇抜にし、関心を引けば多少長続きもさせられる。歌手を一人から二人にすれば個
性の違いや比較相乗効果で注目されインパクトにもなる。しかしモンスターのよう
にヒットさせるには、美人・名曲・歌が巧いと三拍子が揃っていなければダメだ。
十年も上位にいられればビッグなスターとなる。それを育てるのがプロデュー
サーの仕事である。この世界では、三十年に一度、大物スターが現れるといわれて
いる。スターを誕生させ唄い継がれる名曲を世に送り出すのが私の夢だ。あたかも
金鉱探しのハンターが金脈を探すのに似ている。誕生させるには徹頭徹尾、中身に
拘る必要がある。原石を磨きあげ芸術品に仕上げるように…。原石かを見分けるに
は…。天性の美声、端整な顔立ち、美しい容姿、惜しまぬ努力、そして賢いことが
チェック・ポイントだ。ユキコにその原石を見る思いがしたのだ。
私は三日間考えぬいた末、電話で次のことを伝えた。先日のカラオケとノートの
詩を十分思慮した結果、専属のバンドを結成する用意がある。ついてはボーカルで
唄うこと、アナウンサーの仕事は辞めてもらう、給料を今の三倍の額とする、利益
が上がれば更に二倍、三倍に増額させる、といったことを伝えた。当然、リスクの
話もした。万が一売れない場合は解散し無職になることも…。
ユキコは但馬からの合格通知を嬉しく聞きOKの即答をした。今の仕事も好き
だったが憧れの職業である歌手になり、唄うことで生活できれば最高だと思ったか
らだった。
バンド名を「アルカード」と名付け私がマネージャーとして指揮を執ることにし
た。早速メンバーの人選に取り掛かった。優れた五人のミュージシャンに声をかけ
バンド結成・加入の許諾を取り付けた。メンバー全員を事務所に呼び寄せた。
「それでは皆様にご紹介します。川上ユキコさんです。先日までモーターサイクル
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協会のアナウンスの仕事で活躍されていました。海外でのバンド経験もあり、ボー
カリストとしても活躍されています。今回、バンドを結成してボーカルを担当して
もらうことにしました」
紹介され、彼女は顔を赤らめた。
「あのー、川上ユキコと申します。私に能力があるかは良く分かりません。でも但
馬マネージャーのお言葉を信じて一生懸命頑張ります。よろしくお願いします」
「ユキコさんにグループのメンバーを紹介します。ここにいる皆さんは、現在、音
楽界の第一線で活躍をされている方々です。順番に紹介しますが、リード、サイド、
ベースのギターとドラム、そしてシンセサイザー担当です」
私は一人ずつコメントして欲しいと促した。
「リードの黒金です。但馬さんには昔から色々と音楽のプロデュースでお世話に
なっています。私が心から尊敬している人です。ユキコさんのライブは録画で拝見
しました。シビレました」
「サイドを担当するフランクです。ユキコさんのライブをイギリスで一度観させて
もらいました。これから何が始まるのかドキドキ、ワクワクです。よろしく!」
「ベースのチャーリーです。ユキコさんについては裏情報? すいません、良い意
味での情報交換をして知っていました。私もユキコさんの熱烈なファンの一人にな
りそうでライブが楽しみです」
「ドラムのロッコです。昔から喧嘩好きで但馬さんとも良く喧嘩しました。未だに
勝てません。ユキコさんにソウルを歌わせたら抜群だと思います。このメンバーな
ら無敵です。即やりましょう」
「シンセサイザー担当の和知です。私も鳥肌が立つほどゾクゾクしています。ユキ
コさんのアップ・テンポの歌を早く聞きたいです」
五人がそれぞれ熱い視線で見ているとユキコは知った。
「ユキコさんは彼等に会うのは初めてでしょうが、彼等は既にあなたを知っていま
す。皆、個性のあるミュージシャンで音楽づくりは真っ正直のプロです。私は最高
なものを引き出すために機会を提供します。遠慮なくクリエイティブなパワーを発
揮してください」 7
四 私はメンバーを六本木にある秘密のスタジオへ案内した。皆は一様に目を丸くし
た。楽器や音楽装置を備えて、いつでも練習できるようにさせていた。円形の会議
用の部屋へ集め今後の方向性について話をした。
私には戦略があった。ユキコは歯切れの良い美しい声を持っている。彼女の作る
詩には人の心を動かす力強さがある。この二つを武器にバンドを作る。当面ライブ
を中心に活動し、定期的にアルバムを発売する。テレビやラジオには出演させず秘
密主義にする。
私はユキコの書きためた詩の中から個性のある十編を選び、作詞家に校正しても
らったのを、メンバーの前に並べた。作曲してもらうためだった。五人とも曲作り
もプロで詩のコピーは争いもなくはけた。二編のうち一編に曲を付け一か月以内に
提出して欲しいとお願いした。創作した曲を全員で確認しOKが出たものをアル
カードの新曲として世に出す。早く作った曲から練習を始めるのだ。
アルカードのメンバーは毎日、スタジオで曲作りに取り組んだ。ユキコも発声練
習に励んだ。
数日後、リード・ギターの黒金が最初に曲を持ってきた。
「ぼくが精魂込めてピッタリの曲を作ってみた。音域が広すぎるけどユキコさんに
は唄えると思うし、唄い切ると気持ちがいいと思うよ」
「ほう。ポップスの皇帝といわれる黒金さんの自信作ですかー」
譜面に視線を移した。「天に昇る想い」という詩に合わせた曲だった。
「私は幾つか曲を作りましたが、今はやっていない。この曲はユキコさんの詩とマッ
チしていて心弾むものだということは分かります。早速、練習してみてください」
黒金は五人を集めコピーの楽譜を配り軽く打ち合わせた後、自分のギターで全曲
を弾き始めた。皆は耳を澄ませた。リズミカルな旋律がジェットコースターのよう
に流れ、響き渡る。ギターだけでも曲は完璧だと思われた。
もう一度、黒金が弾くと、一拍遅れてサイド・ギターのフランクが即興で合わせ
弾き始めた。続くようにベースのチャーリーも加わる。まるで二匹の子犬がじゃれ
ながら親犬に絡みつくように三人の旋律が一体となる。広がりと奥ゆきが増してき
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た。ドラムのロッコもリズムに合わせ叩き始め、更にシンセサイザーの和知も高音
で透き通る和音を重ね合わせる。全体がリズミカルでしかも重厚さを増す。まるで
巨大な龍が雲を縫い縦横無尽に舞い天に昇っていくような、壮大な迫力のある曲に
仕上がっていくのだった。
さて、三度目の演奏ではユキコのボーカルが入る番だ。ユキコはブルー・ジーン
ズにTシャツ姿で首にタオルを掛けとラフな格好でマイクに向かった。譜面をまだ
完全には読めなかった。それでも必死に声を絞り、数か所間違えながらも伸びのあ
るクリアーな声で唄い切った。私は…、悪くないと思った。新鮮で清潔なイメージ
が伝わってくる。さすがに黒金は曲作りが上手い。ユキコの独唱にピッタリな曲に
作りあげている。
そんな思いはおくびにも出さず、私は顔を曇らせた。
「ユキコさんは何か所か間違えていますね。他の方は皆いい演奏でした。一週間で
完璧に唄えるようにしてください」
「すいません、マネージャー。私、一生懸命練習します」
ユキコは泣きそうになった。上手く唄えない自分が惨めで恥ずかしいと思った。こ
んな自分を皆は暖かい眼差しで見ているのが分かり嬉しかった。ジーンとしてきて
目から涙が頬を伝わった。首に掛けたタオルで額の汗を拭うふりをして、それを拭
き取った。
ワン・フレーズごとに何度も練習し、曲を体感して自分のものにしていく。早く
上手く唄いたいと思った。毎日、夕方から深夜まで額に汗を滲ませながら何度も練
習した。ようやく三曲の新曲を完璧に唄えるまでになり、その他にもメジャーな曲
を数曲練習してライブに備えた。
私は都内のライブハウスを駆け回り、アルカードが活動できる場所を交渉してい
た。一か月後に四か所のステージで演奏する契約を取り付けた。初陣は六本木のラ
イブハウスと決めていた。「ライブ・ダンダン」という高級な店。ライブ仲間でも
評判の店だった。アルカードのバンドは優秀なプロ集団である。半月も経たずに全
員の呼吸がピッタリと合うようになっていた。
五
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六本木ライブの初日がきた。テビュー曲は三曲だ。私は一番奥の席に座り見守っ
た。最初は「天に昇る想い」というアップ・テンポの、出だしがリズミカルな曲。
夏のビーチでウブな女性が出会った素敵な男性へ思いを寄せる。リード・ギターの
流れるような旋律の後、追いかけるように抑揚のあるユキコの声が透き通るように
響き渡る。夢見る少女を連想させユニークな詩が男心をくすぐる。
唄い終わると場内は割れんばかりの拍手に包まれた。初陣としては完成度の高い
でき栄えだった。拍手が鳴り止み二曲目に入った。バラード調の「いつかふり向い
て」という曲。片思いの女性が男性を遠くで見守りながら切々と訴える歌。むせび
泣くギターの旋律とシンセサイザーの重低音が絡まる。スロー・テンポなユキコの
声が、やるせない思いにさせ深く心に染み入る。霧に包まれて迷う女性の切ない情
景を連想させる。唄い切ると場内は一瞬、静寂が支配し、直後、大量の爆竹が弾け
たような拍手と歓声に包まれた。
三曲目はビートルズ・ナンバーの「カム・トゥギャザー」。三曲の演奏を終えると、
観客は総立ちになり惜しむようにアンコールの拍手を送った。
久々に鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。一歩を踏み出すことができた安堵感と爽
快感に包まれ胸が熱くなった。彼等が退場するのを見送ってから、私はゆっくりと
席を立った。
デビューから半年が過ぎた。毎回発売するシングルがヒットチャートの上位を独
占するようになっていた。テレビ局では挙ってアルカードのメンバーを歌番組に出
場させるべく事務所の門を叩いた。秘密主義が覗きの欲望に火を付けたのだ。下地
には若者の心を揺さぶるインパクトのある詩があった。ユキコの歌詞は切ない片思
い、恋のかけ引きなどをテーマにし、相手の男性とは誰なのか話題になり興味を抱
かせた。美人で知的な彼女は若者から初老の男性までをも引き付け、OLや主婦か
らも人気があった。結成一年目はミリオン・セラーのヒット曲を叩き出すといった
大成功で締め括られた。
二年目の狙いは新曲を色々な分野に送り出すことだった。私はCMなどに採用し
てもらうため企業やスポンサーに掛け合った。アルカードの強みは女性の作詞と男
性の作曲で歌のイメージが中性化され親しまれる歌になっていることだ。清涼飲料
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水のCM曲、アニメの主題歌など。テレビやラジオや有線放送で年間二十数本の商
談契約を取り付けることができた。耳触りも良く、CM曲だけでもヒット・ソング
として人気が出たりもした。
戦略が次々と実を結びアルカードの人気は上昇を続けトップ・スターの道を走り
始めた。ミリオン・セラーを幾つも叩き出し、ポップス界で不動の地位を掴むまで
になっていた。
結成三年目で私は戦略を大胆に大きくバージョンアップさせた。その一つは海外
でのライブやロケの計画に取り組むことだった。次に、オープン主義へと転換させ
ることだった。メンバーをテレビ、ラジオ、映画などにも出演させる。DVDも発
売し新曲などの一部をネットなどで無料公開する。アルカードは二年間の実績で
人々の共通認識となりつつある。一般の人々に更に親しまれるようにするにはオー
プンにすることが不可欠だと考えたからだ。
六
それから半年が過ぎた頃だった。ユキコが不調を訴えるようになったのは…。詩
を作ることへの重圧で肉体と精神のバランスを崩し始めていた。不眠と軽い腹痛に
悩まされるようになっていた。彼女は睡眠薬と胃薬を求め、その量が日増しに増え
ていった。私は量を減らすように注意した。すると薬を減らす代わりにワインやウィ
スキーに頼るようになっていった。彼女を心配して医者に行くことをすすめた。彼
女は近くの内科医を訪ねた。医師は胃に潰瘍が見られるので精密検査を受けた方が
良いと大学病院への紹介状を書いた。大学病院でレントゲン、血液検査、胃カメラ
などの検査を受けた。
数日後、専門医は暗い顔でいった。
「良くない検査結果をお伝えしなければなりません。誰か身内の方かご親戚の方は
いらっしゃいますか?」
「両親は遠くの田舎にいます。都内では専属のマネージャーがおります。でも今は
仕事で来られないと思います」
「あなただけにお伝えするということで、いいですか?」
「はい。大丈夫です。私…」
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専門医は数枚のレントゲン写真を確かめるように透かした後、シャーカステンに
突き刺し、ボールペンの尻で示した。
「これはあなたの胸部レントゲン写真です。ここが食道、これが胃です。胃のここ
に白くモヤモヤとした塊が写っています。胃カメラで通して見たとき赤黒く見えま
した。少し細胞を取って検査した結果、悪性のポリープだと判明しました。直ぐに
切除しないと転移する可能性があります」
「直ぐにといわれても今月、地方公演が二回あります。それを終えてからではダメ
ですか?」
ユキコは混乱した頭で精一杯、医師に食い下がった。
「今は、痛みがないようですが医師としては即手術する必要があると考えます。今
後痛みも出て転移するでしょう。
早く切り取らないと命にかかわることになります」
ユキコからの連絡で、私は直ぐに切除手術を受けるように伝えた。手術は成功し、
術後の経過は良く、半年後のライブ出場も可能だと主治医にいわれた。ユキコは大
喜びでリハビリに励んでいたようだった。が、病魔はそう簡単には許してはくれな
かった。運命という気儘な神は全く斟酌することなく新たな試練を課すのだった。
二か月が経過し、胃の切除した部分は治癒した。が、定期検査で咽頭部分に新たな
腫瘍が見つかった。医師が顔を曇らせ無慈悲にも宣告した。
「残念ですが、喉の奥に新たな腫瘍が見つかりました。転移したようです。放射線
治療で部位を小さくしますが、
ダメなときは声帯も含め切除しなければなりません」
私が唄えなく
歌手生命を失う絶体絶命の窮地だった。彼女は何日も泣き続けた。私が面会に行っ
ても蒲団を被り、顔を見せようとしない。二週間が経過して病室へ顔を出すと気分
が良かったのか、少し元気そうな顔を見せ話してきた。
「但馬マネージャー、黒金さん達は元気でギター弾いていますか?
なってアルカードのメンバーは解散するのですか?」
「皆、ユキコさんが帰ってくるのを、首を長くして待っていますよ」
「帰っても、もう唄えないわ。こんな私を待つなんておかしいわ。皆さんに会いた
いけど会えない。皆さんにお伝えください。ユキコがダメで迷惑をかけてしまい本
当にごめんなさいといっていたと…。でも、私、放射線治療を受けてきちんと病気
を治します。元気な身体になって、また皆さんと一緒に唄いたい」
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彼女はそういうと蒲団を被って泣いた。顔が青白く痛々しいほど痩せていた。
数日経ったある朝、病院の非常階段から転落してユキコの命はこの世から消えた。
享年三十二歳という若さであった。アルカード結成から四年目に入る日だった。降
りしきる雨の中、ユキコの葬儀が青山の斎場でしめやかに行われた。斎場へはファ
ンが多数参列し、彼女の死を惜しんだ。ユキコの死について当初、自殺、事故、他
殺と色々な噂が流れた。真相は未だに明らかになっていない。前日まで彼女は気丈
に元気に振る舞っていたというのに……。
七
私は自宅三階のベランダで身体を動かすことさえ億劫なほど自分を持て余し、ひ
たすら外を眺めていた。
『但馬マネージャー。いえ、善治さん! ユキコは…、もう唄うこともできない身
体になってしまいます…。一生に一度のお願いを聞いてください。お願いです! 私を抱いてください。そして嘘でもいいから、私を好きだといってください!』
元気で病室で二人きりのときだった。急に手を伸ばしポロポロと涙を流し私に告
白した。興奮した彼女の両手を握りしめ、私は溢れる涙をハンカチで拭ってあげ頷
いていた。ユキコを思いっきり抱擁したい衝動に駆られた。
――たとえ唄えなくなったって君は素敵だ。まだまだ詩を書いたりピアノを弾いた
りもできるじゃないか…。唄えなくても君は少しも色褪せることなく光り輝いてい
る。たとえがんで身体がボロボロになっても、それとても少しも君の魅力を減ずる
ものでない…。
私は目で訴えながら彼女を静かに見守っていた。
精神的にも肉体的にも弱っていたあのとき、なぜ抱き締め深く彼女を受け止めな
かったのか…。今更ながら自分を恨めしく思った。源一郎に対し申し訳ない思いで
一杯だった。慙愧に堪えなかった。無意識の思いが意識の淵にまで上がってきたと
き、私は暗澹たる思いに苛まされた。
亡くなって初めてユキコを深く愛していたことに気付いたのだ。前日、彼女は一
編の詩をくれた。白い封筒。表には「素敵な但馬様へ」、裏には「byユキコ」と
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書かれていた。
「それ、但馬さんへのラブレターです…。なんてね。ウソです。次回の新曲のため
に作った詩です」
「今、中身、見ていいかな?」
「ダメです。帰ってからのお楽しみにしてください」
アルカードの仲間達のことが知りたくて彼女は饒舌に喋っていた。
ユキコから受け取った白い封筒の中身。それは私への初めての恋文であり最後の
手紙だったのかも知れない。
涙が零れた。急に何もかもがどうでもよくなった。テーブルの上にあった花瓶を
力一杯床に叩きつけた。粉々に砕け散った。テーブルも引っ繰り返し、書棚の本も
片っ端から引き抜きベランダの外へ投げ捨てた。言葉にならない、有らん限りの声
を叫び続けていた。そして今度は何もかもが虚しくなった。私は全てが脱力して木
偶人形になっていた。後から後から止めどなく涙が流れ、耳の奥で声が聞こえた。
――何を嘆いているのだ。なぜ力一杯抱き締めてあげなかったのだ…。彼女の思
いをなぜお前はきちんと受け止めてあげなかったのだ。バカな奴だ……。
夕陽で赤黒く成長した入道雲の先端をその膨らみが少しずつ変化していくのを見
つめていた。雲の先端を超えた向こうに行けば新しい世界が見えるかも知れない。
ユキコに会えるかも知れない。私はポケットから封筒を取り出し、中の便箋を広げ
た。ユキコが病床で書き綴った一編の詩。小さな文字。優しい肉筆だった。
プリーズ、マイ・ファーザー、ドント、クライ
赤い雲見つめ 一人思う
あとどのくらい 生きられるだろう
いつかは熱い心も 記憶の淵へ
恋した心も セピアと変る
プリーズ、マイ・ファーザー、ドント、クライ
思いが叶うなら
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永遠にあなたと 生き続けたい
いつかは新しい 気持ちが芽生える
変わりゆく季節に 気付かないまま
プリーズ、マイ・ファーザー、ドント、クライ
私のことを 思い出して
あなたの想いの中で 生き続けたい
私は、ユキコの告白は源一郎の面影を私に重ね合わせ想いを強くしたからだと、
信じている。失ってから奈落の底に突き落とされたような日々が続いていた。闇の
中で、もがき苦しむ自分がいた。が、それでも遥か彼方に弱い光の射し込んでくる
自分を感じていた。彼女が残した数多くの歌は今でも多くの人の心の中で生き続け
ている。勇気と希望を与えている。そう…、彼女のために為すべきことがあると…。
少しずつ気付き始めたのだ。
天国に旅立った日に合わせ追悼コンサートを開く。ユキコと再会する楽しみを少
し取り戻すことができる自分を感じていた……。
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