GKH023602

天理大学学報 2
3
6: 1―1
6,2
0
1
4
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
細 川 伸 二1),穴 井 隆 将2)
The Japanese Master Shozo Awazu,
and the History and Development of Judo in France
Shinji Hosokawa1, Takamasa Anai2
Abstract
Judo, which was created by Jigoro Kano has spread all over the world. It is now
practiced by 200 countries, it also ranks 5th after volleyball, track and field,
basketball and soccer regarding practitioners.
Above all countries, judo in France has taken the most steps to become the world
leader in judo popularity. Now, the French judo federation has around 600,000
memberships.
This article therefore tries to reveal the history and development of French judo
and how the Japanese master, Shozo Awazu contributed to the development of
judo in France.
Up until now, there has been many researchers who published articles or books
about another Japanese master, Mikinosuke Kawaishi, acclaiming his merit on
French judo development. But up until Kawaishi’s death, Awazu supported the
development of French judo as Kawaishi’s assistant.
After Kawaishi’s death,
Awazu contributed to the development of French judo a lot more that Kawaishi has,
but there is not much research about him.
Awazu had an important relationship with Mr.Nakayama, the 2nd chief of
Tenrikyo and Awazu is also a consultant for the Tenri Judo Association.
The purpose of this article is to uncover the roots and development of judo in
France, as I try to bring the Japanese master, Shozo Awazu’s light to the public.
I hope this could indicate guidelines for the development of judo throughout the
world.
トボール・サッカーに次ぐ普及率となってい
1.はじめに
る。42)この普及を加速させた最大の要因は世
嘉納治五郎によって創始された講道館柔道
界中で柔道連盟なる組織をスムーズに確立し,
は全世界へと広まった。現在2
0
0の国と地域
国際柔道連盟が全てを統括したことによるの
で実践され,バレーボール・陸上・バスケッ
ではないだろうか。1
9
4
8年,ロンドンでヨー
1)
2)
天理大学体育学部
天理大学体育学部非常勤講師
1.Faculty of Budo and Sport studies
2.Part-time lecturer of Tenri University
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
2
ロッパ柔道連盟が結成され,その3年後の
が柔術で使われる技で相手を投げているデッ
1
9
5
1年に国際柔道連盟が創設された。2
0
1
1年
サンが紹介されている。これらの技は,柔術
には6
0周年を記念し,フランス・パリのオペ
よりも歴史の古いレスリングやグレーン16)等
ラ座で厳かに式典が営まれた。国際柔道連盟
とも推測できるが,裸体もしくは裸体に近い
創設時の加盟国は,僅か33ヶ国であったが
状態で行われる西洋の格闘技に「刈る」「跳
年々増え続け,この6
0年余りの間に,1
6
7の
ねる」
「関節技」
「絞技」といった技を見いだ
国と地域が加盟したこととなり,その盛況ぶ
すことは不可能であろうし,ましてや,巴投
りは著しい。
のような「捨身技」が存在したのかも疑問で
周知のように,海外で柔道が受け入れられ
ある。85)従って,柔道,当時であれば柔術が
発展してきた中でも特に,フランス柔道の飛
既にヨーロッパに輸出されていたと仮定する
躍は著しく2
0
1
4年,FFJDA (フラン ス 柔
こともできなくはない。それはともかくとし
道連盟)傘下の登録会員は約6
0万人である。
て,フランスでは,1
9
4
2年にレスリング連盟
FFJDA の公式ホームページを見ると,フラ
傘下の下で柔道連盟が誕生した。そして,
1
9
4
6
ン ス 柔 道 連 盟 は2
1の 地 方 連 盟,1
0
0の 県 協
年にはポール・ボネ-モーリ72)によって正式
会,5,
6
0
0のクラブから構成されている。年
にフランス柔道連盟が発足した。
1
2)
齢層は主に6歳から1
0歳の子供が半数以上を
柔道連盟設立後,フランス柔道は更に急激
占めており,登録年齢は年々低年齢化する傾
な進歩を遂げている。1
9
4
7年に仏英親善柔道
向にある。かつては最低年齢が5∼6歳で
大会,1
9
5
1年に第1回ヨーロッパ選手権パリ
あったが,現在は3歳から受け入れているク
大会が開催され,その年の7月にはヨーロッ
ラブが増えてきている。一方で,ただ単にク
パ柔道連盟が改称され,国際柔道連盟へと発
ラブだけでの実践ではなく,軍隊・警察・大
展 し て い く の で あ る。フ ラ ン ス 柔 道 雑 誌
学・高校などでも柔道が正課として実施され
Judo には「日本の指導者である川石酒造之
ている。
助35)が初めて渡仏し,カルチェ・ラタンに柔
2
8)
講道館柔道の誕生は1
3
1年前に遡る。1
8
8
2
道クラブを開いた1
9
3
6年当時のクラブ員数は,
年に東京の永昌寺で初めて柔道が産声を上げ
まず1名から始まり,その年の終わりにやっ
た。その年の警視庁武術大会において,嘉納
と8名になった。
」13)と記録されている。し
の講道館柔道は柔術との戦いに勝利し,世に
かし,その後,1
9
4
4年にパリの柔道人口は
認められるようになった。その後,講道館移
1,
5
0
0名に増え,1
9
4
9年当時のフランス全国
転,戦後の武道教育の中止,あるいは柔道の
の実践者は4
5,
0
0
0人程度にのぼったと推定さ
急速な国際化によって生じた問題など,幾多
れている。そして,柔道普及率はその後も上
の障害を乗り越えながら発展を遂げ大衆化さ
昇し続け,1
9
5
7年の正式登録人口は2
5,
0
0
0
れ今日を迎えている。一方,フランス柔道も
人,1
9
5
8年には3
0,
0
0
0人,1
9
6
0年には4
1,
0
0
0
1
2
0年以上の歴史を持つ。フランスで初めて
人の登録人口と9
9
0の柔道クラブ,そして,
4
0
0
柔道が紹介されたのは1
8
8
9年と記録されてい
人の有段者が報告されている。14)
る29)が,この記録は正確なものではない。柔
フランスにおける柔道発展史を語るとき,
術と柔道が混在しており,また,フランスで
フランス人柔道家の誰もが語る人物は,日本
は当初,柔術と柔道は同じ部類の格闘技とし
人指導者の川石酒造之助と粟津正蔵である。
て紹介されていた。しかし,JUDO Pratique
川石は1
9
3
5年に渡仏し,フランス柔道の生み
には,「すでに西洋人はルネサンス時代に柔
の親と呼ばれている。一方,フランス柔道の
術らしき技術を知っていたのではないか」
育ての親と呼ばれている粟津は川石の依頼に
という説があるのは興味深い。実際に西洋人
よって1
9
5
0年にフランスへ渡った。この二人
8
4)
細川・穴井
3
の日本人指導者の血の滲むような努力と功績
以上にも上る「お雇い外国人」71)を海外から
によって,日本の柔道がフランスに根付き,
招いており,彼らの多くが著書で日本を紹介
普及発展していったといっても過言ではない。
している。その中に,シーボルトのように柔
もちろん,この二人の日本人指導者に同調協
術を紹介した著書も存在する。この「お雇い
力し,フランス柔道発展のために貢献した多
外国人」が帰国してそれぞれの国で柔術を紹
くのフランス人柔道家が存在することも確か
介したことは想像に難くない。また明治維新
である。
後,職を失った武士達が職を求めて海外に渡
そこで本稿では,世界の柔道をリードする
り,各地で柔術や剣術を教えたのではないか
フランスにおける柔道の発展史を明らかにし,
とも推測することができる。この点について
その発展に大きく寄与した日本人指導者,粟
坂上75)は「柔術がヨーロッパで注目されるよ
津正蔵に焦点を当ててみたい。これまで多く
うになったのは,明治維新以後人々の移動が
の研究者によって日本人指導者,川石酒造之
盛んになったことで,多くの外国人が日本を
助の功績を称える研究は進められ,多くの論
訪れまた多くの日本人がヨーロッパやアメリ
しかし,
カに向かい,柔術があちらこちらで紹介され
川石が存命の頃はその女房役として川石とフ
ていったためである。
」と述べている。この
ランス柔道を支え,川石の他界後には,フラ
頃,日本人がフランスに職を求めて渡仏した
ンス柔道を更に育て発展させた粟津の業績を
か否か,文献では見当たらない。しかし,
1
8
7
2
明るみに出した研究は見当たらない。粟津は
年に明治政府が殖産興業政策の一つとして設
天理教二代真柱中山正善 とも密接な繋がり
立した富岡製糸場86)に「お雇い外国人」とし
をもち,また,天理柔道会 の参与でもある。
て多くのフランス人が来日し,近代的な生糸
今回,フランス柔道の発展史と,それを育て
の生産方法を指導している。彼らが帰国後に
てきた粟津のフランス柔道における存在につ
フランスで柔術を紹介したとも考えられる。
いて研究を進めることは,世界柔道の更なる
しかし,村田51)は,「日本人指導者に拠る講
発展にとって大変有意義なものとなるであろ
道館柔道がいつ仏蘭西へ進出したかは,大正
う。
1
2(1
9
2
3)年,大正1
3(1
9
2
4)年という複数
文や著書が出版されている。
4
8.
8
7.
8
9)
5
4)
8
2)
2.フランスにおける柔術の到来
の記述がある」
「老松70)が『会田彦一五段は
大正1
2年ロンドンからミュンヘンにきて,約
ヨーロッパにおける柔術の到来は,講道館
1ヵ年警察を中心に柔道を教授し』と記述し
柔道が創設される1
8
8
2年以前である。柔術を
ている点も看過出来ない。さすれば,ここで
世界に最初に紹介した文献はフォン・シーボ
は大正1
3年説が有力視されて来ると述べてお
(図録第2巻)であろ
ルト の大著「日本」
こう」と指摘している。即ち,柔術,柔道,
うと考えられている。「シーボルトは1
8
2
3年
講道館柔道,これらが個々にヨーロッパに渡
(文政6年)長崎出島にあるオランダ商館の
り,それぞれの師範が独自に指導したのでは
軍医として来日し,1
8
2
8年(同1
1年)に帰国
ないだろうか。フランス柔道史に関する著書
するまでの間,驚くべき情熱をもって広く日
は数え切れないほど存在するが,特に,講道
本の地理,歴史,言語,風俗,社会,経済,
館からの正式な柔道指導者派遣という観点か
宗教,文化から動・植物まで観察研究し,そ
らは,村田の指摘が正答であろう。
7
3)
の正課は大著『日本』にまとめられ世界に紹
一方,ミッシェル・ブルース43)のフランス
介されている。(中略)柔術はその『図録・
柔道史には,「1
9
0
5年秋,フランスにおける
2』で,『武術の稽古』の表題の下に3点の
柔術のデビューは衝撃的なものであった。護
0
0
0人
図が描かれている」
。88)当時,日本は2,
身術の専門家ジョージ・デュボワと柔術家エ
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
4
ルネス・レニェの二人のフランス人が格闘し,
その独創性が取り上げられている。当時の大
レニェが勝利をおさめたのである。それにと
道アトラクション,映画,ユーモア映画,絵
もない,柔術に関する記事が専門誌や大手日
葉書,政治の風刺画,シャンソン等は柔術の
刊紙上をにぎわした。
」 と記録されており,
イメージを貴族階級から社会全体層に広める
フランス護身術対柔術家の格闘で柔術が勝利
大きな要因となった。
」20)のである。
1
7)
し,華やかなデビューをかざったことが,フ
ランスで柔術が浸透していく大きな要因と
なった。そして,柔術のもつ神秘性(小よく
大を制す・活法・捨身技・総合的格闘技・理
合等)が軍隊を保有するフランス貴族階級に
認められ,普及発展していった。さらに,1
9
世紀終わりから2
0世紀初頭のフランスは,浮
世絵・装飾モチーフ・日本画・工芸品・侍・
芸者などを意味する日本文化の流行(ジャポ
ニスム)
,や人々が余暇と健康やスポーツを
考える時代であり,柔術は当時の時代背景に
適合していたのだと考えられる。しかし,柔
術はフランスに到来し直ちに普及していった
わけではなかった。
「1
9
0
5年1
1月3
0日,レニェ
はいつものデモンストレーションの後に,観
衆に彼と戦う者はいないかと尋ねた。大道プ
ロレスラーのウィスラーが舞台に上がった。
突然,頭突きをみまい卑怯な攻撃にでた。血
が吹き出し,レニェは崩れるように倒れた。
全てが巧妙に計画された企みであった。この
写真1
柔術対フランス護身術デュボワとレニェの格闘
1
9
0
5年ラ・ヴィ・オ・グランテール誌
出来事は,柔術に対して際限のない憧れをも
1
9
0
5年にフ
つ人々の熱狂に水を差した。
」18)
ランスに到来した柔術はまだショー興業だっ
たのである。後に,タニとヒガシ79)と名乗る
日本人二人が特別試合をしているが,これに
対しても「野蛮な柔術。ヒガシは急所を攻め
られ倒れた。試合を棄権し,ヘンリ・ド・ロ
スチャイルド病院に担ぎ込まれた。相手を倒
すためにはどんな技でも使うような柔術は必
要でない。
」19)と当時の雑誌に掲載されてい
る。柔術のフランス到来から揺籃期は華麗な
デビューと衰退が隣り合わせであった。その
後,柔術は健康を目指した体操的なものにな
る一方で,誇張さに魅了される観衆のための
写真2
デュボワとレニェの格闘シーン
(腕挫十字固でレニェが勝利)
1
9
0
5年ラ・ヴィ・オ・グランテール誌
3.柔術から柔道へ
パロディーを組み込んだショーと結びついて
長期にわたる柔術離れの後,1
9
3
0年代の後
いく。また,「大衆映画等でも柔術の起源や
半,柔術は大手新聞の興味深い新しい記事と
細川・穴井
5
して取上げられている。「1
9
3
7年,“ル・ソワ
る新しい職業の誕生」である。23)これは,政
ール”39)紙の読者が目にしたのは,ノーベル
府に存在するスポーツ省と,その傘下である
化学賞受賞者であり,コレージュ・ド・フラ
FFJDA,ならびに国家公務員としての柔道
ンス の教授でもあるフレデリック・ジョリ
教師を意味する。世界ではフランス柔道のみ
オ15)が白くて目の粗い衣装を着て,友人であ
がこのシステムを確立している。それゆえ国
るビクワール教授 を投げ飛ばす姿であった。
際柔道をリードできるのだろう。また,挿絵
柔術はもはや,ただ単に護身術としてではな
入り世界スポーツ誌,ル・モンド・イリュス
く,体育や精神スポーツとして紹介されるよ
トレ38)は,「解剖学と人体平衡の原理からみ
うになった。1
9
0
5年,日本軍人が柔術の有効
てもフランス人の体格は日本人と似ており,
性を示し,その3
0年後にフランスを代表する
柔道がフランス人に合っている。
」24)とも述
科学者達が全く違った優位性を明確にした。
べているように,体型的にも柔道がフランス
1
9
3
0年代後半,柔術ブームは新たな道を歩む。
人に合致していたのだろう。
1
0)
4)
最初の進展は,柔術を実践し,そして有効な
闘いのための技術の再構成の提案であった。
その結果,次第に柔術は柔道へと進化した。
4.嘉納治五郎の渡仏
嘉納治五郎は1
8
8
2年に講道館柔道を創始し,
最初に紹介された柔術(護身術)は知的な部
僅か7年後の1
8
8
9年にはフランス・マルセイ
分をさらに豊かなものとした。各新聞は,柔
ユで柔道を紹介している。30)しかし,その折
道とは科学であり,冷静さを養い,心・体の
は,宮内庁御用掛として1年間の欧州派遣を
向上を図るものだと報道した。
」 フランス
命じられ,34)視察員としてヨーロッパの教育
柔術の揺籃期は格闘と見せ物興行であったが,
システムを視察することが目的であったため,
それが柔道の名のもとで,知的なものへと変
柔道のデモンストレーションとしては十分で
化していったことが窺える。極めて曖昧な表
はなかったと推察できる。当時の様子を描写
現であるものの,柔術から柔道への移行は相
し記述する文献は数少なく,しかも数行程度
互に関係を持ちながらスムーズに行われてい
の 紹 介 で あ る。フ ラ ン ス 柔 道 連 盟 発 刊 の
る。日本で行われたような柔術と柔道の衝突
Éléments pour la préparation aux brevets
2
1)
と格闘があったわけでもなく,自然な形で移
d’État d’éducateurs sportif には,「嘉納治五
行したようである。現代でもフランス柔道連
郎によってフランスで柔道が紹介された後,
盟(FFJDA)の傘下に柔術連盟があり,互
本格的にデモンストレーションが実施される
いに好影響を与えながら共存している。さら
ようになったのは,戦争前の1
9
1
4∼1
9
1
8年に
に,柔術から柔道へと進化した要因として,
かけてであり,当時は,ギ・モングラーが中
「規律に即した文化の創造が挙げられる。全
心となって行っている。ただ,常時デモンス
ての実践者が共有する規範と価値は東洋の神
トレーションが行われていたわけでもなく,
秘に包まれた活動を神聖なものにした。フラ
人々はまだまだ柔術や柔道の知識もなく,ま
ンスにおいて,柔術が次第に柔道へと変わっ
たその素晴らしさも全く理解していなかっ
ていった背景には,社会,文化,経済的な相
た。
」9)と記されている。
次ぐ影響に要因があった。
」22)ことも重要な
要素であろう。
嘉納の2度目のフランス訪問は1
9
1
2年で
あった。柔道の紹介があったか否かは文献に
そして,この柔道がフランスに完全に根付
は見あたらない。しかしこの時,後にフラン
いたのには次の二つの重要な側面に基づいて
スの日本大使や IOC 委員となった杉村陽太
いる。それは「スポーツ法規による国家機構
郎76)と交流をもったと記されている。そして
の確立」と「柔道教官として社会的価値のあ
1
9
3
3年に彼と共にパリで公式行事として柔道
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
6
紹介のデモンストレーションを行ってい
9
3
0年
細心の努力をしたことにある。
」44)「1
る。5)
代前半,彼の分かりやすく説得力のある理論
その3度目の渡仏は前述の1
9
3
3年であった。
は,彼を取り巻くパリの知識人達を柔道の世
前 述 の ジ ヤ ン フ ィ リ ッ プ・ダ ミ の LE
界に導いた。フェルデンクライスは改革者で
PALMARES DU JUDO FRANCAIS には
あった。その指導法はただ単に警察や軍隊の
「パリ工芸学校で講演とデモンストレーショ
実用的な柔術という今までのアプローチ方法
ンを行った」 とのみ記されているが,クロ
とは完全に一線を画した。
」45)と述べている。
ウド・フラデの文献では更に詳しく述べられ
つまり,ただ単に日本の護身術としか位置づ
ている。「嘉納治五郎は柔道について3度の
けられていなかった柔術や柔道の原理は,ヨ
講演を行っている。9月2
5日,体育政務次官
ーロッパ人が理解しやすい科学的な格闘技で
の建物内,2
6日,国立工芸学校,そして,2
8
あると伝えたのである。この科学的なアプロ
日,ジョワンヴィルにある軍隊体育学校で,
ーチなくして柔道はフランスに根付かなかっ
多くの名士が見守る中,体育政務次官のムッ
たのではないだろうか。実際に,この時参加
3
0)
シ デュコス の主宰のもと開催された。」
したフランス人達により,柔道や嘉納治五郎
その折に嘉納は,フランス柔道史において欠
について少しずつ語り始められている。よう
かせないモシェ・フェルデンクライス との
や く 柔 道 が 芽 吹 き 始 め た の で あ る。そ し
運命的な出会いをもった。彼は嘉納との出会
て,1
9
3
5年,フェルデンクライスは日本人指
いについて次のように述べている。「デモン
導者,川石酒造之助を個人的にフランスへ招
ストレーションは本当に見事だった。デモン
聘した。川石は,まずは日仏クラブで,その
ストレーションが終わると,私が自分の著書
後 ESTP40)(パリ土木専門学校)でフランス
をプレゼントしたある日本人が私を探しに
柔術クラブの指導を行い,後に川石メソッ
やってきて,嘉納氏が会いたがっていると
ド47)と呼ばれる彼独特の指導方法をあみ出し
言った。私は感動した。日本大使は私をロー
た。これによりフランス柔道は更に発展を加
ルスロイスに乗せ,床に畳が敷いてあるホテ
速させた。
5
2)
6)
5
3)
ルの大広間まで連れて行った。嘉納氏はフラ
1
8
9
9年,川石は姫路で7人兄弟の6番目と
ンス語,英語とドイツ語を話し大変な教養人
して生まれた。中等教育終了後,早稲田大学
だった。(中略)彼は私の本に,彼がみたこ
に入学,1
9
2
5年に同校を卒業後,カリフォル
ともない技が紹介されていることに非常に驚
ニアへと旅立った。アメリカ,ブラジル,そ
いた。私は,それは私のオリジナルだと伝え
してロンドンと指導者の受け入れ体制が整っ
た。嘉納氏は私のテクニックを講道館のプロ
ている大都市を巡っていたが,フェルデンク
グラムに組み入れて自筆でその証明書を送付
ライスは,この川石をロンドンから呼び寄せ
してくれた。
」25)この出会いの後,フェルデ
日仏クラブで柔術・柔道の指導にあたらせた
ンクライスは柔道を広めることに生涯を懸け
のである。これにより川石はフランス柔道の
ることとなる。この点について,
ミッシェル・
生みの親となった。
ブルースは「フェルデンクライスは柔術の意
味を説明し動作の原理を明らかにしたのだ。
彼は物理と身体に関する知識を基に攻撃と反
撃動作を形式化し,防御テクニックを科学的
根拠に基づいて説明した。そのアプローチの
独創性は,動作の原理を考え,より簡単に,
より素早い動きを効果的に結び付けることに
細川・穴井
7
5.フランス柔道と粟津正蔵
粟津正蔵がフランスに足を踏み入れたのは
1
9
5
0年の7月だった。「川石のアシスタント
として,1ヶ月間の船旅で船酔いに悩まされ
ながらも,やっとマルセイユに到着した。彼
の名は粟津正蔵2
6歳,すでに六段。1
3歳で黒
写真3 フェルデンクライスと生徒
帯を取得,無類の実力者である。
日本ではトッ
プ1
6の一人とみなされている。全日本選手権
大会の格付けでは寝技の名士として高い評判
を得ている。これは後に皆が理解することと
なった。
」7)当時,フランス柔道家の粟津に
対する評価は大方の予想をはるかに超えてい
た。マルセイユ到着の2日後には1
0人掛けど
ころか,更に2名,合計1
2名掛けを行ってい
る。また,数年後には寝業師として寝技指南
書,MÉTHODE DE JUDO AU SOL77)を発
刊するなど,いかに期待が高かったのか垣間
見ることができよう。フランス到着の3ヶ月
後の1
0月2
1日,今度はパリで粟津に敬意を表
すために特別興行が催された。当時,「フラ
ンスで1番強い1
0人を相手に全て一本勝ちし
写真4 嘉納師範とフェルデンクライス
大成功を収めた。これを機にフランス全土で
粟津人気が出始め,彼が行うデモンストレー
ションはフランス人を魅了した。結果,次第
にクラブ会員が増えていったのである。
」8)
彼は,川石のアシスタントとしてフランス柔
道クラブで指導し,同様にフランス柔道の技
術指導も行った。
写真5 粟津正蔵
写真6 粟津正蔵 渡仏
8
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
粟津は1
9
2
3年に京都で誕生,5歳から柔道
る。川石流指導法では,技の呼称を定めるに
を始めた。小学校の頃から京都一商で中学生
あたり,日本のように説明や視覚イメージを
に混じって稽古に励み,中学は一商へ入学し
重視するのではなく,番号を振った。また,
た。一商は全国制覇を成し遂げたこともある
嘉納治五郎師範の講道館柔道の『五教』と比
名門で,毎日激しい稽古に明け暮れた。1年
較すると,技の数が多い(総数1
4
7)ほか,
時から成績を残し一商柔道部の黄金期時代の
その分類方法についても若干違いがみられた。
立役者であった。天理との関係はすでにこの
技の体系については,その構成における論理
頃からあり,天理順正館83)の柔道大会に京都
性は秀逸であった。
」46)と賞賛されているよ
から参加し,天理中学とも良きライバルで
うに,川石メソッドは講道館柔道をフランス
あった。この時に,天理教二代真柱中山正善
流に改良アレンジし,フランスに馴染ませた
とも顔を合わせている。一商卒業年度には大
のである。これによって生徒が技に関する知
東亜戦争が勃発,卒業後は徴兵で入隊,戦争
識をどの程度持っているかの判断を容易にし,
終結で1年半後に復員している。 復員後,
技の記憶もシンプルにしたのである。しかし,
故郷の京都に戻り,京都簡易保険局に勤めて
この方法が後に講道館柔道と対峙する要因と
いたが,この時に川石と偶然知り合うことと
なったことも否定できない。
5
5)
なり,フランス指導を持ちかけられた。 当
5
6)
初は1年間の約束であったが,気がついてみ
れば6
0年以上の在仏となっているのである。
粟津が渡仏した1
9
5
0年頃,フランス柔道は
その勃興期を迎えていた。そのため川石一人
では指導が十分できず粟津にその白羽の矢が
立った。本稿では詳細は控えるが,前述した
ように川石は独特の指導法,川石メソッドを
あみ出しフランス柔道の生みの親となった人
物である。例えば「柔道の技術体系を帯の色
が表す階級に結び付けた指導プログラムであ
写真8 粟津正蔵とミッシェル・ブルース
粟津は川石のアシスタントとして川石メ
ソッドを継承しながら,フランス柔道を育て
ていく。柔道クラブ・ド・フランス33)道場が
写真7 川石酒造之助と粟津正蔵
パリでの粟津の拠点となった。「練習は週2
細川・穴井
9
回が原則で,月曜日,木曜日の午後5時から
らも決して柔道の本質を変えることなく,フ
8時までが一般の練習,火曜日,金曜日は午
ランス風にアレンジせず,むしろ日本古来の
前1
1時から特別レッスンが組まれた。これは,
柔道を固持したのではないだろうか。無口で
平日の朝なので,主に会社の社長や医者など
派手さがなく,黙々と稽古をこなす,このイ
比較的自由に時間が使える人たちが多く参加
メージが粟津そのものであり,それゆえフラ
した。水曜日と土曜日の午後2時半から4時
ンスの地で争うことなく柔道を育てられたの
までは有段者の練習に当てられた。粟津は,
ではないだろうか。川石をはじめ,安部一郎2),
この道場で,週に約1
0
0人に教えていたので
9
0
0年代の後半には数多くの
道上伯49)など,1
ある。
」57)通常の柔道指導以外に週末やバカ
日本人指導者が渡仏している。しかし,フラ
ンスに入ると,所々で「柔道の形の披露,試
ンス柔道連盟の中枢となり,レジオン・ドヌ
合,柔道活劇」を行っている。粟津は,「フ
ール勲章41)を授与された指導者は粟津のみで
ランスで柔道が大衆化されていった要因の一
ある。やはり,「粟津師範,神殿の守護」と
つに,柔道の興行イベントが挙げられる。
」
題したドミニック・ジョージの粟津評はもっ
と述べている。 この点に関して,ミッシェ
ともではないだろうか。また,作者は不明で
ル・ブルースは前述の著書の中で「大衆向け
あるが,日本人指導者の川石と粟津に対する
のデモンストレーションでは,一人の柔道家
フランス人柔道家の思いを綴った文章がある。
が刀などを構えた敵から身を守るといった護
「初心者がフランス柔術クラブの道場に入る
身術の場面に多くの時間を費やしていた。ま
とその雰囲気に圧倒される。受け身の音が途
た,この類のショーの中では,よくある町の
切れるときの静寂,年長者に対する控えめで
喧嘩に『か弱い乙女』を登場させ,彼女が多
敬意に満ちた態度,先生に対する生徒全員の
くの敵を一人一人戦闘不能にしてしまう場面
敬意に加え,身体が空中を舞う不思議な光景
が組み込まれた。
」26)と解説している。講道
なども強烈な印象を与える。柔道の動きは重
館護身術の中にも,刀やピストルを持った敵
力への挑戦である。体格や社会における格差
から身を守る技が数多く組み込まれているが,
を消滅させる柔道衣,細かく注意が払われる
これらの技をフランス風に改良した活劇的な
儀式も,ただ秘伝を授かった者のみが,身体
興行が柔道人気を高める要因となったのだろ
と空間を支配し,行動や感情をコントロール
う。この点は,本稿の冒頭でも述べたように
できるようになるのだとの思いをさらに強い
当時の時代背景と適合していたのである。
ものにする。皆が先生の動きを捉えるべく注
5
8)
視し,その先生のカリスマ性が道場を包み込
6.粟津正蔵の存在
む。すべてが,階級化され,儀式化され,神
「粟津師範は,彼の師が伝授した偉大なる
聖化されるのである。
」27)静寂,控えめ,敬
柔道の根源を変えることなく,誠実に守って
意,感情のコントロールなどの表現を見る限
きた。(中略)仏教徒,控えめ,忠実,正直,
り,これは粟津に対する畏敬の念なのではな
情緒の安定した男。人生全てにおいて,実直,
いだろうか。日本人を含め多くの柔道家の粟
謙虚,勇敢,寛容なイメージを与える。これ
津に対するイメージも合致する。そして,柔
らは彼の柔道にまで現れている。
」 この記
術が柔道へ変化しフランスにおいて根付く過
述は,フランス柔道家ドミニック・ジョージ
程では,この「先生のカリスマ」が非常に重
が「粟津師範,神殿の守護」と題して述べた
要となったのではないか。柔道はショー興業
とされているが,伝統的な日本柔道家の意味
ではなく,また,ただ単に健康性のため,余
合いであろうが,正しく粟津の人物そのもの
暇のための趣味スポーツでもない。やはり精
を描写したものであろう。川石に従事しなが
神的な部分にウェイトを置く。これをフラン
1
1)
10
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
ス人柔道家に無言で伝えたのは粟津だったの
げたり,力ずくでの防禦は禁止あるいは軽蔑
ではないだろうか。この点について,ジャン
された。こうしたルールは暗黙の了解であっ
-ルシアン・ジャザラン31)は「我々は柔道に
た。取材に応じた柔道家は,柔道は単なる格
溢れんばかりの賞賛と敬意を送った。過剰と
闘技ではないと力説する。立派な姿勢を伴っ
もいえるほど熱心に稽古と理論の学習に打ち
ているときにのみ結果が評価され,さらに攻
込んだ。先生達に対して感じた,ある畏怖の
める姿勢が立派だとされた。多くの指導者に
念,そして多大な賞賛は,やがて敬意へと変
は返し技は評価が低かった。寝技を得意とす
わった。先生達の人格に自分達の夢や絶対的
る者は恐れられ,また敬意を受けはするもの
な希望を投影した。こうした心を高揚させる
の,足技や巴投げを得意とする者に与えられ
熱情が比類のなき独特の雰囲気を醸しだし,
た感嘆を得るには至らなかった。こうした見
かかる雰囲気の中,厳格な柔道の礼儀作法や
解を当時の柔道家全体に当てはめることはで
独特の道徳的な行動や姿勢の習得が苦もなく
きないかもしれないが,いずれにせよ多かれ
できたのであった。
」とも述べている。初心
少なかれ,興奮や意識を超えた完璧で絶対的
者の間は,東洋の神秘や無敵になれるという
な動きこそが理想的とされ,衆目の一致で賞
思いから柔道を始め,その後,精神的な柔道
賛されていた」
。32)とも述べ,当時の粟津ら,
の本質に直面するのであろう。さらにジャザ
日本人指導者への愛敬の念を表現している。
ランは「道場とは,真に自分自身を探し求め
立技は派手さがあり,憧れではあるものの,
る場であり,単に巧妙さ,技の習得,身体的
寝技もそれなりに評価している表現があり,
能力の向上を図るばかりでなく,意識,自制
この寝技に関する記述は粟津を指しているも
心,意思などを向上させる場であった。勝ち
のと理解できよう。
負けだけが重要ではない。」と続けて,勝敗
前述の寝技指南書,MÉTHODE DE JUDO
SOL の序論で,粟津は出版の理由を次
だけではない柔道の目的にも触れている。ま
AU
た,柔道の精神性を強調するジャザランは,
のように述べている。「立技と寝技は別々に
L’ESPRIT DU JUDO の中で「『柔道精神』
独立したものではない。立技には立技の利点
とは実践者が共有する一つの文化である。そ
があり,寝技もそうであり,立技に負けない
れは特別な武道である柔道への帰属感を共有
優雅さもある。従って両方のテクニックを中
する柔道家達を結ぶ目に見えぬ繋がりなので
断することなく磨くことが肝要であり,相手
ある。嘉納治五郎師範により考案された柔道
の弱点をつくことが勝利へとつながる。これ
は,精神と肉体を鍛錬する。柔道にみられる
は国際的な大会でもよく見られる。本書では,
エリート主義は,厳密には社会におけるエリ
日常よく使われるシンプルな動きを体系的に
ート主義とは異なる。つまり,文化的かつ知
表し,立技から寝技への連携についても解説
的な意味でのエリート主義であり,その強さ
している。本書が実践者の立技と同様に寝技
は思考と行動,知性と効果,品性と逞しさと
に対しても関心を引き,柔道の進歩につなが
いった組み合わせの中に存在するのだ。数多
ることを期待している。これが本書の目的で
くのスポーツとは異なり,柔道では人間性や
ある。
」78)この一文にも粟津の人柄が表れて
社会的価値に重きを置く。競技スポーツのイ
いるのではないだろうか。寝技は地味な動作
ンストラクターやコーチは,こうした価値観
の連続で,しかも稽古は立技より激しい。武
の指導と技術の指導を連携させる柔道の師範
士が戦場で格闘した時代,最後の殺傷方法は
には及ばないのである」
。さらに,「柔道は結
立技ではなく寝技であった。実は,寝技こそ
果に対する精神的意義を重視する。そのため,
が柔道の醍醐味なのである。しかし,海外で
勝負にも形が要求される。クラブでは腰を曲
柔道を普及させるに当たって,最初から派手
細川・穴井
さのない寝技の大切さを説くことは大きなリ
スクを抱えていたといっても過言ではないだ
ろう。しかし,粟津は敢えて寝技を推奨した。
11
7.天理教二代真柱中山正善と粟津正蔵
1
9
6
0年,天理教二代真柱中山正善は7月7
それゆえフランス人柔道家は寝技に取り組ん
日から1
0月1
5日までの長期に渡って海外巡教
だ。現代でもフランス人柔道家の寝技に懸け
でヨーロッパ,アフリカなど1
7ヶ国を訪れて
る姿勢は,世界でもトップクラスである。
2
0
1
2
いる。「マールブルグ(西ドイツ)で開催さ
年のロンドンオリンピックで日本柔道は金メ
れる第1
0回国際宗教学会・宗教史学会,モス
ダル一個に終わりオリンピック史上初の大惨
クワでは第2
5回国際東洋学会議に出席され学
敗に終わった。ベースボール・マガジン社発
術発表をされるとともに,ローマではオリン
刊の「近代柔道」には「なぜ日本柔道は勝て
ピックを視察されるのが,その主な目的で
なかったのか」のタイトルで特集が組まれて
あった」
。59)この時の最初の訪問国がフラン
いる。その中で「寝技の軽視」が強く指摘さ
スであり,二代真柱を空港で迎えたのが粟津
れていることは興味深い。 ロンドンオリン
であった。「どういう経緯で粟津が真柱様の
3
7)
ピック以降のルール改正でも抑込が2
0秒で一
送迎や案内をするようになったのか,粟津自
本となった。これは抑込,つまり寝技を推奨
身も記憶が定かではない。(中略)粟津は『パ
している現れであろう。近年では日本人より
リで初めてお目に掛かったときは,緊張して
も海外選手の方が寝技の実践が多いようにも
何をしゃべったかも覚えていません』と述懐
思われる。粟津はこの点も1
9
5
0年代にすでに
している。
」60)この時から,粟津の人生に大
察知していたのであろうか。
きな影響を与えられた二代真柱と粟津の交流
が始まるのである。先にも述べたが,「二人
の出会いはこの時が最初ではない。後に分
かったことであったが,粟津が旧制中学生の
頃,天理順正館の柔道大会に京都から参加し
ている。この時に,二代真柱が粟津の試合で
審判をされていたのである。
」61)いずれにせ
よ,この運命的な出会いが天理柔道とフラン
ス柔道を強く結び付ける要因となった。天理
柔道史には粟津が投稿した文章が残っている。
「天 理 柔 道 会 と フ ラ ン ス 柔 道 界 と の 交 流
は,1
9
6
0年(昭和3
5年)1
0月,二代真柱様に
古賀正躬36)氏の来佛をお願いいたしましたこ
とにはじまります。(中略)幸いにも二代真
柱様のお許しをいただき,
1
9
6
1年(昭和3
6年)
2月に来佛することができました」80)また,
「ヨーロッパ各国には天理でお世話になった
選手が,今では指導者として存在しており,
この人達を点として,天理出身の柔道人が海
外に出掛けて交流を深めることは,二代真柱
写真9 粟津正蔵“謙虚”
JUDO MAGAZINE No2
1
6
様のご遺訓に報ずる道ではないかと考えま
す」
。81)と述べている。
1
9
6
4年の東京オリンピック大会で,二代真
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
12
柱が柔道実施のために全身全霊をかけて尽力
述べている。日本柔道の敗退,しかし,ヘー
し,結果として柔道が採用されるに至った事
シンクを育て上げたのは天理大学であり,二
は周知の事実である。1
9
6
1年6月,二代真柱
代真柱と松本だったのである。何とも表現の
は再びパリを訪れ,粟津が対応している。そ
しようがない複雑な思いだっただろう。
の2日後には柔道採用に向けアテネの IOC
東京オリンピックを翌年に控えた1
9
6
3年,
総会へ旅立った。当時の IOC 会長ブランデ
粟津は二代真柱から一通の手紙を受け取った。
ージとは以前から親交があり,彼は一度天理
「粟津君,費用のことは心配しなくても良い。
を訪れている。62)二代真柱とブランデージの
私が工面するから,是非帰ってきなさい。
」66)
この関係が柔道実施のキーポイントであった
プレオリンピックに粟津を招待するというも
ことは想像に難くない。そして6月2
1日に投
のだった。1
9
5
0年に神戸からフランスに旅立
票が行われ,柔道が東京オリンピックの正式
ち,1
3年間一度も帰国していなかった。手紙
競技となったのである。粟津は「柔道関係者
を読むなり「訳が分からず,涙が出てきた。
として,一言,真柱様にお礼を言いたかった。
真柱様が自分を呼んでくださっている。異国
しかし帰路はオルリー空港で機を乗り換えら
にあって,胸の中に張り詰めた塊のようなも
れただけで,出てこられなかった。空港ター
のがあり,それは北極の氷のように長年堆積
ミナルから,はるかに望む真柱様に手を振る
していたが,真柱様という大きな羽毛の温か
だけであった。『ご苦労様でした。ありがと
み で 一 挙 に 解 け て,涙 に な っ た よ う だ っ
うございました』と」 と回想している。二
た」
。67)最初の出会いから次第に二人の関係
代真柱の偉大さと粟津の人物を改めて窺うこ
が親密になっていったことが充分読み取れる。
とができよう。
さらに二代真柱は,「粟津がもしフランスか
6
3)
国際柔道連盟の創設に関しては「はじめ
ら引き上げるとなった場合の身の振り方まで
に」で述べたとおりであるが,その国際柔道
考えられて,粟津に伝えている。
」68)粟津は
連 盟 は 第1回(1
9
5
6年)
,第2回(1
9
5
8年)
「月日は何の変哲もなく流れていくが,恩人
の世界選手権大会を東京の蔵前国技館で開催
や友人と結んだ情は,その流れに抗う。それ
した後,第3回大会は,1
9
6
1年にパリで行っ
は,山の頂きから急ぐ奔流の脇で耐える一本
ている。この大会に,全日本柔道連盟の役員
の細い木のように,たとい傾いても根こそぎ
として二代真柱も渡仏している。また,全日
流されることはない。自分が今日,フランス
本チームの監督として天理大学柔道部初代監
で柔道を続けられるのは,これら周囲の人た
督の松本安市50)も同行した。そこで日本柔道
ちのお陰である。特にこの度の帰国は,真柱
が目にしたものは,3年後の東京オリンピッ
様のご配慮で実現した。この大いなるご恩に
ク大会で金メダルに輝いた「怪物」
アントン・
報いるためには,一人でも多く強いフランス
ヘーシンク1)であった。粟津はヘーシンクに
人柔道家を育てなければならない。
」69)と当
ついて「試合を見ていて,ヘーシンクには負
時を回想している。世界における柔道とフラ
けるべくして負けたと思いました。力も体格
ンス柔道の発展,そして日本柔道と天理柔道
も違いました。おそらく,日本選手の誰が出
の国際化を考えるとき,二代真柱と粟津の存
ても,負けたと思います。
」 さらに,「とに
在を抜きにして語ることはできないだろう。
6
4)
かく身体が柔軟で,走れば早く,水泳も見事
であった。ボーバロン3)から対 岸 の サ ン ト
8.まとめ
ロッペ74)まで約4キロの距離を,悠々と泳い
2
0
1
3年,全日本柔道連盟は女子ナショナル
で往復した。さらに練習の厳しい天理大学に
チームの体罰問題をはじめ,一連の不祥事が
行って,ますます鍛えられたのです。」65)と
続き新たな改革が急務となっている。中学校
細川・穴井
13
では武道が必修となり,現場では柔道が多く
親密な交流があり,お互いに世界の柔道発展
の学校で採用され,その必要性が強調されて
のために尽力した。今日,20
0の国と地域の
いるものの,全日本柔道連盟への登録人口は
加盟を誇る国際柔道連盟,そしてオリンピッ
2
0万人を下回り,危機的な状況となっている。
ク競技となった柔道,年間10
0人以上の海外
一方,柔道が海外に輸出されてから,世界柔
選手が訪れる天理柔道会などを考えるとき,
道の先導役を担ってきたフランス柔道は,今
フランス柔道界における偉大な粟津の存在感
や名実共に世界の頂点へと上り詰めた。その
を再認識するものである。
要因を探るべく,本稿ではフランス柔道の発
謝
展史を明らかにし,フランス柔道の育ての親
と呼ばれている粟津正蔵の存在と柔道に対す
る思想を追求した。
フランス護身術対柔術家の格闘で柔術が勝
辞
本論文の作成に当たりましては,多くの先
生方に多大なるご助言と資料・写真等の提供
をいただきました。とりわけ,粟津正蔵氏,
利し,華やかなデビューをかざったことが,
天理教ヨーロッパ出張所,Michel
フランスで柔術が浸透していく大きな要因と
氏に対しまして,心よりお礼申し上げます。
なった。そして,柔術のもつ神秘性が軍隊を
参考文献および注釈
保有するフランス貴族階級に認められ,瞬時
に普及発展していった。さらに,1
9世紀終わ
Brousse
1)Antonius
Johannes
Geesink(1
9
3
4―
りから2
0世紀初頭のフランスは,日本文化の
2
0
1
0)
「オランダ・ユトレヒト出身の柔
流行(ジャポニスム)
,や人々が余暇と健康
道家。1
9
5
5年,オランダ柔道チームの指
やスポーツを考える時代であり,柔術は当時
導を始めた道上伯に見初められ徹底的な
の時代背景に合致していたのである。フラン
個人指導を受けた他,日本でも講道館や
ス柔術の揺籃期は格闘と見せ物興行であり,
天理大学で松本安市らの指導を受け,選
それが柔道の名のもと,知的なものへと変化
手としての才能を開花させた。この後引
していったことも大きな要因だったのではな
退するまで,毎年2ヶ月ほど日本に滞在
いだろうか。極めて曖昧な表現となってしま
しトレーニングに励んでいた」ウイキペ
うが,柔術から柔道への移行は相互に関係を
持ちながらスムーズに行われていった。また,
ディア
「日本の柔道家。戦後
2)安部一郎(1
9
2
2―)
柔術が次第に柔道へと変わっていった背景に
ヨーロッパにおいて,講道館柔道の普及
は,社会,文化,経済的な影響があったこと
に貢献した。講道館国際部部長,審議部
も重要な要因であった。
部長を経て,現在参与。段位十段。講道
そして,柔術が柔道へと変化した後に,フ
館派遣指導者として,1
9
5
1年渡仏。1
9
5
3
ランスにおいて根付く課程では,日本人指導
年ベルギー柔連・ヨーロッパ柔道連盟技
者のひたむきな努力と貢献なくしてはなし得
術顧問として長くベルギーを中心に指導
なかった。特に「先生のカリスマ性」が非常
した」ウイキペディア
に重要であった。柔道はショー興業ではなく,
ただ単に健康と余暇のためのスポーツではな
3)Beauvallon 地中海に面するフランス
南部の町
い。柔道は精神的な部分にウェイトを置く武
4)Biquart
道なのだ。これをフランス人柔道家に自らの
5―8)Claud Fradet 1997 le judo, quelle
姿勢で伝えたのは粟津正蔵だったのではない
だろうか。
また,粟津は天理教二代真柱中山正善とも
histoire!
p.26, p.38 SFJAM Noris
France
9)Comité supérieur de l’Enseigement
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
14
1980 Éléments pour la préparation aux
brevets d’État d’éducateurs sportif p.15
―18 FFJDA
3
4)柔道大辞典編集委員会 1
9
9
9 柔道大辞
典
p.
6
4
2 アテネ書房
9
6
9)
3
5)川石酒造之助(1
8
9
9―1
1
0)Collège de France
公開講座の高等教
育機関
姫路中学
から早稲田大学を経て,アメリカに留学,
その後ロンドンを経由してパリで柔道指
1
1)Dominique Georges Judo Magazine n
o
導を行う。1
9
3
5年,パリで日仏柔道倶楽
部を創立する。この後,日本語による技
21 avril-mai 2004 p.61
1
2)FFJDA Fédération Française de judo
名ではなく,外国人への教授法を新たに
et disciplines associées フランス柔道
つくり,川石メソッドとして紹介した。
連盟
1
9
4
6年,柔道七段。1
9
5
0年,助手として
4)FÉDÉRATION FRANÇAISE DE
1
3―1
粟津正蔵を迎える。細川伸二 2
0
0
5 フ
JUDO JU-JUTSU 1985 JUDO NO o 74
ランスにおける柔術と柔道の起源(3)
p.19―21
(翻訳)天理大学学報
第2
0
9輯
9
9
0)
3
6)古賀正躬(1
9
3
6―1
1
5)Frédéric Joliot
参照
元天理大学教
1
6)グレーン(相撲技)
「ヴァイキング系の
授 1
9
6
1年フランス柔道連盟の招請を受
着衣レスリング(裸足)でその技法を見
け渡仏帰国後は天理大学柔道部監督とし
る限りギリシャ・ローマ型のそれではな
て活躍。全日本学生優勝大会優勝など
く,騎馬民族系のチダオバ(グルジア相
数々の功績。
撲)やボフ(モンゴル相撲)に近いもの
である」藤原稜三
格闘技の歴史 1
9
9
0
柔術と柔道の起源(1)
(翻訳)p.
8
0,
第2
0
3輯
5)細川伸二 2
0
0
4年
2
1―2
マガジン社
9
p.
3
6―3
3
8)Le monde illustré
p.
1
8
0 ベースボール・マガジン社
0)細川伸二 2
0
0
3 フランスにおける
1
7―2
p.
8
6 天理大学学報
3
7)近代柔道9月号 2
0
1
2 ベースボール・
3
9)Le Soir
4
0)L’École Spéciale des Travaux Publics
de Paris
フランスにおけ
4
1)L’ordre national de la légion d’honneur
る柔術と柔道の起源(2)
(翻訳)p.
3
7
ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジオ
―3
8,p.
4
2,p.
3
9―4
0天 理 大 学 学 報
ン・ドヌール,「名誉軍団国家勲章」は,
第
2
0
6輯
執政政府期にナポレオン・ボナパルトに
7)細川伸二 2
0
0
5年
2
6―2
フランスにおけ
よって制定されたフランスの栄典制度で
る柔術と柔道の起源(3)
(翻訳)p.
4
2
ある。レジオン・ドヌール勲章とも表記
天理大学学報
されている。現在もフランスの最高勲章
第2
0
9輯
2
8)http : //www.ffjudo.com/
0)Jean Philippe DAMIE 1990 LE
2
9―3
として存在する。
4
2)Michaël Hilpron 2012 De «faire du
PALMARES DU JUDO FRANCAIS
judo» à «faire judo»
p.5 Collection J.De Herdt
Techniques des Activités Physiques et
3
1)Jean-Lucien Jazarin 1995 Le Judo
École de vie Éditions BUDOSTORE
3
2)Jean-Lucien Jazarin 1997 L’ESPRIT
DU JUDO Budo Éditions −Les Édition
de l’Éveil−
3
3)Judo club de France
p.17 Sciences et
Sportives Université d’Orléans
4
3)Michel Brousse 1996 Le judo SON
HISTOIRE, SES SUCCÉS Éditions
Liber, Genève(Suisse)
6)Michel Brousse 2005 Les racines du
4
4―4
judo français p.216―217, p.218―219
細川・穴井
Presse Universitaires de Bordeaux,
6)永尾教昭 2
0
0
5 天理教ヨーロッパ
5
5―5
出張所報2
3
3号 p.
3 天理教ヨーロッパ
Pessac
8)Mikinosuke KAWAISHI
4
7―4
明
15
発刊年不
ma methode de JUDO
CDDAM SIRTEC-Pantin
0
0
2)
「愛媛県八幡浜市出
4
9)道上伯(1
9
1
2―2
出張所
8)永尾教昭 2
0
0
6 天理教ヨーロッパ
5
7―5
出張所報2
3
5号 p.
5 天理教ヨーロッパ
出張所
身の日本の柔道家である。1
9
5
3年,フラ
2)永尾教昭 2
0
0
6 天理教ヨーロッパ
5
9―6
ンス柔道連盟の要請を受けて渡仏し,以
5 天理教ヨー
出 張 所 報2
3
8号 p.
4―p.
降ボルドーに定住。指導者としてヨー
ロッパ・アフリカ・アメリカなど3
6の国
ロッパ出張所
6
3)永尾教昭 2
0
0
7 天理教ヨーロッパ出張
と地域において柔道の普及に努めた」ウ
所報2
4
6号
イキペディア
張所
9
9
6)
「日本の柔道家。
5
0)松本安市(1
9
1
8―1
p.
8 天理教ヨーロ ッ パ 出
5)永尾教昭 2
0
0
8 天理教ヨーロッパ
6
4―6
段位は八段。昭和天覧試合(1
9
4
0年)準
7 天理教ヨー
出 張 所 報2
4
7号 p.
6―p.
優勝者,第1回全日本柔道選手権大会
ロッパ出張所
(1
9
4
8年)優勝者であり,後に天理大学
7)永尾教昭 2
0
0
8 天理教ヨーロッパ
6
6―6
や東京オリンピック柔道日本代表の監督
出張所報2
4
8号
を務めた」ウイキペディア
パ出張所
5
1)村田直樹 2
0
1
1 柔道の国際化《その歴
史と課題》p.
1
7
6 p.
1
7
9 日本武道館
5
2)Monsieur Ducos
p.
8 天理教ヨ ー ロ ッ
9)永尾教昭 2
0
0
8 天理教ヨーロッパ
6
8―6
出張所報2
5
0号
p.
6 天理教ヨ ー ロ ッ
パ出張所
5
3)Moshé Feldenkrais「フランスにおける
9
9
5)
「明治4
5年,富山
7
0)老松信一(1
9
1
2―1
柔道の先駆者。1
9
3
6年,フランス柔術ク
県に生まれる。東京高等師範学校卒業。
ラブ設立。ロシア出身のユダヤ人で1
9
0
4
はじめ日本武徳会で段位を取り,
1
9
3
3
(昭
年に生まれた。1
9
1
7年のロシア革命直後
和8年)に講道館入門,1
9
3
7(昭和1
2)
に1
4歳でパレスチナに渡った」以下,細
年に五段,1
9
8
4
(昭和5
9)
年に九段となっ
0 参照
川伸二 2
0
0
4 前掲書 p.
3
9―4
た。(中略)講道館図書館資料部長など
9「
)天
5
4)天理教二代真柱中山正善 (1
9
0
5―1
を歴任し,日本柔道の発展のために貢献,
理教の初代真柱である中山眞之亮とその
また学究の柔道家として多くの論文を残
妻たまえの長男として,奈良県丹波市町
した。
」柔道大辞典編集委員会 19
9
9
(現在の奈良県天理市)三島に生を受け
柔道大辞典
p.
6
2 アテネ書房
た。
」
「天理大学の創設者である中山正善
7
1)お雇い外国人「明治初期,西洋の学問・
天理教二代真柱(『真柱』とは,天理教
技術・産業・政治制度などを取り入れる
の中心的存在であり,天理教教規では『天
ため政府が雇った外国人」松村明 1
9
8
8
理教を統べ理める者は,真柱である』
(第
大辞林
八条)と述べられている)は,大正から
昭和の時代にかけて天理学園の教育の基
礎を築き,真に力強い『人材育成』の流
れを生み出した」森井博之 2
0
0
7 天理
大学創設者
スポーツ
中山正善天理教二代真柱と
p.
7 p.
1
2 三恵社
7
2)Paul
p.
3
6
7 三省堂
Bonnet-Maury 細川伸二 1
9
9
5
フランス柔道発展史とポール・ボネモリ
の存在
天理大学学報
第1
7
9輯
参照
8
6
6)
7
3)Philipp Franz van Siebold(1
7
9
6―1
「ドイツの医者・博物学者。1
8
2
3年オラ
ンダ商館医官として来日。長崎の嗚滝塾
フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在
16
で診療と教育を行い,多くの俊秀を集め
8
3)天理順正館「天理柔道会の活動の本拠。
た。2
8年離日の際,日本地図の海外持ち
その発祥は昭和1
4年,当時天理中学の師
出しが発覚,国外追放となる(シーボル
範をしていた小林徳正の,広く町の人た
ト事件)
。5
9年再来日。著『日本』
『日本
ちにも柔道への門戸を開き,その普及に
動物』
『日本植物誌』など。
」松村明1
9
8
8
役立ちたいという熱意が二代真柱を動か
大辞林 p.
1
0
2
6三省堂
し,旧天理教詰所会事務所を改造,道場
7
4)Saint-Tropez 地中海に面するフランス
南部の町
にされたのがその始まりである」
柔道史編集部 1
9
7
7 前掲書
7
5)坂上康博 2
0
1
0 海を渡った柔術と柔道
4
8 青弓社
p.
1
4
7―1
天理
p.
1
1
8
5)T.Inogaï et R.Habersetzer 1992
8
4―8
JUDO pratique p.18―p.21 Amphora s.a.
9
3
9)
「大正・昭和の
7
6)杉村陽太郎(1
8
8
4―1
8
6)富岡製糸場「群馬県富岡市にあった日本
外交官で IOC 委員。身長1
8
5センチ,体
初の機械製糸工場である。敷地および主
重1
0
0キロを超す巨漢であり,若い頃は
要な建造物は2
0
1
1年時点で現存している。
柔道や水泳など何でもこなした豪傑で,
官営模範工場の一つであり,明治5年1
0
一種の名物男として知られた」ウイキペ
月4日(1
8
7
2年1
1月4日)に操業を開始
ディア
した。明治政府は,フランス・リヨンの
8)SHOZO AWAZU 1959 MÉTHODE
7
7―7
DE
JUDO
AU
SOL
p. 9
L’IMPRIMERIE DE CHARLEBOURG
商社,エシュト・リリアンタール商会の
横浜駐在員であり,お雇い外国人のフラ
ンス人技師ポール・ブリューナ(Paul
7
9)Tani は谷幸雄と思われる。ロンドンで
Brunat)の指導でフランスから繰糸機
柔術の指導をしていた。天神真楊流の柔
や蒸気機関等を輸入し,養蚕業の盛んな
術家 Higashi
富岡に日本初の機械製糸工場を設置し
不明
1)天理柔道史編集部 1
9
7
7 天理柔道
8
0―8
史
0
5 天理時報社
p9
7,p.
8
0
3―8
8
2)天理柔道会「天理柔道の後援組織。天理
柔道会の母体となった組織の結成
は,1
9
3
2年(昭和7年)6月2
7日中山正
善天理教二代真柱の発起で結成された。
初代会長は,多年に渡り天理中学校柔道
た」ウイキペディア
8
7)真柄浩 1
9
7
7 川石酒造之助―生いたち
と欧州柔道界に与えた影響
1
0―2
8
8)山田実 1
9
9
0 秘伝
古流武術
p.
1
0
0
BAB ジャパン
8
9)吉田郁子
世界にかけた七色の帯―フラ
部を指導した多賀卓爾」天理柔道史編集
ンス柔道の父
部 1
9
7
7 前掲書
出版
p.
9
7
武道学研究
川石酒造之助伝
駿河台