ヤマハ・エレキギターの市場戦略

ヤマハ・エレキギターの市場戦略
―LM 楽器を中心とするマーケティングと市場の関係― 1)
田
中
智
晃
1.はじめに
世界においてピアノが 33%,電子鍵盤楽器が 49%,管楽器においても 20% のシェアを占
めるヤマハ2)は,様々な楽器において高い市場シェアを誇る総合楽器メーカーである。ただ
ヤマハは,マイナーな民族楽器を除く,主要な楽器製品群において世界最大手のように思え
るが,弦楽器においては意外とシェアが低く,商品回転率が高いギターに至っては 7% のシ
ェアしかない。国内市場においてはアコースティックギターにおいて約 15% のシェアだが,
本来大量生産に向いているはずのエレキギター(電気ギター)では 2% 以下のシェアである
といわれている3)。この原因はどこにあるのだろうか。本論ではエレキギターを中心とする
LM 楽器(ロックやポップなどのライト・ミュージックに使われる楽器)に注目し,ヤマハの
組織,マーケティング戦略から楽器ビジネスを再検討する。
現在エレキギターにはスタンダードともいえる三つのデザインがある。1950 年代に生ま
れた米国のフェンダー社(Fender)のストラトキャスター(Stratocaster)とテレキャスター
(Telecaster)
,ギブソン社(Gibson)のレスポール(Les Paul)である。エレキギターには他
にも変形ギターなど個性的なデザインが存在するが,流行に左右され易いものが多く,結局
長期にわたり支持を集める基本デザインは上記の三つとなっている。そのためエレキギター
の技術革新はほぼ終了し,フェンダー,ギブソン以外のギターメーカーは,三つのデザイン
をコピーするか,個性の強いデザインもしくは新しい技術(ギターシンセなど)を追求する
しかない。国内の多くのギターメーカーはコピー戦略をとり,個性を選択した場合には流行
に即応する製品開発力が必要となった。また三つの基本デザインといえども,その時々で流
行のカラーや柄があり,同じ製品の量産には市場の動向を注視する必要があった。ヤマハの
製品戦略は時代によってコピーとオリジナルを使い分けてきた。
ヤマハギターの先行研究については,カスレンとブラケットが初期のクラフト的な生産か
ら海外の大規模工場の設立(台湾・インドネシア)までの流れをコンパクトにまとめており,
アメリカにおいてエレキギターの SG が広まった理由をサンタナなどのアーティストの力と
同時に,ヤマハの高い品質管理にあるとし,それが代理店の間で好評であったことを指摘し
ている(Kasulen and Blackett, 2006, pp. 14-23, 69)。初期ヤマハギターについては,江崎秀行
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の自伝が詳しい。江崎はヤマハが手工ギターの開発・生産から始め,量産化モデルにその技
術と生産の思想が伝授されていることを述べている(江崎,2006)
。彼らの研究に補足する点
といえば,マーケティングからのアプローチとヤマハ全体の戦略についての考察であり,本
論はこれらに焦点を合わせ,日本のエレキギター市場に注目する。
一方で製品開発力を左右する一つの要因として,企業組織の在り方が問題になる。組織論
についてはチャンドラーの歴史研究が示唆に富む。チャンドラーは米国企業の事例から,不
確実性の高い市場をコントロールする目的で企業が水平・垂直統合を行い,大規模化する中
で集権的職能別組織を採用し,さらなる成長欲求の結果として行った多角化が事業部制組織
へと導いたことを論証した。企業の戦略や規模の変化に組織構造を対応させていき,これに
よって米国企業が競争優位性を構築していったという理論はあまりにも有名だが,本論では
企業組織の変更に市場が大きく関係し,市場と経営体制が密接に関係し合っているというチ
ャンドラーの指摘(Chandler, 1962, p. 382)を深掘りする。
チャンドラーの後に,企業組織が事業部制に至る仕組みを理論的に論じたウィリアムソン
は,取引費用という概念によって事業部制構造を再考した。職能別組織が放射状に拡張する
と,組織内での累積的なコントロール・ロスが生まれ,また,利益目標以外に関心を向ける
ことを好むようになるという(Williamson, 1975, p. 133)。そこで,大企業では事業部制組織
を採用するというロジックになる訳だが,ウィリアムソンはこれが行き過ぎると弱点にもな
るという。市場において行われた取引が,高度に統合された階層型組織内で行われ始めると,
取引費用が削減されるというメリットが生まれるが,その一方で組織内の柔軟性が損なわれ,
官僚気質の欠陥が生じる可能性があるという(Williamson, 1975, p. 40)。野中郁次郎・勝見明
はヤマハにおける光るギターという新製品の開発フローをまとめているが,新コンセプトが
出てから製品化に至るまで 1 年半以上かかり,社内の根回しに多くの時間が費やされている
ことを指摘している(野中・勝見,2004,167-177 頁)
。これはウィリアムソンが述べる官僚
気質の弊害の一例として見られるが,本論ではヤマハのエレキギターの事例からもこの問題
を考察していく。
また,ミルグロムとロバーツは組織内の意思決定に関するコントロールとコーディネーシ
ョンから事業部制構造を考察している。事業部制というイノベーションは内部管理費を引き
下げるが,分権化された意思決定が増えすぎると,情報をトップの経営者が裁ききれなくな
り,組織内に新たな管理レベルを追加するなど,コストがかかる対策が必要になる上に,意
思決定が遅くなり,伝達される情報を劣化させるフィルターにもなるという(Milgrom and
Roberts, 1992, pp. 552, 571)
。ヤマハのギター・ビジネスにおいても製品戦略上の問題と同時
に,ミルグロムとロバーツが指摘する組織的な問題が存在した。
ヤマハが事業部制組織を採用したのは戦後にピアノ・オルガン・管楽器などの楽器群から,
ホーム用品(バスタブ,家具など)やレジャー施設などに進出し,多角化戦略を執り始めた
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時期であった。チャンドラーやウィリアムソンが論じるように,ヤマハは製品群が増えるに
従って,職能別組織から事業部制へ動き出したが,1970 年代末に職能別組織に一旦逆戻りす
るなど,組織の進化過程は,籠幾緒がまとめているように直線的ではなかった(籠,1993,
13-14 頁)。完全に事業部制組織を採用するのは多角化戦略が完了した 1980 年代半ばになっ
てからであり,この状況については,岡本武昭が管理組織の変化に注目して論じている。そ
れによると,1990 年代以降のヤマハの不振は楽器市場の成熟化と事業部制の失敗が原因で,
特に後者については技術交流を阻む要因となってしまったという(岡本,1997,207-208 頁)
。
確かにこのような面はあったが,ヤマハでは伝統的にプロジェクトという形をとって,部門
を横断して技術者が集まる習慣があり,全面的に岡本の主張が正しいとはいえないが,組織
構造からヤマハの経営を分析したことは評価されるべきである。
一方で,大木裕子と山田英夫は技術的な観点からヤマハが大企業になれた原因を探ってい
るが,アコースティック楽器に焦点を合わせるあまり,電気・電子楽器への考察が充分とは
いえず,特にフェンダーとギブソンがギターにおけるフラグシップ・メーカーだと気がつい
ていない点は再考が必要だと思われる(大木・山田,2011,176 頁)。このため,ヤマハが楽
器業界において大企業になれた原因を「ボリュームゾーンの顧客を獲得するために,一定以
上の品質を維持した楽器の量産を可能にしたこと」
(大木・山田,2011,185 頁)という定説
を繰り返すだけで,ヤマハ製の楽器の中にはエレキギターのようにボリュームゾーンを狙っ
たにも関わらず苦戦している製品もあることを見逃している。本論では,LM 楽器の分野か
らヤマハの新たな一面を発見することも目的としている。
まずは,第 1 章においてエレキギターの始まりについて概観し,第 2 章ではヤマハのギタ
ー・ビジネス開始から 1970 年代までについて考察する。そして第 3 章において,1980 年代
のヤマハの LM 事業について検証し,その中でエレキギター事業が組織構造やマーケティン
グ,流通チャネルによって,どのような影響を受けたのかを見ていくことになろう。
2.ギター産業におけるテクノロジーの変化
ギターの起源は諸説がありはっきり分からないが,紀元前のヒッタイトで使われていたリ
ュートがギターの始祖といわれている。その後,西ヨーロッパへ様々なルートをたどって渡
ってきたギターが,スペインの地にたどり着くのは 13 世紀以前で,北アフリカとスペインに
住んでいたイスラム系アラビア人が持ち込んだと言われている。その後スペインではギター
の発展が集中的に見られるようになる(グルンフェルド,1975,52-56 頁)。20 世紀の初頭に
なると,電気技術が新たなギターを登場させ,ギター開発の中心地はアメリカへ移る。
1920 年代までにアメリカにおいては,電気で音量を増幅させる蓄音機やレコードが一般に
知られるようになり,人々の耳がそのような音に慣れるようになってきた。音に対する感受
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性の変化は,テルミンや電気ピアノなど新しい楽器を生み出し,1928 年にシカゴのストロン
バーグ・ボアザント社(Stromberg-Voisinet Company)によって初めてエレキギターが商品
化された。当初は従来のギターやマンドリン,バンジョーに磁気ピックアップ(振動を電気
信号に変える装置)を取り付けた簡単なものであったが,すでにアンプに接続することがで
き,アコースティックの楽器よりも大幅に音量を上げることが可能になった(Gruhn and
Carter, 2010, p. 6)
。
弦の振動音を集め,電気信号に変える仕組みを改良したのが,ロー・パット・イン社(RoPat-In;後のリッケンバッカー社)であった。彼らは 2 個の馬蹄型マグネットを向い合せた
電磁コイルのピックアップにスチール弦を通すことによってダイナミックな信号を得ること
に成功し,コンサートなどで大音量を求めていたハワイアンのギタリスト向けに A-22(フ
ライング・パン)というアルミニウムボディのエレキギターを 1932 年に販売した。1934 年
以降は,創業者の一人であるアドルフ・リッケンバッカー(Adolph Rickenbacker)の名から
とり,自社のエレキギターにリッケンバッカー・エレクトロ(Rickenbacker Electro)という
ブランドを付け販売する(Gruhn and Carter, 2010, p. 6;プレイヤー編集部,1985,74 頁)。
1932 年にわずか 28 台の売り上げであった同社のエレキギターは,1933 年に 95 台,1934 年
に 275 台,1935 年には 1,288 台にまで増加した。市場でエレキギターが認められてきたこと
を感じたギブソン社(Gibson)は,従来から生産していたバンジョーなどのアコースティッ
ク楽器の他に,1935 年からアルミニウムボディのエレキギターを発売し,1936 年にはホロウ
ボディ(中空構造の本体)のエレキギターも販売する(Gruhn and Carter, 2010, p. 22)。同時
期にはグレッチ(Gretsch)やエピフォン(Epiphone)などからもエレキギターが発売され,
1930 年代がアメリカにおけるエレキギター始まりの時代といってよいだろう。
次の技術革新はギターの基本的な構造に起きた。従来のエレキギターはハワイアンなどに
使用するスチールギターがメインで,横に寝かせて演奏する形態であった。抱きかかえて演
奏するスパニッシュタイプのエレキギターは,ギブソンのようにホロウボディになっている
ものが多く,ハウジングが起きやすかった。そこで,1930 年代からソリッド・ボディ(空洞
のない本体)のギターが開発された。エレクトロ・ストリング・インストゥルメント・コー
ポレーション(Electro String Instrument Corporation:ロー・パット・インが 1934 年に社名
変更)は,1930 年代中期にベークライト・エレクトロ(Bakelite Electro)というアメリカで
初のソリッド・ボディのエレキギターを製作したが,気温の変化でチューニングがずれる問
題が発生し,なお改良の余地が残されていた。その後,様々なメーカーがソリッド・ボディ
の開発に挑戦したが,特注で作られるような楽器にとどまり,一般ユーザーに普及する製品
にはならなかった(Gruhn and Carter, 2010, p. 22)。それが,戦後の 1950 年代にフェンダー
社によって,完成されたソリッド・ボディに改良された。
フェンダー社は,すでに生産していたスチールギターと同じクリアな音色が鳴るスパニッ
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シュ・ギターを目指し,ソリッド・ボディのエレキギターの開発を始める。1948 年に制作さ
れた最初のプロトタイプは,本体が変則的なダブル・カッタウェイ(本体上部を演奏性向上
のためにツノ状にカットしたもの)で,ピックアップやコントロール部分はスチールギター
の技術が応用された全く新しいギターであった。このギターをフェンダー社は生産段階に進
める過程で工夫を加える。まず,従来のスパニッシュタイプではネックとボディが分離しな
いように接着剤で結合するのが一般的であったが,リッケンバッカーのスチールギターやバ
ンジョーで行われていたように,ネジ止め方式を採用することによって分離可能にした。こ
れにより,ネックの交換を容易にしただけでなく,ネックとボディを別々のラインで生産し,
最終工程で組み立てるだけでよくなった。次に,ギターを構成する不可欠な部品と思われて
いた指板をなくして,フレッドを直接ネックに取り付けるデザインにした。これにより,指
板の接着という工程が必要なくなり,生産の合理化が図られたのである。また,デザインも
プロトタイプから変更され,片側に 6 本のペグが集中した独特のデザインにし,ヘッドを後
ろに倒して弦のテンションを高め,演奏性をさらに高めた。以上により,フェンダー社は,
ギターのデザイン・機構,量産技術の面から,一般に普及しうる初めてのソリッド・ボディ・
ギターを作り出した。このギターは,1950 年春に Esquire(エスクワイヤー)と名付けられ,
シングル・ピックアップからダブル・ピックアップに改良されたギターを同年秋にブロード
キャスター(Broadcaster)と呼んだ。ブロードキャスターはグレッチ社のドラムセットと同
じ名称だったため,1951 年に現在と同じテレキャスター(Telecaster)に名称変更された。
1954 年には,テレキャスターよりも取扱いが容易で,新開発のシンクロナイズド・トレモロ
というビブラート・ユニットを搭載し,他にも様々な改良が施されたストラトキャスターと
いうギターも発売し,フェンダーのエレキギターにおける優位性は確立されることになる
(プレイヤー編集部,1985,22-24,28-30 頁;Kelly, Foster, and Kelly, 2010, pp. 34-41, 44-46)
。
ギブソンでは,フェンダーのブロードキャスターがミュージシャンの間で認められつつあ
るのを感じると,R&D 部門でソリッド・ボディ・ギターの開発を始め,1952 年にレスポール
という名のエレキギターを発売する。これは,ミュージシャンとして当時人気のあったレ
ス・ポール(Les Paul)の名を冠して販売したシグネチャーモデルで,彼が開発したトラピー
ズ・ブリッジが搭載され,表板が金色に塗装されていた。またフェンダーと異なりギブソン
のソリッド・ボディは,ボディの表面がアーチ状に盛り上がっているカーブトップの形状で
あり,フェンダーとの差別化を図っていた。発売と同時に人気ギターとなったレスポールで
あるが,ポールとの契約が中断した間,ギブソンは SG という名称を付けたエレキギターを
発売する。SG とは Solid Guitar の略で,レスポール・モデルを全面改良して製作された。そ
の後,レスポールと SG はギブソンを代表するブランドに成長していく(Duchossoir, 1994,
pp. 40-46 ; Gruhn and Carter, 2010, p. 153-154)。
このようにして,フェンダーによって作られたテレキャスターとストラトキャスターはソ
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リッド・ボディのギターが一般化する道を作ったといえるが,戦前からのギター会社である
ギブソンもフェンダーとは異なるデザインのレスポールを開発することによって,エレキギ
ターは完全に市民権を得ることになった。
3.ヤマハでのギター生産の開始
社史によれば,ヤマハのギター製作は戦前の天竜工場(後の和田工場)から始まったと書
かれているが,詳細な年月日は分かっていない。天竜工場が完成したのは 1937 年 11 月で,
戦争の影響によって陸海軍の共同管理工場に指定されたのが 1942 年 10 月であるので,戦
前・戦中期にヤマハがギターを生産していたのは 5 年間もなかったと思われる(日本楽器製
造,1977,234 頁;100 年史編纂委員会編,1987,224-225 頁)
。
国産初のエレキギターの製造に成功したのは松木製作所(現東京サウンド;東京)と言わ
れ,1934 年頃に電気ハワイアン・ギターの製作に成功し,翌年からリッケンバッカーのベー
クライト・エレクトロのコピーモデルを生産,戦後の 1950 年頃になるとソリッド・ギターの
開発も行い,1955 年に量産化に成功する。同じ時期(1954 年)にはアヲイ音波研究所(後の
テスコ;東京)からもソリッドタイプのエレキギターが発売された(野口,1993,68-71,88
頁)
。1960 年代初頭になると世界的なギターブームが起き,アコースティックやエレキギタ
ーの需要が増加し,多数のギターメーカーが誕生した。当時,国内でエレキギターを生産し
ていたのは東京や長野,名古屋に所在する企業で,アコースティックギターは名古屋とその
近郊に集中していた。その中でも,1960 年に起業した長野県松本市の富士弦楽器(現,フジ
ゲン)は,1961 にエレキギターの生産に成功した,創業時からのギターメーカーである。同
社の初代工場長がバイオリンの技術者であったように,日本のギター制作の歴史においてバ
イオリンの存在は大きい。名古屋地域には鈴木バイオリンでギターの製造技術を学んだ人材
が活躍するメーカー(高峰楽器,寺田楽器,ヤイリギターなど)が多数あり,同じ弦楽器と
いうカテゴリーでバイオリンからギターへ技術伝承が行われていたことが分かる(荒井,
2011,56 頁;横内,1983,137-141,148-149 頁)。
一方,ヤマハにおいて戦後,ギターの生産が再開されたのは 1946 年 2 月で,1950 年代には
クラシックギターの販売を開始したが,エレキギターは生産されることがなかった。1960 年
代半ばになると,国内でエレキギターがブームになり,1965 年にベンチャーズが初来日を果
たし,1966 年にビートルズが来日するとグループサウンズが流行し,エレキギターが飛ぶよ
うに売れる時代が来る。ヤマハがエレキギターに着目したのはまさにこの時期で,1964 年か
ら研究開発を始めた。ピアノを中心に楽器をデザインしていたチーフデザイナーの下で
1965 年に製作されたエレキギター,ブルージーンズ・カスタム・モデルは東宝映画で寺内タ
ケシと加山雄三が弾いていたことで話題になったが,市販モデル S-201,S-302 が発売され
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たのは 1966 年 4 月のことであった(野口,1993,101-102 頁;長瀬,2005,12 頁;Kasulen
and Blackett, 2006, pp. 62-63)
。このように,ヤマハは量産化という意味においてフェンダー
に遅れること 15 年,国内メーカーにも 10 年以上遅れてエレキギター市場に参入したわけで
あり,国産メーカーと比較しても後発企業であった。ただ,研究開発から¼か 1 年で生産段
階まで至ったのであり,この早さは社内に蓄積されたクラシックギターの生産技術が生かさ
れたからに他ならない。同時期には,高級手工ギターの製造が始まり,1966 年に新設の楽器
技術ギター研究課が発足した。この課は元々ピアノ研究課でギターの研究や設計をしていた
3 名の技術者が母体となっており,6 名の技術者と 3 名の職人をさらに加えた合計 9 名で構
成されていた(江崎,2006,16 頁)
。このように,ヤマハにおけるギター製作は,鍵盤楽器事
業から派生したのであり,製品開発という面だけでなく,マーケティングにおいてもこの影
響を受けることになった。当初から弦楽器の専業メーカーであった競合他社と異なり,ヤマ
ハは特異な存在であったといえる。
1966 年 5 月には社内の品番改訂に伴い S モデルは SG と呼ばれるようになった。SG はヤ
マハ製エレキギターの代表機種として位置づけられることになったが,ギブソンと同じく
Solid Guitar の略であっただけでなく,フェンダーのストラトキャスターにも似たフォルム
で,独自の部品や機構があるとはいえ,コピー商品に近かった4)。ヤマハ SG が発売された時
期は,エレキギター・ブームであっただけでなく,これに反する社会的な動きもあった。エ
レキギターを演奏したり,そのライブに行ったりすることが,睡眠薬・シンナー遊びなどと
結びつく不良行為として,1965 年に栃木県足利市教育委員会がエレキ追放運動を起こしたの
である。この運動が瞬く間に全国に波及し,エレキのコンサートを見に行っただけで停学処
分にする高校が現れるなど,
「エレキ = 不良」というレッテルが張られてしまった(
『朝日新
5)
。この影響もあり,エレキギター熱は下火になり,1960 年代末にか
聞』1965 年 10 月 19 日)
けてフォークギターを使用したフォーク・ミュージックがポピュラー音楽の主流になってい
く。そこでヤマハは 1970-1971 年の間,国内におけるエレキギターの販売を中止し,輸出モ
デルのみ生産する。1969 年までが,ヤマハ製エレキギターの第 1 期であり,第 2 期は 1972
年の新 SG の発売によって始まる。
製品という面ではオリジナリティを発揮できなかったが,ヤマハはギターを楽しむ環境づ
くりという点では独自路線を歩む。それが 1967 年に始まったライト・ミュージック・コンテ
スト(L・M・C)である6)。これは,ポピュラー音楽の演奏を競うコンテストで,アマチュア
であれば,既成曲・オリジナル曲を問わず参加することができ,全国の 100 か所以上で予選
会が行われ,本選は東京厚生年金会館で開かれた。参加バンドは 2,200 組で,約 1 万人以上
がエントリーした大規模なイベントで,参加数は年々増加した。このようなコンテストが開
催できたのは,1964 年からエレクトーンコンクールという電子オルガンの全国大会を開き,
このノウハウが社内にあり,また,全国に予選会を行える支店・特約店網を保有していたか
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らで,これはヤマハの競争優位性の一つであった(日本楽器製造,1977,307 頁,318-319 頁)。
同種のコンテストは,規模はヤマハより小さいが,ギターメーカーの東京サウンドも全国 12
地区で地区大会を行い,渋谷公会堂で決勝大会を行う全国アマチュア・バンド・コンテスト
というものを 1965 年から開始しており,楽器のブランド価値を向上させるうえでコンテス
トが有効であることは証明されていた(野口,1993,75 頁)。
1960 年代末からはさらに大きなコンクールが開催される。1969 年にヤマハ社内では「う
たごころ運動」というものを行い,ポピュラーミュージックの方面へ力を入れ始め,その一
環として同年開催されたのが作曲コンクールであった。このコンクールは当初音楽教室の講
師を対象としたもので,
「うたごころ」を知ってもらい,講師の指導スキルやモチベーション
を向上させるために始められ,応募された曲がすべてオリジナルで,それを一流の歌手とミ
ュージシャンに演奏してもらうという内容だった。第 2 回大会からは一般の人もエントリー
できるようになり,1971 年の第 3 回からはアマチュアによる自作自演の部が作られ,シンガ
ーソングライターが応募してくるようになる。同年に先ほどの L・M・C が第 5 回大会を最
後に終了すると,このコンクールの誰でも参加できるという要素が「作曲コンクール」に継
承され,1972 年にポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)と名称変更する(日本楽器
製造,1977,322-325,332-333 頁)
。
「うたごころ運動」の提唱者であった第 4 代社長川上源一は後に次のように述べる。
「…ア
マチュアの音楽のレベルを向上し,その楽しみをもっと深いものにするということを,私は
音楽普及の仕事をする以上は考えたいと思いました。それで,まずみんなで歌をつくるとい
うことをはじめたわけです。ポピュラー音楽の大部分は,歌とともにあるわけですから,こ
れがポピュラーソングコンテストの始まりです」
(川上,1986,326-327 頁)
。この「アマチュ
ア+オリジナル曲」というコンセプトは大ヒットし,ポプコンは日本最大規模のアマチュア
参加型のコンテストになり,岡村孝子や辛島美登里,ジ・オフコース,CHAGE & ASKA,中
島みゆきなど J ポップを彩る数々のアーティストを輩出した。このようにヤマハは他のメー
カーと異なり,プロミュージシャンよりもアマチュアにより接近したマーケティングを 1970
年頃から行ってきたといえる。
ポプコンによる営業的な効果はというと,本選会場で使われていたアンプや PA 機器
(Public Address System;音響機器)のほとんどがヤマハ製のものが使われており,ポプコ
ンを主体としたラジオ番組「コッキ―ポップ」も 1971 年から始まり,同名のテレビ番組も
1977 年からスタートすると,ヤマハ製品は自然と全国に宣伝されることになった。製品開発
の面からも影響があり,ヤマハはドラムや電気ピアノにポプコンでの経験を生かし,より高
品質な楽器を作っていった。ギターはというと,出場者にはできる限りヤマハ製のものを使
ってもらうように勧めたが,他社製品が使用されることもあり,必ずしもヤマハ製品だけと
いうことにはならなかった。ギブソンやフェンダーの製品が使用されることには,担当者も
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諦めていたようで,強力な二大メーカーの優位性は揺らぐことがなかった(ヤマハミュージ
ック,2010,22 頁,85-86 頁)
。それだけでなく,1965 年頃から 1970 年代にかけて,ヤマハ
はギブソンの卸店であった時期もあり,ヤマハの特約店,直営店にギブソン製ギターを卸し
ていた。1970 年代半ばには全国約 100 の特約店が「YAMAHA GIBSON SHOP」となり,ヤ
マハ独自の 1 年保証まで付属してギブソン製ギターを拡販していた7)。仕入先は名古屋にあ
る荒井貿易であり,東京の神田商会などとともに,ヤマハは国内有数のギブソン卸店であっ
た8)。この時期のヤマハはギブソンやフェンダーと正面からの競争を避け,独自の位置を模
索していたと考えられる。
1970 年代半ばから 1980 年代半ばにかけて,ヤマハはバンドが演奏し,交流する場の創造
にさらに力を入れ,各地で LM のコンテストを開いた。1974 年にヤマハ大阪支店の主催で
始まった関西地区のアマチュアバンドのコンクール「8.8 Rockday」は,その後ヤマハが全国
各地で開催するバンドコンクールの模範となった。1976 年に開催された関東甲信地区の
「East West」
,1978 年に北海道地区の「STAGE FLIGHT」,東海地区の「W2」,中部地区の
「Mid Land」
,1979 年に九州地区の「L-MOTION」
,1981 年に東北地区の「ROCK JAM」
,北
陸地区の「LOCK FUSION」と,全国のアマチュアバンドにとって,ヤマハが主催するコンク
ールは自分たちの力を試す良い機会になった。1981 年には各地のバンドコンクールのグラ
ンプリ大会として,L・M・C が復活し,ますます活況を呈した9)。このようにヤマハは,LM
楽器を演奏する人を増やしながら製品を販売するマーケティング戦略をとっていたのであっ
た。
この間ヤマハのギター開発も進み,レッド・ツェッペリンが 1971 年,1972 年と日本公演を
行うと,1970 年代初頭にロックバンドが流行り出し,再びエレキギターに注目が集まった。
そのような中ヤマハは,1971 年,社内の楽器技術部門にエレキギターやギターアンプを開発
する LM 設計課を設立し,ギターを中心としたライト・ミュージック系の楽器に本格に力を
入れ始める(長瀬,2005,181 頁)
。そして SG のフルモデルチェンジを行い,1972 年に
SG-80,SG-60,SG-40 を発売した。これらのモデルは,国内他社でレスポールのコピーモデ
ルを製作し始めていた動きにも合わせる形で,レスポールに似たシングル・カッタウェイの
外観になった。SG の第 1 期ではストラトキャスターに似た形状であったので,全く異なる
デザインになったといえる。その後,1973 年にダブル・カッタウェイのシンメトリック(ボ
ディ上部が左右対称)のデザインになった SG-30 が発売され,この形状が SG シリーズの基
本になっていくが,ピックガードがストラトキャスターに似たモデルもあり,また,80 年代
には第 1 期の復刻版も発売されるなど(長瀬,2005,16-17 頁,25 頁),ヤマハ SG ならでは
の個性を十分に消費者へアピールできたとはいえない。さらに,1977 年に発売された SF シ
リーズはギブソンのレスポール,1983 年 ST シリーズはフェンダーのストラトキャスターを
コピーした商品で,ヤマハの独自性は見られなかった10)。
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ヤマハ・エレキギターの市場戦略
そういった意味では,フェンダーのテレキャスター,ストラトキャスターとギブソンのレ
スポールは確立されたデザインがあり大幅に変更されることがなかった。ヤマハが主催する
ポプコンにおいて,ギブソンやフェンダーのギターを使う出場者がいたのは,ヤマハ製エレ
キギターの商品戦略上の弱さを表していたといえる。ただ,ヤマハ SG は 1975 年にギタリ
ストとして名声を博していたカルロス・サンタナ(Carlos Santana)が使用するメイン・ギタ
ーに選ばれるなど,品質・演奏性は世界最高水準であった。三つのスタンダード・ブランド
に次ぐエレキギターになるために解決すべき問題は何であったのか。ヤマハ内部の=藤は
1980 年代にまた異なる方向へ向かうことになる。
4.1980 年代のヤマハのエレキギター・ビジネス
まず日本のギター産業を社数の観点から外観すると,数多くの企業が存在していたことが
分かる。第 1 表によると,日本の第 1 期エレキギター・ブームの末あたりの 1968 年には,全
国で 50 社のギターメーカーが存在し,中部地方(特に愛知県,長野県)に最も多く,企業規
模はほとんどが中小企業であった。1985 年には 47 社に減少したが,新規の中小企業が 31 社
加わっている。ということは 17 年間で 34 社が市場から退出したわけであり,生存率は 32%,
関東に至っては約 15% しかない。企業の生存率について,これらの数値が低いのか高いの
か,解釈によって意見が分かれるが,経済産業省の『中小企業白書』を参考にすると,起業
10 年目の企業の生存率は 70%,15 年で 61%,20 年で 52%,25 年で 47% であるという11)。
日本のギターメーカーの多くは 1960 年代に起業していることを考えると,1980 年代までは
この業界における生存率が決して高いものではなかったといえる。
しかし,1995 年には 1985 年と比較して約 57% の企業が生き残り,2005 年には 1995 年比
で約 76% の企業が生き残っている。つまり日本のギター産業は,1980 年代まで中小企業の
入れ替わりが激しく,1990 年代に落ち着き始め,2000 年代に標準的な生存率に落ち着いた。
ただ,2005 年に至っても全国に 50 社のギターメーカーが存在し,鎬を削っている。一方で
ピアノに目を転じると,1968 年に 26 社あったピアノメーカーは,2005 年の段階で 8 社に集
約されている12)。ヤマハは,ピアノ産業においては競争が緩和された業界のトップ企業であ
ったが,ギターにおいては多数のメーカーが存在する激しい競争の中にいた。
第 1 図は 1976-2000 年の国内で販売されたエレキギターの台数と輸出台数,ヤマハ製エレ
キギターのマーケットシェアを示す。1980 年代の半ばまでは国産ギターの国内販売台数が
多く,80 年代末からは輸入台数が増え続け,1994 年に至ると,輸入台数の方が多くなり,輸
出台数が減少していくことが分かる。同図によるとヤマハの国内販売台数シェアは 1988 年
まで 10% 以上で,1980 年に 22.7%,1981 年に 21.5% と多数のメーカーが存在する市場構造
を考えると高い水準にあったが,1989 以降は次第にシェアを下げ始め,1999 年には 1.7% に
― 76 ―
東京経大学会誌
第1表
日本ギターメーカーの生存率
総社数*1
1968 年
第 278 号
新規社数
生存社数
生存率*2
関東
中部
13
32
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
その他地域
小計
5
50
1985 年
関東
中部
その他地域
小計
7
35
5
47
5
24
2
31
2
11
3
16
15.38%
34.38%
60.00%
32.00%
1995 年
関東
中部
その他地域
小計
12
26
4
42
8
5
2
15
4
21
2
27
57.14%
60.00%
40.00%
57.45%
2005 年
関東
中部
その他地域
15
28
7
6
9
3
9
19
4
75.00%
73.08%
小計
50
18
32
100.00%
76.19%
*1
企業形態をとっている会社数であり,個人製作家の工房や零細企業は含まれて
いない。
* 2 生存率とは前調査年と該当調査年の比較である。
資料)『楽器年鑑』ミュージックトレード社,1968,1985,1995,2005 年。
まで低下した。ヤマハ製ピアノは同期間に 59-72% のシェアで,電子オルガンも 61-75% を
記録しているので13),ヤマハにとってエレキギターの販売シェアは非常に低い水準であった
といえる。この状況の下で,ヤマハはシェアが高いピアノを中心とする鍵盤楽器で成功した
組織販売を,そのままエレキギターにおいても適用しようとした。
ヤマハで言うところの組織販売とは,戦後ヤマハが音楽教室・学校販売・予約販売(積立
式割賦販売)をリンクさせてピアノ・オルガンを大量販売した手法である。音楽教室の運営
ノウハウ,講師などはヤマハの関連団体である財団法人ヤマハ音楽振興会(ヤマハの関係団
体)から提供され,学校販売に関しては学校が求める楽器にカスタマイズされた専用機種が
ヤマハから提供され,予約販売を行う手法はヤマハ月販(ヤマハの子会社)が指導するとい
う,いわば楽器店として利益を上げる仕組みがフルパッケージでヤマハから特約店に提供さ
れた。これを受けた特約店は地元の学校(特に小学校)にヤマハ製のピアノ,オルガンを納
入し,地域での信用が得られると,小学校入学後に音楽の素養が必要であることを潜在的な
消費者にアピールして幼児の音楽教室入会を即す。ひとたび音楽教室に入会すると,ヤマハ
製の楽器しかない教室に毎週通うことになるので,自然とヤマハ製品への購買意欲が増進さ
れる。高額なピアノを購買する際の敷居を低くする金融的な手段として,予約販売を利用し,
― 77 ―
国内エレキギター市場の状況
1985-1989 年のヤマハの販売台数は資料上の制約により推定値である。
1976-1987 年の輸入数量は数が少なく『貿易統計』に記載されていないため推定値である。
資料)『財務省貿易統計:全国分』財務省,1977-2001 年。
通商産業省大臣官房調査統計部編「雑貨統計年報」通商産業調査会,1977-2001 年。
「エレキギター委員会 第一次答申」日本楽器製造株式会社,1985 年(4 月)。
*
第1図
ヤマハ・エレキギターの市場戦略
― 78 ―
東京経大学会誌
第 278 号
同時に潜在的な顧客層の早期取り込みも図る。このようにして,ヤマハ特約店になった店舗
は各地域の優良楽器店として成功していった。ヤマハ特約店には,元々楽器店であったとこ
ろだけでなく,本屋や宝石店,時計店,文房具店など異業種から楽器小売に参入したところ
が多い。つまり,楽器の専門知識がさほど無くても,ヤマハが考案したフルパッケージを受
ければ楽器店として営業可能であった14)。そして特約店の中でも,ヤマハ製楽器の販売比率
が高く,音楽教室・学校販売・予約販売を行っている店舗を総合楽器店と称した。先ほど述
べたように,ピアノ市場の競争状態は年々緩和されていったので,全国の特約店網を利用し
て,ヤマハは他社よりも有利に競争することができた。
しかし,エレキギター市場では競合する企業が多いだけでなく,ヤマハの組織販売が通用
しなかった。エレキギターはピアノのように音楽教室で習うケースは少なく,また,学校の
正規の授業で使われることはまずないので,学販は事実上不可能で,商品単価が安いモデル
が市場に出回っていることから,予約販売が利用されるケースも少なかった。このように組
織販売の良さが生かせない中で,ヤマハは鍵盤楽器の販売をメインとする総合楽器店を LM
楽器のチャネルとしても利用した。1986 年の段階で,エレキギターを含むヤマハの LM 楽
器の 42% が総合楽器店で販売され,専門店が 33%,LM 契約店(LM 楽器のみで契約した店
舗)9%,卸問屋 8%,PA 専門店 6%,プランズ店(ヤマハの割賦・積立販売をしていた店舗)
2% と総合楽器店が最も高い比率であることが分かる15)。また,総合楽器店では,ピアノや
電子オルガン(エレクトーン)と同じフロアでギターを併売することが多く,LM 楽器の点
からは専門性に欠けていた16)。これは LM 楽器に対する商品知識が少ない総合楽器店が片手
間でエレキギターを取り扱っていたのであり,単価と利益率が高いピアノや電子オルガンが
優先的に販売されていたことを意味する。
1980 年代になるとヤマハの LM 楽器にとって重要な楽器がギターと異なる製品群におい
て誕生する。ヤマハは国内メーカーのコルグ,ローランドに遅れてシンセサイザーの開発を
行い,1974 年ヤマハ初のシンセサイザー SY-1 を発売する。ヤマハはギターと同じく,シン
セサイザーにおいても後発企業であった。しかし,1983 年に DX-7 が発売されると状況は
一変する。当時最新のデジタル音源であった FM 音源17)を内蔵し,実用化されたばかりの
MIDI へ対応,同時発音数 6 音が一般的だった時代に 16 音を実現し,つまみが 2 つだけで主
にスイッチでコントロールする斬新なデザインを備えた DX-7 は,革新的なシンセサイザー
であるにも関わらず,24 万 8,000 円という低価格を実現した。1981 年に発売されたヤマハ初
の FM 音源内蔵キーボード,GS-1 が 273 万円であったので18),いかに DX-7 のコストパフォ
ーマンスが高いのか分かるだろう。通常 1 機種 1 万台くらいの販売が普通なのだが,DX-7
は人気を博し,国内累計 7 万台,18 万台以上が世界で販売された(100 年史編纂委員会編,
1987,149-150 頁;持田・青木,1994,36-37 頁;Roads, 1996, pp. 224-226)。
この成功の中で,ヤマハは 1983 年に自社のデジタル楽器・機器,LM 楽器の新製品を集め
― 79 ―
ヤマハ・エレキギターの市場戦略
た展示会,X-DAY を開催する。東京・大阪・名古屋で開かれたこのイベントは数万人を集
め,中心には DX-7 があった19)。このようにして,ヤマハ社内における LM 楽器の主軸は,
ギターからシンセサイザーに移行していった。1985 年に出されたヤマハ社内のエレキギタ
ー委員会の答申によると,第 3 次ベビーブームの到来をエレキギターのプラス材料としなが
ら,デジタル楽器群の台頭をマイナス材料としている20)。エレキギターはシンセサイザーと
ともにバンドの中で使われる重要な楽器であるので,本来であるなら,デジタル楽器群の台
頭がマイナス材料にはならないのだが,DX-7 の成功によってエレキギターを担当する部門
は社内の中で脇に追いやられつつあり,担当者の危機感がこの答申に現れていた。
ちょうど同じ頃,LM 楽器のさらなる拡販を目指して,ヤマハは流通網の改革に着手し,
1984 年からパルス(PULSE)店と呼ばれた新しいコンセプトのストアを特約店並びに直営
店で展開し始める(100 年史編纂委員会,1987,152 頁)
。このパルス店は「他業界と比較し
ても色のないトレンディな店舗でありしかも楽器に関する情報が得られ,音楽を媒体とし
て様々な活動を展開している店」を目指すものとされ,LM 楽器を専門的に取扱い,電子ピ
アノ(クラビノーバ)
,AV 商品も販売したが「ピアノ,エレクトーン(電子オルガン……著
者)商品は原則的に扱わない」と決められ,従来の総合楽器店とは一線を画した店舗である
ことが強調された21)。総合楽器店を中心とした流通によって苦戦したエレキギターは,この
新しいチャネルによって弾みを付けるはずであったが,DX-7 の好調によって,パルス店は
デジタル楽器中心のお店という定義になっていき,店内にシンセサイザー,ミキシングマシ
ーン,電子ピアノ,PC などは陳列されたが,デジタル製品ではないエレキギターが展示され
ることは少なくなった。店舗によっては顧客から要望があった場合のみ,引出しからエレキ
ギターを取り出し,販売したという22)。こうしてエレキギターはヤマハのマーケティング戦
略の本流から外れるようになり,ますます苦戦を強いられることになる。
1980 年代後半になると,パルス店を開店できる特約店の基準が明確化し,
「ヤマハの普及
思想にのっとった需要創造,普及活動を行い,店舗・普及・人材の 3 要素がい,しかもヤ
23)
と条件が決められた。
「普及思想にのっとった需要創造,
マハ商品の販売シェアが高い店」
普及活動」とは音楽教育と音楽イベントを行うことを意味し,音楽教室の設備とスタジオ,
ホールの設置が求められた。この手法はピアノ,エレクトーンで成功した手法をそのまま
LM 楽器にも適用したもので,音楽教室を使った需要創造は前述したようにヤマハのお家芸
であった。ヤマハ音楽振興会の理事長で,ヤマハ音楽教室を全国に広めた川上源一は,ピア
ノ・エレクトーンの稽古としてヤマハ音楽教室に幼い時期から通っていた生徒が中高生にな
ると退会してしまう現状を何とかしたいという思いから,LM 楽器を音楽教室で教えること
を発案し,1985 年の日本ヤマハ会総会(全国の特約店の総会)で次のように発表する。
「ポピ
ュラーを志す子供たちは,中学に入った世代を中心に膨大な人口です。改めてポップスを手
がける人たちを集めて,LM の教室を作って普及と先取りをはかりましょう。……ポピュラ
― 80 ―
東京経大学会誌
第 278 号
24)
ーの方向へ大きくシフトしてほしい。
」
これは,従来の中心商材であったピアノの販売高が
1980 年をピークとして,年々減少しており,次なる成長戦略の一環として,LM 楽器,ポピ
ュラー音楽に注目していることが分かる。ただ,同じ総会で第 7 代社長川上浩は「我社も話
題のエレクトロニクスの分野に注力したい」と述べ,上島清介副社長は「デジタル関連事業
25)
と特約店に説明しているように,ここで川上源一が述
への新たな挑戦を開始いたします」
べている LM とはエレキギターなどの従来製品よりも,シンセサイザーを中心とするデジタ
ル楽器に主眼に置いている。ヤマハは 1985 年をデジタルエレクトロニクスの本格的な取組
みを開始した年として「LM 元年」と呼んだが,ここにエレキギターは明確な形で含まれる
ことがなかった。
川上源一が発案した LM 楽器の音楽教室は,ヤマハ・ポピュラーミュージック・スクール
(PMS)と名付けられ,1986 年に全国で開校する。この PMS の設置がパルス店に求められ
るようになる訳だが,そもそも LM 楽器,特にエレキギターを音楽教室で習うニーズがある
のかという問題があった。ヤマハの LM 関連部門やヤマハ音楽振興会の幹部は当初から
PMS を始めることに反対であった。その理由は,LM 楽器の初心者がそれぞれの憧れのアー
ティストの曲を弾きたいといった動機で楽器を始めるので,ピアノのように何か決まった教
程で LM 楽器を教えるのは困難だからである26)。結局,社内での反対にも関わらず,ヤマハ
音楽教室の受け皿機関として開始した PMS は,LM 事業の本流とは異なる場所に位置する
ことになり,エレキギターの販売への貢献は極めて限定的なものになった。
同時期には,流通チャネルにも変化があり,ヤマハの LM 楽器を扱う契約店がギター・ド
ラムとデジタル楽器と分けてカウントされるようになり,どちらか一方を扱うだけでも特約
店として契約することが可能となった。ギター・ドラムを扱う契約店(法人数)は 1986 年に
987 店であったが,デジタル楽器は 532 店,ピアノ 707 店,エレクトーン 700 店であった。ギ
ター・ドラムはピアノと比較しても取り扱う契約店が多いことが分かる27)。これはヤマハの
ギター・ドラムが商品的に弱いので,開放的チャネル政策が採用され,できる限り多くの楽
器店に卸していたのだが,デジタル楽器(特に DX-7)は人気があるので,従来からの特約店
(ヤマハ製品の専売店)に卸す排他的チャネル政策を採用していたことを意味する28)。こう
してヤマハ製エレキギターは,フェンダー,ギブソンの二大メーカーやその他の数多くのメ
ーカーのエレキギターと同じ売り場に置かれ,完全に自由競争の中に晒されてしまった。結
局のところ,他社と同じ戦略をとっただけで,ヤマハ製エレキギターの差別化をますます困
難にした。
製品の市販化という面でもヤマハのエレキギターには弱点があった。国内でエレキギター
を生産する多くの中小企業は,市場のトレンドを読んで,製品開発を行い,生産段階にまで
至るまでのリードタイムがヤマハより短く,人気のアーティストがライブなどで使用したギ
ターを素早く市場に投入した。エレキギターは「アパレルに近い」と言われ,カラーや形状
― 81 ―
ヤマハ・エレキギターの市場戦略
など,流行のギターが短期で入れ替わるので,ギターメーカーにとって市販化までのリード
タイムが長いことは致命的なダメージであった29)。ヤマハが製品の市場投入までに時間を要
したのは社内での意思決定の際の時間的ロスが大きく,中小企業はトップダウンで,売れそ
うなギターの生産に次々とゴーサインを出せたが,ヤマハではすぐには生産段階にまで至ら
なかったからである。各部門で同じような組織的な問題が起き,ヤマハでは 1985 年 8 月に,
2 年後の創業 100 周年に向けて,マッキンゼー社の指導の下,大規模な組織改革を断行した。
第 2 図(1984 年)
・第 3 図(1985 年)は改革前後の組織図を表したもので,第 3 図の方がよ
り事業部制構造が徹底されており,各事業部の判断で決断できる範囲を拡大しようという意
図が新組織にはあった。組織改革直前に上島清介副社長は,基幹職の社員を集めてミーティ
ングを開き,それぞれの事業の組織検討にあたって次のように述べる。
「LM 事業なら LM
楽器部門がユーザーニーズをしっかり把握して競合メーカーの打つ手を読み,かつ販売網の
特性に合った戦略を立てる。すなわち,個別事業にとって最適な戦略を遂行し,積極的な事
業遂行ができるような組織を目標として検討を進めてまいりました。
」30)この方針に従って作
られた新しい部門が第 3 図の LM 事業本部であった。この本部は,第 2 図の LM 生産部と電
子楽器生産部(エレクトーンを除く),また国内楽器営業部の LM 担当者が同じ組織内に統
合されたもので,ギター・ドラム事業部,デジタル楽器事業部(主にシンセサイザーを扱う),
音響システム事業部(主に PA を扱う)からなり,流行の移り変わりの早い LM 市場へ統一
した戦略的対応を行い,かつ意思決定の高速化を図った。
しかし,実際には組織図の思惑通りには動かなかった。ヤマハギターに関する新製品の市
場投入までのプロセスは,
「市場調査→商品企画→試作仕様書・図面の作成→試作(最低 3 回
は行う)→社内評価会(評価で OK が出るまで繰り返し)→安全テスト→確認試作または増
加試作(生産)→本生産・作り溜め→出荷」となっており,各段階で部門間の意思統一や仕
様,会議日程などを徹底させるため様々な書類が必要だった。中小企業では,商品企画から
生産まで社長が意思決定できるためリードタイムは早くなったが,ヤマハは組織が大きく,
人事異動が多いので,一人で意思決定できる専門的な責任者が不在で,営業部門や海外法人
などとの合議制になり意思決定に時間がかかったのである。また,安全テストでは,
「ヤマハ
は安心」というイメージを崩さないために,95% 製品開発が終わっていても,残りの 5% の
安全審査で時間がかかる耐久テストを行い,ここでも製品を市場投入するまでの時間を大幅
に遅らせた。特に,世界で販売できるように,様々な環境(気温や湿度の状況など)に対応
できる楽器を製造するポリシーのため,ヤマハの安全テストは最短 1ヶ月にも及んだ。他社
では「壊れたら交換対応すれば良い」という割り切りで発売し,過度な安全テストは避けら
れていた31)。ヤマハでは以上のようなプロセスによって,製品開発から市場投入までのリー
ドタイムは 6-18 か月といわれ,中小メーカーの 2-3 か月を大幅に上回っていた。このため,
ヤマハは流行に合わせた商品を発売する事が困難で,流行を追いかけると,商品を発売した
― 82 ―
ヤマハ組織図,1984 年 3 月
資料) 次の資料を著者が編集。「未来に向けて雄飛を期待―組織機構改定と人事異動の概要―」,
『日楽社報』日本楽器製造株式会社,384 号(3
月),1984 年。
第2図
東京経大学会誌
― 83 ―
第 278 号
ヤマハ組織図,1985 年 8 月
資料) 次の資料を著者が編集。「創業 100 年に向けて―基幹職ミーティング―」,『日楽社報』日本楽器製造株式会社,号外
(7 月)
,1985 年。
第3図
ヤマハ・エレキギターの市場戦略
― 84 ―
東京経大学会誌
第 278 号
頃には流行が終わっているという状況になった。そこでヤマハでは,流行する前の時点で将
来人気になるだろう製品を開発するようにしているが32),流行を先取りすることが困難なの
はエレキギターに限ったことではない。
ただ,1980 年前後から業界内で見られたコスト競争に関するヤマハの対応は早かった。
1982 年にフェンダーは,日本で多く製造されていたテレキャスターとストラトキャスターの
コピーモデルを駆逐し,コスト競争力のある製品を作り出すために,フェンダーのコピーモ
デルを製造していたダイナ楽器,東海楽器,フジゲンと OEM 提携を行い,フェンダー・ギタ
ーを製造する正式なライセンスを与えて,フェンダー・ジャパンというブランドを付けて販
売した。フェンダー・ジャパン株式会社という会社自体は,米国フェンダー本社と日本にお
けるフェンダー製品の販売・卸元である山野楽器と神田商会の合弁で設立した。フェンダ
ー・ジャパンのエレキはフェンダー USA(米国製のフェンダー・ギター)よりも低価格だと
いうことで人気を博し,現在国内で最も売れている国産エレキギターに成長した33)。一方ヤ
マハにおいては,1983 年から子会社の高雄山葉(台湾南部の高雄市)においてコスト競争力
のあるエレキギターの生産を始めた。高雄山葉は 1970 年にヤマハ USA の資本で設立され
た工場で,1971 年にアコースティックギターとエレクトーンの束線の生産から開始した。
1985 年,日本国内の和田工場でのギター生産中止後に,高雄山葉が生産を引き継ぐことにな
った。1987 年には高雄山葉に和田工場の生産ラインを全面的に移管し,台湾で生産されるヤ
マハギターは製造コストを下げながら,日本製と同じクオリティで生産された34)。第 4 図は
ヤマハ製エレキギターの新発売本数及び価格について表したものである。これによると,
1980 年代に最低価格と最高価格の差が大きくなり,新発売本数も多くなっていることが分か
る。1980 年代はヤマハ製エレキギターの種類及び価格バリエーションが増え,製品開発能力
が高まった時代でもあった。
このように,1980 年代までにコスト競争力のある製品を生産する工場や商品構成の厚みが
増すような製品開発能力をヤマハは保有していたのであり,製造技術において他社に負けて
いた訳ではない。しかし,LM 事業本部は当初,国内ギターシェア 50% を達成するという,
野心的な目標を掲げていたが,流通・マーケティング上の問題点を抱え,1988 年の組織変更
の際に解散した。ギター・ドラム事業部は管弦打・教育楽器事業部(1989 年に管弦打事業部)
へ移り,シンセサイザーを扱っていたデジタル楽器事業部は電子楽器事業本部(1989 年に電
子楽器事業部)に,PA を扱っていた音響システム事業部は単独の事業部になり,ギター・ド
ラムから始まった LM 事業本部はさまざまな部署に別れていった35)。消費者は LM という全
体的な視点で,バンドに使う楽器・機器を選んでいるにも関わらず,ヤマハはそれぞれの事
業部でバラバラの戦略を練ることになる。その後ヤマハ・エレキギターは国内販売シェア 1
割を切り,長い低迷期に入ることになる。
― 85 ―
ヤマハ・エレキギターの新発売本数及び希望小売価格
* ヤマハエレキギター・ベースのデータである。エレクトリックアコースティックギターは除く。
** 数値がない年は新発売がないことを示す。1989 年は発売本数が 1 本であったので,最高価格で記載した。
資料)「商品発売一覧」ヤマハ株式会社,2012 年(3 月)。
http://www.yamaha.co.jp/product/guitar/archive/(Accessed, Oct. 21st, 2012).
第4図
ヤマハ・エレキギターの市場戦略
― 86 ―
東京経大学会誌
第 278 号
5.結論
エレキギターは流行に敏感な楽器であり,いかに市場のニーズを素早く満たすかが事業の
成功を左右した。ヤマハは様々な楽器を生産する総合楽器メーカーであるがゆえに,中小の
ギター専業メーカーに対して,規模の経済による競争優位性を発揮できないというジレンマ
を抱えた。
バーニーは低コスト(高い市場シェア)と製品差別化(低い市場シェア)を同時に追求す
ることは中途半端な企業になりパフォーマンスを低下させる可能性があるが,差別化に成功
することによって販売量が増加し高い市場シェアを獲得すると,規模の経済と学習効果が生
まれ,コスト削減に繫がり,結局のところ両戦略の同時追求が可能になるという。このため
には低コスト・製品差別化・高い市場シェアを目指す際に組織内部の矛盾を解決することが
必要であるという(Barney, 2011, pp. 210-212)。ヤマハは低コスト化のために,早くから海
外に生産拠点を移動させ,高い品質管理の下,国内と同等の製品を台湾で作り出し,バーニ
ーが自動車工場の成功事例で述べたように,製造工場段階での戦略的矛盾は生じなかった。
しかし,製品差別化という点では追求してきたにもかかわらず,フェンダーとギブソンの確
立したデザイン,ブランドを超えるマーケティング戦略を練ることができず,部分模倣を行
うこととなり,コピー製品を生産する中小企業との完全な差別化には至らなかったが,ヤマ
ハは低コスト・製品差別化・市場シェアの同時追求を目指した。
流通という面での差別化要因であるヤマハの強力な販売網(特約店網)は,得意とした組
織販売(音楽教室・学校販売・予約販売)がエレキギターの分野では機能しなかったばかり
でなく,利益率の高いピアノの片手間に売られていたため,エレキギターは他社より圧倒的
に有利な流通網を有していたにもかかわらず,十分に活用されなかった。1980 年代には,ヤ
マハの DX-7 を中心とするデジタル楽器が注目を集め,同じ LM 楽器に含まれているエレキ
ギターは同じヤマハブランドとして,再度,浮上のチャンスがあったが,デジタル楽器から
距離を置いた存在になり,社内の流通・マーケティング戦略の主流から外れることとなった。
1980 年代半ばには,LM 楽器特有の流行に即応する必要性に対して,ヤマハは組織改革によ
って新しい事業部(LM 事業本部)を設立した。これはまさにチャンドラーが述べたように,
企業組織の変更に市場が大きく関係した事例であり,組織内でのコントロール・ロスを低減
させる試みであった。しかし改革によっても,階層型組織内での柔軟性の欠如や官僚気質は
解決されることなく,意思決定の遅さから,新製品を市場に送るまでのリードタイムが中小
企業より短くなることはなかった。そして最終的に,開放的流通チャネル政策により,ヤマ
ハ製エレキギターはどこの楽器店にも置かれる製品になり,様々なブランドと自由競争の中
で戦うことになった。
他社との最大の差別化要因である L・M・C やそれに続くポプコン,全国各地で行われて
― 87 ―
ヤマハ・エレキギターの市場戦略
いた様々なコンテストは,ヤマハを宣伝する格好の機会であったが,電子オルガンのコンテ
ストのようにステージに上がっている楽器が全てヤマハ製という状態を作り出せなかった。
ただ,鍵盤楽器で学んだコンテストのノウハウがヤマハギターのブランド価値を向上させた
のは確かで,コンテストを盛んにおこなった 1970 年代〜1980 年半ばにかけては 10% 以上の
市場シェアを獲得し,1980 年代初頭には 20% を超えた(第 1 図)
。このシェアは競争の激し
いエレキギターの世界では決して低いものではない。しかし,シェア 60% を超えるピアノ・
電子オルガンの分野で開かれるコンクールの経済効果は大きいが,エレキギターにおける
10〜20% のシェアでは得られる果実が限定的であったことは確かである。そこで,ヤマハは
より高いシェアを目指した。
ここで問題なのは,流行に左右されやすく,一方で個性を求める顧客が存在するエレキギ
ターの世界で,ピアノや電子オルガンで見られたような高いシェアが実現可能なのかという
ことである。近年においてエレキギターのトップメーカーはフェンダーで,国内で 40% 前
後のシェア(Fender, Fender Japan, Squire の合計)を獲得し,ギブソンは約 20% 前後,15%
くらいに星野楽器(Ibanez)があり,1-2% のシェアでヤマハ,ESP が続き,その他は 1% 以
下のシェアで個性の強いギターを生産しているか,フェンダー,ギブソンのコピーモデルも
しくは部分改良したものを製造しているメーカーになる36)。つまり,シェア 50% を超える
企業は 1 社も存在しないのであり,このような多数のメーカーが乱立している市場の中で,
バーニーが述べるような戦略を遂行することは非常に困難であろう。
ヤマハは,鍵盤楽器で成功したビジネスモデルがあったために,それぞれの楽器に見合っ
た市場シェアで各事業を最適化することに苦心したといえる。川上源一社長はピアノ・電子
オルガンを幼児から習っている音楽教室の顧客に対して,将来の LM 楽器の顧客にもなって
もらおうという壮大な構想の下でヤマハ・ポピュラーミュージック・スクールを開始したが,
LM 楽器のユーザーはピアノ系の楽器とは全く異なるニーズを持っており,エレキギターに
限ると,ヤマハのマーケティング戦略が非常にあいまいなものになった。これは,単一製品
に特化した市場戦略を練る中小のギター専業メーカーと比較して,ヤマハの総合楽器メーカ
ーとしての弱さでもあり,事業最適化の困難性を表していた。ただ,ヤマハには 1970 年代
〜1980 年代にかけて成功したコンテストのノウハウと実績があり,また,近年注目を集めて
いる VOCALOID を中心とした新しい DTM の世界は,ソフトとハードの両面で他社との大
きな差別化要因になる可能性がある。その他にもヤマハには数多くの楽器とソフトがあり,
1980 年代にエレキギターと DX-7 は十分に相乗効果を発揮できなかったが,現代なら成功
しうる組み合わせが必ずあるはずである。
社内に多くの資産があるにも関わらず,競争優位性を発揮できないのは,ヤマハのエレキ
ギター・ビジネスだけではなく,多くの日本企業が抱える問題であり,そういった意味にお
いては,ヤマハが歩んできた道が良い事例になるだろう。各事業を有機的に繫げ,シナジー
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東京経大学会誌
第 278 号
を得るためには,確かなマーケティング戦略と綿密な市場分析が必要である。その上で,各
製品のターゲットとなる適切な市場シェアを設定することが,企業パフォーマンスを向上さ
せる有効な手段といえよう。
注
1 )2011 年度の東京経済大学個人研究助成費(研究番号 11-19)を受けた研究成果である。
2 )本論では日本楽器製造の時代も便宜上,ヤマハと記述することにする。なお,ヤマハ株式会社
という社名は,1987 年に日本楽器製造株式会社から変更されたものである。
3 )シェアについては公式の統計がなく,業界関係者へのインタビューと次の資料による。
「楽器
事業の成長を目指して」ヤマハ株式会社,2010 年(11 月 26 日)。
4 )ヤマハ社史においても 1966 年に市販されたエレキギターを「フェンダータイプのソリット・ギ
ター」と述べている。しかし,音質的にはベンチャーズが使用していた米国のモズライトとい
うギターを目指していたらしく,米国の名器の良い部分を寄せ集めたギターが当時のヤマハ
SG であったといえよう(日本楽器製造,1977,257-258 頁)
。
5)
「エレキギター追放申合せへ:足利市教委」,
『朝日新聞』1965 年 10 月 19 日。
6 )主催は財団法人ヤマハ音楽振興会である。同財団の設立年は 1966 年であった。
7)
『ニューライトミュージック』ヤマハ音楽振興会,第 8 巻第 11 号,1976 年,20-21 頁。
8 )荒井貿易以前は,飛鳥貿易,安宅産業によってギブソン製ギターが日本に輸入されていた。荒
井以後は山野楽器が日本総代理店になり,国内への輸入を担当していたが,2006 年に山野楽器
がギブソンとの総代理店契約を解消したため,それ以後,現在に至るまでギブソンの日本直営
販社が,各代理店に卸している。荒井,2011,83-84 頁。株式会社山野楽器,執行役員,加藤俊
秀談(2011 年 5 月 25 日)
。
.
9 )http://lmc.yamaha.co.jp/archive/(Accessed, Sep. 9th, 2012)
10)http: //www. yamaha. co. jp/product/guitar/archive/sf700/ ; http: //www. yamaha. co. jp/prod
.
uct/guitar/archive/st360m/index.html(Accessed, Oct. 21st, 2012)
11)『2011 年度版
中小企業白書』中小企業庁,2011 年,187 頁。
12)『楽器年鑑』ミュージックトレード社,1968,2005 年。
13)マーケットシェア室編(1977-2001 年)『日本マーケットシェア事典』矢野経済研究所。
14)高度経済成長期に鍵盤楽器で行われた組織販売は次の論文を参照されたい。田中智晃(2011)
「日本楽器製造にみられた競争優位性―高度経済成長期のピアノ・オルガン市場を支えたマー
ケティング戦略―」,
『経営史学』45 巻 4 号,52-76 頁。
15)
「パルス店業務の推進についてのレポート」ヤマハ株式会社,1980 年代末。
16)
「日本ヤマハ会専門員会会報:LM 商品研究分科会」日本ヤマハ会,1973 年(2 月)。
17)FM 音源とは FM 放送の FM と同じ意味で,ビブラートを深く早くかけて音色を作る技術のこ
とである。開発はスタンフォード大学のジョン・チョウニング(John Chowning)が 1967-68
年に行い,1977 年にヤマハがライセンスを取得した。ヤマハの使用許可を得た形で,ニューイ
ングランドデジタル社(NED 社)がシンクラビア(Synclavier)という FM 音源内蔵の世界初
のシンセサイザーを 1977 年に発売した(持田,1987,145-146 頁)。
18)http://jp.yamaha.com/product_archive/music-production/gs1/?mode=model(Accessed, Sep.
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ヤマハ・エレキギターの市場戦略
8th, 2012).
19)デジタルの世界を広げるために,DX の X をとって「X-Day」と命名されたヤマハ単独の楽器
フェアである(物販はない)
。Xとはヤマハ社内では最先端のデジタル楽器を表す文字であ
った。1983 年,池袋のサンシャインで 3 日間の X-Day を開催,1 日 4 回のライブを行った。
アーティストは当時,人気が出始めてきたバンドを使い,3 日間で 3 万人の来場者があった。
この成功によって 1987 年頃まで X-Day を開催し,その後,シンセサイザー EOS を紹介する
EOS-DAY(1989 年)に繫がる。ヤマハ株式会社,国内営業本部 EKB・LM 営業部,田中重徳
談(2012 年 2 月 8 日)
。
20)「エレキギター委員会
第一次答申」日本楽器製造株式会社,1985 年(4 月)。
21)前掲「パルス店業務の推進についてのレポート」
。
22)新響株式会社代表取締役社長,元ヤマハ国内営業,村田廣司談(2011 年 11 月 11 日)
。
23)前掲「パルス店業務の推進についてのレポート」
。
24)「いよいよデジタルエレクトロニクス時代へエンジン全開―第 23 回日本ヤマハ会開かれる―」,
『日楽社報』日本楽器製造株式会社,391 号,1985 年。
25)同上。
26)株式会社コルグ,監査役,元ヤマハ LM 国内営業,梅蔭正談(2011 年 12 月 2 日)
。
27)「国内におけるヤマハ商品契約店数推移」ヤマハ株式会社国内営業本部,2010 年 9 月。
28)株式会社宮地楽器,小金井店ショールーム店長,元ヤマハ LM 国内営業,前田雄嗣談(2012 年
2 月 6 日)。
29)ヤマハ株式会社,弦打楽器事業部,ギタードラム営業部国内営業課,元課長,鋤柄貴司談(2011
年 7 月 1 日)。
30)「創業 100 年に向けて―基幹職ミーティング―」,
『日楽社報』日本楽器製造株式会社,号外(7
月 5 日),1985 年。
31)ヤマハ株式会社
元ギター研究課所属,江崎秀行談(2012 年 3 月 12 日)
。
32)ヤマハ株式会社,LM 営業部営業推進室,大村一弘談(2012 年 2 月 8 日)。
33)フェンダー・ジャパンの製品は日本国内で生産して,国内で販売する取り決めになっている。
2011 年現在のフェンダーのおおよその価格帯は次のようになっている。フェンダー USA,12
万円以上。フェンダー・メキシコ,8 万円以上。フェンダー・ジャパン,8 万円以下,スクワイ
ヤ(Squier by Fender)5 万円以下。現在はフェンダー・ジャパンが神田商会,その他は山野楽
器の取扱いとなっている。神田商会,代表取締役副社長,櫻井敏,並びに山野楽器,執行役員,
加藤俊秀談(2011 年 6 月 17 日)。『楽器年鑑』ミュージックトレード社,1997 年,204,278,
282,339 頁。
34)近年は更なるコスト削減のため,2007 年に高雄山葉はギター生産を終了させ,インドネシアと
中国の工場に生産が移管されている。また,1997 年に日本国内でギター生産をもう一度考え直
すために,浜松にヤマハ・ミュージック・クラフトという子会社を設立し,最高級ギターの国
内生産を再開させた。「高雄山葉歴史」ヤマハ株式会社管弦打楽器事業部,2011 年。ヤマハ株
式会社,管弦打楽器事業部,成瀬文男談(2011 年 8 月 05 日)
35)ヤマハ株式会社『有価証券報告書』1988,1989 年。
36)業界関係者へのインタビューと次の資料による。
「国内エレキギターマーケットトレンド」ヤ
マハ株式会社,2004 年。
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東京経大学会誌
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参 考 文 献
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横内祐一郎(1983)『グレコの仲間たち―富士弦楽器物語―』電算出版企画。
― 2012 年 10 月 24 日受領―
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