麻酔科医を取り巻く世界の状況

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麻酔科医を取り巻く世界の状況
奈良県立医科大学麻酔科学教室 教授 古
家 仁(ふるや
ひとし)
1975年 3 月:大阪医科大学卒業
同 年 7 月:大阪大学医学部附属病院第二外科 研修医
1976年 1 月: 同 麻酔科 研修医
同 年 7 月:大阪逓信病院麻酔科 医員
1977年10月:国立循環器病センター麻酔科 厚生技官
1985年 7 月:奈良県立医科大学麻酔科学教室 助教授
1995年 5 月: 同 教授
1997年10月:奈良県立医科大学附属病院集中治療部 部長(兼任)
2008年 4 月:奈良県立医科大学 臨床教育部長
2009年 4 月:奈良県立医科大学附属病院 医療安全推進室長(兼任)
同 年10月: 同 緩和ケアセンター長(兼任)
現在に至る
わが国における麻酔科事情は二つの大きな問題点を
期に来ている。
有している。一つは麻酔科医不足であり、もう一つは
本稿では、私の独断と偏見で以上の二点を中心に諸
一人の麻酔科医による単独麻酔管理である。わが国で
外国における現状を考察した。とくに後半部分の情報
はその誕生以来、麻酔科医不足が解決されたことはな
源は特定のものであるが、わが国における麻酔科医療
い。その結果わが国では麻酔科医以外が麻酔管理を行
を考える上で参考にしていただきたい。
わざるを得ず、結果として非専門家が麻酔を実施する
状況が生まれている。欧米諸国では麻酔は麻酔科医が
1. 麻酔件数
実施するという原則が医療界だけでなく国民の間でも
わが国における正確な麻酔件数は統計として公表さ
広く普及しているため、いろいろな方法を講じて麻酔科
れていないが、全身麻酔に関しては厚生労働省から発
医による麻酔科医療が行われるシステムができあがっ
表されている数値により概算できる。その数は平成20
ているが、わが国ではそういった医療体制になく、ま
年度で約232万件である 1)。この件数に比べて諸外国
た医療界、国民の間でもその原則が認知されていない。
の件数はどうなっているのか。人口比で検討すると、
その結果、麻酔科医でないものが麻酔を行うという現
Table 1 のようにわが国の件数が極端に少ない。もち
状にあり、これは言い換えれば国民に対して安全面で
ろん統計の取り方が共通でなく、欧米諸国では麻酔薬
も質の面でも不利益を与えていることになる。
を投与した件数であり、その中には鎮静なども含まれ
もう一つの問題点である麻酔科医単独管理に関して
ており、そういった麻酔にも麻酔科医が関わっている
は、麻酔科医を教育する際に、麻酔は一人の麻酔科医
現状がある。ちなみに米国において手術に対する全身
が行うことが麻酔の形である、という考え方が従来よ
麻酔件数は 1 日 6 万件と報告されている 3)。しかし、
り行われており、現在でも続いている。現に教科書で
わが国の件数が全身麻酔だけであるとしても欧米に
もそのような記載がある。しかし、ここ10数年、医療
比べて極端に少数であり、また、鎮静のような麻酔で
安全、医療の質の見直しが声高に叫ばれるようになり、
あっても麻酔科医が関わることにより患者の安全性は
麻酔科医療でなくとも医行為は単独で行うものではな
向上すると考えられ、今後件数は欧米並みに多くなる
い、という考え方が浸透し、単独で医行為を行うと
可能性を秘めている。
いう安全面から言っても問題がある体制を見直す時
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で関わることが一般的で、米国でも麻酔科医の責任下
Table 1. 麻酔件数の欧米との比較
麻酔件数(万件/年)
人口(万人)
人口1万人当たり
麻酔件数(件/年)
232
12,700
180
*
日 本
アメリカ
4,000
2,100(全身麻酔)
#
る並列管理が行われている。この複数の職種が麻酔に
関わる組織をアメリカでは Anesthesia Care Team9)、
1,270
31,400
にこのようなコメディカルが 2、3 件の麻酔を管理す
660(全身麻酔)
イギリスでは、Anaesthesia Team10)と称し、欧米では
すべての国に何らかの形態で存在する11)。その職種と
して、麻酔看護師(nurse anesthetist)、 麻酔アシスタ
イギリス
600
6,180
970
ント〔anesthesiologist assistant、anesthesia assistant、
フランス
850
6,260
1,350
physician assistant(anaesthesia)
( 英)〕、麻酔テクニシ
*:日本は全身麻酔件数。アメリカ、イギリス、
フランスは麻酔薬を投与した件数。
#:人口は2009年度
(文献1∼4より作成)
ャン
(anesthesiologist technician、
anesthesia technician)
などが存在する。各国の人数をTable 3 に示す。
このチームメンバーの役割は、麻酔科医の責任下に
麻酔に関わるほとんどの業務を麻酔科医と協働する。
2. 麻酔科医数
とくにダブルチェック、医行為ではないが現実には麻
上記のような麻酔件数をどのようにして麻酔科医が
酔科医が行っている麻酔に関わる業務などを協働する
こなしているのか。現在でも多くの国で麻酔科医は不
ことで麻酔科医の負担軽減につながるだけでなく、患
足している.Table 2 は、各国の麻酔科医の数と単純
者の安全性の向上、麻酔科医療の質の向上に役立って
計算した麻酔科医一人あたりの麻酔件数、麻酔科専門
いる。
医になるために必要な医学部卒業後の年数である。単
Table 3 にも示されているように、麻酔科医数と同
純に割り算をすることで現実に麻酔科医が実施する麻
等あるいはそれ以上のAnesthesia Teamメンバーが各
酔件数になるものではないが、欧米、とくに、米国や
国に存在するが、未だに麻酔科医不足が解消出来てい
フランスにおける一人の麻酔科医が関わる麻酔件数の
ない。わが国でも周術期管理チーム構想が日本麻酔科
多さは目を見張るものがある。
学会から提唱され、複数で麻酔に関わるような方向に
Table 2. 各国の麻酔科医の数と麻酔科医1人あたりの麻酔件数
一人あたりの麻 専門医に必要
酔件数(件/年) な年数(年)
向かっており、麻酔科医療の安全性と質の向上のた
めにも、また麻酔科医の負担軽減のためにも、また
麻酔科専門
医数(人)
麻酔件数
*
(万件/年)
日 本
7,000
232
アメリカ
43,000
イギリス
12,000
600
500
5∼8
フランス
8,800
850
960
n/a
日 本
0
0
0
カ ナ ダ
2,100
n/a
−
5
アメリカ
33,900
1,800
1,000
ド イ ツ
17,400
n/a
−
5
イギリス
5,400
+
−
オーストラリア/
ニュージーランド
4,600
n/a
−
5∼8
フランス
8,500
n/a
n/a
カ ナ ダ
n/a
+
−
ド イ ツ
n/a
+
n/a
オーストラリア/
ニュージーランド
n/a
330
4,000(全麻酔) 930(全麻酔)
2,100(全身麻酔) 480(全身麻酔)
*:日本は全身麻酔件数。アメリカ、イギリス、
フランスは麻酔薬を投与した件数。
n/a:Not available
5
今後わが国の麻酔をすべて麻酔科医が責任を持って管
理するためにも早急な対応が望まれる。
Table 3. 各国の麻酔コメディカル数
5
(文献1∼8より作成)
3. 麻酔コメディカル
欧米諸国でも未だに麻酔科医の不足が存在している
といわれている。上記のような麻酔件数を考えると
当然かもしれない。さらに欧米では、麻酔だけではな
く各部門で医師ではないが医師と協働する職種(non-
麻酔看護師
(人)
麻酔アシスタント 麻酔テクニシャン
(人)
(人)
オーストラリア/ニュージーランドでは、麻酔アシス
タントは麻酔テクニシャンとも呼称されている。
n/a:Not available +:あり −:なし
+
(文献4∼8より作成)
4. 麻酔科医の給与
physician)が存在する。とくにヨーロッパでは原則 1 件
欧米では麻酔は麻酔科医が行うという原則が普及し
の麻酔に麻酔科医と麻酔に関わるコメディカルが複数
ているため、一人の麻酔科医が責任を持って管理する
28
トピックス
麻酔件数はかなり多い数になっているが、麻酔科医と
べてかなり高額になっている。Table 4 はその一例で
協働するコメディカルが数多く存在する結果、麻酔科
ある 12,13)。比較としてFig. 1 14)に見られるように医師
医による並列管理が進み、症例数が多くても業務環境
数の割合が同等の小児科を対象とした。またTable 5
は働きやすいものになってきている。しかも、欧米、
は、米国における診療科別医師等の給与比較の 1 例で
とくに、米国での麻酔科医の給与は他科の医師に比
あ る 15)。 麻 酔 科 医 の 給 与 レ ベ ル の 高 さ が わ か る 。
Table 4. 各国の麻酔科医給与
麻酔科医
小児科医
最低
平均
最高
最低
平均
日 本
−
1,228万円
アメリカ
$171,537
イギリス
29,479£
76,302£
カ ナ ダ
C$66,129
最高
−
−
1,228万円
$307,132
$102,179
$149,249
24,779£
40,695£
C$173,926 C$61,042
C$:カナダドル £:ポンド
−
C$123,640
(文献12,13より引用,一部改変)
4.0
3.5
注1)
米国データは、2004年6月現在の専門医数
(米国では医師の約9割が専門医資格保有)
3.4
注2)
日本データでは、2002年末現在の医師・歯科医師・薬剤師調査に基づく
「主たる診療科名」
3.0
注3)
米国ではInternal Medicine
(161,000名)
のほかにFamily Medicine
(65,000名)
がある。
これを内科に含めた場合は、
内科の日本の対米国医師比率は0.75となる。
2.5
注4)
米国にはPhysician’
s AssistantやNurse Practitionerといった日本の医師業務の一部を
担っている職種がいることや、診療科の分類が両国で異なることから、単純な比較は困難。
2.0
注5)
米国では診療科別のBoard
(専門医認定委員会)
が中心となって専門医認定の前提となる
レジデントプログラムを定めている。各プログラムのレジデント数に制約があるため新規参入
医師は自由に専攻する診療科を選択することができない。
2.0
1.5
1.5
1.4
1.1
1.0
0.9
公的統計では直接対応す
る診療科名がない。
0.8
0.5
0.0
脳神経外科 整形外科
外科
内科
胸部外科
(呼吸器外科,
心臓血管外科)
全臨床医
産婦人科
0.5
0.4
小児科
麻酔科
家庭医
(文献14より引用,改変)
Fig.1. 日米の診療科別の医師数の比較
米国の人口あたりの各科医師数を1とした場合の日本の医師数
Table 5. 米国におけるBEST JOBS IN AMERICA※での平均給与比較
順位
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
職種
麻酔科医
一般外科医
救急医
産婦人科医
精神科医
プライマリーケア医
麻酔看護師
製品管理責任者
ソフトウェアエンジニア
セールスディレクター
人気ランキング
68
75
25
100
29
34
13
15
18
8
平均給与トップ100の仕事を対象とする(2010年11月報告)
※Money誌と企業情報のデータベース会社Pay Scale.comが
成長率や給与、満足度等を考慮して調査したアメリカにおけ
る人気職業ランキング。
平均給与
$290,000
$260,000
$250,000
$210,000
$185,000
$174,000
$156,000
$148,000
$144,000
$142,000
(文献15より引用,一部改変)
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Vol.15 No.2 2011
Table 6 は、米国における麻酔科医の雇用者別の給与
Table 6. 米国の麻酔科医、雇用者別給与比較
比較である 。雇用者別ではそれほど大きな差がある
16)
勤務先
ようには思われない。
5. 麻酔科医の人気
本稿はトピックスと言うことで、海外の麻酔科事情、
とくに米国を中心に紹介した。最後に、昨年度のCNN
Money.com で 発 表 さ れ て い る 、 BEST JOBS IN
AMERICAのリストの中に Quality of lifeの項目があ
り、その項目の中で、満足度のベスト10をTable 7 17)
に、社会的利益があることを認める人々の割合のベス
ト10をTable 8 18)に転載する。麻酔科医は満足度では
第 6 位に、社会的利益があることを認める人々の割合
では第 1 位にランクされている。米国における麻酔科
給 与
病院
$149,579 − $291,533
開業/固定
$199,340 − $298,275
会社
$200,843 − $310,282
大学
$209,524 − $295,311
自営
$147,395 − $320,228
連邦政府
$173,256 − $287,855
非営利組織
$250,948 − $303,042
州立病院
$180,000 − $262,071
財団
$196,527 − $356,078
その他の組織
$200,000 − $375,000
チーム
$111,010 − $259,615
2010年10月29日現在
医の人気が上記の給与の高さだけでなく仕事の内容に
(文献16より引用,一部改変)
おいても評価されていると言える。
Table 7. 満足度
順位
職 種
人気ランキング
満足度(%)
1
理学療法マネジャー
46
96.8
2
リスクマネジャー
14
93.8
3
警備の最高責任者(省庁など)
98
91.7
4
プラクティスマネジャー
82
90.3
5
救急医
25
89.5
6
麻酔科医
68
88.9
7
ヘルスケアサービスプログラム責任者
50
88.0
8
病院長
36
87.5
9
環境衛生,安全の専門家
22
87.1
10
ナースプラクティショナー
65
86.2
(文献17より引用,一部改変)
4万人以上の労働者を対象とした調査(2010年11月報告)
Table 8. 社会的利益があることを認める人々の割合(%)
職 種
人気ランキング
社会的利益があることを認める
人々の割合(%)
1
麻酔科医
68
76.5
2
理学療法マネジャー
46
63.3
3
救急医
25
60.0
4
リハビリテーションサービス責任者
74
56.7
5
病院長
36
56.2
6
診療所長
86
54.8
7
一般外科医
75
52.6
8
作業療法士
19
50.6
50.0
順位
9
ヘルスケアサービスプログラム責任者
50
10
ソーシャルワーカー
71
4万人以上の労働者を対象とした調査(2010年11月報告)
30
49.5
(文献18より引用,一部改変)
トピックス
6. 終わりに
世界中に多くの麻酔科医がおり、麻酔科医の仕事に
誇りを持って活躍している。とくに欧米では社会的に
も認められ、また麻酔科医が自分の仕事に満足して麻
酔に関わっている。わが国では、医療形態の違いから、
医師であれば誰でもどの科でも医療を行うことができ
るため、麻酔という危険を伴う医行為を麻酔に熟練し
ていない人が行っても誰からも非難されず、却って手
術ができたと喜ばれる場合もある。しかし、麻酔科医
が仕事に誇りを持って働くためにはこのような状況を
いつまでも黙視していてはいけない。すなわちわが国
における麻酔業務すべてを麻酔科専門医が責任を持っ
て行うことが必要である。そして、それを実現し、さ
らに安全で質の高い麻酔、麻酔科医が働きやすい環境
を供給するためには、麻酔科専門医が麻酔の教育を受
けたコメディカルを使って麻酔の並列管理を行うしか
ない。そして、こういったコメディカルを使うことは
自分たちの首を絞めることではないことは欧米の状況
を見ていれば明白なことである。
ただ、わが国と欧米の医療体制の違い、コメディカ
ル教育の違いは十分検討しておく必要がある。とくに
上記のようにわが国においては医師であれば麻酔科専
門医でなくとも麻酔が可能である。こういった非麻酔
科専門医が麻酔に関わるコメディカルを安易に使って
麻酔をすることは厳につつしまなければ今以上に国民
に不利益を与えることになる。
わが国における麻酔のあり方、方向性を国、学会を
挙げて議論する時に来ていると考える。
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http://www.asahq.org/For-Healthcare-Professionals/Standards-Guidelines-and-Statements.
aspx
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Anesthesiologist/Salary
13)江原朗:医師給与の国際比較.日医雑誌 139:86−
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14)厚生労働省:第 2 回医師の需給に関する検討会資
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15)Median pay
http://money.cnn.com/magazines/moneymag/
bestjobs/2010/highpay/index.html
16)Salary Snapshot for Anesthesiologist Jobs
http://www.payscale.com/research/US/Job=
Anesthesiologist/Salary/by_Employer_Type
17)Satisfaction
http://money.cnn.com/magazines/moneymag/
bestjobs/2010/qualitylife/satisfaction.html
18)Benefit to society
http://money.cnn.com/magazines/moneymag/
bestjobs/2010/qualitylife/benefit.html
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