2015年度開智国際大学「公開講座」報告

2015 年度
開智国際大学「公開講座」報告
2016 年 2 月
開智国際大学
研究・図書・紀要委員会
地域貢献センター
目次
はじめに
……………
5
佐々木さよ
(1)2020 東京オリンピックに向けて
―古代大会から現代までの推移と問題点―
……………
小山
(2)幼小中高校生の子どもをもつ親のための
「子どもを幸せにする子育てセミナー」
……………
石田 修一
11
(3)大作曲家たちの「教科書」
―ウィーン古典派時代の作曲修業―
……………
飯森 豊水
15
(4)若さと健康をサポートします!
―ミニテニス―
……………
高橋 早苗
21
(5)アメリカの日本人
―親不孝息子と孝行息子―
……………
佐々木 さよ
25
(6)水素エネルギーと市民生活及び基礎科学
……………
久保田 実
29
…………… Victor Gorshkov
33
(7)日本の銀行のロシア進出とその背景
貴
7
飯森 豊水
45
(9)Promoting Global Communication through English
…………… Elizabeth Lange & Victor Gorshkov
57
(10)マインドフルネス
~古くて新しいストレス対処法~
……………
平久江 薫
63
(11)平安貴族の女子教育
……………
服部 一枝
65
(12)唐に渡った阿倍仲麻呂
~阿倍仲麻呂は唐で何をしていたのか?~
……………
三枝 秀子
77
(13)中世社会における呪詛と角三本の鬼
……………
松井 吉昭
81
「2015 年公開講座案内」(参考資料 )
…………………………
(8)ハイドンのウィーンとロンドン
奥付
…………………………
……………
91
3
84
83
4
はじめに
今年度よりの新大学名である「開智国際大学」で開催する第1回目の公開講座
は、「グローバル時代の教養」という共通テーマを中心にして 20 を超える講座
を開くことができました。また、柏市教育委員会からご後援をいただき、深く
感謝申し上げます。
ここ数年の公開講座では統一テーマを設けてきました。立つ位置によってモ
ノやコトの姿形が違って見えることがあるように、学問分野が異なれば統一テ
ーマへの視点も異なるものです。本学は小規模ながら 3 学科からなるため、多
様な学問分野の教員が揃っておりますので、統一テーマのもとに「知」を広く
楽しんでいただければと考えております。
公開講座とは大学が社会に対してなすべき貢献の一つであると本学では位置
づけております。今年度より地域貢献センターを発足させましたので、大学な
らではの貢献に一層努めてまいりたいと存じます。公開講座や図書館開放を通
して地域の皆様とつながり、
「知の愉楽」の輪が豊かに広がっていくことが願い
です。
なお、今年度の講座の一部ではありますが概要を掲載いたしました。ご参考
にしていただければありがたく存じます。
2016 年 2 月 29 日
研究・図書・紀要委員長
地域貢献センター委員
佐々木 さよ
5
6
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(1)
講座名
2020
東京オリンピックに向けて
――古代大会から現代までの推移と問題点――
講師
小山
貴
所属
本学名誉教授
<実施概要>
日時
講座内容
・古代大会と現代大会の理念の違い
・古代大会の発祥と終末
・古代大会の種目の変遷と記録されている逸話の紹介
・近代大会の復活
・クーベルタン名言の真相
2015 年 9 月 24 日(木)
・近代全大会のポスター紹介と各大会での出来事
13:00~16:10(2 コマ)
・前回東京大会開会式のビデオ
・前回東京大会で公式通訳をされた北垣学長による当時の様子紹介
・現代大会の問題点
・各国の五輪関心度の違い
・2020 東京大会は史上最過酷な大会になるか
・パラリンピック開始のきっかけになった英国王立病院医師団の取り組
み
7
<当日受講風景>
[1964 東京オリンピックの公式通訳経験のある本学北垣学長にも当時の様子を話していただいた]
現在と違って前回東京大会当時カメラは普及していなかったため、競技会場での通訳状況や貴賓席近
くでの活動を記録した写真はない。そこで、学長が所持しておられる写真館で撮影された制服姿記念写
真をお借りして、筆者が駒沢会場を背景として通訳制服姿を模写した絵を投影して30分ほど話してい
ただいた。
一般に報道されていない競技会場の雰囲気、担当したブルガリアチーム(男子)には英語が十分にわ
からない選手もいたので、露語の通訳の方と協力して活動されたこと、女子バレー決勝戦の日ソの試合
は、図らずも選手団近くて観戦されたこと、さらに競技以外のおもてなしの中では、日本紹介や諸案内
をしている中で、当時の東欧社会の経済状況もうかがわれるようなことを要望されたこと・・・などを
話していただいた。
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<講師報告>
昨年 4 月[東京オリンピック・パラリンピック 2020
大学連携協定]に関する会合があり、本学の
北垣学長も出席し、本学も 2020 東京大会に向けて、大会気運の醸成に取り組むことになった。筆者が現
役であれば先ず学生(とくに1年生)の体育講義の際に、五輪についての知識・諸問題を話すところで
あるが、今回は一般市民対象の公開講座で講義することにした。
オリンピックについては、ある程度の知識を持っている人が多いため、一般にはあまり知られていな
いことを講義することとした。講義中の受講者の態度・表情変化および終了後の感想聴取から感じられ
たことを記述すると
・古代大会は[初期のスポーツ大会]と思っていたが、そうではなく、大会開催の理念は近代大会の理
念とはまったく違って宗教儀式の一つであったこと。さらに常識的知識になっている[大会期間を含
めて3か月は休戦]は[現代の紛争当事者同士による和平交渉の前段階としての休戦協定]とは考え
方が違っていた・・・については全員が知らなかったようである。
・古代大会に関する逸話は興味深かった。
・今や"常識"となっているクーベルタンの[名言]は、本当はロンドン大会の際、アメリカ選手団に対
してキリスト教聖公会の大主教が語りかけた言葉である事実は意外であった。
・第1回アテネ大会から現在までの各大会は、ほぼ平和的に開催されたものと認識していたが、国際対
立による大規模ボイコットの応酬があったことを改めて思い出した人も見受けられた。
・受講者の半数以上は前回東京大会の思い出はなかったものの、1964 東京大会開会式のビデオ上映には
心を打たれたし、当時公式通訳として競技会場の現場や貴賓席近くで活動された北垣先生の興味深い
お話を伺えたことで、当時の様子を頭に描ける思いがした。
後半は現代五輪が抱える深刻な諸問題(IOC はアメリカTV局の都合により開催時期を定めているこ
と・招致活動の際のさまざまな疑惑・2020 東京大会は猛暑の懸念
等)を扱った後、パラリンピックは
英国王立病院の医師たちが、脊髄損傷患者のリハビリ手段として少しでもスポーツ要素のある競技を考
案・実施したことがきっかけになったことなどを説明した。
また、筆者が在職中、学生たちに[身障者と健常者の共生]を考えさせるため、実技授業で身障者ス
ポーツを体験させた結果、学生は障害を持つアスリートの努力に想いを馳せていたことを話した。
最後に、オリンピックでは多数のボランティアがその国の[顔]とされることを説明した。
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2015 年度
開智国際大学公開講座報告(2)
幼小中高校生の子どもをもつ親のための
講座名
「子どもを幸せにする子育てセミナー」
石田 修一
講師
所属
総合経営学科 教授
<実施概要>
日時
講座内容
子どもが勉強しない、そのような子どものやる気を引き出す方法をわかり
2015 年 9 月 29 日(火) やすく解説するとともに、賢い子どもに育てるためにはどのような子育て
10:30~12:00
をすればよいのか。さらに、引きこもってしまった子どもや、やんちゃな
子どもへの接し方、その解決法について講演した。
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<当日受講風景>
12
<講師報告>
約 1 万人の生徒や保護者と接した経験から「人間を植物にたとえ、どのような土に種をまき、植える
のか?」
「いつ、水をやり、肥料をやるのか?」新生児からの育て方で大人になったときの幸せがこんな
にもちがってくる。思いやりがあり日々、明るく生き生きと生活している高校生の保護者にその生徒の
幼少時の育て方をリポート。元気いっぱい幸せに日々生活している子どもの育て方には多くの共通点が
あった。
それらの共通点をまとめ、さらに、その生徒たちの 10 年後、20 年後、30 年後、どのように生活して
いるかをリポート。その結果、新生児から 17 歳くらまでの育て方で、その人の人生が充実し楽しくなる
かどうかが決まるように思われる。幸せな生活は人それぞれちがっているが、だれにでも共通すること
もある。
38 年間の聞き取り調査等によってまとめた、このような育て方をすると「引きこもってしまう」
「仕事
が長続きしない」
「コミュニケーション能力が高まり、協調性も養われる」
「自己表現力が高まる」
「忍耐
強くなる」
「日々生き生きと充実した生活おくっている」「子どものやる気を引き出す方法」などのこと
について講演した。特に「想像力豊かで論理的思考ができる子ども」の育て方についての話について参
加者は大きな関心をよせていた。
また、
「子どもの将来の決め方」や「家庭での基本的躾の留意点」についての話も興味をもって聴講し
てくれた。
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2015 年度
開智国際大学公開講座報告(3)
大作曲家たちの「教科書」―ウィーン古典派時代の作曲修業―
講座名
飯森 豊水
講師
所属
人間心理学科 教授
<実施概要>
日時
2015 年 10 月 5 日(月)
13:00~14:30
講座内容
本講座の趣旨を資料に基づいて説明した。その際、受講生の対位法に関す
る理解について質問するうちに基本的な説明を重点的に行う必要性を感じ
たため、対位法の概要およびその歴史についての説明を行った。
対位法を実感するために「静かな湖畔」を実際に歌って仕組みを分析した。
2015 年 10 月 12 日(月) 続いて、パレストリーナの作品鑑賞、バッハのインヴェンションの分析を
13:00~14:30
通して対位法の実際と時代による変化を学んだ。そのあと、フックスの『パ
ルナッソス山への階梯』の構成を概観した。
フックスの『階梯』を、ラテン語版、ドイツ語版、および日本語版を比較
2015 年 10 月 19 日(月) しながら読み進めた。師匠と弟子のユーモアあふれるやりとりや対位法で
13:00~14:30
許される音程などを具体的に説明した。最後に古典派の対位法作品として
モーツァルトの「ジュピター」交響曲を鑑賞した。
15
<講師報告>
今回の公開講座には「教育」がテーマとして掲げられていたので、ウィーン古典派における代表的な
音楽理論書であった、J.J.フックスの『パルナッソス山への階梯』を取り上げた。本講座には二つの目
的があった。一つは、当時の音楽家たちにとっては定番的な教科書であった本書はわが国ではほとんど
知られていないため、その存在と概要を説明することである。もう一つは、音楽作品の鑑賞そのものが
中心になって、理論的な面については後退してしまいがちであった(報告者の従来の)公開講座と比べ
て、音楽作品の書法や構成原理について理解を深めることである。
上述のように、受講者が必ずしも対位法に対して十分な理解を持っていなかったため、講座内容は、
対位法の説明とその歴史的変遷に重点を置かざるを得なかった。その中で、バッハのインベンションと
シンフォニア 第 1 番 ハ長調の分析では、各動機の対位法的な扱いについて理解してもらえたように
思う。また、第 3 回目ではフックスの著作のファクシミリ版を映写しながら全体の構成や核心部分を学
ぶとともに、ベートーヴェンの書き込みのファクシミリにも触れて、この理論書に対して親近感をもっ
てもらえたのではのではないかと考えている。
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<配布資料>
平成 27 年度
公開講座-1
大作曲家たちの「教科書」―ウィーン古典派時代の作曲修業―(1)
担当:飯森豊水
1.この講座の進め方
第1回
フックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』とは
第2回
第3回
対位法概説
フックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』の内容
古典派における対位法の実際
2.ヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)
オーストリアの作曲家,理論家。
1698 年ウィーンの宮廷作曲家、1705 年聖シュテファン大聖堂の副楽
長、12 年同首席楽長。15 年に首席宮廷楽長に任命されると終生その職
にあった。
約 80 曲のミサ曲などの宗教曲、器楽曲も多数作曲。
理論書『グラドゥス・アド・パルナッスム』(1725)は,厳格な対位法
様式にもとづく作曲の教科書として後世に大きな影響を与えた。タイト
ルは「パルナッソス山への階梯」の意味。パルナッソス山は詩、音楽、
学問の発祥の地として知られる。古典派の時代には、ハイドン、モーツ
ァルト、ベートーヴェンがこれに学び、「定番」とされた作曲の教科書
だった。
3.対位法について
・対位法とは…複数の旋律をそれぞれの独立性を保ちつつ組み合わせる書法。
ラテン語の contrapunctus は、
「点対点」すなわち「音符対音符」を意味する
punctus contra punctum に由来する。音符と音符の組み合わせから,さらに旋
律と旋律の組み合わせを意味するようになった。
・対位法と和声法
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古典派の音楽のあり方
基本はホモフォニー(旋律はひとつで、旋律以外は旋律を支える)。
→そのための技術が和声法。
部分的にポリフォニー(複数の声部がそれぞれの独自性を保ちながら
動く。)→そのための技術が対位法。
・対位法の歴史
例: バッハ《インヴェンションとシンフォニア》から第 1 番ハ長調
パレストリーナ 《鹿が谷川の水をもとめるように》
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(バッハ:インベンション)
(ドイツ語版)
(ラテン語版)
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20
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(4)
若さと健康をサポートします!
講座名
高橋
講師
早苗
所属
―ミニテニス―
総合経営学科 准教授
<実施概要>
日時
① 2015 年 10 月 6 日(火)
10:40~12:10
② 2015 年 10 月 13 日(火)
10:40~12:10
③ 2015 年 10 月 20 日(火)
10:40~12:10
④ 2015 年 10 月 27 日(火)
10:40~12:10
⑤ 2015 年 11 月 3 日(火)
10:40~12:10
⑥ 2015 年 11 月 10 日(火)
10:40~12:10
① 2015 年 11 月 17 日(火)
10:40~12:10
② 2015 年 11 月 24 日(火)
10:40~12:10
講座内容
継続者第1回「基本動作6種目の確認・修正」
・フォアドライブ ・フォアカット ・フォアスライス
・バックドライブ ・バックカット ・バックスライス
継続者第2回「基本サービス動作の確認・修正」
・フォアサイドサービス ・バックサイドサービス
継続者第3回「ネット際のプレー」
・ショートクロス ・スリアゲ ・チョビ出し
継続者第4回「ミスを減らすボールコントロール」
・無回転ボールの処理 ・ストレート、クロスへの打ち分け
継続者第5回「ディフェンス力強化、変化球への対応」
・カットボールの処理 ・スライスボールの処理
継続者第6回「新ルールSR戦、対角線ラリーの理解と実践」
・新ルールを適用しての実践練習
初心者第1回「ミニテニスの概要説明・ミニテニス体験」
1. DVD及びミニテニス導入の手引を使用して概要説明
2.ラケットの握り方や基本動作を説明した後、基本ドライブ練習
初心者第2回「ラケット・ボールに慣れる」
1. 前回の復習「基本ドライブ練習」
2.ミニコートにて「試合形式練習」
21
<当日受講風景>
22
<講師報告>
ミニテニスの公開講座は 2008 年度から継続しており、中には8回目という方も参加している。継続者
の技術レベルが上がり、初心者と一緒に練習することは継続者のストレスを招く可能性がある為、継続
者クラス(全6回)と初心者クラス(全2回)に分けて開催した。
1.継続者クラス(10/6~11/10)
「効果的な基礎練習の仕方」
、
「試合に役立つポイント練習法」
① 技術レベルが上がり、交流大会へ参加する方が増えている。また、公認審判員資格取得を目指す
方もいる為、技術練習の他に審判講習も取り入れた。
② 市内のみならず、松戸市や三郷市等他市から参加される方も増えている。
2.初心者クラス(11/17・11/24)
「ミニテニス体験」
、
「ラケット・ボールに慣れる」
① 初心者クラスは、まずはどのような競技であるか知る、そして体験することを目的としている為、
全2回と回数を少なく設定している。また、体験してみて「楽しい」、
「継続したい」という希望
者には既存のクラブを紹介した。
② 今回の参加者は過去に運動習慣が殆どない方ばかりの為、上達度はゆるやかである。しかし、3
名ともに継続を希望しており、来年度の公開講座の参加も見込まれる。
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<配布資料>
ミニテニスハンドブック「ミニテニス導入の手引」
(日本ミニテニス協会)
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2015 年度
開智国際大学公開講座報告(5)
講座名
講師
アメリカの日本人
佐々木
―親不孝息子と孝行息子―
さよ
所属
総合文化学科 教授
<実施概要>
日時
講座内容
永井荷風生誕の前年に有島武郎が誕生している。どちらも明治 36(1903)
2015 年 10 月 9 日(金)
13:00~14:30
年にアメリカに留学していて、森鷗外や夏目漱石などと違う私費による
留学であった。アメリカから欧州へ渡った後に帰国している点も同じだ
が、滞米中も滞欧中もその生活は相当に違っている。二人を比較しつつ、
やがて作家となる二人の生き方や文学の傾向をたどってみる。
25
<講師報告>
受講申し込み 11 名から実際の受講者数 9 名で実施した。そのうち、本学の公開講座への新規受講者は
2 名であった。今年度公開講座の統一テーマは「教育」と「グローバル」の二つであったので、「グロー
バル」の方に焦点を当てた内容とし、日清戦争後に海外に出て、やがて作家となっていく永井荷風と有
島武郎を比較して、明治青年の「グローバル」体験を文学と関連付けて一瞥することを目的とした。
荷風と有島はともに士族を父に長男として一年違いで誕生している。どちらの父親も官僚として明治
国家に奉職した後に実業界に転じ、生涯を明治という新時代建設に貢献した明治第一世代である。その
息子である荷風と有島は、武士の子弟としての精神を根底にした家庭教育を受けつつも西洋的なものに
触れて育った。維新と開化の波にうまく乗った成功者を父に持つ家庭は比較的裕福で、私費で欧米留学
をさせてもらえる境遇にあったこと、父親との関係や文学への思い、海外体験で日本に持ち帰ったもの
などを整理した上で、地球を一周してきた二人の体験の違いや時代や社会的事件との関わり方などを紹
介した。以下に、その内容の概要をまとめる。
①先輩たちの留学―森鷗外と夏目漱石の場合
鷗外(文久 2(1862)年生まれ)のドイツ留学が明治 17(1884)年~明治 21(1887)年であること、
留学の主目的が衛生学の研究であることなどを確認。次いで、漱石(慶応3(1867)年生まれ)のロン
ドン留学が明治 33(1900)年、留学目的は英語の研究であること、帰国は明治 36(1903)年 1 月である
ことなどを確認した。また、陸軍であったり文部省であったりと明治国家の期待を背負った留学であっ
て、その任務の重さを確認した。一方、留学時の年齢の違い、鷗外における長州人脈との関係、漱石と
明治政府との関係、帰国後の生き方等の違いについても確認をした。
②永井荷風(明治 12(1879)年 12 月 3 日~昭和 34(1959)4 月 30 日)の場合――放蕩息子
1、父について、その経歴の解説
2、荷風の少年時代――小石川区金冨町時代
短編小説「狐」を取り上げて、そこに描かれている少年時代の記憶と父親の描かれ方を解説(小
石川区の地図、作品本文等の資料を配付)。
3、明治 36(1879)年 9 月タコマ着からのアメリカ滞在を中心に
大学聴講生、ワシントンの日本公使館臨時職員体験、娼婦イデスとの出会い、再会と別れ、日露
戦争、正金銀行ニューヨーク出張所現地職員としてのウォール街勤務と辞職、渡仏など。
26
4、主にメトロポリタン歌劇場でのオペラ観劇とその作品リスト
5、
『あめりか物語』から「夜あるき」
(1907)を読む
ニューヨークの夜を楽しむ姿が描かれている「夜あるき」、著しい対照をなす漱石のロンドン体験
の例として『永日小品』から「印象」
(1909)と「霧」
(同)を読む(資料配付)
。続いて、末延芳晴
『荷風とニューヨーク』
(2002)等の資料を用いて当時のアメリカにおける夜の歓楽街の女性たちに
ついての概説、比較として鷗外の『舞姫』(1890)のヒロインであるエリスについて触れる。
③有島武郎(明治 11(1878)3 月 4 日~大正 12(192396 月 9 日)の場合――親に背けない息子
1、父の経歴、有島の少年時代
2、明治 36(1879)8 月からのアメリカ留学、その後の渡欧
ハヴァフォード大学での勉学と修士論文、農作業体験、精神病院での看護夫体験と患者自殺、日
露戦争、トルストイの反戦論、イタリアでの美術鑑賞とアッシジ体験、ロンドンのクロポトキン等。
④荷風と有島の留学体験の違い、帰国後の生き方――大逆事件(1910)への対応を例にして
荷風と有島だけでなく、鷗外と漱石の場合についても解説。他に、佐藤春夫や石川啄木、木下杢太
郎、徳富蘆花等の同事件への反応も関連事項として紹介。
⑤イプセン『ヘッダ・ガーブラー』
(1890)への関心のあり方
荷風『監獄所の裏』(1909)(資料配付)のエピグラフ、有島における『ヘッダ・ガーブラー』の意
味、二人の違い。
⑥耽美派作家永井荷風として、
「宣言一つ」
「小作人への農地解放」の作家有島武郎として
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<配布資料>
・明治 40 年の小石川区地図(玉井哲夫編・石黒敬章企画『よみがえる明治の東京』1992、3 角川学芸
出版 pp.188-189)
・永井荷風『あめりか物語』より「夜あるき」(『講談社版日本現代文学全集 33 永井荷風集』所収)
「監獄所の裏」
(岩波文庫『雨蕭蕭・雪解』所収)、
「狐」
(同)
・夏目漱石『永日小品』より「印象」
、
「霧」(新潮文庫『文鳥・夢十夜』所収)
・「永井荷風・見開き年表」
(松本哉著『永井荷風の東京空間』1992、12 河出書房新社 pp.238-239)
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2015 年度
開智国際大学公開講座報告(6)
水素エネルギーと市民生活及び基礎科学
講座名
講師
久保田
実
所属
総合経営学科 教授
<実施概要>
日時
2015 年 10 月 16 日(金)
14:40 ~ 16:10
講座内容
定時開講、ppt を用いた presentation 、参考資料:環境省パンフレット
「Stop 温暖化 2015」、アメリカ物理学会誌 2015.9., 新聞紙面等。受講者
との意見交換。
<講師報告>
講師による power point (ppt) を用いたプレゼンテーションを行う。この課題が世界の各国の住民の環
境に密接に関連すると共に、化石燃料に依存するエネルギー事情の 1850 年代以降の急激な変化と、地球
の歴史 46 億年とを対比した長期的科学的取り組みの必要について議論。内容詳細は、添付資料参照。
その合間、及びその後、参加者全員による夫々のコメント、意見表明の機会を作る。基礎科学研究の
情報公開の原則と、エネルギー資源に絡む健全な経済社会の発展が、同様にあまねく市民に対しての情
報公開の実際が問題として議論された。原子力の利用に限らず、新たな科学的技術的研究課題は、情報
の十分な公開がなされない下で、様々な問題が危惧されていることが、エネルギいーや鉱物資源の埋蔵
量の評価が、年代と共に大幅に変化してきた事実や、それが独占企業によって秘匿されてきた経緯など
を振り返ると共に、議論された。
水素エネルギーは、時間的に変動の多い自然エネルギーを補完する蓄電器或いは、エネルギー貯蔵庫
の役割をもたらすばかりでなく、例えば、
「新たな超流動」など基礎科学的課題と関連して水素などの、
軽粒子系の基礎科学の広範な展開によって全く新しい世界観が開かれる余地がある。原子力利用の問題
で明らかになった閉ざされた社会での研究ではなく、市民に情報を公開しながら推し進める広範な見地
からの研究が重要である事を討論した。
添付の ppt 資料に基づき講師が講演を行ったのち、参加者一人一人との討論を行った。参加者からは、
「原子力村」と呼ばれる閉じた「利権集団」が世論を動かして来た事への、反省が必要という意見が表
明されたり、水素自動車=燃料電池車だけがなぜ突出して語られるのか、などの疑問も出された。講師は、
水素エネルギーが世界各国で、自動車ばかりでなく住宅や工場のエネルギー資源として、太陽光発電や、
風力発電、地熱発電などの自然エネルギーの変動を補う貯蔵エネルギーとして活用されうることが議論
された。
一方、「地球は温暖化していない」
、とする意見もある。残念ながら、講座日には、資料が手に入らな
かったが、ほぼ同時期に、水素関連領域で世界的に活躍されている深井有 先生による次の文献は、
「地
球はもはや温暖化していない」
「Co2 の効果を過大評価した議論がまかり通っているのは、科学以外の例
えば政治的な力が働いている、のではないか」、実際は、太陽の活動の影響が大きく、むしろ寒冷化に警
戒が必要では、と警鐘を鳴らしている。平凡社新書 791、
「地球はもう温暖化していない 科学と政治の
大転換へ」2015 年 10 月 15 日 初版第1刷 発行 である。
<配布資料>
環境省パンフレット「Stop 温暖化 2015」 入手先:www.env.go.jp/earth/ondanka/stop2015/
それ以前の資料も参照の事。
<講師報告>
講師による power point (ppt) を用いたプレゼンテーションを行う。この課題が世界の各国の住民の環
境に密接に関連すると共に、化石燃料に依存するエネルギー事情の 1850 年代以降の急激な変化と、地球
の歴史 46 億年とを対比した長期的科学的取り組みの必要について議論。内容詳細は、添付資料参照。
その合間、及びその後、参加者全員による夫々のコメント、意見表明の機会を作る。基礎科学研究の
情報公開の原則と、エネルギー資源に絡む健全な経済社会の発展が、同様にあまねく市民に対しての情
報公開の実際が問題として議論された。原子力の利用に限らず、新たな科学的技術的研究課題は、情報
の十分な公開がなされない下で、様々な問題が危惧されていることが、エネルギいーや鉱物資源の埋蔵
量の評価が、年代と共に大幅に変化してきた事実や、それが独占企業によって秘匿されてきた経緯など
を振り返ると共に、議論された。
水素エネルギーは、時間的に変動の多い自然エネルギーを補完する蓄電器或いは、エネルギー貯蔵庫
の役割をもたらすばかりでなく、例えば、
「新たな超流動」など基礎科学的課題と関連して水素などの、
軽粒子系の基礎科学の広範な展開によって全く新しい世界観が開かれる余地がある。原子力利用の問題
で明らかになった閉ざされた社会での研究ではなく、市民に情報を公開しながら推し進める広範な見地
からの研究が重要である事を討論した。
添付の ppt 資料に基づき講師が講演を行ったのち、参加者一人一人との討論を行った。参加者からは、
「原子力村」と呼ばれる閉じた「利権集団」が世論を動かして来た事への、反省が必要という意見が表
明されたり、水素自動車=燃料電池車だけがなぜ突出して語られるのか、などの疑問も出された。講師は、
水素エネルギーが世界各国で、自動車ばかりでなく住宅や工場のエネルギー資源として、太陽光発電や、
風力発電、地熱発電などの自然エネルギーの変動を補う貯蔵エネルギーとして活用されうることが議論
された。
一方、「地球は温暖化していない」
、とする意見もある。残念ながら、講座日には、資料が手に入らな
かったが、ほぼ同時期に、水素関連領域で世界的に活躍されている深井有 先生による次の文献は、
「地
球はもはや温暖化していない」
「Co2 の効果を過大評価した議論がまかり通っているのは、科学以外の例
えば政治的な力が働いている、のではないか」、実際は、太陽の活動の影響が大きく、むしろ寒冷化に警
戒が必要では、と警鐘を鳴らしている。平凡社新書 791、
「地球はもう温暖化していない 科学と政治の
大転換へ」2015 年 10 月 15 日 初版第1刷 発行 である。
30
<配布資料>
環境省パンフレット「Stop 温暖化 2015」 入手先:www.env.go.jp/earth/ondanka/stop2015/
それ以前の資料も参照の事。
31
32
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(7)
講座名
講師
日本の銀行のロシア進出とその背景
Victor
Gorshkov
所属
総合経営学科
講師
<実施概要>
日時
講座内容
日露ビジネスはお互いの可能性を有効活用していないことは事実です。本
2015 年 10 月 27 日(火) 講義では、日本の銀行のロシア進出背景を歴史的に整理し、その制約要因
13:00~14:30
とは何かを考えました。ロシアへ進出している日本の銀行の事例を取り上
げ、進出動機・形態・戦略という観点から分析を試みました。
33
<当日受講風景>
34
<講師報告>
受講生が少人数だったにも関わらず、非常に有意義な時間となりました。ご質問を沢山頂きまして、
誠にありがとうございました。受講生の皆さまの高い好奇心に心より深く感謝しております。
講座の概要
最初にロシア経済の特徴及び課題について簡単に外観し、金融部門(銀行部門)のマクロ・ミクロの
史視点から分析の結果を紹介しました。ロシアに参入している外国銀行にとって市場障壁や参入コスト
が高いに関わらず、ロシア市場に関心を寄せる外国銀行が増えています。銀行部門対内直接投資のマク
ロ分析で明らかになったように、ロシア銀行部門総資産•資本•預金•貸出残高に占める外国銀行の割合が
増加しています。ロシア政府系•大手民間銀行と競争しながら、伝統的な銀行業務(預金活動、コーポレ
ート部門向けの貸出など)を展開している外国銀行もあれば、セグメント化されたニッチ市場へ進出し
ている銀行もあります。伝統的な銀行専門分野の割合は低いですが、プロジェクト•ファイナンス、シン
ジケート•ローン、クロースボーダー融資といった分野においては外国銀行の役割は大きいです。外国銀
行がロシアのトップ 10 行、トップ 30 行に入っていることは政府系銀行•民間銀行に比べ比較優位と競争
力を持っているということができます。しかしながら、2013-14 年の間は経済制裁やロシア経済衰退の
影響もあって、外国銀行の役割は低下していることが考えられます。
日本の銀行に関していえば、ロシア金融部門への日本から外国投資の分析を行い、外国銀行のいくつ
かの発展段階を指摘しました。銀行部門の資産•資本に占める日本からの外国銀行が徐々に増加していま
すが、その活動は依然として限定的で、多くの銀行は日本ビジネスのフォロワーであり、その進出動機
はホーム国ミクロレベルの PUSH 要因で説明できます。みちのく銀行の事例もまた PUSH で説明できま
すが、この銀行の場合歴史的•文化的•銀行独自の戦略要因などが加わります。一方で、ヨーロッパの銀行
と同様、日本の銀行もロシア市場の魅力性に強い関心を持ち、ホスト国マクロレベルでの PULL 要因に
惹かれ、初期の進出動機を変えています。
Q&A(一部の紹介)
質問①:
銀行の進出形態について
ロシアへの進出形態として、支店形態と海外現地法人形態の二つがあります。支店の場合は、進出国
(ロシア)への投資環境が悪くなれば直ぐに撤退できます。法人形態の場合には、法制度上の規制があ
り直ぐ撤退することは、不可能との説明を頂いたと思います。現在日本の金融機関の出資形態は、ほぼ
35
すべて法人形態となっています。リスク回避(直ぐに撤退可能)の観点からは、支店形態が better のよ
うに判断できますが、支店形態と比較し、法人形態のほうにどのようなメリットがあり、この形態が多
く取られているのでしょうか。支店形態は、預金活動が出来ないとか、税務上で不利益を被るといった
デメリットがあるのでしょうか。
講師の回答:
支店、現地法人、どの会社形態(進出形態)を選択するかによって、法的、財務的リスクが異なってき
ます。また、税制面や運営面での取り扱いも異なります。この三つの点がそれぞれの進出形態のメリッ
ト・デメリットを考える上での主なポイントとなっています。例えば、訴訟事件が生じた場合には、支
店であれば直接ホーム国(支店を置いた側、例:日本の銀行がロシアで支店を設立した場合)、ようす
るに日本法人まで責任が問われ、日本法人が原告又は被告側となります。
一方、現地法人の場合は、その責任が現地法人までとなります。現地法人が経営破綻をして多額の債
務を抱えたとしても、日本までの影響が一切ありません。現地法人は日本法人の一部でありながらも、
その「責任」はその現地法人支払い能力(債務的責任)に限定されているわけです。
税制面に関しても、支店と現地法人を課税するとき、異なった税率を使用しているケースがあります。
ロシアはその限りではありませんが、アメリカとかは進出形態によって税率が変わるケースもあります。
また、現地法人の場合、税金を受入国に納付することになっていますが、支店の場合はその限りではあ
りません。
次に、運営面を考えます。現地法人を設立するためには、ロシア法務省で会社登録手続きを行うこと
がもちろんのこと、その他に、ロシア中央銀行から銀行業務ライセンスを取得しなければいけません。
実際にライセンス取得ができましたら、ロシア法人と同じ扱いになりますので、中央銀行の規制や監査
などに従わなければいけません。資本化レベル、ロシアの民間銀行がロシア中央銀行口座で持たなけれ
ばいけない資本残高比率など、ロシア銀行法で定めることになります。そういった意味で支店ほどの「自
由度」が現地法人にはありません。子銀行の方がロシア中央銀行から支店以上のコントロールを受ける
ことになっています。したがって、ロシアビジネスを撤退することとなると、支店の方がそういった意
味で比較的に簡単に撤退手続きを行うことができます。そういう理論上の背景もあって、ロシア政府は
長い間支店設立を禁止していました。WTO 加盟でこの規制が有効性を失いましたが、未だにロシア国内で
外国銀行の支店が一つもありません。非公式に、ロシア政府は今でも支店設立を気に入られないじゃな
いかとも言われています。支店を設立した外国人投資家の行動を事実上読めないので、そういう不透明
性のリスクを最低限にするため、進出形態を現地法人に限定している国もあります。
さらに、経済不況が起きた場合、(2009 年にラトビア・エストニアの事例でも紹介しました通り)外国
36
銀行の支店から資金が素早くホーム国(投資国)に戻りますが、子銀行の場合は国内規制を受けている
ため、まず受入国の法律に従って債務的な手続き(場合によって、倒産手続き)を済ませてから、資本
を戻すことになります。そういった手続きを済ませてから、残った資金がどれほど返ってくるかも問題
です。
次に、日本の銀行の海外進出形態についてですが、一般社団法人全国銀行協会のデータによりますと、
2009 年 3 月の時点で日本の金融機関が 144 branches
(支店、子銀行(現地法人)-subsidiary)を設立
していると報告されています。144 行の中身を詳しく分析をしておりませんが、英語の branch は支店と
言う意味ですので、誤訳でなければ、日本の金融機関は支店も設立しているという解釈になります(以
下を参照)。
(B) International Banking Business
Japanese banks conduct international banking businesses such as foreign exchange operations, lending, securities
business, trusts business, leasing business, foreign currency deposits, foreign currency exchanges, derivative
operations (e.g. future, forwards, swaps and options), trade finance and so on.
Japanese banks were reducing their overseas business as a part of their restructuring programs since the mid-1990s.
The number of foreign branches of Japanese banks decreased from 437 as of the end of March 1995 to 130 as of
the end of March 2006. However, some signs of recovery have been appearing recently (There were 144 overseas
branches as of the end of March 2009).
出所)http://www.zenginkyo.or.jp/en/banks/banking-businesses/ 2015 年 10 月 27 日アクセス
ただし、現段階においては現地法人の割合の方が多い(もしくは増加している)かもしれません。その
理由は恐らくリスクヘッジでしょう。ロシアみたいな不安定、不透明性のある市場でビジネス展開を行
っている場合、日本法人まで責任を及ぼしてほしくありません。日本の銀行は近年 BRICS を中心に海外
展開をしていますから、受入国の政治・経済・法律制度に進出形態を「合わせている」かもしれません。
最後に、進出形態の better のものはどれなのか、とういうご指摘の件ですが、私は知っている限り、
その議論は未だに国際経営論、経済学の中で続いている論争の一つです。いずれにしても、そのメリッ
ト・デメリットを受入国(ホスト国)、投資国(ホーム国)両方の視点から考えなければいけません。
37
<配布資料
料等>
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39
40
41
42
43
44
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(8)
講座名
ハイドンのウィーンとロンドン
飯森
講師
豊水
所属
人間心理学科 教授
<実施概要>
日時
2015 年 11 月 2 日(月)
13:00~14:30
講座内容
資料をもとに本講座の趣旨と 3 回分の進め方について説明した。本講座で
は、ヨーゼフ・ハイドンの視点から見た音楽都市ウィーンとロンドンを比
較する旨を説明した。ハイドンの略歴を概観したあと、彼とウィーンとの
関係、ウィーンの音楽界の状況を説明した。
2015 年 11 月 9 日(月)
13:00~14:30
資料をもとにハイドンが訪問する前のロンドンの音楽界の状況を時間軸
に沿ってたどり、ヘンデルや同時代の代表的な音楽家については作品も鑑
賞した。ロンドンの聴衆の音楽趣味についても言及した。
資料をもとにハイドンがロンドンを訪問するにあたってハイドンが準備
2015 年 11 月 16 日(月) したであろうことを説明したあと、ハイドン到着後のロンドンの音楽界や
13:00~14:30
社交界の興奮ぶりを資料をもとに説明した。併せて、ハイドンがロンドン
から受けた影響についても、その後の作品を取り上げながら説明した。
45
<講師報告>
「グローバリズム」というテーマに関連して、ヨーゼフ・ハイドンが活躍した 18 世紀末における二つの
音楽都市ウィーンとロンドンを比較した。当時、ウィーンは影響力はともかく、規模においては一地方
都市にすぎなかったし、音楽界の人間関係は閉鎖的で趣味にも固有のものがあった。
本講座では、二つの点について受講生に印象を与えるべく腐心した。一つ目は、ウィーンとロンドン
の比較を通して、ヨーロッパの都市の個性が今日以上に明確であり、それぞれに固有の音楽状況および
背景を持っていたことを理解してもらうことにあった。
二つ目の点は、還暦を 2 年後に迎えたハイドンが、彼としては生涯最大の旅行を敢行し、当時最大の
音楽都市ロンドンに乗り込むとき、興行師 J.P.ザロモンと共にかなりの準備をして戦略を練っていたで
あろうことを今日の研究状況を踏まえて様々な根拠を示しながら説明し、従来の「パパ・ハイドン」で
はなく、
「策略家としてのハイドン」としてのイメージを強調することであった。
講座は全体として(報告者が行ってきた公開講座に比べて)情報量が膨大なものとなったので、資料
には詳細な情報を掲載し、説明にあたっては、基本的な情報と、好奇心の強い受講生のための情報を区
別するなどして多くの方が受講しやすいように心がけた。
46
<配布資料>
平成 27 年度
公開講座資料-1
ハイドンのウィーンとロンドン(1)
担当:飯森豊水
1. この講座の進め方
第1回
ロンドン旅行以前のハイドンの仕事ぶり、ウィーンとの関係
第2回
第3回
地方都市ウィーン vs 大都市ロンドン
ロンドンのハイドン
2. ハイドンの略歴
1732
オーストリアの東部の寒村ローラウ生まれ
1740 年頃 ウィーン・聖シュテファン大聖堂聖歌隊
1749 年秋 ウィーンで放浪の身に
1757 年? カール・J.フランツ・モルツィン伯爵の楽長
1761
パウル・アントン・エステルハージ侯爵の副楽長
1762
ニコラウス・エステルハージ侯爵が継ぐ
1766
1790
1791
1792
1793
1794
1794
1795
1809
ニコラウス・エステルハージ侯爵の音楽監督
ニコラウス・エステルハージ侯爵没。
アントン・エステルハージ侯爵が継ぐ。楽団を解散。
J.P.ザーロモンと 1791 年の春と 1792 年に各 12 回の演奏会をハ
ノーヴァー・スクェア・ルームで開催する契約。
ロンドンに向けて出発。往路、ボンでベートーヴェンに会う。
ロンドンで演奏会開始。
オックスフォード大学で名誉博士号を授与される。
ウィーンに戻る。
ウィーンでベートーヴェンを教える。
再びロンドン訪問。ザーロモンのために創作、演奏。
アントン・エステルハージ侯爵没。
ニコラウス2世侯爵が継ぐ。ハイドンに帰国を要請。
ウィーンに戻り、侯爵の楽長として活動再開。
オラトリオ《天地創造》、
《四季》など作曲。数々の名誉勲章等。
没。
47
3.
ウィーンとの関係(エステルハージ侯爵時代以降)
・パウル・アントン・エステルハージ侯爵のもとでは、基本的に(当時の)
ハンガリーの都市、アイゼンシュタットに滞在。
・ニコラウス・エステルハージ侯爵のもとでは、夏期は壮麗なエステルハ
ーザ宮殿、冬期はアイゼンシュタットに滞在した。
→侯爵の許可を得てウィーンに出ることは、稀にしかなかった。
1774-75
帝室の宮廷楽長ガスマンが設立した音楽芸術家協会,
(音楽家の
扶養家族のための慈善基金)の演奏会のために,オラトリオ〈ト
ビアの帰還 Il ritorno di Tobia〉を作曲した。75 年 4 月 2 日
と 4 日に上演を指揮。この演奏には,ハイドンのオーケストラ
の歌手と演奏家の何人かが参加した。
1779 以前 帝室のためのオペラの作曲を依頼され,〈真の貞節 La vera
costanza〉で応じた。しかしこの依頼は陰謀によって撤回され,
アンフォッシの曲が代用されたと伝えられている(真偽不明)。
1779出版社アルタリアと関係を持ち、継続的な出版を行う。
(80 年代に入ると、ウィーン、ロンドン、パリの出版社のため
にも作曲するようになる。)
1781
ウィーン滞在中のロシアのパヴェル大公(後の皇帝パヴェル 2
世)の妃であるマリーヤ・フョードロヴナに音楽のレッスンを
行ったと伝えられる。
1785
1789-
ブルク劇場
ハイドンに献呈された、モーツァルトの新作弦楽四重奏曲集の
エピソード。
ニコラウス侯のウィーンの侍医ペーター・フォン・ゲンツィン
ガーの夫人,マリア・アンナ(マリアンネ)・フォン・ゲンツィ
ンガーとの交流。
アウガルテン劇場
のある城
48
メールグルーベ劇場
4.
ウィーンの音楽界の状況(参考)
1) バロック時代
1619 年のフェルディナント 2 世(1578-1637)の即位以降、新しくイタリアに
生まれたバロック音楽がウィーンでも受け入れられるようになる。これからウ
ィーンはヨーロッパの音楽の中心都市としてその地位を確立していく。
この頃から、イタリアの音楽家たちがウィーンに流入(ヴェネツィアだけでな
く,フィレンツェ,マントヴァ,ローマなど,他のイタリア音楽の中心地の音
楽家も雇用した)
。イタリア音楽家たちは、宮廷で楽長など重要なポストを得る。
バロック時代を通じて,ウィーンの皇室宮廷はハプスブルク帝国全体の音楽
活動を支配し続けた。この時代はカール 6 世(1665-1740)と彼の宮廷楽長フッ
クスの死により,終焉を迎える。
2) マリア・テレージアの時代から 1830 年まで
マリア・テレージアは音楽の資質に恵まれていたが、彼女の時代は、政治的
状況に余裕がなく、芸術は娯楽以上のものではなかった。
そのため、音楽活動の中心は貴族社会に受け継がれていく。
こうして多くの楽団がウィーンで演奏する機会を全く持たないか,あるいは 1
年のうちにわずかな期間しかウィーンで演奏しなくなったために,音楽はこれ
まで以上に広い地域に分散するようになった。その結果,ボヘミアが音楽の中
心地となった。
代表的な貴族:ウィーンでは,ザクセン‐ヒルトブルクハウゼン公フリード
リヒ。その他、エステルハージ家,リヒノフスキー家,ロプコヴィツ家,さら
にウィーンを訪れていたロシアの貴族たち(ラズモーフスキイ家,ゴリーツィ
ン家)も主要なパトロンであった。
他方、皇室宮廷楽団は,L.A.プレディエーリ(1751 退職),ゲオルク・ロイタ
ー(息子,1772 没),ガスマン(1774 没),ボンノ(1788 没),最後のイタリア
人宮廷楽長サリエーリ(1824 退職)といった卓越した作曲家のもとで,重要な
地位を維持していた。
(ロイターのもとで宮廷楽団が劇的衰退を招いた。カール
6 世の時代に 134 人であった宮廷楽団は,約 20 人にまで減員された。)
オペラは聴衆にとって最高の関心の的であり続けた。この時代の聴衆は,官
職貴族、武家貴族など文化的教養のある上流階級の人々によって構成されてい
た。
劇場の演目を独占していたのは,多くのイタリア人。中でもヨンメッリ,ト
49
ラエッタ,ハッセ,ピッチンニ,パイジエッロ,サルティ,サリエーリや,ス
ペイン人のマルティン・イ・ソレールによって作曲されたイタリア語のオペラ
であったが,ガスマン(〈伯爵夫人 Contessina〉1780)と,モーツァルトを含
むオーストリアの作曲家によるイタリア・オペラも人気があった。
イタリア・オペラと並行して,ドイツ語による民衆的な劇場作品も発展して
いった。
ドイツ物は,レーオポルトシュタット劇場やアウフ・デア・ヴィーデン劇場と
いった郊外の劇場へと追いやられた。ジングシュピールは非常に人気を博し,
次から次へと成功を収めた。ジングシュピールを書いた作曲家には,ディッタ
ースドルフ,ヴェンツェル・ミュラー,モーツァルト(〈後宮からの誘拐〉〈魔
笛〉),パウル・ヴラニツキ,アントン・ヴラニツキ,ジュスマイヤー,ハイベ
ル,カウアー,J.B.シェンク,ヴィンターなど。
バロック様式からウィーン古典派様式に至る、交響曲,協奏曲,鍵盤ソナタ,
弦楽四重奏曲などの器楽音楽の急激な変化については、必ずしも解明されてい
ない。きわめて多くの作曲家たちが関わっている。例えば、ウィーンの作曲家
たちとして、ヴァーゲンザイル,モン,シュタルツァー,フランツ・アスプル
マイヤー,後の世代としてはガスマン,レーオポルト・ホーフマン,ディッタ
ースドルフ。彼らは、早い時期にメヌエットと緩やかな導入部を交響曲で用い
たこと,また,彼らのうちの幾人かがやはり早い時期に完全なソナタ形式を用
いている。そのほか、イタリア、フランス、ドイツの作曲家たちの影響もある。
ハイドンやモーツァルトの周辺にも大勢の作曲家たちがいた。例:。J.G.ア
ルブレヒツベルガー(ウィーンの音楽理論の伝統をフックスからゼヒターに引
き継いだ),ヴァンハル,ギロヴェツら。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの没後は、モーツァルトが 19 世紀
の保守的な聴衆によって,他のすべての音楽を量る尺度とされ、ベートーヴェ
ンは問題はあるものの、ハイドン没後当時の音楽界における指導的人物として
衆目一致のうちに認められた。19 世紀前半では、シューベルトは、ベートーヴ
ェンと比肩する唯一の作曲家と見なされた。
50
平成 27 年度
公開講座資料-2
ハイドンのウィーンとロンドン(2)
担当:飯森豊水
ロンドンの音楽界の状況(参考)
・宗教施設:セント・ポール大聖堂(ロンドンの金融街、シティ・オブ・ロ
ンドンにあるイングランド国教会、ロンドン教区の主教座聖堂)、ウェストミ
ンスター・アビー(ウェストミンスター寺院、ウェストミンスターにあるイン
グランド国教会の教会。戴冠式などの王室行事が執り行われる)など。
・王室の宮廷音楽:チャペル・ロイヤル(王室礼拝堂、歴代のイングランド
王によって王室内で維持(雇用)されてきた聖職者のグループ。彼らは所定の
習慣にのっとって,君主の参列する礼拝の形式を整え,遂行する)、国王付き
楽団(おそらくチャールズ1世時代(1625~49)に創設)
・オペラ:17世紀半ばに本格的なオペラ公演。18世紀にはイタリア式のオペ
ラが多くは英語で上演された。1711年にヘンデルのオペラ《リナルド》が成功
すると、イタリア語によるイタリア・オペラは確固とした地盤を築く。ヘンデ
ルのオペラはロイヤル音楽アカデミーと呼ばれる貴族団体の後援の下に,続々
と上演された(1720~28)。
・遊園:ロンドンの公園や庭園は,早くから一般に公開されており、バッキ
ンガム宮殿のそばにあるハイドパークは1635年に利用可能となった。17世紀の
後半には,わずかな入場料を徴収し,飲み物を供して音楽その他の演し物を見
せる,整った「遊園(プレジャー・ガーデン)」が現れた。ハイドンの音楽も
こうした施設で演奏された。
・公開演奏会:
・ロンドンは17世紀以来、外国の音楽家たちを引きつけてきた。18世紀以
降では、ヘンデル,J.C.バッハ,モーツァルト,ハイドン,シュポーア,ウェ
ーバー,ショパン,メンデルスゾーン,ヴェルディ,ワーグナーなど一流の作
曲家の大半が訪れ,あるいは居を構えて,富裕で耳の肥えた聴衆のために曲を
書いた。
大衆のための演奏会が開始されたのは1627年。この年ジョン・バニスタ
ーのコンサートが,ホワイトフライアーズの居酒屋ジョージ・タヴァーンに近
い彼の自宅で始まった。
51
18世紀前半ではジェイムズ通りのヒックフォーズ・ルーム(1714再建)が
唯一の演奏会場であった。予約制定期コンサートの最古の記録に,1729年のも
のが残っている。その2年後,ジェミニアーニが年間20回のコンサートから成る
シリーズの開始を広告した。同シリーズは運営者をたびたび変えながらも,確
実なところ38年まで続いた。
18世紀後半には予約演奏会が増加する。
1751年,ジャルディーニが週1回のコンサート・シリーズを開始し,7年後,
オルガン奏者のスターリング・グッドウィンが采配を引き継いだ。
1750年頃にドルリー・レーン劇場でモーニング・コンサートが開始。ただ
し,これは「時間の不都合を忍びつつ演奏を聴きにくる若い商人や市の商店主
のため,開始時刻が夕刻に変更」された。
1765年には、ヨハン・クリスティアン・バッハとカール・フリードリヒ・
アーベル共催の有名な予約制コンサートが65年にソーホー・スクエアのカーラ
イル・ハウスで開始され,オールマックス・ルームに移り(1768),さらにハ
ノーヴァー・スクエア・ルームズへ越した(1775)。ハノーヴァー・スクエア
に移ったバッハ‐アーベル・コンサートは,クラーマー,クレメンティ,ザロ
モンの三者共催のプロフェッショナル・コンサートに移行し,93年まで引き続
き開かれた。
途中ザロモンが84年に抜け,独自に開催したシリーズでハイドンをロンド
ンに初登場させた。
《Public Advertiser》紙が1月7日付で,91年初頭の主な音楽活動の概要を報じ
ている。
日曜:予約制貴族コンサート,毎日曜にそれぞれ別の会場にて。
月曜:プロフェッショナル・コンサート,ハノーヴァー・スクエア・ルームズ
にて,ビリントン夫人出演。
火曜:オペラ。
水曜:古楽(コンサート),トッテナム通りのルームズにて,両陛下ご後援。
アナクレオン協会の公演も時折,水曜に行われる。
木曜:パンテオン――オペラの統合を主題とする音楽と踊りのパスティッチョ
(当時,競合する2つのオペラ・ハウスの合併案が検討されていた),もしくは
マーラ夫人とパキアロッティ氏出演のコンサート。フリーメイソンズ・ホール
――隔週の木曜に古楽アカデミーの公演。
金曜:ハイドンの後援によるコンサート,ハノーヴァー・スクエア・ルームズ
にて,デヴィッド氏出演。
土曜:オペラ。
52
平成 27 年度 公開講座資料-3
ハイドンのウィーンとロンドン(3)
担当:飯森豊水
ハイドン年譜
1790 年、ニコラウス・エステルハージ侯爵の死により、アントン侯が後
を継ぐ。ハイドンやコンサートマスターのL.トマジーニを除いて宮廷音楽
家の解雇を宣告。
第 1 回 ロンドン旅行(1791 年1月から 1792 年7月まで)
興行主J.P.ザロモンの誘いでハイドンはロンドン訪問を決意。
6つの交響曲やその他の作品を作曲し、1791 年の春と 1792 年には各 12 回
の演奏会をハノーヴァー・スクェア・ルーム(1774-1900)で開催させる契
約を結んだ。(しかし、ハイドンが契約に従い作曲したオペラは上演許可に
関する不備が原因で上演されなかった。 )
人口比較
ウィーン:1750 年頃
169、000 人、1800 年頃
231、000 人、現在 1、764、000 人
ロンドン:1750 年頃
676、000 人、1800 年頃 861、000 人、現在 8、617、000 人
資料:ターシャス・チャンドラー(1987)
・自由な国際都市ロンドン。ハイドンには大いなる挑戦の機会となった。
・彼は「時の人」となる。作曲とコンサート活動のかたわら、社交生活
を送り、出版者と交渉し、ピアノと作曲も指導した。
53
当時の記録から
1791 年 3 月 11 日のもの
「おそらく、これ以上に豊かな音楽的な出来事は、決してなかった。音楽に感
動することのできる精神の持ち主 soul にとって、ハイドンが敬意、あるいは
偶像崇拝の対象にさえなるというのは、素晴らしいこととはいえない。私たち
自身のシェイクスピアのように意のままに感情を動かしたり支配したりする
ことができる。彼の新しい大序曲[交響曲]は、鋭敏な聴き手たち誰もがきわめ
て優れた作品であると述べている。しかし特に第 1 楽章は主題から多様な旋律
air と感情のうちに壮麗に立ち上ってゆき、彼自身の作品の水準をも超えてゆ
く。」
このときの作品は特定できていないが、おそらく交響曲第 92 番、第 95 番、あ
るいは第 96 番出会ったと考えられる。
音楽ジャーナリスト・音楽史家のチャールズ・バーニー
「ハイドン自身はピアノ・フォルテの演奏を務めた。それでこの名声に包まれ
た演奏家を目のあたりにして聴衆は衝撃を受け、注目が興奮となり、喜びは私
の知る限りではこれまでのあらゆる前例を上回るものとなった。中間の緩徐楽
章はすべてアンコールされたが、このようなことはどの国であってもかつて起
きたことがないと思う。」
・精力的活動のおかげでいくらかの財も蓄えた。
・1791 年7月、オクスフォード大学の音楽名誉博士号を取得。
ベートーヴェン
・旅の途中、ボンで若き日のベートーヴェンと巡り合う。
・1793 年、ベートーヴェンはウィーンでハイドンの教え子となった。
・しかし、ハイドンがベートーヴェンに与えた助言は、他の若手作曲家
に対するものと大差はなかったとされる。それでも、1795 年の op.2
などにはハイドンの影響が見受けられる。
第 2 回 ロンドン旅行(1794 年2月から 1795 年の8月まで)
1794 年、以前同様に興行主ザロモンのコンサート、1795 年にはザロモ
ン自身が指揮を務めるオペラ・コンサートのために創作を行う。
・莫大な費用を投じ 1791 年5月にウェストミンスター寺院で上演され
たヘンデルのオラトリオとセント・ポール大聖堂における 4、000 人の
孤児たちの簡素な単声合唱はハイドンに強烈な印象を残した(グリージ
54
ンガーによる)。
・ロンドンでの音楽体験は、ハイドンが「国民歌」と呼ぶ 《神よ、皇
帝フランツを守りたまえ》 に反映している。この曲はオーストリアと
ドイツの国歌として不朽のものとなった。
・(後述する)オラトリオ 《天地創造》 と 《四季》にもその成果が
表れている。
ウィーンへ帰還
1794 年のアントン侯の死後、侯爵ニコラウス2世が後を継ぐ。
ふたたびアイゼンシュタットで楽団運営を開始、ハイドンを呼び戻した。
ハイドンはロンドンから帰国後ウィーンに居を構えた。
ハイドンの職務は大幅に軽減され、その役割は侯爵夫人の聖名祝日のた
めに新しいミサ曲を献上することなど。
オラトリオ《天地創造》
かつてないほどの大成功を収めた。
スヴィーテンを発起人とするウィーンの 12 人の芸術愛好家たちが資金
を調達し、ウィーンのシュヴァルツェンベルク宮にゲストを招き、1798
年4月 29 日に初演。
オラトリオ《四季》
《天地創造》公演の成功はハイドンと「出資者の紳士たち」に 《四季》
上演の勇気を与えた(私的初演は 1801 年4月 24 日)。
しかし、ハイドンにとって過度の肉体的・精神的な負担としてのしかか
った。
老衰
これから急速に老いを感じる。
その後のハイドンは 《ハルモニー・ミサ》 (1802) のほか小品(1803
から 1804 年まで)を作曲しただけでこの世を去る。
名声
・ハイドンは 1760 年代中庸にはすでにヨーロッパ各地で有名であり、
1780 年代には当時最高の人気作曲家になっていた。ロンドン滞在後の
1790 年代からはヨーロッパ全体の文化的英雄になっていた。
・晩年、世界中からその功績を認められた。1804 年にはウィーン市の名
誉市民に選ばれ、多数にのぼる外国の音楽協会やアカデミーの名誉会員
55
となった。
・ザクセン公使館参事官G.A.グリージンガーと風景画家A.C.デ
ィースが定期的にハイドンを訪問、伝記執筆のために覚え書きを収集し、
ハイドンの死後に出版した。
死去
ハイドンは、フランスのウィーン占領直後に死去。フンツトゥルマー墓
地に埋葬された。14 日後、ウィーンのショッテン教会で厳かな追悼ミサ
がとり行われ、モーツァルトのレクイエムが演奏された。
後日、脳科学者ガルの信奉者によりハイドンの頭蓋骨が盗まれ(J.カ
ール・ローゼンバウムの日記より)、長期間その行方がわからなくなっ
た。今日では全身の骨がそろい、アイゼンシュタットのベルク教会で安
らかな眠りについている。
「ハイドンのウィーンとロンドン」総括
1) ロンドン旅行以前は、ハンガリーの一地方の(裕福な)貴族の専
属音楽家。ロンドン滞在中に文化的英雄になった。
2) ロンドン滞在中の頃から「パパ・ハイドン」というイメージが生
まれ、その後定着する。
検討すべき点
・「パパ・ハイドン」というイメージは、ハイドンがロンドン滞在のた
めに作り出したイメージ。それまでのハイドンは、決して親しみやすい
音楽ばかりを書いていたわけではない。(例:1764 年に作曲した交響曲
第24 番第 1 楽章の神経質なエネルギー。
・今日の研究でわかってきたのは、彼は多面的な人間であったというこ
と。彼はロンドンで「パパ・ハイドン」を演じたが、それを可能にした
のは彼の高度に洗練された振る舞い方(処世術)、外交的技術、判断力、
批判や大作曲家としての彼への嫉妬に対する感受性、などがあったため
と考えられる。
・では、彼がどういう人間であったか、どのような全体像を持っていた
のかというと、現在まだ研究途上にある(J.ウェブスター)。
56
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(9)
講座名
Promoting Global Communication through English
総合経営学科 准教授
Elizabeth Lange
講師
所属
総合経営学科 講師
Victor Gorshkov
<実施概要>
日時
講座内容
1. Introductions. Brief explanation about the course program.
2015 年 11 月 6 日(金)
10:40~12:10
2. Getting to know each other. Common topics to talk about.
3. Introducing your local area to foreign visitors. What might be
interesting to see in the place you live?
4. Video. Informative Speech.
2015 年 11 月 13 日(金)
10:40~12:10
1. Strategies on making short presentations.
2. Video. Follow-up questions.
2015 年 11 月 20 日(金)
10:40~12:10
1.
Short presentations to promote a local area to foreign visitors.
57
<当日受講風景>
58
<講師報告>
Overview:
With the number of foreign visitors coming to Japan steadily increasing every year and the 2020 Tokyo Olympic
Games just around the corner, there are ever increasing opportunities here in Japan for global communication and
cultural exchange through English. In this introductory English course, we practiced simple conversation strategies
and presentation skills on how to introduce yourself and your local culture to foreign visitors from various
countries.
Feedback from the teachers:
With everything prepared including a generous bundle of materials and resources to facilitate the goals of the
class, we, the teachers, eagerly awaited with great anticipation the arrival of the unknown participants who had
enrolled in the class. They streamed in one after the other in singles or pairs early for the start of class so they
presumably could settle in beforehand and we soon found ourselves involved in small pleasantries. After the class
started with an overview of the course and expectations, the students were shortly involved in a warm-up activity of
introducing themselves to unknown pair/group partners. We were more than thrilled to hear the loud clatter of
cheerful voices as the participants were without any hesitation absorbed in getting to know each other through
exchange in English. It reminded us of a professional orchestra warming up before a performance. We almost felt
we could have conducted the class just at this level of letting the students engage with each other in meaningful
conversations as such.
However, as our agenda was to learn about Japan from locals in English, we channeled their talents for this
purpose. Thus, their next task was to gain some confidence in self-expression by briefly talking about something
different and memorable about themselves in turn to the whole group. We were impressed at the creative and
interesting ways they presented themselves and thoroughly enjoyed getting to know more about the character and
different backgrounds of each one. Some students even began to throw comments and follow-up questions to each
other.
With only three class hours allotted over three short weeks, no time could be wasted towards prepping for the
final presentation task. The first class session included a focus on input on how to present, the second class session
necessitated practice and confidence building in pairs or small groups (which was assisted by one of our advanced
international students), and the third session was devoted to individual presentations. During the highlight of the
course, which was the individual presentations on various parts of Japan (such as Kashiwa, Keihanshin, Osaka,
Sapporo, Shiba Park, Ise, Oki Islands, Mount Tsukuba, Jinbocho, and Iwate), it was a great delight for us to be able
to discover these places through the eyes, individual stories, personal experiences and sentiments of our guests. We
could certainly glean and feel what could never be found so well in a guide book.
After all the presentations were successfully completed, another highlight was having lunch together with the
participants and our international student assistant in the lively atmosphere of the student cafeteria. By then, we had
become more like buddies and felt sad we had to rush off to our different duties soon after.
We would very much like to express our thanks to all those who participated in the 3-day course for their great
efforts in sharing with us delights of Japan.
59
Representative feedback from the participants:
PART 1.
Self-growth; to improve my English ability; desire to get familiar with other
1. What is your motivation to
people’s points of view and express myself; love of English as my major is
study English?
English literature; desire to go to the UK again or to be a volunteer guide
during the Tokyo Olympics; to use English for work; to improve my English
and communicate with people from all over the world; desire to know the
world through English; to get to know people and cultures.
2. Why did you decide to join
Affordable; to improve my speaking ability; invited by a friend; not much
time to speak English in my daily life and desire to know how to introduce
this class?
Japan to foreigners; to improve my English skills; plan to have a party in
December, so I want to be able to communicate with the guests from the US;
like to discuss in English; to know people who study English.
3. What did you like about the
Presentations; two teachers are very nice and kind; was able to have much
time to speak and do a presentation in the end; good curriculum and great
class?
topics; speeches; realized that many people can speak English very well;
enjoyed the class and made a lot of friends.
4. What did you enjoy the
Presentations; everything; listening to speeches; giving speeches; talking with
most?
other participants in English.
5. Do you have any
Nothing special (speaking slowly I hope); wish to have more topics interesting
suggestions for future
to me; hope this class will continue on regularly.
classes?
6. Do you have a better
Sure; hope so; had a great experience.
understanding now of how
to make a short presentation
in English?
PART 2.
Neither
Strongly
Agree
Disagree
Disagree
Strongly
Agree
nor
Agree
Disagree
1
2
3
Number of respondents=9
60
4
5
1
2
3
4
5
6
7
8
9
Average
1. Did you enjoy the class?
5
5
4
5
5
2
5
5
4
4.4
2. Were the teaching materials useful?
4
4
4
5
5
4
5
5
4
4.4
4
4
4
5
5
4
5
5
5
4.6
4
3
4
5
5
2
5
4
5
4.1
5
3
3
5
5
2
4
4
3
3.8
3
4
4
4
5
4
4
2
3
3.7
5
3
3
5
5
4
5
5
5
4.4
5
4
3
5
5
4
5
4
5
4.4
3
4
3
5
5
5
5
4
3
4.1
3. Was the structure of the course
interesting?
4. Did you like the topic of the course?
5. Did you gain more confidence in
communicating in English?
6. Did you make a nice presentation
introducing a local area?
7. Would you like to participate in similar
courses next year?
8. Do you think this course helped you to
improve your English abilities?
9. Did you gain more confidence in
introducing your country and culture to
foreigners in English?
PART 3. Overall comments:
-
-
I enjoyed this course so much!
It was fun!
I’m very interested in social issues like politics and international relations. Therefore, talking
about a trip or introducing my hometown was not so interesting to me. But I had a very good
time. Thank you very much, both teachers.
It was much fun. Teachers are really kind and nice. But I’m a bit sad because the lesson was so
short. I want to join the class next time too.
I had a nice time here but I need more practice because I haven’t spoken English for 20 years.
Japanese people are very shy so, if you sometimes ask us whether or not we are following you, I
would feel happier.
61
<配布資料>
62
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(10)
講座名
マインドフルネス~古くて新しいストレス対処法~
平久江
講師
薫
所属
人間心理学科 講師
<実施概要>
日時
講座内容
日本の仏教に端を発し、アメリカにおいて心理療法として発展したマイ
ンドフルネスが今欧米で大きな潮流となり、日本に逆輸入されている現
2015 年 11 月 19 日(木) 状を紹介。前半ではマインドフルネスの基本的知識について概説し、後
13:00~14:30
半はマインドフルネスの代表的ワークを3つほど体験していただいた。
次回に向けて、認知のワークシートをホームワークとして実施していた
だくこととした。
前回の講義の補足としてマインドフルネスの実践効果について紹介。ホ
ームワークの認知ワークシートについて、唯識論を元に各自の心の癖の
2015 年 11 月 26 日(木)
13:00~14:30
分析を試みた。唯識論とマインドフルネスを結びつけて伝えた上で、改
めてマインドフルネスのワーク(呼吸瞑想、ボディースキャン、日常に
おけるマインドフルネス)に取り組んだ。最後に仏教界と“科学的・世
俗的マインドフルネス”の間にある批判と新しい動きについて紹介し、
まとめとした。
63
<講師報告>
受講層は中高年の男女 10 名(2回の延べ 19 名)であったが、仏教や心理療法に元々関心のある方た
ちであるように見受けられた。とはいえ、マインドフルネスという言葉は初めて聞くという方がほとん
どであった。マインドフルネスを伝える時、その精神訓練法的な性質から、単なる知識の伝達では不十
分であるため、体験ワークをメインに講座内容を計画していた。なぜなら、マインドフルネスとはそも
そも心を煩わせる過剰な思考を脱落させ、身体感覚に基づく今この瞬間の純粋体験に立ち返る方法でも
あるからである。
しかし、知識の積み重ねが多く、さらに知識を得たいという意欲の高い中高年の受講層にとっては、
マインドフルネスのワークはやや戸惑いを感じさせる面もあったようである。
“マインドフルに食べる体
験”
“呼吸に集中すること”
“身体の感覚に耳を傾けること”といったワークの感想として、
「呼吸に集中
して何になるのか分からない」
「自分はマインドトークの固まりだ」といった意見が聞かれた。
そこで、第2回目の内容は多少の修正を試み、まずは、マインドフルネスの実践例、効果について紹
介した。さらにワークシートの分析に援用する唯識論について、当初の予定よりも詳しくお伝えした。
古来の仏教の智慧と現代のマインドフルネスのつながりを知り、さらに、2013 年以降日本の仏教界で起
こり始めた「仏教のアップデート」
、人々のメンタルヘルスへの貢献意欲(=本来の仏教への立ち返り)
の動向を知っていただくことで、より受講生にとって満足の行く内容になったように思われた。
第2回目に改めて取り組んだ呼吸のワークでは、「思考から離れすっきりした。」などの感想が聞かれ
た他、講座全体の感想では「もう少し詳しく知りたい」
「継続して受講したい」などの好意的な意見が多
く書かれていた。
大学生への講義や臨床現場での個人セッションにおけるマインドフルネスの伝達経験しかなかった講
師にとって、今回のような中高年層の方々への伝達は初めてのことであり、大変学ぶことの多い機会と
なった。今後もこのような機会があれば、あくまで心理学者としてのスタンスを保ちつつも、長い伝統
のある仏教の中のマインドフルネスという背景に常に敬意を払いつつ、伝えて行きたいと改めて考える。
64
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(11)
平安貴族の女子教育
講座名
服部
講師
一枝
所属
総合文化学科 教授
<実施概要>
日時
2015 年 11 月 24 日(火)
13:00~14:30
講座内容
王朝の姫君たちにとって、文字が上手に書け、和歌が即興で上手に詠め、
琴が上手に弾けることが必須の教養とされてきました。姫君たちがこれ
らをどのように習ってきたのかを、源氏物語、枕草子、蜻蛉日記などの
記述をたどりながら「勉強」したいと思います。
65
<講師報告>
平成 21 年度より毎年、本学の公開講座の講師として日本古典文学の講演を行ってきた。初年度に額田
王、和泉式部を扱ったことを機に、その後も女流文学作品を取り上げ、それらの文学作品が長い歳月多
くの人々に語りつがれ読みつがれてきたわけを、作者の生きざまを検討しながら考察してきた。取り上
げた作品は『和泉式部日記』
、
『紫式部日記』
、
『源氏物語』、
『枕草子』
、
『蜻蛉日記』、
『更級日記』である。
作品は極力影印本で読むように心がけた。毎年受講してくださる方が積極的にお考えを述べてくださり、
意見交換をする中で古典文学作家の生と文学の軌跡について理解を深めることができたと自負している。
今年度の公開講座のテーマが「グローバル時代の教養」と決まったとき、迷いなく【テーマ:教養】
を選択し、
「平安貴族の女子教育」についてお話をさせていただこうと考えた。今までは、個々の作品の
読解・鑑賞を通して作者の生き方を考えるに留まり、作者たちがどのように教育されたか、については
あまり触れてこなかった。
そこで、リーフレットの講座内容に、王朝の姫君たちにとって必須の教養は、文字が上手に書け、和
歌が即興で上手に詠め、琴が上手に弾けることであった。姫君たちがこれらをどのように習ってきたの
かを、源氏物語、枕草子、蜻蛉日記などの記述をたどりながら「勉強」したい旨をしたためた。これま
で、取り上げてきた作品、作者に関わることであるので、ずっと受講してくださっている方々が関心を
持ってくだされば幸いと思ったからである。
講座は、一、王朝貴族の教養 (1)和歌の教材『古今和歌集』 (2)手習い (3)楽器の効用
二、紫式部の場合
(1)貴族階層の女子教育 (2)式部の家系 (3)父為時と式部
三、
『紫式部日記』の世界 (紫式部日記絵巻の鑑賞)
と、主に紫式部の受けた教育を中心に進めた。
(配付資料参照)
手紙に歌を添えることが当たり前とされ、即興で返歌をしなければならない王朝の時代に、和歌はコ
ミュニケーションの手段として大切なものであった。携帯メールの返信よりも素早さが求められるわけ
である。四季のある日本の美的センスを和歌に織り込むために、部立のしっかりした『古今和歌集』は、
歌の勉強には欠かせないものであった。貴族階級のお姫様であった紫式部も父のもとで和歌を一生懸命
学んだことであろう。さらに式部は、和歌以外に当時の男子の教養である漢籍にも通じていた。受領の
娘が、世界に誇る『源氏物語』を生み出した原動力は、父為時の式部に対する教育だったと言われてい
る。学識をひけらかさないように気を配っていた式部の様子が、
『紫式部日記』からうかがい知ることが
できる。それらを受講生の方と丹念に見ていった。最後に、式部が持っている資質を埋もれさせないで
「私にはこんな力があるのだ」と気づかせた為時の教育に、見習うべきものがあるという考えを述べた。
66
「何かひとつでいいですから、自分に自信の持てるものがあるといいですね。
」と申し上げたことに賛同
してくださり、講座終了後ご自分の考えをお話にきてくださった方がいらした。また、例年と違った内
容で興味深かったとお話くださった方々のご意見に、教育の大切さを改めて感じた公開講座であった。
67
<配布資料>
68
平成二十七年度 公開講座
平成二十七年十一月二十四日(火)
「平安貴族の女子教育」―紫式部の受けた教育を中心にして―
開智国際大学 服部一枝
【講座内容】
王朝の姫君たちにとって、文字が上手に書け、和歌が即興で上手に詠め、琴が上手に弾けることが必
須の教養とされてきました。姫君たちはこれらをどのように習ってきたのでしょうか。
同じ貴族階級のお姫様であった紫式部も父のもとで和歌を一生懸命学んだにちがいありません。さら
に式部は、和歌以外に当時の男子の教養である漢籍にも通じていました。受領の娘紫式部が、世界に誇
る『源氏物語』を生み出した原動力は、父為時の式部に対する教育だったといわれています。為時は菅
原文時門下の代表的な文人です。その父のもと、式部は『白氏文集』
『史記』などの中国古典、
『法華経』
『阿弥陀経』などの経典、六国史などを読破していたようです。これらの知識が後の物語作者としての
源になっていることは言うまでもありません。式部が為時からどのように教育されたかを、式部の人生
を為時のそれと対面させながら考察していきたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一、王朝貴族の教養
(1)和歌の教材『古今和歌集』
(2)
「手習」
(てならい)
(3)楽器の効用
二、紫式部の場合
(1) 貴族階層の女子教育
(2) 紫式部の家系
(3) 父為時と式部
三、
『紫式部日記』の世界
紫式部日記絵巻の鑑賞
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一、
(1)和歌の教材『古今和歌集』
・なぜ和歌を勉強しなければならないのか
『古今和歌集仮名序』
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁
きものなれば、心に思うことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水
に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天
地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰む
るは歌なり。
」
春~ 桜咲く~ 心楽しい
秋~ 虫が鳴く~ 心寂しい
移りゆく自然が、人の気持ちと強く響きあっている。四季のある日本の美的センス。
69
・和歌の形を覚えるために『古今和歌集』が教材に使われた。
『枕草子 二十一段』
「古今の草子を御前に置かせたまへて、歌どもの本(もと)を仰せられて、
「これが末いかに」と
問はせたまふに、すべて夜昼心にかかりておぼゆるもあるが、け清(げよ)う、申し出でられぬ
は、いかなるぞ。~略~
中にも古今あまた書き写しなどする人は、みなもおぼえぬべきことじ
ぞかし。
」
一、
(2)手習=歌を書き写すこと
・なにはづに 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 (古今集仮名序)
(難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています。)
・
『枕草子』二十一段
「~白き色紙押したたみて「これにただいまおぼえむ古きこと一つづつ書け」と仰せらるる。~
御硯取りおろして「とくとくただ思ひまはさで、難波津も何も、ふとおぼえむことを」とせめさ
せたまふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。
」
・
『源氏物語』若紫
「ゆくての御ことは、なほざりにも思ひたまへなされしを、ふりはへさせたまへるに、聞こえさせ
む方なくなむ。まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれば、かひなくなむ。」
(お出かけ際のお言葉は、ご冗談かとも存じたりいたしましたが、わざわざお手紙をくださいま
しては、お返事の申しようもございません。まだ『なにはづ』さえ満足に書けませぬくらいで、
せっかくのお手紙もかいのないことでございます。
」
一、
(3)楽器の効用
何となく人の心をいやしてくれる
・
『蜻蛉日記』下巻
「~日晴れなどして、八日のほどに、あがたありきのところに渡りたり。類多く、若き人がちにて、
箏(さうのこと)
、琵琶など、折にあひたる声にしらべなどして、うち笑ふことがちにて暮れぬ。つ
とめて、客人(まらうと)帰りぬる後、心のどかなり。
」
(~天気が回復して、八日頃に地方歴任の父の家に渡りました。そこには親類がたくさんきて
いて、若い人ばかりが多く、箏や琵琶などを今の季節にふさわしい音の調子で演奏し、笑うこ
とが多いような一日を過ごしました。明くる日、親類が帰ってしまった後も、のんびりした気
分です。
)
・
『枕草子』百五十二段 うらやましげなるもの
「琴、笛など習う、またはさこそは、まだしきほどは、これがやうにいつしかとおぼゆらめ。
」
(琴や笛など習うばあい、これもまた、文字を書く場合のように、未熟のうちは、この人のよう
に早くなりたいと当然感じられるようだ。)
70
二、
(1)貴族階層の女子教育
平安時代の中流貴族以上の女子教育は、入内を前提としたものであった。
姫君に必須の条件とは
村上の御時に、宣耀殿の女御と聞こえけるは小一条の左の大殿の御むすめにおはしけると、誰かは
知りたてまつらざらむ。まだ姫君と聞こえけるとき、父おとどの教へきこえたまひけることは、
「一
つには御手を習ひたまへ。次には琴の御琴を、人よりことに弾きまさらむとおぼせ。さては古今の
歌二十巻をみな浮かべさせたまへ」となむ聞こえたまひけると、
(『枕草子』
)
村上帝は一条帝の祖父。在位は天慶九年(九四六)から康保四年(九六七)
。
宣耀殿の女御と申し上げた方は、左大臣藤原師尹の娘、藤原芳子をいう。
芳子がまだ姫君でいらっしゃったとき、父君の大殿が
「第一にはお習字をなさい。次には琴の御琴を、人より上手に弾こうとお思いなさい。そうしてその次
には古今集の歌二十巻を全部空にお思い浮かべあそばされることを御学問にあそばされませ」と申しあ
げなさったのだった、ということである。
芳子は父の教えをよく守り、入内前に『古今集』の歌をすべて暗記した。
「古今うかべたまへり」と聞かせたまひて、帝、こころみに本をかくして、女御には 見せさせた
まはで、
「やまとうたは」とあるをはじめにて、まづの句のことばを仰せられつつ、問はせたまひけ
るに、言ひたがへたまふこと、詞にても歌にてもなかりけり。
(
『大鏡』左大臣師尹条)
右の文は、女御芳子が『古今集』を暗記していらっしゃるということをお聞きになった村上天皇は、
ためしに『古今集』の本を隠して、女御にはお見せにならないで、序文の「やまとうたは」とあるのを
はじめとして、歌の初めの部分をおっしゃってはその続きをお尋ねになられたところ、詞書の部分も歌
もすべて言い違いなさることはなかったという内容である。このような、試験めいたことがあると聞い
た芳子の父師尹は、
御装束して、手洗ひなどして、所々に誦経などし、念じ入りてぞおはしける。
と、娘を案じて方々のお寺にお祈りにでかけていた。それほど宮廷女性にとって、
『古今集』は即興でそ
つなく和歌を詠むための教養として必須のものであったようである。
紫式部の場合
紫式部も貴族階層のお姫様。父為時のもとで和歌を一生懸命学んだに相違ない。
さらに式部は、和歌以外に当時の男子の教養である漢籍にも通じていた。
漢籍は女性にとって避けるべき学問とされていたようである。
71
女子が漢籍を学ぶことは、身の不遇を招くものとして忌み嫌われていた。
おまへはかくおはすれば、御幸ひはすくなきなり。なでふをんなか真名書は読む。む
かしは経読むをだに人は制しき (
『紫式部日記』
)
式部が夫の死後誰も手に触れることのない漢籍を所在がなくてしかたがないときに、一冊二冊引き出
してみているときに、侍女が言った言葉である。
学識をひけらかさないように気を配っていた式部
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ、心憂きし
りうごとの、おほう聞こえはべりし。内裏のうえの、源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめし
けるに、
「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」とのたまはせけるを、ふと
推しはかりに、
「いみじうなむ才がある」と、殿上人などにいひ散らして、日本紀の御局とぞつけた
りける、いとをかしくぞはべる。このふる里の女の前にてだに、つつみはべるものを、さるところ
にて才さかし出ではべらむよ。
(
『紫式部日記』)
一条天皇が式部の学識を賞賛したことに対して、左衛門の内侍が嫉妬によって「日本紀の御局」とあだ
名をつけたことを笑止千万と反発している場面である。
他の女房の前では
一という文字をだに書きわたしはべらず(一という漢字でさえ書いてみることもしません)
御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりし(お屏風の上に書いてある文句をさえ読ま
ないふりをしておりました)
と記述されている。
さらに
をととしの夏ごろより、楽府という書二巻をぞ、しどけなながら教へたてきこえさせてはべる、隠
しはべり
と、中宮彰子への楽府進講を秘密にしていることも書かれている。
当時の男性の教養は真名、女性のそれは仮名という常識をこえて、例外的に漢籍を学ぶことができた
のは、式部の家系における学問環境に負うところが大きいと思われる。
二、
(2)式部の家系
紫式部の父藤原為時は、兼家・道長ら摂関家と同じく藤原北家の一員である。しかし摂関家が良房系
であるのに対して、為時の祖先は良房の弟良門の系統であり、良門―利其―兼輔―雅正―為時の順で
ある。その内兼輔は、従三位・参議・中納言に昇り公卿の仲間入りをしているが、その他は四位・五
位止まりの受領階層である。しかし、この一族には良房系とは違った家門に対する誇りがあった。そ
72
れは、文人としての兼輔の存在に他ならない。
兼輔
紫式部にとって兼輔は曽祖父に当たる。のみならず「紫式部が起居した家は兼輔によって加茂川沿い
に造成され、花木を集めてその風雅を謳われ、貫之ら歌人文人たちも参集した堤第そのものであった公
算が大きい。」
(昭和57年3月、国文学「堤中納言の風流」伊藤博)といわれる。自分の住む家に曽祖
父の兼輔、祖父の雅正、その妻三条右大臣定方女、父方の伯父為頼、父為時と続く一族の歴史を感じな
がら生活していたことであろう。兼輔の時代には、右大臣定方をはじめ、紀貫之・凡河内躬恒・坂上是
則など古今集時代の代表的歌人が出入りし、兼輔は世に「堤中納言」と呼ばれ、醍醐天皇の御代の文壇
の中心人物であった。また、兼輔は娘桑子を更衣として醍醐天皇に入内させている。兼輔の時代の栄光
は式部にとっても誇りであっただろう。兼輔が入内させた娘桑子の身を案じて詠んだという歌
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(『後撰集』巻第十五
雑歌一・一一〇三)
は、式部の愛誦歌であったらしく、源氏物語に引歌として多く引用されている。
しかし、醍醐天皇崩御(九三〇年)
、右大臣定方薨去(九三二年)、兼輔薨去(九三三年)の後、一族
は兼輔時代の栄光を取り戻すことなく凋落の歴史を刻むことになる。延喜の御代の栄光を聞きながら、
自分の力ではどうすることもできない凋落の歴史を生きざるを得なかった式部の心に落とされた影は、
どんなにか大きいものであっただろう。その「影」が、
『源氏物語』執筆の要素となったと思われる。伊
藤博氏の言われるように『源氏物語』の時代設定が、式部が生きた一条朝を遡ること百年ほど前に据え
られ、
「堤第が時めき延喜の冶と謳われた醍醐帝親政時代の面影を色濃くたたえて始発し、ここに式部が
胎生した若き源氏の君を闊歩させたのも、見来たった一族の歴史のありようと無縁ではありえない」よ
うに思われる。
『源氏物語』執筆要素が何であれ、書くという力量がなければ話にならないのであり、そこで注目さ
れるのが、父為時の式部に対する教育である。
二、
(3)父為時と式部
式部の父為時は菅原文時門下の代表的な文人である(『江談抄』)。その父のもと、式部は『白氏文集』
『史記』などの中国古典、
『法華経』
『阿弥陀経』などの経典、六国史などを読破していたようである。
これらの知識が後の物語作者としての源になっていることは言うまでもない。
為時の式部への期待
この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞きならひつつ、かの人はおそう読みとり、
忘るるところをも、あやしきまでぞさとくはべりしかば、書に心入れたる親は、
「口惜しう、男子に
てもたらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞ、つねに嘆かれはべりし。
(『紫式部日記』
)
「父は童の弟惟規に漢籍を読ませたが、彼はなかなか覚えられず、側で聞いていた私のほうが不思議な
くらい早く覚えるので、学問に熱心な父は『残念なことに、この子を男の子として持てなかったのは不
運というものだ』といつも嘆いておられた」と記述している。
平安時代の貴族の家庭教育は七歳ころから始められ、教材としては『蒙求』『千字文』『李嶠百廿詠』
73
などが用いられたという(
『上代学制の研究)
。惟規が八歳のときと仮定すると、式部は十歳くらいであっ
たろうか。
父為時(紫式部略年譜参照)
藤原為時は中納言兼輔の孫、刑部大輔雅正の三男で、兄に為頼・為長がいる。
永観二年(九八四)八月 花山天皇即位。式部丞蔵人に補せられた。
為時の喜びを表現した歌
おくれても咲くべき花は咲きにけり身を限りとも思ひけるかな(『後拾遺集』巻第二 春下・一四七)
花山朝の時代、為時が惟成や保胤等とともに天皇の外戚藤原義懐(花山天皇の母懐子は一条摂政伊尹
の娘。伊尹の息子の義懐が中納言として帝を補佐)を補佐して新政を推進する側にあったことは確かで
あり、漸く日の当たる場所に出ることができた。
為時も式部も、花山天皇の冶世はまだまだ続くと信じていただろう。
ところが、
寛和二年(九八六)六月二十三日、花山天皇突然出家、退位。
『大鏡』によれば、右大臣兼家が自分の孫の懐仁親王を一刻も早く天皇に即位させたいという野望から、
道兼を使って、花山天皇を欺いて出家・退位させる陰謀にまんまとはまってしまったということらしい。
四月保胤は官人としての希望を失って出家し、惟成は天皇に殉じて剃髪し、遂に文人儒者の集団は崩
れ去った。その集団の一員であった為時も官を辞した。
ひとつの政治的な大きな変化が、個人の運命を左右する、それを目の当たりにした式部の心中はいか
ばかりであっただろう。
『源氏物語』須磨の巻で、光源氏が都を去って須磨に行くと、回りの人々の生活
も急変するという内容は、このときの体験に基づいて書かれたのであろう。
文人為時
為時はしばらくの間、散官に甘んじることになるが、文人としての名声は次第に高くなっていった。
式部もそのような父親のもとで、後に『源氏物語』を書くときに使うことになる当時流行の歌書や物語、
詩文などを読破していったと思われる。
長徳二年(九九六)正月の除目で越前守に任ぜられた。
弟の惟規は京に残し、為時は紫式部を伴って任地に赴いた。親しい友との別れの寂しさ、未知の国へ
の不安を抱きながらの旅であったが、このときの感慨が生きた教材として、後の物語執筆に役立ってい
ることは言うまでもない。
式部は途中で帰京し、宣孝と結婚。やがて賢子を出産し安定した生活を始めるが、長保三年四月、不
幸にも結婚三年目にして宣孝と死別してしまう。
為時も長保三年に帰京していたが、突然娘に降りかかった不幸に言葉もなくしていたことだろう。帰
京後再び散官の境遇に陥っていた為時であるが、文人としての活躍は認められる。
*長保五年(一〇〇三)五月十五日、左大臣道長邸法華三十講結願の夜の歌合に、一流の歌人とともに
列席して源為憲と番えて三首を詠じている。
入りぬるかあけぬやと思ふかたがたに山の端つらき夏の夜の月
74
わが里にまだおとづれぬ郭公遠山かけていまぞ鳴くなる
眼に近く浮かべる千代の影を見て末の松山おもひこそやれ
式部にとって、漢詩文を作る男性が和歌を作るというこの歌合せは、物語創作のヒントになった。女
流歌人であり女流詩人でもあるという女性はいない。といって女性が漢詩の知識をひけらかすのは避け
たい。ただし、物語という虚構の世界の中でそれをすることは可能ではないか。和歌と漢詩を自由に駆
使した物語を創作してみよう。
『源氏物語』はこんな発想から書かれたのかも知れないと考える。
かくして、物語は書き始められ、その一部は宮中で読まれていたようである。この物語作者として比
類ない才能が認められた式部は、寛弘五年十二月二十九日、一条天皇の中宮彰子のもとへ宮仕えに出る
ようになった。
*寛弘三年(一〇〇六)三月四日 道長邸の花宴で詩を賦している(
『本朝麗藻』
)
*寛弘四年(一〇〇七)四月二十六日の内裏詩宴に、文人の一人として召されている(
『御堂関白記』
)
*寛弘六年(一〇〇九)三月、蔵人左少弁に任ぜられた(
『権記』
)
*寛弘八年(一〇一一)二月一日、越後守に任ぜられた(
『弁官補任』
)
。
*長和三年(一〇一四)六月、任期半ばにして官を辞し帰京した(
『小右記』
)
*長和五年(一〇一六)
、三井寺で出家する(
『小右記』
)
*寛仁二年(一〇一八)正月二十一日、摂政頼通の大饗の料の屏風詩を献じている(
『御堂関白記』
)
*没年は不明。
(この後の活躍の記事のないことから、まもなく逝去したものと思われる。
)
父雅正の代から受領に成り下がった家に生まれ、運命を受け入れながら文人としての才能を磨き、儒門
として家を起こそうと努力した為時であった。彼の文才が息子の惟規ではなく、娘の式部に受け継がれ
たことを皮肉に思う反面、娘の理解の早さに目を細めながら、式部に学問を教え込んできたようである。
また、母のぬくもりを知らない式部にとってファザーコンプレックスは強靭なものであっただろう。父
親の官界での浮沈、文人受領としての哀歓とじかに対座し、自分の人生のように受け止めてきた式部が、
社会を鋭く見る目を養ったのは当然のことであったろう。
『政治経済史学』所収 拙稿「平安時代の女子教育―紫式部を中心にー」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『紫式部日記』の世界
三、
作品の特質・・中宮彰子や道長家の慶事の記録がこの作品の主要な内容となっているが、作者はその
輝かしい慶事をつぶさに凝視して記していくうちに、かえってそこに安住できない孤独な魂が反
転してくることを告白している。
作品の成立・構成・・作者紫式部が宮仕えしていた一時期の記録をもとにした日記文学作品
寛弘五年の五月五日に起筆した作品といわれている。冒頭部分が何らかの事情で欠落して、今日
通行の七月起筆の本文が伝えられるようになったとする説が有力。
作品の内容・・A 寛弘五年の七月以降から六年正月までの記事(全体の七割近くを占める)
B 寛弘六年、七年の断片的な記事
C 消息文と呼ばれている書簡体の文章(約二割を占める)
*現存する伝本のすべてが、江戸初・中期の書写。
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76
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(12)
唐に渡った阿倍仲麻呂 ~阿倍仲麻呂は唐で何をしていたのか?~
講座名
三枝 秀子
講師
所属
総合文化学科 准教授
<実施概要>
日時
2015 年 11 月 25 日(水)
13:00~14:30
講座内容
唐は当時の最先端を行く先進国であり、その都長安は世界中から人々が
集まる国際都市でした。日本からも多くの人が海を渡って行きました。
その中の一人、阿倍仲麻呂は唐に渡り何をしていたのでしょうか?彼の
足跡を辿って行きます。
77
<講師報告>
本講座は、公開講座のテーマ〈グローバル時代の教養・グローバル〉の講座として行ったものである。
講座は以下の目次に従い行った。
*目次*
1、はじめに~中国のグローバル化~
2、阿倍仲麻呂の唐における足跡
3、阿倍仲麻呂の詩のどこが素晴らしいのか?
以下、目次の順に内容を簡略に記すことにする。
1、はじめに~中国のグローバル化~
中国のグローバル化は近代に始まったものではない。紀元前 206 年に建国された漢では、シルクロー
ドが通り東西の文化が行き来していた。そして 618 年に建国された唐では世界の各地域から人が集まり、
長安は国際色豊かに賑う都であった。日本からも多くの人が海を越え、最先端の文化・技術などを学ぶ
ために長安に渡っていった。その中の一人に阿倍仲麻呂がいた。彼は『百人一首』の中の一人の作者と
して有名であるが、彼が長安に渡り何をしていたのかその足跡はあまり知られていない。
阿倍仲麻呂は長安に渡った後、当時の官僚達と交流した。それらの官僚達は一流の文学者でもあった。
本講座では、これらの官僚達が残した詩を読み解き、阿倍仲麻呂が長安で何をしていたのかを探ってい
った。
2、阿倍仲麻呂の唐における足跡
①儲光羲「洛中貽朝校書衡朝即日本人也」詩
この作品の詩題や詩から、阿倍仲麻呂は唐にて「朝衡」と名乗り、「太学」という教育機関で学んだ
ことがわかる。そして学び終えた後、洛陽に勤務していたことや「校書」という書籍を扱う官に就いて
いたこと、さらに仲麻呂の容姿が美しかったことなどを読み取った。
②王維「送秘書晁監還日本国」詩
753 年第十次遣唐使が入唐する。そして仲麻呂の帰国許可が下りる。同僚の王維が仲麻呂との別れの宴
を催した。
③李白「哭晁卿衡」詩
仲麻呂の乗った船は遭難し、消息が途絶えた。仲麻呂と友人であった李白は仲麻呂遭難の知らせを受
78
け、仲麻呂のために作品を作った。
3、阿倍仲麻呂の詩のどこが素晴らしいのか?
王維の「送秘書晁監還日本国」詩は日本に帰国する仲麻呂のために詠まれたものである。仲麻呂も「銜
命還国作」詩を残している。この二つの詩を比較分析し(主に平仄・対句表現)、仲麻呂の詩の素晴らし
さを説明した。
79
80
2015 年度
開智国際大学公開講座報告(13)
中世社会における呪詛と角三本の鬼
講座名
松井
講師
吉昭
所属
総合文化学科
教授
<実施概要>
日時
講座内容
茨城県の西光寺の『西光寺御絵伝』
(近世後期)の典型的「丑刻参り」の
2015 年 12 月 1 日(火)
図像と、滋賀県の多賀大社の『多賀社参詣曼荼羅』
(中世末)の図像から、
14:40~16:10
なぜ丑の刻参りは、蝋燭三本なのだろうか。また、なぜ丑の刻なのだろ
うか。その作法が、どのような経緯で成立したのかを考えてみたい。
81
<講師報告>
『多賀社参詣曼荼羅』は三本ある。丑の刻参りと思われる女性の姿は、三本とも異なっている。共通す
るのは頭に三本の角(ろうそく)があることである。一般に丑の刻参りの要素・小道具は、丑の刻・神
木・人形・五寸釘等である。また衣装等については、白装束で胸に鏡・高下駄・頭に五徳を被り、三本
の蝋燭がある。こうした典型的な姿を、近世後期の『西光寺御絵伝』に見ることができる。
まず中世における呪詛の事例を見てみよう。現存で 2 例有り、1 つは「胡蝶陳状」である。胡蝶という
女性が義理の従姉妹に当たる犬正丸・叔母の後家尼を「式に伏せた」という主張への、胡蝶の反論であ
る。
「王寿女」という下女が「両妻関係」になったことがあり、相手の方の女が「妬み死に」したのを怖
がって、「呪詛の返し」をした。このことを犬正丸が誤解したものと、胡蝶は主張した。
2 つめは、寛元 4 年の養母呪詛事件である。京都の四条東洞院に屋敷を有していた尼妙仏が、養女の石
女の呪詛によって死去したという事件。原因は遺産相続である。石女は、上下御霊社・貴船社に呪い釘
を打った。御霊社の釘は、抜いて川に流したが、貴船社はそのままとしたため妙仏が死去した事件であ
る。
ここで注目したいのは、
「呪い釘」の存在である。藤原頼長の日記『台記』や説経『信徳丸』にみるこ
とができる。
『信徳丸』によれば、釘は六寸で、昼間に打っているのである。状況としては、深夜密かに
ではない。では、蝋燭 3 本の方はどうであろうか。『梁塵秘抄』の歌に。「我を頼めて来ぬ男
角三つ生
いたる鬼になれ、さて人に疎まれよ」とある。これが三本の角(蝋燭)の原形の話だろうか。また屋代
本『平家物語』
(剣の巻)の宇治の橋姫伝承に、生き乍ら鬼になる作法として頭に鉄輪を戴き、躰を赤く
して川に 21 日間浸かるといった貴船明神のお告げを実行する話がある。ここでは角三本・五本とまだ混
同しているようだ。
『閑居の友』には「角五本の鬼」の話が登場する。三本か五本かといったバリエーシ
ョンが考えられる。そのなかで五徳を頭に載せる妖怪の姿が鎌倉末期の『土蜘蛛草紙絵巻』にみられる。
次に丑の刻というのはどこから出た設定だろうか。これまで見たように、呪詛は特に深夜でもなく昼
に行われてもいる。それには貴船社の信仰が大きく関わるといえる。貴船社は、水神高おかみ神(タカ
オカミノカミ)を祭神とし、恋の守り神・性愛の神でもあった。藤原実資の日記『小右記』に、にくし
と思う女性を貴船神に呪詛した話が載せられている。さらに『黄船社秘書』には、貴船社の神は「丑の
年の丑の月の丑の日に」当社に降臨した、とされている。神幸も祭礼も丑の日に行われている。したが
って、丑の日に参詣すると特に効験があるとされ、それが丑の刻参りにまで拡大されたといえる。
さらに謡曲『鉄輪』が登場して、五徳を頂いた三本の角の姿が定着していったと考えられる。
ところで丑の刻参りの「呪い釘」は五寸とされる。それは。三本の角の定着とともに、五本の角のバ
リエーションが忘れられ、五寸釘に残されていったのであろう。さらに呪詛の衣装も、中世の伝承では、
「赤」が一般的であったが、次第に「白」に定着していったものと思われる。
82
83
「2015年度公開講座案内」(参考資料 )
84
開
国 開智国際大学
際
大
学
講 智
開
.秋 育委員会Kaichi
5
1
Kaichi
InternaƟonal
0
InternaƟonal
UniversityUniversity
2 柏市教
/
後援
公開講座のご案内
今年のテーマは、 「グローバル時代の教養」 です。
たとえば、“星の王子さま”のふるさとが小惑星B-612番だときいて、
何を想像しますか? そこに住む生き物や草花って、どんなものなのでしょう?
いろんな想像ができるって、つまり、しなやかな智慧があってこそ、
かもしれません。
今年度は、本学の24名の講師陣が、さまざまな切り口でこのテーマに
挑みます。 どの講座も、どなたにも、気軽に楽しく学べる内容となっております。
<今年のテーマ>
グローバル時代の教養
公開講座お申し込みについて
♦ メール、ハガキ、FAXのいずれかに、
<1. 氏名 2. 住所 3.連絡先電話番号
をご記入の上、お申し込みください。
4.希望講座名 >
♦ 受講申し込み者が極端に少ない場合は、開講を見送る場合がございます。
その際には、ご案内をお送りいたします(開講日の10日前が目安です)。
なお、開講する場合は、特にご案内は送付いたしませんので、ご了解ください。
♦ 過去3年以内に継続して受講されている方は、受講料の半額が免除されます。
♦ 受講者には、本学図書館の利用登録証を無料でお作りいたします。
♦ お車での通学はご遠慮ください。
≪お申し込み先≫ 開智国際大学 公開講座係
〒277-0005 千葉県柏市柏1225-6 TEL/04-7167-8655 FAX/04-7163-0096
Mail / [email protected]
講座名
講師名
(1)
2020 東京オリン 名誉教授
小山 貴
ピックに向けて
~ 古代大会から現
代 まで の推移 と 問
専門分野:体育科
学、体育科教育学
題点~
准教授
(2)
比較文化地域
言語:
基礎沖縄語
又吉 弘那
応用言語学:バイリ
ンガリズムを通して
比較言語社会文化
保存研究
講座内容
古代大会の発祥と終末・近代大会の復
活・クーベルタン名言の真相・現代五輪
の問題点・各国の五輪関心度・2020 東京
大会は過酷な大会になる?・パラリンピ
ック開始のきっかけ・1964 東京大会で公
式通訳をされた北垣学長にも当時の様
子を話していただきます。
沖縄文化と歴史、琉歌、民謡を解説。沖
縄史に名を刻んだ女性達が、どのように
恋と仕事の困難を乗り越え、強く、儚く
生きたか。また琉球王宮の女性たち(大
奥に渦巻く黒い陰謀)や女優仲田幸子さ
んの泣き笑い郷土劇場も解説いたしま
す。沖縄のお菓子とお茶も用意します。
日程
時間
9/24
①13:00
~
14:30
¥2,000
木曜日
(全 2 回)
9/25
10/ 2
10/ 9
10/16
10/30
受講料
②14:40
~
16:10
13:00
~
14:30
¥5,000
10:40
~
12:10
¥3,000
13:00
~
14:30
¥1,000
10:40
~
12:10
¥1,000
金曜日
(全 5 回)
アルゼンチンは 20 世紀初頭に GDP が日
テーマ : グローバル
教授
(3)
南米から経済を
考える、あるい
は南米を歩く
五藤 寿樹
近年国際経営論の
観 点 で南 米特にブ
ラジルを中心とした
フィールド研究を行
なっている
(4)
アメリカの日本
人
~親不孝息子と
孝行息子~
教授
佐々木 さよ
日本近代文学を専
門としています
教授
(5)
原田 操
もう一つのグロ
フランス文学専攻。
ーバル
~フランス語圏作
家たち~
博士。フランス政府
給費留学生として、
パ リ滞在の 経験が
あります
本の 2 倍あり、米国と競う大国になると
言われていましたが、経済は失速してい
きました。ブラジルは近年 BRICS の 1 国
になりましたが、最近では石油開発問題
での政治的問題に端を発して経済が停
滞しはじめました。南米の経済状況を通
して中国経済や世界経済を考えます。そ
して日本企業はどのように南米と関わ
ってきたのでしょうか。南米に進出して
いる企業の事例を紹介します。さらに、
南米をこれまで歩いてきた観点から南
米案内をします。
永井荷風が生まれた前年に有島武郎が
生まれています。二人は同じ頃に渡米
し、ヨーロッパを見て帰国しています。
鷗外や漱石という上の世代とは渡航の
意味合いが違いました。先輩達より自由
度が高く、また、当時のアメリカを見た
目でヨーロッパを見た若者が日本に持
ち帰った「土産」を考えてみましょう。
「グローバル」という言葉からは英語を
連想することが多いですが、フランス語
を使用する人々もまた、世界全体に広が
る「フランス語圏」を構成しています。
本講座では、フランス語表現の作家と作
品の例を紹介しながら、
「もう一つのグ
ローバル」に迫ります。
86
10/ 1
11/ 5
12/ 3
木曜日
(全 3 回)
10/ 9
金曜日
(全 1 回)
10/14
水曜日
(全 1 回)
講座名
講師名
教授
(6)
水素エネルギー
と市民生活及び
基礎科学
久保田 実
世界初の超低温マ
イク ロケルビン実
現、元素ロジウムの
超 電 導 発 見 、低温
物理学
講師
Victor
(7)
日本の銀行のロ Gorshkov
シア進出と
その背景
博士(経済学)
専攻:国際経済関
係論, 多国籍企業・
銀行論, 経済英語
教授
(8)
テーマ : グローバル
ハイドンのウィ
ーンとロンドン
飯森 豊水
西洋音楽史(特にハ
イドン)とアートマネ
ジ メントを専門とす
る
准教授
(9)
Promoting
Global
Elizabeth
Lange
専門分野:TESOL
Communication
through English
(10)
講師
Victor
Gorshkov
准教授
唐に渡った阿倍 三枝 秀子
仲麻呂
中 国 文 学 専 攻 。六
~ 阿倍仲 麻呂は 朝 時代から 唐代に
唐で何をしていた か け ての詩を 研究
のか?~
(11)
ポーランド映画
の誘惑
~映画で学ぶ戦
後東欧史~
しています
講師
菅原 祥
博士(文学)。専攻:
社 会 学 。研 究 テ ー
マ:東欧地域研究、
映画研究
講座内容
地球温暖化解決が世界経済も変えます。
太陽光や風力等自然エネルギーの時間
変動を補完し、同時にクリーンなエネル
ギー源の、水素エネルギーが注目されま
す。水素電池である燃料電池で動く車が
市販され、高能率蓄電池競争が巻起りま
す。背景と問題を議論しましょう。
日露ビジネスはお互いの可能性を有効
活用していないことは事実です。本講義
では,日本の銀行のロシア進出背景を歴
史的に整理し,その制約要因とは何かを
考えます。ロシアへ進出している日本の
銀行の事例を取り上げ,進出動機•形態•
戦略という観点から分析を試みます。
西洋音楽史で 18 世紀後半はウィーン古
典派の時代と呼ばれます。しかし当時最
大の音楽都市ロンドンに比べると
ウィーンは一地方都市にすぎませんで
した。本講座では還暦を前にしたハイド
ンが初めてロンドンの音楽界に挑んだ
ときの戦略と成果を再評価します。
With the growing number of foreign
visitors coming to Japan every year
and the 2020 Tokyo Olympic Games
just around the corner, there are ever
increasing opportunities for global
communication and cultural exchange
through English here in Japan. In this
introductory English course we will
practice
simple
communication
strategies on how to introduce
yourself and your local culture to
foreign
visitors
from
various
countries.
唐は当時の最先端を行く先進国であり、
その都長安は世界中から人々が集まる
国際都市でした。日本からも多くの人が
海を渡って行きました。その中の一人、
阿倍仲麻呂は唐に渡り何をしていたの
でしょうか?彼の足跡を辿っていきま
す。
社会主義時代のポーランドは、A・ワイ
ダ、R・ポランスキなど、後に世界的な
名声を博すことになる映画監督を多数
輩出した「映画大国」でした。この講座
では、ポーランド映画の名作を紹介・上
映しながら、東欧の戦後史と芸術の関係
について考えます。
87
日程
時間
受講料
10/16
14:40
~
16:10
¥1,000
13:00
~
14:30
¥1,000
13:00
~
14:30
¥3,000
10:40
~
12:10
¥3,000
¥1,000
(全 1 回)
13:00
~
14:30
12/ 10
①14:40
~
16:10
金曜日
(全 1 回)
10/27
火曜日
(全 1 回)
11/ 2
11/ 9
11/16
月曜日
(全 3 回)
11/ 6
11/13
11/20
金曜日
(全 3 回)
11/25
水曜日
¥2,000
木曜日
(全 2 回)
②16:20
~
17:50
講座名
講師名
(12)
教授
幼小中高校生の子
石田 修一
どもをもつ親のため
の「子どもを幸せ
にする子育てセミ
ナー」
市立柏高校吹奏楽
部を全国トップに育
て、現在も多くの小
中高大学生を指導
している
インプロ・ゲーム
に挑戦しよう
(14)
テーマ : 教養
原文で読むドイツ
文学
(15)
大作曲家たちの
「教科書」
~ウィーン古典派
時代の作曲修業~
子どもが勉強しない、
そのような子ども
のやる気を引き出す方法をわかりやす
く解説するとともに、
賢い子どもに育て
るためにはどのような子育てをすれば
よいのか、さらに、引きこもってしまっ
た子どもや、やんちゃな子どもへの接し
方、その解決法を探ります。
総合文化学科教
授。「演劇概論」「イ
ギリス文学研究」な
どを担当
元来俳優の訓練を目的として始められ
たインプロ(即興)
・ゲームは、現在で
はコミュニケーション能力を高める効
果が認められ、
学校や企業などで幅広く
活用されています。本講座では、簡単な
ゲームを楽しみながら、インプロが持つ
「知」に触れます。
准教授
ドイツ語の初級文法をおおよそ修得し
阿部 雄一
ているかたを対象とし、毎回少しずつ訳
していただきます。今回は、J. W. von
Goethe
《Die Leiden des jungen Werther》
を抜粋して読みます。
申し込まれたかた
には原文テキストを 9 月 1日以降お送り
します。
教授
(13)
講座内容
安田比呂志
ドイツ語、ドイツの
生活と文化、ドイツ
の文学、などの講
座を担当
教授
飯森 豊水
西洋音楽史(特に
ハイドン)とアートマ
ネジメントを専門と
する
ウィーン古典派時代のオーストリアに
あって、J.J.フックスの理論書『パルナ
ッソス山への階梯』(1725)は、作曲の「定
番」教科書でした。モーツァルトは精読
し、ハイドンは弟子ベートーヴェンの課
題としました。
この著作を通して当時の
作曲修業を垣間見ましょう。
日程
時間
受講料
9/29
¥1,000
(全 1 回)
10:30
~
12:00
9/29
①14:40
~
16:10
火曜日
火曜日
(全 2 回)
②16:20
~
¥2,000
17:50
10/ 5
10/19
11/ 9
11/16
月曜日
10:40
~
12:10
¥4,000
13:00
~
14:30
¥3,000
(全 4 回)
10/ 5
10/12
10/19
月曜日
(全 3 回)
【継続者向け】
教授
(16)
若さと健康をサ
ポートします!
~ミニテニス~
高橋 早苗
日本ミニテニス協
会公認指導員
日本ミニテニス協
会認定上級審判員
専攻:スポーツ健康
科学
ミニテニスは、テニス・バドミントン・
卓球をアレンジしたスポーツで、短いラ
ケットと大きめのビニール製ボールを
使用します。そのためラリーが続き易
く、キッズからシニアまで幅広い年齢層
の方に親しまれています。
「運動は苦
手!」
という方でも気軽に楽しんでいた
だけるでしょう。
10/ 6
10/13
10/20
10/27
11/ 3
11/10
¥6,000
火曜日
(全 6 回)
【初心者向け】
11/17
11/24
火曜日
(全 2 回)
88
10:40
~
12:10
10:40
~
12:10
¥2,000
講座名
(17)
講師名
教授
くう
杉木 恒彦
~竜樹(ナーガー
インド学仏教学と宗
教 学 に 従 事 し 、仏
教など世界の様々
な宗教 の研 究をし
ています
空を知る
ルジュナ)が説い
た大乗仏教の真理
講座内容
日程
くう
空とは「ものは固有の実体をもたない」
という大乗仏教の真理観です。
日本文学
10/28
における「もののあはれ」の感性の形成
水曜日
にも影響を与えています。今回は、空の
思想を確立したインド学僧ナーガール
(全 2 回)
ジュナ(2―3 世紀)を題材に、空につ
いて考えてみましょう。
時間
受講料
①13:00
~
14:30
②14:40
~
¥2,000
16:10
~
(18)
キャリア(生き方)
を考える
~モチベーションを
高める「キャリア教
育」とは~
テーマ : 教養
(19)
人間のこころの
発達
教授
宮入小夜子
専門は組織行動。
企業コンサルや人
材育成の経験か
ら、体験型のキャリ
ア デザイン科目を
担当。
教授
寺本 妙子
親子の発達の理解
~乳幼児期・児童 と 支 援 、及 び 中 高
期 ・ 青年 期 から 中 年期の発達につい
高年期まで~
て研究しています。
講師
(20)
平久江 薫
マインドフルネス
~古くて新しいスト
レス対処法〜
臨床心理学専攻。
病 院 、学 校 、 企 業
等でのカウンセラー
経験あり。
教授
(21)
平安貴族の
女子教育
服部 一枝
日本の古典文学
( 特 に 王 朝 和 歌文
学)を専門としてい
ます
現在、小学校から大学まで、キャリア教
育が注目を集めています。将来、どんな
職業に就くのか、どんな人生を送るの
か、そのために何を学ぶのか。最近のキ
ャリア教育の動向と、
就職活動や進路選
択に与える影響について考えていきま
す。中高の先生方、保護者の方たちが対
象です。
人間のこころは、誕生の直後から周囲の
人との関係性の中で発達していきます。
この講座では、
赤ちゃん時代から高齢期
に至るまでのこころの発達プロセスに
ついて考えます。トピックとして、親子
の関係性、子育て支援、生涯発達等を取
り上げます。
マインドフルネスとは仏教にルーツを
持つ精神修練法で、今欧米で大きな潮流
を引き起こしています。仏教の心の処し
方が米国で心理療法として発展、逆輸入
されてきたといえます。悩める思考パタ
ーンから自由になり「今、ここ」を生き
る術を学んでみませんか。
王朝の姫君たちにとって、
文字が上手に
書け、和歌が即興で上手に詠め、琴が上
手に弾けることが必須の教養とされて
きました。
姫君たちがこれらをどのよう
に習ってきたのかを、源氏物語、
枕草子、
蜻蛉日記などの記述をたどりながら「勉
強」したいと思います。
89
11/ 9
11/16
月曜日
(全 2 回)
11/10
11/17
火曜日
(全 2 回)
11/19
11/26
木曜日
(全 2 回)
11/24
火曜日
(全 1 回)
15:30
~
17:00
¥2,000
13:00
~
14:30
¥2,000
13:00
~
14:30
¥2,000
13:00
~
14:30
¥1,000
講座名
(22)
教育政策の
動向
テーマ : 教養
(23)
中世社会に
おける呪詛と
角三本の鬼
(図像を読む)
講師名
講座内容
講師
山田 知代
教育制度、教育法
規、教育行政
教授
松井 吉昭
日本中世史を専攻
し 、参 詣 曼 荼 羅 や
暦 の 研 究を し てい
ます
講師
(24)
「見る」ことの
不思議
菊島 正浩
実験心理学を専門
とし、「心理学基礎
実験」などの授業を
担当しています
日程
時間
受講料
12/ 1
13:00
~
14:30
¥1,000
今でも、神社の裏手にある神木などが、
丑の刻参りに使われたなどの説明板が
あります。丑の刻参りという呪詛法は、
12/ 1
どうしてろうそくが三本なのか。また
火曜日
中世の民衆における呪詛の事例を古文
書から、さらに「多賀社参詣曼荼羅」 (全 1 回)
の図像から読み解いていこうと考えて
います。
14:40
~
16:10
¥1,000
「見る」ことの不思議について,実験
心理学の立場からお話しします。まず
ヒトが対象を見る仕組みについて解説
し,様々な錯覚などを体験していただ
きながら,わたしたちの見ている世界
が外界のコピーではなく,脳による情
報処理の結果であることをお話ししま
す。
14:40
~
16:10
¥1,000
学校教育を巡る諸課題に対応するた
め、近年、政府の教育再生実行会議の
提言を起点として、様々な法令改正が
行われています。本講座では、いじめ
防止対策推進法の制定等を例にとりな
がら、これらの教育政策の動向につい
て概観していきます。
火曜日
(全 1 回)
12/ 7
月曜日
(全 1 回)
事前申込先:開智国際大学図書館カウンターまたは TEL 04-7167-8655(代)まで
★鼎談★
“ショートショートの神様”
星新一を語る
ゲスト:
星マリナ氏
新井素子氏
司会
田中二郎(開智国際大学准教授)
:
(星新一の次女)
(作家)
生涯にわたり 1001 編以上のショートショートと呼ばれる作品を発表し
た星新一。 その中には、未来を見通したような作品も数々あります。未
来を照らし出した光 は、明るいのでしょうか、それとも暗いのでしょう
か。本学では、星氏の次女である星マリナさん、星氏などが審査してい
た奇想天外の第1回SF新人賞佳作受賞作でデビューした SF 作家の新
井素子さんをお招きして、本学の田中二郎准教授とともに星氏の作品に
ついて語りあいます。
90
2015 年度 開智国際大学「公開講座」報告
2016 年 2 月 29 日発行
編集
開智国際大学
研究・図書・紀要委員会
地域貢献センター
発行
開智国際大学
〒277-0005 柏市柏 1225-6
Tel 04-7167-8655
Fax 04-7163-0096
91