表現文化論分野 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部
メディア・表現文化学 主専攻プログラム
(表現文化論分野)
2015 年度 卒業論文概要
玉木 あずさ
現代日本社会における異物感の表象
―『涼宮ハルヒの憂鬱』と「残念なイケメン」―.................. 1
PARK CHI KOOK
韓国ウェブトゥーンのクィア表象
~『クィアウェブトゥーン』における主な特徴~................. 2
大野 智世
ルシアン・フロイドのマチエール――肉という媒介............... 3
高野 洋行
ゲーム音楽における JAGMO の意義...............................
石郷岡 有紀
Perfume におけるヴァーチャルな身体............................ 5
大田 雄磨
1980 年前後に見られる子ども観の動揺........................... 6
奥山 藍
「料理研究家」論.............................................
海藤 梨花
ディズニー映画における女性像................................. 8
金子 千尋
ナチュラルメイクからみる化粧論............................... 9
鎌田 理美
2.5 次元ミュージカル論........................................ 10
神山 恵里佳
古屋兎丸論―その少年像を中心に............................... 11
桑山 海
『コードギアス』研究――巨大ロボットアニメの変容の中で....... 12
小林 大輔
吸血鬼物語論................................................. 13
小山 翔吾
戦後社会における特撮番組『仮面ライダー』..................... 14
齋藤 弘将
医療ドラマにおけるジェンダー表現の光と影..................... 15
齋藤 愛美
パラリンピック報道における障害者表象......................... 16
佐藤 咲稀
現代日本における「孤児物語」の少女........................... 17
佐藤 詩織
ドナルド・ダック論~メディアとプロパガンダ~................. 18
白井 鈴花
『図書館戦争』からみる戦うヒロイン像......................... 19
竹内 千晴
長谷敏司の近未来 SF 作品論――『BEATLESS』を中心に――........ 20
仲田 大輔
テレビドラマにおける大学生像................................. 21
中山 晃平
サイボーグ・ユートピア....................................... 22
西巻 すみれ
少女マンガが描く出産と誕生................................... 23
4
7
長谷川 ちひろ アイドル映画史における相米慎二の意義......................... 24
樋口 亜希
魔法少女アニメにおける家族表象
~東映魔女っ子シリーズが描く親子像........................... 25
廣谷 俊太郎
『艦隊これくしょん -艦これ-』というコンテンツの分析.......... 26
深谷 健汰
テレビ CM における高齢者像.................................... 27
保坂 葵
日韓ネットコミュニティとファッション消費..................... 28
星野 美奈
ゲームの中での恋愛-乙女ゲームを中心に-..................... 29
柳田 沙弥
Web 漫画における「漫画」の変化................................ 30
吉岡 彩香
角川ビーンズ文庫における女性と仕事
―『彩雲国物語』を中心に―................................... 31
渡辺 志帆
「男の娘」現象に見るキャラクター表象分析..................... 32
我妻 拓朗
戦後日本の洋装化............................................. 33
KENNETH Alan Keller
アクション映画における主人公像の変遷
―『ダイ・ハード』シリーズを中心に―................... 34
長南 美冴
現代日本の「オタク」受容..................................... 35
古川 千晶
食品広告論―記号的分析による―............................... 36
佐々木 郁哉
澤井信一郎論................................................. 37
現代日本社会における異物感の表象 ―『涼宮ハルヒの憂鬱』と「残念なイケメン」―
玉木 あずさ
本稿では谷川流によるライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズ(2003-)及び同アニメ『涼
宮ハルヒの憂鬱』(2006,2009)の登場人物である「古泉一樹」について、そのファンによ
る受容のされ方を取り上げた。
『涼宮ハルヒ』シリーズは主人公の男子高校生・キョンとヒ
ロインの女子高生・涼宮ハルヒを巡る、SF に題材をとった小説作品であり、古泉は彼らを
取り巻く主要登場人物の一人という位置づけになっている。主人公による一人称的記述に
よると、いわゆる「イケメン」キャラとされている古泉だが、2007 年ごろ、彼を「キモか
っこいい(気持ち悪い+格好いい)
」という言葉で形容する流れが生まれた。古泉が抱えて
いる、ただ格好いいだけではないという「違和感」と、それがどのように形成されていっ
たかについて追った。
第1章では、明治時代の少女小説・少年小説からジュブナイルを経て現在のライトノベ
ルまで連綿と続いている若年層向け娯楽小説の歴史をまとめた。少女小説はロマンティッ
クな男女/少女同士の友愛関係を描きつつ、徐々に読者へ即した方にへシフトした。また、
少年小説の 1 ジャンルである「絵物語」は、キャラクターと文章との補完関係を持ち、現
在のライトノベルに通ずるところがある。1960~70 年代に現れたジュブナイルは、その多
くが中高生をターゲットとした安価な SF 小説であり、表紙には有名漫画家が起用された。
様々なレーベルの創刊を受け、1990 年、
「ライトノベル」という用語が発案される。現在で
は中高生向けのみならず、児童小説や一般文芸の分野にもライトノベル作家・作品は進出
している。また、その中にあって『涼宮ハルヒ』がどのような作品と見られているのかに
ついても、実際の売り上げ冊数を挙げつつ紹介した。ここでは、作者の谷川が、より多く
の読者の琴線に引っかかるよう、計算ずくで作品を作り上げていることが明らかになった。
第2章では、小説から受ける古泉の印象とアニメから受ける古泉の印象を比較し、その
差異を2ちゃんねるにおける受容の具体例とともに述べた。最初に小説での古泉について、
作者が「信頼できない情報提供者」の役を彼に課し、ファンが「無関心、影が薄い」とい
う反応を見せた事を確認した。次いでアニメ製作に携わった声優・スタッフの証言や実際
の映像から、アニメ版『涼宮ハルヒ』において古泉に「気持ち悪い」という属性が付与さ
れた事を指摘した。さらにアニメ放映後のイベントや関連書籍から、古泉役の声優・小野
大輔が提唱した「キモかっこいい」という形容が根付いていった様子を提示した。また、
演じる声優と演じられるキャラクターの同一性に注目し、小野大輔と古泉一樹が重複した
存在である事を示した。
最後に、アニメにおけるライトな欠点の付与により、古泉が単なる影の薄いイケメンか
ら、「残念なイケメン」へと変化した事を指摘した。そして、その残念さ=違和感こそが、
古泉の得た新たな個性であり、ファンに自身を印象付けるための重要なファクターになっ
たと考察した。
1
韓国ウェブトゥーンのクィア表象
~『クィアウェブトゥーン』における主な特徴~
PARK CHIKOOK
韓国社会におけるクィアの位置は、差別と抑圧の対象であり、一種の禁忌として考えら
れてきた。しかし近年、ホモフォビアに対する批判的な動きが現れ、そのような動きがウ
ェブトゥーンに反映されるようになった。本稿では、クィアを扱うウェブトゥーンを分析
し、その傾向の考察を行った。
第 1 章では、クィアにおける韓国社会の背景とその定義、ウェブトゥーンの形成過程を
語った。クィアを性的少数として定義を行い、そのクィアに対する韓国社会の認識が極め
て差別的であることが分かった。
第 2 章では、韓国におけるクィアジャンルの形成とその原点について論を展開した。韓
国のクィアジャンルの原点は、1980 年代から不法的に流通した日本の BL とヤオイジャンル
であると語られており、最初のクィアウェブトゥーンである『いらっしゃいませ 305 号へ』
が登場するまで、韓国のクィアジャンルは BL とヤオイジャンルの延長線に過ぎなかったと
考えられているが、同作品を転機に、韓国のクィアジャンルが独自の発展を遂げたことを
明らかにした。
第 3 章では、最も代表的なクィアウェブトゥーン 3 作品の分析を行った。その結果、ク
ィアウェブトゥーンの原点とも呼ばれる『いらっしゃいませ 305 号へ』では現実性と関係
性、そして象徴性が特徴的であった。『カミングアウトパープル』では現実性と関係性、心
理描写が、
『皆にワンザが』では現実性と関係性、そして日常性が特徴的であった。
第 4 章では、第 3 章で分析を行った 3 作品の共通的特徴について分析を行った。共通的
な特徴として、現実性と関係性、日常性がそのような共通点である。現実性は、クィアに
対するファンタジーと偏見を解体することによって、よりリアルなクィア階層が表象され
た。既存のクィアではなく、抑圧と差別を恐れる素直なクィアたちが描かれている。関係
性は、クィア階層にだけ限られることなく、社会や第 3 者と言った人物とも関係を形成し
ていることである。日常性は、普通の人々のような平凡な日常を求める傾向である。クィ
ア階層の日常は外部の抑圧の差別により破壊され、日常を奪われてしまうことを言及して
いる。以上 3 点が韓国のクィアウェブトゥーンにおける特徴であり、新たなクィア文化と
して考えられる。
このように、クィアウェブトゥーンは既存の性的秩序を解体し、既存のクィア表象とは
違う方向性を見せている。このような新たなクィア表象の方向性は、社会とクィアという
関係の中で表象されており、韓国クィアウェブトゥーンの最大の特徴である。
2
ルシアン・フロイドのマチエール――肉という媒介
大野 智世
ルシアン・フロイド(Lucian Freud、1922-2011)は、油彩のポートレイトや裸体像で
知られるイギリスの画家である。彼の作品は、「存在」や「現存在」の表現であると度々論
じられてきた。本稿ではフロイドの描く「存在」とは「身体」、
「肉(flesh)
」の表現である
とした。そして、
「肉」とは「
『存在』の原型」であり、人間の身体は「『存在』の注目すべ
き変形の一つ」と述べるメルロ=ポンティの「肉」の概念を援用することで、彼が「存在」
をいかにして描き出したのかという問題を明らかにした。
第一章では、フロイドの紹介と先行文献の分析を行った。山本は彼の作品を、「まさにそ
こに投げ出されてあること」、「現存在」に共通すると示唆する。また、理想的形態として
再構築された「nude」とは異なる、フロイドの「naked portrait」の定義に言及した。
第二章では、フロイドの技法的特徴から「肉」の表現を考察した。キャンバスとドロー
イング、絵具とインパスト、筆とブラッシュストロークといった画材や技法の変化は、厚
みや重みをもった肉の描写を生み出すと同時に、特徴的なマチエールによって絵具の物質
としての存在を意識させる。続いて、多様な接触面である輪郭線や自己や他者との「接触」
の描写、セルフ・ポートレイト、ポジショニングによる遠近法のずれや布の効果による「近
さ」などの表現について言及した。
「世界に参画していく営み」である接触は、近さが必要
条件である。対象に接近するということは、自らも見られ、触れられる立場となる。ここ
に主体と客体の可逆性が生じるという、
「肉」の概念との関連性を指摘した。
第三章では、画家、モデル、作品、鑑賞者といった主体間の関係性を考察した。フロイ
ドは、接触可能な空間、スタジオにモデルを巻き込み、長時間かけて観察を行う。この時
間と空間の積み重ね、その中で発生するモデルと画家の身体的現前に対する感覚、相互影
響の表れがフロイドの作品となる。作品は、画家、モデル、鑑賞者などの主体間の接触面
となる。鑑賞者は、マチエールや具象表現から制作プロセスの痕跡を見ることで「立会人」
の位置に立つ。そして、他者の「身体」をまなざしながら、同質の自己の「身体」=「存
在」を意識する。メルロ=ポンティの概念における〈巻き込み〉や〈二重化〉の働きを、
フロイドの描く「肉」=「身体」が担う。そして、フロイドの作品は、「身体」=「肉」の
表象であり、複数の主体が関係性を築く「場」の経験の表象であるとまとめた。この「場」
こそが、メルロ=ポンティの述べる「肉」の概念である。
フロイドは、筋肉や脂肪といった具象的表現、絵具が重ねられた絵画という物質として
の側面、時間や空間、主体間の関係性を含んだ現象学的な側面という多様な「肉」を、ポ
ートレイトや裸体像の新たな表現によって描き出した。そして、周囲に侵犯されない肉を
持った「身体」にこだわることで「存在」を表象したフロイドの作品の重要性を指摘し、
本稿のまとめとした。
3
ゲーム音楽における JAGMO の意義
高野 洋行
1983 年にファミコンの愛称で親しまれるファミリーコンピューターが、1990 年にその後
継機であるスーパーファミコンが登場し、家庭にゲームというものが徐々にではあるが普
及し始めた。そして今ではアニメーションや CG 技術の向上によって現実に近い、より美麗
なグラフィックスを実現してきている。映像面の進歩とともにゲームに使われるサウンド
というのも進歩を重ねてきていて、BGM として使われる音楽は3和音の音楽からフルオーケ
ストラへと進化していき、環境音もより自然に近く、臨場感あふれるものとなってきてい
る。また、音響周辺の技術向上は続いているが、ある程度の技術が確立されたために、音
楽性ではなく”どれだけ現実の音に近づけられるか”へと流れが変わっていった。
作中で使われている音楽が進歩するに従い、オーケストラや吹奏楽などの実際の楽団を
用いて演奏したサウンドトラックや、演奏会が見られるようになってきた。そしてゲーム
音楽だけを演奏する楽団として「JAGMO(旧称:日本 BGM フィルハーモニー管弦楽団)」が
結成されたりと、ゲームの背景でしかなかった BGM はゲームの世界から独り立ちをして、
新たなジャンルをつくり上げることとなった。
この JAGMO の成功からもゲームにおける音楽の重要性は大きいと考えられ、ゲームと音
楽の二者間には深い関連があると考えられる。本論ではこの関係性やさまざまな効果につ
いて取り上げ、その発展と可能性について述べていくとともに、何故ゲーム音楽がブーム
となっているのかを考察した。
第一章ではゲーム普及の火付け役にもなった、ファミコンから現在も続いている FINAL
FANTASY シリーズやドラゴン・クエストシリーズ、及び実際に演奏会が行われた大乱闘スマ
ッシュブラザーズシリーズを題材にゲームから現実への進出に始まり、JAGMO の編成・選編
曲・演奏会の形態に注目する。また JAGMO の前身とも取れる「ボストン・ポップス・オー
ケストラ」にも触れつつ、ゲーム音楽のゲーム外への進出に関して述べた。
第二章では、根強い人気のある前出のファイナルファンタジーシリーズを中心にし、フ
ァミコンから始まり歴代販売台数が 1 位の PlayStation2 など認知度の高いハードを中心に
ゲーム音楽の進歩と、作曲家やディレクターにも触れゲーム音楽を作成していく過程と人
に着目しつつ、分析を深めた。
第三章では、ゲーム音楽というジャンルに絞り、ゲーム内外における音楽のもたらす効
果・影響を、実際にゲーム音楽を使用している例をあげつつ考察するとともに、JAGMO のも
たらした影響や、ゲームが含まれるサブカルチャーにも言及した。
やはり日が浅い文化で発展途中であるために、ゲーム自体に関してもいまだ論じるべき
点が残されている。多くの人がスマートフォンなどの情報端末を所持し、サブカルチャー
とよばれるものに触れる機会も手段も多くなってきている今、ゲーム音楽がより普遍的に
なるのもそう遠くない日に実現されるものである。その一方で、今まで携わってきていた
人がその変容に対してどうあり方を変えていくのかという問題も発生しており、変化の時
が訪れている。サブカルチャーからメインカルチャーへとあり方を変えようとしているゲ
ーム音楽の担うことになる役回りは大きなもので、その契機でもあり第一人者でもある
JAGMO の意義というものは重要であると結論づけた。
4
Perfume におけるヴァーチャルな身体
石郷岡 有紀
Perfume は、2000 年に広島で結成された三人組テクノポップユニットである。2005 年
にメジャーデビューをし、現在ではワールドツアーを三度成功させるなど、日本国内だけ
でなく海外でも活躍している。広島ではローカルアイドルとして活動していたため、現在
でも「アイドル」として紹介されることが多い。しかし、ヴォーカル加工や近未来をイメ
ージさせるパフォーマンスには「リアルさ」が欠けており、
「親近感」を大事にする現代の
アイドル像とは異なるものと感じられる。そこで、本論では Perfume を「ヴァーチャルな
身体」とし、その独自な身体性が物語るものについて論じた。
第一章では、Perfume のこれまでの歩みについてまとめた後、音楽面のプロデューサー
である中田ヤスタカの音楽性に触れ、彼の音楽性の特徴である「テクノ」と Perfume の楽
曲との関係性を述べた。
第二章では、Perfume の身体性を考えるために、安西信一の『ももクロの美学〈わけの
わからなさ〉の秘密』(2013)を中心に、Perfume と現代の「アイドル」との相違点を、
「キ
ャラクター性」
、
「声」
、
「身体」の三点から論じた。その結果、Perfume は現代の「アイド
ル」の特徴である「リアルさ」だけでなく、その「リアルさ」を超越した「ヴァーチャル
な身体」をも持ち合わせているとまとめた。
第三章では、ヴォーカル加工等により「人間から機械へ」と近づいている Perfume とは
対照的な関係にある存在として、
「機械から人間へ」と近づいているヒューマノイドについ
て考えた。Perfume と同じように機械的な声で歌をうたうヴォーカロイド「初音ミク」を
中心に、無機質さについて論じた。両者は、聴き手が「無感情」の中に自分の感情を同期
させることができることに加え、声やパフォーマンスが聴き手側の不快に陥る「不気味の
谷」の手前でとどまることにより、聴き手側の共振性が増しているとした。
第四章では、実際に Perfume の楽曲、ミュージックビデオ、ライヴパフォーマンスから、
独自の「ヴァーチャル」について論じた。アルバムごとに順に分析したことにより、ヴァ
ーチャルさや近未来性を押し出していたデビュー当時から、徐々にリアルへの回帰が行わ
れていることをまとめた。
第五章では、前章までで述べた Perfume 独自の「ヴァーチャルな身体」が、ただ機械的
で無機質なもの、近未来の象徴として提示されているのではなく、その存在がリアルや過
去への回帰をも意味していることを述べ、Perfume が「ヴァーチャルな身体」の中で、
「生
の身体=リアルな身体」が持つ「感情」への葛藤を描いていることを述べた。また、Perfume
の「ヴァーチャルな身体」を「着せられた」ものとし、その身体の殻を破り、「リアルな身
体」に戻ろうともがいている状態を、Perfume の身体であると結論付けた。
5
1980 年前後に見られる子ども観の動揺
大田 雄磨
日本における現代児童文学成立の年は、1959 年と定められている。これは 1953 年、早大
童話会の「少年文学宣言」に端を発するものであり、それが作品として実を結ぶようにな
ったのが 1959 年からであるためだ。しかしながら 1980 年、それまでの子ども観を動揺さ
せる言説があいついで発表され、時を同じくして現代児童文学もその形を変えてゆくこと
になる。本論文では、1980 年前後に見られた子ども観の動揺について、それに影響を与え
たと考えられる言説およびこの時期の日本の児童文学作品に注目して、この問題を論じた。
第一章では、日本における初の「子どものための読み物」から、1959 年現代児童文学成
立までの歴史について触れた。1959 年から作品として実を結ぶようになった現代児童文学
は、「理想主義」、
「向日性」、「成長物語」という特徴を有していたとされるが、そんな中、
1980 年に刊行された柄谷行人やフィリップ・アリエスの言説により、
「子ども」という概念
が歴史的な所産であることが判明し、こうした子ども観の動揺は作品にも表れていくこと
となる。
第二章では、この時期の子ども観の動揺をさらに詳しく知るため、三節に渡って現代児
童文学の作品分析を行った。まず最初に灰谷健次郎の『兎の眼』
(1974 年)
、
『太陽の子』
(1979
年)
を取り上げ、
そこに見られる 59 年発の現代児童文学の特徴について確認するとともに、
それが徐々に立ち行かなくなってくる様を読み取った。次に那須正幹の『ぼくらは海へ』
(1980 年)に代表される、子ども観の動揺のさなかのシリアスな作品について分析を行っ
た。反=成長物語と呼ばれたこの作品には、それまでの現代児童文学に見られた特徴を留
保する動きが表れていた。最後に、那須の『あやうしズッコケ探検隊』(1980 年)、矢玉四
郎の『はれときどきぶた』
(1980 年)のようなエンターテインメント性豊かな遍歴物語を扱
った。ここでは、それまでの児童文学の特徴が留保されるとともに、現代児童文学では否
定されてきた、かつての遍歴物語の色合いが、ふたたび見られた。
第三章では、
「子ども」という概念の成立条件について触れるとともに、今日的な子ども
観がジョン・ロックとジャン=ジャック・ルソーの考えによるところが大きいことを示し
た。また、
「子ども期」が消滅しつつある理由の一つは電信によるメディア環境の変化であ
り、大人による「知識の独占」が崩れる中で人々の羞恥心が希薄化していることを明らか
にした。
ニール・ポストマンによれば、
「子ども」というものは必要とされない限り、実現しない。
仮に「子ども」が必要とされなければ、児童文学はもちろん必要とされないはずだ。この
ことから、1980 年前後に児童文学に変化が表れたのだとすれば、それはこの時期、言説の
上だけではなく、実際に社会から求められる「子ども」像にも変化が表れたからであると
結論付けることができた。
6
「料理研究家」論
奥山 藍
「主婦」に「料理を教える」ことを仕事とするいわゆる「料理研究家」が世に広まって
いった経緯として、雑誌やテレビ等のメディアや、
「主婦」の主な仕事である「家事」の位
置づけが、戦後から劇的に変化したことがあげられる。そこで本稿では、
「料理研究家」と
いう言葉が広く一般的に使用され始めたとされる昭和から現在までメディア内に登場した
「料理研究家」及び「料理を教える」行為を取り上げ、
「料理研究家」とそれらを教わる調
理者の関係性の変化について考察を行った。
第一章では、1960 年代から 70 年代にテレビを通じて登場した江上トミ、飯田深雪、辰
巳浜子を取り上げた。60 年代には「ショー」を請け負うものとして「料理研究家」が当時
の人々に認知されるようになったが、その「料理研究家」たちは各国の食の文化そのもの
を国内に伝える啓蒙的な役目を担っていた。70 年代にはいると家庭へのテレビの普及と共
に実用的な料理番組が放送されるようになり、「ショー」を請け負うという「料理研究家」
の役目は弱まった。他方、彼女らが育った家庭環境に固有のしきたりが、メディアによっ
てあたかも「家庭料理」一般の特徴であったかのように語られ、
「料理研究家」は理想の母
や姑として、
「伝統」を一般女性たちに教える存在へと変わっていった。
第二章では 80 年代以降の「料理研究家」について考察を行った。それまであった「育ち
のいいお嬢様」である「料理研究家」から学ぼうという動機は一般女性の中で弱まり、ゆ
とりのある階級でありながら料理を「学ぶ」ことを放棄していた存在である小林カツ代が
それまでの「伝統的な」家庭料理を破壊した。だが、90 年代に登場した栗原はるみは「理
想的」
「親近感」を武器に主婦層に歩み寄り、新たな「料理研究家」と視聴者・読者との関
係を構築する。この二人の登場によって「料理研究家」は「先生」ではなくより生活内在
的な「主婦」に近しい存在へと変貌することになった。
第三章では、新たなメディアの登場により変容した「料理を教える」行為の一例として
クックパッドを取り上げた。クックパッドに代表されるパーソナルメディアの登場は、そ
れまであくまで内的な「愛情」で語られることの多かった家庭料理に第三者の相対的価値
を付与することにつながった。視聴者層との接近は「料理研究家」が料理を「教える」と
いう行為の意味を弱め、女性一般を対象として料理を教えてきた「料理研究家」は、個人
間の関係性の中で選択される存在へと変化した。
おわりに、本来言及されるべき「料理研究家」の受け手である視聴者の多様性について
触れ、本論のまとめを行った。
7
ディズニー映画における女性像
海藤 梨花
ディズニーはこれまでに多くのアニメーション映画を製作してきた。それらの映画の中
には女性を主人公にしたものがいくつかあり、作品の主人公である女性は「ディズニープ
リンセス」と呼ばれている。ディズニープリンセス作品については既に様々な視点から研
究がなされているが、それらの研究の多くが、作品において女性のあり方や幸せは男性に
よって規定されていて、それは現在に至るまで変わっていないと批判している。しかし、
『ア
ナと雪の女王』(2013)のように男性との恋愛が物語の中心ではない作品も登場してきており、
ディズニープリンセス作品における女性のあり方や幸せは変化していないとは言えず、む
しろ変化しているのだ。そこで本稿では、ディズニープリンセス作品を分析し、先行研究
でなされてきた批判に対し、ディズニーが描く女性のあり方が変化していることや、これ
までには描かれていなかったような幸せが示されているという新たな指摘を付け加えるこ
とを目標とした。
第 1 章ではディズニープリンセス作品に関する若桑みどりらの先行研究を紹介し、先に
述べたような批判が多くの研究によってなされていることを確認した。
第 2 章では、
『白雪姫』(1937)などこれまでのディズニープリンセス作品に、先行研究で
の批判がどのように当てはまっているのについて考察した。そして、初期のディズニープ
リンセス作品である『白雪姫』
、
『シンデレラ』(1950)、『眠れる森の美女』(1959)では先行
研究の指摘が当てはまっているが、
『リトルマーメイド』(1989)以降の作品では描かれてい
る女性像が変化していることを述べた。さらに『メリダとおそろしの森』(2012)においては、
男性との異性愛ではなく母と娘の親子愛が物語の中心になっていること、自分の望む運命
を自分の手で作り出していることなど、これまでのディズニープリンセス作品にはなかっ
た新しい要素が登場していることを指摘した。
第 3 章では『アナと雪の女王』を取り上げた。この作品でも、王子との異性愛ではなく
姉妹の絆がテーマになっているなど、前章の『メリダとおそろしの森』で見られたような
新しい要素が受け継がれており、ディズニーがこれまでとは違った愛の形を提示している
と述べた。さらに、主人公の 1 人であるエルサが魔法の力を持っているという点に注目し
た。従来の作品において魔女は悪として登場することが多々あった。しかし、この作品に
おいて魔法の力は生まれ持った特性であり、その特性を受け入れ合いながら生きていくこ
とが幸せであるとされていることを明らかにした。そして、これらのことから『アナと雪
の女王』は過去のディズニープリンセス作品とは異なった新たな女性のあり方を表現した
作品であることを示した。
以上のことから、先行研究の批判が当てはまる点もあるが、ディズニープリンセス作品
は女性のあり方、女性にとっての幸せや愛の形といった様々な点で現在までに大きく変化
してきていると結論付けた。
8
ナチュラルメイクからみる化粧論
金子 千尋
私が本論文を取り上げた理由として自分自身が化粧をすることが好きであり、普段から
他人の化粧方法なども見てしまうというように化粧に大きな興味を抱いていることが挙げ
られる。私は特にギャルメイクへの興味があり、本論文ではナチュラルメイクについての
章に加えてギャルメイクについても述べている。また、就職活動時には就活メイクという
ものがあり、それのナチュラルメイクとの違いも考察している。
第 1 章では化粧文化ということで化粧の始まりである古墳時代から現代までの化粧の移
り変わりを見ていき、ナチュラルメイクがなぜそんなにも人気なのか、ギャルメイクと比
べての印象はどうなのかを述べた。また、ガングロが現代のパーティーピーポーにつなが
っているのではないかということを分析した。
第 2 章では主に舟山久美子を取り上げてナチュラルメイクについて述べてきた。まずナ
チュラル系のメイク方法であるすっぴん風メイクやナチュラルメイク、ナチュ盛りメイク
のやり方や違いについて説明し、舟山久美子が Popteen 卒業を機に、なぜ長年してきたギ
ャルメイクからナチュ盛りメイクをするようになったのかを分析した。そしてその舟山が
表紙をしている Popteen をいくつか取り上げながらいつごろメイクが変化してきたのか、
などの細かいメイクの変化を見た。次にナチュラルメイクというのは「ナチュラル」とい
う名前がついていながらも実際はナチュラルではないのだということを、ギャルメイクや
美容整形とも比較して取り上げた。
第 3 章では資生堂やマイナビ、リクナビなどの多数の企業が就活メイクについての講座
やセミナーなどのイベントを開いていることを挙げ、誰から見ても好印象の就活メイクを
することで心理的モチベーションの向上にもつながることが理解できた。次に、一概に就
活メイクはナチュラルではなければいけないというわけではなく、業界や業種によって求
められているメイクをすべきだということを述べた。就活メイクは自分のアピールしたい
内面の魅力を発信する一手段なのである。
世間にはナチュラルメイクが万人に支持されるメイクであり、ギャルメイクが敬遠され
がちだが、自分自身としてはギャルメイクが好きであるという立場にいることから私は本
論文を書いた。
化粧をするということは人の目を意識するとともに、自己満足な部分が大きいと私自身
考えている。社会人になればいつも自分の好きなメイクだけをしているわけにもいかず、
仕事の時には TPO をわきまえた身なりをしなければいけない。自分自身もこの機会を利用
してメイクを見直してみたいと考えた。メイクをすることで気持ちの面で多くのプラス要
素が生まれるため、それが自信となって表情に現れるのである。つまり外見によって自分
の中身もそれに伴い良い方向に変わってくるということだ。よって、満足のいくメイクを
することで自分の内面も変えることができるということを考察した。
9
2.5 次元ミュージカル論
鎌田 理美
「2 次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、 舞台コンテンツとしてショー
化したものの総称」である「2.5 次元ミュージカル」は 1990 年代にその姿を見せ、2010 年
以降、その公演数を増やし続けている。
「日本 2.5 次元ミュージカル協会」が一般社団法人
として発足し、
「2.5 次元ミュージカル」専用の劇場を運営するまでに至っている。今、2.5
次元ミュージカルは 1 つの文化産業コンテンツとしてのジャンルを確立しようとしている。
本文では「2.5 次元ミュージカル」の概要に触れながら、このコンテンツの基礎となってい
る「2.5 次元」とは何かに焦点を当て考察した。
第一章では、
「2.5 次元ミュージカル」とは何かについて定義付けしたうえで、その歴史
について確認した。その中でこのコンテンツの支柱であるミュージカル『テニスの王子様』
の分析を行い、
「2.5 次元ミュージカル」を考えるうえでの基礎を固めた。
第二章では「2.5 次元ミュージカル」に関わりのある「宝塚歌劇団」と「ジャニーズ」に
ついてそれぞれ「2.5 次元ミュージカル」と比較し、
「2.5 次元ミュージカル」のキーワード
が「キャラクター」と「キャスト」であることを確認した。
第三章では「キャラクター」と「キャスト」に焦点を当てた。「2.5 次元ミュージカル」
を受容する人々が求める「キャスト」とは、より原作に登場する「キャラクター」に自身
を近づけることができる人物であり、そこに「キャスト=キャラクター」という考え方が
生まれることが分かった。
「2.5 次元ミュージカル」の「2.5 次元」が指すものとは、
「キャ
スト」が「キャラクター」とイコールで結ばれるときに舞台上に立ち上る、
「原作の世界観
の延長線上にある出来事」であると指摘した。
第四章では、
「キャラクター」と「キャスト」を受容する観客とファンの視点について論
じた。2 次元コンテンツを舞台化した際に生じるいくつかの違和感は、舞台上の演出や俳優
の演技とそれを見つめる観客の間に生まれる共犯関係によって払拭されることが分かった。
それに加えて、
「2.5 次元ミュージカル」の「ファン」にオタク・腐女子と呼ばれる女性が
多いことに注目した。
「2.5 次元ミュージカル」の作品はもともと「腐女子」受けしやすい
作品が多く、彼女達は「2.5 次元ミュージカル」をその作品の原作のファン・アイテムとし
て受容していることを明らかにした。
まとめとして、
「2.5 次元ミュージカル」は原作の 2 次元コンテンツの派生として、ファ
ンたちから「ファン・アイテム」として扱われていると指摘し、海外でも通用する新しい
コンテンツとして一般化を目指す日本 2.5 次元ミュージカル協会の方針と、原作を重視する
ことでその原作を知る層の人々のみが真に楽しめるという「2.5 次元ミュージカル」の実態
によるジレンマをどう乗り越えていくかがこのコンテンツの課題だと結論づけた。
10
古屋兎丸論―その少年像を中心に
神山 恵里佳
古屋兎丸(1968~)は、
『π─パイ─』
『ライチ☆光クラブ』
『彼女を守る 51 の方法』な
ど多くの作品を発表している漫画家である。初期には思春期の少女を描くことが多かった
が、2006 年発売の『ライチ☆光クラブ』を皮切りに、少年(12 歳~16 歳くらい)を描いた作
品を発表するようになる。そして特徴的なのは、それらの作品に「権力」というモチーフ
も同時に見られることなのである。本稿では、古屋が近年多く描いている、少年を中心に
した作品(
『ライチ☆光クラブ』
、
『ぼくらの☆ひかりクラブ』、
『インノサン少年十字軍』、
『帝
一の國』
)を取り上げ、主に「少年」と「権力」という観点から分析し、彼の描く少年像に
ついて考察した。
第 1 章では少年を扱った作品の概要を提示したのち、古屋が今まで描いてきた作品の変
遷について述べた。
第 2 章では作品を個別に取り上げ詳しく分析した。
『ライチ☆光クラブ』と『ぼくらの☆
ひかりクラブ』では漫画の原案にあたる演劇版と、古屋版の比較をした。そこでは登場人
物の関係性、そして人間臭さの有無が違いとなっていることを指摘した。またヒトラー・
ユーゲントとの関係についても述べた。
『インノサン少年十字軍』でははじめに史実に忠実
であることを明らかにした上で、同じ少年十字軍を題材にした作品と比較をした。『帝一の
國』では作中で描かれているパロディについて述べ、さらに『ライチ☆光クラブ』の要素
を多く受け継いでいることを示した。
第 3 章では古屋作品の少年像について、日本文学作品における少年像と比較しながら論
じた。古屋の作品の少年たちは力を求めており、敗戦前の日本文学作品に現れた「無垢で
力を持たない少年」や、三島由紀夫の『仮面の告白』における「力を持つ存在を求めた少
年」とは異なっていることを指摘した。さらに古屋の作品には、敗戦後長い時を経て現れ
た新しい少年像が描かれていることを示した。そして絵画文化の歴史や「制服と少年」と
いうモチーフの系譜も参考に分析したのち、少年と少女という対をなすモチーフについて
比較し、少年が「没落」や「権力」というテーマと親和性が高い理由について考察した。
本稿では、少年を描いた古屋作品がどのような作家の流れを受け継いでいるのかを考察
したが、それが彼の作品すべてにあてはまるわけではない。古屋は幅広い作風を持つ漫画
家だからである。古屋は少年時代、大量の漫画をジャンルを問わず読んでいたため、多様
な作家から影響を受けており、多くの引き出しを持っている。彼の描く少年たちはその引
き出しの一つに過ぎない。そして古屋はこれからも引き出しを増やし続けるだろうし、今
回考察した少年像はさらに他の作家からの影響も反映して変化していくかもしれないと結
論づけた。
11
『コードギアス』研究 ―巨大ロボットアニメの変容の中で―
桑山 海
「巨大ロボットアニメ」というジャンルは、日本のアニメの歴史において数々のブーム
を引き起こし、日本のアニメを牽引してきたジャンルである。『機動戦士ガンダム』や『新
世紀エヴァンゲリオン』に代表されるこのジャンルでは、視聴者を引き付けるための様々
な工夫が年月を追うごとになされ、現在もその人気は続いている。本論文では、2006 年に
放送が開始された『コードギアス 反逆のルルーシュ』及び『コードギアス
反逆のルル
ーシュ R2』が、巨大ロボットアニメの変容の中でどのような作品として存在しているかに
ついて、その物語構造を明らかにすることで考えることを目的とした。
第一章では、
『コードギアス
反逆のルルーシュ』以前の巨大ロボットアニメについて、
先行研究を参照しながら、どのような変容を成してきたかについて確認した。児童向け子
供番組としてスタートしながら、多くの作品を経て「巨大ロボットアニメ」は SF でありな
がらもその物語構造や世界観にリアリティを追求したことでより年齢の高い層に支持され
たことを確認した。
第二章では『コードギアス』シリーズの作品の構成について述べた。映像表現や作品構
成が複雑な本作品を、主人公が属しているコミュニティに焦点を当てて分析した。従来の
巨大ロボットアニメでは主人公は単一のコミュニティに属する存在として描かれているこ
とについて述べた上で、
『コードギアス』では主人公が複数のコミュニティに属しているこ
とについて考えた。従来の巨大ロボットアニメにおけるコミュニティの役割を『コードギ
アス』においては複数のコミュニティが分担しているという考えの元、各コミュニティと
主人公との関わりについて述べ、複数のコミュニティにおける主人公の行動が断片的にア
ニメにちりばめられていることが、
『コードギアス』の物語を複雑にしていると結論付けた。
第三章では、古今東西の英雄譚の物語構造に類似する点があるとする分析を行ったジョ
ゼフ・キャンベルの「単一神話論」に『コードギアス』を当てはめることで、その物語構
造を明らかにすることを試みた。これまでの巨大ロボットアニメに対する研究では、巨大
ロボットアニメが「成長=自己実現の物語」であるという分析がなされている中で、
『コー
ドギアス』は「単一神話論」と多くの類似を見せた。しかし、肝心の「自己実現」を成す
という点が『コードギアス』ではキャラクターの死によって排除されており、これが従来
の巨大ロボットアニメとは異なる『コードギアス』の特徴であると結論付けた。
以上の分析により、少年少女が成長する過程を映した「成長物語」を描いてきた巨大ロ
ボットアニメの中で、従来とは違う構成の物語が『コードギアス』シリーズにおいては展
開されており、従来の巨大ロボットアニメとは違った特徴を持つ作品だという結論に至っ
た。
12
吸血鬼物語論
小林 大輔
吸血鬼は世界中の様々な地域に見られる「血を吸う怪物」の民間伝承であると同時に、
現代においては小説や映画、漫画など幅広い分野で確固たるジャンルとして存在している。
日本人の誰もが「吸血鬼」と聞けばすぐに共通のイメージを思い浮かべられるだろう。黒
いマント、鋭い牙、青白い肌…、どれも今では定着した吸血鬼のイメージであるといえよ
う。本稿では過去の神話や事件や物語を取り上げて吸血鬼の由来やイメージの変遷をたど
り、歴史的に見て吸血鬼像がどのように形成され現代に至っているのかを明らかにするこ
とを目的とした。
第 1 章では主に吸血鬼の系譜と歴史についての考察を行った。そこでは吸血鬼の起源が
一般に思われているよりも深く、古いものだったということが確認できた。吸血鬼の発生
は古代にさかのぼる。古代のギリシャ神話の中の怪物、古代ローマの血を吸う魔女やテッ
サリアの巫女と呼ばれる者たちからも影響を受けて、吸血鬼というものが成り立っている
ことを確認した。また、神話のようなフィクション・物語だけが吸血鬼の起源ではなく、
カタレプシーや「早すぎた埋葬」などといった中世・近代の医療ミスを地域の住民が勘違
いしたケースや、ペストなどの流行病なども吸血鬼という概念の形成に一役買っていたこ
とを指摘した。またバイロン、レ・ファニュ、ブラム・ストーカーといった面々が執筆し
た吸血鬼物語の相互関係とその影響についても触れ、吸血鬼文学にはレ・ファニュとスト
ーカーにおける「夢のような感覚」のように先行作品をしっかりと踏襲している部分が多
いことを指摘した。
第2章では吸血鬼の特徴やその名称についての考察を行った。蝙蝠と深く関係があると
考えられがちな吸血鬼であるが、意外にもバイロン、レ・ファニュ、ストーカーのような
吸血鬼ものの代表格とされる小説では、蝙蝠との結びつきは強いものでは無く、むしろ後
世の映画による影響が強く、蝙蝠との関係は後付けではないかと結論づけた。また名称に
ついてもヴァンパイアという名称の由来から、日本語における吸血鬼という語の成立にも
触れ、
「ヴァンパイア(vampire)」ならばスラブ語系の影響が強く、吸血鬼にも「アンデッド」
というニュアンスが含まれていることを確認し、日本語の「吸血鬼」は中国からの輸入に
よって、吸血鬼のイメージと共に伝来したのであろうと推論した。
以上のことから、神話に登場する怪物や古代から中世にかけて存在が信じられていた魔
女や早すぎた埋葬者といった事件が、近代の 18、19 世紀に様々な作家たちの手によって「吸
血鬼」として生まれ変わり、次第にイメージが確立され、そして現代においても映画や漫
画などにおいて多種多様な表現技術の登場によりそのイメージは大幅にふくれあがり、ま
た変化していったと結論付けた。
13
戦後社会における特撮番組『仮面ライダー』
小山 翔吾
特撮番組『仮面ライダー』(1971 年~1973 年)は、視聴者層の子供に人気を博した。本稿
では、同番組と主人公仮面ライダーが支持を集めた要因を明らかにした。
第一章では、
『仮面ライダー』の制作背景と、同時期に人気を博していた「スポーツ根性
もの」作品からの影響と関係、仮面ヒーローの元祖である月光仮面や、アメリカンコミッ
クスのヒーロー、ウルトラマンなどとの比較を行った。
『仮面ライダー』は、原作者の石ノ
森章太郎(当時石森章太郎)をはじめアウトローを自認するスタッフ達によって制作された
番組である。そのため、ひとり苦悩する異質なヒーローとしての仮面ライダーを月光仮面
やウルトラマン、アメコミヒーローと比較して、明らかにした。
第二章では、物語の要である「変身と仮面」について分析した。前半では仮面ライダー
の変身について、視覚的演出から分析し、変身によって引き起こされる、物語の逆転劇と
大衆の変身願望について論じた。後半は装着者の素性を隠すだけでなく、装着者の人格を
分裂させる仮面の機能を明らかにした。さらに仮面ライダーの仮面のデザインに着目し、
怒りと悲しみという二つの感情が同時に描かれていることを指摘した。
第三章では、
『仮面ライダー』と 1950 年代以降のオートバイ映画を比較し、物語におけ
るオートバイの意味を明らかにした。オートバイは、その形が自転車に似ているため、子
供に親近感を与えた。しかし同時に、搭乗者を轟音の中に閉じ込め、言葉や表情を失わせ
る役割、すなわち仮面のような役割を果たすため、社会から疎外された孤独なアウトロー
の乗り物としての意味を持っている。
第四章では、東映任侠映画におけるやくざと『仮面ライダー』との共通点を分析し、仮
面ライダーが人外の存在、アウトローであることを明らかにした。そして、日常生活でア
ウトローと見なされる存在が、フィクション作品では英雄として賞賛されることを指摘し
た。
現実社会では、やくざやアウトローは、法を無視し好き勝手に振舞う乱暴者、つまりは
犯罪者としてみなされる。しかし、やくざにしろ、仮面ライダーにしろ、フィクションで
描かれるアウトローは、社会に対して違和感や反抗心を抱き、周囲から異端視されても自
分の信念を貫き通すヒーローとなりうる。
バッタの仮面ヒーローという異質な存在は、好奇心に満ち新奇なものに魅かれる子供だ
から受け入れられたわけではない。番組の放送開始から 45 年経った現在もなお、同番組が
大人からも厚く支持されているのは、社会からはみ出たアウトローの主人公が、悩みを抱
えて戦いながら英雄へと昇華していく姿に対する憧れが、我々が生活する社会に存在して
いるからである。
14
医療ドラマにおけるジェンダー表現の光と影
齋藤 弘将
本稿では、2000 年代以降のテレビドラマ界を席巻するジャンルとしてあげられる医療ド
ラマにおいて、職場・職業人につきまとうジェンダー・ステレオタイプの検討を行った。
医療現場やそこで働く人びとは、
「医師=男性、看護師=女性」という性によって二分化さ
れた固定的な図式で捉えられてきた。そこには同時に、男性優位な状況も存在していた。
指導的地位への女性の参入が期待される昨今であるが、女性の進出を促進しうるものとし
て期待されるメディア、とりわけ医療ドラマにおいて、二分化されたジェンダー・ステレ
オタイプがどのような形で反映されているのかを考察することを本稿の目的とした。
まず第 1 章では、指導的地位への女性の参入が伸び悩んでいる現状を取り上げ、さらに
メディアとジェンダーに関する研究を概観した。そして、意識・文化産業であるメディア
は、女性の社会進出を促進または阻害しうるものとして期待や批判がなされてきたことを
示すとともに、批判の的となってきたジェンダー表現を整理した。
さらに第 2 章では、これまで行われてきたテレビドラマにおけるジェンダー表現の研究
を整理し、歴史的に捉え直すことを試みた。テレビドラマで描かれる女性は、複数の作品
で似通った描かれ方が確認され、時代ごとに類型化されてきた。また、女性像の変容に伴
い、主たる舞台が家庭から職場へと移行してきたことも併せて述べた。こうした移行の傾
向を踏まえ、職場・職業人に関するジェンダー・ステレオタイプの検討の必要性を示した。
第 3 章では、本稿の論点を改めて確認した。先行研究では、指導的地位に就き活躍する
女性を描くことで、テレビドラマが女性の新たな役割の強化や社会進出の促進に寄与しう
るという期待が指摘されていたものの、指導的地位への女性の参入度は依然として低い。
本稿ではこの点に着目し、女性の行動を妨げるような、医療現場における男性の優位性な
ど従来のジェンダー観に基づく構造が見られるのではないかという問題を提起した。
第 4 章では、二分化の構造および男性優位の傾向を検討するため、登場人物の性別およ
び就業状況・職種、さらに地位や能力の到達度などを中心に分析を行った。その結果、た
しかに二分化の構造が軸となっていることを見て取れたが、女性の医師という二分化から
抜け出た人物も析出された。その傾向は 2000 年代後半から顕著であり、2010 年代全体で
は約 9 割の作品で女性医師が登場することが明らかになった。こうしたジェンダー表現の
反復は、女性の社会進出や指導的地位への参入を促進しうる可能性が期待できるだろう。
しかし、
「期待」だけでなく、地位や能力において男性と対等には描かない傾向や、男性
ばかりを権力者として描く傾向が医療ドラマ全体では根強いことが確認された。こうした
表現は、女性の行動を妨げたり、従来の固定観念を維持・強化する可能性を孕んでいる。
医療ドラマに見られるジェンダー表現は、期待される明るい側面もあれば、保守的に働
きうる面もあり、決して単純なものではない。多様な言説によって巧みに構成されている
ことを我々は十分に認識した上で、メディアと接していくべきであると結論づけた。
15
パラリンピック報道における障害者表象
齋藤 愛美
本稿の目的は、スポーツメディアが我々にある種のスポーツの価値観を植え付けている
現状を明らかにするとともに、その価値観を具体的に提示することである。そのために、
マイノリティの一つでありメディアへの登場機会も少ない障害者スポーツの描写を分析す
ることで、我々が受容しているスポーツ観の傾向を探った。
第 1 章では、スポーツとメディアは密接な関係にあり、新聞はその一端を担っているこ
とを述べた。また、スポーツメディアの中では女性の報道においてジェンダーバイアスが
反映されていたり、マイノリティの女性が排除されたりしている問題などがあることも示
した。
第 2 章では、先行研究の紹介とその問題点の指摘を行った。メディアは障害者スポーツ
を健常者スポーツから排除し、さらに女性描写などを引き合いに出して障害が弱さの象徴
であるとする主張に対しその正当性が疑わしいという指摘を投げかけた。また、スポーツ
メディアでの女性選手はジェンダーステレオタイプに囚われている面があるという先行研
究に対しては、パラリンピックの分野での調査の必要性を述べた。
第 3 章では、事例分析における観点やパラリンピックの説明をするとともに、先行研究
で論じられていた数値の変化を本稿でのデータを用いて証明した。女性を「美」の対象と
して写す傾向は昨今のパラリンピック報道には当てはまらなかった。また、
「女性」と「障
害」の結びつきが「弱さ」の象徴として写し出されているとは言い難いことを主張した。
第 4 章では、攻守の描写、
「負け」に対するキャプション、車いすによる表象、指導者と
の関わりという 4 つの観点からパラリンピック写真の特徴を明らかにした。そして、障害
者スポーツという固有のスポーツ、固有の価値観が報道によって描かれていることを主張
した。
第 5 章では分析の総括とともに、本稿冒頭の問題提起への結論を述べた。社会的に少数
である障害者および障害者スポーツ選手でも決して多数派の影響を全面に受けることのな
い価値基準が存在している。そして女性の表象という観点から見ても、障害者スポーツ報
道は健常者のそれとは異なる女性アスリートを描いていた。こうしたことから、健常者を
中心としたいわゆるスポーツ報道には、固定的価値観が介在しているということが明らか
となった。そして、今やメディアと一体化しつつあるスポーツを受容する際に我々は、メ
ディアからスポーツ観戦の価値観をも受容していることを理解し楽しむことが必要である
と結論付けた。
16
現代日本における「孤児物語」の少女
佐藤 咲稀
本論文では、
「孤児の少女が壮年男性に引き取られる」という現代の孤児物語について、
「少女と壮年男性」の関係性に着目し、少女の自立という観点から考察した。
第一章では、日本の孤児物語に大きな影響を与えた翻訳少女小説を分析した。翻訳少女
小説のヒロインたちは、屈強な精神力と主体性を身に付け、孤児という不幸な境遇から抜
け出そうとする。
『小公女』
(1905)の主人公・セーラは大人に刃向う反逆児としての性質
を持っており、
『赤毛のアン』
(1908)は女性らしさを身に付ける成熟物語ではなく、主人
公のアンが男の子と対等に自己実現を目指す成長物語であった。対照的に『あしながおじ
さん』
(1912)は、女性らしさを身に付ける成熟物語であり、
「女の子」となった主人公の
ジュディは結婚による幸せを望んで、その結果彼女の自己実現は阻まれてしまう。彼女た
ちには、斎藤美奈子(2001)が見出した「男の子のよう」であることや、「少年を見下す」
などという共通点が見られたが、本論文ではそれに、本来少女たちが女性として成熟する
ことよりも自立あるいは自活することを目指していたことを関連付けた。
第二章では、翻訳少女小説の特徴を色濃く受け継ぐ作品として少女漫画『キャンディ♡キ
ャンディ』
(1975-1979)を分析した。主人公のキャンディは、性格は『赤毛のアン』のア
ン、ストーリーは『あしながおじさん』に類似しているものの、男性に守られるだけの非
力な少女ではなく、職業を持ち、自分の力で生きていける女性に成長している。結婚をゴ
ールとしない『キャンディ♡キャンディ』において、少女が女性としての成熟と自己実現の
両方を果たしている。次に『キャンディ♡キャンディ』と同じ年代に描かれた小説『雪の断
章』
(1975)を取り上げた。
『あしながおじさん』のように、少女が不幸な境遇から男性に
救われるというシンデレラストーリーではあるが、そこでは、『あしながおじさん』では描
かれることのなかった養父と娘の恋愛における葛藤が描かれており、男性の庇護欲が強調
されることを指摘した。
第三章では、現代の孤児物語として、まず三つの少女漫画を分析した。これらの作品の
主人公の少女たちは精神的な孤児であり、自分の居場所のある家族を求めていた。少女た
ちは自分を肯定してくれる男性と疑似家族を形成するが、養父的立場の男性に恋愛感情を
抱く彼女たちは、
「娘」から脱却し、女性として成熟している。少女たちはもはや非力な少
女ではなく、男性を救い、あたたかい家庭をつくる母親の役割を果たしている。次に少女
漫画『うさぎドロップ』の分析をおこなった。この作品では、主人公の少女の自己形成期
の描写が欠如しており、
「娘」のままで養父的立場の男性と結婚している。この作品は、主
人公が自立しない少女なのであり、成熟過程を経ていない少女が結婚することが、『うさぎ
ドロップ』という作品に対して読者がいだく違和感の原因であることを明らかにした。
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ドナルド・ダック論 ~メディアとプロパガンダ~
佐藤 詩織
ドナルド・ダックは、本名を「ドナルド・フォントルロイ・ダック」といい、アヒルを
モチーフとしたディズニーキャラクターである。1934 年に「シリー・シンフォニー・シリ
ーズ」として制作された『かしこいメンドリ』で初登場し、現在彼の総出演本数は 170 本
以上にのぼる。これは、ミッキー・マウスを押しのけディズニー最多の出演本数である。
2004 年 8 月 9 日には、彼の星形プレートがハリウッドのウォーク・オブ・フェームに埋め
込まれ、実在のスターと並び殿堂入りを果たした。何故彼はディズニー1の売れっ子俳優
にまで上り詰めることができたのだろうか。本稿では、短編アニメーションにおけるドナ
ルドの描かれ方に注目し、何故ドナルドが短編アニメーションで活躍できたのか明らかに
することを目的とした。
第一章では、ドナルドのキャラクター像に焦点を当て、スクリーンデビュー時のミッキ
ー・マウスから失われたコメディ要素が、ドナルドへ受け継がれたことを指摘した。大衆
のスターとなり優等生や指揮者として性格が再定義されてしまったミッキーには、アニメ
ーターやウォルト・ディズニーのアイデアを活かすことができなくなったのに対し、ドナ
ルドのパーソナリティは彼らのアイデアのはけ口とするのに非常に都合の良いものであっ
たことを述べた。そして、作品の観客にとっての感情のはけ口としてもドナルドが機能す
るようになり、観客を日常から連れ出す役割をも担うようになったと考察した。
第二章では、ドナルドの短編シリーズで特徴的に描かれているラジオを取り上げた。初
期のドナルド作品では、ドナルドにとって我慢ならない状況を作り出し、彼のキャラクタ
ーを存分に引き出すのに有効な小道具として、ラジオが用いられた。次第にマス・メディ
アとして強力な力を手に入れたラジオは、プロパガンダ作品の中でメッセージの伝達役を
任された。アニメーションの中では、国民にメッセージを明確に伝達することが重視され
たため、言葉ではっきりと情報を伝達し、それを視覚化する役割を担ったことを指摘した。
第三章では、第二次世界大戦時にディズニー・スタジオが大量に生産したプロパガンダ
作品にドナルドは数多く起用された事に焦点を当てた。ドナルドを用い、大衆が置かれて
いる状況を映像の中で示したことで、実際に大衆の戦意を掻き立てることができたことを
述べた。ドナルドは、アメリカ国内という戦争の脅威から遠く離れた場所におり、戦時下
でもそのパーソナリティを存分に発揮することができた。一方、プロパガンダ映画にほと
んど出演しなかったミッキーは、映像中の描写より戦争の第一線で戦っていたことを発見
した。リーダーとして描かれることの多いミッキーであるが、戦地で敵軍をやっつけるよ
うな指示出しは優等生のミッキーにできるはずがなかったため、プロパガンダ映画に出演
できなかったことを明らかにした。そして、ミッキーからコメディ要素を受け継ぎ、戦争
という状況下でも自身の振る舞いを貫き通すことができたドナルドは、アニメーションの
世界でスターとして存分に活躍し、観客を魅了することができたと結論付けた。
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『図書館戦争』からみる戦うヒロイン像
白井 鈴花
有川浩の著書『図書館戦争』シリーズは 2006 年にアスキー・メディアワークスより発行
された本編全 4 巻からなる小説である。このシリーズはこれまで有川が執筆してきた作品
と同様にミリタリー要素を多く含んだ内容であるが、初めて主人公に女性を据えるという
新たな挑戦が見られる作品でもある。主人公は「図書隊」という組織に所属し、日々検閲
から本を守るために戦っている。実際に銃を使っての戦闘も作中で描かれており、本来静
かに本を読むスペースである図書館で、それとは正反対の激しい戦闘が行われるというフ
ィクションならではの設定ではあるが、実際に存在する「図書館の自由に関する宣言」を
基に練られた作品ということもあり、現代日本との繋がりを感じることもできるような世
界観となっている。そこで本稿では、この『図書館戦争』シリーズにおいて、主人公であ
るヒロインが武器を持って戦うこと、そしてそれ以外にも非暴力的な戦いに参加する女性
たちがそれぞれどのような戦いをしているのかについて分析し、暴力的・非暴力的戦いが
女性によって担われていることの意味についての考察を行った。
第 1 章では、作中で対立関係にある図書隊と良化隊について述べ、さらにこのシリーズ
の世界観を分析することで、
『図書館戦争』が、マスコットのような存在として戦う女の子
や強大な敵との正義の戦いなどのような、今までのジャンルに簡単に振り分けることので
きない作品であることを示した。
第 2 章では、ヒロインである笠原郁と、メインの女性キャラクターである柴崎麻子、中
澤毬江、折口マキの 4 人を取り上げ、キャラクター解析を行った。それぞれが作中で担う
戦いについて述べることでヒロインとその他の女性達との対比を明らかにし、方法こそ異
なるもののそれぞれが個々の戦いに身を置いているという、作品の特徴について述べた。
第 3 章では、暴力的・非暴力的戦いに共通する「大人のケンカ殺法」を紹介し、この暴
力的・非暴力的戦いを女性キャラクターが担う意味と、その役割について分析した。非暴
力的戦いの根底に位置するようなこの「大人のケンカ殺法」であるが、それを発したのが
作中において暴力的戦いの象徴ともいえるようなキャラクターである玄田竜助(笠原の上
司)であったことも、シリーズを通して図書隊の戦いが暴力的・非暴力的戦いの両面から成
り立っていることを強調している。
『図書館戦争』シリーズにおいて戦うヒロインである笠原は暴力的戦いを担う存在であ
るが、
“戦争”というこの作品の主題のなかであえて女性が主人公であることで、図書隊と
いう組織が持つ信念や戦う理由を体現することができている。正義ではなくとも守るため
に必要な戦いであるということを象徴する役割も持っているのである。非暴力的戦いを行
う女性達の存在もまた、笠原を引き立たせる効果を持ちながらも、武力に頼らずとも様々
な方法で戦うことのできる新たな可能性を示している。以上のことから『図書館戦争』に
おける女性たちの戦いは、作品の軸となる“戦争”の本質を示すものであると結論づけた。
19
長谷敏司の近未来SF作品論――『BEATLESS』を中心に――
竹内 千晴
長谷敏司(1974-)は、2001 年に『戦略拠点 32098
楽園』でデビューし、主にロボッ
トが登場する作品を執筆している作家である。長谷の行う SF 創作への参入のハードルを少
しでも下げる試みとして「アナログハック・オープンリソース」があり、長谷の作品
『BEATLESS』及び関連作品で使われている設定、世界観を誰でも自由に使えるものとし
て解放するなど、長谷は SF の分野で多岐にわたって活躍、貢献している作家と言えるだろ
う。本論では長谷の近未来を舞台とした SF 作品 3 作品(『あなたのための物語』、
『BEATLESS』
、
『My Humanity』
)を主なテクストとし、長谷の作品の特徴を分析した。
第 1 章では笠井潔編著『SF とは何か』を主な参考文献とし、SF が SF というジャンルと
して成立する過程、また、ロボットが SF においてどのように描かれてきたのかを整理した。
第 2 章では、本文を 5 節構成に分け、長谷の近未来 SF 作品について分析を行った。
第 1 節では、長谷の作品に登場する人間とロボットの関係を、主人公側とライバルとな
る登場人物側に分け、長谷の作品にみられるロボット像、人間像について言及した。
第 2 節では、
『BEATLESS』において重要なキーワードとなる、「アナログハック」と呼
ばれる現象をとりあげた。アナログハックは、人間が人間の姿に対して様々な感情を抱く
という人間がもともと持つ性質を利用して、ロボットが人間の行動や判断を予測して行動
し、人間を誘導するという意味で使われている。そこで、アナログハックが人間側、ロボ
ット側にもたらす意味や、ロボットが社会にいることによってもたらされる「人間らしさ」
を中心として論じた。
第 3 節では、
『BEATLESS』と『あなたのための物語』を中心としてロボットの存在を取
り上げ、人間の魂や意志、そして魂の宿る肉体などを巡る問題について論じた。
第 4 節では、SF に度々用いられる「ロボットが人間に反抗する」というモチーフが、
『BEATLESS』においてはどのような意味を持つのかについて考察した。
第 5 節では、
『BEATLESS』に登場するロボットたちが「こころや魂を欲しがらない」こ
とに注目し、人間に認識されるロボットのこころとは何か、ということについて論じた。
最後に、ここまで分析してきた長谷の作品についてのまとめを行った。
『BEATLESS』作
中で描かれる人間らしさとは、ロボットが存在することによって成り立ついわば偽物の人
間らしさであり、それに抗う登場人物たちは、自分を自分で規定する、本物の人間らしさ
に近づこうとしているのだ。さらに、人間のサイボーグ化に伴う肉体の解放は、肉体に付
随する意志への執着をより強めるという矛盾する結果を招いている。
『BEATLESS』で描か
れる人間へのロボットの反抗は、
「道具」の人間への憎悪を表すのと同時に創世記の神への
人間の憎悪も暗示しているのだ。長谷作品における主人公たちは、魂をもたないロボット
たちにこころを見ることができる人物である。長谷作品は、従来の人間とロボットの関係
ではない、新しい人間とロボットの関係を提示しているとして本論のまとめとした。
20
テレビドラマにおける大学生像
仲田 大輔
本論文では、テレビドラマにおいて大学生がどのように描かれ、時代ごとに描かれ方が
どのように変化しているのかということを検討した。大学生を描いたドラマの視聴ターゲ
ットは、主として大学生であり、そこには当時を生きた大学生たちの理想と現実が反映さ
れている。具体的には『ふぞろいの林檎たち』(1983)、
『あすなろ白書』(1993)、
『オレン
ジデイズ』
(2004)
という大学生が主な登場人物である 3 つのテレビドラマを取り上げ、1980
年代から 2000 年代の 20 年間の変化を追い、ドラマにおける各時代の大学生像を明らかに
すると共に、時代ごとの大学生像の関係性についても分析を行った。
第1章では、テレビドラマと大学生の歴史について述べた。テレビが1人1台の時代に
なり特定の世代に絞ったドラマや、バブル期のトレンディドラマなど、テレビの普及や時
代と並走して変わっていくドラマのジャンルについて言及した。大学生については、ドラ
マで描かれている時代の大学生の特徴を明確にするため、時代ごとに「大学生ダメ論」や
「シラケ」
、
「共通一次世代」
、
「就職氷河期」
、進学率や就職率の変化などについて言及して
いる。また、テレビドラマを研究する意義や分析方法として、阿部(1997)、小川(1999)
の論を紹介し、テレビドラマの分析が、そのドラマを生み出した時代や社会を理解するこ
とに繋がりえることを述べた。
第 2 章では、取り上げる 3 つのテレビドラマのあらすじや登場人物の特徴、ドラマのメ
ッセージ、登場人物たちの恋愛の流れについてまとめた。取り上げるテレビドラマは、時
代を 10 年単位で見たときに、大学生がメインとして描かれており、比較的視聴率が高いと
いう基準で選出した。主人公やヒロインは身持ちが堅い、身分やお金の格差等、各ドラマ
の人物に共通している部分があることについて述べた。
第 3 章では、恋愛や遊びなどのキーワードごとに大学生像を比較しながらドラマ分析を
試みた。変化していないものとして、一緒にお酒を飲むという行為は男女間や友達として
の距離を縮める、キスをするという行為が恋愛を大きく動かすきっかけとして描かれてい
た。人を待つときはたばこを吸うという行為から携帯電話を見るという行為に変化し、意
思疎通するシーンとして喫茶店でお茶を飲むという行為から家の固定電話で話し合う、携
帯電話でのメールや通話という行為に変化していた。また、ヒーロー、ヒロインの恋愛が、
付き合い、別れ、また付き合うという、テレビドラマにおける恋愛の王道とも考えられる
共通した流れになっていたことを指摘した。
以上のことから、大学生を描いたテレビドラマは、時代を反映して、その当時の問題を
取り上げ、その時代をリアルに描いている。時代を通じてサークルや恋愛などの根幹的な
部分は共通することが多いが、技術の進化や時代の流れによってコミュニケーションの取
り方が変化していると結論付けた。
21
サイボーグ・ユートピア
中山 晃平
サイボーグとは何か。何を意味し、いかにして誕生したのだろうか。ダナ・ハラウェイ
は『サイボーグ宣言』
(1985)において二項対立的世界が崩壊したポストモダンの世界で生
きる主体の有り様を「サイボーグ」というイメージで説明し、現代人はすでにサイボーグ
であると述べる。しかしそれはいかなる意味においてであるのか。またどういった状況で
可能になったのだろうか。そしてこの先どういった存在たりうるのだろうか。以上を明ら
かにするために、サイボーグの意味を歴史・理論と思想・フィクションの観点から探るこ
とを本論の目的とした。
第 1 章ではサイボーグ的身体は人間・生体と機械のハイブリッドとして定義されるとい
うことを明らかにするため、
「サイボーグ」という新単語の誕生とその背景にある理論と時
代状況を、
「サイボーグ」を機械としての身体、すなわち機械身体の歴史上に現れた概念で
あると位置づけた上で論じた。
歴史を振り返ると、機械身体に求められた機能は当時の科学技術と関連しており、また
その背景には技術や機械を人間の身体に取り込み、能力を補綴し増強しようとする欲望を
見出すことができた。そしてそうした技術を人間に適用するに際しては、1948 年出版の『サ
イバネティックス』が提唱した理論が大きな意味を持っており、その思考の枠組みは 20 世
紀の初頭から存在していたことを明らかにした。また技術が進歩することで身体に取り入
れられる機械はますます小型化し見えなくなっていくが、その際機械を生体に迎え入れる
ことが問題視されがちであり、議論や拒絶反応が常に付随していたことにも触れた。
第2章ではダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』
(1985)を中心にメタファーとしてのサ
イボーグとフェミニズムとの接続および現象としてのサイバーパンクとの関連を取り上げ
た。サイバーパンクの作品の中に現れるサイボーグの姿は、
『サイボーグ宣言』で提唱され
ているように、二項対立を解体し脱性差的で多様な自己を形成しサバイバルする主体とし
て現れていたのである。またテクノロジーが浸透し情報化された社会において、サイボー
グは異種混交し互いにつながる世界を協働共生の場として肯定的に捉えるための意識を必
要としていると論じた。
第3章ではサイボーグ化とポストヒューマンをテーマにサイボーグの登場するフィクシ
ョンについて論じた。具体的にはサイバーパンクとそれに連なる作品群を概観し、そこに
描かれているサイボーグについて考察した。サイボーグの問題系は差別や抑圧された主体
から出発する。そしてサイボーグは異質なものやテクノロジーを進んで取り入れることで
自身を変容させ、境界線を覆す存在として描かれていることを確認した。
終章では以上を概括し、
「サイボーグ」が表象するものの多様性を再確認し、現代社会の
中での生き方や戦略と意識について改めて明らかにした。その上でサイボーグによる共生
ユートピアの可能性を提示し結論とした。
22
少女マンガが描く出産と誕生
西巻 すみれ
本論文では、少女マンガにおける妊娠、出産表象に焦点を当てた。少女マンガでは、し
ばしば「性」の問題が研究の的とされてきた。思春期の少女たちにとって「性」の問題と
は、興味の対象でありながらも、同時に自らが「産む性」を持つ身体に変化し、男性の欲
望の受け手となるという点で恐れを孕む。少女マンガは様々なモチーフを通して「産む性」
の忌避と受容の葛藤を繰り返してきたことがこれまで論じられてきた。しかしこれまでの
議論では妊娠、出産の問題は必ずしも取りあげられてこず、また取り上げられたとしても
「産む性」の忌避のメタファーとして述べられるのみで重視されてこなかった。そこで本
論文では 1970 年代以降の少女マンガの妊娠、出産描写を考察し、そこで提示される妊娠、
出産のイメージの特徴とその変容を明らかにした。
第一章では、先行研究を整理しながら少女マンガにおいて「性」の問題がどのように捉
えられてきたのかを整理したのち、妊娠、出産描写から見た研究があまりなされていない
ことを述べ、本論文の方向性を示した。
第二章、第三章では、レディースコミックが登場した 1980 年代を境に時代を分け、妊娠、
出産描写を考察した。第二章で見た 1970 年代の妊娠、出産表象については先行研究で「『産
む性』からの逃避の妊娠、出産表象」という指摘があるため、それを検証する形で論を展
開し、先行研究の指摘だけでは論じきれない妊娠、出産の描写があることを述べた。第三
章ではレディースコミックと少女マンガを分け、1980 年代以降の作品における表象を考察
した。レディースコミックでは、少女マンガとは異なる形で妊娠、出産という出来事に「産
む性」の現実を描き出していったことが明らかになった。しかし一方で少女マンガでは、
1970 年代に可能性として提示されていた、象徴的に「産む性」を少女の内面に浮かび上が
らせる妊娠、出産表象の流れが、萩尾望都の『マージナル』以降近年では後退しているこ
とを指摘した。
第四章では水城せとなの『放課後保健室』を取り上げた。主人公は両性具有的な身体を
持つ「男装の少女」であり、自らの女性性を嫌悪している。また、学園ものの形を取る作
品の中で、主人公を含めた学園の生徒はすべて高校生に見立てられた胎児であり、生徒が
学園を卒業することが現実世界への誕生を意味する。これらの設定により『放課後保健室』
が、前章で指摘した近年の妊娠、出産表象では描かれなくなっていた少女の「産む性」へ
の葛藤や、
「出産」の裏にある「誕生」の側面を象徴的に描き出していることを明らかにし
た。
以上の分析を通し、複雑かつ多面的に妊娠、出産の問題を描き続けてきた少女マンガ
において、
『放課後保健室』がその歴史を象徴する作品であることを本論文の結論とした。
23
アイドル映画史における相米慎二の意義
長谷川 ちひろ
相米慎二(1948-2001)は 1980 年に『翔んだカップル』で監督デビューした日本の映
画監督である。
『キネマ旬報』の「1980 年代ベスト・テン 日本映画編 監督ランキング」
で第 1 位に選出されるなど、生前には日本映画界最後の巨匠と称されていた。相米の映画
の最大の特徴は全シーンを長回しで撮影する、いわゆる「1シーン1ショット」である。
また、代表作の『セーラー服と機関銃』
(1981)や『台風クラブ』(1985)で知られている
ように、新人アイドルや素人の子どもを起用した映画に定評がある。
相米のアイドル映画は一般的なアイドル映画のアプローチとは異なり、アイドルらしさ
を強調しない独特の作風となっている。では、なぜ相米のアイドル映画は支持されたのだ
ろうか。ここでは相米のアイドル映画の独自の演出方法をもとに、アイドル映画史におけ
る相米慎二の意義を考察した。
第 1 章では、まず 80 年代にアイドル映画が数多く作られた背景を説明するために、70
年代のスター・システム崩壊によって俳優育成ができなくなってしまった映画会社が、テ
レビで活躍していたアイドルの人気にあやかって映画を作り、若者たちを映画館に呼び込
むもうとしたことを述べた。そんなアイドル映画黄金期の代表的な存在である薬師丸ひろ
子の主演映画に注目し、ほかの監督の作品と比較して相米の映画では薬師丸の顔が写るシ
ョット数が圧倒的に少ないことを確認した。その後、お正月映画にもかかわらず長回しを
多用したために役者たちの顔がほとんどみえなかった『セーラー服と機関銃』が、興行的
にも映画批評的にも大成功となり、アイドル映画の概念を覆した要因を考察した。
第 2 章では、長回しにこだわった相米の意図を考察した。まず、演技経験の浅い新人ア
イドルや子どもたちにクロース・アップによる難しい演技をさせずに、柔軟に動きまわら
せる演出と長回しが相性の良かったことを述べた。また、何度もリハーサルをして徹底的
に考えさせ、長回し撮影で集中力を切らせなかったことで、子どもたちからリアルなもの
を引き出すことができたと同時に、俳優育成にもつながったと述べた。最後に、テレビに
よって追いやられていった日本映画が失いつつあった映画本来の面白さを、相米は長回し
という手法を通して独自に見直そうとしたと推察した。
第 3 章では、ヒロインや子どもたちがうたう歌謡曲が映画にどのような効果を与えてい
るかを分析した。劇中歌や主題歌の歌詞と物語の内容が結び合わさっており、ヒロインが
劇中で口ずさむ曲はヒロインの心情や境遇とリンクしていた。また、それらの楽曲は当時
なら誰もが聞き覚えのあるヒットソングが中心であるため、若い観客たちが映画の登場人
物の物語を共有する一助となり、野心的な作風でありながらも多くの人々に支持された要
因にもなっていた。
24
魔法少女アニメにおける家族表象 ~東映魔女っ子シリーズが描く親子像~
樋口 亜希
魔法少女アニメは長年愛されているアニメジャンルの一つである。現実社会と密接な繋
がりを持ち、日常生活と深い関わりを持つ魔法少女アニメにおいて、主人公が生活する「家
庭」
、特に「親子関係」の描写は不可欠なものとなっている。須川(2010)の調査で明らかに
なったように、視聴者はヒロインの魔法少女だけでなく、その家族たちも「理想像」とし
て受容してきた。本論では、家族像に描かれる「理想」とは何かを見出すために、魔法少
女アニメの土台を築いた東映魔女っ子シリーズの作品に焦点を当て、そこで描かれる家族
構造とその個々の役割を考察した。
まず第 1 章では、東映動画が魔法少女アニメに日本で初めて挑戦した背景を概観し、
『魔
法使いサリー』
を第 1 作目とする東映魔女っ子シリーズの作品系列とその特徴を整理した。
第 2 章では齋藤(2004)の論を用いて、同シリーズのヒロインに書き込まれた「理想の娘」
の姿を明らかにした。さらに先行研究の不足点を言及し、これまであまり分析されてこな
かった家族表象を考察する必要性を述べた。
第 3 章から第 5 章では作品分析を行い、家族表象の特徴を考察した。まず第 3 章では、
『ひ
みつのアッコちゃん』における「父親不在」の家庭を検証した。父親は人々の言説や登場
シーンによって「尊敬すべき人物」として家庭内に位置付けられており、作品内では「父
と母と子」の家族構造が強調されていることを示した。
第 4 章では、前章で見た家族構造を他の作品から見出すため、魔法少女アニメ特有の「擬
似的な家族」に焦点を当てた。主人公が人間界で手に入れるのは「父が家族の頂点に立ち、
母と子は従属する」家族であり、それは擬似的な関係を超え、伝統的な家族像への回帰に
なっていると指摘した。
第 5 章では、これまでの作品分析によって見出された「伝統的な家族像」において、個々
の家族員が果たす役割とは何かを考察するため、プロップによる登場人物の分類を用いて
作品分析を行った。物語を具体的に見ていくと「敵対者」の父と補助的な行為を担う母と
いう役割の固定化が見られ、それは「伝統的な家族像」を強化するものであった。その一
方で、父親が娘に救い出されるべき「王女」として機能する物語も頻出しており、主人公
は魔法を使って陰から父親を助けていた。母娘に共通している「父親を陰から支える」行
為は伝統的な女性観を踏襲したものであるが、古い女性像である母親が持たない「魔力」
を使える主人公からは先の時代を示唆するような新しい女性の可能性が読み取れる。
したがって、家族表象に着目して見ると父親や母親からは固定化された役割を見出すこ
とができ、主人公の魔法少女は伝統的な女性観と新たな女性の可能性を兼ね備えた両義的
な存在になっていることが明らかになった。そして、作品を超えてシリーズ全体に見られ
る役割の固定化は、作品中に反復される「父と母と子」の構造に着目して初めて見出せる
ものであると結論付けた。
25
『艦隊これくしょん -艦これ-』というコンテンツの分析
廣谷 俊太郎
『艦隊これくしょん -艦これ-』
(以下『艦これ』)は、角川ゲームスが開発・運営を担当
し、DMM.com が配信しているブラウザゲームである。2013 年 4 月 23 日のサービス開始
以来、Twitter 等の SNS で話題になったこともあり、爆発的に登録者数が増加し、運営側
の当初の想定をはるかに上回るプレイヤー数を獲得した。現在まで、コミカライズ、ノベ
ライズ、テレビアニメ化等の様々なメディアミックス展開がなされている。本稿では、『艦
これ』がそのようにヒットした要因として、メディアミックス展開の成功や消費者による
活発な二次創作活動があったことに着目し、ユーザーをそこに至らせるゲーム内の諸要素
を分析した。
第 1 章では、
『艦これ』の「物語」という側面に焦点を当て考察した。まず第 1 節では、
『艦これ』のメディアミックス戦略と消費者について分析した。そして第 2 節で、
『艦これ』
の「物語」の分析に際して参考とした大塚英志の「物語消費」と東浩紀の「データベース
消費」という二つの概念を確認し、
『艦これ』における「物語」にはその両者の側面が存在
することを指摘した。第 3 節では、ゲーム『艦これ』における物語発生の実際について具
体的に分析を行った。ゲームの流れを確認した後、
『艦これ』の世界観を規定する歴史事実
という「大きな物語」の存在を指摘し、さらに個々の消費者が生み出し得る「小さな物語」
の発生過程を分析しつつ、それが拡散し得た要因としてゲームの外部にコミュニケーショ
ン空間が形成されたことを挙げた。
第 2 章では、
『艦これ』の「キャラクター」という側面に焦点を当てて分析を行った。ま
ず第 1 節では、
『艦これ』のキャラクター(「艦娘」
)の特徴である「兵器と美少女」という
組み合わせについてその系譜をたどり、
『艦これ』へと至る「兵器と美少女」の特徴として、
「兵器と身体の分離性」と「少女性」という二つを示した。第 2 節では、それら二つの特
徴が『艦これ』のキャラクターにも継承されていることを確認した後、それがプレイヤー
に、キャラクターに対する「兵器」と「少女」という二通りの認識をもたらすことを指摘
した。第 3 節では、新たに「キャラ」と「キャラクター」という概念を導入して、第 2 節
で指摘した二通りの認識は、「少女」が「キャラ」に、「兵器」が「キャラクター」にそれ
ぞれ対応していることを示し、その効果を考察した。第 4 節では、ゲーム内の「図鑑表示」
という項目について取り上げ、この「図鑑」という装置の性質を考察した後、この装置が
キャラクターイメージの拡散のために大きな効果をもたらしていることを指摘した。
以上のように、
『艦これ』には「物語」と「キャラクター」というそれぞれの側面におい
て、消費者に異なるメディア間を行き来させたり、二次創作を活発化させたりするための
要因が存在していることが明らかとなった。
26
テレビ CM における高齢者像
深谷 健汰
本研究では高齢化の問題をメディアの視点から考えるにあたって、我々の生活に深くか
かわっているテレビ CM を題材としてそこに描かれる高齢者について分析を行った。先行
研究ではテレビ CM における高齢者像が我々の高齢者認識などに影響を及ぼす可能性を指
摘しながら、具体的な高齢者像については明らかにされてこなかった。そのため本研究は
テレビ CM における具体的な高齢者像を明らかにし、テレビ CM に高齢者が登場する意味
について考察を行った。
第 1 章では、本研究の題材となった高齢者とテレビ CM の二つについて述べた。高齢者
の現状に関しては「高齢社会白書」からその現状について整理した。高齢者の現状は経済
的・身体的に不自由する者が少なく、社会活動にも積極的に参加する者が多かった。テレ
ビ CM の機能については、石田(2003)と鈴木(1992)の論から、商品やサービスなどの宣伝を
行う機能に加え、商品のイメージを創出し、それによって付加価値を生み出す機能が存在
することについて言及した。
第 2 章では CM 中の高齢者像についての先行研究を紹介し、その問題点と不足点を指摘
した。従来の研究では、CM 中の高齢者は現実を映しておらず、その非現実的な描写が高齢
者や彼らを取り巻く環境に影響を与えることが指摘されてきた。しかし、先行研究では、
高齢者の定義が曖昧で分析者の主観が入り込む可能性があるという問題点が見受けられた。
さらに、非現実的な高齢者描写が与える影響に触れていながら、その具体的描写について
は特に言及されていなかった。以上の点から本研究ではテレビ CM における具体的な高齢
者像と、CM 中に高齢者が登場する意味を明らかにすると方向づけた。
第 3 章では分析対象となる CM の概要を説明した。2015 年 9 月 3 日から 9 月 9 日までの
1 週間に新潟県の民放 4 局で放映された CM628 本を分析対象とした。対象から高齢者 CM
を抽出するために、CM 中の高齢者を定義づけた。その定義によって抽出された CM は 49
本で、この 49 本の CM を高齢者の役割によって四つの類型に分けた。
第 4 章では CM における高齢者の描かれ方について、第 3 章で提示した四つの類型ごと
に詳細な事例分析を行った。そして、テレビ CM における高齢者像には「ポジティブイメ
ージ」
「庇護される」
「他世代と融和する」「自立・自信を取り戻す」といったイメージが表
れていることを明らかにした。そして、こういったテレビ CM の高齢者は、決して現実を
映していないわけではないが、映しだされるのはポジティブなイメージの高齢者ばかりで
あると述べた。高齢者が抱える「醜い・依存・孤立」などのネガティブなイメージを隠ぺ
いしているという点が高齢者 CM の非現実的な部分であり、そこにはテレビ CM が持つ機
能が関係していると結論づけた。
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日韓ネットコミュニティとファッション消費
保坂 葵
ファッションに関する情報を得る際の情報源にはファッション雑誌やテレビ、インター
ネットなどのメディア媒体、また売り場のディスプレイや店員、家族や友人の影響などい
くつかの手段が挙げられる。なかでも近年ではインターネットの普及により、ファッショ
ン情報の収集においてもインターネットの利用が注目されている。本稿では世界でもイン
ターネット普及率の高い日本・韓国を対象とし、インターネットを介して得た情報がファ
ッション消費にどのような影響を及ぼすのかについて考察し、また、日韓におけるネット
コミュニティに対する認識の違いがそれぞれのファッション消費においても異なる影響を
与えるのかについて考察しようと試みた。
第 1 章ではファッション雑誌が日韓でのファッション消費に与える影響について、先行
研究をもとに検討した。そして、日本では雑誌が有力なファッション情報源とされている
のに対し韓国ではその影響力が小さく、韓国では雑誌のファッション情報源としての役割
をインターネットが代替しているという可能性を示した。
第 2 章では日韓のインターネットの利用状況について先行研究と資料を引用しながら確
認した。日本ではインターネット上での社会的ネットワークとリアルな日常生活でのネッ
トワークが切り離される傾向にあるが、韓国ではインターネット上と日常生活での社会的
ネットワークが重なり合い相互的に作用している。そしてこのようなネットコミュニティ
に対する認識の違いはインターネットを介したファッション消費においても影響を及ぼす
ものであるという仮説を立て、さらなる分析を行っていくこととした。
第 3 章では、日韓のインターネットショッピングにおけるファッション消費者の購買態
度形成についての安(2012)の研究に対し、反論を挙げながら日韓のインターネットとファッ
ション消費の関係について考察した。そして日韓の間でインターネットショッピングに対
する認識の違いが生まれるのには、インターネットへの信頼度などのネットコミュニティ
に対する認識の違いが影響していると指摘した。
これを証明するために、第 4 章では筆者が実施したアンケート調査結果の分析をもとに
考察を行った。その結果、日本人の回答者はインターネットを情報収集の場として利用し
実際の購入は実店舗へ出向いて行う傾向にあるのに対し、韓国人の回答者はインターネッ
トで情報を収集したのち実際の購入もインターネット上で行う傾向にあった。さらに両国
のファッション通販サイトの特徴に注目すると韓国では通販サイトも情報発信のツールと
なっており、リアルな世界と繋がったコミュニティとして認識されている。
以上のことから、日韓におけるネットコミュニティは、ネットとリアルを隔てるのか、
あるいは繋げるのかという認識の違いから、両国でのファッション消費においても異なる
影響を与えていると結論付けた。
28
ゲームにおける恋愛-乙女ゲームを中心に-
星野 美奈
乙女ゲームとは、女性向け恋愛ゲーム、そのなかでも主人公のキャラクターが女性であ
り、かつ攻略対象キャラクターが男性であるものを指す。本論文では恋愛を主題とする作
品をもつ媒体が数多くある中で、なぜ、プレイヤーはあえてゲームという媒体で恋愛を楽
しむのかについて、女性向けである乙女ゲームを中心に分析と考察を行った。
1 章ではカイヨワの『遊びと人間』
(1958)をもとに考察を行った。まず、カイヨワによ
る遊びの定義に照らし、恋愛そのものが十分に遊びとしての要素を持つことを述べた。そ
の後、カイヨワが提示したすべての遊びに通じる 4 つの要素、アゴン(競争)
・アレア(運)
・
ミミクリ(模擬)
・イリンクス(眩暈)を紹介し、乙女ゲームがどのような要素を持つのか
を考察した。その結果、乙女ゲームはミミクリ(模擬)の要素をもつと述べた。ミミクリ
は、ごっこ遊び、演劇鑑賞など自分ではない他者を装う形をとる、もしくはその様子を観
る遊びである。そして、乙女ゲームはその他の恋愛を主題とした各種虚構作品が共通して
持つ見物人として「観る」ことに加えて、模擬の当事者として「演じる」という両面を持
つと考察した。
「観る」という要素と「演じる」という要素でミミクリを両面から楽しめる
点がほかの媒体とは異なる乙女ゲームの特徴であると指摘した。
2 章では実際にどのように乙女ゲーム中でそれらの要素がプレイヤーに提供されている
のかを『Starry☆Sky』シリーズ(2009)と『うたの☆プリンスさまっ♪』シリーズ(2010)
を取り上げ、特に「演じる」ことに深くかかわる主人公というキャラクターに着目し、そ
の顔や表情が隠される表現、また、反対に隠されない表現に対しての考察を行った結果、
「観
る楽しみ」については相似点が、
「演じる楽しみ」については相違点が存在した。
「観る楽しみ」に関しては、両作品はともに、「観る楽しみ」に対する両者の姿勢は共
通するものが多くみられた。主人公による状況、人物、感情の説明、また、主人公視点で
描かれるスチルによって一時的に主人公と視線を同一化することによってもプレイヤーは
主人公やその他登場キャラクターに共感することを促され、感情移入へと導く。
しかし、
「演じる楽しみ」については「顔なし」主人公、夜久月子(『Starry☆Sky』主人
公)と「顔のある」の主人公、七海春歌(『うたの☆プリンスさまっ♪』主人公)とで大き
な差がみられた。夜久月子はスチルで顔が描かれないことによってその存在感が薄められ、
プレイヤーを主人公という役に入り込みやすくしていることに対して、七海春歌はスチル
上でも変わらず一人のキャラクターとして振る舞うことで、その存在感を強調し、プレイ
ヤーに「他者を演じる」楽しみをより強く与える、と考察した。
そして、最後に家庭用ゲーム機向けの乙女ゲームの主流が「顔のある」主人公であるこ
と、それに対してモバイル端末向けの乙女ゲームでは「顔なし」の主人公が多くみられる
ことについて、現在のゲーム市場の状況を踏まえながら考察を行った。家庭用ゲーム機で
乙女ゲームをプレイするプレイヤーは、より演じる楽しみを強く与える「顔のある」主人
公を好み、モバイル端末向けの乙女ゲームで「顔なし」主人公が多く用いられる理由とし
ては、モバイル端末向けの乙女ゲームでは、より手軽にプレイができる点から主人公とい
う役に入り込みやすい「顔なし」の主人公が好まれること、そして重要な収入源のひとつ
としてアバターというシステムがとられることが多いために、多様なプレイヤー像に対応
することができる「顔なし」主人公が用いられているのではないかと結論づけた。
29
Web 漫画における「漫画」の変化
柳田 沙弥
現在に至るまで、
「漫画」は幾度となく研究が重ねられてきた。従来の漫画研究は表現技
法から歴史、社会との関わりなど、様々な形で「漫画」へのアプローチを行ってきたが、
それらのほとんどは紙に描かれ、書籍の形をとって読まれる漫画を対象としていた。しか
し、電子書籍市場の拡大にともない、スマートフォンや iPad など、電子端末を用いて漫画
を読む行為も広がりを見せている。そうした状況の中で現れたのが、インターネット上で
無料で漫画を閲覧できる Web 漫画サイトである。本論文では、これまで研究されてこなか
った Web 漫画を取り上げ、その実態を明らかにすることを目的とした。
第 1 章では、漫画市場の観点から Web 漫画サイトの現状を整理した。2003 年に登場し
たケータイコミックによって電子コミック市場は爆発的に成長し、現在に至るまで漫画部
門は電子書籍市場を牽引し続けてきた。一方で、紙の漫画雑誌の売り上げは大きく衰退し、
2005 年には単行本の販売額が漫画誌の販売額を逆転した。こうした背景のもとで創刊され
た Web 漫画サイトは、無料で漫画を公開することで、紙の漫画雑誌でいうところの「立ち
読み」から単行本の売り上げに繋げる新たなビジネスモデルを作り上げたことを明らかに
した。また、Web 漫画サイトでは SNS が有効に活用され、作品の宣伝に役立っているほか、
読者からコメントを募って共に作品を作り上げる試みも見られることを述べた。
第 2 章では、Web 漫画の表現について、紙の漫画表現と比較しながら分析を行った。収
益が紙の単行本の売り上げにかかっていることもあり、企業が運営している Web 漫画サイ
トに掲載されている作品はいまだ紙の漫画の文法に従って描かれているものが多い。しか
し、簡易的なアニメーションやギミックを取り入れた FLASH 漫画や、スマートフォンで
の閲覧に最適化された「comico」の縦読み形式の漫画など、Web 漫画ならではの漫画表現
も確かに生まれていることを示し、それぞれの表現に見られる特色を分析した。
第 3 章では、Web 漫画における「アマチュア」の存在に着目し、その創作活動の変遷を
追った。無料 Web 漫画サイトが増加する以前から、Web 上ではアマチュア漫画家による活
動・交流が行われてきたが、大規模なイラストコミュニケーションサービスである「pixiv」
の登場や、
企業が運営する Web 漫画サイトの増加により、Web は単なる交流の場ではなく、
アマチュア漫画家のプロデビューの選択肢の一つとしての側面も見せ始めた。しかし、Web
漫画が商業的な側面を強く帯びることによって、従来のアマチュア作品に見られた自由で
粗削りな魅力が失われてしまう懸念があることも指摘した。
終章ではこれまでの分析を振り返り、Web 漫画は作品を閲覧する端末の違いだけでなく、
新たな漫画表現の登場や描き手の変化、作者と読者の関係の変化など、「漫画」を構成する
様々な要素に変化が起きていることを明らかにした。そして Web 漫画の世界はいまだ過渡
期であり、今現在も変化を続けている段階であることを述べ、本論文の締めとした。
30
角川ビーンズ文庫における女性と仕事―『彩雲国物語』を中心に―
吉岡 彩香
『彩雲国物語』とは雪乃紗衣による少女向けライトノベル作品である。角川書店の角川
ビーンズ文庫レーベルにおいて刊行されたこの作品は、主人公の紅秀麗が恋愛よりも仕事
を優先し、彼女の出世が描かれるという点で、恋愛中心とされてきた少女向けライトノベ
ルにおいて画期的なものであった。本稿では、角川ビーンズ文庫における仕事と女性の関
係性に注目し、
『彩雲国物語』が提示した働く女性像について考察した。
第 1 章では、少女向けライトノベルが流れを受け継いでいる少女小説の歴史を追った。
そこでは吉屋信子や氷室冴子といった名立たる作家たちが、より身近な女性像を少女小説
の中に描き出していた。また、角川ビーンズ文庫が創刊されてから『彩雲国物語』が登場
するまでの角川ビーンズ文庫の変遷についても分析した。角川ティーンズルビー文庫の影
響を受けていた角川ビーンズ文庫は、第 1 回角川ビーンズ小説大賞の作品を指針としてレ
ーベルの作風を確立してきた。
『彩雲国物語』は、その第 1 回で受賞し、主人公の女性が働
くという作風の根底になったということにも言及した。
第 2 章では、
『彩雲国物語』の紅秀麗と、作者である雪乃について注目した。雪乃は吉屋
や氷室が描いてきた、女性であることに誇りを持った女性像を引き継ぎながらも、秀麗の
官吏という仕事を通して二人の精神を統合させ、新たな形で女性という性別を肯定してい
るということを明らかにした。しかし、一方で雪乃は秀麗の死を描くことによって秀麗の
名を妻ではなく官吏として残した。これは主人公の女性が結婚して終わるという少女向け
ライトノベルの典型からの逸脱であるということについても指摘した。
第 3 章では、
『彩雲国物語』以後の角川ビーンズ文庫における作品を分析し、雪乃が提示
した働く女性像が受け継がれていることを明らかにした。さらに、なぜ逆境の中で女性が
働いて出世するという物語構造が継承され続けているのかを分析し、そこには現代社会に
おいて依然抑圧されている女性読者の自己肯定の欲望や、複数の男性に愛されたいという
恋愛欲求、あるいは性的欲望が関係していると述べた。また、角川ビーンズ文庫というレ
ーベルが「少女」を無垢な存在として扱い、女性の幸せを結婚と位置付けることで、それ
らの観念を読者に植えつけているということを指摘した。しかし、『彩雲国物語』の登場に
よって、レーベルにとっての女性の幸せは仕事と結婚の両立にまで広がったと考察した。
第 4 章では、
『彩雲国物語』と同じ角川書店の少年向けライトノベルレーベルである角川
スニーカー文庫に描かれる女性の立場や仕事の扱われ方について言及した。角川スニーカ
ー文庫において、女性は男性を立て、時には男性読者の性的な欲望を解消させるための存
在として描かれている。また、角川ビーンズ文庫において仕事が夢や理想として扱われる
一方で、角川スニーカー文庫において仕事は逃避すべき対象とされていると考察した。
以上の分析から、
『彩雲国物語』は少女向けライトノベルにおいて、女性の生き方に仕事
という新たな選択肢を提示した革新的な作品であったとして本論文のまとめとした。
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「男の娘」現象に見るキャラクター表象分析
渡辺 志帆
テレビ東京系で放送されるアニメ『プリパラ』(2014-)に登場するメインキャラクターで
あるレオナ・ウェストは、登場から少女のような容姿で描かれながらも、その性別は男性
であることが後から発表された。レオナのような性別があいまいな少年キャラクターは、
ネット上で生まれた言葉を用いて「男の娘」と表現されることがあるが、その明確な定義
は成されていない。アニメ作品に焦点を絞り、アニメでレオナの性別が明らかになる以前
にインターネット上で見られたレオナの性別予測論争に見られるアニメ視聴者の視点をも
とに、アニメにおけるキャラクターの性別を示す表現の差に注目したうえで、アニメ作品
における「男の娘」表象の在り方について、その定義を明らかにしようと試みた。
1 章では、日本における「男の娘」的なものの歴史、そして「男の娘」という言葉が誕生
し、それをメインテーマとした作品が作られるようになるまでの受容の変遷についておお
まかに触れ、日本国内で「男の娘」というキャラクター像を受容する土台が確立された流
れを確認した。
2 章では「男の娘」として登場するキャラクター3 人を挙げ、同作品内の女性キャラクタ
ーとの表象の違いについて、視聴者の視点をもとに比較分析を行い、
「男の娘」キャラクタ
ーと女性キャラクターとの差異から得られる「男の娘」キャラクターの定義を示した。こ
れにより、
「男の娘」キャラクターは同作品内の女性キャラクターの描かれ方と似た描かれ
方をされるが、顔のパーツや体のラインなどは意図的に女性キャラクターと異なる描かれ
方がされており、主に視聴者がキャラクターの性別を読み取る際に注目する部分から、女
性キャラクターでないことが読み取れる仕様になっていることを示した。
3 章では、
「男の娘」キャラクターと同じく性別が曖昧な「おかま」キャラクター3 人と
の比較分析から、
「男の娘」キャラクター独特の表象を見つけ出し、2 章で定義した「男の
娘」の定義をさらに詳細に示した。どちらも性別があいまいなキャラクターとして描かれ
るが、キャラクターの容姿、振る舞いの描かれ方や、アニメの中での立ち位置が異なり、
「男
の娘」キャラクターは「おかま」キャラクターとも異なるキャラクターとして表現されて
いることを示した。
「男の娘」キャラクターの表象は現在、男性キャラクターとも女性キャラクターとも、
そして「おかま」キャラクターとも異なるものとして確立されているといえる。アニメ作
品における「男の娘」キャラクターを始めとする性別のあいまいなキャラクターの表象は、
視聴者にとってより身近に、現実に存在するかのようなキャラクターとなるように変化を
続けており、現在ではキャラクター個人の歴史や心理描写などがアニメの中で描かれる作
品も見られる。
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戦後日本の洋装化
我妻 拓朗
本論文では、戦後間もない 1950 年までの日本の洋装化に目を向け、戦争がその後の日本
のファッションに与えた影響を探り、「流行を否定した流行、モードを否定したモード」と
井上が述べたことが、その先の時代で実際にどのように現れているのかを明らかにした。
第一章では、戦前から戦時中の日本人の装いについて述べた。戦前においては、明治初
頭に洋服が日本に入ってきてから、軍人や政府の人間など、外国人に触れる機会のある者
や、学校や職場の制服として洋服が導入された者は庶民よりいち早く洋服を纏ったが、人々
の生活の中で、普段着として洋服は一般化していなかった。だが、戦争が始まると、総動
員体制により、男性は国民服、女性はもんぺを着用することとなる。これらは着ることを
強いられた洋服として、その後の洋装化の土台となる生活様式を作っていった。
第二章では、戦後の洋裁ブームと更生服について述べた。戦後の日本では、アメリカ軍
の進駐によってアメリカ式の生活文化に直に触れる機会が増えた。さらに戦争が終わって
もなお、復興の中で活動的な服装がもとめられていたこともあり、和装から洋装への本格
的な移行が始まっていった。そんな中、物資の不足から、洋裁を学び自宅の和服を仕立て
直して洋服にする更生服が流行し、そのため洋裁学校も大人気となっていった。更生服は、
雑誌『装苑』を見ても分かるように、当時はアメリカのファッションが手本とされ、人々
はこぞってその真似をしていた。
第三章では、
『装苑』をもとに、戦後当時アメリカのファッションを人々が真似していた
ことを具体的な記事やコラムを紹介しつつ示した。また、当時流行していた「ニュールッ
ク」を取り上げ、日本においてもアメリカ経由で洋装化が急速に進んでいったことを明ら
かにした。また、アメリカの真似をしていた中でも、アメリカではあまり履かれていなか
ったズボンが、もんぺの影響もあり女性たちのなかで定着していったことに触れ、日本独
自の洋服のスタイルも生まれていたことを述べた。
戦時中の国民服ともんぺは、普段着としての洋服を浸透させた重要な要因であり、戦前
の洋装化の停滞具合、そして、戦後の洋装の広がりを調べてきたことで、日本の洋装化は
戦後ようやく始まったと言えると結論づけた。
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アクション映画における主人公像の変遷
―『ダイ・ハード』シリーズを中心に―
ケネス・アラン・ケラー
ハリウッドにおけるアクション映画は 1970 年代から流行し、現在でも高い人気を誇って
いる。その理由のひとつとして、観客にとって魅力的な主人公が存在することが挙げられ
る。アクション映画の主人公といえば、『ランボー』(1982)や『ターミネーター2』(1991)
のような、攻撃されても倒れないありえない力を持つ主人公が想像されるだろう。しかし
こうしたアクション英雄だけでなく、能力や体力がごく普通の人間に過ぎない主人公像も
またアクション映画には存在する。本論では、そのような英雄像を「一般人英雄」と定義
する。
1989 年から始まる『ダイ・ハード』シリーズの主人公ジョン・マックレーンは、「一般
人英雄」の原点であり、もっとも有名な例である。本論では、「一般人英雄」としてのマ
ックレーンの特徴を確認したあとで、マックレーンもまた他の映画シリーズの主人公と同
じように、シリーズとして継続されるなかで、当初のイメージが変化し、アクション英雄
としての側面を持つに至った背景と理由を考察する。
第1章では、「一般人」の原点を確認し、「一般人英雄」のキャラクターの具体的な例
を取り上げ、他のキャラクターとの比較対照を行った。第1章第2節では、「一般人英雄」
にとって不可欠な「偶然性」、「脆弱性」、「日常性」と「自意識」という4つの要素を
定義した。その際に、各要素が現れる映画の場面を取り上げて、分析した。なお、ハリウ
ッド映画を対象とするため、本論で述べる「日常性」は、アメリカ社会の日常に基づいて
いる。
第2章ではまず『ダイ・ハード』シリーズのプロットとキャラクターの変遷の考察を行
った。映画の背景とプロットは第1作から第5作まで、その規模を拡大させていったこと
を確認したうえで、第1章において明らかにした「一般人英雄」を成立させる四つの要素
を中心に、シリーズが継続するなかで、主人公がどのように変わったのかを明らかにした。
特に『ダイ・ハード 3』(1995)と『ダイ・ハード 4.0』(2007)に注目し、その間に起こ
ったキャラクターのイメージ成立と復帰の影響を集中的に論じた。
第3章では映画の主人公を演じる俳優の影響力を考察した。ブルース・ウィリスがハリ
ウッドのスターになり、俳優の個性が映画のキャラクターにも投影されることを確認した。
加えて長年に渡るシリーズの場合、主人公は俳優の加齢にも影響を受けることになる。こ
の章では、俳優とキャラクターの関係に注目し、ブルース・ウィリスが演じたキャラクタ
ーの共通点を明らかにしたうえで、最近演じた主人公と以前の主人公を対照した。
第4章には「一般人英雄」の要素は最近のアクション映画にどのように表現されている
か考察した。一般的に、最近のアクション映画の主人公は『ダイ・ハード』シリーズの影
響を受けてはいるものの、『96時間』(2009)における主人公が特殊訓練の経験を持っ
ているように、主人公の「日常性」、特に日常的な訓練という要素が減少し、「脆弱性」
の要素も弱まるという傾向を確認した。それについて、2001 年に起きた同時多発テロ事件
が、ハリウッド映画のキャラクターの変化に影響していることを指摘した。
以上の考察より、『ダイ・ハード』の主人公像の変遷は、キャラクターのアクション英
雄としてのイメージの成立や、ブルース・ウィリスの経歴と加齢、さらには同時代の現実
に非常に影響された。したがって、アクション映画の主人公像は、映画の物語だけではな
く、当時時代背景や映画業界の事件に非常に影響されるという結論に至った。
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現代日本の「オタク」受容
長南 美冴
「オタク」という呼称は現在、主にアニメや漫画、ゲームなどのサブカルチャーを愛好
する人々のことを指して使われている。オタクに対しては従来「気持ち悪い」「暗い」とい
うネガティブなイメージが強かったが、近年では気軽にオタクを自称する若者も増えてお
り、かつてのようなイメージは支配的ではなくなっている。また、オタクの定義自体も曖
昧になっている。本論文は、社会がどうオタクを受け入れるかがオタクのあり方を決定づ
けるという立場を取り、オタクに対するイメージの変化について、その経緯と背景を考察
したものである。
第 1 章ではオタクという語の発祥に注目して、1983 年の中森明夫による記事中での「お
たく」の描写とその背景を考察し、初期のオタクはマニアという大集団から切り離された
存在であったことを示した。加えて、以降の考察の前提として、サブカルチャーに熱中・
精通していることと非社交的であることの二つをオタクの特徴として暫定的に定義した。
第 2 章では朝日新聞データベースを利用し、オタクに関する報道の分析を行った。マス
メディアによる報道には大別して、1989 年の幼女殺人事件をきっかけに生まれた、オタク
を人格的に問題のある犯罪者予備軍として扱う見方と、バブル崩壊以降の消費形態の変化
によって生まれた、オタクを有力な消費者として扱う見方の二つがあることを示した。
第 3 章では相田美穂の先行研究からオタクに関する主要な言説を概観し、さらに大塚英
志の物語消費論と東浩紀のデータベース消費論との比較を行うことで、論者の示したオタ
クについての論点がその論者のオタクの定義にも密接に関わっていることを再確認した。
第 4 章では、オタクに関する報道には、オタクを「理解しがたいもの」として異物化し
犯罪者としての枠に収めるステレオタイプや、オタクを好奇の視線でとらえ、趣味に没入
するマニア的側面を強調したステレオタイプがあることを述べた。そして、これらを場面
によって使い分ける報道側の恣意性が、オタクに対するイメージの偏りに大きな影響を与
えていたことを明らかにした。
第 5 章では、
『電車男』の流行やメディアの発展によるオタク文化の一般化が「オタクで
ある」ということの特殊性を弱め、さらに女性オタクの発見がオタクに対するイメージの
多様化を促したことで、もはやオタクは画一的なイメージでとらえられる集団ではなくな
った現状について論じた。加えて、現在ではマニア的側面よりも、オタク文化に親しんで
いることが、オタクの定義として重要視されることを述べた。
第 6 章では、支配的な唯一の価値観というものがなくなり、多様な無数の価値観が同等
に扱われるようになった現代のポストモダン的な社会事情がオタクの一般化にも関連して
いることを指摘した。そして、社会のオタクに対するとらえ方が多様になっている現代で
は、オタクとは個人によって異なる定義をされるものであり、他から名付けられるもので
はなく自称していくものになっていると結論付けた。
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食品広告論―記号的分析による―
古川 千晶
本論文では、近年、家庭料理を作る男性が広告によく現れるようになった現象を受け、
広告の中に強調的に描かれる女性像と男性像、その中でも、料理を作る男女が広告の中で
どのように描かれているか、
食品のテレビ CM を記号的に分析することを通して検証した。
第 1 章では 2015 年のコンソメと丸鶏がらスープのテレビ CM を用いて、実際に現代のテ
レビ CM で本格的ではない、日常の家庭料理を作る男性像が描かれていることを明らかに
した。また、それらのテレビ CM を含む、2005 年と 2015 年の調味料のテレビ CM の出演
者と、テレビ CM 内で出される料理を作った人物が男性であるか女性であるかを調べ、2005
年に比べて 2015 年では男性が商品を用いて料理を作っているテレビ CM の割合が増えてい
ることを明らかにした。このようなテレビ CM が作られるようになったのは、実際に家庭
的な料理を作る男性が増加したからであると考え、その現象が広告に現れてきていると指
摘した。
第 2 章においては、ハーゲンダッツ、Blendy、ほんだしの 3 つのテレビ CM を 2005 年
から 2015 年までの間で、見られるものを出来るだけ利用して分析を行った。それぞれの商
品は、
「高級感」
「落ち着く」
「自然的」という印象を広告によって与えられていた。その印
象は広告によって出演者に与えられる「性的対象としての女性」
「家庭的な女性または男性」
というイメージによって補強されており、商品と出演者は、それぞれが記号表現としても
つ記号内容を相互的に補い、
共有しているのではないかと考えた。
ハーゲンダッツと Blendy
のテレビ CM と 2009 年までのほんだしのテレビ CM においては、女性がそれぞれ商品の
イメージに合わせて性的対象や家庭的象徴としての女性性を強調されて描かれていること
を明らかにした。その一方で、2011 年以降のほんだしのテレビ CM に出演する男性もまた、
「家庭的な」料理を作る男性として描かれていたことから、料理を作る男性が、女性から
魅力的であると取り上げられるようになったのは 2009 年以降であり、社会の流行に合わせ
て「家庭的な」料理を作る男性像が強調されて広告の中に描かれるようになったのではな
いかと推察した。
終わりに、ハーゲンダッツとほんだしのテレビ CM においては、2009 年から 2011 年の
間に出演者が欧米人から日本人へ、女性から男性へとそれぞれ大きく変化した原因は 2008
年に起きたリーマン・ショックによると考えた。その結果、ハーゲンダッツのテレビ CM
は、手の届く範囲の高級感を保ちながらも、商品に親しみを持たせるために日本人女性を
起用したと考えた。リーマン・ショックを契機に始まった不況と、2009 年に流行語大賞に
選ばれた「草食系男子」
、またそれに続いて流行した「料理男子」「イクメン」といった家
庭的な男性の増加には関係性があるのではないか、と言われており、ほんだしのテレビ CM
においては、その「家庭的な男性」が 2011 年のテレビ CM から登場していることから、そ
のような社会的流行を取り入れて広告が作られているではないかと述べた。
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澤井信一郎論
佐々木郁哉
澤井信一郎(1938-)は、松田聖子を主演に迎えた『野菊の墓』(1981)でデビューし、現
在までに 13 作品の映画を監督した日本の映画監督である。澤井は、大学を卒業した 1961
年に東映に入社し、それから 60 年代から 70 年代に渡る、衰退していく日本映画界の映画
製作の現場において 20 年間、様々な映画監督のもとに付き助監督として映画修行に励んだ
経歴を持っている。監督昇進後に作り上げたデビュー作『野菊の墓』は、その新人らしか
らぬ確かな演出や「古典的」な手法が評論家から認められ、澤井は日本映画の伝統を正統
に受け継ぐ監督として位置づけられることとなった。
しかし、
「古典的」な手法で認められた澤井が二作目の『W の悲劇』
(1984)以降に生み
出した作品、とりわけ、当時のアイドル歌手や若手俳優を主演に用いた 80 年代の澤井の「ア
イドル映画」では、題材と映画技法のどちらにおいても「古典的」なあり様からは逸脱す
るように――あるいは「古典的」なものと「現代的」なもの、澤井独自の「作家性」なる
ものが共存するように――演出され、それらの作品がスクリーンに映し出される度に観客
は驚かされることとなった。本論文では、てそうした背景に着目し、
「古典的」なものから
変化していった 80 年代の澤井の映画を対象に取り上げ、澤井の作家性に迫った。
第1章では、澤井の古典的な映画作りの姿勢を、澤井が監督となるまでの経歴とデビュ
ー作『野菊の墓』から明らかにした。人材育成の役割を担っていた撮影所システムで多く
の監督から映画作法を学ぶことのできた澤井は、撮影所経験のない自主映画出身の監督が
多く出現した 80 年代において貴重な作家であったことを述べた。『野菊の墓』の分析では
原作通り純愛メロドラマが展開され、古典的なモンタージュやショットが見られることを
指摘し、最後に、80 年代に昔の日本映画のような作品を撮りあげてしまう澤井の反時代性
を蓮實重彦の批評を参照して指摘した。
第2章では、薬師丸ひろ子が主演した2作目『W の悲劇』(1984)を中心に取り上げ考察
した。
『W の悲劇』の劇中劇の構造や女優を目指す演劇研究生という役柄が薬師丸のために
用意されたものであったことを明らかにし、1章で言及した澤井の古典性や反時代性から
逸脱するように、澤井が映画を通して自立していく現代的な新しいヒロイン像を作り上げ
ていったことを述べた。
澤井はそのデビュー作において題材・手法の両方で古典的な映画を撮ったが、そもそも
日本映画の伝統を的確に再現して見せ、また、アイドルに丁寧な芝居をつけることができ
る力量は 80 年代の日本映画界において特異であると考えた。そして、原作を脚色し、同時
代の新たな人物像や物語を創出する姿勢や独自に長回しの手法を生み出していったことか
らは、古典的な伝統を身につけながらもそれに自足せず、新たな映画を追求する澤井の作
家性を認めることができる。
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