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やさしく学ぶ YOGA 哲学
バガヴァッドギーター
¸ÉҨɑùMɴɎùÒiÉÉ
向井田 みお
はじめの「マントラ(聖句)
」
$ ºÉ ½þ xÉÉ´É´ÉiÉÖ * ºÉ ½þ xÉÉè ¦ÉÖxÉHÖò *
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Om オーム
サハナーヴァヴァトゥ
サハナウ ブナクトゥ
サハヴィルヤン カラヴァーヴァハイ
テージャスヴィナーヴァディタマストゥ
マーヴィドゥッヴィ シャーヴァハイー
彼が、どうか私たちを守りますように。
私たちを、養ってくださいますように。
私たちが 1 つになって、真実を理解する力を得ますように。
学んだことが、輝きとなりますように。
私たちの理解が、離れ離れになりませんように。
Om オーム
シャーンティ 自分の心と体の平和と
シャーンティ 友達や家族、周りの人の幸せと
シャーンティ 全体世界が平安でありますように。
扉・登場人物イラスト:久保 玲子
はじめに ― この『バガヴァッドギーター』の本について
こり変わる物事をどうとらえるべきかについて語りました。生きているすべて
のものに共通する苦悩のメカニズムと、それを打開する方法としての教えを説
『バガヴァッドギーター』はヨーガが発達したインドで、現代でも多くの人が
生き方の支えにしている最も有名な経典の 1 つです。700 という詩の中に、あ
らゆる教えの基盤となる膨大な『ヴェーダ(聖典)』のエッセンスが組み込まれ、
『バガヴァッドギーター』を読むだけでこの世で知るべきすべての知識を学ん
だと同じことになるといわれています。
インドには世界に知られた 2 大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤーナ』
があります。『マハーバーラタ』は、実際にあった戦争をモチーフにしている世
界最古の歴史物語といわれています。
また『マハーバーラタ』は 10 万詩を超える詩篇で綴られた世界最長の物語
ともいわれています。
『バガヴァッドギーター』は、この壮大な戦記『マハーバーラタ』全 18 巻の
第 6 巻目にあります。
『バガヴァッドギーター』自体は 700 詩という短い詩篇で構成されています
が、その中には『マハーバーラタ』の作者である聖者ヴャーサが最も伝えたかっ
たことが、エッセンスとしてまとめられています。
これからまさに戦いが行われるという戦場で、戦士アルジュナが戦うことの
無意味さを悟り、落胆するシーンから『バガヴァッドギーター』は始まります。
人々の中の “ 調和と秩序 ” を守るための戦いであるはずなのに、戦う相手はみな
その調和を分かち合うべき人々だったということを戦士アルジュナは知りまし
た。
戦うことを使命にして生きてきた戦士アルジュナに、彼の生き方を支えてき
た価値観を突き崩すような “ 崩壊 ” が訪れた瞬間でした。この戦いに悲惨な結末
を思い、ひどく悲しみ、落ち込んだ戦士アルジュナが、尊敬する友であり師で
あるクリシュナに、苦悩をとりのぞく術を聞きました。ここから師クリシュナ
による教えが始まります。
クリシュナは、戦士アルジュナに「悲しむな!」とはいいませんでした。
彼は、「君に悲しむ理由はない」といったのです。そして、それはなぜか、起
きました。
そこで語られ、扱われるテーマは 2 つあります。
1 つは、「ブラフマ・ヴィッディヤー(真実の知識)」です。
世界の誰もが持つ疑問、
「悲しみ苦しむ自分とは、何者なのか?
悲しみを与えるように見える世界とは一体何なのか?
そして自分と世界の関わりとは真実とは?」。
この普遍的な人間の疑問に『バガヴァッドギーター』は、真実の知識をもっ
て答えます。
自分自身と世界の真実を見極め、悲しみや苦悩を取りのぞく知識が、「ブラフ
マ・ヴィッディヤー(ブラフマンの知識)」です。
そして、もう 1 つのテーマは、
「その知識を理解するためにはどうすればいいのか?」。
聞いて実践したいのは、知識を得るための方法です。
その手段と方法を「ヨーガ」といいます。『バガヴァッドギーター』は知識を
理解するための方法としての「ヨーガ」、つまり生き方としての「ヨーガ」につ
いて記します。
「ヨーガ」について書かれた経典という意味で、
『バガヴァッドギー
ター』は、『ヨーガ・シャーストラ(ヨーガの経典)』とも呼ばれます。
「生きている自分の本質と、その自分を取り巻く世界の本質とは何か?」
それは 1 つの真実「ブラフマン(普遍な存在)」である、と『バガヴァッドギー
ター』はいいます。
“ 個人と全体 ”。この 2 つを本質的に分かつものはなく、すべてが 1 つの “ 存在 ”
を基に、“ 在る ” ということ。
このことを理解したとき、人は自分から離れているものは何もないという事
実を知り、疎外感から覚える恐れや不安を手放すことができます。この不安と
恐れと、恐れから守られたいという欲求、不安から安全になりたいという願望
から自由になることが、本当の自由であると『バガヴァッドギーター』は語り
ドを中心に世界中で「ヴェーダーンタ哲学」
(不二一元論)を教えているスワミ・
ます。求めることがない心で、世界と自分を受け入れることができること。
ダヤナンダ・サラスワティ先生の解釈にしたがっています。
悲しみや苦しみという縛りから解放され、世界のどこにいても、どんな時代
にも満ち足りること。
それが本当に人が求める安心であり、自由です。その「自由への知恵」と「知
『バガヴァッドギーター』原典のサンスクリット語詩編と、スワミ・ダヤナン
ダ・サラスワティ先生の 360 時間の講義および 2000 ページ以上からなる解説
本が、本書の元となっています。
恵を得るための方法」を『バガヴァッドギーター』は教えます。
経典の真意を歪めずに読み取ることで、人は全体世界とのつながりを深める
『バガヴァッドギーター』は、短い詩篇の中で人間と世界の真実という深遠な
テーマを説きます。
けれどもその言葉を、後世の人々は自分勝手に解釈しはじめました。同じ言
葉を独自の読み方で解釈し、本当に知るべきポイントが得られずに、心迷う人々
が多くいました。
『バガヴァッドギーター』の言葉を読み間違い、真実を見間違えた無数の解釈
が世の中に出回り、人々はさらなる混乱に陥りました。現在でも自分独自の解
釈で『バガヴァッドギーター』を解説し、何が真実かわからないまま、自分と
他人を混乱させてしまっているようなことがたくさんあります。人は、自分の
理解の範疇を超えたものを理解することができないからです。
しかし、その人の限界を超えた真実を理解させる存在が “ 先生 ” です。
『バガヴァッドギーター』が書かれた言葉では、人の無知・混乱という “ 暗闇 ”
のことを「グ」といいます。それを追い払い、“ 取りのぞく ” ことを「ル」とい
います。つまり “ 無知を取りのぞく ” こと、先生としての役割を果たす人を、イ
ンドでは「グル(先生)」と呼びます。
8 世紀のインドに、人々の「グル(先生)」としてシャンカラチャリヤが現れ
ました。
「ヨーガの神シヴァ」の化身ともいわれている彼は、
『バガヴァッドギー
ター』について解釈をしました。それがギーターの正式な解釈『シャンカラ
バーシャ』です。「イーシュヴァラ(全体世界)」が本当に意図した『バガヴァッ
ドギーター』のメッセージを、正しく人々に伝えるための解釈といわれます。
本書は、シャンカラが書いた『シャンカラバーシャ』を元に、40 年以上イン
ことができるといいます。
自分自身を理解し、受けいれることで、人は自分自身と世界に心からリラッ
クスできるようになるといいます。
すべての人がまさに今この瞬間も、変ることがない “ 存在 ” であり、すべてに
満ちる “ 意識 ” であり、完全に “ 自由 ” であることに気づかせる知識。
それを教えるのが『バガヴァッドギーター』の主題です。真実の知識と、そ
れに目覚めるための生き方が “ ヨーガ ” です。
Om Tat Sat
目次
イントロダクション------------------------------------------------------------------------- 10
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』の登場人物---------------- 12
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』のお話---------------------- 16
『バガヴァッドギーター』のテーマ---------------------------------------------------- 20
『バガヴァッドギーター』で説明される人の生き方----------------------------- 22
「ダルマ(調和)
」と「カルマ(行い)
」について-------------------------------- 24
『バガヴァッドギーター』で説かれる人のゴール-------------------------------- 26
「イーシュヴァラ(全体世界)
」その本質と世界について--------------------- 28
『バガヴァッドギーター』全 18 章の構成------------------------------------------- 30
第 13 章 「クシェートラ(土地)」と「クシェートラニャ(土地を知るもの)」
の知識についての章---------------------------------------------------------- 217
第 14 章
3 つの「グナ(質)」の違いについての章---------------------------- 235
第 15 章
完全な個人の本質「プルシャ(本質・実存)」
についての章-------------------------------------------------------------------- 247
第 16 章 「モークシャ(自由)」を求める性質と
「サムサーラ(束縛)」に結びつく性質についての章------------- 259
第 17 章
3 つの「シュラッダー(性質)」についての章--------------------- 269
第 18 章
行いの束縛を手放すことで
「モークシャ(自由)」に至ることについての章------------------- 279
『バガヴァッドギーター』の重要キーワード--------------------------------------- 31
『バガヴァッドギーター』の教えの内容--------------------------------------------- 33
おわりに----------------------------------------------------------------------------------------305
参考文献----------------------------------------------------------------------------------------306
バガヴァッドギーター
第 1 章
アルジュナの苦悩についての章-------------------------------------------- 35
第 2 章
自分自身の知識「サーンキャ」についての章------------------------ 45
第 3 章
「カルマ(行い)」についての章-------------------------------------------- 69
第 4 章
知識による行いの放棄についての章------------------------------------- 89
第 5 章
行いを放棄することについての章--------------------------------------- 109
第 6 章
瞑想についての章-------------------------------------------------------------- 121
第 7 章
「イーシュヴァラ(全体世界)」に関する間接の知識と、
直接の知識についての章---------------------------------------------------- 137
第 8 章
不滅の「ブラフマン(普遍な存在)」についての章-------------- 151
第 9 章
知識における最高の知識、
秘密における最大の秘密についての章-------------------------------- 163
第 10 章 「バガヴァーン(全知全能者)」の輝きについての章------------- 179
第 11 章
イーシュヴァラの姿「ヴィシュヴァルーパ(宇宙相)
」を
見ることについての章------------------------------------------------------- 191
第 12 章
イーシュヴァラへの「バクティ(献身)
」についての章-------- 207
イントロダクション
イントロダクション
イントロダクション
【バガヴァッドギーターのエッセンス】
「Tat Tvan Asi(タット トヴァン アシ)」= You are That.
『バガヴァッドギーター』は 5 つめの『ヴェーダ(聖典)
』と呼ばれていると
おり、最も重要なヨーガの経典です。ギーターは日々のストレスや争い、問題
の中で、人が生きる意味と指針を教えます。
物語のシーンは戦場です。文字通りの意味では、『バガヴァッドギーター』は
“ 神の歌 ” と訳されます。
「バガヴァッド」とは「バガ」という 6 つの究極の質を持つ者。あらゆる知識・
公平さ・力・名声・富・強さ、つまり全体世界そのものを示しています。
この世界の森羅万象を掌る者を「イーシュヴァラ(全体世界)
」
、もしくは「バ
ガヴァーン(全知全能者)」といいます。この言葉が日本語では “ 神 ” と訳され
ることもあります。
そして「ギーター」とは “ 歌 ” を意味します。『バガヴァッドギーター』は、
“神
が語った歌 ” とも “ 神について語った歌 ” とも解釈されます。
全 18 章、700 の詩は全体世界の化身であるクリシュナと、優秀な戦士であ
るアルジュナの対話形式で綴られます。
作者は『マハーバーラタ』の著者であるヴャーサ(Veda Vyasa、
聖者ヴャーサ)
で、紀元前 8 世紀―4 世紀頃に書かれたといわれています。
18 章通じてのテーマは「自分自身の本質とは何か?世界の本質とは何か?」
あなたこそがこの世界の真実です。
【ギーターの 3 つのセクション】
①1~6章
自分自身(あなた自身)の真実について「Tvan(トヴァン)」=あなた、you
②7~12章
世界の真実について「Tat(タット)」=あれ、That
③13~18章
自分自身と世界の真実が全く同じであること「Asi(アシ)」=です。Are
『バガヴァッドギーター』は様々な人生を歩み、異なる時間と場所にそれぞれ
生きる人々に求められる知恵です。この世界で知性を持ち生きつづける人々が
必ず直面する人類普遍のテーマを扱っています。
自分自身の真実を知ること、世界の真実を知ること、自分と世界のつながり
を知ること。
真実を正しく知ることによって、人間特有の問題、苦しみや悲しみを手放す
こと。
あらゆる限界から解き放たれ自由になること。知識によって私たちは、本当
の意味で自由を知る、と『バガヴァッドギーター』はいい、私たちに真実を教
えます。
です。一見分かれているように見える個と全体は、本質からみれば全く同じ 1
つの真実である、と結論付けられています。これが『ヴェーダ(聖典)
』のエッ
センスでもある「Tat Tvan Asi(タット トヴァン アシ)
」
、“You are That. あなた
が全体であり、真実である ” です。
10
11
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』の登場人物
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』の登場人物
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』の登場人物
聖者ヴャーサ
『マハーバーラタ』
登場人物
『マハーバーラタ』『バガヴァッドギーター』の作者。
従者サンジャヤ 『バガヴァッドギーター』のナレーター。盲目王ドゥリタラー
シュトラに戦場の出来事を伝える千里眼の吟誦者。
クリシュナ
「グル(先生)」として、戦場でアルジュナに教えを説く。
「イーシュヴァラ(全体世界)」の化身。別名「ヴィシュヌ
(維持者)」「バガヴァーン(全知全能者)」。
月の家系 クル族の子孫たち
盲目王 100 人の息子たちの軍
蒼白王パンドゥの息子たちの軍
(ダールタラシュタラ軍)
盲目王ドゥリタラーシュトラの息子
たち。『カウラヴァ 100 人兄弟』とも
(パーンダヴァ軍)
蒼白王パンドゥの 5 人の息子たち。
『パーンダヴァ 5 兄弟』
称される。
盲目王ドゥリタラーシュトラ
蒼白王パンドゥ
蒼白王パンドゥの兄。
盲目王ドゥリタラーシュトラの弟。
カウラヴァ 100 人兄弟の父。
パーンダヴァ 5 兄弟の父。
長男ドゥルヨーダナ
母クンティー
100 人兄弟の長男であり、
蒼白王パンドゥの妻であり、
軍のリーダー
パーンダヴァ 5 兄弟の母
弓の師ドローナ
カウラヴァ 100 人兄弟と
長男ユディシティラ
パーンダヴァの長男
パーンダヴァ 5 兄弟の弓の先生。
次男ビーマ
大爺ビーシュマ
肉体的な強さの象徴
盲目王ドゥリタラーシュトラの息
子たち『カウラヴァ 100 人兄弟』と、
蒼白王パーンダヴァの息子たち
三男アルジュナ
最強の弓使い。
『パーンダヴァ 5 兄弟』の祖父。
四男・五男サハデーヴァとナクラ
双子の兄弟
12
13
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』の登場人物
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』の登場人物
馬車・4 頭の馬・クリシュナとアルジュナの象徴
バガヴァッドギーター 登場人物相関図
4 頭の馬は、耳・目・鼻・舌という 4 つの感覚器官。馬を含む馬車全体は触感であり、
馬車全体が五感と肉体の象徴。
月の系統 クル王族
クル王
4 頭の馬を繋げる手綱は、揺れ動く「マナス(心)」。
ガンジス川の女神
2 番目の妻サッティヤバティ
シャンタヌ王
聖者パラーシャラ
手綱をひく御者クリシュナは「ブッディ(知性)」。
大爺ビーシュマ
後ろの席に座る馬車のマスター、アルジュナは主体「アートマー(真我)
」
。
4 頭の馬が引く馬車が走る道は感覚器官を惹きつける対象物。
姫1.アンバ
姫 2.盲目王の母アンビカー
そして馬車のゴールは「モークシャ(自由)」。
人のゴールは完全に自由になること。 自由というゴールの意味と、自由を目指して馬車を走らせる方法についての教
えがギーターのテーマです。
2 人の王子(死)
生涯独身の誓をたてた人
聖者ヴャーサ
女中
姫 3. 蒼白王の母アンバリカ
兄シャクニ
物語の作者
ー
宰相ヴィドラ
クンティの兄バスデーヴァ
デーヴァキ
妻ガンダーリ
盲目王ドゥリタラーシュトラ
1 番目の妻クンティ
長男ユディシティラ
ダルマ神
カルナ
次男ビーマ
風神
三男アルジュナ
インドラ神
ドローナ先生
2 番目の妻マードリー
パーンダヴァ5兄弟
太陽神
カウラヴァ 100 人兄弟
長男ドゥルヨーダナ
ドゥフシャーサナ
ヴィルカナ
蒼白王パンドゥ
クリシュナ
従者サンジャヤ
クル族王子たちの
弓の先生
四男ナクラ
ドルパダ王
アシュヴィニ神
五男サハデーバ
シカンディン
アシュヴァッターマン
ドラウパディ
パーンダヴァ5兄弟全員の妻
カラヴァ軍
14
VS
パーンダヴァ軍
15
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』のお話
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』のお話
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』のお話
そして蒼白王パンドゥの息子ユディシティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、
サハデーヴァの「パーンダヴァ 5 兄弟」は、盲目王ドゥリタラーシュトラに引
昔インドが「バーラタ」と呼ばれていた頃、国は「クル」という王族に治め
られていました。大変強く、王としての資質に優れたクル族のシャンタヌ王は、
ガンジス川の女神と結婚しました。シャンタヌ王とガンジス川の女神との間に
生まれた子供はビーシュマといい、とても強く賢い男の子でした。
彼は父シャンタヌ王の願いを叶えるために 2 つの誓いをしました。1つは生
涯独身を守るということ、もう 1 つは王の位を継がずに国をサポートすること。
王にならない、結婚をしない、ということを誓ったビーシュマは王国の良きア
ドバイザーとなりました。彼の代わりに、シャンタヌ王の 2 番目の妻サッティ
ヤバティとの間にできた子が王となることになりました。シャンタヌ王と妻サッ
ティヤバティの間には 2 人の息子がありましたが、両方とも若くして死んでし
まい、クル族には王位継承者がいなくなってしまいました。王家の血筋が途絶
えそうな時は、近親の聖者と姫との子供が王となることが許されることを知っ
たサッティヤバティは、若い王子の 2 人の姫と聖者ヴャーサに子供を生ませま
した。
それがドゥリタラーシュトラと、パンドゥという 2 人の兄弟でした。
兄ドゥリタラーシュトラは盲目であったため、王となることができませんで
した。彼は年頃になると、隣の国の姫ガンダーリと結婚し、100 人の息子と 1
人の娘を持ちました。その息子たちを「カウラヴァ 100 人兄弟」
(もしくはダー
ルタラシュタラ兄弟)といい、長男はドゥルヨーダナといいました。
弟パンドゥは肌の色が真っ白だったために、“ 蒼白王 ” と呼ばれました。彼は
強く勇敢であったため王になりました。ところが、蒼白王パンドゥは森で狩を
しているとき誤って鹿を射殺してしまい、聖者に呪いをかけられました。その
呪いのため、蒼白王パンドゥは若くして亡くなりました。彼は 2 人の妻クンティ
とマードリーと結婚しており、5人の息子がおりました。5人の兄弟は「パー
ンダヴァ兄弟」と呼ばれていました。
蒼白王パンドゥが死んだため、兄である盲目のドゥリタラーシュトラが王と
なりました。
16
き取られました。
「パーンダヴァ 5 兄弟」は盲目王ドゥリタラーシュトラの 100 人の息子たち
と共に育てられました。若い従兄弟たちはみな、大爺ビーシュマと弓の師ドロー
ナによって王族としての振る舞いと武道を学びました。
「パーンダヴァ 5 兄弟」はみな優秀で、人々にとても愛されていました。長男
ドゥルヨーダナを中心とする「カウラヴァ 100 人兄弟」はそれに嫉妬し、憎し
みを抱き、「パーンダヴァ 5 兄弟」に対する陰謀を企んでいました。
「パーンダヴァ 5 兄弟」も「カウラヴァ 100 人兄弟」も年頃になったとき、
盲目王ドゥリタラーシュトラはそれぞれの兄弟グループに土地を与えました。
「パーンダヴァ 5 兄弟」の王国は彼らの美徳のためにとても栄えました。長男
ユディシティラは皇帝になりました。
「カウラヴァ 100 人兄弟」の長男ドゥルヨー
ダナの嫉妬心はさらに増し、ある日いよいよ「パーンダヴァ 5 兄弟」を国から
追放する策を施しました。
ドゥルヨーダナは、いかさまのサイコロ賭博をユディシティラに仕掛けまし
た。賭博はユディシティラの唯一の欠点で、それは罠でした。ドゥルヨーダナ
はこの賭博に勝ち、「パーンダヴァ 5 兄弟」を王国から追放しました。彼らは
12 年間国外追放になり、13 年目は誰にも知られずに過ごさなければなりませ
んでした。その間ドゥルヨーダナが王国を支配しました。
「パーンダヴァ 5 兄弟」は 13 年を経たあとも、「カウラヴァ 100 人兄弟」た
ちによるたくさんの障害や危険にあいましたが、やっとの思いで元の王国、今
は従兄弟ドゥルヨーダナが治める国へ戻りました。
しかし、「カウラヴァ 100 人兄弟」の長男ドゥルヨーダナは、パーンダヴァ
兄弟に土地を返すことを断りました。そして
「パーンダヴァのやつらには、針の穴ほどの土地も与えない!」
といいました。
「パーンダヴァ 5 兄弟」は約束を守らない統治者ドゥルヨーダナと彼の王国に
対して「ダルマ(正義)」を確立する必要性から戦いをせざるをえなくなりまし
た。これが、古代インド・バーラタの国を分離させた「マハーバーラタの戦い」
17
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』のお話
でした。
『バガヴァッドギーター』と『マハーバーラタ』のお話
「私は自分の家族たちが戦う姿を見たいとは思わない。でも、その戦いについ
ては知るべきであろうと思っている。」
「イーシュヴァラの化身」と言われていたクリシュナは、
「パーンダヴァ 5 兄
弟」の従兄弟でした。
「カウラヴァ 100 人兄弟」のドゥルヨーダナと「パーンダヴァ 5 兄弟」のア
ルジュナは、戦いの前にクリシュナに助言を求めに行きました。
クリシュナは 2 人に助言として選択を与えました。
そこで、聖者ヴャーサは従者サンジャヤに千里眼を授け、盲目王ドゥリタラー
シュトラのために戦いの様子を語らせました。
王は従者サンジャヤに戦いの細かい部分も伝えてくれるよう頼みました。
ここから「クルクシェートラ」という戦場で繰り広げられるクリシュナと戦
士アルジュナの対話である『バガヴァッドギーター』が始まります。
「戦いの助けとしてどちらかを選ぶがいい。1 つは戦わない私クリシュナ本人
と、
もう 1 つは私の無敵である 1 万人の軍隊である。そのどちらが欲しいか?」
と聞きました。
アルジュナは戦わないクリシュナ本人を選び、ドゥルヨーダナは戦力になら
ないクリシュナを選んだアルジュナを馬鹿にして、クリシュナの無敵軍を選び
ました。
クリシュナはアルジュナが乗る馬車の御者として、側でアルジュナを助ける
ことになりました。
クリシュナはアルジュナに、
「なぜ軍隊ではなく、戦わない自分を選んだのか?」
と聞くと、アルジュナはいいました。
「あなたは『イーシュヴァラ(全体世界)』の化身です。その目で睨んだだけで、
すべての軍が破壊してしまうでしょう。数は多くても、あなたの前では無力な
軍隊をなぜ私が選べるでしょう? 私は、あなたが側についてくれることを、ずっ
と長い間望んでいました。この戦いで私の望みは叶うのです。
」
クリシュナは最後まで、この戦いを阻止しようとしました。戦いをやめさせ
るため、首謀者であるドゥルヨーダナの元へひとり向かいました。しかし、欲
と憎しみで混乱したドゥルヨーダナは、クリシュナの平和的解決を退け、彼を
捕えようとしました。和解はできず、戦争は避けられなくなりました。
盲目王ドゥリタラーシュトラは愛着のため、息子ドゥルヨーダナをコントロー
ルすることができませんでした。そして「カウラヴァ 100 人兄弟」はドゥルヨー
ダナを先頭に、「パーンダヴァ 5 兄弟」との戦いに向かいました。
聖者ヴャーサはこの戦いを目で見るチャンスを盲目王ドゥリタラーシュトラ
に与えようとしました。しかし、王は恐れのために断りました。
18
19
『バガヴァッドギーター』のテーマ
『バガヴァッドギーター』のテーマ
『バガヴァッドギーター』のテーマ
★『バガヴァッドギーター』のテーマ
「Tat Tvan Asi(タット トヴァン アシ)」= That is You. あなたが真実です。
「Tat(タット)」= That 「イーシュヴァラ(全体世界)」
★「バガヴァーン(全知全能者)」について
ギーターの中でクリシュナは「バガヴァーン(全知全能者)
」といいあらわされ
ています。それは、「バガ(6 つの究極の質)」を持つ者という意味です。
①「ジニャーナ(知識、全知)」
「Tvan(トヴァン)」= You、自分自身
「Asi(アシ)」= is。
バガヴァッドギーターには『ヴェーダ(聖典)』と『ヴェーダーンタ(聖典の最
②「ヴァイラーギャ(公平さ)」
終章)
』の教えのエッセンスが融合されています。
③「ヴィーリヤ(宇宙創造、維持、破壊の力、全能)」
④「ヤシャス(究極の名声)」
★『ヴェーダ(聖典)』
⑤「シュリー(あらゆる富と資源)」
聖者によって聞かれたもの『シュルティ(聖典)』ともいわれています。
⑥「アイシュワルヤ(絶対的な支配力)」
『ヴェーダ(聖典)』は、1 つの知識体ですが、『バガヴァッドギーター』の作者
★『バガヴァッドギーター』の意味
である聖者ヴャーサによって 4 つに分けられました。
①「バガヴァーン(全知全能者)」について、歌われた歌。
②「バガヴァーン(全知全能者)」自身が語った歌
『ヴェーダ(聖典)』
1. リグ・ヴェーダ
★「バガヴァーン(全知全能者)」を指し示す言葉
『バガヴァッドギーター』の中ではクリシュナは様々な名前で呼ばれます。その
一部を見てみましょう。
2. ヤージュル・ヴェーダ
3. サーマ・ヴェーダ
4. アタルヴァナ・ヴェーダ
・
「バガヴァーン(全知全能者)」
・
「イーシュヴァラ(全体世界)」
それぞれの『ヴェーダ(聖典)』には、最後の章である『ヴェーダーンタ(聖典
・
「パラメーシュヴァラ(完全なる存在)」
の最終章)』(またの名を『ウパニシャッド』)があります。
・
「シヴァ(破壊)・ヴィシュヌ(維持)・ブラフマー(創造)
」
・
「ダルマ(全体世界を調和させる秩序の法則)」
・「デーヴァ(神)」:全体世界、「ダルマ(秩序)」を調和させるそれぞれの力と法則
・
「クリシュナ」:全知全能である全体世界の「アヴァターラ(化身)
」
『ヴェーダ(聖典)』と『ヴェーダーンタ(聖典の最終章)』を知り尽くした聖者
ヴャーサが書いたのが、戦記『マハーバーラタ』物語であり、
『バガヴァッドギー
ター』です。
『マハーバーラタ』は、聖者ヴャーサによって思い起こされて、書かれたものと
いう意味で「スムルティ(思い出されたもの)」といわれます。
クリシュナ
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21
『バガヴァッドギーター』で説明される人の生き方
『バガヴァッドギーター』で説明される人の生き方
『バガヴァッドギーター』で説明される人の生き方
“ 行い ” と “ 結果 ” の法則について
「カルマの法則(行いと結果の因果律)」と「ダルマの法則(調和と秩序の法則)」
人の生き方の 4 段階 「アーシュラマ(住期)」
『ヴェーダ(聖典)』の教えのある社会では、人は 4 つの段階を経て成長し、生
きていくというモデルがあります。その 4 段階の生き方を
「アーシュラマ
(住期)
」
を理解することが、全体世界を理解すること。『バガヴァッドギーター』では、
個人と全体の真実を見極めるために、「行い」と「結果」と、それを巡る法則に
ついて詳しく説かれています。まずは、簡単に見てみましょう。
といいます。
「ダルマの法則」 全体世界を調和させる秩序の法則
①「ブラフマチャリヤ(学生期)」
先生について「ヴェーダ(聖典)」を学ぶ時期
②「グラハスタ(家住期)」
家族をもち、社会に貢献する時期
③「ヴァーナプラスタ(森住期)」
森林に隠居して修行し、社会のよき助言者となる時期
④「サンニャーサ(遊行期)」
個人から見れば、
「ダルマ」は全体の調和のためにそれぞれが “ す
べきこと、義務 ” です。
調和の中で個人が行いをし、結果を受けることを「カルマの法則
(行いと結果の因果律)」といいます。
その点から、「ダルマの法則」は「カルマの法則(行いと結果の
因果律)」とも呼ばれます。
社会から引退し、知識の探究ためだけに生きる時期、出家
「サンニャーサ(出家)」の生き方を晩年のすごし方とするのが一般的ですが、
「ブ
ラフマチャリヤ(学生期)」から結婚をせず、社会の義務と権利を手放して、知
識の探求のためだけに生きる生き方「サンニャーサ」を選ぶ人もいます。
『バガヴァッドギーター』では、標準的に決められた 4 段階でなくても、人生の
途中で精神的な成熟ができていたら「サンニャーサ(出家)
」という生き方を選
ぶことの可能性について説きます。
戦士アルジュナは、社会の中で “ 行い ” をし、義務を果たし、4 段階を経て成長
する道か、
「サンニャーサ(出家)」の道か、どちらを選ぶべきかの岐路に立たされ、
クリシュナに何度も質問しました。
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「ダルマ(調和)」と「カルマ(行い)」について
「ダルマ(調和)」と「カルマ(行い)」について
「ダルマ(調和)」と「カルマ(行い)」について
人の性質、宿命と運命を決定する「カルマ(行い、結果、業)」について
過去にしてきたカルマの結果の蓄積(矢筒の矢):「サンチタカルマ」
“ 行い ” をしたら必ず “ 結果 ” が返ってきます。それもまた全体世界の調和の法
則に従っています。
現在実を結んでいる結果(飛んでいる矢) :「プララブタカルマ」
現在貯めている未来への結果(今放っている矢):「アガミカルマ」
人は「ダルマ(調和)」の中で、「カルマの法則(行いと結果の因果律)
」によっ
て、行いと結果を繰り返し生きています。
「カルマの法則(行いと結果の因果律)」の中心になっているのは、
「ジーヴァ(個
人)
」である「カルター(行い手)」です。
行いと結果について
未来に飛んで行く矢は、まさに今あなたが引いてい
ます。
今していることが、次の未来となります。
どこに飛ばすべきか?
つまり、どう生きるか?
的を絞り、生き方を決めているのは今のあなたです。
“ 行い ” をすると、必ずそれに見合った “ 結果 ” がやってきます。その結果を “ パ
ラ(果実)” といい、2 種類あります。
①「ドリシュタパラ(すぐ効果が見える結果)」
②「アドリシュタパラ(すぐには見えない結果)」
さらに、この目には見えない、すぐには “ 結果 ” として返ってこない「アドリシュ
タパラ(すぐには見えない結果)」にも 2 種類あります。
①「プンニャ(徳)」:調和にかなった行い、善行の結果
②「パーパ(不徳)」:調和に逆らった行い、不調和、悪行の結果
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『バガヴァッドギーター』で説かれる人のゴール
『バガヴァッドギーター』で説かれる人のゴール
『バガヴァッドギーター』で説かれる人のゴール
「モークシャ(自由)」は、“ 自分自身の本質について知ること ” で可能になります。
“ 自分自身の真実を理解すること ” が人を自由にするとギーターはいいます。
人が生きる上で追い求める目的は 4 つあるように見えるとヴェーダはいいます。
①「アルタ(安全)」 ②「カーマ(喜び)」 ③「ダルマ(調和)
」
*この 3 つの生きる目標が人の成長とともに次の 4 つめに変わってゆきます。
“ 自分自身についての知識 ” を「ブラフマ・ヴィッディヤー(ブラフマンについ
ての知識)」といい、“ 知識を理解するための生き方 ” が「ヨーガ」といわれます。
ヨーガの生き方には 2 種類あるように説明されますが、そのどちらも目指すも
のは「モークシャ(自由)」です。
④「モークシャ(自由)」
不安や恐れ、無知と束縛から自由になること。
生き方、自分の生きる目標を見極
モークシャ=自由
めることができたとき、日々の行
いが「ヨーガ」になります。
4つの生きるゴールの 3 つめ、
「ダルマ(調和)」を目指す生き方とは何でしょう?
『カルマヨーガ(行いのヨーガ)
』
「モークシャ(自由)」を目指すために、まず為さなければならないのが「ダルマ(調
和)
」を理解し、「ダルマ(調和)」に一致した生き方をすることです。
*社会の中で役割を果たす生き方
『カルマ(行い)』を態度によってヨーガに
『サンニャーサ(出家、放擲)』
『ニャーナヨーガ(知識のヨーガ)
』
*出家の生き方
*社会の権利と義務を手放すこと
すること。
『ティヤーガ(捨離)』行いの結果を手放す
しかし、この 3 つめのゴールとして「ダルマ(調和)」が意味しているのは、
「モー
クシャ(自由)」のために「ダルマ(調和)」の生き方をするのではなく、
「ダルマ(調
まずは、喜び、安全、よりよい生活や幸せを求めて人は思いのまま行いをします。そ
和)
」の生き方をすることで「プンニャ(徳)」を積むことが目的となっています。
の中で「ダルマ(調和)」の大切さをヴェーダは教え、人を成長させ、本当に人が求め
そして積んだ「プンニャ(徳)」によって天国に行くことがゴールです。
ている目的へと導きます。
「徳を積み、天国に行くこと」。それが生きる上での最大の関心事でありゴール
『ヴィヴェーカ(見極め)
』
人間的な成長、精神の成熟、落
『ヴァイラーギャ(冷静さ)』
ち着きができた時、
である、とする人々の追い求める生き方が、「ダルマ(調和)
」の生き方の意味
精神的な探求がはじまります。
するところです。
『アルタ(安全)
』
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『カーマ(喜び)
』
『ダルマ(調和)
』
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「イーシュヴァラ(全体世界)」その本質と世界について
「イーシュヴァラ(全体世界)」その本質と世界について
「イーシュヴァラ(全体世界)」その本質と世界について
「イーシュヴァラ(全体世界)」
『ブラフマン(普遍な存在)』
『アートマン(真我)』
「イーシュヴァラ(全体世界)」には「ブラフマー(創造)
・ヴィシュヌ(維持)
・
シヴァ(破壊)」の 3 つの側面があります。
これがいわゆる「ヒンドゥトリニティ(ヒンドゥ教の 3 神)
」です。
『イーシュヴァラ(全体世界)』の本質
『プルシャ(本質)
』
『サッティヤン(真実)』
『マーヤー(力)』
『プラクルティ(可能性)
』
*「ブラフマー(創造)』は男性名詞です。「イーシュヴァラ(全体世界)」の “ 創造 ” の
物質の原因、可能性
側面を表します。敬称をつけて「ブラフマージ(創造者)」と呼ばれます。
3 つの『グナ(質)』
ミッティヤー
「イーシュヴァラ(全体世界)」
「アートマン(真我、真実)」もマーヤーもどちらも “ 始まり ” がありません。
全体世界は「ブラフマン(普遍な存在)」を支えにして、
「マーヤー(力)」によっ
て創造、維持、破壊を永遠に繰り返しています。
AUM 4 つの顔で表現される「ブラフマー(創造)」
「ヴィシュヌ(維持)」「シヴァ(破壊)」
!øø+Ûø}
「イーシュヴァラ(全体世界)」の音
この全体世界は「イーシュヴァラ(全体世界)」の現れといわれます。
“ 現れた世界 ” の視点で、その原因を見てみると、2 つの原因があるように見え
ます。
1 つ は す べ て の 源 で あ り、 存 在 で あ る 真 実「 ブ ラ フ マ ン( 普 遍 な 存 在 )
」
。
そしてもう1つは世界を現す力と物質的要因「マーヤー(力)
」
。
「マーヤー(力)」は「ブラフマン(普遍な存在)」に存在を支えられています。
「ブ
ラフマン」なしに「マーヤー」は存在しません。マーヤーの源は「ブラフマン」
。
世界は 1 つの真実「ブラフマン」に存在し、満ちています。
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『バガヴァッドギーター』全 18 章の構成
『バガヴァッドギーター』全 18 章の構成
『バガヴァッドギーター』の重要キーワード
『バガヴァッドギーター』の重要キーワード
テーマ:「Tat Tvan Asi(That is You. あなたが真実です。
)
」
「イーシュヴァラ(全体世界)」 の本質について現す言葉
You are That, You and Isvara, one and same!
「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(無限)」
あなたが真実です。あなたと「イーシュヴァラ(全体世界)
」は1つで同じです。
1 ~ 6 章のテーマは You= トヴァン あなた自身の真実について
1 章
2 章
3 章
アルジュナの苦悩についての章(Arjuna Visada Yoga)
自分自身の知識「サーンキャ」についての章(Sankya Yoga)
「カルマ(行い)」についての章(Karma Yoga)
4 章
知識による行いの放棄についての章(Jnana Karmasannyasa Yoga)
5 章
行いを放棄することについての章(Karma Sannyasa Yoga)
6 章
瞑想についての章(Dhyana Yoga)
7 ~ 12 章は That= タット 世界の真実について
7 章
“ 真実 ” とは?
・変わることがない(= 不変、不滅)
・時間や空間など、何にも影響をされず限定されることがない
(= 永遠、限りがないこと)
・満ち足りている、どこにでも “ 在る ”(= 普遍、遍く広がる)
・ただ 1 つ(真実は 2 つありません。)
「ブラフマン(普遍な存在)」
Q . 「ブラフマ」と「ブラフマン」、「アートマー」と「アートマン」
「イーシュヴァラ(全体世界)」に関する間接の知識と、
直接の知識についての章(Jnana Vijnana Yoga)
8 章
不滅の「ブラフマン(普遍な存在)」についての章(Aksara Brahma Yoga)
9 章
知識における最高の知識、
A . どちらも正しいです。
秘密における最大の秘密についての章(Rajavidya Rajaguhya Yoga)
10 章 「バガヴァーン(全知全能者)」の輝きについての章(Vibuti Yoga)
13 ~ 18 章は You=That あなた = 世界の真実について
13 章 「クシェートラ(土地)」と「クシェートラニャ(土地を知るもの)」の
知識についての章(Ksetra Ksetrajna Vibhaga Yoga)
14 章 3 つの「グナ(質)」の違いについての章(Gunatraya Vibhaga Yoga)
15 章 完全な個人の本質「プルシャ(本質、実存)」についての章
「ブラフマン」(中性名詞の原型)→主語の形が「ブラフマ」
「アートマン(真我、真実)」(男性名詞の原型)
→主語の形は「アートマー(真我)」となります。
についての章(Visvarupa Darsana Yoga)
Q . 「ブラフマー」と「ブラフマン」は違うもの?
12 章 イーシュヴァラへの「バクティ(献身)」についての章(Bhakti Yoga)
11 章 イーシュヴァラの姿「ヴィシュヴァルーパ(宇宙相)」を見ること
どっちが正しいの?
A . 「ブラフマー(創造の法則)
」は(男性名詞の主語の形:世界の創造を
司る法則)であり、通称「ブラフマージ」で全体世界の創造者という
意味で示されます。
「ブラフマン」は世界を支えている「サット(存在)・チット(意識)・
アーナンダ(無限)」なるすべての源を意味します。
(Purusottama Yoga)
16 章 「モークシャ(自由)」を求める性質と「サムサーラ(束縛)」に結びつく
性質についての章(Daivasura Sampad Vibhaga Yoga)
17 章 3 つの「シュラッダー(性質)」についての章
(Sraddhatraya Vibhaga Yoga)
18 章 行いの束縛を手放すことで「モークシャ(自由)」に至ること
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についての章(Moksa Sannyasa Yoga)
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『バガヴァッドギーター』の重要キーワード
「イーシュヴァラ(全体世界)」が使う力、可能性、質を現す言葉 ☆「マーヤー(力)」
☆「プラクルティ(可能性、根本原質)」
☆「シャクティ(パワー)」
どの言葉も同じ力を示しています。
「マーヤー(力)」は現す力、可能性であり、3 つの「グナ(質)
」が原因。
「マーヤー」が動き、世界が現われています。
「マーヤー」もその存在は「ブラフマン(普遍な存在)」に支えられています。
3つの「グナ(質)」
「サットヴァ(純質)」 純正、理解や知性
「ラジャス(激質)」 活力、動き、行い
「タマス(鈍質)」 怠惰
『バガヴァッドギーター』の教えの内容
『バガヴァッドギーター』の教えの内容
『バガヴァッドギーター』は悲しみや苦しみの元になる根本的な問題をとりのぞ
き、
「モークシャ(自由)」の知識を教えます。そして “ 知識 ” を理解する方法「ヨー
ガ」についても教えています。
教え 1
「ブラフマ・ヴィッディヤー(ブラフマンについての知識)」は、自由への知識
「ブラフマン(普遍な存在)」=「アートマン(真我、真実)」である。
自分自身の本質を適切に理解していないために、人は思い込みによって悲しみ
に陥ってしまいます。自分自身の真実は悲しみや苦しみにとらわれることのな
い「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(無限)」「ブラフマン(普遍
な存在)」「アートマン(真我、真実)」です。そのことを知らないために、人は、
“ 私は体である、私は考えである ” と、本来の私の上に繰り広げられていること
にとらわれてしまいます。この真実の教えを理解することで、人は本来の姿で
ある「モークシャ(完全な自由)」に解放されます。その自由を “ 悟り、解脱 ”
ともいいます。(2 章~ 18 章)
教え 2
「ヨーガ・シャーストラ」は、知識を理解するための方法
「ヨーガ」とは、方法であり手段のこと。「シャーストラ」は教え、規律。
完全な自分自身を理解することで自由になる、その知識「ブラフマ・ヴィッディ
ヤー」を理解するためにはどうしたらいいのか?その方法と手段をギーターで
はヨーガとして教えます。
3 章~ 「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」
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=「カルマ(行い)」を知識のために心を準備する生き方。
「サンニャーサ / ニャーナヨーガ」= 社会の義務と権利を放棄し、
最小限の行いで知識を探究するためだけに生きる方法。
6 章
瞑想について、本質を見極めるための落ち着きを養うための瞑想。
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『バガヴァッドギーター』の教えの内容
悲しみの原因と「カルマ(行い)」、そして「サムサーラ(輪廻)
」の関係
自分自身の本質の無知
バガヴァッドギーター 第 1 章
↓
“ 満ち足りていない、取るに足らない存在 ” という思い込み(自我認識)
↓
アルジュナの苦悩についての章
個人であるが故の恐れ、不安、何かが自分に欠けているという悲しみ
↓
Arjuna Visada Yoga
この悲しみを癒すために、外にある物を得ようとしたり、状況を変えようとし
たり、“ 満たされていない自分 ” を満たすための何かを探し求めます。
特に、
☆自分を満たしてくれるような気にさせる物事を求める傾向があります。
「ラーガ(好き)」
☆自分の足りなさを思い知らされるような事柄を避けたがります。
「ドゥヴェーシャ(嫌い)」
この “ 好き・嫌い ” という 2 つの感情が行いの動機となる場合、
時に「ダルマ(調
和)
」に反することもあります。
「ダルマ(調和)」に反すること「アダルマ(不調和)」が人を混乱させます。
行いの結果を得るだけでは、人は個人ゆえの “ 全体から離れている恐れや不安、
何か自分に足りていないという悲しみ ” を根本から癒すことはできません。ど
んな行いをしても満たされないから行いは続き、探求は終わることなく、人は
カルマの法則に束縛されたままめぐり続けます(「サムサーラ(輪廻)
」
)
。
そこから抜け出す唯一の可能性は、最初から満ちている自分自身の本質を知り、
無知を取りのぞくこと。
全体と個人は離れることなく、満ち足りた存在であるという真実を理解するこ
とで、あらゆる問題の根である無知が手放されます。“ カルマをする主体 ” であ
ポイント
◆アルジュナのおかれた状況とは一体どういったものなのでしょう?
◆アルジュナの苦悩の原因とは何でしょうか?
キーワード
◇「バガヴァーン(全知全能)」
◇「ヴァースデーヴァ(維持者)」
◇「イーシュヴァラ(全体世界)」
◇「ダルマ(調和)」
◇「モークシャ(自由)」
る “ 個人 ” は、真実の知識によって満たされることによって “ 個人 ” から解放さ
れ、
つまり「カルマ(行い)」からも解放されます。“ 自由であり全体である存在 ”
をカルマの法則も縛ることができません。本質を理解し、カルマから自由にな
ることを「モークシャ(完全な自由)」といいます。
34
35
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
概要&読み取りのポイント
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
は何の喜びもないこと、戦争の結果として世界を手に入れても無意味だといい
ました。アルジュナは自分の幻想と哀しみのために、クリシュナの全能の力を
マハーバーラタ戦争は「クルクシェートラ」という聖地にて、紀元前 3000
年頃に起こった歴史上の戦いといわれています。『バガヴァッドギーター』の対
忘れ議論しました。自分の無力さと、哀しみと苦しみを訴え、力なく武器を置き、
戦車に座りこみました。
話は、戦いの 10 日目にクリシュナと戦士アルジュナの間で交わされたといわ
れます。
盲目王ドゥリタラーシュトラが、千里眼を持つ従者サンジャヤに戦いを語り
聞かせてくれるよう頼むシーンから「バガヴァッドギーター」が始まります。
盲目王ドゥリタラーシュトラが “ 盲目 ” というのは “ 無知 ” を象徴し、自分勝
手さと欲望に目を覆われたエゴイスティックな心を例えています。
「クルクシェートラ」という戦場は、祖先のクルがこの地で苦行をしていたた
めに「クル」の名をつけられています。また、神聖な神々が苦行をしていた場
所でもあったので、「ダルマ ・ クシェートラ」ともいわれています。
戦場では有名な戦士が両サイドに集められました。クル族の長である大爺ビー
シュマが戦いの合図の法螺貝を吹きました。どちらの戦士も法螺貝をならし、
太鼓をたたき、戦う準備が整いました。その時、パーンダヴァ軍の戦士アルジュ
ナは戦う相手を確認するため、馬車の御者であるクリシュナに戦車を両軍の間
に移動してほしいと頼みました。依頼どおりクリシュナは、馬車を戦士アルジュ
ナの祖父である大爺ビーシュマ、そして恩師であるドローナの前に停めました。
戦士アルジュナは恩師や友や従兄弟たちを見た瞬間、この戦争の間違いに気
づきました。自分の生き方を築いてきたある価値観が彼の中で壊れたのです。
アルジュナは戦いを前にして、人生で本当に探究するべきもの、意味のあるも
のを見出したいと思い、それまで追求してきた目標の無意味さを知り、失意に
打たれました。アルジュナに諦めにも似たある種の価値観の崩壊「ヴァイラー
ギャ(冷静さ)」が起こったのです。同時に、彼は生まれて初めての哀しみと深
い情けの心に打たれ、この戦いを拒否しました。
戦いの無意味さを知った彼は、戦士としての義務を忘れ、激しく落ち込み、
弓さえ持てなくなりました。この戦いの悪い前兆と予感、そしてこの戦争のも
たらす悪い結果について話しました。彼は、親戚や従兄弟や恩師を殺すことに
36
37
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
バガヴァッドギーター 第 1 章
ナ先生!
アルジュナの苦悩についての章
敵もさるものながら、我々の軍も負けてはいません。これから我々の軍における
(1)
重要なリーダーを見せましょう。どうかよく聞いていただきたい。
(8、9)
盲目王ドゥリタラーシュトラは、千里眼をもつ従者サンジャヤに聞きました。
「まずは、我が軍最高の名誉であるあなた、ドローナ先生。そしてビーシュマ、
「サンジャヤよ、私の息子たちの軍と戦士たち、そしてパーンダヴァ軍は一体ど
カルナ、戦場では負けたことの無いクルパ、アシュヴァッターマ、ヴィカルナ、
うなっておるのか?全体世界の法である『ダルマ(秩序)
』が支配するこの特別
サウマダッティ、ジャヤドラタ、他たくさんの勇敢な戦士達。みな戦いに熟練し、
な地『クルクシェートラ』に、戦いのために集められた者たちは、一体どうし
それぞれ武器を手にしています。私の望んだこの戦いのために命を投げ出すのも
ているのか?」
惜しくはないという覚悟のできた者たちです。
(2)
従者サンジャヤは答えました。
「戦場で陣を組んだパーンダヴァ軍を見て、あなたの息子ドゥルヨーダナ王は武
術の師であるドローナに近づき、次のように話しました。…」­
(10)
「我が軍は、パーンダヴァ軍よりも大きく、しかも無敵のビーシュマによって守
れられている。打ち負かされることはありません。それに比べ、我々の目の前に
いる敵軍パーンダヴァは、規模が小さい。たとえ強靭なビーマに守られていたと
しても、我々が制圧できるに違いない。
(3)
ドゥルヨーダナはこういいました。
「ドローナ先生、今目の前にある蒼白王パンドゥの息子たちによって組まれた軍
陣を見てください。あの壮大な軍は輝くようなあなたの弟子、ドゥルパダの息
(11)
「ドローナ先生。我が軍すべての隊に兵士を配置し、軍の指揮官である大爺ビー
シュマを守らなければなりません。」
子ドリシュタドュムナによって導かれているではないですか。
(12)
(4、5、6)
従者サンジャヤはさらに盲目王ドゥリタラーシュトラに告げました。
「この戦いにはビーマとアルジュナに並ぶ程の戦術の達人が並んでいます。サー
「クル族における長老であり、数々の偉業と武勇で名高い大爺ビーシュマが、ラ
ティヤキ、ヴィラータの王、ドゥルパダ王、みな弓の達人で偉大な武人です。ドゥ
イオンの唸りのような音で法螺貝を吹きました。それはまさにドゥルヨーダナを
ルシタケートゥ、チェーキターナ、勇敢なカーシー国の王、プルジット、クンティ
喜ばせるためでした。
ボージャそして偉大なシャイヴャ。並みいる人々の中で最も偉大な者たちです。
強力な力を持つユダーマンニュとウッタマウジャス、スバダラーとアルジュナの
(13)
息子アビマンニュ、ドラウパディの息子。みな、偉大にして勇敢な弓使いです。
「それから突然、他の法螺貝、ティンパニー、タブラ、太鼓、トランペット、牛
の角などが一斉に鳴らされ、地を揺らすような音がしました。
(7)
「弓の戦術では最高位、そして気高い『ブラフマナ(高位の生まれ)』であるドロー
38
39
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
(14)
い。
「白い馬を繋ぎ、特別な馬車に座ったクリシュナとアルジュナも、ドゥルヨーダ
これから始まる戦いで、戦わなければならない相手を私がよく見られるように。
ナの軍に応えるように、神聖な法螺貝を吹きました。
戦うために集められ、ここに構えている人々を見て、私が戦い方をよく考えられ
るように。
(15)
「クリシュナがパーンチャジャンヤ、アルジュナがデーヴァダッタという名の法
螺貝を、そして力強く獰猛で狼のような体を持つ戦士ビーマも、パウンダラとい
う名の大きな法螺貝を吹きました。
(23)
「この戦いに集められた人々をこの目で直接見てみたいのです。あの狂った考え
を持つ盲目王ドゥリタラーシュトラの息子ドゥルヨーダナと、彼を喜ばせる目的
で戦いに集められた人々を。」
(16)
「クンティの息子ユディシティラ王がアナンタヴィジャヤという法螺貝を、ナク
ラ、サハデーヴァがそれぞれスゴーシャ、マニプシュパカという法螺貝を吹き鳴
らしました。
(24、25)
従者サンジャヤはいいました。
「王様、アルジュナの指示によって、クリシュナは 4 頭の白い馬をつけた素晴し
い馬車を走らせ、2 つの軍の間に停めました。まさに大爺ビーシュマと師ドロー
(17、18)
ナと、すべての王たちの正面に。
「王よ!巨大な弓を持ったカーシー国の王、武勇の誉れ高いシカンディー、パー
そしてクリシュナはいいました。
ンダヴァ軍の指揮官ドゥリシュタドュムナ、彼より優れる者などないヴィラータ
『アルジュナよ、この戦場に集ったカウラヴァの軍勢をじっくりと見るがいい』。
が、そしてドラウパディの息子ドルパダ、スバッダラーとアルジュナの勇敢な息
子アビマンニュ、全戦士がそれぞれに法螺貝を吹き鳴らしました。
(26)
「アルジュナは 2 つの軍の間に立ち、父方の年上の兄弟たち、祖父、先生方、兄
(19)
弟たち、息子たち、そして義理の父と友達を見ました。
「そのすさまじい音は、地を震わせ、空に響き渡り、100 人の息子たちの心を突
き刺し、彼らをパニックに陥れるように鳴り響きました。
(27)
「クンティの息子アルジュナは、戦いに集められ、軍に編成された親戚や友人を
(20)
見ました。
「王よ。あなたの息子たちの軍が編成され、戦いを始める準備が整っているのを
その瞬間、アルジュナは嘆き悲しみと深い同情に襲われました。今から起こりつ
見て、無敵の猿王ハヌマーンを旗印につけたアルジュナが弓を持ち上げ、クリシュ
つあるこの戦いは、破壊そのものであり、彼の知り合いはみなこの破壊に巻き込
ナに次のような言葉をいいました。…」
まれてしまうことを彼は悟りました。そして悲しげにこういいました。…」
(21、22)
戦士アルジュナはいいました。
「クリシュナよ、どうか私の馬車を 2 つの軍がよく見える場所に動かしてくださ
40
(28、29)
戦士アルジュナはいいました。
「この戦場で軍の陣営に配置され、戦闘の準備を整えているのはみな、私がよく
41
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
知る人々です。戦いを前にした彼らを見て、私の手足からは力がぬけ、口はカラ
治めることになるとしても。さらにはこの地上の王国を治めることになるとして
カラに渇き、体は震え、恐怖で身の毛がよだつのです。
も。
(30)
(36)
「使い慣らした弓ガンディーヴァは、力の抜けた手から滑り落ちてしまいます。
「クリシュナよ。盲目王ドゥリタラーシュトラの息子たちを破壊したところで、
体は焼けるように熱く、もはや立つ気力も無い程に私の心は今、完全に混乱して
私たちはどんな満足が得られるというのでしょうか?
います。
彼らのように悪事を働く者を殺したところで、罪だけが私たちを襲うのではない
でしょうか?
(31)
「クリシュナよ。私はこの戦いに悪い兆しか見ることができません。両軍に揃っ
た私のよく知る人々と戦い、殺すことに何一つ良いことなど見いだすことはで
きません。
(37)
「私たちは自分たちの親類、盲目王ドゥリタラーシュトラの息子たち、そしてよ
く知る人々を殺すべきではありません。クリシュナよ、彼らと戦いどうして私た
ちが幸せになれるというのでしょう?
(32)
「ゴーヴィンダ、クリシュナよ。私はもはやこの戦いで勝つことは望みません。
王国も、そこから得られる快適な暮らしも望んではいません。
(38、39)
「貪欲さに心を奪われた人々は、一族の崩壊となるこの戦いの悪い前兆を見るこ
私は王国から一体何を得るというのでしょう?どんな喜びを得るというのでしょ
ともなければ、友を裏切る罪を理解することもないでしょう。
う?
けれど、クリシュナよ。私たちにそれがわからないはずがありません。一族の崩
自分のよく知る人々をすべて失うことになる戦いなのに。彼らを失うことを思え
壊から生まれる罪を私たちはよく知っています。この罪から逃れられることはで
ば、生きることですら私にとって望みではないのです。
きません。
(33、34)
(40)
「私たちが望んでいた王国での楽しみや喜びは、まさにこの戦場に集められたこ
「一族が崩壊すれば、先祖から続いてきた一族の『ダルマ(秩序)』も死に絶えて
こにいる人々のためのものであったはずなのに。私の先生方、父方の叔父たち、
息子たち、祖父、母方の叔父や義理の父、孫、従兄弟、その他すべての知り合い
や友人たち。
しまいます。
『ダルマ』が失われたら、『アダルマ(不調和)』が一族を苦しめはしないでしょ
うか?
この戦いで彼らは子供や家族を含めたすべての富と命までを捨て去ることになっ
てしまうでしょう。
(41)
「ヴァルシニ族のクリシュナよ。『アダルマ(不調和)』が増大することによって、
(35)
一族の女性たちは不適切な生き方に大切な『ダルマ(調和)』を明け渡してしま
「悪を滅ぼす者クリシュナよ。私を殺そうとしているこれらの人々と、私は戦い
うでしょう。女性が崩壊すれば、社会には必ず混乱が生まれるでしょう。
たくも殺したくもないのです。たとえこの戦いに勝ち、天国を含む 3 つの世界を
42
43
第 1 章 アルジュナの苦悩についての章
(42)
「混乱が一族と一族の破壊者たちを地獄へと導き、先祖でさえ、死後の儀式を執
り行われないために、『ナラク(地獄)』へ落ちるかもしれません。
バガヴァッドギーター 第 2 章
(43)
「一族を滅ぼす行いによって、社会の混乱を免れることはないはずです。人々に
よって長い間守られ、継続してきた『ダルマ(調和)』は破壊されてしまうでしょう。
自分自身の知識「サーンキャ」についての章
Sankya Yoga
(44)
「クリシュナよ。私たちは苦しみの領域である『ナラク(地獄)』にいくことは、
一族の『ダルマ(秩序)』を破壊する者たちには、避けることができないと聞い
たことがあります。
(45)
「我々は恥を知るべきです。戦う準備をすることは、王国と喜びと貪欲さのために、
共に喜びを分かち合うべき大切な人々を破壊するということ。私たちはこれから、
そんなとんでもない罪を犯そうとしているのです。
(46)
「もし盲目王ドゥリタラーシュトラの息子たちが武器をもち、復讐心も武器も持
たない私を殺そうとするなら、その方が私にとっては、戦って相手を殺すよりも
よっぽどましなことです。」
(47)
従者サンジャヤはいいました。
「戦場の真ん中で、このようにアルジュナはいい、弓と矢を置きました。彼の心
は完全に悲しみに打ち負かされていました。そしてアルジュナは馬車の後ろの席
ポイント
◆ギーターの中で使われる「サーンキャ」の意味とは?また「ヨーガ」の意味
とは?
◆自分自身の真実を理解するための方法としての 2 つライフスタイルとは?
キーワード
◇「アートマン(真我、真実)」
◇「ブラフマン(普遍な存在)」
◇「サムサーラ(輪廻・束縛)」
に座りこんでしまいました。」
44
45
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
概要&読み取りのポイント
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
汚れなき心です。クリシュナはその方法として、
「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」
の態度で行いをし、心の中の矛盾やわだかまりをなくすことをアルジュナに伝
従者サンジャヤは、仲間と家族への愛着と、彼らを失う恐怖で揺れるアルジュ
ナの状況を説明しました。クリシュナは意気消沈している戦士アルジュナを叱
咤し、戦うことを強く勧めました。
困難な状況の中で、心が迷い悲しみに覆われると、人はどうすればいいのか解
らなくなってしまいます。このようなとき、物事をよく知る者の導きが必要です。
考えが何度も衝撃を受け、救いはないように思う時にこそ、自分を取りまく大
きな力を理解しようとする可能性が出てきます。戦士アルジュナは自分の無力
さを悟り、全知全能である「イーシュヴァラ(全体世界)
」の化身・クリシュナ
に助けを請い、委ねました。クリシュナは友人でもある戦士アルジュナの話を
聞き、彼の嘆きと苦悩の原因である “ 無知 ” を取りのぞく者「グル(先生)
」と
しての役割を得ました。
戦士アルジュナに教えを請われ、クリシュナは微笑みながら諭しました。彼は
アルジュナが教えを必要とする時を、長い間待っていたのです。アルジュナに
真実を理解しようという心の準備ができたことを喜びました。
クリシュナは初めに、人間の本質である真実「アートマン(真我、真実)
」につ
いて語りました。“ 真実 ” は過去も、未来も、現在も無く、不滅であることを説
明しました。
「アートマン(真我、真実)」は変わることがなく、滅びることも、死ぬという
変化すらもないこと。すべての人の真実が「アートマー(真我)
」であり、世界
はそれを土台にして変り続けていること。だから表面的にだけ移り変わる現象
を悲しむ理由はないということを語りました。
「アートマン(真我、真実)」とは真実。物事の五要素、地・水・火・風・空に
満ちながら、そのどれにも限定されることがなく、変化や束縛も受けず、永遠
である “ 存在 ” です。
クリシュナは、真実を理解することでのみ、無知から生じる不安や恐れを解き
放てるといいました。真実を理解するために必要なものは、迷いのない知性と
46
えました。
行いを自分の “ 好き・嫌い ” という思いを満たすためでなく、調和のために果た
すことを「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」といいます。この態度で行いをする
ことによって、心の迷いや不純はなくなります。行いの結果にこだわる執着を
なくし、心を静め集中すること。欲望と乱れる心を収めること。その大事さを
伝えながら、迷いや乱れの原因である “ 無知 ” を取りのぞくことについてクリ
シュナは語りました。
クリシュナは、「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」によって、心の平静を得るこ
とが出来ることを諭し、アルジュナに「ヨーガ」の態度で戦いに臨むようにい
いました。戦いが嫌だから逃げるのではなく、「クシャトリヤ(武士)」として、
自分に与えられた「ダルマ(義務)」を遂行する役割に励むべきだ、とアルジュ
ナに忠告しました。
“ 好き・嫌い ” という気持ちで行いをし、「ダルマ(調和)」の範疇を越えてしま
うことを改め、すべきことを果たし、期待する結果に執着することを手放すこ
とが「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の態度です。それによって人は、「アー
トマン(真我、真実)」の知識を確立する心の準備ができます。
「アートマン(真我、真実)」は、この世界のすべてを支える “ 存在・意識 ” であり、
変ることがなく、時間や空間に束縛されることがありません。この「アートマ
ン(真我、真実)」が自分自身の本質であると理解することで、成功や失敗、喜
びや痛みという自分自身以外の現象に心を乱されることがなくなります。
『バガヴァッドギーター』は自分を苦しめているすべての原因は、自分自身の真
実を知らない “ 無知 ” であるといいます。そして、“ 無知 ” を取りのぞくことが、
真実の知識を理解することであり、その理解のための方法を「ヨーガ」として
教えます。
クリシュナの話を聞いてアルジュナは、
「真実を確立し、安定している人とはどういう人なのか?どんな特徴があるの
か? 知識を理解する人はどんな風に話し、座り、歩くのか?」
47
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
バガヴァッドギーター 第 2 章
と聞きました。
自分自身の知識「サーンキャ」についての章
クリシュナは、
「真実を理解する人は、自分自身以外の物事や状況に乱され、影響されることが
ない。」
と、いいました。そして「アートマン(真我、真実)」を理解すること、つまり
真実に立脚するとはどういったことかを語りました。
(1)
従者サンジャヤはいいました。
「王様。戦う者達への同情と哀れみに押し潰され、目に涙をたたえたアルジュナ
にバガヴァーン・クリシュナは次のような言葉を語りました。…」
賢い人は物事を「ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌いの思い)
」で判断すること
がありません。自分の元へやってくる物事に対して、何が来ても受けとめるこ
「バガヴァーン(全知全能者)」とは、
「イーシュヴァラ(全体世界)」の名前です。
とができるといいます。自分に起こる物事や状況は、自分がした “ 行いの結果 ”
「バガ」という 6 つの力、究極の質を持つ者を意味しています。
詳しくは p.20【バガヴァッドギーターのテーマ】を参照。
であることを知ります。あらゆる “ 行い ” は、“ 行いの法則 ” を通して “ 結果 ”
として人に与えられる、というこの全体の法則と流れを知り、“ 結果 ” を自分に
贈られたものとして受けとめる態度が備わった賢者は、物事や状況に心を奪わ
れることがありません。亀が手足や頭を完全に引っ込められるように、彼は感
覚器官や思いを自分でコントロールできるといいます。
真実を知っているから、自分自身以外のことに簡単に操られたり、惑わされた
りしなくなるのです。賢い人はどんな場所や状況にありながらも、それらに影
響されることなく自由である、とクリシュナはいいました。
クリシュナは、感覚器官のなすがままになる人の心を、風に動きを奪われた水
の上を漂う船に例えました。欲望という嵐が人の心を揺らし、適切でない行い
を取らせます。しかし真実を理解する人は、欲望や迷いの嵐に翻弄されること
がないといいます。
また、“ 真実 ” は無知な人にとっては夜のように見えず、賢者にとっては明るく
はっきりとした昼のようであるといいました。逆に、真実を知る人にとって本
質的な実体のないこの世界は夜のようであり、知らない人にとっては昼のよう
であると例えました。
(2)
バガヴァーン・クリシュナはいいました。
「アルジュナよ。君の一体どこから悲しみが湧き、そんなにも嘆き苦しむのだろ
う?
悲しみに打ちひしがれるとは、どうしたことか。それは君の名誉にならないば
かりか、君の徳すら奪い取ってしまうだろう。
(3)
「敵を滅ぼす勇者アルジュナよ。オカマのように、めそめそするとは君らしくも
ない。
君に相応しくない弱い心を打ち払い、立ち上がるのだ。」
(4)
アルジュナはいいました。
「悪を滅ぼす者マドゥスーダナ、クリシュナよ。どうして私が心から尊敬する大
爺ビーシュマと恩師ドローナに弓を持って戦えるというのでしょう?
(5)
「心から尊敬する人たちを殺すくらいなら、戦士という身分を捨て、物請いとし
て生きるほうがましです。もし彼らを殺したら、その後安全や喜びを得たとし
48
49
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
ても、それはすべて血ぬられた思いを伴う苦いものとなるでしょう。
(6)
「もはや我々が相手を打ち負かすことがいいのか、それとも彼らが我々を打ち負
かすべきなのか? どちらがよいのか解りません。
で語り始めたのです。…」
(11)
バガヴァーン・クリシュナはいいました。
「アルジュナよ。君は悲しむ理由のないことを悲しんでいる。それなのに、さも
盲目王ドゥリタラーシュトラの息子たちは、私のすぐ向かいに立っています。
物事をわかっているような賢い言葉を語っている。
私は彼らを殺してまで生きたいとは思いません。
しかし、真実を知る本当に賢い者は、生きているものに対しても、そうでない
この戦いは両軍とも何も得るものがなく、あるのはただ破滅だけなのではない
者に対しても悲しむことはないものだ。
でしょうか?
(12)
(7)
「弱い心に打ちのめされて私は混乱しています。
何が正しく、何が間違っているのか? とるべき道は何なのか?私にはもう解ら
「過去のどんな時も、私が存在 ” しなかったことなどない。君も、ここにいる王
たちも、“ 存在 ” していなかったことなどない。そして未来の私たちに「存在」
がない、ということもないのだ。
ないのです。
クリシュナよ。
(13)
あなたの教えを請い、救いを求める私にどうか本当のことを教えてください。
「この体に住まう者は、個人が子供時代から成長し、若い時代、老いの時代と移
り変わりを経ていくように、次から次へと肉体を得て通り過ぎてゆく。この点
(8)
から見ても、物事の真実を知る賢い人は悲しむことがない。
「たとえこの世で敵がなく繁栄した国を持ったとしても、天界に住む者たちを治
めることができたとしても、感覚を乾かしつくす程の悲しみが私を襲います。
(14)
この悲しみを取り除けるものがあるのか? 私は知りたいのです。それがわから
「偉大なる『バーラタ(インド)』の子孫、アルジュナよ。
ずに、私は迷い嘆くのです。」
寒い・熱い・快・不快といった世界と関わりをもつ五感の体験は、常に来ては去り、
変り続け、留まることがない。この世の物事のすべては、移り変わる。その変
(9)
わりゆく性質は止めることができないと理解し、受け入れるのだ。
従者サンジャヤはいいました。
「この日まで敵という敵を打ち負かし、戦いにおける無敵の勇者アルジュナは、
私は戦いません、
そういって沈黙してしまいました。
(15)
「群れの中で一際目立つ雄牛のように、その輝きで誰もが目を見張る勇者アル
ジュナよ。
真実を理解する人は快・不快に引きずられない。どんな心地よさにおいても、
(10)
痛みをともなう苦い状況においても、自分を見失うことなく、快・不快のどち
「すると味方と敵の真ん中に座り込んでしまったアルジュナに、クリシュナはそ
らも同じように受け入れる。そのような人は自由の意味を知り、完全な自由を
の問いかけを長い間待っていた、とでもいうような嬉しさを隠し切れない笑顔
50
手にしている。
51
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
(16)
(20)
「真実でないものに “ 存在 ” はない。そして、真実に “ 存在 ” がないということ
「
『アートマン(真我、真実)』は生まれることもなければ、死ぬこともなく、ずっ
はない。
とそこにあり、消えたり、再び現れたりすることもない。
この世において、まるであるかのように見えているものはすべて、真実の “ 存在 ”
“ 存在 ” は生まれず、消えず、永遠である。どんな変化も受けず、いつも新しい
に支えられてあるだけだ。真実に関することは、それを知る者によって理解さ
ままであり続けている。たとえ肉体が滅びても、君自身の本質が滅びることは
れている。
ない。
(17)
(21)
「世界のすべてが、変ることのない “ 存在 ” に支えられている。
「プリタの息子アルジュナよ。本当の自分自身は破壊されることもなく、時間か
“ 存在 ” がないところなど、この世界にはない。真実はあらゆるものに満ち、破
らも空間からも自由である。
壊されることがない。無くなることも、変ることも。
自分自身を生まれることもなく、消えることもない “ 存在 ” であるという真実を
“ 存在 ” のないところに、生まれたり、創り出されたりするものはなく、変るこ
知る人が、一体どうやって、誰を殺すというのか?もしくは誰かに殺させるこ
とのない真実の存在を “ 壊す ” ことはできない。なぜなら “ 壊す ” ということも
とができるというのか?
変化の 1 つであるから。
(22)
(18)
「君の体も、私の体も含めたすべての体を現した存在は、変ることもなく、破壊
「古い服を脱ぎ捨て、新しい服を着るように、この肉体に宿る “ 存在 ” は、古い
肉体を脱ぎ捨て、また別の新しい肉体を得る。
されることもなく、知られる対象物でもない。変化し、手にふれることができ
る “ もの ” ではなく、終わることがない。
(23)
本当の意味で、君自身の “ 存在 ” が終わるということはない。
「武器は自分自身である存在を傷つけることはできない。火で焼くことも、水で
偉大なるバーラタ族の戦士アルジュナよ。君自身の真実を知り、
君は戦うべきだ。
濡らすことも、風で乾かすことも。
(19)
(24)
「自分自身の本質とは肉体でも、考えでもない。それらを支え、存在させている
「自己の本質『アートマン(真我、真実)』は刀で切ることも、火で焼くことも、
真実だ。
水に濡らすことも、風で乾かすこともできない。変ることなく満ちていて、ど
その真実のことを経典は『アートマン(真我、真実)』と呼ぶ。
んな所にもあり、どこにもいかず、動くことなく、永遠に存在している。
だから『アートマン(真我、真実)』が、殺すとか、殺される、などということ
はない。
(25)
自分自身を殺すとか、殺されるものとか、そう考えている者は真実を知らない。
「この存在は五感でとらえられることもなく、推測も想像もされない。
『アートマン(真我、真実)』は、殺しもしなければ、殺されることもない。
質や属性がないために、『アートマン(真我、真実)』は変化することがない。
この存在こそが君の本質、あらゆる人間と生き物と、世界のすべての本質であ
るということを知れば、君が悲しむ正当な理由はないだろう。あらゆるものの
52
53
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
本質は失われたり、無くなったりすることはないのだから。
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
(31)
「アルジュナよ。君のすべきことを『ダルマ(調和)』という視点から見ても、
(26)
君は恐れる必要もなければ、悲しむ理由もない。この戦いは、国の調和を守る
「偉大な戦士アルジュナよ。もし君が、この存在が常に生まれ、常に死ぬものだ
王家の者『クシャトリヤ(武士)』として生まれた君が果たすべき正しい戦いだ。
と考えたとしても、
これ程に君がすべき正しいことはない。
それでも君が悲しむ理由はないのだ。
(32)
(27)
「なぜなら生まれたものには、必ず死があり、死には必ず生があるから。
「プリタの息子、アルジュナよ。幸運な『クシャトリヤ(武士)』だけがこのよ
うな『ダルマ(調和)』を守る正しい戦いのチャンスを得ることができる。
この変ることができない事実を悲しむ理由はない。変えられないことは、受け
君の野望や意図とは関係なく、チャンスが今訪れている。君に天国の門が開か
入れるしかないのだから。
れているのだ。
(28)
(33)
「今を生きる者は、生まれる前のことや死んだ後のことはわからない。それは目
「もし君が『ダルマ(調和)』をもたらすこの戦いから逃げたら、果たすべき義
で見たり、触れたり、五感で確かめることが出来ない。
務と共に名誉も失い、
『パーパ(不徳)』を招いてしまうだろう。
生と死の間に生きる者は、飛ばされた矢が通り過ぎるように、一時的に形をもっ
『パーパ(不徳)』
て現れているだけだ。一体そのどこに悲しむ理由があるというのか?バーラタ
調和を乱した行いに対する結果を意味します。
の子孫アルジュナよ。
「カルマの法則(行いと結果の因果律)」において、不調和な行いには、不徳な
結果がもたらされます。
(29)
“ 私は運が悪い ” “ 彼の不徳のせいだ ” と人々がいうような、望まない結果がも
「肉眼で見るようにはっきりと、この存在『アートマン(真我、真実)
』を理解
たらされる要因が「パーパ(不徳、罪)」です。
する人がいる。それは驚くべきことだ。
反対に “ 私は運がいい ” “ 彼女は徳が高い ” といわれるような、望む結果がもた
『アートマン(真我、真実)』について話すことができる人がいる、というのも
らされる要因は「プンニャ(徳)」といい、調和に一致した行いによって、も
驚きである。それを聞く人がいる、というのもまた驚きだ。そして、
この真実
『アー
たらされる結果を意味します。
トマン(真我、真実)』のことを聞いても、全く理解しない人がいる、というの
も驚くべきことである。
(34)
「もし君が戦いから逃げたとしたら、その不名誉な行いについて、他人はいつま
(30)
でも好き勝手に語るだろう。それはかつて英雄として人々に尊敬された者にとっ
「どんな生き物や物体にも宿る存在『アートマン(真我、真実)
』は破壊される
て、死よりもつらいことになる。
ことがない。
54
偉大なるバーラタ族の誇りアルジュナよ。ここにいるすべての人に対して、本
(35)
質的に君が悲しむべき理由はないのだ。
「勇猛な戦士たちは、君が人々への慈悲の気持ちから戦いを拒んだとは思わない。
55
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
君は恐れて戦いから逃げたとみな考えるだろう。
(40)
過去には敵にすら尊敬されていた君の名誉は地におちる。
「
『ヨーガ』においては、努力が無駄になることも、望んだことと違う結果がも
たらされることもない。“ 行い ” は欲しい結果を求めてのみする手段ではなく、
(36)
“ 行い ” に対する理解と態度を変えることによって『ヨーガ』にすることができ
「君の敵は、私が言えないようなひどいことをたくさんいうだろう。
る。それが『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』である。『カルマヨーガ(行いのヨー
君のすぐれた能力は君のことを何も知らない者たちに蔑まれ、見くびられるに
ガ)
』によって、人は心の迷いや葛藤を取り除き、知識のために心を準備するこ
違いない。
とができる。
これ程つらいことがあるだろうか?
たとえ少ししかできなくても、行いの『ヨーガ』を実践することで、人は様々
な恐れから守られる。
(37)
「たとえ君が戦い、敵に敗れ死んだとしても、死後君は必ず天国にいく。
君が戦いに勝利したら、すべての国を制し、この世を楽しむことになるだろう。
(41)
「偉大なクル族の子孫アルジュナよ。生きる上で自分が本当は何を求め、何をす
クンティの喜びである息子アルジュナよ。戦うことを決意して、立ち上がるの
ればいいのかをはっきりさせ、迷わぬ心で行いをすべきだ。
だ!
行いを何のためにするのか?
それは、自由という生きる目的に自分を進ませるためだ。自分を本当に自由に
(38)
する真実の知識は曇りなき知性と心に宿る。自由の知識を理解する迷いなき知
「喜び・苦しみ、得ること・失うこと、勝つこと・負けることに惑わされず、ど
性と澄んだ心を準備するために『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』がある。
ちらの結果も同じように受けとめ、戦いのために君は努力すべきだ。
自分が一体何を求めているのか?
どんな状況にも揺るがない心で君が戦いに挑めば、『パーパ(不徳・罪)
』を被
それが解らない人にとって、生きる目的や方法は無限にあるように見える。だ
ることはない。
から多くの人は何を選ぶか、どこにいくべきか解らずあてもなく彷徨ってしま
う。
(39)
「ここまで私は人間の本質についての真実を話した。
無くなることのない真実の存在が、君やすべての生き物の本質であるというこ
それに至るのは真実の知識を理解することだけです。
とを。
この知識を理解するには、曖昧さや疑い、わだかまりなど曇りが取り除かれた
『アートマン(真我、真実)』についての『サーンキャ(知識)
』(*) を告げた。
ここからは君を行いの束縛から自由にする『ヨーガ』について語ろう。どうか
よく聞いて理解して欲しい。
(*)『サーンキャ(知識)』
ギーターの中で使われる場合は「ブラフマン(普遍な存在)」
「アートマン(真我、
真実)」についての知識を意味しています。
インド六大哲学の「サーンキャ哲学(二元論)」とは違う意味で使われています。
56
人の生きる目的は「モークシャ(自由)」です。
知性と、自己矛盾や分裂のないすっきりした心が必要です。真実を映すことが
できる汚れのない鏡のような心を準備するために行いがあり、その目的のため
に態度を改め、行いをすることを「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」といいます。
(42、43)
「母プリタの誇りアルジュナよ。
生きることにおいて自分が何を求めているのか、はっきりした考えの無い人は、
“ 行い ” について語られた前半の章の『ヴェーダ(聖典)』だけに没頭してしまう。
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第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
自分以外の何かを得るために、自分以外の何者かになるために行いをし、それ
(46)
以上に大切なことはないと信じている。彼らの心は、まだ手にいれてない物や、
「本当の自分自身について知る『ブラフマナ(賢い者)』にとって、行いをして
叶えたい願いや欲望で一杯になり、彼らが望むゴールは喜びと力を得て、天国
何かを得ようという限られた方法や結果について語る前半の『ヴェーダ(聖典)』
にいくことである。
は、聖典のすべてではない。
死後得ることになる喜びや、次に得るかもしれないよりよい人生など、多くの
もし洪水で国中に水が溢れていたら、水を汲むための小さな池や湖は必要がな
願いはある種の行いの結果として叶えられるかもしれない。だから、願いを叶
いように、自分自身に完全に満たりている人は、それ以上に満たすための何か
える行いである祈りや儀式について書かれた前半の章の『ヴェーダ(聖典)
』は、
を必要としない。十分に満ちているものに、それ以上の何かを加える必要は全
花のように人々を惹きつける。
くないからだ。
そして彼らは花のような言葉を使って、他人も巻き込もうとする。
前半の『ヴェーダ(聖典)』の知恵は、限られた願いを叶えたいと望む多くの人々
を夢中にさせる。
(44)
だが自分とは限りなく満ちている存在である、ということを知る賢者に、望み
「このような言葉に心を奪われた人たちは、喜びと力を得ることに専念する。
を叶える方法が何の役に立つだろう?
欲望と迷いがうずまく心には、自分が人生において本当は何を求め、何をすべ
人を捕え続けるのは、喜び・悲しみ、暑さ・寒さ、勝ち・負け、など相反する
きなのか、という考えが確立する余地がない。彼らの心は混乱し、忙しい。
思いである。この 2 極の思い『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)』(*) から
その混乱した心に、真実の知識は宿ることはない。
自由になれ。
心を落ち着け、人生で探求すべきことを見極め、迷いを根本から解放する真実
(45)
の知識と自由を手に入れるべきである。
「
『ヴェーダ(聖典)』には、望んだ結果を手に入れる行いについて記された章が
何かを得ることに夢中になりすぎたり、失うことの恐れや心配で我を忘れたり
ある。前半の『ヴェーダ(聖典)』の『カルマカンダ(行いの章)
』がそれにあたる。
しないように。
これは 3 つの質『グナ(質)』とかかわっている。
体・心・感覚の動きに注意深くなり、それを意のままに自分の道具として扱え
人の心は、『サットヴァ(純質・喜び)』『ラジャス(激質・怒り)
』
『タマス(鈍
るように。
質・悲しみ)』という 3 つの質にとらわれる。この質から『ラーガ・ドヴェーシャ
アルジュナよ、君は自分自身の王となれ。
(好き・嫌い)』という思いが生まれる。
この思いが、好きなものは得たいという願いに、嫌いなものは避けたいという
(*)『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)』
望みになる。
自分の中にある「ラーガ(好き)」「ドヴェーシャ(嫌い)」2 つの思い。
望みは願望となり、人に強く願われることで欲望となり、やがて欲望は人を支
ギーターの中ではこの相反する思いが、人間の問題や苦しみの元であると解説
配する。
何かを得たい、避けたい、という 2 つの側面をもつ欲望は人の心に圧力と緊張
を生む。緊張と圧力が人を終わりのない追及へと駆り立てる。
この終わりなき追求を『サムサーラ(輪廻・束縛)』という。
アルジュナよ。人を捕え続ける 3 つの質『グナ(質)』と、永遠に繰り返す『サ
しています。
「ラーガ(好き)」という思いが、手に入れたいという “ 願望 ” になり、思いが
強まり “ 欲望 ” になり、手に入らない場合は “ 怒り ” になります。
「ドヴェーシャ(嫌い)」も、何かを避けたいという願望と、欲望と怒りの元に
なります。
ムサーラ(輪廻・束縛)』から自由になれ。
58
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第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
(47)
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
われる。
「アルジュナよ。君は行いを選ぶことはできる。
『ダルマ(調和)』に基づきやるべきことを行い、期待と執着を手放して結果を
するか、しないか、するとしたらどうするのか?
受けとめる態度が『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』だ。
しかし、行いによって起こる結果を選ぶことはできない。
アルジュナよ、『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』を確立しなさい。心迷う時は
人は行いの結果を創り出せないし、選べない。行いには責任があるが、結果に
このことを思い出し、君の知性に拠り所を求めるべきだ。
対する責任はない。
人間だけに与えられた知性を本当に必要なことに使わずに、小さな欲望に振り
しかし結果を恐れて、何もしないでいるべきではない。
」
回され続ける者は、知性を無駄にしている。
(48)
(50)
「アルジュナよ。結果を期待する執着を手放し、結果に対する “ 好き・嫌い ” と
「この世で正しい行いの結果としてもたらされる『プンニャ(徳)』と、逆に不
いう思いを手放してしまうといい。
正な行いによってもたらされる結果『パーパ(不徳)』に惑わされず、すべてを
成功・失敗、勝ち・負けなど君の行いの結果として何がもたらされたとしても、
与えられたものとして受け入れる人は『ヨーガ』を確立している。その人は常
『イーシュヴァラ(全体世界)』から与えられたものとして受けとめ、いつも落
ち着いた心でいるように。
どんな結果に対しても心乱さず、受けとめることが『ヨーガ』の態度といわれる。
『ヨーガ』にしっかりと拠り所を定め、君に与えられていることを、揺らがぬ姿
勢で受けとめるのだ。
に落ち着き、揺らぐことがない。
自由になる真の知識は、そんな落ち着いた人の知性に自然と宿るものだ。
その知性は『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度によって得ることができる。
『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』は、己のなすべきことをし、心の調和を乱す
ようなことをさけることで達成される。
『ダルマ(調和)』に基づいて、自分の行いを全体世界の秩序に捧げること。
「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の大事な態度として、すべての結果を「イーシュ
何もしない、ということではない。
ヴァラ(全体世界)」から贈られた物「プラサーダ(贈り物)」として受けとめ
そんな風に自分の行いを選び、進むべき道を切り開くといい。
ることがあります。
アルジュナよ、君は『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』に専念すべきだ。
この態度で物事を受けとめることを
「イーシュヴァラ・プラサーダ・ブッディ(全体世界からの贈物を受け取れる
知的な態度)」といいます。
(51)
「真実の知識を理解する賢い人は、『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度で結
果を受けとめ、自分のこだわりや執着がない。ありのままを受けとめられるから、
(49)
「与えられた行いの結果を、素直に受けとめられる態度を揺らがぬものにするた
めに、
『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)』から湧く欲望に惑わされないように。
“ 好き・嫌い ” という思いによる欲望を叶えるための行いから離れるといい。
常に何かを求め続けている “ 自分 ” と、求めるものを得ようとする “ 行い ” から
の自由。その自由は、自分自身を理解することで可能になる。
結果について思い悩むことも、苦悩することも無い。
さらに知識によって、自分自身が “ 行い手 ” であるという考えを手放している賢
者は、
『カルマの法則(行いと結果の因果律)』に縛られることがない。死んで
また生まれ変わることが続く輪廻、生死の束縛からも自由である。
物事の本質を知る人は、まさに今、こうして生きている時もすべての苦悩から
自由である。
その理解のために知性を準備する行いが『カルマヨーガ(行いのヨーガ)
』とい
60
61
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
(52)
人は心から自分自身に満ち足りることで何かを得ようとする欲求に駆り立てら
「アルジュナよ。
れることから解放される。
君が本当に何を求めるべきか?生きる目的を知り、貫くためにはどうすればい
アルジュナよ。知識を確立し、自由である自分の本質に喜ぶ人を賢者という。
いか?それが解った時、君の迷いはなくなるだろう。
その時過去に聞いてきたことも、未来に聞くかもしれないことも君を迷わせる
(56)
ことはなくなるだろう。
「賢者は不快なことや痛み、苦しみを感じはするが、それに引きずられることが
君が求めるべきことは、君自身の真実である。
ない。
喜びや心地良い快楽も感じはするが、それを渇望することも、欲しがることも
(53)
ない。
「
『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)』という思いから始まる欲望と、願望を
むやみな切望や拒絶、恐れ、怒りから自由であり、ありのままである真実の自
叶える方法を説く前半の『ヴェーダ(聖典)』の言葉に迷わされなくなったとき、
分こそが幸せの源であるということを知る。それ故、自分以外の物事や状況に
君ははっきりと自分の望むものを知る。
心を揺らすことがない。
その時、君の心は静かに澄みわたり、自分自身の真実に確立されるだろう。
自分自身の知識を得て、君は自由になる。」
(57)
「その人は物事に引きずられることなく、狂喜に我を忘れることなく、悲しみや
(54)
アルジュナが聞きました。
苦しみを憎まない。何が真実で何が真実でないかを知る彼を、どんなものも影
響することはできない。
「クリシュナよ。どうか教えてください。
真実の知識が確立した人とはどういう人なのでしょう?
(58)
自分自身の真実である『アートマン(真我、真実)』に定まる賢い人とはどのよ
「賢い人は、自分が求めているのは完全な自由であることを知り、簡単に感覚を
うな人で、どんな風に人々にいわれているのでしょうか?
喜ばせたりする物や状況に弄ばれることがない。
賢者の心は、世界のあらゆるものに対して揺れることがないと、あなたはいい
亀が甲羅に目・鼻・口・手・足を自分の意思で引っ込められるように、自分の
ました。
感覚器官を意志によってコントロールできる。
一体その人はどうやって世界と関わっているのでしょう?
感覚を喜ばせる物や、感覚器官そのものは人を悩ませたり、惑わせたりはしない。
どんな風に話し、座り、歩くのでしょうか?」
人を惑わすのは、人の心だ。心が単なる物や情報を “ それを得たい!避けたい! ”
という欲求や願望に変え、執着に変えてしまう。
(55)
バガヴァーン・クリシュナは答えました。
「心にあれこれと浮かんできては人を放さず、いずれ執着となる欲望を追いかけ
ることをやめたとき、人は自分自身の真実を知る。『アートマン(真我、真実)
』
賢者の心は、自分の感覚器官の伝えることを、そのままに楽しむことができる。
彼の知識と落ち着きは、感覚と心の間に適切な距離をおくことができる。
彼の心に問題がないから、彼は自分を正しく律し、楽しむことができるのだ。
そのような人が、知識を確立した賢者と呼ばれている。
が自分の本質であるということを。
真実の知識は人の根本にある恐れをとりのぞき、自分に対する不安を打ち壊す。
62
63
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
(59)
知恵なきところに、人の知性は働かない。知性なき心は人の心ではない。人の
「感覚を意志の力で無理やりコントロールしようと厳格な修行に励んでも、感覚
心のない者は、衝動だけで動く生物となり、人間らしさは破壊されてしまう。
の後ろには “ それを味わいたい! ” という強い願望や “ それなしには幸せになれ
ない! ” といった価値観がある。この願望や価値観があるかぎり、どんなに厳
(64)
しく感覚を抑え、感じることを無くそうとしても、感覚器官はまた別の対象物
「人の心が何かに惹かれることから破壊するまでの原因に、『ラーガ・ドヴェー
に惹かれてゆくだろう。
シャ(好き・嫌い)』という思いがある。その思いを行いの基準にしてはいけない。
しかし人が自分自身の真実、“ 自分は初めから満たされている存在である ” こと
すべきことは正しいか、正しくないのか、という『ダルマ(秩序)』を行いの基
を理解したら、願望の根は自然と絶たれてしまう。
準にすれば、心は簡単には振り回されない。
幸せになるために自分自身以外の何かを得る必要性がないと知ることで、願望
感覚を意志の力で正しく使える人は、移り変わる世界をありのままに、自由に
は根源から離れ、感覚に引きずられることもなくなる。
味わうことができる。
人の問題の根源にある “ 好き・嫌い ” を扱える人の心は常に穏やかである。
(60)
「アルジュナよ。自分の望むものを見極め、そのために知識を得ようと努力して
いる人の心ですら、揺さぶり、奪い取ろうとするのが感覚の喜びである。その
(65)
「心が落ち着いているとき、苦しみや悲しみはない。
喜びを覚えて、再び味わおうとする思いが『ラサ(味・快楽を覚えて再び得よ
静かに澄んだ心に自分自身の知識が自然に定着する。この知識の理解が人の悲
うとする記憶)』である。
しみや苦しみを根元から断ち切ってしまうだろう。
人に宿るこの知識は、空間のように動くことなく、どんな所にもどんな時にも
(61)
あり続ける。
「真実と真実でないことを見極める人は、感覚器官をコントロールし、落ち着く
ことができる。自分を含む世界を現している源を考え、瞑想することができる。
(66)
感覚器官を自分の道具として意志によって自由に扱える人が、この知識を確立
「逆に穏やかでない心に、真実の知識は宿ることがない。
する。
心騒がしい人は、自分自身について深く考え、瞑想することができない。
心が平和に調和することなく、どうして人は自分自身の本質こそが幸せである
(62、63)
と見極められるだろう?
「人は心惹かれるものがあると、それについてしつこく考える。
その考えはやがて “ 愛着 ” になり、愛着から自分のものにしたい、経験してみた
(67)
いという “ 執着 ” が生まれる。
「心は移り気で気まぐれな性質があるから、感覚は世界のいろいろなものに惹き
何事もなく自分のものにした時はいいが、思ったように得られなかったとき、
つけられ、惑わされ、本当に大切なことを簡単に見失ってしまう。ちょうど水
その執着は “ 怒り ” にかわる。
の上に浮かぶ船が風に揺り動かされ、目的地を見失ってしまうように。
怒りによって何をすべきか、という正しい判断と『ダルマ(調和)
』を大切さに
64
する気持ちが迷い、冷静でいられなくなる。冷静さを失えば、それまで培って
(68)
きた教えや知恵が台無しになってしまう。
「偉大な友アルジュナよ。
65
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
第 2 章 自分自身の知識「サーンキャ」についての章
自分の意志で感覚を使いこなし、心穏やかなる者に真実の知識は確実に理解さ
どんなに世界が彼に入り込もうとしても、
れる。
彼が世界にどんなに入り込んでいるように見えても、
その時、その人自身が真実となる。
彼を捕え、縛るものは何もない。
彼自身の本質のままに、心はいつも平和と静寂に溢れている。
(69)
「真実と不真実を見極めることが知識だ。
不真実を、真実だと信じこむ人には無知の闇がある。
(72)
「アルジュナよ。自分自身の真実、それは『ブラフマン(普遍な存在)』『アート
その人にとって、この世界で生きることは夢を見ているようなものだ。半分眠り、
マン(真我、真実)』と呼ばれる “ 存在 ” であると知るのだ。この知識によって
半分起きていて、夢という世界を本物だと思い込み、事実に目覚めることがな
迷いや揺れは放たれる。変ることなく、古びることなく、失われることもない
い夢遊病者のように世界に惑わされる。
知識が宿れば、必ず人は自分自身の真実を知り、自由になる。
賢者は真実を知り、その知性が無知の闇に隠されることはない。
たとえ人生の最後の瞬間でも、この知識を理解すれば、自由であり続けること
みなが真実を知らずに闇だという、この世界の本質を彼は見る。人々にとって
ができる。知識を得るのに遅すぎるということはない。」
は無知という闇に覆われた世界で、真昼のように明らかな真実に彼は目覚めて
いるから、賢者は世界に迷うことがない。
逆に、真実を知らない者に、真実だと思われている世界は、賢者にとっては何
も見えない夜の闇のようである。
(70)
「賢者を例えるもう 1 つの例がある。
海に雨が降っても、降らなくても、川が流れ込もうと、流れ込まなくなっても、
海はいつも満ちていて、変ることなく水を湛えている。
同じように賢者の心は、海のように真実に溢れて満ちている。
自分自身こそが変らずに満ちている存在であり、世界の根源であり、枯れるこ
とがないと知っている。
世界にあるどんなものが彼に向かって流れ込んできても、また流れてこなくて
も、彼の心は満ちたりたまま、揺れることがない。
(71)
「自分の主観的な “ 好き・嫌い ” から始まる欲望を手放して、賢者は自由にこの
世界を生きている。
焦がれる思いも執着も憎しみもなく、“ これは自分のものだ ” という限定もない。
“ 自分は行いをする者である ” という思い違いや縛りもない。
66
67
バガヴァッドギーター 第 3 章
「カルマ(行い)
」についての章
Karma Yoga
ポイント
◆「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」とは?
キーワード
◇「カルマ(行い)」
◇「ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)」
◇「プラクルティ(可能性、根本原質)」
◇「グナ(質)」
69
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
概要&読み取りのポイント
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
は自由になるために、必ずしもすべてを捨てる「サンニャーシー(出家・放棄)」
という生き方を選ぶ必要はありません。
クリシュナは「カルマ(行い)」と、自由を探究する手段となる「ヨーガ」に
ついて説明しました。生きる目的が「モークシャ(自由)
」であると定まったと
き、日々の「カルマ(行い)」はその目的のためになされるようになります。自
由とは、自分自身の真実を理解することでした。真実の知識を理解するために
は、疑いや迷いといった曇りのない知性が必要です。その準備をするために、
行いを適切な態度で実践することが「カルマヨーガ(行いのヨーガ)
」です。
人は行いを放棄することでは完全な自由には到達しません。この世界の性質
上、生き物の体・心・感覚は一瞬の間でも行いをしないではいられません。行
いをせずに生きられる人はいません。呼吸することも、食べることも、考える
ことも行いですから、たとえすべての行いを放棄したと思えても、放棄するこ
と自体が行いとなってしまいます。“ 自分が行いをしている、行い手である ” と
いう自我意識がある以上、人は行いから自由にはなりません。
クリシュナはアルジュナに自分のすべきことをし、行いを常に「ダルマ(調
和)
」に一致させるようにといいました。行いの結果を期待する執着から離れた
行いは、全体世界を調和させる「ダルマ(調和)」の法則に一致します。全体と
調和することで、個人の思いや感情は静まり、落ち着きます。欲望や嫉妬や怒
りなどがない心には、自然と真実の知識が宿り、人は自由の意味を理解するよ
うになるといいます。「ダルマ(調和)」に基づき、調和に捧げられる行いを「カ
ルマヨーガ(行いのヨーガ)」といい、それを行うことは世界の理解「バクティ
(献身)」もあるということです。
やがて「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」により、調和した心に知識が宿りま
す。真実の知識を理解することで、人は「モークシャ(自由)
」になります。ヨー
ガは真実の知識を理解するための手段であり、方法です。この章では、ヨーガ
の目指す最終的なゴールは知識を理解し、自由になることだと説明されます。
クリシュナは、「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」によって知識を理解し、自
由でありながらも社会の中で自分の役割を生涯果たし続けたジャナカ王を、優
れた「カルマヨーギー(カルマヨーガを修めた人)」の例として話しました。賢
者は社会での義務や役割を持ちながらも自由であり続けることができます。人
70
何が自由なのか? それはどのように達成されるのか?
その知識と「ヨーガ(方法)」についてクリシュナは教えました。
そして「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」とは、他の人の義務を代わりに遂行
することではなく、あくまでも自分に与えられたことを受け入れ、遂行するこ
と。自分のすべきことを果たすことで、自分の知性が整理され、心の落着きが
得られ、知識への準備ができるからです。
クリシュナは人の体・心・感覚は「プラクルティ(可能性、根本原質)」物質
の原因である 3 つの「グナ(質)」から成るといいました。
「サットヴァ(純質)」が優勢な心は、落ち着いていて静寂です。真実を理解
するのに適した心の状態です。
「ラジャス(激質)」は活動に象徴され、それが優勢であれば、肉体と行い、
自分が行い手であるという自覚をはっきりと持ちます。「カルター(行い手)」
つまり “ 自分は行い手である ” という自覚が、人を行いと結果の連なる「カルマ
の法則(行いと結果の因果律)」に縛りつけます。
「タマス(鈍質)」は不活発な状態であり、それが優勢な場合、人は無知で、
覇気がなく眠っています。
外側の対象から感覚を自分の内に引き戻すことで、賢者は真実に目覚めるよ
うになります。
対象についての執着や “ 好き・嫌い ” は自分自身に対する無知から生じます。
無知という暗闇は唯一、知識という明かりによって追い払うことができます。
クリシュナはアルジュナに、義務や権利を放棄して生きることよりも、無知
から生じた “ 自分は「カルター(行い手)」であるという自覚 ” を知識によって
解放つために、「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の態度で行いをすることを勧
めました。戦士アルジュナにとって、果たすべきことは “ 戦う ” ことです。それ
が危険で障害ある道だとしても、失敗することがあっても、すべきことを果た
すことが「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の態度で生きるということです。そ
れによって心の準備をし、人は真実の知識を理解します。
71
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
自分のすべきことをきちんと果たすことは大切なことです。たとえ他の人の
役割が地位や名声、権力をもたらし、魅力的で、自分のほうが上手にできると思っ
人の行いの動機
無知 ⇒ 不安、恐れ ⇒ どうにかしたい! ⇒「ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)」
たとしても、自分に求められていることを「ダルマ(調和)
」に基づいて成し遂
げることが、人を成長させることになるのです。
自分と世界について真実を知ら
アルジュナは、「人はなぜ、望んでもいないのに、罪深い行いをしてしまうの
ない。
↓
か?」と聞きました。
それに対しクリシュナは、「それは欲望である」といいました。
欲望が人に識別と理解を失わせ、不徳な行動に駆り立てるといい、欲望の背
景には自分自身の無知という原因があると教えました。
世界と自分は離れていると思う
ことでの恐れと不安。
全 体 の 中 で の 不 完 全 さ を 思 い、
恐 れ を 拭 う た め に 何 か を 求 め、
追いかける。
↓
「モークシャ(自由)」のための 2 つの生き方
どちらの生き方も同じゴール、自由へと導かれます。
カルマヨーガ(行いのヨーガ)
「カルマ(行い)」をヨーガに!
ニャーナヨーガ(知識のヨーガ)
「サンニャーサ(出家)
」して知識
を求める!
つまり行いを手段として正しい態
度で遂行すること。行いを「ダル
社会の権利と義務を手放し、
「カ
マ(調和)」に一致させ、個人の
ルマ(行い)
」を最小限にし、知
欲望やから生じる結果への期待を
識のみを求めて生きてゆく生き
放棄すること。
方。
「ティヤーガ(結果を捨て去るこ
と、捨離)」
72
そして本当のことを知らないか
願望
行いの基準が “ 好き・嫌い ” と
↓
いう思いになると、調和を乱し
欲望
がちに。結果に対しても好き・
↓
怒り
↓
悲しみ
↓
破滅
嫌いがあり、いつも納得がいか
ない。
⇒ そしてまた行いをする ⇒ 結
果 ⇒ 行いを繰り返す「サムサー
ラ(輪廻、束縛)」に。
↓
行いの基準を「ダルマ(調和)」
ら、目に見えることだけで物事
にしたとき、結果への執着がな
を決めつけ、考えだけで結論を
くなり、内側の気持ちの対立が
だしてしまい、
「ラーガ・ドヴェー
収まる。
シャ(好き・嫌い)」にとらわれる。
⇒ 調和 ⇒ 静かな心 ⇒ 真実の
知識の理解 ⇒「モークシャ(自
由)」へ。
「サンニャーサ(行いを手放すこ
と、放擲)
」
73
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
バガヴァッドギーター 第 3 章
もう 1 つの道は、知識を理解する知性を準備するために、自分のすべきことを
「カルマ(行い)」についての章
正しい態度で行い、社会の中で役割を果たし続ける生き方『カルマヨーガ(行
いのヨーガ)』である。
(1)
(*) 私
クリシュナがここでいう “ 私 ” とは、人間としての姿をとったクリシュナ個人
アルジュナはいいました。
でなく、「イーシュヴァラ(全体世界)」を指しています。
「行いの法則を維持し、行いの結果を等しく与える者ジャナールダナ、クリシュ
人の生き方の知識は「イーシュヴァラ(全体世界)」によって現されたその時
ナよ。
から、人間に知らされていました。その知識が『ヴェーダ(聖典)』に記され
あなたは、人が悩みや苦しみから自由になるために必要なのは行いよりも、知
ています。
識であるといったように思うのです。
それなのに、なぜ私に戦いという恐ろしい行いを強いるのでしょうか?
(2)
「クリシュナよ。人が自由になるためには真実の知識を理解する他にはないとい
いました。
それでいてあなたは私に戦えというのです。
きっと私の理解が足りないからでしょうが、これらの言葉は私の心を混乱させ
ています。
どうか教えてください。私がこの悩みを打ち破り、自由になるためには、“ 知識 ”
と “ 行い ” のどちらとるべきなのかを。
私ははっきりとしたひとつの道を示して欲しいのです。
」
(3)
バガヴァーン・クリシュナはいいました。
「罪無き者アルジュナよ。人が本当に自由になりたいと望んだ時、その方法とし
てこの世界には 2 つの生き方がある。これは遥か昔、世界が始まった時に、私 (*)
によって『ヴェーダ(聖典)』の中で語られた。
私は君に、真実の知識こそが人を自由にするといった。これから語る 2 つの生
き方はどちらもこの同じゴールに繋がっている。最終的に知識によって自分自
身を理解し、人は自由になる。
1 つの生き方は、すべての義務と権利を手放し、知識だけを求める生き方『サ
ンニャーシー(出家者)』として生きること。
74
(4)
「人は単に行いをせず、動かないということでは自由になれない。
行いに束縛されない “ 存在 ” である自分自身の本質を理解することが本当の自由
である。
体を動かし、頭を使い、話し、聞き、食べるなど様々な行いをしながらも “ 自
分自身が『カルター(行い手)』であるという認識 ” に縛られないことで、行い
から自由になるのだ。
それはただ単に『サンニャーシー(出家者)』として、社会の義務と権利を放棄
したとしても、叶えられない。
(5)
「この世界で生きているものは、一瞬も動かず、何の行いもせずにはいられない。
ずっと坐り続けたり、眠ったり、息をしたり、考えたり、死ですら生き物とし
ての活動がある。
この世界を現している物質の源から生まれた 3 つの『グナ(質)』は常に活動を
続ける。
純粋『サットヴァ(純質)』、活動『ラジャス(激質)』、愚鈍『タマス(鈍質)』
という 3 つの質が、すべての生き物を一時も止まることなく活動させているの
だ。
(6)
「たとえ見たり、聞いたり、触れたりという、感覚器官の動きを制御して、何も
75
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
せずにただ坐っていたとしても、坐ることすら行いである。それに体を動かさ
(10)
なくても、その人の心が感覚の喜びを思い出したり、想像したりと忙しく動い
「
『イーシュヴァラ(全体世界)』は、この世界の始まりに、人を現すと同時に行
ていているなら、それは “ 行い ” をしていることになる。
いを捧げる術を『ヴェーダ(聖典)』の中で現した。
見た目に体が動かないので静寂であるように見えても、心が感覚に惑わされ、
その中で、“ 行いを『ダルマ(調和)』に一致させ、それによって人が成長し、
騒がしければ、見た目の静寂や行いの放棄は偽善であり、嘘である。
成長した人同士がつながり、広がるように。全体の調和に行いを捧げることが、
人の最終的な願いを叶えるように ” と語っている。
(7)
「アルジュナよ。意志と知恵によって感覚をコントロールし、“ 行い ” を選ぶ基
(11)
準において自分の主観『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)
』を離れ、
『ダル
「人は自分の周りの世界を巡らせている法則に守られ、必要なものを与えられ、
マ(調和)』を基準としている人、何が正しく何が正しくないか、
を基準にして “ 行
生かされている。それぞれの法則を司る力を『デーヴァー(神々)』という。そ
い ” を選べる人は、
『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度で行いをする者である。
れらに感謝し、捧げる態度で行いをするといいだろう。
行いを自由への手段とする『カルマヨーガ(行いのヨーガ)
』の態度をもって、
彼らは君の祈りや感謝、捧げる思いを知り、物理的な目では見えない力によっ
感覚だけでなく、話したり、歩いたりする行動器官をもコントロールする人は、
て君に思いを返す。
行いをしていない振りをする偽善者より正しい道を歩んでいる。
人がする “ 行いと結果の因果関係 ” は、秩序を司る無数の法則である『デーヴァー
(神々)
』たちのつながりによって、それぞれの人の元に現れる。こんな風に、
(8)
全体と個はお互いに手を差し伸べあって関係している。調和を生きることで、
「君のしなければならないことを、結果を恐れず、やり遂げなさい。行いをする
全体との関係を強め、やがて人はあらゆる生き物が望む最高地点を目指す。そ
ことは、何もしないことよりも遥かに優れているから。
の最高地点とは生きながらにして、どこにいても、どんな時でも自由であると
生き物が何もしなければ、自分の体を維持することですら難しい。そもそも生
いうことである。それは今ここで可能であり、自分が完全に満たされ、自由な
き物として何もしないでいることは不可能なのだ。
存在であるという本質を理解することである。それが『モークシャ(自由)』で
ある。
(9)
「自分を生かすこの世界の法則『ダルマ(秩序)』に行いを一致させることが、
“行
(12)
いを捧げる ” という意味である。その態度で行いをすることが調和に従うこと
「この世界のいたるところにある世界を巡らせる力と法則は、常に人に望むもの
であり、『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』によって人は心から混乱や矛盾を取
を与え続けている。人は当たり前のように、この力が与えるものを受け取って
りのぞくことができる。
いる。
この態度以外の行いは、『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)
』から起こり、
たとえば、太陽の光や、水、呼吸する空気や、足をつけている大地、体を養う
人をいつまでも欲望と執着と結果に縛りつけ、終わりなく生死を繰り返す『サ
食べ物など。
ムサーラ(輪廻・束縛)』に捕えられる。
自分を育む力を思い、感謝し、祈り、行いを捧げるべきである。そうしないの
アルジュナよ。“ 好き・嫌い ” という思いの束縛から自由になり、行いを『ダル
は恩知らずなことだし、泥棒と同じだ。
マ(調和)』に捧げるのだ。
76
77
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
(13)
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
不徳を重ね、人生を無駄にしてしまうだろう。
「人を育み、守り、支えている世界を巡らす力と法則を理解する人は、食べ物を
食べる前に、感謝の気持ちと尊敬を捧げる。
(17)
捧げられた食物を食べる人は、不徳な行いから生じる罪の意識、不快な思いか
「自分自身の真実に喜ぶ人は、自分に満足し、寛ぐことができる。彼は自分自身
ら解放される。
を単なる個人、『カルター(行い手)』だとは見ていない。
一方、生き物を育む力を全く理解せず、敬意を示さずに、自分のためだけに何
その人にとって、個人の思いや欲望を叶えるためにしなければならないことは
かをする人は解放されることがない。自分のためだけに料理とし食べる人は、
何もない。
不徳や不純を食べているのも同然だ。
(18)
(14)
「自分自身に喜べる人は、“ 行い ” で何かを獲得することも、野望を叶えることも、
「生きているものの肉体は、食べ物から生まれる。食べ物は、大地に降る雨によっ
自分以外の何かを手に入れることも、本当の意味で自分を満たすことがないと
て育ち、実る。雨は人の正しい行いや祈りの結果によってもたらされる。この
知る。自分が幸せになるために物事をつけ足すことや、状況に頼ることは必要
結果は、すべて “ 行い ” から生まれている。
がない、ということを知る。
(15)
自分自身の本質が初めから、“ 満ちている存在 ” である、と理解したとき、そ
「祈り、儀式という行いは、『ヴェーダ(聖典)』から生まれた。
の人は自分をさらに喜ばせ、幸せにするような物事は自分の外にはないことを
知ります。あるがままで幸せであり、喜びである「アートマン(真我、真実)」
聖典は『イーシュヴァラ(全体世界)』から生まれ、この世界がある限り変るこ
が自分自身であるとわかる時、人は幸せなるために何かを求める必要性や願い
とがない。
からも解放されています。
すべてに満ちている “ 存在 ” は『ブラフマン(普遍な存在)
』と呼ばれ、
『イーシュ
ヴァラ(全体世界)』の本質であり、
『イーシュヴァラ(全体世界)
』の言葉が『ヴェー
ダ(聖典)』である。
聖典から祈りや儀式は生まれ、行いが生まれる。
行いの結果として雨が降り、食物が育ち、生き物が生まれ、人はまた行いをする。
(16)
「人が自分の行いを、世界を巡らす力と法則に捧げる態度で行えば、世界がその
気持ちに必ず応える。正しい態度でする行いが世界と親密な関係を築く方法に
なると知ったら、人はいつも『ダルマ(調和)』に生きてゆけるだろう。
秩序において、世界から必要なものを受け取り、人は自分のすべきことを祈り
と感謝の気持ちで成し遂げる。思いと敬意を “ 行い ” によって世界に放つことに
よって、世界が人を育み、守るのである。
この全体と個のつながりを見ない人は、身勝手な感覚の喜びのみにとらわれ、
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(19)
「問題の根本にある『ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)』という思いから生
まれる執着を手放し、すべきことを正しい態度で果たすがいい。
個と全体の関係を深めるために行いを捧げ、欲望や迷いで混乱した知性と心を
整えるために、
“ すべきことをして、結果を受け入れる ” という『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』
の態度で行いをする。
そうして人は初めから自由であり、幸せの源である自分自身を知るだろう。
(20)
「過去の偉大なる王ジャナカや他の王たちは、行いを自分の “ 好き・嫌い ” でなく、
何をするべきかという『ダルマ(調和)』を基準として選び、己の心を磨き、
『カ
ルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度ですべきことを果たした。
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第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
そして国の王という立場にありながら、行いを『ヨーガ』にすることよって完
私が行いをしなければ、人々に悪い例を示すことになるし、世界の混乱の原因
全な自由を得た。彼らは出家などせず、世を捨てたりはしなかった。
となってしまうだろう。
同じようにアルジュナよ。
君は王家の者として生まれた。国を守り、人を守り、秩序を守ることを望まれ
(25)
ている。
「バーラタの勇者アルジュナよ。
『ダルマ(調和・秩序)』が乱れた混沌の中で、
『アダルマ(無秩序)
』へ向かう人々
を守り導くことを任された者として、君は君のすべきことを果たすがいい。
自分自身についての知識がない人や、自分が何を求めているのかわからない人
は、熱心に物事の結果だけを求めて行いをする。
それと同じような熱心さで、賢者も行いをしているのだ。しかし、賢く知恵の
(21)
ある者は、結果についての過剰な期待や心配が無い。
「人々は、重要であると思われる人の行いに従う。その人がどんな風に世界に接
行いの結果は、法則が連なる全体世界によって与えられるものであり、個人が
し、行いをするか? 人々はそれを見て、彼に従う。
どうにかできるものではないことを賢者は知っている。だから彼は結果への執
その人が正しいことを行えば、人々は正しいことをする。
着を手放すことができる。そして『ダルマ(調和)』を生き、人々を守ることだ
望まれたリーダーである君が適切なことをすれば、世界の人々はみな君に従う
けを望むのだ。
だろう。
(26)
(22)
「アルジュナよ。私にとって、この世界で、地上や、天国といわれるすべての領
「自分自身の真実を知る者は、他人が行いで得られる結果にこだわったり、心配
したり、執着していても、彼らをけなしたり、邪魔したりはしない。
域において達成しなければならないことは何もない。達成されていないことも
自分が何者であるかをはっきりと知りながら、望まれたことを正しい態度で行
ない。私には、得ることも失うこともない。それでも私の心や体は、今もこう
うのみだ。
して君の馬車を操り、君と話し、行いをしているかのようである。
そして自分自身のことをまだ理解していない人々を励まし、導き、彼らの人生
の良き道標となる。
(23)
「どんなときでも、私が怠惰で無関心になり、行いをしなければ、人は怠惰な私
に従ってしまうだろう。楽な方に流される性質がある人々が、何もしないで楽
(27)
「行いは、体・心・感覚の集合体である『プラクルティ(可能性、根本原質)』の『グ
をしている私をみれば、そちらに流されてしまうだろう。
ナ(質の変化)』(*) によって為される。
だから私は心と体という道具を使い、止まることなく動いているのだ。
しかし自分自身の本質は、この集合体ではない。
自分自身について混乱している人は、自分は体・心・感覚であり、行い手であり、
(24)
個人であるという認識を自分に下す。
「私が行いをしなかったら、人々は怠惰な私に従い、行いをしなくなるだろう。
行いをしなければ、人の心にある “ 好き・嫌い ” という思いは行き場をなくし、
澱のようにたまり、身動きがとれなくなってしまう。人々は知恵と分別を失い、
狂気に自分自身を破壊してしまうだろう。
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(*)『プラクルティ(可能性、根本原質)』の『グナ(質)』
「プラクルティ(可能性、根本原質)」とは、この世界を現している物質の源。
その「グナ(質)」が変化して現れたものが、人間の肉体・心・感覚です。
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第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
「グナ(質)」には「サットヴァ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(鈍質)』
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
真実を知る人は、
という状態を表す意味以外に、“変化 ”、“質 ”、“美徳 ” などという意味があります。
“ 行いは人を自由にしない。だから行いを放棄せよ ” とか “ お金のために働くべ
この詩では “ 変化 ” の意味が含まれます。
きではない ” などといって、不必要に他人の人生の探求を邪魔することはしな
いものだ。
(28)
「勇者アルジュナよ。
自分の真実を知る賢者は、本当の自分とは日々変わりゆく肉体・心・感覚でも、
『カルター(行い手)』でもないことを知っている。
このことを知る人は、自分自身の本質が “ 個 ” であるという間違った自我意識の
縛りから解き放たれている。だから賢者は個人を縛る『カルマの法則(行いと
結果の因果律)』から自由なのだ。
行いを実際にするのは肉体ですが、肉体は感覚の指令で、感覚は心の働きかけ
で動いているだけです。肉体・心・感覚が動き、機能する原因となり、存在さ
せているのは「アートマン(真我、真実)」であり、それが人の真実です。
「アートマン(真我、真実)」は、肉体・心・感覚でも、「カルター(行い手)」
でもありません。
物質の源でもある「プラクルティ(可能性、根本原質)」が、行動器官や感覚
器官を現します。
(30)
「物事への切望や執着と結びついた結果を手放し、自分を縛る野心や “ これは私
のもの! ” と限定する思いを解き放ち、『イーシュヴァラ(全体世界)』に行い
を一致させるのだ。
正しいこと・正しくないことを知り、君をとりまく世界の調和を理解し、不満
も怒りもない澄んだ心で、今君に与えられたことを果たすべきだ。
アルジュナよ、戦うのだ。
(31)
「
『イーシュヴァラ(全体世界)』の力を知り、全体と関わり、その教えに生きる
人は行いから自由になるだろう。
教えを疑い、欠点を見つけようとすることなく、信頼をもって受け入れる人は、
『カルマの法則(行いと結果の因果律)』によって重ねられた過去の膨大な行い
の結果からも自由になる。
それぞれの器官がとらえる物事も「プラクルティ(可能性、根本原質)」が現
しています。
(32)
しかし「アートマン(真我、真実)」は感覚や行動器官でもなければ、その対
「だが反対に、『イーシュヴァラ(全体世界)』を視野にいれて物事をとらえるこ
象物でもありません。
「アートマン(真我、真実)」は行いをすることもなければ、物でもなく、行い
を支え、存在させている真実です。
(29)
「物質の源『プラクルティ(可能性、根本原質)』から現れた物に惑わされる人
たちは、肉体・心・感覚を自分自身だと思いこみ、自分の本質とは個人であり、
『カ
ルター(行い手)』であると考え、『カルマの法則(行いと結果の因果律)
』に縛
られてしまう。
しかし真実とそうでないことを見極めている賢者は、それを知らずにカルマに
縛られている人の助けはしても、邪魔はしない。
82
となく、理由もなく批判し、調和に反して生きれば人は迷う。
正しいこと、正しくないことという『ダルマ(秩序)』において迷い、真実にお
いて混乱し、自分を生かす大きな法則を忘れ、本当に求めていることがわから
なくなってしまう。自分勝手で利己的な思いで行いをすることで知性が迷い、
人は大切な人間性を失ってしまう。
(33)
「ここまで私が話した中で、君の中に疑問がおこったかもしれない。
なぜある人は宇宙の教えに従い、ある人は教えに従わないのか?
なぜ人は調和でなく、調和以外のことを求めてしまうのか?
83
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
人は過去の人生や、経験から積み上げられてきた性質に縛られ、それを基に行
いをする。
物事に対する人の好みは様々であるように、個々の趣向や性質は過去からの体
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
(36)
アルジュナは聞きました。
「クリシュナよ。それでは人はなぜ不徳な行いをしてしまうのでしょう?
験と記憶から成る。
望んでもいないのに、心の中にいる誰かに駆り立てられるように罪深い行いを
賢者ですら、もともと備わっている性質がある。生き物はそれぞれに特有の性
してしまうのはなぜなのでしょう?」
質をもって生きている。何者もその性質を変えることはできない。
(37)
(34)
「人にはそれぞれ “ 好き・嫌い ” という思いがあり、それは持って生まれた性質
バガヴァーン・クリシュナはいいました。
「人を不徳な行いに駆り立てる悪魔は、心の中にある『カーマ(欲望)』である。
による。
欲望は、それが叶わぬときに怒りとなる。
“ 好き・嫌い ” は誰にでもあり、人のもつ特性であるからこの思い自体は問題で
欲望は動きと力、『ラジャス(激質)』をその性質として持ち、燃える火のよう
はない。
にとどまることを知らない。
しかし、もし人がこの 2 つの思いに巻き込まれてしまったら、その思いは敵と
そして、人を一生の後悔に陥れるほど、強力で罪深い敵となることがある。
なる。
この世界において、人の敵となるものは、まさに人の心の中にあるものであると、
行いをする時に、自分の中にある思いへのこだわりをみたら、その時こそ『ダ
どうか君が知るように。
ルマ(調和)』を行いの判断基準にする必要がある。
そのように意志によって『ダルマ(秩序)』を基準して選ばれた行いは『ヨーガ』
(38)
となる。
「燃えている火は煙に隠れて、炎の輝きが見えなくなる。それと同じように、知
性の輝きは同じ心から湧く欲望にかき消され、見えなくなってしまうことがあ
(35)
る。
「人は自分に与えられたことを成し遂げるべきである。
埃で汚れた鏡の輝きは見えないように、心が欲望で曇れば、知性は見えなくなっ
たとえ他人のするべきことが簡単そうに見えて、自分の方がうまく出来るかも
てしまう。
しれないと思っても。
また知識は子宮に宿る胎児のように、そこにいるとわかっていても、月日を重ね、
自分に与えられたことがどんなに難しくても、不完全にしかできなくても、与
時間をかけて生まれてくる日を待たなければならないように、そこに宿ってい
えられたことを果たすことが大事なのだ。
るはずの知識を見るためには、時間をかけて意志と努力を持って欲望を扱わな
たとえ与えられた状況や役割を、完全に果たすことができず、死によって途中
ければならない。
で終わってしまうことになったとしても、それは為されるべきである。
84
他人のすべきことを自分と比較したり、混同したりすることがないように。そ
(39)
れは人に恐れと不安を起こすだけである。
「アルジュナよ。知識は欲望に覆われてしまっている。
人はみな、その人にしかできないことが与えられている。他人のすべきことは
欲望は、満たされることなく、貪欲に燃やし尽くす炎のように燃え続ける。欲
あくまでも他人のものだ。競わず、恐れず、自分のすべきことをまっすぐに受
望という火は、燃料をくべるほどに燃え上がる炎のように、いつまでも満たさ
け入れ、立ち向かうのだ。」
れることがない。
85
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
第 3 章 「カルマ(行い)」についての章
欲望は何が正しく、何が正しくないか、という分別ある知者にとって最大の敵
(43)
である。
「勇者アルジュナよ。何が真実で、何が真実ではないのか?
満たされることのない欲望は、分別の知識よりも強い力があるからだ。
これを見極める知識を理解すれば、君の心は静寂のまま、欲望に揺り動かされ
ることはない。
(40)
君の本当の敵は欲望という姿をしている。
「欲望は、感覚・心・知性が共に働く場所にあるといわれる。
欲望をすべて理解するのはとても難しい。なぜなら何かを望むのには理由があ
しかし、感覚・心・知性・肉体は欲望ではない。
り、その理由にはまた理由があるように、欲望はその他の因果と複雑に絡まり
欲望は肉体という場所にある感覚器官を通して、心に映る。心に映った欲望は
あっている。
知性を動かし、行いとして現れる。こうして人の心と行いに結びついた欲望は、
しかしはっきりしていることは、すべての欲望は “ 無知 ” に根ざしている。
その人を惑わせる。
自分自身の真実を知らないという “ 無知 ” が欲望の原因である。この “ 無知 ” を
破壊するのが知識である。」
(41)
「バーラタの勇者アルジュナよ。
人にとって最も大切な自由への知識を理解するために、知性を奪う罪深い『カー
マ(欲望)』を、治めなさい。
感覚と心に結びつく欲望の動きにたえず目を光らせ、欲望がやってきているの
をみたら、断固とした姿勢で向かい合い、心が引きずられないように距離をお
きなさい。
初めに感覚をコントロールすることを覚えるのだ。
欲望の奴隷となるのでない。君が欲望の王となるのだ。
(42)
「感覚は肉体よりも微かで、全身に広がっている。感覚は肉体が届かないところ
も行き渡る。それゆえ、感覚は肉体より優れているといわれる。
その感覚より微かで、大きな広がりをもつのが心だ。
感覚の届かないところに、心は広がる。そして心より優れているのが知性である。
心は迷い、ためらいもするが、知性は迷うことがない。感覚も心も知性の内に
ある。知性まで『カーマ(欲望)』の力は及んでいる。
そして知性より優れるのが『アートマン(真我、真実)
』本当の君自身だ。
自分自身の真実は、知性でも、心でも、感覚でも肉体でもない。
それらを成り立たせていながらも、それらからは影響を受けることのない “ 存在 ”
である。君自身の真実は限りがなく、永遠で、どんな欲望からも自由である。
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