新潟大学人文学部 英米文化履修コース 2010 年度卒業論文要旨 【英語学】 青木 愛........... On Adverbs in English 一ノ渡 雄貴 ... On Possessor Raising in English 玉野 真実子 ... On Pseudo-Cleft Sentences in English 伏見 響子 ....... Notes on Phrasal Verbs in English 矢沢 敬介 ....... On There-Constructions in English 横山 友恵 ....... Notes on There-Constructions in English 【英米文学・文化】 伊藤 彩香 ....... Margaret Fuller, 女性解放論研究 今井 麻美 ....... ネラ・ラーセン『パッシング』研究 ― 「気づき」に見る黒人への眼差し ― 加藤 慎二 ....... Henry. D. Thoreau 研究 ― 「一対多数」の構図から見るソローの個人主義 ― 金子 結衣 ....... エドガー・アラン・ポー研究 ― ポーはなぜ作品に絵画を登場させるのか ― 嘉村 真人 ....... フラナリー・オコナー研究 ― 救いとは何か ― 小林 瑞歩 ....... George Orwell, Coming Up for Air 研究 ― ボウリングの故郷再訪が示すこと ― 三部 恭........... マルコム X 研究 ― マルコムの目指した黒人解放運動と黒人音楽文化 ― 高木 史緒里 ... 『十二夜』に見る「外見と真実」 ― 一目惚れによって得られるものはなにか ― 高桑 麻希 ....... Abraham Lincoln 研究 ― エイブラハム・リンカンの信仰 ― 富山 美菜子 ... ジョン・スタインベック研究 ― 思想を持つものとしての母親の強さ ― 中村 祐紀 ....... 開発援助のあり方 ― Capabilities の向上を目指す ― 橋本 裕香 ....... エドガー・アラン・ポー研究 ― ポー作品に見られる実父 David Poe ― 星 彩香 ....... ラルフ・ウォルド・エマソン研究 ― 教師としてのエマソン ― 丸山 その子 ... J.D.サリンジャー研究 ― 登場人物達の肯定的側面について ― 村山 もと実 ... 『お気に召すまま』研究 ― ジェイクイーズに見るシェイクスピアの人生観 ― 森 瑶子 ....... D. H. Lawrence: A Study of Women in Love ― Women in Women in Love ― 柳田 友紀恵 ... James Matthew Barrie, Peter Pan 研究 ― who would not be a man ― 山田 綾美 ....... アメリカにおけるマイノリティー研究 ― ゲイ政治家ハーヴェイ・ミルクが目指したもの ― 横山 純........... Thomas Hardy, Under the Greenwood Tree 研究 ― メイボルドの二面性 ― -1- 卒業論文概要 新潟大学人文学部英米文化履修コース 青木 愛 On Adverbs in English 本論文は、英語における副詞の生起から見た句構造の研究である。副詞は、一文中の様々 な位置に現れうるが、副詞の種類によって、その生起可能位置は異なる。 (1) 文副詞:probably a. Probably Horatio has lost his mind. b. George probably has read the book. c. Horatio has probably lost his mind. d. *Horatio has lost his mind probably. e. Horatio has lost his mind, probably. (2) VP 副詞:completely a. *Completely Stanley ate his Wheaties. b. *George completely has read the book. c. George has completely read the book. d. Stanley ate his Wheaties completely. (3) 文副詞・VP 副詞の両方可:cleverly a. Cleverly (,) John dropped his cup of coffee. b. John cleverly dropped his cup of coffee. c. John dropped his cup of coffee cleverly. Jackendoff(1972)は、意味的分類によって、副詞の生起位置を予測できると論じている。 彼の分類を構造的に説明するために、Andrews(1983)、Stroik(1990)、Ernst(1994)のそ れぞれで仮定された、階層性をもつ動詞句構造の妥当性を、文中に複数生起した副詞の意 味解釈および副詞句の否定極性表現認可・束縛を用いて検証した。 さらに広範な事象を構造的に記述するために、Koizumi(1995)で提案された分離動詞句仮 説を採用した。 (4) [AgrSP Subj [TP T [vP tSubj [v’ V [AgrOP Obj [AgrO’ tV [VP tObj tV ] ]]]] vPAdv × VPAdv VPAdv ]] vPAdv この仮説に従えば、いずれの副詞も動詞とその目的語名詞句の間には位置できない事実を、 副詞が意味内容をもつ範疇の投射にしか付加できないとすることで説明できる。また、従 来 VP 副詞としてまとめられてきた副詞は、さらに vP 副詞と VP 副詞の二種類に分類され ることが分かった。動詞や目的語など、副詞以外の要素の移動を経て表層構造が形成され ると仮定することで、副詞の分布は統語的に説明可能となる。さらに、遊離数量詞 all が共 起した場合にも、副詞が予測通りのふるまいを見せるかを調べた。その結果、Radford(1997) の提案に沿って、Koizumi の分析に修正を加えた。 最後に、副詞の右方付加の必要性について言及した。上記の分析では、副詞の右方付加 を前提としているが、一般的な二又枝分かれ構造で許されるのは、左方付加のみである。 副 詞 に つ い て は 左 右 両 方 へ の 付 加 が 可 能 で あ る こ と を 、 Pesetsky(1989) お よ び Takano(2003)の議論を用いて論じた。 -1- 卒業論文概要 一ノ渡 雄貴 新潟大学人文学部英米文化履修コース On Possessor Raising in English この論文では、Baker (1988)で論じられている「所有者上昇:Possessor Raising (PR)」 現象を検討し、彼の「編入」による分析が利点を有する一方で言語事実を正確に捉えきれ ていない点を指摘し、ネイティブチェックを基に英語、フランス語、ドイツ語に共通する 意味特性から、統語的にも共通した枠組みでこの現象を捉えることを提案する。所有者上 昇現象とは、次のようなものである。 (1) a. I hit Mary’s arm. (arm=Mary’s) b. I hit Mary on the arm. (arm=Mary’s) 「上昇」 し、 動詞の目的語になるような振る舞いをしている((1b))。 (1a)の Mary が属格句から チェワ語については以下の例がある。 (2) a. Mphatso a-na-thyol-a mwendo wa-mwana. “Mphatso broke child ‘s leg.” b. Mphatso a-na-thyol-a mwana mwendo. “Mphatso broke child leg.” 問題点として、Baker の説明では(2)の例文の意味の違いを説明できないということが挙 げられる。(2a)は英語の(1)の例と同様の意味だが、(2b)は「child の脚を折ることによって child 自身を折る」という強い意味を持つ。さらに、英語において文中の要素が変わると所 有関係が成り立たなくなる事実も説明できない。 (3) ?? I froze Mary on the arm. (arm≠Mary’s) (4) ?? I hit Mary on the pen. (pen≠Mary’s) そこで、属格句から所有者が上昇して別の文が派生するという Possessor Raising という統語操作 は存在しないことを主張する。さらに、英語の例を観察し、以下の定義を打ち出す。 ・ 部分表現(Part Expression): 属格句や、(1b)のような on-the X 句を含む文や表現で、部 位を特定するもの。 ・ 非部分表現(Non-Part Expression): ‘I hit Mary on the arm.’ というような部分表現に対 し、‘I hit Mary.’ というような表現で、部位を特定しないもの。 そして、これらの定義と共に以下の 3 つの一般化を提案する。 ・ 非部分表現一般化:部分表現は、非部分表現が文法上・意味上可能な場合、そしてその 場合のみ可能である。 ・ 引離し不可能性の必然性:on-the X 句の X は、引き離せないもの(衣類等を含む)でな ければならない。 ・ 能格動詞(break, freeze, etc…)は非部分表現を許さない。 また、以上のことがフランス語、ドイツ語でも観察でき、少なくとも 3 言語で共通して いることを指摘する(ドイツ語の例は省略) 。 (5) (6) (7) (8) Je l’ai l’ frappe au bras. (I hit Mary on the arm.) ?? J’ai casse Marie sur le bras. (??I broke Mary on the arm.) ?? J’ai tape Marie sur le stylo. (??I hit Mary on the pen.) ?? J’ai coupe Marie sur le pere. (??I cut Mary on the father.) さらに、hit 系と break 系の動詞では文の意味が異なるという共通した事実について、こ の二種類の動詞がそれぞれ異なる構造を取り、それに応じて意味役割付与が異なることが 原因であるという提案をする。 ・hit: [vP I[v’[v hiti][AgrOP Maryj[AgrO’[AgrO ti][VP PP[P’[P on][DP PRO[D’[D the][NP arm]]]]][V’[V ti][NP tj]]]]]]]. ・break: [vP [vP I[v’[v brokei][AgrOP Maryj[AgrO’[AgrO ti][VP [VP[V ti][NP tj]][PP[P’[P on][DP PRO[D’[D the][NP arm]]]]]]]]]]]. -2- 卒業論文概要 玉野 真実子 新潟大学人文学部英米文化履修コース On Pseudo-Cleft Sentences in English 本論文は英語の疑似分裂文に関する研究である。疑似分裂文は、what 節を主語とする連 結詞構文である。 (1) a. What John is is important to him. b. What John is is important to himself. (Williams 1983) 一見、2つの文は同じように思われるが、(1a)は疑似分裂文ではなく、自由関係節構文であ る。(1a)の what 節は指示的に使われ、John の地位や職業を表している。(1b)が疑似分裂文 である。この疑似分裂文について、連結詞の削除、疑問文、定形・非定形節、繰り上げ構 文、否定、助動詞の観点から比較・検討した。例えば、疑問文、定形・非定形節では以下 のような文法性の判断の違いがみられる。 (2) a.* Is What John is important? (Higgins 1979) b. Was what John bought a story about Nixon? (3) a.* We consider what John is (to be) tall. b. We believe what he’s washing to be a gorilla. (Culicover 1977) (Higgins 1979) (Kuno 1977) Higgins(1979)は、(2a)、(3a)のように、疑似分裂文を基にしたこれらの構文は、非文法的 であると判断する。これに対し、Kuno(1977)、Culicover(1977)は文法的だと判断している。 この違いについて、CP 分析と IP 分析を採用し、構造的に考察した。Higgins が扱ってい る例文の文法性は、what 節が spec-CP にあると仮定することにより説明することができる。 これに対し、Kuno、Culicover が扱っている例文の文法性は、what 節が spec-IP にあると 仮定することにより説明することができる。 Williams(1983)は、焦点構成素を主語とした、いわゆる「倒置した」疑似分裂文が基底 構造だと仮定している。 (4) Important to himself is what John is. (Williams 1983) 「倒置した」疑似分裂文が自由関係節構文と同じようにふるまうので、このような「倒置し た」疑似分裂文が基底構造を反映していると説明した。 (5) a. Is important to himself what John is ? b. Is what John is important to him? (6) a. Important to himself seems to be what John is. b. What John is seems to be important to him. 以上のことから、「倒置した」疑似分裂文が基底構造を反映しており、表面的な語順はこ こから派生したものであると考えられる。また Higgins、Kuno、Culicover の判断による 容認可能性の相違は、CP 分析と IP 分析を採用することにより説明することができると結 論付けた。 -3- 卒業論文概要 伏見 響子 新潟大学人文学部英米文化履修コース Notes on Phrasal Verbs in English この論文は英語の句動詞についての考察である。句動詞とは、動詞と不変化詞の結合の ことである。不変化詞には in, on, out などがあり、句動詞は表面上動詞と前置詞や動詞と 副詞の結合によく似ている。そのため、最初に句動詞とその他の結合の統語的差異を明確 にする。不変化詞と前置詞の大きな違いは、不変化詞はそれ自体では目的語をとらないが、 前置詞は目的語をとるということである。これは文末に不変化詞を置くことができるのに 対し、前置詞は文末に移動させることができない事実から明らかである。 (1) a. The man figures the answer out. b. *He believes that man in. 次に句動詞の意味的分類を考察した。Fraser(1984), Shimada(1985), Quirk et al.(1985) の 分 析 を も と に 、 句 動 詞 の 意 味 的 特 性 を ま ず 2 つ の ク ラ ス 、 literal(語 義 ど お り ) と idiomatic(イディオム的)に大きく分類した。句動詞全体の意味が動詞と不変化詞の個々の単 語の意味から構成されている場合は literal のクラスにあてはまり、動詞と不変化詞の個々 の単語の意味からは推測できない意味を持つものは idiomatic のクラスにあてはまる。さら に literal のクラスを adverbial meaning(副詞的な意味を持つもの), aspectual meaning(ア スペクト的な意味を持つもの), metaphorical meaning(比喩的な意味を持つもの)という3 つのカテゴリーに分類した。 (2) a. This program is rubbish. I wish you’d switch off the TV. b. Please burn up this trash. (adverbial) (aspectual) c. She stepped in to stop the argument from becoming more serious.(metaphorical) d. Don’t give up too easily! (idiomatic) また、句動詞の統語的分析を考察した。句動詞の統語分析については主に Kayne(1984) の Small Clause Analysis(小節分析)と、Stowell(1981)や Radford(1988)による Complex Verb Analysis(複合動詞分析)がある。小節分析は句動詞の基本構造を[V [sc NP Prt]] とする 一方、複合動詞分析では[v’ [v V Prt] NP]としている。 最後に意味的分類と統語分析との関連性を提案した。”literal”のクラスでは NP と不変化 詞が小節を成し、それらが主語述語の関係にあると考えられるため小節分析があてはま り、”idiomatic”のクラスでは句動詞が一つの動詞と同じように機能するため複合動詞分析 が適用できると結論付けた。 -4- 卒業論文概要 矢沢 敬介 新潟大学人文学部英米文化履修コース On There-Constructions in English この論文は英語の there 構文の小節に焦点をあてた研究である。小節というのは、主部と 補部を含んでいるが、動詞を持たない構造のことをいう。この論文で扱ったことは大きく 二つに分けられ、一つは日本語と、英語と、there 構文におけるそれぞれの小節の比較であ る。もう一つは、there 構文の末尾に出てくる要素が場所を表すものと、場所を表さないそ れ以外の要素の場合での振る舞いの違いについての研究である。 以下の例からもわかるように、英語の there 構文においては、主語句からの要素の抜き出 しが可能であり、一方で叙述の述部の抜き出しは認められていない。 (1) Whoi was there a picture of ti hanging on the wall? (2) *How happy was there someone? (Culicover and Wilkins 1984) (Williams 1984) 英語のそれ以外の小節の構造では、この結果は得られず、逆の結果になる。つまり、主 語句からの要素の抜き出しは認められていないが、叙述の述部の移動は可能になっている。 しかし、日本語の小節においては英語の there 構文の小節と同じ振る舞いをすることがわ かった。このことを本研究では、英語の consider 型の小節の場合の例文と、日本語の小節 の例文を使いながら比較分析していった。 There 構文では、文の最後に位置する要素が場所を表すものと、それ以外を表す要素で振 る舞いが異なっていることがわかった。つまり、以下に示す例からわかるように(3a)は非文 になるが、(3b)は可能であるのだ。 (3) a. *There was someone sick but there wasn’t φ dead. (Williams 1984) b.There was someone in the parlor, but there wasn’t φ in the garden.(Williams 1984) 場所表現については、動詞句の内部か外部かによってとらえ方が異なる。(3b)の文では、 場所表現が動詞句の外部であって、この例のような場所表現は、 「場面指定」として機能す る。そして、動詞句の外部であるので、動詞句削除が適切に行われている。一方で、(3a) の文の最後に位置する要素は場所表現ではない。つまり、「場面指定」として機能すること はできない。また、(3a)の dead は名詞の述部であり、小節の一部である。しかし、動詞句 削除によって削除されていない。このことから、動詞句削除によって小節の一部である someone だけが削除されていることになる。これらの分析により、場所表現は、出来事の 起こった場面を示す表現として機能し、動詞句の外部であり、それ以外の要素は小節の一 部であるため、動詞句の内部であることがわかった。 -5- 卒業論文概要 横山 友恵 新潟大学人文学部英米文化履修コース Notes on There-Constructions in English この論文は There 構文の小節構造に関する研究である。小節とは動詞を欠いているが主 述関係を成している構造のことである。Stowell(1981)の分析によると、(1a)のように be 動 詞の後に続く要素は小節を形成し(つまり、someone と happy が主述関係にある)、小節が 述部の最大投射となるため、述部の wh 移動は不可能である。一方で Williams(1983,1984) は Stowell の小節分析の不備を指摘し、(2)のように述部が wh 移動できる例を示している。 (1) a. There was someone happy. b. * How happy was there someone? (2) a. b. I consider Bill happy. How happy do you consider Bill? これらより、英語の小節でも Stowell の分析方法は特に There 構文に適するものである ことが分かった。また、述部の移動に関連して Kikuchi and Takahashi(1991)による英語 (consider 文)と日本語の小節構造の比較を参考にした。consider 文では Agr が主要部とな り、主語は格照合のために AgrP の指定部に繰り上がるので、外部主語を持つ構造になる。 wh 移動しているのは AP 全体である。これに対し日本語には Agr がないので内部主語を持 ち、小節が述部の最大投射となっている。wh 移動しているのは中間投射なので、非文法的 である。そこで、日本語の小節構造は Stowell の分析に合うという提案を採用し、There 構文と日本語の小節構造が類似していると主張した。したがって、There 構文と consider 文における述部の移動については小節の主語位置と述部の範疇のそれぞれに、以下のよう な構造上の相違があると論じた。 (3) a. * How happyi was there [AP someone [A’ ti ]]? b. [AP ti [A’ How happy]]j do you consider [AgrP Billi Agr tj]? しかし、There 構文でも場所句を伴うと要素の統語的操作が可能になることが、以下のよ うな動詞句削除の例において示される。 (4) a. b. There was someone sick, *but there wasn’t φ dead. There was someone in the parlor, but there wasn’t φ in the garden. これについては、Williams は場所句を付加部とみなすことで解決している。だが、場所 句が be 動詞の補部であるとするならば動詞句内に位置することになり矛盾が生じてしまう。 この問題において Aki(2008)に従って、scene‐setting の概念を採用し、場面設定の時のみ 動詞句外要素になると考えることにより解決でき、統一的な分析が可能になると結論付け た。 -6- 卒業論文概要 伊藤 彩香 新潟大学人文学部英米文化履修コース Margaret Fuller, 女性解放論研究 本論文では、Margaret Fuller(1810-1850)の女性解放論の位置づけを示し、彼女の主 張した女性の自立や男女の平等について分析した。Fuller が述べる結婚における男女の平 等に関して、いかに当時の時代背景と Fuller 自身の宗教観が反映されていたかを示し、そ して、Fuller が理想とする自立した女性が具体的には定義されなかったということを明確 にした。 第 1 章では Fuller の女性解放論としての主著である Woman in the Nineteenth Century (1845)の中で彼女が語っている、男女の平等と女性の自立に関して、結婚においての男女の 平等について語られるとき、その主張は結婚という枠組みや、中産階級の女性などに限定 されていたというフェミニズム論の視点からの批判があることを示した。 第 2 章においては、Fuller の生きた時代(1810~1850 年)のアメリカにおいて、宗教観 が宗教的権威よりも個人の信仰の正しさに向かっていた事、そして、Fuller 自身もその影 響を受け、個人の中で信仰を深めていた事を示した。また、Fuller は結婚における男女の 結びつきの完璧な形として宗教的な結びつきの形を述べており、Fuller の主張には、彼女 自身のキリスト教的宗教観が反映されていることを示した。 第 3 章では、Fuller が述べた結婚における男女の関係の最適な形が、互いに尊敬し合い、 知性を持った関係であり、そこに友情の関係があること、そして、もっとも理想的な形と は、そこに宗教的むすびつきがあるものだと彼女が述べていることを示した。Fuller の示 す友情の関係のある結婚した男女の例として、特に Madame Roland(1754-1793、フラ ンス)や Mary Wollstonecraft(1759-1797、イギリス)について詳しく言及されており、 彼女の主張する理想の結婚における男女の平等には、自立した女性がどのような存在かと いう議論や具体的な定義はない。Fuller が自立した女性として支持する人物がおり、Fuller の主張は彼女たちが具現化しているものだったということを明らかにした。また、George Sand(1804-1876、フランス)に対する Fuller の評価は、Sand の作品に対しては支持す るものの、彼女が夫と離婚し、結婚のむすびつきを破ったことについては支持しておらず、 それは Fuller が結婚の結びつきや結婚に対する神聖さを重視していたからだということを 明らかにした。 以上のことから、Fuller の女性解放論において語られる「結婚における男女の平等」に 関して、彼女は結婚という枠組みの中で、女性の自立について明確には述べられなかった ことを示した。Fuller の女性解放論について、彼女が結婚における男女の平等について語っ たとき、そこには Fuller 自身の個人的宗教観があったこと、そして、そこで彼女が語った 自立した女性とは、実在した人物を紹介することで語られ、そこには具体的定義や明確な 説明がなかったと結論付けた。 -7- 卒業論文概要 今井 麻美 新潟大学人文学部英米文化履修コース ネラ・ラーセン『パッシング』研究 ― 「気づき」に見る黒人への眼差し ― 『パッシング』Passing (1929)では、二人の肌の白い混血の黒人女性、アイリーンとクレ アが主人公として登場する。本論文では主に語り手であるアイリーンに焦点を当て、クレ アの存在が彼女にもたらす黒人への眼差しの変化を明らかにすることを目的とした。その ため、 「気づき」をキーワードに、その変化を彼女とクレアを結びつける「人種への忠誠心」 に探った。 第一章では、アイリーンの黒人種への帰属意識と黒人への眼差し(帰属理由)を考察し、 「人種への忠誠心」が何に起因するものなのかを示した。アイリーンは黒人種に強い帰属 意識をもっているが、それは白人の価値観を無意識的に内面化した黒人中産階級としての 自尊心に基づくものであった。そこから透けて見えた彼女の黒人への眼差しとは、黒人に 対する個人的な「愛着」ではなく、一滴の「血」のつながりから生じる黒人種への「義務 (感)」であることが明らかとなった。彼女は「人種への忠誠心」をその断ち切りがたい「義 務感」に見出しているため、同じ黒人種に属するクレアを裏切ることができないのであっ た。 第二章では、クレアの黒人への眼差しを明らかにし、アイリーンのそれとの照応性を示 した。“I know”と全能を誇る語り手としてのアイリーンは、クレアが黒人に対して「愛着」 know を持っていないと主張する。しかし、クレアが夫に出自が知れてしまう危険を冒しても黒 人との交際を希求するのは、彼女が黒人を「愛着」とも言える「深い絆」の中に見ている からに他ならなかった。クレアは彼女と対照的に「義務感」の中でしか黒人を見られない アイリーンの盲目性を“You can't know”と繰り返し指摘し、アイリーンのこれまでの黒人へ know の眼差しを大きく揺るがす「気づき」を誘発していたことが明らかとなる。 第三章では、アイリーンの「気づき」がもたらす彼女自身の黒人への眼差しの変化を示 した。 「気づき」は彼女に「血」のつながりによって課せられる黒人種への「義務」の重み を真に自覚させるものであったため、彼女はその抗い難い「義務」に窒息感を募らせる。 しかし、一方で盲目に気づいた後の彼女には、「人種への忠誠心」とは異なる「彼女自身へ の忠誠心」が生まれていた。それはクレアのように黒人を「義務」ではなく、「愛着」の中 に見て生きていきたいという願望の表れであることが明らかとなる。そして、この願望に は、彼女が家族という黒人コミュニティに愛情を感じられないために、「深い絆」において 彼らとのつながりを切望する彼女の苦悩が隠されていたのであった。黒人が愛されるべき 人種であるという彼女の自覚は、高まるクレアへの反感に反して皮肉にもクレアとの絆を 一層深め、以前にも増してクレアを裏切ることを拒ませるのであった。 以上のことから、アイリーンの黒人への眼差しは「義務」から「愛着」に変化したこと が提示された。彼女は人種差別社会において、自身が社会的に「パッシング」する気がな くとも、他者によってパスさせられてしまう可能性のある白い肌をもつ。従って、彼女は 肌の黒い黒人よりも一層、無意識的に白人の価値観を内面化せざるを得ず、足元にある黒 人としての生活の中に「望ましい自己」を見つけることができないのである。それは正に、 人種差別という社会構造が彼女に課した盲目であった。 -8- 卒業論文概要 新潟大学人文学部英米文化履修コース 加藤 慎二 Henry. D. Thoreau研究 ― 「一対多数」の構図から見るソローの個人主義 ― ヘンリー・D・ソローは、ウォールデンの森での独居生活に代表されるように、森の隠者 や世間からの逃避者など、俗世間を顧みない個人主義者であったと評価されることが多い。 本論文では「一対多数」の構図という観点を提起し、ソローの個人主義の性質を再検討す る。ソローの行為は、個人の内面から発する“higher laws”という概念に立脚しており、そ れは社会一般の法律よりも重視すべきものである。ソローの個人主義はこの概念を源とし ており、それに基づいた行為には「一対多数」の構図が見られると考えた。 第一章では、ソローの森での独居生活と納税拒否による投獄事件に注目し、ソローの個 人主義思想を考察する上で「一対多数」の構図が有効な手掛かりとなることを示した。二 つの事柄は「奴隷」という言葉で共通している。どちらの行為にも多数派的生活、多数者 の支配に盲目的に従うのではなく、自己の“higher laws”に従って行動すべきだという主張 が見られた。そうしたソローの姿勢に、多数派支配に抵抗し、個々人の良心を尊重する「一 対多数」の構図が適用されると考えた。 第二章では、講演活動を通じてソローの「一対多数」の構図が理想的な形へと変化して いったことを明らかにした。“higher laws”は個人主義の極論とも言える思想であるため、 その行為は自己完結的なものに陥りがちだが、講演を通じて、ソローの意識が近隣住民た ちに自己改革を積極的に訴える姿勢へと変化したと考えられる。また個人が“higher laws” に従うことで、個人―州―連邦という段階を経て、いずれは大規模な社会改革にいたると いう過程が、ソローの「一対多数」の構図の理想形であると定義した。 第三章では、ソローの“higher laws”による改革という非常に観念的な思想が、同時に高 い実効力を持つということに注目し、本論文ではソローの「一対多数」の構図は市民運動 を促す性質を持つということを提示した。ソローの支配権力への抵抗思想は、キング牧師 やガンディーなどの偉大な指導者に影響を与え、自然を愛する姿勢は現在の環境保護運動 の基盤を築いた。また市民運動の目的が達成されるためには、人民一人一人が社会に働き かけ、問題を解決しようとする姿勢が何より必要とされる。個々人が自らの良心に従って 行動し、政府の方針をも左右する力になり得るというこの構図は、まさしくソローが唱え た“higher laws”の改革と同義である。この点で、ソローの「一対多数」の構図は、必然的 に人民の奮起を促すと言える。 以上のことから、ソローの個人主義は社会から逃避するような性質のものではなく、自 己の“higher laws”に忠実に従い、行為の出発点として個人に徹底的に固執するが、ひとた びそれがなされた場合、その思想が促す行為の終着点は個人の自己完結的な領域にとどま らず、州政府や連邦政府にまで至る高い拡大性を持つものだと言えると結論付けた。 -9- 卒業論文概要 新潟大学人文学部英米文化履修コース 金子 結衣 エドガー・アラン・ポー研究 ― ポーはなぜ作品に絵画を登場させるのか ― エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe (1809-1849)の「メッツェンガーシュタイン」 “Metzengerstein”(1832)、 「約束ごと」“The Assignation”(1835)、 「アッシャー家の崩壊」“The Fall of the House of Usher”(1839)、 「楕円形の肖像」“The Oval Portrait”(1842)の 4 作品に は絵画が登場し、その絵を目にする登場人物は皆同じような反応を示す。それは、ポーが 絵画に共通の役割を持たせているからではないだろうか。本論文では彼が作品に絵画を登 場させる理由を明らかにすることを目的とし、考察を進めた。 第 1 章では、先に挙げた 4 作品の中で絵画が登場する場面を比較した。その鑑賞者たち はそれぞれ異なる絵を見ているのにも関わらず、自分の意思に反して視線が絵画の方に向 かったり、ある詩句が本能的に口を突いて出たり、なぜだか分からないが震えたり、目を 閉じる衝動にかられたりするなど、同じような反応を見せる。よって、ポーが作中の絵画 に、鑑賞者の本能に働きかけ、自分では説明することのできない動きを生じさせるという 役割を与えていたと考えられるのだ。 それではなぜ、そのような役割を持つ装置として彼は絵画を選んだのだろうか。第 2 章 ではその疑問に深く関わると考えられるピクチャレスク picturesque の流行について触れ る。ピクチャレスクの画法とは、目の前に広がる景色をそのまま描くのではなく、描きた いものをあらかじめ念頭に置き、それに従って意図的に景色を配置するという描き方であ り、それは鑑賞者の目を強く意識しているという特徴を持つ。ピクチャレスクの流行は文 学にも影響を及ぼし、多くの風景文学作品を誕生させることとなった。しかしポーは、た だ風景描写をするだけでは意味がなく、主観的な感情に従って描写することが重要である と考えていた。 第 3 章ではまず、 「アッシャー家の崩壊」の冒頭の建物の描写がピクチャレスクの特徴を 備えていることなどから、ポーが視覚を意識して作品を書いていたことを指摘し、主題に ついての考察に入る。ピクチャレスクな絵画を描くという過程は視覚を強く意識したもの であるという点、ポーが視覚を意識して作品を書いていたという点、さらに、ピクチャレ スクな絵画は観賞者の本能を刺激するということと、作品に登場する絵画は観賞者の本能 に働きかけるということから、ポーはピクチャレスクの流行をパロディ化するために、作 品に絵画を登場させていたと考えられるのだ。さらに、作品に登場する絵画を、観賞者の 感情に変化をもたらすものとして書くことでポーは、人間の主観的な感情に関連付けるこ となく、ただ風景を描写する風景文学作家たちに疑問を呈していたということも考えられ るのではないだろうか。 - 10 - 卒業論文概要 嘉村 真人 新潟大学人文学部英米文化履修コース フラナリー・オコナー研究 ― 救いとは何か ― 本論文ではフラナリー・オコナーFlannery O’Connor (1925-64)の『賢い血』Wise Blood (1952) を取り上げ、彼女にとっての救いとは一体どのようなものなのかを考えていく。 『賢 い血』の中で主人公であるヘイゼル・モーツは売春婦であるレオラ・ワッツ夫人、自らの 血が賢い血であると信じるイーノック・エマリー、盲目の宣教師エイサ・ホークス、その 娘であるサバス・リリー・ホークスらに出会う。キリストを信じていないモーツは車を手 に入れると「キリストのいない教会」を説き始めるようになる。しかしその教会は全く見 向きもされず、彼が興味をもった宣教師の盲目は実は偽りであり、さらに車を突然警官に 壊されてしまう。その後モーツは自分の目を石灰で潰すなどして苦行僧のように暮らし、 最終的に死んでしまう。しかし彼の世話をする宿の女主人であるフラッド夫人が、彼の手 を握りながら目をつぶると、モーツが光になる光景が見える。 第 1 章では救いを「それぞれがあるべきだと思っている状態に達すること、または近づ くこと」と定義する。また様々な観点から光の重要性を確認する。そして、光になるモー ツを見ることから救われていると考えられ、救われている状態への変化がはっきりと確認 できるフラッド夫人を取り上げる。最後に、富への執着心が無くなるという彼女の変化は 他の短編に登場する人物に通じるところがあり、その変化こそがオコナーの救いの第一歩 であるということを述べる。 第 2 章ではモーツの分身であるとも言われるイーノック・エマリーを取り上げる。彼は 物質的なものへの執着が最初から無く超自然的なものを信じ行動していたが、最後にそれ までとは異なり物質的なものにより軽々しく望みを叶えようとしてしまう。そしてその結 果として近づきつつあった彼の望みからも離れてしまう。これらのことから、血や予感と いった超自然的なものがオコナーの救いの重要なポイントであると述べる。 第 3 章では視覚ではとらえることのできない光を「見た」のではなく、そのような光に 「なった」モーツを取り上げる。そして、彼が目に見えるものばかりを追い求める青年で あるということを述べる。また彼の車が壊されたことにより、目に見えないものへ意識を 向けるように変化したということ、それは必ずしも神ではないことについて論じる。 以上のことから、オコナーのあるべき状態とは、神、罪、愛情、血、予感、魂といった 五感で知覚できないもの存在を認め求めることができる状態であると考えられる。彼女の 作品での救いの議論になると、オコナー自身の解説や講演などから、神の恩寵の有無とい う曖昧な基準で判断がなされてきている。しかしそうではなく、その人物が五感で知覚で きないものの存在を受容できるようになったか否か、あるいはその余地があるかないかで オコナー作品の救いの有無は判断されるべきなのである。 - 11 - 卒業論文概要 小林 瑞歩 新潟大学人文学部英米文化履修コース George Orwell, Coming Up for Air 研究 ― ボウリングの故郷再訪が示すこと ― ジョージ・オーウェル(George Orwell)の『空気を求めて』(Coming Up for Air, 1939)は、 主人公ボウリングが閉塞感漂う生活から逃れ、故郷ロウワー・ビンフィールドを再訪する 話である。本論文では、ボウリングの故郷再訪が彼の過去志向を払拭するための旅であっ たことを証明し、旅を通して彼の現実を受け入れる態度(accepting)が消極的な態度から積 極的な態度へと変化したことを論じた。 第一章では、ボウリングの過去志向の起因として、郊外という場所と第一次世界大戦前 後の彼の生活を検証した。ニセモノが溢れる郊外は表面的には立派だが、理想と現実の落 差や俗物性が際立っており、ボウリングはそのような郊外を嫌悪している。また、第一次 世界大戦によって彼が永劫不変と信じていた世界が打ち砕かれ、世の中への不信感を現在 まで引きずることとなる。そのため、ボウリングは安心感や持続感のあった過去の世界へ と感傷的に浸るのである。 第二章では、知識人ポーテアスとミラー(Henry Miller)の類似性を証明し、故郷再訪前の ボウリングとポーテアスの類似性を示した。ポーテアスとミラーは現実に対して無関心な 態度を貫いており、消極的な accepting の態度を示している。過去志向にとらわれ、現実に 半ば諦めを感じているボウリングも同様である。そして、彼はポーテアスを通して自身の そのような態度を悟り、過去志向の無意味さに気づかされることとなるのである。 第三章では、ボウリングの故郷再訪が過去と折り合いを付けるための旅であったことを 証明した。ポーテアス訪問や、たき火の燃え殻の出来事を通して、ボウリングは現実をしっ かりと受け入れて生きていこうと決意する。彼はあえて故郷へ向かうことによって、自身 の過去志向に終止符を打とうとするのである。それは故郷再訪前後の彼の様子や、“Coming up for air!”、“I’m the ghost myself.”、“I knew”等の語りから読み取ることができる。また、 旅を通してボウリングが過去志向を払拭したことによって、彼の accepting が消極的なもの から積極的なものに変化したことが証明される。 残る問題は、オーウェルがボウリングという人物を描いた意図である。当時のイギリス は昔の栄光にすがりついたままであり、ボウリングと同様に過去に執着して後ろ向きだっ た。すると、当時の読者が『空気を求めて』を読んだ時に、ボウリングやポーテアスの態 度が自身と似ていることに気づかされたのではないだろうか。丁度ボウリングがポーテア スを通して自身の態度に気づいたように、オーウェルはわざと故郷再訪目的を書かないこ とによって、読者にそれを読み取らせることを要求したのである。実際に、 『空気を求めて』 が出版された約 3 カ月後に第二次世界大戦が開戦した。そのような不安定な世の中でも、 ボウリングのように生きていくことをオーウェルはイギリス国民に望んでいたのである。 - 12 - 卒業論文概要 新潟大学人文学部英米文化履修コース 三部 恭 マルコム X 研究 ― マルコムの目指した黒人解放運動と黒人音楽文化 ― マルコム X(Malcolm X 1925-1965)はアメリカにおいて黒人公民権運動が高まりを 見せた 1950 年代から 60 年代にかけて活躍した黒人指導者の一人である。 彼はネイショ ン・オブ・イスラム(NOI : Nation of Islam)というイスラム教信奉者による黒人分離主 義を唱える組織に属しており、しばしば、白人と黒人の人種統合と非暴力による公民 権運動の遂行を訴えたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr. 1929-1968)との比較対照の引き合いに出され、過激な発言を取り上げられては「扇 動家」や「革命家」と称され、黒人による白人憎悪のシンボル的存在としてマスコミ にその名を広められた。志半ばで暗殺という形でその生涯を閉じてしまった彼の活動 のその先とは何だったのか、歴史の”IF”を歴史的事実を根拠に探究していくことが 本論文の要旨である。そして、マルコムが暗殺されなければ黒人音楽に黒人解放運動 の将来を見た可能性がある、とした仮説を提唱した。この仮説はアフリカ訪問を通し、 彼がアフロ・アメリカン統一機構の設立とその綱領を発表した際に黒人解放運動遂行 にあたり黒人文化を重要視していたという事実と、マルコム自身が黒人音楽文化・黒 人音楽家に敬意を払い、重要視していたという事実、黒人音楽文化が人種偏見に対し 成し遂げてきた歴史的功績が、黒人解放運動遂行の「武器」としてマルコムの目標を 達成しうるものであったという事実を挙げることで構築したものである。 第一章ではマルコムの半生を通じて考察を行うことで、NOI 教団員時代から暗殺さ れる直前までの思想の変遷を追っていくことで彼の黒人解放運動の目的がアメリカ黒 人自身による黒人価値の「確立」と白人社会による黒人価値の「承認」であると示し、 また、彼の幼少期の経験、ハスラー時代の経験が彼の人格・価値観形成に大きな役割 を果たしたことを示した。 第二章では第一章で示した、マルコムの唱える黒人解放運動は暗殺により彼の生涯 が途絶えることがなければいかなる手段を通じて行われていたかについて考察し、そ の結果黒人音楽文化をツールとすることで遂行されていたと仮説を提示した。 第三章では黒人音楽文化が人種偏見に対して成し遂げてきた功績を挙げることで第 二章で提示した仮説の根拠とし、また、黒人音楽文化の持つ人種偏見解消に対する力 を証明してきた。 第四章ではマルコムが人種偏見に対し黒人音楽文化が持つ力を「武器」として利用 し、黒人解放運動を遂行していた場合、効率的に遂行するためにどのような方法で利 用したかについて考察し、結論として示した。 - 13 - 卒業論文概要 新潟大学人文学部英米文化履修コース 高木 史緒里 『十二夜』に見る「外見と真実」 ― 一目惚れによって得られるものはなにか ― 難破船から生き延びたヴァイオラはイリリアの海岸にたどり着く。彼女はそこで男装し、 「セザーリオ」という小姓としてイリリアの領主オーシーノー公爵に仕え、公爵に恋心を 抱く。公爵はヴァイオラを裕福な女伯爵オリヴィアに求愛の使いとして送るが、オリヴィ アはすぐにヴァイオラを女だとは知らずに恋してしまう。ヴァイオラは嵐で溺死したはず の双子の兄セバスチャンが生きており、イリリアにいると知る。オリヴィアはセバスチャ ンに会うと、「セザーリオ」だと思い込み、すぐに結婚する。 「セザーリオ」の正体が全員 に明かされたときに、オーシーノーはヴァイオラに結婚を申し込む。 本論文では、オリヴィア、ヴァイオラ、セバスチャン、オーシーノーは一目惚れの恋で あったことをまず明らかにし、この二組は恋すべき相手と恋に落ち、外見による恋が真実 の愛を得られたかどうかについて論じる。 一章ではオリヴィアと「セザーリオ」(セバスチャン)の恋をとりあげる。 「男性的」な 性格をもつオリヴィアは、ヴァイオラ扮する「セザーリオ」に一目惚れをする。 「セザーリ オ」の外見は「女性的」で、中身も同じく「女性的」である。「セザーリオ」と同じ外見を もつセバスチャンの性格もまた「女性的」である。オリヴィアとセバスチャンはお互い一 目惚れの恋であるが、「男性的」な女性と「女性的」な男性でバランスが取れている。 二章では、ヴァイオラとオーシーノーの恋についてである。オーシーノーははじめ、オ リヴィアに求愛をしていた。しかしそれは本当にオリヴィアのことを好きだったのではな い。オーシーノーはオリヴィアのことを好きだと勘違いしていただけで、本当に好きになっ たのは「セザーリオ」としてオーシーノーに仕えるヴァイオラで、気付かないうちに一目 惚れしていたのだ。オーシーノーの理想の女性は「女性的」な女性で、彼は「セザーリオ」 の「女性的」な性格を見抜いていたのだ。ヴァイオラにとっても「男性的」なオーシーノー は理想の男性であった。 三章では、一、二章とは違い、恋をしていたのだが報われなかった二人について論じた。 一人はマルヴォーリオである。彼はオリヴィアが自分のことを好きなのだと思い込んでし まい、彼女との結婚を妄想するのだが、マルヴォーリオはオリヴィアに恋してはいなかっ た。マルヴォーリオが好きだったのはマルヴォーリオ自身である。もう一人はサー・アン ドルーである。彼はオリヴィアの叔父サー・トービーの飲み仲間で、サー・トービーに唆 されてオリヴィアに求婚するようになる。しかし、彼もオリヴィアのことが好きなわけで はなく、彼女の財産、そしてサー・トービーと親戚になることに魅力を感じていたのだ。 以上のことから、オリヴィア、ヴァイオラ、セバスチャン、オーシーノーは外見で恋に 落ちたのだが、外見から真実を見抜き、真実の愛を手に入れられたと結論付けた。 - 14 - 卒業論文概要 高桑 麻希 新潟大学人文学部英米文化履修コース Abraham Lincoln 研究 ― エイブラハム・リンカンの信仰 ― Abraham Lincoln は生涯教会へ属することがなく不信心者と非難される一方、演説や書 簡から聖書やキリスト教の深い理解がみとめられ、彼の精神の根底にはキリスト教信仰が 根付いていた。リンカンの信仰についての先行研究においては、彼の周りの身近な死や妻 の精神的異常などの個人的苦悩と、アメリカ合衆国の危機という国家的危機が相まって信 仰に影響していると論じている。確かに彼の信仰に国家的危機も影響を受けたが、個人的 苦悩が根底にあると私は考えた。そこで、本論文では国家からくる精神的な苦痛よりも、 彼の個人的な苦悩に重点を置き、リンカンの幼少期から青年期の信仰について掘り下げ、 人生の過程で直面した体験や出来事を通して、彼の信仰がどのように変化したのかを検討 した。 第一章ではリンカンの生い立ちに触れ、丸太小屋での生活、家での教育の状況、両親が 通っていた教会の影響、そして教会に属さなかった理由について明らかにした。両親が教 会に行っていたことから、聖書の言葉は身近にあり聞きなれたものであった。しかし、そ の教会の保守的な考え方や説教師の無知な説教から、教会に不信感を持っていた。そして、 理神論に傾倒していったため、不信心者とみなされた。このように、彼の政治家としての 立場が危うくなるにもかかわらず、一生教会には属さなかった。 第二章ではリンカンの身近な人の死から信仰が変化したことについて明らかにした。彼 の身の回りには、物心ついたころから死が付きまとっていた。そして実際に死によって信 仰が変化したことについて言及した。二男のエディの死とそれによる妻の精神異常を受け てリンカンは教会へ参加するようになった。彼にとって教会に属するほどの価値は見いだ せなかったが、教会の優れた説教師の説教を聞きに行っていた。特定の教会に属すること がなかったが、教会への敬意は払い、どの教会も平等に扱った。彼が尊敬できる牧師と出 会うことができたことで、彼の信仰が変化する要因となった。 第三章では大統領時代の信仰の変化と、聖書がどのように演説に反映されていったかを 言及した。まず、三男のウィリーの死により祈りの人となったことについて明らかにした。 次に大統領時代の聖書について言及した。聖書と幼少期とのかかわりを見た後、実際聖書 がどのように演説に反映されたか、ゲティスバーグの演説と第二次就任演説を例に挙げ示 した。この二つの演説は彼の信仰理解の率直な告白となる代表的な演説となった。 彼は人から信仰を教えられるよりも、自分自身が体験したことを通して自ら答えを出し ていった。だが、自分とは異なる新しい考え方を持った説教師の説教や聖書の解釈の仕方 については、積極的に取り入れていた。また、彼の信仰がキリスト教的な意味合いを強く 受けながらも、いかなる教派の考え方とも合致しないことに、彼独自の信仰を垣間見た。 - 15 - 卒業論文概要 富山 美菜子 新潟大学人文学部英米文化履修コース ジョン・スタインベック研究 ― 思想を持つものとしての母親の強さ ― ジョン・スタインベックの代表作『怒りの葡萄』The Grapes of Wrath (1939)は、飢えと 貧困に苦しむ人々についての物語であり、力強く家族を導いていく母親の姿が印象的であ る。スタインベックの描く母親像は、子どもを産むという、生命を継承する存在として価 値があるとされてきた。しかし、彼女たちには物事の真理を見通す力がある。スタインベッ クの作品においては、その力こそが母親の強さの源となっているのではないだろうか。 第 1 章は、 『怒りの葡萄』に登場する母親マー・ジョードについてである。彼女は、スタ インベックの作品における象徴的な母親である。ジョード一家は、仕事と定住を求めて過 酷な旅を続けるが、次第に家族は減り、ばらばらになっていく。物語が絶望的な方向へと 進む中、母親は必死に家族を繋ぎとめようと努力し、家族が一緒にいることの重要性を主 張する。この主張は、スタインベックの「全体は個より力を持つ」という思想に基づいて おり、物語の主題となる考えである。母親はスタインベックの考えを代弁する人物であり、 この思想を持つことによって、真理を見通すことのできる強い母親となっているのだ。 第 2 章では、スタインベックの晩年の長編大作『エデンの東』East of Eden (1952)につ いて論じた。この作品には、中国系アメリカ人の召使いリーが登場する。彼はトラスク家 に仕える男性であるが、母親であると考えられる。その理由として、母親のいないトラス ク家において、彼が子どもたちを育て上げた点、子どもたちを母親のように教え諭してい る点、家族にとって召使い以上の存在である点などが挙げられる。彼は母親とみなすこと ができるが、男性であり子どもを産むことはできないため、生命を継承していく存在では ない。しかし、リーはこの物語の主題を語る人物である。彼もスタインベックの思想の代 弁者であり、生命継承力ではなく思想を用いることによって家族を導いていくのである。 第 3 章では、母親ではないが思想を持つ女性を取り上げた。 『怒りの葡萄』に登場するロー ズ・オブ・シャロンと、 『エデンの東』のアブラである。ローズ・オブ・シャロンは死産を してしまった娘であり、アブラはリーとある種の親子関係になる少女である。彼女たちは 母親ではないが、将来母親となることが示唆されている。どちらも母親から装飾品を受け 継ぐと同時に、物事の真理を見抜くための思想も受け継いでいる。また両作品の最終場面 には類似点があり、どちらもこの思想によって苦しむ人を救っている。このことから、母 親となるべき人物にも、生命継承力だけでなく思想が必要なのだということを示した。 このように、スタインベック作品の代表的な母親が真理を見通す力を持っていること、 男性であってもその思想によって母親となっていること、母親ではない女性が、思想を持 つことで母親のように人を救えることを明らかにした。スタインベックの描く母親の強さ には、生命を継承していく力だけでなく、真理を見通す力が必要なのである。 - 16 - 卒業論文概要 新潟大学人文学部英米文化履修コース 中村 祐紀 開発援助のあり方 ― Capabilities の向上を目指す ― 今日の先進国による発展途上国への援助は、援助額を増やすこと、民主主義や自由経済 といった制度を充実させることへ過度に焦点を当てられていて、発展途上国に住んでいる 人々の生活を実際に向上させることへの視点が欠けている。 援助額や制度を充実させることは、人びとの生活をよりよくするための手段であり、目 的ではない。もちろん手段も大切ではあるが、先進国によって絶対的であると考えられた 手段を押し付けるのではなく、発展途上国、被援助国の多様性を念頭に置き、「この国、こ の地域、この人びとにおいて、この時点で有効な援助とは何か」という視点を持つことが 大切である。 第 1 章では、アマルティア・センとジョン・ロールズの開発援助に対する理念を比較し た。センは、発展途上国に住む人びとが望む生活は画一ではなく個人によって異なってい るという点を指摘し、開発援助の方法も画一ではなく、実際に生活する人びとに焦点を当 てることが大切であると説いている。一方、ロールズは、超越論的な立場をとり、絶対的 に公平な社会の存在を信じている。その社会を実現させるためには、先進国によって成功 が立証された制度を発展途上国に導入しさえすればよいとロールズは考えた。 第 2 章は、アメリカ国際開発庁(USAID)が公表している文書から、アメリカの開発援助 がロールズのような超越論的な制度主義の視点で行われていることを確認した。 第 3 章では、アマルティア・センとジョン・ロールズの対立関係に類似した関係にある プランナーとサーチャーの開発援助理念を確認することで、制度を充実させることに終始 するのではなく、被援助国に住むそれぞれの人びとの状況に応じた開発援助活動が望まし いという主張を補強した。 第 4 章では、センの視点、つまり発展途上国で実際に生活する人びとが望む生活に応じ た援助という視点で開発援助問題に取り組んでいる援助団体に焦点を当てた。 以上に述べてきたことから、発展途上国への開発援助活動は、援助額の大きさや制度の 充実度で評価されるのではなく、「実際に人びとの生活がどのように向上したか」という点 において評価されるべきであると考える。 - 17 - 卒業論文概要 橋本 裕香 新潟大学人文学部英米文化履修コース エドガー・アラン・ポー研究 ― ポー作品に見られる実父 David Poe ― エドガー・アラン・ポーEdgar Allan Poe (1809-49)は、物書き一本で生計を立てていた ため、作品が売れることが重要であり、大衆受けする作品を書いていたように思われる。 しかしながら、当時は「女性は家庭」、「良き妻、良き母」という考えが大衆に支持されて いたにも関わらず、ポーの作品にはそのような女性は出てこず、逆に男性の性質に「家」 や「先祖代々の血筋」が深く関わっている。一方、ポーの生い立ちはというと、 「家」や「血 筋」とは関わりが薄い。以上のような問題意識から、主人公が上記のような性質を色濃く 備えた「べレニス」 “Berenice”と「アッシャー家の崩壊」 “The Fall of the House of Usher” を中心に取り上げ、他の短編とも比較しながら、その主人公がどのように描かれているか を検討し、これまで母や妻、養父母とは異なり、ポーの伝記でしか語られなかった実父デ イビッド David Poe に繋げて考察した。 第 1 章では男女の性質の違いを取り上げた。 「べレニス」と「アッシャー家」の男性主人 公は先祖代々の血筋による性質を受け継ぎ苦しんでいるが、対する女性は同じ血筋を受け 継いでいるにも関わらず、男性とは対照的な性質を帯び、その苦しみがない。また「黒猫」 “The Black Cat”から、男女が対照的な性質を帯びるということは、女性の方が好ましい 性質で、そのことにより男性がより苦しみを感じ、破滅をも導くことになると指摘した。 第 2 章では男性がその苦しみをいかに打開しようとしているか、結果どのようになった かを検討した。 「ベレニス」と「アッシャー家」の男性は家にまつわる苦しみを抱えている にも関わらず、不思議な力や迷信によって出られない。しかし「エレオノ―ラ」 “Eleonora” や「黒猫」で描かれているように、男性は家を出たところで幸せにはなれず、新たな苦し みが待ち受けている。そのため彼らは苦しみから解放される手段を家の中、つまり同じ家 に住む女性に求めた。それは、女性が病気や死の状態にあることである。しかし彼女たち はそれに反抗を見せた。その結果、 「ベレニス」のエグスは自分が生まれ、長い時間を過ご してきた図書館が殺人的行為の発覚場所となり、新たな恐怖を感じる一方、 「アッシャー家」 のロデリックは死ぬが、逃げ切った語り手がロデリックの分身となると読み取れることか ら、男性の苦しみが続いていくことを指摘した。 第 3 章では実父デイビッドと本論で取りあげた作品とを比較した。彼は前途有望な道を 選ばず、不安定な舞台俳優になった。同じ役者であるエリザベスと結婚するが彼女の方が 評価は高かった。その後デイビッドは急に姿を消し、約 1 年後ポーの最愛の母エリザベス は他界した。彼とポーの作品に登場する男性が自分の苦しみの慰めを女性に求めたが、結 果として新たな苦しみを得て、それが女性の死と関わっている、という点で共通している ことから、ポーは作中の男性に実の父親を重ねており、その父を恨んでいたため男性が更 なる苦しみを背負い生きていくように描いた、と結論付けた。 - 18 - 卒業論文概要 星 彩香 新潟大学人文学部英米文化履修コース ラルフ・ウォルド・エマソン研究 ― 教師としてのエマソン ― ラルフ・ウォルド・エマソン(Ralph Waldo Emerson)はロマン主義思想に強く影響を受 けた思想家である。彼は超絶主義の指導者として評価を受けているが、エマソン自身は超 絶主義について何も目新しい思想ではないと認識している。本論文では、エマソンが当時 どのような役割を担っていたのかを明らかにする。 第一章では、エマソンの生い立ち及び思想が形成された環境に注目する。エマソンは ボストンの生まれの牧師の息子であるが、19 世紀初頭は合理主義の影響が強くユニテリア ン派が主流であった。ユニテリアン派は理性を重視する一方で、従来の神から人間性を解 放したという役割を担っており、エマソンの両親は後者を重視してエマソンの教育に当 たった。また父親の死後、カルヴァン派の叔母による教育や、妻の死を経て、エマソンは 個人の魂を強く意識するようになったことを示した。 第二章では、前章を踏まえて彼独自の思想を示し、超絶主義者の指導者であると認識 する世間の人々とエマソン自身の認識には隔たりがあるということを指摘する。彼独自の 思想とは「個人の無限性」(‘the infinitude of the private man’)であり、形式的なものを拒 絶し魂を全面的に信頼することである。この信頼は内在する神に全てを委ねることで生じ るものであり、個人の無限性はピューリタン的要素と合理主義が混在して誕生したのであ る。この思想によって超絶主義者の指導者と世間から認識されたのだが、彼の日記には彼 に理想の教師像があり、超越主義者ではなく一般の聴衆の魂に情熱が戻るよう導きたいと いう願いがあることを示した。 第三章では、どのような理想の教師像を持っていたのかを示す。エマソンの中で重要 な教師の役割とは教科を教えることではなく、‘Teacher’と頭文字が大文字になっているこ とやイエスを「神のようになる道」を教える教師だと見なしていることから、「人間を善良 で聡明にする」よう人々を導くことが教師の役割であると考えていたことを指摘する。そ してエマソンは講演を通じて理想の教師を実践していった。特にライシーアムという講演 文化が盛んでエマソンは人気講師の一人だったこと、ユニテリアン派の神学部生に対して 行なった「神学部講演」が学生に望まれて主催された講演であったことなどから、エマソ ンが時代に沿った教師であったと結論付けた。 以上のことからエマソンは、超絶主義者の指導者ではなく人間の教師としての役割を 持っていたということができる。彼の思想は宗教的には異端思想であったが、そのような 形式を超えて、また得意の雄弁術を用いて、聴衆が独立独歩できるよう講演を通じて働き かけたのである。もちろん彼は聴衆が彼自身の思想を鵜呑みにすることを望まなかったた め、教え込みではなく心を挑発するよう心がけたのだった。 - 19 - 卒業論文概要 丸山 その子 新潟大学人文学部英米文化履修コース J.D.サリンジャー研究 ― 登場人物達の肯定的側面について ― 第 1 章では「コネティカットのひょこひょこおじさん」のエロイーズ、 『ライ麦畑でつか まえて』のホールデン、 『フラニーとゾーイー』のフラニーを扱い、彼らが身近な人間の死 にとらわれ続け、現実に目を向けずにいることを明らかにする。彼らは事あるごとに過去 の自分や、今は亡き人物に執着し続けていることを示す。 第 2 章では『ライ麦畑でつかまえて』と『フラニーとゾーイー』を例に、ホールデンと フラニーは身近な人物の死にとらわれるだけでなく、利沢行夫の言う「精神の師」との出 会いがあることを示す。ホールデンはモリスの存在により、フラニーはズーイーの存在に より肯定的な視点を持った人物へ成長し、エロイーズが解決し得なかった問題を解決して いることを指摘する。 第 3 章では「バナナフィッシュにうってつけの日」と「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうち に」を扱い、家族や周囲からの疎外感や孤独を抱えた主人公、シーモアと X 曹長を比較す る。彼らの置かれた状況が非常に似通っているにも拘らず、X 曹長は生を、シーモアは死を 選ぶ。シーモアに欠如していたものは、他者から与えられる愛であることを示し、その与 えられる愛により肯定感を持った人物に成り得ることを明らかにする。 第 4 章では「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」を扱い、なぜサリンジャーが「バナナフィッ シュにうってつけの日」で自殺したシーモアの生前の姿を描き続けるのか、その理由を示 す。サリンジャーは、シーモアが最終的には自殺してしまうにしても、生前の幸福な彼を 描くことで彼を肯定的な人物にしようと試みていることを明らかにする。 以上に挙げたサリンジャー作品を発表された順に並べていくと、登場人物たちが肯定的 な視点を持つ人物へと変化していくことがわかる。 「コネティカットのひょこひょこおじさ ん」(1948) のエロイーズが抱える過去への執着という問題は、『ライ麦畑でつかまえて』 (1951)と『フラニーとゾーイー』(1961)で解決される。「バナナフィッシュにうってつけの 日」(1948) のシーモアの孤独は、 「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」(1950)で解決される。 サリンジャーは『フラニーとゾーイー』や「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」において、 生前の幸福なシーモアを描くことにより、彼の自殺という結末をも解決しようとする。サ リンジャーが 1964 年以降沈黙してしまったのは、シーモアの自殺と言う行き止まりにどう しても行き着いてしまうからであろう。以上の点から、「適応できない人間」であるとされ てきたサリンジャーの登場人物達は、ある者は指導者を見つけ、ある者は愛により立ち直 り、肯定的な視点を持つ存在に成長したと言える。本論文で示すサリンジャー作品の登場 人物に対する解釈により、サリンジャーがシーモアを描き続けた意図が見えてくる。しか し当のシーモアについては、「バナナフィッシュにうってつけの日」以降の作品でサリン ジャーは彼を救おうとはしているものの、その試みは成功することがなかった。 - 20 - 卒業論文概要 村山 もと実 新潟大学人文学部英米文化履修コース 『お気に召すまま』研究 ― ジェイクイーズに見るシェイクスピアの人生観 ― シェイクスピア(William Shakespeare)の『お気に召すまま』(As You Like It)は、牧 歌文学的な世界観を背景に、作者お得意の異性装を絡めて若い男女の恋愛を描いた喜劇で ある。本論文では、憂鬱症のジェイクイーズという登場人物に焦点をあて、先行研究では 否定的な見方がされることの多い彼を、肯定的な視点で検証し直し、作者がこの物語にジェ イクイーズという存在を創造した意味を探った。 第一章では、ジェイクイーズと道化タッチストーンの存在を扱い、『お気に召すまま』の 粉本であるトマス・ロッジの『ロザリンド』には存在しない彼らを、シェイクスピアが創 造した理由を明らかにした。あらゆるものを批判する二人の皮肉屋の存在が、『お気に召す まま』を多様な価値観を許容する懐の広い物語にしたのである。 第二章では、ジェイクイーズの物の見方や生き方を検証し、その中に作者自身の考えも 込められていると考えられることを明らかにした。冷笑的で恋愛を厭うジェイクイーズは、 作中でも批判されがちで、作者にとって批判対象なのではないかと考えられやすい。しか し一章で述べたように、この作品で批判されるのはジェイクイーズばかりではなく、恋愛 や結婚がただ賛美されているわけではない。またジェイクイーズは良心的な面も持ち、人 間らしい複雑さを内包した人物として描かれている。進んで悲しみを得ようとし、後の悲 劇作品の主人公に通じる台詞を語る彼の姿には、悲劇時代に向かう作者自身の姿も見えて くる。 第三章では、舞台であるアーデンの森とジェイクイーズとの関わりから、作者の森に対 する考えを探った。宮廷から森へ、森から宮廷へという構造をもつこの物語であるが、ジェ イクイーズは結末に際して、一人祝宴を抜け森に帰っていく。アーデンはシェイクスピア の描いた多くの森の中でも、作者自身の故郷を思わせる特別な森であるように思われる。 彼はアーデンを牧歌文学に見られるような豊かな楽園とは描かず、現実的な厳しさも強調 した。ただやはり調和の力を持つ不思議な面もあり、宮廷に戻っていく登場人物達は皆そ の恩恵を受けている。しかし森は都会人の一時の逃避の場所であってはならず、アーデン をただの森として扱い、それでいて森での生活を続けるジェイクイーズのような生き方こ そ作者にとって望ましいものなのだ。 以上のことから、作者の考えを語らせているのではないと考えられてきたジェイクイー ズであるが、むしろ作者の望む生き方を投影し、体現させている部分があると考えられる。 - 21 - 卒業論文概要 森 瑶子 新潟大学人文学部英米文化履修コース D. H. Lawrence: A Study of Women in Love ― Women in Women in Love ― D. H. Lawrence (1885-1930)の代表作の一つ、Women in Love (1920) は、アーシュラと グドルーンの姉妹とそれぞれの恋人バーキン、ジェラルドの恋愛模様を中心に展開する小 説である。2 組のカップルは対照的に描かれており、結末でもアーシュラとバーキンが結婚 する一方でグドルーンとジェラルドは別れ、死という悲劇的な終わりで幕を閉じる。また、 姉妹以外にも脇役として多くの女性が登場している。だが、彼女たちについて言及されて いる先行研究はほとんどなく、姉妹を中心に論じられているものばかりである。したがっ て、本論文において、姉妹以外の脇役の女性たちに焦点を当て彼女たちが表すものは何か、 またなぜ今までほとんど論じられてこなかったのかを明らかにする。 第 1 章では、ジェラルドの母親であるクリッチ夫人に焦点を当てる。彼女は元々、優し い母親とは程遠い、けだるい外見に激しい性格の持ち主であり、読み手に強烈な印象を与 えている。だが、一家の乳母の回想から、夫であるクリッチ氏によって服従させられ、そ の強い個性が隠れ変化していった過去が述べられている。そのため、彼女はその激しい性 格にもかかわらず、夫の支配を受けていた女性なのである。そしてそれは息子であるジェ ラルドの男性支配的な性格や女性観に影響をもたらしている。 第 2 章では、ジェラルドがカフェで出会った女性、プサムに注目する。特に、彼女は妊 娠しているがその相手が誰なのか厳密な言及がない点、彼女の誘惑的な喋り方や目力の描 写、さらに出会ったばかりのジェラルドと関係してしまう場面から、彼女は異性関係の不 明瞭な女性と言える。まるで彼女は娼婦のような女性でジェラルド一人に独占されること はないため、彼の男性支配的な女性観と反する。よってジェラルドは彼女を選ばず両者の 関係はそれきりであり、彼女の存在は彼の支配的な性格をより際立たせている。 第 3 章では、ジェラルドの妹のウィニフレッドに注目する。作品中で彼女は子どもとし て描かれるが、子供らしくない変わった性格なこと、彼女に“childish”という形容詞が使わ れすぎていることから彼女は「子ども」ではなく「女性」なのである。さらに、病床のク リッチ氏への親密で献身的な態度から彼女はまるで愛情深いクリッチ氏の妻のようである ことから、純粋で従順な男性に尽くす、男性にとっての「理想的な」女性像なのである。 第 4 章では、これら脇役の女性たちが表すものについて述べる。彼女たちはいずれも男 性の支配や影響を受けており、単なる男性たちの付属品としての役割でしかない。したがっ て、先行研究がほとんどない理由として、彼女たちの人物像を論じても結局男性の人物像 を論じることになり、彼女たちの人物像は論じる必要がないためなのである。 以上のことから、本作品における脇役の女性たちは、男性支配を受ける女性の象徴であ るといえる。彼女たちは男性キャラクター、特に支配的なジェラルドを引き立たせている。 - 22 - 卒業論文概要 栁田 友紀恵 新潟大学人文学部英米文化履修コース James Matthew Barrie, Peter Pan 研究 ― who would not be a man ― Peter Pan(1911)はネヴァーランドに住む永遠の少年であるピーターが、所謂普通の子 どもたちであるウェンディ、ジョン、マイケルとともに繰り広げる冒険物語である。様々 な冒険をし、最期には宿敵フックに勝利するという展開は、一見子ども時代の楽しさ、無 邪気さを賛美したものであるようにも見えるが、彼は永遠の少年であることの代償を抱え ている。本論文では、ピーターがその代償にも関わらず成長しない理由を明らかにするこ とを目的とした。 第一章では、なぜ永遠の子どもというキャラクターが生まれたのか考察するため、作者 の経歴に注目した。身体的・精神的に大人になじめなかった作者は子どもに居場所を見出 していたためピーターを成長させなかったと考えられる。 第二章では、舞台であるネヴァーランドや登場人物たちがはっきりとした像を持たない ことを述べた。例えばネヴァーランドは夢を通して到達できる場所であり、その夢を見る 人によって形が異なることから、その存在は想像によって成り立つと考えられる。そこに 海賊やインディアン等当時少年に人気のあったキャラクターが多く登場するところから推 して、この物語の舞台は少年が夢みるような世界であると言えるが、この事はこの島で起 こる事件が少年の意識の変遷を表している事を示すという前提を示した。 第三章では、ネヴァーランドで起こる事件を時系列に検討した。ピーターとフックの第 一回目の闘いは、島の秩序を乱し時間という観念を生んだ。ウェンディの登場は、島の男 社会を女の子が自分のルールに基づいて変革していく様を表す。彼女は島を時間の観念で 覆い、ピーターのパートナーとしては彼の像を規定するようになった。そして最期に起こ るピーターとフックの最終決戦は、子どもから見た「将来の姿」と「現在の姿」の闘いで あり、この決着がつくことで、島の時間の流れは収束に向かうとした。島の時間が流れ始 めることは成長を連想させるが、最終的にピーターがフックに勝利し、ウェンディたちを 家に送り届ける展開により成長を止める結果になっているのである。 第四章では、前章までの流れを受けてピーターが成長を拒む理由を考察した。少年の意 識の上に存在するネヴァーランドが成長に向かっていく中で、ピーターが最も不安に感じ たのは、ウェンディに「大人の男」として扱われた時であった。大人になろうとしている 彼女によって大人に引っ張り上げられそうになる状態を拒む彼の姿勢は、子どものままで いたいというよりは大人になりたくないという意識を強く感じさせる。彼は島の秩序を変 え、自分をも型にはめようとする彼女の力に恐れを感じ、自分の弱さを直視することを避 けるという消極的な思いから大人になることを拒むのである。これは、既に大人である作 者が大人になりきれず、消極的理由から子どもに目を向けたことも反映しているだろう。 - 23 - 卒業論文概要 山田 綾美 新潟大学人文学部英米文化履修コース アメリカにおけるマイノリティー研究 ― ゲイ政治家ハーヴェイ・ミルクが目指したもの ― ハーヴェイ・ミルク(Harvey Milk)は 70 年代後半にサンフランシスコの市政執行委員と して、ゲイの権利向上のために尽力した。しかし、彼について語られるとき、彼がどのよ うな意志を持って政治活動に取り組んだのかということは具体的に議論されていない。そ こで本論文では、彼の政治思想がどのようなもので、ゲイをはじめとしたアメリカのマイ ノリティーに対して彼が訴えたものはいかなるものであったかを考察した。 第一章では、ミルクが政治的基盤を置いていたサンフランシスコがいかにゲイに特異的 であったかを、彼が幼少期に過ごしたニューヨークを比較対照にして論じた。ニューヨー クはメディア産業による情報がゲイの存在を無視していた。このことはニューヨーク時代 のミルクにゲイのタブー視を植え付けることになった。一方、サンフランシスコは古くか ら放浪者のような、いわゆる「社会不適合者」を引きつけたこと、また、戦争時に多くの男 たちが集ったことからこの地はゲイの生活に適していたと指摘した。ここではゲイによる エスニック集団モデルが存在していたため、ミルクは政治の舞台に立つことができたと考 察した。 第二章では、まず、ミルクのゲイ活動家以外の政治思想を明らかにした。彼はサンフラ ンシスコの都市化によって人間性が失われていくことを危惧していた。そのため、ゲイ・ コミュニティーを重視したように、彼は民族コミュニティーの連帯を強固にすることを求 めたのである。次に、ミルクと彼以外のゲイ活動家を比較した。最初に、「寛容」が実は最 もゲイを蔑む概念であると述べた。そしてミルク以外の活動家は異性愛社会に「寛容」され ることを求めたため、それはゲイ解放とはいえないと指摘した。しかしミルクは、自ら「カ ミングアウト」することで真の意味でゲイ解放を成しとげようとしたのだ。 そこで第三章では、ミルクが推進した「カミングアウト」の精神を考察した。まず、ゲイ の人々がとどまっている「クローゼット」は、性的なものを嫌うピューリタン的伝統を美徳 としたアメリカ社会が、ゲイに押し付けた概念であることを明らかにした。 「カミングアウ ト」は先入観や偏見を打破するには最も有効な手段であるが、同時に社会的地位を失う危 険性も生じる。ミルクはそのことを認識していたが、リベラル派にゲイの権利を代弁され ることを拒んでいた。なぜなら彼らは社会からの抑圧を経験していないからである。そこ で、「カミングアウト」する主体が誰なのかということがミルクにとって重要なのであると 考察した。そしてその主体は他でもないゲイ自身でなければならないのである。 権力は黙って待っていれば手に入るものではなく、自らが行動して(カミングアウトし て)勝ち取らなければならないのだ。よって、このように自分自身に誇りを持ち、それを 外部に表明する姿勢をゲイに与え、希望を抱かせることをミルクは目指したと結論付けた。 - 24 - 卒業論文概要 横山 純 新潟大学人文学部英米文化履修コース Thomas Hardy, Under the Greenwood Tree 研究 ― メイボルドの二面性 ― Thomas Hardy 作、Under the Greenwood Tree(1872)の主人公ディックは聖歌隊の一 員であり、彼は新任教師ファンシーに恋をするのだが、同時に都会からやって来た新任牧 師メイボルドもファンシーに思いを寄せていた。メイボルドは彼女に結婚を申し込むも断 られる。彼女が結婚相手として選んだのはディックであった。だがメイボルドは代々続く 田舎の聖歌隊を解散させ、代わりにオルガンを導入することに成功している。教会音楽の 刷新には勝ち、恋には敗れるというメイボルドをどのように理解すればよいのだろうか。 本論文ではメイボルドに都会性と宗教性という二面性があるのではないかということに着 目して、メイボルドという人物を理解しようと試みた。 第1章では、都会と田舎の関係性、そしてそれぞれの集団に分類される人物を考察して、 メイボルドの都会性について検討した。田舎と都会は対比する関係であり、対立する関係 であった。しかし都会の勢いには勝てず、田舎はとって代わられる。メイボルドはその都 会の代表である。彼は教育を受けることで新たな価値観を手に入れたが、同時に田舎は劣っ た存在だという観念も手に入れた。彼は田舎を改革しようと試み、聖歌隊を解散させオル ガンを導入する。この点でメイボルドに改革的で先進的な役割が与えられている。また彼 の特徴 “courageous eyes” が示すように、彼は聖歌隊の交渉を有利に進めた。以上から分 かるようにメイボルドのもつ都会性とは、改革的で、先進的で、勇敢さを含む都会性なの である。 第2章ではメイボルドの宗教性について考察した。先行研究が示すとおり、作者ハーディ はダーウィンに多大な影響を受けており、それが作品にも反映しているということ踏まえ、 メイボルドの描写に注目した。ハーディの皮肉な宗教観はメイボルドに色濃く表れており、 メイボルドは “timid mouth, and neutral nose” と描かれる。彼は教会改革を進めるが、彼 が熱心にやればやるほど村人たちの教会への興味は減じるばかりで、むしろ逆効果になる。 彼は村人から尊敬されず虚仮にされる。そしてファンシーには一度結婚を承諾してもらっ たが、翌日には断られるという悲劇的な結果となる。ダーウィンに影響されたハーディの 宗教観は、牧師メイボルドが彼女と結婚することを許さなかったのだ。ハーディは宗教を 時代錯誤のものとして描き、その宗教性を帯びるメイボルドを無慈悲に表現している。メ イボルドのもつ宗教性は、時代遅れの、人々の尊敬も得られず虚仮にされる、無慈悲な宗 教性である。 以上から明らかのようにメイボルドは都会性と宗教性という二つの性格が与えられてい る複雑な人物である。19 世紀イギリスにおいて、都会と田舎という構図では都会が先進的 で優勢であるのに対し、宗教と科学という構図では宗教が後進的で劣性におかれていると いえる。メイボルドはその都会性により時代の流れにふさわしい人物であるにもかかわら ず、その宗教性により時代の流れにそぐわない人物にもなりうる、という矛盾した二面性 をもつのだ。 - 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