お天気は晴天に恵まれ、ポカポカ陽気で絶好のお花見日和になりました

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2009.7. №7
お天気は晴天に恵まれ、ポカポカ陽気で絶好のお花見日和になりました。
暖かい日差しを浴びながらのお弁当はとても美味しかったです。
来年も素敵なお花見日和になります様に願っています。
「みなさ∼ん!カメラに向かって、にっこり笑って∼
ハイ チーズ!!」
日常の様子
クリスマスリース作り
たくさん飾ってにぎやかに出来たかな?
『すみつかれ』卸すのは大変だけど
これまた、旨いっ!!
「味付けなら、私達にまかせてネ」
キレイなお花
ステキな笑顔☆
ひいらぎとイワシの頭をつけば・・・
『家内安全』
これで大丈夫!
外
出
『真壁のひなまつり』に行き、色々な雛人形を見てきました
北条大池の花見にいきました。
満開の桜の下で ハイ ポーズ!
お洒落も楽しんでいますよ!!
下妻ジャスコに春物の服を
買いに出掛けました
近所の方から芹を沢山いただきました。
胡麻和えやてんぷらにして
旬の味をみんなで御馳走になりました。
じゃが芋の苗植え
「早く大きくな∼れぇ」
美味しいじゃが芋、早く食べたいな
クロッケー
疲れた所で一服!
休んだ後は、また頑張るぞォ∼
「この玉をくっつけて打つんだよ」と
福寿会の方がいつも優しく教えて下さ
います。 ・・・うまく打てるかな?
家族会
デルフィ一家、集合でーす!!
ご馳走を囲んで、和気アイアイと楽しみました
うまく書けるかな?
大丈夫 その調子!!
デルフィ美人姉妹、登場で∼す(笑)
お出かけしましょう!!
グループホームは皆さんの想像以上に外出
しています。
公園などの戸外に行く事もありますが
やっぱり食べる事が一番!という
ことで、食事に行く事も多いです。
私たちも普段の生活の中で、思い立
つと外食したり出かけたりします。
ご利用者様が家で過ごされていた時と同じように対応できているか・・と思
うと、皆様にはどううつっているのか気にかかるところですが、私たちはご利
用者様と相談しながら今度はどこに行くかを決めています。
日常では見られない表情に出
会えます。
せっかくの時間なので、ご家
族様とも一緒に過ごせる時間
にしていきたいな・・と思う
今日この頃です。
美味しいものを食べて、一緒
に笑って、そんなのんびりし
た時間を共有できるとグルー
プホームも、もっと利用され
る皆さんの身近かな存在にな
れるのかなあと考えています。
今度のお出かけはぜひ一緒に!!
さあ、どこへいきましょう??
管理者
久保知子
「命」についての雑感
医療法人恵仁会
宮 本
理事長
滋
最近は「残された命」、『余命何日』等の命に関する書物が沢山出ているが、何
も大げさに『残された』等ということは無い、人間は生まれた時から既に残さ
れた命の始まりなのである。人間,いや、全ての生あるものは死滅する運命な
のである。生まれたときからエントロピーの作用にて破戒に向かっているので
ある、但し、成長期には再生の力がエントロピの作用を上回るので成長するの
であるが、成長期が終わればすなわち終末、死へのエントロピーの作用に従い
消滅へと向かうのである。
私は最近、整髪剤であるヴァイタリスという物を使用しているが、是は今で
は知らぬ人が多いが私たちが若いときには流行した整髪剤である。しばらくの
間薬局では見なかったが昨年に近所の薬局で見つけて購入した代物である。薬
は200ccぐらいの容器に入っていて沢山は使わないから減るのも遅い。し
かし、この一瓶を使えきるまでは生きよう等と思って使用してみると案外減る
のが早く感じるから妙なものである。正に時間のトリックである。
「命」又『生命』と言う事に生物学的、文学的、哲学的、宗教的にどう捉え
るかと私は未熟ではあるが世界の先達の意見を散見しながら考えてみた。
生物学的には細胞の死であり、細胞の分裂停止であり、染色体の分裂停止で
ある、染色体の末端にはテロメアという物質がついているが正常な細胞の場合
は核の分裂の度にテロメアの一部が失われて最後にはテロメアがなくなってし
まう、そうなると細胞は分裂できず、アポトーシスということになり細胞は死
滅する、人間の細胞には必ず終わりが来るようになっている、ところが癌細胞
には元々テロメアが無く癌細胞は永久に分裂しうる可能性を持っている、人の
正常細胞との差異はここにある、人の細胞はアポトーシスする運命なのである、
ところが人間にも死なない細胞が出来てしまう、それが癌細胞なのです。
「ヒー
ラ細胞」は米国の30歳代の黒人女性の子宮頚癌から採取された癌細胞である。
この「ヒーラ細胞の名前は患者の名前に由来しているが、この女性自体は19
51年に死亡している。しかるにこの「ヒーラ細胞」は彼女の死後も行き続け
て生物学、医学等のあらゆる分野に貢献して60年近く経った今でも実験室の
中で生きている。癌細胞は細胞分裂に限りが無いから「不老不死」です。人間
の細胞が全て癌細胞に置き換わったら人間は「不老不死」です。でも、それは
人間といえるでしょうか。
無限に増殖する癌細胞、是が人間の生物学的に追い求めた「不老不死」なの
です。ですから人間は生物学的には「死」を受け入れざるを得ません。
しかし、それで終わっては人間も他の生物と何等の変わることがないという
ことであるが、人間という生命体はこの厳粛なる事実に対して古来から悩み、
苦しんできた、その結果生まれたのが宗教であり、哲学であり、文学を含めた
芸術である。人間が永遠に生きる生命体ならばこれらのものは生まれなかった
であろう。
文学的にはアプローチするならば私はレフトルストイの「イワンイリイチの
死」が面白いと思う。死に至る不安と苦痛が良く描かれており、己自身の死は
無である事を確認させられる。即ち己自身の死は無であり、むしろ死とは残さ
れた人達にとっての感じ方の問題なのである。悲しむ人ばかりではない、喜ぶ
人もいるのである。
「イワンイリイチにとって重大なのは、自分の容態危険かど
うかの問題ひとつきりであった。しかし、医師はこの無作法な質問を無視して
しまった。
(略)彼(医師)にとっては遊走腎か慢性カタルか盲腸炎か、−それ
らの可能性を比較計量することしか存在しなかった。イワンイリイチの生命に
関する問題等は存在しない。ただ遊走腎か慢性盲腸炎かの議論があるだけだっ
た」、現代の医療であればこんな問題は生じないであろうが、時代が変わろうが
医師の姿勢は同じである。問題は生死のことではなく、病気と特定と治療方法
なのである。死の問題は放っておかれる。トルストイは19世紀の人であるか
ら当時とは現在は医療も変わってしまった。当時は患者は自宅で死ぬものであ
ったが現在は病院で死ぬ時代になって医師と患者の関係も変わっている、病院
で種種の機械で取り囲まれて死ぬ時代になり医師と患者の人間としての関係は
薄れてしまったかのように思える。又、当時は死を隠蔽する風潮があったが現
在は死を告知する時代になっている。
「エセー」の著者であるMモンテニューは16世紀のフランスの哲学者であ
り現実の人間を洞察し人間のいき方を求め続けた人であるが、彼は「エセー」
の中で「死は確かに生の末端であるが目的ではない」と言っている。彼を「書
斎の人」と言ってその一生を描いた中野孝次はモンテニューの基本的思考原理
として次のように言っている「人間はそのもの自体ではなく、その物について
人間が抱く観念に依って苦しめられている」。
歌人でもあり徹底した自由人であった良寛は「死ぬときは死ぬが良し」と断
裁している。子供と蹴鞠をして「子らと蹴鞠をして遊ぶ日は暮れなくても良い」
と歌った良寛がである。
「徒然草」の著者である吉田兼好は「死期は序を待たず、死は前よりしも来
たらず、かねて後に迫れり」、又同じ様な意味でこうも言っている「死は前や後
ろから来るものではない、足元から起こってくる」と、兼好の基本的人生観は
「無常」にある。常ならずである、常に変化する宇宙、自然の中に生きていか
ねばならぬ人間の宿命である。
死という問題を追及していくと必ず「無常」とか『無常観』に突き当たる。
日本では小林常夫や唐木順三がこの「無常」について取り上げているが私にと
っては唐木の考え方が良く分かった。彼は言う、
『無常』と言う観念は「はかな
し」から始まった、
「はかなし」と「あわれ」とは異なる、特に「はかなし」の
場合は「いとはかなし」と表現する事が多いが、元々は「墓なし」から発生し
た言葉であると彼は言う、
「はか」は古代人にとっては「ひとはか、」
「ふたはか」
といった距離の単位であった。是が時間の長さに代わり「ひとはか」の長さも
無い短い時間を「はかなし」といったのである。人生は「ひとはか」の長さも
無いほどの短い時間なのである。だから人間はそこに「無常」を感じるのであ
る。兼好法師は中世の時代の無常について考えた卓越した人である。死は旦夕
に迫っているのであると。
哲学的には19世紀のデンマークの哲学者であるゼーレンキルケゴールは実
存主義の先駆者でもあり創始者でもあり「現実世界ではどのような可能性や理
想を追求しようと「死」に依ってもたらされる絶望を回避できない、ただ、神
のみが救済できる」と断言している、この場合の神とはキリスト教の神とは異
質である。
『死に至る病』がその際たるものではあるが、彼は精神的に病んでい
て健康であったとは思えないところがある、初めから人生を絶望的な状態で生
を考えている、この点日本の歌人でもある正岡子規は長い間病床にあったにも
関わらず「病床六尺」において「悟りと言う事は如何なる場合にも平気で居ら
れることである」と言っており正岡子規は肉体的には病んでいたが精神的には
健康であった代表的人物と言って良い、ショウペンハウワーに見られるような
所謂「明るい虚無主義」と言う言葉で言われるようなものでも「虚無主義」的
傾向が強い、19世紀のドイツの偉大な哲学者であるFニィーチェの「ツァラ
トウストラはかく語りき」において彼は「超人思想」を喚起して「神は死んだ」
表現した、超人にとっては神は必要でなく超人が即ち神なのである、彼は躁鬱
病であり、著書「この人を見よ」ではその躁状態が著名に現れている、そのニ
ィーチェにも散見することができるが、どうしても虚無主義的思考から抜け切
れない感じがする。彼は「私のこの思想(超人思想)は200年後に理解して
もらえるである」と予見して1900年に狂死した。2009年の現在、人間
は遺伝子の操作等の本来は神の行為であった事を始めて彼の予見が現実化して
いる。ヨーロッパの思想の虚無的傾向の最初の言葉は聖書に見られる「コヘレ
トの言葉」である。なぜ「コヘレトの言葉」が聖書に取り入れられているのか
分からないが反カソリック的な言葉である。
『嗚呼、人生はむなしい、全ては終
わってしまう』とコヘレトは嘆く。日本でも最近の代表的な現代の哲学者であ
る中島義道にもこの傾向がみられる。彼は『どうせ死んでしまう』という観念
から抜け出せない。どうも哲学的には人間に生きる価値につい認めるのは難し
いのかも知れない。最も私のこの分野の勉強不足に依るところが多いと思われ
る。
この点ではむしろ古代ローマに時代において印象の深い言葉が残っている。
ローマの悪皇帝の代表的人物とされるネロの家庭教師であったセネカの言葉で
ある。彼は自分が近い将来にネロに依って殺されるであろうと言う事を予見し
ており、実際に殺された人である。彼は「人生の短さについて」の中で「生き
る事の最大の障害は期待を持つということであるが、それは明日に依存して今
日を失うことである。運命の手中に置かれている物を並べ立て、現に手元にあ
る物を放棄する、君はどこを見ているのか。どこに向かって進もうとするのか。
将来のことはすべて不確定のうちに存する。今直ちに生きねばならぬ。
」殺され
る事を予見している人物のセッパ詰まった生き方としても捉えることが出来る。
将来の良い生活を夢見て今を犠牲にする。こういう生き方をする人が多い、む
しろ今を全肯定して「今ココニ」のためにだけ生きている人はそれこそ稀であ
る。そう生きるためには、よほどの覚悟と強い意志が必要であるからである。
だが、どんな宗教でも究極の事として説くのは「今直ちに生きねばならぬ」と
いうことである。何となれば人間は必ず死ぬのであるから明るい将来等はない。
「将来の良い生活」等の未来は瞬間の虚像にしかないのである。しからずんば
「今を、瞬間に全力を尽くさねばならぬ」ということである。この考えは次の
宗教的アプローチとして取り上げる曹洞宗の開祖である道元禅師の考えで強く
見られる。
さて、最後に宗教的なアプローチであるが、キリスト教は「愛」の宗教であ
り、あまり死については重要視していない感じがする。因みにキリスト教にお
ける「愛」とは「アガペー」であり慈悲の精神の事である、最もキリスト教に
依れば人間は死んでも信仰さえあれば「天国」にいけると言う考えがあればあ
まり深く考える必要も{死}について取り組む必要も無い事ではあるが。この
信仰だけが何より大切なのであるというキリスト教のエゴイズムが科学や哲学
の考えを強く抑制した。その点では仏教では仏教哲学という言葉が在るとおり
真摯に「死」についての取り組みが見られる。前に述べた唐木順三は仏教哲学
者である。キリスト教が非科学的であるのに対して仏教は哲学的である、真理
を求める宗教と言って良い。
「般若心教」はたったの266文字からなる経典で
はあるがその解釈、意味する事は膨大である、
「大般若教」のサマリーのような
ものであり一般の人達にも親しまれる所以である。又、それ故に膨大なる解釈
が出来るし解釈書も多い、
「色即是空、空即是色」や「不生不滅、不垢不浄、不
増不減」がこの経典の基本理念であるらしい。絶対的「無」である。但し、仏
教も釈尊の教えから時を経て様々に分派しているのでそのそれぞれについて考
える必要がある。日本における仏教は「南都六宗」に始まり「天台宗」
「真言宗」
序で「浄土宗」
『浄土真宗』へと流れている、
「天台宗」
「真言宗」が貴族の仏教
であったのに対して「浄土宗」
「浄土真宗」は一般大衆、特に農民を対象とした
仏教であった、
「日蓮宗」は「法華経」を根本経典にした宗派である、この宗派
は「宮沢賢治」が人生の生涯のテーマとした宗教であり「注文の多い料理店」
「銀
河鉄道の旅」等の童話として扱っているが非常に難解であるが故に童話として
しか表現できなかったのであるが「法華経」自体が「人類に留まらず全生命体
の幸福と言う事を多く扱っているのでここでは「浄土宗」
「浄土真宗」や「禅宗」
の生死観を見るに留めるが、浄土宗、真宗は「阿弥陀様」信仰であり念仏を唱
えさえすれば「西方浄土」にいけると言うキリスト教に見られる『天国』思想
である。それに対して日本の代表的仏教思想でもあり世界的にも認められる宗
教の一つでもある、道元禅師に依る「禅」の思考が私には最も心を落ち着かせ
るものである。道元禅師の思考の根本、すなわち「前後裁断」と言う事である。
「木は木にして炭にあらず、炭は炭にして木にあらず、生は生にして死にあら
ず、死は死にして生にあらず」と言う、正に前後裁断の思考である。木は木と
して全うして炭に変化するものではない、炭は炭にして木の変わったものでは
ない、しかして、生と死は繋がっておらず生は生、死は死なのである、生は瞬
間であり刹那である、この瞬間にこそ生の充実を見る、刹那主義的ではあるが,
その刹那に、瞬間の時間に一日に生の充実を求めていくと言う考え方である。
この瞬間の至福を『ニコン』と彼は言う。又彼は「正法眼蔵」の中で「生も一
時のくらいなり、死も一時のくらいなり」と言っている。この様な彼の思考が
私には一番向いていると思って生きている。
日々是好日が私の好きな言葉である。
人間が『死』を自覚していかに生きるかと言う問題は古くて新しい人間の根
源の問題である。
「いかに生きるか」は人生が一回性なるゆえに大切な事である。
しかしながら、最近は「いかに生きるか」ではなくSBヌーランドの書物『い
かにして死ぬか』が問題になりつつあるのも時代の変遷なのであろう。
又、Aデーケンスの「タナトロジー」と言う新しい学問、タナトスとはラテ
ン語で「死」であるから「タナトロジー」とは死を最初に意識して生を取り組
もうとする学問と見て良いであろう。正に「いかにして死ぬか」である。
以上急いで簡単に人間の命、その終末である死についての思想、取り組み方
について鳥瞰してみた。少し衒学的になったことは許して欲しい。
行事予定
7 月
8 月
9 月
10月
11月
12月
七夕・家族会(収穫祭)
北条夏祭り
お楽しみ会
敬老会
運営推進会議
外出行事
外出行事
忘年会・家族会
運営推進会議
<編集後記>
初夏の風がここち良い今日この頃、いかがお過ごしですか?
今年もデルフィの畑には、沢山のじゃが芋が育ち、無事に収穫祭を迎える事
が出来ました。日頃から地域の方々の協力もあり、とても感謝しております。
デルフィに入居されている皆様がいつも楽しく過ごせますように、スタッフ一同
これからもお手伝いさせて頂きますので宜しくお願いいたします。
通信担当 箱守 敏子