下水道協会誌 H26 年 7 月号掲載 国民統合と下水道 -英国の歴史に学ぶ- 国土交通省 水管理・国土保全局 下水道管理指導室長 藤川 眞行 1.国家の分裂と国民統合 米国のバラク・オバマ大統領は、2013 年 1 月に行われた二期目の就任挨拶の 中で、「we must do these things together, as one nation and one people. (我々は、一つの国家、一つの国民として、協力して取り組まなければなりませ ん。)」と述べ、貧富の格差で分裂する米国民の統合を鮮明に訴えたのは有名な話 である。 しかしながら、このような国家の分裂を回避して、 「一つの国家」、 「一つの国 民」を守っていこうという思想には歴史があり、近代社会の政治の場で最初に大 きく打ち出したのは、英国首相・保守党党首 ベンジャミン・ディズレーリ(首 相・自由党党首 グラッド・ストーンとともに二大政党制を確立)だと言われて いる。 彼が、活躍した 19 世紀の英国は、産業革命に伴う都市化や資本主義の急激な 進展で、都市において著しい貧富の差が生じ、例えば、若い子女が何の教育も与 えられることなく長時間労働を強制され、不衛生な都市環境の下で感染症にか かり早逝するなど、貧しい労働者が劣悪な環境で虐げられるという事態が出現 した時代でもあった。長い歴史の中で王室を保持し国家統合を保ってき英国も 分裂の危機に瀕する状況にあったのである。 そのような状況の中で、彼は、小説家としても活躍したが、壮年の頃、 『シビ ル、或いは 二つの国家』という社会派小説を執筆し、その中で労働者の悲惨な 生活を描き出し、現在の英国はもはや、貧富の格差というレベルを超えて、二つ の国民に分断された分裂した国家になったとして、格差社会に大きな警鐘を鳴 らしている。 後年、彼は、首相に任命されるが、このような社会格差に対する問題意識は変 わることなく、 「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」、 「政治改革より社 会改革の方が重要」と主張して、国民統合を図るための社会政策に力を入れた。 これは、近代議会制の中で、社会政策が、自由党(レフト)よりも、むしろ保守 党〈トーリー党〉 (ライト)の側から、大きく打ち出されたものとして、政治史 上「トーリー・デモクラシー」と呼ばれているものである。具体的に、彼は、例 えば、労働者の保護や、公教育の改善に加え、下水道の整備を中心とする公衆衛 1 生の向上に特に力を入れ、首相在任時に、各種立法を行っている1。 このような彼の社会政策の展開は、後年、選挙権を拡大する中でも保守党が大 きく勢力を伸ばし、復活を果たすことにつながっていくことになるのだが、政治 史上このような社会政策の展開が評価されるのは、都市化、資本主義の急激な進 展により、必然的に発生する著しい社会格差による国家分裂の危機を救った点 にあると考えられる。もし、この時期、資本主義体制の下での社会政策が大きく 打ち出され、政策モデル化されることがなければ、その後の世界各国は、社会格 差が際限なく拡大し、階層間の利益のぶつかり合いに終始し、国家が分裂状況を 呈するか、独裁体制の下で強権的に体制を維持しようとするか、いずれにしても、 人類の歴史は相当暗いものになっていたであろう。 2.大悪臭(グレート・スティンク)とロンドンの下水道整備 -ディズレーリとバザルゲットのコラボレーション- 先に触れたとおり、ディズレーリは、下水道を中心とする公衆衛生の向上にも 力点をおき、後年、首相在任時に、各種立法を行っているが、他方、英国の下水 道整備については、ロンドンの下水道整備を大きく進めた技術者として、ジョゼ フ・バザルゲットがよく知られており、英国の「下水道の父」とも呼ばれている。 彼が活躍を始めた 19 世紀中頃の英国のロンドンでは、河川への汚物の流入等 により、コレラが大流行し、数万人に及ぶ被害者を出したこともあり、下水道の 整備が喫緊の課題となっており、彼もメンバーであった担当部局の下水道委員 会が様々な計画を立案するが、区々たる地方自治体のエリアや教会のエリアに 分断されて、なかなか整備が進まない状況にあった。 そのような中、1858 年に、英国史上でも有名な「大悪臭(グレート・スティ ンク)」と呼ばれるトピック・イ一シューが発生する。ロンドンのテムズ川で、 小雨により大悪臭が発生し、国会議事堂(テムズ川河畔にあるウェストミンスタ ー宮殿)で議会も開催できない事態が発生したことから、これが契機となり、バ ザルゲットの献身的な貢献も功を奏して、5年少々でロンドンの下水道の管路 網が整備されることとなった。 さて、翻って、1858 年の「大悪臭」の時には、ディズレーリは、この公衆衛 生上の大問題に対してどのような態度を示したのか。当時、彼は、まだ首相にな る前で、少数与党であったダービー内閣の財務大臣のポストにあったのだが、デ ィズレーリの評伝で、英国の政治家の必読の書といわれる、ロバート・ブレーク 1 『ディズレイリ』 (ロバート・ブレイク卿(著) 、灘尾弘吉(監修) ・谷福丸(翻訳)、大蔵省 印刷局(発行) )、646 頁参照 2 男爵の『ディズレイリ』では、この時期、少数与党だったこともあり、ディズレ ーリは、財務大臣としてさしたる業績を残していないとしている2。 しかし、ビクトリア時代のロンドンを扱った書籍等では、ディズレーリは、大 悪臭を発生させたテムズ川のことを、 「言いようのないほど耐えられない恐怖を まき散らす地獄の水溜まり」だと言って、下水道整備の担当部局である公共事業 局(下水道委員会が改組)に対して、下水道の管路網整備計画について何でも実 行できる権限を与え、公共事業局の技師長バザルゲットの尽力もあり、ロンドン の下水道の管路網が整備されたとされている3。 英国の国家分裂の危機の一つの要因と言っていい公衆衛生問題から来る大き な試練を、政治家ディズレーリと技術者バザルゲットが一体となって克服し、国 民統合を守ったといってもいいのではないだろうか。 3.下水道システムを維持するということ 日本の話である。日本においては、皇室制度をはじめとした歴史的な蓄積は当 然のことだが、それに加え、英国ディズレーリの社会政策にもあった、労働者の 適正な権利保護、公教育の充実、下水道の整備をはじめ様々な社会政策もあり、 戦後、比較的社会格差が少ない豊かな経済社会が構築され、国家の分裂という事 態に立ち至ることがなかった。 しかしながら、バブル崩壊後の長期的な経済低迷や、少子高齢化、グローバル 経済の進展という構造変化もあり、現在、例えば、労働者の所得格差の拡大や、 子どもの学力低下・格差拡大等の問題も深刻化しており、英国が 19 世紀に直面 した国家の分裂という危機は他人事であると言い切ることはできるのだろうか。 下水道についても、現在、今後予想される改築更新費・維持管理費の増大や、 地方自治体の財政逼迫・技術系職員の減少等の状況に鑑みて、今後、下水道シス テムを維持していくことが喫緊の課題となっている。 下水道は、普段、一般国民が目にするものでないが、 「大切なものは目に見え ない『星の王子様』」と言われるように、このシステムの維持ができなければ、 世界に冠たる都市化社会の我が国において公衆衛生が確保できず、19 世紀に英 国で発生した深刻な公衆衛生上の問題より大きな問題が顕在化することになろ う。そして、仮に、他の大きな社会問題も連鎖的に発生するような事態が発生す 2 『ディズレイリ』 、457 頁参照 『ヴィクトリア時代のロンドン』 (L.C.B.シーマン(著)、社本時子・三ツ星堅三(訳) 、創元 社(発行)) 、38~39 頁参照。また、 『英国上下水道物語』 (ヒュー・バーティキング等(著)、 さい藤博康(訳) 、日本水道新聞社(発行)) 、176 頁参照 3 3 れば、国家の分裂の兆しが生じてくることも否定できないのではないだろうか。 英国の歴史に学べば、我が国においても、深刻な社会問題の発生を防止し、国 民統合を維持する上で、下水道システムを維持していくことには、大きな意義が あると言わねばなるまい。下水道システムの維持に向け、下水道関係者に課せら れた責任は重い。 4
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