研究報告 第2号 - 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館

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CONTENTS
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県
立
鳥
居
龍
蔵
記
念
博
物
館
研
究
報
告
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館
研 究 報 告
第2号
2015年3月
第
2
号
目 次
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論説
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外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み …………………………………ラファエル・アバ… 1
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植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
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………………………………………………………………原著:咸舜燮 訳:吉井 秀夫…23
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鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について ……………………………吉井 秀夫…43
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鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査
― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ― …魚島 純一・長谷川 愛…71
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REPORTS
資料紹介
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鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳……………………………………下田 順一・大原 賢二…87
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徳島県立鳥居龍蔵記念博物館
〒7
70-8
070 徳島市八万町向寺山
文化の森総合公園
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告
Bull.TokushimaPref.ToriiRyuzoMemorialMus.
No.2:121,Ma
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【論 説】
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
ラファエル・アバ
はじめに
戦後から現在に至るまで鳥居龍蔵(18701953
)の人物像,学問的な歩みや,各地域で行った調査に
対する学史的な評価や関心は一定のものではなく,いくつかの波が見られる。鳴門市妙見山に鳥居記
念博物館が建設された1965年,朝日新聞社『鳥居龍蔵全集』が出版された1970
年代後半,その二つの
波のあと,一旦関心が薄くなったようである。例えば,近年刊行された鳥居龍蔵を語る会編『鳥居龍
蔵研究参考資料』を検討すると,1980
年代に掲載された関連文献が極めて少ないことを確認できる。
しかし,1990
年代から再びその関心は高まりを見せる。その背景には,
『東京大学総合研究資料館所蔵
鳥居龍蔵士撮影写真資料カタログ』
(1990
年)の刊行,およびその成果を踏まえた「乾板に刻まれた世
界―鳥居龍蔵の見たアジア」の企画展(1991年)の反響が大きかったと思われる。これを受けて国立
民族学博物館(1993
年),徳島県立博物館(1993
年),北海道立北方民族博物館(1994
年)などにおい
て鳥居龍蔵展が相次いで開催され,鳥居の研究業績は再評価され始めたのである。
ところが,このような状況にもかかわらず,鳥居の学問的な歩みや思想のなかに実はまだ解明が待
たれる興味深い課題が数多く存在する。例えば,同世代の日本人類学者のうち鳥居ほど研究成果を国
際的に発信する必要性を意識したものがない中,鳥居は1910年から西洋に向けて「人類学研究・台湾
の先住民」を初めとする仏語論文を相次いで刊行していった。にもかかわらず,同時代のヨーロッパ,
とくにフランスの人類学界での鳥居の業績がどのような評価を受け,そしてどのような影響を与えた
かという点については先行研究がみられない。
筆者は以前からこの課題に興味をもち,現在もフランス語文献を含めて資料の整理・検討中である
が,鳥居の国際的な位置づけを明らかにするためにはまず一つの前提作業が必要と考える。それはつ
まり,鳥居がどのように外国語を学習したのかというプロセスの解明である。筆者は本稿で論じるよ
うに,その過程を単純に語学学習上の問題として捉えるのではなく,これを包括的に分析することに
よって,鳥居を取り巻く人間関係や学問的な知識の摂取,学界状況など様々な要素や側面が相互に関
連していたことがわかる。そして鳥居の研究成果の国際的な発信において中心的な役割を果たしたフ
ランス語との関係はいつ,なぜ,どのように生まれたのかという問いに対して初めて明確な答えを得
ることができる。
本稿では,このような課題認識のもとで,鳥居龍蔵の学問的な歩みを外国語学習という観点から検
討し,英語・ドイツ語・ロシア語・フランス語という言語が彼の研究や思想において果たした役割に
ついて論じてみたい。
Ⅰ 外国語・洋書との出会い
周知のように日本では近代的な学校教育制度の基礎が形作られたのは明治維新直後のことである。
最初の教育法令は1872
(明治5)年に太政官布告で公布された「学制」で,これによって小学・中学・
大学という三段階からなる学区制が決定され,また教員養成のために師範学校が設けられた[山住
1987
]。そして早くから外国語教育,殊に英語教育の必要性を認識した太政官は,上等小学(1013歳)
では「外国語学ノ一二」も「斟酌シテ教エルコトアルヘシ」と布告した。しかし1879年の教育令公布
により,欧米の教育制度を規範とした「学制」は廃止され,小学校の教科目から外国語が一時的に排
─ 1
─
ラファエル・アバ
除された。それでも実際には英語教育を継続した学校も存在し,また欧化主義が頂点に達したいわゆ
る鹿鳴館時代のただ中で,「小学校教則綱領中改正」(1884年)が出され,これによって英語科が本格
的に復活したのである[江利1996
]。
このような状況下で鳥居龍蔵が最初に出会った外国語は英語だった。鳥居は自伝『ある老学徒の手
記』のなかで次のように述べている。
いよいよ中学に入る時期になると,私ははじめて英語を学んだ。先生ははじめて徳島中学校の
毅 毅
英語教師として来られた,札幌農学校卒業の農学士,諏訪鹿蔵という讃岐の人で,この時,中学
校でも正式に学科の中に英語を入れたのであった。先生は学校から帰ってからも自宅で英語を教
えておられ,ここに学ぶ人は町家の師弟が多かった。私はこの先生に『スペルリング書』から習
い始めた。なお二,三の外人その他の先生についてもこれを学んだ。そのため東京から大きな
『英和字書』を求めたが,これは珍しいとて見に来る人も多かった。[鳥居1953
:1617
]
毅 毅
(安政4
)年に
諏訪鹿三と英語教育 諏訪鹿三(「鹿蔵」は誤り)は1857
(1)
高松藩士の家(現愛媛県)に生まれた。1877
(明治10
)年に現在の東京
大学工学部の前身の一つである工部大学校予科を卒業し,ただちに官費
生として新渡戸稲造(18621933
),内村鑑三(18611930
)らとともに1876
(明治9)年設立の札幌農学校に入学した。1882年に農学士の学位を得,
卒業した(第二期生)後に札幌県に勤務したが,まもなく北海道を去り
(1883
年のことか),徳島県の徳島師範学校・徳島尋常中学校などで教鞭
をとった。小学校2年生で退学し自学自修を始めるという鳥居が諏訪か
ら英語を学んだのはこの時であると推定できる。しかし諏訪はその後,
(2)
1887
か1888
年に東京に移り,私立学校などで講義を行いながら,農業の
振興に携わった。1892
年に園芸協会の通訳としてアメリカに渡り,農業
経済学,農業に関する教育制度や植民政策などの調査に取り組んだが,
翌1893
年にコロンブスのアメリカ大陸発見400
周年を記念してシカゴで
図1 諏訪鹿三
諏訪は鳥居の最初の外国語
教師(
[南1
9
2
8
]より転載)。
国際博覧会が開催されたときに,審査官を選ばれて,審査委員長となっ
た。1894
年に帰朝し,1898
年に河西(現十勝)支庁長に任ぜられたが,四年後退職し,1928
(昭和3)
年死去するまで農牧業を自営した。
年以降)は1871
年に設立され,教頭を務めたヘンリー・ダイアー(He
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工部大学校(この名称は1877
Dye
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,18481918
)をはじめ多数のイギリス人,特にスコットランド人を教師として雇用し,授業はす
べて英語で進められただけでなく,大学での生活もまるで「スコットランド風そのままの学校生活を
日本に移」したようなものであったという[高梨1978
:100
]。また,初期の札幌農学校は外国人教師
による講義がすべて英語で行われたが,それに加えて多彩な内容の英語教育(英和作文,翻訳,英文
学史,話法など)が実施され,さらに外国人教師と生徒との触れ合いは教室内にとどまらず,運動会
や修学旅行など様々な場面に及んでいた[北海道大学編著1982]。このようにして,その当時の大学で
の外国語学習はこんにちでいう「イマージョン・プログラム」(没入法)に近いものといえるのかもし
れない。
(3)
札幌農学校での成績を見る限り,諏訪はよくできた生徒ではなかったようだが,当時非常に限られ
た「大学生」という知的なエリートの一員で,卒業後,スコットランド人の有名な農学化学者ジェイ
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]を和訳したり,英語の論文を執筆したり[Suwa1901
(1893
)],彼
(『農業化学書』)[諏訪編訳1887
の英語能力が優れていたのは確かである。
『スペルリング書』は特定の「教科書」ではなく,最も基本的な部分であるアルファベットの文字と
発音のルールを知るためのSpe
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の日本語の一般和称である。その原点は1866
(慶応2)年に出
─ 2
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
版された『英語階梯』
(英名Engl
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)である。本書が作られた当時は,世界の「中心」
は大英帝国であるという認識が次第に高まり,英語学習者の数も増加した時期であったが,1880
年代
になると,この種の読み物はその隆盛を極め,50種以上世に出た。そして中学校の英語教科書にもそ
の内容の一部が採用され,学習者に大きな影響を与えた,という[南1989]。一方,現時点においては
(4)
鳥居のいう『英和字書』が何であったかを特定することができなかった。
阿波文庫 さて,鳥居が英語を習い始めたこの時期に,早くも単なる英語教材とは異なる洋書に接触
する機会が訪れた。
阿波文庫は,その頃中学校内に移されていた。私はその文庫に入って種々の書籍を見た。先ず
はじめて見て驚いたのは,かのペルリの『航海記』で,その挿絵を見て,その当時がしのばれた。
また,フランス文の考古学の本もあって,これは師範学校の山内先生に読んでもらった。(この本
はその後東京に行きパリから買い求め,今もこれを所持している。)阿波藩は,維新前後に文明開
化の徴は早くからあったことがわかる。[鳥居1953
:18
]
六万冊を誇ったとされる阿波文庫または阿波国文庫とは,徳島藩主であった蜂須賀家が所蔵してい
た書籍のことで,儒学者の柴野栗山(17361807
)の蔵書と,江戸幕府御家人・国学者の屋代弘賢(1758(5)
1841
)の蔵書を中心に収集された文庫であったという。蔵書群は本来,阿波の徳島城内の書庫と江戸
の蜂須賀藩邸雀林荘内の萬巻楼と呼ばれた土蔵に分けて保管されていたようであるが,明治維新後に
雀林荘の阿波国文庫は国元に送られて一つになった。その後,1869
(明治2) 年に開校された藩校西
の丸長久館,1874
年開校の期成師範学校(現在の徳島大学総合科学部),1879年開校の徳島中学校
(現在の城南高等学校)において阿波国文庫の大部分が保管・公開されたが,1884年2月に起きた師範
学校の火災によって文庫の一部が焼失したとされる。その後1918
(大正7) 年に徳島県立光慶図書館
が設立されると阿波国文庫は同図書館に移管されたが,太平洋戦争中の空襲(1945年)によりそのほ
とんどが焼失した。
数ある書籍の中でも,まず鳥居の好奇心を捉えたのは「かのペルリの『航海記』」つまり,アメリカ
海軍将官のマシュー・ペリー(Ma
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,17941858
)のNar
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]。この著書はペリーが中国
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(『日本遠征記』)である[Ha
海域および日本に来航した際の記録に基づいて編集されたもので1856年にアメリカで刊行されたもの
だが,その日本語訳が初めて刊行されたのは56
年後の1912
年のことである[鈴木1912
]。我々が特に注
目すべきは,ペリーが訪れた地域の風習,衣装や建築などを精密に捉えている150以上の石版画と木版
画である。この著書は,激しく変貌していく江戸から明治への日本とその周辺地域の様子を示すもの
で,鳥居にとって,
「異
文 化」や「異 人 種」・
「異民族」への興味をか
きたてるものとして評
価すべきであろう。一
方残念ながら,「フラ
ンス文の考古学の本」
の方は,現時点では特
定できなかった。
い ず れ に し て も,
1882
年に徳島中学校に
収蔵されていた洋書の
数はすでに約400
冊に
図2 『日本遠征記』
ペリーに率いられた米国艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロ
ン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由して1
8
5
3
年日本に来航
した。その航海をまとめた『日本遠征記』はこれらの地域を鮮明に描き出して,鳥居
に多大な影響を与えたに違いない。左は黄浦のパゴダ(1
3
5
頁)
,右は広州市の魚市場
(138
頁)。
─ 3
─
ラファエル・アバ
上っていたことがわかっている[徳島県立光慶図書館編1922
:28]。おそらくその背景には幕末までさ
かのぼる阿波と洋学(蘭学)との関係を窺うことができるであろう。すなわち,1856
(安政3)年に江
戸八丁堀藩邸内長久館という文武学校が創設され,阿波徳島藩の第13代藩主の蜂須賀斎裕(18211868
)は洋学修業のため数人の藩士を長崎に留学させ,1868
年に藩主となった蜂須賀茂韶(18461918
)
も東京などへ数十人を遊学させた[池田1970
]。1865
(慶応1)年徳島に洋学校が開校し,オランダ語
学習のみならず,英語教育も始まり,1869年に開校した藩校西の丸長久館に至ってはそのほとんどが
英学となり,英語・世界史・地理・国際法などの授業が行われた。そして茂韶自身は1872
年から1879
年までイギリスに留学し,帰朝後東京府知事,第二代貴族院議長,文部大臣などを務める一方,自由
民権運動を支援していたという[三好・大和編著1983
]。
考古学の本 徳島中学校附属図書館が創設された当時,地方民一般の読書に対する関心は薄く,来館
者の人数は少なかったという。そのため,読書家の鳥居の姿は注目を集めたであろう。しかし,師範
学校編『小学読本』第一巻にあった世界の人類は5人種に分かれるとの記述から人類学に興味を覚えた
という鳥居の好奇心や知識欲は早くも身近な書籍で満たされなくなっていた。1886年に東京人類学会
に入会して,当時帝国大学動物学科大学院生であった坪井正五郎(18631913
)との交流を始め,すぐ
に原書の専門書について情報を求めるようになった。そうして鳥居が手に入れたのはManbe
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という二冊であった。
(6)
毅 毅 毅
(7)
〔1887
年の頃に:筆者補足〕谷千成先生に東京に行く用が出来て出発されるとき,私は先生に,
あちらで坪井先生に会って,人類学に関する原書は何から読んでよいかを尋ね,その適当な本を
買って来ていただきたいと依頼した。先生は坪井先生から,この書物を丸善で買うようにと教え
られ,同店でJ
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と,神田孝平先生著英文『日本石器考』の二冊を求めて帰国,
これを私に渡された。
前者ジョリーの本は,人類学よりも先史考古学の方に属するが,兎に角有益のもので,早速読
み始めたが,私の英語の知識はなお不足であったから,各章の理解しにくい個所は,幸いにして
徳島中学主任(高等師範学校卒業生)吉見先生に教えを求めることができた。吉見先生も術語や
その他で困られたようであったが,私は先ずこの書で人類の起源からその発達,旧石器時代,新
石器時代の人種やその生活,文化等を知るようになった。[鳥居1953
:20]
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(『金属以前の人類』)はフランス人のニコラ・ジョリー(Ni
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,18121885
)
著L’
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の英訳である。ジョリーは1840
年にパリ大学で理学博士号を取得した後,
パリ人類学学校(l
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)の創設者の一人であり,人類学者のカトルファージュ
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,18101892
)の代用とし
てトゥールーズ大学理学部で教職に就いたが,
さらに1851
年にモンペリエ大学で医学博士を取
得し,1857
年にトゥールーズ大学医学部で生理
学講座を担当するようになった。生物学・動物
学・生理学・解剖学・奇形学など様々な分野の
研究に携わり,ヨーロッパの科学史のなかで特
に近代細菌学の開祖とされるルイ・パスツール
(Loui
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,18221895
)に反論した一人とし
て知られるが,先史学や考古学方面にも専門書
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]。
や論文をいくつか残している[Al
豊 富 な 図 入 り で 本 文 が 300頁 を 超 え る
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の初版(フランス語
図3 ジョリーと『金属以前の人類』
フランス人のニコラ・ジョリーが著した『金属以前の人
類』は鳥居が初めて見た欧文考古学文献の一つで,その
なかにドルメン,メンヒルや墳丘墓などヨーロッパの先
史文化を代表する遺跡のイラストをみることができる
(写真はフランス国立医科学院提供)
。
─ 4
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
(8)
版)は1879
年に出版され,好評の中で,版を重ねるだけでなく,1883
年にはその英訳も出版された。第
一部L’
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(「人類の遠古」)と第二部Lac
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(「原始文明」)という
二部から成る。前者は近代的な地質学の時代区分を紹介した後,三時代法(石器時代・青銅器時代・
鉄器時代)や四時代法(旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代)など考古学的な時代区分
法と時代変遷,19世紀にフランスやイギリスの洞窟で発見された旧石器時代の人骨,デンマークの泥
炭沼と貝塚,スイスの湖上住居やイタリアのサルデーニャ島の建造物ヌラーゲ(単一形はヌラーギ)
などヨーロッパの新石器時代の文化を代表する遺跡やアメリカ大陸における先史時代の人類の痕跡を
詳細に説明している。興味深いことには,鳥居のライフワークのテーマの一つであり,彼の東アジア
研究の原点となったドルメンについても記述されている(原書135147
頁,英訳144159
頁)。第二部は,
火を起こす発火法の発明や食物の処理法をはじめとして,石器・道具・武器の作り方,農業や家畜の
起源,交易や航海,言語と文字の誕生など,先史時代の人類の文化や生活様式を様々な観点から詳し
く検討している[J
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y1883]。
1883
年8月にアメリカの科学雑誌TheAme
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に掲載された書評によると,著者のジョ
リーは先史時代の人類の解明において先駆的な役割を果たしたフランスの科学コミュニティーのメン
バーとして注目に値する人物で,この書はチャールズ・ライエル,エドワード・タイラー,ジョン・
ラボックなど第一級学者の著作と肩を並べるほどではないものの,読者に人類の遠古を示す様々な証
拠を与えつつ,面白く読める本だという[TheAme
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)
1883
]。L’
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は一般読者を念頭において分かりやすいスタイルで書かれたものではあるが,その当時は考古学や人
類学の専門用語の意味を調べようにも,そういった洋書がまだ日本には無かった時代で,その頃15か
16歳だった鳥居にとっては内容を理解するのは容易ではなかったはずである。しかし,この著書との
出会いによって鳥居は,他国よりも早く確立したフランスの先史考古学研究の具体的な成果を知るだ
けでなく,新たな世界観に目を見開かされたのである。
1898
)で,彼は洋学者・啓蒙思想家で明六社や
他方,『日本石器考』を著したのは神田孝平(1830東京学士会院をはじめてとして多くの分野で活躍する一方,晩年には考古学にも興味をいだき,東京
人類学会の初代会長を務めた。
本来の目的は海外の学者に日本で発見された石器を外国の研究者に紹介するということで,孝平は
日本語の原書をその養子で英語研究者の神田乃武(18571923
)に依頼した。著書はNot
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という表題で1884
年1月に刊行された[Ka
nda1884
]。八頁の短文で,石
器を示す24枚の図版および旧国名を示す折込みの日本地図1枚からなる。日本語の原文もまた,二年
後の1886年4月に『日本大古石器考』という表題で刊行されたが,図版はすべて省略されている[神田
886
]。
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の内容は日本の近世社会のなかで生み出された骨董趣
味から西洋科学の導入によって展開する近代考古学研究への「移行期」に位置付けられるものである
[アバ2008
]。神田は例えばイギリス人のジョン・ラボックが提唱した法則に従って,日本で発見され
る石器時代の石器を“c
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(「打製石器」)と“pol
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(「磨製石
”
器」)との二種類に分けたが,前者のなかには“Y
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(「石鏃」),“Hoko”
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(「石鋒」),“Te
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(「天狗匙」),
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(「雷斧」),
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(「分銅石」),後者の節のなかに“Rai
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(「雷鎚」),
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(「石劔」)などと,江戸時代の好古家の色彩を色
”
(9)
濃く纏った呼称を用いている。さらに神田は打製石器の作り手について論じるうえで,“Ther
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[Ka
”
nda1884
:2]と述べており,これは後に東京人類学会を主な活躍の舞台と
して坪井正五郎,白井光太郎,小金井良精などの間に展開していく日本石器時代人論争の始まりを告
げるものである。
─ 5
─
ラファエル・アバ
外国語の知識はまだ乏しいとはいえ,この二冊の著書は少年の鳥居に相当大きな影響を与えたのは
間違いないであろう。ジョリーのL’
HommeAv
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は人類の化石やその遺跡・遺物を網羅的に
研究することによって,文字文献が登場する前の人間の過去をどのように復原できるかという,先史
学の成果を見事に披露したものであった。そして神田のNot
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は,西洋考古学の原則を採用しながら,江戸時代の骨董趣味に根差していた「古物」へのこだわりや
関心の体系化を示すものであった。
タイラーと『人類学』 しかし,これらに加えて鳥居の学問観の基礎を理解するために欠かせない,も
う一冊が存在する。
坪井先生は当時,動物学科大学院学生であって,大学より九州に出張を命ぜられ,その帰途讃
岐の高松に立寄られ福家氏を訪い,同氏を伴って来県されたのである。私の家に両三日宿泊され,
私は勝浦郡旗山古墳などを案内した。また宿泊中,坪井先生より直接人類学上のことについて教
示せらるる所が多かった。先生はカバンの中からTyl
or:Ant
hr
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を出して示され,是非この
本から読み始める方がよいと勧められた。[鳥居1953
:21]
1888
年2月に坪井は九州出張の帰途,突然鳥居家を訪ね,三日ほどそこに宿泊した。坪井は滞在中,
「人類学とは何ぞや」という題で演説を行ったが,その内容はおそらく前年『東京人類学会雑誌』に掲
載された「人類学当今の有様」をまとめたものと筆者は考えている[坪井1887
]。さらには坪井が鳥居
にその際勧めたのは,名高いイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー(Edwa
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Tyl
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,18321917
)著Ant
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(『人類学―人類お
or1881
] 。タイラーはキリスト教プロテスタントの一派であるク
よび文明の研究入門』)である[Tyl
エーカー教徒としてロンドンで育てられ,高等教育は受けなかったが,結核と思わしき症状を発症し
たために1855
年にキューバへ旅立ち,そこでメキシコのトルテカ文明の遺跡調査に招かれた。この体
験をきっかけとして他文化に対して興味を抱き,人類学者として本格的に研究を進めるようになった
[Tyl
or1865
]。ただしメキシコでの経験を除いては,彼の大半の知識は自分人身のフィールドワーク
ではなく,古典文献やヨーロッパ人探検家の記録などから得られたものである[St
oc
ki
ng1979
]。
タイラーの最も重要な著作であるPr
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(『原始文化』)は鳥居が生まれて一年後の1871
年
(1
1)
1]。タイラーはそこで,当時の思想界に多大な影響を及ぼした進化論的な観
に出版された[Tyl
or187
点から「文化」や「残存」(
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の概念を定義し,また宗教の起源をアニミズムであるとした。そ
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opol
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れから,10年後の1881
年に人類学の最初の「教科書」とされるAnt
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を出版した[Tyl
or1881
]。その内容は440頁に及び,16章に分けられている。タイ
ラーは一般読者に人類文化のあらゆる要素や側面が時代を通じて進化してきたことを示すことを主眼
として,道具の発達,衣服,芸術,交易など様々なテーマを明快なスタイルで論じている。この著書
はまさしくそれまでの人類学的な知識を概括するものといえる。
武田丑太郎とドイツ語 鳥居龍次郎によると,龍蔵は徳島在住の少年時代にフランス語の勉強も始め
ていた[鳥居1977
]が,これについては『ある老学徒の手記』のなかに詳細な情報を見出すことがで
きない。しかし,この時期に鳥居が英語の他にドイツ語も勉強し始めたのは確実である。
さ
こ
まさ た
私は数学の知識がゼロであったから,徳島市佐古町の人武田丑太郎先生や,江口政太先生につ
いて数学を学んだが,当時生意気にもこれらの教科書は英文のものを以てした。またドイツ語の
必要は前から感じていて学んでいたが,武田先生について『独乙読本』第四冊まで教えてもらっ
た。武田先生は郷土には稀な学者で,数学が専門であられたが,読書は英仏独のみならず,オラ
ンダ語までもよくせられ,現にむずかしい『独乙読本』第四冊も自由におしえられるほどであっ
─ 6
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
た。[鳥居1953
:22]
武田丑太郎(18591917
)は藩校・長久館で阿部有清(18121897
)の下で数学を学んだ後,1876
年
に徳島中学校(現城南高校)で教職に就いた。明治・大正時代にわたって徳島の数学教育をリードし
た教師として知られている[西條2009
]が,その外国語の知識も優れていたようである。一方,なぜ
鳥居はドイツ語の必要を感じたのか,その理由について彼自身の記述はないが,鳥居とドイツ語との
関係を考える上で忘れてはならないのは,当時の国際的な動向であろう。ドイツ語熱は明治時代の初
めには,英語やフランス語に比べるとそれほど高いものではなかったが,ドイツ帝国の誕生を契機に
日本人はドイツの科学,殊に医学の優秀性を意識するようになったという[宮永2004]。そして大隈重
信の下野という明治十四年の政変(1881
年10月)が物語るように,1880年代に入ると,日本はドイツ
を「師」と仰いで近代国家づくりを急ぐようになった。以降,ドイツの影響力は明治初年より顕著で
あった自然科学のみでなく,人文・社会科学の分野にも及び,日本においてドイツ学が隆盛を極めた。
本論文の第二部で論じるように,鳥居はその「東京遊学時代」に様々な外国語と接触する環境に身を
置いたが,その中でドイツ語は重要な位置を占めるようになったのである。
Ⅱ 東京帝国大学時代における外国語学習
坪井正五郎はヨーロッパ留学のために1889年6月に日本を離れ,翌7月にフランスの首都パリに着い
た[東京人類学会編1888
]。そしてパリ万国博覧会を訪れた後,1
1
月にロンドンに向かい[坪井1888
],
1892
年10月までイギリスに滞在した。1890
(明治23)年9月に上京した鳥居は,パリの到着後から『東
京人類学会雑誌』に「パリー通信」や「ロンドン通信」を連載していた坪井が留学中であることを承
知していたはずであるが,「頼るべき坪井の留守中に上京せざるをえないほどの逼迫したものが鳥居
のなかにあったのだろうか」と推測される[天羽201
1
:23]。
人類学教室 坪井との再会を果たすことができなかったものの,鳥居は早くも東京人類学会の「拠点」
ともなっていた東京帝国大学の人類学教室に足を向けた。そこで,当然ながらすぐに彼が目を留めた
のはガラスの陳列ケースの中にあった専門の洋書である。
明治二十三,四年頃の石器や土器の採集,貝塚の探査などは,今日のように小学や中学の生徒
達やアマチュアまでがやるのとはちがい,専ら大学の人類学教室の人々や,東京人類学会員達だ
けに限っていた。東京人類学会は当時多少の会員を有し,機関雑誌も発行し,会員達がこれに論
文報告を登載していた。また教室の隅の小さなガラス箱の中にはタイラーの『人類学』,エヴァン
スの『英国の石器』,ラボックの『有史以前』,タイラーの『原始文化』
『人類の早世史』等の著が
蔵されていた。[鳥居1953
:28]
エドワード・バーネット・タイラー(Edwa
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,18321917
)の『人類の早世史』
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,1865
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『原始文化』
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,1881
年),ジョン・
1871
)・『人類学』(Ant
エ ヴ ァ ン ス(J
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,19231908
)の『英 国 の 石 器』
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k,18341913
)の『有史以前』
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,1872
),そしてジョン・ラボック(J
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age
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年代までのイギリスにおける人類学や先史考古学という学問の総括とい
1865
)。これらの洋書は1870
えるが,ここで忘れてはならないのは,今日的な基準で言えば異なる専門分野に属するタイラー,エ
ヴァンスおよびラボックの著書は,進化論が多くの支持を得て次第に影響を広げていったのと同じコ
ンテキストのなかで生み出されたもので,その詳細な内容はさておき,人類の遠古,人類の精神的な
─ 7
─
ラファエル・アバ
単一性(ps
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)や文化の前進的発達という共通の理念を有していた,ということで
(12)
ある。それと同時に,人類学教室に収蔵された洋書や坪井の留学から窺えるように,鳥居も含めて近
代日本における当初の人類学や先史考古学はこのようなイギリス的思想の影響を色濃く受けてスター
トしたことであった。ただし,これから論じるように,学者としての道を歩み始める鳥居は早くも異
なる思想や学問観と接触する機会を求めてゆく。
ドイツ語 鳥居は陳列ケースの中の洋書に手をかけようとしたところ,坪井が不在にしている間に人
類学教室の留守番をしていた若林勝邦(18621904
)は大変怒り,以後の教室訪問を拒否した,という
エピソードがよく知られている[鳥居1853:
28
]。手記によると,若林はとくに「石器時代の貝塚調査
に熱心」であった[鳥居1853:
26
]が,歴史遺物の方面にも関心があり,その頃に例えば銅鼓について
論文を執筆している[若林1890
]。このように鳥居と「意外な」接点があったが,残念なことにその関
係は友好的にはならなかった。
それとは別に,鳥居が人類学教室に再び出入りできるようになったのは坪井がイギリスから帰国し
た1892
年10月以降のことであるが,その間に小杉榲邨(18351910
),三宅米吉(18601929
),神田孝
平(18301898
)など様々な師から教えを受け,またドイツ語の習得を開始した。
私は人類学教室に行かなくなってから,別の方法を取って勉強することとした。即ち東京到着
早々から通い始めた本郷弓町のドイツ語学校でドイツ語の勉強を続け,なお三宅米吉先生の所に
通って史学,歴史考古学の教えを受け,更に木村熊治先生(旧櫻井地理局長の弟)の紹介で,田
口卯吉先生の所に通うこととなった。[鳥居1953
:2829
]
東京においては,1870
年代初頭からドイツ語を教える私塾・家塾・私学校などが盛んに開設される
ようになり,とくにドイツ語に対する学習熱が上がったのは,当時官立学校に入学するには簡単なド
イツ語の試験があり,その準備のための教育機関が必要になったからという[宮永2004]。当時本郷弓
町にはドイツ語学校が三校あった。それは,「共研学舎」(本郷区本郷弓町二丁目三十四番地,開設申
請年月は1880
年7月),
「独文学舎」
(本郷弓町二丁目四番地,開設申請年月は1881年1月)および「東京
全修学校」(本郷区弓町二丁目四番地,開設申請年月は1885年9月)であるが,現時点においては鳥居
のいう「ドイツ語学校」を特定することができないため,この点についてはさらに検討する必要があ
(13)
る。
いずれにしても,鳥居の学問的な歩みの中で起きた二つの大きな出来事が,ドイツ語習得に関連し
ていたことを指摘できる。一つは「土俗談話会」
(土俗会)の発足。もう一つはシュリーマンとの「出
会い」である。
この時期〔1893
年:筆者補足〕において私として記念とすべきは,私がドイツ語を学習してい
た関係上,神田のドイツ協会学校に知人をもっていたので,この人々と相談し,一日ある級の学
生を一堂に集めてもらって,土俗会なるものを設けた。[鳥居1953
:30]
土俗談話会の発足は『東京人類学会雑誌』に掲載された「土俗会談話録」
(第94号)・「第二回土俗
・1984b
]。ここで発行人としては鳥居の
会」(第102
号)が詳しく記述している[東京人類学会編1894a
他に「常陸筑波郡の小西孝四郎」と「羽前西置賜郡の小林庄藏君」という二人の人物があげられてい
(14)
るが,彼らが鳥居のいうドイツ協会学校の「知人」かどうかは不明である。土俗談話会の会合は1893
(明治32)年にかけて,日本各地から人々が参加する夏期講習会の機会を利用す
(明治26)年から1899
る形で,合計7回行われた。会の主旨は,各地出身者が主題に基づいて,出身地域の土俗=風俗・慣習
を発表するというもので,情報交換の場として設けられていたという。今日の日本民俗学研究の初期
段階を代表するものとして評価されている[曽我部その他2007
]。
─ 8
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
さらにはドイツ語関係者のなかに丸山通一という人物がいる。
本郷壹岐殿坂にドイツ皇室プロテスタン教会があり,その創立者はスピンネル博士で,同教会
内にドイツ語を以て有名なる三並良,丸山通一,向軍治の三氏(ドイツ協会学校卒業生)があっ
(15)
た。私はある日この会堂に丸山通一氏の講演があると聞き,通りがかりに立ちよって見ると,そ
の演題は「シュリーマン氏の死を悼む」というのであったから,私は耳をかけむけてよく聞いた。
[鳥居1953
:31]
まる やま みち かず
丸山通一(18691938
)は,ドイツの普及福音新教伝道会より日本に派遣されたスイス人の宣教師
ウィルフリード・スピンネル(Wi
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,18541918
)が設立した新教神学校を1892
年に卒業し
た後,三並良(18651940
)や向軍治(18651943
)とともに日本のキリスト教界の一勢力をなした普
及福音新教会で中心的役割を果たした人物で[日外アソシエーツ編201
1
],1900
年代以後,教育家やド
(16)
イツ語・ドイツ文化専門家として大いに活躍した。
周知のとおり,ハインリッヒ・シュリーマン(He
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nn,18221890
)はドイツの実業家で
フィールド考古学の先駆者で,幼少時にホメロスの『イーリアス』を史実と信じ,伝説の都市とされ
たトロイアを発見,発掘した。20世紀からはシュリーマンによるトロイアの発掘調査は粗暴なものと
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され,しばしば批判の対象となってきたが,このような評価でとくにピット・リバース(Pi
18271900
)やフリンダーズ・ピートリー(Fl
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nde
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,18531942
)などのものは,世紀転換期に始
まった考古学の方法論的改革を前提としたものであり,19世紀における厳密な意味での考古学の「専
門家」の不在や技術的な限界を考慮したものではない。なによりも,かつてツェーラムがその名作
『神・墓・学者―考古学の物語』で述べたように,トロイアの発見はドイツの学界に大きなショックを
与えるものであったが,教養人というかぎられた世界ばかりでなく,あらゆる人々との間に旋風を巻
き起こした。ツェーラムは次のように述べている。
学問研究の発展をはるかにさかのぼってよく観察すれば,偉大な発見の多くが「好事家」,「門
外漢」,またはまったくの「独学者」の手でおこなわれてきたのだということを,われわれはやす
やすと立証してみせることができる。彼らは専門的教養の制約を感ぜず,また専門主義の目隠し
も知らず,ある観念にとり憑かれて,アカデミックな伝統の築きあげた垣根をとびこえていった。
[ツェーラム1962
:67]
丸山の講演を聞いて大いに興奮したという鳥居は小学校を中退し学歴も資格もない自分をシュリー
マンになぞらえたであろう。ただし,まずここで注目しておきたいのは,シュリーマンとの「出会い」
の背景には明治時代の日本社会においてドイツ語ならびにドイツ文化の学習熱があったということで
ある。それ以降,鳥居のドイツ語に対する関心は単なる言語学上のものではなく,外国語を一つの有
用な道具として手に入れ生かすという意識に基づくものであった。例えば近年,吉開将人が述べるよ
うに,鳥居は日本の銅鼓研究において先駆的な役割を果たした[吉開2013]が,その研究の基盤にお
いてドイツ語文献を直接に取り扱うことできるという能力が必要不可欠なものであった。
人類学の書籍 坪井が帰国した後,鳥居は人類学教室の「標本整理係」の職に就くことができたが,
「用務」のかたわら,東京帝国大学の理科,文科を問わず好みの学科の講義を受け,また坪井がロンド
ンやパリで購入した専門書の読書に専念した。
先生の人類学講義を聴いていた私は,これとともに,まず世界の諸人種の地理学的分布,その
生活状態,その文化等を知らねばならぬということを先生から教示された。当時の世界諸人種に
関する書籍は,古くはウードの『諸人種志』その他フイギュエ,ブラオン,ベッタニーの『諸人
─ 9
─
ラファエル・アバ
種志』の如きで,土俗はペッセル『人種志』等であり,傍ら参考としてキャプテン・クックの
(17)
『航海志』,プリチャードの『人種志』,ヅカートルファジの『ヒューマン・スペーシス』等,人類
学はトピナールの『人類学』であって,先生は以上の人種志を各篇一章ずつ読んでみるとよいと
言われ,私は辞書を引きつつその教示に従い,これを実行した。[鳥居1953
:37]
タイラー,ジョリーやエヴァンスの著書によって人類学や先史考古学の基礎知識を得た鳥居は次回,
より詳細な知識を習得しにいく。例えば,身体測定学の基礎を確立したといわれるフランスの人類学
者カトルファージュ(Ar
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,18101912
)は上記の『ヒューマン・スペーシス』(The
HumanSpe
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,1879
)で人類の起源,人種の形成,化石人類や現代人類の頭蓋骨の特徴などについて
仔細に論じている[Qua
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a
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s1879
]。さらにいえば,坪井がロンドンやパリで購入した図書を詳しく
検討してみると[坪井18911892
],その大半はヨーロッパ人によるオセアニアやアフリカなどの旅行
記・航海日誌というジャンルの著作物であることがわかる。例えば,ヨーロッパ人で初めてアフリカ
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,18131873
)の
大陸を横断した,かの著名なデイヴィッド・リヴィングストン(Da
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(『南アフリカにおける宣教師の旅と探検』,1857
年)
はその一冊である。このようにして,鳥居にとってはこれらの著書が「知識の源」というだけでなく,
自らによる情報の獲得,言い換えれば,「人」・「もの」・「文化」を直接に観察・記録した「野外調査」
が人類学という学問において必要欠くべからざるという意識を強く芽生えさせたものであろう。
ロシア語 1891
年にシベリア鉄道の建設開始によって日露関係は新しい時代に入る。この鉄道建設の
着手によって,ロシアは本格的に極東経営に乗り出す意図を明らかにし,それを意識した日本政府の
]。このような状況下,シベリ
指導者のあいだに「ロシアの脅威」観は急速に拡大していく[細谷1965
アを騎馬で単独横断した福島安正(18521919
)は1892
(明治25)年6月に帰国する。そしてその一カ
月後に鉱物学や岩石学などを勉強するためにドイツのベルリン大学へ留学した神保小虎(18671924
)
はまだ全線開通前だったシベリア鉄道を乗り継いで1894年10月に日本に帰る。これらの出来事を目の
当たりにした鳥居は,東京帝国大学にて神保と親交を深めるなかで「シベリアおよび北方大陸」を
フィールドワークとして調べるという希望を抱き,そのためにロシア語の勉強を始めたという。
私はその時,シベリア及び北方大陸の人類学の研究には,どうしてもロシア語の書籍を読まね
ばならぬ必要を感じ,余暇には神田駿河台のニコライ神学校の学生についてロシア語の勉強を始
めた。当時は駿河台上にギリシャ教の大きな教会堂が建てられ,大きな鐘を鳴らし,日曜日には
信者が此処に集まって礼拝した。その神父には,かのニコライ師がおられた。また道教伝道者を
養成するため,会堂の傍らに神学校があって学生を養成しており,その教授に何れもロシアに留
学した小西〔増太郎:筆者補足〕氏その他の教授達がおられた。(後これらの教授,学生は多くロ
シア文学者となった)
私はこの神学校の学生某氏からロシア語を学んだが,先ず同語の綴方から学び,文法に及び地
理書などに及んだ。これでどうやらロシア語を辞書を引いて勉強が出来るようになった。しかし
当時は未だ完全な『露和辞書』はなく,これに大いに困難した。[鳥居1953
:40]
日本人のロシア語学習は江戸時代に大黒屋光太夫(17511828
)に代表される漂流民の耳学問によっ
てはじまり,蘭学者や蘭通詞たちによって継承された。そして明治維新後は来日した宣教師の塾や官
立の外国語学校,私塾・私学校などで学ばれた。1861年に正教を伝道するために来日し,日本正教会
の創建者として知られるニコライ(本名イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)(18361912
年)
年にこれを
は1872
(明治5)年に「露語学校」(東京神田区駿河台北甲賀町 12番地)を創立し,1876
改組し,7年制の寄宿学校「神学校」(正教神学校),1884
年に「女子神学校」を開設した[牛丸1969
]。
この学校を卒業した者のうちには,小西増太郎(18621940
),瀬沼恪三郎(18681945
),昇曙夢(1878─ 1
0
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
1958
)など19世紀末からロシア語教育界や日本の文学界に大きく貢献した人がいる。しかし,明治初
期にはロシア語学習熟は英語やドイツ語などと比べてそれほどのものではなく,鳥居の言葉からも窺
えるように,当初はロシア語関係の語学書が少なく,入門書程度のものにすぎなかった。この状況が
少しずつ変わり始めたのは文部省編輯局『露和字彙』が出版された1887年からのことであるが,実用
にたる辞典が現れるのは昭和十年代のことである,という[宮永2004
]。
鳥居はさらに次のように述べている。
この時代にはまだシベリアに関する著書はなく,僅かに参謀本部から『シベリア地誌』の一冊
が出版されていたばかりであった。この書は編纂物であるが,この時代としてよき本であった。
これは川上将軍が北方大陸に注意していたことから,参謀本部から特に出版されたものである。
当時における我が国の北方大陸に対する知識の渇望は甚だしいものであったが,これに向って参
考として読むべき書籍はなく,ただ僅かに以上の『シベリア地誌』があるのみであった。
[鳥居
1953
:40]
としつね
この「川上将軍」とは,明治から昭和前期にかけて活躍した外交官の川上俊彦(18611935
)のこと。
川上は1884
(明治17)年に東京外国語学校露語科を卒業後,外務省に入り,釜山領事館勤務を経て1890
年にウラジオストク貿易事務官に着任した。その時からはこの都市についての情報収集に専念し,そ
ウラジオストク
の活動結果は早くも1891
年6月に刊行の『浦潮斯徳』と題する小冊子として現れた[川上1891
]。加え
て参謀本部編編纂『西伯利地誌』は1892
年12月に出版された[参謀本部編纂課1892
]。この書は「総
論」
・
「天然部」
(自然地理)
・
「国体部」
(人文地理)
・歴史の四部からなり,ロシアの第一級学者の著作
を参考にしてシベリアという広大な地域についてきわめて詳細に説明している。原暉之が述べるよう
に,
『浦潮斯徳』も『西伯利地誌』もシベリア鉄道の建設開始によって日本人のあいだに高まったシベ
リアへの関心が背景にあったが,さらにはロシアと対立関係にある他の国,つまりロシアへのバイア
スをもった国から間接的に学ぶのではなく,直接ロシアから学ぶという姿勢に基づくものである,と
いう[原1998
]。
そして鳥居に関して言えばまずここで確認できるのは,彼の外国語学習に対する強い関心は言語そ
のものへの関心に起因するのではなく,学問的知識の獲得への意欲によるものであった,ということ
である。言い換えれば,外国語学習は研究や知識の蓄積・深耕を得るための必要な道具であって,研
究の目的ではない。次に論じるように,1910
年代になると,鳥居のフランス語論文が相次いで刊行さ
れるようになる。そこで,西洋からの知識の摂取・受容から,西洋に向けた知識の発信へという大き
な変化が見られるが,いうまでもなく,このような変化の背景には長年にわたって培われた鳥居の言
語的な能力があったのである。
図4 『西伯利地誌』
ロシアは1891
年にシベリア鉄道の建設を開始し,
「東洋侵略」の野心をあらわにする。
これを自覚した日本政府の指導者の間にシベリア地域への関心が急速に高まり,そ
れまでのように欧米経由ではなく,自ら情報収集を始める。図は『西伯利地誌』下
巻の表紙および「費牙喀(ギリヤーク)人刳木船」
(4
6
頁の次)
。
─ 1
1
─
ラファエル・アバ
Ⅲ 国際人類学者としての鳥居龍蔵
フランス語の学習 上述のように龍次郎によれば,龍蔵がフランス語を習い始めたのは,徳島在住の
少年時代であるが,この点については一次資料がなく,また自伝のなかに有力な情報を見つけること
ができない。現時点では龍蔵が1880・1890
年になんらかの知識を習得したとしても,フランス語学習
と本格的にかかわったのは中国西南部の調査(1902
年8月~1903
年3月)以降のことと考えてよいであ
ろう。
然るに明治三十五年ごろ〔1902
年:筆者補足〕,西南シナに苗族調査に行き,九ヵ月ばかり同地
方で費やしたが,その際から書籍を集め始めた。旅行地方は,シナ各省で当時木版の書籍が出版
せられていて,紙の質も各省で相違していた。たとえば,貴州版は唐紙でなく日本紙のような物
を用い,四川省はまた蜀特別の紙があった。私はなるべく,その省の苗族を主とした地誌や歴史
を集めたのであるが,これでも少しの書籍が手に入ったのである。それから上海に来ては,ケ
レー書店などで,英文や仏文の苗族に関する旅行記や著書を求めた。[鳥居1935
:230
]
1907
(明治40)年発行の「苗族調査報告」
(『人類学教室研究報告』第2
編)のなかにある「苗族ニ就
キテノ文籍」[鳥居1907
:1218
]および「参考書」[鳥居1907
:284285
]を検討してみると,英語文
献やドイツ語文献のほかに,ガブリエル・デベリア(Ga
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)著Le
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(『玀
年)ポール・ビアル(Pa
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)著Le
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(『玀猓族』,1898
年),カミル・セ
猓族及び苗族』,1891
年)など数多くのフ
ンソン(Ca
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)訳Hi
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hao
(『南詔野史』,1904
ランス語文献の存在を確認することができる。これらの著書は鳥居が1902
年から1906
年までの間に購
入したものと思われるが,当然ながら,参考にできたのはある程度フランス語を理解できるからであ
る。
そして,鳥居とフランス語との関係がどこまでさかのぼれるかは依然として不明であるが,1903
年
3月に中国から帰国して後,フランス語をアカデミックな環境で学んでいたのは確実である。
私はこの頃から帝大文学部で,毎日早朝に,ブフというフランス人の先生について仏語を勉強
した。そして夜は暁星学校の夜学に通っていた。[鳥居1953
:103104
]
この「ブフ」はジャン・バプチスト・ブーフ(J
e
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pt
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s
t
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uf
,18551926
)である。フランスの
アルザス地方出身の聖マリア会宣教師で,物理学や博物学を専攻し日本人学生に教授することを目的
にして1889
年2月に来日したが,実際には,
東京大司教でフランス語を教えていたピ
エ ー ル・ザ ヴ ィ エ・ミ ュ ガ ビ ュ ー ル 師
(Pi
e
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rMuga
bur
e
,18501910
)の後任
921
年8月まで東京帝国大学と暁
となり,1
星学校でフランス語を教えた[武内1995
]。
暁星学校は,1888
(明治21
)年にフランス
とアメリカから来日したカトリック修道
会・マリア会の宣教師が開設した家塾が母
体で,暁星小学校が1890
年に,暁星中学校
が1899
年に設立許可された[記念誌等編纂
委員会編纂1989
]。
さらには龍次郎によると,龍蔵は東京帝
国大学の仏文科のエミール・エック(Émi
l
e
図5 フランス語と暁星中学校
暁星中学校とそのフランス宣教師は鳥居のフランス語学習に
おいて中心的な役割を果たした。写真は,鳥居にフランス語
を教えた宣教師のジャン・バプチスト・ブーフが1
9
0
3
年 3月に
フランスの友人に送った絵葉書(ベルント・レパッチ氏提供)。
─ 1
2
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
He
c
k
,18681943
)からもフランスを習った[鳥居1977
]。エックは1891
年に聖マリア会からの援助隊
の一人として来日した宣教師であるが,1896年に東京帝国大学に仏文科を創設して,1912年までフラ
ンス語やフランス文学を教えていた。そして暁星中学校の第三代校長(19211929
年)も務めた[記念
誌等編纂委員会編纂1989
]。
しかし,鳥居のフランス語学習においてもっとも重要な人物はいうまでもなく,パリ外国宣教会の
オグステン・エルネス・ツルペン神父(Augus
t
i
nEr
ne
s
tTul
pi
n
,18531933
)である。ツルペンは1877
(明治10)年に来日し,秋田・盛岡・山県など各地を転任した後,1887年に名古屋教会,1907
年に東京
麻布教会の主任司祭に任命された。亡くなるまでそこでカトリック思想の普及や信者の指導に力を尽
くし,出版営業や様々な分野の書籍・記事執筆にたずさわる他に,フランス語教育にもかかわった
[陰山編1963
]。そして住居に近いこともあって,鳥居のフランス語先生となったが,加えて1910
年か
(18)
ら1919
年にかけて刊行されたその仏文論文の翻訳のほとんどを担当したのはこのツルペンである。
フランスと西南中国 鳥居の台湾調査の成果をまとめた“Et
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opol
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For
mos
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(「人類学研究・台湾の先住民」)の第一部は1910
”
年12月に,第二部は1912
年1月に刊行された。
続いて“Et
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(「考古学
”
年3月に,“Et
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民族学研究・東蒙古の原始住民」)(鳥居きみ子共著)は1914
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年12月 に,“Et
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(「人 類 学 研 究・満 州 人」)は1914
”
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(「考古学民族学研究・南満州の先史住民」
”
1915
年10月に,そして“Et
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(「考古学民
”
年1月に刊行された。東京帝国大学のJ
our
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族学研究・千島列島のアイヌ」)は1919
Sc
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nc
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(『理科大学紀要』)に掲載されたこの一連の論文によって鳥居の名声は西洋とりわけフランス
の学界で次第に高まり,1920
(大正9)年にはフランス学士院(I
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)より「パルム・デ・
ランストルクション・プブリック」(Pa
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,「公衆教育勲章」)が授与され,次
いで,1921
年にパリの国際連盟人類学院の正会員に選ばれ,日本代表委員となった。「公衆教育勲章」
とは,1808
年にナポレオンによって制定された教育功労章(パルム・アカデミック)の最高位の勲章
で,本来パリ大学の最も優れたメンバーに与えられるものであったが,1866年から外国人も含めてフ
ランス語教育に携わる人や日仏文化交流に貢献した人をも対象するようになった[小野2001
]。
周知のとおり,鳥居にとってこれらの出来事は一生忘れることのないエピソードであり,なおかつ
彼の国際的な学者としての権威や地位を疑念の余地なくあらわすものであった。にもかかわらず,鳥
居とフランスの学界との関係についてはこれまでの「鳥居龍蔵研究」のなかでは注目度が意外に低く,
実際その詳細は知られていない。そこでまず,ここで湧いてくる最初の疑問は,鳥居が自分の研究成
果を西洋に発信するために,英語やドイツ語ではなく,なぜフランス語を選択したのか,ということ
である。
自伝で述べるように,鳥居は少年時代に『自由新聞』に連載された「フランス革命史の翻訳の続き
もの」を読み,その中に掲げられていた「革命当時の絵を面白く見た」という[鳥居1953
:17]。それ
はおそらく,フランス文化と接触する最初の体験であった。しかし,鳥居が学問的な理由でフランス
語を学ぶ必要性を初めて強く意識したのは西南中国のときではないか,と筆者は考える。
雲南府城は,塼を以て城壁とし,城内は広く漢族は諸市街をなし,商売は最も盛んである。こ
こは貴州省より格式が一段高く総督が政治している。私は入城するとともに総督に面接したが,
茶菓の饗応あり,府には外事課があり,フランス語のできる役人がいる。この役人がいるのは,
トンキン
東京がフランスの管轄地方で,この雲南省と直接の関係があるからである。私はこれから旅行そ
の他について万事ここと交渉することとなった。フランス人は,雲南にカトリック教会が多く各
地に存在しているため,これらの教会で,神父として伝道しており,雲南には,東京と雲南との
間にまだ鉄道の設計がないから,フランス人は東京から深い渓谷を歩き,幾多の困難をおかして,
─ 1
3
─
ラファエル・アバ
雲南に往来しているのであって,この省は英人よりむしろフランス人の方が多く関係を結んでい
る。[鳥居1953
:9899
]
東南アジアにおけるフランス人の侵入はナポレオン三世がフランス宣教師団の保護を理由に1858
年
に遠征軍を派遣したのに本格的に始まる。フランスはその後,コーチシナ(ベトナム南部)を併合し,
安南国(ベトナム中部)やカンボジア王国を保護国,トンキン(ベトナム北部)を保護領とした。そ
して1893
年にラオス王国を保護国とし,1900
年からは中国西南部の広州湾租借地を加えた。しかし,
フランス極東学院の創立が物語るように,フランス人による植民地化は単なる図版上の領土拡大とい
うだけでなく,学問的にもその意義が極めて大きいものであった。
インドシナ考古学調査団(Mi
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)を前身とするフランス極東学院(Éc
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Ext
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Or
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)は1900年に正式に創立され,その設置にはアカデミック組織だけでなく,
軍隊および植民地局も積極的にかかわった。設置にあたっては考古学・民族学・地理学など様々な専
門分野の専門家が招聘され,その構成員となったが,彼らは当時まで中国文化圏の一つとされたイン
nga
r
a
vé
l
ou2012
]。それに加えて,鳥居
ドシナ文明の再評価において重要な役割を果たしたという[Si
はフランス極東学院のメンバーにとって決して知らない人物ではなかった。
『苗族調査報告』の書評 実は鳥居の名がフランス学界で知られるようになったのは,彼の仏文論文が
世に出る前のことである。
蒙古出発以前,急いで大学から出版した『苗族調査報告』は幸いにして,支那学者として有名
ツンポウ
なかのシャヴァンヌ博士に認められるところとなり,同博士は私が蒙古にある間に「通報」とい
う雑誌に極めて鄭重なる紹介と批評をせられ,私はこれによって大いに面目をほどこした。この
結果,フランスの学界より,そのうちのある部分の仏訳を許されたいという書面も来ていた。私
はこの際フランスに留学し,斯学を研究する機会もあったのであるが,ヨーロッパに行って学ぶ
よりも,東亜を自ら実地に研究する方が極めて大切であると信じ,遂にパリーに行かなかった。
またアメリカのある学界から私に対しその学歴を送付ありたいといって来たこともあった。[鳥
居1953
:152153
]
この「シャヴァンヌ博士」とは,フランスの歴史学者・東洋学者のエドゥアール・シャヴァンヌ
(Édoua
r
dCha
va
nne
s
,18651918
年)である。本来哲学を専門したシャヴァンヌは二十歳の時にガブリ
エル・デベリアのもとで中国語を勉強しはじめ,1889年にフランス大使館の随行員として北京に派遣
された。その時から中国最初の紀伝体の通史とされる司馬遷著『史記』の注釈付の翻訳という膨大な
(19)
作業を開始し,これは五つの巻に分けて1895年から1905
年にかけて出版された。さらにシャヴァンヌ
の関心は文献資料だけでなく,考古学や金属学方面にも及び,例えば鳥居の「苗族調査報告」が出版
された同年にMi
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(『北方中国の考古学調査』)を刊行した
[Di
é
ny2012
]。
(20)
さて,『通報』T’
oungPao
という雑誌は,フランス人の中国学者アンリ・コルディエ(He
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iCor
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r
,
18491925
)とオランダ人の東洋学者グスタフ・シュレーゲル(Gus
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ge
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,18401903
)が1890
年に創刊したもので,東アジアの諸文化を学問的な対象とした最初の国際雑誌とされる[Ang2012
]。
シュレーゲルが亡くなった後,シャヴァンヌはその編集者の一人となった。そこで彼は鳥居の「苗族
調査報告」を1908
年5月刊行の『通報』第9巻・第2号で次のように紹介している。
鳥居先生は1902
年に湖南省,貴州省,雲南省および四川省の地域で民族学調査を行い,長期に
わたり綿密な研究で南中国の先住民族に関する資料を少なからず収集した。今回ここに刊行され
るこれらの研究成果は日本の科学にとって輝かしい栄誉となるであろう。まず,その旅行を簡潔
─ 1
4
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
に記述し,日本人・中国人およびヨーロッ
パ人による文献を紹介した後,先住民族の
名称および地理学的な分布について述べる。
次の重要な章では身体観察・測定の結果を
示し,さらに言語を検討する。それから,
苗族の風習および工芸を論じ,衣服の文様,
楽器,および近年ヨーロッパ人の研究者の
注目を集めている銅鼓についての興味深い
考察を述べている。報告書の最後にある44
の図版では写真を2枚ずつ載せており,民
族学上数多くの資料を与えてくれる。1905
年に蒙古および満州を訪れた鳥居氏にはこ
れからもこのような報告書を期待していま
図6 シャヴァンヌとペリ
フランス研究者のエドゥアール・シャヴァンヌと(左)
ノエル・ペリ(右)が書いた鳥居著「苗族調査報告」
(1
9
0
7
年)の書評によって鳥居の名は初めて西洋の人類
学界において広く知られるようになった(左写真は
[Co
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d
i
e
r1
9
1
7
]
,右写真は[Mâ
i
t
r
e1
9
2
2
]より転載)
。
す。鳥居氏と喀喇沁の皇子との親しい関係はよく知られており,西南中国の調査と同様に数々の
資料を収集する機会を得ることができたのであろうと思います。[Cha
va
nne
s1908
;筆者訳]
さらには一カ月後,日本研究家でフランス人宣教師のノエル・ペリ(Nöe
lPé
r
i
,18651922
)はフラ
ンス極東学院の機関誌Bul
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(第8巻・第1号)に「苗族調査報告」
を紹介し,その構成と内容を詳しく説明した後,次のように評価している。
要するにこの報告書は,複雑な様子を示す南アジアの諸人種の研究に対して大きな貢献をなす
ものであり,鳥居龍蔵氏および東京帝国大学の人類学教室に光栄をもたらすものであろう。
[Pé
r
i1908
;筆者訳]
ノエル・ペリ(「ペリー」とも)は1889
(明治22)年にパリ外国宣教会宣教師として来日し,6年間
長野県松本市に滞在したのち,東京に移った。そこで,布教のかたわら東京音楽学校で和声学,作曲
法などを教えたが,世紀転換期から日本文化研究者として本格的な活動を開始し,仏教や能について
ヨーロッパの日本文化学界でよく知られる業績を残している。ペリは1906年に日本を離れ,ハノイに
定住したが,フランス極東学院の客員となり,その後も時折日本を訪れた[Be
i
l
l
e
va
i
r
e2012
]。現時点
ではペリと鳥居との関係の詳細は不明であるが,現在徳島県立鳥居龍蔵記念博物館で所蔵されている
鳥居の図書のなかにペリ著“Ét
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snō.I
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.Lenōd
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ma
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u”
(「日本歌劇の能
[Pé
r
i191
1
]を見ることができることから,お互いに存在を確認
についての研究―老松の能」第二号)
していたはずである。
むすびにかえて―外国語との関係から見た鳥居龍蔵と日本人類学史
上述のように1910
年12月に鳥居の最初の仏語論文である“Et
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sde
For
mos
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”が刊行され,それ以降相次いで仏語論文が刊行される。そしてそれに伴ってフランス極東学
院の機関誌をはじめとして,フランスの様々な学術雑誌が鳥居の報告書を取り上げて紹介していった
[Cha
va
nne
s191
1,Ra
ve
na
u191
1
,Ma
s
pe
r
o1914
]。鳥居の業績が具体的にどのような評価を受けたかに
ついては,今後検討しなければならない課題であるが,ここでは最後に鳥居とフランス・フランス語
との関係をまとめ,そして西洋と近代日本における人類学の歴史についての考察を一二書き加えたい。
独仏戦争はフランスの勝利となった結果,科学や文学はほとんどフランスが中心となり,人類
学の如きもパリーに世界人類学連盟会を設け,世界の人類学者の同盟をなすこととなり,大正十
─ 1
5
─
ラファエル・アバ
年〔1921
年:筆者補足〕一月,同会より私に対し正会員と日本同学代表委員に推薦してこられた。
これは私にとっては最も名誉のことである。またこれより先,フランス・パリー学士院より私に
パルムアカデミー勲章を贈られた。[鳥居1953
:205
]
第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約に基づいたヴェルサイユ体制が国際関係の柱となった。フラ
ンスは世界五大国の一つとしての地位を維持するのみでなく,オスマン帝国領であったシリアとレバ
ノン及びドイツ植民地であったトーゴとカメルーンを獲得し,植民地を拡張させた。そしてこうした
国際情勢のなかで日本では日仏会館の設立(1924年)が象徴するようにフランスに対する新たな親近
感が生まれた。だが,鳥居に関して言えば,彼とフランス語との学問的な意味での関係が生まれたの
は少なくとも1902
年のことで,これを正しく理解するにあたっては東南アジアにおけるフランス人に
よる研究や学術的な環境の形成過程を再考する必要があるのではないか,と筆者は考える。
近代日本における人類学研究は,当時「石器時代」の物質的な所産として認識された石器や土器な
どに対する考古学的な関心と相まってスタートする。この意味では明治初期の日本を訪れた西洋人の
果たした役割がよく知られているが,しかしここでまず注意したいのは,当時の日本人相手に対する
彼らの姿勢は決して一様なものではなかったということである。大森貝塚の発掘調査で有名なアメリ
カ人の生物学者エドワード・S・モース(Edwa
r
dS.Mor
s
e
,18381925
)は自分の英文報告書をいち早
く日本語に翻訳させて,日本人の間にその研究成果を発信する必要性を強く自覚するものであった。
またモースに対してアイヌ説を唱えた日本駐在のオーストリア公使館秘書官のハインリッヒ・フォン・
シーボルト(He
i
nr
i
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hvonSi
e
bol
d
,18521908
)は同じころに和文考古学概説書の最初の一つとされる
『考古説略』を著した。その一方,古墳研究の先駆者として知られるイギリス人の化学兼冶金技師の
a
nd
,18441922
),および,日本の「石器時代」に対して初め
ウィリアム・ゴーランド(Wi
l
l
i
a
m Gowl
て具体的な年代を与えた地質学者のジョン・ミルン(J
ohnMi
l
ne
,18501913
)の考古学報告書はもっ
ぱら英文で,当時その成果を直接に知る日本人がきわめて少なかったのである。
西洋人が日本人向けにあるいは西洋人向けに書いたのと,それぞれの方向性は異なるが,坪井をは
じめとする若手の日本学者は,西洋人による日本研究そのものを,日本と西洋との非対称的な関係の
「証明」として,つまり,日本が西洋の下にあるという国際的な上下関係を証明するものとして早い段
階から意識した。1880
年代中ごろから,これらの学問が組織化の道を進み始めると,日本人は今度は,
「観察者」の立場となり,そこで「現時点での他者」である「アイヌ」および「過去の他者」である
「石器時代人」を主な研究の対象にした。だが,坪井を中心とする東京人類学会のメンバーによる人類
毅 毅 毅 毅
学・考古学的な知識の構築は当初,単純にある学説を証明するという目的だけでなく,誕生間もない
人類学と考古学の社会的な知識の向上を図るものでもあった。したがって,その知識の発信は日本人
の「読み手」を前提としたもので,必然的に日本語で実体化していくものであった。
ところが,東京人類学会の創立から10年,20年経っても,このような姿勢は大きく変わることなく,
日本人学者による海外(西洋)に向けた知識の紹介・伝達する著作物は極めて少なかった。なかでも
特に注目すべきは坪井の態度である。例えば,その論文目録は1
100
件を超えるにもかかわらず,英語
論文は三件しかみられない[東京人類学会編1913]。三年間にわたる欧州留学の経験があり,英語が堪
毅 毅 毅 毅 毅 毅
毅 毅 毅 毅 毅
能であった坪井の態度は単純に言語上の制限でなく,より奥深い理由によるものであろう。
鳥居がもっていた外国語に対する認識を最も鮮明に映し出しているのはおそらく,長男龍雄の死去
をきっかけに記した「若き人類学者鳥居龍雄」という文章である。
私が彼〔鳥居龍雄のこと:筆者補足〕を留学せしめた目的は,なるべく国際的の人類学者とし
て立たしめたかったからです。これは彼も承知のことでありました。日本には青年期から真に人
類学を欧州の大学に入って正しく学んだ人は一人もいない。おおむねカタワラ仕事でやっている
─ 1
6
─
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み
のであります。また外国学者と正しく話し合ったり論文を外国語で正しく書ける人も極めて少な
い。私は常にこのことについてにがい経験を有するものであるから,なるべく彼に将来こんな不
自由なことをさせたくなかったのであります。
招来真の学者は国際的位置に立たねばなりません。この点において外国語の素養は最も必要で
あります。これには外国に留学するのが最もよろしい。かつや外国には一流の学者がありますか
ら,これらの先生に師事し,若い時から学ぶのが最もよろしい。[鳥居1927
(1977
):464]
同世代の日本人類学者のなかで鳥居ほど国際的なランゲージの必要性を意識したものはなく,彼の
仏語論文によって日本の人類学は初めて真に国際的な学問になった,と言っても過言ではないであろ
う。むろん,人類学の歴史は西洋の列強による植民地獲得と不可分な関係があり,近代日本における
人類学もまた,大日本帝国の版図拡大と並行して展開したのは言を俟たない事実である。したがって,
ここでいう「国際的なランゲージ」とは,西洋や日本が中心となる「観察者側」の共通の言語で,
「自
己」が「他者」に関する言説を語るための道具のことである。しかし,今日的な視点から鳥居の学問
的な歩み,とりわけ本稿で論じたその外国語学習過程を考えるとき,まず見逃してはならないのは,
西洋との学問的な関係が決して「受信」のみでなく,相互の言葉を通した双方のコミュニケーション
に基づくべきという鳥居の姿勢である。21世紀に生きる私たちが鳥居に学ぶべきは,実にこのことで
はないかと強く思うのである。
謝辞
本稿は,筆者が独立行政法人国際交流基金のフェローシップにより2013
年8月に徳島県立鳥居龍蔵
記念博物館で行った研究成果の一部をまとめたものです。研究成果のとりまとめにあたっては下記の
方々や機関より,資料紹介や御教示を賜りました。記して感謝申し上げます。(敬称略)
天羽利夫,鳥居 喬,高島芳弘,長谷川賢二,下田順一,岡本治代,松永友和,土居貴代子,真田万
里,ベルント・レパッチ,フランス国立医科学院。
注
(1
)諏訪鹿三については,
[金子・高野1
9
1
4,南1
9
2
8,
北海道大学編著1
9
8
2]を参照。
(2
)1
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2
6]と あ る。ま た[金 子・高 野1
9
1
4
]や
[南1
9
2
8]によると,諏訪が東京に移ったのは1
8
8
8
年のとこであるが,1
8
8
7年1
0
月出版の『農業地質
化学問答』に掲載されている諏訪の居所は「日本
橋区馬喰町二丁目四番地山岸重方同居」
である[諏
訪1
8
8
7:奥付]
。
(3
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に
掲載されたランクによると,諏訪の位置は次の通
り で あ る。学 年1
8
7
7
1
8
7
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6
/1
9
,後 期1
3
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1
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5
/1
7
,後期1
7
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;学年
1
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2
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前 期1
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1
8
7
8
1
8
8
1]
。1
8
8
1年後期および1
8
8
2年のデータは未確
認。
(4
)大塚秀松編『英学独稽古単語 英和字書-附・会
話』
(文書堂,1
8
8
5)および大塚秀松編『英学独稽
古単語 英和字書-附・会話』(鈴木書屋, 1
8
8
6
)
というものが存在するが,これは鳥居のいう『英
和字書』であるかどうかは不明である。また,鳥
居著「私の読書と蔵書」では『英和字書』ではな
く,「英語辞書」としている([鳥居1
9
3
5])。
(5
)阿波文庫については,[徳島県立光慶図書館編
1
9
2
2,徳島県立文書館編集・発行1
9
9
8,原由1
9
9
9
・
平井2
0
0
1]を参照。
(6
)鳥居龍蔵「私の半生と丸善」(『学鐙』第4
7
巻・
第1
2
号,1
9
4
3年,4
6
頁)に「明治二十年の頃」と
ある。
(7
)正は谷千生。
(8
)第二版は1
8
8
0年,第三版は1
8
8
1年,第四版は1
8
8
5
年,第五版は1
8
8
8年に出版された。
(9
)遺物の日本語名は原著による
(1
0
)原著には「之ヲ使用シタル人種ハ明カニ知ル可
ラスト雖恐クハ今ノ人種ノ前ニ住ミタリシト云フ
人種ニシテ古史ニ所謂土蜘若クハ蝦夷ノ類ナルヘ
シ」[神田1
8
8
6
:1
]とある 。
─ 1
7
─
ラファエル・アバ
(1
1)完全書名はPr
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『原始文化―神話・哲学・
宗教・言語・芸能・風習に関する研究』
)
。
(1
2)西 洋 人 類 学 の 思 想 史 に つ い て は,
[Ku
k
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2
0
0
8]および[Er
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0
0
1]を参照。
(1
3)所在地・開設申請年月は宮永孝による「東京の
ドイツ語塾一覧表」
[宮永2
0
0
4
:3
2
8
3
3
2]
。しかし,
共研学舎纂訳『独逸作文要略 第壱之部』
(1
8
8
2年,
奥付)によると,
「共研学舎」の所在地は「本郷区
真砂町三十五番地」である。また『官立私立東京
諸学校一覧』
(1
8
8
8年,1
3
1
頁)および『東京留学
指針』
(1
8
8
8
年,8
2
頁)によると,
「東京全修学校」
の所在地は「小石川区下富坂町」であるが,
「東京
全修学校」は早くも1
8
8
7
(明治2
0
)年頃廃校になっ
た[安藤・箕輪編1
9
0
3]
。
(1
4)小西孝四郎については『茨城県教育家略伝』に
よると,
「君ハ新治郡柿岡町ノ人」で,1
8
9
1年に
「筑波郡谷井田校ニ在勤シ村長ト意相投シ校務ノ
改良ニ就クモノ至大ナリト云フ今ヤ該郡有為ノ少
壯教育家壯トシテ名誉高シ新任後村会君ノ増俸ヲ
申請ス宜ナリ矣」
[平沼1
8
9
4:頁不詳]
。著書や論
文には『茨城縣地理教科書』
(1
9
0
0年)
,
『姫路案内』
(1
9
1
3年)
,
「姫路貝塚の発見」
(
『人類学雑誌』第3
1
巻・第8
号,1
9
1
6年)などある。
(1
5)鳥居の自伝によると,丸山がシュリーマンの死
去(1
8
9
0年1
2月2
6
日)を知ったのは電報によって
ということで,講演がその直後に行われたと推定
する。
(1
6
)著書には『羅馬字のすゝめ』
(1
9
0
6年),
『独文
実学読本』
(1
9
1
7年),
『独逸語発音図解』
(1
9
1
8年)
などある。
(1
7
)正はカトルファージュ。
(1
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の本文をフラン
ス語に訳したのはフランス海軍医官A・シェマン
(A.Ch
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)であるが,その詳細および鳥居との
関係は不明である。
(1
9
)徳島県立鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている
鳥居の図書のなかにシャヴァンヌ編訳『史記』第2
・
3
巻がみられる。
(2
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)完 全 な 雑 誌 名 は“T’
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(『通報―東アジア
”
の歴史・言語・地理および民族誌に関するアーカ
イブズ』
)である。
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~70・72・74,東京人類学
会,316323
・354356
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1
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告
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【論 説】
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
咸 舜燮 原著
吉井 秀夫 訳
1 はじめに
最近の韓国考古学界では,大日本帝国〔日本帝国主義〕の官学者が植民地朝鮮でおこなった文化遺
産調査を再検討する研究が進められている。それらの研究は,考古学史を整理するだけにとどまらず,
大日本帝国の官学者による調査の評価を目指している。韓国に残っている関連資料は,植民地時代
〔日帝強占期〕の公的な資料が大部分であり,それらは植民地統治機関である朝鮮総督府が作成した行
政記録と,収集された遺物である。これに対して,大日本帝国の大韓帝国侵略過程に伴う官学者の調
査資料と,当時の調査状況およびその目的を推論できる彼らの個人記録は,そのほとんどが日本に残
されている。こうした資料の限界と共に,学史研究の立場においても若干の混乱がある。それは,日
本人研究者の調査を,韓国考古学史の範疇にそのまま含めることができるのか,という疑問である。
調査地点を基準とするならば,当時の調査を韓国考古学史の一部として扱える,と理解することもで
きよう。しかし,学問的主体と,解釈をおこなう人物を基準とするならば,調査の企画から結果の整
理に至るまでが,完全に大日本帝国を中心としてなされていた当時の状況に鑑みて,これらを安易に
韓国考古学史の一部に組み込むことには慎重になる。植民地朝鮮における日本人研究者の調査は,日
本考古学史の前期における研究成果の1つであるかもしれない。しかし,こうした調査研究は,今日の
韓国考古学の立場から体系的に評価し再び解析してから,韓国考古学史において,その前史以上の位
置を占めうるものとして,生まれ変わることができよう(鄭 201
1
:pp.
151
~152
,咸 201
1b
)。
これまで日本人研究者の調査自体を実証的に検討する研究は,それほど多くなかった。1970
年代以
後に成長した韓国考古学界は,特に1980年代以降,大幅に増加した発掘成果により,今や,植民地時
代の資料に全的にしばりつけられることはなくなった。また,植民地時代の資料が,韓国と日本の特
定の機関により密かに管理されたり放置されてきた点も,研究の胎動を遅らせてきた。しかし最近に
なって,植民地時代の資料自体が史料として評価されるようになり,その歴史的な脈絡を探究する傾
向が生まれてきたことに伴い,関連する研究は徐々に成熟してきている。
鳥居龍蔵は,植民地朝鮮でおこなった調査に関して自ら作成した正式な報告書が相対的に少なく,
残された記録にも不正確な部分がある。正式な報告書をめぐる問題は,日本人研究者の間でおきた葛
藤によることが広く知られている(朝倉 1993
:p.
46
)。記録の不正確さは,まず鳥居龍蔵自身による
部分があり,当時の行政処理過程の混乱もそれに影響を与えた。幸い,鳥居龍蔵の年代記は,最近の
研究(朝倉 1993
,石尾 2010a
・2010b
・201
1
)によって相当部分が校訂された。しかしまだ検討さ
れねばならない事項は相当に多く,調査内容に対する検討も,初歩的な段階から大きく抜け出すこと
ができずにいる。
慶州月城および大邱達城でおこなわれた鳥居龍蔵の発掘は,すでに2回にわたって調査内容が紹介
され(有光 1943
・1959
),関連するガラス乾板写真と文書の一部も,最近公開された(筆者不明 )。本論文の目的は,慶州月城
1925
,大邱文化芸術会館 2007,国立慶州文化財研究所・慶州市 2010
および大邱達城に対する鳥居龍蔵による1914
年と1917
年の調査を,現在の観点で検討することにある。
まず,調査状況の事実関係を確認し,次にその内容を,これまでおこなわれてきた考古学的な判断と
比較してみたいと思う。残念ながら本論文では,発掘された遺物と,その後におこなわれた発掘の成
果を本格的に扱うことはできなかった。
─ 2
3
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
2 第三回および第四回史料調査の回数と期間に対する問題
1914
年における慶州月城および大邱達城の調査は,最近までその調査時期が誤って,あるいは不正
確に知られていた。まず調査時期については,従来1915
年とされてきた調査(有光 1959
:pp.
491
~
492
)は,これまで確認された根拠からみて,1914年であることが確実である。鳥居龍蔵は,『大正五
年度古蹟調査報告』(1917
年3月提出)で,次のように述べている。
「本員ハ前年慶尚南道金海ノ貝塚及慶尚北道慶州半月城臺下竝ニ大邱達城臺下ヲ發掘セシカ其遺
跡ノ下部ハ石器時代ニシテ,中部ハ之ヨリ稍新シク,上部ニ於テ三国時代(新羅,任那等)ノ遺
物ノ存在スル事ヲ確メ之ヲ以テ同一民族カ文化ノ漸次発達進歩セルモノナラント云ヒシコトアリ
シカ今回美林里ノ遺跡ヲ調査スルニ又之ト稍相似タル所アリ」(鳥居 1917
:p.
786
)
鳥居龍蔵が該当する遺跡の報告書を残さなかったために,基点が示されていない「前年」という曖
昧な表現は,その後に不必要な誤解を生んだ。有光教一は,これらの遺跡の調査内容を紹介する論文
で,「前年」という表現を文字通りに受け取って,1916
(大正5)年の前年である1915
(大正4)年を,
調査年として紹介した。もちろん,その後に有光教一の記述を引用した諸論文も,その調査時期を疑
わずに従った。鳥居龍蔵の叙述は,自ら錯覚した可能性もあり,広い意味で「それ以前のある年,先
年」という意味であった可能性もある。いずれにせよ,国立中央博物館に所蔵されたガラス乾板には,
「大正三(1914
)年」との付記が残っている。同じガラス乾板の写真を綴じたソウル大学校中央図書館
所蔵図書の表紙にも,
『大正三年調査 慶尚北道地方 遺跡写真集 第二集』
(図1-①)と表記されて
(1)
いる(国立慶州文化財研究所・慶州市 2010
-Ⅰ:p.
37)。
一方,鳥居龍蔵による1914
年の調査は,既往の研究(朝倉 1993
:p.
44
,石尾 2010b
:pp.
103
~104
)
で明らかになったように,史料調査の回数において多少あいまいな部分がある。国立中央博物館に所
蔵された朝鮮総督府博物館資料を通して,その内容を再検討してみたい。
「(鳥居嘱託)第三回史料調査[自大正二年十二月,至大正三年三月]
:第三回ハ主トシテ慶尚南北
道ノ有史以前遺跡ヲ調査シ人種上ノ風俗,体格等ノ調査又引続キ行ハル。此之鳥居嘱託ノ慶南昌
寧ニテ新羅眞興王ノ巡狩拓境碑ヲ發見セラレタルハ最モ注目スベキモノトス[大正三年三月二十
二日]。第四回史料調査[自大正三年四月,至同六月]第四回ハ慶尚北道慶州及ビ全羅南道全般ニ
亘リ有史以前遺跡ノ調査ヲナス」(筆者不明 1925
:p.
52
)
(中略)二,古蹟調査 内務部地方局第一課ヨリ移ス。三,有史前遺跡調査(史
「博物館事務ノ範囲:
料調査) 内務部学務局編輯課ヨリ移ス(後略)」(筆者不明 1925
:p.
55
)
これは,1925
年4月頃に作成された筆者不明の朝鮮総督府博物館文書(以下『文書』)である「朝鮮
(2)
ニ於ケル博物館事業ト古蹟調査事業史」(図1-②)にある記録である。これに対して,朝鮮総督府博
物館のガラス乾板目録(以下,『目録』)である『古蹟調査写真原板目録一』(図1-③)では,『文書』
に言及された上記の調査で撮影されたガラス乾板を,
「第三回史料調査写真原板(慶南北)」と,
「第四
(3)
回史料調査写真原板(全南)」として,調査回数を明らかに区分していた。
(4)
『目録』は,計3冊に綴じられているが,その中の第1冊目である。
『古蹟調査写真原板目録一』の表紙には,「編輯課史料調査写真 内務部史蹟調査写真 引継」という
付記がある。この付記と関連した事項は,上の引用文のとおり『文書』でも確認される。『古蹟調査写
真原板目録一』は,その内容からみて,内務部学務局編輯課の史料調査と関連した書類である。『古蹟
調査写真原板目録二』は,その大部分が関野貞調査団の古蹟(史蹟)調査と関連した内務部地方局第
一課の書類であるが,毎回の調査別目録の前に,撮影者である谷井済一の引継証が添付されている。
─ 2
4
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
図1 国立中央博物館およびソウル大学所蔵資料の表紙
(5)
朝鮮総督府博物館は,1915
年1
1月19日に設置が決定され,総督官房総務局の所管として12
月1日に開館
した。しかし博物館の業務は,1916年7月4日に「古蹟及遺物保存規則」と「古蹟調査委員会規程」が
公表され,古蹟調査事業が統合されたことによって確定された。博物館の組織は,別途の職制をもっ
た独立した文化機関ではなく,朝鮮総督府の局・課に所属し,互いに異なる所属の職員達が兼職して
業務を遂行する程度の不完全なものであった(金 2009
)。1912
年から総督官房総務局に所属し,鳥居
龍蔵の史料調査に同行した澤俊一は,そのまま写真技術員(職級 雇員)として学務局編輯課に雇用
され,博物館の業務を兼任した(筆者不明 1925
:p.
58
・p.
61
・p.
64
,吉井 2008
)。以上のような事
実からみて,所轄部署別に管理された『目録』は,1916
年7月以後に朝鮮総督府博物館に移管され,そ
(6)
れ以後に,元々の編集状態を維持したまま,統合管理の指針により,一連の番号が追加された状態で
残されたことがわかる。
朝鮮総督府博物館資料である『文書』と『目録』は,同じ内容を扱いながらも,内容に若干の違い
がある。この差異は,鳥居龍蔵の第三回および第四回史料調査の問題にもかかわっている。もし『文
書』において,第四回調査の「慶尚北道慶州」の部分だけを,第三回の慶尚南北道の調査に含めれば,
『文書』と『目録』の内容は合致する。しかし,
『文書』に記録された第三回調査(1913
年12月から1914
年3月まで,1914
年3月22日)と,第四回調査(1914年4月から同年6
月まで)の調査期間を念頭におけ
年3月22日」という記録と,第四回の「慶尚北道慶州」という記録は,特記すべき
ば,第三回の「1914
事項であったと思われる。『文書』において,鳥居龍蔵の第一回・第二回・第三回の史料調査は,ある
年の下半期にはじまって,翌年3月に終了している。そして特異なことに,第三回史料調査と連続して
いるのに,第四回史料調査は4月から新たにはじめられている。第五回史料調査は8月から1
1
月までお
こなわれており,それ以前の事例と実施期間が異なる。各調査は,3月末に終了することが共通してい
(7)
るが,これは当時の行政機関で定められた会計年度の終了時期であるからであると推測される。たと
えば,会計上の1913
年度は1914
年3月末までであり,1914
年度は同年4
月からはじまったのである。こ
うした会計年度は,
『目録』の一連番号にもよく表れている。第三回史料調査は,その大部分が1914
年
におこなわれたにもかかわらず,会計年度上の1913年度にあたるので,ガラス乾板の6桁の番号の頭に
は,「13○○○○」というように,西暦の後半2桁の数字である「13」がつけられている。これは,会
計年度上の1914
年度にあたるために,第四回史料調査のガラス乾板の一連番号が,
「14
○○○○」のよ
うに,頭に「14」がつけられていることからもわかる。しかし『文書』とは違い,
『目録』では「慶尚
北道慶州」関連資料は全て第三回史料調査に属し,ガラス乾板の一連番号も全て「13
」からはじまる
型式である。こうしたことから,『文書』における2つの特記事項は,第三回史料調査でおきた何らか
の問題を行政的に調整した記録である可能性がある。つまり,1913
年度の会計年度に基づいて「1914
年3月22日」付で,第三回史料調査を便宜上終了させ,また最初に許可された事項が守られなかった
「慶尚北道慶州」の調査を,便宜上,第四回史料調査に含めたものと推測される。以上の根拠によれば,
─ 2
5
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
『目録』は,回数別
に実施された調査
内容それ自体を記
録したものであり,
『文書』は,朝鮮総
督府の規則に従っ
て文書行政上のつ
じつまをあわせた
記録であると判断
できる。
『目録』の記録を
基準とした第三回
史料調査の経路
(図2)は,南海→
河東→晋州→咸安
→固城→統営→巨
図2 第三回史料調査および1
9
1
7年度古蹟調査における鳥居龍蔵の動線
済→鎮海→金海→東莱(釜山)→蔚山→密陽→昌寧(以上,慶尚南道)→大邱→慶州A→浦項→慶州
(8)
B→盈徳→青松→安東→栄州→醴泉→尚州→金泉→星州→高霊(以上,慶尚北道)である(国立中央
博物館 1997
:pp.
81
~1
10)。こうした経路は,前半と後半で各道の行政区域内におさまっているのが
特徴的である。前半の慶尚南道における調査は,海岸部と内陸部を出入りしながら,南部方面をおお
むね西端から東端へ進み,次に東部方面を海岸沿いに南側から北側へ,そして内陸部へ入って洛東江
東岸沿いに北側に進んだ。後半の慶尚北道における調査は,道界を越えて,大邱からおおむね反時計
方向に慶尚北道外郭の行政区域に沿って進み,出発点の対岸にあたる洛東江西岸で調査を終えた。各
道の行政区域内で,一定の方向により最適な路線に沿って移動したために,この調査経路に矛盾点は
ほとんど見いだされない。しかし,『目録』に記録された経路は,1914
年の史料調査における『文書』
の記録には,行政的な理由により調整された事項があることを示す根拠も提供している。すなわち,
『文書』の記録では第四回史料調査に入れられている慶州の調査は,後半の調査経路の中間にあたる。
『文書』に明記された調査期間を基準とすれば,慶州調査以降の全日程を第四回史料調査に含めなけれ
(9)
ば整合性がとれないが,実際にはそうではなかった。
『文書』の矛盾点は,具体的な日程にも見いだされる。鳥居龍蔵は,1914
年3月3日に大邱達城の踏査
を終えてすぐに移動し,翌日の3月4日に慶州で調査をはじめた。『目録』の記録による慶州での経路は,
「(大邱から到着)→慶州出土新羅土器(所蔵場所不明)→金尺里古墳群→太宗武烈王陵→鮑石亭址→
忠孝洞遺跡(金庾信将軍墓・古墳群)→邑南古墳群(路西里古墳群・皇南里古墳群)→芬皇寺→小金
剛山遺跡(瓢巖・古墳・掘佛寺址仏像群・栢栗寺)→人体測定→慶州古蹟保存会出陳品→月城周辺遺
跡(城壁発掘・月精橋址・鶏林・雁鴨池)→四天王寺址→普門洞古墳→慶州邑誌の慶州郡地図→影池
周辺先史遺跡→関門城と周辺古墳→(浦項地域調査)→甘浦港→感恩寺址→石窟庵→仏国寺→聖徳王
(10)
陵→(盈徳へ移動)」となる(国立中央博物館 1997
:pp.
95
~101)。筆者が確認したガラス乾板に記
された日時は,忠孝洞遺跡が3月4日,人体測定が3月中,月城の城壁発掘が4月20日,皇南洞古墳群が
4月21日であった。こうした日時は,『文書』の記録内容を基準とすれば,慶州での調査日程が第三回
と第四回の史料調査にまたがっていることを示している。もちろん『目録』の記録が,特定地域内の
(1
1)
細かな調査経路を正確に記録していなかったことも示している。しかしそれよりも,
『目録』の記録は,
『文書』の記録が便宜的に調整された部分があることをはっきりと証明している。また,通常の調査日
程と比較してみると,慶州では,調査の開始から終わりまで45日もの長い間,正常ではない調査が実
施されたことを暗示している。これは,1914年3月と4月の間に,会計年度との関係から,調査を一時
中断しなければならないような行政措置がとられたことを間接的に示している。その直接的な証拠は,
─ 2
6
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
鳥居龍蔵の文章によく表れている。1914
年4月25日に浦項から送られた「通信」で,彼は4月17日に京
城から大邱に到着して2日間滞在し,19日に慶州に到着して2日間月城を調査し,その後に石窟庵と新
羅陵墓をみて,24日に浦項に到着し,26日から海岸沿いに南下して利見臺と感恩寺をみてから,石窟
庵を経由して慶州に戻る予定であるとしている(鳥居 1914
:pp.
210
~21
1)。この「通信」は,鳥居
龍蔵が行政措置によって調査を中断して京城に戻ってから,再び慶州に向かって調査を再開したこと
をよく示している。
『目録』と『文書』で確認された根拠により,第三回および第四回史料調査の問題を整理すれば,次
のようになる。鳥居龍蔵は,朝鮮総督府から嘱託を受けて,会計年度上の1913年度の第三回史料調査
を慶尚南道・北道で,1914
年度の第四回史料調査を全羅南道で実施する予定であった。しかし,ガラ
ス乾板に記された日付のように,調査が全般的に遅れたことにより,鳥居は第三回史料調査の予定期
日であり,1913
年度の会計年度末である1914
年3月末までに,全ての調査を終えることができなかった。
慶州を調査している間にこの問題がおきたために,朝鮮総督府学務局編輯課は,「1914
年3月22日」付
で第三回史料調査を行政的に終了させた。そして,1914
年度の会計が実際に執行された後の4月17日
から調査を再開させ,それと同時に,最初に予定された日程とは関係なく,便宜上「慶尚北道慶州」
の調査分だけを第四回資料調査に含めて,関係予算を執行したと推定される。『文書』は,こうした処
理の事項を文書行政上つじつまのあうように記録し,『目録』は,こうした行政的な処置と関係なく,
最初の計画により遂行された第三回と第四回の史料調査の内容をそのまま残した。後述する1917
年度
古蹟調査の事例からみて,
『目録』は調査者の復命書をもとに作成されたもので,鳥居龍蔵の意向が反
映された可能性がある。よって「第三回および第四回史料調査」をあわせて,1914
年1月から7月まで
慶尚道と全羅道一円で実施された「第3回史料調査」と判断する最近の見解(朝倉 1933:
p.
44
,石尾
2010b:
pp.
103
~104
)は,調査がおこなわれた時・空間の範囲を把握する根拠が不足しており,再考さ
れねばならない。
3 鳥居龍蔵による慶州月城と大邱達城の調査
慶州月城と大邱達城は,沖積地と連なる浸食低地を利用した城郭で,その立地および形成の背景に
は共通点が多い(咸 1996
:p.
345
)。すなわち2つの遺跡は,先行する時期の集落の上にそのまま城郭
を築造した連続性が確認される。そして高塚古墳群と隣接し,背後の沖積地と連なっているだけでは
なく,大小の河川が近くに流れており,水運を利用するのに便利である。また両遺跡は,三韓の頃か
ら「国」の中心地点にあった防御集落を,三国時代に防御的な城として改変し,支配の拠点として利
用した点でも同じである(咸 2001
:pp.
199
~200
)。ただ三国時代以後,慶州月城は新羅の王宮であ
り,大邱達城は新羅の地方拠点であった点が違うだけである。
鳥居龍蔵による慶州月城と大邱達城の調査は,1914
年と1917
年に行われた。澤俊一が写真記録と調
査補助のために2度とも同行し,憲兵または警察が警護のために随行し,通訳または地域の情報を提供
する者が動員された。慶州月城の発掘地の横で撮影された1914
年調査団の記念写真には10名が写って
おり,このうち警護員が4名である(図4)。慶州で1913
年5月10日に公式に活動をはじめた慶州古蹟保
1a
:pp.
1378
~1379
)の関係者も調査を参観したであろう。このように推測できる理由
存会(咸 201
と事例としては,慶州を訪れた全ての調査団が,いつも慶州古蹟保存会陳列館を訪問していることと,
1922
年度古蹟調査で,月城の踏査を大坂金太郎が案内したことがあげられる(藤田・梅原・小泉 1924
:
p.
7)。慶州月城および大邱達城は,いずれも同じ機会に調査され,予備調査を経て本格的に発掘がな
された点でも共通している。そこで,年度別に調査内容を検討してみたい。
1 第三回史料調査の内容
鳥居龍蔵による大邱達城の調査は,1914年3月3日におこなわれた。達城の東側から東門址を望みつ
つ撮影した全景写真(図3-1)と,城壁上から西側の玄風方面にある月背扇状地を撮影した景観写真
─ 2
7
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
図3 第三回史料調査の大邱達城調査
図4 第三回史料調査の慶州月城調査
(図3-2)がある。達城では風景だけを撮影しており,予備調査として踏査を実施したと推測される。
ところで,達城附近には三国時代の高塚古墳が密集する達城古墳群(達西面飛山洞・内塘洞古墳群:
咸 1996
)があるにもかかわらず,関連記録は全く残っていない。これにくらべ,最近の発掘により
先史時代の遺跡が多く確認された月背扇状地方面の風景は撮影されている。これは,鳥居龍蔵が1917
年の調査時に月背扇状地一帯を踏査し,地表で先史時代の遺物を採集したこと(有光 1943
:pp.
19
~
22)とも関連があるようである。この他,大邱でも人体測定を実施した。達城には,1894
年の日清戦
争を契機として日本軍が駐屯して以来,数多くの反対にもかかわらず,1906
年1
1月3日に皇大神宮遙拝
─ 2
8
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
図5 慶州月城周辺地形図〔朝鮮総督府1/
100
0
0地形図,1
9
1
6年測図,1
9
1
9年第1回修正測図〕
第三回史料調査地点:★ 1917年度古蹟調査地点:●
殿が落成し,1907
年には公園化事業が推進され,1910年以後に参道・拝殿・神殿・幣殿などが増改築
され,1914
年4
月3日に落成式が行われた大邱神社があった。鳥居龍蔵は,大邱神社が落成する直前の
達城を踏査したが,1917
年に発掘した東門址の城壁が,大邱神社の進入路工事のためにすでに切開さ
れた状態であったので,発掘をしなかったものの,土層に対する情報を十分に得たであろう。
慶州月城の調査は,ガラス乾板に付記された日付と先に言及した「通信」からみて,1914
年4月19日
と20日の両日にわたって実施された。慶州南山の北側端にある都堂山から全景を撮影し,月城の南西
端で城壁を調査した(図4,5)。調査地点は,月城の南西隅にある望楼址のすぐ東側にある門址,すな
わち自然の濠である南川に沿って築かれた南側城壁で最も西側にある門址である。この門址は,南川
方向に傾斜して広く切り開らかれており,門址の東側面がすでに人為的に相当に削られた状態であっ
(12
)
た。誰が何のために掘鑿したのかはわからないが,このために城壁の断面がそのまま露出していた。
いずれにせよ鳥居龍蔵は,城壁の切り通し地点に対する情報を,調査に先立って知っていたようであ
る。なぜなら,これは単純な踏査ではなく,城壁の断面調査のために人夫が動員されたからである。
調査は,城壁を切り開いた地点のうち,南川側の外側基底部でおこなわれた。鳥居は,ここで南川と
並行して流れる狭い水路の水面の高さまで城壁の断面を精査し(有光 1959
:p.
492
),新羅の城壁築
造以前に形成された文化層を確認した。この文化層から,土器と骨角器をはじめとして貝殻と魚・鳥・
獣の骨が収集されたが,これらは金海会峴里貝塚と同じ時期のものであった(鳥居1914
:pp.
210
~21
1
)。
また彼は,城壁下の文化層で生活廃棄物を確認したので,『目録』でこの遺跡を「貝塚」と命名した。
この「貝塚」に対する彼の認識は,その後に広まって,朝鮮総督府から発刊された地図にも記載され
た(図5)。
先に検討したように,1917
年3月に提出された『大正五年度古蹟調査報告』には,慶州月城および大
邱達城の城壁の下層から,石器時代から三国時代にいたるまでの3つの文化層を確認したと,簡略に記
:p.
786
)。
している(鳥居 1917
2 1917
年度古蹟調査の内容
朝鮮総督府は,1916
年7月4日に,
「古蹟及遺物保存規則」と「古蹟調査委員会規程」を公表した。こ
れによって古蹟調査委員会が設置され,既存の調査事業が統合されて,1916
年度から1920
年度までの
古蹟調査の5ヶ年計画(第1
次)が立てられた。この計画において1917
年度の古蹟調査は,
「第二年(大
─ 2
9
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
正六年度)
」目の事業であった(朝鮮総督府 1917
:pp.
2
~3)。鳥居龍蔵は,1916
年4月26日に古蹟調
査委員に任命され,史料調査時の任務をそのまま引き継いで,有史以前の遺跡の調査をおこなった。 1917
年度古蹟調査において,鳥居龍蔵の調査期間は,京城を基点として1917年10月24日から1918
年1月
14日までであった。『大正六年度古蹟調査報告』に記録された調査経路は,慶州→蔚山→鬱陵島→栄州
→安東→大邱→居昌→陜川→晋州→泗川→固城→統営→東莱→密陽→金海,である(朝鮮総督府1920
:
pp.
14
~15)。『目録』による順序は,慶州→鬱陵島→栄州→安東→大邱→居昌→陜川→晋州→泗川→固
城→金海→密陽→蔚山→(居昌での人体測定資料),である(国立中央博物館1997
:pp.
199
~207)。2
つの資料には,若干の違いがみられるが,これについては,国立中央博物館に所蔵されている朝鮮総
督府博物館文書の中で,1918
年3月25日に提出された「鳥居古蹟調査委員復命書」
(以下「復命書」)を
通して,具体的な内容を検討できる。「復命書」は,決済様式の表紙と「復命書」の「本文」に,提出
書類である「大正六年度古蹟調査蒐集品目録(鳥居委員提出)」,
「大正六年度古蹟調査写真及原板目録
(13)
(鳥居委員提出)
」,「大正六年度古蹟調査実測図目録(鳥居委員提出)
」が添付されている。以下は,
「復命書」の「本文」と「蒐集品目録」に記録された日付を基準として,調査経路を再構成したもので
ある。調査経路は,京城出発→10月25日着:慶州(途中に蔚山)調査:1
1
月14日発→浦項経由→18日
着:鬱陵島調査:22日発→27日着:栄州調査:12月3日発→安東豊山面経由→4日着:安東調査:7日発
→大邱調査:14
日発→金泉経由→15
日着:居昌調査:18日発→18
日着:陜川調査:21日発→陜川三嘉
面経由→22日着:晋州調査:24日発→泗川経由(途中で遺跡を発見し調査)→25日着:固城調査:28
日発→28日着:統営調査:29日発→釜山経由→31日着:東莱(亀浦を含む)調査:1月1日発→1日着:
(14)
密陽調査:3日発→亀浦経由→4日着:金海調査:13日発→京城到着,である。この経路からみて,1917
(慶尚南道・北道)を補完しようとして計画されたことがわかる。まず,鬱
年度調査は,第三回史料調査
陵島・居昌・陜川は,先の調査で抜けていた所であり,残りは以前に簡単な調査をおこなったことが
ある所である(図2)。これにより,鳥居龍蔵は慶尚南道・北道の大部分を直接調査することになり,
以前の調査で蓄積した情報を土台として,主要な遺跡を本格的に発掘することになった。
慶州月城の発掘は,第三回史料調査の延長線上でおこなわれた。調査は,第三回史料調査の地点か
らわずか数m内側に入った城壁の中央基底部(調査地点A)と,南西側望楼址の南側斜面(調査地点
B)でおこなわれた(図5,6)。南西側望楼址の南側斜面の調査は,外側基底部の上面を等高線に沿っ
(15)
て狭い範囲を掘鑿したのだが,全景写真でのみ確認できるだけで,詳細な状況はわからない。
城壁中央の基底部は,方錐形に探索ピットを掘り,文化層を確認する方式で調査された。調査地点
の状態は,1922
年度古蹟調査において大坂金太郎の案内で現場を踏査した藤田亮策調査団の記録があ
り,「・・・城壁の部分に就いて見るに壁は幅約三十六尺,高さ中央にて十二尺内外あり,表面にある
一尺四五寸の腐植土の下,幅二尺内外の割石積山形状に存して内に礫石と混せる土砂を包む。・・・壁
の下方に穿たれたる深さ五六尺の穴壁・・・此の穿穴は大坂氏に従へば鳥居委員の発掘せしものなり
といふ」と記録されている(藤田・梅原・小泉 1924
:pp.
8
~9)。「蒐集品目録」には,具体的に上
(16)
層・中層・下層・最下層・最下砂層を順番に発掘し,遺物を収集したものとされている。上層では陶
器および土器破片・獣骨片を,中層では陶器および土器破片・土製丸玉・土製紡錘車・鉄器破片・獣
骨片・鹿角片・猪牙・貝殻・木炭を,下層では陶器および土器破片・獣骨片・骨鏃・骨針・骨器未成
品・獣爪・貝殻・麦および貝殻を含む土塊を,最下層では陶器および土器破片・獣角・獣骨片・貝殻
を,最下砂層では土器片を採集した。採集品の名称からみて,
「陶器」は還元焼成の灰青色土器および
陶質土器を,「土器」は酸化焼成の赤褐色土器を意味するようである。「復命書」に言及された発掘図
面は,縮尺1/
300
の発掘地平面図と縮尺1/
50
の断面図が製図されており,現在,徳島県立鳥居龍蔵記念
(17)
博物館に所蔵されている。そして探索ピットの土層断面図は,貫入した土層を除けば,大きく4つの層
からなり,「復命書」の「蒐集品目録」と違いをみせる。すなわち,土層断面図の上から2番目の「土
層」と命名された層は,「蒐集品目録」からみて2層に分けられ,それらを中層と下層とすれば整合性
をもつ。一方,有光教一は,中層という層位名を省き,最下砂層を最下層とし,便宜的に上層・下層・
─ 3
0
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
図6 1917年度古蹟調査の慶州月城調査
最下層に分類し,鳥居龍蔵の採集品を分析した(有光 1959
:pp.
492
~497)。有光教一は,鳥居龍蔵
の「復命書」を読んだ可能性が高く,朝鮮総督府博物館に所蔵された発掘品をみたのにもかかわらず,
論文では1917
年度調査に言及していない。こうした状況からみるとき,有光教一の論旨は,むしろ鳥
居龍蔵が『大正五年度古蹟調査報告』で提示した見解(鳥居 1917
:p.
786
)を過剰に意識していたと
解析される。
この発掘にかかわるガラス乾板は計13枚あり,付記された日付は,1917
年1
1
月1日・1
1
日・12日であ
る。『大正六年度古蹟調査報告』に記録されている慶州の日程は,10月25日に到着し,南山西側山麓→
月城城壁発掘→孝峴里・也尺里山上→見谷下邱里山上→川北神堂里・東川里・毛兒里・吾也里山上→
外東掛陵里・影池附近山上,である(朝鮮総督府1920
:p.
14
)。『目録』における順序は,月城城壁発
掘および近隣→南山→孝峴里・也尺里→神堂里→掛陵・影池附近→慶州古蹟保存会所蔵品調査,であ
る(国立中央博物館 1997
:pp.
199
~201
)。これに対して,「復命書」の「蒐集品目録」を上記の資料
と組み合わせれば,次のような非常に詳細な日程が復元できる。すなわち,10月25日慶州到着→慶州
日)・鮑
郡調査開始(26日)・(?:慶州古蹟保存会陳列館所蔵品調査)→南山西側山麓内南面塔里(27
石里調査→慶州面校里月城城壁発掘:上層遺物採集(29日)・中層遺物採集(30日)・下層遺物採集
(31日)・最下層遺物採集(1
1
月1日)→慶州面忠孝里・西岳里・孝峴里調査(4
日)→川北面神堂里(5
─ 3
1
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
日)・東川里・毛兒里・吾也里調査,江東面毛西
里調査,見谷面下邱里調査→外東面冷川里・上薪
里・掛陵里,影池附近(6日)調査→(慶尚南道蔚
山郡兵営付近・下廂面長峴里兵営北方(8日)調
査)→(?:慶州郡陽北面台本里・八助里調査)
→慶州面校里月城城壁発掘:最下砂層遺物採集(1
1
日)→月城及び周辺部調査→慶州也尺里調査(12
日)→(?:慶州古蹟保存会陳列館所蔵品調査)
→慶州出発(14日),である。以上の日程からみて,
慶州月城の発掘は10
月28日あるいは29
日にはじめ
られ,1
1月3
日以前に調査の大部分が終わり,他の
調査をおこなってから,1
1日と12日の2日間で後
片付けをおこなったと思われる。すなわち,天気
のよい時に人夫を動員して月城の城壁を発掘し,
やむをえない事情があれば,日程を調整して他の
地点を地表調査したことがわかる。
すでに知られているように,大邱達城の調査は
計4地点でおこなわれた。調査地点は,東側入口
図7 大邱達城周辺地形図
〔朝鮮総督府1/
1
0
0
0
0地形図,1
9
1
7年測図〕
1
9
1
7年度古蹟調査地点:●(確定)
,◆(推定)
1941年有光教一調査地点:★
1
9
4
0年代初有光教一調査地点:★
尹容鎮調査地点:▲19
6
8年,▼1
9
70年
の城壁,城内中央部,北側城壁外部,北隅から外
側に突出した丘陵上である(図7)。達城は,調査以前に進入路の拡張工事によって東側入口の南北側
面と底面が掘鑿され,大邱神社の増改築によって中央部が毀損された状態であった。調査内容は,
「復
命書」および有光教一の論文を参考として,大まかな調査内容を知ることができ,徳島県立鳥居龍蔵
記念博物館に保管された図面を通して,具体的な調査地点が把握できる。特に鳥居龍蔵の図面には,
城壁の比高を測量するための測点と発掘地点が表示されている。図7の実線のように,東側内部から
北隅外側までつながっており,途中に城内中央部の発掘地点にも連なっている。この測点により,大
4)は,基
1~○
まかな発掘調査と地表調査がおこなわれたようである。東側入口城壁の発掘(図8-○
盤岩層が露出した進入路北側の切り通し地点でおこなわれた。調査団は,城壁内側の基底部に小規模
の探索ピット(鳥居龍蔵の図面には測点「A」)を設定し,基盤岩層上に堆積した文化層を確認した。
ここでは,陶器と土器破片・陶製牛角状把手破片・獣骨・貝殻・網錘を採集し,カマドの痕跡も確認
した。さらに採集品のうち,有光教一が確認した鉄製刀子と思われる鹿角と鹹水産貝殻は,この文化
層の相対編年および当時の人々が交流した空間の範囲を考える上で,非常に重要な情報である(有光
1943
:pp.
32
~35,1959
:pp.
501
~502
)。城内中央部の発掘は,鳥居龍蔵の図面とガラス乾板写真に
よると,大邱神社の北側(鳥居図面の測点「D」),写真の「城址包含層」
)と南側(鳥居図面の測点
「E」,写真の城址内発掘断面包含層)でおこなわれた。測点「D」は,城壁から降る斜面から池の境界
5)は,大邱神社から北側の池に向かってゆるや
にかけて探索ピットを設定した。測点「E」(図8-○
かに降る傾斜地に直交するように東西方向のトレンチを長く設定した。この2つの地点からは,陶器
と土器の破片が発掘および地表採集されたが,
「復命書」の「蒐集品目録」には,達城城内の発掘品と
地上採集品が一緒に記載されている。北側城壁外部の調査は,
「復命書」の「蒐集品目録」では「東壁
外部の包含層」と記録され,
「写真目録」には「城壁北部断崖包含層」と記録されているが,鳥居の図
面では確認できない。調査写真に達城の東側を流れる達西川によって浸食された地形がみえないこと
から,この地点は東側入口と北隅の間にある,北西-南東方向にのびる北側城壁の外側基底部である
と推測される。横に長く露出した断崖の包含層からは,陶器および土器破片が採集された。城壁北隅
7)は城郭の外側であり,測量と地表調査をおこなった地点であった。こ
から突出した丘陵(図8-○
こからは,石器時代の土器片を採集したと記録されている。
─ 3
2
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
図8 1917年度古蹟調査の大邱達城調査
この発掘に関するガラス乾板は計16枚で,付記された日付は1917
年12月8日と9日である。
『大正六
年度古蹟調査報告』に記録された大邱での調査日程は,達城→大鳳洞貯水池付近→花園沙門洞および
月背,である(朝鮮総督府 1920
:p.
15
)。『目録』に記録された順序は,達城→花園沙門洞および月
背→大鳳洞貯水池付近→大邱駅区内→達城,である(国立中央博物館 1997
:pp.
203
~204
)。一方「復
命書」の「蒐集品目録」と「写真目録」により再構成される移動経路は,達城(東側入口城壁→城内
中央部→北側城壁外部→北隅の外部丘陵)→花園沙門洞・川内洞→月背辰泉洞・上仁洞→府内慈恵医院・
裁判所・兵営付近・大邱駅区内→達城,である。最初にでてくる「達城」は,大邱に到着して12月8日
と9日の2日間,発掘と地表調査を実施した時のものであり,後の「達城」は,大邱の調査を終える時
(18)
に,大邱の中心部から全景を撮影した時のものである。
最後に,慶州月城と大邱達城で確認された城壁下文化層の編年を,今日的な視角から検討してみた
い。
鳥居龍蔵は,『大正五年度古蹟調査報告』で提示された3つの文化層(上部・中部・下部)(鳥居1917
:
p.
786
)を,甲期(三国時代古墳副葬土器(須恵器)の時期),乙期(三国時代以前)・丙期(有史以前
の石器時代)と解釈する視角を示している。しかし,彼は1917年の調査後に,慶州月城と大邱達城の
城壁下層の文化層を,甲期と乙期に該当するものとし,既存の見解を変更したようである(鳥居1925
:
─ 3
3
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
pp.
394
~395
)。韓国の国立大邱博物館は,鳥居龍蔵の達城調査内容を整理して,調査報告書を発刊し
た(国立大邱博物館 2014
『大邱達城遺跡Ⅰ-達城調査報告書』)。資料調査過程で,鳥居龍蔵が達城
調査直後の1917
年12月1
1日に,大邱の在郷軍人分会事務所で月城と達城に対する講演をおこなったこ
とが明らかになった。釜山日報12月14日付6面の記事によれば,鳥居龍蔵は,この講演ですでに月城と
達城の最下層を原史以後のものであると発表した。その後,金海会峴里の最下層だけを石器時代と述
べていることから,1917
年の月城と達城の調査が,従来の見解の修正に影響を与えたものと判断される。
慶州月城は,有光教一の論文(有光 1959
)の図面を基準とすれば,上層が古式陶質土器段階に,
下層と最下層が瓦質土器段階に属する。これは,1979年以後に続けられている月城周辺の王宮址発掘
調査の成果とほぼ一致し,これよりさかのぼる粘土帯土器段階とそれ以前の段階の遺構・遺物は,月
城の外郭で確認されたことがある(金 1996
:p.
7)。大邱達城は,1968
年に東側出入口の南側にある
城壁の内側基底部が,1970年に城内の池底が簡単に発掘された。1968年の調査で確認されたⅠ層は現
存する城壁であり,その下に3つの文化層があった。Ⅱ層は,初期新羅様式土器(新式陶質土器)が出
土した層であり,Ⅲ層は新式瓦質土器が出土し,最初の築造痕跡が確認される層であり,Ⅳ層は古式
瓦質土器が出土する層である。1970年の調査では,1968年調査のⅢ層とⅣ層に対比される文化層が確
認された(尹 1990
・2007
)。慶州月城とは違い古式陶質土器段階の有無がよくわからないが,Ⅱ層は
初期の新羅様式土器段階で,4世紀後半以後から5世紀初に比定できる。Ⅲ層は2世紀後半から3世紀末
を下限とし,Ⅳ層は,その下方から採集された有機物の炭素年代測定値が,1980±73BPと1820±70BPで
あることから,紀元前1世紀から遺跡の形成がはじまったことがわかる。
4 鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査が残したもの
1910
年の日本による強制的な韓国併合は,大日本帝国における同化政策の根幹をなす「日鮮同祖論」
に,主な理念的基盤をおいていた。「日鮮同祖論」とは,古代において両国が同じ民族であったために,
併合は太古の本体に立ち帰ることであり正当であると主張する,侵略を合理化するための大日本帝国
による恣意的な侵略理念であった。同時に,被植民者の独自的な発展と主体性を否定する「他律性論」
と,社会経済構造の発展が前近代的な村落経済段階に留まっているとみる「停滞論」も,侵略理念と
して少なからず作用していた。もちろん,こうした主張の前提として,
「国学」がつくり出した自我陶
酔的な大日本帝国の神聖意識および優越意識があった。同質性を前提とする「日鮮同祖論」と,差別
性に基盤をおく「他律性論」および「停滞論」の2つの論点は,その指向性において互いに対立するよ
うであるが,植民地支配を正当化する議論をつくりあげるためには,両刃の剣のようにいつも習合さ
れた。大日本帝国の官学者達も,やはり草創期にはどちらか一方に片寄る場合があったが,現地調査
が進むにつれ,それぞれの論が究極的に合わされた植民地支配論を立証することを,さらに競いあう
ことになった。鳥居龍蔵は,こうした植民地支配をめぐる議論に深く関与した大日本帝国の官学者で
あり,そうした論争の最前線にいた。
韓半島を調査した関野貞をはじめとする大日本帝国における主流派の官学者達は,草創期にはおお
むね「他律性論」および「停滞論」を強調する立場にあった。関野貞がまとめた1902
年および1909
年
の調査報告書と,今西龍が1906
年の調査に臨んだ態度は,これをよく示している(咸 201
1b
:pp.
62
~64)。さらに1909
年の京城広通館での講演で,関野貞調査団は,韓半島の古代史像を「日鮮同祖論」の
),時代別の文化的様相を「他律性論」および「停滞論」の視角から
立場で説明しながら(谷井 1909
解説した(関野 1909
)。一方,鳥居龍蔵は,1895
年・1905
年・1909
年の遼東半島調査で得た見識を通
して,「日鮮同祖論」に近い見解を提示した。韓半島の文化的様相に対する2つの論点は,結局,大日
本帝国の官学者達の間で指向された理念基盤だけではなく,学界における権威をめぐる論争へと拡大
し,それ以後の考古学調査にも大きな影響を与えた。具体的には,当時の日本の学界が韓半島におけ
る石器時代を認めていなかったことに対する論争は,基本的には学者間の理念的基盤の違いによるも
のである。また平安南道の大同江南岸で調査された墳墓を高句麗のものとみる見解に対する論争は,
─ 3
4
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
主流派の官学者の権威をめぐる対立へと拡大した。こうした論争において,鳥居龍蔵は石器時代を認
める立場であり,大同江南岸の墳墓が楽浪のものであると主張した。このために,彼は学問的なもの
以外の理由まで加わって,一方的に大日本帝国の官学界から排斥された(朝倉 1993
:pp.
45
~46)。
鳥居龍蔵は,自身の見解を証明するために,自ら機会をつくって調査の名分を得て現地調査に参与
することになり,特に考古学的に韓半島における有史以前の文化的様相を探究した。彼にとって,慶
州月城と大邱達城は,金海会峴里貝塚と共に,韓半島南部で有史以前(石器時代)から三国時代まで
の文化発展段階を究明するための標識遺跡であった。彼は,地表に残された立石や支石墓を調査し石
器も採集したが,何よりも発掘を通して層位学的に証明しようとした。彼は,これら3
遺跡の最下層文
化層を石器時代のものと認識し,それ以後の文化層の検討を通して,三国時代までの変化を整理した
(鳥居 1917
:p.
786
)。
こうした鳥居龍蔵の見解は,当初とは異なり,次第に大日本帝国の主流派官学者の認識にさまざま
な影響を与えた。大日本帝国の官学者の主流派は,鳥居龍蔵を排除する中で,上記の3遺跡を別途に調
査して評価し,その後,支石墓のような先史時代の遺跡だけを選択して発掘もおこなった。また,楽
浪説の根拠が明らかになるや,主流派の立場は,楽浪をむしろ強調する方向へと急旋回した。まず,
石器時代がないとした初期の認識は,石器と骨角器が主に用いられた新石器時代と,金属利器を使用
しながらも石器時代文化がまだ維持された,いわゆる金石併用期に分ける見解へと次第に変化した
(藤田 1943
:pp.
47
~48)。こうした「停滞論」に楽浪の発掘成果が加えられることで,
「他律性論」
はさらに拡大再生産された。すなわち,191
1
年以後に大同江南岸の諸遺跡は楽浪郡治址と関連するも
のであることが確定され,1916
年以後に,この遺跡に対する集中的な調査がおこなわれた(鄭 201
1
:
pp.
156
~158
)。大日本帝国の官学者の楽浪に対する認識は,個別調査の報告以外に,1919
年に『古蹟
調査特別報告』第1冊(平壌付近に於ける楽浪郡時代の墳墓一),1927
年に『楽浪郡時代の遺跡』
(古蹟
調査特別報告第4冊)が特別に発刊されたことからも明らかである。そしてその認識は,1920
年の金海
会峴里貝塚の発掘(濱田・梅原 1923
)と1925
年のいわゆる「漢代遺跡」の集成(藤田・梅原・小泉
「中国中原の
1925
)を通して,楽浪郡治址に留まらず韓半島中南部まで拡大されていった。すなわち,
漢(三国を含む)=楽浪(韓半島北部)≒韓半島中南部」という等式が準備された。これによって,
大日本帝国の官学者の主流派は,「石器時代以後の金石併用期→漢文化の影響下にある三国以前の時
期→六朝文化の影響下にある三国時代→唐文化の影響下にある統一新羅時代」という,他律性と停滞
性の論理による時代区分が成立した。また彼らは,既往の神功皇后新羅征伐説および任那日本府説に
加えて,日本列島の弥生時代と韓半島の金石併用期および三国時代以前の時期の文化的な類似性を主
張することにより(藤田・梅原・小泉 1925
:p.
142
),植民地支配を合理化する日鮮同祖論も強化す
ることになった。
鳥居龍蔵は,本質的に大日本帝国の侵略行為に同調した官学者であったが,「他律性論」と「停滞
論」にもとづいた上記のような認識に反駁した。特に慶州月城および大邱達城における三国時代以前
の文化層の様相は,漢文化の一方的な影響(濱田・梅原 1923
:pp.
45
~51,藤田・梅原・小泉 1925
:
pp.
1
~3,pp.
129
~134
)ではなく,アジア北方との交流を通した,内的な成長の結果が反映されたもの
であることを暗示した(鳥居 1925
:pp.
389
~390
)。しかし,彼の主張は日鮮同祖論に基づく少数意
見であり,広がることはなかった。このため,韓国考古学界において鳥居龍蔵の学説は,関連分野の
論点が形成される中でほとんどとりあげられず,影響力がなかった。これは,原三国時代の文化様相
をめぐる論争によく表されている。
韓半島が大日本帝国の植民地支配から脱した後に,考古学分野における官学者の認識の中で,最初
に再評価の対象となったのは先史時代であった。
「旧石器時代→新石器時代→青銅器時代→初期鉄器
時代」という段階的な進化発展過程は,今や議論する必要はない。しかし,慶州月城および大邱達城
において,三国時代以前の文化層の様相が「漢=楽浪」の影響であるという視角は,まだ一部で残っ
ている。韓国考古学において,この問題を本格的な再び解析する動きは,1980年代の「瓦質土器論」
,崔 1982
)からはじまった。「瓦質土器論」は,三国時代陶質土器以前の土器群と
の登場(申 1982
─ 3
5
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
文化様相が楽浪土器の製陶技術をもとに誕生した,という概念を残すことになった。その後に続けら
れた議論を通して,韓半島南部,特に慶尚南道・北道において「円形粘土帯土器段階→三角形粘土帯
土器段階→古式瓦質土器段階→新式瓦質土器段階→古式陶質土器段階→新式陶質土器(新羅・加耶様
式土器)段階」という進化発展が,型式学的にも相対編年においても,大多数の研究者の共感を得て
きた。これによって,三国時代以前の文化様相は,漠然と取り上げられる対象から,精緻に分析およ
び解析する対象へと変化した。しかし,この議論の弱点は,古式瓦式土器段階が,三角形粘土帯土器
段階をもとに誕生したとする一方で,
「漢=楽浪」の影響に触発されたとみなす点にある。韓半島中南
部において,粘土帯土器段階である初期鉄器時代が,漢郡県設置以前にすでに形成されていた,とい
う論点に異議を提起する研究者はいない。しかし,型式学的に三角形粘土帯土器から古式瓦質土器が
連続的な変化により登場したのにもかかわらず,還元焼成の古式瓦質土器の製陶技術は,「漢=楽浪」
の影響によるものであると考えられている。これは「古朝鮮段階から三韓へ,そして三国の鼎立」,と
いう韓半島中南部における歴史的変動とその背景を,多少無視した見解である。
こうした説に反論を提起した研究者達は,中国戦国時代に遼東地方で構築された打捺文土器の技術
体系が,衛満朝鮮期に南下することで,韓半島中南部全域において原三国時代土器の技術体系が成立
したと主張した(李 1991,崔 1998
)。こうした反論には,「瓦質土器論」自体が不適切であるとみ
る見解と,技術体系の導入背景およびその時期だけが違うとみる見解があり,両者にはやや違いがあ
る。最近の新しい解釈(鄭 2008
)は,楽浪土器と瓦質土器の間には製作技法において同質性を見い
だせないとして,
「瓦質土器論」の論理構造を批判し,中国東北地方の戦国時代「燕式土器」に注目し,
衛満朝鮮の影響によって「古式瓦質土器段階」が成立したと判断している。また,楽浪が漢と終始一
貫して同じものであったのではなく,漢化された古朝鮮系集団と,中国中原からやってきて在地化し
た土着漢人系集団が融合した「楽浪人」によって,中国の辺郡である楽浪郡が運営されたとみる新た
な解析もなされている(呉 2007)。内在的発展を念頭においたこうした解析は,伝播という受動的な
要因を克服した,韓国考古学の新たな認識からでてきた視角であることは明かである。鳥居龍蔵は,
日鮮同祖論の視角から内在的発展を議論した。韓国考古学にほとんど影響を与えることができなかっ
たが,植民地時代に説かれた彼の論点は,学史的側面から正しく検討されねばならないだろう。
5 おわりに
以上,鳥居龍蔵が1914
年と1917
年におこなった,慶州月城および大邱達城の調査について検討した。
これを要約することで,まとめに代えたい。
第1に,1914
年における慶州月城および大邱達城の調査は,会計上1913
年度の第三回史料調査(慶尚
南道・北道)の一部として企画され,会計期間である1914年3月末までに終了せねばならなかった。慶
尚南道全域と慶尚北道大邱の調査は,当該会計年度末以前に終了したが,慶尚北道で予定されていた
慶州の一部と,残りの地域に対する調査は,遅延して完了できなかった。こうした事情により,朝鮮
総督府は調査を一時中断させ,
「慶尚北道慶州」だけを取り上げて,1914
年度会計による第四回史料調
査に編入させる行政措置をとった。このため,第三回史料調査として企画された,慶州をはじめとす
る慶尚北道における残りの地域の調査は,実際には1914
年度の会計期間が始まった4月以後に再開さ
れた。しかし,こうした行政措置は,単純に行政的な便宜と文書行政を整合させるためであったとだ
け見なすことはできない。なぜなら,鳥居龍蔵の意向としては,最初の企画通り,慶尚北道での調査
は,第三回史料調査の続きであったからである。そうした考えが,復命書をもとに作成された朝鮮総
督府のガラス乾板資料によく反映されている。慶州での調査が,朝鮮総督府の資料により第三回また
は第四回史料調査として混乱しているのには,こうした事情があるのである。
第2に,1917
年の慶州月城および大邱達城の調査は,1917
年度の古蹟調査に含まれた有史以前の遺跡
年
の調査であった。1914年の調査が,遺跡の実態を把握するための予備調査であったとすれば,1917
の調査は実質的な発掘調査であり,人為的に発掘ピットが設定されるなど,明らかに調査方式も変化
─ 3
6
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
している。
第3に,慶州月城および大邱達城において,安定した文化層はいずれも城壁の下層で発掘された。こ
れら2遺跡は,金海会峴里貝塚とあわせ,鳥居龍蔵にとって,韓半島南部における石器時代から三国時
代までの文化発展段階を究明するための標識遺跡であった。鳥居龍蔵は,3時期に分けられた文化層
を,三国時代(甲期)・三国時代以前時期(乙期)・石器時代(丙期)と認識した。しかし当初とは異
なり,1917
年の調査直後から既往の見解を修正し,慶州月城および大邱達城の城壁下層の文化層を,
三国時代と三国時代以前の時期のものと把握した。ただ彼は,三国時代以前の時期の文化的様相が,
アジア北方との交流を通して内的に成長した結果を反映していることを暗示し,主流派とは異なる認
識を示した。
第4に,鳥居龍蔵とは違い,大日本帝国における官学者の主流派は,三国時代以前の文化を,「漢=
楽浪」の文化に影響を受けて形成されたと考えた。こうした主張は,植民地支配が終わった後にも,
韓国考古学に大きな影響を与えたが,その代表的な論が「瓦質土器論」である。しかし,韓国考古学
界における最近の新たな主張は,楽浪土器と瓦質土器の間に製作技法上の同質性がないことを批判し,
「三角粘土帯土器段階文化」から発展した「古式瓦質土器段階文化」が,衛満朝鮮の影響によって成立
し,その根拠を,中国東北地方の戦国時代「燕式土器」に求められるとした。こうした原三国時代の
文化様相に対する論争は,内在的発展をめぐる認識の違いからはじまった。内在的発展論は,最近に
なって新たに注目されはじめたが,その基本的な認識は,鳥居龍蔵にその萌芽を探すことができるよ
うである。ただ,鳥居龍蔵の認識は,日鮮同祖論という大日本帝国の植民地史観から抜け出すことは
なく,植民地支配が終わってから,韓国考古学界に影響を与えなかったために,学史としての意味以
上に評価をすることは難しい。
注
(1
)慶州月城の調査時期が間違って知られているこ
とは,筆者も以前から知っていたが,公式な出版
物としては,国立慶州文化財研究所・慶州市の『慶
州月城』報告書(2
0
1
0
)で初めて校訂されたこと
を明らかにしておく。
(2
)藤田亮策の論文(
「朝鮮に於ける古蹟の調査及び
保存の沿革」
『朝鮮』1
9
9,1
9
3
1年)は,この朝鮮
総督府博物館の文書をもとにして作成されたと判
断される。
(3
)
『古蹟調査写真原板目録一』において,第四回史
料調査の題目は
「第四回史料調査写真原板
(全北)」
となっているが,その写真は全て全羅南道で撮影
されたものだけである。括弧内の「全北」は「全
南」の誤記である。目録によれば,全羅北道の調
査は,実際には1
9
1
5
年の第五回史料調査(全北,
忠南・北,京畿,江原)でおこなわれた。
(4
)朝鮮総督府博物館は,3
巻にまとめられたガラ
ス乾板目録に一連番号を記入し,その一部に所蔵
品番号もつけた。ガラス乾板目録の一連番号は,
移管書類の編綴に関係なく,おおむね年度別順に
つけられた。すなわち,史料調査と古蹟調査によ
り,目録が別々に編綴されていたのにもかかわら
ず,朝鮮総督府博物館は,業務が移管された1
9
1
6
年7
月以後,管理用に一連の番号をつけた。年度
の基準は会計年度であり,一連番号の前2
桁は西
暦を基準とした。韓国国立中央博物館が発刊した
ガラス乾板目録集は,この一連番号に従って再編
集したものであり,この目録集だけでは,本来の
目録の形態を推測することが難しい。本論文と関
連する国立中央博物館の目録集は,
『ガラス原板
目録集Ⅰ』
(1
9
9
7)である。国立中央博物館の『ガ
ラス原板目録集』において,史料調査の回数が頭
につけられたものとそうでないものがあるのは,
1
9
1
5年まで別々に編集された史料調査と古蹟調査
のガラス原板目録が,別々であったことを意味す
る。
(5
)朝鮮総督府博物館開館当時に,事務は総督官房
総務局総務課の所管であったが,建造物の保存管
理・入場者及び雇用者に関する事務のみは,総督
官房総務局会計課が別に担当した。
(6
)状況からみて,全体の一連番号の追加は,藤田
亮策が朝鮮総督府学務局古蹟調査課の博物館主任
および古蹟係主任として赴任した,1
9
2
2年以後に
なされた可能性がある(京都木曜クラブ 2
0
0
3:
p
p
.
1
5
,咸 2
0
0
9
:p
p
.
2
1
9)。
(7
)植民地時代の研究者である金仁徳先生と国立中
央博物館遺物管理部の写真担当である金栄敏の助
言があった。
(8
)慶州Aの調査は,当時の慶尚北道慶州郡西面,
慶州面,内東面,外東面でなされた。慶州Bの調
査は,当時の慶尚北道長鬐郡東海面(甘浦と陽北
の感恩寺址および石窟庵)と慶州郡内東面(仏国
─ 3
7
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
寺および聖徳王陵)で実施された。長鬐郡は今日
の慶州と浦項の東海岸を管轄した行政区域であっ
た。長鬐郡東海面(甘浦・陽北・陽南)は,1
9
0
6
年に大韓帝国勅令第三十六号により慶州郡から分
割されたが,調査途中の1
9
1
4年4
月1
日から,朝鮮
総督府府令第一一一号により地方行政区域が調整
され,慶州郡陽北面および陽南面に再編入された。
(9
)具体的な日程は,ガラス乾板に記された日付を
全て確認すれば明らかにできるであろうが,残念
ながら全体を確認することができなかった。ただ
し,大邱から慶州へ移動した日程が連続している
ことは確実である。
(1
0)遺跡の位置を最短距離で結んだ経路でみると,
ガラス乾板目録の順序には,やや不合理がある。
鮑石亭址の調査は,遺跡の位置と慶州南山の北端
にある都堂山の山裾から撮影された月城の全景写
真からみると,月城調査の直前に撮影なされなけ
れば,経路が重ならない。また,
「影池周辺の先史
遺跡→関門城と周辺の古墳」の調査も,
「仏国寺→
聖徳王陵」という移動経路の間におけば,順序の
上では無理がないように思われる。しかし,数日
にわたって調査がなされたために,合理性だけを
考えたこのような経路は,ただの観念的な基準に
すぎない。
(1
1)後述する1
9
1
7年度古蹟調査の事例をみてみる
と,ある地域での細部の日程は,天気により十分
に流動的であった。よって,ガラス乾板目録がこ
うした変数を全て満たすことはできない,と筆者
は判断する。
(1
2)城壁が切開された状態は,恐らく人為的なも
のである。当時の慶州古蹟保存会会員の中には,
個人的に遺物を所蔵した人が相当に多かった。憶
測をすれば,彼らによって掘鑿された可能性が考
えられ,鳥居龍蔵がその情報を聞いて,それに
よって発掘地点を選択したかもしれない。
(1
3)1
9
1
6年7
月4
日に朝鮮総督府内訓第十三号とし
て公表された「古蹟及遺物調査事務心得」の第五
条によって,調査者は義務的に関連書類をそろえ
て提出しなければならなかった。
(1
4)大邱への到着日は明らかではないが,調査期
間が8
日から1
3
日までとされていることから,7
日
に安東を出発して,同日に到着したものと思われ
る。
(1
5
)有光教一は,月城の城壁発掘が南西側望楼址
の斜面でなされたとし,1
9
4
0年に小林文次が撮影
した写真を提示した(有光 1
9
5
9
:p
.
4
9
2
)。しかし,
2
回の主な発掘は,この望楼址の東側にある門址
の城壁切開地点でなされた。望楼址斜面の調査は,
1
9
1
4年調査の写真にはなく,1
9
1
7年度の調査時に,
追加で調査がなされたとみなければならない。し
かし,鳥居龍蔵の記録でこの地点の発掘は全く確
認できない。あるいはこの地点は,発掘ではなく,
1
9
1
7年の調査以前に誰かによって掘鑿されたもの
ではないかという疑いがある。いずれにせよ,2
つの地点では,発掘の痕跡が今日もわずかではあ
るが確認できる。
(1
6
)「蒐集品目録」には,
「最後砂層」と表記されて
いる。これを有光教一は,
「最下砂層」とし,筆者
もやはり,語法上誤った表現であるとみて,有光
の用語に従う。彼は自身の論文で,
「三つの層の
厚さ,深さ,特徴についてはなにも手がかりにな
るものがなかった。ただ最下層は最下砂層とも記
してあったから,上方の粘土質とはちがって,た
ぶん川砂の様な砂の層であったろうと思われる」
と述べた(有光 1
9
5
9:p
.
4
9
3
)。
(1
7
)図面が鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている
ことは,吉井秀夫を通して知ることができた。
(1
8
)大邱達城は,植民地時代にさらに1
度調査され
た。大日本帝国が軍部ファシズムに向かい,国体
明徴運動で思想統制を始めてから,1
9
4
0年7
月か
ら,大邱神社の南東側に国体明徴館を新築した。
この時の基礎工事のために南東側城壁内側の基底
部を掘鑿し,有光教一が1
9
4
1年3
月に現場調査を
実施した。その調査に関連する文書とガラス乾板
が国立中央博物館にある。その内容は,国立大邱
博物館の報告書(国立大邱博物館2
0
1
4『大邱達城
遺跡Ⅰ-達城調査報告書』)を通して公開された。
その調査内容は不明だが,関連するガラス乾板が
国立中央博物館にある。
参考文献
(韓国語)
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8
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201
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退任紀念論叢』
2001
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の過去と今日-石窟庵・仏国寺・南山』成均館大学校博物館
2009
「朝鮮総督府博物館慶州分館」『韓国博物館100年史』(本稿を一部修正補完した論文:
201
1a
「日帝強占期慶州の博物館について」
『考古学論叢』慶北大学校考古人類学科30
周年紀念)
201
1b
「韓日強制併合前後日本帝国主義官学者の慶州地域調査」
『新羅文物研究』5,国立慶
州博物館
(日本語)
朝倉敏夫 1993
「鳥居龍蔵の朝鮮半島調査」『民俗学の先覚者 鳥居龍蔵の見たアジア』国立民族学
博物館
有光教一 1943
「石器時代の大邱」『大邱府史』第三特殊編
1959
「慶州月城・大邱達城の城壁下の遺跡について」『朝鮮学報』14
石尾和仁 2010a
「朝鮮総督府による朝鮮史編纂事業と鳥居龍蔵の立場」『史窓』40
2010b
「鳥居龍蔵の朝鮮半島調査実施時期をめぐって」『考古学研究』227
201
1
「鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』の誤記と年譜」『史窓』41
関野貞 1909
「韓国芸術の変遷に就て」『韓紅葉』大韓帝国度支部建築所
朝鮮総督府 1917
「古蹟調査計画」『大正五年度古蹟調査報告』
1920
「大正六年度古蹟調査計画」『大正六年度古蹟調査報告』
谷井済一 1909
「上世に於ける日韓の関係」『韓紅葉』大韓帝国度支部建築所
鳥居龍蔵 1914
「鳥居龍蔵氏通信 第五信(4月25日浦項発)」
『人類学雑誌』第29
巻5号,東京人類学会
1917
「平安南道,黄海道古蹟調査報告」『大正五年度古蹟調査報告』
1925
「浜田・梅原両氏著『金海貝塚報告』を読む」『有史以前の日本』
京都木曜クラブ 2003
「有光教一氏インタビュー」『考古学史研究』10
藤田亮策 1943
「大邱の支石墓」『大邱府史』第三特殊編
濱田耕作・梅原末治 1923
『大正九年度古蹟調査報告』第一冊(金海貝塚発掘調査報告)
藤田亮策・梅原末治・小泉顕夫 1924
「慶州発見の石器と古墳出土の陶質器四五」『大正十一年度古
蹟調査報告』第一冊
藤田亮策・梅原末治・小泉顕夫 1925 『大正十一年度古蹟調査報告』第二冊(南朝鮮に於ける漢代の
遺跡)
筆者不明 1925
「朝鮮ニ於ケル博物館事業ト古蹟調査事業史」
(国立中央博物館2009
『韓国博物館100
年史』資料編46~67頁に所収)
─ 3
9
─
咸 舜燮 原著・吉井 秀夫 訳
訳者あとがき
本論文は,咸舜燮2013
「日帝強占期 鳥居龍蔵의 慶州月城 및 大邱達城 調査에 대해여」(『일제강점
기 영남지역에서의 고적조사(日帝強占期嶺南地域における古蹟調査)
』学研文化社,pp.
67102
)を底
本として,筆者の修正を加えたものを訳出したものである。筆者の咸舜燮氏は,慶北大学校人文大学
史学科を卒業後,韓国国立博物館の学芸士・学芸官として,国立中央博物館をはじめとする韓国各地
の国立博物館で勤務し,現在は国立大邱博物館長に在職中である。咸舜燮氏は,学芸員として活躍す
る一方で,金工品を中心として三国時代の新羅・加耶古墳に関する研究成果を発表してきた。また,
出身地である慶州や現在の勤務地である大邱における,植民地時代の朝鮮古蹟調査事業に関する研究
も進めてきた。現在,韓国国立博物館は,朝鮮古蹟調査事業に関連する所蔵資料を再整理・報告する
作業を進めているが,咸氏はこのプロジェクトの中心人物の一人でもある。
実は,本論文が執筆されることになった契機の1つは,鳥居龍蔵記念博物館との関係にある。吉井が,
鳥居龍蔵記念博物館に鳥居龍蔵の1913
年度・1914
年度・1917
年度の慶尚北道・慶尚南道調査にかかわ
る資料が所蔵されていることを知り,その性格を明らかにするための検討を進める際に,韓国で協力
を仰ぐべき人物としてすぐに思い浮かんだのが咸舜燮氏であった。私が関連資料をどのように理解す
べきか相談したところ,咸氏が,国立中央博物館に所蔵されている文書類や写真資料をもとに,慶州
月城と大邱達城における調査の実態を明らかにする検討を進めていることを知った。そして情報交換
の結果,日韓の資料を突き合わせることで,鳥居龍蔵がどのような調査をし,それが学史的にどのよ
うに評価できるかを明確にできる,という点で意見が一致した。そこで,鳥居龍蔵記念博物館所蔵資
料を報告する際に,併せて咸舜燮氏の研究成果を日本の学界に紹介したいとお願いした。その草稿は
201
1
年末には吉井のもとに届けられていたが,諸事情から,研究成果は嶺南考古学会第21回研究集会
(2012
年4月)で口頭発表され,研究集会の成果をまとめた上記の単行本で公刊された。今回,鳥居龍
蔵記念博物館所蔵資料,およびその後に韓国で発見された資料に基づいた知見を加えた上で,翻訳を
許可して下さった咸舜燮氏に心から感謝したい。
今回の翻訳において一番悩んだのは,韓国において植民地時代の調査研究に対する論文が書かれる
際のきまり文句といってよい,
「日帝強占期」
・
「日本帝国主義」
・
「官学者」といった韓国語を,どのよ
うに訳出するかであった。まず「日帝強占期」は,日本では「植民地時代」と呼ぶことが一般的であ
る。しかし両者の間には,概念的に少なからずの違いが存在する。まず日本においては,
「植民地時
代」を韓国併合(1910
年)からと考えることが多いが,韓国では,第2
次日韓保護協約により,大韓帝
国が大日本帝国の実質的な保護国となって以降と考える場合が多い。また,
「日帝強占期」という用語
は,大日本帝国による朝鮮支配は,大韓帝国との合意による植民地化ではなく,強制的な占領の結果
である,という認識に基づいている。よって韓国においては,
「植民地時代」と「日帝強占期」のどち
らの用語を用いるかは,各者の歴史的立場を表明することになる。今回は,日本の読者の便を考えて,
初出部分で両用語を表記した上で,
「植民地時代」と訳出した。ただ,検索の便を考えて,文献中の用
語としては,「日帝強占期」の語を残している。
次に問題になったのが,
「日本帝国主義」
・
「日本帝国主義(日帝)官学者」という用語である。韓国
「帝国主義」思想をもった「日本」
では,
「日本帝国主義」という言葉は,主義主張のみを表すよりも,
人や,「日本」の様々な組織・機関,さらには「大日本帝国」そのものを指し示すことが一般的である。
そのため,原論文を直訳すると,
「日本帝国主義」が文化遺産調査や同化政策をおこなう主体となった
り,神聖意識や優越意識をもつ,といった文章になってしまう。そこで本稿では,かならずしも適切
な訳語ではないと意識しつつ,「大日本帝国」と訳出することにした。
さて「日本帝国主義」と対になって用いられるのが「官学者」である。原文でも「日本帝国主義官
学者」,もしくはそれを縮めた「日帝官学者」という用語がしばしば用いられている。「官学者」は,
「権力におもねる学者」という意味で,日本語でいえば「御用学者」といった方がわかりやすいであろ
う。ただ,朝鮮古蹟調査事業にかかわった人々をすべて「御用学者」と呼ぶのは気が引ける。一方,
─ 4
0
─
植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
韓国では,植民地時代に研究活動をおこなった日本人研究者は,全て「日帝官学者」と呼ぶのが慣わ
しであるので,
「官学者」を「日本人研究者」と意訳することも考えた。しかし,これでは韓国側の意
図が全く伝わらなくなってしまう。悩んだすえ,
「官学」
・
「私学」という用語が日本語にあること,少
なくとも考古学の場合,朝鮮古蹟調査事業に従事する人々の大部分が,東京帝国大学と京都帝国大学
の関係者であることを鑑みて,
「官学者」という用語をそのまま用いることにした。以上のような用語
選択の問題を含め,誤訳や不適切や訳があれば,すべてそれは訳者の責任であることを記しておく。
本論文を訳出する中で改めて感じたのは,朝鮮総督府博物館で管理され,現在は国立中央博物館に
所蔵されている公文書やガラス乾板のもつ情報量の多さである。これまでの朝鮮古蹟調査事業研究は,
刊行された報告書や論文から情報を引き出して整理するのが主流であり,いつも不完全さがつきま
とっていた。それを補うべき資料として,鳥居龍蔵記念博物館や京都大学考古学研究室などの所蔵品,
あるいは東洋文庫の梅原考古資料のような,日本人研究者が持ち帰った資料が注目されてきた。しか
し,当時の公文書である国立中央博物館所蔵資料との総合的な研究を通してこそ,日本にある資料の
本当の価値を明らかにできることを,本論文は示している。今後,さらにさまざまな形で共同研究を
進めていく必要があることを,ここで強調しておきたい。
もう1点,本論文を読んで驚かされたのは,さまざまな条件付きとはいえ,今回の検討を通して,鳥
居龍蔵の朝鮮半島調査とそこから導き出された仮説に対して,一定の評価がなされている点である。
これまでの韓国における学史研究においては,日本人による調査研究は,批判の対象となることはあ
れ,その学術的な意味をしっかりと検証し評価されることは少なかったように思う。それに対して本
論文では,さまざまな資料を検討して事実関係を明かにした上で,鳥居龍蔵による調査研究の到達点
と,それが戦後の韓国考古学に与えた影響,およびそれがどのように克服されてきたのかまで考察が
なされている。こうした作業が,咸舜燮氏のいう「今日の韓国考古学の立場から体系的に評価し再び
解析」する,ということではないかと訳者は考える。鳥居龍蔵のように,さまざまな地域において調
査研究をおこなった研究者に対しては,さまざまな立場からの多様な評価が可能であるに違いない。
そうした評価の違いとその背景を理解しあうことで,鳥居龍蔵研究は,さらに深化していくのではな
いだろうか。咸舜燮氏の研究および問題提起について,私達がそれぞれの研究の立場を明確にして意
見を述べ,相互理解が深まっていくことを期待したい。
─ 4
1
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告
Bull.TokushimaPref.ToriiRyuzoMemorialMus.
No.2:4370,Ma
r
c
h2015
【論 説】
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
吉井 秀夫
はじめに
1910
年代に,鳥居龍蔵が朝鮮半島各地でおこなった人類学的・考古学的調査は,他地域の調査にく
らべてその実態に不明な点が多い。それはこれまでも指摘されてきたように,朝鮮古蹟調査をめぐる
研究者間の葛藤により,正式な調査報告がほとんど刊行されなかったことに大きな原因があると思わ
れる。そのため,調査回数・調査期間・調査経路,といった基本的な情報でさえ,鳥居の自伝をもと
に,鳥居自身や関係者による断片的な言及などから得られた情報を加えて推測するしかなかった。
しかし最近になって,朝鮮半島における鳥居龍蔵の調査の実態を明らかにしようとする研究が進め
られるようになった。まず日本側では,鳥居龍蔵記念博物館の移転・開館事業が進められる中で,新
たな視角からの検討がおこなわれてきた。例えば石尾和仁は,鳥居が送った手紙・葉書を活用するこ
とによって,調査実施時期を再検討・修正した(石尾 2010)。また吉井は,写真技師として朝鮮総督
府古蹟調査事業に深く関わった澤俊一の業績を紹介する中で,鳥居による第2回調査に同行して以後,
鳥居の調査のみならず,朝鮮古蹟調査事業に関するさまざまな調査に澤が同行し,膨大な写真資料を
残したことを明らかにした(吉井 2008
)。
一方,大韓民国(以下,
「韓国」と表記)においては,鳥居に同行した澤俊一が撮影した写真のガラ
ス乾板が国立中央博物館に所蔵されており,公開された目録(国立中央博物館 1997
)により,その
概要を知ることができるようになった。それらの写真のうち,固城松鶴洞古墳(姜 1987
),慶州月城
(国立慶州文化財研究所編 2010),大邱達城(大邱文化芸術会館 2007)などの調査に関するものに
ついては,遺跡の再調査などの機会に紹介されてきた。また,国立中央博物館に所蔵されている文献
「朝鮮ニ於ケル博物館事業ト古蹟調査事業史」(国立中央博物館 2009
,pp.
4647
)により,鳥居によ
る調査回数・日程が,当時どのように認識されていたかが明らかになった。さらに,鳥居が朝鮮総督
府に提出した復命書や関連する文献を利用することにより,当時の調査の実態をさらに具体的に検討
する研究も進められている(咸 2013
)。
このように,日本・韓国における研究を通して,鳥居龍蔵の朝鮮古蹟調査の実態は明らかになりつ
つある。しかし,鳥居による朝鮮半島古蹟調査の実態を明らかにしようとする研究を阻害する大きな
要因の1つとして,当時の調査に関連する資料が日韓両国に分散しており,その所蔵の実態でさえはっ
きりしていない点があげられる。特に鳥居龍蔵記念博物館に関連資料がどのように収蔵されているの
かは,韓国の研究者にとって関心の的であった。
本稿は,以上のような研究状況を踏まえ,鳥居龍蔵記念博物館が所蔵する,鳥居龍蔵による慶尚北
道・慶尚南道地域での調査に関連する資料を紹介し,その歴史的意義について基本的な検討を加えよ
うとするものである。具体的には,今回,筆者が本稿を執筆することになった経緯を紹介した上で,
調査順に関連資料を紹介する。そして最後にその歴史的意義について述べることとしたい。
1 資料紹介までの経緯
筆者が,今回紹介する資料の存在を知ったのは,201
1
年2月に,新しい展示を見学するために鳥居龍
蔵記念博物館を訪問した際である。展示室の背景装飾として,今回紹介する図面の一部が用いられて
いたのをみた筆者は,それらが従来知られていないものであることに気がついた。そこで同年9月に
─ 4
3
─
吉井 秀夫
改めて,関連する図面・地図を閲覧する機会をえて,その重要性を確認した。その時の調査成果は,
2012
年3月4日に開催されたシンポジウム「鳥居龍蔵の足跡を考える-台湾・中国・朝鮮半島-」にお
いて,
「鳥居龍蔵の朝鮮半島調査-鳥居龍蔵記念博物館所蔵資料の検討を中心に-」という題目で報告
をおこなった。
その後,鳥居が残した資料の学術的価値を検討するために,2012
年3月20日から24日まで韓国を訪問
し,鳥居が調査した遺跡の現地踏査をおこなった。まず20日・21日は,金海貝塚および金海市内の支
石墓を見学した。22日には大邱達城を踏査し,23日には,慶州月城を訪れた。
この調査の際に,国立大邱博物館の咸舜燮館長から,国立中央博物館に1914
年度および1917年度調
査時の写真および復命書などがあり,それを元に大邱達城および慶州月城での調査状況について検討
を進めているとの教示をえた。そして,鳥居龍蔵記念博物館所蔵資料について意見交換した結果,日
韓の資料を総合することによって,調査の全貌がほぼ明らかになるだろうということで意見が一致し
た。その後,咸氏は2012
年4月に開催された嶺南考古学会第21
回学術発表会「日帝強占期嶺南地域の考
古学調査とその性格」において,
「日帝強占期鳥居龍蔵の慶州月城及び大邱達城調査について」の題目
で報告をおこない,それを元に書かれた論文は,2013年に刊行された単行本『日帝強占期嶺南地域で
の古蹟調査』に収録された。その内容については,本報告で翻訳をおこなったのでご参照願いたい。
2014
年に入り,植民地時代における大邱達城の調査成果の再検討をすすめていた国立大邱博物館と,
金海貝塚の調査成果の再検討をすすめていた国立金海博物館から,報告書に鳥居龍蔵記念博物館所蔵
資料を掲載したいとの打診が吉井にあり,その旨を鳥居龍蔵記念博物館にお伝えして調整をおこなっ
た。その結果,今回紹介する資料の写真が,鳥居龍蔵記念博物館から両博物館に提供されることに
なった。2014
年3月18日には,咸舜燮氏が鳥居龍蔵記念博物館を訪れて関連資料を実際に見学し,意見
交換をおこなった。この調査には大韓民国大邱MBC放送局の取材クルーが同行し,資料調査の様子は,
同年8月8日に大邱MBCの番組「達城」で放映された。金海貝塚関連資料については,京都大学考古学
研究室および東洋文庫所蔵資料と共に,総合報告書で筆者が解題をおこなった(吉井 2014)。また,
大邱達城に関連する資料については,国立大邱博物館から刊行された報告書(国立大邱博物館 2014)
で紹介された。
以上のように,鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道での調査関連資料は,鳥居龍蔵記念博物館のご
理解・ご協力および,韓国の関係諸機関のご協力によって,その歴史的意義が明らかになると共に,
その資料を韓国に紹介することが可能となった。そして,本稿を通して日本の研究者に対してもその
概要を紹介することができることを,心から感謝したい。
2 鳥居龍蔵記念博物館所蔵慶尚北道関連地図について
まず,鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている,3点の慶尚北道関連地図についての紹介と検討をおこ
なう。本地図は,慶尚北道一帯を調査する際に,鳥居が入手・利用したと考えられる。各地図の概要
は以下の通りである。
(1)地図の概要
1)「慶尚北道行通略図」(大正三年三月,縮尺350000
分の1)(図1)
1914
年1月に改変された慶尚北道の道・郡・面の地名,および境界を表記した地図に,憲兵隊および
警察署関連の施設の位置と,それらを結ぶ経路および施設間の距離を記入したものである。大邱憲兵
隊本部と慶尚北道警務部の調査により作成されたものであり,一般の人々が入手できる地図ではな
かったと思われる。
興味深いのは,この地図の中に,鳥居が通過もしくは調査をおこなったと思われる軍の憲兵分隊・
憲兵分遣所・警察署の所在地(それらは各郡もしくは面の中心地であったと思われる)に,青鉛筆で
丸印が書かれている点である。これを調査ルートに準じて列記すると,慶州・浦項・清河・盈徳・青
松・安東・栄州・豊基・醴泉・尚州・金泉・星州・大邱・高霊である。
─ 4
4
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図1 慶尚北道行通略図
─ 4
5
─
吉井 秀夫
図2 実測詳密 最新朝鮮地図
─ 4
6
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図3 慶尚北道里程図
図4 慶州地形図
─ 4
7
─
吉井 秀夫
図5 大邱市街全図
図6 朝鮮大邱明細図 現在実施中
─ 4
8
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
2)「実測詳密 最新朝鮮地図」(大正元年発行)
表裏2面に4種類の地図が印刷されている。まず表面は,朝鮮半島全体の地図である。さらにその周
辺に,右側には上から下に向かって「馬山」・「木浦」・「群山」・
「鎮南浦」・「京城全図」・「仁川港」・
「元山津」・「釜山港」,左下側には上から下に向かって「満州図」・「平壌府」の地図が配置されている
(図2)。朝鮮全図は道ごとに色が塗り分けられ,周囲の地域図も適宜彩色されている。
裏面には,「慶尚北道里程図」(図3)・「大邱市街全図」(図5)・「朝鮮大邱明細図 現在実施中」(図
6)の3書類の地図が配されている。「慶尚北道里程図」は,慶尚北道内の郡名および主な邑・面の地名
および所在地を示し,各地を結ぶ経路とその距離が記入されている。また,各郡は異なる色で塗られ
ている。本図で示されている郡は,1914
年1月に行政区画が整理される以前のものである。注目すべ
きは,この地図内の複数の地名に赤鉛筆で丸印がつけられ,それらが線で結ばれている点である。そ
の経路は,大邱→(永川経由)→慶州→浦項→(清河・青松経由)→安東→(栄州経由)→豊基→
(醴泉経由)→尚州→金泉→明岩→星州→高霊の順である。
「大邱市街全図」は,地図が発行された1912年当時の大邱市内を表したと思われる地形図である。邑
城の城壁が撤去されて道路となっていること,大邱駅の南側に格子状の道路がつくられはじめていた
こと,達城の中に「太神宮(大邱神社)」が設置されていることなどが読み取れる。一方,「朝鮮大邱
明細図 現在実施中」は,一種の都市計画図であると思われ,大邱市内全域に格子状の道路が敷設さ
れる予定であったことがわかる。
本地図について興味深いのは,その発行主体および印刷地である。それらの情報源となる奥付は,
以下の通りである。
大正元年十一月十五日印刷 大正元年十一月二十五日発行
著作権発行者 朝鮮大邱元町一丁目八九ノ八 河野初治
印刷者 大阪市東区北久宝寺町一丁目五九 園田藤三郎
印刷所 大阪市東区北久宝寺町一丁目五九 園田印刷
販売元 朝鮮大邱元町一丁目八九ノ八 玉村書店
この奥付部分には,別紙に印刷されたものが貼り付けられ,下端に「玉村」銘の割印が押されてい
ることから,何らかの修正事項があったものと思われる。この記録により,本地図が1912
年に大阪で
印刷され,大邱にあった玉村書店が販売したことがわかる。玉村書店は,大邱や慶州の絵葉書を販売
したことが知られている。また,1920
年に奥田悌が刊行した『新羅旧都慶州誌』の発売元でもある。さ
らに『毎日申報』には,山之井麟治『鮮普通文官応試提要』が玉村書店から刊行されたことを知らせ
る記事(1914
年5月29日付「新刊紹介」)や,京城日報が主催した京城・大邱の庭球戦を,朝鮮体育協
会と共に後援したことがわかる記事(1925年4月23日付「京城対大邱庭球戦/龍攘虎搏の結果/勝利し
年代から1920
年代にかけて,慶尚北道
た大邱軍」)が見いだせる。こうしたことから,玉村書店は1910
関連の書籍や絵葉書を扱い,地域の文化行事を支援するような書店であったことがわかる。本地図に
より,玉村書店の開業が1912
年までさかのぼることや,書籍や絵葉書のみならず,地図も扱っていた
ことが明らかになった。
3)「慶州」地形図(縮尺1万分の1)(図4)
慶州の中心地とその周辺を表した地形図で,右上に「朝鮮一万一慶州第一号」,右下に「高程ハ陸地
測量部製版五万分一地形図ニ致ス 図式ハ明治四十三年式地形図図式ニ準ス」,左上に「大正二年四月
製図仝年五月製版」,左下に「慶州守備隊特定目算測図」との注記がなされている。慶州邑城は,城壁
が表記されている。邑城南側にも市街地が広がりはじめているものの,金冠塚と思われる古墳の墳丘
が表記されている点が興味深い。
この地図が注目されるのは,単純な地形図ではなく,慶州周辺の古蹟の位置と名称を赤字で示して
いる点である。地図の左右に印刷された,古蹟の記号および名称は以下の通りである。
─ 4
9
─
吉井 秀夫
(い)奉徳寺鐘 (ろ)鳳凰台 (は)金氏味鄒王陵 (に)崇恵殿(金氏味鄒王,文武王及敬
順王ヲ併セ祭ル) (ほ)金氏奈勿王陵 (へ)孔子廟 (と)鶏林 (ち)瞻星臺 (り)石氷
庫 (ぬ)崇信殿(昔氏脱解王ヲ祭ル) (る)雁鴨ノ池 (を)芳篁寺 (わ)九重ノ塔(目下
三重ノミ存ス) (か)昔氏脱解王陵 (よ)瓢庵先生李謁平遺墟(慶州李ノ太祖ニシテ朴氏以前ノ
人ナリ) (た)石仏像(一ケノ自然石ニ数多ノ仏像ヲ刻ス) (れ)柏栗寺 (そ)金山斉(金庚
信ノ墓守リニシテ書院ヲ為ス) (つ)新羅太大角干金庚信ノ墓(太大角干ハ今ノ内閣総理大臣ニ仝
シ) (ね)西岳書院(金庚信,薛
,崔致遠ノ三氏ヲ祭リ書院ヲナス)
(2)地図の使用時期と歴史的意義
以上の3点の地図の性格を知る上で重要なのは,慶尚北道行通略図と慶尚北道里程図に記された,調
査地あるいは経由地を記録したと思われる丸印である。鳥居による慶尚北道の調査は,1914
年度と
1917
年度におこなわれている。何れの調査も,大邱から慶州に向かい,慶州調査後は,慶尚北道を反
時計回りに調査を進めている。ただ,鬱陵島を訪れたことを示す印が残されていないことや,浦項か
ら安東・栄州方面に向かって以降の詳細な調査経路の比較から,これらの印は,1914年度の調査にか
かわるものと考えるのが妥当である。この推測が正しければ,鳥居は,発行されて間もない慶尚北道
行通略図と,発行されて2年ほどたった慶尚北道里程図を入手して,調査に活用したと考えられよう。
京都大学考古学研究室に残されている,濱田耕作・梅原末治が1918年秋に星州・高霊・昌寧を調査
した時に用いたと思われる地図の中にも,慶尚北道と慶尚南道の郡・面の中心地などを示した2枚の略
地図がある。各地図には,調査地の横に,調査にかかわる簡単な情報を記入した紙が添付されている。
調査地周辺の地形図とは別にこうした地図が準備されたのは,朝鮮半島の地理に明るくない内地から
の研究者が,全体の調査旅程を理解する上の助けになるからだと考えられる。今回紹介した地図も,
同様の性格を有していた可能性が考えられよう。
一方,慶州地形図は,朝鮮半島各地で作成が進められていた5万分の1地形図をもとに,慶州の主要
な古蹟の位置を示すために製作された特殊地図である。本地図とよく似た性格をもつ地形図としては,
英語で古蹟の名称を表記した,1917
年陸地測量部発行の2万5千分の1地図が知られている(柏書房 1985
)。本地図はそれよりもさらに古い時期に,同様の地図が作製されていたことを示している。ま
た『朝鮮古蹟図譜』三(朝鮮総督府編 1916)に掲載された「慶州附近新羅遺跡地図」(955番)や,
大正5年測図,大正6年製版の1万分の1慶州地形図(柏書房 1985)なども,比較対象となる地形図で
ある。これらは,基本的な地形などの情報はほぼ一致しているが,収録範囲がややずれていることと,
主な古蹟名が直接記入されている点が,今回紹介した地形図と異なる。
また本地図において興味深いのは,古蹟の名称である。例えば,大正6年測図慶州地形図や,各種の
概説書では「瓢岩」と呼ばれる古蹟は,「(よ)瓢庵先生李謁平遺墟(慶州李ノ太祖ニシテ朴氏以前ノ
人ナリ)」と説明されている。同様に後には「掘佛寺四面石佛」と呼ばれる古蹟を,
「(た)石仏像(一
ケノ自然石ニ数多ノ仏像ヲ刻ス)」と説明している。こうした名称は,前述の『朝鮮古蹟図譜』三に掲
載された地形図に書き込まれた古蹟の名称ともほぼ同一でもあり,慶州の古蹟に関する初期の認識が
反映されているのかもしれない。本地図が刊行された大正2
(1913
)年は,慶州古蹟保存会が正式に発
足した年であることも,慶州が観光地として注目されはじめた初期の状況を考える上で興味深い。本
地図が1914
年度と1917
年度のどちらの調査で使用されたのかを知りうる手がかりは存在しない。ただ,
その刊行年度からみて,1914
年度の調査時に本地図は入手可能であり,その時に入手・使用した可能
性があることを提示しておきたい。
3 慶州月城・大邱達城・金海貝塚調査関連図面について
(1)鳥居龍蔵の1917
年度慶尚北道・慶尚南道調査
次に,慶州月城・大邱達城・金海貝塚で鳥居が発掘調査をおこなった際に作成されたと思われる図
─ 5
0
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
面類を検討したい。ここで紹介する図面は,1917
年10月から1918
年1月にかけて,慶尚北道・慶尚南道
で調査をおこなった際に作成されたものと考えられる。そのルートは,「大正六年度古蹟調査事務概
(1)
要」
(朝鮮総督府 1920)や,国立中央博物館に所蔵されている1917
年度調査の復命書により,以下の
ように復元できる。
10月24日に京城(現在のソウル)を出発した鳥居と澤俊一らは,10
月26日から1
1月13日まで慶州周
辺の調査をおこなった。この時に,本稿で紹介する月城の発掘調査をおこなった他,周辺に所在する
石器時代の遺跡を踏査した。1
1月14日に慶州を出発した一行は,浦項を経て,18日から21日まで鬱陵
島各地に存在する古墳の調査をおこなった。22
日に鬱陵島を出発した一行は,栄州郡(1
1
月28日から
12月2日まで調査)と安東(12
月4日から6
日まで調査)での調査を経て,12月8日から13
日まで大邱に
滞在した。この時に本稿で紹介する達城の発掘調査をおこない,周辺地域の石器時代遺跡や支石墓も
2月19
日から20
調査した。14日に大邱を出発した一行は,居昌(12月16日から17日まで調査),陜川(1
日まで調査)
,晋州(12月23日調査)
,固城(12月26日から28
日まで調査)
,統営(12月28日調査)
,東
莱(12月31日),密陽(1月2日)で踏査をおこなった。その後,1月5日から12日まで金海で,金海貝塚
の発掘調査をおこない,周辺の石器時代の遺跡や支石墓の踏査もおこなった。金海での調査を終えた
一行は,1月13日に金海を出発し,14日に京城に帰着した。
咸舜燮氏が指摘するように(咸 2013
),1917
年度の調査は,1913
年度・1914
年度の調査を元に,慶
尚北道・慶尚南道各地の石器時代遺跡の実態をより明らかにすることが,目的の1つであったと考えら
れる。その中でも,慶州月城・大邱達城・金海貝塚の調査は,鳥居にとって,朝鮮半島および日本列
島の有史以前を理解するために重要な役割を果たしたと考えられる。以下,調査順に,本調査に関係
する図面の紹介をおこないたい。
(2)慶州月城の発掘調査と関連図面
新羅の王都がおかれていた慶州には,三国時代から統一新羅時代に至るまでの,さまざまな遺跡が
濃密に分布している。中でも現在の慶州市街地南側一帯に広がる三国時代の高塚古墳群は,発掘によ
り金冠をはじめとする量・質共に豊かな副葬品が出土したことで知られている。また,円形もしくは
双円形の墳丘をもつ大型古墳が分布する姿は,慶州を代表する風景である。この古墳群の南側を流れ
る南川にそって,東西に広がる半月状の丘陵を利用してつくられた土城が,月城である。城内一帯に
は,瓦片や礎石があちこちに分布しており,最近のレーザー探査により,城内の各地に残る数多くの
礎石建物跡の状況が明らかにされた。
鳥居が注目したのは,月城の城壁の下層から出土する遺物であった。この時の出土遺物については,
年春に発掘調査がなさ
有光教一により紹介がなされたことがある(有光 1959)。その論文では,1915
れたとされているが,国立中央博物館に所蔵されている諸文献を検討した結果,1914
年度と1917年度
の2度にわたって調査がおこなわれたことが明らかになった(咸 2013
)。しかし,調査の実情を知る
手がかりは,鳥居による断片的な言及と,調査中の写真に限られてきた。鳥居龍蔵記念博物館に所蔵
される,1917
年度の発掘調査に関連する2枚の図面は,当時の調査状況を知る上での重要な手がかりと
なる資料である。その概要は以下の通りである。
1)
「半月城壁下実測図」(縮尺6000
分の1)(図7)
画用紙に月城とその周辺遺跡の平面図を描いた図である。城壁部分の範囲を描き,城壁の高低を等
高線で表現する。城壁上の各所に数字が書き込まれている。現在の地形図の標高と比較した結果,こ
れらの数字は,城内のある地点を基準とした相対的な高さを尺単位で表したのではないかと思われる。
こうした推測が正しいのであれば,等高線は10尺間隔で引かれた可能性が高い。道路は茶色に彩色さ
れており,城内外に残る施設も書き込まれている。また,南川および雁鴨池は水色で彩色された。月
城南西側に位置する門址の一角には,小さな四角形が書き込まれており,これが1917年度調査の調査
区の位置を表していると考えられる。
─ 5
1
─
吉井 秀夫
図7 半月城壁下実測図
図8 慶尚北道慶州郡慶州面校里 半月城壁下発掘実測図
─ 5
2
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図9 半月城調査区横断面図
図1
0 半月城調査区縦断面図
図11 半月城調査区実測平面図
─ 5
3
─
吉井 秀夫
図1
2 大邱達城 調査実測図
図13 達城附近平面図
─ 5
4
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図1
4 達城 城壁一部実測断面図
図15 達城 A調査区土層図
─ 5
5
─
吉井 秀夫
図16 達城 D調査区土層図
図1
7 達城 E調査区土層図
─ 5
6
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
2)慶尚北道慶州郡慶州面校里 半月城壁下発掘実測図(図8)
薄い和紙(73c
m×40c
m)の中央に「実測平面図(縮尺300
分の1)」,左側に「横断面図(縮尺50
分の
1)」,右側に「縦断面図(縮尺50分の1)」を配した図である。
「実測平面図」
(図1
1)は,南川と月城の南側を流れる用水路および城壁と,調査区との関係を示し
ている。本図により,調査区の壁はほぼ東西南北を向き,東壁が城壁の切り通しに接するように配置
されたことがわかる。
「横断面図」
(図9)は,調査区東壁の土層図,およびその背後にある城壁の断面を描いている。城壁
部分は,礫混じりの層として表現されている。一方,「縦断面図」(図10)は調査区の南壁断面を描い
ており,図の向かって左側には城壁断面がほぼ垂直に表現されている。
縦横断面の土層は,大きく分けて3層からなる。下層は砂層で,横断面・縦断面共に,「赤土器」と
の記入がある。下層と中層の間には,間層が存在する。中層は,下層にくらべて砂が少ない土層で
あったようである。縦断面中層の下側には「麦」,上側には「ビジヨウ」との記入がある。「麦」は,
鳥居が論文(鳥居 1924
)で言及した,炭化した「小麦の粒の一小群」に該当すると思われる。横断
面図の上層と中層の境界部分には,「貝」・「猪牙」との記入がある。これら3つの層のうち,「上層」・
「中層」・「下層」は,有光による出土遺物の報告による上層・下層・最下層に対応すると考えられる。
(3)大邱達城の発掘調査と関連図面
大邱は,慶尚北道の中核都市である。朝鮮王朝の邑城城壁は日本人居留民の手により撤去され,そ
の北側にできた大邱駅を中心として市街地が発達していった。市街地の西側に位置する丘陵の北端部
分を利用して築造された平面円形の土城が,達城である。植民地時代,城内には大邱神社が建立され
た。解放後も神社の建物は残っていたが,1966年に撤去された。その後,達城内には動物園がつくら
れ,現在では大邱市民の憩いの場となっている。
国立中央博物館所蔵資料の検討から,鳥居は1913
年度と1917
年度の2回にわたり,達城の調査をおこ
年度調査時の調査にかかわる
なったと考えられる。鳥居龍蔵記念博物館に残る図面(図12)は,1917
ものである。
図は薄い和紙に描かれている。紙の右半に「達城附近平面図」,左上に「試掘箇所ニ於ケル断面図」,
左下に「城壁一部実測断面図」が配されている。
達城附近平面図(図13)は縮尺6250
分の1で,「九厘六毛ヲ以テ十間トス」との注釈がつく。達城と
その周辺の地形を表した平面図で,大邱府と達城郡達西面との境界線が1点破線で表記されているこ
とからみて,既製の地形図を元に作成されたのではないかと考えられる。等高線と川は水色,道路は
茶色で描かれ,達城の範囲は,その輪郭にそって茶色に薄く彩色して表現している。
注目すべきは,城壁の断面および調査区間の関係を示すためにおこなわれた地形測量の測点が赤い
丸で示され,各点が赤線で結ばれている点である。測点は,神社に向かう参道に接した「(0)」(黒字
で表記)点からはじまり,1ヶ所の測点を間において,城壁東側の切り通しにあたる「(A)」
(赤字で
表記)点にいたる。(A)点の丸は中が黒く塗られている。(A)点から,城壁上を南から北に向かっ
て3ヶ所の測点が表記され,城壁に沿って西側に折れて最初の測点には「(5
)」
(黒字で表記),その次
の測点には「(B)」
(赤字で表記)という字が書かれている。(B)点から城壁に沿って東から西へ3ヶ
所の測点が置かれる。その次は2つの測点が互いに接しており,
「(C)」
(赤字で表記)という字が書か
れている。ここから側線は2方向に分かれる。まず城内に向かって北から南に5ヶ所の測点が示され
る。北から1番目と4番目の丸印は黒く塗られ,それぞれ「(D)」と「(E)」が何れも赤字で記される。
そして5番目の丸印には「(F)」が赤字で記される。一方,城壁から北西側に伸びる丘陵に沿って9ヶ
所の測点が置かれている。そのうち,(C)点の次の点は「(10)」が黒字で記され,そこから5番目の
点は「(15)」が黒字で記されている。
後述する断面図の表記からみて,測点は,(0)点からはじまって,東側城壁の切り通し→東側城壁
→北側城壁→北側城外まで18ヶ所が選ばれ,(0)点から5・10・15番目の測点を,黒字で示したこと
─ 5
7
─
吉井 秀夫
がわかる。また,城の内側には3ヶ所の測点が設定されたことがわかる。その後,赤字で表記された
AからFまで6ヶ所の測点が追加され,そのうち丸が黒く塗られたA・D・Eが,発掘調査地点を示
している。
城壁一部実測断面図(図14)は,縮尺2400
分の1で作成された城壁の断面図である。右側が,
(0
)地
点から北側城壁外までの測点に沿った断面,左側が,
(C)地点から南側に分岐した測点に沿った断面
を示す。
興味深いのは,断面図を作成するために測点ごとに計測された数値が,断面図の下側に記録されて
いることである。すなわち,上から「測点番号」・「基点ヨリノ距離(単位:間)」・「地盤高(単位:
尺)」が記入されている。このうち地盤高は,
(0)点の地盤高を30
尺として,各地点の高さが算出され
ている
試掘箇所ニ於ケル断面図(図15~17)は,上述のA・D・E地点を発掘した際の土層断面図である。
縮尺は約20分の1である。基盤層および城壁層は紫色に,それ以外の層は,濃淡の違う茶色系統の色で
塗り分けている。調査区の幅は,Aが5.
5尺,Dが5.
0尺,Eが6.
0
尺と表記されており,1辺1.
5m強の方
形調査区が設定されたと考えられる。
A(図15)は,東側城壁の切り通し部分に設定された調査区で,調査区中央において,地表から基
盤層上面までが9.
7尺をはかる。地表下には城壁をなす層があり,その下側の遺物包含層は,薄い間層
を境として上下2層に分けられている。上層内には,「土器」・「貝」・「猪骨」・「鹿角」などの表記があ
る。間層には「土器」・「木炭」,下層には「土器」の表記がある。
D(図16
)は,北側城壁からやや内側に入った地点に設定された調査区で,基盤層の上の堆積は4.
7
尺をはかり,間層をはさんで上下2
つの層に分けられている。下層には「土器」の表記がある。
1
尺の
E(図17)は,Dからさらに城内に入った地点に設定された調査区である。発掘は地表から2.
深さまでおこなわれたようであるが,遺物包含層は地表から0.
8尺までで,「土器」の表記がある。
(4)金海貝塚の発掘調査と関連図面
金海貝塚は,1907
年に金海を踏査した今西龍が,その存在を日本の学界に紹介したことを契機とし
て,柴田常恵・鳥居龍蔵・黒板勝美・濱田耕作・梅原末治・藤田亮策・小泉顕夫・榧本亀次郎らが,
数度にわたって発掘調査をおこなった遺跡である。中でも1920年に発掘調査をおこなった濱田耕作と
梅原末治が,報告書などを通して金海貝塚を「金石併用期」の代表的な遺跡として以来,その評価は
現在に至るまで,韓国・日本の考古学界にさまざまな影響を与えてきた。
しかし,植民地時代における日本人研究者の発掘調査の実態は,意外に知られていない。1914
年度
および1917
年度に鳥居龍蔵がおこなった金海貝塚の発掘調査に関しても,これまでは,鳥居自身によ
る簡単な言及および写真によってしか知ることができなかった(鳥居 1922
・1924
)。鳥居龍蔵記念博
物館で新たに見つかった,当時の調査に関わる図面類は,国立中央博物館が所蔵する復命書などと照
合することにより,当時の調査状況を具体的に復元することができる重要な資料である。
鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている金海貝塚関連図面は,
「貝塚及鳳凰台附近平面図」が画用紙に
描かれている他は,いずれも薄い和紙に複数の図面が一緒に描かれている。また,同じ時期に踏査を
おこなった金海地域の支石墓に関する図面も残されている。各図面の概要は以下の通りである。
1)貝塚及鳳凰台附近平面図 (縮尺1200
分の1)(図18)
画用紙(59.
0c
m×39.
6c
m)に,金海貝塚・鳳凰台とその周辺地形の平面を測量した図である。鳳凰
台は10間間隔,貝塚周辺の地形は5間間隔の等高線で表現されている。測量図はまず鉛筆で描かれ,等
高線は茶色で,それ以外の地形は黒色で仕上げられた。また,川や主要な道路は彩色されている。貝
塚の部分には,1917
年度の調査地区と,丘陵上にあった岩および板石,および貝塚縦横断面図の起点
となったポイントが記入されている。
─ 5
8
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図1
8 金海貝塚 貝塚及鳳凰台附近平面図
図1
9 金海貝塚 貝塚及鳳凰台見取略図 貝塚山上之石ノ図
─ 5
9
─
吉井 秀夫
図2
0 金海貝塚 貝塚拡大平面図
図2
1 金海貝塚 貝塚横断面図・貝塚縦断面図・縦横断面図に於ける層の模様
─ 6
0
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図2
2 金海貝塚 貝塚及鳳凰台見取略図(一部)
図2
3 金海貝塚 貝塚縦断面図(貝層)
図2
4 金海貝塚 測点・追加距離・地盤高
─ 6
1
─
吉井 秀夫
図25 金海貝塚 貝塚東側横断面図
図26 金海貝塚 貝塚東側横断面図(貝層)
図2
7 金海貝塚 掘鑿ケ所貝層ノ模様見取図・掘鑿穴縦横断面図・試掘ケ所ノ内部(穴)平面・石棺拡大図
─ 6
2
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図28 金海貝塚 掘鑿ケ所貝層ノ模様見取図
図29 金海貝塚 試掘ケ所ノ内部(穴)平面
─ 6
3
─
吉井 秀夫
図30 金海貝塚 石棺拡大図
図3
1 金海郡左部面北内洞合成学校付近所在ドルメン之図
─ 6
4
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
図3
2 金海邑内憲兵分遣所附近所在ドルメン之図・金海郡酒村面所在ドルメン之図
2)貝塚及鳳凰台見取略図・貝塚山上之石ノ図(図19)
薄い和紙(55.
0c
m×30.
0c
m)の上半に「貝塚及鳳凰台見取図」
,下半に「貝塚山上之石ノ図」が描か
れている。「貝塚及鳳凰台見取図」は,貝塚および鳳凰台を北側からみた状況が描かれる。貝塚の所在
する丘陵を表現した部分(図22)には,貝塚上にある支石墓上石や調査区の位置が示されている。ま
た,断面図を作成した部分の高さが,赤字で記入される。
「貝塚山上之石ノ図」は,金海貝塚の位置する丘陵上の2基の支石墓上石の平面および側面を描き,
石の長さと幅が赤字で記入される。
3)貝塚拡大平面図(縮尺300
分の1)(図20)
薄い和紙(55.
0c
m×39.
8c
m)に描かれ,図1の貝塚が位置する丘陵部分を拡大した図であると思われ
る。等高線は描かれず,宅地部分は斜線で表現され,斜面部分には茶色の彩色がなされる。断面図の
基準点は赤字で描かれ,調査区も赤い斜線で表現された。
4)貝塚横断面図(縮尺200
分の1)・貝塚縦断面図(縮尺高低200
分の1,距離600分の1)・縦横断面図に
於ける層の模様(図21)
薄い和紙(57.
8c
m×39.
2c
m)の左半に,上から貝塚の立地する丘陵の西側・中央・東側(図25)の
横断面図,および丘陵の縦断面図を描く。その下側には,測点(基準点1・2・3からの距離)・追加距
離(貝塚東端からの距離)・地盤高が記入されており(図24),これらの数値をもとに,断面図が作成
されたと考えられる。右半の「縦横断面図に於ける層の模様」では,上から貝塚の立地する丘陵の西
側・中央・東側(図26)の横断面図,および丘陵の縦断面図(図23)の貝層以外の部分を茶色で彩色
することで,貝層を表現している。
5)掘鑿ケ所貝層ノ模様見取図・掘鑿穴縦横断面図・試掘ケ所ノ内部(穴)平面石棺拡大図(図27)
薄い和紙(58.
0c
m×39.
0c
m)に,貝塚の調査区に関する4種の図面が描かれている。
掘鑿ケ所貝層ノ模様見取図(図28)は,調査区の貝層と,その下面でみつかった石棺の関係を示す
図である。貝層には,大まかな堆積方向が記されている。また,貝殻を示す絵や,「焼土」・「鹿角」・
─ 6
5
─
吉井 秀夫
「鉄片」・「天狗ノ鼻(把手か?)」などの記述がある。また表土および貝層下層は,茶色で彩色されて
いる。
掘鑿穴縦横断面図(縮尺100
分の1)は,調査区内部の縦横断面図である。これらの断面図によって,
鳥居が貝塚の北西隅斜面を垂直に掘削することにより,最低限の労力で貝層とその下層の様子を把握
しようとしたことがわかる。
試掘ケ所ノ内部(穴)平面(縮尺40分の1)(図29)は,調査区床面でみつかった石棺の出土状況平
面図である。地山部分は茶色で彩色されている。
石棺拡大図(縮尺20分の1)(図30)は,石棺の平面図・縦側面図・横側面図・横断面図を組み合わ
せたものである。石棺を設置する際に掘られた墓壙の存在は認識されていない。しかし,横断面図で
は,石棺の裏込めの状況が表現されている。
6)金海郡左部面北内洞合成学校付近所在ドルメン之図(図31
)
薄い和紙(56.
0c
m×39.
2c
m)に,支石墓の配置図(縮尺1200
分の1)と3基の支石墓(第一ノ石は50
分の1,第二・三ノ石は100分の1
)の平面図と側面図(2方向)を描く。合成学校は現在の合成初等学
校にあたる。学校敷地内にある支石墓(現在は存在しない)を基準として,その北西側と南西側に位
置する支石墓は,現在,首露王陵北側の公園内にある2
基の支石墓に該当すると考えられる。
7)金海邑内憲兵分遣所附近所在ドルメン之図・金海郡酒村面所在ドルメン之図(図32)
薄い和紙(56.
0c
m×39.
2c
m)の右半に,金海邑内の憲兵分遣所附近にあった3基の支石墓を描いてい
る。『金海府内地図』には,金海邑の北西側に複数の支石墓が存在したことが記録されており,現在も
西上洞支石墓として残っている(大成洞古墳博物館 2004)。鳥居が記録したのは,これらの支石墓の
うち3基であったと考えられる。
左半には,金海群酒村面にあった6基の支石墓の配置図と,各支石墓の上石の形状が描かれる。鳥居
の復命書によれば,酒村面望徳里で調査をおこなったと記録されており,その時の調査結果を記録し
た図面であると判断される。
4 慶州月城・大邱達城・金海貝塚調査関連図面の学史的意義
今回紹介した鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている慶州月城・大邱達城・金海貝塚の調査に関連す
る図面は,鳥居龍蔵の1917
年度朝鮮古蹟調査の実態と,鳥居の朝鮮先史時代に対する学説を知る上で,
重要な意味をもつと考えられる。このうち,慶州月城・大邱達城の調査とその評価に関しては,今回
翻訳・紹介した咸舜燮氏の論考(咸 2013
)で,国立中央博物館所蔵資料を元にした検討がなされて
おり,そうした成果との総合的研究が望まれる。また,同時期に鳥居龍蔵が日本や他地域でおこなっ
た調査で残された図面類との比較も進める必要があるだろう。そうした研究に備えるべく,ここでは,
これらの図面類が作成された経緯と,その学史的意義について基本的な考察をおこないたい。
(1)図面作成の経緯
まずこれらの図面が,どのように作成されたのかについて考えてみたい。このことを考える上で重
要な資料が,鳥居龍蔵が朝鮮総督府に提出した復命書に添えられた,
「大正六年度古蹟調査実測図目録
(鳥居委員提出)」である。計16枚の図面名に,目録順にアルファベットを振って列挙すると以下の通
りである。
a 慶州半月城址平面実測図
b 同 城壁下発掘個所平面図
c 同 上 断面図
d 大邱達城址平面実測図
e 同 城壁一部断面図
f 同 城壁下発掘個所断面図
─ 6
6
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
g 同 城址内発掘包含層断面図
h 達城郡花園面川内洞撑石分布図
i 同 月背面辰泉洞撑石分布図
j 晋州城址平面実測図
k 金海郡右部面会峴里鳳凰台貝塚平面実測図
l 同 貝塚発掘箇所包含層断面図
m 同 鳳凰台及貝塚断面図
n 同 貝塚下部古墳平面図
o 同 断面図
p 酒村面望徳里撑石分布図
咸舜燮氏からご教示によれば,これらの図面は国立中央博物館には現存しないという。そのため,
具体的にどのような図面であったかを知ることはできない。ただ題目から推測して,鳥居龍蔵記念博
物館所蔵図面との対応関係をみると,以下の通りである。
慶州月城
1)半月城壁下実測図 a?
2)慶尚北道慶州郡慶州面校里 半月城壁下発掘実測図 b・c
大邱達城
1)達城附近平面図・試掘箇所ニ於ケル断面図・城壁一部実測断面図 d~g
金海貝塚
1)貝塚及鳳凰台附近平面図 k
2)貝塚及び鳳凰台見取略図・貝塚山上之石ノ図 m?
3)貝塚拡大平面図
4)貝塚横断面図・貝塚縦断面図・縦横断面図に於ける層の模様 l?
5)掘鑿ケ所貝層ノ模様見取図・掘鑿穴縦横断面図・試掘ケ所ノ内部(穴)平面・石棺拡大図 n・o
6)金海郡左部面北内洞合成学校附近所在ドルメン之図
7)金海邑内憲兵分遣所附近所在ドルメン之図・金海郡酒村面所在ドルメン之図 p
こうしてみると,鳥居龍蔵記念博物館所蔵図面と,鳥居が朝鮮総督府に提出した調査実測図目録は,
ほぼ一致している。また,ほとんどの図は,薄い和紙に描かれており,原図をトレースしたものと思
われる。さらに,慶州月城の図2),大邱達城の図1),金海貝塚図5)
・7)のように,復命書では別々の
図面として目録が提出されている図面が,1枚の紙に描かれている例が確認できる。以上のような状
況証拠からみて,鳥居龍蔵記念博物館所蔵図面は,鳥居が手元に資料を残すために,朝鮮総督府に提
出した図面をトレースしたものではないかと考えられる。
(2)図面作成の方法について
次に,鳥居龍蔵による図面作成技術についてみておきたい。今回紹介した図面は,鳥居龍蔵が,遺
跡周辺の地形を測量し,調査区の平面図・層位図・断面図・遺構図などを記録・作成する必要性を知
り,実践したことを示している。しかし,実際の製作方法には,違いが認められる。
まず平面図をみると,平板測量を用いた地形図を作成したか,または既存の地形図を利用したと思
われるものがある。例えば大邱達城の平面図は,大邱府と達城郡の境界線が描かれていることなどか
らみて,既製の地形図のうち必要な部分をトレースして作成した可能性が高い。縮尺6250
分の1の本
─ 6
7
─
吉井 秀夫
地図が,25000
分の1地図を4倍,50000
分の1地図を8倍したものであることも傍証となろう。
一方,慶州月城の平面図および金海貝塚・鳳凰台の平面図は,対象地域の地形を平板測量した地形
図であると考えられる。前述のように,月城平面図の城壁部分には,城内のある地点を基準とした総
体的な高さを基準として,10尺単位で等高線が引かれている。また,鳳凰台・金海貝塚の平面図は,
鳳凰台側は10尺,金海貝塚周辺は5尺単位で等高線で引かれている。つまり,朝鮮総督府により作成さ
れていた地形図のm単位の等高線とは,基本単位が異なるのである。
達城および金海貝塚における断面図作成においても,間・尺単位で現地での測量がおこなわれてい
たことが,断面図作成のために記録された基点からの距離や地盤高の記録によってわかる。地点間の
距離の測定や,比高の測定をどのようにおこなったのかは不明である。しかし,調査対象の遺跡を記
録するために尺貫法を用いて測量をおこなう技術をもった人が,図面作成に参加したことは確かであ
る。
これに対して,月城の調査区周辺の平面図,金海貝塚調査区内でみつかった石棺墓の平面図・側面
図,調査区内の土層図の表現は,模式図に近いものである。また,貝塚及鳳凰台見取略図や,支石墓
上石の実測図は,真上・真横から対象物を投影した図であるものの,絵図に起源をもつ描写に通ずる
伝統的な表現方法を用いている。
以上のように,慶州月城・大邱達城・金海貝塚の調査成果を図面として記録する方法としては,近
代的な測量技術を駆使したものと,従来の手法を用いた略図に近いものが存在する。後者は,恐らく
鳥居が自ら記録したものであると考えられる。それに対して,前者の記録を誰がおこなったかが問題
となる。鳥居自身が測量しなかったとすれば,次の候補は調査に同行した澤俊一となろう。しかし,
彼は写真技師であり,その履歴からみて彼が測量技術も身につけていた可能性は低い。となると,発
掘調査時のみ,総督府博物館や他部局の測量技師が参加した可能性を考えなければならない。具体的
に誰が測量を担当したのかについては,今後,さらに検討していきたい。
(3)鳥居龍蔵による調査の学史的意義の再検討
最後に指摘したいのは,今回紹介した図面によって,これまで不明であった鳥居龍蔵による1917
年
度調査の全容が明らかになった点である。鳥居は,濱田耕作と梅原末治が調査した1920年の発掘調査
報告書に対する書評の中で,金海貝塚は,濱田らが考えた金石併用期の遺跡ではなく,三国時代より
さかのぼり,
「石器時代(有史以前)
」より新しい「金属器時代」の遺跡であると主張した(鳥居 1924
)。しかし,そうした主張の根拠は,鳥居による1917
年度調査についての簡単な説明と,調査区の
貝層および石棺の写真から推測するしかなかった。今回見つかった図面により,鳥居が発掘した調査
区の具体的な状況を正しく知ることができるようになった。つまり鳥居は,この調査により,貝層を
中心として,その上層と下層に別の文化層を確認したことが明らかになったのである。特に,貝層下
層で発見された石棺墓が,石器時代のものであると判断したことは重要である。1920年調査区が再調
査された時に同様の時期の土壙墓が発見されたこと(釜山大学校人文大学考古学科 2002
)は,金海
貝塚の層位に対する鳥居の理解が,基本的に妥当であったことを証明している。結果論ではあるが,
金海貝塚に対する鳥居の理解は,現在の韓国考古学における時代区分に類似したものであったといえ
る。こうした鳥居の解釈については,今後,より積極的に再評価する必要があるだろう。また,月城
や達城での調査成果については,有光教一による遺物の報告(有光 1959)や,咸舜燮氏による国立
中央博物館所蔵資料による調査の分析(咸 2013)と総合することによって,その調査の全容が明ら
かにすることが可能であることを指摘しておきたい。
─ 6
8
─
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について
おわりに
以上,鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている,鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道での調査に関連
する資料を紹介し,その学史的意味を検討した。その結果をまとめることで,本稿をしめくくること
としたい。まず各種の地図類は,鳥居龍蔵の調査ルートを復元する上で,重要な資料であることを明
らかにした。また,これらの地図自体が,1910年代前半において,日本人がどのような地図を作成・
利用していたかを考える上での貴重な資料であると評価されよう。
次に,慶州達城・大邱月城・金海貝塚の発掘調査に関する図面は,これまでその実態が不明であっ
た1917
年度発掘調査の成果を復元する上で,大きな意味をもつことを明らかにした。そして,図面の
分析を通して,鳥居龍蔵による朝鮮先史時代についての理解を,再評価できる可能性があることを知
ることができた点は重要である。さらに,これらの図面は,当時の日本人研究者の図面作成技術の実
態を明らかにするための資料として活用することもできることを指摘することができた。
今回の調査にあたり,鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道の調査に関係する写真類も,鳥居龍蔵記
念博物館に存在することをご教示いただいた。ただ,これらの写真を整理するためには,国立中央博
物館に所蔵されているガラス原板,およびそれに関する記述との比較対象が必要であろう。また,他
にも関連資料が残されていないのかが気になるところである。そうした資料の探索をはじめとして,
今後とも,鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている,鳥居龍蔵の朝鮮古蹟調査関連資料の検討・公開作
業が進められることを期待しつつ,本稿を終えることとしたい。
註
(1
)植民地時代の朝鮮古蹟調査事業に関連する書類
については,従来その目録だけが公開されていた。
しかし,最近,国立中央博物館で,ホームページ
上で原文の公開をはじめており,容易にその内容
を閲覧・検討することが可能となった。本資料の
存在と学史的意味については,咸舜燮氏からご教
示を得た。
参考文献
(韓国語)
姜仁求 1987
『韓国の前方後円墳 舞妓山と長鼓山測量調査報告書』韓国精神文化研究院
国立慶州文化財研究所編 2010
『慶州月城 基礎学術調査報告書』
国立大邱博物館 2014
『大邱達城遺跡Ⅰ-達城調査報告書』
国立中央博物館 1997
『ガラス乾板目録集Ⅰ-小判1909
年~1930
年-』
国立中央博物館 2009
『韓国博物館100
年史』資料編
大邱文化芸術会館 2007
『達城 忘れられた遺跡の再発見』
大成洞古墳博物館 2004
『加耶誕生の序幕 金海の支石墓』
吉井秀夫 2014
「日本所在金海貝塚関連資料について」『金海会峴里貝塚』
咸舜燮 2013
「日帝強占期鳥居龍蔵の慶州月城及び大邱達城調査について」『日帝強占期嶺南地域で
の古蹟調査』,学研文化社
(日本語)
有光教一 1959
「慶州月城・大邱達城の城壁下の遺跡について」『朝鮮学報』第14輯,pp.
489502
石尾和仁 2010
「鳥居龍蔵の朝鮮半島調査実施時期をめぐって」『考古学研究』第57巻第3号
柏書房 1985
『朝鮮総督府作成 1万分の1朝鮮地形図集成』
朝鮮総督府 1916
『朝鮮古蹟図譜』三
朝鮮総督府 1920
「大正六年度古蹟調査事務概要」『大正六年度古蹟調査報告』
─ 6
9
─
吉井 秀夫
鳥居龍蔵 1924
「濱田・梅原両氏著『金海貝塚報告』を読む」『人類學雜誌』391
鳥居龍蔵 1925
『有史以前の日本』
鳥居龍蔵 1953
『ある老学徒の手記』
吉井秀夫 2008
「澤俊一とその業績について」
『高麗美術館研究紀要』第6
号,pp.
7789
,高麗美術館
研究所
─ 7
0
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告
Bull.TokushimaPref.ToriiRyuzoMemorialMus.
No.2:7185,Ma
r
c
h2015
【論 説】
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査
―製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果―
魚島 純一・長谷川 愛
1 はじめに
鳥居龍蔵(18701953
)は,徳島県出身の人類学・民族学・考古学者で,広くアジア各地を踏破し,
多くの研究成果を残した人物として知られている。中でも,彼がライフワークとして取り組んだ中国
王朝の一つである「遼」に関する研究はきわめて大きなものである。そのような鳥居龍蔵の業績を顕
彰するために,1965
年,徳島県立鳥居記念博物館(徳島県鳴門市)が開館し,その後,2010
年に徳島
県立鳥居龍蔵記念博物館(徳島県徳島市)として新たなスタートを切って現在に至っている。
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館には,彼が採集した多くの資料が収蔵されており,その一部は,常設
展示や企画展示などを通して一般にも目にすることができる。しかしながら,莫大な資料の大半は現
在も資料整理の作業が進められており,全容が明らかになるまでにはまだまだ多くの時間が必要であ
るという。
奈良大学保存科学研究室は,徳島県立鳥居龍蔵記念博物館が進める資料整理の中で見つかったガラ
ス小玉の資料的な価値を判断する材料の一つとするために保存科学的調査を依頼され,非破壊的手法
による材質分析や詳細な観察による製作技法の検討をおこなった。この調査は,X線透過撮影を長谷
川が,蛍光X線分析については魚島と長谷川が,その他については魚島が担当し,全体を魚島が総括
してまとめた。
本稿では,蛍光X線分析による材質分析の結果をまとめるとともに,材質分析に先立っておこなっ
た計測と詳細な観察結果から,ガラス小玉の製作技法についても考察する。
2 調査対象資料
今回調査した資料は,鳥
居龍蔵が採集したと考えら
れるガラス小玉122
点であ
る。一部を図1に示す。
ガラス小玉は,徳島県立
鳥居龍蔵記念博物館が資料
整理を進める中で,中国・
遼代の墳墓(現在の中国・
内モンゴル自治区のワール
マンハ周辺)出土とみられ
る資料と共に保管されてい
るところを一括で見つけら
図1 今回調査したガラス小玉の一部
れたもので,ガラス小玉そのものには資料の情報を示すラベルや注記はなく,詳細な属性は不明であ
るが,保管状況から考えると周囲の他の資料と同様の墳墓出土と考えるのが妥当ではないかと考えら
れるものである。調査記録から,鳥居龍蔵がこの地域の墳墓を調査したのは1930
年または1933
年であ
ると考えられる。
調査の目的は,ガラス小玉に関する情報を引き出し,その属性を明らかにすることである。また,
─ 7
1
─
魚島 純一・長谷川 愛
その結果から,共に保管されていた他の資料と同様に遼代墳墓出土と考えて矛盾がないかを確認する
ことも大きな目的の一つである。
3 調査方法
ガラス小玉の属性に関する情報を
引き出すため,詳細な観察と写真撮
影,法量と重量の計測の後に,組成
を知るために非破壊的手法での材質
分析とX線透過撮影をおこなった。
法量のうち外径と高さについては
ノギスを使用して計測した。ノギス
の最小読み取り値は0.
01
mmである。
内径はノギスの他に内径を測定する
専用器具であるテーパーゲージ(図
2)で測定した。テーパーゲージは,
厚さ1.
2mm,最小読み取り値0.
1mm
図2 内径の計測に使用したテーパーゲージ
で,読み取った値を補正計算式(内径= (読み値2+1.22))にあてはめて内径を求めた。ただし孔に
木質様の有機物または土壌と思われるものが詰まっているものについてはその保護のためノギスを用
いて計測したため,十分な計測ができなかったものもある。
重量については電子天秤(最小秤量0.
01g
)を使用して計測した。
色調の分類については肉眼により行った。
材質分析は,奈良大学に設置されたエネルギー分散型蛍光X線分析装置EDAX製Ea
gl
eXXL(図3)
を使用しておこなった。蛍光X線分析は,色調での分類に加え,法量などから12のグループに分類し
(表1〜3の①〜⑫),できる限り表面状態の良いものを中心に各グループ原則3点ずつ(3点以下のもの
は全数)を選び出しおこなった。蛍光X線分析を行ったガラス小玉は表1〜3に●を付した28点(図1)で
ある。
蛍光X線分析の条件は次のとおりである。
X 線 管 : Cr
(クロム)
管 電 流 : 600
μA・500
μA
X線照射径 : 100μm
測 定 時 間 : 300
秒・200秒
管 電 圧 : 30kV・40kV
測定雰囲気 : 真 空
X線透過撮影は,奈良大学に設置されたX線発生装置リガク製RADI
OFLEX100GSBを使用してお
こなった。
X線透過撮影の条件は次のとおりである。
電 圧 : 60kV
電 流 : 5mA
照 射 時 間 : 1分
フ ィ ル ム : フジフイルムI
X80
現 像 液 : ハイレンドールI
(5分)
定 着 液 : ハイレンフィックスI
(5分)
4 調査結果
以下,ぞれぞれの調査の結果について詳細を記述する。
【法量・重量および色調】
法量・重量および色調調査の結果を表1〜3に示す。
8%)を占める。重量も0.
1
1
〜0.
16g
の範囲に収ま
外径は4.
7〜5.
5mmの範囲に収まるものが107
点(約8
─ 7
2
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
るものが107
点(約88%)を占め,122
点の総重量でも18gに留まる。
外観から確認できることで特筆すべきことは色調の偏重である。黄色が42点(34%),紫色が28点
(23%),白色が27点(22%),緑色が13点(1
1%)と,この4
色で全体の90%を占めている。他に透明
(濁った透明を含む)7点,青色が2点と少数存在し,黒色,水色,黄緑色は1点ずつである。
孔の内径には多少のばらつきが存在するものの,2.
2〜1.
6mmの範囲に収まるものが1
1
1
点(約91%)
を占め,極めて均一であると言える。一方の孔の内径が他方に比べ小さくなる傾向(孔の勾配)は105
点(約86%)に見られた。
詳細な観察の結果,胴部分に特異な段差(凸部)が存在するものが1
10
点(90%)認められた。その
一例を図3に,模式図を図4に示す。
図3 胴部に見られる段差(拡大)(黄No.
20)
図4 胴部に見られる段差の模式図
【X線透過撮影・蛍光X線分析】
X線透過撮影の結果,他と比較してX線を透過しにくく,その結果白っぽく映るガラス小玉が2点
(No.
109
・1
10)存在することを確認した(図5
)。これらは蛍光X線分析の結果から,鉛を含むガラス
であることが確認された。
蛍光X線分析の結果の一部を図6〜16に示す。
鉛を含むガラス小玉からはBa
(バリウム)を検出することはできなかった。
また,同一の色調のガラス小玉の組成は,きわめて似通っている。
1点だけ組成が他のガラス小玉と大きく異り,微量のU(ウラン)を含むものが確認された。これに
ついては別に詳細に検討することとする。
図5 X線透過写真
─ 7
3
─
魚島 純一・長谷川 愛
図6 蛍光X線分析の結果(黄(No.
21))
図7 蛍光X線分析の結果(紫(No.
54))
─ 7
4
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
図8 蛍光X線分析の結果(白(No.
78))
図9 蛍光X線分析の結果(緑(No.
100))
─ 7
5
─
魚島 純一・長谷川 愛
図1
0 蛍光X線分析の結果(黒(No.
104))
図1
1 蛍光X線分析の結果(水色(No.
105))
─ 7
6
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
図1
2 蛍光X線分析の結果(青(No.
107))
図1
3 蛍光X線分析の結果(白(小)(No.
109)
)
─ 7
7
─
魚島 純一・長谷川 愛
図1
4 蛍光X線分析の結果(白(大)(No.
112)
)
図1
5 蛍光X線分析の結果(透明(No.
116))
─ 7
8
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
図1
6 蛍光X線分析の結果(白(濁)(No.
119)
)
5 考察
外径や重量からわかるように,全体には極めて小型のものであり,
「ガラス小玉」と称するのが妥当
である。
9種類の色調のものが存在するが,その比率には大きな偏りがある。数が少ないものが特別に大き
いわけでもなく,全体としてどのような構成であったのかは不明である。
製作技法
次に製作技法について考察したい。ガラス玉の製作技法には管切技法,巻き技法,溶融技法がある
と考えられる[福島2006
]。では今回調査したガラス小玉はどのような技法で作られたのであろうか。
①孔の勾配
孔の内径の計測から,一方の穴の内径が他方に比べ小さくなる孔の勾配が確認された。これは軸と
なるものの径が均一ではないために発生したと考えられる。
現代のわが国で見られるガラス玉製作においては,均一な径の鉄棒(外径約3
mm程度,鉄芯とも呼
ばれる)にバーナーの火で柔らかくしたガラスを巻き取るのが一般的である。その際,鉄棒には離型
のために水に溶いた土粉を予め付着させ,軽く火で炙って乾燥させた後に使用している。このような
技法を用いてガラス玉を製作した場合,孔の傾斜はほとんど起こらず,不慣れな製作者が鉄棒に土粉
を均一に付着させられないことから起こる孔の変形程度に留まることが圧倒的である。
ガラス小玉の高さの約5mm程度の間に内径が目に見えて変わっているということは,明らかに径が
不均一な,かなりの勾配を持つもので巻き取ったと考えることができる。参考までに勾配の表示に用
いられる垂直距離を水平距離で除する式によって求められる勾配率で表すと,表1〜3に示す結果が得
られた。多くは勾配率1〜2%(82点)であるが,6%のものが1点,5%のものも3点,4%は3点見られ,
3%に至っては16
点も存在する。すなわち,勾配率が1〜6%のものが105
点(約86
%)も存在する。逆
─ 7
9
─
魚島 純一・長谷川 愛
に勾配が認められないもの(勾配率0%)はわずか17点(約14%)のみである。このような勾配率を発
生させる巻取り棒がどのようなものであるのかは,今回の調査のみでは断定できない。類例の調査な
どを待ちたい。
②胴部の段差(凸部)
製作技法に関するもう一つの考察は,胴部分に見られる特異な段差(凸部)の発生理由である。全
体の90
%に認められるが,紫色は92
%,白(小)・白(大)・白(濁)を除く白色では95%,黄色およ
び緑色では100
%のものに段差が認められる。段差が存在するガラス小玉のほぼすべてがその全周に
存在することから,巻取り時についた痕跡だと考えるのが妥当である。この段差の存在がこれらのガ
ラス小玉が巻き技法で作られたものであると判断する材料ともなった。ただし段差の幅は一定ではな
い。
では,いかにすればこのような段差がついたガラス小玉ができるのであろうか。
一つの仮説として考えられるのは,巻き取ったガラスを整形するために,平らな板状のものの上で
転がすという現代ガラス玉製作においても用いられる技法である。ただし,現代ガラス玉の製作にお
いては,整形のために平らな鉄板の上を転がした後に再びバーナーで炙り加熱するため,段差が発生
したとしてもガラスの表面張力によって丸みを帯びた整った形へと変わっていく。
このような段差が痕跡として残るということは,比較的低温で巻き取ったガラスを,平らな板状の
ものの上を転がすことで半強制的に形を整え,そのまま完成品としたことが考えられる。
このことから,黄色,緑色,紫色と一部の白色のガラス小玉が色調の上で極めて均一で,外径も揃っ
ているのは,極めて少ない人数あるいは単独の工人が,短時間のうちに一気に製作したためではない
かと考えることができる。
そう考えた場合,今回の調査対象のガラス小玉は,少なくとも黄色,緑色,紫色と一部の白色に限っ
て言えば,一括に製作された可能性が極めて高く,一つの目的のために作られたものであることは十
分に考えられる。このことは,墳墓への副葬を目的として一括で製作されたものと考えることと決し
て矛盾しない。
以上のことから,今回調査対象としたガラス小玉は,巻き技法で製作されたものであると判断する。
材質分析
X線透過撮影と蛍光X線分析により鉛を含むことがわかった2点(No.
109
・1
10
)からはBa
(バリウ
ム)を検出することはできなかった。融剤に鉛を使用した鉛珪酸塩ガラスには,鉛ガラスと鉛バリウ
ムガラスが存在する。バリウムが検出されなかったことから,これらの2点のガラスは鉛ガラスであ
ると考えられる。この2点は形状もややいびつであり,他とは異質であることは肉眼でも識別可能で
ある。
また,上述した鉛を含む2
点を除くすべてのガラス小玉の分析結果かからも,K(カリウム)が多く
含まれていることがわかる。色調に関係なくカリウムが検出されていることから,ガラスの基材に含
まれるものであることがわかる。
基材にカリウムを含むガラスにはアルカリ珪酸塩ガラスの中のカリガラスまたはソーダ石灰ガラス
の植物灰を使ったものの存在が知られる。中国では鉛を含むいわゆる鉛ガラスが広く流通していたこ
とが知られるが,今回調査したガラス小玉にはわずか2点しか含まれていない。一方,中国ではあまり
見られないカリウムを含むガラスがその大半を占めることから,中国の影響をあまり受けず,カリウ
ムを含むガラスが広く流通した地域,すなわち西方などの影響を受けた地域での製作を考えてもよい
のではないだろうか。
色調からみるとインド地方に見られるガラス小玉(ビーズ)との共通点も指摘しておきたい。
ウランを含むガラス
蛍光X線分析の結果,他とは色調が異なる淡い黄緑色の1点(No.106
)から微量のU(ウラン)を検
出した(図17)。紫外線を照射すると蛍光を発する(図18)ことから,ウランを含むことは間違いない。
一般にウランを含むガラスはウランガラスと呼ばれている。ウランガラスはウランが発見された後,
─ 8
0
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
図1
7 蛍光X線分析の結果(淡黄緑(No.
106)
,部分拡大)
19世紀半ばにボヘミア地方(現在のチェコ周辺)で作られる
ようになったとされている。
ではウランガラスが発明されるはるか以前に副葬されたと
考えられるガラス小玉の中になぜウランを含むものが存在す
るのか。
ウランガラスと呼ばれるガラスは,意図的にウランを混入
させ,紫外線を照射した際の蛍光を楽しむためにつくられた。
一方,紀元80年ごろのローマ時代のナポリから出土したモザ
イクガラスにもウランを含むものが存在するなど,ウランガ
ラス発明以前にも“ウランを含むガラス”が存在したことは
知られている〔苫米地1995〕。これらは,意図的にウランを混
図18 紫外線照射で蛍光を発する
淡黄緑(No.
106)のガラス小玉
入したのではなく,偶然の産物であろうと考えられている。今回のガラス小玉も,意図的にウランを
混入したウランガラスではなく,原料または着色剤や消色剤に使われたものに偶然混ざっていたもの
であると考えるのが妥当である。しかし,このことからも,積極的ではないが西方の影響を受けてい
ることが考えられることも指摘しておきたい。
6 まとめ
鳥居龍蔵が採集した中国・遼代の墳墓出土と考えられる資料と共に保管されていたガラス小玉の調
査のうち,詳細な肉眼観察や法量の計測から,その製作技法の一端をうかがい知ることができた。
残念ながら,中国・遼代のガラス資料の保存科学的調査はそれほど進んでおらず,今回の調査のみ
でわかることは少ないと言わざるを得ない。しかしながら,今後類例の調査が進めば,今回調査した
資料が中国・遼代のガラス小玉と考えて良いかどうかを含めてその位置づけがより明らかとなること
だろう。
─ 8
1
─
魚島 純一・長谷川 愛
博物館資料や考古資料にとって,その出自を記録した情報,いわゆるラベル等の存在しないものは
資料的価値が極端にさがることは言うまでもない。しかしながら,保管されていた状況や詳細な観察
から得られた情報をもとに資料の位置づけに客観的な妥当性を持たせることは十分に可能であると考
える。
正確な情報を持たないために眠ってしまっている多くの貴重な資料に新たな光をあてるためにも,
このような資料調査や保存科学的調査が進むことを期待する。
付記
今回の調査の機会を与えていただき,貴重な資料を長期間にわたって貸し出していただいた徳島県
立鳥居龍蔵記念博物館の高島芳弘館長と長谷川賢二学芸課長に心より感謝申し上げる。
引用文献
苫米地顕 1995
『ウランガラス』岩波出版サービスセンター
福島雅儀 2006
「古墳時代ガラス玉の製作技法とその痕跡」『考古学と自然科学』第54号 pp.
5367
─ 8
2
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
表1 ガラス小玉の計測・観察結果
─ 8
3
─
魚島 純一・長谷川 愛
─ 8
4
─
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査 ― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ―
─ 8
5
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告
Bull.TokushimaPref.ToriiRyuzoMemorialMus.
No.2:871
15,Ma
r
c
h2015
【資料紹介】
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
下田 順一・大原 賢二
はじめに
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館(以下「当館」)は,考古資料や,書籍類,スケッチ,写真,拓本等,
多岐にわたる多様な資料を収蔵している。これらの大半は鳥居龍蔵自身や妻子にかかわるもので,当
館の学芸業務における最大の柱として,整理及び調査を継続している。その成果を企画展・特別陳列,
常設展内のトピックコーナー,『研究報告』第1号などにおいて公表し,館蔵資料ができるだけ広く活
用されるよう取り組んできた。
ここでは,そうした整理業務の中で見いだされた資料として,鳥居龍蔵による鹿児島調査に関係す
るスケッチのうちの一部を紹介したい。すでに企画展「鳥居龍蔵の国内調査―沖縄・南九州―」
(会
期:2014
年1月25日~3
月2日)で展示したことがあるが(徳島県立鳥居龍蔵記念博物館編 2014
),写
真を掲載することで,今後の利用の便を図りたいと考えるものである。
1 鳥居龍蔵の鹿児島調査
鳥居龍蔵は,2度にわたって鹿児島で本格的な調査を行った。第1回は,1929
(昭和4
)年6月24日か
ら27日までの間,巨石遺跡や山陵などの調査を行ったものである。同年5月4日から7月8日まで,妻の
きみ子と共に行った大分県や宮崎県での調査の一環であった(鳥居 1929
)。
第2回は,鹿児島県からの依頼により,1930
年3月3日から21日まで行った調査で,各地を訪ねた本格
的なものであった。同行した娘の幸子が,主として遺跡や遺物等のスケッチを行った。また,鹿児島
県側からは,竹下教育主事が全日程随行したほか,山崎五十麿(県史跡専門委員)が案内を兼ねて日
程の前半を中心に随行して協力した。さらに,地元の新聞報道から,学校や研究者等が,資料の提供
や採拓等への協力をしたことが分かる。
第2回調査の行程や成果については,鳥居龍蔵・幸子の報告,同行取材した鹿児島新聞などの記事か
ら明らかにされている(鳥居 1930
,池畑 2014
)。概要は次のようなものである。3月1日,東京を出
発。3月3日に鹿児島市に到着。3
月4日,県立図書館で,調査日程の打ち合わせ。21日まで鹿児島県内
での調査。また,鹿児島県内各地での調査期間中,講演会も精力的に行った。鳥居の鹿児島での調査
対象は,縄文時代,弥生時代,古墳時代と歴史時代の遺跡と遺物,さらに巨石遺跡(ストーンサーク
ルやメンヒル,ドルメン等)であった。特に鳥居は,自らの日本人起源研究に基づき,縄文時代の遺
跡・遺物をアイヌのものとし,弥生時代の遺跡・遺物と巨石遺跡を固有日本人のものとした上で調査・
研究を進め,自説の補強に用いた(徳島県立鳥居龍蔵記念博物館編 2014
)。
2 当館所蔵の鹿児島調査関係資料とスケッチの概要
当館が所蔵する鹿児島調査関係資料は,館蔵資料整理の過程で多数確認されており,スケッチ,土
器等の拓本,写真,地形図,講演会に使用した略地図,書籍等がある。これらの整理作業を進める過
程で,日付や場所などが記載された資料が多数あったことから,筆者らのうち大原が,鹿児島県の地
元新聞記事や,現地の現況写真を撮影し,これらをもとにして詳細に検討していくことにより,鳥居
の調査行程等が明確になってきた(図1)。また,考古資料に関しては,地元の研究者である池畑耕一
─ 8
7
─
下田 順一・大原 賢二
氏(鹿児島考古学会副会長)の協力を得て整理・検討を進めることができた。同氏の御厚意に深く感
謝するものである。
以上のような資料のうち,スケッチは,先述のように鳥居幸子によるもので,帳面1冊と3つの束と
なっている。調査を行った場所や描写された資料の所蔵場所はもとより,日付・時間等のメモが記載
されているものが少なくない。また,使用されている筆記用具は基本的に鉛筆であるが,ペン入れが
されたものもあり,これらは鳥居が調査成果をまとめる際の図版版下として使用するために作成され
たとみられる。さらには,唐仁大塚古墳の竪穴石室内の平面図のように,現在では確認ができない遺
跡に関する貴重な資料も含まれている。
以下においては,帳面1冊に収められたスケッチを図版として紹介する。内容等については一覧表
として末尾に掲載した(表2)。多数あるスケッチの中でこれを選んだのは,帳面というまとまった形
であること,鹿児島市に到着後の調査に関係するもので,第2
回調査の最初期の記録であることによる。
残る3束の紹介は,他日を期したい。
表1 鳥居龍蔵の鹿児島県調査年表
年
月
日
1
9
2
9
6
25 <湧 水 町> 粟野嶽などの巨石遺跡
26
鹿児島県内の主な調査地・調査内容
<鹿 屋 市> 姶良山陵
<薩摩川内市> 新田神社,可愛山陵
27 <霧 島 市> 隼人塚,高屋山陵
1
9
3
0
3
4 <鹿 児 島 市> 唐湊二本松の遺跡,磯庭園(反射炉跡・尚古集成館)
5
<姶 良 市> 帖佐の天福寺旧跡,加治木の柁城校所蔵の遺物
<霧 島 市> 隼人塚,大隅国分寺,鹿児島神宮,
<湧 水 町> 稲葉崎の五輪塔,板碑
<伊 佐 市> 菱刈小学校付近から採集された遺物など,菱刈小学校の地下式古墳,大口
6
小学校付近から採集された遺物など,諏訪野の地下式古墳2基,諏訪神社の
仏像
7
<霧 島 市> 高屋山陵
<曽 於 市> 住吉神社裏の住吉山のメンヒル
8 <曽 於 市> 住吉神社の古墳を発掘調査(3箇所のうち2箇所は何もなし)
9
<曽 於 市> 檍神社所蔵の遺物
<志 布 志 市> 松尾城跡,山宮神社の鏡など,志布志中学校付近から採集された遺物など
<志 布 志 市> 志布志小学校の遺跡
10 <大 崎 町> 大崎小学校で保管されていた遺物など,都萬神社の鏡,横瀬古墳
<東 串 良 町> 唐仁古墳群
1
1
<鹿 屋 市> 吾平小学校の地下式横穴墓,吾平山陵
<肝 付 町> 塚崎古墳群
12 <垂 水 市> 柊原貝塚,福山中学校付近から採集された遺物など
13
<指 宿 市> 橋牟礼川遺跡,枚聞神社,下仙田遺跡,徳光神社,玉の井,開聞小学校付
近から採集された遺物など
14
<南さつま市> 一条院跡,坊津小学校所蔵の遺物,広泉寺の仏像,大浦小学校付近から採
集された遺物など,竹屋神社の巨石遺跡
<南さつま市> 黒江家所蔵の遺物,大山津見神社の巨石遺跡,貝殻崎
15 <いちき串木野市> 第二師範学校の市来貝塚資料
<薩摩川内市> 新田神社,中陵の古墳,端陵の古墳
16 <薩摩川内市> 若宮遺跡,薩摩国分寺跡,安養寺麓の古墳
17 <出 水 市> 出水貝塚,出水中学校付近から採集された遺物など
18 <鹿 児 島 市> 鹿児島県立図書館で講演
19
<南 九 州 市> 豊玉姫神社
<南さつま市> 竹屋神社所蔵の遺物と,ドルメンとストーンサークル
20 <霧 島 市> 京塚の巨石遺跡,林家所蔵の遺物
21 <鹿 児 島 市> 鹿児島県立図書館所蔵の遺物
※年表内の調査地は,現在の市町村名である。
─ 8
8
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図1 鳥居龍蔵の1930年の鹿児島県内調査地図
1
,28
,30
鹿児島市〔鹿児島市〕 2帖佐町〔姶良市〕
3,4隼人町と国分町〔霧島市〕
5大口町〔伊佐市〕
6
菱刈町〔伊佐市〕 7栗野町〔湧水町〕 8溝辺村〔霧島市〕
9末吉町〔曽於市〕
1
0
志布志町〔志布志市〕
1
1
大崎村〔大崎町〕 12
東串良村〔東串良町〕 1
3
高山村〔肝付町〕
1
4
姶良村〔鹿屋市〕
1
5
鹿屋町〔鹿屋市〕
16
垂水町〔垂水市〕 17
福山町〔霧島市〕 18
指宿村〔指宿市〕
1
9
頴娃村〔指宿市〕
2
0
枕崎町〔枕崎市〕
21
西南方村坊津〔南さつま市〕 22
笠沙村大浦〔南さつま市〕
2
3
万世町〔南さつま市〕
2
4
阿多村〔南さつま市〕
25
西市来村〔いちき串木野市〕 26
川内町〔薩摩川内市〕
2
7
出水町〔出水市〕
2
9笠沙村〔南さつま市〕
〔〕内は現在の市町村名を記載した。
)
(地図中の番号は,調査の順番を示す。地図下には,調査当時の市町村名を,
参考文献
池畑耕一 2014
「鹿児島県考古界の先人たち(8)」 『鹿児島考古』第44号
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館編 2014
『鳥居龍蔵の国内調査-沖縄・南九州-』徳島県立鳥居龍蔵記
念博物館
鳥居龍蔵 1929
「南九州通信」 『武蔵野』第14
巻第1号
鳥居龍蔵 1930
「薩隅肥通信」 『武蔵野』第15
巻第4号
─ 8
9
─
下田 順一・大原 賢二
図1 スケッチブックの表紙
図2 歓喜天蔵像
─ 9
0
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図3 磨製石斧
図4 縄文土器,打製石斧(?)
─ 9
1
─
下田 順一・大原 賢二
図5 磨製石斧(丸ノミ?)
図6 磨製石斧
─ 9
2
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図7 免田式土器(壺)俯瞰図
図8 免田式土器(壺)
─ 9
3
─
下田 順一・大原 賢二
図9 鈴
図1
0 尖先土器
─ 9
4
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図1
1 磨製石斧
図1
2 須恵器(壺)
─ 9
5
─
下田 順一・大原 賢二
図1
3 大隅国分寺跡の石造層塔
図1
4 隼人塚
─ 9
6
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図1
5 隼人塚の増長天
図1
6 隼人塚の持国天の頭の兜と背面
─ 9
7
─
下田 順一・大原 賢二
図1
7 隼人塚の持国天の足元と邪鬼の彫刻部
図18 (上)土器片 (下)磨製石斧
─ 9
8
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図1
9 磁器(壺)
図2
0 磨製石斧
─ 9
9
─
下田 順一・大原 賢二
図21 城
図2
2 唐湊丘上より
─ 1
0
0
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図23 (上)隼人町を望む (下)加治木へ向かう
図2
4 風景か
─ 1
0
1
─
下田 順一・大原 賢二
図2
5 風景
図2
6 風景
─ 1
0
2
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図2
7 風景
図2
8 風景
─ 1
0
3
─
下田 順一・大原 賢二
図29 (右)板碑 (左)五輪塔
図3
0 五輪塔と板碑群
─ 1
0
4
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図3
1 五輪塔と板碑群
図3
2 田の神
─ 1
0
5
─
下田 順一・大原 賢二
図33 (上)縄文土器片 (下)土師器
図3
4 土師器甕(?)
─ 1
0
6
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図3
5 風景
図3
6 須恵器(壺)
─ 1
0
7
─
下田 順一・大原 賢二
図3
7 磨製石斧
図38 (左上)打製石斧 (他)磨製石斧
─ 1
0
8
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図39 (上)諏訪野地下式古墳 (下)礎石(?)
図4
0 諏訪野地下式古墳
─ 1
0
9
─
下田 順一・大原 賢二
図4
1 磨製石斧
図4
2 磨製石斧
─ 1
1
0
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図43 (左)磨製石斧(右)環状石斧
図4
4 磨製石斧
─ 1
1
1
─
下田 順一・大原 賢二
図45 (左)打製石斧(右)磨製石斧
図4
6 磨製石斧
─ 1
1
2
─
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図4
7 磨製石斧
─ 1
1
3
─
下田 順一・大原 賢二
表2 図版詳細
図版番号 月 日
1
名 称
書 き 込 み
備 考
現在の市町村名
スケッチ帳の表紙
2
3 5 歓喜天像
五日,小学校にて
柁城校(加治木)か
姶良市
3
3 5 磨製石斧
五日,小学校にて
柁城校(加治木)か
姶良市
国分八幡上,八幡上
八幡上,土器破片
4
縄文土器片,打製石斧(?)
5
磨製石斧(丸ノミ?)
6
磨製石斧
7
免田式土器(壺)俯瞰図
6の土器を上からスケッチしたもの
8
免田式土器(壺)
土器の横からのスケッチと,
断面のスケッチ
9
3 5 鈴
国分寺,五日,午後二時
大隅国分寺か
霧島市国分中央
10
3 5 尖先土器
五日,午後二時
11
磨製石斧
国分寺
霧島市国分中央
12
須恵器(壺)
国分寺 底,直径四分,口直径三寸一分
高サ七寸三分
鹿児島神宮ノ側
三光院ノウラテヨリ出ル
霧島市国分中央
13
大隅国分寺跡の石造層塔
国分寺 康治元年 壬戌 十一月六日
大隅国分寺
霧島市国分中央
14
3 5 隼人塚
ハヤト塚(五日)
隼人塚
霧島市隼人町内山田
15
3 5 隼人塚の増長天
五日 ハヤト塚にて
隼人塚
霧島市隼人町内山田
16
3 5
隼人塚の持国天の頭の兜と背
面
五日 ハヤト塚にて
隼人塚
霧島市隼人町内山田
17
3 5
隼人塚の持国天の足元と邪鬼
の彫刻部
五日 ハヤト塚にて
隼人塚
霧島市隼人町内山田
18
3 5
鹿児島神宮
霧島市隼人町宮内
カゴ島神宮にて 高尺1.
66 胴直径
1.
11 口 径0.
85 胴 マ ワ リ3.
73 底
鹿児島神宮
部 径0.
65 首 ノ マ ワ リ1.
08 底 マ ワ
リ 1.
77 口ノアツサ0.
06
霧島市隼人町宮内
19
(上)土器片
(下)磨製石斧
磁器(壺)
五日 鹿児島神宮にて
(ウスミカン色)(ダセイ,黒色)
両方とも 神社境内ヨリ出ル
五日,日當山,大正館にて 姶良郡隼
人町 薗田新太郎氏よりいただく (黒色磨製) 姶良郡ハヤト町大字日當
山より出る
20
3 5 磨製石斧
21
3 4 城
四日,市外唐湊,木脇愛次郎氏邸後方
の丘上にて 城(キ),濠,サクラジマ
唐湊二本松
鹿児島市
22
3 4 唐湊丘上より
四日 唐湊丘上より
唐湊二本松
鹿児島市
23
3 5
27と繋がる
霧島市国分上小川
(上)隼人町を望む
(下)加治木へ向かう
(上)五日 ハヤト町ヨリノゾム
(下)五日 海岸ニソヒテ カジキヘ走ル
24
風景か
25
風景
ハヤト城,ゼッペキ マツ 姫城,ゼ
ツペキ,マツ,山,シバ,タケ
26
風景
国府デカケ 山ニサシカカル 左ハ山,
右ハ岩ニセク谷川
27
風景
モリ 山 小木 竹
28
29
風景
(右)板碑
(左)五輪塔
谷川,イワ,ヤブ,スギ
五輪塔と板碑群
31
五輪塔と板碑群
五リンノ塔
32
田の神
菱刈 田の神 九月,正月ノ十六日に
お化粧スル,シュヌリ,石
(上)縄文土器片
(下)土師器
34
土師器甕(?)
25と繋がる
(右)アイラ郡 稲葉崎 栗野村
(左)貞治三年
30
33
霧島市隼人町
(上)黒色 ソト側赤色ノ土器破片
(下) 赤色土器
赤色土器
─ 1
1
4
─
姶良郡湧水町稲葉崎
31と繋がる
姶良郡湧水町稲葉崎
30と繋がる
姶良郡湧水町稲葉崎
伊佐市菱刈
鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳
図番号 月
日
名 称
35
風景
36
須恵器(壺)
37
磨製石斧
書 き 込 み
菱刈村舞ノ峰 土器ノツボ(人形ノイ
リタル)デル
大口町小学校にて 三時,埴輪入壺
(大口村里成就寺墓地にて発見,明治
四十二年 五月)
備 考
現在の市町村名
伊佐市菱刈
伊佐市大口里
大口町
伊佐市大口里
38
(左上)打製石斧
(他)磨製石斧
大口町
伊佐市大口里
39
(上)諏訪野地下式古墳
(下)礎石(?)
里諏訪野
伊佐市大口里字諏訪野
穴の高サ=4尺5寸 古墳地底ヨリ地
上マデ=7尺6寸 ツルハシノ幅1寸7
分 石ハ三枚カサナル 数個アリ 伊佐市大口里字諏訪野
菱刈村山田ニテ発見サル
伊佐市菱刈前目
40
諏訪野地下式古墳
41
磨製石斧
42
43
44
45
磨製石斧
(左)磨製石斧
(右)環状石斧
磨製石斧
(左)打製石斧
(右)磨製石斧
46
磨製石斧
47
磨製石斧
牛尾校
─ 1
1
5
─
執筆者紹介 (執筆順)
ラファエル・アバ
スペイン国立セビリア大学教授
咸 舜燮
大韓民国国立大邱博物館長
吉井 秀夫
京都大学大学院文学研究科教授
魚島 純一
奈良大学文学部准教授
長谷川 愛
奈良大学大学院文学研究科文化財史料学専攻博士前期課程
下田 順一
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館主任
大原 賢二
鳥居龍蔵を語る会会員
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館 前館長
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告 第2号
2015
年3月27日 発行
編集・発行 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館
〒7708070
徳島市八万町向寺山
徳島県文化の森総合公園
TEL0886682544 F
AX0886687197
印刷所 徳島県教育印刷株式会社
〒7700873
徳島市東沖洲2丁目113
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CONTENTS
徳
島
県
立
鳥
居
龍
蔵
記
念
博
物
館
研
究
報
告
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館
研 究 報 告
第2号
2015年3月
第
2
号
目 次
ARTI
CLES
Ra
f
a
e
lAba
d
論説
Thea
nt
hr
opol
ogyofTor
i
iRyuz
oa
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gel
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a
r
ni
ng…………………………………1
外国語学習から見た鳥居龍蔵の学問的な歩み …………………………………ラファエル・アバ… 1
Ha
m Soons
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op
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ua
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植民地時代における鳥居龍蔵の慶州月城および大邱達城調査について
Ta
l
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i
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ei
nTa
e
guunde
rJ
a
pa
ne
s
er
ul
e …………………………………………………………23
………………………………………………………………原著:咸舜燮 訳:吉井 秀夫…23
Yos
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o
As
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udyoft
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o
’
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i
oni
nYe
ongs
a
ngbukdoa
nd
鳥居龍蔵による慶尚北道・慶尚南道調査関連資料について ……………………………吉井 秀夫…43
Gye
ongs
a
ngna
mdo …………………………………………………………………………………43
鳥居龍蔵が採集したガラス小玉の保存科学的調査
― 製作技法の検討および蛍光X線分析による材質調査結果 ― …魚島 純一・長谷川 愛…71
Uos
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鳥居龍蔵の鹿児島調査関係スケッチ帳……………………………………下田 順一・大原 賢二…87
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徳島県立鳥居龍蔵記念博物館
〒7
70-8
070 徳島市八万町向寺山
文化の森総合公園