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第14回
あいち経営フォーラム
=
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報告集
=
基調講演
「感動のオンリーワン企業を目指して」――――――――――――――――――――――――
報告者:十河 孝男氏/徳武産業(株) 代表取締役(香川同友会)
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<Ⅰ.経営者の責任>
第1分科会「必要とされる社長の自己変革」 ―――――――――――――――――――――10
報告者:加藤 三基男氏/サン食品(株) 代表取締役(瑞穂地区)
第2分科会「ピンチの時に、あなたの社員はそばにいてくれますか」 ――――――――――14
報告者:明石 耕作氏/(株)豊梱 代表取締役(豊川・蒲郡地区)
第3分科会「右腕(No.2)との育ち合い、高めあい」―――――――――――――――― 19
報告者:濱垣 一郎氏/師勝化成(株) 代表取締役(西春日井地区)
第4分科会「しあわせ」な事業継承のために ―――――――――――――――――――――23
報告者:石黒 俊朗氏/(株)サカエ 代表取締役(豊明地区)
菅原 直樹氏/(株)菅原設備 専務取締役(名古屋第4青年同友会)
<Ⅱ.経営指針の実践>
第5分科会「作った経営指針、やれないのは何故?」 ――――――――――――――――
報告者:伊藤 智啓氏/ (株)蒲郡製作所 代表取締役(豊川・蒲郡地区)
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第6分科会「生きたビジョンでこれからの時代を切り拓く!」 ――――――――――――
報告者:水戸 勤夢氏/(有)アーティストリー 代表取締役(中村地区)
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第7分科会「金融機関に評価される経営指針とは?」 ――――――――――――――――
報告者:中嶋
修氏/板橋区立企業活性化センター センター長(会外)
徳島 孝志氏/徳島興業(株) 代表取締役(南地区)
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第8分科会「採用を変えれば会社は変わる」 ―――――――――――――――――――― 45
報告者:松浦 英士朗氏/双光エシックス(株) 代表取締役(名古屋第1青年同友会)
<Ⅲ.人間尊重の経営>
第9分科会「働く人と、働き方の多様性を認める会社づくり」 ――――――――――――
報告者:橋本 久美子氏/(株)吉村 代表取締役(東京同友会)
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第10分科会「人を生かす経営の実践」―――――――――――――――――――――――
報告者:笹原 繁司氏/綜合パトロール(株) 代表取締役(千葉同友会)
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第11分科会「社員の成長で喜びを共有し、めざす企業像へ」 ――――――――――――
報告者:福谷 正男氏/(株)豆福 代表取締役(西地区)
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第12分科会「同友会が目指すべき企業像と経営者の責任」 ―――――――――――――
報告者:吉田 幸隆氏/エバー(株) 代表取締役(知多地区)
八橋 昭郎氏/八橋社会保険労務士事務所 所長(江南・岩倉地区)
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1
<Ⅳ.付加価値を高める/新市場創造>
第13分科会「縮小市場のなかで、自社の価値を問う」 ―――――――――――――――
報告者:馬場 愼一郎氏/データライン(株) 代表取締役(刈谷地区)
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第14分科会「地域資源の「連携」と「循環」で新たな仕事づくりを!」 ―――――――
報告者:清水 隆治氏/清水食品(株) 代表取締役(海部・津島地区)
笠原 尚志氏/(株)中西 代表取締役(豊明地区)
尾ノ上 智美氏/(株)CHERRY STONE 代表取締役(昭和地区)
金田
学氏/愛知県産業労働部産業労働政策課 主幹(会外)
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第15分科会「仕事の本質が新市場を切り開く!」
報告者:近藤 正人氏/(株)アートフレンド
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―――――――――――――――――
代表取締役(名古屋第5青年同友会)
第14回あいち経営フォーラム全体会・交流会(写真集)
第14回あいち経営フォーラム
参加結果
2
―――――――――――――――
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基調講演
感動のオンリーワン企業を目指して
報告者:十河
孝男氏/徳武産業(株)
代表取締役(香川同友会・会員)
ある時、高齢者福祉施設から「高齢者用の転ばない靴を作ってほしい」
という相談を受け、高齢者施設の転倒事故防止について研究。「お年寄り
の願いを叶え、笑顔を届けたい」という強い想いのもと、プロの指導を受
けて靴づくりを一から学び、高齢者用ケアシューズの開発に2年の歳月を
費やし、介護靴「あゆみ」の販売にこぎつけます。
さらに片足にむくみや腫れのある人への片足販売や左右サイズ違いの
販売など、業界の常識を覆す販売方法を実施。こうした取り組みに共感し
たお客様からは毎月 300 通の感謝の手紙が届き、今では大手メーカーの追
随も許さず、国内トップシェアを走り続けています。
自社は何のために存在しているのか。その使命を社員と共有し、仕事に
誇りをもち、お客様の要望に徹底的に応えることで、市場を切り開いてい
る経営実践から学びます。
【会社概要】
徳武産業株式会社(http://www.tokutake.co.jp/)
創業/1957年
設立/1966年
資本金/1000万円
年商/15億4290万円
事業内容/ケアシューズ、ルームシューズ、旅行用スリッパ等の企画・製造・販売
総社員数/61名
「会社を継いでくれ」
に「後継ぎができた」と触れまわっていました。
徳武産業は、昭和 32 年、私の家内の両親が香
川県の地場産業である手袋の縫製の下請けとし
て創業したのが始まりです。手袋は、暖冬などの
季節的な要因があるので、安定しない仕事でした。
約5年後には、年中仕事があるスリッパの製造に
転換していきました。しかし、値段が安く、苦し
い状況だったようです。
私の家内は5人姉妹の長女でした。家内の両親
は、厳しい会社経営のなかで、はやく結婚させて
やりたいと思っていたようです。そして、できる
事なら、固い仕事をしている人と一緒になってほ
しいと思っていたと思います。
私は昭和 45 年に結婚しました。固いと言われ
ている銀行員をしていたため、そのことに当ては
まったのだと思います。そして、縁あって叔父の
手袋会社の一役員として頑張っていました。
結婚してから 15 年程経った頃、徳武産業もそ
れなりの規模になり、「是非継いでほしい」と、
義父から猛烈なアプローチがありました。しかし、
私は十河家の長男でもあったし、叔父の会社の専
務もやっていたのですが、それでも熱心にアプロ
ーチがあったため、義父の申し出を受けることに
しました。
話が決まると、義父は、親戚や知人、近所の人
義父の急逝
3
引っ越しを終えて二十日後、義父が心筋梗塞で
倒れたとの連絡が入り、5日後に急逝してしまい
ました。そして、葬儀の夜、親族会議の場で私が
社長になることが決まりました。
社長をやるということは決まっていましたが、
「徳武とは、社長とは、経営とは」という「社長」
という引き継ぎもないまま社長に就任しました。
私が 37 歳の時でした。叔父の会社で9年間専務
をやっていましたが、№1になったときの肩の重
さが全く違うことを実感しました。
社長に就任した私に課せられた役割は会社を
成長戦略にのせることだと思いました。そこで、
先代の売上を早く超えて1億円を達成しようと、
新しいものに挑戦しようとしました。しかし、古
参社員たちは、「社長むりですわ」という否定的
な返答ばかりで、笛吹けど踊らぬ、簡単に私を受
け入れてもらえませんでした。
そして、赤字にはなりませんでしたが、先代の
売上を超えられないままに時間だけが過ぎてい
き、社長としての自信を次第に失っていきました。
OEMビジネスが次々と進んでいきました。売上
も増え社員も一生懸命頑張ってくれました。若い
社員も入ってくるようになり、会社が活性化し善
循環が始まったのがこの時でした。
当時のメインの仕事は、学童用シューズのアッ
パーの縫製を行っていましたが、とても厳しいも
のでした。先代が 14 年間、私が引き継いでから
6年間、その仕事をしていました。月間 10 万足
程作っていました。一個 300 円の単価で、工賃は
たったの 50 円程でした。その工賃で 15~16 工程
もあるため、工賃計算で利益がほんのわずかなこ
とに驚きを隠せませんでした。
工賃は厳しく、品質はさらに厳しい。おまけに、
少しでも間違えれば、縫製した工賃も払ってもら
えないだけでなく、材料代まで引かれるという始
末。そんな中で、20 年間徳武産業は歯を食いしば
って頑張ることができたことが今も会社のDN
A(技術)として残っています。苦しいことを歯
を食いしばってやることは良きことを残してい
くのだと学びました。
命をかけた事業継承
将来をかけた事業転換
転機となったのは、先代社長の3回忌の時です。
お寺の住職に「もう自信ないわ」と弱音を言うと、
「なに言うんですか」と一喝されました。義父は
生前に、「徳武産業には、あいつが適任や。十河
家の長男だけど無理言って来てもらった。だから
あいつはしっかりやってくれる」ということをお
寺の住職に話をしていた事を聞かされました。
「心の中で義父を追い越してやれと思っとるや
ろ」と言われ、言葉に詰まりました。
そして、さらに「先代社長は命をかけた事業継
承をしたんやから、感謝の気持ちを忘れたらあか
んで」と言われたのです。私をここまで買ってく
れた人に対して、なんと思いやりのない、人間と
して粗末な考えだったと反省し、涙が止まりませ
んでした。
それからというもの、住職に教えて頂いたよう
に、毎日仏壇の前に座って、日々のご加護に対す
るお礼を言い、会社の事を報告するようになりま
した。
順調に売上が伸びて行った矢先に大手の通販
会社とめぐり合い、自社の商品を高く評価をして
くれ、さらに売上が伸びていきました。しかし、
担当者が変わった途端、提案しても首をひねる時
が多くなり、品質に対しても厳しくされ、値段を
言った時に「こんなにも高いのか」とも言われ始
めました。さらに、企画の担当者が何日も徹夜し
て提案しても「徳武さん所は、こんなもんしかで
きんのですか?」といわれ、担当者が涙ぐむ姿を
見て、OEMビジネスの限界を感じ始めました。
そんな矢先に、私の友人である高齢者施設の園
長が、「高齢者の転倒率が、床の環境を変えても
まったく変わらないんだ」ということを言われま
した。「じゃあ靴を買ったらええがな」と言って
も、「高松に行っても東京行っても、施設に入っ
ているお年寄りの靴はないんや。転倒して重大な
事故にもつながるだけに、本人にも家族にも申し
訳ない。何とかしてくれ」という必死の申し出に、
歯を食いしばった 20 年間
その数カ月後、新しい仕事が舞い込んできた時
に、社員に、「こんな話がきたんやけどどうやろ
か」と問いかけると、
「それいいじゃないですか」
と今まで聞いたことのないような肯定的な答え
が返ってきはじめました。それからというもの、
ルームシューズ、ポーチ、旅行用スリッパなどの
4
私はそれに挑戦することを決めました。
しかし、スリッパを製造している会社が靴をつ
くるわけですから、到底難しい話なのですが、そ
れでもOEMビジネスに将来を見いだせなかっ
た私たちはそれに命運をかけることにしました。
靴を製造する技術のない私たちは、約 500 人の
方にニーズを聞き、モニターをしていただきなが
ら、たくさんの人達にご協力して頂きました。な
によりも協力して頂いたのが、神戸で約 30 年間
技術者として働いていた方でした。そして、約2
年かけて高齢者用ケアシューズを開発しました。
そして現在でもその機械は働き続けてくれて
います。私はその機械たちに毎月月末にお神酒を
買ってお供えをして、「1カ月間ありがとうござ
いました、おかげさまで良い商品ができました。
故障もせず、社員もけがをせず、働いてくれてい
ることを感謝しています」と伝え、ささやかです
けどもお神酒をささげて感謝をしています。私に
は、その機械さえもが徳武産業の一員となって大
切な仲間として存在しているように思っていま
す。
嘱望した社員の退職
大きな使命
なんとか形にできたのが、平成6年の 12 月の
ことでした。早速神戸の長田にある機械屋に注文
し、平成7年の正月を迎え、「今年こそは徳武が
飛躍する年や」と思いながら先代社長と神様にお
参りをし、お願いをしました。そして、平成7年
1月 17 日の未明に阪神淡路大震災が起こりまし
た。香川でも震度5弱の強い地震が起こり飛び起
きました。テレビをつけると、神戸の惨状が報道
されていました。
ふと気づくと、その中心地である神戸の機械屋
に機械を注文していることを思い出し、「大丈夫
やろうか」と思いながら、神様と仏様にお参りし
ながら、「なんとか守ってください」とお願いし
ていきました。
電話回線が混乱していたので、先方からの連絡
を待つばかりでした。震災から5日後に連絡が入
り、「心配していると思うけど、うちのビルは古
いけど、倒壊もせず、火災もなく機械は無事です。
納期は少し遅れますが、必ず届けますよ」という
連絡を頂きました。
そして、納期より1カ月遅れましたが、機械が
納品され設置が終わった時に、私は全社員を集め、
「この機械はな、神様が徳武産業に障害者・高齢
者の人達の困ったときの靴を作るために、この機
械を守ってくれたんやと思う。だから徳武に大き
い使命をくれたと感じる。その使命を果たしてい
きたいから一緒に頑張ろう」と社員に伝えました。
商品が完成し、機械も設置しました。しかし、
もうひとつ大変なものがありました。私たちが 2
年間商品開発にひらすら没頭していた時に、従来
の商品を 3 人の若者に委ねてやってもらっていた
のですが、平成 7 年に売上が 30%落ちました。そ
して創業以来初めての大きい赤字を背負う事に
なりました。
とてもつらかったです。資金繰りも、その数字
を決算書にあらわすのもつらかったのですが、な
によりもつらかったのは、会社が沈滞ムードにな
ることでした。「さあこれからや」という時に決
算書の数字をみると心が折れそうになる。銀行に
行っても「社長困りますね、この数字では」とい
うことを言われ、借入金を申し入れてもいい返事
が返ってこない。何度も何度も銀行へ足を運んで
資金を調達する日々が続きました。
ボーナスは出せない、昇給もなし、暗いムード。
そんな先行き不透明の会社の雰囲気に嫌気がさ
して、私が嘱望してきた 3 人の若い社員たちが
次々と会社を去っていきました。銀行で少々厳し
い話をされるよりもそのことが私は一番つらい
ものでした。
その時に私は多くのことを学びました。売上の
40%を一社に集約しすぎていたこと。そして、そ
の仕事を若手の社員に全部丸投げしていたこと。
通販業界に偏り過ぎていたこと。経営の大原則を
大きく外していたことを反省しました。その時の
大幅な赤字は私に大きいお灸をすえられたと同
時に、大きい学びを頂きました。
それでも前を向く「あゆみ」の誕生
それでも前を向いて歩いていかなければなら
ないと思い、高齢者用ケアシューズを「あゆみ」
とネーミングし、本格的に販売へ踏み出すことに
なりました。しかし、その時大きな障害になった
ものがありました。それは、靴業界の非常識に挑
戦するものでした。
老人施設に行って「おばあちゃんどうですか?
5
なにか要望はありますか?」と聞くと、「この足
見てよ、片一方の足がむくんで腫れとんや、だか
ら少し高くても買いますから 23 センチと 25 セン
チのサイズの違うものを売ってよ」という話を聞
きました。それを、技術指導に来てくれていた先
生に相談すると、「社長それいかんで。そんなこ
としとったら会社潰れるぞ。片方残ったものをど
うするんや」という発言に言葉が詰まりました。
しかし現実的に老人施設 500 人のモニターの方も
含め、何とかしてほしいという現場がそこにはあ
りました。
訪問がないさみしさを口にしていました。そのお
ばあさんに「帰りたい?」と聞くと「そりゃ帰り
たい」と即答しました。「でも私が帰ったらうち
私は、健常者の人に向けてのビジネスではなく、 の嫁困るんや。バリアフリーになってないし、風
障害を持った方や、高齢者の方たちのビジネスに
呂もトイレも廊下も敷居も全部取っ払ったらよ
参入するには、絶対避けて通れない道だと思い、 うけお金いるでな。嫁が仕事にいけんようになっ
左右サイズ違いを同じ値段にする事を決めまし
たら、それも困るしな。だからそれは言えん話な
た。その先生にも渋々納得してもらいました。
んや」とおっしゃっていました。多くのお年寄り
さらに、お年寄りのみなさんの歩行を見ている
の方がすばらしい環境の老人施設の中で、そんな
と、右と左がイレギュラーな歩き方をしているこ
にも淋しい思いをしていることに気づきました。
とに気づきました。左はしっかり歩行できていて
も、右足がイレギュラーな歩行をすることで、右
私たちにできること
足だけがささくれている事を発見し、「片方だけ
取り換えてあげればいいじゃないか」ということ
私たちに何かできないだろうかと考えた時に、
に気がつきました。
「まごころハガキ」というものを考えました。そ
約 500 人の方は、どなたも片足販売して欲しい
の人たちの子や孫にはなれないけれども、心のメ
ということは言われませんでしたが、その人たち
ッセージは伝えられるのではないかと思いまし
に「片足だけでも販売しようと考えていますが、 た。
どうですか?」と聞くと。「まあ、そんなことま
まごころハガキには、「足元に笑顔を!私たち
でしてくれるんですか」ということを言われ、驚
の思いを込めたあゆみシューズをお届けします。
かれました。
あゆみシューズと一緒に、お出かけにお散歩に一
左右サイズ違いは顕在的なニーズであり、片足
歩一歩があなたさまの笑顔と元気の源になりま
販売は潜在的なニーズであることを発見しまし
すように」と、淋しい思いをされている方に元気
た。そして、サイズ違いを同じ値段、片足販売は
をお届けしたいと、社員に書いてもらっています。
約半額で販売すると決めました。私はその時にこ
一字一句それぞれが想いをこめて、おじいさん、
のビジネスは靴業界の非常識に挑戦するもので
おばあさんを思い浮かべながら書いてもらって
あり、その非常識こそが当社が対象としている顧
います。まごころハガキを、布とゴムでできてい
客のニーズであることを感じました。
る靴の上に載せるだけで、お客様に「お役に立ち
顕在的なニーズと潜在的なニーズ
たい」という思いを、伝える役割を果たしてくれ
ています。
絆を薄くするもの
老人施設は、空調もしっかりしていて、食事も
症状に合せて固くしたり、柔らかくしたり、栄養
にも配慮してくれたり、本当に恵まれた環境にあ
ります。しかし、そのことがとんでもない問題を
引き起こしていることに気がつきました。
それは、家族との絆を薄くするものであること
に気がつきました。「おばあちゃんここ来て何年
になるんや?」「7 年やなあ」「ご家族の子供さん
やお孫さんはこられますか?」と聞くと、「前は
良くきよったが、最近きてないなぁ」と、家族の
人生最後の靴
ある時、東京の営業所にものすごい剣幕で「徳
武さんは歩けもしない方にシューズを売りつけ
るのか」と、ある施設の職員の方からクレームを
頂きました。早速その施設に駆けつけると、90 歳
ぐらいのおばあさんが、大事そうに靴を持ってい
ました。「おばあさん靴買ったんですか?でも3
年近く歩いてないんでしょ?」と聞くと、「同じ
6
施設の同じぐらいの年の人がピンク色の靴を履
いて歩いている姿を見たら、もしかしたら私歩け
るんやないかと思いかけたんや、そして、また見
た時に、靴がな、『おばあさん、私をはいて歩こ
うよ、私をはいてよ』とピンクの靴が私に呼び掛
けてくれたんや。ピンクの靴を履いて人生の最後
を歩きたいと思って早速靴を注文して、手元にお
いて神様にお願いしてるんよ」ということでした。
施設の方にも了解を得て、「おばあさん歩けるこ
とを祈ってるよ」と言い、施設を後にしました。
それから7カ月たったころ、その施設から「奇
跡が起こりました、おばあさんが歩いています」
と連絡が入り、社員と一緒にその施設に行くと、
3年近く歩いておらず、誰もが無理だと言われて
いたおばあさんが、シルバーカーにつかまりなが
ら、ポトリポトリと前に進んでいたのです。私が
近付くと、「ありがとう、死ぬ前にピンクの靴で
歩かせて下さいと、神様にお願いをしたら、神様
がお願いを聞いてくれたんや」と私の手を握って
涙を流しながら話す姿に、本当にこの仕事をして
いて良かったと思いました。
その方は、「桜の花も紅葉も自分が行きたい時
に自分の足で歩いていきたいわ」ということを必
死に思われて、最後1年半お歩きになってお亡く
なりになりました。その方にとってピンクの靴は、
布とゴムでできた、単なる無機質は履物ではなく、
体の一部となり、歩くことを通じて、人や自然と
触れ合い、生き甲斐を取り戻すための有機質な道
具になっていたと私は感じました。
毎日届く貴重な声
連日、私たちには、お客様から毎日 50 通から
70 通とたくさんのアンケートハガキが届きます。
「あんなことしたらいいんちゃう?」「こんな色
もこんな機能も付けて欲しい」というアイデアか
ら、「もっと早くあゆみと出会いたかった」とい
う嬉しいお言葉も頂いております。
私たちが、たくさんのお金をかけてマーケティ
ングしなければいけなかった情報が、そのアンケ
ートハガキからたくさんの情報を頂いています。
7
そして、この方々に何を返したらいいのかと考え
た時に、記念日である誕生日にプレゼントをする
ことにしました。80 歳、90 歳と年を重ねていき、
自分でも忘れていた誕生日を、我々から手書きの
メッセージと粗品を一緒に送ると、「自分の誕生
日を覚えてくれた人がいる」ということだけで
とても喜んで頂けます。
そして、私達のもとには、多くのお礼状が届き
ます。誕生日プレゼントに対する礼状であったり、
徳武の靴で歩けるようになったという礼状だっ
たりと多くの礼状を頂いています。これは私たち
の宝物です。
しかし、我々はメーカーです。この方々に半額
で売ったり、無償で差し上げたりしたことは一足
もありません。すべて上代で買って頂いたものな
のに、お礼状を頂けることはメーカー冥利に尽き
ます。
生まれて初めて履けた靴
礼状のひとつをご紹介します。「あゆみシュー
ズに感謝をこめて」
数年前 靴屋さんであゆみのダブルマジック
シューズに出会いました、私の母は幼いころ交通
事故にあい、左足が変形して靴が履けず、それ以
降履物といえば草履しかはいたことがありませ
んでした。80 歳を過ぎて足腰が弱ってきたことも
あり、転倒して骨折してしまったのです。そんな
時に出会ったのがあゆみシューズでした。
早速購入し、履いてもらうと、「素材もやわら
かくて履き心地がいい。生まれて初めて靴がはけ
たよ」と嬉しそうにしていました。1 足目は靴屋
さんで購入し外履きとして、二足目は通販で購入
し、内履き用にしました。
リハビリのおかげとあゆみシューズに足元を
守られ、ある程度自分のことができるまでになり
ましたが、昨年 7 月、急に体調が悪くなり、その
まま亡くなりました。あゆみシューズのおかげで
母の死を惜しんでくれる友達もできました。わた
しにとっては、「うまれて初めて靴が履けたよ」
と嬉しそうにしていた母の姿が忘れられません。
母にとっては、生まれて初めて履けた靴であり、
人生最後の時を過ごした靴となりました。そのあ
ゆみシューズは、現在では、友人のお母さんが履
いてくれています。現在私は介護福祉士として他
のお年寄りの方々にもこのあゆみシューズをお
勧めしています。
という礼状を頂いています。
今では、一年間に千通近く頂いていますが、そ
の一つ一つに想いが込められ、大きなドラマがあ
ることを感じています。
同友会での学びと気づき
私は、25 年前に香川同友会に入会しました。同
友会で、経営計画の大切さを学び、経営者として
しっかりした方針を作らなければならないこと
を知り、自分なりに考えながらだんだんと成長し
てきたように思います。
我が社の経営指針書の特徴は、パートさんも含
め全社員の役割が書かれていることです。さらに、
この一年間で「こんなことに挑戦します」という
宣言がそれぞれ書かれています。そして年一回、
決算後に、社員たちと発表会を行っています。全
社員が誓い合う大切な時間となっています。経営
計画書を作ることも大切ですが、それをいかに実
行していくかが大切だと思います。
我々は、メーカーですので、10 億円の売上をあ
げたいと思った時に「生産力」
「販売力」
「商品力」
「管理力」の四つの中で一つでも計画値より下げ
ていたら、その数字が、そのままが決算書に現わ
れます。また、約5年前から月一回朝一時間早く
出勤して、各部署で進捗状態をチェックするチー
ムミーティングをしているためか、不思議なこと
に一度も経営計画の数字を外したことがありま
せん。利益は多少ばらつきがありますが、近い数
字が出てきています。
売上を上げるためには、社員の存在が必要不可
欠です。そして、社員が何十人いても、社員一人
一人の細やかな変化にまで目を配り、経営者と社
員の心が通じ合うまで、信用し、信頼しあえる関
係をつくって行くことが大切だと思います。
成績は良いのに、落ち込んでいる社員。事情を
聞くとやはり家庭の方で問題がありました。その
ようなことも、一緒になって解決していく、そん
な大家族主義の会社を私は大切にしたいと思っ
ています。
徳武産業は、6年前に9億8千万円だった売上
が今年で約2倍の 19 億 9700 万円になりました。
また、6年前の経常利益は約 6000 万円でしたが、
前期は約1億 7000 万の経常利益を出すことがで
きました。経営計画書を作るという同友会に出会
ったからこそ、毎年、経営計画を立て、毎月、進
捗状況をチェックしていく、さらに、社員のこと
を信用して、信頼していくことで実現に至れたの
だと感じています。
利益を上げることの罪悪感
2008 年に 2.8%の経常利益率の中で指針発表を
した時、「2%や3%の経常利益しか出さなかっ
たら、不況が来た時にいつつぶれるかわからんぞ、
そんな脆弱な状態でどうするんや」とある経営者
にアドバイスを頂きました。
企業は常に好不況の波にさらされる。そんな中
を生き抜く体力を持ってこそ、社員に安定した働
く機会を与え、地域にも継続して貢献できる。さ
らに、お客様のために良い商品を届けることが可
能となる。しっかりとした利益率を確保すること
が必要だということに気づかされました。
私はシルバービジネスという仕事をしている
手前、「人の役に立っていれば、多少の経常利益
でいい」と思っていました。また、年金暮らしの
お年寄りの財布からお金を頂き、利益をあげるこ
とに私は罪悪感を持っていたのかもしれません。
そして、利益率を上げるということは、社員の
給料を抑えたり、外注先の工賃をたたいたり、仕
入先をねぎったりして、利益率を上げていくこと
だと思っていましたが、それは、大きな間違いで
あることに気づかされました。
それからというもの、全ての商品を見直したり、
経費をしっかりと把握して、改革を行っていきま
した。そして「その代わり利益率が上がったらち
ゃんといいことをしような」と社員と誓い合った
結果、翌年から 6.1%、7.9%、8.15%、8.3%と
いうように、次々と利益率が上がっていきました。
社員の物心両面の幸せを実現する
そして、経営理念に「社員の物心両面の幸せを
実現する」を謳っています。それは、利益率が初
めて5%を超えた時に、決算賞与を出し始めまし
た。現在5年連続で出すことができています。
決算賞与を渡す時は、テーマを決めて渡してい
ます。最初の3年間は、靴屋である以上、良い靴
を履いてほしいと思ったので、「良い靴を買いな
さい」でした。
今年の決算賞与は、過去最高の売上、過去最高
の利益だったこともあり、少し工夫して、1人当
たり手取りで何万円ぴったりとなるように税の
計算も含めて渡しました。そして決算賞与の条件
として、今年は、「親孝行」をテーマにして、と
にかく親孝行して感動物語を皆に聞かせて欲し
いという事にしました。そして朝礼の度に発表し
8
んはたまらず外に出て行き号泣されていました。
返ってきた時に、「私はこの子がこんなにも靴に
渇望していたのは初めて知りました。病気がどん
どん進行しているので、この子に履ける靴はない
ものと思っていましたが、本当は外に出ていくた
びに心を痛めてたんですね、でも、この子は『靴
買ってよ』と一言も言わずに 10 年間過ごしてき
たんですね」ということに気づき涙しか出てこな
かったと話してくれました。
その1ヶ月後に「ゴツムリ君月へ行く」という
絵本と「僕の履ける靴が見つかったよ」という1
枚の絵が送られてきました。この出来事から、改
めて、靴とは、人の尊厳、人格、そのものだとい
うことに気づかされました。徳武産業は、お客様
の真にお役に立つものを作っています。そのお客
様から毎日頂く礼状をさらに増やして地球上で
一番感謝を頂く靴メーカーになりたいと思いま
す。
てもらっています。
すこし紹介しますと、我が社に夫婦で勤めてい
る社員がいます。彼の奥さんと義父との間柄があ
まり芳しくない状況でした。彼の奥さんが一生懸
命お父さん用にプレゼントを持って行っても、
「こんなの」とか、「着にくいから」とか、色々
言って、返してくるお父さんだったそうです。
しかし、決算賞与をもらったので何とかしよう
と、お父さんに、社長から決算賞与を頂いたこと、
そしてその半分を「親孝行に使え」という社長の
メッセージを伝えると、「お前いい会社に勤めと
るなあ。こんな会社他にはないぞ」と言い、久し
ぶりに家族で会話が弾んだそうです。
「このお金で役に立つことありますか?」と聞
くと、家の庭に、一本のまきの木を植えて欲しい
と言われました。そして、早速植木屋さんを手配
して、お父さんが思っている以上のものをプレゼ
ントしたそうです。これはすごく喜んでくれたそ
うです。「この木を見るたびに、お前の想いと、
会社の思いをいつも感じる事ができるよ」と言っ
てくれています。その話を聞いた時は、私も本当
に嬉しかったです。
【基調講演・全体会スタッフ】
○統括副代表理事
上 根
崇(東地区)
上根精機工業(株)・代表取締役
○実行委員長
長尾 秀義(稲沢地区)
(株)ワールド・クリーン・代表取締役
○副実行委員長
倉田満美子(中区北地区)
大山 拳臥(瑞穂地区)
宇佐見 孝(中川地区)
○司 会 石 塚
愛(名古屋第4青年同友会)
靴とは、人の尊厳、人格そのもの
○記
最後に、当社のお客様のニーズを最大限追求し
たサービスを考えたパーツオーダーシステムの
事例をご紹介します。
ある時、岐阜県から1人の青年が訪ねてきまし
た。その青年は、筋ジストロフィーという重い病
気にかかっていて、足元をみると靴下しか履いて
いませんでした。
「お母さん、この子はいつからですか?」と聞く
と、
「10 代の頃から 10 年以上市販の靴を履いてい
ません」とのことでした。それを聞いたパーツオ
ーダ―システムのチームが、「この人、なんとか
してあげましょうよ」と言って、40~50 分かけて
その人に合うように補正をしました。
その青年はその靴を履いた時に満面の笑みを
浮かべ、「社長ありがとう、僕の履ける靴を作っ
てくれて」と言ってくれました。すると、お母さ
9
録
服部
勇佑(愛知同友会事務局員)
①分科会
第
<経営者の責任>
必要とされる社長の自己変革
~社長のリーダーシップで会社は変わる~
報告者
親孝行と世界中に蒟蒻を広めるとい
う夢をもって入社した加藤氏。以来、事
業拡大を最優先に経営をしてきました
が「社長の役割」に気づき、何のために
会社を経営しているのかを考え、入社当
初の夢を実現するためABS乾燥コン
ニャクの商品開発とその新事業の展開
を始めました。その事例から、経営者と
して必要な自己変革と、それを実現する
リーダーシップについて学びます。
加藤 三基男氏
サン食品(株)
代表取締役
(瑞穂地区)
【会社概要】
創 業 /1930年
資本金 /1000万円
総社員数/51名
年 商 /5億円
事業内容/こんにゃく製造販
売
仕事で、こういった状況を打破したいと思い、こ
こまでやってきました。
やはり 50 名から 100 名くらい大きな規模にな
るような、大量生産できて1円でも安く作れる環
境を作り、全国各地まで運べるような、事業規模
が大きな会社にしたいと思っていました。その目
的が叶い、入社当時は1万丁作っていたこんにゃ
くを、今では一日に5万丁から6万丁作るまでに
なりました。
しかし、1円でも安く、できるだけ遠くまで運
んでいますので、利益がでていません。売り上げ
は伸びても、利益は微々たるものでした。しかし
売り上げが伸びれば、まわりからチヤホヤされ
「凄いね」と言われると、いい気になっている自
分がいました。
しかしこうした拡大方針は、いま思い返してみ
ると、当時の自社に取っては必要だったと思いま
す。入社当時の状況で、そのまま経営していれば、
生き残るのは厳しく、お客さんを維持できていな
かったと思います。
はじめに
自社は、東海市でこんにゃくを製造している会
社です。
しかし、経営環境が年々厳しくなる中、10 年先
をみて社員に夢と希望を与えていける会社にな
っていくことに疑問が湧き、こんにゃくの特性を
活かした、新しい商品を製造する会社を新しく立
ち上げました。
この会社は、まだ本業を支えるところまでには
至っていませんが、軌道に乗り始めてきましたの
で、残りの人生はこの事業に懸けていこうと思っ
ております。
この分科会のテーマである、リーダーシップで
すが、毎日悩みながら厳しい状況の中で、信念を
持ってやってきました。今日は、振り返りながら
学び直す気持ちで報告させて頂きます。
事業をひたすら拡大へ
私は、6年間サラリーマン生活の後、二代目と
して、父親の経営するこの会社に入りました。ま
だ小さな会社で、入社した自分には、父親が社長
であるこの会社を継ぐこと、こんにゃくを世界に
広げていくこと、この2つの大きな夢がありまし
た。
私が入社した時は、典型的な零細企業で、作っ
たこんにゃくをスーパーに、ただ毎日運ぶという
社員から疑問が湧き上がる拡大路線
しかし、ある時、社員から「どこまで拡大して
いくのですか」と疑問を投げかけられたことがあ
ります。社員にとっては、このやり方が納得いく
ものではなく、このまま大量生産をひたすら続け
ていても、疲労が続くだけで、自分たちが幸せに
なるイメージが描けない、ということでした。
10
私はというと前のめりにイケイケなものです
から、「やるしかないだろ」と拡大路線をひたす
ら続けていきました。
今思えば、こんなこと続けていたらどこかで行
き詰る、薄利多売の路線では先行きが持たないと
いう状況が、社員からの警鐘だったと思います。
しかし私はそのたびに、小手先の営業でお客さん
を増やし、シェア拡大して損があると、穴埋めを
して乗り越えてきました。最終的に、利益は減っ
てもいい、と数をどんどん拡大していました。
原料の不作で資金繰りに奔走
こんにゃくの原料は、芋などの農産物です。そ
の年のでき具合によって、資金繰りも非常に左右
されます。
自社では、平均年間約1億5千万円を原料にか
けています。過去に不作だった時は、その倍の近
い金額がかかり大変な状況になりました。こんに
ゃく芋は3年作の為、普通、3年間は高騰が続き、
この最悪な状況は数年続くと覚悟しておかなけ
ればなりません。
原料の高騰によって、お客様へ値上げを要望し
に行くことになるのですが、お客様は、当然、納
得してはくれるはずもなく、中には逆に値下げを
要求されるという憂き目にあうことも多くあり
ました。
こういうことを送り返し、会社の状況が苦しく
なり、資金繰りに奔走していきました。
資金を借りても足りない
ある時、数千万を工面しようと思い、金融機関
へ経営指針書をもって、資金を借りに行きました。
その銀行では「御社でしたら、1億円お貸ししま
すよ」と言われ、そのまま借りることにしました。
しかし、支払いの計算をするときには恐怖心が
強く、自分で計算することを避けていました。経
理の社員には「上から順番に払っておいて」と、
適当な指示を出して、そのままにしておきました。
支払いを終えて、残金を確認したら、「支払い
で1億円使いましたが、あと数千万不足していま
す」と、言われた時には、これを毎年つづけるこ
とはできないと気が滅いりました。
繁忙期に有給休暇で休む社員
その賞与を渡して、これから力を合わせて皆で
やっていこうとした矢先、若い社員が「明日から
有給取ります」と言ってきました。年末は一番の
繁忙期です。
「一年で一番忙しい時に大丈夫か、みんなに相
11
談したか」と聞くと、その社員は「工場長が社長
に聞いてこいと言ったので、社長に了解を取りに
来ました」というのです。しかも有給休暇があと
二十数日取れるので、年末まで取りたい、という
主張でした。
彼は「この有給休暇は今年取らないとなくなる
ので、休みたい」と言います。ほんと恥ずかしい
ことなのですが、私は彼に「頼むから休まないで
くれ」と、土下座してしまいました。
私が土下座している姿を前にして、その社員は、
「有給休暇は権利ですから」と言い放ち、彼は次
の日から、本当に休んでしまいました。
次の日から社員の間では、彼が有給休暇をとっ
て休んでいることが話題になり、自分も有給休暇
を取りたい、と休んでしまう社員が相次ぎました。
本当は、不満があった社員
会社が苦しい時に、社員が意見を言ってくると、
なんで俺をいじめるんだ、と思っていました。
年末の繁忙期に有給休暇をとった社員から「有
給休暇の年間計画を書面でください」と要求して
きた時、仕方なく1年分の計画を書いて渡しまし
た。非常に辛かった思い出です。
今ではその社員とは「あの時、自分は社長に嫌
われていたからね」と、冗談を言い合える仲にな
っていますが、当時は、やはり会社に将来性を感
じられなかったんだと思います。
社員を疑うような接し方しかしていなかった
ので、社員もいうことを聞かないはずです。会社
で一生懸命働いているのは社員たちですから、自
分が少しづつでも変わっていかないといけない
と思い、今に至っています。
孤立し、八方塞の自分
しかし当時は、社員を信じることはできず、す
べて経営者の責任だと思えませんでした。うまく
いかないことはすべて自分の責任になってしま
う、という考えしかありません。なにかあると自
分の悪口が社内から聞こえ、話をしている社員の
そばを通る時でも、あいつらはきっと自分の悪口
を話しているに違いない、と思う、被害妄想もひ
どくなってきました。
自分は社員のことを考えてやっているのに、も
う悲しくて八方塞の状態で、朝、目が覚めても資
金繰りの心配や有給休暇で休む社員の心配の連
続でした。自分が手塩にかけ育てた社員は、わか
ってくれていると思っていましたが、社員にとっ
ては、そういったことは関係が無く、「会社の業
績が悪いのは社長の方針が悪かった」と会議で言
われる始末です。
「社内のことを考えるのは、仕事と違って面白
くないよね」と社員に語りかけると社長だから当
然だろ、という態度で、もうさながら敵対関係で
す。
また朝礼でも会社の環境が悪いとか、こうして
ほしいとか、ああしてほしいとか、いろいろ要求
されるだろうな、と全然楽しくない自分に気付き
ました。
昔は、会社に行くのが楽しかったし、なんでも
できると思っていたのですが、このままいくと会
社が潰れるだろうな、と思いました。もう毎日、
会社に行くのが嫌で、休みの前日はホッとして、
休み明けになると、会社に行きたくないと思う
日々連続でした。
苦しい時に、自分の夢や志に立ち返る
そんなとき、世界にこんにゃくを広めていくと
夢を持って、会社に入った自分の志を思い出しま
した。このまま会社が潰れるのだったら、もう好
きなことやってやろうと、自分のやりたいことを
やってやろうと、考えました。
地区例会で得たことをヒントに、こんにゃくに
味をつける等、新しい試みと莫大な設備投資にチ
ャレンジしたのもこの頃です。
いままではこういった設備投資する勇気がな
かったのですが、このときばかりは思いたったら
翌日には、行動に移していました。そういう行動
した中で、結果的に非常に大きな出会いになり、
新しい開発製品にも結び付いていったのです。
4年前のフォーラムの分科会で「社長の役割」
を学んだ経験が大きかったです。この商品開発の
決断や、旧態依然とした会社から脱皮し会社を進
化させること、そういった新たな決断は、社長に
しかできないと思います。この時から、社内でリ
ーダーシップを発揮し、会社をなんとか変えるよ
うに活路を見出そうと思いました。
新製品の開発へ着手
こうして何事にもチャレンジを始めたものの、
12
会社をどうするのか、という正念場には変わりあ
りませんでした。そんな時に、父親が糖尿病にな
ってしまいました。「食べられるものがないよ」
と父親が言っていたことを覚えています。
だんだんと父親が悪くなっていく状況で、糖尿
病治療の本を買って励まそうと本屋に行くと、い
ままでまったく違った糖尿病治療の本に出会い、
私もその本を片手に研究を始めました。
そしてしばらくすると、その糖尿病治療本の著
者から、自社に電話がありました。まったくの偶
然でした。その著者は「糖尿病患者が食べても大
丈夫なご飯を作りたい」と言われました。私は、
チャンスだと思い、必ず糖尿病患者のために、商
品を作るぞと決意しました。
そうして、この事業のため特許をとる目標を決
め、開発を始めました。根拠もないうちに、東京
の食品開発展での発表を決め、自分にプレッシャ
ーをかけて、開発も成功し、なんとか発表する事
ができました。いまでは海外から、この商品を独
占販売したいという商談まであり、軌道に乗り始
めたところです。
社員が不安になるのも無理もない
新商品の開発には、社員から抵抗もありました。
クレームの対応が遅れた時、社員は、私が商品開
発で奔走していたので、「社長が会社にいなかっ
たから、相談できず対応に遅れたんですよ」と、
言い訳をしました。そして「いまスーパーマーケ
ットで問題起こして、会社が潰れでもしたら誰が
面倒を見てくれるのですか」と、横柄に言ってき
ました。会議も私を責任追及する場です。社長の
自分を悪者にしようとする空気を感じました。
しかしよく考えてみると、社員は、本業のこん
にゃくを一生懸命に作り、お客様からクレームが
出ないように、必死に品質管理をしています。新
しい製品がメインになり、数年後には本業がなく
なるかもしれないと思うと、不安になるのは無理
もないことだと思いました。
社員と、正面から向き合うことに、気付く
社員は、毎日5万丁ものこんにゃくを作り、ク
レームが出ないよう努力している自分たちの働
きぶりを見ろ、ということが言いたかったのでし
ょう。私は社員の努力を評価せず、本当に申し訳
なかったと思いました。
これまで経営指針を成文化し、就業規則をつく
り、社員とともに共育講座にも参加しました。そ
こで労使見解を学ぶたびに、社員との関係にたび
たび悩んできました。
この経験を振り返ってみると、私がまず社員の
気持ちをわかってやってなかった、自分のことば
かり考えている社長でした。
社員が一生懸命に働いてくれるから、私が、新
事業を手掛けられるわけです。そういう社員への
感謝の気持ちが、なかったのです。そう思った私
は、社員たちに「本当に申し訳なかった。皆が一
生懸命にやってくれるから、新しいことに挑戦で
きる。明日から、皆の働きぶりをみていきます」
と社員に詫びました。しかし「この新しい事業は
やめないから」と理解も求めていきました。この
新事業で、社員が定年退職まで働ける会社にした
いのです。
これまでは、会社は自分一人で背負ってきてい
ると、頑張っていましたが、ある程度まできたら、
自分一人ではできません。それこそ、今までの自
分は、問題が起こると、まず社員たちが悪いとい
うスタンスでやってきました。これからは社員と
ともに、形にしていかないといけません。「車を
壊す社員が悪い」
「言う事を聞かない社員が悪い」
「有給休暇をとる社員が悪い」など、こういった
考え方を改めなければと思いました。
自分が変わってこそ、リーダーシップが発
揮できる
実は、私自身はリーダーシップというのは、非
常に苦手です。しかし企業は、環境に適応してい
かなければならない「環境適応業」だと思います。
そういうなかで企業も経営者もどんどん変わっ
ていかないといけないと思うのです。
これからますます変化が激しくなり、そのなか
で会社の舵取りをしていかなければならないと
思います。私が学んだことは、どんな環境変化が
あろうとも、その変化に会社を対応させる決断が、
私たち企業家には必要だと思っています。経営環
境が厳しくなり会社の状況が険しくなった時、い
つまでも同じ経営を続けていては、会社は停滞し
ます。
時代に対応した方向性を見出して、変化に対応
した会社になるように決断することが、強いリー
ダーシップを発揮することでした。こういう世の
中の変化に耐え抜くリーダーシップを、身につけ
ていくには、やはりまず自分が、皆を引っ張って
いけるように社員と向き合うことが必要だった
と痛感しています。社員にだけ変化を求めるので
はなく、まず自分自身が変化していかなければな
らないということです。
私が、リーダーシップを発揮するには、社員か
ら信頼され、認められなければなりません。そう
してはじめて社員の理解を得ることができると
思います。まず自分が社員の気持ちや立場を理解
し、社員と向き合うこと、これが私にとっての自
13
己変革だったのです。
これからも同友会で学んで、少しづつでもまと
もな経営者になっていき、どんどん自分を変え、
社員も変わり、会社も変わって発展していければ、
と思っています。
■座長のまとめ
(株)三井酢店・代表取締役
三井 哲司(知多北部地区)
報告にもありましたように、夢をもって経営に
あたることは、経営指針を作り、方向性を社員に
みせて共有していくことでもあると思います。
加藤社長は、こんにゃくを世界に広めようとい
う夢を持ち、経営を続けたことも大事な原点では
ないかと思います。
リーダーシップとは何か、その正解はないと思
います。絶対に成功するやり方もありません。
あるのは、常に自分を変化させて、自分が変わ
っていくこと、自分が変わらないと会社も変えら
れない、ということに気付くことです。この分科
会のテーマにもあるように、自己改革をしていか
ないと、リーダーシップを発揮できない、という
ことが大きな学びでした。
今日の学びを、必ず実践して、今度は、皆さん
が数年後、報告されることになれば幸いです。
【第1分科会スタッフ】
○座
長
三井 哲司(知多北部地区)
(株)三井酢店・代表取締役
○室 長 手 縄
実(名西地区)
(株)共栄産業・代表取締役
○責任者 鈴 木
博(名西地区)
(株)ウッドベルジャパン・代表取締役
○グループ長
八神 直嗣(尾張西青年同友会)
玉水 隆樹(名西地区)
北川 繁雄(尾張北青年同友会)
長村 陽子(守山地区)
田中弘一郎(昭和地区)
太 田
誠(名東地区)
小柳 裕次(名東地区)
中谷 清司(中川地区)
林
雅 彦(中区北地区)
山本 貴樹(名古屋第5青年同友会)
杉浦 正人(碧南・高浜地区)
成瀬 徳治(碧南・高浜地区)
○記
録
井上
誠一(愛知同友会事務局員)
②分科会
第
<経営者の責任>
ピンチの時に、あなたの社員はそばにいてくれますか
~社員から信頼される社長をめざして~
報告者
経営環境の厳しい今こそ、社員との信
頼関係が試されています。給与や社名に
ではなく、社長を信じて一緒に頑張って
くれる社員が何人いるでしょうか。社長
が社員を信頼することはもちろんです
が、自分が信じた社員が自分を信じてつ
いてきてくれるような経営者になるた
めには、社員が共感できる方針を掲げ、
高い人間性を持った経営者になる努力
をし続けなければなりません。この分科
会は「社員から信頼される経営者にな
る」ためにどうするかを考える分科会で
す。
明石 耕作氏
(株)豊梱 代表取締役
(豊川・蒲郡地区)
【会社概要】
創 業 /1963年
資本金 /2500万円
総社員数/100名
年 商 /13億円
事業内容/物流に関するアウト
ソーシング業務全般
http://www.toyocongroup.co.jp
たあと、1月の新年のあいさつに間に合うように
経営指針を作って発表しましたが、社員にはなか
なか浸透しませんでした。
他人が社長だった間は比較的おとなしくして
いた父が、私が社長になると、私のやることにこ
とごとく反対するようになりました。例えば、係
長2人を課長にしたのですが、そのうちの一人を
グループの他の企業に出向させたり、会議で持論
を展開して社長であるはずの私の意見を通して
くれなかったり、という状態で、私と父との関係
がどんどんと悪くなって行きました。私が社長に
就任して以来、「まだしばらくは、俺がやらない
とダメだ」というのが父の口癖となっていました。
そんなことをしているうちに、私もグループ各
社の代表を兼任していくのですが、社員が 350 人
いますし、分社もしていますので、私一人ですべ
てを切り盛りできるわけでもなく、各社に責任者
を置いて経営をお願いするという状態でした。
父との信頼関係
当社は私の父が昭和 39 年に起業した豊川梱包
工業という会社が始まりです。ミノルタカメラ
(当時。現コニカミノルタ)のコピー機などを梱
包して出荷するのが創業時の仕事でした。グルー
プ会社が7社、総社員数で 350 名、という会社で
す。お客様は主にメーカーで、工場の中で物流を
含めた梱包請負、出荷管理のコンピュータプログ
ラムの開発、段ボールやポリ袋などの包装資材の
提供、包装設計、精密機械の輸送などの仕事をし
ています。お客様には開発・製造・販売などの本
業に特化していただき、非主力の物流にかかわる
分野については専業である当社が一手に担って
おります。
私は 1988 年に大学を卒業し、ミノルタカメラ
に5年間お世話になり、1993 年に自社に戻りまし
た。10 年間、営業や工場関係の仕事をし、10 年
前の 2003 年 11 月に急遽、豊梱の社長に選ばれま
した。その頃は父も会長職に退いており、同族で
はない他人が社長職に就いていたのですが、その
社長が、兼任していた別のグループ会社の経営に
専念するための急な社長交代でした。当時はグル
ープ9社で7名の社長がおり、「豊梱グループ」
と謳ってはいても、各社が独立採算で横の連携も
少なく、「グループ」という意識は薄かったよう
な気がします。私は社長として、そんな状況を何
とかしたいと思っていましたが、いいアイデアが
浮かんでいない状態でした。11 月に社長に就任し
グループ会社の常務との信頼関係
2008 年に包装資材を販売するA社の社長にも
就任しました。豊梱がミノルタカメラに販売して
いた包装資材を他の会社にも売っていくために
分社してできたA社でしたが、創業後数年間は利
益が出なかったと聞いています。私の前の社長は、
いわゆる売上至上主義で収益力のある会社にし
た半面、軍隊調で、いわゆるパワハラのような発
言もあり、その厳しさのせいで社員の離反も多く、
14
そのことが問題になって、私が社長になることに
なりました。それが5年前の 2008 年です。
そのときに父から、「実務はプロパーの人材に
やってもらえ」と言われ、私より 15 歳年上の当
時の常務にお任せすることにしました。常務は、
営業強化ではなく経費削減に着手して成果を上
げていきました。前の社長が売上重視の社長でし
たので、真逆の意味で最も効果的だったと思いま
す。そういう常務でした。
では私は何をしたか、と言いますと、営業の責
任者と面談し、A社の問題を話し合ったところ、
「A社は 60 歳の定年を迎えた社員がいない」と
いうことが分かりました。当時のA社には、「営
業マンが 50 歳を過ぎてパフォーマンスが下がる
と辞めざるを得ない」という雰囲気がありました
ので、私は「社員が定年を迎えられる会社に変革
したい」と思いました。常務も私に面と向かって
反対はしませんので、その時は受け入れてもらえ
そうな雰囲気になるのですが、私の父や社員に対
しては「社長の考えは甘い、社長の言うような会
社では利益が出ない」というようなことを言って
いたようです。しかし、私は常務への遠慮もあっ
てか、本人に事実の確認をすることができず、だ
んだんと常務との関係が疎遠になっていきまし
た。常務との軋轢を避けたい一心で、少しずつ逃
げていった、という感じでした。
その年の秋にリーマンショックがあり、それが
業績に表れてきたのは半年後でした。できる限り
の努力をしましたが、苦渋の決断として早期退職
の手続きをとることにしました。もちろん、オー
ナーである父にも了解をとったつもりでいたの
ですが、その手続きの途中で、父から「社員の幸
せを考えられない奴に経営は任せられない」と言
われ、A社の経営から手を退いて、完全に常務に
任せるように言われました。父も創業以来、金銭
面で苦労してきた経験があり、利益を出し続ける
ことにこだわり続ける常務が頼もしく見えたの
だと思います。悔しかったですが、私に問題があ
ったのも事実ですので、オーナーに対抗できる気
力も力もなく、父の言うことに従ってA社と少し
ずつ距離を置くようになりました。
A社はリーマンショックの後、売り上げも利益も
下がり気味でしたが、グループの他の会社と比べ
て収益性が高かったことと、父から「とにかくA
社は見るな」と言われていたこともあり、A社は
完全に新社長に任せて、問題のあった他の会社に
力を入れておりました。その頃の私はA社の社員
と顔を合わせる機会もあったのですが、社員から
A社の愚痴は聞いても、社長にそれを直すように
は言えませんでした。
そんな会長でしたから、私についていこうと思
っていた社員の心も離れていき、会社では新社長
のワンマン体制が加速していき、ついに、主力に
なりつつあった5~6年目の社員から相次いで
退職届が出てきてしまいました。彼らは採用の時
から私が関わった新卒の社員で、特に期待をして
いた人たちでしたが、そういう社員が次々に退職
していきました。
こういう事態になって初めて、社内で事実調査
をしました。売り上げが下がり、利益も下がって
いるわけですが、新社長の中では利益が下がるこ
とは許されないことでしたので、頻繁に給与や評
価制度をも変更したり、面談でパワハラ発言があ
ったりし、それに対抗する社員の退職だった、と
いうことが分かりました。退職した社員は、社内
の評価も高く、給与も恵まれていて、新社長も期
待をかけていた人でしたが、そういう人たちから
辞めていきました。「問題が大きくなると、でき
る社員から辞めていく」ということを実感しまし
たし、そんな大切な話ですら、退職届が出てから
しか私の耳に入ってこない、それくらいの関係に
なっていたことにも気づきました。
期待していた社員の相次ぐ退職
ここまできて、やっと私の重い腰が上がりまし
た。新社長に事実を確認し、父にも社員がどんな
2011 年にA社の社長交代を父に命じられ、常務
に疲弊しているか事実を伝え、社員と面談して聞
が社長に就任し、私は会長として残ったものの、 き取り調査も行いました。新社長からは、「収益
完全に意見を言えなくなっていました。私が社長
を上げないと自分の評価が下がる、という過度な
だった頃は、常務から業務の相談もありましたが、 責任感があって、社員に対して必要以上に精神的
常務が社長になった瞬間に、私への相談は一切な
な負担をかけてしまった」と謝罪がありました。
くなり、父の了解だけで改革のスピードを速めて
私も、ほとんどの責任を新社長に負わせたことに
いくことになりました。
ついて謝りました。
15
の上司の言うことが会社の言葉になってしまう。
こうしたすれ違いが、日常的に起こっていました。
「任せること」と「信頼すること」
新社長も本当に一生懸命にやっていたのに、ど
うしてこうなってしまったのか。私は、「会社に
とって利益は手段であって、目的は社員の幸せ
だ」ということを同友会で学んできましたが、そ
のことを新社長や父にきちんと説明できていま
せんでした。「どうせ聞きかじりだろう、青臭い
な」と馬鹿にされることが怖かったのかも知れま
せん。今になって「あの時なぜ向き合えなかった
んだろう」と思います。
私は、「人に任せる」ということは「その人を
信頼する」ということだろう、と思っていました。
私の意を汲み、私の代わりにマネジメントや管理
業務を行ってくれるわけですから、あまり余計な
口を挟まずに、彼なりのやり方でやってもらう、
ということが、任せた人に対する信頼の証だ、と
考えていたのです。今回いろいろと信頼関係のこ
とを考える中で、「任せるということが信頼して
いるということではない」ということに気がつき
ました。「任せる」という言葉を都合よく使って
いたけれど、結局、相手を信頼していたのではな
く、自分が責任逃れをしていただけなのではない
か、と思いました。「任せる」どころか「ただ丸
投げをして責任を負わせていただけ」ではないか、
とも考えました。私には「A社では何にもしてい
ない」という負い目があり、新社長に口を出すべ
きではないと考えて、黙って任せることが彼への
信頼の証だと考えていたと思います。しかし、任
された立場の新社長からみたら、それは信頼でも
何でもなく、「自分で考えて、自分でやって、自
分で責任を取れよ」と私から言われた、としか思
えなかったのではないか、ということです。
辞めていった社員からも赤信号がたくさん出
ていたのに、私はそれを自分のこととして真剣に
受け止めず、
「話は聞いた」ということでしたが、
社員は私に話したことで「分かってもらえた」つ
もりになっていた、という感じがしています。辞
めた彼らにとってみれば、日頃は一緒にいない私
よりも、いつも現場を見ている社長のほうがはる
かに大きいでしょうし、私が何と言おうと、直属
言葉だけでは真意は伝わらない
今まで私は、うまくいっていないのはA社だけ
だと思っていました。なぜなら、私と社長との関
係がうまくいっていないのはA社だけで、他の会
社ではそこの責任者と私とは良好なコミュニケ
ーションがとれていて、私の意図が伝わっていて、
信頼関係が保たれている、と感じていたからです。
ですが、今回の一件でよくよく調べてみると、
実は社内のいたるところでこうしたことが起き
ていました。私が安心して任せていた他の会社で
も、部長クラスに真意が伝わっておらず、彼らの
普段の言動にも、方針とは違うような、現場が困
惑するような言葉が混じっていたようです。いく
ら私が「人を大切にする」と言っても、現場では
お金中心の考え方によるマネジメントが行われ
ていまして、会社に対する信頼感の低下が起きて
いました。例えば、「労働分配率を下げよう」と
いう指標には、「正社員は付加価値の高い仕事に
シフトしていこう」という目標があるのですが、
現場の幹部が本質を理解しないで説明してしま
うと、「どうやって社員を減らそう」という会議
になってしまう、ということがありました。「残
業を減らそう」ということでも、「業務分担を考
えて一人ひとりの負荷を減らしていこう」という
真意があるのですが、「社長が残業代を払いたく
ないだけじゃないのか」と、タイムカードを押し
てからサービス残業をする、そういうことがあち
こちで起こっていました。
私がいくら「会社は社員を大切にする」と言っ
ても、会議では売り上げや利益の話が中心ですか
ら、「結局お金しか大事にしてない」というふう
にしか伝わらず、結果として「言っていることと
やっていることが違う」「言うことがコロコロと
変わる」「こんな会社は信じられない」というよ
うな声が社員から出るようになっていきました。
そうしないためには、私が部課の責任者に表面的
に言葉を伝えるだけでは不十分で、理念の本質や
方針などを理解してもらえるように説明しない
と、その下にいる社員には到底伝わらない、とい
うことがよくわかりました。
社員から信頼される社長になるために
今回、フォーラム分科会の報告者を受けること
で、「信頼される」ということについて考え、社
長として「本当に社員を信頼したい、社員からも
心から信頼されたい」と思うようになりました。
同時に、実際に自分が社員からどう見られていた
16
の行動を変えずに、言い訳をいっぱいしてきた経
営者でありましたが、これからはそういうことは
許されない、というふうに思っています。
行動を変えて、意識を変える
か、ということを考えました。
社長になる少し前に同友会に入会して学び、頭
では社員を幸せにしたいと考えていますし、経営
理念にも「お客様へのお役立ち」「地域社会への
貢献」という言葉を謳い、経営指針の発表会を行
って毎年のように説明してきました。ですが、
「私
の実際の行動でそれを示してきたか」と振り返り
ますと、会議でも売り上げや利益の話しかしませ
んでしたし、「人を大切にする」ということの内
容の盛り込みがなかったり、自分と新社長がうま
くいっていないことを社員に愚痴を言ってみた
り、その新社長が社員を大切にしないからといっ
て自分のことを棚に上げてうまくいかないこと
をすべて父や新社長のせいにしていたな、と思い
ました。ですから、同友会で学んでいる「人を生
かす」という話をしても、社員に響かなかったの
ではないか、と思います。各社や部署の責任者に
も「任せている」というきれいな言葉で自己満足
して、経営者である私の理念と相反する考え方の
上司の中で、いちばん大切なはずの社員がいちば
ん困っている、ということにさえ気づいていなか
ったと思います。
「そんな経営者を社員が信頼する」というのは
難しい、と今なら理解ができます。大切なことは、
一貫性のある明確な経営指針を掲げて、掲げるだ
けではなく、言うことと行うこととが一致する
「言行一致」ができることだと思います。そして、
その経営指針に共感してついてきてくれる社員
との間にしか信頼関係は生まれない、と思います。
「共感」というのは、方針やビジョンを社員に心
から納得してもらって、
「そういう会社にしたい、
そういう社員になりたい」と思って行動してくれ
ることだと思います。そして、経営者自身が信頼
されることよりも、社員からは経営者を含めた
「会社」が信頼される、ということのほうが、実
ははるかに難しくて、大切なのではないか、と感
じました。昨年ようやく、父から株式の譲渡が終
わり、形の上でも、本当の経営者になりました。
10 年も社長をやっていて、本当に恥ずかしい話で
すが、私は、父の命令を言い訳に、自分の意見が
言えない経営者でした。当事者意識がなく、自ら
17
当社は7月が決算ですので、8月から新しい年
度になり、改めて、A社の社長に就任することに
なりました。A社には、前の社長が作った「意識
を変えて行動を変える」という行動指針がありま
した。意識を変えることはすごく大事ですが、人
の「やる気」や「モチベーション」というものは、
他人からは見えません。人の行動が変わるから変
化を認めてもらえる、行動が変われば意識も変わ
ってくるのではないか、と考え、思い切って前後
を入れ替えて、私は今期の方針を「行動を変えて
意識を変える」としました。まずは目に見える行
動を変えていこう、という主旨でしたが、いちば
ん行動を変える必要があったのは私自身でした。
この行動指針は私の指針にもなりました。
その一環として、私の思いを伝える機会を作る
ために、改めて今、お客様や仕入れ先様のあいさ
つ回りを始めています。その場に担当の営業社員
を同席させることで、私の考えをお客様に伝える
姿とお客様のお話を聞く姿勢を社員に見てもら
っています。さらに、同行することで個々の社員
との時間を持つこともできますので、普段の日報
などからは見ることのできない社員の考え方や
働きぶりを見ることもできますし、それぞれに合
わせた私の考えやアドバイスを伝える時間もで
きました。まだ始めたばかりですが、全体に伝え
たいことと個々に伝えたいことの両方を大切に
しながら、自分の思いを伝える努力を続けていき
たいと思います。
逃げずに、諦めずに、向き合い続けたい
最後に、今までの自分は父や、自分と意見の違
う幹部と向き合うことから逃げていました。自分
を悪く言われることや、自分が嫌な思いをするこ
とから逃げていた、ということです。口では「社
員が大切だ」と言いながら、結局、自分がいちば
ん大切で、その先にいる社員のことが見えていな
かった、と思います。
しかし、自分が目をかけていた社員が自分の下
から離れていったことをきっかけに、ようやく目
が覚めました。これから自分がすべきことは、今
までのようなきれいごとではなく、社員一人一人
が「この会社で頑張っていこう」と思えるような
組織を作ることだと思います。これからはそれぞ
れの組織を任せている人たちと正面から向き合
って、私の思いを理解してもらえるまであきらめ
ずに向き合い続けることでしか、部下やその下に
いる社員と信頼関係を築く方法はない、と今はそ
う考えています。
時として摩擦も起きると思いますが、そのこと
から逃げては逆に信頼関係が生まれない、と思っ
ています。
これからもピンチは起きていくと思いますが、
今回の報告を機会に、日々、言行一致の姿勢を社
員に示し続けられるようにしていきたいと思い
ます。
■座長のまとめ
(有)菅原工務店・代表取締役
横田 長(豊川・蒲郡地区)
【第2分科会スタッフ】
○座
横 田
長(豊川・蒲郡地区)
(有)菅原工務店・代表取締役
○室 長 藤掛誠一郎(名東地区)
(株)トレネッツ・代表取締役
○責任者 山崎 義明(昭和地区)
(株)タカミ・代表取締役
○グループ長
伊藤 洋二(緑地区)
宇佐見 淳(春日井地区)
籠瀬 茂高(刈谷地区)
木村 省吾(熱田地区)
駒 田
斉(東地区)
近藤 崇夫(中川地区)
名倉 康浩(碧南・高浜地区)
吉 田
幹(千種地区)
○録 音 佐藤 博之(北地区)
○同友 Aichi 記事
井手 義人(緑地区)
○実行委員
岡地 耕治(千種地区)
橋本 修一(南地区)
今日の報告で、「信頼し合うこと」の一つの形
として、「任せること」と「信頼すること」とは
違う、「丸投げするだけで、思いを伝えずに業務
を任せることは、信頼することではない」という
話がありました。それから、社員を大切にする思
いが必要で、その思いを伝えるコミュニケーショ
ンも大切だ、という話もありました。私がいちば
ん心に残ったのは、問題に対して、社員の声に耳
をふさいで、平穏に過ぎるのを待つことは大きな
○記
間違いであって、「自分からも社員からも逃げな
い」という姿勢を学びました。
こうして 60 名の経営者の方々と「信頼」とい
うことについて長い時間、話し合いができたのも、
皆さんの中に「信頼されたい」ということがある
からだと思います。逆に言えば、社員も同じ気持
ちを持っていると思います。「社長から、お客様
から信頼されたい」という思いを持ち、人と人と
がぶつかり合って経営していく中で、私たちは同
友会の会員として「人間尊重の経営」という大き
なテーマを持っているからこそ、「信頼関係を築
きたい」と思えるのではないか、と思いました。
今日1日を通して、私は、「言行一致」が経営
姿勢の確立につながる、ということを学びました。
私たちが姿勢を正して社員と向き合うことが信
頼関係を築く第一歩なのではないでしょうか。そ
して、人間同士の関わりですから、決して解決は
しないと思います。信頼度を測るバロメーターは
ありませんので、何が正解なのかはわかりません。
私もきっと、死ぬまで、社員と、家族と、そして
お客様との信頼関係を模索し続けるのだと思い
ます。
皆さんも今日をきっかけに、明日から社員との
関係を見直して、自身の経営姿勢、普段の行動を
確立して、熱く経営をしていただきたいと思いま
す。
長
録
井上
一馬(愛知同友会事務局員)
大勢の社員が登場する豊梱の会社案内
18
③分科会
第
<経営者の責任>
右腕(No.2)との育ち合い、高めあい
~共に学び合う風土~
報告者
「一郎くん、この先会社どうしたい
の?」この問いかけに全く答えられなか
ったと濱垣氏は振り返ります。ですが、
会で学び、真剣に経営に向き合うなか、
右腕との関係は大きく変化しました。
経営理念を理解し、想いを合わせ、体
験を共有しながら育ち合った結果、今で
は互いがなくてはならない存在として、
会社の将来を共に見据えています。
当分科会では互いに高めあい、理解し
合ってきた濱垣氏と「右腕」との関係か
ら、自社、自分にとっての「右腕」とは
何か、またその育成について考えます。
濱垣 一郎氏
師勝化成(株)
代表取締役
(西春日井地区)
【会社概要】
創 業 /1974年
資本金 /1700万円
総社員数/39名
年 商 /4.9億円
事業内容/工業用ゴム、ゴムス
ポンジ、ウレタンフ
ォームの加工・販売
http://www.shikatsu.co.jp/
右腕は自然に生まれる
皆さん、初めまして。師勝化成(株) 代表取締
役 濱垣 一郎と申します。会社の主な事業はスポ
ンジやゴム、プラスチックフィルムの加工・販売
です。なお、検索サイトで「スポンジ加工」と調
べるとトップに表示されるので、時間のある時に
でも、仕事内容や商品をご覧頂ければと思います。
率直にいうと、自社は大会社でも、世界的に立
派な会社でもありません。商品も補助部品として
使われるものが多く、表舞台で注目されるもので
はないです。ただ、その様な中で今ここで報告さ
せて頂いているのは、大変な時期を共に乗り越え、
私がいなくても安心して会社を任せられる社員
と右腕がいるからです。
座長を含め、多くの方に「何故そんなに素晴ら
しい右腕がいるのか」
「どうしたら No.2が出来る
のか」と尋ねられました。しかし、この質問には
いつも困ってしまいます。その理由は、自社の右
腕は自然に生まれたものであり、私が意図的に作
った覚えは無いからです。このことをまず皆さん
にお知らせしておき、私の右腕についてお話しし
たいと思います。
答えられなった会社の将来
会社は、父が旧:師勝町(現:北名古屋市)で立
ち上げ、事業は今とさほど変わりません。働いて
19
いる人は今より多いものの、営業所が町内に2つ
あり、社長中心のナベブタ組織で家族経営と変わ
らない、典型的な町工場でした。私は、その師勝
町で生まれ育ち働けるので、自身では幸せ者だと
思っています。また2代目として社長を務め、今
年で8年目を迎えます。
入社したのは 1993 年、私が 23 歳の時です。身
内のためか、営業課長というポストには就きまし
たが、名ばかりの役職で、いつもと変わらない取
引先へ訪問する、御用聞きの実務に埋没する日々
でした。
私が入社した年の夏、現右腕が入社しました。
実は、彼は現場希望で入社したのですが、そこを
先代が人柄を見込み、私の下につく営業職へ移し
たのです。
営業はいつも彼と共に行っていました。近隣に
営業所がもう一つあるため、成績を競ったり、待
遇について愚痴を言い、慰め合う仲となりました。
また失敗すれば、先代の父に一緒に叱られたりす
るなど、喜怒哀楽を長く共有してきました。
会社ではその様な関係で、プライベートでも趣
味が同じで交流していたので、公私共に仲が良か
ったです。そして、私が名ばかり課長で、役職ら
しいことは特にしていなかったため、彼からは常
に下の名前で呼ばれていました。そんなある日、
思いがけないことが起こりました。
彼から、
「一郎君、この先会社をどうしたいの。
一郎君は、この先会社を継ぐんだよね。」と、尋
ねられたのです。
日々の業務を行うことしか頭になかった私は、
この質問に頭が真っ白になり、何も答えられませ
んでした。
しまいました。理由はISOなどの、品質管理シ
ステムがないというのが、最たる原因です。彼は
この結果に号泣して、私も彼の努力を実にするこ
とが出来ない、申し訳ない気持ちで一杯でした。
さてここからが、本当の意味で会の学びの社内
経営者の責務から同友会へ入会
実践と言えるかもしれません。上記を励みとして、
品質ISOを取得したのですが、生半可に出来る
今思えば、彼は私と比べてテキパキと仕事が出
ことではありません。作る製品自体は全く同様に
来たため、彼なりに自らの将来を考えた結果、出
もかかわらず、その目に見えない保障のために余
た質問だったのだと思います。
分な手間が必要になるのですから、現場の人間に
彼は率直で、会社について何か問題があると感
とっては面白いものではないのです。よって、何
じれば、遠慮なく注意してまわっていました。ま
のためにISOを取るのかという、しっかりとし
た独立心も強く、将来自分で事業を起こすんだと
た趣旨作りと伝達。またナベブタ組織から、PD
言って、他の社員とトラブルになったこともあり
CAを回せる組織作りへと、会での学びを存分に
ました。
生かしました。その結果ISOを取得した際には、
独立をほのめかすことを言われて、経営者の息
子として、苦々しく寂しく思ったことも事実です。 彼の仇をとった、彼の努力に報いたという思いが
募り、彼との仲も深まりましたし、父からも認め
しかし、そんな気持ち以上に、実はどの社員も
てもらうことが出来ました。
彼と同様に思っているのではないか、機会さえあ
また、これを契機に、自分が将来何をしたいの
ればすぐ会社を離れていくのではないかと、ずっ
か、会社は本来こうあるべきだという、経営者側
と不安を感じていたのです。そうして人知れず悩
のブレない考え方がまとまりました。
んでいた時期ということもあり、私へ経営者とし
ここまで来ると、他に頼りに出来る人、想いを
ての姿勢を問うあの一言は、今でも忘れることは
同じくする社員はいなかったのかと思われるか
出来ません。
もしれません。確かに、会社には身内として兄弟
その彼の言葉が転機となり、2000 年に同友会に
と叔父がおりました。しかし、叔父は一匹狼的な
入会致しました。理由としては、自分がこれから
性格で、兄弟は、仕事や現場については話が出来
経営者になるんだという責務を感じ、何かしら学
ても、二人とも、自身の現場優先の人だったので、
ばなければいけないと痛感したからです。その強
当時私が信頼して、会社について話し合えるのは
い思いで、会合には休まず参加し、自身の成長に
彼しかいなかったのです。
なるならと、役は断らず受け続けました。社員は
お金で動いてくれる場合もありますが、会内では
経営者という立場へ
それが通用しません。どうしたら自分の思いを理
解してくれるか、どうすれば自分の思いを伝えら
れるかという、人の接し方・動かし方はとりわけ
2005 年6月、社長である父が他界しました。結
勉強になりました。
果私が社長を継いだのですが、当然叔父を推す声
もありました。ただ叔父が、「一郎がいいよ、一
郎は分かっているから。」と、私を推してくれま
彼=No.2
した。今思えばISOを始めとした私の取り組み
を、しっかりと評価してくれていたのだと思いま
彼が営業として働くうち、大手の一次下請メー
カーと直接取引が行えるチャンスがありました。 す。
しかし、私の就任挨拶では、社員が皆、「こい
自社の様な会社にとっては、願ってもない機会で
つに会社を任せても大丈夫なのだろうか」と、値
す。しかし、この話は、残念ながら破談となって
踏みする目で見ているのです。35 歳と若かったこ
ともありますが、1代で会社を立ち上げてここま
でにした先代と、親のレールに乗って何の苦労も
せず社長に就いた自分と、ここまで信頼度が違う
ものかと思いました。それは、経営者の重みを改
めて私に投げ掛ける、強く印象に残るものとなり
ました。
また、代替わりして初めて、会社が大きな不良
品を出して多額の補償金を出すことになったり、
社員が交通事故を起こしたりするなど、経営者と
して苦難を迎えました。そこでも、彼と前社長だ
20
ったらどうしただろうかと、亡き先代に思いを馳
せ、会社の将来について腹を割ってトコトン話し
合いました。
私が心底信頼して話し合えるのは彼だけで、彼
がいるからこそ今経営者としてやっていけてい
ます。彼が右腕だと意識し始めたのは、その頃か
らです。
会社の方向性・計画性を、指針を通して社内で一
番理解しているのが、彼なのです。
リーマン・ショック
2008 年の秋、リーマン・ショックの際は、自社
も売上が落ち仕事が無い深刻な状態でした。それ
に対し、私は会社の軌道修正、主に対外的仕事を
行い、右腕の彼が社内を実質的に動かす役となり
ました。その時彼は「クリーン隊」という、いわ
ゆる5S推進の委員会活動を立ち上げてくれま
した。
勿論、それは仕事の無い空いた時間で、社内を
綺麗にする意味もあります。ただ社内の数々の運
営・企画をさせることで、他人への配慮や根回し、
時短テクニックを学び、自主的に物事を考え行動
する「リーダー」、いわゆる今後の No.2, No.3
を生みだすという、会社の今後を第一に考えた、
深い思惑が背景としてありました。
社長と No.2の仕事
そして、私が社長、彼が No.2と決まった後は、
各々の仕事とは何なのかを考え始めました。業態
や会社によって、これは様々だと思いますが、自
社は私達のみならず社員も含めて考えた結果、指
針作成に取り組み始めました。
ただ、取り組み始めたのはいいものの、経営理
念でつまずきました。これは格好良い言葉で見栄
えを良くすることはできますが、イマイチ腹に落
ちてこないのです。
そこで、先代は何のためにこの会社を経営して
きたのか、何が一番嬉しかったのかと、ここでも
彼と先代の考えに思いを馳せました。会社の儲け
や能率を向上させるより、一社員が仕事を通じて
家庭や子供を持ち、人として円熟していくことを
先代は望んでいたと思い出し、腹に落ちる理念を
形作った際は、二人で大喜びしました。
右腕に至るプロセスが重要
会社を任せられる
こうして 2007 年に指針が誕生し、彼はそれを
唱和しようと言ってくれました。初めは嬉しかっ
たものの、唱和だけでは記憶は出来ても、本当の
理解・共有に繋がらないと考え、取り止めました。
今では代わりに勉強会と、毎年の指針発表会で確
認を行っています。
指針は会社の方向性を文字通り指し示す、大切
なものですが、中でも理念は、物事を判断する根
幹となる、極めて重要なものです。社内で何か問
題がある際、彼はいつも理念を社員と確認し合っ
ており、その姿を見る度に、彼なら会社を任せて
も安心だという思いを強くしています。つまり、
この分科会は、右腕の作り方を学ぶ、ノウハウ
の学習会ではありませんが、全員が右腕になれる
ことはなく、確かに人を選びます。
自社の場合だと、彼が No.2なのは、高い営業
スキルと、それ以上に理念を理解して、自社のた
めにという主体者意識を欠かさないからだと思
います。
確かに彼は、先代からは可愛がられていました。
自分の親が来なかった家の新築祝いをしてもら
ったり、息子である私が正直少し嫉妬する程です。
亡くなる前には、私を頼むとも言われたそうです。
ただ、これらのことが、彼が右腕になった大き
な理由とは思いません。私と彼が、長く時間を共
有し、心を割って真摯に話し合い続けて来た結果、
自然と彼が No.2となりました。皆さんの会社で
も、指針作成や社内の組織運営に真剣に取り組ん
でいけば、会社のためにとの思いで、頭角を表し
てくる方がいらっしゃると思います。
もし一人で会社経営をしている方が今この場
でいるなら、自分の夢を見据えて採用し、一緒に
なって泣いたり笑ったりして、右腕まで導いてい
くことをお薦めします。No.2は、いきなり君が
右腕だと押し付けるものではなく、それに至るプ
ロセスを大事にして頂きたいと思います。
「育ちあい、高めあい」
このテーマ通り、「作り方」ではなく、自社は
「育ち合い・高め合い」でここまでやってきまし
た。
21
彼は今でも私に対して文句を言いますし、私も
言い返すなど、意見の相違は勿論あります。ただ
俺が社長だ、俺の会社だと驕ることは決してせず、
信頼のためにとことん話し合い、真摯に互いの言
葉を受け止めることは欠かしていません。
彼は右腕ではありますが、次期社長というわけ
ではありません。今でも、彼は独立心を持ち続け
ており、自分がいなくても会社が完全に回る様に
なれば独立することをほのめかしており、私もそ
れを認めています。
実際、他社の引き抜きにも遭いましたが、それ
をこれまで断り続けています。その理由は、彼が
会社のためにという主体者意識を持ち、働く中で
自社を好きになってくれているからだと思いま
す。
前述の私の兄弟は、一度トラブルで退社しまし
たが、今は会社に戻ってきております。私自身、
再入社には受け入れるのに相当悩みました。しか
し、彼は「親父さんが立ち上げた会社なんだから、
家族が会社にいることを親父さんも望んでい
る。」と、快く受け入れてくれました。
つまり私の右腕は、そこまで分かっているから
こそ、「右腕」なのです。
■座長まとめ
三協合成(株)・課長
柳本 浩二(尾張北青年同友会)
今の会社があってこそと考え、断り続けています。
さて、右腕は育つものか、育てるものかという
議論がありますが、私はどちらもではないかと思
います。
つまり、社員と真摯に向き合う中で、信頼関係
を築き、その人が輝ける社内環境を創造していく
ことこそ、右腕を生み出す土壌だということです。
本日感じたことを明日からでも実践し、皆さん
のこれからの右腕(No.2)を育んで頂きたいと思
います。
【第 14 分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
(株)まぎし建築設計事務所・代表取締役
○責任者
中 島
圭(中村地区)
(株)ナカシマ・代表取締役
○グループ長
小澤 一夫(稲沢地区)
寺村 元之(尾張東青年同友会)
石田 隆城(知多北部地区)
神谷 裕治(北地区)
出口 晴美(名古屋第 1 青年同友会)
木嵜 真一(名古屋第 2 青年同友会)
林 宏一郎(中区南地区)
尾宮 良尚(中村地区)
中村 修一(中村地区)
○実行委員
片桐 宏之(あま地区)
内 藤
孝(守山地区)
佐々辺幸治(南地区)
稲垣 幸次(西尾地区)
加 藤
真(三河第 1 青年同友会)
当分科会のテーマは私にとって、非常に興味深
い内容でした。冒頭で、濱垣氏は右腕を「育てた」
覚えは無いと言いましたが、そうはいってもどう
したらあのような右腕が出来るのだろうかと、疑
問に思った方も多いと思います。私もその一人で
す。
グループ討論でも、彼こそがまさしく経営者か
ら見た理想の右腕だという声も聞かれました。
ただ、濱垣氏が真摯に同友会で学び、それを社
○記
内で愚直にしてきたことは、先の報告でよく分か
りましたし、それによって現右腕と出会い、信頼
関係を構築できたことも明らかです。
以前、右腕をどれほど信頼しているかという、
私の素朴な質問に対し、安っぽい言葉でなく、
「彼
を 100%信頼している」と即答した濱垣氏の言葉か
らも、彼への信頼度の高さがうかがえます。
現在、右腕の方は、社内で嫌われ役を買って出
ていますが、「それは会社や顧客の為であり、結
果的に社員さんの生活を守ることになるんで
す。」また自身がこうした役が出来るのは、
「社長
が全面的に自分を信頼して、サポートしてくれる
からだ。」と語っていました。
また、引き抜きにあった際も、こうして引き抜
きにあう程自分が輝けるのは、社長と社員がいる、
22
柳本 浩二(尾張北青年同友会)
三協合成(株)・課長
曲師 吉晃(刈谷地区)
録
橋田健太郎(愛知同友会事務局員)
④分科会
第
<経営者の責任>
「しあわせ」な事業継承のために
~継続企業への挑戦~
日本の経営者の平均年齢は 60 歳を超え、企
業の 65%は後継者がいないため、そのうち
40%の会社が数年以内に廃業・倒産すると予想
されています。事業継承は、大きな社会問題で
あり喫緊の課題といえます。そこでこの分科会
では、同族継承と他人承継、継承を受けた側と
これから受ける側、既存事業と新規事業(M&
A)など、対称的な事業継承を進める二人に報
告を頂きます。そして企業の根底を流れる経営
理念をいかに継承し、発展させていくか、その
軌跡からあるべき事業継承の本質に迫ります。
報告者①
石黒
報告者②
菅原
報告者①:石黒 俊朗氏
(株)サカエ/代表取締役
(豊明地区)
俊朗氏
(株)サカエ 代表取締役
(豊明地区)
直樹氏
(株)菅原設備 専務取締役
(名古屋第4青同)
「次(の社長)はおまえだ」
中途採用で入った当初の会社は、どんどん社員
が辞めて行き、1993 年にサカエに吸収合併されま
した。サカエの所属になって5年後の 1998 年、
会長(先代社長)に「誰にも気づかれぬように来
い」とスナックに呼び出されました。「何か用で
すか?」と聞くと、「次(の社長)はおまえだ」
と突然切り出されたのです。当時、サカエには私
より年齢も経験も上の社員もいました。驚いた私
は「何をこの人は言い出したのか」と思いました。
それまで社内では、専務が後を継いで、その次に
会長の息子が社長になると思われていたのです。
しかし後になって考えると、会長の息子が医学部
に進学して後継者がいなくなった時、この会社を
どうするか会長が熟慮したうえでの結論だった
のだと思います。
【会社概要】
創 業 /1980年
資本金 /4000万円
総社員数/15名
年 商 /5億円
事業内容/土木・建築一式、
総合請負業、輸入
住宅、在来住宅
http://www.saht.com
建設業は生き甲斐
私はサラリーマンから社長になった事業継承
がどのように行われたか、いわゆる他人継承の経
験をご紹介します。私は東京の工務店で働いてい
ましたが、結婚を機に 1990 年愛知県に戻ってき
ました。当初就職した会社は、私が入社してから
4年後にサカエに吸収されました。
私は自分で会社をおこそうという野望もなく、
建設の仕事が好きで生まれ変わっても今の仕事
をしたいと思っていました。建設業は、何もない
所に新たなものを築づくモノづくりで、お客様か
らも近く、「いい家を建ててくれた」と感謝の気
持ちを直に感じられるところがいいのです。そん
なわけで 1 年中休まず働いても苦にならない程で
した。
23
同友会の学びが押し寄せる
会長は同友会の代表理事や会長を歴任してき
た人で、同友会で学んで来ては会社に持ち帰って
いました。「次はおまえだ」といわれた年に、今
度は「同友会の共同求人で新入社員を採用する
ぞ」と会長が言い始めました。
社内は中途採用ばかりだったので、「うちのよ
うな会社に大卒が来ますかね」と私は半信半疑で
した。「じゃあおまえがやれ」となぜか求人の責
任者に私が任命されました。そこで共同求人のブ
ースに座り、会社の説明をした結果、初年度は3
名の新入社員が採用できました。それ以後、毎年、
そこで良く考えてみると、会長がそういうものを
すべて排除してきてくれたからなのではないか
と思っています。私のためにバリアーを張り続け
てくれたのです。
新卒採用がスタートしたのです。
それから、自分より先輩の社員が独立や他社に
行くなど、円満に辞めていきました。気がつくと
自分より上の人がいなくなり、会長の次に私がい
るピラミッドが構築されていたのです。
同友会で「経営者」を知る
産学連携のリーダーに
2001 年には、阪神淡路大震災の経験から「地震
に強い商品を開発する」と会長が動き出し、「中
小企業が開発なんてできますか」と私は反対しま
した。会長は「いいから産学共同研究でやろう」
と前向きです。これも同友会で聞いてきた話で、
豊田高専に行くなどして制震金具を開発しまし
た。
ここでも私が責任者になり、大学の先生や学生
と打合せをして研究を進め、試作品を同友会の会
員に改良してもらいました。そしてとうとう商品
化まで漕ぎつけ、特許を取得してから1年がかり
で国の認証も受けました。
自分がリーダーになり異業種の社長や大学の
先生と関わっていくうちに、次第に会社の構成も
変わってきました。周りの取引先や社員、銀行な
ども協力的で、会社を辞めて行った人とも上手く
付き合いが続いています。
先代がマイナス要素を排除
ある日会長に、「おまえは頑張っているから給
料を上げてやる」と言われ、喜んでいるとその月
の手取り額が減っていました。なぜか聞いてみる
と、給料があがった分で自社株を買うように薦め
られました。このように着々と私が会社の後継者
になれるように準備が進められたのです。
周りの知人に「社長になるのは大変だね」と言
われることがあります。先代の一族との確執や、
先輩社員との軋轢の話が漏れ聞こえてきます。し
かし私は嫌な思いを一度もしたことがありませ
ん。むしろ血縁関係があるから大変なこともある
のではと思うほどです。
会長に「そろそろ経営の勉強をしろ」といわれ
同友会に 2005 年に入会しました。もともと同友
会の共同求人や制震金具の開発などで数人の会
員さんとは知り合いだったので、スムーズに同友
会の活動に入ることができました。
同友会は様々な異業種の経営者との出会いが
あり刺激的でした。また本業では想像もしない事
柄やまず会う事がない人間と接することにより、
多くの学びがあったのです。特に会長が私のため
に会社に関わる田畑を耕してきた理由がよくわ
かりました。こうして次第に社長になる決意が芽
生え、本当の意味で会社を継承していく腹をくく
ることができました。そして 2010 年、社長に就
任したのです。
機が熟すタイミング
このタイミングはリーマンショック後で、会社
が倒産するかもしれないという危機を迎えた翌
年でした。しかし私と会長には何の迷いもありま
せんでした。
もともと事業継承する年は話しあって決めら
れていたのです。この年が私や会長の年齢的なも
のや、これから事業を続けて行く上で最適の時期
だと用意してきていたのです。 サラリーマンで
仕事への情熱ばかりだった私が、様々な人との関
わりや後輩社員と接する中で、自分の情熱と同じ
思いが相手にもあると思えるようになったこと。
そして、会長が少しずつ準備してきた環境整備と
私自身の心境の変化によるものでもありました。
会社は社会の公器
社長になってから、かつての会社でのお客さん
が外壁の修繕の仕事を頼んで来たことがありま
した。ここで感じたのが、企業が継続することは、
顧客の信頼を裏切らないことにつながることで
す。このことは、経営者になり環境が変わる中で
感じるようになりました。
かつては自分ひとりで仕事を完結していまし
た。誰にも負けない自信もありました。しかし見
る位置が変わり、同友会で経営の議論をして経営
者の仕事がわかるなかで、企業が存続することの
本当の意味を考えるようになったのです。
24
同友会で学び、会長がどんな思いで、(会社を
継承させる)バトンを落としてはいけないと思っ
たのか。その思いを想像すると自分も次の人にこ
振りかえると、「会社は社会の公器」、「中小企
のバトンを渡さなければならないと感じます。
業は自立を」と会長が常に言っていた言葉を思い
ここで大切なのは、先代の理念も継承していく
出します。会長の息子さんが医者の道を選んだ時、
ことです。この思いが会社を維持発展させる強い
次の後継者をどう会社の頂上に持っていくか真
信念に変わっていくと実感しています。
剣に会長が考えたに違いありません。
同友会の「労使見解」では、経営者は会社を維
社長になったら後継者を育成
持・発展させる責任があると言っています。この
「維持・発展していく」という言葉を私は軽く考
えていました。景気動向や仕事量、お金の流れは
社長になって新米の私ですが、これから私が 65
毎年変化するため、去年と同じでは維持すらでき
歳になったら社長を交代する予定を立てていま
ません。業績が悪くても給料は払わないといけな
す。つまり今年から 11 年後に次の人に社長をバ
いし、社員が家を買ったり子供が進学したりして
トンタッチします。
も皆が幸せになるように、会社を発展させないと
私も会長に育ててもらったように、これから社
いけないのです。
員の中から後継者を選んでいくつもりです。後継
者の育成に早いことはないと思います。会社には
会長がまだいるので、今以上に報告や連絡をして
バトンを継げるよう育てられる
コミュニケーションを深め、トップの考えを自分
の考えとすり合わせようと思います。
会長は会社を継続させるため、同友会の3つの
その後、会社を継がせる側・継ぐ側のお互いに
目的に沿って、長い時間をかけて準備をしてきた
シュミレーションできるようにして、私が退職予
のだと思います。共同求人で自分のパートナーを
定の 18 年後まで続けるつもりです。
選ばせ、産学連携で人脈や知識をつけさせる。
社内では古参社員に次の社長は私にするので
「人の役に立つ」理念の継承
協力を依頼していたようなのです。自社株の譲渡
も徐々に進め、銀行の対応など事業継承に際して
波風を立てないように細心の注意が払われてき
同友会らしい事業継承とは、経営理念を共有で
たと感じます。
きるもの。そうでなければ会社を継承することは
そして一番重要になってくるのが後継者教育
できません。会長は「人として人の役に立つ人に
だと思います。その点私は、長い時間をかけて育
なりたい」という考えを持っています。同じ理念
ててもらった気がします。もともと会社を継ぐ意
を共有できる私は幸せです。
識や覚悟がなかった人間ですから会長も大変だ
私たちは、人の役に立つために生まれてきたの
ったと思います。
ではないでしょうか。あなたは自分の子供に自分
の仕事を誇れるでしょうか。私は同友会に入会し
て経営者のあり方を知りました。
後継者は経営者のつもりで行動
これから私の好きなモノづくりの喜びを社員
に手渡さなければなりません。しかし社長は社長
事業を受ける側は、社長のつもりで行動してみ
の仕事をする役割があるのです。このことを理解
て、その考え方が正しいのか、社長と考え方が同
し、次の後継者に会社を経営するバトンを渡し、
じか確認する必要があります。そして退路を断つ
企業とその中に脈打つ理念を絶やさないことが
ため、取引先の金融機関や協力業者にも次の後継
者は私だと公言し、腹をくくるのをお薦めします。 私たちの使命だと思うのです。
会社を維持・発展させるという意味
25
報告者②:菅原 直樹氏
(株)菅原設備/専務取締役
(名屋第4青同友会)
大口顧客が民事再生
【会社概要】
創 業 /1998年
資本金 /300万円
総社員数/34名
年 商 /5.3億円
事業内容/給排水衛生設備
工事、浄化槽設
備工事、水道施
設工事
http://sugawara-setsubi.
co.jp/index.html
入社 7 年で土台を築く
本日は、父の会社である菅原設備と、M&Aを
した子会社での実践報告をさせて頂きます。私は
現在 34 歳で専務取締役として会社の後継者です。
大学の在学中に結婚して 1998 年、父の会社に入
社しました。入社当初は私の考えが甘かったこと
もあり、社長(父)から満足に仕事を教えてもら
えませんでした。社員に教える社長を見て、盗む
ように仕事を覚えました。
社長は昔堅気の職人肌の人で、何度も何度もぶ
つかりました。怒られながらも必死に働き、人の
何倍もの仕事をこなし、入社7年目には誰にも負
けないぐらいの自信が持てるようになりました。
辛かったですがこの時期に自分の考え方の土台
ができたように思います。
個人の力の限界
仕事は順調でしたが 2006 年、主力の社員3名
が相次いで退社してしまいました。当時は外国人
を多く採用していたため、考え方の違いやコミュ
ニケーションが上手く取れず、現場の意見はバラ
バラでした。それでも「何とかなるだろう」と若
さに任せてガムシャラに働きました。
そうしたら無理がたたり、2007 年に大きく体調
を崩し1週間寝たきりになってしまいました。こ
こで個人の力の限界を知ると共に、無計画だった
自分の姿に気がつきます。
その時は社長や社員の協力で切り抜けました
が、この先、不測の事態が起こるかもしれないと
危機感を募らせました。そこで自分がいなくても
会社がまわるように、日本人の社員の採用を積極
的にするようになりました。
まず人を採用するためには、安定した仕事量が
いります。そこで新規事業を開拓し仕事を増やそ
うとしました。
実はこの時、社長は日本人の採用や新規事業の
開拓に良い顔をしなかったのです。しかし私は強
引に話を進めました。当初は反対していた社長で
したが、現場に行くとしっかり切り盛りしてくれ、
おかげで新規事業は軌道に乗ったのです。
ところが 2009 年に、売上の半分近くを占めて
いた主要な取引先が民事再生法を申請してしま
います。この時はあわや倒産かと思われるような
危機を体験したのです。
その会社が危ないという噂は聞いていました。
しかし今までの積み上げで大丈夫だと思ってい
たのです。本当に読みが甘かった。社長が資金繰
りの話で、「大変だ」とか「苦しい」と言ってい
た意味がよくわかっていなかったと反省したの
です。
財務の知識を求め
この時、リスク回避ができた業者がいました。
その人達を見て自分の知識のなさを痛感したの
です。彼らと自分は何が違うのか。「俺はこのま
まではやばい」という思いから、財務の勉強がで
きる所を探していたら、同友会と出会い同年入会
します。
同友会では、人との意思疎通の大切さを学びま
した。会社では売上が急増していて、キャッシュ
フロー管理が重要になっていました。人の定着で
も苦労が絶えません。そこで財務の勉強に取り組
み、経営指針の存在を知り作成し社内で発表した
のです。同友会で経営の基礎を学ぶことができ、
本当の意味で経営者の仲間入りができたと思い
ました。
財務諸表を把握
それから同友会での勉強時間に比例して、会社
の課題が見えてきました。真っ先に目に付いたの
は、社長のドンブリ勘定、無計画な所でした。こ
の点に気づいてから、早く経理を任せて欲しいと
社長に依頼するのですが、
「おまえにはまだ 10 年
早い」と言われてしまう始末。
どうすれば良いか考え、まずは支払いの内容を
知るため、請求書をすべて開封し、独自に資金繰
り表を作りました。それを社長に「仕事の手間を
省くため、金額をまとめておきました」と報告し
ながら進めたのです。半年も経つと会社の経理を
26
お互いの立場に立って考えるのです。
すべて把握することができました。同友会で学ん
だ方針・計画も社長に見せたら賛成してくれるよ
うになりました。
目的は事業を継承することであり、先代の過去
の成功や失敗した経験も、後継者の夢ややってい
きたいことも共に会社が歩んでいくために必要
になってくるのです。
社長を担ぎあげる感覚
一番苦労したのは、個人と会社を分けることで
した。「俺の会社だ。嫌なら辞めろ」という社長
でしたので、いろいろな場面でケンカばかりして
いました。転機は同友会の会合で、「相手の事を
考えるのではなく、相手の立場に立つ」ことを学
んだことでした。これにより、今までの点(経験)
が線につながった気がしました。私の伝え方が悪
かったのです。社長を超えるのではなく、社長を
担ぎあげる感覚が必要だと痛感したのです。
それからというもの、採用・新規事業・労働環
境整備などすべてに社長に関わってもらうよう
にしました。社長と共に育っていく感じです。
M&Aでの学び
2012 年、既存事業の会社を対象としたM&Aを
行いました。つまり同じ業種の会社を買ったので
す。これは、もともと支店を出す予定をしていた
ので、仕事を作ったり人を育てたりする時間が短
縮できると考えたのです。顧問税理士や銀行に相
談をして、情報を集めて決めました。
この経験からの教訓は、前経営者との信頼関係
が最も重要であるということです。当初上手く人
間関係が築けず、ちょっとしたことで感情的にな
ってしまいました。社員の前で口論になったり、
社内も雰囲気が悪くなったりしたこともありま
す。
しかし良く考えてみると、先方にとっては自分
の人生をかけてきた会社です。社員も家族のよう
に苦楽を共にしてきたのです。同友会で言えば経
営理念のそういう思いに敬意を払い、すべての責
任を引き受ける姿勢が必要だったのだと気づき
ました。
しあわせな事業継承
「しあわせな事業継承」をするためには、コミ
ュニケーションが必要だと思います。時代によっ
てコミュニケーションツールが変わるかもしれ
ません。しかし大切なのは、膝を突き合わせて、
目と目をあわせて時間をかけることだと思いま
す。
いろいろ話すと目先の事でケンカするかもし
れません。しかしその時は、これからの会社の将
来のために話しあっているということを伝えた
方がお互いにとって良いと思うのです。お互いが
27
人は人でしか磨かれない
事業を継がせる方は、もどかしいかもしれませ
んが、是非、後継者に黙ってすべてを任せてあげ
て下さい。責任を任せられ必死になった時にこそ
人は成長できるのです。
事業を受け継ぐ方は、先代を超える気持ちも大
切ですが、一緒に担ぎあげる気持ちが大切です。
先代の立場に立って担ぎあげるのです。この思い
がリンクした時に会社はつながっていきます。
同友会でさまざまな学びがありました。飲み屋
で夜遅くまで討論をしていると、普段ではわから
ない、凄い経験をしている人や、大変な思いをし
てきている人がいることを知ります。行事を運営
する中でも、意見をぶつけ合いながら、それでも
成功できた時の喜びはたまりません。「人は人で
しか磨かれない」のです。
共通言語は経営理念
息子が 15 歳になりますが、息子には会社を継
がせないと言っています。親子の関係と仕事の関
係の両立は難しいため、息子とは親子の関係でい
たいからです。
誰に継がせるのか。弟か妹かどの社員か。後継
者を育成するには 10 年以上かかると今回のフォ
ーラムで学びました。最後にやはり事業継承とい
う会社の最も大きな課題をクリアするために必
要なこと。それは経営指針を成文化することだと
思います。
ここで重要になってくることは、経営指針に経
営者の思いやビジョンをすべて落とし込むこと。
これがしっかりできれば、社長や後継者、社員な
どにとっての共通言語になるといえます。このよ
うに信頼の核になるような経営指針の役割は重
要だといえます。
■座長まとめ
(有)パール金属・代表取締役
堀口 武人(名西地区)
この分科会で勉強したことは、会社の大前提で
ある、企業の永続性。ゴーイングコンサーン(企
業の存続可能性)といわれるものです。この事は、
サブテーマの「継続企業への挑戦」にあたります。
石黒さんの報告では、「企業は社会の公器」であ
り、
「企業は継続してこそ社会的責任が果たせる」
という具体的な経験を聞かせて頂きました。社員
や取引先にとって、存続し続けなければならない
のです。
よく経営は、環境適応業と言われています。多
くの場合、外部環境を見てしまいがちですが、こ
の分科会では、内部環境に着目しました。人の命
は有限なので、100 年後には今いる社員は全員い
なくなります。それでは、次世代にどうやって会
社や理念、技術を受け継がせていくのか。二人の
報告者がその環境をどう作ってきたのかよくわ
かる内容でした。
この分科会では、3 つの事業継承の形、他人継
承・同族継承・M&Aの例を取り上げました。全
方位的で盛りだくさんの内容でしたが、この 3 つ
は方法論の違いがあるだけです。いずれも根底に
あるのは、社員であり、取引先の幸せなのです。
今回のメインテーマは「幸せの事業継承」でした。
この「幸せ」の意味するところは、労使見解であ
り、人間尊重の視点にたった、人間が人間らしく
豊かに生きていけるものです。
このような「幸せな事業継承」をするためには、
誰もが後継したい会社にすることだと思います。
先代は後継者と一緒に、どんな夢があり、未来に
つなげていきたい理念がどこにあるのか話しあ
うことが大切です。この夢やビジョンを実現でき
る企業風土を培うことが重要といえます。この取
り組みが事業継承に必要な共育であると感じま
した。
日本の経営者の平均年齢は 60 歳を超え、企業
の 65%は後継者がいないため、そのうち 40%の
会社が数年以内に廃業・倒産するといわれていま
す。その意味で、この分科会で学びを深めた内容
は、大きな意義を持ちます。最後に私が伝えたい
ことは、経営者が引退しようとする時が事業継承
の時期ではないことです。みんなが後継したくな
るような会社作りそのものが事業継承であり、明
日から私たちが取り組むべき課題だと思うので
す。
28
【第4分科会スタッフ】
○座
長
堀口 武人(名西地区)
(有)パール金属・代表取締役
○室 長 近 並
崇(名古屋第 4 青年同友会)
(株)みつわ・取締役
○責任者 松村 祐輔(名古屋第 4 青年同友会)
(株)シー・アール・エム・代表取締役
○グループ長
片平 博己(江南・岩倉地区)
船 橋
勲(尾張北青年同友会)
石黒 直樹(知多青年同友会)
戸谷 善浩(北地区)
加藤 美代(港地区)
加藤 孝治(中区南地区)
住 野
新(中村地区)
酒 井
玲(名古屋第6青年同友会)
近藤 慶子(岡崎地区)
○記 録 八 田
剛(愛知同友会事務局次長)
⑤分科会
第
<経営指針の実践>
作った経営指針、やれないのは何故?
~社内での展開と実践するための課題を考える~
報告者
この分科会は、経営指針の作成ではな
く実践を課題とします。
経営指針を作成したものの机の中に
しまったままだったり、発表したが社員
に伝わっていない、あるいは経営計画の
実行段階で思うように社内展開できな
い等の悩みを抱えている企業は少なく
ありません。報告者は指針経営10年を
経て「めざす企業へまだ道半ば」と語り
ます。参加者全員で経営指針を実践して
いくための課題を討議し学びあう分科
会とします。
伊藤 智啓氏
(株)蒲郡製作所
代表取締役
(豊川・蒲郡地区)
【会社概要】
創 業 /1954年
資本金 /1500万円
総社員数/12名
年 商 /1.2億円
事業内容/精密機械器具部品製
造(アルミ・黄銅・樹脂の微細・
精密サプライズ加工を得意とす
る)、医療や航空宇宙分野および
産官学連携事業も手がける
http://www.gamasei.co.jp
年にガンで倒れ、一人息子の私が社長に就任しま
した。しかし、経営者の仕事もわからず自覚も持
てないままに 10 年が過ぎます。周りの先輩から
「二代目は創業者の3倍努力している背中を周
りに見せなくてはいけない」といわれ、社員が帰
った後も自分一人で夜中の4時まで働いて朝6
時に出社するなど血尿が出るくらいまで働きま
した。また、さまざまなセミナーや勉強会に参加
してレポートをまとめ社員に伝えたりしました
が、社員は「今度の社長はマメだ」くらいの反応
で全ての努力が空振りに終わっていました。
ある年末の大掃除でペンキの塗り替えをした
時、一角だけ塗装されていないので尋ねると「社
長が一人ですぐに仕事することができるよう残
した」との返事。これにはさすがに愕然として、
背中を見せているだけではダメで社員とはよく
話をしなければいけないと痛感をしました。この
時期は「社員は使うもの」というような感覚が根
っこにあったと思います。
そんなことを繰り返しているうちに父が他界
しました。そして翌年 2002 年は 1500 万円の大赤
字を出して、税理士から「会社はもってあと3年」
と廃業を進言される事態にまで陥ってしまった
のです。そこでやっと、「俺が会社を潰すわけに
はいかん」と経営者として覚悟が定まったように
思います。
「とにかく会社を何とか変えなくては」
「社長としての自信もつけたい」の一念で、IS
O品質マネジメントシステムの認証取得に挑戦
することを決めました。
父が創業して 60 年、当社は従業員 12 名の小さ
な“町こうば”です。OA機器、医療機器、半導
体検査機器、ヒューマノイドロボットなど多分野
の精密部品を1個から多くても 100 個前後で製造
をしています。
人工衛星、世界初を共同開発
社員みんなで考えた強みは、技術力・提案力と
情報発信力です。インターネットのホームページ
によって購買部門を介さない設計開発担当者か
らの直接受注が急増し、多品種少量生産で培った
高い技能やノウハウの蓄積にもとづく提案型企
業へと変わってきました。そしてアルミ微細精密
部品加工に特化し、思いや経営姿勢を訴求するこ
とで小さくても面白い企業としてブランドイメ
ージの構築を図っています。
また大学研究者にも関心を持っていただき、国
際プロジェクトの電波望遠鏡や金星探査衛星な
どの共同開発も行っています。それがテレビで放
映され近所で話題となり、社員が「子供に自慢で
きる仕事をしている」と言ってくれたことをとて
も嬉しく感じています。
ワンマン経営の父
父はワンマンで厳しく、「社員とは一線を画し
て壁をつくれ」と私を育てました。その父が 1993
29
るが、すぐに自分からやらなくなる」と社員に悪
評が立ちました。
腹のウチは“社員を思い通りに”
「自分自身も変わらなくては」と思ったので、
ISO9001の取得では社員との関係を見直
し若手3人を巻き込みました。会社の指針となる
ものを初めてみんなで取り組んだのです。多くの
時間と苦労を重ねて何とか認証を取得し達成感
を得ました。しかしその後、社員に「どう?何か
変わってきた?」と尋ねると「何も変わっていな
いよ、変わったのは社長だけ」と職人らしいぶっ
きら棒な返答が戻ってきました。今から思い返す
と、私の腹のウチを見透かされていたのかもしれ
ません。
ISO認証取得という大義名分のもとで、自分
が思うように社員を動かしたかったというのが、
その時の本心だったからです。
経営理念よりボーナスを
そんな頃に同友会に入会して経営指針を学び
ます。そして経営理念を作って社員に発表しまし
た。当時の経営理念では「社会に貢献する」の一
言が入っていましたが、社員は「社会貢献より自
分たちのボーナスを何とかしてくれ」との反応を
返してきました。
また、翌年は同友会が企画した「経営革新計画」
認証取得セミナーに参加して、「微細・精密加工
に特化」という方針を決めました。しかし、この
計画も社員に理解されず思うように進まず絵に
描いた餅の状態が続きます。
「共に育つ」を学んだ翌日の朝礼で報告をして
「明日からは何でも一緒に考えよう」と話すと
「社長は俺たちの言うことを何でも聞いてくれ
る」という誤解をされゴタゴタする状態も続きま
した。
とにかく「何とか会社を変えたい」「学んだこ
とを実践しよう」と手あたり次第あらゆることを
導入するのですが場当たり的で継続できないこ
とが続いていました。「社長は何か言っては始め
30
転機は社員の自発性
そんな中で同友会の共育研究会に参加してい
る他社を見学した際に、社員がいきいきと働いて
いる姿を目の当たりにしてハッと気づきます。
「私ひとりが学んで一人で決めていてはダメだ」、
その時に心底から思うことができました。そこで、
若手社員を大阪同友会会員企業の工場見学に出
してみました。すると帰ってきた社員が開口一番
に「社長、ウチでも3S(整理・整頓・清掃)を
やりましょう」というのです。翌日から3Sにつ
いてみんなで話し合い、取り組み始めて現在まで
ずっと継続することができました。これが大きな
転機だったと思います。
社長から押しつけられたことではなく、社員が
自分で学び自発的に考えてみんなで話し合い決
めていく、決めたことはみんなで実施していくと
いう社風につながってきたと思います。
社長の指針からみんなの指針へ
そして、リーマンショックを乗り越えたことで
社員に一体感や絆ができたように感じます。2009
年6月から9月まで売上が半減し、給与カットか
人員削減かの岐路で毎日のように社員と話し合
いをしました。私は経営者として「雇用は守りた
い」と訴えましたが、社員は「1円でも給与カッ
トは困る」と譲らず平行線のまま。しかし私は諦
めずに思っていることすべてを一人一人に懸命
に語り続けました。やっと何とか気持ちが通じ受
け入れてもらえた翌月から売上は回復して、最終
的には給与カットもせずに乗り切ることができ
ました。
その頃から、経営指針に対する社員の関心が高
まり意見もたくさん出るようになったと思いま
す。
当社では、毎年7月に指針発表会を実施し目標
は全体目標と部門目標を立てます。部門では自分
たちで話し合って目標や計画を決めています。毎
月1回の全体会議でPDCAをチェックし、3カ
月に一度は幹部3人と私で計画の評価と見直し
を行います。
また、教育制度も充実させています。各種技術
セミナーや他社工場見学会、改善活動のリーダー
養成塾や戦略戦術立案セミナーなど、社員が学ん
で他社の社員とも交流できる機会も積極的に取
り込んできました。
いていたが、今はお父さんが何をやっているかよ
くわからなくなった」とも言われました。
自分ではちゃんと見ているつもりだったのが、
やはり真底で社員と関わる気持ちが薄かったの
だということに思いあたり自分自身の姿勢を反
省しました。その後は年2回のボーナス前に個人
懇談を行い、仕事だけでなくご家族や地域行事や
PTA活動など、一人の人間まるごとで向かい合
っていろんな話を聞くようにしています。永年勤
続表彰も実施して、ご家族から「お父さん長年ご
苦労さま」と言われるようにしたいと思います。
また働きがいについていえば、製造業、特に図
面で加工する下請形態では加工する社員がユー
ザーの声を直接に聞くことは殆どありません。そ
こでユーザーの声が現場に届くように工夫をし
ています。例えば図面に工程担当者印欄を設けて
客先納品時にはそれを提示することです。「今日
は○○さんと□□さんが一生懸命つくりました」
と申し添え続けていくことでお客さんから「○○
さんと□□さんによろしくね」と言われるように
なりました。その言葉を社員に伝えていくことで、
やりがいや責任感に繋がってきていると思いま
す。
社員が情報公開を求める
2011 年の経営指針では経理公開や情報共有を
すすめました。「5年後に売上を1.5倍にしよ
う」と話した際、社員から「その根拠を説明して
くれ」と求められました。そこで幹部で方向性を
検討し、微細精密加工に特化し顧客を絞り込みな
がら他分野へ進出していくという方針や、具体的
な顧客対象先や得意先3カ年の売上予測とアク
ションプランなど、より詳細な計画を作成しまし
た。
また同時に、「1カ月の売上に対して今月は儲
かったのか儲かっていなかったのか、それすら知
らされていない」ともいわれました。以降は、月
次決算の内容と主要顧客の売上予測、顧客動向の
情報を社員全員で共有できるように整備しまし
た。
社員の頑張りに正当に応える企業づくり
人間まるごとで向かい合う
社員は何のために働いているのかを考えると、
「家族や愛する人から必要とされたい」「ありが
とうと感謝されるのが嬉しい」「仕事を通じて社
会に認められたい」という気持ちが強いのだろう
と思います。
ふとした時に社員から「先代は後ろを通っただ
けで背筋が伸びて恐かったけど、あんたよりずっ
と暖かった」「あなたは私のことをしっかり見て
評価してくれないじゃないか」と、衝撃的な言葉
を投げられたことがありました。また、ご家族か
ら「昔は家族食事会があって会社から直に話を聞
『日本でいちばん大切にしたい会社(坂本光司
著)』にも紹介された伊那食品の見学勉強会に参
加した時のことです。その会社の社員は「仕事が
大好きで地域活動も積極的に行い、半期ボーナス
は三ケタ近く貰って9割が持ち家を取得してい
る」という話を聞きました。その帰りの車中3時
間は悔し涙が止まりませんでした。わが社の社員
は衛星部品や他社ではできない素晴らしい仕事
をしていても、ボーナスや持ち家も満足できる状
況になかったからです。
同じように頑張って働いているのなら同じぐ
らいの対価や生活環境を提供してあげたい、しか
しモノづくり屋は大企業が一人勝ちで下請企業
が泣かされている現状があります。中小製造業の
地位が貶められていると感じています。中小企業
振興基本条例で自らの経営環境改善に取り組む
と同時に、どんな状況下でも社員が頑張れば利益
が出て楽しく働ける会社の環境をつくることが
経営者の大事な役割であり責務だと思います。
高付加価値“金額”から“仕事の誇り”へ
私は、社員に「長時間労働で稼ぐのがいいか、
それとも難しくても高付加価値な仕事をして8
時間で効率的に儲けていくのがいいのか」という
話をしてきました。
31
しかし、今回のフォーラム報告者として打合せ
や準備会を重ねる中で、仕事に対する誇りや思い
をもっと強く自分の中に持たないといけないと
いうことに気づかせてもらいました。
「他社ではできない、ウチがその部品を作らな
かったら機械自体が世の中に出ていかないかも
しれない。私たちはそうした大事な仕事をしてい
るんだ」「お困り案件を克服して時代の夢をかた
ちにする世界一の町工場なんだ」という理念を語
るべきでした。金額の話ではなく、いかに社会に
役立ち貢献しているかという話をすべきだった
のです。
当社では 15 年間新卒採用ができていません。
入社したいという学生もいましたが必ず親に反
対され、私も自信を持って説得できずにきました。
それは当然だったと思います。なぜなら自分の会
社に誇りを持って若者に夢を語れない経営者の
ところに人は集まりません。経営指針をしっかり
示しながら夢を語り共に働いていける会社づく
りを目指さないといけない、もっと強く自分の会
社に誇りを持って経営者としての自覚を深めな
ければいけないと思いました。
めざす企業像が変わった
10 年前は「社員 12 人で年間売上 12 億円の会社」
をめざしていました。
しかし、今では社員が毎日笑顔で働ける職場、
一人一人が違う中でお互いを尊重し個性を生か
した仕事をこなして誇りを持ってイキイキと働
いていくというのが理想です。地域の若者を雇用
し 30 人ぐらいの社員数で営業や研究開発部門な
ども設置し組織的に働ける自立型企業、雇用を担
い納税をして地域とともに育つ企業というよう
に変わりました。
けれど実際にはまだまだです。社員が主役にな
る場をつくるんだと言いながら自分が出しゃば
っている場面が多々あり、もっと努力が必要だな
ぁと痛感しているところです。まさに「共に育つ」
経営実践の真最中です。
また経営者として裸の王様にならないよう気
32
をつけたいと思います。反対意見を持った人を身
近に置くようにして、「また社長は今でも一人で
仕事をしとるなぁ」とか「周りが見えていないん
じゃないの」と指摘してもらうことが大事なので
す。
「すべての原因が自分にあると思え」
「経営者
というだけで社員は威圧されている」「経営者の
言葉は重い」と言ってくれる人が私にとっては大
事な存在です。
人を育てる喜び
今回フォーラムで報告させて頂く機会を与え
てくださり、一番この中で学んだのは私だと思っ
ています。自社の仕事に対する誇りや社会貢献に
ついてもっと胸を張って語れる経営者になり、地
域で雇用し組織として動かせる会社にしたいと
いう思いに至りました。もっと経営者としての思
いを深く強く持たないといけない。そしてもう一
つ「人を育てる喜び」について座長や室長に教え
て頂きました。「やはり経営者の一番の喜びは社
員の成長を見る事だ」という話を伺って、私の中
でははっきりした意識としては無かったんです
ね。それが、社長の仕事は社員が活躍し成長する
舞台を整えることなんだと、自分が演者になって
はいかんと、そのあたりの確認をさせて頂きまし
た。
逃げない、あきらめずに努力し続ける
報告にあたり『人を生かす経営(労使見解)』
と『経営指針作成の手引き』を二カ月間で 10 回
ぐらい読みました。そして大事なことは全部この
中に詰まっている、というのが今の私の率直な気
持ちです。同友会の言っていることに間違いはな
いと改めて思いました。
『人を生かす経営』の前書きにある四つのこと。
どれひとつとっても、そんなに簡単にできること
ではないと思います。しかし諦めずに、近づいて
いく努力を今後も続けていかなくてはいけない
と考えています。
経営をすすめるにあたって最も大切なことは
『経営指針作成の手引き』9ページ目に記載があ
る二点に集約されます。
一番目は、会社の方向性が間違っていると致命
的になるので多方面の方や専門の方々に会う機
会を増やし、情報を得て自分のブレーンになって
頂くことで総合的な判断をしていくということ。
そしてもう一つは社員との信頼関係を築いてい
くこと、そのためには日々の約束ひとつひとつを
大切に守っていく、ということが最も重要だと思
っています。
逃げないこと、社員と真正面から向かい合って
いくことで道は開けていくのだと思いを強くし
ました。
本当に今回の報告を通じましてたいへん勉強
をさせて頂きました。あらためて御礼を申し上げ
させて頂きます。どうもありがとうございました。
■座長のまとめ
(株)高瀬金型・代表取締役
高瀬
喜照(稲沢地区)
本日は、「経営指針の実践」というテーマで討
論をしました。そもそも経営指針は何のために作
るのでしょうか。もちろん会社を良くしていく、
進むべき方向性を示しながら良い会社にしてい
くためでしょう。そうであるならば社員や関係者
との関わりについて考えていかざるを得ません。
その中で、経営者自身が「自分はこの会社を何
のためにやっているのか」「自分のこれまでの生
き方は良かったのか」「これからの生き方はどう
していくのか」と、自分自身を見つめ直すことが
大切になります。
経営指針の作成と実践は別々のことではあり
ません。経営指針を作って実践していく、実践の
中で問題にぶつかり悩みながら学び直すことで
自分が今まで気づいていなかった新たなことに
気づき経営者自身が成長をしていく。そうしたサ
イクルを繰り返す中で経営指針がより深まって
いく、というものなのでしょう。
伊藤社長も、最初はお父さんから引き継いだ経
緯により「社員を使っていく」という姿勢から、
「我慢をしながら社員の意見を引き出していく」
という姿勢に変わったという報告でした。社員と
のいろいろな関わりの中で「やはり自分が間違っ
ている」と気づくこと、気づかされることが沢山
あります。また、社員の成長を見て喜びながら経
営者自身も成長していきます。いずれも経営者自
身が変わり成長していくことがベースとなりま
す。それなくして社員の成長はなく、会社がまと
まっていくこともないでしょう。
そういう意味では、同友会は非常に大切な学び
合いができる場です。自分だけで変わろうと思っ
33
てもなかなか変われない。例会やグループ会やフ
ォーラムなど、いろいろな場で自分の体験を話し、
人の体験や悩みや苦労などを聞くことによって、
そこから新しい気づきがあり新しい道が開けて
いくのだと思います。
もう一つ、経営指針実践編講座。携るスタッフ
が受講者一人一人と向かい合いながら自分のこ
とのように一所懸命にサポートしています。もち
ろんスタッフ自身が学び成長をしています。
さまざまな機会を活用し、同友会会員全員が成
長をして良い会社を作っていくということが良
い社会づくりにも繋がり同友会運動が発展をし
ていく道のりとなります。
経営者は本当に厳しい悩みがたくさんありま
すが、一緒にその悩みを乗り越えて良い会社をつ
くり良い社員を育てていきたいと思います。
【第5分科会スタッフ】
○座
長
高瀬 喜照(稲沢地区)
(株)高瀬金型・代表取締役
○室 長 徳升 忍(刈谷地区)
(株)ドライバーサービス・代表取締役
○責任者 松村 雅人(緑地区)
(株)クリスタルガード・代表取締役
野々部顕治(知多地区)
野々部技術士事務所・所長
○グループ長
古谷 晴義(名古屋第2青年同友会)
宮阪 晴夫(守山地区)
鈴木 建男(天白地区)
荒澤太一郎(中川地区)
浅井 正勝(西地区)
相良 義幸(名古屋第3青年同友会)
○実行委員
八幡 仁美(名古屋第3青年同友会)
○経営指針推進本部
石田 篤則(豊川・蒲郡地区)
山田 健雄(西地区)
松山 一郎(名東地区)
○記
録
加藤
美穂(愛知同友会事務局員)
⑥分科会
第
<経営指針の実践>
生きたビジョンでこれからの時代を切り拓く!
~経営理念からのビジョンづくりへ。5年後、10年後の我々の姿は!~
報告者
先行き不安のなかで日々現状を打破
しようと悩む経営者が数多くいるなか、
社員と共に将来を見越した明るい会社
づくりを誰もがめざしています。そのビ
ジョンには経営理念の成文化が必要と
なり、経営理念が経営のあらゆる活動の
源になっていることが良い企業づくり
の第一歩だと考えます。
本分科会は経営者自らが自問自答を
通じて経営理念の明確化し、そして守る
べき社員やその家族の将来を盛り込ん
だビジョンづくりへと踏み出す機会と
します。
水戸 勤夢氏
(有)アーティストリー
代表取締役
(中村地区)
【会社概要】
創 業 /1994年
資本金 /300万円
総社員数/28名
年 商 /2.8億円
事業内容/木製家具製造業(オー
ダー家具、陳列什器、
木製品)
http://www.artistry.co.jp/
5年・10 年くらい先の明るくて楽しい企業像の
こと、②社員も一緒になって企業の将来をイメー
ジできるもの、③時代背景(経営環境)に関係な
く、「こうなりたい」という想いが表現されたも
の、④企業で働く社員の将来も描かれていること、
以上4点です。経営者は上記4点を踏まえ、当面
の具体的な企業の将来像を描くことが「ビジョン
づくり」になります。ここで注意することは、企
業の目先の問題に意識が集中しないようにする
ことです。企業の将来像を描くうえで、「そうは
言っても、現実はなかなか厳しい」といったこと
を避け、企業の語源「業(わざ)を企(くわだ)
てる」にあるように、まずは「どんな企業にした
いのか」という切り口から当面の企業の将来像を
描き始める事が大切です。
以上を踏まえ、以降は、私が行ってきた「ビジ
ョンづくり」についてご紹介します。その時々に
共通しているのは、企業の課題を解決する内容を
ビジョンとして掲げてきたことにあります。
ビジョンが生きた状態にない
私たち経営者は、日々の足元にある経営活動だ
けでなく、将来を見越した企業づくりをして、社
員やお客様、そして地域からあてにされる企業に
していかなければいけません。そのためには、企
業経営において経営理念の実現を目指し、経営方
針の策定、そして経営計画を立案することが必要
です。しかし、現実的に、いきなり夢や理想の塊
である経営理念の実現に向けた具体的な方針や
計画をつくるのは難しいことです。そこで、経営
理念に近づくための当面の目標として、5年後か
ら 10 年後の企業の将来像「ビジョン」を描く作
業が必要です。
フォーラムの事前アンケート結果では、企業の
ビジョンは企業経営に必要だと分かっていても
具体的に実践する事ができない、またビジョンが
“企業で生きた状態”になっていない、という声
声がたくさんありました。それは恐らく、ビジョ
ンとは何かという定義(考え方)、そして経営指
針における位置づけが不明確だからではないで
しょうか。そのため本分科会は、「ビジョン」と
は何かを正確に理解し、ビジョンづくりへのきっ
かけの場にすることにしました。
私の生い立ち
当社は、家具をオーダーで製作・販売する企業
です。店舗・商業施設の陳列什器・木製品(受付
カウンター等)がメインで、モデルルームを含め
ても住宅家具は年間5%ほどの割合です。仕事量
は年間 700 件ほどで、棚板1枚で数千円から数万
円の仕事もあれば、一千万円を超すような仕事も
あります。現在、工房は4つあり、事務所はそこ
ビジョンとは何か
私が考えるビジョンの定義(考え方)とは、①
34
に併設しています。
私は 1965 年に三重県海山町という自然に囲ま
れた町に生まれ、そこで幼少期を過ごしました。
父親世代が働き盛りだった頃は地元の木材を使
った木材製材業が盛んで、到るところに端材がた
くさんありました。子供の頃、祖父がその端材を
使って小屋や竹トンボを作ってくれましたし、私
が木材で何か作ってプレゼントすると大変喜ん
でもらえました。そのような環境下で育った私は、
将来は木材を使ったものづくりの仕事をしたい
と思うようになりました。それから、私は三十歳
までに社長になると決めて名古屋に来ました。そ
してみると、「経営者がこんな想いで経営してい
の後、二十八歳で企業を興し、二十九歳で結婚し
る」という想いが、実は企業のビジョンへと密接
ました。
に繋がっていることに気付きます。
私は、1人で立ち上げた会社を5人体制にする
アーティストリーの経営理念
ために、「来る者拒まず」の考えで採用を続け、
創業から二年半で達成しました。しかし1人目は
自社の経営理念は、「私たちは、モノづくりを
二ヵ月で退職するなど、その当時は社員が安心し
通じ、“思いやり”と“独創性”で社会に貢献し
て長年働ける企業ではありませんでした。当時の
ます」です。経営理念はこれまで何回も作りまし
私が考えた企業の将来像は、経営者の個人的な想
たが、その度に社員から「何が書いてあるのか分
いのみが描かれた「単なる数値目標」でしかなく、
からない」と言われました。そこで、「アーティ
全社で共有され、企業で目指す目標からはほど遠
ストリーは、社員一人ひとりがみずからの力を最
いものでした。つまり“生きた状態”ではなかっ
大限に発揮し、助け合うことで、お客様に質の高
たということです。ですから社員は、人生をかけ
いサービスを提供する企業として、モノづくりの
てまでは今のアーティストリーについていけな
喜びを追求し、業界のパイオニアを目指していま
いと思って退社したのだろうと思います。
す」という補足説明を加え、何度も社員一人ひと
りに説明してきました。今では、この経営理念が
将来に不安がある
社員の行動指針となっています。
創業当時から私は、「変わった企業、すごい企
最近では家具業界のなかでも女性の職人が増
業と言われたい」という想いと、具体的な目標と
えましたが、創業当時の 1990 年代はほとんどい
して「5人体制の会社」がありました。その理由
ませんでした。いろんな事を経験して成長してい
は、私が約8年間修行していた家具メーカー、ま
かなければ企業は発展できないと考えていた私
た営業で回った木工屋のなかで一番大きかった
は、業界に先駆けて女性社員の採用に挑戦しまし
会社が5人体制だったからです。ですから創業の
た。その時入社した、女性社員から学んだ様々な
準備において、5人体制企業を実現できる約 80
ことが、アーティストリーの進路に大きな変化を
坪の建物を探しました。もし、このような具体的
もたらしてくれました。
な企業像がなかったとしたら、今よりも小規模
ある時、その女性社員から「将来に不安がある」
(敷地・社内体制等)で起業し、また人を採用・
と言われ、私はそこで社員がどのような状況に置
教育してここまで会社を大きくすることは難し
かれているか気付きました。家具業界は、お客さ
かったと思います。今になって当時のことを整理
んに工場や会社に来てもらうことが多くありま
すが、お客さんと会話する機会はなかなかありま
せん。他者と直接的に関わることが少ない社員は、
誰のために、何のために目の前の仕事をしている
のか分かりにくい状態だったのだと思います。そ
のような状況ではもちろん、働きがい・生きがい
を感じにくくなり、企業と自身の将来に不安にな
ってしまうことが分かりました。
また家具業界は1人、もしくは家族経営が一般
的で、総社員数が 10 名以上の企業は稀だと思い
ます。有給休暇制度や退職金制度、社会保険加入
などは無くても不思議ではない業界でしたので、
35
アーティストリーは本当の意味で「企業らしい企
業、社員が働きやすい企業」にしたいと考えまし
た。そこで経営者として必要なことを一から学ぶ
ために 1996 年に愛知同友会に入会し、その後、
企業のビジョンで「社員が生き生きと働く会社」
を掲げました。
働き続けたい会社へ
当社には、いくつもの会社を転々としてきた職
人がたくさんいます。
「腕があれば引きて数多で、
いつでも転職できる」という姿勢を職人に社内で
出されることが苦手でした。そのため社員に「ア
ーティストリー以外では働きたくない」と言って
もらえるような会社へ成長していきたいと思う
ようになりました。
そのためにはまず、社員が気の合う者同士が集
まって社内で派閥をつくるのではなく、社員同士
がお互いを理解し支え合う関係になることが必
要だと考え、年齢構成がバラバラの「チーム制」
を導入し、チーム全員参加の飲み会をする時には
補助金を出すようにしました。また、企業全体で
は年に5回の行事を開催しています。家族を招い
てのバーベキューや勉強会を開催したりして、社
員がいろんな人と触れ合える機会を作りました。
社員は仕事中に会話をすることが少ないので、そ
のような機会に社員同士がコミュニケーション
を取ってもらうことが狙いで、いまも続けていま
す。
また全社で想いや情報を共有するために、まず
は社員の声を集めることにしました。最初は、社
員から報告するように仕向けていましたが、そう
すると余計に報告が減ります。その理由は、営業
担当者も含めて職人気質の社員が多く、自分から
話すのが苦手だからです。その経験を踏まえて、
聞きたい事を私自らが直接社員に聞きに行くよ
うにしています。
内向きのビジョン
かつては企業内部のありたい姿だけを描いた
36
ビジョンをつくり、社員だけに発表していました。
その当時、知り合いの弁護士から「弁護士の仕事
は、問題を解決して普通の状態(マイナスからゼ
ロ)にすることだから、ゼロから1や2を新たに
生み出していくモノづくりの仕事が羨ましい」と
言われました。その時、自身もこれまで会社のマ
イナスをゼロにすることばっかりやっていたこ
とに気付きました。社員の残業時間を減らそうと
か、休みを増やそうとか、社員が働きやすい環境
をどう作るかということに専念していて、無意識
にビジョンが企業内部の課題のみを解決する「内
向きのビジョン」になっていたのです。
さらに、「内向きのビジョン」を基に仕事をし
ていては、お客さんの事を考える習慣が弱くりま
す。社会保険が整備される、休みが増える、早く
帰れる等は、お客さんにとって直接関わりの無い
ことです。以前、急ぎの仕事でお客さんが約束の
時間よりも早く来てしまったことがありました。
お客さんが待っている目の前で急いで約束の商
品を作り上げるのは緊張するものです。その他の
仕事を止めて皆で急いで作りましたが、約束の時
間より遅れて完成しました。後で聞いた話ですが、
社員はふてくされたように嫌な顔をして作って
いたそうです。また別の日には、急いで製品を取
りに来たお客さんに対して、車への積み込みを社
員は誰も手伝わなかったそうです。それは、お客
さんから「あんたの社員は誰も手伝ってくれな
い」と言われたことで気付きました。社員がお客
さんの方を向いていないのは私の責任だと思い
ました。私は社員が自分のペースで仕事をするだ
けのわがままな人間を育てるようなビジョンを
掲げていたのです。
目指す方向を明確にする
これまでを反省し、これからのビジョンは外部
のお客さんや地域に見せられるものにしようと
決めました。以前と大きく異なるのは、「自社を
応援してくれるのは誰か」という企業外部からの
視点がビジョンに入るということです。
これまでは、私がビジョンを作ってから社員に
共有していく流れを取っていましたが、これから
はビジョンを作るところから社員に参加しても
らい、そのなかで共有していくことにしました。
はじめに私は各製造チームの会議に参加し、これ
までのビジョンは内向きだったということを伝
え、アンケートに協力して欲しいと伝えました。
これまでもアンケートを実施し、会社の改善点を
中心に答えてもらいましたが、それはマイナスか
らゼロを目指すことなので、辛いことがたくさん
ありました。しかし今回は前向きに、同業と比較
して自社のすごいと思えるところを書いてもら
うことにしました。次に、5年から 10 年後の期
待したい会社像(姿や状態等)を社員に書いても
らうことにしました。アンケートの文章だけでは
社員の考えが分からないので、アンケートに書い
てもらった内容を踏まえて、その後、個人面談を
実施しました。久しぶりにやってみて思った事は、
社員個々の想いが知れただけではなく、企業戦略
のヒントも社員からたくさん出てきたというこ
とです。
ここで気付いたことは、経営者は社員とお互い
の立場と夢を深く理解することに努め、さらに共
に何を目指すべきなのかを具体的なビジョンに
表し共有していくことが必要だということです。
それによって社内で共通の価値観が生まれ、一緒
につくったビジョンが“生きた状態”になってい
くのだと思います。
社員と共に鍛えたビジョン
そのような過程を経て、「イノベーション(革
新)で夢の実現 1.「対応力・完成度・協力体
制」で業界のトップランナーになる 2.オリジ
ナル家具を身近なものにする」というビジョンが
できました。
「業界のトップランナー」とは、
「例
えば運動会で一番になって、一番の旗のところに
座っている状態ではなく、“いま、正に先頭を走
っている状態”にアーティストリーはなりたい」
という想いから生まれた表現で、これも社員の提
案です。ビジョンは文章としては書いてある通り
ですが、その言葉を使った経緯や意味を社員と共
有する事が重要です。やはり作っただけでは意味
がなく、共有して始めて全社の行動指針になると
思います。
オリジナル家具を身近に
自社の新しい挑戦に、「オリジナル家具を身近
なものにする」があります。家具がオーダーで作
れることを一般化する、お客さんにとって当たり
前のことにするという目的です。その昔、家具は
近所の家具屋さんが作っていました。しかし時代
の変化と共に家具の大量生産が行なわれ、いつの
間にか「家具は買いにいくもの」という認識が世
間一般の常識になったのです。そんな状況を見て
きた私は、「家具はオーダーで作れる」ことを世
の中に広げていく使命を感じました。
そのため当社は、会社が休みの日も社員に工場
を開放し、自由に機械を使ってもらっています。
「自分で家具を作って喜んでもらいたい、またそ
れによって技術も向上してもらいたい」という想
いで始めました。家具は自分で作ってみないと家
具の本当の魅力は分かりませんので、社員に家具
づくりの楽しさを経験してもらうことを自社は
大切にしています。これからも社員と一緒に世の
中のお客さんへオーダー家具の素晴らしさを発
信していきたいと考えています。
私はこれからのビジョンづくりにおいて、さら
に「今までの仕事を強くするビジョン」「新しい
ことに挑戦するビジョン」の二本柱が必要だと考
えました。当社の場合、これらのビジョンは、た
たき台を作って文章ベースで幹部と考えを交流
し、それから各製造チームに発表しました。どの
企業も昨今の経済情勢のなかで厳しい状態にあ
るからこそ、大胆な発想で企業の在り方を転換し
ていくことも必要です。さらに、社員にもわくわ
く感が得られるビジョンにしたいと考えて、社員
と一緒につくることを決心しました。
あてにし、あてにされる関係へ
経営者はその経営における経験が長ければ長
37
とめていくことです。
社員に夢を与える、または社員と夢を語るのが、
同友会の経営者です。同友会で学ぶ経営者が、ビ
ジョンが無いというのは寂しいと思いますので、
ぜひビジョンを持って、社員と共にいい会社を目
指していただきたいと思います。
【第6分科会スタッフ】
いほど、「今まではこうだった」と考えると思い
ます。ビジョンに関しては、素直に子供の様に「あ
あなりたい」「こうなりたい」と企業の未来像を
考え、その実現に向けて努力することが必要だと
思います。私が会社を興した当時の目標は5人体
制でしたが、それは私に経験や知恵が無かったた
めに描く事ができた目標でした。もし経験があれ
ば、「しかし、実現は難しいかもしれない」と考
えたかもしれません。
ビジョンというのは、企業外のお客さんのため
に何をするのか、社会のために何をするのか、と
いうことが大切です。ちなみにビジョンという言
葉には「想像力」という意味があります。ビジョ
ンとは「見えるもの」ではなく「見たいもの」で
あり、未来予測ではなく「未来をつくりだすもの」
だと思います。
企業経営において大切なのは、経営者も社員も
お客さんも皆同じ“人間”だということです。人
間には存在感と達成感が欠かせません。社員はお
客さんに褒められる、認められるということはと
ても嬉しいもので、生きる活力が生まれます。社
員も社会で生きるひとりの人間として他者に大
切にされること、それを実現するには経営者が社
員を大切にすることが大切だと思います。どんな
会社にしたいのか、大切な社員をどんな人に育て
ていきたいのか、社会との関わりのなかで自身が
想い描く会社のビジョンを皆さんも描いてみて
はいかがでしょうか。
社員に夢を与える、社員と夢を語る
ビジョンというのは、同友会では聞きなれない
言葉ですが、実は、経営指針をつくるプロセスの
なかで必要です。最初につくる経営理念は、山で
例えると山頂に当たり、最終の目的であり目指す
ものなのです。山頂を見て経営計画を立てようと
しても、なかなか具体化することは難しいと思い
ます。
そういう時に、例えば山の三合目(三年後)や
五合目(五年後)を見て、あそこまで登ってみよ
うというのがビジョンで、少し先の将来や夢をま
38
○座
長
野田眞太郎(中村地区)
(有)野田工業製作所・代表取締役
○室 長 小島英一郎(豊明地区)
(株)小島良太郎商店
○責任者 渡邊 宏修(豊橋地区)
グッド住マイル(有)・代表取締役
○グループ長
磯村 幸男(知多地区)
稲垣 秀生(天白地区)
伊原 多聞(豊田地区)
梅 村
諭(豊田地区)
神田 章次(緑地区)
白木 一郎(北地区)
杉山 元一(熱田地区)
高場 善樹(豊明地区)
高松 幸雄(熱田地区)
松家 宏幸(天白地区)
松山 吉伸(豊橋地区)
○録 音 磯村 幸男(知多地区)
○実行委員
鈴木 裕次(愛北地区)
須田 宗樹(名古屋第1青年同友会)
高崎 圭司(北地区)
高橋 政文(名古屋第6青年同友会)
瀧本 裕巳(知多青年同友会)
服部 常雄(碧南・高浜地区)
山口 国大(江南・岩倉地区)
○記
録
墨
隼 人(愛知同友会事務局員)
⑦分科会
第
<経営指針の実践>
金融機関に評価される経営指針とは?
~具体的な実例に学ぶ計画作り~
金融円滑化法の終了、円安の影響、さらなる
グローバル展開と、不透明な情勢が続いていま
す。しかし私たち中小企業家には、どんな環境
変化にも対応し経営を維持発展させる責任が
あります。とりわけ資金面においては、自社の
状況や環境の変化を把握しながら自社の未来
を描き、実現できる計画を立て、それを基に金
融機関との協力関係をつくることが急務です。
この分科会では計画書に基づく経営改善の事
例を通し、発展をめざす企業にとって生かせる
計画づくりと実践について学びます。
報告者①
中嶋 修 氏
板橋区立企業活性化センター
センター長(会外)
報告者②
徳島 孝志氏
徳島興業(株)
代表取締役
(南地区)
資金繰り表や計画書も我々が一緒に作り、銀行
にも一緒に行きます。区内の各銀行や、中小企業
庁や金融庁などの行政機関ともネットワークを
構築し、協力を得られるようにしています。
こうした取り組みが最近マスコミにも取り上
げられるようになり、現在は各報道機関や政府関
係機関から急速に注目を集めるようになってき
ております。
この「板橋モデル」を全国に広げたいというの
が、私の一番の願いです。金融庁も現在それをめ
ざしています。ぜひこの愛知でも、この機会にこ
うした支援体制をつくっていただきたいと思い
ます。
報告者①:中嶋 修 氏
板橋区立企業活性化センター
センター長(会外)
【会社概要】
創 業
/2002年
事業内容/自らの経営経験と
失敗経験を活かし、さまざまな
問題点を相談者と一緒に考え、
一緒に解決していくコンサル
タント。企業再生:経営改善:
創業支援:資金調達:販路拡
大:事業承継:法的手続き、他
http://www.itabashi-kigyou.
jp
深刻な危機にある中小企業の状況
中小企業の救世主「板橋モデル」を全国に
さて、まずは現在の中小企業を取り巻く状況に
ついて整理しておきます。
私は、板橋区立企業活性化センターで、多くの
昨年3月時点のデータを引用しますと、中小企
経営者の方の悩み相談を受けております。私自身、 業は全国に約 430 万社あり、その中で金融円滑化
400 億の負債を抱えて会社整理に至ったことがあ
法を利用した企業は推定約 40 万社、そのうち危
り、決して自慢できる経歴ではありませんが、そ
ない企業は約5万社と言われていました。返済の
の時の経験が結果的に経営相談や中小企業の救
条件変更、いわゆるリスケ(リスケジュール)を
済支援に生きています。
した企業の借入金総額は推定 100 兆円、一社の重
私どもの経営改善チームの特徴を紹介します
複申請分を差し引いても約 20 兆円で、消費税増
と、今のところ4年間で 200 社を再建した実績が
税分ですら比ではありません。それほど中小企業
あります。どんなに悪い状態の企業のどんな相談
の経営環境は危機的であると言えます。
でも、土日祭日夜間でも、相談に乗っております。
中嶋独自での債務者区分分類データでは、利益
チームには、税理士・弁護士など専門家 200 名
を上げている「正常先」は約 40%、良くも悪くも
以上の他、現役の経営者や役員の方などで構成し、 なる可能性がある「普通」の企業は約 20%で、こ
現場に即した対応ができるようにしています。
の層への支援・金融施策は幅広くあります。ただ
39
し今の時代は状況次第で一気に悪化する可能性
もあるので、油断は禁物です。
問題の、経営改善をしないとリスケに移行する
可能性がある「リスケ予備軍」は 25%、「リスケ
実行」まで行っている会社は、15%程はあると見
られます。
「リスケ予備軍」「リスケ実行」企業への支援
施策として、再生支援協議会や認定支援機関など
が用意されていますが、多くの企業が相談する場
所もなく支援が受けられない状態にあることが
一番の問題です。こうした企業を守ることが第一
優先だと位置づけ、私たちは支援活動をしていま
す。
ところで融資の際に信用保証協会を保証人と
して利用している方は多いと思いますが、債務を
返済できない場合に保証協会が返済を肩代わり
する制度が代位弁済で、発生すると企業は保証協
会に対して弁済する責任が生じます。もしリスケ
企業を倒産させようとなった場合は、この代位弁
済が多数発生し、それに対して膨大な税金が投入
される事になります。
問題はそれだけでなく失業者の急増、多数の住
宅ローン破綻、多くの失業保険給付者・生活保護
受給者を生むことに繋がります。さらに経営者自
身も自己破産や連帯保証で破綻する問題が多発
し、連鎖倒産で負の連鎖が広がります。このよう
に経済や個人の人生への打撃は図り知れません。
ですから、たとえ「ゾンビ企業」と言われるよ
うな延命状態の企業であっても、「破綻させろ」
という意見は論外だと考えています。頑張ってい
る中小企業に潰してよい所などありません。
融資にかかわる基礎知識
さて次は、融資に関して知っておきたい基礎知
識をまとめます。
まず「リスケ」は、実行すると元本返済が猶予
されます。実行した場合新規融資が全く受けられ
なくなり「最後の手段」に近い方法ではあります
が、正常の返済額に戻して半年間継続できれば、
リスケ状態から脱却することができます。
40
「格付」と「引当金」は融資判断の重要な要素
です。次の徳島さんのご報告で解説されます。
また社長は原則的に「連帯保証人」になり、会
社借入の重い責任を個人で負う事になります。一
度でも事故を起こすと「期限の利益の喪失」とい
う規定によって、全ての債務返済が一度に求めら
れることに注意が必要です。
定期預金などの「拘束性預金」を担保として求
めてくる銀行も多いですが、証書を銀行に預ける
ため自分で解約する事ができなくなりますから、
できるだけ避けることが望ましいです。
また、消費税や事業税、社会保険などの支払い
が遅れる「公租公課延滞」があると、基本的に借
入が出来なくなります。
金融機関や保証協会から見た借入金の適正額
は現在月商の3~5ヶ月分と言われており、昔の
年商分までは適正だった時代から、かなり厳しく
なっています。
売掛金は毎年残高が変わらない場合、「回収で
きていない不良債権」と見られます。
事業承継問題は大きなチェックポイントで、大
体 55 歳以上の経営者は後継者の有無が問われま
す。
不動産を担保に入れている場合は、その実勢価
格も重要で、地価下落は融資額上限の低下に直結
します。
金融機関を取り巻く環境と対応のポイント
金融機関の現状と対策についてのポイントで
す。
銀行の支店決裁は減っており、本部に権限が集
中している銀行が多いです。特に営業担当者には
権限は全くありません。
自己査定(債務者区分)の良くない企業に対し
ては、リスクと多額の引当金を積まなければなら
ないため貸し渋られます。また「責任共有制度」
により、保証協会付き融資は、貸付額の 20%の責
任を銀行が負わされていることも、融資を難しく
している原因になっています。
さらに現在、銀行員の「目利き力」は期待でき
ません。決算書の数値だけ見て判断される事がほ
とんどです。そして延滞や破産などの事故を起こ
した場合、現職担当者の評価が落ちてしまうため、
できるだけ問題を先延ばししようというのが今
の銀行の姿勢です。
銀行にとっては自己資本比率の確保も重要な
問題で、貸付金を減らしたり危険な融資を避けた
りする事で確保しています。これによって貸し渋
り・貸し剥がしが今まで起こっていました。
リスク回避のため、信用保証協会の利用競争が
起こっていて、プロパー融資は担保物件がなけれ
ば殆どできません。
資金調達と資金繰りのポイント
次に資金調達や資金繰りについてです。
一番大切なポイントは、経営者自身が資金繰り
を熟知する事です。最も重要な資料は資金繰り表
(キャッシュフロー計算書)です。と言うのも、
これを作るには貸借対照表・損益計算書・営業計
画書など、財務に関するすべての資料が必要だか
らです。これを作っていく事で、利益率やすべて
の経費が確認できます。何よりも資金がいつ枯渇
するのかの目安が分かります。
特に、日繰り資金表を経営者自身が作ることで
す。その過程で、今まで見えていなかった盲点が
見え、経営改善につながる他、支払い日や入金日
の整理ができ、いざという時に役立ちます。
次に金融機関との付き合い方ですが、基本的に
は営業と全く一緒です。ケンカをしたり、愚痴・
不満をこぼす事はもっての他です。また決算期や
半期の節目などに定期訪問する事も基本です。支
店長や次長など、責任者との友好関係は必須です。
話し合いの際に用意すべきものとして、まず資
金繰り表と資産表は必ず要ります。事業計画書
(損益計画書)と今期の見通し資料も用意して下
さい。その他には契約書や注文書・請書といった
証拠書類、新規の事業計画書などがあればより良
いです。
また、返済した金額は通常であれば折り返して
借入可能ですが、早めの申し込みが必要です。
その他、動産担保(ABL)という、機械什器
や在庫品、少し危険ですが売掛金債権などを担保
にする方法もできています。
業績悪化の際には雇用調整助成金(中小企業雇
用安定助成金)やセーフティネット保証(5号認
定)もぜひ利用して下さい。資産売却や会社の一
部門を売る(営業譲渡)という方法もあります。
それでもダメな場合はリスケを行います。最悪
代位弁済になりますが、まだ倒産ではありません。
ただし、極めて危ない状況であることには間違い
ありませんので、この段階では法的手続きも視野
に入れていきます。
万一に備えてリスク管理、後顧の憂いを絶
つ
さて、中小企業経営者は自分自身も連帯保証人、
私財も担保にして必死に会社・社員・利害関係者
を守っています。失業保険も退職金もありません
ので、万一に備えておくことも大切です。
まず、資産の整理と保全です。但し、いざとい
う時に直前に実行する事は資産隠匿の犯罪です
41
ので、できれば2年越しくらいの長期的な計画で
行います。具体的には、個人の定期預金は取引銀
行でなく無関係な銀行に預けるとか、家族名義に
変えておくなどの対策をぜひお願いします。
連帯保証人の重さと怖さも知っておきましょ
う。個人の印鑑証明付きの負債は一生の責任どこ
ろか相続もされます。
後継者の選定も重要です。単なるサラリーマン
社長が後継では、他人事になってしまいます。
最後に、頑張り過ぎずに、どうしてもだめな時
はリセットを視野に入れておくことも大事です。
会社整理は犯罪ではありません。逆に超楽観主義
でもいけません。
経営不振企業の9割は改善できる
経営不振に陥る企業と経営者の傾向・共通点で
すが、どの企業にもすぐれた技術や商品など必ず
光るものはあるのです。しかし経営者の経営能力
不足や無知であることが非常に多いのです。また、
過去に非常にうまくいっていた時期が何年も続
いたという企業も多く、こうした企業は社内で危
機感の共有が出来ていないことが多いです。
こうした企業は9割方、危機の時にすべきこと
や経営改善の方法を経営者が知らない場合がほ
とんどで、きちんと知識を得てやるべきことをや
れば、劇的に改善する企業が大半なのです。
経営者に必要な情報収集、自己分析と覚悟
では、今経営者に必要なことについてまとめま
す。
まず、新しい知識と情報収集が必要です。消費
税増税、アベノミクスの成長戦略、TPPなどの
動きの把握や公共事業の急増など、情勢の動向を
正確につかむことです。
経営改善計画や中期事業計画などは絶対に必
要です。数字の面はもちろんですが、数字に出て
こない分野を徹底分析して対策を練ることも重
要です。例えば社風や会社組織、社員の平均年齢
などが非常に大きな問題になっている事も多々
あります。
そして最もお願いしたいのが、経営者自身の分
析と研鑽です。何より「覚悟」が必要です。私自
身も十数年前に経営者だった頃は、財務諸表も読
めなければ銀行に行ったこともなく、法的な知識
もありませんでした。考え方が変わったのは、会
社が潰れることがほとんど確実になってからで
した。
「今なら間に合う」という会社・経営者は大変
多いです。私のように会社がだめになってしまっ
てからではなく、今から取り組んでいただきます
ようお願いします。
またセミナー聴講はあまり役に立ちません。す
べて会社によってケースバイケースだからです。
経営者が自分自身で会社を分析し経営を組み立
てていく意思と実践が、何よりも重要ではないか
と思います。そこに顧問税理士や弁護士など専門
家、知人や仲間などの力を借りて一緒に計画を作
り上げていく必要性があろうかと思います。
事業転換をはかる方法の一つとして、力のある
企業であればM&Aや事業譲渡についてぜひ研
究してください。現在はそれを支援する施策や制
度が色々とあります。また新規事業に踏み出すの
に最も手っ取り早く、リスクもない方法です。元
気な企業が困っている企業を救う方法でもあり
ます。
中小企業支援について、国の姿勢も変化してい
ます。金融庁と中小企業庁の方針が前向きに大き
く変わりつつあり、予算もたくさんついています。
様々な施策関係もぜひ情報を掴んで、活用して下
さい。
終わりに、
「板橋モデル」が国からも注目され、
愛知でも作りたいと申しましたが、私自身は評論
家でもなく資格を持っているわけでもありませ
ん。2009 年より第一線で実施してきた中小企業支
援の実績が、今注目されているに過ぎません。他
との違いは、他人事ではなく、経営者と同じ気持
ち・立場で一緒に考えている事だけです。
気軽に何でも相談できる場所が全国にできて、
中小企業が少しでも助かればと強く思っていま
す。ぜひこの愛知でもこうした場所を、経営者の
42
皆さんや専門家・行政の方が連携して作って頂き
たいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
報告者②:徳島 孝志氏
徳島興業(株)
代表取締役
(南地区)
【会社概要】
創 業 /1911年
資本金 /4800万円
総社員数/40名
年 商 /45億円
事業内容/金属回収業(鉄ス
クラップ)、及び
冷凍倉庫業
なぜ会社が苦境なのか分からなかった
徳島興業の徳島と申します。鉄スクラップの卸
売問屋で、創業 104 年を数えます。私は4代目の
社長に就任し、現在4年目です。
私が入社した時はバブル期でしたが、取引先が
倒産してかなりの負債を抱えた状態でした。その
後バブルが崩壊した後に「鉄冷え」と呼ばれる鉄
スクラップ相場の低迷がおこり、高かった時は1
トン7万円を超えた事もあるものが、1トン5千
5百円台の最安値を付けるまでになりました。現
在当社の年商は約 40 億ですが、その時は年商 10
億を切るまでに落ち込みました。
その頃の当社は非常に苦しい状態で、銀行の手
形貸し付けが期日までに一括返済出来ず、新たな
手形貸し付けを起こして乗り切るという「単名の
ころがし」を行っており、実質的にリスケ企業だ
ったのです。ほとんど融資を返済せず条件緩和の
債務ばかりを抱えていたため、新規融資がまった
く受けられない状態で、社用車のリースすら下り
ない事もありました。この状態が 10 数年続いて
いました。
私が同友会へ入会する前後の頃ですが、銀行か
らは新たな融資を起こすためにも計画書を作る
ように言われました。しかし私は「この業界は相
場変動に支配されるので、計画は立てようがあり
ません」と言い訳をしていましたし、会社の分析
もしていなかったので、計画づくりはまったくや
ってきませんでした。
また先代が社長だった時の大半は良かった時
代で、その頃の「担保さえあれば融資が受けられ
る」という「担保絶対主義」の頃の古い感覚を引
きずっていました。当時の私は、担保にする資産
もあり利益も出ているのに、なぜ融資が下りない
作った以上は計画通りに経営をしなければ、逆に
ただの「絵に描いた餅」と見られ信用を落として
しまいます。銀行からの助言もあり、計画通りの
経営をするためには他人任せではなく、経営者で
ある私自身が損益計算や資金繰りについて理解
する必要があることも程なく分かりました。
自分自身が変わったなと感じたのは、自分で表
計算ソフトを使って、資金繰り表を作ってみてか
らだと思います。資金繰り計画などは多くの数字
を扱うので難解な印象があるものですが、実際に
やってみると思っていたよりも難しくはありま
せんでした。そして自分でやることで、自社のや
っている事が段々と手に取るように分かるよう
になっていきました。
また、金融機関に対して売上の根拠を示す必要
性に気づき、自社だけでなく取引先などから相場
の動向や取引量の予測などの情報も積極的に取
るようになり、その結果業界内での自社の立ち位
置も分かるようになってきました。
社内での経営指針の実践も具体的なものにな
りました。社員に対しても、自社の立ち位置と先
行きについて、数字で説明できるようになってき
ましたので、社員も数字や利益にこだわって業務
に当たるように変わってきました。日々行ってい
る業務成績の管理や管理会計が部署ごとに行わ
れるようになり、PDCAの精度が非常に向上し
ました。
さらには、ビジョンをもとにして設備投資も行
えるようになりました。当社はかつてのリスケ状
態から脱する事ができただけでなく、資本性ロー
ン(借入金を自己資本と見なす事ができる)も受
ける事ができました。
ただ、計画を出す事は金融機関に実績目標を数
字で約束する事ですので、データの出し方によっ
ては約束を守れない部分が出てくるリスクもあ
ることも、経験上注意すべき点だと思います。
のかが全く分からず、融資が「格付」に支配され
る時代である事にまるで気づいていなかったの
です。
経営計画が格付向上と融資の決め手
「格付」のことに気づいたのは、同友会で金融
委員会が行った「金融寺子屋」で話を聞いてから
でした。銀行は「金融検査マニュアル」に沿って
融資先の格付分類を行い、格付が悪い融資先につ
いては貸倒れに備えての準備金である「引当金」
を利益の中から積むことが義務付けられていま
す。格付が悪いほど引当金の率は高くなり、銀行
の業績を悪くする原因になります。
金融機関は「資産」にではなく「事業」に対し
てお金を貸しているのであり、その事業の実態を
示す財務関係をしっかりと見て格付を行ってい
ます。逆に言えば、この格付を良くすれば融資が
受けられるという事で、格付を上げたり留め置く
のも、また融資を受けるためにも必須となるのが、
金融検査マニュアルにある「合実計画(合理的で
実現可能性の高い経営改善計画)」
「実抜計画(実
現可能性の高い抜本的な経営再建計画)」など、
いわゆる経営計画書だと確信しました。
計画書を作って実践するという事は、会社の
「現在の姿」を把握して「あるべき姿」とのギャ
ップを埋める事であり、そのためには「何のため
に経営するのか」すなわち経営理念を明確にし、
「あるべき姿」と「そこへ向かうための方法」で
ある方針を明確にすることが必要です。そしてそ
れを社員と一緒に実践しなければ実現しません。
またリレーションシップバンキング――金融
機関を欠かせないパートナーとしていくために
も、計画書が「共通言語」になることも認識でき
ました。
要するに同友会で進めている、理念・方針・計
画の揃った経営指針が重要であり、それこそが経
計画づくりに必要な書類など
営者としてやるべき仕事だと、計画づくりと実践
に取り組む中で後のち気づくことになりました。
さて、計画づくりにあたって具体的に必要とな
る書類等について、簡潔に整理しておきます。必
計画づくりで自分、社員、銀行との関係、
須となるのは過去3年分の決算書で、B/S(貸
そして会社が激変
借対照表)、P/L(損益計算書)、そしてC/F
(キャッシュフロー計算書)です。過去3年の実
では経営計画について、私の実践事例を紹介し
績をもとに向こう5年間の予測を立てるのが、5
ます。当社の場合、計画づくりに取り組むことを
か年計画づくりの基本形です。
決心し当社の顧問税理士に相談したところ、「そ
売上高構成に関する担当者や得意先別のデー
れは私がやるべき仕事だ」と計画を作ってくれま
タもあるとより具体的に出来ます。また、月次の
した。ですので、初めて計画書を作成する方は、
資金繰り予定表もぜひつくるべきです。
まず顧問税理士さんに相談してみて下さい。
この他、借入や資産・リース関係や、売上・利
最初に計画を作った時は単純に、銀行に見せて
益計画の根拠や外部データ、経費関係の明細など
格付を上げてもらい、融資が受けられるようにす
るのが目的で、税理士さん任せでした。しかし、 色々とあり、いっぺんにやるのはハードルが高そ
43
うに思えますが、数字の洗い出しそのものは専門
家の方にお任せでも問題ありません。大切なのは、
こうしたデータ・資料をもとに経営者自身が計画
を説明できることです。
計画は、経営理念の実現のためにつくる
計画づくりと実践を通して学んだことを、最後
にまとめます。
実行できる計画の第一歩は、自社の内部と自社
の立ち位置(経営環境)を把握し、そこからやる
べき手を見出して成文化することです。
また、何のために計画を作るのかですが、これ
は会社の理念を実現するためです。そして理念実
現に近づくために方針があり、方針や目標を達成
するために計画があります。
当社・徳島興業は「会社に係る全ての人の「幸
せ」創造」を理念としており、その実現のために
計画を作り、それを実行する事で理念の達成・実
現に向かっていると確信しています。
「人を生かす経営(『労使見解』)」にも経営指
針づくりは経営者の責任であると書かれていま
す。その責任を果たす「覚悟」をお互いにもって、
経営にあたろうではありませんか。
■座長まとめ
安藤不動産・代表者
安藤
寿(尾張北青年同友会)
中嶋さんの報告からは、経営者として、資金繰
りに必要な知識、金融機関の現状・動向について、
また経営不振に陥っている企業の傾向も教えて
いただきました。そして、経営者が覚悟を持って
知識を身につけ、やるべき事をしっかりやれば、
経営不振の企業でも必ず経営改善でき、発展でき
る事を学びました。
中嶋さんの報告を踏まえた徳島さんの報告か
らはまさに、経営不振に陥っている企業の逆のこ
とをしていけば経営は良くなるということを、徳
島さんの実践から学びました。
徳島さんは当初、計画がつくれないことを業界
特有の事情を理由にしていましたが、実際に作成
したことで経営上の課題ややるべき事が次々と
明らかになり、会社は大きく変化しました。また、
計画づくりの難しい業界にあっても計画をつく
り実現しようとしている姿勢そのものが、金融機
関に評価されたといいます。
かつては新規融資がまったくできず社用車の
リースも組めない状況にあった会社が、経営者が
学び、経営指針(理念―方針―計画)作成を通じ、
金融機関からの評価と協力関係を得られ、ビジョ
ンに沿っての融資や制度利用もできるようにな
44
りました。
お二人の話には共通して、経営者には「覚悟」
が必要だとありました。
根拠なく「何とかなるだろう」と思ったり、問
題を分からないままにして先送りしたりするな
どの甘い考えは捨て、襟を正して経営に向き合う
姿勢が重要と感じました。
本日全体会での来賓ご挨拶のなかで、様々な中
小企業支援施策を立て、多額の予算を組んでおり、
また金融機関にコンサルティング機能を持たせ
るなどの支援をしているとのお話しがありまし
た。中嶋さんからも報告の中でその紹介がありま
した。
これらの支援を満帆に受けるためにも、経営計
画は非常に重要です。徳島さんの報告にもありま
したが、経営計画があったからこそ受けられた施
策もあります。
また、愛知同友会には金融委員会という、金融
について学ぶ場が身近にあります。徳島さんも金
融委員会で学んで、会社を良くしていきました。
是非活用して下さい。
最後に、学んだことを自社において自分で実践
することが何より重要であると、あらためて学び
ました。中嶋さんの報告の中にありましたが、各
種セミナーや本日のフォーラムにしても、参加す
るだけではよい会社にはなっていきません。
今日の学びをヒントに、考え、実践していただ
きたいと思います。
【第7分科会スタッフ】
○座
長
安 藤
寿(尾張北青年同友会)
安藤不動産・代表者
○室 長 蟹江 晃男(知多北部地区)
カニエ電機(株)・代表取締役
○責任者 出原 直朗(千種地区)
日研工業(株)・代表取締役
○グループ長
脇田 政義(江南・岩倉地区)
後藤 裕一(北地区)
板倉しのぶ(熱田地区)
長谷川 睦(中区北地区)
二村佐斗史(中区北地区)
高瀬 慎二(瑞穂地区)
小出 一雄(緑地区)
大西 景三(名古屋第5青年同友会)
水野淳司郎(安城・知立地区)
○記
録
政廣
俊介(愛知同友会事務局員)
⑧分科会
第
<経営指針の実践>
採用を変えれば会社は変わる
~計画的採用で、今も未来も行き抜く会社づくり~
報告者
経営指針に採用計画は具体化されて
いますでしょうか。松浦氏は後継者とし
て自社の将来像を描き、10 年後には 30
代のリーダーが活躍していることを想
定し、新卒採用に取り組みます。採用活
動を通じて、経営理念や方針、ビジョン
や社会貢献度など、改めて自社を見直す
ことで会社がみるみる変化しています。
また、定期的に後輩ができることで、社
員も先輩として、人としても成長し、お
互いに信頼、尊重しあえる良い企業風土
もできてきました。新卒採用を通じて会
社を変えてきた経営実践から学びます。
松浦 英士朗氏
双光エシックス(株) 代表取締役
(名古屋第 1 青年同友会)
【会社概要】
創 業 /1960年
資本金 /2000万円
総社員数/40名
年 商 /5億3000万円
事業内容/ドキュメントファイ
リングシ ステ ムの 提案
(データベース構築)
http://www.ethics.co.jp/
新卒採用のきっかけ
私は後継者で以前は大手商社に勤めていまし
た。会社を継ぐために平成 14 年に戻ってきまし
たが、中小企業のやり方や意識、スピード感に疑
問をもっていました。色々と取り組みますが、な
かなか変わりません。こうした悩みから同友会に
入会しました。
新卒採用に取り組むきっかけは第8回(平成 18
年度)フォーラムでの(株)ライアスの白井さんの
報告でした。後継者として自身のブレーンづくり
のために一から新卒採用に取り組んだ報告で、会
社の活性化、意識改革、人材育成などの取り組み
に感銘を受けました。企業風土づくりについて
「濁った水でも、綺麗な水を注ぎ続ければ、だん
だん無色透明になってくる」と表現されたことが
印象に残っています。もちろん社員は濁った水で
はありませんが、自社の課題を解決するには新し
い人を入れることが必要だと強く意識しました。
今ではなく未来のために
当時、営業の社員は既存顧客を担当し、私だけ
が新規開拓の飛び込み営業をしていました。新規
開拓を強化する必要性を感じていましたが、自分
がいつまでも営業しているわけにもいきません。
40 代、50 代の部長、課長といったベテラン社員
も飛び込み営業をしてくれますが、自分が同じ年
45
齢で同じ立場だったら辛いと感じました。これに
対し、新人は飛び込み営業も物怖じせずに取り組
んでくれるので、こうしたことからも新人の採用
が必要でした。
新規開拓担当として中途採用もしてみました。
その方は同業他社の営業で優秀な方でした。会社
が倒産しやむなく退職されたとのことで、家族も
ありましたので当社で長く勤めてもらいたいと
採用しました。しかし、3ヶ月の研修期間を終え
てこれからという時に、「他にやりたいことがあ
る」と退社しました。相応の条件も用意し、自分
が手を掛けて採用しただけに、何故なのだとショ
ックでした。中途採用でもこんなに簡単に辞める
のなら意味がない、新卒に取り組もうと意を新た
にしました。
計画的採用
新卒採用は社員の年齢的なバランスを整える
ことができます。学卒で入社する人の年齢は決ま
っていますから、いつ採用すれば何年後に何歳の
社員がいるか明確で、社員の年齢構成の計画を立
てることができます。
当社では全社員の年齢と勤務年数別の表を作
っています。この表を作る事で、何年後にどの部
署に何歳の社員が何人いるかが明確になります。
この表を基に 49 歳までの中堅メンバーが毎年何
人になっていくかを割り出してあります。当然、
新規に採用しないと社員の年齢はどんどん上が
り、中堅メンバーの人数が減っていきます。各部
署ごとに、例えば 10 年後でも今と同じだけの営
業力や生産性を維持していくには、いつ、どの部
署に、何人採用しないといけないかが一目で分か
ります。こうした採用計画が立てられるのは、毎
年必ず同じ年齢で採用できる新卒ならではのこ
とです。
また常に後輩が入ってくることで、人として、
社会人として成長できることを私自身が経験し
ていました。ですから一人採用したら必ずその人
の後輩を作ることが、社員の成長には欠かせない
と考えていました。後輩を育てることを通じて先
輩も成長する「共に育つ関係」が作られます。
は会社の成長度合いによって必要なことだと思
っています。当社も将来ビジョンを考えるなかで、
中途採用が必要になるだろうと考えています。
これに対し新卒の新人は何も出来ません。専門
分野を学んできている学生もみえますが、社会に
通用するレベルではありません。ですから、その
人の何を見て採用するかといえば、人間性、価値
観、考え方しかありません。その人が、何ができ
るかよりもどんな価値観をもってどう生きてい
きたいのか、これを基に採用します。中途採用は
今を生きるための採用、新卒採用は未来を生き抜
くための採用と考えています。
新卒採用の選考過程
新卒採用での失敗
当社が新卒採用を始めたのは平成 18 年度から
です。同友会の共同求人に参加したのは平成 19
年度からですが、この最初の採用はいわば欠員補
充による労働力目的でした。誰かいないかと直接
大学に出向いて学生を紹介していただき、健康で
あれば良いと一回の面接で2名の採用を決めま
した。これが大きな失敗で、採用する学生の価値
観、精神力や忍耐力など、その人を充分に把握し
ませんでした。
約5年勤めてくれましたが、一人は体調を壊し
ての長期入院、もう一人は当社で一番大切にして
いた目標達成発表会への無断欠勤が続くなど、上
手く馴染めず2名とも退職しました。しかし、こ
れはその社員が悪いのではなく、安易に採用した
結果、会社の方針や業務内容などへの納得が充分
に作れなかったことに責任があります。今の当社
ならば、その人達が活躍できるフィールドを用意
することもできたのではないかと悔まれます。
中途採用と新卒採用の違い
中途採用を否定しているわけではありません。
私の考えですが、中途採用は条件を提示してそれ
に見合う人と契約する、いわばその人の経験やス
キルに対価を支払うことだと思っています。それ
当社の選考はとにかく何度も会います。まず合
同企業説明会で当社の考え方や業務内容を説明
します。この時、その人の受け答えをしっかり見
て、会社説明会に案内する人を選びます。選ばれ
なかったのはその人が悪いのではなく、たまたま
当社の風土に合わないと判断するだけです。会社
説明会は会社見学会です。自分が働く職場を見て
この会社に来たいと思ってもらえれば、次のグル
ープ面談に進んでいただきます。こちらも自分た
ちが良いと思う人にはグループ面談に進むよう
促します。
一回の合同企業説明会で 40 名程の人とお会い
します。そのほとんどがグループ面談まで進みま
す。40 名の方と一人一人話す時間は取れないので、
4、5名のグループを作って面談とグループワー
クを行います。面談で積極的に話せなかった人も、
グループワークになると良いアイディアを出し
たり、皆をまとめたりと、面談だけでは分からな
い点を発見することができます。グループワーク
の結果、次の一次面接に進む人もいます。一次面
接は採用部署の部長との個人面接です。約2時間
で仕事の話ではなく、その人がどんな生き方をし
てきたのか、どんな生き方をしていきたいのかを
聞きます。
続く二次面接では、採用部署の部員との面接で
す。グループ面談の時と同じような質問を違うメ
ンバーで聞くのですが、この時に同じ答えが返っ
てこないと、面接用に用意した回答であることが
分かります。その人の人となりをよく知りたいで
すから、このようにしています。
お互いに納得を
次に体験入社をしてもらいます。当社ではこれ
を一番大切にしています。これは二日間、社員と
同じ仕事をしていただきます。営業希望の方は営
業に同行し、一日どのくらい運転するのか、お客
46
また年間休日の日数も質問されました。その時
様との信頼関係をどのように構築しているのか
は即答できず、日数を確認するとともに、社員が
などを見ていただきます。業務希望の方は一日ス
休暇を取得できているかを見直しました。年間予
キャンをしてもらいます。業務であれば一日パソ
定表を作成し、お休みの日を必ず休んでもらうよ
コンの前で過ごし、営業であれば飛び込み営業を
う業務スケジュールを明確にしました。当初は休
実際に見せて、一生この仕事をしていくことをど
う思うのか、仕事のやりがいをどう見出せるのか、 みを明確にするための予定表でしたが、いろいろ
と行事を書くようになりました。経営方針発表会
考えてもらいます。本人に当社を選んでいただく
や目標達成計画発表会など、いつまでにどんな準
ための体験入社です。体験入社後、一週間以内に
備や会議、書類作成が必要なのかを全部記入し、
次の選考に進みたいか、返事をいただきます。翌
日、翌々日に返事がある人は見込みがありますが、 一年間の行動がより把握しやすい環境ができま
した。
期限ぎりぎりになって返事をくれた人には、迷っ
こうした採用過程が、働きやすい環境づくり、
た理由を聞くようにしています。
魅力ある会社づくりを考えさせられる良い機会
最後に三次面接で私と面接をします。この段階
になりました。こうした取り組みは既存の社員の
でもまだその人のことがよくわからないと思え
意識改革を進めることにもなりました。
ば、社員と一緒に飲みにいったり、ランチミーテ
ィングをしたりします。ここまで何度も会えるの
が新卒です。中途で同じことをすれば、途中で来
社員と一緒に選考
なくなるでしょう。ここまですることで、その人
の本当の価値観、人生観をよく知ることが出来る
採用一年目は私一人で行っていましたが、さす
ので、ミスマッチを防げていると思っています。
がに一人では大変だと思い、翌年から採用チーム
を作りました。人事部は存在しませんので、各部
理念や方針の見直し
署から1名づつと私を含めた4名のチームを作
りました。このチームで、どんな人が欲しいのか、
最初の採用の失敗で、どんな会社にしたいのか、 どうすれば学生が集まってくるのか、どんな選考
をすれば良いのかなど、一から採用を考えるよう
どんな人材が欲しいのか、そのためにはどう伝え
にしています。以後、チームの構成は変わりませ
たらよいのかを、一から考え直しました。経営指
針書の内容も、社員や業界の人には理解できても、 んが、メンバーは毎年入れ替え、社員全員が持ち
回りで採用活動に関わります。
初めて当社に来た人に理念やビジョンが伝わる
当社には経営指針発表会と中間の報告会の年
内容ではありませんでした。また学生は、労働条
2回、経営指針に立ち返る行事がありますが、そ
件ではなく企業のビジョンや社会的貢献度を語
れ以上に採用活動に関わった方が、経営指針への
れないと魅力を感じてくれません。条件では勝負
理解が深まります。彼らは、選考過程で学生に当
できませんので、改めて自社の必要性や社会的貢
献度を広く発信できるよう、見直しを行いました。 社の理念、ビジョン、求める人物像などを何十回
も語ります。そこで改めて自社の理念を確認し、
以前に作成したビジョンはストーリー仕立て
自身もそうした仕事ができているかを振り返る
の文章で社員も共感してくれました。これを、短
機会になっています。また、学生に自社を説明す
い文章で社外の人が読んでも一目で理解できる
るための準備では、キャッチフレーズやポップな
ように改めました。こうすることで、社員が指針
ど、様々なアイディアを出してくれます。このこ
書を見なくても理念やビジョンを学生に語るこ
とが各自の仕事にも活かされ、プレゼン能力の向
とができるようになりました。
上につながっています。
働きやすい環境づくり
会社の魅力とは何か、他社にあって自社に足り
ないものは何かを考えました。共同求人参加企業
の皆さんにも教えていただきましたが、学生から
の質問でより明らかになりました。例えば「育児
休暇はどうなっていますか」と質問されると、当
社には育児休暇がないことに気づかされます。急
いで規定を作成しました。現在は育児休暇を取得
した社員がいませんので、取得するようお願いし
ています。一人経験者が出れば体制ができていき
ます。
47
自分たちが採用した
先程お話した選考はすべて採用チームで運営
されますから、チームの社員は人事権を得たこと
になり、自分達が一緒に会社をつくっていること
が伝わります。毎年チームメンバーを入れ替えま
すから、年度によって採用する人物像は多少変化
しますが、これは構わないと思っています。それ
以上に、社員が新入社員の将来に責務を感じてく
れることの方が大切です。自分たちで採用した新
入社員を、自分たちで一生懸命育てようとしてく
れます。
現在の採用の形になって5年が経過しました
が、社員全員がこうした活動に取り組むことで、
社風のよい会社ができてきたと自負しています。
新卒採用が当たり前になりましたし、採用チーム
に選ばれることが誇りにもなってきました。採用
過程において自身の成長につながることも実感
してきています。
家族の一員として迎える
当社では、10 月までに内定が出せなければ、ど
んなに不足していてもその年の採用は諦めます。
10 月 1 日に内定式を行い、続いて6回の内定者研
修がスタートします。早く家族の一員となってい
ただきたいので、内定の段階から様々な取り組み
を行っていきますが、途中から参加されては家族
としての一体感が作りにくくなるからです。
内定者研修は全社員で運営されますから、例え
ば印刷製作部に配属される新入社員にも、営業な
ど他部署の社員も関わります。内定者研修を通し
て、新入社員全員の名前はもちろん、性格なども
社員全員が理解して、4月1日には以前からいる
社員と同じように接することができるようにし
ていきます。ここまでの取り組みをしているから
こそ内定辞退はもちろん、入社後の退職者も出て
いません。
雰囲気のいい会社づくり
雰囲気のよい会社づくりのために、例えば屋形
船を貸し切っての懇親会など、いろいろなイベン
トをやっています。私が会社に戻った当時は私が
企画していましたが、ほとんど参加してくれませ
んでした。今は新卒の新入社員がこうした企画を
行ってくれるので、新入社員ががんばっているな
らと、年配の社員も参加してくれるようになりま
した。イベントで社員が笑っている写真が増えて
きたなと思っています。
当社は今年で設立 36 年目になり、定年退職の
48
お祝いの会なども開催されるようになりました。
こうした機会も活用し、当社が大切にしている考
え方を新入社員に伝えるようにしています。それ
は、先人のおかげであなた達が働くことのできる
場があるということです。一方で、先輩社員には、
皆さんが大切に引き継いできたことを、新入社員
が引き継いでいってくれると伝えています。お互
いに感謝し合えることが大切だと、これまでも意
識して伝えてきました。新卒採用に取り組み、次
の代へ引き継ぐ、引き継がれる関係ができたこと
で、社員への理解が広がってきたと感じています。
会社が変わるポイント
新卒採用で会社が変わるポイントは3つある
と思います。一つ目は新卒を決意することで、経
営理念や労働環境など、様々な自社の見直しが始
まります。二つ目は採用過程での社員の変化です。
学生に経営理念や方向性などを何度も語る事で、
自らの理解も深まります。ある社員の月報を紹介
します。
「2011 年度、一番印象に残ったのは新卒採用の
会社説明会に参加させてもらったことです。入社
して 10 年になりますが、本社での勤務になって
3年にもならず、会社のことはほとんど知りませ
んでした。ですが、会社の理念、業務内容など、
学生さんと一緒に聞くことで、双光エシックスに
ついて改めて知ることができました。学生さんか
らの質問に答えることで、普段あまり意識しない
自社の長所、短所を考えたり、自分がこれからど
うなりたいか意識させられたりと、思いがけず自
分のことを考えるきっかけにもなりました。長く
働いていると、自分が就職活動をしていたころの
『こんな社会人になりたい』といった気持ちをつ
い忘れてしまいがちになりますが、あのころの気
持ちを思い出して 2012 年度もがんばりたいと思
います」。
この社員は会社説明会に先輩社員として応援
で参加してくれました。学生から「なぜ、この会
社を選びましたか」「この会社のやりがいって何
ですか」などいろいろと聞かれます。社員は隣で
座っている私をチラッと見ますが、自由に答えて
くれます。こうした中で、改めて自分は充実して
いるか、今期やりたかったことができているか等、
考えてくれているのではないかと思います。月報
はイントラネットで全社員に公開してくれてい
ます。社員一人一人が自分の思っていることを伝
える風土もできてきたなと思っています。
採用後の変化
3つ目は採用後の変化です。具体的にはミーテ
ィングが増えました。当社では営業が受注した仕
事を製造現場に依頼する「作業指示書」がありま
す。この作業指示書にそった各案件の打ち合わせ
を、以前より密に行うようになりました。更に発
展して作業指示書の前行程の「着手依頼書」なる
ものが、知らないうちに出来ていました。何かと
尋ねたところ、
「なぜ仕事が取れたのか」
「発注い
ただいたお客様はどういう方なのか」「何を期待
されているのか」を記載するとのことでした。な
ぜ作ったのか聞いたところ、「現場にお客様の要
望を伝えるとともに、新入社員にも何故、仕事が
とれたのかが分かると思って」ということでした。
これまでこんなものは見たことがなかったです
が、思いを共有するツールとして工夫されること
は喜ばしいことです。
イベントも増えました。私は「週末でも同僚の
顔を見て笑っていたい」という風土を作りたいと
思っています。その位、アットホームな会社にし
たいと新入社員に話していました。すると、新入
社員が入社後の夏に旅行を企画してくれました。
すると、一日パソコンに向かって作業する職人肌
の社員も参加してくれました。これまでなかった
ことで、新入社員のがんばりに応える風土ができ
てきたと感じました。
新人が活躍できる環境を用意する
でにそれなりの経費も必要です。新卒採用が続け
られる企業体力を持ち続けることも必要です。
次に新卒の活躍の場を用意することです。当社
はこれまで展示会やセミナー等へはあまり出展
しませんでした。明日からも展示会に出展します
が、ここではお客様を獲得することが目的ではあ
りません。展示会に出るにはブースの設営や商品
を説明するスタッフが必要です。これに新卒の社
員が取り組むことで、出番をつくることが狙いで
す。
当社では慰労的要素でアメリカへの視察を行
ってきました。ある年にいきたい人にいってもら
うよう主旨を変えました。募集したところ、入社
2年目の社員が空気を読まず(笑)、最初に手を
上げました。いきたい人といった手前、断るわけ
にもいかず、その社員がいくことになりましたが、
誰も怒る事もなく認めてくれました。視察にいっ
た社員からは、これまでにない膨大な量の報告書
を作成してくれ、皆で共有することができました。
やる気のある社員に光を当てることで、自主的社
員が活躍できる、周りもそれを認める意識の成長
ができてきたと感じました。
同友会として出来ること
当社の新卒採用の取り組みは、すべて同友会の
共同求人活動で学びました。自社の経験も通じて、
同友会としてもっと取り組んでいけることがあ
ると思っています。
一つ目は、中小企業に優秀な人材を集めること
です。ヨーロッパでは自分のやりたいことが明確
で意識の高い学生こそ中小企業を選ぶ風土が確
立しています。地域の学校へ、中小企業やそこで
働く人たちの魅力を伝え、我々の価値や魅力を高
めていきたいと思っています。
次に雇用の創出です。たった一人でも、隔年で
も良いので、新卒を続けることで、地域の雇用を
担い、活気ある地域づくりに貢献できると思いま
す。
最後に採用活動の交流です。当社も内定式の見
学なども受け入れ、採用ノウハウを提供していま
今後の課題もあります。採用に直接的な費用は
ほとんどかかっていませんが、社員が相応の時間
をかけて取り組みますし、新卒が一人前になるま
49
語り、自社の経営理念や自分の仕事を改めて知る
ことに繋がります。
学生に自社を語るには思いを明確にする必要
があります。自社分析を行い、企業の目的や価値
観、将来ビジョンを明確にすることが重要です。
経営指針の確立そのものです。
採用の過程、採用後の会社、社員の変化もお話
いただきました。新卒採用とは人を採ることが目
的ではなく、将来に向かって会社を変えていくこ
とです。
「採用」が目的ではなく、
「採用活動その
もの」が目的なのです。ぜひ会社の未来を創って
いくために、「採用活動」に取り組んでいきまし
ょう。
す。同友会メンバーがお互いに教え合い、各社の
採用活動をさらに良くしていくことです。
最後に
【第8分科会スタッフ】
共同求人の学生アンケートの回答で、学生が会
社を選ぶポイントの圧倒的第 1 位は「社風、雰囲
気」です。次いで2位に勤務地、3位に経営理念
と続きます。逆に皆さんが気にされる知名度、会
社の規模はワースト2位です。会社説明会で待遇
を質問する学生はほとんどいません。会社の雰囲
気や社員の働く様子を見て入社を決めているの
です。新卒が会社を辞めるのは会社の問題です。
採用方法と会社を見直せば、非常に優秀な人が長
く働ける良い採用ができると考えています。
新卒採用はパワーが必要ですが、パワーをかけ
た分、社員への愛情に変わります。苦労して採用
したら周りの社員もその人を大切にします。先般、
今の新卒採用になって第1期の社員から結婚の
報告がありました。とても嬉しかったです。就職、
結婚といった、その人の人生の大きな出来ごとに
関われることは、経営者の喜びだと感じています。
その人と更にいっしょに仕事をしていこうと思
います。
自分といっしょに会社を作っていく人を、自分
で採用しないで誰が採用してくれるのでしょう
か。ぜひ皆さんも取り組んでください。
■座長のまとめ
(株)キタガワ工芸・代表取締役
北川 誠治(春日井地区)
何のために採用するのか。それは現在、将来を
含め、会社を維持、発展させるためです。松浦さ
んは今までと違う採用活動を行うことで、会社が
変わった実践報告でした。安易な採用は失敗する。
失敗しないためには、しっかり時間をかけた採用
を行うということです。具体的に何を変えていく
のでしょうか。
何度も学生と面談をすることで、その人をより
知ることです。そのことで、社員は何度も自社を
50
○座
長
○室
長
○責任者
北川 誠治(春日井地区)
(株)キタガワ工芸・代表取締役
大野 正博(南地区)
(有)中部製作所・代表取締役
和田 康伯(中区北)
(株)リンクコンサルティンググループ
代表取締役
○グループ長
坂本
高 木
名倉
小野
岡田
金光
杉山
将志(稲沢地区)
章(春日井地区)
昌孝(北地区)
裕司(熱田地区)
晴功(中村地区)
敏男(名古屋第5青同)
新治(安城・知立)
○記
直之(愛知同友会事務局次長)
録
多田
⑨分科会
第
<人間尊重の経営>
働く人と、働き方の多様性を認める会社づくり
~労働人口減少を見据えた環境整備~
報告者
少子高齢化による労働人口の激減、加
速する人口減少社会を目前に、私たち中
小企業が優秀な人材を確保し会社を維
持していくためには、今どんな手を打て
ばよいのでしょうか。社長も社員もやり
がいを感じながら働き心豊かに暮らせ
る会社、働く人とその働き方の多様性を
認め多様な人材を生かす会社、真の人間
尊重経営といえる職場環境・職場風土づ
くりが重要な課題と言えます。確実に訪
れる雇用環境を見据えて、乗り遅れるこ
とのないよう早く対策をとる、その一歩
が踏み出せる分科会です。
橋本 久美子氏
(株)吉村 代表取締役
(東京同友会)
【会社概要】
創 業 /1932年
資本金 /9100万円
総社員数/204名
年 商 /50億3950万円
事業内容/茶・海苔を主とする食
品包装資材の企画、製
造、販売
http://www.yoshimura-pack.co.
jp
当社はお茶屋さんをお客様にしたBtoBの会
社で、茶袋を企画販売する製造メーカーです。前
社長である父は会社の方向性や戦略・戦術、全て
を決めるトップダウンのカリスマ経営者でした。
そんな父からバトンを渡され、私は8年前に社長
になりましたが、それは 55 億だった売上が 10 年
の間に 45 億までどんどん下がり続けていた時で
もありました。当時父は「お前らの気合いが足り
ない」営業会議では「土下座してでも売ってこい」
という毎日で、製造業は価格と納期で常に戦わさ
れているので、「土下座してでも」となるのでし
ょうが、私は土下座しなくても売れるようにした
くて 1995 年から消費者の座談会を始め、そこで
どういう時に人が買いたくなるのかにいつも耳
を澄ましていました。
モノが売れるのではなく、人が買ってくれ
る
この消費者座談会は、集まった人たちに2時間
5千円のアルバイト料を払って、「どうしてお茶
屋さんに行かないの?」「どうしてペットボトル
を飲むの?」「どうしてコ-ヒ-が好きなの?」
というような話を全部聞いて、それをお客様にフ
ィードバックしていこうというものです。
年間 60 人の消費者から話を聞いてつくづく感
じたのは、実は「モノが売れる」のではなく「人
が買っている」ということでした。人が買うとし
51
たら、大切なものや好きなものにはお金を払いた
くなる、ある程度の価格の許容ができる。とにか
くいろんな価値観があって、何が好きだとか、ど
ういうところに心が響くかのポイントは本当に
多様です。私の思う「好き」と他のお客さんが思
う「好き」とその先にいる消費者の「好き」と、
それがみんな千差万別なわけですから、発信する
側としていろんな価値観があるほうがいいんじ
ゃないかと思いました。
短所をひっくり返すと武器になる
私が社長になった当初は、前社長に比べてリー
ダーシップがない、と本当に皆ついてきてくれな
くて、とても自信がなかったのでいろんな講座に
通いました。アサーティブトレーニングの講座が
あって、短所と長所はコインの裏表ということを
教わったんです。自分では短所だと思っているこ
ともひっくり返したら長所になる、おおらかとい
う長所と大雑把という短所は裏表で、大雑把だか
らこそおおらかでいられる、と教えられて「なる
ほど!」と思いました。
私は数字があまり得意ではありません。反対に
当社の専務は非常に緻密で数字に細かく、私は専
務が大変苦手だったのですが、コインの裏表だと
思ったら自分が完璧にならなくてもいいんだと
思うようになりました。私はおおらかで大雑把で、
彼はとても細かく緻密に詰める人です。彼が社長
をやったらきっとうまくいきません。私がパーっ
と走って、彼が回収とか進捗の確認とか、後を細
かくきちんと追いかけてくれるから、当社はしっ
かり走れるのです。
短所をひっくり返して補ってうまくコラボレ
ーションしているように、社員を見ていて「この
子って本当にこう」と思っている所でも、ひっく
り返してあげたらそれは武器になるんだと思え
るようになりました。
凸凹を補い合うチーム
当社には障害を持った子が4人、全盲の子も、
パーキンソン病になった子もいます。周りの私た
ちは、そういうことを一つの「個性」というと奇
麗すぎるのですけれど、彼らに対して腫れ物に触
るんじゃなく、ありのままを受け止めて一緒にや
っています。
例えば、体が動かせないけれど、じっとしてい
てできる仕事を忍耐強く担ってくれる、目が見え
なくて空気が読めないけれど、状況や相手に左右
されずに確実に追及してくれる、それぞれのマイ
ナスの部分も逆から見るとプラスだね、結構へこ
むこともあるけれどそこから何を得てプラスに
いくかだよね、という空気を大事にしています。
一人一人が長所と短所と凸凹で、あまり優等生じ
ゃないけれど、その凸凹をそのままにして補い合
うチームのほうがずっと発想が広がります。
当社のような製造業は、お客様に真正面で対面
して「この仕様でいつまでにやって、お宅はいく
らでできるの?あそこはこの値段ででできるそ
うだよ」と言われたらおわりです。お客様自身が
何を欲しているのかを自覚する前に、お客様の隣
に並んで「消費者は何が欲しいんですかねえ、ど
うやったら売れますかねえ」という話がいかにで
きるかがポイントなのです。私はそれを「側面営
業精神」と呼んでいて、色々なことに取り組んで
います。
隣に並んで同じゴールを目指す
今はペットボトルが全盛期なので、急須を知ら
ない子がたくさんいます。そこで小学校3~6年
生の子供を集めて、急須でのお茶の入れ方とか、
お茶の歴史○×クイズとか、試飲してお茶の種類
を当てる競技とかで、お茶のナンバーワン(T1
グランプリ)を競います。参加する子供たちには
テキストをあげて「家で勉強して、わからないこ
とがあったらお茶屋さんに聞きに行ってね」と、
子供と一緒にお茶屋さんを訪れたお母さんが日
本茶を買ってくれたらいいな、と思いながら一言
付け加えています。宮崎の若手のお茶屋さんが始
めたこのT1グランプリ、当社はこの事務局を担
52
っています。
給茶スポットやお茶バーというものも展開し
ています。若い子達がどうしたら日本茶に目を向
けてくれるのか、まず意見を聞いてみようと若い
子達を集めた消費者座談会を開きました。そこで
試しに見せたお茶のパッケージは「すっごく可愛
い!」と大好評でしたが「いくら可愛くても、お
茶屋さんに行かないから買わない」と言われまし
た。彼女たちいわく、液体の状態がお茶であって、
お茶っ葉はお茶の素。「お茶の素はママが買うも
のだから、いくら可愛いパッケージを並べたとこ
ろで若い子がお茶屋さんに行くわけがない」そう
です。でも「お茶屋さんが空のペットボトルにハ
ンドメイドのお茶をチャージしてくれたら買う
かも」と言われ「マジか!」と思って、それが給
茶スポットの始まりです。象印マホービンさんが
コーヒー業界でやっている事を、日本茶業界でや
らせていただこうと思いました。
給茶スポットでは液体を売るので、お茶屋さん
に喫茶営業許可を取ってもらわなければならず
結構大変なので、コンビニで食べるカップ麺のよ
うに、お茶っ葉を買ってその場で自分でいれたお
茶をテイクアウトすれば、喫茶営業の許可は要り
ません。農林水産省の補助事業にしてもらって頑
張ったのですが、お茶屋さんから見たら儲からな
いのでなかなか広がらないのですけれども、現在
全国で 230 店舗くらいのお茶屋さんに給茶スポッ
トとお茶バーがあります。
働く人の多様性~その子の最後の会社
私は「もっと日本茶を広めたい、若い子に飲ん
でもらいたい」というお茶屋さんの隣に並んで、
いろいろ考えて形にするこの心意気が大事で、多
様性を認めるというのはこういう側面営業精神
を発揮する時にすごく役に立っていると思うの
です。
給茶スポットであれ、T1 グランプリであれ、
儲かる仕事ではありませんから、バリバリ数字を
稼いでくる子だけに依存していたらきっと切り
捨てられるところを、数字はあまり上げられない
てきていいですか?今空きありますか?」と言い
やすく、実際に戻ってきた子もいます。一回出て
行って帰ってきた子の、「よその会社ではこんな
こと許されないよね、働かせてくれてありがと
う」と思ってくれる、そのロイヤリティの高さは
本当に宝物です。
けれどもお人よしの子は「給茶スポットは人類の
ために必要です!」と、一生懸命お茶屋さんの店
頭に行って、一生懸命イベントをやって給茶スポ
ットを知らせることをやっていているのです。
だからそういう子に「数字をあげられないから
駄目」と烙印を押すのではなく、手がかかるけれ
どお客さんが喜んでくれることを一生懸命やっ
てくれる」ととらえることがすごく大事だと思っ
ています。
知名度もない小さい会社なのでいろんな子が
来ます。ある社員が「いろんな会社を渡り歩いた
けど、吉村さんに入ってよかったと思います」と
言ってくれた時、すごく嬉しかった。新卒採用に
こだわらず中途採用や派遣社員からの正社員登
用を大切にしています。私はその子の最初の会社
になるより、最後の会社になりたいのです。
多様な働き方を模索して
皆が働き続けられるように
以前は、女性の社員は子供を産むときに辞めて
いきました。私は自宅がすごく近いので、子供に
ご飯食べさせて寝かしつけて会社に戻って仕事
をしていましたが、ワークライフバランスの講座
で「あなたのようにそこまでやらなきゃ女は働き
続けられない、っていうメッセージをあなたが発
信しているから、みんな辞めるんです」と言われ、
大変な衝撃を受けたのが7年前です。
これではいけないと、それまで制度はあっても
全然使う人がいなかった産休・育休制度を、皆に
使ってもらうように一生けん命働きかけて、今は
子供を産んでも一人も辞めません。育児で短時間
就業だった子も、その期間が終わって完全復帰で
正社員になっています。
産休・育休中に作られるママ友ネットワークの
おかげで、まさに消費者目線でいろんなことを持
ってきてくれて、そういうところが結局デザイン
や商品開発に注入できたりして、それをフィード
バックすることでお客さんに喜んでもらえて売
り上げに繋がります。
ちょっとユニークな試み
つわりが激しい時期は「つわりで休みます」と
宣言して、休めるようにしました。ノーワークノ
ーペイなのでお金は出ませんが、このつわり休暇
制度を設けてからつわりの時にへたって退職願
を出してくる子がいなくなりました。
「戻っておいで」の頭文字を取ったMO制度は、
使ったことがあるのは今のところ女性だけです
が、ご主人の転勤や何かの都合で会社を辞めると
きに、「また戻ってきてね」というもので、そう
すると何年かしてこちらに戻ってきた時に「戻っ
53
正雄舎という定年後の再雇用の会社も作りま
した。吉村は 60 歳定年で、一回退職金を払った
後に 65 歳まで無条件で正雄舎という人材派遣会
社に雇用し、吉村に派遣します。なぜそのまま雇
用し続けないかというと、勢いのある 40 代、30
代の課長さんたちが「そんなに頑張って働かなく
てもいい」と思っている 60 歳を過ぎた人たちを
使うのは、正直にいって大変だからです。
今は 63 歳から年金が出るので、来年1月から
は6時間を基本にした時間給にして、社員と同じ
ように働きたいという人は8時間働いてもOK
とし、65 歳まではスムーズに続けられる制度に変
えようとしています。営業さんは制度的に派遣で
きないので、60 歳を過ぎたら個人事業主になって
もらうという形にしています。
他にも、工場では多能工と変形労働制で、ノー
残業デーに営業部門が取り組んだり、企画やデザ
イナーはプランニング手当で残業手当ではない
ようにしたり、36 協定とかそういうのがあるから、
とにかくいっぱい働きゃいいってもんじゃない
よって、一生懸命アピールしながら残業を減らす
努力もしてきました。
ボトムアップとフィードバック
「ノーベル起案」という、パートさんでも誰で
も何時でも起案ができる仕組みも作りました。毎
年の経営計画発表会で3名位表彰されますが、こ
こではお金のフィードバックはありません。たと
えば営業所に商談ができるようなスペースを作
り、そこで展示会もやってみたいとか、消費者の
座談会ではこんな意見を聞いてみてはどうか、と
いう内容です。全ての起案の結果は、私が壁新聞
で発表しています。
壁新聞には月次の数字も全部出します。今、利
益が出ているのか出ていないのか、クレームも、
人事のことも、どうしてこの人を降格したか、こ
の人がどうして昇格したか、全部「橋本はこう思
う」と自分の言葉で書いています。ノーベル起案
に対しては却下したとしたらなぜ却下したかを
書きますし、採用するとしたらこういう風に採用
します、と書きます。
このような制度や取り組みで多様性を担保す
ることで、45 億だった会社が6年で 50 億まで戻
りました。
会議が研修~時間を体感する
それまでの社内会議は、私の父が演説をして、
皆はそれを書きとってどうやって現場に落とす
か、ということだけを考えていればよかったので
すが、私が社長になってからは会議でアイデアを
出すように変えようとしました。でもなかなか出
なくて、私の気持ちだけじゃうまくいかないとい
うことが分かったので、会議のやり方を変えまし
た。トップダウンからの転換をしたかったので、
本気で導入しました。
「カンファリスト式会議術」というもので、実
際にはキッチンタイマーを持ち、一人づつ 10 秒
とか 20 秒とか話す時間をあらかじめ決めて順番
に話します。時間がきたら話している途中でもみ
んなで拍手をしてやめさせることで、皆が 10 秒
とか 20 秒とかの時間を体感します。最初のうち
は話の途中で止めさせられて、皆「きーっ!」っ
てなっていましたが、今は結論から言って簡潔に
理由を述べるようになりました。
会議が研修~視点を分けて役割を回す
それから、何のための会議か「目的・目標」を
明らかにします。たとえば「周年行事でのイベン
ト」を決める場合、まず決めるのはイベントの予
算なのか内容なのか、会議の目的目標で何を決め
るかを絞ります。ホワイトボードシートに書きな
がら進める形で、司会と書記とタイムキーパーの
役割は一つの視点ごとに担当者を順繰りに回し
ていきます。
周年行事のイベントを決める場合、最初の視点
としてアイデアだけを出し、出されたアイデアの
批評はしません。次の視点はそのアイデアに対し
て良い点だけを出す、次に悪い点だけを出す、そ
して最後は、悪い点は何をひっくり返したら改善
できるのか改善点を出します。誰の意見か、誰が
その意見に難癖をつけたかなど、視点を回して書
記も回して司会も回しながら皆でどんどん書い
ていくと、まったくわからなくなります。
この会議術をやるようになって、工場の子もい
ろんなアイデアを出すようになりました。縦も横
も、上と下や部署間の風通しも良くなってなおか
つ、一人一人が何分間で話すということができる
ようになりました。プレゼンの仕方もとても上手
になり、お客さんのところへ行って、例えば茶袋
のデザインを決めているときも、話があっちに行
ったりこっちに行ったりするところを、「じゃあ
先ず、いい点を教えてください」「気になる点は
どこですか?」「その気になる点はどうやったら
改善されますかね?」という順番で話を進めるこ
とによって、採用率が上がりました。
仲間がいるから頑張れる
自分以外の社員に対して「こういうところでお
世話になったよ」ということを書いて一票入れる
「イチオシ投票」というのをやっています。半期
に一度、上位 10 人ぐらいが選ばれて表彰状と金
一封がでます。昔の表彰は父や取締役会が決めて
いたので、できる営業マン、すごく優秀な営業事
務の子、というような優秀な子ばかりが表彰され
ていましたが、これをやるようになって例えば、
全然地味な仕事なんだけど商品サンプルを一生
懸命片づけてくれているとか、目立たない子にも
日が当たるようになりました。
表彰されなくても、自分が投票された理由をコ
ピーして、お客さんに怒られたり納期調整でひっ
迫して自分がすごくつらい時に、こんな風に自分
のことを認めてくれる仲間がいる、だから頑張れ
る、という形で「お守り」にしている子が多いそ
うで、給料はそんなに高く出せないんだけれども、
こういうところでつながっていけると思ってい
ます。
目的目標が一人一人にリンクして
私は皆に「目的目標はリンクしていく」と言っ
ています。いつも言っている例えば、会社の目的
54
目標が「○月○日の結婚式でこのドレスを着るた
めに(目的)ウエストを3センチ細くする(目標)」
であったら、やるべきことが明確になって、次の
部門の目的は「3センチウエストをマイナスにす
るために」、目標は「毎日腹筋を 100 回する」と
なります。その下の部署では「毎日腹筋を 100 回
するために」「何時までには会社から帰る」とな
り、そういう風にしてだんだん一人一人に落ちて
いきます。
目的目標を決めるときには必ず「お客様の視点、
業務プロセスの視点、育成と成長の視点、財務の
視点」の4つに分けていて、社員のお給料に関係
するような面接評価もこの4つの視点で行って
います。がんばってお客様のお役立ちをして、お
客様のお役立ちをするためには、もちろん自分が
育成成長して自分の力量が上がっていくことが
大事ですし、仕事の中で無駄がないという業務プ
ロセスも大事で、そういうことを加味してお客様
に「やっぱり吉村さんで良かった」と言っていた
だく、その時に初めて財務が結果として付いてく
るんだ、と言っています。
今は、財務の視点は結果だと普通に喋っていま
すけれども、父にバトンを渡された時には売上が
目標と思っていました。売上のために何をしたら
いいのか、と思っていたのですごく苦しかったで
す。けれど、売上はどれだけお客様にお役立ちを
したかの結果で、その結果を出すために社員がど
れだけ工夫したか、その差額が利益だと思った時
に、どれだけアイデアを出して、どれだけお客様
のお役だちをするか、がすごく大事だということ
が自分の中にストンと落ちました。
でできないか」という多くのお客さまの声に、何
とかしたいと思っていました。
当時、ヒューレットパッカード社が紙のシール
に印刷するデジタル印刷機を製造していて、これ
を紙ではなくてフィルムに置き換えられないか、
と野望を抱いたのが5年前です。紙をフィルムに
置き換えようなんて当社が初めてで、日本語のマ
ニュアルはどこにもなく、全部英語でひどい時は
イスラエル語でした。
うちの社員は工業高校を卒業していたらエリ
ートというくらいなので、彼らは電子辞書を片手
に夜中に飛び起きるという大変な毎日でしたが、
4年かけてどうにかこうにか、きちんとフィルム
の袋に印刷できるようにしてくれました。この機
械を真似されたくなくて、自分たちでエスプリと
名前を付けてやっていました。
彼らは 100 点を取るのは上手じゃありませんが、
紙をフィルムに置き換える、これには成功事例は
ありません。0から1を作り出す時に、どうやっ
たら 100 点が取れるかでやってきた優等生よりも、
よっぽど彼らはすごいです。こうやったらどうか、
だめだ、じゃあこうやったらどうか、とあの手こ
の手が尽きません。
他の会社さんから、「うちではきれいな色がで
ないのに、どうやったの?」といわれる機械です
けれど、当社はもともとグラビア印刷で色の美し
さに誇りを持っていたので、その職人たちが何と
か色を合わせるために頑張りました。今年5月に
デジタル印刷の世界コンテスト「ディースクー
プ・パッケージ部門」でグランプリを取ることが
できました。小さい分野ですけれども世界のトッ
プを走っています。
100 点のない世界、0から1を生み出す
知恵と工夫と経験と
当社が企画製造販売している「茶袋」は、フィ
ルムに印刷するグラビア印刷です。商品の仕上が
りは色がとてもきれいで美しいのですが、1色に
ついて版代が3万円、カラー印刷は5色なので製
版だけで 15 万円、ロットは 2000 メーターで同じ
茶袋が2万枚できる、という世界でやってきまし
た。「これでは冒険ができない、もっと小ロット
ところが、グランプリが取れるようなきれいな
デジタル印刷の茶袋ができても、売れないんです。
もともと2万枚作るグラビア印刷の単価に比べ
て、1000 枚以下のロットでもできるデジタル印刷
は単価が高いわけです。そうすると今度は「前の
値段だったらいいけど、高い」と言われて売れま
せん。これでまた大変苦労したんですが、前は同
じものが2万枚もできて版代も必要でしたが、こ
れは 500 メーターずつ違うデザインで4種類作れ
て、版代はいりませんからトータルではこんなに
安いんです、と言えるようになってちょっとづつ
売れるようになりました。
営業は成功事例が出ると、どうやってそのお客
さんを落としたか、と集まって「プレゼンスタジ
アム」を始めます。「資材担当者さんは相手にし
てくれないけど、社長さんと話すとキャッシュフ
ローっていう言葉に弱いよ」とか、グラビア印刷
55
と比べると色が結構ぶれるので「最初にデメリッ
トを言っておいて、でもできることがこんなにあ
るよって、いう風に札を切ったほうがいい」とか、
熱心に経験交流しました。名付けて「デメリット
ポンポンポン戦法」は営業会議で皆が練習しまし
たし、2件3件と売れた子が「こうやって俺は決
めたぜ!」という新聞を出して皆がそれを見ると
か、この時も様々な試みが生まれ、今ではグラビ
アよりもずっと案件数が増えました。これは本当
に働く人の多様性、いろんな個性の子がそれを出
し合ってやってきたからだと思っています。
多様性の担保で結果を出す
私は、多様性を認めるとかワークライフバラン
スというものは、やらなきゃならないことではな
くて会社が勝ち残るための道具だと思っていま
す。中小企業は大企業に規模ではなかなか勝てま
せんが、働く人と働き方の多様性を認めて、「自
分の居場所がある」という居場所を担保すること
によって、のびのび個性を発揮してもらって、ア
イデアを頂きながら結果を出す、そのための道具
だという意味で本当に大切なポイントだと思っ
て取り組んでいます。
いるような価値観、それこそがこれからの時代に
は武器になる、ということでした。なぜなら時代
が均一な人間、均一な価値観を生み出さなくなっ
ているからです。
私は本日の分科会で、会社に社員を合わせる時
代が去り、社員に、つまり人に会社を合わせる時
代が来ているのではないか、と思いました。人の
数が少なくなっているということは、逆に言うと
「それだけ大事にしていこう」という時代になっ
ているのではないでしょうか。多様な価値観を持
ち、多様な人材が揃っている会社ほど強く、これ
からの時代を乗り越えて行けるのではないでし
ょうか。自社もそういう会社を目指したいと思い
ます。
【第9分科会スタッフ】
○座
磯村 裕子(西春日井地区)
(有)サン樹脂加工・常務取締役
○室 長 中西 耕策(熱田地区)
循環資源(株)・専務取締役
○責任者 江上 幸江(中川地区)
(株)ケアコンシェルジュ・代表取締役
○グループ長
横 山
仁(西春日井地区)
■座長まとめ
伊藤 妙子(春日井地区)
(有)サン樹脂加工・常務取締役
石田 新一(知多北部地区)
磯村 裕子(西春日井地区)
大島 弘睦(中区北地区)
林 奈津子(名古屋第6青年同友会)
労働人口の減少という側面から「多様な人材の
神田季久代(緑地区)
雇用」を考えた時、ともすると言葉は悪いですが
谷澤 公彦(岡崎地区)
「猫の手も借りたい」その猫を借りてくる、今ま
永谷 律子(岡崎地区)
で見向きもされなかった人たち、同じ条件で働け
北村 達哉(豊川・蒲郡地区)
ない人たちに、働いてもらうために何かをやる、
廣濱 裕基(豊川・蒲郡地区)
と考えがちかもしれません。特に中小企業の場合、
○実行委員
今でも人材で困っていますし、将来もっと労働人
伊藤めぐみ(一宮地区)
口が減ってくるという現実がある時、そういう考
毛受みどり(豊明地区)
えになりがちです。
久 田
真(名古屋第5青年同友会)
でも橋本社長のお話は全く違い、「多様性は武
器だ」とのご報告でした。真面目にまともに働け
○記 録 浅井 紀子(愛知同友会事務局員)
ないと思われている人、普通ではないと思われて
56
長
⑩分科会
第
<人間尊重の経営>
人を生かす経営の実践
~経営者に求められる意識改革とは~
報告者
創業6年目には拡大を急いだため倒
産の危機に。遅刻や無断欠勤、クレーム
や解約が多く、悩む日々。社員との立場
やモノの見方の違いに真正面から向き
合い、ワンマン経営から社員が主役とな
る会社に取り組みます。
「中小企業には、さまざまな人が入っ
て来る。そして、どの社員も無限の可能
性を持ち、心の底でよりよくなりたいと
思っている」と確信する笹原氏の実行力
から学びます。
笹原 繁司氏
綜合パトロール(株) 代表取締役
(千葉同友会)
【会社概要】
創 業 /1991年
資本金 /1000万円
総社員数/85名
事業内容/綜合警備業、建設工
事、土木工事に伴う交
通誘導業務、スーパ
ー・百貨店の駐車場
警備、要人の身辺護衛
警備会社
http://www.sohgohpatrols.co.j
警備業界の変化
創業期の我が社
私は、千葉県松戸市で警備会社を経営し、22 年
目を迎えました。警備業界は 50 年という節目を
迎え、仕事は多彩な分野に広がっています。その
中でも、当社は建設現場や道路工事の交通誘導を
中心に、お祭りや花火大会、イベントなどの警備
も担当しています。
建設現場や道路工事の仕事は、季節によって大
きく変動します。今は、幅広く仕事を手がけ変動
は減りましたが、創業当初は、新年度に入ると役
所の予算や人事異動、着工するまでの手続きなど
で7月までは新たな工事は発生しませんでした。
また、天候が強風や雨の場合は、安全を考え中止
になることも多く、季節や天候による仕事量の変
動があるため、日給月給の登録社員制を取ってい
ます。
関東では、近県の埼玉、神奈川、東京の警備会
社が千葉県に参入し、強烈な価格競争が続いてい
ます。今年5月の全国警備業協会の発表では、協
会加盟の警備会社はここ 10 年間で、全国で 2,000
社近くが減少し、警備員は 10 万人増えて 53 万人
になりました。全国の警察官は 44 万人ですから、
圧倒的な多さです。
昔は、監督官庁の警察が警備会社を育成すると
いう姿勢でしたが、今は厳しく指導する姿勢に変
わっています。その背景には、人口減少、少子化、
市場の縮小があり、お客様から選んでいただける
会社にならねばなりません。
57
私は平成3年に勤めていた警備会社を辞めて
創業しました。バブル経済崩壊後で、景気のよい
時代を経験したことがありません。一日も早く採
算がとれる会社にしようと我武者羅にやってい
ました。
当時の私は、警備会社は抱える社員の数が力だ
と考え、社員採用に方針は無く「来るものは拒ま
ず、去るものは負わず」の考えで、毎月募集広告
を出し、人数を揃えるためどんな人でも採用して
いました。
景気が悪く、倒産、廃業の会社も出る中で、自
社では会社の体質改善や経費の削減に取り組み
ました。削減に限界もあり、一度だけ止むを得ず
社員の給料を改訂(減給)したことがあります。
すると今度は、頼りにする中堅の社員が、改訂さ
れた給料では住宅ローンや子どもの学費などが
払えないと辞めてしまいました。価格が下がり、
人件費を下げると社員は辞めるという悪循環に、
どう対応していけば良いのかが数年来の課題で
した。
創業3年目には登録社員が 150 名を超え、徐々
に仕事を分担する様にしましたが、この頃から
次々と問題が発生しました。無免許で現場の車を
盗んで乗り回し警察に逮捕される者がいたり、警
備員の誘導ミスで近所の塀を壊してしまったり、
遅刻・無断欠勤は当たり前のようにあり、事故も
三日に一回は起こしていました。クレームが入り
謝罪に向かえば解約され、問題が起きない日はあ
りませんでした。
すべて社員が悪い
当時は、冷静に原因を考える余裕もなく「すべ
て社員が悪い、自分の生活を守る仕事への姿勢や
考え方に問題がある、よい社員を一人でも多く採
用して教育しよう」と本気で思っていました。
交通誘導の会社に応募して来る方は、面接にサ
ンダルやTシャツ姿、履歴書も持たずに来る者が
います。中にはポケットに手を入れたまま「あの
さ、面接してよ」と、どちらが面接者なのかわか
らなくなります。
応募の動機を聞いても「すぐにお金になりそう
だから」
「楽そうに見えるから」
「次の仕事が見つ
かるまでやらせてよ!」と、こちらがムッとする
ようなことを言う者もいました。人間関係が苦手
な、不器用な人達が大半でした。
当社は、中途採用が多く、四日間の研修した後
は、家から勤務先まで直行直帰となります。社員
が会って話し合う機会もなく、人間関係がつくり
にくい業種です。
直行直帰ですから、社員には朝と帰りに電話で
報告を入れてもらうのですが、朝の勤務間際にな
っても連絡がないので自宅に連絡すると、まだ家
にいました。「どうしたの」と聞くと「今起きた」
と言うのです。さらに「今から現場に行くと、先
輩やお客さんは怒るよね。それに今からだと、遅
刻分が引かれるでしょう。今日は仕事をパスしま
す」と電話を切られてしまいました。その後は、
替わりの勤務者探しとお客様への謝罪などで大
騒ぎでした。
そんなことの連続で、お客様からは出入り禁止
になる、売り上げは落ちる、資金繰りはせねばな
りません。思い余って同業の先輩に相談したとこ
ろ、同友会を紹介してくれました。17 年前のこと
です。
58
同友会に出会い、講習会に挑戦
初めて参加した千葉同友会の経営研究集会で、
強烈なショックを受けました。分科会では、自分
の会社の悩み、問題のある社員や社長の失敗した
話などを包み隠さず報告され、しかもその内容が、
私の行ってきたことにとても良く似ていました。
社内の全ての事を自分が仕切り、社員に仕事を
任せ切れない、自分の考えを無理繰り社員に押し
付ける、うまく指示して社員を動かすのが経営者
の力量だと考えていることなどです。
私はこの分科会で、社員との信頼関係や話し合
いが大切であり、社内での委員会活動が重要だと
教わり、研究集会終すぐに数名の社員と相談し
「業務推進委員会」を提案しました。すると「名
称が堅苦しい、委員会ではなく講習会が良い」と
意見が出され、開始早々力が抜けましたが、いよ
いよ業務推進の取り組みがスタートしました。
最初の頃の講習会は、めちゃくちゃでした。
「お
客様が望む警備員とは?」というテーマで討論す
ると、社員が陰でこそこそと「それくらいの事は
分かっているし、皆ちゃんとやっている」と不満
げに言っているのです。私は「ちゃんとやってい
るならクレームや解約があるわけないだろ」と思
いましたが、怒鳴り押し付けてはいけないと同友
会で教わっていたので、怒鳴りはしませんでした。
しかし、私の思いとは違い過ぎて、話し合いにな
りません。
今思えば、この時はまだ「一人ひとりは違う」
ということを頭で理解していただけで、心の中で
は、私と違う意見を言う社員は、変な奴、駄目な
奴、使えない奴と決め付けていたのだと思います。
社員の本音
社員は、私が苛立つようなことを次々と言って
きました。我慢できずに私が怒鳴ると、社員は下
を向いて何も言わなくなる、そんなことが数回重
なり、次第に講習会の参加者は減ってきました。
公共事業が減り単価も下がる中で、みんなで頑張
ろうとやっているのに、私の思いは社員に伝わら
ず陰で文句を言うばかりでした。
私は、文句を言う社員から何かヒントをもらえ
ないかと考え、休日に一升瓶を持って家を訪ねま
した。そこで、なぜ講習会に取り組むのかを一生
懸命に話しましたが、社員は「うーん」と言うだ
けで意見を出してくれません。時間だけが経ち、
話を切り上げようとする社員に、なんとか会社を
良くしたいと思っていること、契約金額が下がっ
ていること、仕事量も減っていること、同友会の
ことや講習会のことなどを夢中で話しました。
すると、ようやく社員は「社長がそこまで言う
なら私も言いますが、怒らないで聞いてくれます
か」と言うのです。私はこのことばを待っていた
のですが、期待に反して、めちゃくちゃに言われ
てしまいました。
「何をするにしても、なぜすぐ怒るの、なんで怒
鳴るの。とにかく堅苦しい。話が難しい、声がで
かい、モノが言える雰囲気じゃない。何よりも社
長のくせに、その事は良く検討してから返事する
と言えないの。全部自分で答えてしまって、一緒
に考えようとしないじゃない」と私のことばかり
言うのです。ヒントが欲しくて来たのに、逆に説
教され、頭が真っ白になってしまいました。
腹を立てながら帰りましたが、時間が経つにつ
れ、腰掛の社員があれほど真剣に考えていてくれ
たのかと嬉しくなり、その社員を頼りにしようと
思うようになりました。
講習会に来ないでほしい
社員と講習会の進め方や分担などを相談する
と、「今度は俺たちがやるから、社長はやらなく
ていい」と言うのです。数回目には社員から「社
長は講習会に来ないで欲しい。社長がいると意見
を言えない者もいる」と、私だけ除けもの扱いで
す。しかし、社員が「来てもいいよ」と言ってく
れるまでは、任せることにしました。やがて、講
習会の雰囲気も進め方も徐々に変わってきまし
た。講習会を通して「何でも聞いてもらえる雰囲
59
気」「何でも言える気どらない関係」がとても大
切であることを、社員から教わりました。
人は生まれも育ちも違います。だから習慣も身
に付いた考え方も違うのは当然で、私の期待とは
違う意見が出ることも当たり前だと気づきまし
た。社員は、業界の変化や会社の状態を教わって
いなければ、知らないのは当然です。だから、い
ろいろ違う意見を言ってきます。それを「あなた
はそう考えていたんだね」と受け止め、
「だから、
違っていたんだ」と認め、丁寧な話し合いを根気
強く続けることが経営者の仕事だと思えるよう
になりました。
拒絶や否定からは何も生まれない
会社の講習会に再び参加するようになり、グル
ープ討論の休憩時間に、社員から「社長、給料は
いつ上がるのか」と聞かれました。その社員は、
現場で相談なく缶コーヒーを買いに行くなど、肝
心な時にいないため仲間から文句が出ている人
でした。
私は一瞬ムッとして「自分の勤務態度を改める
のが先だろう」と思いました。すると、そばにい
た先輩社員が「君、良い意見だね」と言い出し、
「じゃ、どうしたら給料を上げられるかな」と問
い掛けていました。聞かれた社員が答えに詰まる
と、「お客様に明日も来てねって言われたらいい
よね。あなたじゃなきゃ困るって言われたら、や
がて給料が上がることもあるんじゃないの」など
と二人で勝手に話し込んでいます。
もし、私があそこで怒鳴っていたら場がしらけ、
話し合いにもならなかったでしょう。そして、そ
ういう私の対応は、決してその社員だけにとどま
りません。ここでも、拒絶や否定が相手に何をも
たらすのかを社員から教わりました。
経営指針成文化セミナーに参加して
社内の講習会がうまく行かず悩んでいた時、同
友会の経営指針成文化セミナーに参加しました。
自社の目標、強みや弱み、労働分配率など、会社
の分析の種類がこんなに沢山あるのかと驚きま
した。
しかし、何よりも驚いたのは「何のために経営
していますか」という問い掛けでした。その時は、
食うため、生活のために決まっているじゃないか
と思いました。さらに「どんな会社にしたいです
か」と問われ、なぜ他人にそんなことを聞かれて、
答えなければならないのか不思議に思いました。
購入した同友会会員の体験報告のテープを何
回も聞き、今までの私は「自分が興した会社」
「私
のための会社」、もっと言えば「私だけの会社」
と当然のように思っていたことに気づきました。
すると「会社のために頑張れ」と言われた社員
は、社長やその家族のためにやらされていること
になります。社員にしてみれば、私は、社員の人
格を無視し、給料を払っているのだから働いて当
たり前と映っていたのではないか。それなのに、
自分がワンマン社長であると気づいていなかっ
た。それが徐々に解ってくると、「このままでは
会社は潰れる」とぞっとしました。
同友会では「よい会社をつくろう」と言ってい
ますが、「よい」という意味を自分勝手に解釈し
ていたことに気づき、真剣に経営指針に取り組み
始め、今に至っています。
社員を中心にした取り組み
15 年間、社員を中心にいろいろなことに取り組
んできました。一カ月に発生したクレームや褒め
られたことなどを社内報で社員に公開して来た
事、毎月、社員教育を目的に講習会を行って来た
こと、リピーターづくりのために、請求書送付案
内を通して、当社の考えをお客様に発信し続けて
きたこと、毎週一回の本部会議も定例化して来ま
した。当社の活動スローガンを「あてにされる歓
び」として、お客様の期待に応え、仲間からもあ
てにされる考え方が、少しずつ定着して来た気が
します。今は、ほとんど遅刻や無断欠勤はありま
せん。
自宅から直行直帰の仕事で、社員同士が話し合
う機会も少なく、以前の社員にしてみれば夢も希
望も持てず、ただ言われた仕事を黙々と消化する
だけだったと思います。腰掛のつもりでいた社員
は何年たっても腰掛で、人づきあいも苦手なまま
でした。そんな不器用さをうすうすわかっていた
のに、その社員の相談相手にもならず、親身にな
って助言することもせず、仕事をさせていたこと
が問題だったのです。それは、経営者である私に
原因がありました。
社員と一緒に、どんなに格好悪いことでも、恥
ずかしいことでも隠さず公開し、一緒に考え悩み、
工夫に取り組むことが大事だったのです。
変わり始めた社風
社員が、変わってきました。社内報を読んで仲
間の意見や会社の状況を知り、仕事のやり方を教
わったり、困ったことを講習会で相談したり、先
輩からのアドバイスを受け、自分の間違いを素直
に受け止めるようになりました。講習会の雰囲気
も随分と変わり、笑いあり意見あり和やかにやっ
ています。仲間と顔を合わせ話し合うことを楽し
みにしているように感じます。
先月、とてもうれしいことがありました。珍し
く全員が制服を着て集まり、お互いに制服のチェ
ックをしていました。ある社員が「俺の制服はも
う取り替えてもらいたい」と言うと、みんなが「取
り替えはまだ早い、手入れの仕方が悪い、洗濯は
こうした方がいい」など意見やアドバイスを出し
ていました。私は、和やかにチェックし合う様子
を見てうれしくなりました。
誰もが精一杯生きたいと思っている
講習会の当初は、グループ討論の発表者を決め
るのに時間がかかっていましたが、今は嫌がらな
くなりました。
社内報に講習会に出たくないと言っていた女
性事務員の感想が載りました。「最初は堅苦しい
雰囲気で、話している内容も自分には関係ないと
思っていました。今は、先輩後輩関係なく悩みを
話し合う雰囲気になり安心して参加できます。み
んなの現場の苦労も知ることができ、自分も講習
会に参加して仲間になりたい」と書いてくれてい
ます。
会社にも家にも寄り付かない母一人子一人で
暮らす五十代の社員がいました。電話連絡をする
と、母親が息子に向かって、矢継ぎ早にこごとを
言う様子が電話口から伝わって来ます。常務が母
親に「毎日暑い中、息子さんは一生懸命働いてい
る。お願いだから息子さんが帰ってきたら、お疲
れ様とねぎらってやって欲しい」と何回も話して
いるうちに、いつの間にか帰宅が早まり、笑顔で
60
笹原社長は「自分が興した会社」という捉え方
から、社員に向き合い本音で話し「社員と一緒に」
やっていこうと変わりました。その成長と同時に、
社員も仲間と一緒に勉強し、自分の成長が確認で
きるからこそ自主的に講習会に参加するように
なりました。
人を生かす経営の実践とは、人間力を向上させ
ることだと実感しました。人間力を向上し自立す
ることで、社会もよくなります。まず、経営者に
とっての大きな課題は、経営指針の実践、明確な
経営理念とそれに基づいた本気の実践にあると
思います。
出勤するようになりました。
私が必死にやろうとした事は、なんのことはな
い、社員同士でお互いに影響しあい、話し合う中
で少しずつ挑戦していたのです。人は、いろいろ
な背景を背負って生きています。サラ金に手を出
して借金を抱えた社員の夢は、借金が無くなる事
でした。この話を聞いた時、私は返すことばが見
つかりませんでした。しかし、どんなに厳しい状
況にある人でも、あてにされる人間になりたいと
願い、自分の人生がどうでもいいなどと思ってい
る人は誰一人いません。
一人ひとり違うことが当たり前で、欠点や癖が
あることが普通です。最初は出来無くて当たり前
で、出来無い事をそのままにしている事の方が問
題なのです。その責任は経営者や幹部社員にある
ことを自覚して、日々の経営に取り組んで行きた
いと思っています。
【第10分科会スタッフ】
岩田 竹生(名古屋第2青同)
(株)丸二商店・代表取締役
○室 長 浜中 越朗(稲沢地区)
(有)豊和グリーン・代表取締役
○責任者 小出 晶子(稲沢地区)
タイヨー機械(株)・代表取締役
○グループ長
布野 孝幸(春日井地区)
石川 雅浩(昭和地区)
井 上
崇(中区南地区)
新美 紀善(三河第1青同)
瀧本 浩史(豊川・蒲郡地区)
江尻 富吉(あま地区)
○同友Aichi記事
片山 龍樹(三河第1青同)
○実行委員
菱 木
健(北地区)
三輪田俊裕(中川地区)
清水 由恵(中区北)
本 間
聡(西地区)
高須 秀宜(三河第2青年同友会)
■座長のまとめ
(株)丸二商店・代表取締役
岩田 竹生(名古屋第2青同)
綜合パトロールの経営理念をご紹介させてい
ただきます。
『私達は、お客様からは勿論のこと、仲間からも
「あてにされる事を歓び」とし、人間関係を何よ
りも大切に考えております。
一、私達は社員一人ひとりの成長により、高度な
警備技術を提供し、お客様に貢献します。
一、私達は、互いを尊重し、素直に学び、常に前
向きに取り組み続けます。
一、私達は、人との関わり合いから学び、互いに
自立し、覇気に満ちた人間集団を創ります。』
今回の分科会「人を生かす経営の実践」では、
笹原社長のまっすぐでひたむきな、そして実行力
あふれる実践報告から学びました。
綜合パトロールの社員同士が切磋琢磨して自
分たちで講習会をつくっていく、それは人として
より良くなりたいという欲求を持っているから
です。
61
○座
長
○記
録
岩附さとみ(愛知同友会事務局)
⑪分科会
第
<人間尊重の経営>
社員の成長で喜びを共有し、めざす企業像へ
~人を育て、文化伝承の使命感を胸に~
報告者
社員がいきいきと目標を持って自主
的に働き、働く中で成長することこそ、
「人を生かす経営」です。どの企業にお
いても、人材育成は大きな課題ですが、
福谷氏は、自発的に考えて行動する「自
立型社員」の文字を理念に掲げ、共に育
ち合うことを呼びかけてきました。
経営者と社員が対等な労使関係のもと
で、社員一人ひとりが、自らの働く意欲
を高め、自主性・創造性を目指し共に育
ちあう社風(環境)づくりのヒントを学
び合います。
福谷 正男氏
(株)豆福 代表取締役
(西地区)
【会社概要】
創 業 /1939年
資本金 /1000万円
総社員数/19名
事業内容/豆菓子製造卸及び
小売
http://www.mamefuku.co.jp
豆菓子一筋 74 年の会社です。創業当時は製造・
卸が中心でしたが、「直接買っていただく顔の見
える商売を」という父の考え方で、1981 年に小売
私は名古屋市西区で豆菓子の製造販売をして
店舗を開店、1988 年に現在の間口一杯の店舗にな
おり、同友会に入会して 35 年です。68 歳を迎え
りました。
事業を息子に引き継ぐ準備をしています。
弊社は名古屋駅と名古屋城の間の新道という
1994 年から3年間、名古屋第1支部の支部長を務
地域にあります。ここは、江戸時代の文政の頃か
めていました。当時、停滞気味の活動を改善する
らお菓子屋さんが多く、特に関東大震災以降は、
ために、活動改善委員会が立ち上がりました。
製造会社や問屋が立ち並ぶお菓子屋の一大集積
愛知でもより多くの会員に全国会合のような
地域でした。
学びと感動を得てもらおうと「あいち経営フォー
代表的な製品は、創業者の父が考案した「山海
ラム」が企画され、1998 年4月から始まりました。
豆(さんかいまめ)
」です。大豆の中でも一番美
全会員 2230 名を対象に、中小企業の経営課題に
味しい「袖振大豆」に寒梅粉(羽二重種もち米の
全県的に取り組むという位置付けでしたが、参加
粉)をまき、香ばしく煎りあげます。そして厳選
者は 300 名程でした。
された北海道日高昆布と宮崎県産の椎茸から引
私は、フォーラムの担当副代表理事として、第
いた出汁で調味し、その豆を有明海産海苔で手巻
1回から第4回まで実行委員長を務めました。何
きした手作りの豆菓子です。化学調味料は使用し
とか 1000 名規模で開催しようと参加を呼び掛け、
ておらず、多くの方々に愛されているお菓子です。
第6回目でようやく 1000 名を超える参加者が集
故三笠宮寛仁様も最期にお召し上がりになられ
いました。
あいち経営フォーラムは、一日同友会デ―とし、 たと聞いております。
弊社は素材にこだわり、大豆やカシューナッツ
仲間と語り合おうと呼びかけてきました。今回の
にカリカリの衣をつけて、味噌や抹茶などの味付
実行委員会でも皆さんの熱意を感じました。本日
けをする豆菓子を得意としています。愛知県特産
は、皆さんの学びになればと思い報告させていた
の西尾抹茶と八丁味噌を豆菓子に仕立てた詰め
だきます。
合わせ「豆でなも」は平成 24 年度名古屋観光ブ
ランド協会名古屋市長賞(最高位)を受賞しまし
豆菓子一筋のこだわり
た。小売店を始めてからは、豆菓子のギフト、贈
答品に力を入れています。
豆福は 1939(昭和 14)年に父が創業して以来、
あいち経営フォーラムと私
62
町工場から企業へ
私は父が体調を崩していたこともあり、大学卒
業後、他の企業への就職を考える暇もなく 1968
年に豆福に入社しました。入社した当時は父と母
と親族、パートさんだけの小さな町工場でした。
入社して7、8年目の頃のこと。製造を担当し
ていた義兄が退職し、山海豆のコピー商品を安値
で我社のお客様に売りにいくということがおき
ました。昨日まで一緒にやってきたのに、ライバ
ルとなって商売をするなんてことがあるのか、世
間ってこんなものなのかと愕然としました。
私は、売られた喧嘩は買うしかない「負けてた
まるか」と一念発起し、ぼんぼんだった私の尻に
火が付きました。
「とにかく経営の勉強をしたい」
と知人に同友会を紹介してもらい、すぐに入会し
ました。
同友会で学ぶ中で、一つずつ覚えては会社で実
践してきました。就業規則を整備し、朝礼が始ま
り、会社が少しずつ変わってきました。会の役員
を引き受けることで、責任感も増しました。
多くの偉大な経営者との出会いも、同友会に入
会して良かったことの一つです。㈱江崎本店の江
崎信雄氏(故人)は、日本でワインがメジャーで
ない頃から、コツコツとワインの良さを広めてお
られました。江崎氏は、ボジョレーヌーボーを日
本で初めて輸入した方です。江崎氏は「お酒は酔
っ払って飲むものではなく、味わい、人とのコミ
ュニケーションを作るための飲み物だ」と言われ
ました。私はこの言葉を聞いて非常に感動し、豆
で食文化に関わることができたら良いなと考え
るようになりました。
くても、包装紙や進物箱を用意して小売販売をし
ていました。その後、本店店舗を作り、順調にお
客様が増えていきました。小売展開がもう少し遅
れていたら、今の会社はなかったかもしれません。
2000 年、JR名古屋駅に高島屋が出店される時
に、出店のお誘いをいただきました。それまでに
も、百貨店からのお誘いを頂いておりましたが、
そんな人材もいないとお断りしてきました。
しかし、よく考えてみると、これまでお客様に
「駅から遠い」「わかりにくい」などの意見も頂
戴しており、ご不便をおかけしていました。
自社販売であれば 100%売上になりますが、百貨
店での販売は家賃も必要です。それでも、これか
らの時代はより便利でお客様に近い場所で商売
していかなければと思い、出店を決意しました。
2001 年には松坂屋にも出店しました。
百貨店では、東西一流の名店老舗が軒を連ねて
商売をしています。そういう環境の中で店を維持
させていくには、一流レベルの商品やサービスを
目指していかなければいけません。社員には、世
界でただひとつ、豆福にしかできないものづくり
にこだわりつづけ、一流の商品力と販売力を追求
していこうと伝えています。
経営理念の見直し
2000 年頃、遺伝子組換大豆や日本で初の狂牛病
問題や食品偽装問題が次から次へと起こり「食」
の安全性が問われるようになりました。私は「食」
に関わることの責任の大きさを考え 2002 年の7
月に経営理念を見直しました。人の口に入る食品
は何よりも安全でなければなりません。そして、
ただ美味しいお菓子という認識ではなく、豆の素
晴らしい食文化を伝承することも自社の大事な
使命です。
将来を見据えた自立型企業づくり
そこで、経営理念に「安全」「食文化」という
言葉を追加し、「私たちは安全でおいしい豆製品
同友会に入会すると、経営指針を作成しようと
を広めることにより日本の食文化を伝承し、健康
言われます。私は、勉強会や合宿を何度も繰り返
で豊かな食生活に貢献します」としました。
し、1997 年に「私たちは多様な豆製品の提供によ
この理念はその後、常務(息子)が更に見直し、
り健康で豊かな食生活に貢献します」と理念を掲
「一、八丁味噌やたまり醤油に代表される独特の
げました。
私が入社した時、日本は高度経済成長期にあり、 大豆食文化が根付く尾張名古屋から、豆の美味し
さを発信する。二、豆を通じて、健やかで豊かな
「山海豆」のような高級なお菓子はどれだけ製造
食生活を提案する。三、世界にただひとつ、豆福
しても間に合わない程好評でした。その頃は高級
にしかできないものづくりにこだわる。」として
クラブやバーでは高級なお酒と一緒に、珍しくて
います。
「安全」という言葉は入っていませんが、
美味しいおつまみが欠かせませんでした。「山海
「安全」を理念に掲げなくても当たり前だという
豆」もその一つで、珍味問屋さんに沢山納めてい
ことです。言葉の表現は変わっても、私の想いは
ました。
息子にも受け継がれていると思っています。
一方、豆福がまだ小売店舗がなく、工場だけだ
経営理念は、社員がよりどころとする会社の目
った頃から、「山海豆」をわけてほしいというお
指す方向であり、経営者の理念や価値観、熱い心
客様がクチコミで増えていました。父は「美味し
が大切になります。その経営理念が社風になった
い」と買いに来て下さることが嬉しく、店舗はな
63
語り、若い人が自分もそんな仕事に関わりたいと
思い、社員の夢を一緒になって作ることで、魅力
ある会社になるでしょう。
ときに、それは伝統となっていくのでしょう。
あなたの会社に人は来ますか
「あなたの会社に人は来ますか」これは、同友
会の仲間の大同紙工印刷(株)の村田さんが菊水
化学工業(株)の遠山会長に言われた言葉です。村
田さんは、遠山会長に「あなたの会社は人を採用
しないのですか」と問われ「いい人がいたら採用
します」と答えると「あなたの会社にいい人は来
ますか」と言われたそうです。
大学を卒業する学生は沢山いるはずなのに、大
同紙工印刷には一人も来てくれなかった。名前も
知らない、会社の将来性も見えない、魅力のない
会社に人が来るわけない。息子でさえ来てくれな
いかもしれないと思った時から村田さんは発奮
して、会社を大きく伸ばしてこられました。
村田さんにこの話を聞いて「そうだね。うちに
も来てくれないよな」と話したことを覚えていま
す。皆さんはどうでしょうか。あなたの会社に人
は来ますか。
弊社では同友会に入会するまで、新聞広告で欠
けた人員を中途採用で補充していましたが、製造
社員がなかなか定着しませんでした。どこかで切
り替えなければとの想いから共同求人活動に参
加して新卒採用に取り組みました。
企業は、働く人から選ばれ、若い人が働きたい
と思う魅力のある会社にしていかなければいけ
ません。合同企業説明会では勤務条件を話すだけ
でなく、今後の会社の方向性や夢を語りました。
初めての新卒採用で、求人募集要項に「こうい
う時代、手に職をつけませんか」というキャッチ
コピーを書きました。こういう時代というのは、
バブル崩壊で世の中が不景気になった時代です。
そんな時代に大企業に挑戦するのもいいけれど、
中小企業で自分の腕を磨き、あなたにしかできな
い技術を磨き、その企業でなくてはならない社員
と言われることも立派な夢ではないでしょうか、
と熱く語りました。真剣に話を聞いてくれた男子
学生が製造部門で初の新卒社員として入社して
くれました。現在、彼は製造の中心となって活躍
しています。
共同求人に参加するまで、新卒採用は大企業の
することだと思っていましたが、小さな会社でも
やればできると実感しました。困難な時代だから
こそ、情勢を切り開いていける社員を育て、企業
として環境変化に適応できる力をつける必要が
あります。
仕事を覚えるとあなたはどうなるのか。あなた
の活躍で会社がどうなっていくのかという将来
像を熱く語れば、人が採れない時代ではありませ
ん。全ては、社長の熱意です。情熱を持って夢を
64
ものづくりの喜びを共有する社員づくり
弊社では豆に親しみを持ってもらうため、工場
見学できるようにしています。小中学生や社会人
の見学も受け入れ、名古屋市主催の「名古屋モノ
づくり体感コース」の一つにもなっています。数
年前の節分には、NHKテレビの全国生中継の取
材に来ていただきました。
豆菓子の製造工程は、少し傾斜した大きなたら
いがクルクルと右回りに回転する中に、豆菓子の
芯となる落花生や大豆を入れ、お砂糖の蜜をかけ
ます。豆が砂糖蜜で万遍なく濡れた状態になった
ところで粉を掛けます。豆に粉が付いたら、また
砂糖蜜をかけ、寒梅粉をかけます。この行程を繰
り返した後、豆を煎り、味付け調味をして商品に
なります。
食品の多くは、機械に材料を入れるだけで自動
的に製造されていますが、弊社の豆菓子は、全て
手作りです。製造社員が自分の目で見て、粉の分
量を調整し、豆に蜜をかける行程はタイミングが
重要で勘と経験がモノを言います。
もちろん新入社員が最初から職人仕事ができ
るわけではありません。何年も何年も製造現場に
立ち、経験を積んで腕を磨いていきます。
夏には 40 度を超える過酷な製造現場で、ただ
「頑張れ」というだけでは続きません。若い人を
採用し、若い頃から価値観を共有して育てていく
ことが大切です。
新入社員を育てるには、まず幹部社員と育ちあ
う環境を作ることが大事だと気づき、既存社員と
の問題意識の共有に力を入れました。
自分の頭で考える
社員教育で大事にしていることは、いかに自分
で考えて行動できる人に育てていくかです。
弊社では、
「どうしたらいいですか」には、
「どう
したら良いと思う?」と社員に問いかけています。
迷った時や困った時、何でもかんでも「どうし
たらいいですか」と人の指示を仰ぐのではなく、
「私はこう考えますが、どうでしょうか」と自分
なりの考えを持って来なさいと言っています。自
分の頭で考えることが大切ですから、どんな荒削
りな案でも構いません。
人から言われて行動するほうが簡単で、責任も
ありません。しかし、自分の頭で考えることがな
ければ、人はいつまで経っても成長しません。社
員の一人ひとりが理念に基づいて自ら考え、行動
していかなければ、会社の成長も期待できないと
思います。
また、自分の働きを見えるようにするために、
製造・包装の社員にも販売を経験してもらうなど
他部門の業務にも積極的に関わるようにしてい
ます。
製造社員が製造現場しか知らず、お客様と接す
ることがなければ、自分が作ったお菓子がどのよ
うに販売され、どんな人が食べてくれているのか
もわからないままに作り続けなければなりませ
ん。これはとても寂しいことです。販売を経験し
た製造社員は、「自分が作った製品が売れた時に
はやりがいを感じ、また頑張ろうと思う」といい
ます。他部門を経験することで、自分の仕事の価
値を知ることができます。自分の仕事の証を社内
だけでなく、社外にも認めてもらえることの価値
を自分自身で見つけてもらうことも、大事な社員
教育の一つだと思います。
ある事務職の女性社員は、「以前勤めていた老
人ホームで豆菓子を販売してはどうでしょうか」
と提案してくれました。私は、「やってみたら」
と彼女に任せました。
すると、彼女は販売商品のリストや備品などを
全て自分で用意して、訪問販売に行くと驚くほど
売れたそうです。その体験をまとめた報告書が、
実に良くできており、何を準備しお客様が何を求
めているか一目瞭然でした。社員が自主的に行動
できる会社風土を作る上で必要なことは、情報の
共有化をはかることです。
彼女は、その後何度も販売に出向き、最近では
他の社員も連れて経験を共有してくれています。
このことは、私も非常に嬉しく有り難く思ってい
ます。「自ら計画したことは結果を出したい」と
いう社員の思いと実践が新たな可能性を生み出
し、成果を出していく成功体験が自信にもつなが
ります。
人は、誰かに指示をされて動くより、自分で考
えて行動することが一番楽しいはずです。社員が
いきいきと目標を持って自主的に働くこと、そし
て働く中で成長を実感できる環境をつくること
で、経営者と社員の信頼関係が築かれます。社員
65
が想いや考えを自由に表現できる環境を大切に
していくことが大事だと思います。
身についた習慣は第二の天性に
弊社では「企業目標と経営理念」、仕事の心構
えを記した「豆福のおきて」を毎日、唱和してい
ます。「豆福のおきて」には、日常の行動規範を
示し、日々の業務の価値判断の基準にしています。
社員との信頼関係を構築するには、まず社長自
身が信頼される人間にならねばなりません。社長
の日々の行動や話から、社員はそれを敏感に感じ
取ります。
私は、誰かとお会いした時や、誰かにお世話に
なった時に葉書を書く習慣を身につけています。
ハガキ道の坂田道信先生に倣い、自筆の文面が手
元に残るように、カーボン紙を挟んで書く「複写
葉書」を使用しています。
営業や販売社員にも、お会いしたお客様に葉書
を書くように薦めています。一度きりの名刺交換
で終わらせず、葉書をお送りすると、そこから新
しい出会いが始まるからです。
社員は、私が葉書を出していることを知ってい
ますので、店にお越しいただいたお客様のお名前
を言付けしてくれます。私は、その都度お礼の気
持ちを込めて葉書を送っています。
習慣とは、日常的に繰り返される行いのことで
あり、そのことをしないと落ち着かない、気にな
って仕方がない行いのことです。毎朝のご近所掃
除も、掃除しない日があるとどうも落ち着きませ
ん。これも習慣の一つです。成長している会社と
停滞している会社の違いはこの習慣の差ではな
いでしょうか。社員にも、良い習慣は、何度も繰
り返し、自分の身につけなさいと言っています。
使命の共同体で 100 年続く企業に
弊社の商品は、日本各地の特産品を使用したオ
リジナル商品です。素材の旨味をいかに美味しく
表現し、季節感を出すことを大切にしています。
その商品の開発は全員の義務と位置付けていま
す。現在は、常務が中心となってアイディアを出
し、製造が試作したものを複数の社員で試食しま
す。その後、一人ひとりが意見を述べ合い、改良
を繰り返して商品化されます。商品開発は、決し
て常務と製造社員だけの仕事ではありません。
どんな仕事でも、人任せにするのではなく、全
員にその仕事の役割があるという意識を持たせ
ることが大切だと思います。いい会社は、そこで
働く社員の目的が共通しています。人間は、誰か
に喜ばれるために生まれてきました。そして、生
きていく中で、誰かのために役に立った自分を知
ったときに成長し、幸福感を実感できるのではな
いでしょうか。
企業では、死ぬも生きるも一緒の運命共同体で
はなく、お互いに経営理念で謳う使命の基に働く
使命共同体だと考えています。
では、100 年続く使命共同体は、何ができてい
る企業でしょうか。まず一つ目に、善悪基準がは
っきりしていることです。二つ目に、自分で自発
的に仕事をすること。三つ目に、お互いに励まし
合うことです。つまり、良いと思ったことを自発
し、皆で良かったねと言える企業づくりです。こ
の会社風土がベースにあることが、100 年続く企
業をめざす前提だと思っています。当たり前のこ
とかもしれませんが、とても大事なことです。
私が生きているうちに、豆福の 100 周年にはな
りませんが、100 年続く会社を目指そうとするな
らば、今のうちから、善悪基準をはっきりさせ、
お互いに励まし合うという社風をもっともっと
徹底していきたいと思います。
日本を誇る食文化の担い手として
日本を誇る食文化の担い手として、豆、大豆食
を広めることにも力を入れています。京都大学名
誉教授・家森幸男先生は、「長寿と健康のみなも
とは大豆」だといいます。現在、日本人の死因第
一位は癌ですが、少し前までは脳卒中でした。
家森先生は、脳卒中についての研究を進め、
様々な実験をされました。実験の結果、確実に脳
卒中を発症するラットでも食生活を変えるだけ
で随分長生きできるということがわかったそう
です。その結果をもとに、世界中各国の食生活を
調査したところ日本人の食生活が長寿につなが
るということが判明したそうです。塩分の取り過
ぎにさえ注意すれば、魚・米・野菜・海藻類を頂
く日本の和食は理想的な食事だということです。
父が始めた商売だからという理由で後を継い
で豆菓子屋になりましたが、仕事をしていく中で、
大豆は日本人にとってなくてはならない食品で
あることを知りました。
21 世紀を担う健康のキーワードは、「日本食」
66
にあると言われています。中でも、大豆の重要性
には注目すべきものがあり、豆腐・湯葉・納豆な
どの加工食品を利用してでも、毎食あるいは一日
2食は大豆を食べましょうと推奨しています。物
言わぬ豆のことをもっと知ってもらい、もっと目
を向けて欲しいと思います。大豆の摂取が健康と
長寿につながるということを伝えることも私の
使命です。原点から食を見つめなければ、日本人
に必要な食が失われてしまいます。
社員に伝えたい豆菓子の原点
豆菓子は、日本で生まれた日本特有のお菓子で
すが、いつ頃から作られたのでしょうか。
京都・百万遍に日本で一番高い金米糖を売る
「緑寿庵清水」さんという老舗があります。金平
糖は宮中の慶事には必ず使用されています。緑寿
庵清水さんの金平糖は紀宮様ご結婚の引き菓子
としてもお納めしたそうです。
私がそのお店で買い物をして帰ろうとした際、
すすめられ、工場見学をさせてもらいました。工
場では、私共が豆菓子を作る工程と同じように、
傾斜したたらいの中で金平糖が作られていまし
た。豆菓子製造との大きな違いは、下から火を入
れて結晶化させている点です。
私は、金平糖の製造工程を見て、きっと豆菓子
づくりの先人が金米糖の製造方法を豆菓子製造
に応用したのだろうと感じました。
明治 30 年代、
大阪で砂糖商を営んでいた村上辰三郎氏が金平
糖製造の機械を考案し、菓子問屋を営んでいた三
谷為助氏が機械を広めたと言われています。私は、
この村上さんの曾孫さんと御縁ができ、豆菓子の
歴史について、今、一緒に調べています。
今年6月、金平糖の発祥地、ポルトガルの工場
視察に行ってきましたが、製造行程は豆菓子と全
く同じでした。豆菓子は、南蛮菓子の金平糖に流
れを汲む、非常に歴史の長いお菓子であるという
ことを社員にも、お客様にも伝えています。
日本で類のないお菓子づくりにこだわり、心を
込めてつくられた自社オリジナル製品をお届け
するという想いを大切に、会社の方向性をしっか
り理解して働いて欲しいと思います。
お客様は豆福のお菓子にお礼や感謝の気持ち
を込めて贈りものをされます。そんな大事な進物
だからこそ、商品を扱う際にも気持ちを込めなけ
ればいけません。自社は、ただモノを売るのでは
なく、贈る方も贈られた方も双方が満足していた
だけるような仕事を追究していきたいと考えて
います。どんな仕事でも同じだと思いますが、自
分のしている仕事に誇りと使命感を持ち、胸を張
って仕事をすることが重要ではないでしょうか。
伸び伸びと働くことのできる社風
3年前の春、息子が入社しました。息子が入社
した時の彼の朝礼の話を紹介します。
「豆福の今後のことです。豆福は、豆菓子市場
のみならず、和菓子・贈答品市場でトップブラン
ドをめざします。商品作り、店舗、スタッフの立
ち居振る舞いなど、最高の店にふさわしいものを
追究していきたい」社員が会社の目指す将来像を
具体的にイメージできるように語りかけました。
息子は常務になり、経営理念をわかりやすく書
き換え、将来ビジョンを具体的に語り、実績も伸
ばしてくれているので、私が口を出すことはほと
んどありません。
これまで私が心がけてきたことは、社員が働き
やすい社風をつくることです。中小企業では、保
守的な社員が問題になることが多々あります。仕
事を教えず、後輩を育てない社員がいると、良い
人が入社しても次々に辞めてしまいます。そうい
う会社をどこかで変えていかなければ、同じこと
の繰り返しになり、人が育ちません。それを変え
ていくことは、社長でなければできない仕事です。
現場社員が持っている情報を経営者が共有し、
社員相互にも情報を共有していく。その繰り返し
で一緒になって勉強しようという先輩のリーダ
ーが育ってこそ、安心して自分の仕事に打ち込む
ことができ、学んで成長したいという気持ちにな
るでしょう。社員が伸び伸びと働くことのできる
社風があってこそ一人ひとりが力を発揮します。
採用し、育ちあい、社員が誇りを持って働き続
けられる企業づくりを総合的に取り組むことで、
地域社会から評価され、それがまた企業づくりに
も反映されます。「共に学び、共に育ち、共に生
きる」社員教育を大切に、経営者が社員の主体性
を尊重し、自立型の社員を育てる社風の確立が必
要です。
■座長のまとめ
(株)やまもと・代表取締役
山本
達雄(岡崎地区)
この分科会では、大きく2つの学びがありまし
た。その一つが、社員が伸び伸び働ける社風づく
りで自ら考え行動できる自立型社員を育てよう
ということです。
福谷氏のターニングポイントは、身内の独立を
機会に同友会に入会されてからだと思います。経
営指針の作成、新卒採用の必要性を学び実践する
中で、自ら考え、行動できる自立型の社員を育て、
社員が伸び伸びと働ける環境づくりの大切さに
気付かれています。お互いを尊重し、認め合える
社風、人の役に立つことに喜びを感じる教育をし
67
ていくことが大事だと思います。
二つ目は、「自立型企業になろう」ということ
です。福谷氏は、自社でつくった商品を自分たち
の足で販売し、心を込めてお客様にお届けすると
いう信念を持ち、製造卸業から製造直売の道を切
り拓いてこられました。そこには、自社にしかで
きないモノづくりにこだわる、メーカーとしての
プライドを強く感じました。
豆福の目指す企業像とは、100 年企業への挑戦
です。企業を永続的に維持発展させていくには、
経営者が目指す企業像を鮮明に描き、それを実現
させるための強い意志と、何があってもやり抜く
覚悟を持つことが必要だと思います。
経営者が企業理念を語り、社員と共に学び合い、
めざすべき方向にベクトルの揃った企業のみが
時代を超えて生き残るということを痛感しまし
た。
【第11分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
山本 達雄(岡崎地区)
(株)やまもと・代表取締役
とぎ谷将紀(中区南地区)
(株)とぎ谷建築積算事務所・代表取締役
○責任者
丹羽 昭夫(尾北地区)
(有)宝製作所・代表取締役
金原 好宏(中川地区)
(株)金原カッター・代表取締役
○グループ長
厚地 優彦(一宮地区)
荒井幸二郎(稲沢地区)
坂元 誉子(西地区)
入野 真一(名古屋第1青年同友会)
吉木 博重(名古屋第2青年同友会)
齋藤 充廣(名古屋第2青年同友会)
浅井 將広(熱田地区)
苅谷 邦彦(熱田地区)
前 泊
元(中川地区)
市川 茂弘(南地区)
谷口 晋介(名古屋第3青年同友会)
林
俊 宏(天白地区)
戸塚 勝巳(緑地区)
藤浦 光俊(碧南・高浜地区)
大須賀 勝(豊橋地区)
○実行委員
野牧 久嗣(尾張東青年同友会)
船間 廣治(千種地区)
○記
録
伊藤沙弥香(愛知同友会事務局員)
⑫分科会
第
<人間尊重の経営>
同友会が目指すべき企業像と経営者の責任
~社員が安心して働ける労働条件を目指して~
経営者は理念を実現するために全精
力を傾け経営しています。同じように、
多くの社員が仕事に自分の人生をかけ
ようと、かけたいと考えています。労働
条件の改善は、賃金だけではなく、就業
規則、安全衛生など整備、また社員自身
が人生設計を描けるかが重要です。この
分科会は、労働条件改善のために何をす
べきか、また、社員をとりまく環境など
も考えながら経営者の責任とは何かを
考える分科会とします。
報告者①
吉田 幸隆氏
エバー(株)
報告者①
報告者②
吉田 幸隆氏
エバー(株)
代表取締役
(知多地区)
八橋 昭郎氏
八橋社会保険労務士事務所
所長(江南・岩倉地区)
SWOT分析で自社改革
代表取締役
(知多地区)
その時に、社員との向き合い方を変え、社員と
一緒になって将来のことを考えるようにしまし
た。SWOT分析の結果から①正社員比率が少な
【会社概要】
い、②部署間の隔たりがある、③作業者の経験不
足があるという三点の課題が浮き彫りとなりま
創 業 /1965年
した。
総社員数/100名
事業内容/金属プレス加工
当時は、社員の入れ替わりが激しく、派遣社員
業
に一生懸命教えてもすぐに辞めてしまうという
問題も含めて、前々から考えていた大卒採用を積
http://www17.ocn.ne.jp/~e
極的に行うことにしました。
ver-web/
そして、リーマンショックから何年かたった今、
割合からすると正社員比率は 54%になり、年齢分
自社は、セントレア近くの工業団地で、正社員
布もバランスが取れてきました。中小企業の製造
54 名、パート7名、派遣社員 25 名、中国研修生
業の全国平均は、正社員が6割なので、できれば
14 名、総勢 100 人規模でやっています。
7割を目指したいと思っています。
仕事は、日産向けのマフラーやトヨタのハイエー
部署間の隔たりについては、仕事を初めて8年
スの部品等を製造しています。
目の社員には、最初は現場、次に生産管理、今は
わが社は、1966 年に父が創業し、今年で 47 年
現場の溶接の係長として活躍してもらっていま
になります。主な取引先は、トヨタが7割程で、 す。彼らの適正を見ながら配置転換し、部署間交
3次、4次下請けの規模となります。
流の時間を作っています。
2008 年までは、会社を大きくすることが社員の
「知識がない」
「資格を取りたいが経験がない」
幸せになるという信念のもと、とにかく拡大路線
という社員の声からは、昼一会という勉強の場を
で伸ばしてきました。今思うと、それは一人よが
設けました。これは正社員だけでなく、派遣社員
りの想いでしかありませんでした。その後、リー
やパートさんも含めています。
マンショックが起き、世の中では仕事がなくなり、
ある社員は入社して8年になりますが、休みが
賞与が出ない、給料カットをしなければならない
ちで傍から見れば悪い社員ではありましたが、彼
という状況下で、わが社も毎月赤字を出し続け、 と接していく中で、彼をなんとか一人前にしてや
この危機的状況をどうするべきか悩みました。
りたいという思いが芽生えました。
金型の仕事をやってもらいながら、プレス技能
68
検定に挑戦してもらい、4年がかりで3級の資格
を取得しました。彼が資格を取ったことにより、
周りの社員も触発され、技術の習得意識の向上が
社内で広がりをみせました。
社内の情報化については、1年間で行うことを
年間スケジュールにまとめています。1月には方
針検討会、2月~3月にかけて経営計画を作成し、
部門での折衝のやり取りをして、それを踏まえて
4月に昇給の面談、5月に経営報告会、7月と 12
月に賞与面談、10 月に上期経営報告を行います。
なぜ、年間でスケジュール化をしたかというと、
「いつ社長に呼ばれてどんな質問されるかわか
らない」という意見があったからです。
残業が野放しで是正指導があったのを機に、社員
にも説明をした後、代表者にサインをしてもらっ
ています。36 協定、就業時間、年間休日に関して
も毎年見直しています。年間休日については、今
年であれば消費税の駆け込みがあるので、1月か
ら3月は忙しくなるのではないかと予測し、社員
との話し合いの中で決めました。
本当にこの給料でやっていけるのか
リーマンショック、リコール問題、自然災害等
の危機的な状況に置いて、危機感の共有、そして
未来に対するビジョンが絶対的に必要だと改め
て感じています。目標を達成するには、必ず守ろ
う、みんなで協力し合ってやっていこうという前
向きに取組む姿勢と仕組みがないと長続きしま
せん。
今まさに社員と一緒になってこれから明るく
なるであろう経営環境に対してどんな準備をす
べきか考えているところです。世間では、安倍総
理も言われている賃金のベースアップがありま
すが、大企業は大体 50 歳位で 45 万円の給料をも
らえている実態です。中小企業とは、約 12 万円
の差があります。自分自身も実態を知っていない
と社員に対して適正な判断が出来ないのではな
いかと思っています。
また、一世帯の収入が 47 万円位ないと老後が
不安視されると出ていました。大体世帯主が約 37
万円で生活し、配偶者が稼いだ約 10 万円が老後
の貯蓄に回っています。こういった世間相場も踏
まえて、社員の将来像を見据えていくと、中小企
業の製造業賃金モデルの 33 万円が妥当なのか悩
ましい部分です。もちろん管理職であれば、44,
45,46 万円と上がっていくのですが、新卒の社員
にこの数字を出した上で「エバーで働いてもい
い」と言ってくれる人が何人いるのだろうか、こ
の収入で子供を育てていけるのか、そもそも結婚
できるのだろかと不安を覚えます。
私自身もちょうど 50 歳を目前にし、大学生が
69
2人、高校生が1人の子供がいます。社員の立場
で、本当 33 万円でやっていけるのかどうかを考
えた時に、すごく疑問がわきました。こういった
疑問の中で、仕事の形態、今までやってきた仕事
がよかったのかを含め、社員と向き合う時間を増
やしています。
伝わらない想い
しかし、分かってくれる人も多い中、出来る人
間ほど「自分の力を試してみたい」と言います。
今は賃金面も厳しいですが、同友会でビジョンを
共有し、社員とのコミュニケーションを取って一
緒にやっていこうと伝えても「社長についていけ
ないです」との言葉が返ってきました。
彼とは、現場で一緒になって汗を流し、幾度も
会社の危機を乗り越えてきましたが、エバーだけ
ではなく、日本の将来にも不安を抱いています。
彼も3人の子供がおり、大学まで出したいと考え
ていますが、今の賃金では難しいです。また、わ
が社に入ってきた大卒社員を見て、「大学を出て
給料が高いにも関わらず、3年も経ってまだ現場
で同じ作業をしているのはおかしいではないか」
と不満を持っています。彼は「出来る者だけを会
社に残し、もっと生産性を上げて儲かる会社にす
ればいいじゃないか」と言うようになりました。
日々同じ仕事を黙々と繰り返すことも尊いのだ
と伝えてはいますが、なかなか伝わりません。
同友会で言葉を尽くして理念を語り、社員と共
有できればきっとついてきてくれるだろうと考
えて愚直にやってきましたが、経営環境が良くな
ってくるとなおさら出来る人間は辞めたいと言
います。経営者の器の問題もありますし、ビジョ
ンの描き方の問題もあるでしょう。独立していく
社員に対して「独立出来て良かったね」と言える
自分でいたいのですが、この5年間大変厳しい時
代を彼と共に過ごしてきたので、もし彼が抜けて
しまったら、とすごく心配しています。彼が抜け
たことによって次の飛躍のチャンスがあるのか、
それともまた後戻りしてしまうのか、とても恐怖
を感じています。社員は会社を選ぶ権利もあるし、
とで、年に2回コストダウンの話が定期的に行わ
れ、それが毎年やってくるので、価格決定権はな
く、交渉の余地がないのが現状だと思います。そ
ういった中で事業を継続し、やっていくことは並
大抵のことではありません。また、小売業であれ
ば、デフレの影響をそのまま受ける事となり、価
格競争で値上げが出来ない、消費税も上がると、
ますます厳しい状況が予想されます。
中小企業だけでは限界があるので、出来ること
と出来ないことをきちんと分けていくことも経
営者の仕事であり能力の一つであると思います。
自由競争がエスカレートし、資本主義が発達した
状態で、企業や国の在り方、行政の在り方を全面
的に捉えなおし模索する時代であることを認識
する必要があると思います。
職業を選択する自由もあるということを経営者
側もわきまえていかなければいけないのだと改
めて思います。一生懸命手を尽くしても去ってい
く社員はいる。だけど、諦めずに時間をかけ、話
し合いを重ね合いながら、好ましい企業風土をつ
くっていきたいと思っています。
報告者②
八橋 昭郎氏
八橋社会保険労務士事務所
所長(江南・岩倉地区)
【会社概要】
創 業 /2002年
総社員数/3名
事業内容/労働社会保険手
続代行、労務管理
コンサルタント
社員が安心して働ける会社とは
労働条件と経営者の責任ですが、労働条件と言
うと賃金、労働時間、休暇、賞与、退職金等のイ
メージが強いと思いますが、実はそれだけではな
く、作業環境、安全衛生、福利厚生等の労働契約
賃金問題に切り込んで問いかける
に付随する全ての事柄を指します。安全や衛生環
境については、中小企業ではなかなか手の付けら
私は、48 歳の時にサラリーマンをやめ社会保険
れない部分だと思います。
労務士事務所をスタートさせました。
この分科会のプロジェクト会議の中で、「賠償
吉田さんからは「同友会では人間尊重と言うけ
責任」についてどう考えるかという質問が出まし
れど、まず人が生活していける賃金をきちんと払
た。たいてい就業規則には損害賠償という欄があ
えているのか」という疑問が投げかけられました。
るのですが、基本的には使用者責任というものが
多くの場合は、自社の売上からみてどれくらい給
あり、社員が行った行為は、使用者にも責任があ
料が払えるかという話が一般的ですが、個人を基
ると判断されます。会社が従業員に対して損害賠
準にして賃金の問題に切り込んだ問いかけに、私
償請求裁判を起こした例はありますが、賠償をと
は感銘を受けました。
ることは非常に難しいです。よほどの故意、また
まず、賃金をどう考えるかという問題ですが、
は重大な過失がない場合は請求しても一部認め
日本の戦後の高度成長期は「終身雇用」と「年功
られるか、全く認められないと考えていただきた
序列賃金」と「企業別労働組合」という三種の神
いです。むしろそういった社員のミスを会社がち
器と言われ、昭和の時代を乗り越えてきたという
ゃんと全面的に請け負う姿勢がないと、社員は安
事実があります。
心して働くことができないと思います。これはど
んな企業においても、社員が何かしてしまったら、
賃金設計を描ける売上はあるか
また社員に何かあったら、そういった場面におい
て経営者がどう判断するかを社員はきちんと見
現在は個々の経営判断ではなく、社会的な風潮
ています。それだけ人を雇うことは、重いという
として、雇用の流動化があります。まず、今いる
ことです。
社員が定年まで働くことを前提に生活出来る賃
金設計を描ける売上がそもそも確保できるのか
経営者の姿勢が試される
を考えてほしいです。今いる社員を雇い続けた場
合、どれくらい売上がいるのかを試算してみると、
また、就業規則は毎年の指針の作成時に一緒に
現状とのギャップが見えてきます。また、皆さん
見直しをして頂きたいです。法律は数年で変わり
が生産されているものの適正価格は、何を基準に
ますが、法改正のみならず、この就業規則のまま
しているのかを考えるのも一つの方法ではない
でいいのか、漏れている点はないのか、という部
でしょうか。
分を見ていただきたいです。
吉田さんの場合、自動車関連の下請けというこ
先程、吉田さんの報告で、リーマンショック後
http://yatsuhashi-sr.com/
70
にどこでも当たり前のように賃下げをしていた
ので給料を下げたという話があり、それは正しか
ったのかという言葉がありましたが、これは正し
くありません。もともといくらでこういった条件
で働くという労働契約を結んで成り立っている
わけですから、会社がピンチになったからといっ
て給料を下げることを一方的に通告するのは明
らかに契約違反、契約不履行になるわけです。た
だ、これも諸状況があり、企業全体の雇用を守ら
なければならない場合や、やむを得ないと思われ
る時は、合理的理由と本人の同意の上、契約変更
ができます。会社が苦しい時に、社員ひとり一人
を説得できる力があるかどうかは、逆に言えば経
営者の姿勢が試される部分です。厳しい、厳しい
という言葉を 100 回叫んでみても、うんざりする
だけで、誰も納得はせず、社員からしてみれば「う
ちの社長は厳しいとしか言えないのか」と逆に対
応能力のなさを露呈することになります。
また、人員整理についてもたびたび問題になり
ますが、整理解雇の4要件として、まず①人員削
減する必要性、②解雇回避努力、③被解雇者選定
基準、④労使協議・説明責任を果たしたか、が問
われます。自社の経営努力だけでは労働問題をす
べて解決はできません。
が突然辞めても継続できる対策を持っていなけ
ればいけません。
私たち経営者は、仕事を通して関わった人たち
の人生を豊かにする役割を担っています。そして、
人生をかけて働いてくれる社員に対して働きや
すいように社内整備をすることも役割の一つと
言えます。
全社一丸体制と対等な労使関係については、ま
ず、不満因子に繋がることは職場から最低限排除
していただきたいです。不満因子は、やる気を阻
害します。賃金を出したらみんなやる気になると
いうのは一時的効果で、科学的には不満因子とし
て分類されています。賃金問題でも本来払わなけ
ればいけない賃金を払っていないのは論外です。
そのうえで価値観の共有を改めてしていただき
たいと思います。不満因子を放っておいて、価値
観だけ共有しようだなんてそんな都合のよい話
はありません。また、経営幹部の言動に対する不
満、不信は給料の不満よりも大きな割合を占めま
す。本日の基調講演は感動しましたが、あそこま
で社員との関係を築き上げることはそれ相当の
時間、努力があったと感じます。
一番強調したいことは、労働関係法を社長自ら
が学んでいただきたい、総務の担当者任せにしな
いでいただきたいです。社労士や弁護士のアドバ
イスが適切かどうかも含め、最終的には経営者自
身が判断し、決断しなければいけません。
不満因子を排除し、価値観を共有する
吉田さんの報告の中で、社員を幸せにするため
に指針を作り、価値観を共有していれば社員は自
然と幸せになるだろう、退職しないで頑張ってく
れるだろうという話がありました。その気持ちは
とても尊いことですが、人にはそれぞれの生き方
があります。縁があって働いてくれていた社員が
辞める時には、気持ち良く送り出してあげる必要
もあります。
吉田さんが、あまりにもその社員一人にかける
期待が強く、またその方がかなりの役割を果たし
ていたのだろうと推測されますが、私は常にダブ
ルキャストで人材を育てることを薦めています。
社員一人辞めるだけでガタガタになるような会
社ではやはり経営者としては片手落ちです。社員
71
社員一人ひとりと向き合う
吉田さんの報告の中で、面接、コミュニケーシ
ョンの時間を取るというお話がありましたが、本
当に大切にしてほしいです。世間一般では、目標
達成度を評価したり、上から目線の面接になりが
ちですが、社員がどういう想いで日々働いている
のかを良く聞いていただきたいと思います。経営
指針を作る時だけの話し合いではなく、日々の対
話が経営指針に反映されてこそ指針の実践だと
言えます。面接は使用する者と使用される者が行
うわけですが、36 協定というのは労使対等で結ぶ
のが基本です。日本では残業が当たり前になって
いますが、例外を除けば労働時間は 1 日8時間、
週 40 時間と決まっており、しかし、それでは仕
事をこなせないため、36 協定を結んで残業を出来
るように法律的に認めているわけです。社員と労
働条件を定期的に話し合い、社員の要望を聞く場
を定期的に設けることも大切です。
社員の置かれている環境は非常に厳しい状況
であることを理解していただきたいです。増税に
加え、社会保険料も毎年上がっている現状をみる
と、社員の負担は大きくなります。経営環境だけ
でなく、生活環境も私たちが見ていかなければい
けません。賃金イコール生活に直結ですが、消費
税が3%上がったらといって全ての企業が給料
を3%上げることはなかなか難しいと思います
下請けに出す仕事の単価を上げれば、中小企業も
賃上げが出来ます。賃金問題を一企業の責任とし
て捉えるのではなく、経営環境、社会環境、政治
経済を含めて労働条件問題を考えていきたいと
思います。
最後に
会社の中で社員が不足している、特に経営幹部
がいないという企業が多いと思います。全ての問
題を経営者が一人で背負いこんでしまう傾向に
ありますが、あまり自分を追い込まないで頂きた
いです。大切なのは、経営幹部の育成をきちんと
やることす。これなしに、企業の未来はないと思
っていただいた方がいいと思います。経営指針の
成文化は初めの一歩に過ぎません。指針の中に、
労働条件をこうしたいという理想を入れてくだ
さい。それは、要求されて形にするのではなく、
会社の方針としてやるのだという経営者の姿勢
を経営指針の中に盛り込んでいただきたいと思
います。
最後に、吉田さんから辞めていく社員の話があ
りました。社員が直接経営者に話しに来る時は
「辞める」という話しかなかなか聞こえてきませ
んが、吉田社長だから「俺はここでやっている!」
という人も必ずいます。そういう社員をどれだけ
作るか、そういう社員に対してどれだけ働きやす
い環境を提供できるかということに力を注いで
いただきたいと思います。厳しい状況の中、少し
ずつしか前には進めませんが、社員を信じて歩ん
でいくしかないと思います。
■座長まとめ
(有)中兵・代表取締役
山本
敏弘(知多地区)
社員にとって働きやすい職場とはどのような
ものか、社員が一体どのように捉えているかとい
う部分は経営者として関心を持つべき部分です。
自社は、社員の大多数を女性が占める職場なので
すが、結婚・出産などに左右されやすく、社員が
長く働続けるように工夫をしてきたか、と問われ
ればそこに目を向けられておらず、自然と社員に
とって居づらい環境を作っていたかもしれませ
ん。会社の方向性一つで社員がやりがいを持てた
り、逆にやる気を阻害してしまったり、難しい点
だと感じました。
吉田さんの報告からは、社員に対してきちんと
向き合い、改善しながらエバーの企業風土を作り
72
上げていく、経営者の姿勢を学ぶことが出来まし
た。企業を永続的に発展させていく中で、しっか
り業態を進化させて変わっていかなければなら
ないことを学びました。
八橋さんの報告からは、経営者はもっと学ばな
ければいけないということを改めて感じさせら
れました。同友会で実践しながらしっかりと学び、
また専門的な部分も経営者の役割として学ぶこ
とを話されました。自分の会社をどうすれば社員
とよりよい企業風土を構築できるか、それをしっ
かり考え、社員と向き合って未来を見据えていか
なければならないと決意させられました。
【第12分科会スタッフ】
○座
長
山本 敏弘(知多地区)
(有)中兵・代表取締役
○室 長 山本 知史(豊橋地区)
山本調査測量事務所・所長
○責任者 吉田 幸隆(知多地区)
エバー(株)・代表取締役
○グループ長
碓 井
稔(昭和地区)
堀場 和孝(名東地区)
水 野
修 (南地区)
田中 健人(名古屋第6青年同友会)
伏 屋
勇(安城・知立地区)
○同友 Aichi 記事
大 矢
顕(名古屋第2青年同友会)
○実行委員
大島 良和(江南・岩倉地区)
伊坪 秀幸(名古屋第4青年同友会)
○記
録
下脇
真実(愛知同友会事務局員)
⑬分科会
第
<付加価値を高める/新市場創造>
縮小市場のなかで自社の価値を問う
~顧客満足に繋げる変革~
報告者
市場は常に変化しています。既存事業
を続けるだけでは企業はいつか淘汰さ
れてしまうでしょう。技術・商品・サー
ビスを変化させ、顧客の何を満たすのか
を考えることは、経営者の仕事です。ま
た、それを実行する主体である社員との
関係づくりも、重要な仕事になるでしょ
う。
報告者は、印刷業界という縮小する市
場のなかで、自社の付加価値を問い続け
てきました。この分科会では、顧客のニ
ーズを把握し、新たな価値を創造するた
めの気付きを得られる場にします。
馬場 愼一郎氏
データライン(株)
代表取締役
(刈谷地区)
【会社概要】
創 業 /1961年
資本金 /3000万円
総社員数/60名
年 商 /14億円
事業内容/帳票印刷、ダイレクト
メール製作、発送、デ
ータ分析、可変印字印
刷
http://www.dataline.co.jp/
会社紹介
はじめに、印刷、紙加工商品には大きく分けて
3つの商品形態があります。1つ目は、折ミシン
をいれてジグザグにたたんだ形。2つ目はロール
の形。3つ目は、A4など決まったサイズのシー
トの形です。
現在、自社では全ての形に対応可能ですが、父
が創業した当時はジグザグ型のコンピュータ用
の連続帳票、特に、汎用品であるストックフォー
ムと呼ばれる商品の生産に特化して事業展開を
しました。
ストックとは「在庫」、フォームとは「(コンピ
ュータ用の)用紙」という意味で、「在庫ができ
る用紙」ということです。紙のサイズも穴の位置
や数、線の間隔も世界基準で決まっていますので、
同業他社でもまったく同じものを作ることがで
きます。
一般的に、印刷業では受注生産がほとんどで、
注文を受けた分を印刷するのですが、ストックフ
ォームは使われる数を見込みで印刷して在庫を
作り、必要に応じて出荷していくことができます。
また、比率は少なかったものの、それぞれの会社
で利用する納品書や請求書、給与明細書など、そ
の会社でしか利用しないもの(カスタム品)の印
刷も行っていました。
業界では、付加価値の低いストックフォーム主
体で企業経営を行うのは難しいと言われていま
した。なぜなら、1枚あたりの売上が1円ならば、
73
紙の仕入れ代は約 80 銭という、売上の大部分を
紙代が占めるからです。しかし、ストックフォー
ムの需要は伸び続けていましたので、自社では月
に約 1200 トンを生産し、社員も 60 名ほどいまし
た。それでも生産が間に合わず、外注へ出すこと
で利益を上げることができていました。本当に、
薄利多売の事業です。
サラリーマンから社長へ
私が社長に就任したのは、1998 年のことです。
それまでは、他社でサラリーマンをしていました。
父が急逝し、数年間だけ母が社長を務めた後、私
が引き継ぐことになりました。そこで決算書を見
て知ったのは、売上に対しての利益率が、大変低
いということです。また、利益率の低いストック
フォームが全体の売上の7割を占め、そのうちの
4割は1社に集中していたのです。これで本当に
良いのかと疑問に思ってはいたものの、売上は伸
びていたので、しばらくは大丈夫だと思っていま
した。一方で、カスタム品の売上はストックフォ
ームに比べて低かったのですが、利益率は高いも
のでした。少しずつこのような仕事を増やしてい
こうと思い、機械などの投資を行っていました。
半年後に売上3割減
ところがある日のこと、ストックフォームの売
上の4割を占める会社から、「海外から調達しな
ければいけなくなった」と言われました。当時の
私は、コスト・品質に関しては、海外にも負けな
いと思っていましたが、担当者は言いにくそうな
顔で「データラインのコストや品質に問題はなく、
大変信頼をしている。しかし、自社の戦略上、海
外の会社と取引をせざるを得ない。これは今すぐ
ではなく半年後なので、その間に次の仕事を見つ
けてほしい」と伝えてきました。つまり、半年後
には会社全体の売上のうち、約3割がなくなって
しまうということです。その他にも売上が少なく
なる要因があり、翌年から急激に売上が落ち始め
ました。
まずひとつ目の要因は、高速プリンタが普及し、
白紙シートに手軽に印刷できるようになったこ
とです。また、かつては大きなコンピュータが各
社に1台ずつ置いてあったのですが、その機能が
分散化し、各自がそれぞれにパソコンを持てるよ
うになったことで、紙で出力しなくても画面上で
見られるようになりました。
結果、現在のストックフォームの売上は、ピー
ク時から比べると4%以下になっています。
落ちるものは落ちる
半年後に全体の売上の約3割がなくなってし
まうと分かったとき、皆さんはどのような対策を
打たれるでしょうか。私は「コスト・品質は自信
がある」「今は伸びている事業だから大丈夫だろ
う」と思っていましたので、営業の社員が一丸と
なって新しい顧客を獲得することができれば、減
った分は取り返せると考えていました。また、変
化の激しいコンピュータ市場において、ストック
フォームの需要は減っていくと言われていまし
たが、自社ではそれは関係ないと思っていました。
しかし、今まで動いていた機械の台数が日を追う
ごとに少なくなっていくのが目に見えて分かり、
売上も前年比 10%以上減が数年続いていったの
です。
総合印刷業へ転換
大丈夫だと思っていた私も、さすがに危機を感
じました。社員も「会社は大丈夫なのか」と思っ
ていたことでしょう。このような事態に陥ったと
き、社長は何をしなければならないか。まず社員
を不安にさせてはいけません。会社をどのように
していくか、新しい事業を考え、売上を伸ばせる
ようにしなければなりません。
もちろん、当時の幹部とともに、自社の強みや
特徴を活かして売上が伸ばせるような新しい事
業を必死に考えました。自社の強みや特徴は「紙
を安く買うことができる」「印刷機がある」とい
うことと、コンピュータ用の帳票印刷は需要が落
ちてきているのだから、いわゆる“普通”の印刷
をしようということになりました。これらの意見
をまとめた結果、「データラインは○月△日をも
って、総合印刷業へと変わります」と広告を出し、
ポスターやチラシの印刷を始めようとしたので
す。
結論から述べますと、この事業は大失敗に終わ
ります。振り返ると、結局は売上が減り続けてい
ましたので、苦し紛れに打ち出した策でした。社
員には「とにかく新しい注文を取ってこい」とい
うだけで、他社との差別化も特にありませんでし
た。よって、顧客からのリピートの注文もあまり
なく、なかなか売上を増やすことができませんで
した。顧客の立場になって考えると、なぜ自社が
総合印刷業を行うのか、という理由が明確ではな
かったと思います。
失敗からの新たなヒントを実行
総合印刷業が失敗に終わりながらも、ところど
ころでは好評な点がありました。
まず、伝票などの帳票印刷を行う機械があり、
それを使ってチラシなどの印刷をしますので、自
動的に用紙の両端に穴が空くようになっていま
す。納品する時は、そこにある穴を切り取らなけ
ればなりません。しかし、そのような企画だった
のか、社員が忘れてしまったのか分かりませんが、
そのまま納品したのです。すると、注文先からは
74
「これは面白いね」と反応があったのです。ミシ
ン目も入れられる機械ですので、チラシの一部に
キリトリ線を入れ、切り取ったときにカードにで
きるようにすると、「珍しい」という反応が返っ
てきました。
つまり、自社では「印刷物に加工を入れたもの
を売ることができる」とアプローチすれば、新規
顧客を獲得できるのではないかということです。
例えば、うどん屋から送るダイレクトメール(以
下、DM)をどんぶりの形や具材の形にしてみた
ところ、評判が良かったのです。そこで、次の新
しい事業として「データラインは広告代理店にな
ります」と打ち出し、広告に関する提案やコンサ
ルタント事業を行おうと、スタートさせました。
しかし、私をはじめ社員も、顧客にどのような提
案をしていけばいいのかという知識が豊富にな
く、再び失敗に終わってしまいます。
新規事業へ繋がる社員の声
総合印刷業として奮闘しているとき、社員から
は「穴が空いたまま納品したが評判が良かった」
「ミシン目の印刷物が好評だった」「広告の企画
や提案をしたら、リピートが来た」などという声
がありました。しかし、そのような意見がまった
く違うルートから3件ほどもらえるようになる
と、
「これは何か良いヒントになるのではないか」
と勘付くようになります。
顧客の反応や声を聞いているのは、現場で働い
ている社員です。5~10 年後に会社が残るための
ヒントは、社員が自覚しないまま、既に、どこか
から得ているのかもしれません。その社員たちが
顧客の反応や声を上司や経営者たちに伝え、伝え
られた側がそれを次のヒントにしていこうかと、
関心を持って聞いているのか、そこが鍵になるの
ではないかと思います。そして、私たち経営者は
社員から聞いた顧客の声を分析し、次の戦略へ活
かしていかなければなりません。
自社の特徴を生かす業界とは
改めて、自社の事業内容(帳票印刷可工技術)
を検討した結果、自社の特長を「ミシン目を入れ
る、穴を空ける、複数の紙を張り付けられるなど
の加工ができる」「複写可能な紙等、機能紙が使
える」「可変データの印刷に適している」という
3つにまとめました。従来の市場だけを考えてい
ては、ライバルは大勢いますし、生き残りは難し
いと思います。そこで、これら3つの帳票印刷の
特長を、別の市場で活かせないだろうかと考えま
した。結果として、現在の大きな柱であるDM事
業が、これら3つの特長を活かせる分野でした。
75
次に、DM事業を進めていくなかで感じたこと
があります。顧客がDMやチラシの印刷に対して
求めていることは、「販促物による売上や来店な
どの効果がどのように出ているのかを知り、より
効果の高いものをめざすということ」「印刷物作
成から発送までの工程を、簡便なものにしたいと
いうこと」だと思いました。つまり、顧客から預
かったデータの管理から、DMの企画・印刷・配
送、その後の検証に至るまでをワンストップで提
供できれば、顧客に喜ばれるのではないかという
ことです。
これらの流れができる仕組みを社内で作るこ
とは、莫大な費用と時間が必要で、大変難しいも
のでした。そこで、自社では対応できない分野が
得意な会社を、パートナーとして探すことにしま
した。ここで注意することは、パートナーとなる
会社に自社の新規事業の理念や仕組みについて
理解してもらい、データ管理から配送までの一連
の流れを、あたかも1社で行っているかのように
するということです。少しずつネットワークを広
げ、パートナーの企業はその仕組みを利用して、
新たな仕事を取ってきてもらえるようにしてい
ます。
自社の付加価値をどのように高めていくか
では、どれだけの付加価値を作っていかなけれ
ばならないかというと、やはり、私たち経営者が
「数字」をしっかり把握しておく必要があります。
なぜなら、自社が直面した経験がそれを物語って
いるからです。毎年の売上が減り続ければ、資金
繰りが厳しくなるのは明らかで、経営者は最低で
も必要な粗利益を明確にすることが必須になり
ます。それよりも、社員の給料を定期昇給させた
い、将来の投資を行いたい等、思い描いている夢
を実現させるためには、それに必要な付加価値額
をしっかり掴み、実現させるための道筋を示さね
ばなりません。この過程で、「なぜ新規事業を立
ち上げるのか」「どのような会社にしていきたい
のか」「何をしなければならないのか」と考える
ことを通じて、経営理念や方針・計画に繋がって
いくと思います。
社員に、残りの社員を引っ張らせようとしても、
両者が辛いだけです。仕組みの提供は、優れて、
経営の仕事だと考えています。
新規事業立ち上げによる社員の反応の差
帳票印刷の売上が減り、新たな事業を模索して
いるとき、私は社員へ「私も走るから、とにかく
全員が走れ。しかし、走ることができない人につ
いては見捨てはしないが、周回遅れでも良いから
ついてきてほしい」と伝えました。当時は、この
ようなことを言っても良いと思っていました。
失敗を繰り返しながらも、紆余曲折を経て新規
事業を立ち上げ、目の前の仕事を必死になって行
っていた社員は、新しい理念や方針を発表しても、
抵抗なく理解してくれました。一方、何らかの理
由で新規事業の立ち上げに携われなかった社員
には、方針や理念がうまく伝わりませんでした。
経験を共にするということが、理念・方針の共有
のための土壌になるのではないでしょうか。機会
の提供は経営者の役割だと痛感しております。
新たな付加価値の創造へ向けて
最後に、私が経験したことで皆さんへ伝えたい
ことは、まずは何でもやってみることが大事とい
うことです。自社も、総合印刷業や広告コンサル
タントなど、新しい事業を始めては、失敗を繰り
返しました。しかし、失敗したからこそ、次に何
かを行うときに、これはしてはいけないという教
訓になるのです。
そして、実践する過程のなかで、複数の顧客か
ら共通する好評な点があるか、またはその声を社
員から聞くことができる仕組みがあるかも大切
になります。新しいことを始めるときには、社員
とも納得した上で物事を進めることや、付加価値
がどれくらい必要なのかを具体的に把握するこ
とも、私たちには求められます。
社員へ求める能力の変化
自社の現状に触れますと、実は、昨年から現在
の主力事業の伸びが止まってきました。このまま
新規事業を立ち上げたことによって、帳票印刷
では、自社が描く将来の夢の実現が難しくなって
に特化して 40 年もの間そこに携わっていた社員
しまいます。本来、この事業は緻密な戦略があっ
に、求める能力が変わってきたことも事実です。 て始めたわけではありません。様々な失敗を繰り
従来、製造担当者は設計書通りに正確に作ってい
返すなかで、良かった点を少しずつ組み合わせた
れば良かったわけですが、商業印刷では“ちょっ
結果、生まれたものでした。この事業が軌道に乗
と変わったもの”を要求されます。営業担当者も
ったことで、社員もこれが自社の強みだと思って
同じで、かつては顧客の総務や経理にうかがって、 いるのですが、果たして現在の主力事業が本当に、
伝票を納品する時に次回の注文が確実に取れる
わが社の強みだったのかと自問自答しておりま
ようにすることが基本でした。しかし、今までは
す。一方では、帳票印刷業としての自社は顧客の
相手をするのは各会社の事務担当者ではなく、販
会社をまわって生産した帳票をきちんと納品し、
売促進に関わる担当者や経営者です。つまり、ア
時代遅れといわれる御用聞き営業を行うことも
プローチの対象や関心が変わってしまいました。 続けています。場合によっては、これが強みにな
企画や提案をするためには、顧客の業界などを事
る事業もあるのではないのでしょうか。一般論を
前に勉強しなければ、顧客の要求に答えられませ
鵜呑みにせず、常に疑問の目を持って自社に当て
ん。
はまるかを判断していくのが、経営者の役割では
自社が変化するなかで、今までとは違う能力を
ないかと思います。
社員へ求めつつ、同じ目標へ向かって全員がそれ
現在は原点に立ち返って、自社の本当の強みと
ぞれの役割を果たすという形の実現には、多くの
は何かを改めて見つめ直しているところです。
工夫が必要です。単純に、モチベーションの高い
76
■座長まとめ
(有)サン樹脂加工・代表取締役
磯村 太郎(愛北地区)
報告者の話で初めに印象に残っている事は、や
はり顧客の声をきちんと聞けているかというこ
とです。
私は社長ではありますが、普段から営業も行っ
ています。顧客の声を汲み取るには、私自身が営
業へ行って、ニーズを聞き取れば良いと思ってい
ました。しかし、それでは一部の顧客の声しか聞
き取れません。本当に顧客の声を聞こうとするな
らば、顧客を一番知っている社員がしっかりとニ
ーズを把握し、聞き出すことで、そしてそれを経
営者へ伝え、社内で共有することが大切だと報告
を通して気付きました。
次に付加価値を上げるという視点で考えると、
自社は製造業ですので、現場を効率良く動かすこ
とも大切になってきます。その時、現場で何が起
こっているのか、私が知っていれば良いと思って
いました。しかし、それも違います。現場で起こ
っているのを知っているのは社員たちです。やは
り、経営者が社員の声をどれだけ聞き出せるかが
ポイントとなるわけです。
中小企業庁方式で付加価値を定義すると「加工
高(粗付加価値)=生産高-外部購入価格」とな
ります。では、付加価値の中でいちばん大きな比
率を占めるものは何かを考えると「人件費」で、
経営者を含めた人に関わる支出が大きいと思い
ます。私たち人間は、数字には変えにくい存在で
その中身は変幻自在です。やる気次第で生産性は
大きく変わりますし、新しいものごとを考え出し
たりもします。私たち経営者がやっていくことは、
社員たちをまとめ、如何に社員のやる気や能力を
引き出し、新しいことを始めようとするかという
ことです。
本日の報告やグループ討論を通じて、明日から
新しいこと始め、会社の変革へ繋げていきましょ
う。
77
【第 13 分科会スタッフ】
○座
長
磯村 太郎氏(愛北地区)
(有)サン樹脂加工・代表取締役
○室 長 加藤 英章氏(西地区)
(有)加藤製作所・代表取締役
○責任者 太 田
厚氏(守山地区)
(株)太田電工社・代表取締役
○グループ長
竹内千賀子(一宮地区)
服部 芳行(稲沢地区)
上田 伸美(愛北地区)
江口 英典(尾北地区)
宮本 大祐(知多青年同友会)
江崎 正明(名古屋第1青年同友会)
横井 孝雄(熱田地区)
位田 広樹(中川地区)
棚 橋
力(中村地区)
松浦 敏夫(中村地区)
門田 高治(名古屋第6青年同友会)
水野 好香(瑞穂地区)
田中 謙吾(岡崎地区)
小浜 勝則(西尾地区)
杉浦 健悟(豊橋地区)
○実行委員
中井 孝賢(知多青同)
加藤 貴美(名古屋第1青年同友会)
○記
録
松井
詩織(愛知中小企業家同友会)
⑭分科会
第
<付加価値を高める/新市場創造>
地域資源の「連携」と「循環」で新たな仕事づくりを!
~条例を生かす~
地域資源は、農産物や名産品、伝統工
芸品と思われがちですが、人、文化、地
域性なども含めたとても広いものです。
多様な中小企業が地域資源を連携、循環
させ、新たな商品、サービスを提供する
ことは、自社の発展、住民生活の向上、
ひいては地域文化の伝承・創造へとつな
がり、地域に彩を与え、独自性の創出、
活性化につながります。
この分科会では、地域が持つ資源の
「循環」をキーワードにした経営実践
と、愛知県の政策当局者の視点から、地
域経済を担う中小企業に飛躍するヒン
トを学び合います。
報告者①
報告者①
報告者②
報告者③
報告者④
清水 隆治氏
清水食品(株) 代表取締役
(海部・津島地区)
【会社概要】
創 業 /1970年
資本金 /1000万円
総社員数/82名
年 商 /6.7億円
事業内容/野菜カット、水煮
清水 隆治氏
清水食品(株)
代表取締役
(海部・津島地区)
笠原 尚志氏
(株)中西 代表取締役
(豊明地区)
尾ノ上 智美氏
(株)CHERRY STONE 代表取締役
(昭和地区)
金田 学 氏
愛知県産業労働部産業労働政策課
主幹(会外)
の生産、特に地域の特産物であるレンコン農業も
行っています。
なぜレンコンなのか?
こうした業界にあって、当社がレンコンに特化
した最大の理由に、大手企業の参入が招いている
経営環境の苦しさがあります。近年、スーパーな
どの小売店ではカット野菜の小袋包装の商品が
かなりスペースを占めるようになってきていま
す。私としては、今後もこの流れは続くと読んで
いるのですが、大手企業が多額の投資によってコ
ールドチェーン(生鮮食品や冷凍食品などを、産
地から消費地まで一貫して低温・冷蔵・冷凍の状
態を保ったまま流通させる仕組み)を整備し、参
入してくることによって、カット野菜をパックし
レンコン、国内産
レンコン及びその
他野菜販売
http://www.shimizu-f.co.jp/
カット野菜業界の今
当社は、業務用のカット野菜の加工・販売と農
作物の生産を行っています。カット野菜業界とい
うのは、当然ですが野菜の相場に左右される業界
です。ですので、天災などの影響で価格は乱高下
してしまいます。当社の場合、売上の 53~60%程
度が仕入れですので、こうした状況は経営的にも
非常に苦しいものがあります。とはいえ、仕入れ
値が安定しないからといって、お客様が簡単に値
上げに応じてくれるかと言えばそう簡単ではあ
りません。こうした事情もあり、当社では農作物
78
て販売するタイプの中小企業は窮地に立たされ
ています。
こうした状況が続けば、ここで立場をなくした
中小企業が、今度は当社のいる業務用カット野菜
の市場に参入し、競争がより激化することも十分
に考えられるわけです。そうした事態になる前に、
経営指針をもとに、清水食品(株)のありたい姿
を社員とともに考えた結果、地域の産品であるレ
ンコンに注目して独自路線を開拓しようと特化
の道を進むこととなったのです。
くり、つまり、レンコンの栽培から最終商品の製
造までを行える体制づくりを一層進めていきた
いと思います。
そのなかで、社員はもちろん、高齢者、障害者
の生きがい、やりがいを生み出せる企業にしてい
きたいと思います。また、レンコン堀り体験や学
校給食への取り組みを通じて、他社との差別化を
一層進めるとともに、地域の文化を広げ、次の世
代につないでいく役割も果たしていきたいと考
えています。
苦し紛れのレンコングッズ
私が大切にしたいこと
農業に参入して、田圃の保有面積も8町圃と地
域有数の広さになったものの、当社は特に技術力
があるわけでもありません。ですので、今でもそ
うですが、本当に苦労をしてきました。
農業を始めた頃、近所の道の駅の販売棚を管理
していた私の親戚が廃業することになってしま
い、急遽当社がその業務を引き継ぐことになりま
した。引き継いだのは良いものの、並べる商品が
ありません。そんななかで、言い方は少し悪いで
すが、苦し紛れに考え出したのが“レンコングッ
ズ”です。
今では、レンコンチップや、レンコン飴などを
販売していますが、食べるラー油のレンコン版で
すとか、レンコンカレー、レンコンのおかゆなど、
本当に手当たりしだいに作ってみました。ほとん
ど失敗でしたが、その一方で地域の方との交流は
確実に広がっていきました。
そうすると、次は地域の役員が回ってきます。
大変ですが、頼まれたものは断れませんので、と
にかくやってみました。そうすると、また色々な
人と仲良くなり、今度はマスコミの取材先として
紹介してもらえたり、そこで出会った人からレン
コン料理コンテストのアイディアをもらったり
と、私の周りが大きく変わっていきました。
私は経営をするにあたって①「言わなくてはい
けない時にしっかりものが言えるように周りと
関わる事」、②「聞いてもらえるためには、自身・
自社の姿勢を正す事」、③「真剣に取り組み、あ
きらめないこと」の3点を大切にしたいと思って
います。
経営をしていくには、やっぱり私たち経営者自
身がアンテナを張り、周囲から何が求められてい
るのかを的確にキャッチすることが大切だと思
います。そして、いざという時に話を聞いてもら
うには、それにふさわしい企業づくりをしていか
なければなりません。また、苦しいからと言って、
途中で責任を放棄しては信頼もされないでしょ
う。
正直、経営はしんどいです。ですが、どれだけ
しんどくても、可能性を信じ、仕事づくりに挑戦
し続け、地域とともに歩む企業をこれからも目指
していきます。
レンコンの可能性
報告者②
笠原 尚志氏
(株)中西 代表取締役
(豊明地区)
【会社概要】
創 業 /1964年
資本金 /2000万円
総社員数/55名
年 商 /5億円
事業内容/ リサイクル収
これまで、私は自社の利益のためにレンコンを
使って何かできないか、と四苦八苦してきたので
すが、いろいろな人と関わるなかで、それに留ま
運業、処理業
らない可能性が自社の仕事にはあるのではない
かと感じ始めています。レンコンを中心に、新し
http://www.mb.ccnw.ne.jp
/sigen/
い仕事、新しいお客様、新しい関わりを得ること
ができているからです。こうした繋がりのなかで、
自社の新たな活路が拓けつつあると感じていま
当社の経営理念
す。
今後は、レンコングッズをめげずに突きつめて
当社は豊明市を中心に、ビン、缶、ペットボト
いき、いつかヒット商品を生み出したいと思いま
ルや新聞、雑誌などのリサイクルを知的障がい者
す。そのためには、レンコンを中心とした会社づ
79
めていきたいと考えています。当社は障がい者雇
用をはじめて 25 年、社員の約半数が障がい者で
す。私は、障がい者をもっと雇用したいですし、
自分でお金を稼ぎ、生活を成り立たせる自立した
人間を育てたいと思っています。
仕事づくりの4つの切り口
の手を借りつつ、営んでいる会社です。経営理念
を見て頂くと、当社の考え、やり方がお分かり頂
けると思いますのでご紹介します。
「私たちは、私たちの暮らしが精神的にも物理
的にも充実し、私たちと関わるすべての人々が、
社会全体が、ひいては地球全体が豊かになるよう
日々努力します」。
「私たちは、知的障がい者の見過ごされがちな
能力を活かしつつ廃棄物の再資源化を進めるこ
とで、地球環境改善への一助となることを目指し
ます」。
簡単に言えば、持続可能な社会を障がい者とと
もに目指すということです。ですので、この考え
方が新しい仕事づくりの上でも指針となってい
ます。
当社は地域に根差した企業ですし、その地域か
ら生み出された資源の有効活用とごみの減少に
社業としては貢献できていると思います。
また、地域で暮らし、地域で働く障がい者を、
一人の人間として育てている自負もあります。彼
らが成長し、自立していくことが、私にとって本
当に楽しみなことです。
理念にある“見過ごされがちな能力”というの
は、こうした意味です。人間一人ひとりには、必
ずかけがえのない能力が存在します。障がい者も
健常者も同じです。そうした気づかずについ通り
過ぎてしまいそうな能力を育み、理念の達成に向
けて共に歩むパートナーとなっていきたいと考
えています。
縮小する業界
リサイクル業界は、安定期の後半、間もなく衰
退期に入りそうなところに来ている、と私は感じ
ています。事実、新聞もビンも使用量は減少して
います。つまり資源が減少しているのです。当社
からいえば、商品が無くなっているということに
なります。
こうしたなかで、当然、企業を維持、発展させ、
雇用を守るには“新しい仕事”が不可欠です。そ
れも理念に沿って、障がい者の力を借りながら進
今、当社では仕事づくりに4つの切り口で取り
組んでいます。一つは新規分野の開拓です。これ
は障がい者の活躍の場を広げていくことが決定
的に重要となります。
現在、とある大手玩具メーカーのおまけを資源
化する仕事を新たに請け負っていますが、まだま
だ道半ばといったところです。
二つ目は高齢社会に向けた仕事づくりです。最
近“生前整理”と呼ばれる部屋の片づけが、便利
屋さんを中心に行われるようになってきました。
これは、ただ部屋がすっきりするだけでなく、安
全な住環境をつくることにもつながり、高齢者の
自宅での怪我を未然に防ぐことにもつながりま
す。
当社では、地域に根付いて仕事をしてきた信頼
を活かして取り組んでいきたいと考えています。
三つ目は農業です。実は、今年初めて稲を植え
たのですが、なかなか難しいと感じています。と
いうのは、稲作には、障がい者の手を借りる場面
が少ないのです。また、季節変動が大きいのも課
題です。まだまだ研究が必要です。
四つ目は、地元の福祉法人や企業との連携の道
です。自社だけでは限界のあることも、協力の輪
を広げることで、展望が拓けると考えています。
一人の人間として自立を
とはいえ、何よりも障害を持った人たちの自立
のためには、様々な問題があるのが現実です。彼
らを雇用するならば、自立してもらわなければ何
もなりません。そして、彼らがそれぞれ抱えてい
る問題の解決には、その背景にあるプライベート
の問題が避けては通れません。
当社には、働く障がい者のプライベートにかな
り深く関わる社風があるのですが、本当に大変で
す。そこで、私は自分でグループホームをつくり、
一人の人間としての総合的な自立をバックアッ
プできるか考えています。
超えられない矛盾
なぜ、こんなことを考えるのかというと、私の
仲間が今辛い状況に立たされているのです。
今から 25 年前、その彼は私より1カ月先に入
80
矢沢永吉、スポーツカー、温泉・・・と好きな
こと考えましたが、どれも商売にするには、現実
味が今一つないので、結局却下してしまいました。
そうして考えるなかでひらめいたのがお酒です。
お酒自体が好きなこともそうなのですが、お酒を
介しての人と人とのつながりをつくりたい、これ
なら何とか仕事になるかもしれない、そう思って
お酒で起業しようと決意しました。
そして、お酒のなかでも、特に日本酒に絞った
ことにも理由があります。一言で言えば、起業前
に調べていた業界の厳しさと、日本の“文化”が
失われてしまう危機感です。
社していた先輩です。現在 43 歳で自閉症を抱え
ています。両親も 70 代となり、先のことを考え
入所施設に入居させる決断をしたのですが、いざ
入所が決まってみると、そこには「働いてはなら
ない」、という決まりがあったのです。日中はそ
の部屋にいなければならないというのです。こん
なおかしなことはないと思います。人間である限
り、自立して自らの生活を成り立たせている、成
り立たせようと努力することを阻害することが
あっていいはずがありません。
彼は「僕はここでずっと働き続けるんだ!」と
言ってくれます。ですが、それが現実にはかなわ
ないのです。彼は今月一杯で会社を辞めなければ
なりません。私は本当に悲しいです。そして心か
ら悔しい。こんな矛盾も実際はあることを、最後
に付け加えさせて頂き、私の報告とさせて頂きま
す。
報告者③
日本酒の今
日本酒の蔵元数は、記録に残っている限りで、
江戸時代が最も多く、3万2千数百蔵あったと言
われています。その後、登録数ベースで見ると、
昭和 20(1945)年以前は約 8,000 蔵、戦後すぐに
は約半数に減少してしまいました。平成元(1989)
年になると、およそ 2,500 蔵に減少し、平成 23
(2011)年には、およそ 1,580 蔵となっています。
東海三県で見てみると、各県の酒造組合に登録さ
れている蔵元数ではありますが、愛知県には 42
蔵、岐阜県には 47 蔵、三重県が 39 蔵あるとのこ
とです。
消費量の面では、昭和 45(1970)年頃はアルコ
ールの消費量全体に占める日本酒の割合は
31.26%ありました。アルコール全体の消費量のピ
ークは、平成8(1996)年ですが、日本酒はその
うちの 12.56%にまで落ち込んでいます。また、
平成 23(2011)年には、アルコール全体の消費量
も減少していますが、日本酒の消費量はさらに落
ち込み、全体の 7.06%となっています。日本酒業
界は、まさに縮小の渦中にあるのです。
尾ノ上 智美氏
(株)CHERRY STONE
代表取締役(昭和地区)
【会社概要】
創 業 /2010年
資本金 /300万円
総社員数/1名
事業内容/酒類等飲料水
日本酒の世界に新しい風を
及び料理関係の講
習会、研修会の企
画・運営・広告宣
伝事業並びに広告
代理店業
こうした業界を盛り上げようと起業したのは
良いのですが、そんなに甘くはありません。起業
当時は仕事が全くなく、週休5日の状態でした。
そんな時、たまたま手にしたチャンスが COP10(生
物多様性条約第 10 回締約国会議)での出展でし
た。
20 日間ほどでしたが、全国、世界の人に微生物
がその製造には欠かせない「日本酒」をアピール
できたこと、たくさんの方との出会いは私の大き
な財産となっています。また、この様子を 2010
年 10 月 16 日付の中日新聞に取り上げてもらえた
ことも大きかったです。これをきっかけに、その
後もさまざまなご縁を頂き、中日文化センターや
毎日文化センターでの日本酒講座、飲食店や商店
http://www.cherry-stone.
co.jp/
好きなことを仕事にしたい!
16 年のサラリーウーマン生活に終止符を打っ
た私が、起業する時に考えたことは「好きなこと
を仕事にしたい」でした。
81
街にある宝石店を会場に定例で開催している「WA
(“和-日本の素晴らしさを知る”、“環-つなが
りを大切に”、“話-会話を楽しむ”)を楽しむ利
き酒会」も現在では行っています。
こうした取り組みを通じて、今後は商店街振興、
まちづくりなどにも活動の場を見つけていくこ
とができたら、と考えているところです。
また 2012 年 6 月には、念願の SAKE ショップ
CHERRY STONE をオープンすることができ、直接販
売に乗り出すこともできました。さらに、同年の
10 月には、あいち戦国姫隊とあいちの地酒のコラ
ボレーションで「華酒姫(はなみずき)」を世に
出すこともできました。これらは、同友会会員と
の連携のなかで生まれた取り組みです。特にあい
ち戦国姫隊は、同友会の行事にもお邪魔させて頂
いたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれま
せん。
酒文化を伝えたい
こんなことをしてきた当社の経営理念は「元気
と笑顔があふれる人・企業・地域社会作りに貢献
します」というものです。事業の軸である日本酒
を生んだ日本文化、そして日本酒を介して広がる
人の輪を大切にしていきたいという想いを込め
てつくりました。
また、社名の “CHERRY STONE”は“さくらん
ぼの種”という意味があります。矢沢永吉の楽曲
に同じタイトルのものがあるから、というのも理
由の一つではあるのですが、やはり、植物の種を
撒く時のワクワクした気持ち、初心を忘れないで
頑張ることで、大きな果実を実らせたい、という
想いを込めています。
今後は、これまで大切にしてきた「WA を楽しむ」
ということと、常に新しいことに挑戦するという
ことを継続していきたいと考えています。そして、
私自身が働き、暮らす東海地方の日本酒を蔵元や
酒販店、飲食店の皆さんとの連携で、日本全国、
そして世界に発信すること、「WA を楽しむ」のブ
ランド化を一層進めていこうと思います。さらに、
これからは 20 歳を過ぎたところの若い方たちに
82
お酒の楽しみ方を伝える「酒育」にも取り組み、
お酒という文化を育てるお手伝いをしていきた
いとも考えています。
こうしたことを実現していくには、組織化が必
要です。2011 年から経営指針に基づく経営に取り
組み、組織化の構想は描けていますので、自社の
目指すところ、やりたいことを発信して、いろい
ろな方々とのつながりのなかで新しいものを生
み出していこうと思います。
報告者④
金田
学
氏
愛知県産業労働部産業
労働政策課/主幹
(会外)
地域の誇りをビジネスに
先日、豊川市で B1 グランプリが開催され、58
万もの人が集まりました。一体なぜこれほどまで
に人が集まったのでしょうか。
実際のところ、出店されている一つ一つはいた
って普通のものです。それを生み出すまでに、大
きな設備や莫大なお金がかかったというわけで
もありません。ですが、その一品一品には、つく
り手や関わった人たちの地域にかける想い、苦労、
夢の全てが込められおり、地域のプライド、地域
のブランドを背負った品々なのです。だからこそ、
魅力的であり、人を惹きつけるのだと思います。
今日の報告に照らして考えると、こういった地域
ならではのものを担うことが、新しいビジネスに
なる、ということだと思います。
こうした視点から見ると3名の方の報告は、時
流をつかみ、地域のものを使い、今その地域に求
められていることをビジネスにした事例だと考
えます。清水食品(株)は地元の特産物であるレ
ンコンを使って、新たな事業展開をされていまし
た。(株)中西は障害者雇用の切り口で、地域の
なかで新たな仕事づくりに取り組んでいる事例
でした。また、(株)CHERRY STONE は、日本酒を
軸に、それまで作り手と買い手しかいなかったイ
メージを、連携を起点に新たなビジネスを生み出
している事例だと思います。この3つの報告には、
これからの地域に生きる中小企業の新しいモデ
ルが詰まっていると感じました。
なぜ、“中小企業”振興基本条例なのか?
愛知県は「中小企業振興基本条例」をつくりま
した。これは「地域活性化条例」でも「産業振興
条例」でもありません。ここには、何より「中小
企業」に元気になってもらうことを一番の目的と
する決意が込められているのです。地域を活性化
することも、産業を振興することも素晴らしいこ
とです。ですが、それを実現していくには、中小
企業が元気になることが極めて重要な要素なの
です。そうした想いを込めた「中小企業」振興基
本条例なのです。
私たち自身も、サプライサイド(供給者目線)か
らディマンドサイド(消費者目線)へ価値観を変
えていかなければならないと考えています。行政
側と中小企業の皆さんとの橋渡しもこの条例の
役割なのです。
条例の伝えたいこと
条例で一番伝えたかったことは、中小企業の素
晴らしさを知ってもらいたい、ということはもち
ろんですが、これまで地域を支えてきた中小企業
の地域貢献が、実は今後の中小企業の生きる道と
なる、ということなのです。
中小企業の最大の強みは、地域密着で地域から
離れられないことにあると思います。ただし、こ
れは地域の中だけで商売をする、という意味では
ありません。売り先はさまざまですが、商品やサ
ービスは、地域に根差したものでなければ市場で
の競争力も生まれないということです。
とはいえ、施策だけがどれだけ充実し、いくら
使用手引き書があったとしても、実際に新しい仕
事を生み出し、地域経済を支えているのは、中小
企業の皆さんです。皆さんに頑張って頂かなけれ
ば、何も生まれません。そこで、皆さんには「自
社が何をしたいのか?」「自社はどうなりたいの
か?」をぜひ明確に持って頂きたいと思います。
そうすることで、皆さんの事業における条例の利
用価値は格段に高まると思います。
条例は地域資源の“使用説明書”
今、地域には大小さまざまな、そして膨大な問
題があります。それらに、中小企業一社だけで対
応していくのは限界がありますし、困難でもあり
ます。だからこそ、本日の報告者の皆さんが要に
している、地域での連携が必要となってくるのだ
と思います。
また、地域の困りごとは大企業には扱えません。
なぜでしょうか。それは、大企業にしてみれば、
地域の問題は大きなビジネスにならないからで
す。いっそのこと海外に出て、そこで大きなビジ
ネスをする方が割に合うというのが本音でしょ
う。そう考えると、まさに地域を生かすことがで
きるのは、中小企業の皆さんをおいて他にはない
のです。地域の困りごとの情報を集め、事業化、
商品化することで、地域住民の大部分の生活を守
っていくことは、皆さんにしかできないことだと
思います。そうすれば、どれだけ大企業の海外移
転が進んでも、中小企業のやるべき仕事は山ほど
出てくるのです。
地域の期待に応える中小企業に
こう言うと、地域資源は特産品なのか、と思わ
れるかもしれません。ですが、地域資源とは、技
術、技能、歴史、伝統、文化、そして何よりその
地域の人を意味するのです。そしてもう一つ忘れ
てほしくないのは、地域の行政が行う制度、施策
なども全て地域資源だということです。
中小企業の皆さんが、これらを上手に使い、事
業に結び付け、利益を出し、雇用を増やしていく
ことで、地域を元気にするというのが条例の目的
ですから、いわば、この条例は、中小企業の皆さ
んが、地域でさまざまな機関と連携し、上手に活
用することで、自社の事業を強くしていくための
“使用説明書”と考えてもいいと思います。
自社の“こうなりたい”を明確に
私たちは、そうした施策を上手く使って、中小
企業の皆さんの事業に役立てて欲しいと心から
思っています。ですが、私たち行政側がどれだけ
良い施策だ、と思っても、実際に使う中小企業の
皆さんにとって今一つということでは残念です。
83
中小企業振興基本条例の広がり
こうした中小企業の大切さ、価値に行政が気付
き始めているからこそ、中小企業振興基本条例が
広がっているのだと、私は考えています。行政と
中小企業、県民の皆さんとが約束を交わし、それ
に則って地域の困りごとを解決し、そこに正当な
対価を支払うことで、中小企業が元気になり、利
益を生み、雇用を増やし、人を育ててくれること
こそが、行政の望んでいることなのです。
きっと皆さんの地域にも、盛り上げたい素材や、
何とかしたい課題がたくさんあると思います。ぜ
ひさまざまな連携を広げ、新たな仕事づくりに挑
戦して頂ければと思います。私たち行政側も、出
来る限りの力を尽くして参ります。本日はありが
とうございました。
■座長まとめ
名古屋第一法律事務所・前議長・弁護士
加藤 洪太郎(瀬戸地区)
本日の分科会を通じて、私は自分自身が改めて
学んだこととして、地域における中小企業の存在
意義として次の7点を列挙したいと思います。な
お、「中小企業は」という部分を「自社は」と読
み替えて頂くと、より身近に感じて頂けるかもし
れません。
第一に、中小企業は、地域の困難や自社の困難、
あるいは自分自身の困難といった、さまざまな困
難を克服する力を持つということです。
そして第二に、その困難の克服にあたって、中
小企業は、さまざまな地域の資源に改めて着目す
ることで、新たな可能性を持つことができるとい
うことです。
これら2点を踏まえ、
第三として、中小企業は、さまざまな困難と、
改めて着目した地域の資源を結び付け、地域で新
しい仕事をつくることが時代の要請として求め
られているということです。
そして、この分科会の大きな柱でもある「連携」
の意味において、
第四は、中小企業は、こうした新しい仕事づく
りを、関係各方面との連携のなかで確立するとい
うこと、また、そのチャンスを失わずに活かす存
在であるということです。
第五は、これら一連の流れを通じて、中小企業
は、地域の雇用を維持・拡大し、地域に財を集め、
さらには地域の財を逃がさず循環させ、地域で活
かすことによって、地域に住む人々の生活を守り、
支える存在であるということです。
その過程では、
第六として、中小企業は、行政の施策、情報、
知恵を自社に活かし、地域づくりの一翼を担える
力を蓄えていくことも必要です。
そして、これら全てを根底で支えるものは、私
たち経営者自身の覚悟です。
それが第七として、中小企業家は、自らの自由、
主体性、使命感を持ち続け、人間らしく生きる、
またそういうエネルギーを秘めた存在であると
いう「誇り」と「自覚」を持たなければならない
ということだと考えます。
これら七点を、本日の分科会を通じて私自身改
めて実感し、勇気を持つことが出来ました。
また明日から、私たち自らが、こうした地域を
担う存在にふさわしい企業づくりに取り組み、社
会が中小企業に期待している使命を果たすこと
を、この分科会に参加した皆さん同士で誓い合い、
座長のまとめとさせて頂きます。本日は皆さんお
疲れ様でございました。
【第 14 分科会スタッフ】
○座
長
○室
長
○責任者
(有)シー・アンド・シー保険サービス
代表取締役
○グループ長
浅井 勇詞(海部・津島地区)
山内 利員(稲沢地区)
松浦 孝憲(愛北地区)
李
末 竜(瀬戸地区)
石黒 義文(熱田地区)
加藤万佐司(港地区)
川合 裕史(港地区)
松 原
剛(中村地区)
國井 祥行(瑞穂地区)
伴
泰 誉(岡崎地区)
○実行委員
佐藤 俊夫(海部・津島地区)
山内 新人(中区中央地区)
宮地 経司(西尾地区)
○記
84
加藤洪太郎(瀬戸地区)
名古屋第一法律事務所・前議長・弁護士
城所 真男(中区北地区)
重機商工(株)・常務取締役
和 田
勝(瀬戸地区)
録
池内
秀樹(愛知同友会事務局員)
⑮分科会
第
<付加価値を高める/新市場創造>
仕事の本質が新市場を切り開く!
~6年で売上3倍、グループ3社に発展~
報告者
新市場創造は周到に準備された計画、
それを遂行する組織、そして何よりも思
いつきではないアイディアなどが必要
です。経営指針書を作成し、企業変革支
援プログラムで課題抽出して抱く「危機
感」や、同友会での学びを実践すること
で浮かび上がる自社の「強み」をどのよ
うに新市場創造に繋げて行くのか。今ま
での事業の延長線上で自社の強みを新
市場創造に活かしている方の報告から、
次の一歩を踏み出すヒントを学べる分
科会とします。
近藤 正人氏
(株)アートフレンド 代表取締役
(名古屋第5青年同友会)
【会社概要】
創 業 /1994年
資本金 /2000万円
総社員数/20名
年 商 /5.3億円
事業内容/「運送支援提案業」主
にトラック中古販
売・トラック架装など
http://artfriend.co.jp/
アートフレンドだけの売上、2007 年に新事業を立
ち上げて(株)アートフレンドAUTOを作りま
した。2008 年のリーマンショック以降に「デコト
ラ」の仕事が落ち込み非常に苦しくなった時期に、
この新会社が落ち込みをカバーしてくれました。
2011 年に東日本大震災があり需要が増加し、
(株)
アートフレンドAUTOは飛躍的に伸びて(株)
アートフレンドの約 2.5 倍の売上をたたき出しま
す。
(株)アートフレンドの仕事
みなさんこんにちは、(株)アートフレンドの近
藤です。みなさんは「デコトラ」をご存知でしょ
うか。デコレーショントラックの略で、別名アー
トトラックとも呼ばれています。ゲームや映画な
どに登場し、お年を召した方は菅原文太の「トラ
ック野郎」という映画を思い出されるかもしれま
せん。「デコトラ」は日本だけではなく、タイや
インド、ヨーロッパ、アメリカなど世界中に広が
っている文化です。アメリカではラスベガスでこ
うしたカスタムトラックのショーが行われるほ
どです。ヨーロッパでは厳しい規制に合わせたカ
スタマイズがされ、とてもオシャレです。
こうしたカスタム専門店(株)アートフレンド
(20 期)の仕事は、ステンレスを切って、叩いて、
溶接をしてという本当に地道な作業の積み上げ
です。
得意技が強みに
分科会実行委員会から報告依頼があった時に、
新市場にたどり着くにはそこまでの準備をどの
ようにしたかを聞きたいとリクエストがありま
した。本日は、私がどのように学び、どのように
実践をしたかをお話しいたします。
私の学歴は中学卒業です。15 歳から、ステンレ
スの溶接関係の石浜鉄工所に丁稚に入り、そこで
基本となる溶接・研磨・製図・設計などを学びま
新事業に救われた
した。その後、独立をして売上が4千万円ぐらい
から1億円ぐらいまで上がって行った要因は、設
(株)アートフレンドAUTO(8期)はこの分
計ができたことが大きいと思います。
科会に呼んでいただいたきっかけとなった会社
みなさん、CADはご存知でしょうか。今から
で、特殊自動車販売に関する事業を行っています。
20 年ほど前にはパソコンでCADを使って設計
(株)スパークインシュアランス(1期)は作った
をすることは、まだ珍しいころでした。偶然にも
ばかりの会社で、普通自動車販売に関する事業を
知人の紹介で千葉大学の大学院でシステムを組
行っています。売上は2社連結で前期5億3千万
んでいた方と知り合いになり、CADを習って設
円、今期6億5千万円を予定しています。売上の
推移を見ていただくと、2006 年までは既存の(株) 計の効率化を図りました。当時、町工場レベルで
85
は、自社でCADを使った設計まではやっていま
せんでした。仕上がりも綺麗で正確でしたし、修
理の時も以前と全く同じものが作れることから、
お客様の信頼を勝ち取って行きました。
そうした技術を基に 19 歳で独立をしたものの、
「経営」については全く分かりませんでした。当
時の私は経理すら分からず、ただひたすら儲けれ
ばいいと思い仕事をしていました。経営の目的も
分からない、社員のことも「うちの若い衆」とい
った感覚でした。
同友会で初めて経営を学ぶ
売上が1億円手前ぐらいで伸び悩んでいたこ
ろ、友達から同友会に誘われました。当時の第1
青年同友会の「社員満足」がテーマの例会に参加
をしました。そのころの私は「社員満足より、自
分がどれだけ稼ぐかだ。」と思っていたので、懇
親会で入会を勧められても「入会はしません」と
言い切りました。そこで、“大先輩”の会員さん
から「私が面倒を見てあげるから、取りあえず入
会して半年間はやってみなさい。」といわれ、同
友会に入会をしました。
すぐに“大先輩”から夜の街に呼ばれ「社長の
給料が百万円も取れないようなことで、社員にど
うやって給料を払うのか。」といわれました。今
振り返ると、決算書も読めない、経営の基礎も知
らないような若造に、理解できるような言葉で大
先輩はいってくれたのだと思います。その場で仲
間の税理士の方に「近藤に、10 万円でコンサルタ
ントをして欲しい」と口添えをしてくれたのです。
それから何年も財務の基礎から教えていただき、
最初の1年間はほぼ毎日その税理士さんと一緒
にいました。分からないことは質問し、自己資本
比率の上げ方を学び、初めて1カ年、5カ年の経
営計画の作成をしました。
まず付加価値を高める
売上目標が2億円弱のころでした。売上を上げ
ようと思えば社員の増員が必要です。管理費が上
がって流動費も上がって来ると、粗利を上げるよ
う経営体質を変えるしかありません。新しい投資
をする資金も無く、人・モノ・金・情報が限られ
た資源しかない中で、唯一できることは粗利の向
上しかありませんでした。粗利の割合を1%上げ
る、次の年も1%上げるという付加価値を高める
努力を積み重ねる。そのためには、目標とする数
値からの逆算です。ただ、この時の経営計画は、
数値は達成したものの中身の財務体質は惨憺た
るものでした。数値が上がったことで成功要因の
見つけ方は正しいことが証明されましたが、財務
86
体質の強化は大変時間が掛かりました。一足飛び
には行けないので、自社の財務内容よりはまず粗
利を上げるという方法を取りました。
大切なことは「金融委員会」で教わった
ここで登場するのが同友会の「金融委員会」で
す。委員長をしていた先輩に誘ってもらい、勉強
するようになりました。今では私も副委員長を務
めさせていただいています。新しい法案や施策が
でると中身の精査や活用法の学習会の開催、地域
の金融機関との連携、経営者自身が襟を正すなど、
経営環境から経営姿勢の基本までを学んで行き
ました。私は「経営者自身が襟を正す」というこ
とが理解できませんでした。資金力の弱い中小企
業は、自社の業績が悪くてもつい金融機関に不満
を持ちがちです。しかし、しっかりとした経営指
針・経営計画や財務改善計画も出せずに金融機関
を悪くいうのは、順序が逆転しているということ
です。まず、勉強をして、経営者がやるべきこと
をやることが、自社の未来を開く一番の近道なの
です。
私の新市場創造の第一歩
金融委員会はお金を借りるための勉強をして
いるわけではありません。経営者が金融機関に信
用してもらうには、金融機関に提出しても恥ずか
しくない財務内容の決算書にしていく努力をし
ているのかどうかに掛かっています。
そこで先輩に「今期、これだけ利益が出ていま
すがどうしましょう。」と相談をしましたら、
「税
金を払いなさい」と一喝されました。そこで自社
の財務体質の強化、自社のビジョンの実現をした
いがために納税をしました。財務体質を強化し、
贅肉を落とし粗利の改善をした結果、同じ売上で
も利益が出たからです。しかし、努力の末やっと
利益が出たのですが、手元に現金がありません。
しかたなく銀行から借り入れをして納税をしま
した。納税をすることにより自己資本比率が改善
されますので、それを3年続けました。自己資本
比率は 35%程度になり、現金・現物が手元に残る
ようになりました。これが、私の新市場創造の第
一歩でした。
て、総資産1億円、売上高1億3千万円ぐらいで
自己資本比率をたとえば 30%というのはそんな
に難しいことではありません。
同友会で学んで財務体質を強化し、経営戦略を
立て愚直に実践すれば、赤字会社も黒字に転換で
きます。
何度も挑戦できる潤沢な資金が必要
新しい市場を創造するにあたり、SWOT分
析・PPM分析・マーケティング・ブランディン
グなどを行います。それを基に戦略を立て、予算
を組み、費用対効果の検討をして準備をします。
極論かもしれませんが、新事業にチャレンジす
るには投資資金が潤沢に無いとできません。周到
な準備をしても社会のニーズに合っていなけれ
ばヒットしませんし、ニーズが合っていても成熟
度合いで手ごたえは変わって来ます。どこでヒッ
トするかはチャレンジしなければ分かりません。
失敗をしても何度もチャレンジができるぐらい
の潤沢な資金が必要です。
学んで実践すれば黒字に転換できる
私が同友会に入り経営の勉強を始めたころは、
自社の売上は8千万円ほどで自己資本がマイナ
ス3千6百万円ほどありました。創業から5年間
の繰越損失がそんなに膨れ上がっていたという
ことです。この債務超過の状況に、コンサルタン
トに付いた税理士さんもビックリされたと思い
ます。当時の私はそんなことも分からずに経営を
していました。そんな会社に未来は無いと、先輩
方は思われたと思います。私はその後、同友会で
の学びはすべて自社に取り入れて、会社を変えて
きました。逆にいえば、同友会はすぐに活用でき
ることが学べる場所ともいえます。
「金融委員会」は「金融寺子屋」という勉強会
もよく開催していました。ここで学んだのが「管
理会計」、損益計算書を管理する手法です。粗利
(付加価値高)をどれだけ社員に還元できている
のか、ひとことでいえば「労働分配率」が自社で
わかるようになったのが「金融委員会」での一番
の学びでした。そこでもう一歩踏み込んで勉強し
「景況分析会議」で経済を見る目を養う
その後、先輩方に連れられて同友会の「景況分
析会議」にも出席をするようになりました。そこ
で、立教大学の経済学部教授の山口義行先生に出
会い、世界経済などマクロ経済からミクロ経済ま
で経営環境の情報にも触れて行きました。それに
より私は、成長市場か衰退市場かを見極めるとき
に、過去の経済の分析から導きだされたものを基
準に判断していることに気づきました。ここでは
経済の流れを見ることを経験値として積み上げ、
(株)アートフレンドAUTOを立ち上げるきっか
けとなりました。
「景況分析会議」は会員であれば誰でも参加で
きますので、ぜひ一度参加してみてください。ま
ずはリアルタイムで「生の景況感」を感じていた
だくと、次の行動に繋がります。私も景況分析委
員として参加していますので、気軽にお越しくだ
さい。
売上の5%を新事業創造に
山口先生は私と会うたびに「あなたは勉強をし
たことが無いのだから、もっと勉強しなさい。」
といってくれます。また、いつも参加者に向かっ
て「売上の5%でいいから新しい事業に挑戦して
ください。」といい続けていました。
こうした経済の流れを見て行くと、やはり売上
の柱が一本や二本では厳しいと思います。世の中
のニーズが変わる、価格が変わる、株価の変動、
私たち中小企業には経営環境の悪化は一番の打
撃になります。だから売上の5%の新規事業を作
って行くことが大事なのだと、山口先生はいって
くれるのです。私の中で零細企業としての危機感
が芽生えて、このままではいけない、自社は無く
なってしまうと行動を起こしました。
付加価値をどう高めるか
次に私が取り組んだのが、自社の販売する物や
サービスの付加価値をどう高めるかということ
です。私の場合は、粗利をどう上げるかというこ
とにモノと情報がリンクしました。わが社は大変
ニッチな市場を相手にしています。その中で自社
の成功要因を見て行きます。自社が何をしてお客
87
ポートフォリオ・マネジメントの略です。経営戦
略の基本で、成長性と競争力から製品構成を戦略
的に決定する手法です。横軸に「市場における自
社の相対的市場シェア」(→資金の流入)を、縦
軸に「市場の成長率」(→資金の流出)を取りま
す。この中に自社商品・事業をプロットして、現
状の利益の柱はどれか、今後利益の中心とすべき
事業・商品は何かを分析し、次期の経営資源投資
戦略などを検討します。次に「自社のスター」か
「挑戦中」か「負け犬」か、マトリックスのどの
分野に分類されるのかを分析します。
「挑戦事業」
をいかに「スター」に持ち上げ、売上を立て利益
も出すことができる事業に育てられるのか。こう
したことを一つ一つの設計図を使って行います。
なぜ独立採算制なのかといいますと、粗利に対
して目標値を設定したい時に複数の事業部が混
在していると売上と原価、人件費、広告宣伝費な
どの紐付けがしにくいからです。たとえば、会社
が戦略的に売上を立てるために使える広告宣伝
費と交際費が、どれくらい費用対効果が生み出せ
るのかということは、部門ごとに独立採算制にな
っていないとわかりません。私はこうした理由で
本業+αの分野を新事業展開
自社をいくつかの会社に分け、社内でも事業分野
山口先生が私の話を聞いて「隣接異業種」とい
ごとに分けています。
う言葉を口にしました。なぜ隣接異業種なのかと、
我社は事務職の社員にも結構高いスキルを求
めます。高い給料を出しても簿記検定の一級を持
私もふと考えました。自社は製造業でしたが、小
っている方や会計に精通した方を採用しないと、
売業に転換していると気づきました。私は常日頃
管理が難しいからです。管理できれは、しっかり
から、新規事業は自社の強み(成功要因)に基づ
と各事業部でプラスが出てきます。そうした中で
いた隣接分野に行くべきだと思っています。その
自社の柱の一つになり得る事業部を見つけたら、
ためには、成功要因から波及する自社の簡単な設
柔軟な体質の会社を作れるよう財務体質の流動
計図を作ります。
たとえば、自社は車両のカスタム部品の製造販
性を高めます。
売を行っていましたので、小さな小さな川の中で
商売をしていました。不況になれば中古車が売れ
「経営計画・行動計画・財務改善計画」
ると見て、中古車販売の会社を立ち上げました。
中古車の販売は、もともとやっていたパーツ販売
自社を新しい事業分野に向けて行きたい時に、
の川上にいます。整備・看板・福祉車両・福祉車
経営者としての成功要因と会社としての成功要
両のレンタカー・中古トラックの買い取り・新車
因をしっかり分け、数字を付けて行動計画を立て
販売、など同じお客様から異なった需要で何度も
ます。「経営計画・行動計画・財務改善計画」こ
ご利用いただけます。この流れはカスタム部品の
の三つがセットです。初めは「行動計画」と「青
(株)アートフレンドでの成功要因を活用しました。 写真の経営計画」、
「財務改善計画」については使
今ある設備や人などを活用すれば、経費も抑えら
れます。私は一つ一つの成功要因にそうした設計
図を作って対応をしています。
様に認めていただけたか、どういうお客様が自社
に来ていただけるのか。どういう人を採用して自
社の売上が上がったのか、どういう商材を手に入
れた時に変化が起きたのかなど、様々な成功要因
があります。
私の場合は、10 年前に同友会に入会し、経営者
としての勉強を始め、徹底的に財務を学んで自社
で実践したことです。まず自分自身が財務に明る
くなり、財務を改善し、自己資本を使って新しい
事業に挑戦しました。お客様に「社長のところは
ブランドですね。」といっていただけた、その一
言が始まりです。次に成功要因をいくつか書き出
して、その一つ一つに設計図を作ります。こうし
た作業がブランディングやマーケティングに繋
がって行ったのです。
最後は人に関する課題です。役員報酬をしっか
りと取り、社員の雇用もしっかり整えていきまし
た。財務がよくわかって来て毎月の単月決算がで
きるようになれば、ボーナスなども内勘定に入れ
て経常利益を出すなどができます。
独立採算制で「スターの卵」を見つける
さらに一つ一つの分野を独立採算制にしてい
ます。独立採算制にすることで、売上に対する原
価の紐付けを見てどれが一番利益を上げている
かを確認できます。みなさん「PPM分析」をご
存じだとおもいますが、
「PPM」はプロダクト・
88
の 10%と決めています。そのうちの5%を新規事
業に投資します。
えるお金を作るだけでも良いと思います。これが
少しでもあると、会社は伸びて行きます。借入の
方法も資金投下の用途に合わせて変える、よく検
討をして返済期間の繰り延べをするなどして財
務改善をすれば、その資金を新たな事業に投資で
きます。そういうあたり前のことに気づかなかっ
たのが、私の失敗要因でした。これに気づいてか
らは成功要因に繋がって行きます。
教育体制と社員への利益還元
「日々の活動指針」、こうした細かいことまで
マニュアルを基にした研修やロールプレインを
何度も行い、徹底して実行しています。会議のや
り方や社員への浸透の仕方なども、すべて同友会
で学び自社に取り入れました。
自社では賞与以外に「社員一丸達成手当て」と
いう仕組みを作りました。部署により違いますが
月次決算で経常利益の4%~5%を超えた部署
には組織全体に手当を出しています。もちろん役
職者と一般業務担当者では額が変わって来ます
が、社員のモチベーションは上がります。前期は
11 回支給しました。賞与に換算すると幹部クラス
は1カ月、一般社員は半月分ほどになります。自
社の成功要因を基にした給与規定や昇給制度グ
レード規定などもそこに結び付けています。
社員との経営計画の共有と金融機関への経
営報告書
「中長期経営計画」5年~10 年を作ります。
「経
営指針書」の「経営計画」「財務改善計画」は見
ても大変わかりにくいものです。社員に伝えよう
と思っても、なかなか理解できるようには伝わり
ません。ですから、自社では見て分かるプレゼン
タイプのものを使って、毎月のミーティングで1
ページづつ浸透を図っています。
「決算書」は隅から隅までよく読み、勘定科目
別の添付資料を付けて、上場企業の決算書かと思
うほどの厚みになります。そこからは1年間の会
社の動き、社員の動きを全て読み取ることができ
ます。さらに金融機関報告用には、今期自社はど
うしてこうなったのか、どういうところで利益が
出たのか、どんな課題があるのかなどの総括を作
ります。みなさんも、金融機関に決算書を提出す
るときに、ぜひA4版1枚でよいので1年の総括
を付けて見て下さい。外部の人に見せる、それだ
けで会社が変わります。毎年継続して取り組むこ
とで、しっかりとした経営報告書が書けるように
なります。
仲間と切磋琢磨して自社も成長
自ら考えて動く社員に
外部委託をしていた業務を自社内で行う「内製
化」のためのマニュアル化も、先輩に教えてもら
いました。1億円の売上から一気に6億円にする
というのは、イメージが浮かびません。私は今、
売上6億円で3年後には 10 億円にするイメージ
は持っています。それは、会社全体の仕組みづく
りができているからです。まず、経営者自身が分
かるような経営マニュアルを作ります。これには、
自社の成功要因が全部含まれており、マニュアル
通り実行する力はすでにあります。したがって、
1年に1億円づつ売上を上げて行く力はありま
す。社員はすでにその仕組みの中で計画的に動い
て体現をしていますので、社員一人ひとりが理解
して目標達成に向けて計画の提案までするよう
になります。一つの組織がこうした形で動くよう
になると、売上は面白いように上がって行きます。
私は会社の設計図を作るときに、経常利益を売上
89
本日ご参加頂いた方の中には分科会のサブテ
ーマに「6年で売上3倍、グループ3社に発展」
と書いてあるので、ホームランでも打ったのかと
思われた方もあるかもしれません。しかし、実は
先ほどの話のように、先輩方に教えていただいた
ことをただ実直に実践しただけです。私の場合は
経営者スキルを上げるために、1年間かけて百万
円程の授業料を払い勉強もしました。経営者は、
利益を出して、社員やお客様や取引先そして社会
にどのように還元できるかという設計図が描け
ないといけません。私は今、36 ほどの経営計画を
作っています。目標に向かって何年かかけて近づ
いて行くのですが、もちろん達成できるものばか
りではありません。行動計画を書き出して、一目
で見ることができるようにしています。今期でき
なくても、今期が 50%の達成率なら来期は残りの
50%をやれば当初の目標は達成できます。
私はコツコツですが、私の周りの仲間は私の成
功要因を見てグイグイ上がって行きます。こうし
て経営者仲間と切磋琢磨して共に学ぶことで、
個々の企業の売上は2倍、3倍になって行きます。
自分の経営の成功要因を公開し後輩に受け継い
で行くことが、自分の気づきであり最大の成功要
因だと思います。これをやり続けることで、自社
も発展していくと思います。私は、自社の幹部社
員とは同友会の仲間と同じように接しています。
自社の成功要因を託して、幹部社員が自ら考え行
動を起こし組織を盛りたててもらっています。今
日の私の話で、新しい事業分野や市場を切り開く
ために売上をどのように上げるかなど、何かしら
のヒントを掴んで頂けたら幸いです。
がら、明日からは何もしないということを何度も
繰り返してきました。もし、みなさんが今日の近
藤正人の話で分からないところがあって、“自分
の所属地区に帰って、分かる人に聞く”という行
動を取っていただけるなら、ぜひ覚悟してその人
を信用していただきたいと思います。そうすれば
3年後、5年後、10 年後に、必ずみなさまの会社
の中は社員が倍になり、売上が倍になると思いま
す。さらに新市場創造をして、もっと成長するか
もしれません。今日という日がターニングポイン
トになって、必ず変わることができます。
この貴重な時間をみなさんと過ごせたことを、
本当に嬉しく思います。本日は、ありがとうござ
いました。
■座長のまとめ
【第15分科会スタッフ】
(株)矢神自動車・代表取締役
矢神 典昌(名古屋第5青年同友会)
○座 長 矢神 典昌(名古屋第5青年同友会)
みなさま、長時間に渡りご参加いただきまして、
(株)矢神自動車・代表取締役
本当にお疲れさまでした。私は報告者の近藤正人
○室 長 後藤 泰司(一宮地区)
の愛弟子です。本日は私が近藤正人から何を教え
(株)ハグリネット・代表取締役
てもらい会社がどうなったのかを、まとめに代え
○責任者 岩田 公貴(尾張西青年同友会)
てお話をいたします。
専門館LLP・代表社員
○グループ長
早川 悟史(一宮地区)
信用する覚悟が必要
前川 誠治(西春日井地区)
私どもの会社は、8年ほど前は本当にお金があ
加藤 真一(尾張東青年同友会)
りませんでした。ある日 10 期分の決算書を抱え
加 藤
信(知多地区)
て、
「うちは、なぜこんなにお金が無いのだろう。
」
岡本 敏宏(知多北部地区)
と近藤正人のところに相談に行きました。
古川 善康(知多青年同友会)
先ほどの報告の中に「金を借りてでも税金を払
秋山 茂夫(西地区)
伊勢谷 努(守山地区)
いなさい」という言葉がありましたが、私は、ま
落合 弘忠(東地区)
さにこれを実践した人間です。本当に、お金を借
加藤 千雄(熱田地区)
りて3年間税金を払い続けました。もちろんその
石 塚
愛(名古屋第4青年同友会)
間には、利益が出るような経営の体質を作る経営
恒岡 浩二(名古屋第6青年同友会)
環境の整え方も、手取り足とり教えてもらいまし
清水 裕介(安城・知立地区)
た。会社の環境が変わって“税金を払う会社”に
なりました。しかし払うお金がありません。する
近藤亜希子(刈谷地区)
とお金を借りなさいといわれます。実は、ここに
近藤 昭人(豊田地区)
はもの凄く覚悟が必要でした。彼をどこまで信用
○記 録 野副 眞理(愛知同友会事務局員)
するかということです
近藤はコツコツコツコツ努力をして、毎年1億
円づつ売上を伸ばし新市場創造をして来ました。
自社も彼と出会ってから売上が倍に、利益は倍以
上になっています。社員は一人しか増えていませ
ん。いかに効率を高めて行くかということを彼か
ら学びました。
今日があなたのターニングポイント
私は過去にもこうした分科会にいろいろ出ま
したが、「いいな、今日の話し」といっておきな
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第14回
あいち経営フォーラム
全体会
(1154 名が参加、混雑する受付)
(山本中部経済産業局長挨拶)
(地区ごとで受付を行う)
(中山東海財務局長挨拶)
(司会の石塚愛さん)
(杉浦会長の開会挨拶)
(左から長尾実行委員長、加藤代表理事、杉浦会長)
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(全体会の様子)
第14回
あいち経営フォーラム
交流会
(今回初めてご来賓頂いた、日本銀行名古屋支店
長の宮野谷支店長)
(会外、他県報告者の皆様)
(来賓の地元金融機関の皆様)
(第14回フォーラム幹事の皆さん)
(加藤代表理事挨拶)
(会員同士の交流に花が咲く)
(司会の坂野豊和さん)
(定番となった理事のお見送り)
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!次回予告!
「第15回あいち経営フォーラム」のご案内
☆日時
2014年11月18日(火)
時間等詳細検討中
☆会場
名古屋国際会議場
名古屋市熱田区熱田西町1-1
TEL(052)683-7711
☆参加費
検討中
第14回あいち経営フォーラム
2014年
2月1日
報告集
発行
愛知中小企業家同友会 第 14 回フォーラム実行委員会
実行委員長
長尾 秀義
〒460-0003 名古屋市中区錦3-5-18 京枝屋ビル4階
TEL(052)971-2671 FAX(052)971-5406
http://www.douyukai.or.jp/