2013/01/11 第 11 回ミクロゼミ カント『純粋理性批判』⑥ 担当班解答

2013/01/11 第 11 回ミクロゼミ
カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
問 1: 純粋理性概念の特徴とその存在理由について、次のキーワードを用いて説明しなさい。
[キーワード: 背進的綜合、前進的綜合、現象]
[引用]
p.27 しかし純粋理性のかかる最高原理から生じる原則は、およそ現象に関してはいずれも
超越的原則ということになるだろう、―換言すれば、この最高原理に完全に適合するような
経験的使用は、かかる原則についてはまったく不可能であろう。
p.29 …いずれにせよかかる純粋理性概念は、単に反省によって得られたものではなくて、
まったく推論によって得られた概念である。
同上
しかしすでに理性概念という名称からして、この概念が経験の範囲内に制限されて
いそうもないことが判る。理性概念の関係する認識は、およそいかなる経験的認識も(恐ら
く可能的経験の全体、或は可能的経験の経験的綜合すらも)単にその一部分をなすにすぎな
いような認識である。…理性概念の旨とするところは、理性による理解(Begreifen)であり、
悟性概念の旨とするところは、概念による(知覚の)理解(Verstehen)である。」
p.30 我々は取りあえず純粋理性の概念に新しい名前を与えてこれを理念(Idee)と呼び…
p.38 悟性概念から生じて、経験の可能を超出するような概念は理念即ち理性概念である。
p.40 ところで無条件的なもののみが条件全体を可能ならしめるものであり、また逆に条件
の全体は常にそれ自体無条件的であるから、無条件者の概念が条件付きのものの綜合の根
拠を含む限り、純粋理性概念一般は、この無条件者の概念によって説明せられ得るわけで
ある。
p.43 そこで純粋理性は、一切の認識を悟性にゆだねる、すると悟性はまず直観の対象に関
係する―と言うよりは、むしろ構想力による対象の綜合に関係する。そして純粋理性は、悟
性使用における絶対的全体性だけを自分自身のために保留し、カテゴリーによって考えら
れるところの綜合的統一をそのまま絶対的無条件者にまで及ぼそうとするのである。
p.50
…即ち我々がそれについて概念かさもなければ理念を構成し得るところの関係は三
通りになる、即ち(一)主観に対する関係、(二)現象における多様な客観に対する関係、(三)
あらゆる物一般に対する関係である。
p.92 私は、条件の側における系列の綜合、即ち与えられた現象に最も近い条件から始めて、
順次に遠い条件へ遡っていく綜合を、背進的(regressiv)綜合と名づけたい、これに反して条
件付きのものの側における系列の綜合、即ち最も近い結果から次第に遠い結果へ進む綜合
を 、 前 進 的 (progressiv) 綜 合 と 名 づ け よ う と 思 う 。 つ ま り 前 者 は 理 由 か ら 理 由 へ (in
aniecedentia)遡り、また後者は帰結から帰結へ(in consequentia)進むわけである。
p.185 また理性のこの原則は、感覚界に適用される概念を、一切の可能的経験を越えて拡
張するための原理―換言すれば、理性の構成的(konstitutiv)原理ではなくて、経験の範囲を
できるだけ拡大し拡張し続けるための原則であり、この原則はいかなる経験的限界をも絶
対的限界と認めることを許さない。従ってまたこの宇宙論的原則は、理性の原理ではある
が、しかしそれは規則として、条件の系列を遡る背進において何をなすべきかを我々に要
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
求する原理であって、およそ背進よりも前に客観において何がそれ自体与えられているか
を先取的に認識するための原理ではない。そこで私はかかる原理を理性の統制的(regulativ)
原理と名づけたい。
[解答]
人間は感性と悟性を使って表彰を受け取る。悟性とはカテゴリーであり、感性とは時間
と空間である。感性によって受け取った表象を、悟性を通して現象として認識する。人間
が認識しているすべての現象は、人間の認識によってのみ認識されえる。これは、私たち
が見ている世界は、人間の認識を通すことによってのみ認識されるということである。そ
のような、私たちが経験によって認識しえる現象が何であるかという結果は、構成的に計
算されうる。
ではここから、純粋理性概念の説明に入る。純粋理性概念は、悟性概念から生じた概念
であり、理念(Idee)と呼ばれるものと同じである。理念には 3 種類ある。認識している側の
理念、認識の対象が持つ理念、最後に認識する側と対象を包む全ての存在である。つまり、
この三つの理念があるからこそ、ある一つのものをそれと認識することができるのだ。
人間は、ア・プリオリに備わった因果性のカテゴリーがあるため、感性と悟性によって
受け取った様々な現象の原因を背進的に遡る。背進的に遡るとは、背進的総合のことを指
し、それは与えられた現象に最も近い条件から始めて、順次に遠い条件へ遡っていく綜合
のことをいう。背進的に総合されていくプロセスの中で、人間の制限された認識能力では
認識できないことでも統制してしまう。たとえば、「暖かい」ことの原因を考えたときに、
「太陽が燃えているから、暖かいのである。」という結論に至ったとする。しかし、人間は
「太陽が燃えている」ということを実証できない。このように人間が実際に認識しえない
ことまでも、そうであると信じてしまうのは、人間の純粋理性概念があるからである。さ
らに人間は、背進的総合によって遡って現象の原因を考えたときに、そのすべてのプロセ
スを一つの世界として認識してしまう。実際にその世界が存在しているという保証はない。
しかし人間は、その世界があたかも統一体であるかのように扱う。しかし人間がこのよう
に純粋理性概念を使用する際、間違いをおかしやすい。先程の例で述べると、「太陽が燃え
ている」という事象は、私たちの間ではそのように認識されているが、実際にそうである
という保証などどこにもないのだ。こうなると、もし実際には、太陽は燃えていなかった
場合、
「太陽が燃えているから、暖かいのだ」という認識は崩れてしまう。
だが、純粋理性概念にも存在意義がある。純粋理性概念を使用することで、私たちが認
識している世界が一つの統一体になる。そうすることによって、学問における研究をより
円滑に進めることができるのだ。私たちが認識しえないことを、純粋理性概念を使って世
界を統一体であるかのように扱うことによって、人間の認識能力の範囲内での個々の学問
研究が行いやすくなるのである。
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
問 2:p99「我々は、世界と自然という二つの言葉をもっているが、この二語は往々にして
混同せられることがある」とあるがこれはどういうことか、時間と空間について触れつつ
説明してください。
[引用]
p.36f
自然に関しては、我々に規則を与えるものは経験であり、経験が真理の源である。
しかし道徳に関しては、経験は(残念ながら)仮象を産む母であり、私がなすべきところ
のものに関する法則を、なされるところのものに求めようとし、或は後者によって前者に
制限を加えようとすることは、まことに以てのほかの沙汰である。
p.58
思惟するものとしての『私』は、内感の対象であって『心(Seele)』と呼ばれ、また
外感の対象であるところの『私』は『身体』(Körper)』と呼ばれるということである。従っ
て『私』という語は、思惟する存在者としてすでに心理学の対象であることを意味する。
p.62
我々がかかる主観について何事かを判断しようとすれば、けっきょくこの不便を『私』
という表象を用いざるを得ないからである。
p.66
しかし主観のかかる自己同一性、即ち私が主観のあらゆる表象において意識し得る
ところのこの同一性は、主観の直観に関係するものではない、直観においては、この主観
は客観として与えられているからである。
p.76
ところが空間においては、およそ実在的なものである限り、単純なものはひとつも
存在していないのである、点があるにしても(空間において単純なものと言えば、点だけ
である)
、それは限界にすぎない、従って実在的な部分として空間を構成するものではない
からである。
p.76
しかし私の現実的存在は、第一命題では与えられたものとして見なされている、お
の命題は、
『およそ思惟する存在者はすべて実在する』…ただ『私は考えつつ実在する』と
いう意味にほかならないからである。そうするとこの『私は考える』は、まったく経験的
命題であって、私の現実的存在が時間における私の表象に関してのみ規定せられ得るとい
うことを含むわけである。
p.78
しかし意識の統一は、思惟における統一にほかならない、そして思惟における統一
によるだけでは、対象は与えられ得ないのである。実体のカテゴリーは、カテゴリーであ
るからには必ず与えられた直観を前提する。
同上
カテゴリーを思惟するためには、カテゴリーの主観は自分の純粋な自己意識を根底
とせねばならないのに、この自己意識こそ主観が説明せねばならなないところのものだか
らである。同時に時間の表象は、もともと主観のうちにその根拠をもつものであるから、
主観は時間における自分自身の現実的存在を、時間の表象によって規定することはできな
い。
p.91
それだから我々は、与えられた瞬間にいたるまでずっと経過してきた時間を(たとえ
この時間が我々によって規定され得ないにせよ)、与えられたものとして必然的に思いみる
のである。
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
p.99
世界は、一切の現象の数学的全体と現象の綜合の全体性とを意味する、そして大小
いずれの場合にも―というのは、現象の綜合を合成によって進める場合にも、またこれを分
割によって進める場合にも、同じく現象の綜合の全体性を意味するのである。
p.99f
しかし世界が、力学的全体と見なされる限りでは、この同じ世界が自然と名づけら
れる。つまりこの場合には、我々は世界を量として成立させるために空間或は時間におけ
る数的な集合に着目するのではなくて、現象の現実的存在における統一を目安にするので
ある。
カント著『純粋理性批判(上)
』
p.87
感覚に属するものをいっさい含んでいない表象は、純粋(先験的意味において)な
表象と呼ばれる。すると感性的直観の純粋形式は、我々の心のうちにア・プリオリに見出
され、そして現象における一切の多様なものは、この形式によって、或る関係において直
観せられるのである。感性のかかる純粋形式はそれ自身、純粋直観と呼ばれてよい。
同上
空間という純粋直観は、感官や感覚などの対象が実際に存在していなくても、我々
の心意識における単なる感性的形式として、ア・プリオリに存在するのである。
p.89
対象の形態、大いさおよび相互の関係は、空間において規定せられ、もしくは規定
せられ得る。
p.95
空間という直観形式が実在性(Realität)をもつと同時に、観念性(Idealität)をももつ
ということである。つまり空間は、外的対象として我々に現われ得るところのものに関し
ては実在性(即ち客観的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、もし物が理性によって
物自体として―換言すれば、我々の感性の性質を顧慮せずに考えられるならば、物に関して
は観念性をもつわけである。
p.100
時間は内感の形式―換言すれば、我々自身と我々の内的状態との直観形式にほかな
らない…時間は形態にも位置その他にも属しない。時間は、我々の内的状態における種々
な表象の関係を規定するものである。
p.110 これに反して直観における物体の表象は、対象自体に属し得るようなものを何ひと
つ含んでいない。つまり物体の表象は、何か或るものの現象であり、我々がそのものによ
って触発せられる仕方にほかならないのである。
[解答]
人間は、認識対象の現象から感官を触発され、対象を認識する。その際に、認識と対象
の間を直観が結びつける。そして、人間にア・プリオリに備わっている直観(純粋直観)
が時間と空間である。
時間は内感であり、人間の内的状態と人間自身とを結び付け我々に認識させるものであ
る。例えば人間が自分自身を思惟するとき、その人間自身は心であり、内感の対象である。
つまり、時間の表象は、人間の主観にその根拠をもつ。それに対し、空間は人間の外感で
あり、人間自身以外の外的対象と我々人間を結び付け、我々の認識を可能にするものであ
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担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
る。人間は、空間を経験に基づかずア・プリオリに認識できるが、この空間自体は、実在
的なものが存在し、互いに関係しあって成立している。人間が自分自身を思惟するときの
外的対象は、身体である。
これらのことからわかるように、思惟する私自身もまた表象であり、時間、空間という
フィルターを介して私たちは思惟する自分自身を認識するのである。そしてまた、思惟す
る自分自身を認識することから、人間は、思惟する存在者の実在性を認識でき、ゆえに、
自分の現実的存在を認識できるのである。
時間と空間という純粋直観は我々にア・プリオリに備わったものであることから、人間
にとってこの時間、空間は必然的に与えられたものとなるのである。人間は、空間によっ
て自分のまわりにある自分以外の物の対象の関係性を認識する。さらに、時間によって自
分の内的状態と自分以外の物の対象の関係性を認識した自分自身を関係づける。そしてこ
の関係性を意識することで、人間は世界を意識する。人間が純粋直観である時間、空間を
介して、認識対象の現象を数学的全体として認識しているものが世界である。数学的全体
ということからもわかるように、我々は世界を量的に捉えているのである。
一方で、数学的全体としてではなく、様々な現象が互いに関係し合って世界が成り立つ
とみなされる場合に、世界は自然と名づけられる。この場合、世界は量的全体として捉え
られているのではなく、現象の現実的存在の統一、力学的全体として捉えられているので
ある。しかし、この現実的存在の統一というのは、あくまで自然を認識する人間が行うも
のであり、本来、自然とは統一されているものではない。人間はそこに一定の秩序や法則
を見出し、統一体として、力学的全体と捉えるのである。
全体を数学的全体として捉えるのか、力学的全体として捉えるのかによって世界と自然
という言葉がそれぞれに用いられる。しかし捉え方の違いというのは、大きな違いを産む。
全体を力学的全体として捉える、つまり自然の場合には、人間は経験によって規則づけら
れる。しかし、その経験は、人と人が共生する場合に必要な道徳においては用いられては
ならないものである。世界と自然を混同してしまっては、経験と道徳をも混同する状態を
生み出しかねず、我々はそのことを理解しておく必要がある。
問 3: p.146 「私は、正命題を反対命題から区別するところの本質的標微にかんがみて、こ
れらの正命題を純粋理性の独断論と名づけようと思う」とあるが、独断論と経験論とはど
のようなものかそれぞれ説明しなさい。
[引用]
p.91 つまり結果は、その条件を可能ならしめるものではなくて、むしろ条件を前提してい
るのである、それだから結果から結果への進行によって(即ち与えられた条件から条件付き
のものへの下降において)、さきざきこの系列が終結するかどうかは、我々の関するところ
ではない、それにまたこの場合には、理性は結果の全体性がどうこうということを前提に
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担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
しているのではない。
p.146 我々は上述した四個の反対命題の主張を通じて、その考方がまったく一様でありま
たその格律[主観的原理]が完全に一致していることを認め得る、即ちそれは純粋経験論の原
理である、そしてこの原理は、世界における現象の説明についてばかりでなく、世界その
ものの先験的理念の解決についてもまた認められるのである。これに反して四個の正命題
の主張は、現象の系列内における経験的な説明方法のほかに、知性的な基本的原理を根拠
とするものであり、その限りにおいて格律もまた一通りではない。
同上 第二に、思弁的[理論的]関心もまたこれらの正命題の側に示される。もし先験的理念
を、正命題の主張するように想定し使用するならば、我々は条件の全連鎖[系列]をまったく
ア・プリオリに把握できるし、また条件付きのものをこれらの条件から導来し得るからで
ある…反対命題は、…それ以上はもはや問うことを要しないような解答を与えることがで
きない…――いかなる部分も更に小さな部分に分割せられる、――およそ出来事には、それ
よりも前にこの出来事の原因としての別の出来事が存在する、――現実的存在一般の条件は、
更にまた他の条件に支持されていて、根源的存在者という自存的なものに無条件的な支持
を求めることができない。
同上 f 第三に正命題の側は通俗性という長所を具えている。…常識は、一切の綜合の無条
件的な始まりという理念を造作なく想定する、さなくとも常識は、理由へ遡るよりはむし
ろ帰結へ降ることに慣れているのである。また絶対的な第一の概念(常識はかかる概念の可
能或は不可能については、とやかく詮索だてをしない)があれば、常識はここに心の安らぎ
を求めると同時に、自分の歩みを導く紐を結びつけるための確実な点をもつのである。
p.153
しかもかかる前提そのものを根本的に理解することのむつかしさなどには頓着し
ない、かかる困難は常識の(常識は根本的理解ということを知らないから)思い及ぶところで
はないからである。つまり常識は、たびたび使用することによって自分に慣れてしまった
ことを、すでに知っていると思い込むのである。
p.154
かかる経験論的命題に従うと、――世界のどんな状態にも、常にそれに先だつ状態
がある、――どんな部分のなかにも更に分割される部分が含まれている、世界のどんな出来
事の前にも、それとまったく同様に他のもっと前の出来事から生じた出来事がある、――ま
た現実的存在一般においては、一切のものは条件付きであり、無条件的な第一の現実的存
在というものは認められない、ということになる。
p.178 明白という点にかけては双方とも同等なのだから、どちらの側が正しいかを見極め
ることはとうてい不可能であり、たとえ訴訟当事者が理性の法廷で係争をやめるように指
示されたところで、争いは依然として続くのである。そうするとこの係争を双方に満足の
いくように根本的に終結させる方法としては、…或る先験的仮象が、元来何もないところ
へあたかも実物があるかのように彼等に描き出して見せたのである、ということを承服さ
せるよりほかに手がない。
ソフィーの世界
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
p.338 経験主義の哲学者の、ヒュームはもっとも重視されている。偉大な哲学者、インマ
ヌエル・カントの哲学に影響をあたえたことでも、ヒュームの意味は大きい
p.342 ヒュームが問題にしたのは、ぼくたちは現実とは一致しない観念を複合によってで
っちあげることがあるってことだ。自然界にはないものの偽の観念は、そうやってできあ
がる。
参考
岩波哲学・思想事典 p.1597 モナド、モナドロジー
[解答]
独断論は正命題であり、経験論は反対命題である。カントはこれら相反するものについ
てそれぞれ四つのことを挙げている。正命題の主張としては、世界が時間的な始まりをも
ち、空間的な限界を有する。世界には単純なものか、単純なものによって形成される合成
物しか存在しない。現象を説明するためには自然法則のほかにも自由による原因性を想定
する必要がある。世界には絶対的に存在する何かがある。正命題では、条件の連鎖は、ア・
プリオリに把握できるものであり、その条件と次の条件のつながりは絶対的なものである。
この「絶対的な存在」こそが、独断論の要となる。
ライプニッツは、単純で独立しており、絶対的な実在をもつモナドの原理を継承し、独
自の論を展開していった。モナドは、真の実在であり、宇宙の原理であるのだ。正命題に
おいて、その存在は自然による強制を脱しており、破壊されることもない。さらに人々の
間で共有され、根付くことによって常識となる。人々は集団の中で使われ、自らが使うこ
とによって慣れたことを、根本的に理解していないにしても、知っていると思い込む。原
因を知ることがなくとも、絶対性をもつ常識があることによって、人々はその条件のつな
がり、物事のプロセスにも絶対性があると考えるため、「事象にはつながりがある」という
ことだけで満足してしまうのだ。また、他人と「絶対性」をもつものを共有する安心感が
あるために、独断論は通俗性をもつのである。
一方で反対命題の主張は独断論とは全く反対である。世界は時間的にも空間的にも無限
である。世界には単純なものは存在しない。自由というものは存在せず、世界における一
切のものは自然法則によって生じる。世界には絶対的な存在をもつものはない。これらの
主張は、私たちが受け取ることのできる現象は、様々な事象が重なってできている、とい
うことが根幹にある。その重なる事象にも、常にそれに先立つ、原因となる事象があるの
だ。どの事象も更に分割せられるからこそ、一つの事象は複雑であり、絶対性を持ち得な
いのである。経験論者であるヒュームも一つの事象も様々な経験を原因として成り立つと
ともに、現実とは一致しない観念を複合によって生み出すと述べる。これはカントの構想
力と通じるところがある。人間は経験によって得た観念を組み合わせ、新たな観念を生み
つつも、誤った観念を、正しい理解として認識してしまう危険性があるのである。
問 4 : p.150「かかる理念によって我々が認識するところのものは、我々は何も知らないと
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担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
いうことだけである」とあるが、このように言えるのは何故か。理性が陥るアンチノミー
について触れつつ説明しなさい。
[引用]
p.92 条件の側における系列の綜合、即ち与えられた現象に最も近い条件から始めて、順次
に遠い条件へ遡っていく綜合を、背進的(regressiv)綜合と名づけたい…宇宙論的理念は、か
かる背進的綜合の全体性を建前として、理由から理由へ遡るのであって、帰結から帰結へ
進むのではない。
p.94 空間において実在するもの即ち物質は条件付きのものである、そしてその内的条件は
空間の部分であり、また部分のそのまた部分は更に遠い条件をなしている。それだからこ
の場合には背進的な綜合が成立し、理性はこの綜合の絶対的全体性を要求する。
p.98f
無条件者は、二通りに考えられるわけである。第一は、無条件的なものが系列全体
において成立すると考えられる場合である…また第二は、絶対に無条件的なものが系列の
一部分にすぎないような場合である…第一の場合には、系列は上昇的方向に向って(a parte
priori)限界をもたない(始まりがない)、換言すれば無限である。…また第二の場合には、系
列の始まりをなす『第一のもの』がある。
p.101f
先験的矛盾論は、純粋理性のアンチノミーおよびこのアンチノミーの原因と結果と
に関する研究である。我々が悟性の原則を使用するために我々の理性を経験の対象に適用
するだけにとどめないで、経験の限界を越えて理性の拡張を敢てしようとすると弁証的命
題が生じるのである…かかる弁証的命題は、いずれも自己矛盾を含まないばかりか、その
必然性の条件を理性の自然的本性に見出すのである、ただ不幸なことにこの対立は、各自
の主張を支持する必然的、妥当的な根拠をちょうど同じだけ、それぞれ自分の側にもって
いるのである。
p.103 我々は公正な審判者として、双方が勝敗を賭けて争っている事の正否なるものをま
ったく度外視し、何よりもまず彼等の争いを彼等相互の間で解決するように仕向けなけれ
ばならない。
p.150 経験論者は、いかなる目的のためにもせよ、原因(根原存在者)を自然の外部に求め
ることを認めないだろう。我々は、自然よりほかのものをまったく知らないからである。
つまり自然こそ、我々に対象を提供しまた自然法則について我々に教え得る唯一のものな
のである。
p.152f
常識が、先験的概念について殆んど理解せず或はまるきり理解していないような場
合には、また何びともこれについて常識よりも多くを理解していると誇るわけにはいかな
い、また常識がこのことに関してほかの人達ほど学問的に話すことができないにせよ、そ
れにも拘らず常識はいくらでも論弁を逞しくすることができるのである。…理念に関して
何も知らないからこそ、極めて雄弁になり得るのである。
p.155f
かかる学にあっては、無知はよんどころないからと言って、これを口実にして答え
を拒むことは絶対に許されない、いやしくも問題があれば、必ずや解決が要求され得るの
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
である。我々はいかなる場合にも何が正しくて何が正しくないかということを、規則に従
って知ることができねばならない、これは我々の義務である、我々は我々の知り得ないこ
とに対してはいささかの義務をも負うものではないからである。
p.161 諸君は、一切の知覚を挙げても、けっきょく空間的或は時間的条件のなかにいわば
囚われているのであって、遂に無条件的なものに達することはできないのである。
[解答]
あらゆる現象に対して根源的位置を占めているもの(無条件者)を探り当てようとする場
合、人間は、二通りの考え方のいずれかに依存することになる。すなわち、問三で触れら
れた、独断論と経験論のいずれかにである。純粋理性のアンチノミーとは、独断論的方法
による背進的綜合(正命題)と経験論的方法による背進的綜合(反対命題)の間に生ずる
矛盾のことを指す。
カントは、純粋理性のアンチノミーを、公正な審判者のいない試合に例えている。これ
は、最終的に勝者と敗者を決める役割をもつはずの第三者が不在のまま、競技者が自分の
側にある根拠や理由を掲げて戦っている状況である。そして、双方がまったく同等の力量
を持つために、勝負がいつまでも続くのである。審判者がいないということは、実質的な
客観的視座が存在しないということである。その理由は、ある人間が審判者となるために
は競技のルールを十分に知っていなければならないが、我々人間はそのルールについて完
全に無知であるからである。本著で扱われている正命題と反対命題の対立では、全ての始
まりというテーマが扱われているのであるから、とても人間の手に負えるものではない。
この対立に際して、仮に強引に審判者の椅子に座ろうとしたところで、結局のところ、ル
ールを知らない審判者は客観的な判断がまったくできない、つまり、主観的な判断に頼ら
ざるを得ないのである。人間が自然の内に存在している以上、人間は正確な思考を行うた
めに必要な材料の全てを、自然の内から調達しなければならない。この故に、人間が自然
の外にあるものについて考えるとき、人間には自然の外のものに関する知識が完全に欠落
しているのである。
上記の内容から、自然の外のものを命題として取り上げて議論したところで、結局のとこ
ろ明らかになるのは、自然の外にある問題を扱うには人間はまったくの無知であるという
ことだけなのである。しかし、それにもかかわらず、正命題と反対命題の対立は、現代で
も続いている。その理由は、無条件者へと遡っていくこの背進的綜合は、先験的哲学によ
ってなされるものだからである。先験的哲学という学問は、自らをして解答せずに無言を
貫くことを許さない学問なのである。人間はどう足掻いても無知であるが、無知であるか
らこそ、学問を発達させ、規則や常識を作り出したのである。
問 5: 純粋理性のアンチノミーは何故生ずるのか。先験的観念論と経験的観念論の違いを説
明しつつ、述べなさい。(参照範囲:第 6 節、第 7 節)
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担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
【引用】
p.168 空間或は時間において直観される一切のもの、従ってまた我々に可能な経験の一切
の対象は、現象即ち単なる表象にほかならない、―換言すれば、およそ表象せられる限りの
対象は、延長を有する存在物としてしか、或は変化の系列として存在するのであって、我々
の思考のそとにそれ自体自存する実在ではない、ということである。この学説を私は先験
的観念論と名づける。
p.169 この経験的観念論は、空間そのものが現実性をもつと想定するところから、空間に
おいて延長を有する存在物の現実的存在を否定し或は少なくとも疑わしいものとして、夢
と現実的存在の真実との間に極めて明白な区別の存することを承認しないのである、また
時間における内感の現象に関しても、現象を現実的な物と見なすことになんら困難を認め
ない、それどころかかかる内的経験は、それだけでその対象(自体)に現実的存在を(そのあ
らゆる時間的規定と共に)証明するに十分であるとさえ主張するのである。
p.170 経験の対象は、決してそれ自体与えられているのではなく経験においてのみ与えら
れているのであって、経験をほかにしてはまったく実在しないのである。
p.176 現象は、覚知そのものにおいては経験的綜合(空間および時間における)にほかなら
ないし、従ってまたこの経験的綜合においてのみ与えられるものだからである。
同上
宇宙論的理性推理の大前提は、条件付きのもの〔媒概念〕を先験的意味に解して純
粋カテゴリー〔理念〕の対象〔物自体〕とし、また小前提はこの同じ条件付きのものを経
験的意味に解して、現象にのみ適用せられる悟性概念〔カテゴリー〕の対象〔現象〕とし
ている、そしてここに弁証的虚偽がある
p.178
両者のうちの一方は、
『世界は始まりをもつ』と主張するし、また他方は『世界は
始まりをもたない、世界は無始このかた存在している』と主張する。…明白という点にか
けては双方とも同等なのだから、どちらの側が正しいかを見極めることはとうてい不可能
であり、…争いは依然として続くのである。そうするとこの係争を双方に満足のいくよう
に根本的に終結させる方法としては、―双方は互に相手を立派に論駁し得ると思っているが、
実はどちらも争うべきものを何ものももっているわけではない、或る先験的仮象が、元来
何もないところへあたかも実物があるかのように彼等に描き出して見せたのである、とい
うことを承服させるよりほかに手がない。
p.179
もし二つの互に反対する判断が、共に一つの不可能な条件を前提とする場合には、
これらの判断は互に矛盾するにも拘わらず(しかしこれは決して本来の意味での矛盾ではな
い)、二つとも成立し得ない、双方の命題がそれぞれ妥当するために必要な唯一の条件その
ものが成立し得ないからである。
p.181 もし我々が『世界は量的に無限である』
、および『世界は量的に有限である』という
二つの命題を、互に矛盾対当をなす命題と見なすならば、我々は世界(現象の系列全体)が物
自体であることを認めるわけである
同上 f 世界は、現象の系列の経験的背進においてのみ存在し、決してそれ自体だけで存在
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カント『純粋理性批判』⑥
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するものではないからである。してみると現象の系列が常に条件付きであるならば、世界
は決して完全な全体として与えられていないわけである。それだから世界は無条件的な全
体ではない、従ってまたかかる全体として実在しない世界は、無限の量をもつものでもな
ければ有限の量をもつものでもない。
p.182f
こうして宇宙論的理念に存する純粋理性のアンチノミーは解消する。このアンチノ
ミーは、仮象に関する弁証的対当に基づくものであることが証明されたからである。そし
てこの仮象は、物自体の条件としてのみ妥当するところの絶対的全体性という理念を現象
に適用したために生じたものである。しかし現象は、表象においてのみ実在し、また表象
が系列をなす場合には継時的背進において実在し、それ以外にはどこにも存在しないので
ある。
p.183 現象一般は、我々の表象のそとではまったく無であるということは、これによって
明らかである。そしてこのことこそさきに我々が言わんとしたところの、現象の先験的観
念性の意味なのである。
[解答]
先験的観念論とは、我々が認識するすべての対象は我々の表象に過ぎないのであり、我々
の認識の外すなわち時間空間の原理の適用範囲の外においてそれ自体実在するものではな
いという学説である。時間空間の原理によって我々に与えられるのは、物自体ではない。
あらゆる対象はすべて認識において直観され、時間空間のフィルターを介してしか我々に
現われないのであり、このような表象は我々の認識能力に従って現われ出るものなのであ
る。我々の認識においてア・プリオリに作用するこの時間空間の原理は、我々の経験に先
だつためにこの学説は先験的観念論と称される。
対して経験的観念論とは、すでに空間が我々の認識に先だって現実に存在すると想定す
ることを前提としているために、対象の現実性を否定しない。先験的観念論では空間も人
間の認識能力の一部にすぎないものとしたが、経験的観念論においては対象の現実性は空
間における延長という存在の仕方を前提とし、そこから対象の背後にある物自体の存在を
導き出す。空間における対象の現実的存在を前提とし、そこに人間の認識能力においてア・
ポステリオリに認識されたものを当てはめるために、経験的観念論において現象一般は人
間の認識能力において経験の対象という形式をもつ。この学説は、経験という俎上におい
て世界すなわち現象一般をとらえるため、経験的と冠せられるのである。
この二つの学説の相違から、純粋理性のアンチノミーがいかにして生じたのか、その解
消までの道筋をたどることが可能となる。純粋理性のアンチノミーにおいて、代表的な命
題として取り上げられるのが、問三、四でも言及している「世界に始まりがあるのか」と
いうものである。問三で触れたように、正命題すなわち独断論の立場からは、「世界は時間
的な始まりをもち、かつ時間空間的に有限である」と提唱される。対して反対命題すなわ
ち経験論の立場からは「世界は時間的な始まりをもたず、時間空間的に無限である」と提
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唱される。この命題において注目すべき点は、我々が世界というものを対象として取り扱
うその仕方である。我々は世界についてその全体を知ることはできない。我々が認識しう
るのは世界という表象だけである。つまり人間の時間空間によって与えられる形式の範囲
において受容せられるもののみなのである。それにも拘わらず、我々は自身の経験をもと
に、理性を頼りにしてその経験の適用範囲を押し広める。しかし我々の知覚は常に時間空
間による直観の形式によって条件づけられているために、そのような条件に制約されない
ものを想定することは不可能である。そのため、「世界が始まりをもつ」もしくは「世界に
始まりはない」という命題について、何ら判断の下しようがない。純粋理性のアンチノミ
ーは、人間が自身の認識能力について不正確な知識をもったまま、現象一般について論じ
ようとすることで生じるものであり、このアンチノミーにおいては「世界」といったもの
が人間の認識能力の枠組みのうちにおいて現象する単なる表象であることが見過ごされて
いるのである。時間空間すなわち人間の直観の形式は、物自体がもつ規定ではなく、人間
の感性の規定であることを見過ごしてはならない。すなわち我々が命題において「世界が
始まりをもつ」
「世界は始まりをもたない」という両命題をどちらも真でありうるように思
うならば、それは我々が「世界」を空間において先験的に存在する実在のものであると誤
解しているためである。また「世界」をそのように人間の認識とはかけ離れた条件のもと
に存在するものとして捉えているために、我々は世界という表象に因果性のカテゴリーす
なわち「始まり」という形式を付与するのである。そもそも我々の経験において真っ先に
受容される直観の形式を、その形式の枠組みを忘れて思考の形式の俎上にのせてしまうこ
とが、アンチノミーの生ずる原因でもあるのだ。しかし我々に知覚される世界が物自体と
いう絶対的完全性をもつものではない以上、上記二つの命題はどちらも偽となり成立しえ
ない。
純粋理性のアンチノミーは、人間の認識能力における受容能力であるところの直観の形
式が、我々の認識全体において作用していることを見過ごしてしまい、世界という現象を
物自体として捉え、実在性を与えてしまったことに依拠している。しかし我々の認識能力
が時間空間の規定のもとにある以上、世界を全体として無条件に捉えることは不可能であ
る。我々は、我々にあらわれる個々の表象を綜合することで世界を現象として捉えること
しかできない。このアンチノミーは人間がその理性の適用範囲を誤るために生じるのであ
る。
問 6: p.218「 要するに人間は、一方では確かに現象的存在であるが、しかしまた他方では
―即ち或る種の能力に関しては、まったく可想的な対象である、かかる対象としての人間の
行為は決して感性の受容性に帰せられ得ないからである」とあるが、どういうことか。問 1
から問 5 を参考にしつつ説明しなさい。
[引用]
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p.171
感性的直観能力は本来、受容性にほかならない、――換言すれば、表象によって或
る仕方で触発せられる能力である。そしてこれらの表象の間の相互関係が即ち空間および
時間という純粋直観(我々の感性の純粋形式)なのである。
p.185 理性の宇宙論的原則は、経験を可能ならしめる原理、即ち感官の対象の経験的認識
を構成するための原理ではない、従ってまた悟性の原則ではない、およそ経験にしてその
限界内に(与えられた直観に従って)局限されぬものはないからである。また理性のこの原則
は、感覚界に適用される概念を、一切の可能的経験を超えて拡張するための原理――換言す
、、、
、、
れば、理性の構成的(konstitutiv)原理ではなくて、経験の範囲をできるだけ拡大し拡張し続
けるための原則であり、この原則はいかなる経験的限界をも絶対的限界と認めることを許
、、、、
さない。従ってまたこの宇宙論的原則は、理性の原理ではあるが、しかしそれは規則とし
、
て、条件の系列を遡る背進において何をなすべきかを我々に要求する原理であって、およ
、、
、、、、、、、、
そ背進よりも前に客観において何がそれ自体与えられているかを先取的に認識するための
、、、
、、
原理ではない。そこで私はかかる原理を理性の統整的(regulativ)原理と名づけたい。
、、、、、、、、
p.186 対象が何であるかを我々に教え得るものではなくて、むしろ対象の完全な概念を得
、、、、、、、、、、、、、、
るためには、我々は経験的背進をいかに行うべきかを指示し得るだけである。もし前者だ
とすると、この規則は構成的原理になるわけである、しかしこの場合には、構成的原理の
ようなものは、純粋理性の本性にかんがみてまったく不可能である。それだから我々は、
与えられた条件付きのものに対する条件の系列がそれ自体有限だとか或は無限だとかいう
ことを、この規則に従って断定しようとしてはならない。
p.196 常にいっそう遠い[高次の]項へ向かって背進し、悟性の可能的な経験的使用の拡張
を決して中途で断絶してはならない、という規則である、そしてこのことこそかかる理性
原理の使用に関する理性の唯一の本務なのである。
、、、、
、、、、、
、、、、、
p.207 意志は、受動的に(感性にもとづく動因によって)触発される限りでは感性的意志で
、、、、、、、、、
、、、、、
あり、またかかる意志が受動的に強制される場合には動物的意志(arbitrium brutum)と呼ば
れる。ところで人間の意志は、なるほど感性的意志(arbitrium sensitivum)ではあるが、し
、、、、、
かし動物的意志ではなくて自由な意志(arbitrium liberum)である、人間の意志作用は感性
によって必然的に規定されるのではないからである。
、、
p.211 感官の対象に具わっていてしかもそれ自身は現象でないところのものを、私は可想
、
的と名づける。それだから感覚界においては現象と見なさればならないものが、感性的直
観の対象になり得ないような能力を具え、この能力によって現象の原因となり得るならば、
、、、
かかる存在者の原因性は二つの面から考察せられ得る、即ちこの原因性は――第一に、その
、、
、、、、、、
、、
作用が物自体の作用と見なされるならば可想的原因性であり、――また第二に、その結果が
、、、、、、
感覚界における現象の結果と見なされるならば感性的原因性である。
p.214 自由と自然とは実に同一の行為について、我々がその行為を可想的原因と比較する
か、それとも感性的原因と比較するかに応じて、自由或は自然という語の完全な意味にお
いて、同時にまたいささかも矛盾することなく両立することになるだろう。
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
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p.216 我々はかかる原因性を、現象に関しては原因の根原的作用と見なすことができるの
ではなかろうか。そうすればこの原因は、根原的作用である限り現象ではなくて、かかる
能力にかんがみて、可想的なものである。しかしこの可想的原因も、自然の連鎖の一環と
しては、やはり感覚界に属せねばならない。
p.217f
先験的主観のおけるかかる可想的根拠[現象に対する]は、経験的な問題にはまった
くかかわりがない、それは純粋悟性による思惟にのみ関するものである。そして純粋悟性
によるかかる思惟と行為とから生じたところの結果は現象において見出されるにせよ、そ
れにも拘らずこれらの現象は、現象におけるその原因から、自然法則に従って完全に説明
せられねばならない。かかる場合に我々は、原因の経験的性格だけを最高の説明根拠とし、
経験的性格の先験的原因をなすところの可想的性格は、我々にまったく未知なものとして
考慮のそとに置かれるからである。
p.218 人間は感覚界の現象の一つであり、その限りにおいて自然原因、即ちその原因性が
経験的法則に従わねばならぬところの原因の一つでもある。従って人間は、かかる自然原
因として、他のあらゆる自然物と同じく経験的性格をもたねばならない。
同上
我々はこのような能力を悟性および理性と名づける、取りわけ理性は、経験的条件
を付せられている一切の力は区別せられる、そしてこの区別はまったく独自でありかつ極
めて顕著である。理性はその対象を理念に従ってのみ考察し、また悟性を理念に従って規
定するからであり、そうしてから悟性は、みずからの(これまた純粋な)概念を経験的に使用
するのである。
p.219 道徳命法は、我々があらゆる実践的[道徳的]な事柄において、決意し実行する力に
規則として課するところのものである。『べし(Sollen』の表現する必然性と根拠との結び
つきとは、全自然のなかでもほかには決して現われてこないような種類のものである。悟
性が自然について認識そし得るのは、何が存在しているか、何が存在していたか、何が存
在するだろうか、ということだけだからである。…『べし』は、自然の経過だけしか念頭
におかない人[自然学者]にとっては、まったく無意味である。
p.220 理性は、まったく自発的に理念に従って独自の秩序を形成し、この秩序のなかへ経
、、、、、、、
験的条件を適合せしめるのである。また理性は、生起しなかった行為、或は恐らく生起し
ないであろうと思われる行為をも、理念に従えば生起すべきであると言明する。しかしま
た理性は一切の行為について、これを生ぜしめた原因性が理性にあることを前提する。
p.222f
純然たる可想的能力としての純粋理性は、時間形式にも、従ってまた時間継起の条
、、、、、、、
件にも従うものではない。可想的性格としての理性の[無時間的]原因性は、発生するもので
、、、、、
もなければまた或る時点に初めて結果を生ぜしめるものでもない。…もし理性が現象に関
、、、
して原因性をもち得るならば、理性は一つの能力であり、これによって結果の経験的系列
の感性的条件が始まるのである
鎌田康男著『意志が物自体である、とはどういうことか?』(『ショーペンハウアー研究』
第 16 号)
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カント『純粋理性批判』⑥
担当班解答
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p.70
カントによれ ば、哲学にお けるアナロジ ーは、前三項から第 四項を比例関係
Proportion によってアプリオリに構成する数学的アナロジーとは異なり、統制的な原理に
過ぎず、前三項から第四項への関係を認識することができるのみである。すなわち、提示
される第四項が前三項と整合的な関係にあることを、現象の領域で、現象としての世界の
語法に従って認定することができても、それが唯一にして必然的な第四項であるか、ある
いは現象の領域の外でどのような意味と妥当性を有するか、ということについて決定する
ことはできない。
[解答]
人間がア・プリオリに持つ能力である理性は、直観による知覚した現象に対して推論す
る能力である。このような能力は、現象の結果を推論するのではなく、現象の原因に対し
て推論するのである。具体的に言えば、リンゴの木からリンゴが地面に落ちるという現象
に対して、リンゴが地面に落ちるという結果に対してではなく、なぜリンゴが地面に落ち
るのかという原因が何であるのかというものを推論する能力が理性なのである。換言すれ
ば、ある条件からその条件を導き出す能力が理性なのである。
ところで直観能力は受動的に触発される形でなされるものである。換言すれば、直観能
力は外部から与えられたものを知覚する能力なのである。このように触発されるという受
動的である限り感性的である。このような直観による意志は受動的な意志と能動的な意志
に分けられる。前者は常に受動的な意志であるため、動物が持つ意志と何ら変わらない動
物的意志である。しかし、人間が持つ意志は常に感性によって与えられる意志ではなく、
積極的な意志である。このような意志は自由な意志である。自由とは感性によって与えら
れるのではなく、自ら能動的に行動し、与える側になることを意味するのである。
「我思う故に我あり」というデカルトの言葉があるように、私が思惟するというものは、
自然から与えられたものではなく、自ら何かを与えることである。思惟するということは
自ら行動を行なうことを意味するのである。このような意志が自由な意志なのである。自
由な意志は必然的なものではなく、条件から条件を与えるものである。しかし、一方で人
間が持つ意志は自然の制約を受ける。物理学的な条件の影響を受けているのである。従っ
て、人間の持つ意志は自由であるが同時に自然的な意志なのである。この二つは矛盾しな
いのである。
このような感覚は経験と関係し、また経験を無視することはできない。経験を無視して
行う推論は、問 3 でも論じたように、理性のアンチノミーを引き起こしてしまうのである。
しかし一方で人間は経験することができない遠いものであっても、理性は条件から条件を
導くという背進によって、生起しなかった事柄や生起しそうにない未知なる事柄に対して
も推論することができるのである。従って理性は経験と結びついてはいるが、同時に経験
の外部に対しても推論することができる能力なのである。
このような理性使用は二つに分けることができる。経験の内部で、換言すれば経験され
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担当班解答
担当:塚田、小路、金友、高柳、神谷、小林
得ないものに対しては沈黙した状態で使用する構成的(konstitutiv)使用と、経験の外部に対
して、すなわち生起し得ないような現象に対して推論する統整的(regulativ)使用である。経
験に基づいたカテゴリーから現象を把握する悟性の構成的使用は有効であるが、問 4 で述
べられたような「世界」という対象なきものを推論する時に、理性の構成的使用はまった
く無力である。なぜならば対象なきものというのは、現象を通じて認知することができな
いからである。従って、理性が行うことができるのは、統整的使用に限定されるのである。
世界というものは悟性によって認識し得ないのである。
このような原理に従って理性は現象を理念によって考察し、悟性を理念に従って規定す
る。悟性による概念は経験的なもの、すなわちカテゴリーによって規則を導くが、理性は
経験の外部にあるように、生起し得ないようなものに対しても推論することができる能力
なのである。また理性は道徳律とも密接に関係している。道徳は『べし『Sollen』を伴うも
のである。このような道徳律は自然法則によって導き出されるものではありえない。「リン
ゴは万有引力によって地面に落ちるという」現象はどうあるべきかと全く関係し得ないの
である。「リンゴがどう落ちるべきか」はと言うことはできないのである。このような自然
法則は悟性によって導かれるものであって、理性によって導かれるものではないのである。
このような理性は自由な意志によってなされるのである。このような点から理性は受動的
な感性によるものではないと言えよう。
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