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2010/04/27
担当:塚本、山城、塙
2010 年度春学期鎌田ゼミ研究演習
第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
著者紹介
シラー(1759-1805)
ドイツの国民的詩人であり、劇作家としても知られて
いる。ドイツ市民への精神的・政治的影響は大きく、特
に自由の理念において彼は引き合いに出されることが多
い。「自由の理念を、人間的存在のもっとも内的な本質
として考察することが、かれを哲学者たらしめ、それを
芸術として表現することが、かれを芸術家たらしめた」
(『美と芸術の理論』解説より引用)とあるように、シ
ラーにとっての自由はかれの一生の課題であったのであ
る。また、担当班解答の後半の付録である「歓喜の歌」
においては、友情讃美、圧制者からの自由、宇宙のイメ
ージ、天を彷彿とさせる理神的宗教観、死の想念等、実にさまざまな主題が表れている。
そんな彼が美学者として、カント哲学の影響をもとに自己の立場を確立させたのは、
1789-1796 年である。病と経済的困窮に悩まされていた彼は友人の手助けで立ち上がり、
研究・思索・創作に没頭することとなる。そこでかれはカントの『判断力批判』に出合い、
乗り越えようと考えたのである。カント美学の主観性を克服し、美の客観的原理を確立し
ようとしたかれの成果は、その後の美学研究に対して有する価値と興味を与えることとな
るのである。
岩波哲学思想辞典 『シラー』
「美と芸術の理論-カリアス書簡」解説 参照
(問一)p23「美とは、それゆえ、現象における自由に他なりません」とあるが、現象に
おける自由とは何か。自律と他律を用いて説明せよ。(p31 までを参照)
【引用】
P.11「或る目的の概念の下に立つ論理的なものであるという事情、この事情に誤られて、
直観的完全性が美であると考えられたように思われるのです。」
P.14「したがってカントは、美は概念なくして満足を与えるものである、と説く点におい
て明らかに正当です」
P.19「想うに美が理論理性においては見いだされないということは確かです。なぜなら美
は絶対的に概念に依存していないからです。」
エステーティッシ
P.23「純粋意志の形式に従って自由ならざる活動を評価するのは 美
的 である」
P.24「私の美の原理は、およそ理性から先験的に導き出されるすべてのものよりもより以
上に主観的ではありません。」
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担当:塚本、山城、塙
2010 年度春学期鎌田ゼミ研究演習
第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
P.31「それゆえわれわれは、なんら説明をも要しない、あるいはまた、概念なくしてあら
わである形式は美であると言うことができます。」
P.39「一言にしていえば、自由な行為は、心情の自律と現象における自律とが相互に一致
するときに、美わしい行為となるのです。」
<カント『道徳形而上学』>
P.140「自然必然性は、作用原因による他律であった、およそいかなる結果も、何か別の
或るものが作用原因を規定して原因性たらしめる[原因を規定して作用せしめる]という法
則に従ってのみ可能だからである。すると意志の自由は、自律―すなわち自分が自分自身
に対して法則であるという、
意志の特性をほかにして、
いったいなんであり得るだろうか。
」
P.171 「しかし感性的なものをまったく含んでいない単なる思惟だけで、どうすれば快或
いは不快の感情を生ぜしめるかという事情を洞察すること、換言すれば、このような事情
をア・プリオリに解明することは、まったく不可能である。」
【解答】
現象における自由とは、現象自体が持つ自律と現象から見出された自律の二つが揃って
こそ起きるものである。この中には、他律が含まれることはなく、また他律が含まれた時
点で美ではなくなる。
シラーはこの美の概念を述べる際に、カント美学を克服することに力を注いだ。カント
は美において、対象を認識する際と同様に理性を用いて主観的(経験等によって)捉える
としていた。そこには、各人の都合のよい解釈としての 快 の感情しか存在できなかっ
た。しかし、シラーは人々の間で共有することのできないカントの美学を認めることはで
きなかった。
では、シラーがそのように述べた 美 に関して説明したい。(補足として、前回のミ
クロゼミで述べられていたように、自律は自分自身の内から獲得するものであり、他律は
客体が意志を規定するものである。)
具体例として「黄金比」を挙げたい。黄金比とは、数学的にも芸術的にも最も美しいと
表現される比率のことである。このような概念があるのならば、美の中にも他律は存在す
るのではないかと考えるかもしれない。
しかし、ここで注意して欲しいのが、美は概念を示しても、概念に動かされているとは
限らない(P.25 参照)ということである。パルテノン神殿やピラミッド等の歴史的建造物
からオウムガイやひまわりの種の配置等自然にまで黄金比は見られるが、あくまでもそれ
は「見ることができる」だけである。大変意地悪な言い方をすれば、その概念が必ずしも
普遍的な「美」に当てはまるとは言い切れない。「美」であると後ほど評価されたものに
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2010 年度春学期鎌田ゼミ研究演習
第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
規則性を見出すという他律を行うことができても、芸術家が生み出した或いは作品に触れ
た瞬間に人々が感じる美を他律で説明することは叶わないということである。
したがって、美は表象している作品の自律とその作品を受けた人々の感情の自律の二つ
が合わさった際、 現象 の自由を見出すことが可能となる。つまり、カントが述べてい
る各人が理性で判断する主観のみでは、美にはならないのである。
天国のようななんじの聖なる世界に足を踏み入れる。
なんじの魔力は,再び結び合わせる、
この世のおきてが対立させたものを。
すべての人々は,兄弟となる。
なんじの優しい翼のもとで。
歓喜へ!の一節がシラーの理想の美を表象しているのかもしれない。
(問二)p61「さてこのことは自ら、私は美なるものと完全なるものとの区別へ導きます。」
とあるが、「美なるもの」と「完全なるもの」の違いは何か。技巧と自由の関係を念頭に
置きつつ、述べよ。
【引用】
p.47「規則を暗示するところの(或る規則に従って取り扱われるところの)、形式は技術的
もしくは技巧的である・・・対象の技巧的形式だけが、・・・規定されたものに対して規定する
ものを、求めることを悟性に促します。」
p.59「美わしい物は自然物であることを、すなわち、それは自己自らによっていることを
しらなければなりません。次に、それはあたかも一つの規則によっているかのようにわれ
われに思われなければなりません。」
p.60「自由だけが美なるものの根拠であって、技巧は単に、われわれの自由の表象の根拠
であるにすぎません。・・・技巧は、それが自由の表象を呼び起こすことに役立つかぎりにお
いてのみ、美に対して貢献するのである。」
p.61「すべての完全なものは、―道徳的なものであるところの絶対的に完全なるものを除
いては―技巧の概念のうちに含まれています。なぜなら完全なものの本質は、多様が合致
して一者となることにあるからです。・・・美を完全から区別するのは、独り技巧における自
由だけであるということがすぐにわかります。」
p.62「もし対象におけるすべての多様が、概念に綜合統一されるならば、その対象は完全
である、もし対象の完全性が自然として現われるならば、対象は美しい」
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第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
p.66f「あらゆる偉大な構成においては、全体が効果をうるためには、個々のものが制限を
受けるということは必要なことです。・・・このような限界を自己自らがおくならば、この構
成は美わしい。」
【解答】
美とは現象における自由である。
そして、その自由の表象の根拠となるのが技巧である。
したがって、技巧だけでは「美なるもの」になることはできないのである。美なるものと
完全なるものとの違いは、その技巧における自由にある。技巧における自由とは、技巧的
であると同時にその規則が自己立法であることを示す。つまり、その対象は技巧の概念に
含まれながらも、その対象自体が自発的であるように見えてはじめて、その対象は「美な
るもの」になるのである。
完全なるものは、技巧の概念の中に含まれる。対象におけるさまざまな様式を、その対
象という概念に綜合統一される。それは技巧的形式を用いて、その多様なものを一つにす
るということである。しかし、それだけでは美わしいとはいえない。なぜなら、この状態
では、対象は技巧的ではあるが、自由ではないのである。その概念の綜合統一を対象自ら
が行っているように見えたとき、その完全なるものは美なるものになるのである。カント
美学は、対象が認識に従っているという命題に基づいているため、主観的である。したが
って、これは完全なるものになりうるが、美なるものではないのである。
(問三)問二の「美なるもの」と「完全なるもの」を踏まえながら、シラーが波状線を美
しいと述べた理由をまとめよ。
【引用】
問二と同様。
p.71「われわれがその方向の変化した一定の点を示すことができないような運動だけは自
発的であるように見えます。」
【解答】
問 2 の解答を踏まえると、「美なるもの」とは現象における自由と技巧における自由と
を兼ね備えた存在である。
それではなぜ波状線は美しいのか。それはその波状線が多様性を統一した線であるから
という理由だけでは説明ができない。それはその対象が技巧的であるだけだからだ。それ
ならば、波状線が美しいといえる根拠は何なのか。それは、波状線は自発的にその多様な
変化を起こし、自ら統一しているようにわれわれに感じさせるからである。つまり波状線
が持つような曲線―方向の変化した一定の点がわからないような線はその線自体が自発的
であるようにみせ、自然であるようにわれわれに感じさせるのである。
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第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
(問四)あなたが「美」を感じる作品(音楽・美術等の限定はありません)を取り上げ、
なぜそれが「美」と呼べるのか述べよ。<ただし、p75「二種類の芸術の美」がどのよう
にその作品にあてはまっているかを明確にすること>
【引用】
P.76 『自然的所産は、その技術性において自由に見える場合には美しい。―芸術的所産
は、それが自然的所産を自由に表現する場合には美しい。…或る一つの対象が知られるよ
うにする標識を、概念に変形しそれを結合して、…この結合された標識を直接に直観にお
いて提示する場合、対象を表現すると言います。…自己自らによって規定されている物、
もしくはそのように見える物は自由です。したがって或る対象は、
それが想像力に対して、
自己自らによって規定されているものとして、示される場合には、自由に表現されると言
うのです。』
p.77 『すなわち芸術美は、自然そのものではなくて、模倣されたものとは質的にまったく
異なっている、或る媒介物における自然の模倣であるにすぎません。ここでいう模倣とは
質的に異なったものの形式的類似を意味します。』
p.78 『相互に角逐するところの三様の自然が存在します。表現される素材の自然、表現す
る素材の自然、この両者を合致させるべき芸術家の自然。…しかし我々が―見出すことを
期待するものは、ただ模倣されるものの自然だけなのです。』
p.79 『素材あるいは芸術家が、自己の自然をそれに交じえるや否や、表現された対象は、
…他律が現れるのです。再現するものが自己の自然を主張するならば、それによって再現
されたものの自然は暴力を受けます。それゆえ表現されたものの自然が、表現するものの
自然から何者をも加えられない場合にかぎってだけ、或る対象は自由に表現されるのだと
称することができるわけです。したがって媒介者もしくは素材の自然は、模倣されるもの
の自然によって完全に征服されたかのようにみえなければなりません。一つの芸術作品に
おいては、ですから、素材(模倣するところのものの自然)は形式(模倣されたものの形
式)において現われ、物体は理念において現われ、現実性は現象において現われねばなり
ません。』
p80. 『次のような場合に、表現は自由であるといわれるでしょう。すなわち媒介者の自然
が、模倣されたものの自然によって完全に滅却されたようにみえる場合、模倣されたもの
が、それの純粋な個性をその再現物においても主張する場合、再現者がその自然を完全に
放棄することによって、むしろ否定することによって、再現されたものに完全に変わって
しまったように見える場合―簡単に言えば―何物も素材によって規定されないで、すべて
のものが形式によって規定されている場合です。』
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2010 年度春学期鎌田ゼミ研究演習
第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
【回答】
この問題を解くにあたって、まずシラーの述べる芸術の美の必要条件をあげ、自分が「美」
を感じた芸術作品がそれにどうあてはまっていくかを書くことにする。
私が「美」と感じた芸術作品として、パブロ・ピカソの『泣く女』を取り上げる。この絵
は、ピカソの愛人のドラ・マールがモデルとされている。ピカソの周りには女性が多く、
ドラ・マールがピカソを問いただしたところ、プレイボーイであるピカソに「僕がほしい
のなら勝て。」と言われ、悔しそうに泣くドラ・マールをモデルとして『泣く女』を描い
たとされている。ピカソは、生涯さまざまな画法で、多くの芸術作品を残したのだが、『ゲ
ルニカ』を描いた時代に、ピカソは泣く女の顔を多様に描くことをしていた。(ウィキペ
ディア参考)この時代のピカソに共通するものでもあるが、泣いている女性の顔は、とて
も人間の顔とは思えないようなものである。なぜなら、何本もの線で、顔をいくつにも分
けられ、そして青、黒に加えて赤、緑、オレンジ、紫などのおよそ人間の顔という対象の
自然にはありえない状態である(顔が赤くなったり、青くなったりすることがあるが、一
度に)。これはすなわち、模倣されるものに他律が表れているのではないだろうか(p.79)。
シラーは、『次のような場合に、表現は自由であるといわれるでしょう。すなわち…模倣
されたものが、それの純粋な個性をその再現物においても主張する場合、再現者がその自
然を完全に放棄することによって、むしろ否定することによって、再現されたものに完全
に変わってしまったように見える場合―簡単に言えば―何物も素材によって規定されない
で、すべてのものが形式によって規定されている場合です。(p.80)』と述べている。す
なわちピカソの画法によって、『泣く女』は人間らしくない形で再現されているが、それ
は模倣されるものの純粋な個性、ここでいえばその女性が「怒り狂っている」ことをその
再現物においても主張する場合であり、また、再現者がその自然を完全に放棄し、否定す
ること、すなわち実際には模倣されている女性の顔はピカソの『泣く女』のように、線で
区切られているわけでもなく、顔のパーツごとに色が違うということもないのであるが、
あえて自然にはありえない描き方をし、女性の怒り狂う顔を表現し、再現されたものに完
全に変わってしまったように見える。このように、ピカソの『泣く女』は、一見他律に見
えるのだが、実際には模倣されるものの純粋な個性をより際立たせるものとなっている。
すなわち、すべてのものが形式によって規定されている場合であるから、ピカソの『泣く
女』は、シラーの芸術の「美」の条件を満たしていると考えることが出来、ピカソの『泣
く女』は「美」である。
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担当:塚本、山城、塙
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シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
パブロ・ピカソ『泣く女』、1973 年。
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2010/04/27
担当:塚本、山城、塙
2010 年度春学期鎌田ゼミ研究演習
第 3 回マクロゼミ
シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
歓喜へ!
歓喜へ! (1824 年初め)
作詞 Friedrich von Schiller
作曲 Ludiwig van Beethoven
喜びよ,美しい神々の火花,
楽園の娘よ,
われらは炎のように酔いしれて,
天国のようななんじの聖なる世界に足を踏み入れる。
なんじの魔力は,再び結び合わせる、
この世のおきてが対立させたものを。
すべての人々は,兄弟となる。
なんじの優しい翼のもとで。
ひとりの親しい友を得るという
すばらしいことをやり遂げた人、
また優しい女性を勝ちえた人,
そのような人々は一緒に歓声をあげよ。
そうだ,一つの魂でも地球上において,
自分のものと呼ぶことができる者はみな。
だが、ひとりの心も得られなかったものたちは、
泣きながらこの場を立ち去るがよい。
すべてのものは喜びを、
自然の乳房からのむ。
すべての善なるもの、すべての悪なるものは、
自然の薔薇の小道をたどる。
自然はわれわれに接吻とブドウの房とを与える。
また死をもおそれず助け合う友をも。
虫けらにさえ快楽が与えられ、
天使は神の前に立つ。
喜べ、神の創られた太陽たちが
天のすばらしい計画によって喜ばしく飛び交うように、
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2010/04/27
担当:塚本、山城、塙
2010 年度春学期鎌田ゼミ研究演習
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シラー著『美と芸術の理論―カリアス書簡―』
進め、兄弟たちよ、君らの道を
喜ばしく、勝利に進む英雄のように。
万人よ、お互いに抱きあえ。
世界よ、この接吻を受けよ。
兄弟たちよ、星空のかなたに、
愛する父はきっとおられる。
みな、ひざまずいているか?
世界よ、汝は創造主を予感しないか?
星空のかなたに、創造主を求めよ!
星の上に創造主はきっとおられるのだ
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