ケベック独立運動のゆくえ −ケベック社会とケベック党の役割− 山内 彩子

ケベック独立運動のゆくえ
−ケベック社会とケベック党の役割−
山内 彩子
ケベック党政権下の 1995 年 10 月、ケベック州(カナダ)で「主権」を求めるための州
民投票が行われた。結果は Oui50.8%:Non49.2%、僅か 53,498 票差で否決された。
1980 年にも同様の州民投票が行われていたが、ケベックの「主権」を求めるための運
動はこの時突然現れたものでもなければ、現在に至るまで州民から圧倒的な支持を得てい
るものでもない。ではケベックで独立運動が起こった背景には何があったのか? そして
再び活発になることはないのか? また、この運動の先頭に立っていたケベック党の役割
とは何か?
ケベック党成立にあたって、ケベック・ナショナリズムとの関係を無視することはでき
ない。ケベック・ナショナリズム誕生の背景には「イギリス統治下の一国二制度の社会」
と「カトリック教会による支配」、という抑圧された二つの歴史的事実が大きく影響して
いる。
カナダへはイギリスとフランスがほぼ同時期に入植を始めたが、ヨーロッパでの両国の
対立が直接影響を及ぼし、最終的にイギリス支配の植民地となった。実際にはフランス人
の入植者数がイギリス人のそれを上回っており、少数派による多数派統治となった。しか
し完全なイギリス統治ではなく、フランス系社会は「ケベック法」によりフランス文化(カ
トリック、領主制、フランス語、フランス民法等)が認められているという一国二制度と
して存在していた。その後、ケベック植民地は一旦アッパーカナダ(主にイギリス系、現
在のオンタリオ州)とロウワーカナダ(主にフランス系、現在のケベック州)に分けられ
た。ロウワーカナダの社会は経済的主導権を握るイギリス系と、農業に従事するフランス
系に住み分けができていた。両地域は再び統合されて「連合カナダ」となるが、アメリカ
からの移民でイギリス系の人口が増加していたこともあり、ここで初めて多数派(イギリ
ス系)による少数派(フランス系)統治となった。先住民の「人口減少→文化の消滅」を
目の当たりにしていたフランス系にとってこの統合は、共存→同化という先住民と同じル
ートをたどり、将来的にフランス文化の消滅を意味するものであった。
「カナダ自治領」として東部四州がイギリスから独立した後も、二言語、二文化、二民
族はあいまいなまま残されていた。そんな時イギリス系、フランス系の意見を真っ二つに
する事件が西部カナダで起きた。この事件がケベックのフランス系住民の潜在的な民族主
義的感情を急速に発展させるきっかけとなった。
民族主義的な感情が生まれたとはいっても、実際に政治と結びついてフランス系社会を
まとめていたのはカトリック教会であった。自由主義、物質主義よりも精神を重視する保
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守的な教会権力はケベックの近代化を遅らせる原因でもあった。ここに至るまで、フラン
ス系の人々は常にイギリス系住民、カトリック教会に抑圧されてきた。社会が近代化する
につれ商業に従事していたイギリス系の人々との生活格差が広がり、フランス系の人々の
不満は高まった。そしてこの超保守的な社会を変革すべく 1960 年、「静かな革命」が起
こったのである。この革命により、フランス系の社会は経済的に活性化し、カトリック教
会からも解放されることとなった。経済力の向上とともに自信を取り戻し始めたケベック
では「自分たちは他とは違う」というケベック・ナショナリズムが生まれ、これまで理想
でしかなかった「独立」が現実味を帯びてきたのである。この頃から彼らは自らを「ケベ
コワ」と呼び始めた。
ケベック・ナショナリズムの高揚とともに盛り上がりを見せ始めた「独立」への動きの
先頭に立ったのが「ケベック党」である。彼らは当初「分離(独立)主義」を掲げていた
が、一気に独立を目指すのではなく、いろいろな改革を経て段階的に独立へ向う方法を選
択した。第一段階として彼らは言語を利用してケベック・アイデンティティ−を確立させ
ようとした。そこで制定したのが「フランス語憲章(101 号法)」である。この中でケベッ
クの唯一の公用語はフランス語であると定められた。日常言語を敢えて法制化することで
他州との差異化を図ったのである。この法律に対するケベックの人々の反応はどうだった
のか。反発の予想された英語系住民が意外にもケベックにおけるフランス語の重要性を認
めていた一方で、フランス語系の住民はむしろ懐疑的であった。フランス語の地位を揺ぎ
ないものにするために、この言語法が有効かつ必要なものかどうか判断しかねていたので
ある。次にケベック党は「主権−連合」を唱えた。「主権−連合」とは、ケベックの主権
は維持しつつ経済的にはカナダと連合する、という構想である。
「ケベック独立」の気運が最も高まったのはやはり二度目(1995 年)の州民投票時で
あろう。
州民投票なしで「主権−連合」の実現はないと公約していたケベック党は、まず 1980
年に州民投票に踏み切った。しかしこの当時、ケベック経済は好転しているとはいうもの
のまだ十分なものではなく「主権−連合」が実現して失業やインフレなどの社会不安が広
まることを危惧する人々が多かった。住民は「主権−連合」よりもむしろケベックの「特
別な地位」が認められた上での連邦制を望んでいた。結果はケベック党の敗北であった。
では 1995 年はどうだったのか。この頃になるとさらに英語系、フランス語系意外の移
民の流入が進み、ケベック・アイデンティティーは特に都市部で希薄になった。フランス
語系が多く住む地域とそうでない地域との意識の違いも生じていた。結果はまたしても失
敗に終わったが、僅差であったためカナダに与えた衝撃は大きく、連邦崩壊への危機感を
抱かせることにもなった。
さらにケベック社会と独立運動の中に、憲法問題が加わった。カナダは旧来の「英領北
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アメリカ法(BNA 法)」を踏襲し、1982 年新憲法を制定した。ところが、大半のケベッ
クの人々がこれを認めないのは間違いだと思っているにも関わらず、今もってケベックの
みがこれを批准していない。制定以後ケベックの同意を得るために二度にわたって憲法会
議が開かれたが、いずれも失敗に終わり現在に至っている。ケベックが批准しない最大の
理由は、新憲法にケベックの独自性が記されていないからであった。カナダ政府はこの問
題に対して、アメとムチを用意して解決を図ろうとしている。
ケベックが連邦として存在し続けるためには、この憲法の批准が最低条件となるであろ
う。しかし、ケベックには現在も独立派と連邦派がほぼ同率で存在しており、批准も容易
ではない。また、グローバル化が進む世界で強引に独立を推進することに意義があるのか。
独立を求めないケベックにとっての「ケベック党」の役割とは一体何か。ケベック党自身
もその方向性や存在意義を模索しているために、本来なら先導するべき独立運動が停滞し
ていると言うことができる。ケベックの人々が本当に望んでいるものは何か、確かめてゆ
くことが非常に重要でありまだまだ予断を許さない緊張した関係が続くと思われる。
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