徳川将軍と贈物 - ScholarlyCommons - University of Pennsylvania

University of Pennsylvania
ScholarlyCommons
Department of East Asian Languages and
Civilizations
School of Arts and Sciences
2016
徳川将軍と贈物
Cecilia S. Seigle
University of Pennsylvania, [email protected]
Follow this and additional works at: http://repository.upenn.edu/ealc
Part of the Asian History Commons, Cultural History Commons, Japanese Studies Commons,
Social History Commons, and the Sociology of Culture Commons
Seigle, Cecilia S., "徳川将軍と贈物" (2016). Department of East Asian Languages and Civilizations. Paper 10.
http://repository.upenn.edu/ealc/10
This is a 3 part essay. The first part is available via the "Download" button; the second and third parts can be downloaded as "Additional Files."
This paper is posted at ScholarlyCommons. http://repository.upenn.edu/ealc/10
For more information, please contact [email protected].
徳川将軍と贈物
Disciplines
Arts and Humanities | Asian History | Cultural History | East Asian Languages and Societies | Japanese
Studies | Social History | Sociology of Culture
Comments
This is a 3 part essay. The first part is available via the "Download" button; the second and third parts can be
downloaded as "Additional Files."
This working paper is available at ScholarlyCommons: http://repository.upenn.edu/ealc/10
徳川将軍中心の贈物伝統 2
1
(綱吉時代の新しい贈物制度に続く)
M. 綱吉以前の将軍臨駕と贈物
綱吉以前の将軍も臣下の邸宅を訪問することがあり、その際贈物の交換があった。綱吉以前
の将軍は均衡を保ち、一人二人を特別な臨駕の対象とすることはなかったが,綱吉の時代に将
軍臨駕の性格が変わった。
二代将軍秀忠の時代すでに、大大名の新邸が完成したとき、将軍はそこへ臨み、贈物を下賜、
主人側も献上品をささげることがあった。大納言(世嗣)の家光も日をおいて必ず同じ邸を訪
れた。将軍になってからの家光はなおさら多くの大名やお気に入りの家臣の家に公式あるい
は非公式に簡単な訪問をすることを好み、公式の場合は贈物を取り交わした 。
相続後の初正月から家光は紀伊中納言邸、伊達政宗邸、水戸頼房邸などに臨駕しはじめた。
大御所の秀忠が訪問した家を間もなく必ず家光が訪問したのである。
たとえば、秀忠は尾張中納言義直の新邸落成を祝うため訪問して饗応と能のもてなしを受け
贈物をした(1623/2/13、実紀 2:247)が、家光もそれを五日後にくりかえした。
秀忠からの贈物:
義直へ、大原実守の太刀、義弘の刀、奈良屋貞宗の脇差、時服二百領、
八丈紬三百反、銀三千枚。
義直の生母相応尼へ、金三十枚、大宿衣五。
その他多勢の家人へ、さずけ物。
義直から将軍秀忠ヘ:久国の太刀、吉光の刀、宗近の脇差、金三百枚、時服二百領、
繻珍百巻、金襴三十巻 白糸百斤、紅糸二百斤、綿千把、鞍馬一匹、
という相当な贈物交換であった。
大納言家光も五日後に、弟忠長や水戸頼房などと尾張邸を訪問し、花を生け、茶の炭をつぎ
、茶をたて、能を見、食事をして帰った。
家光からの贈り物は:
義直へ国行の太刀、長光の刀、来国俊の脇差、衾十、銀五十枚。
尾張侯の生母相応尼へ綿二百把、銀五十枚。
尾の家司たちへ:小袖十、銀三百枚づつ。、
他の尾張重臣は時服五、銀五十枚づつを賜つた。
尾張家からの贈物:
忠長から義直へ:真長の太刀、安吉の刀、来国光の脇差、小袖二十、金三十枚。
義直から家光へ:長光の太刀、貞宗の刀、綱吉の脇差、小袖二十、金五十枚、
黒毛鞍馬一疋。
義直から忠長へ:景光の太刀、長光の刀、信国の脇差、銀三百枚、紅糸五十。
家司たちから家光へ:太刀馬代、時服十を献じた。(実紀 2:248)
元和九年(1623)大御所秀忠ははじめて奥州伊達家を訪問。屋敷を訪れて新造の茶亭で茶を賞
味した後能を見た。其の日の秀忠からの贈り物は:
伊達正宗へ:太刀、馬一疋、銀千枚、繻珍百反。
長子の忠宗へ:貞宗の刀。
伊達忠宗夫人(秀忠の養女振姫君) へ:唐織の衾三に銀。
返礼として伊達政宗からは太刀、馬ー正、銀五百枚、醒々緋十間、緞子五十巻が献じられた
(1623/12/21、実紀 2:310)。
二ケ月後将軍家光が伊達邸への初臨駕を行った(1624/2/20、実紀 2:317)。
政宗への贈り物:元重の太刀、貞家の刀、志津の脇差、馬ー足、時服百、銀二千枚。
嫡子忠宗へ:ー文字の刀、太刀ー腰、馬ー疋、時服二十、銀三百枚。
振姫君(忠宗夫人)へ:綿二百把と銀百枚。
政宗から家光への贈物は:豊後行平の太刀、光忠の刀、國次の脇差、小袖百、
虎の皮十枚、鞍馬二疋、銀千枚。
これらの贈り物交換にしばしばあらわれる現象は、将軍から大名へ銀や刀が贈られると、大
名からも同様に銀や刀が贈られる。家来に時服が与えられ、家来からも時服を主君に献上す
る、という事実である。同し物を上げてまたもらうのは意味がないようであるが、すべて、
象徴的な行為であって、この時代のこの階級の人々には、その内容云々ではなくて、捧げて
敬意を表すること、与えて好意や権威を象徴的に示すことに意味があったのである。
その一ヶ月前、寛永元年(1624)正月、大御所秀忠は雪のなか、紀伊徳川頼宣邸に臨駕した。
其の際の贈物は、
大御所から頼宣へ:吉平の太刀、松前貞宗の刀、京極正宗の脇差、銀三千枚、
八丈縞三百端、生絹五十反、小袖二百、鞍馬に紫大総掛けたもの。
母堂の養珠院へは:夜着五、金三十枚。
紀伊家の重臣に:銀三百枚と小袖十づつを二人に、四人に銀百枚と小袖
五づつ、六人に銀五十枚、時服五づつ。
頼宣から大御所へ:白糸二百斤、紅糸二百斤、金襴三十巻、繻珍百巻、小袖二百、
金三百枚越前綿千把。又書院で七五三祝い献盃の時、鳥飼国次の脇差、郷義弘の刀、
国次の脇差も献じた。
頼宣の家臣から大御所へ: 位によつて、時服を十重ね、五重ね、三重ねなど献じた。
(1624/1/23、実紀 2:316)。
四日後に将軍家光も紀伊家を始めて訪問し、同様の贈り物をしている。
同年二月六日には秀忠は水戸頼房邸へ台臨、贈物は、
頼房へ:守家の太刀、郷の刀、上野國次の脇差。(実紀 2:316)。
頼房養母永勝院(家康側室お勝、お梶の方)へ:金二十枚、越前綿二百把。
頼房から将軍へ:二字國俊の太刀、行光の刀、堀尾正宗の脇差。
その他、家人への賜物とその返献物は紀伊邸と同様であった (実紀 2:317)
2
同じく寛永元年(1624)の、家光の松平(蒲生)忠郷邸への訪問の際の贈物は記録されていない
が、そのもてなしと邸の豪華さは特筆されていて、読者は徳川初期にすでにこれほどの数寄
をこらした大名がいたことを知って驚く。その様子は:
兼日この設として御成門を経営す。柱には金を以て藤花をちりばめ。扉には仙人亜羅漢
の像を鏤る。精緻描絵のごとし。当時の宏麗壮観その右に出る者なかりければ。年へて
後までも衆人此門を見に来るもの日々多し。字して日暮しの門とはいへりしとぞ。此日
快晴なりしに。堂室便座簾幕闈帳錦羅衆人の眼を驚かさずといふ事なし。ことに宋微宗
宸翰鷹の掛幅。達磨の墨跡をはじめ。書画。文房。茶具古今の奇珍を雑陳せり。実にや
忠郷が祖父宰相氏郷は。織田殿の聟にて封地百万石にあまり。殊更和歌茶道の数寄者に
て。賞鑑の名高かりしかば。和漢の奇貨珍宝を蓄積する所理りなりとて皆人感賞す。床
には柴船といふ名香を。大麒麟の銅爐にくゆらせたり。御饗の酒肴山海の珍味をつくし
。配膳はみな近習の輩をしてつとめしむ。御膳はてて庭上におり給へば。桜花猶咲のこ
り。色香のどかなる木陰に莚席をしきてわたらせ給ひ。池には樋をもつて玉川の水をせ
きいれしかば。波広くして大河かとうたがふ。山路には樵径をつくり。鹿の足あとなど
ありて。その幽邃のさま深山の如し。深林の下にかりの茶店をかまへ。杉皮をもて葺き
。竹を柱とし。獅子香炉に時鳥の初音といふ名香をたきしめたり……
という具合であった。(1624/4/5、実紀 2:321)。 九日後の十四日には大御所秀忠も忠郷邸を
おとずれた。
寛永五年には秀忠が次男忠長の邸を、尾張義直と水戸頼房を従えて訪問し、茶事、猿楽など
をたのしみ、忠長に太刀、馬一匹、銀五百枚、時服五十を与え、女房たちへも賜物があった
。饗宴の半ばで忠長から騎馬が献ぜられ、忠長卿とお相伴の人々は西の丸へ大御所にお礼の
ためにまかり登った。(1628/3/18、実紀 2:430)
すると次の月始めに家光が仲のよくない弟忠長を訪れている。折衝のために秀忠同様、尾張
義直と水戸頼房をつれて忠長邸を訪問し、贈物も十分になされた。このように将軍と大御所
が、どの親類臣下の屋敷にも公平にでかけ、同じ様な贈物をしたのは、将軍家とー門、重臣
との関係を平和に親密に保ち、それらの人々とのきずなを更につよめるためだった。徳川幕
府開府から自然このような様式が出来上がつて、後代の将軍たちも御三家のうちのー邸を訪
れれば必ず他の二邸にも来駕し、同じような贈物を公平に贈つた。家康の時代にはまだ必ず
贈物をするという儀式的な要素はなく、もつと自然であり、心がこもつていたようだが、家
光あたりから「物を与える、贈る」という行動そのものの意味が深まり、権威の顕示と階級
の設定の一端を担うようになった。
家光は鷹狩が好きでよく出かけたが、その帰りによくお気に入りの酒井忠勝、堀田正盛、柳
生宗矩、大僧正天海などの家を気楽に訪れた。そのような訪問ではごくまれに刀や時服など
が与えられるだけであつた。たとえば堀田邸臨駕のおり正盛から雲次の刀、綿百把、ゆがけ
(射弓の時指にはめる)百、太刀目録、盃台を献じられ、長男堀田正信から太刀目録、猩々緋
十間を奉られたことがあった。家光は正盛に左文字の刀を、正信には小袖五を下賜した
(1648/1/5、実紀 3:516)。ふつうの鷹狩途の訪問では贈り物の交換はなかつたようである。
正保四年(1647)に家光は珍しく松平(島津)薩摩守光久の催した犬追物に出かけた。饗応を受
けた後勇壮で華麗な行事を見て、光久に貞宗の脇差、又三郎に国行の刀を与えた。光久から
国綱の刀、子息又三郎(後の綱貴)から光包の脇差が献じられた。その次の日、光久は臨台の
礼として銀二百枚、綿衣三十、貞俊の太刀、栗毛の鞍馬、又三郎は太刀目録と銀百枚、猩々
3
緋十間を将軍に献じた。家光から島津家来たちにいくばくかの品が下された。(1647/11/13 &
16, 実紀 3:504-506)。
4
家綱は大人になってからは親類や家臣を訪問することはほとんどなかつたが子供の頃に父の
寵臣を訪れている。たとえば世子家綱が慶安元年に酒井忠勝の牛込の別荘を訪ねた時には猿
楽が催され贈り物が交換された。(1648/2/9、実紀 2:519ー520)。冗長になるので省略するが、
最晩年に家綱の病気が再発してうつうつとしていた時、大老の酒井雅楽頭忠清が彼を慰める
ために、江戸城二の丸の部屋全部に自分の秘蔵するすべての和漢の書画、掛幅、巻帙、文房、
茶器、玩具など珍奇名品をかざり、御座所、休息所、書院、奥の間、園亭、茶室、新殿、紅
葉の亭、泉殿に精緻をきわめた趣向をこらして家綱を迎えた。休息所の違い棚には玉海とい
う香炉に東照宮恩賜の名香、蘭奢待をくゆらせた。忠清は家綱に金馬代、時服十、猩々緋十
間、杉重二組、鮮鯛二折を献じて拝謁し、後にさらに備前守家の刀を献じた。彼の長子忠挙も
太刀馬代、時服五、次男の忠寛も太刀金馬代を捧げて家綱に拝謁した。将軍から忠清に左文
字の刀、銀三百枚、時服二十、忠挙に時服十、忠寛に時服五を賜った。その他いろいろ賜物
があつたが庭の舞台で竹本の浄瑠璃を演し、百人以上の供奉の人々も三汁十菜の饗応、その
下二百人は二汁五菜、その下五百人はー汁五菜というもてなしを受けた(1680/4/10、実紀
5:335)。
家綱はおかげで気分も晴れ、外出して家臣の邸を訪問したような気持ちになつただろう。し
かし真似をする猿は現れるもので、この趣向が大成功だつた所から老中の稲葉正則も大久保
忠朝も、ほどなくおなじような催しを二の丸で行い、多くの贈り物を捧げ返礼品を貰つた。
なかんずく大久保は工夫をこらして二の丸の池に御座船を浮かべて、垂れ釣りの遊びという
趣向で船をビロードの布団や猩々緋の覆いで飾り立てた。(1680/4/27, 実紀 5:336).
これは忠誠心の発露というよりもあまりにも露骨な競争心の暴露で、幕府の重臣ともあろう
人たちの行為とは思えない。家綱はその十日ばかり後に亡くなつたのであり、そのような遊
びは始めは楽しかつただろうが、くり返されたとき重病の将軍が喜んだとは思えない。ただ
でさえ若いときの鷹狩りと乗馬以外あまり行事を好まなかつた将軍である。家綱将軍はいろ
んな意味で父の家光や弟の綱吉とは対照的であつた。
N.
将軍綱吉の寵臣訪問と贈物
元禄宝永時代の家門や寵臣の邸宅への五代将軍綱吉の初臨駕は、贈物を贈ることも受け取る
ことも好きだった将軍の性格によってますます華美になつた。幕府の金蔵はだんだん底をつ
いて来ていたので、さすがに金銀を秀忠や家光のように何千枚も与えることはなかつたが、
綱吉の贈物の相手と種類の多さは濫費の印象を与える。綱吉も重臣の堀田正俊の在世中は寵
臣や親類への臨駕を控え目にしていたのであるが、貞享元年(1684)に正俊が従兄弟の若年寄
稲葉正休に刺殺されてからは、次第に自由を楽しむようになったのか、しばらくして寵臣の
邸訪問し始めた。最初は元禄元年四月、牧野成貞邸へ初臨駕を行うことを予告した。これは家
臣たちを驚かせ嫉妬させた。将軍の訪問が前もって発表された時の家臣の反応が記録されて
いる。『これそのかみ井伊。酒井などいへる閥閲の家にはならせ給ひ先蹤少からずといへど
も。いまだ成貞がごとき家にわたらせ給ひしこと其例なし。成貞潜邸のときより補導の職に
あり。今また昵近年かさねて怠らざるをもて。ことさらに寵眷の盛慮より。かく仰出されし
なるべし。成貞が身にとりて。いと有りがたき光栄と。朝野うらやみのぞまざるものなし。』
とある。(1688/3/12, 実紀 6:6).
5
そのために牧野邸では邸をととのえ贈物を準備しなければならなかった(1688/4/21、実紀
6:10)。 将軍へは:
まず成貞よりはじめに信國の太刀ー振、綿三百把、俊馬「朝日山]。
成貞妻から、金十枚、縮緬五十卷、二種一荷。
成貞の娘から、金五枚と縮緬三十卷 。
家司五人は太刀目錄を将軍へ 。
食事中に将軍が成貞へ貞宗の差添を与え二万石の益封を約束した。そのとき成貞は長光の刀
、狩野元信の三對幅、三種二荷を捧げた。
将軍は再び盃を成貞に与え、
成貞に鞍馬。
成貞妻へ、銀百枚と色羽二重五十疋。
娘二人へ、各銀五十枚と八丈縞紬三十反づつを賜る旨を老臣を通じて伝られた。
牧野の家老三人へ、時服三づつ。
用人二人へ時服二づつ、も伝えられた。
翌日臨駕を謝して備後守成貞より、
御台所へ:金十枚と二種ー荷。
桂昌院、鶴姫君、お伝の方へ:銀五十枚と二種ー荷づつ。
成貞妻より、
御台所へ:金三枚、巻物(絹反物)三十、一種。
桂昌院、鶴姫君、お伝の方へ:金二枚、巻物二十、一種づつ。
娘二人より、
御台所へ:各銀十枚と一種づつ。
桂昌院、鶴姫君、お伝の方へ:各金ー枚と一種づつ 。
御台所より、
成貞へ:時服二十と三種二荷。
成貞妻へ:色繻子十卷と二種一荷。
娘二人へ:縮緬二十巻と一種づつ 。
お伝の方より、
成貞へ:時服十五と三種二荷。
成貞妻へ:綿百把と二種一荷。
娘二人へ:紗綾二十巻と一種づつ。
これらの贈物交換の当事者に女性が多いことを見ると、いろいろな本に書かれている綱吉の
成貞妻あぐりへの横恋慕、さらにその娘に対する戯れは事実だつたのだろうと思われる。
(太宰春台の『三王外記』 (東武野史著『正統三王外記」我自刊我書屋、憲王外記、p3。』
高柳金芳『大奧の生活』、雄山閣、1969。pp197 一 200。『三田村鳶魚全集』第一巻牧野備後
守の献妻」、中央公論社、1976、pp.362ー375。『日本女性人物辞典』、 監修:芳賀登、一
番ヶ瀬康子,中嶌邦,祖田浩一. 東京:日本図書センター,1993、p.249、阿久里の項。
牧野邸への将軍初臨駕の数日後、四月二十五日には桂昌院が、そのまた一ケ月後には鶴姫君
と生母お伝の方が牧野邸を訪問し、その後も度々将軍もこれら三人の女性も牧野邸を訪問し
、御台所は遅れて元禄二年に訪問した。(1689/11/10、実紀 6:59)。この将軍家全員の度重な
る訪問は牧野家での応対もてなしは重い責務であっただろう。将軍は牧野の家へ前後三十二
回お成り、桂昌院は将軍と一緒に十三回、独りで三度行ったと三田村薫魚が書いている。成
貞は将軍初臨駕の後間もなく御台所を大奥で饗応し雑劇と音楽でもてなした。その日の御台
所よりの贈り物は成貞へ銀百枚、二種ー荷。成貞妻へは縮緬五十卷と箱肴。娘二人へは各紗
綾三十卷と箱肴。成貞は御台所へ金十枚、扉風ー双、樽肴を献じた。(1688/5/11、実紀
6:12)
6
牧野成貞は度重なる将軍及びその一家の臨駕のために宅地を加増されたが、御座所を新しく
建てなければならなかつたので出費が重なり、まもなく将軍にー万両の恩借を願い出た。
(1688/8/15、実紀 6:20)。綱吉の生活様式は次第に華美になり、ひんばんに本城表、中奥、
大奥や二の丸で能を催し、寵臣や自分が舞うことも多かつた。桂昌院、御台所、鶴姫君、お
伝の方、重臣たちはたびたび観能に出席している。女性が中奥へ出入りすることを許されの
は綱吉と次の将軍家宣時代だけであった。
元禄年間、将軍綱吉の寵臣柳沢保明(後に保吉)の屋敷訪問はめざましかった。柳沢は百五十
石の小姓から二千石の旗本に取り立てられ、その後矢継ぎ早の昇進で二年足らずの間に三万
二千三十石の小大名まで加増されていたが(1690/3/26、実紀 6:70)、将軍の初臨駕は元禄四
年のことで、ふつうならばまだ将軍の来駕を仰ぐような身分ではなかつた。綱吉は前々から
その訪問を発表して、二月始めにはもとからの柳沢の宅地に加えて小笠原遠江守忠雄から取
り上げた土地を与えた。 柳沢は新しく五十間四方の御座所を建て、さらに北、中、西東の部
屋、納所、台所、能舞台と楽屋、供奉の家来の休息所、見事な泉庭を作り「心をつくしみが
きなし」て将軍の来駕にそなえた。それが現代の六義園(文京区本駒込六町目)で柳沢吉保
が元禄十五年(1702)に造園した回遊式築山泉水庭園である。その邸は元禄十五年四月五日の
夜火災によりことごとく焼失した(実紀 6:470)が庭は無事で、その後新築の邸に綱吉が臨駕
した記録があるのは元禄十五年九月二十ー日である(実紀 6:485)。綱吉がこの屋敷を訪問し
たのは五十八回だといわれている。
初臨駕の日の行事(1691/3/22、実紀 6:103)は各人のお目見え御盃頂戴、将軍の大学講議、柳
沢の進講、家臣の侍講、仏教講釈、能散楽、綱吉自身の舞、柳沢家臣の舞、三汁十ー菜の饗
宴、贈り物進献と果てしなく続いた。
その時の将軍よりの贈物は:
保明へは馬「中津山」、因幡入道貞景作の鞍、銀三百枚、三種二荷。後に盃の時将軍が
佩せていた伯耆安綱の刀を賜った。又乱舞のあと饗宴、其の時明の陳広翻筆の孝經
、雪舟の画扉風と机を保明へ賜った。
長子安貞へ:来國俊の差添、食後に銀香合を下賜。
次男長暢へ:青江直次の差添、食後に銀香合。
保明妻へ:銀百枚、色羽二重三十疋と食後に二条為道筆百首歌、銀丁子釜、
奇楠香を下賜。
保明老母へ:銀五十枚と縮緬三十卷、食後にまた画屏風、檜重と奇楠香を下賜。
保明養女二人(山名泰豐妻と黑田直邦妻)へ:各銀三十枚と縮緬二十卷。
長子安貞の生母へ:銀三十枚、縮緬三十巻、食後に忠家俊成両筆の歌合、綾数疋、伽羅。
家司三人へ:各時服三ずづつ。
能散楽を踊つた小姓たちへ:茶羽二重三巻づつ。
将軍への捧げものは:
保明より、景光の太刀、鞍馬ー疋青毛、時服二十、三種二荷。来国光の刀、
茶壺「松帆」。
長子安貞より、太刀一振、金三枚、紗綾十卷、肴一種。
保明妻より、金五枚、紗綾三十卷、二種一荷。
保明母より、金五枚、紗綾二十卷、二種一荷。
次男長暢より、馬代金二枚、紗綾十巻、肴ー種。
二人の養女より、各銀十枚、紗綾十巻、肴ー種づつ。
家司三人より、各太刀目録。
その他柳沢家から多くの捧げ物があった。
この日御台所から使をもつて:
保明へ、綿二百把、三種二荷。
保明妻へ、色繻子十卷、二種一荷。
桂昌院、鶴姫君、五丸より:
保明へ、各時服十、二種ー荷づつ。
保明妻へ,各綿百把、看ー種づつ。
次の日将軍より、昨日進講した保明の家臣七人へ時服ー襲づつ。申楽を演じた保明の家臣た
ちに茶苧縞紬三巻づつ賜った。これは今までの将軍の大名訪問の例にないほど大がかりで優
美な贈物交換であった。その後の訪問でもきまつて綱吉の講議と柳沢と家臣の進講、能楽と
響応、贈物交換が行われた。(実紀 6:103-104)。
その後綱吉は他の寵臣をも訪れ始め、松平輝貞邸(初臨駕 1695/5/10、実紀 6:229)、桂昌院弟
の本庄宗資邸(初臨駕 1692 11/11、実紀 6:155)、大久保忠朝邸(初臨駕、実紀 6:191)、阿部
正武邸(初臨駕、実紀 6:192)、戸田忠昌邸(初臨駕、実紀 6:194)、土屋政直邸(初臨駕、実紀
6:195)などと柳沢邸、牧野邸への訪問がくり返されて、その都度多くの贈物が交わされた。
しかし牧野、柳沢ほど頻繁な台臨を受け寵臣は他にいなかつた。
O. 綱吉の親戚訪問と贈物
将軍綱吉が御三家など親類を訪問しはじめたのは寵臣たちをしばしば訪れてから何年も後の
こと、元禄十年(1697)であるが、その中ー番先に臨駕を行つたのは鶴姫君の嫁入り先の紀伊
徳川家である。三田村薫魚は初臨駕は元禄九年四月十四日であったように書いているが (三
田村薫魚全集、第一巻、p114) 『徳川実紀』にはその日は「臨時朝会あり」として紀伊大納
言の次男頼職と三男頼方(吉宗)が将軍に初見したとある。(実紀 6:258) 臨駕の日は、対面、
盃、引出物、子供達への加禄、饗宴、講議、猿楽など、さまざまな行事が行われた。
(1697/4/11、実紀 6:291−293)。
その日の綱吉の贈り物:
当主光貞へ:青江重次の太刀、義弘の刀、来国光の差添、銀三千枚、時服百、緞子縮緬
各二百巻、樽肴。
鶴姫君の夫綱教へ:備前則光の太刀、正宗の刀、銀千枚、時服五十、樽肴。
頼純へ:備前国宗の刀と時服十。
頼職へ:則成の刀と時服十。三万石加増。
7
頼方(後の吉宗)へ:備前正恒の刀と時服十。三万石加増。
頼路へ:相州行光の差添と時服。
8
内々より:
光貞卿へ:茶入(薬師院)。
綱教へ:梁楷筆福禄寿の画幅。
将軍より:
安宮へ:銀五百枚、色羽二重百疋、二種一荷、文台、硯。
鶴姫君へ:綿二百把、二種一荷、金入二十巻、繻子二十卷、錦二十卷、香盒二十、
伽羅一本
芳心院(松平綱清の母)へ:綿百把、銀釣花瓶。
英姫(光貞女、上杉彈正大弼綱憲室)へ:綿百把、伽羅箱。
家司水野重上へ:銀百枚、時服六。
三浦為隆と水野重孟へ:銀五十枚、時服五づつ。
其以下十四人へ銀三十枚と時服、賜うこと差あり。
綱教、安宮、鶴姫君、英姫、芳心尼の女房たちへも銀、巻物、若干給う。
鶴姫君執事酒井忠晴と野々山兼孝へ金三枚、時服三づつ。
其以下、医員、用達総中へも賜物差あり。
御台所、三丸、五丸及び八重姫君より各:
光貞と綱教へ:時服に二種ー荷づつ;
安宮(光貞室)へ:各々よりすう紗と二種ー荷づつ。
鶴姫君へ:各々より紗綾と二種ー荷づつ。(実紀 6:292-293)。
紀伊家から将軍への捧げもの:
光貞卿より: 備前長光の太刀、島津正宗の刀、光包の差添、鞍馬ー疋、金三百枚、綿五
百把、紗綾百巻、繻珍三十卷、色系百斤、時服百、茶壺(星肩衝)、印籠五十、肴一種。
御台所と三丸へ:それぞれ銀二百枚。五丸へ銀百枚。
八重姫君へ:銀五十枚。各二種ー荷。
綱教より:将軍へ備前真守の太刀、切付貞宗の刀、縮緬百巻、銀三百枚、鹽鯛、
料紙硯の箱、肴ー種。
御台所と三丸へ各銀百枚。五丸へ銀五十枚 。八重姫君へ銀三十枚。
各二種ー荷が添えられた。
紀伊家の家族から将軍へ:
頼純より:綿百把、金馬代、銀香炉、花籠、肴ー種。
頼職よリ:綿百把、金馬代、銀匂釜一種。
頼方(後の吉宗)より: 綿百把、金馬代、書格ー種。
賴路より: 紗綾廿卷、金馬代、色羽二重百疋、檜重一種。
鶴姫君より:色羽二重百疋、杉重、肴三種、樽二荷、書格上下百具、帯百筋、
鼻紙袋百、裏付上下百具、唐染百反。
(御台所はじめ御方々へは、それぞれ縮緬と箱肴。)
安宮より:紗綾二百巻、菓子、魚物三種、樽二荷、盃台、羽織五十、筆架二、筆
十対、肴、染め物。 (御台所はじめ御方々へそれぞれ紗綾に二種ー荷添えた。)
英姫より: 紗綾五十巻、檜重、鹽鯛、服紗百、肴二程。
芳心院より: 紗綾五十巻、檜重ー組、帯五十筋、鹽鯛、肴二種。
家司水野重上より: 時服六。三浦為隆と水野重孟は時服五づつ各金馬代添えて。
その他の人々よりも将軍へ時服と銀馬代を献上。(1697/4/11、実紀 6:293)。
元禄十ー年(1698)三月十八日の尾張徳川家への初臨駕も大群で挙行された。その日綱吉は当
主綱誠(つななり)の乳児、喜知姫を養女にすることを発表した。さまざまな行事の間に交換
された贈物は、
将軍よりの賜物:
綱誠へ:長光の太刀、銀三千枚、時服百、繻珍百巻、縮緬百巻、光忠の刀、吉光の差添。
吉通(嫡子)へ:信国の太刀、銀二千枚、時服五十、栗田口国安の刀。
光友(綱誠の父、隠居)へー文字の刀、金五十枚、時服二十。
千代姫君(光友室、綱吉の姉)へ:銀五百枚、綿二百把、二種一荷。
義昌(綱誠弟)へ:来国俊刀、時服十。義昌の女へ綿百把。
義行(綱誠弟)へ:尻掛刀、時服十。
義方(後の通春、吉通弟)へ:景光の差添、時服十。
友著(綱誠弟)へ安吉の差添、時服十。
内々より:
綱誠へ:茶壺(繁雪肩衝)。
吉通へ:丁子釜。
光友へ:牧渓画柳燕の掛幅。
千代姫君へ:金入二十卷、ビロード二十卷、錦二十卷、香棚一飾、伽羅一本。
義昌女へ:香合。
家司成瀬正親へ:銀百枚、時服六。
重臣竹腰友正、石河章長、その他四人と光友付き二人へ:銀五十枚、時服五づつ。
大寄合、博役、番頭へ:銀三十枚、時服三づつ。
千代姫君執事大久保忠倫へ:金三枚、時服三。
医員用達たちへ:金二枚、時服二づつ。
千代姫君付き光友卿付きの女房たちへ:銀、巻物若干。
御台所、桂昌院より:
綱誠へ:各時服三十、二種ー荷。
吉通へ:各時服二十、二種ー荷。
光友へ:各紅白羽二重五十疋、二種ー荷。
千代姫君ヘ:各紗綾五十巻。二種ー荷。
五丸の方、鶴姫君、八重姫君より:
綱誠へ:各時服二十、二種ー荷づつ。
吉通へ:各時服十、二種ー荷づつ。
光友へ:各時服十、二種ー荷づつ。
千代姫君へ:各紗綾三十巻、二種ー荷づつ。(1698/3/18, 実紀 6:323-324)
尾張徳川から将軍への捧げもの:
9
綱誠より:国行の太刀、金三百枚、緞子三十巻、時服百、紗綾百巻、綿五百把
、色糸百斤、鞍馬ー疋。お盃の時、亀甲貞宗の刀、宗瑞正宗の差添。
内々より: 茶壺(大隅肩衝)、書棚、文台、硯箱、香盆、剪綵花、重肴二種。
吉通より:青江の太刀、銀三百枚、すう紗百巻。お盃の時国綱の刀。
光友卿より: 備前守家の太刀、銀二百枚、綿三百把。お盃の時国次の刀。
千代姫君より:すう紗百巻、檜重、三種二荷。
義行より:金馬代、綿百把、冠棚、肴ー種。
義昌より:金馬代、綿百把、書格、肴。
頼方より:金馬代、紗綾二十巻、檜重、肴。
友著より:金馬代、紗綾十巻、釣花瓶、肴。
義昌女より:紗綾二巻、鼻紙袋二十、肴。
成瀬正親より:金馬代、時服六。
友正以下の家司より:金馬代、時服五づつ。
大寄合以下の輩より:銀馬代、時服三づつ。(1698/3/18、実紀 6:324)
10
綱誠より御台所、三丸へ:銀二百枚、二種ー荷づつ。(1698/3/18, 実紀 6:323-324)
五丸、鶴姫君、八重姫君へ銀百枚と二種ー荷づつ。
吉通より御台所、桂昌院へ:銀百枚、二種ー荷づつ。
五丸、鶴姫君、八重姫君へ銀五十枚、二種ー荷づつ。
光友より御台所、三丸へ:すう紗五十巻と二種ー荷づつ。
五丸、鶴姫君、八重姫君へ:三十巻と二種ー荷づつ。
千代姫君より御台所、三丸へ:各色羽二重三十疋づつ、五丸、鶴姫君、八重姫君へ:二
十疋、皆箱肴をそえて。
その次の日、紀伊大納言光貞は「土産」として 御台所に孔雀銀香炉、桂昌院へ硯箱と文台、
五丸へ銀匂釜、八重姫君に屏風一双を贈った。(1698/3/19, 実紀 6:324)これは将軍の尾張徳
川訪問に対する反応デモではなかったかと思われる。
元禄十三年綱吉将軍が水戸綱條家へ初臨駕した時は柳沢保明、老中、大大名他大人数の訪問
だったが,(1700/9/25, 実紀 6:417) 出迎えも相当な人数で、門内に入り切れなくて庶流の面
々は門外で将軍を迎えた。それは繰り返しであり煩雑であるので省略する。綱吉時代にはそ
のような将軍臨駕、とくに先に述べたように寵臣の家への訪問は頻繁であり、その度ごとの
贈り物も大袈裟に繰り返された。その大がかりな綱吉の訪問と贈物の交換を、もし初代将軍
家康が目撃していたらどんな顔をしたであろうか。綱吉の場合、家光のようにすべての家来
と人民に大量に、というのではなくて、訪問は御三家と特別寵臣にかぎられていたが、その
邸宅の関係者すべてに八方美人的に与えようとしたので華やかな大出費になつただろう。迷
惑なことに受け取る方も必ず将軍へのお返しの贈物が必要だつた。将軍の臨駕を受けること
は名誉に違いなかつたが主人側にとつてはたいへんな経済的精神的な負担であり、多くの家
長は借財を余儀なくされた。加賀候などは将軍来臨にそなえて御用達商人の三文字屋からお
成御殿をたてるために十ー万本の材木を買うことが必要で、建築全部のために百三十五万両
の借金をして立派な御殿を建てた。しかし御殿は翌年元禄十六年の地震火事で全焼し、借金
は一文も返済されなかつたので、三文字屋は破産したという(三田村鳶魚全集、5:21)。
御三家は親類としての待遇を受けるのが当然としても、他の大名たちは寵臣への差別的えこ
ひいきを不当と感じなかっただろうか。初めの牧野成貞邸への将軍訪問の時の評判のように
、「朝野うらやみのぞまざるものなし」というような状態ではなかっただろうか。先代将軍
たちに愛顧を受けた譜代の家柄の人々は綱吉の極度に偏執的な厚遇と冷遇の差を恨んでいた
ので後の吉宗将軍の相続をよろこんだという。家光のように気軽に鷹狩りのあとで家来の家
に寄って、もてなしがなくても贈リ物がなくても平気という将軍にはそれほどの負担を感じ
なかっただろう。綱吉は講議をしたり能を演じたりし、主人側の参加を強要したのでどうし
ても正式な訪問になりがちだつた。この時代は賛沢をことこまかく禁じたにもかかわらず、
将軍の特別な愛顧を受けた人々は豪華な造築、造園をせざるを得なかつた。
11
次にのべる大名からの献上品も、いつの間にか強請される状態になったので大名たちが美術
品や刀剣を集めたことが推察されるのである。『徳川実紀』を読んでいると、綱吉の時代に
発狂した大名や旗本の多かつたことに驚かされるが、将軍の偏執は多くの人々にとつてスト
レスの原因ではなかつただろうか。
P. 遺産相続襲封時の綱吉の強制贈品
綱吉が将軍職についた天和ー貞享年間はまだ厳しく賛沢を統制した堀田正俊が生きてい
たので将軍も良い政治をしていた。なかにも「下馬将軍」と呼ばれた酒井忠清の権勢を
抑え、長年問題になっていた越後の訴訟事件を一気に解決したことは後世まで語り伝え
られた(実紀 6:727ー729)前述したように貞享元年に堀田が稲葉正休に刺し殺されてか
らは綱吉とその生母桂昌院の生活は次第に華美になっていった。桂昌院の気ままな散財
は、加賀候前田綱紀(松雲公)からの一万両の借金に終わったという (三田村鳶魚全集、
5:17)。将軍と桂昌院から女性に対する大名の献上品が奨励されたようである。次第に
御台所や桂昌院にも相続襲封時に献上品を贈る大名が出てきたが、とくに元禄九年七月
十日にお触れが出て、
「御台所。桂昌院殿並に小谷の方(お伝)。鶴姫君に物奉らば。宿老。昵近の輩へ伺
ひ。指揮に任すべし。其他のものにつきて献ずる事あるべからず。この御方々より賜物
あらば。宿老。昵近のもとへまかりて拝謝すべし。参勤。襲封。昇進。益封等のとき。
贈遺ならびに奉献の余りを。宿老。昵近。小老の他はをくるべからず。」(1696/7/10、
実紀 6:266)
とある。贈物の範囲が厳しく統制されていたが、それをはっきり打ち出すことによって
四人の女性には大いに贈物をするのがよいという意見が言外に含まれている。後述する
ようにその後大奥の他の女性も贈物を受けるようになり、綱吉の大名に対する強制贈品
は娘や養女の嫁入り道具にまで及んだ。(参照 II.婚姻と贈物。H.綱吉の姫君婚姻御
資装集め)。
家綱の時代から大名たちが父親の死、あるいは致仕によっての相続襲封を感謝して将軍に贈
物をすることが少しずつ増えていた。しかし綱吉の治世以前はそういう贈物はそれほど目立
たなかった。綱吉の時代に初めてその記録があるのは元禄元年のことで、留守居役戸田重種
の遺品雲次の刀を嫡孫の重利が奉献した。(1688/11/23, 実紀 6:27) それから月の終わりにも
う一人刀を献上したが、十二月になって松平綱政が襲封を謝して大和則長の太刀、金五十枚,
綿五百把と、父光之の致仕を謝して正宗の刀、宋夏珪の山水画幅を献じた。しかし同じ日に
黒田長清は分封を謝しただけで何も献じていない。その記録は江戸幕府日記から徳川実紀に
写されたものしかしらべていないので年によって非常に出来事、祝い事の多かった年は記事
が多すぎてスペースが足りなかったので記録が完全でないことが推察される。(例:元禄1
12
5年,1702)しかし大名の死や致仕は毎年同じではないから当然のことながら相続襲封感謝の
贈物には変化がある。
元禄元年—4件
2年 —6件
3年—11件
4年−8件
5年—17件
6年—14件
7年—17件
8年−19件
9年−10件
10年—12件
11年−10件
12年—13件
13年—17件
14年−8件
15年−5件(行事、事件が非常に多かった年)
16年—15件
宝永元年−13件
宝永2年—14件
宝永 3 年−26件
宝永4年−14件
宝永5年−12件
宝永6年—なし−1月10日に綱吉薨去享年64歳
これらの数字は死亡,致仕、相続襲封した人々がその年に何人いたかにもより、その他いろ
いろな条件によって不正確な数字であろうから、非常に非科学的な数であってあてにならな
いといえる。しかし綱吉治世下、贈物流行の風潮のなかで次第に大名たちの相続襲封感謝の
範囲ががひろがってきて、大名からの贈り物は大奥の女性にまで及んだ。それが綱吉の意志
によるものらしいことは、先に引用した元禄九年七月十日発令の贈遺制で推察される。御台
所、桂昌院、小谷の方、鶴姫君に物を奉つるのならばこういう風にせよ、と言うことによつ
て、結局綱吉は贈物をすることを奨励している。こういう命令が出ればやはり贈物をしなけ
れば、と圧迫を感じただろう。それまで襲名襲封の時,少数の大名が贈り物を将軍だけでな
く女性にも贈ったことは特別な敬意を表すたジェスチャーに過ぎなかったのに、それが絶対
に必要条件となったのである。そのために大名たちは女性に贈るのにふさわしい古典の写本
をせつせと集めはじめたようである。
平和の時代にコレクターが絵画彫刻など美術品を集める風潮はどの國でもさかんである。普
通それは個人の鑑賞のよろこびと満足のため、あるいは後世の人々に文化遺産として残すた
め、ある人々にとつては自己宣伝のため、少数の人々にとつては富の誇示のためだが、この
時代には将軍の嘉納を得るためにそれを行うという特殊な現象が見られたようである。そう
して綱吉配下の大名たちは決して豊かだから美術品を集めたのではなく,経済的に苦しいな
かでそれを強いられたのである。大大名以下中級の大名たちは、綱吉周辺の女性たちに贈物
をすることを強制されないまでも、何か進物をしなければ肩身が狭い思いをさせられたのは
たしかである。そうしてこの贈物の対象は、御台所。桂昌院殿並に小谷の方、鶴姫君、から
綱吉の養女の八重姫君と竹姫君にもひろがった。
13
その上、宝永元年の十二月に甲府中納言綱豊が将軍の世継に指定され、大納言家宣と改名し
た途端、家宣と御簾中の近衛熙子も家督相続襲封の献上品の対象となつたのである。そのか
わり、桂昌院、お伝の方、鶴姫君、八重姫君などに献上する大名が少なくなつている。家督
相続したからといって大名が必ずしも豊かになったわけではなく、献上を強制されている相
手が多ければ各藩の財政は苦しくなるばかりであった。
桂昌院は宝永二年に七十五歳で逝去した(1705/6/22)のでその後贈物の記録はない。
将軍綱吉のもう一つの強制的贈物の歴史と方法“姫君御資装”については特に大きい項目で
あるので、後述の“婚姻と贈物”の中で詳しく述べる。
綱吉の死後、家宣、吉宗、家重、家治の治下では、致仕、襲封、相続の贈物の記録は少なく
なった。家宣や吉宗がそれらの贈物に反対だったことは記録されている。
Q. 贈物大好き綱吉時代
五代将軍綱吉の治世の二十九年間は社会の平和安定と経済的発展によつて日本人の生活様式
が上下ともに大変革した時代であった。室町時代から江戸初期まで封建階級制度の底辺にあ
った商人階級が武士階級にかわって豊かになるとともに文化教養の域でも大活躍をはじめた。
綱吉はそのような状態を嫌悪するかのように度々町人階級の奢侈を統制した。いっぽう幕府
の勝手向きはもはや豊かではなかつたのに将軍とその母桂昌院はまるで無限の金蔵をひかえ
ているかのように個人的な賛沢、宏壮な寺社の建築と後援をおこなつた。綱吉の性向につい
て『徳川実紀』は「御衣服も華麗なるものはこのみ給はぬ御本性にて。御身ちかき調度も。
金銀の装飾はさらなり。文采彫鏤せしものは用ひたまはず」(実紀 6:741)と書いているが、
これは綱吉の趣味はけばけばしくなかつたということの証明にはなるが、乱費の反証にはな
らない。綱吉の褒賞の度外ぶりについては「また施をこのみ給ひ。賞賜の類は常に例格を過
超する事とも。しかしながら人目を驚かすばかりなりとぞ」と婉曲化して書いてある。不作
の年は扶助米を賜り、御家人や同心などまで金を賜った。その反面町人の奢りを憎んで市民
に貸し付けた金の利息の十分の一を徴収したがそれはおよそ七万余両だったという(実紀
6:741)。このように綱吉は貰うことも与えることも好んで、その点、Noblesse oblige の法
則を自然に体得していた人物で、富める者が貧しい者に与えるのが当然であるという態度を
ある程度保つていた。彼がふんだんに物を与えた一部の人々からの等価返還物を期待しては
いなかったのである。たとえば、寺方は貧しいと初めから決めていたようで、寺院には多く
の寄進をしたが返還の贈物が少なくても別に気分を害した様子はない。日光山での法会はと
くに重要視して、門跡法親王外多くの僧正院家に個別に多くの銀を与え読経の衆僧にー括し
て四千五百五十二両餘、衆僧へ銀三千五百枚,読経僧へ八千二百五十両その他の多額の布施
を与えることを辞さなかった。(1683/4/14&21。実紀 5:478—479)。
桂昌院は傾倒していた僧亮賢に護国寺創建のために高田薬園の地を与え、寺領、銀、時服な
ど与えた。桂昌院がとくに愛顧した隆光には護持院を建立し大僧正称号を与え祈祷のたびに
多くの物を与えた。その他の場合も桂昌院、将軍、御台所、八重姫君まで隆光に金銀、絹織
物その他の物品をさかんに贈っているのだが、隆光からの贈り物は「舞扇、大和柿、葡萄」
(1698/9/25、実紀 6:346)などで全然釣り合いがとれない。だがそのために寄進をやめたり出
入りを止めたりしていない。
贈ったのは金や高価な貴重品だけではない。綱吉は日光の公弁法親王との交誼をたのしんで
よく食物を送った。他の僧職者、権大僧正亮賢の後継者快意などにも茶、伽羅、絹反物、菓
子、果物その他さまざまな食物を折に触れて贈っている。そうし僧職者からは謝礼の品は少
しも期待していなかった。将軍にめだつ贈物をした寺方は東西の本願寺だけであった。
綱吉が贈物を与えるのを好んだ事は、御三家及び甲府中納言、前田加賀守など特別の人々を
招いて自分の講義を聞かせたり、能を演じて見せたりした後ご馳走し、贈物を与えたりして
いることでもわかる。(1694/4/26、実紀 6:197)。例を挙げると元禄三年に綱吉は「自演の猿
楽」を見てくれたご褒美であろう、観覧者たちに下記のように非常に優美で文化的な贈物を
している。(1690/4/26、実紀 6:73)
尾張中納言光友へ雪舟筆高然暉筆の山水画屏風;
紀伊中納言光貞に雪舟筆猿猴画屏風;
甲府宰相綱豐に狩野探幽元信筆花鳥面屏風;
尾張中将綱誠に探幽守信筆育王山徑山寺図の画屏風;
紀伊中将綱教に探幽守信筆四愛琴棋書画の画屏風;
水戸少将綱條に探幽守信筆蓬莱山画屏風;
松平加賀守綱紀に狩野友清筆龍虎の画屏風。
拝見を許された人々からは檜重が捧げられた。その後も、御能を見たり、論語を聞いてくれ
た御三家や、法親王や、大大名に褒美の品を与えている。(1692/5/18; 1692/12/13;
1693/12/25; 1993 3/11; 1694/4/19; 1694/5/11; 1694/閏 5/5&12; 1694/閏 5/22;
1694/12/5; 1695/2/25; 1695/3/25; 1696/2/15; 1696/5/13; 1696/10/6)。
綱吉は御三家、館林、甲府の面々、重臣、近習、日光門跡などだけではなく、桂昌院(三の
丸、一位のお方)、御台所、鶴姫君、小谷の方(五の丸、お伝)たち女性を度々自演の能に招
いて饗応したようである。
ある時など御三家と重臣を招いて猿楽を見せたところ、珍しい催しでもなかつたのに、御三
家が揃ってお礼の贈物をした。(1686/関 3/26&27、実紀 5:571-572)
尾張光友より香具、
紀伊光貞より唐綾、
甲府綱豊より長絹、
尾張綱誠と紀伊綱教よりそれぞれ緞子、
水戸光圀より硯箱と金入(絹織物)、
水戸綱条より氈筵、
松平綱紀より料紙硯
を献じられた。少し遅れて四月二日には
松平頼常から碧紗帳、中屏風一双、料紙硯箱
が届けられた。
四月三日に将軍の能を拝見した松平綱近からは四日に緞子、繻珍、魚物を献じられ、十八日
には 松平吉就から屏風二双が届けられた。(実紀 5:572-573)
これらは出席者たちがあらかじめ言い合わせて贈り物をしたとしか思えない。
またある時は将軍の手元に集まつた茶壺が多すぎたのか、能を見てくれた親類にそれぞれ銘
のある茶壺を贈っている。
14
紀伊中納言光貞へ有明;
甲府宰相綱豊へ望月;
水戸宰相光国へ横雲;
尾張中将綱誠へ橋姫、
紀伊中将綱教へ亀山だった
(1686/10/21、実紀 5:587)。
水戸光国はこの場合出席しているが、普通光国は綱吉の能や講義に出席することはまれであ
つた。将軍の後継者について、家宣を世継ぎとしそのあと徳松を養君とすべきだと主張をし
た光国と綱吉の間には確執があつたのである。後に綱吉が生類憐れみの令を貞享四年(1687)
に出しはじめてからだんだん厳しくなり死ぬまでに 135 回も出したという生き物保護の政令
がだんだん人間に害を及ぼすようになったとき光圀は遠慮なく綱吉を批判したことは有名で
ある。この事実は疑わしいが、『元正間記』に、光圀公は犬殺しの殺した犬の皮を十枚箱に
入れて将軍へ使者をもって献上したという話が記録されている。(元正間記、東京大学史料
編纂所写本、4201−3−212)。
15
能を見物に来てくれた御三家の面々に美術品を贈つたことも一種の過剰品の循環だつたかも
しれない。時々突発的に理由もなく物を臣下に与えたのも先に引用したバタイユの論———権力
者が権力を示すために蓄積した物質は太陽の光りが濫費されるように、濫費される運命にあ
るーーというこのだったかも知れない。たとえば天和三年に勅使公卿が江戸に来ていたころ
、綱吉は理由もなく下記の品々を重臣や桂昌院に贈つている。
宿老に大香炉並び二百人一首。
若年寄堀田正英に本朝百将傳。
稲葉正休に歌仙。
秋元喬知に押絵手鑑。
お側大久保忠高に百人ー詩。
朽木則綱に新歌仙、
稲垣重定に古歌仙。
金田正勝に三十六人詩歌を賜った。
また桂昌院に舞楽図ー巻を使いをもって送った(1683/9/12、実紀 5:496)。美術品としてとく
に価値のある品々ではなかつた。贈物が多すぎて同様の品物がたくさん手許にあつて始末に
困ったのだろう。日光門跡天真法親王に雪舟筆の画屏風を贈ったこともある。理由は不明で
ある。(1684/11/16、実紀 5:528)
その後綱吉の論語の講義の後の褒美はしばらく絶えていたが、長年ののち、綱吉が増上寺で
大僧正他その配下塔頭の面々に講義をした時には、多くの銀と物品を少なくとも三十二人の
出席者に与えている。(1701/10/29、実紀 6:453)
ただー度起っただけで伝統にならなかつた変わつた贈物は、綱吉が易学の勉強を卒業した時
である。この将軍は元禄六年(1693)四月二十ー日から聴講をはじめて、十三年十ー月二十ー
日まで、盛暑酷寒にもめげず二百四十回出席したという。講義はおもに儒者の林大学頭信篤
で、他の出席者は法親王たち、家門、国持譜代の諸大名、諸旗本、諸家の高僧。その他出席
を望む好学の人々はたいてい聴講を許された。二百四十回も精勤したということは、しかも
将軍ともあろう人がそれを几帳面に続けたということは、たしかに賞賛すべきことで綱吉の
よい面を十分表している。しかし自分が好きだからといつて重臣や近臣にも強請はしなくて
も出講しなければならない圧迫を感じさせたのではあるまいか。お祝いに林信篤には二百石
加増、麒麟の香炉を賜り、その他の儒臣やお気に入りの聴講生柳沢や松平輝貞及びその家族
などに多くの褒賞が出て、その人々や老中からも将軍に贈物があった。(実紀 6:422-423)
16
R. 贈物競争
綱吉の時代は交際の規模、贈物や訪問の規模が非常に派手に大きくなった時期だった。前述
したように例年の勅使の参向の場合の贈物も人数も家綱の時の数倍に増えた。前将軍家綱は
決まつた季節の祝日以外は贈物を禁じていたのに、綱吉はそれを奨励する風であったらしい。
家綱の時代、すでに親類の御三家はときどき土産として贈物を江戸城にとどけたが、綱吉の
時代さらにそれが頻繁になった。そうして何の理由もなく「土産」と称して贈り物をする人
たちが非常に多くなった。紀伊尾張水戸の当主は以前から時々「土産」を将軍に捧げたが、
その度数も非常にふえ、他の近臣や大名が物品を将軍のみか御台所、桂昌院、姫君、若君に
贈りはじめた。
天和元年の三月、尾張中納言光友は土産と称して将軍へ弓二張、鞍三口、鎧三足を、御台所
へ櫛台を、若君と姫君へは扉風を捧げた。(1681/3/16、実紀 5:406)。数日後には松平源入道
竜雲軒が土産として冠棚、刀架を将軍へ、硯箱を御台所へ献上している。甲府徳川の綱豊(家
宣)も次の月若君に人形、木馬、肴を献じた(1681/4/7、実紀 5:407)。これらは綱吉の治世の
ごく始めの時代であるが、そのような贈物の噂は他の人々を刺激せずにはおかなかっただろ
う。ついぞそういう事をしたことのなかった人々さえ、例えば大阪城代などが御台所へ櫛台
を、姫君に香炉箱を贈つたりしはじめている。(実紀 5:429) 長崎奉行も以前家綱のときに
たまに贈物をしたが(1656/2/3、実紀 4:171)それが習慣になつていたわけではない。綱吉時
代になると長崎奉行は通鑑綱目ー箱、螺鈿の書架、堆朱の硬箱などを将軍に奉り(1681/11/6
、実紀 5:429)次の代の長崎奉行も贈物を踏襲している。(1682/11/3、実紀 5:465;
1685/11/16、実紀 5:559)。
京都所司代は家綱の時代に帰府の際簡単な土産ものを将軍にだけ奉ったが毎度ではなかつた
。綱吉時代には所司代戸田越前守忠昌は江戸帰参のおりに、土産と称して螺鈿料紙硯箱を将
軍へ、若君に人形と作り馬、姫君に人形と香合、桂昌院に脇息、香合などを贈つている。一
家全員へのお土産である。(1681/3/14、実紀 5:405ー406) 戸田はその後も帰府の度に贈物を
捧げ、後継者の稲葉丹後守正往も帰府の際、金、時服、羽織、馬、洛中洛外の屏風を献上し
たりした。御台所も返礼として稲葉に時服五、白鳥一羽をおくっている。(1683/8/5、実紀
5:493)。
前述したように尾張徳川,紀伊徳川,水戸徳川はたびたび土産と称する家具や手回品などの贈
物を将軍、御台所,桂昌院,小谷の方に贈っているが、それは明らかに他の親戚の行動を意
識して競争していたように見える。( 尾張 1698/2/23; 1699/3/25。 紀伊 1696/3/18;
1699/11/2; 1700/3/19; 1702/3/14。 水戸 1701/3/7; 1704/3/18; 1707/2/15。)
S. 将軍家宣の贈物スタイル
家宣は宝永六年(1709)に将軍職を継承した後、綱吉の大奥をそのまま受け継いで、自分自
身の御台所と側室たちの他に綱吉の側室と養女たちの世話を全部引き受けたので、その大奥
は華やかなことであつた。
17
綱吉没後の宝永六年から宝永九年までの家宣の大奥の贈物交換のリストは下のようである。
それには三つのきまつたレベルがあり、四段目は、普通は入れられなかつた。大体贈り物の
内容や額はそのレベル内では同じだった。
1)御台所熙子
2)瑞春院(お伝、綱吉側室 1);三人の綱吉養女:養仙院(八重姫君)、松姫君、竹姫君
3) お古牟(家宣側室 1)、おすめ(家宣側室 2)、左京(家宣側室 3〜のちの月光院)、寿光院
(綱吉側室2)
4)美代姫(水戸吉孚と養仙院の娘)、清心院(新典侍、綱吉側室 4)
の順位である。
家宣が老中に指示してこのリストを作成するにあたって、自分の第ー側室のお古牟(長男家千
代を産んだ)を綱吉の側室瑞春院や養女たちの下,3番目のグループに置いたのは不思議であ
るが、謙虚な家宣の性格を物語るようである。ー番始めにお袋さまお部屋になったお古牟が
子供を失つた後でも他の側室に先行した。家宣の左京(月光院)にたいする寵愛が深かった
ので,世間では左京が大奥を支配したように噂されたが、この順位は家宣が没して月光院が
家継将軍の生母として筆頭に認められるまでは変らなかった。それは間部詮房の日記にはっ
きり記入されている。
「月光院様御事今日より天英院様御次御順ニ被為成」(内閣文庫『間部日記』正徳二年十二月
五日記)
グループ4の名前はいつも贈物リストに出るわけではなかった。美代姫を入れれば将軍の他の孫も入
れるべきであり、なぜ美代姫だけが特別加えられたかはわからないが、亡き御台所信子(浄心院)の姪
で彼女にも綱吉にも非常にかわいがられた養女1の八重姫君の娘であり、早く父を失ったので哀れま
れたのではないだろうか。綱吉側室4の清心院は品行の問題でとがめを受けていたので時々しか贈り
物を許されなかつた。後には不品行から塾居を申し渡れたようである。(『幕府祚胤伝』100;清水昇、
川口素『大奥ー女たちの暮らしと権力闘争、Truth in history, 12』. 新紀元社,2007)
これらの人々が捧げものや香典を出す時は自分の意志でするのではなくて、大奥のお年寄り
が幕府の老中などから指令を受けて通達したのである。リストの順番は大奥での地位、社会
的地位(出自が宮家や貴族である場合)、年齢や年功序列などで決められたが厳密ではなか
った。
家宣は過大な贈り物はしなかつたが、大奥の女性や他家に嫁いだ綱吉の養女たちや綱吉の側
室を全部ふくめて季節季節の贈り物をしている。その様子には女性に対するやさしい思いや
りが見られ、夏には涼しい衣類とか、匂い袋、花の季節には切り花や鉢植えなどをよく贈つ
ている。これは御台所の熙子の京都風の季節感覚と彼女の花好きに影響されたからだろうか。
(熙子は父の来府中毎日のように父の旅館に花を届けた)。今まで花を御台所に贈った将軍な
どいなかったので、これは斬新なアイデアであって、家宣の時代から老中や寺方まで将軍や
大奥に切り花を贈るようになつた。
18
家宣は、綱吉の無謀な大伽藍や大建築計画、節度のない出費、寵臣に対する度外れの贈り物
や加増などの害を沈黙の内に批判の眼で見ていたらしい。家宣の学問上の師であり政治補佐
であつた新井白石もそのことをよく知つていた。それで執政の始めには十分節約を心掛け、
賄賂をいましめ、諸大名参勤の時の献上品をとめた。(宝正治代記、実紀 7:250。『塩尻』巻
六、日本随筆大成第三期、15)。
家宣は遺書のなかにも不必要なぜいたくな贈り物をいましめている。
吾年久しくみるに。国主及び大身小身のものども。種々の珍宝あるは金銀の作り物
を捧る事。甚以心を煩はしむ。懈らず捧ものを進むるは。敬ふに似て諂ふにちかし。依
て治世の初に。不時の捧物の事堅くいましむ今鍋松幼稚なれば。臣たるもの心をつけ。
捧物をます事をゆるさず。減ずる事をおもへ。主は勿論。臣たる者貪るこころある時は
乱に近し。臣たるもの贈物になどか心をかたむけん。贈の品に心を寄るは。賤しき者の
なす所なり・・・・
という立派な遺戒である。(文昭院様御直筆御遺書の写。東大史料編纂所写本、及び実紀
7:250。1712/10 月)これは綱吉時代への真正面からの批判であり、家宣の心からの望みであ
ったであろうが、必ずしも効果のある遺書、遺戒ではなかつたようである。そうして家宣自
身もそれほどこの自らの訓を守つたとは言えない。品物そのものについては家宣時代の贈り
物は間部越前守詮房の「間部日記」(内閣文庫、45 冊)に克明に記録されているが、とくに賛
沢ということはない。しかし近衛煕子が甲府徳川時代の家宣(綱豊)と結婚したのち、綱豊
がはじめて京都へ祝言の贈物を送ったとき、克明な記録が、その膨大さに対する近衛家の言
外の驚きを表している。(瀬川淑子『皇女品宮の日常生活』、146-147)
近衛基熙は江戸訪問中たびたび贈物をもらい、徳川家の豊かさに感じ入っている。とくに基
熙は「家光時代から大名たちからの進上の時服は驚くほどだ」といい、たびたびおすそわけ
を貰ったことを書いている。
宝永七年には大名の献納品から、御台所より金五枚、羽二重五疋、家宣より白小袖三十、染
め物三十反、緞子十巻賜つたと書いている(基照公記、1710/9/3 条)。その外にも端午の祝い
の帷単物三十などをおすそわけに貰い、それは大名からの端午の献上品だと書いている。(『
基熙公記』、1711/5/6 条)、すでに述べたように琉球から煕子への贈り物もわけてもらって
いる (「基熙公記」、1710/11/20 条)。
T.女性の贈物交換の意義
お目見え以上の大奥の女性たちは規則によって、 御台所の御代参か特別のお使いでなければ
大奥の壁の外に出ることはまずなかったし、大奥の建物の中でさえ自分の持ち場以外の場所
へ行ったり、お杉戸を通って将軍の私室である中奥、さらに江戸城表へ出るということは原
則として禁じられていた。御台所は一年に一度、本丸表へ出るお許しがあったそうであるが、
ほとんどの御台所はその権利を行使しなかったということである。御台所が時々外出したり
中奥へいったりした将軍綱吉と家宣の時代は非常に非典型的な時代だったと言える。
江戸時代は女性がー般的に「女子供」とー括されて軽視され、その個性や独立性が認められ
なかつたというのは一般の常識である。しかし徳川家の女性達、将軍の周辺の女性たち、大
奥の上の階級に属する女性達は一応非常な尊敬をもつて扱われていた。それは今から見れば
形式と外見だけであり、事実上は自由も自立も個人の主張も希望もみとめられなかつたのだ
から「籠の鳥」と同じで重要な意味はなかったかもしれない。しかしその時代の女性にして
みれば、女性として特別に扱われ、男性の出入りの禁じられた建物に保護されて、特別の法
則で縛られ、世間から特別の目で見られた存在は特権的であり、大奥の女性たちはそれを誇
りとしていたのは確かである。
19
平安の昔に『源氏物語』を読みふける喜びは「后の位」などにくらべられないすばらしさだ
と言い切った「更級日記」の著者、菅原孝標の女は自主性と自由を、学ばなくてもある程度
知っていた人だった。江戸時代にも多くの女性が自分を知り、見つめ、希望するところを実
行しようとして努力をしたかも知れない。 それは特に江戸末期の教養のある中流の女性に多
かっただろう。また自由や実行力に関するかぎり、一般の中流や下層階級の女性の方が上流
武家女性よりも恵まれていただろう。しかしその女性たちはそれを知つていただろうか。や
はり江戸城大奥の中で深窓生活をしている御台所やお局やお姫様の方が恵まれていると羨ん
だのではないだろうか。 そういう「比較的自由な俗界」から隔絶されていた女性達は、都合
のいい時だけ男たちに慇懃に取り扱われ、別格あつかいされた。たとえばこの論文の主題で
ある贈答、贈物ないし香典などについては、徳川家の女性は決して夫や家族と一緒にされる
ことなく、独りの個人として、別々の出費ないし贈品を強請されている。それは乳飲み子で
も同じで、徳川家の一員である限り、その人の名前で香典や贈品が出されたのである。これ
は下世話ならば「女を一人前に扱わないのに、お金だけー人前に出させるのですか!」と抗議
したくなるようことであるが、考えようによつてはたいへんな特権でもあつた。それは名前
だけでしかないのだが、彼女をー人の人格としてその人の存在を公的に認めることであつた
からである。
幕府の記録の中で女性の名前が残つていることは実に少ないのだが、彼女たちに祝儀の品や
香典を出させたり、彼女たちに物が贈られる時にはちやんと名前が記されているのである。
女性の名が多く出て目立つた行事の例はいくつかあるが、その早いものは天樹院 (将軍秀忠
女、千姫)の七回忌である。時の御台所(家綱夫人、浅宮顕子)と高田御方(天樹院の妹、松平
忠直夫人)より頓写料として伝通院へ銀百枚、御台所はそれに時服六を贈った。女性だけの香
典を見ると、本理院 (家光御台所)、千代姫君、甲府(綱豊)館林(綱吉)の両北の方と甲府の母
堂から十枚づつ、松平光政夫人(天樹院娘)から百枚、館林並びに光政の母たちと本多忠平の
妻は三枚づつ、中川久恒妻と松平綱政妻は二枚づつであった(1672/2/6,実紀 122ー123)。こ
れらは贈物でも社交でもないのだが、天樹院と直接か間接に繋がりの深かつた人たちだった
ので、公に追悼を表すことを望んだのは当然であつた。彼女たちは江戸時代の社会では最高
の位置に置かれたほんのひと群れの女性たちであつたから、大奥に住んだ女性は決して社会
を代表したとはいえない。むしろ実に存在感の薄いー群の女性であつたとさえ言える。
筆者が彼女達の香典寄進や贈り物交換活動に意義を見出すのは、彼女たちがふつうの町人女
性(あるいは中級下級の武士階級の女性)にくらべて非常に縛られた生活をしていたという事
実そのものにある。徳川家に輿入れすれば二度と京都の実家を訪れる事のできなかつた御台
所たち、自分たちの階級の女同士でさえ行き来が自由でなかつたこれらの人々は、一度徳川
家の一員となれば夫を失えばどんなに若くても養仙院 (八重姫君、水戸徳川嗣子吉孚夫人)の
ように一生独身を守らなければならなかった。将軍は夜をともにするのは御台所だけではな
くて、中臈と呼ばれる地位の女性の群の中から毎晩選んだのであるが、将軍つきのすべての
お中臈がまんべんなく将軍と夜を過ごしたのではなく、一晩だけ呼ばれてそのあと二度と将
軍と逢わなかったお中臈もいた。それらはもちろん将軍の側室とは見られなかったのである
が、規則では一晩でも将軍と同寝したお中臈は、将軍薨去後落飾するしかなく、一生その菩
提を祈って暮らすことを強制されたのである。彼女たちにどんな生活があつただろうか。
20
ちなみに七代将軍少年家継の許婚者であった八十宮 (霊元天皇皇女)の場合はさらに異常であ
る。この女性は二歳で許婚者を失い、会ったこともなかった家継のために四十五歳で亡くな
るまで独身を通した。これは徳川家から要請されたことか、それとも八十宮自身の選択であ
つたかどうかわからないが、夫になる人に会うどころか江戸へ行つたこともなかった少女な
のに、彼女はいちおう徳川家からは家継将軍の御台所と呼ばれているのである (「幕府祚胤
伝」『徳川諸家系譜』2:112) 。
筆者は、そのような生活を強いられた大奥の女性たちがわずかな自己満足と模擬の社交をた
のしむことができたのはこの贈答活動によつてであったと思う。「自己満足」というのはそ
れらの最高社会での社交行事には勝手には加わることはできないので、現状の事態のなかで
はせめて贈物贈答表に名がのせられることに満足を見つけざるを得なかつたからである。
幕府の中央(老中)から将軍家の行事のために贈物をするように大奥に指示があり、それを
大奥のお年寄が長局に貼り付ける。公の指令だから記録に残るのである。個人で内密に香典
を贈つたり贈り物をしたりすることはある程度自由であつたが、それは記録に残らない。だ
とすれば記録に残つた人々はある特権を持つ女性ということになる。模擬の社交と筆者が言
うのは、彼女たちは行事に出席したわけでも集まつて挨拶をしたわけでもなく、冠婚葬祭の
公式のリストに名前が出ただけである。例外として、ときどき江戸城内の能などの催し物を
見物させてもらえた女性たち、桂昌院や綱吉家宣の御台所たちは、他の将軍たちの時代と違
って社交的生活を少しばかり味わったといえる。
他家に嫁入つた将軍の娘たちは一年に一度、年賀の挨拶などのために大奥を訪れたが普通は
宿泊することはなかった。大奥を訪れると費用贈物心づけなどで非常に費用がかかるので、
後年の家斉の大勢の娘たちのなかには一年中一度も里帰りできない大名夫人もいた。綱吉時
代は少し異常で綱吉の娘の鶴姫など、二十八歳で亡くなつたが、他の女性にくらべると非常
に恵まれていてしばしば江戸城を訪れ、母のお伝の方や祖母の桂昌院とあちこちへ行つたり
、江戸城大奥に二週間も滞在したりしている。しかしそれは例外的な存在で、桂昌院が孫を
可愛がって将軍の母としてその権力を行使したのである。
徳川家女性全体についていえば実際の社交というものはなかつた。歌会や饗応に出席したり
することのなかった女性たちは、贈物交換によってはかない模擬の社交でも、一応世の中で
起っている事にかかわりあい、そのー端にあずかることを満足としたにちがいない。例えば
綱吉の養女八重姫君が水戸徳川の世子吉孚に輿入れした時、大奥の八重姫君付きの上臈や
様々な女中の名前が贈物記録にでている。一部の彼女たちは式に参加したのだが大部分は花
嫁行列を見たわけでもなく、嫁入り道具も覗き見さえできなかっただろう。しかしその記録
は社交生活の一部であった。もっと積極的な例をあげると、大奥の女性は公の場に出ること
は許されなかつたが興味はあったから、秀忠御台所のお江与の方や家宣御台所の熙子は朝鮮
使節をこつそり物陰からのぞき見したりしたのである。下の引用ー行目はお江与御台所、二
行目は熙子御台所のことである。
大御台所。多門よりひそかに韓使行装を御覧じ給ふ。(1624/12/19、実紀 2:333).
三使登城の様子を暫之可行透見廊旨以女中被示仇与御台同道行向之(基熙公記、
1711/11/1)
21
徳川家に興入れした女性と京都の関係について一言すると、彼女たちは京都への郷愁を我慢
してー生禁欲的に生きた人々であるが、徳川の女性として京都との関係を円滑化することに
つとめたことでも知られている。それについては久保貴子氏などの論文がある(久保貴子「
武家社会に生きた公家女性」。林玲子編『日本の近世』第 15 巻,女性の近世、pp.71−96,中央
公論社、1993)。筆者も近衛熙子の御台所としての功績について書いたことがある。(
Cecilia Segawa Seigle,”The Shogun’s Consort: Konoe Hiroko and Tokugawa Ienobu,”
Harvard Journal of Asiatic Studies, Vol.59: No 2(December 1999)、485-522.)
U. 女性と贈物の特質
綱吉の時代から女性が多くの贈物を受け取り、また女性間でもさかんに贈物の交換をしてい
ることは、社会的、文化的に大きい意味があると思える。そもそも「贈物活動は大体女性の
領域である」とは欧米の人類学者たちが考察している(Cheal、1988、6, 7, 181; Berking,
1999; 13; Corrigan, 1989, 513-534; Kendall, 1996, 218). 日本では太古から男女とも贈
り物活動にたずさわつていたし、平安時代にも多くの男女がお互いに物品を贈り贈られた。
しかしその後長年女性は贈物活動から退けられたのか、少なくともおおやけの記録に残る贈
物活動はだいたい男性を中心とするものであつた。個人的には女性が贈り物の社会的活動か
ら駆逐されたということは考えられないが、女性の社交生活が制限されていたことはたしか
である。
それが江戸時代になると、おおやけの贈物記録に家光の姉の千姫(天樹院)、高田のお方、妹
の東福門院、娘の千代姫君、養女たち、などへの贈物の記録が現れはじめ、彼女たちの将軍
への贈物も記録に見えるようになつた。家綱は前述のように、とくに自分が大好きな鷹狩り
でとった鶴や雲雀や鶴や雁を大量に本理院(家光夫人中の丸殿)、叔母の天樹院と高田の御方
、姉の千代姫君、義理の姉の清泰院(徳川頼房女、家光養女前田光高夫人)その他多くの女性
縁者へ贈つた。贈り物を受け取るだけでなく交換活動がさかんになつたのは綱吉時代である
。
綱吉は次の時代の家宣ほどではなかったが、一応の京都びいきで学問文学好きであつた。摂
家鷹司出身の御台所信子は寵妾のお伝に対抗するために,妹の房子(霊元天皇中宮)に京都か
ら美人で学問のできる上臈を送るように頼んだ。水無瀬中納言の娘右衛門佐が江戸に下向し
、信子の思わく通り非常に綱吉の気に入つて、上臈お年寄として大奥の監督を命じられた。
普通、上臈は京都の皇族か貴族出身の御台所のお相手として京都から下った女性で、実質的
に大奥で働くことはなく権力もなかったのに、この女性は特別だった。右衛門佐は大奥で『
源氏物語』の講義までおこなった。そういう大奥は以前にまして貴族文化的伝統の雰囲気が
濃くなり、綱吉に大奥女性に贈物をすることを奨励された大名群はもっぱら古筆と称せられ
る古来の皇族貴族手書きの平安文学の写本を御台所、鶴姫君、桂昌院の三人、のちには綱吉
世嗣家宣夫人や綱吉養女たちにも贈るようになり、将軍の奨励で襲封感謝の贈り物がだんだ
ん増えて、これらの女性はかなりの狩野永徳など名人の画扉風や天皇震筆や古筆の古今集、
源氏物語、歌合などの写本を受け取っていた。
22
(注:永島今四郎と太田響雄の『千代田城大奥』(原書房、1971;初版:明治二十五年 1892)
によると将軍家茂(十四代)時代りの事と思われるが、正月の二、三日あたりの「御讃初め」
のための本は古今集、後撰集、拾遺集(公任)、以上三代集、後拾遺集(中納言通俊)、金葉集(
俊賴)、詞花集(顯輔)、千載集(俊成)、新古今集(家隆、定家)、以上八代集、新後撰集(定家)
、続後撰集(為家)、続古今集(為家、行家)、続拾遺集(權大納言為氏)、新後撰集(前大納言為
世)、玉葉集(大納言為兼)、統千載集(為世)、統後拾遺集(為藤)、風雅集(敕原法王)、新千載
集(大納言為定)、新拾遺集(為明)、新後拾遺集(為遠)、新続古今集(飛鳥井雅世)、以上十三
代集、 源氏物語、伊勢物語、住吉物語、大和物語、竹取物語、落窪物語、岩尾物語、狹衣物
語、世繼物語、宇津保物語、以上物語とあり、「是れは和宮様の御愛読遊ばされしものを挙
げたるにて何の代の御台所も是れに限りしといふには非ざれども是れにて其の大方を推し測
るを得ベければとて記す」 (上巻、P。9)とある。これらから見ても、皇族公卿出身の御台所
が代々大奥で読まれた書物の規範を示したと思われるが、綱吉家宣時代の好みは京都摂家か
らお輿入れの御台所及び京都からお供した上臈たちに影響されたと見られる。しかし実際に
御台所の好みを調べたわけではなく、「京都の上つ方のお好み」という固定観念に支配され
ていたようである。)
綱吉家宣時代、大名達が将軍周囲の女性たちに贈った品物のなかでもつとも人気のあつたの
は『古今集』の写本で、その期間に 71 の古今集の名筆写本が献上された。そのうちわけは:
御台所信子に 51;桂昌院に 9;家宣御簾中熙子に 8;お伝の方に 2;八重姫君に 1 であった。
奇妙なことに信子に捧げられた 51 冊の古今集写本のうち 6 冊は二条(冷泉)為相(1260ー1328)
の手による写本。5 冊は飛鳥井雅親(1417ー1490)によるもの;ほかの 5 冊は二条(冷泉)為重
(1325 か 1334ー1385)の写本で、その外、飛鳥井雅俊(1523 歿)、飛鳥井雅綱(1489-1571)、
冷泉為秀(1372 歿)、二条為忠(1373 歿)、冷泉為尹(1361-1417)、三条美香(右大臣 1515 一
1518)、三条西実隆(1455ー1537)の写本はそれぞれ 2 冊づつあった。二条為氏の写本は信子、
熙子、桂昌院へ1冊ずつ贈られている。これらはもちろん同じ人物が献上したわけではなく
、同時献上でもなく、それぞれ違った年月日に父を失つたり襲封したりした大名が献上した
のであるから、その人々はお互いに誰がいつ同じ物を御台所に献上したか知るよしもなかつ
た。同人物の写本がそれだけ行き渡つていたということは、偽物が出まわっていたことも考
えられるが、必ずしも偽物であつたということではなく、南北朝、室町時代に公家がどれほ
ど経済的に窮迫して写本などで収入を得ることを余儀なくされていたかを物語る。また伏見
宮貞致親王(さだゆき、1694 年薨去) とか、飛鳥井雅章(1611ー1679)とか、狩野探幽 (1602
ー1674)、狩野洞雲(1625-1694)というような、綱吉とほとんど同時代に生きていた人々の作
品を大名がこれらの女性たちに捧げている事も注目にあたいする。ほとんど同時代の写本と
いうことは、必ずしも父の遺品ではなく、ましてや家代々の宝物ではなかった事を意味する
。それと、貴族のものなら何でも、という気構えも見える。貴族的であつた綱吉と家宣の趣
味、また御台所信子や熙子の出自を考えて、書や画を集めて喜んだ平安貴族の模倣に身をや
つして、古くなくても有名人の書画を買い集めておいて、その機会が来た時に将軍や御台所
に「亡父の遺品」と称して捧げたのはいじらしい程の努力だったと言える。
他によく献上された文学写本は上記の時期、『伊勢物語』14 冊; 『後撰集』11 冊; 『和漢朗
詠集』 8 冊; 『拾遺集』6 冊などである。元禄十三年(1700)には綱吉は 17 人の大名から 17
本の刀、鞍馬 2 疋、絵画 3、茶釜 1、茶入れ 2、香炉 2、硯箱 2、文台 1、印篭 30、屏風 3、と
他にも多くの物品を捧げられた。信子と桂昌院は六種類の古典文学写本を贈られ、お伝の方
は三種類。鶴姫君と八重姫君はー品づつ。これらは遺品を捧げた大名の贈り物のみであり、
実際には他にも何の理由もなくても徳川親類筋や大大名たちは、土産と称しするものをとき
どきこれらの女性に贈っているのである。
23
女性が贈る側として記録されているのは上記の方式にあつたように、主に徳川家の法事など
で女性も香典を出すように指示を受けて寄付していることが多い。その他ー門の冠婚葬祭の
祝儀などにも女性の名が見える。それを見ていると明らかな階級制度の現象がここにも現れ
ていて、上記の家宣の大奥で4つに分けられていた贈物グループのように、ー番多く貰い、
多く出費しなければならなかったのは御台所である。将軍の母か第一の側室,将軍の姫君(
養女)の順で他の側室がつづく。その序列と額は大名の方式と同じく階級による。しかしそ
の順番が変わることもある。例えば桂昌院が元禄十五年(1702/3/9)に従一位に叙せられた時
には御台所の信子はその時点では三位(没後従一位 1709/2/9)だったので順列が変わって桂昌
院の名が御台所の上に記されるようになった。三人の養女たち, 八重姫君、松姫君、竹姫君
(松姫君の前にその姉であった喜知姫が養女にされたが夭折した)は鶴姫君の下に年長序列順
に並べられ、変わることはなかった。これらの人々はこのように決まりきつた、驚きのない
贈物をもらつても少しも嬉しくなかつただろう。ただこのしつかり組み込まれた特別な内輪
のサークルの中にいることによつて安心感と、特権感があつただろうと思われる。
将軍家から嫁いだ女性たちは一生徳川家の「姫君」と呼ばれ、幕府から挟助料や助力金を支
給されたが、どこにいても徳川の娘であることを絶対に忘れさせられず、それを又誇りとし
たようである。従つてこれらの方式的な贈答のばあい、その名が記録されるような公式の行
事にあたって、物を贈られたり贈つたりすることは大変名誉なことであつた。しかし彼女ら
とその女中たちはその伝統を重要視したために、伝統がますます形骸化し、固定してしまっ
たのも事実である。
V.天英院熙子と綱吉の母桂昌院
綱吉家宣時代に女性の特権をたのしんだ二人の女性、綱吉の時代の桂昌院と家宣の時代の天
英院熙子の従一位叙任の祝賀の贈り物をくらべてみよう。綱吉の生母桂昌院は稀代のはで好
き贈物好き、外出好きの人で、綱吉はまた非常に親孝行であり「間部日記」や「幕府日記」
をみると将軍はほとんど毎日のように桂昌院の住む三の丸へ出かけて行くほどだつたから母
親の行動については非常に寛大であった。綱吉の贈物好きは桂昌院の傾向を受け継いだもの
ではないかと思うのだが、この女性はお金を使うことが非常に好きで(前述したが)そのため
前田候に莫大な借金があったと言われている(『三田村鳶魚全集』5:14ー18、21-24)。この人
が元禄十五年の(1702/3/9)恒例の勅使の参向の折に従一位の叙位を賜つた。この特典取得の
ためには綱吉の寵臣柳沢吉保がおおいに活躍したと信じられている。これは三代将軍の側室
、現将軍の母としても先例のない名誉であつたから贈物が大好きな桂昌院はおおいに感激し
て方々へ祝物を贈り、多くの物を受け取つた。
家宣の死後、家継の将軍宣下のために下向した勅使から天英院熙子が同じ栄誉を受けた
(1713/4/2, 7:310-312)。故将軍の在世未亡人としては先例のなかつたことなのでこれもおお
いに祝われた。こういう時にはやはり先例を参考にするのが習慣だつたので、天英院への贈
物は桂昌院の時の例に準じている。しかしもともと京都出身で皇室そのものが自分の母親の
実家であり、ほかにも知己親類の多い熙子には、彼女だけへの贈物も多かった。天英院の位
階昇級は将軍家継の元服と将軍宣下と同時に京からもたらされたものであり、その一つーつ
の賀儀に別個の贈物がなされたので非常に複雑で選り分けるのが難しい。天英院からは勅使
ー行の全員と多くの随行の法親王たちに別々の贈り物がなされているし、その人々からの別
個の贈物もあつた。同じようなさまざまな物品が入り乱れて贈つたり贈られたりしたので前
代未聞の記録混乱状態を呈している。贈物そのものは大量でも高価でもなさそうだが、複雑
に交錯しているのである。
京都からの贈物 (実紀 7:311)
将軍へ:
禁廷より:歳首に太刀馬代金三枚。御元服の賀に太刀馬代の金同じ。三種二荷。将軍宣下の
御祝に太刀馬代の金同じ。
仙洞より:年始に太刀馬代金二枚。御加冠に太刀馬代金一枚。二種一荷。宣下に太刀馬
代金二枚。
摂政輔実公より:歳首を賀して銀馬代。宣下のお祝に金馬代。二種一荷。
右大臣綱平公より:歳首を賀して銀馬代。宣下、二種一荷。
中務卿邦永親王、太宰帥正仁親王より,各同じ品に紗綾をそえらる。
天英院どのへ:
内(朝廷)より:御位階を賀して儀刀,金二枚。 お元服ならびに
宣下の祝いに三種二荷づつ。御位階に紅白ちりめん十巻、三種二荷。
霊元院より:儀刀,金一枚。お元服に二種一荷。宣下に三種一荷。御位階に縮緬三巻。
三種二荷。
新女院(東山天皇中宮、有栖川宮幸子女王承秋門院)より:お元服、宣下、御位階に各
金一枚づつ。御元服宣下に二種一荷づつ。御位階に三種一荷。
摂政より宣下に紗綾。干鯛。御加冠に同じ。
右大臣より:宣下に同じく。
伏見より:匂い袋、干鯛。
有栖川より:紗綾、干鯛。御加冠に干鯛。御位階に二種一荷。
京極より:宣下に薫衣香、干鯛。
太閤より:歳首に紗綾、箱肴。宣下に縮緬。御加冠に二種一荷。
前摂政より:歳首に縮緬、肴。宣下に縮緬、薫衣香、肴。御元服に二種一荷。
内府より:宣下に縮緬、肴。御加冠に肴。
前関白より:宣下に紗綾、干鯛。
右大将より:紗綾干鯛。
左大将より:御元服に二種。宣下に縮緬、薫衣香、肴。
大納言より:宣下に紗綾,干鯛。
妙法院、梶井、聖護院三法親王より:各薫衣香。
円満、一乗、 青蓮、実相院、観修寺五法親王も同じ。
三宝院大乗院両門跡より:紗綾,昆布。
東西両本願寺門跡より:縮緬,一種。御首服に干鯛、樽代。
西新門跡より:宣下に羽二重、一種。
専修寺より:二種一荷。
一条大政所,鷹司政所より:各二種,千疋。
仁和寺より:薫衣香。
蓮花光院より:匂袋,昆布。
興正、仏光両寺より:樽代。
24
徳大寺,庭田より:各歳首に練貫、御首服に縮緬、宣下並びに御位階にも同じ。
梅小路より:歳首に紗綾。御元服、宣下、御位階にも同じ。
万里小路より:御元服、宣下、御位階に各紗綾。
高倉より:御加冠、宣下に各縮緬。
土御門より:御首服に縮緬、宣下御位階に紗綾。
高辻より:宣下に薄様。御位階に縮緬。
七条より:匂袋。
月光院へ:
天皇より:お元服に紅白縮緬五巻,干鯛。宣下に三種二荷。
院より:御元服に三巻、干鯛。宣下に三種一荷。
新女院より:お元服に二巻、干鯛。宣下に二種一荷。
有栖川宮より:宣下に紗綾、干鯛。御元服に干鯛。
太閤より:宣下に縮緬、干鯛。御元服に一種一荷。
前摂政より:宣下に縮緬干鯛、薫衣香。御加冠に一種一荷。
内府より:宣下に縮緬、干鯛。御元服に干鯛。
妙法院、梶井、聖護院三法親王より:各薫衣香。
円満、一乗、 青蓮、実相院、観修寺五法親王も同じ。
三宝院大乗より:薫物,昆布。
東西両本願寺門跡より:宣下に羽二重、一種。御首服に干鯛,樽代。
西新門跡より:羽二重、一種。
専修寺より:一種一荷。
大政所より:二種、五百疋。
仁和寺より:匂袋。
興正、仏光両寺より:樽代五百疋。
徳大寺,庭田より:御元服、宣下に各縮緬。
梅小路、万里小路より:各紗綾。
高倉と土御門より:各御元服に紗綾、宣下に縮緬。
徳大寺は伝奏を謝して別に銀馬代を奉る。
=====================
天英院は当代一の宮廷政治家文化人であった父前関白近衛基煕の名声、弟前摂政家熙、甥の
現内大臣家久との関係、後水尾法皇の孫娘で武家階級の第一人者将軍の御台所という地位に
よって、彼女を個人的に知らなくてもお祝を送って来た人が多かったのは当然であろう。さ
すがに桂昌院より多くの人々から贈物をもらっている。
これは例外的な女性の例で大奥に住んできた女性の全員にはあてはまらない。普通の大奥の
贈物リストでは贈物の交錯が階段式に実に整然としている。関係階級がきちんと決まつてい
るので、考え方によっては、何をあげようか、どれだけあげればいいか、と悩まなくてもい
いのである。上から来る指令よりも多くても少なくてもいけないのであった。
これらの人々はこのように決まりきつた、驚きのない贈物をもらつても少しも嬉しくなかつ
ただろう。ただこのしつかり組み込まれた特別な内輪のサークルの中にいることによつて安
心感と、特権感があつただろうし、一つの社交的なと出来事に携わったという満足感があっ
たと思われる。
25
26
W. 考察
このほかに見られる将軍の贈物に香典や病気見舞いの贈物があった。将軍は家臣の家族、父母
や妻の死や病気の知らせを受けると、御三家御三卿や重臣ならば銀300枚とか200枚など
を贈っていた。
例:松平出雲守うせしかば。奏者番松平能登守御使し。その子求馬義真を
御弔慰あり。香銀二百枚を下さる。(実紀 8:225)
水戸吉孚の死のため、香銀 300 枚をくらせらる。御台所よりは 30 枚
なり(宝永6年10月13日、実紀7:59)
対馬の宗義方の死のため興銀 200 枚を賜はり弔慰せらる(享保3年
10 月 8 日、実紀 8:129)
臣下や親類の病気には将軍は使者を送って様子を聞き、鮮魚(実紀7:142)、砂糖漬(実紀
7:147),鶴(実紀 8:361)、魚物(実紀 6:18)などを下賜した。
病気見舞いや弔慰金の習慣には、返礼に何かを得ようとか権力を示そうとかいう下心は見られ
ない。
これらの終りなき捧献物のリストを作りながら筆者はこんな統計にもならない数を集めて一
体何の役にたつのだろうかと考える。暖かい人間関係を作るための贈物とそれに対する感謝
の気持ちと、関係を喜ぶ気持ちが贈物の交換を形成するのが本筋だと思うのだが江戸時代の
将軍をめぐる贈物はだいぶ性格を異にしている。全部の人たちがロボットのように機械的自
動的な行動をとっていたわけではないが、時代が進むにつれて彼らの贈物交換は次第に意味
も心も薄れて形式に終わったことはたしかである。何人かの将軍たち、たとえば家綱、家宣、
吉宗、などはこの贈物交換が次第にその性質を変えていって無意味どころか有害になってい
くのを見てこの習慣の緊縮を企てた。しかし贈物という古来の美習を全廃したわけではなく、
ある種の贈物を禁じたのである。しかしそれらの政令はしばらく経てば忘れられ、意味のな
い果てしのない交換が復活して幕末まで続いた。
なぜこういうことが起こったかというと、徳川幕府のように権力の確立の明確な政権構造の
中では上に立つ者はその下の大勢の人間を統率し、忠義を確かめ、今後一層の精勤を励ます
ためには褒美を与えるということが一番簡単で手っ取り早く効果があがるからだったのだろ
う。それに大奥の納戸には親戚や臣下から献納された物質が山積していた。貰った方として
はどうしても返礼をしなければ礼を失することになる。モースが屡々言ったように、人間に
とって、贈物というものは贈る義務、受け取る義務があるし返礼の義務もあるのである。そ
ういう義務感だけでなく、江戸時代の日本のような主従関係の明確で絶対的な社会では下に
存在するものは将軍のような絶対者から形のある物質を下賜されればやはり物質でそれ以上
のものを贈り返すのが当然であったし、そうしなければ安心できなかっただろう。そうして
それが家光時代以後のよに、慣例が一度方式化されればずっと実行しやすくなり、自動的循
環になるのに時間墓からなかった。封建的階級組織のなかでは行動の実行は機械化したほう
がずっとやりやすいし効果的なのである。
この循環のなかで、女性は少し違っていたと思う。大奥に別在した女性たちは特別な存在で
自分たちもそれをよく知っていた。上述の将軍達がある程度の贈物を禁じた時も、大奥に対
しては厳しい令の施行はなかった。女性たちには贈物交換を喜ぶ理由がふんだんにあった。
先に述べた様に、この頻繁な贈物の交換が、退屈で無味乾燥な彼女たちの生活をすこし活発
で意味あるものに変化した事を彼女たちはきっと意識していたと思う。人間的な関係の立証
になったし、お互いの存在価値をみとめることにもなった。贈物交換は、形ばかりながら、
一種のはなやかな社交生活であった。ある人たちは贈物交換が毎日の退屈な生活に変化をも
たらし、その変化に生きる喜びを見出していたかもしれない。彼女たちには贈物を廃止する
理由はみじんもみつからなかっただろう。ある意味では現在残る日本の贈物の習慣の持続は
大奥の女たちの貢献が多かったと言えるかもしれない。
27